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「ユネスコ加盟記念日」は、「一年の折り返しの日」

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今日7月2日は何の日だと思いますか。
以下参考に記載の※1:「こよみのページ」で調べると、今日は「一年の折り返しの日」。つまり、今日がちょうど年初からの日数と年末までの日数が等しくなる日…だった。
一年の日数は、平年が365日(閏年は 366日)。
一年の上半期と下半期の暦月の日数を合計すると、
上半期 1〜 6月: 31+28+31+30+31+30 = 181日 (閏年は 182日)
下半期 7〜12月: 31+31+30+31+30+31 = 184日
その 1/2は、182.5日 (閏年は 183日)
この半分の日に合致するのは、 7月2日。今年のような平年ならこの日の正午(12時)が、閏年ならこの日の正子(零時)が折り返しにあたる。(※1のここ参照)。
今年もあっという間に半年が過ぎてしまった。そして、後半の半年目に入った7月は通常梅雨でじめじめとした日が続いているはずなのだが、今年の梅雨は降るところは降るが降らないところは雨不足。そして降るところは土砂降りで、大きな被害をもたらしたりと異常気象が続いている。
日本の特徴である四季も大分様子が違ってきた。これも人間の環境破壊による温暖化がもたらしたものだとすれば、これも自分たちが蒔いた種と認識し、環境保全問題への取り組みが如何に重要かを改めて考え直さなければいけないということだろう(※2参照)
ところで、「一年の折り返しの日」である今日7月2日は「ユネスコ加盟記念日」でもある。

世界中のひとたちが
みんな手に手をつないだら
世界は
日の照るまひるになる
みんな花輪をつくったら
花輪と花輪をむすんだら
ぐるぐるまわる輪になって
ひろい地球をかこんだら
世界は
あかるい苑になる

ユネスコの歌 -「手に手をとって」(蓑山修三作詞、古関裕而作曲)

ユネスコの歌で検索していたら、日本ユネスコ協会連盟加盟の川西ユネスコ協会HP(ここ参照)に上記の歌が掲載されていた。作詞者の蓑山修三という人がどういう人かは検索しても分からなかったが、作曲者は、戦後のNHKのラジオドラマ「鐘の鳴る丘」の主題歌「とんがり帽子」や「フランチェスカの鐘」「長崎の鐘」「イヨマンテの夜」など数多くの多くの楽曲を制作した古関裕而である。それで、この歌を検索したがなかなか曲が見つからずやっと1つだけ見つけた。それが以下の第63回日本ユネスコ運動全国大会in山口で歌われていたものであるが、ノイズが入って聞きづらいが興味のある人は聞いてみるとよい。日本が、ユネスコ(UNESCO)に加盟した頃に作られたのであろうとは思うのだが確かなことは判らない。

ユネスコの歌(オーケストラ版) - YouTube

ユネスコ(United Nations Educational, Scientific and Cultural Organizatio)は、日本語で、国際連合教育科学文化機関といい、本部はフランスのパリにある。
「ユネスコ加盟記念日」は、1951(昭和26)年のこの日(7月2日)、日本がユネスコ(UNESCO)に加盟したのを記念して設けられた日である。
ユネスコは、国際連合経済社会理事会の下におかれた、連合国文部大臣会議で、教育・文化に関する国際機関の設立が検討され、第二次世界大戦終了後の1945 (昭和20 )年11月16日に連合国教育文化会議で44か国代表により採択されたユネスコ憲章(「国際連合教育科学文化機関憲章」)に基づいて翌・1946(昭和21)年11月4日に設立された連合国(国際連合加盟国)の専門機関である。
教育文化の振興を通じて、戦争の悲劇を繰り返さないとの理念により設立の意義を定めたユネスコ憲章の前文には「戦争は人の心の中で生まれるものであるから、人の心の中に平和の砦を築かなければならない」との文言があり、設立の目的とその精神を顕著に表している(※3「文部科学省」HPのここ参照)。
活動にあたっては、重点的に推進する目標として「万人のための基礎教育」「文化の多様性の保護および文明間対話の促進」などを定めており、それに基づき、例えば前者に関しては識字率の向上や義務教育の普及のための活動、後者については世界遺産の登録と保護、文化多様性条約(正式には、「文化表現の多様性の保護及び促進に関する条約」)の採択のほか、歴史的記録遺産を保全するユネスコ記憶遺産(世界の記憶)事業などを実施している。
そのほか、極度の貧困の半減、普遍的初等教育の達成、初等・中等教育における男女差別の解消、持続可能な開発のための教育危機に瀕する言語の保護などを内容とするミレニアム開発目標をはじめ、国際開発目標達成を目指している(現在のユネスコ目標は※3のここ参照)。
日本は国連への加盟が認められた1956(昭和31)年に先立つて、1951(昭和26)年7月2日に加盟しているが、日本にとって、この加盟は戦後の国際社会への復帰の契機となるものであった。
1980年代には、放漫財政等のマネージメントの問題に加え、活動が「政治化」していることのほか、当時のアマドゥ・ムボウ(セネガル)第6代事務局長が提唱した「新世界情報秩序」がジャーナリストの認可制を導入し報道の自由を制限するものだとして、アメリカ、イギリスなどの大国が相次いで脱退し、ユネスコの存続は危機に立たされた。
この間、日本は、ユネスコにとどまり、分担金の約4分の1近くを担う最大の拠出国として、ユネスコの存続に大きな役割を果たした。
結局、政治的偏向や報道の自由に対する問題を解消したフェデリコ・マヨール第7代事務局長(スペイン、※4参照)につづき、松浦晃一郎(日本)第8代事務局長のもと管理運営についても全般的な改革がなされ、米国・英国のユネスコ復帰が果たされた(それぞれ2003年10月、1997年7月に復帰)。
このように松浦事務局長の改革については高く評価されており、総会や執行委員会でも多くの加盟国から繰り返し表明されている。一方で改革の根幹である RBM (Risk-Based Maintenance.。リスクベースメンテナンス。= リスクを基準に検査及びメンテナンスの重要度、緊急度を評価し優先順位をつけてメンテナンスを行う方法)の進展やプログラムの整理、官僚主義的な組織機構についてさらなる取組も求められているようだ(Wikipedia)。
2013(平成25)年11月現在の加盟国数は195ヶ国。準加盟地域9。ユネスコの通常予算(2012〜2013の2か年)は、約6億5,300万ドル(約640億円)、これに対して、日本の分担率は、10.834パーセントとなっているので、分担金の額は、約1億500万ドル(約30億8000万円)である。
因みに主要国の分担率上位は、米国(22%)、日本(10,834%)、独(7.142%)、仏(5.594%)、英(5.179%)となっており、今日では、日本は米国に次いで第2位の分担金拠出国(注:2011年10月から、米国がパレスチナのユネスコ加盟により拠出金支払を停止しているため、実質的に日本が最大の分担金拠出国となっている。※5参照)として、ユネスコに財政面から貢献するとともに、ユネスコの管理・運営を司る執行委員会委員国として、ユネスコの管理運営に直接関与しているという。
また、ユネスコが行う諸事業にも様々な形で協力しており、文化遺産の保存協力のために、文化遺産保存日本信託基金、無形文化遺産保護日本信託基金を設置(※3の無形文化のページの無形文化遺産の保存・振興を参照)しているほか、コミュニケーション分野、海洋学や環境問題にかかる自然科学、教育の諸事業への資金拠出、専門家派遣、研修員受入れ等種々の協力を推進している。
さらに、途上国における教育の普及や人造りの事業支援等のために、持続可能な開発のための教育交流・協力信託基金(平成20年度〜)、人的資源開発信託基金(平成12年度〜)、アジア太平洋地域教育協力信託基金(平成21年度〜)等をユネスコに設置しているという(※6又、※3のここここ参照)
正にユネスコにとっては、日本様々であろう。そうかどうかは知らないが、ここのところ、(富士山―信仰の対象と芸術の源泉)や富岡製糸場(富岡製糸場と絹産業遺産群)などの世界遺産への登録だけでなく、昨年2013(平成25)年は、9月に東京オリンピック・パラリンピック開催(2020年)が決定した後、12月には、アゼルバイジャンのバクーで開催されたユネスコ無形文化遺産保護条約第8回政府間委員会で、「和食」(日本料理参照)の食文化が自然を尊重する日本人の心(※8参照)を表現したものであり、伝統的な社会慣習として世代を越えて受け継がれていると評価され、無形文化遺産に登録することを決めた(※9参照)。日本からは22件目である(※10参照)。
これら世界の有形、無形の文化遺産が数多く登録されるのは日本人としの誇りでもあり嬉しいことではある。今、日本中が、これら世界遺産への登録を利用して観光客を呼び寄せようと必死になっており、観光地も世界中から観光客が押し寄せて大賑わいの様である。
因みに、先に述べた「和食」を無形文化遺産に登録することを決めたアゼルバイジャンのバクーであるが、このババクーの内城はシルヴァン・シャー宮殿(英語版)・乙女の塔(英語版)とともに2000年に世界遺産に登録された(城壁都市バクー)が、同年11月25日のバクー大地震で、危機にさらされている世界遺産リストに2003年に登録されたが、2009年に改善・復旧が認められ危機遺産リストから脱したという経歴を持っている。
せっかく苦労して、世界遺産に登録されても、その物件の世界遺産としての意義を揺るがすような何らかの脅威にさらされている、もしくはその恐れがある物件については、世界遺産委員会によって危機遺産と認定された場合に同リストに登録され、世界遺産としての価値が失われたと判断された場合は世界遺産リストそれ自体から削除される可能性もある。つまり、世界遺産から抹消されるということもよく承知しておかなければならないということだろう。
そもそも、1972(昭和47)年11月ユネスコ総会で採決された「世界遺産条約」の正式名称は「世界の文化遺産と自然遺産の保護に関する条約」 である。
世界遺産の登録において、文化遺産は国や地域で異なる文化の独自性をアピールしやすいが自然遺産は優位性を科学的に証明しなければならない。そのため、文化遺産が圧倒的に多く登録され増加傾向にある一方で自然遺産は2割弱程度しか登録されておらず、推薦しても登録されにくい傾向にある。
日本でも富士山を含む文化遺産は現在14件登録されているが、自然遺産は屋久島など4件のみであり、自然遺産は全体の22,2%にすぎない。そして、その”地域一帯の自然環境と、そこでの人間の文化的営為(歴史文化)が、ともに顕著に普遍的な価値を有するもの”と認定される複合遺産への登録はまだ1件も申請されていない。
例えば、フランスには年間7,600万人(2003年)の観光客が訪れ、地元の各業界に莫大な金額を落とす。このため、経済上極めて重要な業種の一つとなっており、政府は観光局を設置し、世界各国の出先事務所を通じて自国の観光や産業のPRを進めている。
日本でも、2002年のサッカー・ワールドカップ開催を契機に、外国人旅行者の増加を目指す「グローバル観光戦略」を策定。国土交通省がビジット・ジャパン・キャンペーンを展開し、2010年までに訪日客を倍増(1,000万人)させる計画を立てていた(※11参照)。
日本政府観光局(JNT0。※12 参照)が2011年1月26日に発表した、2010年の訪日外国人旅行者に関する調査(推計値)では、861万1500人となっており、政府目標(ビジット・ジャパン・キャンペーン)には届かなかったものの大きく来訪者が伸びている。
観光資源となるものは様々ではあるが、自然や歴史などを利用する場合には他の産業の発展と両立しがたい場合がある。そして、自然環境や街並み、景観などの保存が求められる場合、工業化や近代化、都市化などが抑制される側面もある。逆に言えば、それらが進展した際観光業が衰退する可能性も出てくるのである。
長所としては、観光業の発展で多くの観光客が訪れるようになると、宿泊や運輸、飲食、旅行業など様々な分野での経済活動が活発になり、経済への波及効果が高い。
逆に、問題点としては、観光客の増加による公害。ホテル・娯楽施設などの建設や観光客によるごみの投棄などでの森林破壊・海洋汚染など自然環境の破壊や、悪臭、騒音など、また、交通量の増加による道路の渋滞、交通機関の混雑等も起こる。そして、地域外から大勢の観光客が訪れることによる文化的な摩擦や、地域の伝統文化の変容などが起こり、地域住民などから反発されることもある。
従って、観光開発には当初さほどの資金が必要とされない場合でも、このような問題の解決には相応の投資も必要となる。それは十分承知の上で観光客の誘致はしなければいけないだろう。
日本を代表する自然景観である富士山は当初、地元自治体などが自然遺産での国内候補入りを目指し最後まで残ったが、ごみ問題、登山者のトイレ問題などがあり、登録が難しいという評価になった。そして、富士山を日本と日本文化を象徴する「名山」とし、古来からの「信仰対象」「芸術の源泉」と位置付け、構成資産を富士山や富士五湖など25件として文化遺産への指定に目標を展じ、登録手続きが進められた。
2013年4月、イコモスが6月にカンボジアで開かれた世界遺産委員会で富士山を文化遺産として登録するよう勧告。名称は「富士山」から「富士山と信仰・芸術の関連遺産群」へと変更し、構成資産のうち三保松原を除いた上で登録すべきという条件付きの勧告だったが、日本政府は、2012年12月時点で「三保松原は欠かせない要素」として除外を拒否したが、富士山から45 kmも 離れた三保松原を構成資産にするのは無理があるということで除外が再度勧告された。これに対して、日本側は最後まで理解を求め、結果的に三保松原も含む形での世界遺産登録がなされ、最終登録名は「富士山―信仰の対象と芸術の源泉」になったという経緯があった(経緯については。世界遺産登録の経緯のところを参照)。
しかし、その後も、富士山の麓で行われている自衛隊や米海兵隊の軍事演習は文化遺産に大きなダメージを与え続けているという大きな問題も残したままだ。(東富士演習場北富士演習場問題)。
富嶽三十六景』他数々の浮世絵などに描かれてきた美しい景観の富士山は世界に誇りうる日本のシンボルであると共に平和のシンボルでもなければならないはずである。
その富士山が昨年6月、世界文化遺産に登録されてから半年以上が過ぎた今年2月、環境対策の宿題が課されており、怠ると登録が取り消される可能性もある・・・として、地元関係者が対応策に追われている・・とのマスコミ報道があった(※13 参照)。
富士山の場合、昨年4月30日にイコモスが富士山の世界文化遺産登録を適当と勧告したため、世界遺産登録が事実上決まり、日本中が沸き立ったが、その陰で他の世界遺産にはない注文がついていたというのだ。
イコモスは、富士山の様々な環境問題を指摘し、2016年2月1日までに「保全状況報告書」という環境保全策を提出せよといっているらしい。富士山のように保全状況報告書の提出を求められるのは異例なことで、文化庁世界文化遺産室は「世界遺産登録後に何らかの問題が生じて、報告書を求められることはあるが、富士山のように登録時点で報告書を求められたケースは他に知らない。半ば、条件付き登録のようなもの」と説明する。過去に登録が取り消されたこともあり、勧告へのいい加減な対応は許されないからだ。どうして日本のメディアは条件付きであった富士山の世界遺産登録について、それを正しく国民に報じようとしないのか(イコモスが課した主な富士山対策は※13 参照)。
日本を代表する登山家であり、エベレストや、マナスル、そして富士山などの清掃登山を精力的に行ってきた野口健氏もこれを心配して、この6月に『世界遺産にされて富士山は泣いている 』と題した本を出版している(※14 参照)。

上掲の画像は朝日新聞への本の広告である。
そして、野口健氏は、美しい「日本の象徴」でいま起こっていることは、日本社会が抱える問題そのものだ!」・・・と嘆いている。
清掃登山に全力を注ぐなかで、環境問題を超える富士山のほんとうの問題に気づいてしまった野口氏は「日本の象徴」の背後で既得権にしがみつき、縄張り争いに奔走する「人間」の姿があったと云う。
そもそも江戸時代の富士山への登山は「弾丸登山」どころか「スローな旅」だったといい、そうした「ほんとうの観光」のあり方を示しているという。
正直私もまだ、この本を読んだわけではないが云わんとしたいことは何となくわかる気がする。

富士山巡礼者。日下部金兵衛により1880年撮影。Wikipediaより。
1993(平成5)年に、日本で初めて世界自然遺産に登録されて、昨2013(平成25)年で20周年を迎えた屋久島でも、来島者の増加による生態系への影響(ヤクシカの人慣れなど野生動物の保全課題、ゴミ投棄、踏みつけによる土壌浸食など)や、し尿処理施設の不足のなど、どこの観光地でも見られそうな問題がまだまだ残っているようだ(※15参照)。
そのようなことから、観光資源としての世界遺産登録ではなく真に豊かな社会の構築の一環として保全活動を推進することの意義をもう一度問い直す必要があるようだ。
富士山と共に世界遺産登録された三保松原も「羽衣の松」を含む多くの松林が徐々に枯死する松枯れも進行しているようで、松食い虫防除のための予防剤注入等その対応に追われているようである(16)が、松くい虫だけでなく、車による観光客増大による被害も考えなければいけないだろう。
また、奈良県が若草山に設置を検討している「モノレール」の建設についても、イコモスが懸念を表明している(※17参照)。
基本的には、貴重な自然や、文化財を守ることを大前提に世界遺産登録されなければならず、そのためには、世界遺産に登録する前に登録された後起こりうることを十分考えその対応策が講じられてから登録すべきものが、観光客の誘致などによる利害優先で登録を急ぎ、観光客が増えたと観光業者などの利害者が喜びはしゃいでいるうちに、徐々にその問題が顕在化してきて困った困った・・と言っている感じに見える。
観光客が増えたから起こった問題など、観光客が増えたことにより利益が上がったと喜んでいる人たちがごみ処理費などの費用を優先的に負担し、その上で、入山者にも協力金を呼びかけるのはわかるが、何か、観光収入で稼ぎはするが費用負担は観光客に負担を襲漬けているようなところが感じられて気持ちが悪い。{世界遺産登録は何の為にしているのか?」・・その原点をしっかりとわきまえておかなければいけないだろう。
日本では自然環境の他、文化・歴史等を観光の対象としながら、その持続可能性を考慮した「エコツーリズム」の普及・推進が2008(平成20)年から環境省などを中心として行われ、それらを体験し、学ぶと共に対象となる地域の自然環境や歴史文化の保全に責任を持つ観光のあり方を示している(※18参照)。よく、理解しておいてもらいたいものだ。
前文のユネスコの活動の中で、文化多様性条約 の採択の話に触れた。
「文化多様性条約」とは、各国が、固有の文化を保護・育成する政策を取る権利を認めた条約であり、2005年10月、第33回ユネスコ総会において賛成:日本を含む百四十八ヵ国、反対:二ヵ国(米国とイスラエル)、棄権:四ヶ国という投票結果により国際的な規範として採択された。
条約は2007年3月に正式に発効し、2010年2月現在、107カ国及び欧州共同体が締結している。一方、我が国は、未だ締結に至っていない。ただこの条約の締結には理想と現実の間にいろいろ大きな問題がありそうなので、まだ、私は意見を書くに至っておらず今回は触れないことにする。興味のある人は以下参考の※190〜※21を参照されるとよい。



(冒頭の画像は国際連合教育科学文化機関の旗)

参考:
※1:こよみのページ
http://koyomi8.com/
※2:温暖化白書』 - 原因や対策など地球環境問題について考える!
http://www.glwwp.com/
※3文部科学省:日本ユネスコ国内委員会
http://www.mext.go.jp/unesco/index.htm
※4:国連の真の魂 — シェアインターナショナル日本語版
http://sharejapan.org/sinews/magazines/si5n7k/c6gix5/hbfreg
※5:パレスチナ ユネスコに正式加盟 アメリカは反発するも外交的には孤立 ...
http://blog.goo.ne.jp/azianokaze/e/5d3430d90296007c8aecb691e715ebf5
※6:ユネスコ(国際連合教育科学文化機関)の概要 | 外務省
http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/culture/kyoryoku/unesco/gaiyo.html
※7:文化庁 | 文化財 | 文化財の紹介 | 無形文化遺産
http://www.bunka.go.jp/bunkazai/shoukai/bunka_isan.html
※8:和の心 | 日本と日本人の文化
http://japanjapanese.net/feature/heart.html
※9:農林水産省/日本食文化を、ユネスコ無形文化遺産に
http://www.maff.go.jp/j/keikaku/syokubunka/ich/
※10:無形文化遺産の保存振興 | 外務省
http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/culture/kyoryoku/unesco/isan/mukei2/
※11:訪日外国人観光客の受け入れの推進 - 国土交通省(Adobe PDF)
http://www.mlit.go.jp/common/000043173.pdf#search='2010%E5%B9%B4%E3%81%BE%E3%81%A7%E3%81%AB%E8%A8%AA%E6%97%A5%E5%AE%A2'
※12 :日本政府観光局 .
http://www.jnto.go.jp/jpn/index.html
※13 :世界遺産は期限付き? 富士山に課された2年の宿題 :日本経済新聞
http://www.nikkei.com/article/DGXNASFK0400F_V00C14A2000000/
※14 :世界遺産にされて富士山は泣いている | 野口健著 | 書籍 | PHP研究所
http://www.php.co.jp/books/detail.php?isbn=978-4-569-82004-0
※15:屋久島世界自然遺産20周年シンポでのツイートのまとめ
lhttp://d.hatena.ne.jp/yahara/20131020/1382279233
※16:三保松原の松枯れ対策 知事酷評に県議疑問の声 | 静岡新聞 - アットエス
http://www.at-s.com/news/detail/1085175727.html
※17:若草山モノレール計画に、ユネスコ諮問機関(ICOMOS)が懸念を表明 ...
http://blog.goo.ne.jp/tetsuda_n/e/f16eab0d765e68f3f6dd20a7347b1729
※18:環境省の取り組み|エコツーリズムのススメ|環境省
http://www.env.go.jp/nature/ecotourism/try-ecotourism/about/index.html
※19:文化的表現の多様性の保護及び促進に関する条約の締結に向けた取り組みについて(建議)-文部科学省
http://www.mext.go.jp/unesco/002/004/1291784.htm
※20:いまなぜ文化の多様性か(Adobe PDF)
https://www.accu.or.jp/jp/accunews/news356/356_01.pdf#search='%E6%96%87%E5%8C%96%E5%A4%9A%E6%A7%98%E6%80%A7%E6%9D%A1%E7%B4%84'
※21:031 UNESCO文化多様性条約 - 集英社新書
http://shinsho.shueisha.co.jp/column/campus2/060925/index.html
世界遺産一覧|世界遺産運動|公益社団法人日本ユネスコ協会連盟
https://www.unesco.or.jp/isan/list/
国際連合教育科学文化機関 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E9%9A%9B%E9%80%A3%E5%90%88%E6%95%99%E8%82%B2%E7%A7%91%E5%AD%A6%E6%96%87%E5%8C%96%E6%A9%9F%E9%96%A2

泣く日

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な・く」【泣く・鳴く・啼く】は、ネ(音)の古形(母音交替形)「ナ」の動詞化したもの。人間・鳥・獣・虫が声を立てる意。人間の場合は「泣く」と書く。「泣く」は、“泣き声を出す。涙を流す。つらく感じる”の意であり、声を出して泣き叫ぶ場合は「哭く」とも書く。人が、悲しみ・苦しみなどのために声を出し、涙を流す。また,喜びなどで涙を流す場合にもいう。

.万葉集』に山上憶良が筑前守在任中の神亀五年(728)頃、大宰府での宴で詠まれた以下の歌がある(※2参照)。

山上臣憶良、宴を罷(まか)る歌一首
「憶良らは今は罷(まか)らむ子泣くらむそれその母も我(わ)を待つらむぞ」(巻3-337)
万葉集の歌の世界には、柿本人麻呂や、山部赤人をはじめとして、男女の愛を歌った相聞歌が数く作られているが、山上憶良は、仏教や儒教の思想に傾倒していたことから、死や貧、老、病などといったものに敏感で、かつ社会的な矛盾を鋭く観察していた。そのため、官人という立場にありながら、重税に喘ぐ農民や防人に狩られる夫を見守る妻など社会的な弱者を鋭く観察した歌を多数詠んでおり、当時としては異色の社会派歌人として知られている。そのような歌風から他の人のように男女の愛を歌うことはなかったが、そのかわりに子どもを思う歌を多く作っている。
上掲の歌の通釈は「憶良どもは、もうこれで失礼致しましょう。家では子らが泣いているでしょう。ええ、その母も私どもの帰りを待っていることでしょう。」と家で泣いている幼い子やその母親(憶良にすれば女房ともとれる)などが待っていることを理由に宴席を中途で退出するときの歌を詠ったものであろうと解されているが、罷るとは「貴人のもとから、退去する」ことであり、このような理由で宴席を中座するのはちょっと失礼な話であり、※2の【補記】にも書かれている通り、「憶良ら」は、「私憶良以下の者ども」ということで、宴に参加していた下僚たちを代表し、主人の大伴旅人(当時大宰帥)に辞去の歌を捧げたものだろう。憶良はこの時、60歳を遥かに越えていたことから幼い子もその母親もいなかったと思われ、これは一種のユーモアたっぷりな笑わせ歌だったのだろう。

泣く子が待ってたかどうかは別にして、「泣く子と地頭には勝てぬ」の諺がもある。
ききわけのない幼い子供(特にあかちゃん)や横暴な権力者の無理には従うほかはない。道理を尽くしても,理の通じない者には勝ち目がないことをいう。
又、「泣く子は育つ」ともいう。
生まれたばかりの赤ん坊は、言葉がしゃべれないから、体のどこかが痛くて泣く場合も あるかもしれないが、ほとんどの場合は、空腹感や、おむつの違和感、眠気などであり、 大きな声で泣き叫ぶ赤ん坊は、元気なことを意味していて、病気になりにくい 健康な、強い子に育っていくということ。
小さな子供は、自分の満たして欲しい欲求を言葉や仕草で伝えるが、赤ちゃんの頃、空腹やおむつの汚れを「泣くこと」で訴えたことが始まりと云われている。
欲求が満たされないとき、子供は悲しい、寂しい、苦しい、悔しい、怖いといった感情を味わい。これは、欲求が満たされていないことを教えてくれる大切な感情だという。つまり、欲求と感情は表裏一体なので、ある感情が動くときその裏には何かの欲求があるはずであり、また、感情が限界点を超えたとき涙となって表れる。それに気づいたお母さんが優しく抱きしめ欲求を満たしてあげると、涙とともに感情は発散され平静を取り戻し、そして、子供は満ち足りた表情を取り戻すのだという。
子供にとって泣くことは非常に重要なことであり、だから子供がなぜ泣いているのかを注意深く観察しながら泣かせ上手な親を目指してほしいと、臨床心理士の方は言っておられる(※3)。ただ、「今日は様子が変だ」ということに気付いた時には注意して、小児科医と相談することも忘れてはいけないが・・・。

赤ちゃんだけではない。「人間は感情の動物」とよく言われるが、それは、感情が人間の行動の最大の動機となるものだからだろう。
人間にはどのような感情があるのかについては、古来様々に議論されてきた。六情(喜.怒,哀,楽,愛 [いとしみ]、憎)や、中国の五情(喜.怒,哀.楽、怨)、そして、再近よく使われるところの「喜怒哀楽」など(感情の一覧参照)。
喜怒哀楽の喜怒=喜びと怒りの感情。哀楽=悲しみと楽しみ。いずれも相反する言葉の組み合わせである。
この「喜怒哀楽」は、儒学のテキストである四書のなかの一つ『中庸』の一章目に出てくる。
この『中庸』はもともと『礼記』中の一篇、初めて『中庸』を表彰したのは南朝宋の戴顒(たいぎょう)だとされており、彼が書いた礼記中庸篇として伝えられてきたもので、そこには以下のように記されている。
(書き下し文)
喜怒哀楽の未だ発せざる、これを中と謂う。
発して皆節(せつ)に中る(あたる)、これを和(か)と謂う。
中は天下の大本(おおもと)なり。和は天下の達道(たつどう)なり。
中和(ちゅうか)を致して、天地位(くらい)し、万物育つ。
白文=原文)、現代語訳等は以下参考※4「総合心理相談」の中国古典の解説 『中庸』の書き下し文と現代語訳:7を参照)。
「中庸」という言葉そのものは、『論語』のなかで、「中庸の徳たるや、それ至れるかな」(※4の中国古典の解説『論語 雍也篇』の書き下し文と解説:3の29段参照)と孔子に賛嘆されたのが文献初出と言われており、それから儒学の伝統的な中心概念として尊重されてきた。中庸の徳とは『大きく偏らない考えや判断に宿っている徳』という意味であるが、『中庸』の中に出てくる「中庸」は、必ずしも全体を足して割った平均値や過不足のない真ん中のことを指しているわけではない。
中庸の“中”は『偏らないこと』、“庸”は『普通・凡庸であること』を意味するが、儒教の倫理規範の最高概念である中庸には『その場における最善の選択』という意味も込められているようだ。
何か難しいが、簡単に言えば、喜怒哀楽などの感情が動き出す前の平静な状態を中といい、感情が動いても節度にかなっている状態を和という。中こそは世の根幹であり、和こそは世の習い。中と和を実践すればあらゆるものが順調に進行する。常に、その時々の物事を判断する上でどちらにも偏らず、なにごとにも感情を揺さぶられない強い心の大切さを説いており、それには日頃からの地道な積み重ねが必要であることが書かれているようだ(砕けて判り易い解説は参考※4を参照されたほうがよいかな・・)。

ここで思い出したのが先日の政務活動費から多額の交通費を支出し、記者会見で号泣しながら釈明していた兵庫県議会の野々村竜太郎県議の姿だ。大の男が、それも県会議員のあの尋常を逸した泣きながらの釈明はどのような感情から起こったものだろう。
マスコミ報道によると、遠距離の日帰り出張は初当選した2011年度から3年間で計350回にのぼり、約800万円もの交通費が領収書もないまま支出された。その中には、「特急のグリーン車を使用した」とした昨年の9月2日のものなど当日出張したとする大阪から城崎方面に向かう特急は始発から夕方まで運休していたという。
今まで見たこともない、ヒステリックにわんわんと大声で泣きながらの弁解は、自分のしたことが説明できないことから来る感情の乱れれから来ているのだろう。
同じ兵庫県に住むものとして、あのような人が県議になっていることを非常に恥ずかしく思っている。又、そんな議員の責任問題を追及しようともしない県議会の不思議。恐らく、同じ穴のムジナがいっぱいて、下手に追及すると自分の方にとばっちりが来るのを恐れているのだろう。昔から問題となっていた政務活動費。市民オンブスマンがしっかり監視してゆかなくてはいけないのだろう。

上掲の画像は号泣しながら記者会見の野々村竜太郎県議
ところで、私は野々村県議が「号泣」したと書いた(新聞などでもそう書いてある)が、「号泣」と言えば、どんな泣き方を想像しますか?
文化庁が平成22年度の「国語に関する世論調査」で、「悲しみの余り、号泣した。」という例文を挙げて,「号泣する」の意味を尋ねたところ、本来の意味である「大声をあげて泣く」で使うと答えた人が34.1パーセント、間違った意味「激しく泣く」で使うと答えた人が48.3パーセントという逆転した結果が出ているそうだ(※5参照)。
あの野々村議員の泣き方などテレビで見ていると単に大声で泣くというより、何か訳のわからないことをわめきながら激しく泣いていたよね〜。あの議員のおかげでますます日本語が分からなくなってしまいそうだよ。

人間の 喜怒哀楽」など、このような激しい感情を「情動」いう。
では何故、「感情」といわず、「情動」という言葉を使っているのか?
恐怖、怒り、悲しみ、喜びなどの感情には、その当人にしかわからない主観的な側面と、外部から観察可能な側面があり、感情が生じている時に示す行動を通じて客観的にとらえることができる。
元来、心理学の専門用語で、英語では "emotion" といい、以前は「情緒」という言葉をこの訳語として使っていたが、この「情緒」は「情緒不安定」などという表現に使われるが、他に日本語の表現として「下町情緒」という表現もあり、恐れや怒りなどの激しい心の働きを表現する"emotion "の訳語としては不適切だということで、情動という言葉を使うようになったようだ。

哲学者デカルト(1596年- 1650年)は、自著『情念論』(1649年)で精神の知覚感覚感動、すなわち情念(passion)を主題として研究を行い。さまざまな種類の情念を検討しているが、人間の精神が身体を最も強く意識するのは感覚においてであり、感覚には三種類のものがあるという。ひとつは、いわゆる五感を通じて外的な対象を認知するもので、外部感覚という。二つ目は、痛みや快感など自分の身体内部に起源するもので、内部感覚という。三つ目は、普通「情念」といわれるもので、デカルトは、まず基本的な情念として驚き憎み欲望喜び悲しみの6つであるとして、それらを外的対象の感覚に関係させて分類しようと試みている。
まず、何か新しいあるいは異常な対象が感覚されるとき、直接に起こるのが「驚き」の情念である。ふつうは、そういう対象がわれわれにとって善いか悪いかの感受を付け加える。
そこで出て来るのが「愛」と「憎み」の情念である。「愛」は対象に有意的に合一して一体となろうとする傾向であり、「憎み」は反対に対象を避けようとする傾向である。
。ここへ時間の様態の区別を入れ対象が過去において、または今、現にわれわれの得るところとなっている場合、それが善いものであれば「喜び」の情念が生まれ、悪いものであれば「悲しみ」の情念が生まれる。対象が未来的なものであるときは、それに対する情念は「欲望」であり、それは未来に向かって善きものを求め悪いものを避ける傾向である。・・・と言っている(※6参照。)。
いわば、体と精神が、どのように相互に作用しあうかを論じる必要から書かれたものがこの書であり、「情念」とは、passion=知覚・欲求・感情のことであり、精神の受動を意味しており、簡単に言えば、以下のような構図になる。
感情は、物事に感じて起こる気持ち。外界の刺激の感覚や観念によって引き起こされる、ある対象に対する態度や価値づけ。快・不快、好き・嫌い、恐怖、怒りなど。つまり、まわりからの感覚を受けた時の気持ちである。
情念は、感情が刺激されて生ずる想念(心の中に浮かぶ考え、思い)。深く心に刻みこまれ、理性では抑えることのできない悲・喜・愛・憎・欲などの強い感情である。
つまり感情→外界の刺激→情念 という構図になる。情念とは、いわば「惹き起こされる」ものだ(※7参照)。
情念の働きを抑制するためにデカルトは謙遜勇気などのを守ることを主張しており、知恵とは情念を支配する意義があると分析している。

あの進化論でよく知られるチャールズ・ダーウィン(1809年- 1882年)も感情の研究をしていたそうだ。・・・というよりも、彼が着目したのは感情そのものよりも「感情表出」、つまり感情による表情の変化、泣いたり、怒ったり、喜んだりという顔面等の表現の方に関心を抱いて研究をしていたようだ。
そして、動物での情動研究を基にして情動の表出がネコ、イヌ、サルを経てヒトにいたるまで共通であることを指摘しており、動物での情動研究を基にしてヒトの感情・情動を論ずる根拠を与えてくれている。また、彼は情動を「非常事態にさらされた生物が、適切に対処し、生存の可能性を増加させるもの」であるととらえている。つまり、情動の生物学的意義は、個体維持と種族保存を達成するためにあるのだという。
ヒトでも動物でも、外敵や有害なもの、危険なものに対しては恐怖が生じ、それから逃げる。一方、自分の欲求を満たしてくれるものには接近行動を示す(快情動)。そして、欲求の充足が阻止された場合には、怒りが生じ、攻撃行動が起こる。このように、情動にはヒトや動物を行動に駆り立てる性質があり、こうした適応行動が起こるためには、外界から入ってきた刺激の生物学的意義(たとえば、有害か否か)を評価する過程が働いていると考えられるという(※8参照)。
そういう意味では感情には原因があるというより目的があるといえるのかもしれない。例えば、「怒り」の感情は相手や物事を脅かしたり、怖がらせたりすることで自分の思った通りにしたいという気持ちといえるし、悲しみの感情は「○○してほしかった」とか「○○してほしくなかった」という願いが叶わないときに生じやすいものなのだが、あの野々村県議の号泣しながらの喚くような釈明はこれらの感情がすべて入り混じったものだったのだろう。

長々と難しいことを書いてしまったが最後に、本題の「泣く」に戻ろう。
色々人間の感情について書いてきたが、「ヒトは何で悲しいときに泣くのだろう?」 ,
は目の涙腺から分泌される体液のことでり、眼球の保護が主要な役割であるが、人は、悲しいとか嬉しいといった感情的な原因で涙を流す。痛みを感じたときや、吐き気がするときや、大笑いしすぎるときや、あくびをしたときに流れることもある。
感情による涙の場合は通常の排出(涙点=涙の流出口経由のもの)では間に合わず、涙が目の外へ流出する。悲しみによって涙を流し、声を出す一連の動きのことを「泣く」と言う。
涙を流す動物は、他にもいるが、こうした感情的涙(emotional tears)を流すのは、ヒト特有の現象だそうだ。
ところで、「悲しい」から「泣く」のかそれとも、「泣く」から「悲しい」のかどちらだと思いますか?…と聞くと、ほとんどの人は「悲しいから泣く」と答えるだろうと思うのだが。実は、そうではなくて『悲しいから泣くのではなく、泣くから悲しいのだ』する説があり、これを「ジェームズ・ランゲ説」と呼んでいるそうだ。
これは、普通の感情形成過程の理解は、先のデカルトの情念論のところでも触れたように、『外部刺激→感情体験(感情反応)→生理学的変化(涙を流す・血圧の上昇・呼吸数の増加・筋肉の緊張や弛緩・表情の変化)』といった時間的生起の順序を持って理解されているが、ウィリアム・ジェームズとカール・ランゲは『外部刺激→生理学的変化・行動の形成→感情体験(感情の自己知覚)』といった時間的順序で情動の形成過程を捉えなおしたものだという。
ジェームズ‐ランゲ説は、『情動の末梢神経説』とも言われ、末梢神経系の生理学的反応が自覚的な情動経験に先行して起こるという考え方を意味している。
ジェームズ・ランゲ説の興味深いところは、自分自身の情動の生起を経験するよりも早く、涙が流れたり、心臓の鼓動が早くなって発汗したりといった生理学的反応が起こるという事であるが、これは、恐怖体験の瞬間を思い起こすと分かりやすいが、突然、自動車が自分の真横をビュンとぶつかりそうな距離で走り去った時などには、やはり生理的反応が感情の自己認識よりも先に起こっている。
だから生理的反応が先にあって心理が働くという側面もあるということも知ってておかないといけないのだろうね〜。
東邦大学医学部統合生理学教授・有田秀穂氏によると、私たち人間が流す涙は3種類に分けられるそうだ。
ひとつ目は、ドライアイ防止や角膜保護のために常に分泌される“基礎分泌の涙”。
ふたつ目は、玉ねぎを刻んだ時や目にゴミが入った時に防御のために出る“反射の涙”。
そして3つ目が、悲しみや感動で流す“情動の涙”である。
“情動の涙”とは、良きにしろ悪しきにしろ、感情が高まることで流れる涙のこと。その時、コミュニケーションや共感を司り、脳の司令塔とも呼ばれる“前頭前野”(前頭部に位置。※10参照)に血流が増え、激しく興奮することから涙が出るのだそうだ。
「“情動の涙”には、その時の高まっている感情を抑え、心身をリラックスさせる力が秘められている」と有田氏。
いったいなぜ、涙にそんな力があるのだろう? 
それについては、人が生きて行く中で出合うさまざまな体験と、涙の変化について知ることが近道だという。この辺りは省略するが、泣くのを我慢するとストレスが溜まる結果にもなるそうで、笑うことも、免疫力が高まり健康につながると言われているが、ストレスを解消するという意味では、泣くことのほうが効果的であるという。いろいろ泣く方法が書かれているが、気持ちよく泣くためには、家で、感動的なDVDの“映画”などおすすめだという(※11参照)

生化学者のウィリアム・フレイ二世(William H. Frey II)が「情が高ぶった時に、人は何故涙を流して泣くのか?」との問いへの答えを探求したそうで、彼によると、感情的な涙の原因の内訳は、女性の場合、悲しみが5割、喜びが2割、怒りが1割で、同情・心配・恐怖がこれに続く。また、女性の85%、男性の73%は、「泣いた後、気分が良くなる」と答えているそうだ。そして、彼も涙に精神的なストレスを解消する働きがあるのではないかと考えた(※12参照)ようなので、今日は、以下参考の※13:TSUTAYAが選んだ 「世界が泣いた映画100選」などで良い映画(泣ける映画)を探して、泣いてみませんか。

参考:
※1:日本記念日協会
http://www.kinenbi.gr.jp/
※2:山上憶良 千人万首
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/okura2.html
※3:第13回「泣く子は育つ」といわれる理由
https://www.peacemind.com/pm_home_column.php?id=24&dat=754
※4:総合心理相談
http://www5f.biglobe.ne.jp/~mind/index.html
※5:中庸
http://www.h4.dion.ne.jp/~sstm/library/shoshi/chuuyou.html
※6:「心身対話」〜心の在り処を求めて〜
http://www.dokidoki.ne.jp/home2/islam/philo/syuron1.htm
※7:哲学入門6月6日講義思考(精神の働き)について_3
http://www.parsley-pf.jp/kudo/philo/philo_m_0606.html
※8:情動のメカニズムの探求 - RIKEN Brain Science Institute - 理化学研究所
http://www.brain.riken.jp/bsi-news/bsinews3/no3/special.html
※9:シャクターの情動二要因理論と情動の形成機序
http://www5f.biglobe.ne.jp/~mind/knowledge/basic/social002.html
※10:
前頭前野 - 脳科学辞典
http://bsd.neuroinf.jp/wiki/%E5%89%8D%E9%A0%AD%E5%89%8D%E9%87%8E
※11:泣いた後には、笑顔になれる。人だけが持つ「涙」の力
http://fufufu.rohto.co.jp/feature/339/
※12:人はなぜ泣くのか
http://www.systemicsarchive.com/ja/a/cry.html
※13:TSUTAYAが選んだ 「世界が泣いた映画100選」一覧
http://makemyself.blog64.fc2.com/blog-entry-370.html
最近、泣いてますか・・・?感情的な?涙? - Naverまとめ
http://matome.naver.jp/odai/2137454061006937701
脳科学(感情と情動)
http://www.mind-science.jp/pg90.html
痛みと鎮痛の基礎知識
http://www.shiga-med.ac.jp/~koyama/analgesia/react-emotion.html

別府観光 最大の功労者と云われる油屋 熊八 (参考)

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別府 観光最大の功労者と云われる油屋 熊八 誕生日  本文へ戻る

参考:
★1:「油屋熊八翁の実情を探る」 三重野 勝人
はじめに 油屋熊八という人物は、 戦後、 別府観光の最大の貢献者と  ←左で検索すると見れる。
★2:JAIRO随想「油屋熊八翁を偲び 毎年、宇和島へ墓参」編集部
http://jairo.nii.ac.jp/0140/00000156/en

※1:新約聖書(口語訳)
http://words.kirisuto.info/02.html
※2:市報べっぷ特集(14.08号)別府観光の父油屋熊八に続こう!! - 別府市
http://www.city.beppu.oita.jp/03gyosei/kouhou/old_special/special1408_1/
※3:お伽船研究室
http://www.geocities.jp/otogi1907/index.html
※4:JAIRO | “観光デザイナー”論―観光資本家における構想と妄想の峻別―
http://jairo.nii.ac.jp/0141/00002324/en
※5: JAIRO |「大正期における 別府の観光振興をめぐって」 織田直文
http://jairo.nii.ac.jp/0140/00000257
※6:第8章 温泉観光の過去と現在 - 別府市(Adobe PDF)
http://www.city.beppu.oita.jp/education2/yukemuri_keikan/pdf/02_08.pdf#search='%E5%88%A5%E5%BA%9C%E5%B8%82%E4%B8%BB%E5%82%AC+%E4%B8%AD%E5%A4%96%E7%94%A3%E6%A5%AD%E5%8D%9A%E8%A6%A7%E4%BC%9A'
※7:別府温泉地球博物館:別府温泉事典
http://beppumuseum.jp/jiten/jiten.html
※8:懐かしの別府ものがたり
http://today.blogcoara.jp/natukashi/
※9:別府八湯まちなみ彩都(- ITOデザイン
http://www.itooffice.com/index.html
※10:瀬戸内海モダニズム周遊 第62回 別府 九州へのゲートウェイ
http://www.gei-shin.co.jp/comunity/14/62.html
※11:山口県文書館
http://ymonjo.ysn21.jp/msearch/search.php?m=oth&op=search&c=&pg=207
※12:地図の資料館:オールド観光案内図コレクション/大分県
http://www.asocie.jp/oldmap/oita_top.html
※13:入湯貸間 陽光荘のホームページ
http://www.coara.or.jp/~hideharu/
※14:日本新八景になった別府
http://rokai.cocolog-nifty.com/mbc/2011/11/post-9ae3.html
※15:豊後の日名子一族
http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/keijiban/hinago1.htm
※16:日名子ホテル(歴史) : 別府八湯検定
http://b8spa.exblog.jp/12746303
※17:六角温泉
http://www.coara.or.jp/~yuki/beppu/muramatu/beppu009.htm
※18:訪日外国人旅行者、初の1000万人突破 | nippon.com
http://www.nippon.com/ja/features/h00046/
※19:安倍政権の観光政策の副作用とは
http://www.huffingtonpost.jp/2013/10/24/abenomics_tourism_n_4153724.html
「瀬戸内海コドモ連盟」についてー続観光と児童文化
http://www.geocities.jp/otogi1907/kanko2.pdf#search='%E7%AB%A5%E8%A9%B1%E5%AE%B6+%E6%A2%85%E7%94%B0%E5%87%A1%E5%B9%B3'
別府市における老舗旅館の経営動向 - 大阪観光大学図書館
http://library.tourism.ac.jp/No13Uratatsuo.PDF
温泉観光都市 ・ 別府の地域変化 - 千葉大学(Adobe PDF)
http://mitizane.ll.chiba-u.jp/metadb/up/AN00179512/KJ00004298718.pdf#search='%E6%98%8E%E6%B2%BB+%E5%88%A5%E5%BA%9C+%E9%83%BD%E5%B8%82%E8%A8%88%E7%94%BB%E4%BA%8B%E6%A5%AD'
別府地獄めぐり マップ - 別府地獄めぐり公式サイト
http://www.beppu-jigoku.com/pan.htm
パンフレット(PDF:6.74MB) - 大分県立図書館(Adobe PDF)
http://library.pref.oita.jp/kento/information/event/articles/20110117/library.pdf#search='%E6%98%AD%E5%92%8C%E5%A4%A9%E7%9A%87%EF%BC%88%E5%BD%93%E6%99%82%E7%9A%87%E5%A4%AA%E5%AD%90%EF%BC%89+%E5%88%A5%E5%BA%9C+%E5%B7%A1%E5%B9%B8'
油屋熊八 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%B9%E5%B1%8B%E7%86%8A%E5%85%AB


別府 観光最大の功労者と云われる油屋 熊八 誕生日  本文へ戻る

別府 観光最大の功労者と云われる油屋 熊八 誕生日

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歓楽的な温泉都市大分県別府市の観光開発に尽力し、田園的な温泉保養地由布院の礎を築いた実業家油屋 熊八は、文久3年7月16日(1863年8月29日)、伊予国、宇和島城下(現愛媛県宇和島市)の裕福な米問屋の長男として誕生した。江戸時代は油問屋を営んでいたことから明治になって油屋の姓にしたと言われている。
15歳の時には家業(米国問屋)に精を出していたといわれ、26歳の時に旧宇和島藩主伊達宗城側用人戸田義成の娘ユキを娶る。翌、27歳の時、町村制施行(明治22年4月)時の町会議員となる。
しかし、明治24年(1891年)父が没した後、30歳の時、熊八は家業に見切りをつけ大阪に出て、相場や株式市場を学び米相場で富を築き、別名「油屋将軍」として羽振りが良かったらしいが、日清戦争後の経済の大変動のとき、相場で失敗したことを契機に、明治30年(1897年)再起を期して単身アメリカに渡ったという。
渡米中の熊八の詳細は不明だが、ホテルのボーイや皿洗いなど手当たり次第に色々な職業をしていたようだが、明治33年(1900年)春、熊八38歳の時、サンフランシスコ郊外で空腹と疲労で行き倒れとなっていた時、日系人牧師より洗礼を受け。キリスト教徒となり、牧師より帰国を勧められ、3年間の滞米生活に終止符を打ち帰国の途についたという。
しかし、熊八は帰国後、また元の相場の世界に頭を突っ込むが、うまく行かず、熊八のアメリカ渡航時に別府に身を寄せていた妻を頼り、別府港(のちの楠港)開港(明治4年=1871年)以来温泉地として飛躍的に発展していた別府温泉で再起を図ろうと移り住む。
賢明な熊八の妻ユキは熊八渡米時に渡されていた金で古家を買っていた。それを改築し、湯治場に改築して、「亀の井旅館」(後に亀の井ホテルと改称。現在の亀の井ホテル別府店)と名付けた。
熊八はアメリカで助けられ牧師より学んだ、聖書の中にある言葉「旅人をねんごろにせよ」(旅人をもてなすことを忘れてはいけない。※1:「新約聖書」ヘブル人への手紙 13章2節参照)に感銘していたことから、この言葉を思い出し、この言葉を合言葉に、サービス精神の実践として婦人が経営していた亀の井旅館を手伝うところから 別府生活が始まったという。それが明治44年(1911年)のことだとされている。
宿泊客に対する熊八のサービスは徹底していたようで、ロビーに投書箱を置き、「お食事はいかがでございましたか」「女中やボーイに不行き届きはございませんでしたか」など4項目について記入してもらい、客へのサービス改善を怠らなかったという。又、旅館に2メートル四方もある世界各国の国旗を全部揃え、5人以上の外国人団体客が泊まった時は、その国の国旗を玄関前に掲げて歓迎の意を表し、ホテルのホールでは歓迎ダンスパーティーも開いて外国人客を喜ばせた。又、利用客に万が一の急病に対処する為に看護婦を常駐させていたらしく(※2参照)、こうしたきめ細かいサービスで亀の井の名声は高まり、有名人など上客の宿泊も増えていったという。
小旅館の経営から初めて独特の奇知と迫力ある行動力と宣伝力で大正13年(1924年)には洋式ホテルに改装して、亀の井ホテルを開業。
続いてバス事業に進出し、昭和3年(1928年)に亀の井自動車(現在の亀の井バス)を設立して、日本初の女性バスガイドによる案内つきの定期観光バスの運行を開始した。
この間、梅田凡平(口演童話家)らとともに別府宣伝協会を立ち上げ、別府お伽倶楽部のお伽船(※3参照)の活動に参加する中で、自らのもてなしの哲学と様々な奇抜なアイデアで別府の宣伝に努め、大正の広重といわれる盟友吉田初三郎とともに別府の名前を全国へと広めた(※4参照)。さらに、中谷巳次郎とともに由布岳の麓の静かな温泉地由布院に、内外からの著名人を招き接待する別荘(現在の亀の井別荘)を建て「別府の奥座敷」として開発している。

さて、戦後別府 観光の最大の功労者として頌徳碑も建立されている油屋熊八という人物について当ブログでは、Wikipediaをはじめ、ネットで検索されたもの(★印のもの)等を参考として書いたのだが、熊八の確たる足跡となると、本人が遺した日記や資料は意外と少なく、虚実入り混じった伝聞が散見され、それが市井に流布して実像掌握を困難にしているのが現実だそうである(※5参照)。
ひとつ解せぬことがあったのだが、アメリカから帰ってきた熊八が別府のユキを訪れユキの古家を湯治場に改築し「亀の井旅館」と名付け、婦人が経営してい旅館を手伝うところから 別府生活が始まったというが、その旅館の名前「亀の井」は「亀井タマエ」と言う女性の名前をとったとしている者が多く、中には,この女性を熊八の第二夫人とする説もあるようだ。
熊八の女性関係はかなりのものだったらしいことから、そのような説も出ているようだが、調べてみると「亀井タマエ」という人物はおらず、「亀井アイ」という女性が実在していたようで、彼女は「料亭一つ家」の女将で、熊八に旅館経営を教えた重要な人物だったそうだ。
この「亀井アイ」は相当の経済人であり、男女関係の問題はさておき、熊八にとってはビジネス上の先輩であり、また熊八の良き協力者、今風に言えばビジネスパートナーだったようである。とあったが、それなら、苦労を掛けた女房を訪れ旅館業を始めるのに女房以外の名前を旅館名にしてもおかしくないと納得できた気がする。
別府温泉郷は大正時代を迎えると大きく発展を遂げているが、当時の別府観光の発展を支えたのは外来からやってきた人々だそうだが、その中で、別府温泉郷を全国区に押し上げた最大の功労者は「別府観光の父」と呼ばれている油屋熊八であることは疑いの余地はないようだ。しかし、彼が別府で活躍する10年ほど前から様々な人物が別府の魅力に取りつかれて開発を手掛けていたようだ(※6参照)。以下※5.※6を参考にまとめることにしよう。
別府観光の幕開けは、明治維新政府では長崎裁判所参議に任じられていた松方正義が、日田県知事に転任してきて、県内視察の際、海上交通の便を図れば別府発展が期待されるとの発案から明治4年(1871年)、別府(楠)港が築港し整備され、明治6年(1873年)に大阪開商社汽船の「益丸」が就航、大阪との航路が結ばれたのが始まりと言える。
この時は大阪から香川県の多度津・広島県の鞆の津・愛媛県三津浜を経由し別府に至るルートを蒸気船「益丸」18トンが月1往復したのみであったが、これを契機に、次々と就航する船が増え、2年後には大阪と別府を結ぶ瀬戸内航路は競争時代を迎える。激しい競争を展開していた。それが明治44年(1911年)のことだと言われている。
各社の経営環境は厳しさを増し、やがて船首が一体となって、明治17年(1884)大阪商船株式会社 (現:商船三井)が設立された。
大阪商船が別府港に寄港したのは、大阪−細島航路と大阪−宇和島航路の2航路であった。運航日も開設当初の月3回から、6回そして8回と増便し明治30年代には毎日運行となった。当時まだ鉄道は開通していなかったので、大阪商船が観光客の旅客輸送に果たした役割は計り知れないものだったろう。
そして、明治33年(1900年)九州初の路面電車として別大電車が開業。これは、京都電気鉄道名古屋電気鉄道大師電気鉄道(神奈川県川崎市)、小田原電気鉄道に続く日本で5番目の電気鉄道として開業したものであった。また、運行のために別府の中心地・中浜に設置された火力発電所は日本で2番目に設置されたものであり、電力は周辺の商店街へも供給され当時としては数少ない街灯も点灯していたという。
そして、明治44年(1911年)には、現在のJR 日豊本線別府駅開業など、交通近代化の影響が計り知れない。
また、次に別府温泉郷が観光地として飛躍する契機となったのは、「上総掘り」(別府では「湯突き」と言う。参考※7のここ参照)と呼ばれる温泉掘削技術の導入であり、この技術は、明治15年(1882年)地元の豪商荒金猪六が掘削したとの記録が最も古いという。
この湯突きによる温泉掘削によって、これまで自然湧出に依存していた温泉資源が人為的に獲得可能となったため、別府各地で源泉掘削が広まり、その湯口数は明治38年(1905年)は198孔であったが、その6年後の明治44年(1911年)には593孔と増加し、さらに大正12年(1923年)になると1,584孔にまで達した。別府温泉郷は次第に温泉観光地として各地からの来客を迎えることになり共同温泉も賑わいを見せてきた。そして、別府および浜脇両温泉は僅か2 年で入浴客数が10倍前後に増加するなど観光地化が劇的にすすんだようだ。
そして、観光施設の開発であるが、今日でも別府観光の目玉商品である「地獄巡り」の自然湧出の源泉「地獄」を観光資源としていち早く着目したのは、鉄道技師であった千寿吉彦(直入郡竹田町出身 在:東京)で、彼は明治の末に日豊本線の敷設工事で別府にやってきた際、その風光明媚な土地に魅かれ開発の夢を膨らませたといわれている。
当時点在していた地獄は「厄介もの」扱いされていたようが、千寿はこのような扱いを受けていた海地獄を別荘地の泉源という全く新しい発想で買収し、温泉付き別荘地の開発を構想し今日の新別府一円を開発したという。
この地獄がさらに新しい局面を迎えることになったのは、明治43年(1910年)に、地獄を覗き見していた湯治客に対して、海地獄の管理人が二銭を徴収したことが始まりとされている。つまり、これまでの「厄介もの」が「見せ物」としてそれなりに価値のあることが判明し、各地獄の所有者も海地獄に続いた。
さらに、所有者たちは競うようにして各地獄に嗜好を凝らしはじめ、これが本格的な観光施設としての地獄めぐりの始まりとなったようである。
地獄ばかりか別府温泉郷の名が一躍全国に知れ渡ったのは、昭和天皇(当時皇太子)による巡幸の報道によるものであった。目的は大正9年(1920年)11月8日から4日間、宇佐平野を中心とした二豊の原野で繰り広げられた陸軍大演習を統監することだったようだ(※8のNo688大正9年11月皇太子行啓参照)。
また、この巡幸に合わせて道路等の環境整備もおこなわれ、大演習後は、これが地獄めぐりの循環道路ともなり、地獄の所有者たちはこれを好機と遊園地化を推し進めていったといわれている。
皇太子の巡幸によって全国的に名が知れ渡ることになった別府温泉郷ならびに地獄であるが、この機を逃さなかったのが油屋熊八であった。先にも述べたように、彼は亀の井バスを設立して、昭和3年(1928年)には全国初の試みとして「ガイド付き遊覧バス」の運行を開始した。
バスガイドは大正14年(1925年)12月、東京乗合自動車が遊覧自動車で採用し、観光案内のため乗務させたのが最初であった。観光案内には豊富な知識が要するとされて、大学を卒業した男性のみを採用した。しかし案内能力は抜群に良かったが、それに見合う手当や待遇を求めていたので、かなりの高コストになってしまった。今日のような女性のバスガイドは熊八が経営する亀の井バスの地獄巡り遊覧バスがはじまりであり、平成21年(2009)年3月30日に亡くなった村上アヤメさんが当時採用された第一号ガイドの一人だそうである。
若い女性の採用と、七五調による観光案内が話題を呼び、連日満員の乗客を乗せて北浜を出発したといわれている。また料金を一周1円で乗り降り自由とした。この価格は同時期の別府と海地獄間のタクシーならびに馬車の往復料金2円50銭と比べても破格なものであったようだ。
以下は、村上あやめさんが、2008年10月トキハ別府店20周年のセレモニーで名調子を披露している様子である。

初代バスガイド村上あやめ - YouTube

別府温泉郷が観光地として全国的に知れ渡るとともに、市内各所に観光施設の整備が相次いだ。まず、大正14年(1925年)に、広島県呉市出身で、呉市長、貴族院議員を務めた松本勝太郎によって温泉と複合した総合的なレジャー施設別府鶴見園を開園。勝太郎は、松本建設を興し、鉄道工事で財を成した人物であるが、明治時代末期に豊州本線(現:日豊本線)の工事に関わった際に別府の魅力に惹かれ、レジャー施設建設を思い立つたという。当時阪神地区で人気を博していた宝塚を模して「鶴見園女優歌劇」を結成し、「九州の宝塚」ともいわれたようだ。
次いで、昭和3年(1928年)には東京の鉱山会社(「木村商事」と言うらしい)によって別府市内を一望できる山上に「ケーブルラクテンチ」が開園した。施設としては、遊園地とともに展望温泉、食堂売店、乙原地獄、ベビーゴルフ場、演舞場などが整備されたようだ。
この当時別府温泉郷は湯治を中心とする鉄輪温泉・明礬温泉、保養的な観海寺温泉そして歓楽色の強い浜脇・北浜温泉とに大まかに区分されていた(温泉のことは別府温泉又※9:「別府八湯まちなみ彩都- ITOデザインの別府八湯フォトアルバム参照)。とりわけ、浜脇温泉と別府(北浜)温泉は別府港と別府駅、東別府駅を中心として大いに賑わっていた。
松原公園(※9の別府市の公園>松原公園参照)は別府(北浜)温泉と浜脇温泉との中間点に位置し、その立地性から公園周辺には劇場、芝居小屋、商店が立ち並んでいた。
このように、昭和初めの別府温泉郷は地獄巡りをメインにしながらも市内各所に大規模な観光施設が点在する一大アミューズメント(娯楽)地帯をなしていたようだ。
この頃、別府温泉郷を舞台として大きな博覧会も開催されている(※10参照)。当時全国各地で地域産業の育成を意図した産業・勧業博覧会が開かれていた。
別府で最初に開かれたのが「中外産業博覧会」で、同博覧会は、別府市制施行(大正13年 4月1日)5周年を記念して、昭和3年(1928年)の4月1日〜5月20日の40日間開催された。地獄めぐり遊覧バスもこの開催に合わせて運行を開始している。会場はメインとなる第一会場として別府公園、第二会場として浜脇海岸埋立地が充てられた。
この開催は別府温泉郷が阿蘇・雲仙・長崎とを結ぶ国際観光ルート(現在の九州横断道路[やまなみハイウェイ]の原型でもある)として構想されたことによるものであった。会場の別府公園には温泉館・観光館・産業本館・大分館・台湾館・朝鮮館・農具機械館・ラジオ館・陸軍館・海軍館といった数々のパビリオンが建ち並び大勢の入場者で賑わった。

●上掲の画像(クリックで拡大)は私の絵葉書のコレクションより、向かって左:別府市主催中外産業博覧会の記念絵葉書セット(袋入り5枚中の1枚。同画2枚と本館、会場正門、温泉館、別府前景色の写真入りのもの)。右:これは記念絵葉書ではなく、顧客招待用また宣伝用に作られた使用済みハガキ。大分県特産・別府名産陳列所が昭和2年7月盛夏として、「暑中見舞い」に使われている。他にも同博覧会の絵葉書はいろいろ出ているが、以下参考の※11:「山口県文書館」で見ることが出来る。
又以下は、大正から昭和初期にかけて活躍した鳥瞰図絵師・吉田初三郎が描いた中外産業博覧会の会場及び周辺案内図である(発行年:昭和3年=1928年、発行元:別府市)。

別府市主催中外産業博覧会

上掲の画像右の葉書には、大谷句仏上人 湯治の歌として「天下第一の湯に入る幸や朝涼し」の句が掲載されている。 
この句がいつ詠まれたものかは知らない。大谷句仏上人とは、明治41年(1908年)11月には父光瑩より東本願寺第二十三代法主を継承し、真宗大谷派管長となっていた大谷光演のようだ。
正岡子規の影響を受け、『ホトトギス』誌にて河東碧梧桐高浜虚子らに選評してもらい、彼らに傾倒して師と仰いでいたが、後に『ホトトギス』誌の影響から脱し独自の道を歩む。「句仏上人」(「句を以って仏徳を讃嘆す」の意)として親しまれるていたそうである。

先に紹介すべきであったが、参考※11:「山口県文書館」の中には、初三郎最大の盟友でもあったらしい油屋熊八の依頼により作成した亀の井ホテルの案内図もある。以下がそれである(発行:昭和2年=1927年、発行元:亀の井ホテル)。

別府温泉御遊覧の志おり「日本第一の温泉別府亀の井ホテル御案内」

スポンサーの亀の井ホテルが別府の大半を占めるという、大胆な構図で描かれている。このコンビで数々のイベント企画や日本新八景(日本八景ともいう)の当選(温泉部門第1位)など観光別府の売り出しに成功しているという。
ちょうど一般の国民が観光に目を向けるようになった時期に行われた日本新八景の選定は、広く国民の関心を集め、投票総数は当時の日本の総人口の1.5倍にもなる約9,300万通に及んだという。投票は全国からの公募で、官製はがきに一枚一景を書くことによるものとされていた。この投票では、一部の地域で、集中的な地元投票がおこなわれたとも言われるが、油屋熊八も別府温泉が八景に選ばれるのに際しては、大いに活躍したようなので、組織的投票運動を繰り広げたことだろう。見事、温泉の部で別府温泉が八景に選ばれた。
選定された景勝地には、著名な文人と画家が訪れ、その紀行文が新聞紙上に掲載されたが、別府温泉の項の筆は過去にも別府を訪れたことのある高浜虚子が執っている。
虚子の別府の旅は、船で別府入りして、さっそく亀の井旅館で一風呂あび、「温泉(ゆ)に入るや瀬戸内海の昼寝覚」と詠んでいるそうだ。
夕方からは、初代別府町長の日名子太郎、市の温泉係の両人の案内で地獄めぐりに出かけ、亀川経由で血の池地獄、竃地獄を見物。明礬の紺屋地獄、坊主地獄、海地獄、鉄輪地獄、さらに鶴見地獄とぐるり一巡し、このうち、鉄輪地獄(現在の陽光荘、※13参照)、鶴見地獄については前に来たとき(大正9年)にはなかったと記しているそうだ。
また、観海寺の住宅分譲をはじめ、文化村(西別府団地の通称)、海岸の埋立地の別荘、新別府の分譲がはかばかしくないという事情にも触れ、「不景気風に吹きまくられて湯の都の発達もちょっと小頓挫の形」とあり、昭和初期の世相がかいまみられるという(※8のNo413 文学散歩、※14など参照)。
虚子は大正9年と今回、そして、翌昭和3年にも冨士屋旅館を訪ねているそうなので相当な別府温泉好きらしい。ひょっとして、先の温泉の句を詠んだ句仏上人も温泉付きの師匠虚子と一緒に来た時の句であろうか・・・。絵葉書一枚でいろいろ想像するのもコレクターなどの楽しみでもある。
又、、虚子が別府へきて、初代別府町長(明治39年=1906年、別府と浜脇両村が合併して別府町となった時の町長)日名子太郎に会っているらしいが、この「日名子」の名前が私には懐かしい。
かつては別府を代表する旅館だったのが日名子旅館であり、別府で一番古いとされる「日名子旅館」(当初は符内屋)の開業は安政年間(1854ー1859年)と云われる。「日名子旅館」は第2次世界大戦後の1945年頃まで営業を続けたがその後岡本忠夫(大分県弥生町出身)が日名子旅館を買収(昭和20年又昭和24年頃とされる)し、合資会社日名子ホテルに商号変更をしていたが高度経済成長期における設備投資の失敗で昭和60年 (1985)年に倒産し、今はデオデオのあるマンションとなっている。
私は、若い頃大阪から東京の会社へ転職し、東京にいる時に見合いをし即、結婚することになったので、地元神戸へ帰ってくる前に、東京の旅行会社で新婚旅行の切符や旅館等の手配をしてもらった。
行程は、初日は神戸で結婚した後疲れるので、夜は大阪の阪急ホテルに泊まり、朝大阪空港から飛行機で九州横断旅行の為に大分空港へ、当時空港はまだ国東半島ではなく、別大興産スタジアム(新大分球場)の位置にエプロンがあった。
別府で地獄めぐり他市内観光の後、日名子ホテルで1泊し、翌日 九州横断バスを利用して久住高原経由で阿蘇へ向かったのを思い出す。

●上掲は日名子ホテルの札(なんというのか知らない荷札かな?)
明治時代は旧国道側が入口だった日名子旅館は大正時代に旧国道から山手側に流川通り(大分県道52号別府庄内線参照)が延びていったため、流川通り沿いに玄関があった。
以下参考※15 :「豊後の日名子一族」によれば、日名子氏の系譜は古代に国東半島を領域とした国前国造の末流とみられるそうで、鎌倉中期の別府温泉には大友頼康によって温泉奉行が置かれた。それが、豊後別府に住みついた日名子太郎左衛門尉清元だそうだ(※16も参照)。
初代別府町長日名子太郎もその末裔だと思うし、日名子旅館の創業者もそうであろう。「日名子旅館」は、当初は「符内屋」と称したそうだが、府内(ふない)は、大分市中心部の明治時代初期までの旧称である。
この歴史ある日名子旅館には初代総理大臣を務めた伊藤博文(号は春畝=しゅんぽ)が名づけた「霊泉館」という別名があり、また政治小説「雪中梅」を書いたことで知られる末広鉄腸も泊まって漢詩を残したようだ。そこにある流川についての解説では、流川の両側に遊郭があったと書いているようだが、のちの近代的な町の様子からは想像がつかないことである(※8のNo1136流川は遊郭街だった!?参照)。
昭和3年(1928年)に始まった別府地獄めぐり遊覧バスの、日本初の女性バスガイドによる七五調の観光案内では
「ここは名高き流川 情けの厚い湯の町を 真直ぐに通る大通り 旅館商店軒並び 夜は不夜城でございます」 と紹介され大いに賑わいを見せていた。

このような歴史ある旅館を吉田初三郎が鳥瞰図で描いていない訳はない。以下は、参考※12:「地図の資料館」の中にあるものである。(発行:日名子旅館 発効日:大正15年夏)
日名子旅館御案内

地獄の観光地化と観光施設の開設が相次ぎ、押しも推されぬ我が国を代表する温泉観光地となった別府温泉郷は別荘地としての開発も盛んに行われた。
別荘開発の先駆者は、前述の海地獄を買収した千寿吉彦である。千寿は前述の通り海地獄を源泉として「温泉付き別荘地」の開発をし、鉄輪温泉に隣接する一帯を新別府と称して進めた。
その後、愛媛県出身の多田次平が大正11年(1922年)六角温泉(※17参照)・荘園地区の開発に着手したが、この開発は資金繰りが行き詰まり途中で頓挫するが、その後を久留米絣で財を成した国武金太郎が継いだ。
これらの別荘分譲地は在阪の政財界をターゲットとしたとも伝えられているが、実際は台湾、朝鮮半島、旧満州で財を築いた人々が多く購入したようだという。

積極的な観光開発により、別府温泉郷における観光客(入浴客)の数は、明治初期と比べると飛躍的に増加しており、明治末には別府村および浜脇村だけでも年間46万人もの観光客(外来入浴客)を数えるまでになった。日清・日露戦争後の好景気など様々な理由で明治期から大正期にかけて別府八湯の旅館数は拡大したと推測される。そして、大正8年(1919年)には別府温泉郷全体の年間入浴客数は100万人を突破したという。
このたように、油屋熊八が別府に来た明治末頃には、初代別府町町となった日名子太郎は既にしたたかに別府宣伝の手を打ち始めていたのだそうである。
日名子太郎は都市計画事業の推進というハード事業と、宣伝と云うソフト戦略をともに意識した都市政策を進めていたようでこの人物の別府進行に果たした役割は非常に大きいという。
上記のような入湯客の増加が需要だとすれば、供給面の宿泊施設の方も別府市誌2005年版には明治35年(1902年)の別府町では名前が分かるだけでも10件の他に数十件の旅館があったこと、また、亀川にも20軒ほどの宿屋があったことが書かれており、それが明治43年になると、別府町の宿屋は175軒にのぼった(『市政洋要覧』)とあり、「大正元年(1912年)には201軒となり、そして、昭和8年(1933年)には296軒を数え、亀川町、朝日村、石垣村が合併した10年には402軒となった。」とあり、こちらも急成長であったことら、別府が明治末から大正期にかけて温泉観光地観光地として飛躍的に発展したのは間違いない。
このような別府発展のための油屋熊八の功績は色々と伝えられているところだが、彼の最大の功績は別府の宣伝にあり、それは民間人としての活躍であり、行政も当然精力的に行っていたようで、むしろ別府発展には官民共同での宣伝戦略の展開こそが功を奏したと考えられているようだ。
熊八が別府へ来る前段階の明治39年時点で、別府、浜脇両町の合併を記念し、別府町長の日名子太郎が大阪方面に出かけ、別府温泉を宣伝したこと、さらには、新聞記者や作家を招き、別府宣伝を仕掛けていたようである。
油屋熊八が別府に来て亀の井旅館を創業したのは、明治44年(1911年)10月1日だとされいるところから、どうやら熊八はこうした別府の動向を睨んでタイミングよく別府での旅館業を企てたのではないかと見られている。ただし、熊八がそのように考えて別府に来たということを実証する裏付けは残念ながらないようだが・・。
ただ、熊八は、相場師として失敗はしたがある程度成功もしており、情報力は持っていただろう。
失意の中での渡米ではあったが、アメリカでの見聞は後の旅館・ホテル業に見事開花したと言える。
「勘がいい男」と云われるが、それは持って生まれた才能ともいえるが、大阪での相場師や、アメリカでの苦労から「時代を見抜く洞察力」を身に着けたと考えられる。
熊八が手掛けた事業は、別府での個性的なホテルの経営。地獄循環道路の整備と地獄遊覧バスの運行。女性バスガイドの登用。手のひらの大きさを競う「全国大掌大会」の開催。「別府宣伝協会」や「別府 オトギ倶楽部」の発足。有名な「山は富士、海は瀬戸内、湯は別府」というキャッチコピーの創出。海外宣伝。『日本新百景』選定への応募活動。宝塚少女歌劇団の誘致活動。九州横断道路構想など。奇抜なアイディア事業であふれかえっているが、この様な奇抜な独創力は今日でもあらゆる企業や地域に求められることであり、大正期において別府の熊八は郡を抜いていたといえる。
私の住んでいる神戸市でも明治・大正・昭和初期は観光客で賑わう活気あふれる都市であったが、今は有馬温泉南京町(中華街)・異人館街・六甲からの夜景などであるが、かっては、日本を代表する神戸の港は、今はさびれて閑散としている。
港町神戸が再生するにはこの港をどう生かすかにかかっているが、今の助役上がりの神戸市長にそんな能力があるとは思えない。恥ずかしながら、4代続いて助役が市長になっている都市など日本のどこを探してもないだろう。大分の様に独創的な知事もいるが凡そ、公務員の市長に独創的な発想力のある市長はそう多くはいないだろう。
神戸市民でもそれがわかっている人は独創的な発想力を期待して、民間人を推薦するのだが、神戸市議会、市役所、それと市が関係している外郭団体などが一緒になって、候補者つぶしを仕掛けてくる。前回は,3度も助役が市長になるのをなんとか阻止するため日銀神戸支店長他が立候補し多くの票をとった。しかし、助役が市長になることに反対して対抗する民間人に投票する人は多かったのだが多くの人が立候補したために票が割れて助役が当選してしまった。
今回も、民間のIT関係の会社社長に期待をかけていたのだが、低投票率の中、票を稼いで肉薄したものの、それを潰すかのように、神戸市議会の若い女性議員が立候補し、女性票を稼ぎ、結局、会社社長はわずかな票差で、又、助役に敗れてしまった。
いつもいつも選挙のたびに、市長の息のかかった助役が、市議会議員、役所職員をバックに組織ぐるみで臨んでくる選挙に対抗する側がばらばらに戦っていてはこれからも同じ負け方を繰り返すだけだろう。何の改革も期待できない。もう、あきらめの境地です。
ちょっと、愚痴になってしまったが、今日でもあらゆる企業や地域において発展させるのに最も必要なものは、別府の熊八のような郡を抜いた独創力だろう。
ただ、アイディアだけでは仕方がない。それを実行するには賛同者・協力者を得るための説得性に富む企画力がなければならない。この点でも熊八は他に勝っていたと言えよう。そして、それをやり抜く、粘り強い実行力も必要だ。
それに、熊八には広い人的ネットワークカがあった。熊八の回りには当時の経済界では小林一三阪急社長、森永製菓創始者の森永太一郎、後の宝酒造の礎を築いた大宮庫吉、文化人では、口演童話(童話の読み聞かせ)家の久留島武彦、童話作家の巌谷小波、詩人の野口雨情、作曲家の中山晋平などの名が挙げられる。
それに人を引き付ける「愛嬌の良さ」もあったようだ。だから、周りの人が熊八に協力を惜しまなかったのだろう。
別府は、湯量とその質において日本一であったが、明治30年代初頭までは、全国的に知られた観光地とは言えなかった。しかし、我が国の産業革命が軌道に乗り、国土交通網整備が進むとともに、国民の移動が活発化し、「大正期の観光ブーム」が起こる。その時流に別府はタイミングよく乗り、当時の為政者や住民らの努力もあり、全国の他の地方に先がける形で、鉄道整備、港湾整備、都市計画(道路整備・耕地整理)、上水道整備など、いわゆる都市の物的(ハード)整備を完了し、観光に十分対応しえる都市づくりが進んだことと同時に、積極的に別府宣伝活動というソフト事業を進めたことが、大きな飛躍の要因だったといえる。
我が国の近代化過程においては、国土開発や地域開発においてはハード整備が先行した点では、戦後日本の高度経済成長期とよく似ているとも言える。
そして高度経済成長期後は、「ハードからソフトヘ」「文化の時代」が標榜され、地域振興のソフト事業の充実が希求されたように、大正期には地域振興策も地域情報発信に重点が移っていったと考えられ、それをいち早くものにしたのが別府であったようだ。かっての神戸市もそのような時代があった。
また、これは今の時代でもそうあるべきだろう。
今の日本の安倍内閣でも外国人旅行客がもたらす経済効果に注目し 成長戦略の中に観光業の拡大を盛り込んでおり、2003年以降、「訪日外国人旅行者1000万人」を目標にビジット・ジャパン・キャンペーン(VJC)などに取り組んできたが、訪日外国人数はこの10年でほぼ倍増したというのだが・・・(※※18、※19参照)。

冒頭の画像、中央男性は、油屋熊八。昭和2,3年頃の撮影。『朝日クロニクル週刊20世紀』1912年号掲載のもの借用。


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下駄の日

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日本記念日協会(※1)の今日7月22日の記念日に「下駄の日」があった。由緒は、以下のように書かれていた。
” 下駄の生産業者などで結成された全国木製はきもの業組合連合会が、伝統的なはきものの下駄のよさを見直してもらおうと設けたもの。下駄の寸法に「七寸七分」など7の数字がよく使われること、雪道を下駄で歩くと漢字の二の字に似た跡が残ることから7月22日とした。 ”・・・と。

私は下駄のことなどあまりよく判らないので、先ずは記念日を登録したとされる「全国木製はきもの業組合連合会」を探して、そこでいろいろ下駄のことを調べてみようと思い、ネットで検索してみたのだが、同連合会のHPが見当たらない。
仕方なく、まず、国内では、どこでどれだけの下駄が生産されているのか?・・と言ったことから始めようと、調べていると、 “主として木材や木材の利用に関する情報の備忘録、木のメモ帳」的な役割を目的として作られたサイト、その名も「木のメモ帳」の木の雑記帳(※2参照)の46 平成下駄事情 のところで、私の知りたいことが書かれていた。
国内では、どこでどれだけの下駄が生産されているのか?といった統計データの所在を調べても、全国をカバーする生産団体がなく、都道府県別の生産量のデータも確認できないのが現状の様である。
かつては「全国木製はきもの業組合連合会」の名の団体が存在したというが、既に解散して現在は存在しないらしいく、そのため、名の知れた下駄の産地がある一方で、職人仕事として少量生産されるものが各地に存在するが、残念ながら全貌の把握されていないのが実情のようである。
しかし、広島県福山市松永町(かつて広島県に存在した市:松永市)は下駄の生産量が日本一、あるいは全国生産量の6割を占めているとする情報が公的機関・団体、さらにはウィキペディア等を通じて広く流布していているのを確認したという。
この地はかつては価格の安い輸入材を利用して、機械化した大量生産方式によって、大衆向けの製品で高いシェアを誇った歴史があり、また、日本で唯一の「日本はきもの博物館」を有することでも知られていたようだ。
しかし、この「日本はきもの博物館」は、下駄屋の主人丸山茂助(後のマルヤマ商店)が、1878(明治11)年に下駄づくりを始めて100周年を記念して、1978(昭和53)年に開館したものだが、入館者減などに伴う収益悪化などを理由に昨・2013(平成25)年11月24日に一時閉館しており、閉館後は、福山市が運営管理を引継ぎ、2015年度に再開を目指す方針だそうである。
この、松永町も、かつてのような大量生産方式の下駄生産はなくなり、その隣町の本郷町でごく小規模な生産をしているらしい。
「広島県はきもの協同組合」(※3参照)に聞いてみると松永・尾道府中などでの生産はあるらしいが、全国の生産量がわからないことから、正確なシェアは不明ということだそうである。かつてのような大量生産方式の下駄生産は既に滅びたが、元々、伝統工芸的な存在ではなく、消耗的商品であることから、存続してゆくこと自体が厳しいことのようだ。
既に廉価なものは輸入品しか目にしないことから、国内生産のシェアを云々することは、そもそも無意味になっているといった現実の様である。
「広島県はきもの協同組合」は、昔、年間5,600万足もの下駄を作っていたという歴史ある松永を中心とした下駄関係者によって開発された下駄を紹介するWebサイト「げたのSITE」を運営しており、同サイトには、下駄に関する歴史など興味あることがいろいろ書かれているので、当ブログも、下駄の産地別状況などは問題にせず、このサイトやウィキペディアをたよりに調べたことを書いてゆくことにしよう。

広辞苑には【下駄】は、2枚の歯のある台木に三つの穴()をあけ、鼻緒をすげたはきもの(履物)。歯には差歯と一木作りの連歯があり、また一本歯や三枚歯のものもある。〈日葡辞書〉。ただ、ぽっくり下駄のように歯がないものもある・・・とあった。

上掲のものがぽっくり下駄。ぽっくり、木履(ぼっくり)、こっぽり下駄、おこぼ等々、呼称は地方によって異なるようだ。
下駄はいつ頃から履かれていたのか?
日本にはを用いる履物として、足を乗せる部分に木の台を用いる下駄、草や樹皮などの柔らかい材料を用いる草履(ぞうり)、緒が踵(かかと)まで覆い足から離れないように踵の後ろで結ぶ草鞋(わらじ)の3種がある。
下駄は中国(参照)及び朝鮮半島にもあるが、日本語の下駄にあたる言葉はなく、木靴まで含めて木履という。
一説では木靴のなかでもゲキ(屐)と呼ばれる形状のものが、日本の下駄の原型になったという。
下駄は温暖な農耕地帯、特に稲作農耕民族に用いられており、日本での出現も稲作の伝播と関わっていた可能性は考えられる。
イネおよび稲作技術の日本への伝播経路については、諸説あるが、いずれの経路にせよ、イネが大陸部から東シナ海を渡り日本にもたらされたことは、間違いない。
そして、日本で一番古い水稲耕作の遺跡である福岡県の板付遺跡や佐賀県唐津市の菜畑遺跡などから、炭化米や土器に付着したモミの圧痕(押しつけられたり,圧力が加わったりしてついた形)、水田跡、石包丁、石斧といった農具、用水路田下駄等が発見されていることから、その時期は、今から約3000年前の縄文時代後期にはすでに大陸から稲作が伝わっていたことが明らかとなっている。
縄文晩期、北九州地方に伝来した水田稲作技術は、その後、弥生時代になって急速に日本列島を東へと伝播し始める。現在まで、弥生時代の水田は全国で20か所以上見つかっており、最も有名なのが静 岡県の登呂遺跡 (弥生後期)であり、ここでも農具の田下駄が見つかっている(※4参照)。
田下駄は、今ではほとんど使われることがなくなったが、泥湿地の歩行や水田の農作業などに着用された履き物の総称である。この田下駄は、稲作を基礎とする日本の生活文化史に おいて、農具としてだけでなく、履き物の起源を考える上でも重要な民俗資料でもあるという。
最も原始的なものは、一般にナンバと呼ばれる板型のもので、鼻緒がとりつけられておらず、平たい板に開けた穴に縄紐を通して足に結束した。
田下駄は、その用途から二つの系統があることが知られている。その一つは、深田の田植えや稲刈り、泥湿地の芦刈などの作業用であり、泥中に足が沈み込むのを防ぎ、作業を容易にするために使われてきた。
これらは、板型、輪かんじき型、下駄型、足駄型など小ぶり のものが主で、地方によってナンバのほか、カンジキ、タゲタ、ブクリなど、さまざまな名称で呼ばれていたようだ。
もう一つは、代かき、肥料の踏み込み、その後の代直しなど、田植え前の水田の代拵(こしら)えのために使ったものである。こちらは簀(さく)の子型、枠型、箱型など、概して大型で、オーアシと呼んでいた地域が多いようだ。
また、猪苗代湖周辺の湿田地域のように、「なんば踏み」といって、代こしらえに板型の田下駄を使っていた地域もある。この地域のナンバは幅が1メートルほどもある横長のものだが、登呂遺跡出土のものは幅50センチほどでこれとよく似ているという(※5参照)。
ところで,登呂遺跡から出土した田下駄の足板を例に見ると,緒孔の数が3つのものと,4つのものの両方が出土しているようだ。前者は板を縦長に,後者は板を横長に使い,足を中央にのせ,紐などで縛って固定したものと考えられているようだ(※6参照)。
田下駄「ナンバ」については以下参考の※7:「田下駄の名称をめぐって −猪苗代湖周辺のナンバを 中心に」の論文で詳しく考察されている。いろいろと画像入りで考察しているので、興味のある人は読まれるとよい。
しかし、千葉県の利根川流域で使われていたといわれる田下駄など見ていると、やはりこれが、日本の下駄のルーツではないか・・・と思われたりもするのだが・・・。参考※8の田下駄。以下参照。
6. たげた【田下駄】
そして、以下参考の※9:「万葉集7番歌「秋の野の歌」について 其の三」では、万葉集を題材に、田下駄の事についても触れているのでこれを参考にしながら見てゆこう。
履物の用途は、何よりも足の保護にあり、万葉集に以下の歌がある(歌の原文、直訳は※10を参照した)。
原文:信濃道者 伊麻能波里美知 可里婆祢尓 安思布麻之《奈牟》 久都波氣和我世(巻一四−3399)
直訳:信濃道(しなぬぢ)は今の墾道(はりみち)刈株(かりばね)に足踏ましなむ沓(くつ)はけ我が背
」には、原野を切り開いて農地にするの意味があり、墾道とは、新たに切り開かれた道のこと。「刈株」は、稲や麦を刈り取ったあとに残る根株。かりくいのこと。
この歌の意味は「信濃路(信濃へ至る道)は今切り開かれたばかりの道。切り株に足を踏みつけないでくださいね。くつをお履きなさいよ、私のいい人。」・・と言ったことになる。
当時の道の作り方はふた通り。踏み固めて側溝を作る、比較的整備された道。そしてもうひとつは、木を伐り、石をどけ、文字通り切り開いて作る道。
この歌に歌われている道は、後者の方であり、伐採された木の切り株がむき出しになっている道を行かれるのですから、どうぞ沓(くつ)を履いていってくださいよ。あなたのことを心配していますよ。と、特に比喩などなく、ストレートな意図の表現であり、そういう意味では万葉集にあっては珍しく、愛情のやりとりを、そのままに言葉にした歌である。
特徴的な巻十四のなかで、これまた異色ともいえる愛の歌と言える・・と、万葉学者・奈良大学文学部国文学科教授の上野 誠はMBSラジオ番組での「上野誠の万葉歌ごよみ」(2011年4月17日)の中でこう解説している(※11参照)。

又。下駄類の履物の呼称については、当初からゲタないし、ケタと呼ばれていた可能性があり、その状況証拠としては、第一に、万葉集に以下の歌が存在するとしている(歌は※10の ここ参照)。

原文:小墾田之  板田乃橋之  壊者  従桁将去  莫戀吾妹(巻第十一 - 2644)
直訳:「小墾田の 板田の橋の 壊(こほ)れなば 桁より行かむ な恋ひそ吾妹(わぎも)」
この詩には、題詞:「寄物陳思」とある。『万葉集』中の相聞の歌の表現様式は、3分類あるそうで、正述心緒歌(ただにおもいをのぶるうた)(心に思うことを直接表現する),寄物陳思歌(ものによせておもいをのぶるうた)(物に託して思いを表現する)の2分類と並び、物だけを表面的に歌って思いを表現する、いわゆる隠喩の歌を「寄物陳思」と云うそうだ。
以下参考の※12:「訓読万葉集」では原文の「坂田の橋」は略解に板は坂の誤りにて、サカタなり、サカタとせることは小墾田金剛寺坂田尼寺といへり(中略)と云えり」とあるので、この歌は、「小治田の坂田の橋が壊れても 橋桁を伝ってでも逢いにゆくよ  だからそんなに恋しがるな 妻よ」といった意味になるのだろう。・・・としている。
※9:「万葉集7番歌「秋の野の歌」について 其の三」では、家や橋などで、柱や橋脚などの上に架け渡して他の材を受けるものを桁(けた,ケタ、ケの甲乙不明)という。
下駄は、人間を受けるために歯の上に板の架け渡された履物である。また、ケダ(角・方、ケは乙類)とは、方形を表す語で、副詞のケダシ(蓋、ケは乙類)はその派生語で、推量の語とともに使われて、きっと、おそらく、たぶん、もしかして、の意になったとされる(※ 13 けた,ケタも参照)。
和名抄』に、「 兼名苑(※ケンメイエン=唐の釋遠年撰とされる字書体の語彙集)に云はく、屐〈音竒逆反、阿師太(あした)〉は一に足下を名づくといふ」とある。これが下駄の古称であり、板製履物の総称とされ、一般に、アシダと濁音で呼ばれている。
遺物ばかりでなく、平安時代に入ると、清少納言の『枕草子』で、「帶ばかりしたる若き法師ばらの、屐(アシダ)といふものをはきて」(一二四段、※14参照)などとアシダの語が一般的に用いられるようになっている。
以上から見て、下駄そのものの由来が大陸の木靴「ゲキ」にあると思われるが、呼び名としての下駄/足駄は、935年前後に成立した『倭名抄』の「阿師太」が初出であり、木靴をはじめとする中国の衣装風俗の到来は古墳時代と推測されていることから、その間約500年ほどの空白期間があることになる。
ここで注目したいのは、古墳時代中期(5世紀)の遺跡から出土した履物形の滑石製模造品である。以下を見られるとその画像を見ることが出来る。

「古墳時代の神マツリ」のミカタ4 - 東京国立博物館

東京都野毛大塚古墳野と京都府鏡山古墳(出土品は、共に下駄形模造品を含む滑石製模造品の代表的なものである。
鼻緒の孔も開けられ、ちゃんと左右共に専用に造られた精巧なつくりであり、いずれも下面に下駄の歯の突起が付けられていて、近年、古墳時代に遡る木製下駄の発掘も相次いでいるという。
個々では、これらの出土遺跡は水を濾過する沈殿槽のような装置と祭祀遺物を伴い、何らかの儀礼の場で使用されたとみられる例が多いことが特徴であり、まだ解釈には諸説(泥湿地で足を汚さない、又、清水を汚さない為?など)があるが、水を使った儀礼の場で使用された履物である可能性が高いようだとしている。
参考※3「広島県はきもの協同組合」でも、歩行に用いられたものではなく農具の一つである田下駄から歩行用の下駄が生まれたとは考えにくく、歩行用の下駄の原型は先に挙げた古墳時代の古墳から出土した滑石製模造品や木製下駄にあるのだろうとしている。
先に見られた古墳時代の古墳から出土の下駄の画像をよく見ると、前の緒穴が左右に片寄ってあけられている(※3のここ参照)。
この前緒穴の片寄り、つまり左右の違いのある下駄は、現在でも日本以外の使用地にはみられることであり、いいかえれば、前緒穴が台中央にあけられるのは非常に日本的な特徴なのだそうである。この日本特有の形が出現するのは9世紀前半、平安時代初期のことだという。
奈良時代の都だった平城京跡からはこの時期の下駄が80 点以上出土しており、台はほぼ長円形にととのってきており、長さも18〜24センチのものが多くなる。そして前緒穴が中央に位置するものが約80パーセントを占めており、年齢や性別を問わず使用されるようになっていくことがうかがえるという。以下のブログを見てください。

(3)すり減るまで大切に - 奈文研ブログ - 奈良文化財研究所

木履(きぐつ)と並べられている下駄には前緒穴の片寄りのあるものと、中央にあるものがある。この中央に穴のある下駄へと変化していったのだろう。しかし、これらの出土例は少なく、田下駄のような農耕具としての下駄は別とし、履物として、の下駄は、宮廷、公家、僧、武士、庶民とその階層の用途によって発達していったが、下駄は、身分の高い人が使用しただけで当時まだ多くの人々は、草履や裸足で生活していたようだ。
武家社会となる鎌倉・室町時代には、宮廷、公家だけの履物と、新興の武士たちは鼻緒のついたはきもの−草鞋(わらじ)・草履−を履くようになり、下駄の使用も増えていった。しかし、当時の履物としては、この草鞋や草履が中心であり、下駄自体が普段履きになるのは江戸時代からで、それまでは雨天や水仕事、排便時など、足下が濡れている状況での履物であったようだ。
「下駄」の呼び名の成立は戦国時代と推測され、「下」は地面を意味し、「駄」は履物を意味する(履物については※16:「履物概説」参照)。それ以前は「アシダ」と呼称されていた。
七十一番職人歌合』二十二番の返し歌に「下駄(あしだ)作り」の記述がみられる。足駄つくりの姿が描かれ、焼火箸で、鼻緒の穴をあけている。

上掲の画像は七十一番職人歌合』二十二番。画は参考17:「東京国立博物館情報アーカイブ」より借用。同サイトでは拡大図を見ることが出来る。

ただ、日本独自の履物「足駄」が初めて世に現れてから、徳川時代以前まで木製履物は形の上で、殆ど変化しなかったのは、打ち続いた戦国乱世が、その余裕を与えなかったからだろう。
江戸時代に入って、泰平が続くにつれてようやく形状に変化を示し台に漆を塗ったり、竹皮や籐の表を付けたり、鼻緒に天鵞絨(てんがじゅう。ビロード)を用いたりと、着物とともにお洒落を意識したものになる。
一木作りの下駄には、江戸初期に今の下駄の直接の祖先にあたる杉製で差歯、角型。台の下をひし形に刳りぬいてあるために歩くと馬の蹄のような音がしたという「馬下駄」が現れるが、この「馬下駄」をさらに進化させ雨天だけではなく晴天にも履ける日和下駄である「駒下駄」の現れた元禄以降においては、広く男女の平装として用いられれるようになり、下駄の発達は最も著しいものがあったようだ。
そして、世俗が遊惰となるにしたがって様々なものが現れた。安永天明の頃には、世の女性だけでなく、男性まで着物で踵をおおい、女性のように塗下駄を履いて、流し歩くようになったことから、一段と下駄の需要が増加したという。
こうした下駄の大衆化にともなって、流行の先端を行く通人の間では、同じ下駄の好みながらも一般の者とはいささか好みを異にしたようだ。
だが、一般の人たちが普段に下駄を履くということは未だ数は限られていたようで、文政一年に刊行された『江戸買物独案内』には、草履屋や雪踏屋(竹の皮の草履の裏に獣の皮をつけた履物)は記載されているが、下駄屋という専門店は一軒もない(※18参照)。
履物はこのころ草履.雪踏が一番多く履かれていたということができる。一般に都会では幕末までは草履が主であったし、地方ではほとんど自給していたようだ(※19参照)。
下駄も足駄も江戸では男子は角形を専用し、京都、大阪は高低ともに下駄、あるいは差下駄(差し歯の下駄)といい、また男女ともに丸形を専用していたが、江戸では、女性用は丸形であった。差し歯の高さによって京差しと大阪差しがあり、歯の高さが、三寸三〜四分が京差しで、二寸二分が大阪差しであった。そして、大阪差しより低い物を日和下駄と言ったようだ。
江戸時代後期の天保年間に斎藤月岑が刊行した鳥瞰図を用いた江戸の名所図会(地誌紀行図鑑)『江戸名所図会』(7巻20冊、斎藤長秋 編輯)は、長谷川雪旦の挿図も有名である。

上掲の画は『江戸名所図会』の下駄屋の図である。原寸大拡大図はNo49参照)。
この『江戸名所図会』の書かれた江戸後期には、下駄屋も出来ていたようだ。
下駄新道、神田鍛冶町の西の裏通りなり。『七十番職人歌合』のなかに月をよめる 足駄作 「山風の落ちくる露のふる足駄かたはれ月は木の間 なりけり」親長卿とある。
親長卿とは『親長卿記』(甘露寺 親長作)であり、「画中詞」はこの中で詠まれている歌なのか?
鍛冶町二丁目には鍛冶職人の屋敷だけでなく、下駄の製作・販売にたずさわる職人や業者が集まっていた「下駄新道(げたじんみち)」と呼ばれる裏通りがあった(※21)が、その下駄を作っている店の様子を描いている。 この当時になると下駄屋は原材料を加工するだけでなく鼻緒も販売し下駄の修理や歯入れも営んだようだ。
右手から、太刀を持った男性2人が走ってくる。この刀は、相模の大山参りに行き、刀を奉納するようだ(※22参照)。この鍛冶町二丁目界隈は、金物のなかでも、とくに刀や薙刀といった打物(打ち合って戦うための武器)を扱う業者が多かったのが特徴だったようだ。
男性は、裸足であるが、当時では、まだ、村・漁村・山村などでは、裸足が普通だったようで、特別な時以外は履物は使わなかったようである。絵の中で塗られている下駄は、「こっぽり」、後には、「ぽっくり」と呼ばれたもののようである。

文明開化・洋風化が掲げられていたとはいえ、明治はまだまだ江戸の風俗を色濃く残していた。
明治34年に警視庁から「跣足(裸足)禁止令」が出され、東京市内においてペスト防止の為に自分が住んでいるところを除いては裸足で歩いてはならないと定められた。
それまでは、まだまだ裸足の生活が多く、特に子供ははだしで遊んだ。大人でも車夫・馬丁・車力その他の職工などの労働者の社会では、裸足で市中を往来する者も多く、特に雨のときなどは、丁稚小僧が裸足になって歩いたり、一般の大人でも雨が降れば尻はしょりの裸足姿になって往来を歩く者が多かった。警視庁は、これを野蛮の風習としてペスト防止を理由に取締りの対象とし、禁止するようになったもの(※23参照)。
一般市民の間で誰もが履物を履くことが一般的になってゆくのは、この禁止令があって以降のことであったのだ。
下駄の歴史や下駄の種類など以下参考の※24日本の履物下駄」が分かりやすいので覗かれるとよい。

「人並はずれて丈(せい)が高い上にわたしはいつも日和下駄をはき蝙蝠傘を持って歩く。いかに好(よ)く晴れた日でも日和下駄に蝙蝠傘でなければ安心がならぬ。これは年中湿気の多い東京の天気に対して全然信用を置かぬからである。変りやすいは男心に秋の空、それにお上の御政事(おせいじ)とばかり極(きま)ったものではない。春の花見頃午前(ひるまえ)の晴天は午後(ひるすぎ)の二時三時頃からきまって風にならねば夕方から雨になる。梅雨の中(うち)は申すに及ばず。土用に入(い)ればいついかなる時驟雨(しゅうう)沛然(はいぜん)として来(きた)らぬとも計(はか)りがたい。尤(もっと)もこの変りやすい空模様思いがけない雨なるものは昔の小説に出て来る才子佳人が割(わり)なき契(ちぎり)を結ぶよすがとなり、また今の世にも芝居のハネから急に降出す雨を幸いそのまま人目をつつむ(ほろ)の中(うち)、しっぽり何処(どこ)ぞで濡れの場を演ずるものまたなきにしもあるまい。閑話休題(それはさておき)日和下駄の効能といわば何ぞそれ不意の雨のみに限らんや。天気つづきの冬の日といえども山の手一面赤土を捏返(こねかえ)す霜解(しもどけ)も何のその。アスフヮルト敷きつめた銀座日本橋の大通、やたらに溝(どぶ)の水を撒(ま)きちらす泥濘(ぬかるみ)とて一向驚くには及ぶまい。
 私はかくの如く日和下駄をはき蝙蝠傘を持って歩く。」
(永井荷風『日和下駄』より抜粋)
永井荷風は1915(大正4)年に、江戸の名残を求めた散策を主題として書いた随筆『日和下駄』を発表。その本文冒頭部分からの抜粋である(※25の青空文庫参照)。
永井は序文で、「東京市中散歩の記事を集めて『日和下駄』と題す。そのいはれ本文のはじめに述べ置きたれば改めてここには言はず。」とあり、その部分を抜粋したもの。

上掲の画像は、『日和下駄』への永井自身による挿絵である。
永井荷風、が蝙蝠傘を持って、下駄をカラコロ鳴らしながら散歩している。絵で見る限り、永井が履いている下駄は随分と歯の高いものである。「日和下駄」は、 足駄(雨天用)に対する意味でこの名がある。時期によって定義はいろいろとあるが、男物の場合は角形で台は桐(糸柾目が高級品)、長さ七二〜三(女物は五分ほど短い)。歯は二寸二分程度がふつうで(大阪差し)、これを三寸三〜四分にすると(京差し)、足駄(高足駄)というようになる。
永井は上記本文冒頭にもあるように、突然の雨に遭遇することや泥濘を期にせず歩くことを前提に蝙蝠傘を片手に下駄を履いており、それは足場の悪いところを歩くのに都合の良い高足駄・・・現在の高下駄に相当するものだろう。
バンカラ旧制高等学校生徒が履いていたのもこの種の下駄である(朴歯の高下駄)。マント、弊衣破帽、高下駄が 高校生のシンボルとされていた。

下駄を鳴らして奴が来る
  腰に手ぬぐいぶらさげて
  学生服にしみ込んだ
  男の臭いがやってくる
「我が良き友よ」 (唄: かまやつひろし、作詞・作曲:吉田拓郎)の歌詞一部。
1975((昭和50)年に発表したかまやつひろしの代表曲「我が良き友よ」の歌詞に出てくるバンカラな大学生は作詞・作曲をした吉田拓郎の大学時代の同級生がモデルだそうである。
戦後の子供の半数ぐらいは学校へ行くとき以外下駄を履いていたと記憶している。私も下駄の愛好者で今も下駄は2足、雪駄を2足持っている。
私の家は商売をしていたので駅に近い商店街の一角にあったので同じ町内に大きな下駄屋があって繁盛していた。
小学校高学年頃からは高下駄(当時書生下駄と呼ばれていた)が大好きだったので、どこへ行くのも書生下駄。家の裏山や時には神戸の布引の滝なども書生下駄で登っていたので仲間がびっくりしていた。
「一本歯下駄(高下駄)」は、天狗や修験者が履くイメージが強いが、二本歯でも丈夫な歯の高下駄の場合一本歯下駄と同じように1本の歯を使って登れば割と楽に登れたのが自分でも新発見であり驚いたのを思い出す。
私は若いころから和服が好きで、それで下駄や雪駄も揃えたのであるが、もう、着物は着なくなって久しく、浴衣のようなものでさえ着なくなっので、下駄は、箱に詰め込んだままの状態である。今は、作務衣を愛用しているので雪駄は重宝している。
しかし、素足で履く下駄は雪駄より気持ちが良いのだが、大きすぎて嵩(かさ)が高く邪魔なのである。若い時のように、書生下駄が履きたいのだが、歳をとった今、ちょっと恥ずかしいし、少し小高いところに住んでいるので転ぶ危険性もあるのでもう無理だ。
足を締め付ける靴などと違って裸足で履ける下駄は開放的でとても気持ちが良いものだ。これからの蒸し暑い夏など最高なのだが・・・・。

参考:
※1:日本記念日協会
http://www.kinenbi.gr.jp/
※2:木のメモ帳:木の雑記帳
http://www.geocities.jp/kinomemocho/index.html
※3広島県はきもの協同組合
http://www.e-hakimono.com/
※4:米穀機構米ネット1-3 伝わったのは縄文時代の終わりころ
http://www.komenet.jp/bunkatorekishi01/112.html
※5:田下駄(たげた):水資源機構 - 独立行政法人 水資源機構
http://www.water.go.jp/honsya/honsya/referenc/siryou/dougu/19.html※6:教育出版 - Q3 田下駄 はどのように使っていたの?
https://www.kyoiku-shuppan.co.jp/view.rbz?nd=1991&ik=1&pnp=100&pnp=108&pnp=198&pnp=1991&cd=760
※7:田下駄の名称をめぐって −猪苗代湖周辺のナンバを 中心に
http://klibredb.lib.kanagawa-u.ac.jp/dspace/bitstream/10487/11951/1/10%20%E5%9B%BD%E9%9A%9B%E5%B8%B8%E6%B0%91%E6%96%87%E5%8C%96%E7%A0%94%E7%A9%B6%E6%A9%9F%E6%A7%8B%E5%B9%B4%E5%A0%B12.pdf#search='%E7%94%B0%E4%B8%8B%E9%A7%84+%E3%83%8A%E3%83%B3%E3%83%90'
※8:デジタルミミュージアム『分野』で選ぶ:むかしの道具:どうぐいちらん:(千葉県立中央博物館 大利根分館)
http://www.chiba-muse.or.jp/DM/index.php?fid=8 
※9:万葉集7番歌「秋の野の歌」について 其の三
http://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/4e47a852285917e27fbce2999803c967
※10:万葉集検索システム巻物形式表示3399 - 山口大学
http://infux03.inf.edu.yamaguchi-u.ac.jp/~manyou/ver2_2/panorama/makimono.html?kekka=3430
※11: MBS上野誠の万葉歌ごよみ:【巻】14・3399…信濃路は今の墾道
http://www.mbs1179.com/podcast/p0877/archives/31314.shtml
※12:訓読万葉集
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/manyok/manyo_k.html
※13:ほつまつたゑ 解読ガイド
http://gejirin.com/
※14:原文『枕草子』全巻
http://www.geocities.jp/rikwhi/nyumon/az/makuranosousi_zen.html
※15:鏡山古墳
http://www.isekiwalker.com/iseki/108546/
※16:履物概説
http://members3.jcom.home.ne.jp/pehota02/equipment/foots/foot01.htm
※17:東京国立博物館情報アーカイブ-職人尽歌合(七十一番職人歌合)(模本)
http://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0017469>http://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0017469>http://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0017469
※18:江戸買物独案内について
http://homepage1.nifty.com/saga-t/kappa/watashi/kaimono/kaimono-index.html
※19:下駄の歴史
http://homepage2.nifty.com/miyuki-honpo/getanorekisi.htm
http://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0017469
※20:江戸名所図会. 巻之1-7 / 斎藤長秋 編輯 ; 長谷川雪旦 画図(早稲田大学図書館)
http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/bunko10/bunko10_06556/bunko10_06556_0001/bunko10_06556_0001.html
※21:鍛冶町二丁目 - 千代田区役所
https://www.city.chiyoda.lg.jp/koho/bunka/bunka/chome/yurai/kaji-2.html
※22:画展518号
http://toki.moo.jp/gaten/501-550/gate518/gate518.html
※23:1.明治・大正ペスト騒動
http://www2.odn.ne.jp/nihonsinotobira/jiyuu1.html
※24:永井荷風 日和下駄 一名 東京散策記 - 青空文庫
http://www.aozora.gr.jp/cards/001341/files/49658_37661.html
日本の履物下駄
http://homepage2.nifty.com/miyuki-honpo/index.htm
丸屋履物店-サイトマップ 
http://www.getaya.org/sitemap.html
ぞうりの文化史
http://www.zouri.or.jp/hanasi/bunkasi.htm
下駄 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8B%E9%A7%84>

Piknikの日

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日本記念日協会(※1)に登録の07月29日の記念日に「Piknikの日 」がある。
制定したのは飲料ブランドの「Piknik(ピクニック)」を発売する森永乳業(株)(※2)。「Piknik」は森永乳業が1981(昭和56)年から発売している箱型紙容器に入った乳飲料で、ストロベリー、フルーツ、ヨーグルト テイスト、カフェ・オ・レ、コーヒーなどの製品があり、紙パック飲料ながら、未開封の場合、常温状態で賞味期限が製造日から90日という長期保存が可能。日付は29日を「Piknik」の語尾のニック と読む語呂合わせから。親しみやすい飲み物なので毎月の29日を記念日とした。…という。

「僕たち飲むならピクニック」のキャッチコピーで知られる。1990年代ごろからタレントを起用し、これまでに観月ありさ、有村美波、小川那奈、乙葉、蒲生麻由、かわい綾、井原慶子、V6の岡田准一などが出演している。又、CMソングには、以下のようなものがある。いずれもいい曲だ。
1986年 ジョセフ・ウィリアムズの「MY ONE」↓
Joseph Williams - My One - YouTube
1989年 スターダストレビューの「夏のシルエット」↓
スターダスト・レビュー 夏のシルエット 動画 PV 視聴 | Youtube
1997年 D&Dの「SUNSHINE HERO」↓
SUNSHINE HERO - D&D - 歌詞・動画 : 歌ネット

D&D(ディー・アンド・ディー)は、沖縄アクターズスクール出身の3人組(OLIVIA、Aya、Chikano)の女性アイドルグループで、1996(平成8)年から1999(平成11)年にかけて活動。1997(平成9)年6月、3枚目のシングル『SUNSHINE HERO』が、森永「Piknik」のCMソングとなり、グループとして自らCMにも出演。
OLIVIA(オリヴィア)(本名: オリヴィア・ラフキン)は父親がアメリカ人で母親が日本人のハーフであり、日本語があまり話せないということもあって『LOVE IS A MELODY』(1996年)でテレビ番組に出演するようになった最初の頃は、Aya(アヤ:本名: 上原あや)が3人のセンターに立って歌っていた。
D&D - LOVE IS A MELODY-You Tube

しかし、出演を重ねる間に、メインボーカルであるOLIVIAがセンターに立つようになった。同年、OLIVIAがサッカー・FIFAワールドカップフランス大会の公式アルバムで、小室哲哉ジャン・ミッシェル・ジャールプロデュースの『TOGETHER NOW』にボーカルとして参加。
"TK" KOMURO - TOGETHER NOW - YouTube

この頃からOLIVIAがグループとは別に活動するようになり、残ったAyaとChikanoで、Aya&Chika from D&D 名義での初のシングル『Kiss in the Sun』を発売している。1999(平成4)年2月に、 OLIVIAは、シングル『I.L.Y. 〜欲望〜』でソロデビューした後、自分自身の曲を表現したい為セルフプロデュースを開始するようになる。D&Dは、歌もダンスも上手い突出した実力を備えたユニットだっただけに、Oliviaが抜けてすぐに活動休止となってしまったのがファンなどには残念だったろうね〜。

話変わって、本来のピクニック(Picnic)とは、屋外に出て野山や海岸などの自然豊かな場所に出かけていき、食事をすること。語形としてはpique‐nique(フランス語)が古いが、語源は諸説あって不明らしい。元来は「持ち寄りの宴会」を意味したようだ。
このピクニックの風習は、ヨーロッパの貴族たちの社交場として始まったという。Wikipediaには、狩猟遊びで栄えたとあるが、当時、ヨーロッパの貴族たちにとって狩猟遊びが、屋外での社交場でもあったのだろう。その当時は配膳などに使用人を配するなど、戸外で食事をすることに贅(ぜい)をこらして楽しむ傾向が見られたようだ。
●以下に掲載の画像は貴族のピクニックの様子。15世紀の図版らしい(Wikipediaより)。

使用人たちのほか、左下には猟犬もおり、大所帯で戸外に繰り出している様子がうかがえる。
いつしかピクニックの風習は欧米に広がり、大衆化する過程で簡略化され、家族やカップルないし遊び仲間など少人数で楽しむ際に、食器を使わないでも食べられる簡便な、それでいて「食べる」という娯楽性を付与した食事が供されるようになった。
交通機関やモータリゼーションの発展、公園や公共空間の整備などに伴い、気軽に自然環境の豊富な郊外に出かけることが可能となり、一般のライフスタイルに浸透していった。
食事では、主に弁当・サンドイッチ・果物などの運搬性の良い食べ物を持って行き、自然に親しみながら遊ぶ。これらの遊びはスポーツなどの本格的なものではなく、軽く体を動かす程度(散歩を含む)で、これは専ら「食後の軽い運動」程度にとどめられる。
似たような行楽には、ハイキングがあるが、こちらは「てくてく歩く」という意味あいがあるようで、行楽地まで徒歩で移動することのほうに主体がある。ピクニックではその移動の距離や過程は重要視されず、より純粋に戸外で食事や行楽をすること(パーティー【party】)に重点が置かれている。
日本の「花見」などもピクニックの一つであろう。
ピクニックというと私などの年代の者は、ウィリアム・ホールデンキム・ノウ゛ァク共演のアメリカ映画『ピクニック』(1955年)を思い出す。

9月初旬の労働の日(レイバーデイ)に催されるピクニックを前に、湧き立つアメリカ中西部の小さな町。
町をあげてのピクニックの朝、貨車から降りた無一文の流れ者ハル(ホールデン)は、旧友アランを頼ってやって来たのだが、沿線沿いにあるポッツ家の庭仕事を手伝うことでやっと朝飯にありつく。
半裸で庭仕事を手伝うハルに目を見張る女ばかりの隣家。ピクニックに興じるうち、次女ミリーがハルに夢中になる。しかし、夜のダンス・パーティーをきっかけにハルの心を射抜いたのは友人の婚約者で町一番の美人でもある長女のマッジ(キム・ノウ゛ァク)だった。しかし、ハルはマッジを愛するアランに自動車泥棒の疑いをかけられて町を出ることになる。
それぞれの生活を抱えた人々が年に一度のピクニックにうきうきと繰り出し、また元の生活に帰っていく。カンザス州の田舎町を舞台に若い二人が駆け落ちするまでのたった一日のできごとを描いている。風物詩的な味をもち、恋心の甘さと苦さをにじませた名編だ。
その中で、ベニー・グッドマン(Benny Goodman)の名曲『ムーングロウ(Moonglow)』のスローな「スウィング」に乗って踊り出すマッジ役のキムノウ゛ァクの踊りが印象的だった。
また二人が踊るロマンチックなダンスシーンは周囲の人達も溜息を漏らすほどのもので、この映画のハイライトでもあった。舞台出身のジョシュア・ローガンの傑作であり、ゴールデングローブ賞 監督賞を受賞。この映画では、アカデミー賞美術賞、編集賞も受賞している。以下でその感動的なダンスシーンが・・・。
Picnic (1955)
映画の流れ全体は以下がよくわかる。
PICNIC (1955) original TRAILER

このピクニックの夜の雰囲気、今ではなく、かってあった良き時代、私たちがまだ青年の頃の日本の夜桜の雰囲気などとよく似ている。
私の住んでいる神戸の源平合戦ゆかりの須磨寺横の大きな池のある公園(須磨寺公園)は伊藤博文も兵庫県知事時代には花見に来たこともある明治の頃からの桜の名所。この公園の大池の周囲は落ち着いた雰囲気で夜桜には最適であった。
シーズンになると池の前の提灯の薄明かりに照らされた桜の前で多くの花見客が、茣蓙(ござ)を広げて楽しく談笑しながら会食をしていた。場所によっては、野点のようなこともしていたし、三味線や太鼓に合わせて歌を歌を歌ったり、踊りを舞っている人もいたし、盆踊りの様に小さな輪を作って踊っている人もいた。
三味線などなくても、酒がすすんで来ると手拍子で一緒に歌を歌ったりしていたが、最近の花見などで見られる様な、混雑した人ごみの中での焼肉の臭い匂いと煙を撒きちらしながらのバーベキューや、騒々しいカラオケの使用などはなかったので、わりと静かに粛々と陽気で明るい雰囲気であった。
神戸には勧告人の方も多く済んでいるが、その人たちも毎年決まって同じ場所で花見をしている人たちが居り、アリランなどの歌を歌いながら陽気に踊っていたが、私達日本人も参加して、一緒に楽しく踊っていたものだ。
昔はごく一部の酔っ払い以外の普通の人は、先ず人に迷惑をかけないよう気を使い、節度ある行動をしていたが、自分勝手な人の多くなった今日この頃は、傍(はた)迷惑な行動を平気でする人が多くなり、折角の楽しいはずの場が鬱陶しい雰囲気になってしまったので、最近は花見にもゆかなくなった。

アメリカ映画の『ピクニック』でも一人酒を飲んで荒れていたおばちゃんがいたが、このような場では、人に迷惑をかけないようマナーには十分気を付けてもらいたいものだ。
暑い盛りの京都・祇園祭や、大阪天神祭に欠かせない魚が「(はも)」。 鱧は梅雨の雨を飲んで旨く なると言われており、梅雨の明ける7月になると脂が乗り始め旬となる(※3)。
関西では京都大阪だけではなく神戸でも夏に欠かせない味覚として喜ばれる。
それで、今年は、私たちも暑い最中、夕刻から京都へ鱧料理を食べに出かけた幸い、神戸からは京都までは、阪急電車を使えば1時間少々で行ける。食後に、嵐山鵜飼を見て帰ってきた。

●上掲の画像は、鱧料理の一品鱧の薄造り。

夜に1時間ほど鵜飼を見に行ったと言っても、鱧料理を食べることの方が主目的だったので、これはピクニックの一種ともいえるかもしれない。しかし、ピクニックとしては、やはり暑い夏より、涼しくなった秋がいいね〜。
夏はおとなしく家で休養し、ピクニックには秋に出かけましょう。
今年の夏は昨年ほどではないとはいえ、平年よりは相当厳しいようなので、私も、明日から8月一杯はこのブログもお休みしようと思います。
みなさんも熱中症や、食あたりなど気を付けて暑い夏元気に乗り切ってください。
9月にまた来てください。よろしくお願いします。
最後に嵐山での鵜飼の写真を1枚おいて行きます。下手な写真ですがほんの一服の冷となればよいのですが・・・。


○冒頭の画像は、フランス印象派の画家マネの代表作『草上の昼食』(制作年:1862年–1863年)は、女性が脱いだ服を左下のピクニックの持ち物の中に配置する事によって、「現実の裸体の女性」を描いたことが「不道徳」とされ1863年のサロン(salon。フランスの官展)に出品したが落選となったもの。Wikipediaより。
参考:
※1:日本記念日協会
http://www.kinenbi.gr.jp/
※2:森永乳業
http://www.morinagamilk.co.jp/
※3:ハモ - 日本の旬・魚のお話
http://www.maruha-shinko.co.jp/uodas/syun/5-hamo.html
ピクニック - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%94%E3%82%AF%E3%83%8B%E3%83%83%E3%82%AF

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11月01日(記)・ キティーちゃんの誕生日本格焼酎の日 ・犬の日
11月01日(行)・顔見世  
11月01日(歴)・「トイレットペーパー騒動」が起こった日ラジオ体操第一が放送開始された日

11月02日(記)・阪神タイガースが2リーグ化後初の日本一になった日 ・万霊節
11月02日(記)・ベーブ・ルースらアメリカ大リーグ選抜野球チームが来日した日
11月02日(人) ・白秋忌、北原白秋 (詩人,歌人,童謡作家) の忌日

11月03日(記)・ゴジラの日 ・文化の日レコードの日 ・いいレザーの日 
11月03日(人)・「恋はみずいろ」や「オリーブの首飾り」で知られるフランスの作曲家ポール・モーリアの忌日
11月03日(行)・「十三夜 」

11月04日(記)・ユネスコ憲章記念日
11月04日(人)・第19代首相原 敬の忌日
服部半藏正成 (武将,伊賀忍者の指導者)の忌日
11月04日(暦)・テネシー・ウィリアムズによる戯曲『欲望という名の電車』が初演された。

11月05日(記)・雑誌広告の日 ・電報の日いい5世代家族の日
11月05日(行)・文化功労者顕彰式がおこなわれる日
11月05日(歴)・「稲むらの火」村民を救う
11月05日(ひ)・自縄自縛内閣

11月06日(記)・お見合い記念日 ・お見合い記念日Part?アパート記念日 
11月06日(人)・『南総里見八犬伝』の作者瀧澤馬琴(曲亭馬琴)の忌日

11月07日(記)・知恵の日鍋の日 ・いい女の日
11月07日(人)・荒木又衛門「鍵屋の辻の決闘」  
11月07日(歴)・日本初の遠洋航路「神戸〜ボンベイ」の第一便が出港 した日       
11月07日(歴)・帝国議会議事堂(現在の国会議事堂)が落成した日

11月08日(記)・刃物の・レントゲンの日 ・信楽たぬきの日
11月08日(人)・漫画家横山隆一 の忌日   
11月08日(行)・立冬

11月09日(記)・太陽暦採用記念日 ・ベルリンの壁崩壊の日 ・119番の日
11月09日(人)・イブ・モンタン(Yves Montand)の忌日

11月10日(記)・トイレの日エレベーターの日断酒宣言の日
11月10日(人)・昭和のマルチタレント・森繁久弥の忌日 ・漫画家・はらたいらの忌日
11月10日(歴)・皇紀2600年祝賀式典
11月10日(歴)・天皇在位60周年記念硬貨(10万円金貨等)が発行された日

11月11日(記)・くつしたの日,ペアーズディ,恋人達の日煙突の日
11月11日(記)・世界平和記念日
11月11日(人) ・ピーナッツの日

11月12日(記)・洋服記念日 
11月12日(人)・「心平忌 」、「蛙の詩人」と呼ばれる草野心平の忌日 
11月12日(歴)・ NHK朝のテレビドラマ「おしん」が瞬間最高視聴率62.9%を記録した日 
11月12日(歴)・極東軍事裁判で25人の戦犯に有罪判決があった日

11月13日(記)・うるしの日
11月13日(人)・サトウハチロー の忌日 ・豊田四郎 (映画監督『夫婦善哉』)の忌日
11月13日(人)・ヴィットリオ・デ・シーカ (伊:映画監督『自転車泥棒』) の忌日
11月13日(人)・ プロ野球で活躍した鉄腕・稲尾和久の忌日

11月14日(記)・パチンコの日ウーマンリブの日盛人の日世界糖尿病デー
11月14日(人)・金田一京助(言語学者)」の忌日 
11月14日(歴)・宮崎県木城町に武者小路実篤が推進する「新しき村」が開村した日

11月15日(記)・いい遺言の日のど飴の日
11月15日(記)・着物の日 ・かまぼこの日
11月15日(行)・七五三 

11月16日(記)・幼稚園記念日 ・いいいろの日自然薯の日
11月16日(人)・俳優・中谷昇の忌日
11月16日(歴)・大阪に梅田コマスタジアムが開場した日

11月17日(記)・将棋の日 ・蓮根の日 ・肺がん撲滅デー 
11月17日(歴)・日本のプロ野球で、第1回ドラフト会議が開かれた日
11月17日(歴)・「養老の滝」命名因んで元号を養老に改元した日

11月18日(記)・ミッキーマウスの誕生日 ・もりとふるさとの日  
11月18日(記)・土木の日 ・自転車安全日 
11月18日(歴)・第1回東京国際女子マラソンが開催された日

11月19日(記)・ペレの日緑のおばさんの日
11月19日(人)・俳諧師・小林一茶の忌日
11月19日(人)・歌手・松島詩子(「マロニエの木蔭)の忌日 

11月20日(記)・ホテルの日 ・「世界のこどもの日(Universal Children's Day)」 
11月20日(記)・ピザの日 ・毛皮の日 ・いいかんぶつの日 
11月20日(行) 第一回神戸マラソン開催 
11月20日(歴)・日本で初めての競輪が小倉市で開催された日 

11月21日(記)・インターネット記念日 ・フライドチキンの日
11月21日(記)・早慶戦の日 ・かきフライの日
11月21日(歴)・東京・木挽町(現在の東銀座)に歌舞伎座が開場した日

11月22日(記) ・いい夫婦の日 ・大工さんの日ボタンの日
11月22日(記) ・長野県りんごの日 ・ペットたちに「感謝」する日
11月22日(ひ)・紅葉狩り

11月23日(記)・「勤労感謝の日(Labor Thanksgiving Day)」手袋の日  
11月23日(記)・外食の日
11月23日(人)・女流小説家樋口一葉の忌日

11月24日(記)・オペラ記念日 ・鰹節の日11月24日(記)・東京天文台設置記念日
11月24日(歴)・山一證券が戦後最大の負債総額3兆円を抱え自主廃業を決定
11月24日(ひ)・東雲 ・飛ばし

11月25日(記)・OLの日  
11月25日(人)・「憂国忌」小説家・三島由紀夫の忌日 
11月25日(歴)・福澤諭吉が『学問ノスゝメ』の最終刊・第17篇を刊行 
11月25日(歴)・毛利元就が息子の毛利隆元・吉川元春・小早川隆景に14箇条の遺訓(三子教訓状)を記す(歴)

11月26日(記)・ペンの日
11月26日(人)・第43代横綱: 吉葉山 潤之輔の忌日 
11月26日(人)・俳優・島田正吾(『一本刀土俵入』) の忌日
11月26日(歴)・宇宙戦艦ヤマトが太陽圏を脱出した日(架空) 
11月26日(歴)・ツタンカーメン王の黄金の棺が発見された日
11月26日(歴)・沖ノ鳥島をコンクリートで保全 

11月27日(記)・ノーベル賞制定記念日 ・いい鮒の日
11月27日(歴)・皇太子明仁親王(今上天皇)と正田美智子さんの婚約が発表 された。
11月27日(歴)・池田勇人通産相が衆議院で「中小企業の倒産・自殺もやむを得ない」と発言した日(歴)

11月28日(記)・税関記念日 ・太平洋記念日?税関記念日
11月28日(人)・「親鸞 (浄土真宗の開祖)」の忌日
11月28日(歴)・鹿鳴館が落成した日 
11月28日(歴)・東京・青山に日本初のスーパーマーケット、紀伊国屋が誕生した

11月29日(記)・議会開設記念日 ・いい服の日 ・ いい肉の日
11月29日(歴)・「大韓航空機爆破事件」のあった日 
11月29日(歴)・「金属バット殺人事件」の有った日

11月30日(記)・シルバーラブの日 ・鏡の日 
11月30日(記)・カメラの日みその日
11月30日(歴)・「ララ物資」第一便が横浜港に到着した日



































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カテゴリー
(記)=記念日 (人)=人物 (行)=行事 (歴)=歴史 (ひ)=ひとりごと

08月01日(記)・水の日
08月01日(行)・ 八朔。田の実の節句
08月01日(歴)・クレオパトラが毒蛇に胸を噛ませて自殺した日

08月02日(記)・ ホコ天記念日 ・ パンツの日 ・ 博多人形の日
08月02日(ひ)・ 近畿、最も遅かった梅雨明けを更新 

08月03日(記)・ ハモの日 ・ ハサミの日
08月03日(歴)・ アメリカ海軍の原子力潜水艦『ノーチラス』が、が世界ではじめて潜航状態による北極点通過を果たした日

08月04日(記)・ ビアホールの日  ・ 箸の日 ・ ビアホールの日:パート?

08月05日(記)・ ハンコの日 ・ タクシーの日
08月05日(歴)・ 鐘匱(かねひつ)の制により朝廷が、国民の直訴を受附ける投書箱を設置した 

08月06日(記)・ 広島平和記念日,広島原爆忌  ・ 雨水の日 ・ 太陽熱発電の日
08月07日(記)・ 鼻の日 ・ バナナの日 ・ 花の日

08月08日(記)・ ヒゲの日  ・ そろばんの日 ・ プチプチの日

08月09日(記)・ ムーミンの日 ・ はり(鍼)・きゅう(灸)・マッサージの日
08月09日(歴)・ 自民党が破れ「 細川内閣」が成立した日 

08月10日(記)・ 道の日 ・ 宿の日 ・ 健康ハートの日

08月11日(記)・ ガンバレの日 ・ めんの日〔毎月〕
08月11日(人)・ 初代三遊亭圓朝 (落語家『牡丹燈籠』)の忌日 

08月12日(記)・ 君が代記念日 ・ 航空安全の日、茜雲忌 
08月12日(歴)・ 終戦直後に経済安定本部と物価庁が設置された日

08月13日(記)・ 函館夜景の日 ・ 女神ヘカテに捧げる日
08月13日(歴)・ 日本初の国際水泳競技会が開かれた日


08月14日(歴)・ 御前会議で「ポツダム宣言受諾」を決定 ・ ニューヨークを含む北アメリカ東北部で大規模停電発生
08月14日(歴)・ 総務庁が1世帯あたりの人数が初めて3人を下回ったと発表した日

08月15日(記)・ 終戦記念日 ・「全国戦没者追悼式」の日 ・ 刺身の日

08月16日(記)・ 女子大生の日 
08月16日(行)・ 「盆送り火」(月遅れ)の日 ・「五山送り火」の日 

08月17日(人)・「蕃山忌」陽明学者・熊澤蕃山の忌日 ・ 映画俳優・佐田啓二 の忌日

08月18日(記)・ 高校野球記念日 ・ 米の日
08月18日(人)・ 豐臣秀吉(木下藤吉郎,羽柴秀吉)の忌日

08月19日(記)・ 俳句の日 ・ バイクの日
08月19日(人)・ 盗賊・鼠小僧次郎吉 の忌日

08月20日(記)・ 交通信号の日,三色信号設置の日 ・ 蚊の日
08月20日(人)・ 歌人・藤原定家(「小倉百人一首」の撰者)年の忌日

08月21日(記)・ 献血記念日 ・ 噴水の日
08月21日(歴)・ 第88回全国高等学校野球選手権大会決勝で、早稲田実業が初優勝を飾った日

08月22日(記)・ チンチン電車の日
08月22日(人)・ 「藤村忌」詩人・小説家・島崎藤村の忌日・ 松の門 三艸子(歌人,芸者「千人信心」)の忌日

08月23日(記)・ 白虎隊の日
08月23日 (行)・ 地蔵盆
08月23日(歴)・ NHKテレビがプロ野球ナイターを初めて実況中継した日

08月24日(記)・ 愛酒の日 ・ 大噴火の日、ポンペイ最後の日 ・ ラグビーの日

08月25日(記)・ 即席ラーメン記念日 ・ サマークリスマス

08月26日(歴)・ 日本初の海洋気象台が観測事業を開始した日
08月26日(歴)・ 「24時間テレビ愛は地球を救う」を始めて放送した日(歴)黒澤明監督の映画『羅生門』が封切られた日 

08月27日(記)・『男は辛いよ』、寅さんの日
08月27日(人) ・「益軒忌」、儒学者・貝原益軒の忌日 ・ 京都画壇の美人画の第一人者上村松園の忌日

08月28日(記)・ 民放テレビスタートの日 ・ 気象予報士の日 ・ バイオリンの日

08月29日(記)・ ベルばらの日 ・ 文化財保護法施行記念日 ・ ケーブルカーの日

08月30日(記)・ 冒険家の日 ・ ハッピーサンシャインデー ・ 宿題チェックウィーク

08月31日(記)・ 野菜の日 ・ キティ台風が襲来した日
08月31日(歴)・ 北朝鮮が東部沿岸からテポドンを発射した日
08月31日(ひ)・ 奢(おご)れる人も久しからず 











































 



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カテゴリー
(記)=記念日 (人)=人物 (行)=行事 (歴)=歴史 (ひ)=ひとりごと

06月01日(記)・氷の日 写真の日気象記念日と「てるてるぼうず」伝説
06月01日(行)・衣更え(更衣・衣替え)
06月01日(歴)・ヤン坊マー坊天気予報が開始された日

06月02日(記)・裏切りの日路地の日
06月02日(歴)・平清盛が安徳天皇を奉じて福原に遷都した日

06月03日(記)・雲仙普賢岳祈りの日

06月04日(記)・ムシの日めんの日(ローメンの日)虫歯予防デー
06月04日(歴)・江戸幕府が、人情本など好色本の出版を禁止
06月04日(歴)・東京招魂社が靖國神社と改称され、別格官幣社となった日(?・?)

06月05日(記)・熱気球記念日環境の日,世界環境デー(World Environment Day)
06月05日(歴)・池田屋騒動新美南吉の 童話「デンデンムシノ カナシミ」が発刊された日
06月05日(歴)・神戸大空襲の日

06月06日(記)・ほんわかの日コックさんの日
06月06日(記)・誕生花「ジギタリス」(和名は「キツネノテブクロ」)かえるの日
06月06日(記)・恐怖の日梅の日
06月06日(歴)・日本初とされるバラバラ殺人事件「鈴弁殺し事件」が発覚した日

06月07日(記)・プロポーズの日母親大会記念日
06月07日(人)・哲学の道・西田幾多郎の忌日

06月08日(記)・学校の安全確保・安全管理の日バイキングの日
06月08日(記)・大鳴門橋開通記念日


06月09日(記)・ネッシーの日ドナルドダックの誕生日
06月09日(人)・富樫政親(武将) の忌日
06月09日(歴)・油屋騒動〔?・?〕

06月10日(記)・時の記念日ミルクキャラメルの日路面電車の日
06月10日(人)・社会戯評漫画で活躍した横山泰三の忌日

06月11日(記)・国立銀行設立の日雨漏りの点検の日おかあちゃん同盟の日
06月11日(行)・入梅(にゅうばい)
06月11日(歴)・「ニコヨン」の言葉が出来た日

06月12日(記) ・日記の日恋人の日バザー記念日わんにゃんの日
06月12日(歴)・蘇我入鹿 (廷臣,蘇我蝦夷の子) が中大兄皇子らにより殺害された日

06月13日(記)・小さな親切の日お父さんの日
06月13日(人)・歌手・村田英雄(「王将」「人生劇場」)の忌日
06月13日(人)・女優 木暮実千代の忌日(人)・竹中半兵衞 (武将) の忌日

06月14日(記)・フラッグデー (アメリカ合衆国)
06月14日(人)・幕末最後の天皇「孝明天皇」の誕生日
06月14日(歴)・『五輪旗』が制定された日

06月15日(記)・信用金庫の日暑中見舞いの日お菓子の日
06月15日(記)・父の日生姜の日〔?・?〕

06月16日(記)・和菓子の日ユリシーズの日、ブルームズ・デー
06月16日 ・麦とろの日
06月16日(人)・東関親方(元関脇高見山)が定年を迎えた

06月17日(記)・おまわりさんの日砂漠化および干ばつと闘う世界デー
06月17日(歴)・首都高速道路公団が発足した日ゴー・ストップ事件のあった日

06月18日(記)・海外移住の日考古学出発の日にぎりの日
06月18日(人)・山本直純(指揮者,作曲家『男はつらいよ』) の忌日
06月18日(人)・マンガ家・横山 光輝(『鉄人28号』)誕生日 

06月19日(記)・朗読の日ベースボール記念日京都府開庁の日
06月19日(記)・ロマンスの日
06月19日(人)・桜桃忌、太宰の日、太宰治生誕祭
06月19日(歴)・理化学研究所設立

06月20日(記)・難民の日ペパーミントデー
06月20日(行)・「ダメ。ゼッタイ。」普及運動
06月20日(歴)・初の日本製映画が歌舞伎座で公開 された日
06月20日(歴)・二葉亭四迷長編小説『浮雲』の第一篇が刊行された日 

06月21日(人)・勝新太郎 の忌日川田晴久 (歌手、コメディアン) の忌日
06月21日(行)・夏の最中日北上の極:夏至
06月21日(歴)・外様大名の参勤交代を義務化した日

06月22日(記)・ボーリングの日かにの日ハピカジの日
06月22日(人)・滝沢修(俳優,演出家)の忌日
06月22日(人)・米国の俳優・ダンサー・フレッド・アステアの 忌日〔?・?〕

06月23日(記)・オリンピックデー
06月23日(人)・北天佑(元大関)の忌日 
06月23日(歴)・「宇宙開発事業団法」公布 の日スリの親分仕立屋銀次検挙される

06月24日(記)・ドレミの日キャラボの日
06月24日(人)・美空ひばり忌/林檎忌 
06月24日(歴)・米国アイダホ州で空飛ぶ円盤(UFO)目撃第1号があった

06月25日(記)・天覧試合の日住宅デーキューピーの日〔?・?〕
06月25日(歴)・上野駅で日本鉄道・上野〜高崎間の開業式を挙行した
06月25日(歴)・日本プロ野球史上初の天覧試合が行なわれた日) 
06月25日(ひ)・床屋さんのサインポール
06月26日(記)・雷記念日露天風呂の日オリエンテーリングの日 
06月26日(ひ)・メルヘン

06月27日(記)・女性雑誌の日演説の日日照権の日
06月27日(記)・ちらし寿司の日
06月27日(人)・ヘレン・ケラー・バースデー

06月28日(記)・貿易記念日パフェの日雨の特異日
06月28日(記)・ニワトリの日
06月28日(人)・芙美子忌  
06月28日(歴)・日本で初めて先進国首脳会議(東京サミット)が開催された日  
06月28日(ひ)・由美かおる水戸黄門降板

06月29日(記)・「星の王子さま」の日ビートルズ記念日 
06月29日(人)・「廉太郎忌」作曲家・滝廉太郎の忌日
06月29日(人)・松浦清山(随筆集『甲子夜話』)の忌日(人)

06月30日(記)・集団疎開(そかい)の日トランジスタの日 
06月30日(行)・夏越祓(なごしばらい)

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カテゴリー
(記)=記念日 (人)=人物 (行)=行事 (歴)=歴史 (ひ)=ひとりごと

07月01日(記)・童謡の日こころの看護の日国民安全の日
07月01日(人)・映画「ゴッドファーザー」などで知られる米国の俳優・マーロン・ブランド忌日
07月01日(歴)・「国産愛用週間」が初めて開催された日 
07月01日(ひ)・7月文月

07月02日(記)・たわしの日「ユネスコ加盟記念日」は、「一年の折り返しの日」

07月02日(行)・半夏生/蛸の日
07月02日(歴)・俳優・川上音二郎が神田三崎町に新派劇専門の「川上座」を開場した日
07月02日(歴)・金閣寺炎上

07月03日(記)・通天閣の日ソフトクリームの日みたらしだんごの日〔?・?]
07月03日(歴)・徳川吉宗が、「上げ米(あげまい)の制」を開始した日
07月03日(歴)・帝国人絹疑獄事件で斎藤実内閣総辞職 

07月04日(記)・梨の日
07月04日(人)・物理学者・マリー・キュリーの忌日
07月04日(歴)・日本初の『経済白書』を発表した日 

07月05日(記)・ビキニスタイルの日ノー・レジ袋の日穴子の日
07月05日(人)・榮西忌
07月05日(歴)・実写映画版「火垂るの墓」が公開された日  
07月05日(歴)・食糧危機の為、外食券食堂などを除く全国33万軒の飲食店に休業命令 が出た日

07月06日(記)・サラダ記念日ピアノの日公認会計士の日

07月07日(記)・竹・たけのこの日ゆかたの日恋そうめんの日・川の日〔?・?〕  
07月07日(行)・七夕
07月07日(歴)・日本で唯一の公式ホテル灯台が点灯を再開した日 
07月07日(ひ)・カエル七夕はカルピスの誕生日

07月08日(記)・ナンパの日質屋の日 
07月08日(行)・鬼子母神の縁日 
07月08日(ひ)・大阪道頓堀の飲食店「くいだおれ」と看板人形・太郎

07月09日(記)・ジェットコースターの日 ・泣く日 
07月09日(人)・「鴎外忌」小説家、戯曲家、軍医の森鴎外の忌日  
07月09日(人)・戦前戦後を通じて日本代表する女優・山田五十鈴の忌日

07月10日(記)・納豆の日ウルトラマンの日指笛の日潤滑油の日
07月10日(行)・四万六千日
07月10日(歴)・当時世界最大のタンカー「日章丸3世」が進水 した日

07月11日(記)・真珠記念日YS-11記念日
07月11日(記)・世界人口デー〔World Population Day〕

07月12日(記)・ラジオ本放送の日ローリング・ストーンズ記念日
07月12日(記)・日本標準時制定記念日 ・人間ドックの日
07月12日(人)・日本のゴッホ」、「裸の大将」と呼ばれた放浪のちぎり絵画家・ 山下 清の忌日
07月12日(歴)・ひかわ銅剣の日(歴)
07月12日(ひ)・選挙 

07月13日(記)・生命尊重の日オカルト記念日ナイスの日 

07月14日(記)・「パリ祭、フランス革命記念日検疫記念日内視鏡の日
07月14日(歴)・廃藩置県の日

07月15日(人)・ヌード画で裸体画論争を引き起こした 「黒田清輝 (洋画家)」の忌日 
07月15日(人)・浅草・凌雲閣「東京百美人」と洗い髪お妻 
07月15日(行)・「盆」「盂蘭盆会」
07月15日(歴)・2006(平成18)年の今日、33年ぶりにリメイクされた『日本沈没』が東宝系で上映された。

07月16日(記)・海の日(Marine Day)虹の日 
07月16日(人)・別府 観光最大の功労者と云われる油屋 熊八 誕生日
07月16日(行)・「閻魔賽日,十王詣の日」
07月16日(歴)・外国人力士の日
07月16日(ひ)・暑い夏、冷たいビールでもぐいっと飲みたいが・・・!

07月17日(記)・漫画の日「手塚治虫の忌日」
07月17日(人)・市川雷蔵 (眠狂四郎』)の忌日あじさい忌・石原裕次郎忌日
07月17日(人)・「細川ガラシヤ(細川玉=細川忠興夫人)」の忌日

07月18日(記)・二輪・自転車安全日
07月18日(人)・大河内伝次郎 (俳優『丹下左膳』) の忌日  
07月18日(歴)・光化学スモッグの日なでしこジャパンがドイツW杯で米国を破り、初の世界一に

07月19日(記)・北壁の日サイボーグ009の日   
07月19日(行)・「 土用 」の入り。夏本番
07月19日(歴)・二千円札が発行されて10年 ・戦後民主主義到来の日
07月19日(歴)・日本初の女性大臣誕生の日

07月20日(記)・Tシャツの日
07月20日(行)・大國魂神社「李子祭(すももまつり)」の日
07月20日(歴)・月面着陸の日
07月20日(ひ)・夏休み

07月21日(記)・自然公園の日神前結婚記念日家族ふれあいの日(Part 2)  

07月22日(記)・下駄の日ナッツの日下駄の日 
07月22日(人)・文筆家であり江戸風俗研究家・杉浦日向子の忌日 
07月22日(行)・土用の丑の日”蒲焼きの日?”  
07月22日(歴)・自民党分裂と総選挙敗北の責任をとり宮澤 喜一首相が退陣を表明 した日

07月23日(記)・文月ふみの日天麩羅の日国産小ねぎ消費拡大の日〔?・?) 
07月23日(行)・大暑 
07月23日(歴)・米騒動の日

07月24日(記)・劇画の日 
07月24日(人)・河童忌,我鬼忌,龍之介忌 
07月24日(歴)・宇野宗祐首相が、参院選惨敗と女性問題により退陣を表明した日

07月25日(記)・体外受精の日夏氷の日うま味調味料の日【味の素の日】 
07月25日(行)・大阪天神祭り・「船渡御の日」

07月26日(記)・幽霊の日日光の日
07月26日(歴)・イチローがイチローを超えた日

07月27日(記)・政治を考える日スイカの日コアラの日
07月27日(歴)・岩崎恭子が五輪競泳史上最年少金メダルリストとなった日

07月28日(記)・なにわの日乱歩の日なにわの日(Part 2) 

07月29日(記)・Piknikの日
07月29日(人)・フィンセント・ファン・ゴッホ(画家・ひまわり)の忌日
07月29日(人)・平清盛の嫡男「平重盛 の忌日」
07月29日(歴)・源義經の愛妾・静御前が安達新三郎の家で男子を出産するが、頼朝の命により溺殺される
07月29日(歴)・参議院選挙で自民党が歴史的敗北を喫した日

07月30日(記)・プロレス記念日
07月30日(人)・「露伴忌、蝸牛忌」小説家・幸田露伴のの忌日
07月30日(歴)・明治最後の日

07月31日(記)・こだまの日そばの日
07月31日(人)・挿絵画家・高畠華宵の忌日
07月31日(歴)・日本国有鉄道山手線に冷房車両登場

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カテゴリー
(記)=記念日 (人)=人物 (行)=行事 (歴)=歴史 (ひ)=ひとりごと

09月01日(記)・防災の日 ・宝塚歌劇団レビュー記念日 くいの日 ・ 釜めしの日
09月01日(人)・ 画家・詩人・竹久夢二の忌日
09月01日(行)・ 二百十日 
09月01日(ひ)・ 秋・萩・月

09月02日(記)・ 宝くじの日
09月02日(人)・ 作詞家・大高ひさを(カスバの女)の忌日〔?・?〕    
09月02日(歴)・ 東京専門学校が大学へ昇格し「早稲田大学」に改称した日 
09月02日(歴)・ 時代劇『必殺仕掛人』が放映開始された日(歴)

09月03日(記)・ ホームラン記念日 ・ドラえもんの誕生日 ・ 草野球の日 ・ ベッドの日

09月04日(記)・関西国際空港開港記念日 ・ くしの日 ・ クラシック音楽の日

09月05日(記)・ 国民栄誉賞の日
09月05日(歴)・ NHKラジオで徳川夢声の『宮本武蔵』の朗読が始まった日
09月05日(歴)・日露戦争が終結した日 

09月06日(記)・ クロスワードの日 ・ 黒の日 ・ 黒豆の日 ・ まがたまの日
09月06日(歴)・ 北里柴三郎口述、伝染病研究所助手 中川愛咲編纂による「伝染病研究講義」が出版された

09月07日(記)・ CMソングの日 ・ ブラジル独立記念日〔?・?〕
09月07日(人)・ 小説家・泉鏡花の忌日 ・ 英治忌「宮本武蔵」の吉川英治の忌日
09月07日(人)・ テレンス・ヤング (映画『007』初期作品の監督) の忌日 

09月08日(記)・ 国際識字デー ・ サンフランシスコ平和条約調印記念日・ 聖母マリア誕生の祝日
09月08日(記)・ クータ・バインディングの日

09月09日(記)・ 救急の日 ・ 世界占いの日 ・ 食べものを大切にする日

09月10日(記)・ カラーテレビ放送記念日 ・ 屋外広告の日(記)  ・ 下水道の日 ・ キューテンの日(Q10の日)  

09月11日(記)・ 公衆電話の日 ・ 警察相談の日
09月11日(歴)・ 第44回衆議院議員総選挙 (郵政民営化を問う選挙)が行われて1年目の日

09月12日(記)・ マラソンの日 ・育児の日 ・ 宇宙の日 ?&? 
09月12日(歴)・溝口健二監督の『西鶴一代女』がベネチア国際映画祭でグランプリ 受賞

09月13日(記)・ 世界の法の日 
09月13日(人)・ 我輩は猫である』の主人公のモデルとなった猫が死亡した日 
09月13日(歴)・ 明治天皇御大葬と乃木希典殉死の日 
09月13日(歴)・ 講談落語協会が艶笑物・博徒物・毒婦物・白浪物の口演を禁止 した日

09月14日(記)・コスモスの日 
09月14日(人)・春日局(徳川家光の乳母)忌日 ・ ペレス・プラード (キューバ:バンドマスター,編曲家『マンボNo.5』)の忌日
09月14日(歴)・木下恵介監督の映画「二十四の瞳」が封切られた日
09月14日(歴)・ 65歳以上の高齢者が全人口の1割を突破したと総務庁が発表  
09月14日(歴)・初の3階建て住宅を許可〔?・?〕

09月15日(記)・ シャウプ勧告の日 
09月15日(歴)・阪神タイガースがセリーグ優勝を決めた日 ・「天満天神繁盛亭」開館日
09月15日(ひ)・ 民主党代表戦「菅代表再選」

09月16日(記)・ マッチの日 ・ ハイビジョンの日 ・ 国際オゾン層保護デー  

09月17日(記)・ 国産なす消費拡大の日  ・ グランド・ジェネレーションズ デー 
09月17日(人)・「牧水忌」歌人・若山牧水の忌日 
09月17日(歴)・ 野茂英雄投手が大リーグでノーヒット・ノーランを達成した日
09月17日(歴)・ 2002年、小泉純一郎首相と金正日との日朝首脳会談が行われた日

09月18日(記)・ かいわれ大根の日
09月18日(人)・蘆花忌(小説家・冨蘆花の忌日) ・ 芹澤鴨 (水戸藩浪士,新選組局長) の忌日 
09月18日(歴)・「満洲事変」が勃発した日 
09月18日(ひ)・ どじょうはお好き!

09月19日(記)・ 苗字の日  
09月19日(人)・「子規忌,糸瓜忌,獺祭忌」俳人・歌人の正岡子規の忌日 
09月19日(行)・「敬老の日(9月の第3月曜日)」 
09月19日(ひ)・中秋の名月

09月20日(記)・ 空の日 ・お手玉の日 ・ 発芽野菜の日 ・ 相続・贈与の日
09月20日(人)・林家三平 (落語家)の忌日
09月20日(行)・「敬老の日」〔Part2〕

09月21日(記)・ ファッションショーの日 ・世界アルツハイマーデー
09月21日(人)・ 宮澤賢治忌 ・ 真珠王・御木本幸吉の忌日

09月22日(記)・ 孤児院の日 ・ 国際ビーチクリーンアップデー
09月22日(人) ・ 淡谷のり子 (歌手「ブルースの女王」)の忌日「パントマイムの神様」マルセル・マルソーの忌日
09月22日(行)・ 待宵月   
09月22日(歴)・近松門左衛門の浄瑠璃『大経師昔暦』に登場するおさんと茂兵衛が姦通罪で処刑された日

09月23日(記)・ 海王星の日 ・ 不動産の日
09月23日(人)・ 川柳の祖・柄井川柳 の忌日

09月24日(人)・ 鮎川哲也 (推理小説家)の 忌日 ・ 「西郷隆盛」の忌日 ・ 丹波哲郎(俳優)の忌日
09月24日(人)・俳人池西言水(木枯しの言水)の忌日

09月25日(記)・ 藤ノ木古墳記念日 ・10円カレーの日
09月25日(人)・「いとこいさん」の愛称で大阪の庶民に親しまれ漫才師夢路いとしの忌日
09月25日(歴史)・ 弓削道鏡の皇位への野望を宇佐八幡の神託で退けた和氣清麻呂が大隅国へ配流された日

09月26日(人)・「八雲忌」小泉八雲の忌日 ・「アンコ椿は 恋の花」などの作曲家・市川昭介の忌日
09月26日(人)・ アメリカン・ニューシネマの代表作「明日に向って撃て!」で知られる俳優・ポール・ニューマンの忌日
09月26日(歴)・ 世界3大海難事故となった洞爺丸転覆の日。「台風襲来の特異日」でもある。 

09月27日(記)・女性ドライバーの日
09月27日(人)・大友柳太朗 (俳優、「怪傑黒頭巾」) の忌日
09月27日(歴)・昭和天皇・皇后両陛下が初の訪欧に出発された日  
09月27日(歴)・牛丼チェーンの松屋が390円の牛丼を290円に値下げ。牛丼の値下げ戦争が激しくなる。
09月27日(ひ)・二代目は熱意で勝負

09月28日(記)・パソコン記念日 ・プライバシーデー
09月28日(歴)・「ダッカ日航機ハイジャック事件」の起こった日

09月29日(記)・ 招き猫の日 ・日中国交正常化の日
09月29日(人)・クリーニングの日テクラ・バダジェフスカ(『乙女の祈り』の作曲家)の忌日
09月29日(歴)・鉄人28号の巨大モニュメントが完成した日

09月30日(記)・「ベジタリアン」という言葉が作られた日 ・くるみの 日 
09月30日(行)・第61回国体「のじぎく兵庫国体」開幕日    
09月30日(歴)・京都市電全線廃止の日 
09月30日(歴)・ モーツァルト作曲の最後のオペラ『魔笛』が初演 された日
09月30日(歴)・「郵便列車」を廃止し「鉄道郵便局」すべてが廃局となった

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カテゴリー
(記)=記念日 (人)=人物 (行)=行事 (歴)=歴史 (ひ)=ひとりごと

10月01日(記)・日本酒の日 ・ 法の日 ・ コーヒーの日
10月01日(行)・衣替え 
10月01日(歴)・国勢調査の日 

10月02日(記)・ スヌーピーの誕生日 ・豆腐の日
10月02日(歴)・山陽新幹線「六甲トンネル」が貫通した日
10月02日(ひ)・古稀

10月03日(記)・KOBE観光の日 ・「登山の日、山の日」
10月03日(歴)・市川右太衛門プロ制作の映画『旗本退屈男』第1作が封切られた日

10月04日(記)・陶器の日古書の日 ・徒歩の日  
10月04日(人)・「 東海林太郎 (歌手『赤城の子守唄』)」の忌日

10月05日(記)・ レモンの日 ・時刻表記念日
10月05日(人)・俳優・緒方拳(映画「楢山節考など)の忌日 
10月05日(行)・丹波笹山黒枝豆の販売解禁日

10月06日(記)・国際ボランティア貯金の日 ・役所改革の日
10月06日(行)・中秋の名月
10月06日(歴)・セーラー服の元祖は平安女学院? 

10月07日(記)・ミステリー記念日シャツの日 ・カラーアニメ作品「ゲゲゲの鬼太郎 」がTV放映された日 
10月07日(人)・マルチタレント 「三木鶏郎」の忌日「親分」の愛称で親しまれていた野球評論家・大沢啓二の忌日 
10月07日(歴)・釜山から引揚者2100人を乗せた雲仙丸が舞鶴へ初入港した 

10月08日(記)・骨と関節の日足袋の日木の日コンビニATMの日 
10月08日(記)・運動器の10年・骨と関節の日

10月09日(記)・道具の日 ・トラックの日世界郵便デー、万国郵便連合記念日

10月10日(記)・銭湯の日 ・釣りの日 ・マグロの日
10月10日(人)・阪神江夏豊投手がシーズン通産401奪三振達成した日

10月11日(記)・「リンゴの唄」の日 ・ウィンクの日

10月12日(記)・「大陸発見記念日(Columbus Day)」コロンブスがアメリカ大陸を発見した日育児の日
10月12日(歴)・社会党委員長・浅沼稲次郎が比谷公会堂で演説中に右翼少年に刺され死亡した日

10月13日(記)・麻酔の日 ・引越しの日 サツマイモの日 10月13日(記)・引っ越しの日サツマイモの日(Part 2)


10月14日(記)・鉄道の日 ・PTA結成の日 ・くまのプーさん原作デビューの日
10月14日(記)・焼うどんの日
10月14日(歴)・淳仁天皇(淡路廃帝)が淡路島に流される た日

10月15日(記)・女人禁制破りの日 ・きのこの日人形の日

10月16日(記)・世界食糧デー(World Food Day) ・ボスの日(ボスデー)
10月16日(人)・人と色の日・自分色記念日
10月16日(行)・全国・自然歩道を歩こう月間 
10月16日(歴)・藤原道長の娘・威子が御一条天皇の中宮に。「此世をば我世とぞ思ふ・・・」と自らの繁栄の歌を詠む。
10月16日(歴)・岡田竹四郎が武庫川右岸で宝塚温泉の開鑿に成功

10月17日(記)・貯蓄の日上水道の日・ カラオケ文化の日

10発18日(記)・ミニスカートの日 ・冷凍食品の日 ・ フラフープ記念日まごの日

10月19日(記)・海外旅行の日 ・ブラックマンデー ・バーゲンの日 
10月19日(人)・名曲「荒城の月」の作詞家土井晩翠の忌日

10月20日(記)・新聞広告の日 ・頭髪の日老舗の店
10月20日(人)・「渡る世間は鬼ばかり」で知られる俳優 ・藤岡琢也の忌日   
10月20日(人)・農政家・思想家二宮 尊徳の亡くなった日 

10月21日(記)・あかりの日あゆの日(毎月第3日曜日)
10月21日(歴)・神風特別攻撃隊が初出撃した日

10月22日(記)・平安遷都の日
10月22日(人)・お笑い芸人・ばってん荒川の忌日
10月22日(人)・昭和の三大喜劇人として知られた落語家、タレント・柳家金語楼  
10月22日(歴)・サザエさんのマンガにWCの文字
10月22日(歴)・日本初のカラー長篇アニメ『白蛇伝』が封切られた日

10月23日(記)・津軽弁の日踏切の日  
10月23日(人)・シートンの忌日 
10月23日(人)・「ブルータスよ、お前もか!」で知られる古代ローマの政治家ブルータスの忌日

10月24日(記)・「国連デー」(United Nations Day)  ・ツーバイフォー住宅の日
10月24日(歴)・オリックスが初の日本一に輝いた日

10月25日(人)・伴淳三郎 (喜劇俳優) 忌日
10月25日(歴)・島原の乱(原城の一揆)が勃発した日明治神宮外苑競技場が竣工した
10月26日(記)・サーカスの日 ・どぶろくの日
10月26日(人)・歌手・ 灰田勝彦 (『鈴懸の径』)の忌日 

10月27日・テディーベアーズ・デー ・読書の日世界新記録の日
10月27日(人)・昭和の国民的歌手フランク 永井の忌日 ・鳥羽僧正覚猷の忌日

10月28日(記)・速記記念日 ・大阪・新世界の通天閣が再建された日
10月28日(歴)・ロッキード裁判で榎本被告の夫人・榎本三恵子が田中元首相の5億円受領を裏附ける証言した日
10月28日(歴) ・神戸市長選で革新系候補が当選。六大都市全ての市長が革新系となる

10月29日(記)・とらふぐの日
10月29日(人)・千代の山雅信(41代横綱)の忌日
10月29日(歴)・戦後初の宝くじが発売された日
10月29日(ひ)・フォックスフェイス

10月30日(記)・初恋の日 ・ニュースパニックデーたまごかけごはんの日
10月30日(記)・マナーの日  
10月30日(人)・劇作家・小説家木下順二(代表作「夕鶴」)の忌日
10月30日(ひ)・くいしん坊!

10月31日(記)・ハロウィン ・ガス記念日 ・ 世界勤倹デー   

























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カテゴリー
(記)=記念日 (人)=人物 (行)=行事 (歴)=歴史 (ひ)=ひとりごと

12月01日(記)・映画の日 ・鉄の記念日手帳の日 
12月01日(記)・冬の省エネ総点検の日 ・カイロの日
12月01日(行)・「歳末たすけあい運動」が始まる

12月02日(記)・日本人宇宙飛行記念日 ・原子炉の日 ・安全カミソリの日
12月02日(歴)・「ニンテンドーDS」が発売された日
12月02日(歴)・「古都奈良の文化財」の世界遺産登録が決定した日

12月03日(記)・カレンダーの日 ・奇術の日 ・妻の日
12月03日(記) ・みかんの日

12月04日(記) ・E.T.の日 ・「聖バルバラの日」

12月04日(歴)・江戸小石川の薬草園に小石川養生所が設けられた。
12月04日(歴)・「神戸文学館」会館の日
12月04日(歴)・東大評議会が「わだつみ像」の学内設置を拒否した日

12月05日(記)・ バミューダトライアングルの日 
12月05日(人)・「アレクサンドル・デュマ(大デュマ) (仏:小説家『三銃士』)」 の忌日
12月05日(人)・歌舞伎俳優十八代目中村勘三郎忌日 
12月05日(行)・「納めの水天宮」の日
12月05日(歴)・聖徳太子が冠位十二階の制度を制定

12月06日(記)・音の日 ・姉の日 ・シンフォニー記念日
12月06日(人)・「北国の宿」「星影のワルツ」などの作曲家・遠藤実の忌日 
12月06日(歴)・近松門左衞門作の人形浄瑠璃『心中天網島』が竹本座で初演された日

12月07日(記)・神戸開港記念日 ・クリスマスツリーの日
12月07日(歴)・東海地方でM7,9の大地震・津波(東南海地震)が発生した日 
12月07日(歴)・紫宸殿の前庭に「右近の橘」が植えられた日

12月08日(記)・レノンズデー(Lennon's day) ・ジュニアシェフの日 
12月08日(記)・対米英開戦記念日(太平洋戦争開戦記念日)
12月08日(人)・江口夜詩 (作曲家『あこがれのハワイ航路』) の忌日
12月08日(行)・御事納め大根焚き 
12月08日(歴)・双六を禁止 
12月08日(ひ)・ニイタカヤマノボレ1208 

12月09日(記)・障害者の日 ・クジラの日
12月09日(歴)・15歳(中学生)の田村亮子が福岡での国際女子柔道選手権で最年少優勝を果たした。
12月09日(歴)・フライデー襲撃事件により、ビートたけしら12人が全員逮捕 された日

12月10日(記)・三億円事件の日 ・アロエヨーグルトの日
12月10日(行)・歳暮
12月10日(歴)・東芝が「電気釜を発売」した日 
12月10日(歴)・1901年第1回ノーベル賞授賞式が行われた日

12月11日(記)・胃腸の日 ・百円玉記念日
12月11日(人)・宮本武蔵の師匠で知られている沢庵和尚こと「澤庵宗彭」の忌日
12月11日(歴)・金星 
12月11日(ひ)・皆既月食

12月12日(記)・バッテリーの日漢字の日児童福祉法記念日
12月12日(人)・小津安二郎の忌日
12月12日(歴)・芸術団体「パンの会」が結成された日

12月13日(記)・ビタミンの日双子の日
12月13日(記)・「聖ルチアの日」 (Saint Lucy's day)
12月13日(人)・「獅子文六の(小説家,劇作家,演出家「てんやわんや」)」の忌日
12月13日(行)・正月始め

12月14日(記)・四十七士討ち入りの日,忠臣蔵の日 ・南極の日  
12月14日(人)・吉良上野介義央 の忌日 
12月14日(歴)・政府が石炭不足解消の為に「石炭庁」を設置 した日

12月15日(記)・観光バス記念日洗濯の日
12月15日(人)・グレン・ミラー (米:ジャズ楽団指揮者,トロンボーン奏者) 」が消息不明 となった日
12月15日(行)・年賀郵便特別扱い開始 
12月15日(歴)・映画『風と共に去りぬ』が封切りされた日

12月16日(記)・年賀状特別扱い開始の日紙の記念日
12月16日(人)・日本を代表する洋画家・小磯良平の忌日
12月16日(人)・昭和の大横綱双葉山の忌日 
12月16日(行)・念仏の口止め 
12月16日(歴)・「ボストン茶会事件(Boston Tea Party)」のあった日

12月17日(記)・馬に親しむ日
12月17日(人)・岸田今日子(俳優)の忌日 
12月17日(人)・詩集『にんげんだもの』で知られる書家・詩人相田みつを の忌日

12月18日(記)・東京駅の日18゛の日(ファーストエイドの日) 
12月18日(人)・平賀源内 (蘭学者,本草学者,戯作者,浄瑠璃作者)の忌日
12月18日(人)・進藤英太郎 (俳優) の忌日

12月19日(記)・日本初飛行の日トークの日
12月19日(人)・イタリアの映画俳優マルチェロ・マストロヤンニ の忌日
12月19日(行)・今年の漢字「命(いのち)」 

12月20日(記)・デパート開業の日霧笛記念日鰤(ぶり)の日
12月20日(人)・直木賞作家で、前東京都知事でもあった「マルチ人間」青島幸雄の忌日
12月20日(行)・果ての二十日(?・?)  

12月21日(記)・遠距離恋愛の日
12月21日(人)・北大路魯山人の忌日 ・国定忠治が磔の刑に処せられる )
12月21日(歴)・紀貫之が『土左日記(土佐日記)』を起筆した日

12月22日(記)・改正民法公布記念日
12月22日(人)・女優・乙羽信子の忌日 
12月22日(人)・大阪弁がよかった「浪花千栄子」(俳優)の忌日
12月22日(行)・冬至

12月23日(記)・映画『ウエストサイド物語』の封切り日 
12月23日(記)・東京タワー完成の日
12月23日(人)・「一心太助 (魚屋)」の忌日?
12月23日(歴)・12月23日と言う日

12月24日(行)・クリスマス・イヴ ・納めの地蔵 
12月24日(歴)・イギリスの探検家クックが太平洋の小島に到着。クリスマス島と命名 した
12月24日(歴)・クリスマス・イブ・GHQがA級戦犯容疑者19人を釈放した日
12月24日(ひ)・イブ

12月25日(記)・昭和の日 ・スケートの日 
12月25日(記)・クリスマス(キリスト降誕祭) 

12月26日(記)・プロ野球誕生の日ボクシングデー(Boxing Day)
12月26日(歴)・日本の競走馬「シンザン」が有馬記念を勝ち5冠馬となった日

12月27日(記)・ピーターパンの日浅草仲見世記念日
12月27日(歴)・「国鉄再建法」が公布・施行された日

12月28日(記)・身体検査の日
12月28日(歴)・八百屋お七」が放火した日
12月28日(歴)・ 『菊と刀』が日本で翻訳・出版された日

12月29日(記)・シャンソンの日
12月29日(人)・「 三木露風 (詩人『赤とんぼ』) 」の忌日
12月29日・「農地調整法」が改正・公布された日(第一次農地改革)

12月30日(記)・地下鉄記念日
12月30日(行)・取引所大納会 
12月30日(歴)・「決闘罪ニ関スル件」(決闘処罰令)が公布 された日 

12月31日(記)・New Year's Eve
12月31日(行)・「NHK紅白歌合戦」大晦日(大晦、おおみそか) 


































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月 度 1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月

カテゴリー
(記)=記念日 (人)=人物 (行)=行事 (歴)=歴史 (ひ)=ひとりごと

01月01日(行)・元日(New Year's Day) ・2007年「丁亥(ひのとい)」元旦 
01月01日(行)・正月Happy New Year 

01月02日(行)・初夢 ・箱根駅伝(東京箱根間往復大学駅伝競走)
01月02日(ひ)・寅年 

01月03日(記)・駆け落ちの日
01月03日(歴)・NHKラジオで第1回紅白歌合戦を放送した日

01月04日(記)・金の鯱鉾の日
01月04日(人・ ヤーコプ・グリムの誕生日  

01月05日(記)・シンデレラの日 ・「新年宴会」の日

01月06日(記)・東京消防庁出初め式の日
01月06日(人)・「良寛忌」、禅僧・良寛の忌日

01月07日(人)・「夕霧忌」、大坂の遊女・「夕霧」の忌日
01月07日(行)・人日・七草粥の日

01月08日(記)・平成スタートの日
01月08日(記)・「ロックの日」(エルヴィス・プレスリーの日)

01月09日(記)・クイズの日,とんちの日 ・風邪の日

01月10日(記)・110番の日
01月10日(行)・十日えびす 「初金比羅」の日

01月11日(記)・塩の日
01月11日[行)・鏡開き

01月12日(記)・桜島の日
01月12日(人)・入江たか子の忌日

01月13日(記)・たばこの日、ピース記念日  
01月13日(歴)・ 「日劇ダンシングチーム(NDT)」が初公演した 日

01月14日(記)・愛と希望と勇気の日,タロとジロの日  
01月14日(人)・「 マリリン・モンロー(米国・女優)」が元プロ野球選手のジョー・ディマジオと結婚

01月15日(記)・警視庁創設記念日 ・アダルトの日 
01月15日(行)・小正月 ・歌会始の儀

01月16日(記)・禁酒の日 ・囲炉裏の日 
01月16日(人)・分割・民営化された最後の国鉄総裁を務めた杉浦喬也 の亡くなった日
01月16日(行)・籔入り ・初山の日(仕事始め)
01月16日(歴)・電力使用制限令が発動された日
01月16日(ひ)第3のビール 

01月17日(記)・阪神・淡路大震災記念日防災とボランティアの日 
01月17日(記)・「今月今夜の月」の日阪神淡路大震災14年「この町が好き」
01月17日(人)・「あゝ上野駅」で知られる歌手・井沢八郎の忌日
01月17日(ひ)・神戸賛歌この町が好き 
01月17日(ひ)・辰年に思う ・しあわせ運べるように 

01月18日(記)・頭髪の日
01月18日(歴)・振袖火事の日「熊沢天皇」が出現した日 
01月18日(歴)・大逆事件で逮捕された幸徳秋水ら24人に死刑判決が下された日
01月18日(ひ)消費税UP・・得意満面の首相

01月19日(記)・のど自慢の日,カラオケの日家庭消火器点検の日 
01月19日(歴)・対米宣伝放送の「東京ローズ」ことアイヴァ(郁子)戸栗・ダキノに特赦を発表した日
01月19日(歴)・皇室会議において皇太子徳仁親王の婚姻の相手を外交官の小和田雅子と決定

01月20日(記)・玉の輿の日 ・甘酒の日
01月20日・『落穂拾い』の画家・ミレー の忌日
01月20日(人)・ オードリー・ヘップバーン (米:俳優『ローマの休日』) の忌日 
01月20日(行)・大寒 ・二十日正月
01月20日(歴)・コンビニ百貨店を抜く

01月21日(記)・料理番組の日家族ふれあいの日  
01月21日(記)・ライバルが手を結ぶ日
01月21日(歴)・腹切り問答の日  
01月21日(歴)・米国史上初の黒人大統領(バラク・オバマ)が誕生

01月22日(記)・ジャズの日 ・カレーの日
01月22日(人)・童謡歌手・川田正子の忌日
01月22日(人)・歌舞伎狂言作者・河竹默阿彌の忌日
01月22日(歴)・「人口政策確立要綱」が閣議決定された日
01月22日(歴)・初の外国人横綱(第64代・曙)が引退した日

01月23日(記)・真白き富士の嶺の日ワンツースリーの日 
01月23日(記)・ふみの日アーモンドの日
01月23日(歴)・大久保利通が大阪遷都を建議した日
01月23日・八甲田山の日。世界の山岳遭難史上、空前の大惨事が八甲田山で起り、199名の死亡が確認された日

01月24日(記)・金の日、ゴールドラッシュデー 
01月24日(記)・法律扶助の日 ・全国学校給食週間
01月24日(人)・イギリスの英雄であり、元政治家ウィンストン・チャーチルの忌日
01月24日(歴)・明治天皇が初めて牛肉を試食をされた日
01月24日(歴)

01月25日(記)・日本最低気温の日お詫びの日
01月25日(記)・中華まんの日
01月25日(人)・喜劇俳優・三木のり平の忌日
01月25日(人)・映画「ゴジラ」や「ウルトラマン」で知られる特撮の神様・円谷英二の忌日
01月25日(歴)・左遷の日。右大臣・菅原道真(すがわらのみちざね)が醍醐天皇によって九州の大宰府に左遷された

01月26日(記)・帝銀事件の日コラーゲンの日
01月26日(人)・小説家・藤沢周平 (『暗殺の年輪』)の忌日 
01月26日(歴)・第7回冬季オリンピックで、トニー・ザイラーがアルペンスキー競技で初の三冠王となった。 
01月26日(歴)・大相撲で、貴花田が19歳5か月の史上最年少で幕内優勝 を果たした日
01月26日(ひ)・朝青龍優勝

01月27日(記)・求婚の日 ・ハワイ移民出発の日
01月27日(記)・国旗制定記念日
01月27日(人)・野口雨情の忌日 
01月27日(人)・米国最初期のジャーナリスト(暴露報道の開拓者)ネリー・ブライの忌日 


01月28日(記)・宇宙からの警告の日逸話の日 
01月28日(行)・初不動
01月28日(歴)・犬だけだった「生類憐愍令」を牛馬・猫・魚介類にまで拡大 した日 
01月28日(歴)・関西汽船・女王丸が瀬戸内海で機雷に触れ沈没。死者行方不明188人

01月29日(記)・南極の日、昭和基地開設記念日クレープの日  
01月29日(人)・城忌,東鶴忌,銀忌
01月29日(歴)・日本初の全国戸籍調査が行われた日 
01月29日(歴)・ブッシュ米大統領が、「悪の枢軸」発言をした日
01月29日(歴)・「西成線列車脱線火災事故」が発生した日、死者191人、82人が負傷した

01月30日(記)・3分間電話の日みその日Part2
01月30日(人)・インドの独立運動家ガンジー の忌日 
01月30日(人)・『東京ブギウギ』『青い山脈』など作曲した服部良一 の忌日
01月30日(歴)・「日英同盟」が締結 された日
01月30日(ひ)・ブルームーン

01月31日(記)・生命保険の日 ・愛妻家の日    
01月31日(記)・生命保険の日(Part?)
01月31日(歴)・東急百貨店日本橋店(元白木屋)が閉店 
01月31日(歴)・「新婚さんいらっしゃい!」の放送が開始された日
01月31日(ひ)・オバマ大統領カンカン




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カテゴリー
(記)=記念日 (人)=人物 (行)=行事 (歴)=歴史 (ひ)=ひとりごと

02月01日(記)・ニオイの日あずきの日LG21の日
02月01日(人)・初代中村鴈治郎の忌日 
02月01日(行)・重ね正月、一夜正月
02月01日(歴)・NHKラジオ『英語会話教室』が放送開始された日
02月01日(歴)・「嶋中事件」が起った日

02月02日(記)・日本初のバスガールの日
02月02日(記)・「二日灸,如月灸」の日
02月02日(記)・頭痛の日おじいさんの日おんぶの日
02月02日(人)・アメリカの映画俳優・ボリス・カーロフ(映画「フランケンシュタイン」)の忌日

02月03日(記)・ジュディ・オングの日
02月03日(行)・節分「節分」の鬼
02月03日(行)・手の内に福を収めて、鬼は外
02月03日(ひ)・今晩は手巻き寿司を食べようっと!

02月04日(記)・西の日ぷよの日
02月04日(人)・平 清盛 忌日
02月04日(歴)・足利義政が銀閣寺の造営に着手 
02月04日(歴)・大石内藏助以下赤穂浪士46人に幕府が切腹を命じた日
02月04日(歴)・「佐賀の乱」が起る
02月04日(ひ)・立春 

02月05日(記)・ふたごの日笑顔の日  
02月05日(記)・長崎二十六聖人殉教の日
02月05日(人)・西遊記で知られる玄奘(三藏法師。唐の高僧) の忌日
02月05日(歴)・明治政府が大阪に造幣局を設置 
02月05日(歴)・東海道線の京都〜大阪〜神戸の鉄道が正式開業した日
02月05日(歴)・チャップリンの映画「モダン・タイムス」がアメリカで公開された日 

02月06日(記)・抹茶の日海苔の日ブログの日
02月06日(記)・長野の日、オリンピックメモリアルデー
02月06日(人)・平敦盛 (武将、平經盛の子) の忌日
02月06日(歴)・ベトナム戦争で、アメリカ軍が非武争地帯の森林への枯れ葉剤空中撒布を本格的に開始した日

02月07日(記)・世界女性器切除根絶の日
02月07日(記)・北方領土の日
02月07日(歴)・一ノ谷の戦いの日。源義経らが「鵯越の奇襲」により平氏に圧勝した 
02月07日(歴)・天変が相次ぐ為、延応に改元をした 
02月07日(歴)・「復讐禁止令」(仇討ち禁止令)を布告

02月08日(記)・ロカビリーの日 ・〒マークの日
02月08日(行)・針供養 
02月08日(歴)・ホテルニュージャパンの火災でで33人の死者を出した日
02月08日(歴)・画家の丸木位里と赤松俊子連作『原爆の図』がはじめて発表された日

02月09日(記)・「漫画の日」手塚治虫の忌日肉の日 
02月09日(記)・福の日「福の日」Part 2
02月09日(記)・パソコン救急の日

02月10日(記)・左利きの日海の安全祈念日布団の日  
02月10日(記)・ニットの日ふきのとうの日

02月11日(記)・建国記念の日干支供養の日
02月11日(記)・万歳三唱の日仁丹の日 
02月11日(歴)・栄養菓子「グリコ」が発売された日
02月11日(歴)・高田馬場の決闘が行われた日
02月11日・文化 【元号】

02月12日(記)・育児の日 Part ?黄ニラ記念日
02月12日(記)・「リンカーン誕生日(Lincoln's Birthday)」
02月12日(記)・ブラジャーの日
02月12日(人)・「菜の花忌」・・司馬遼太郎の忌日
02月12日(歴)・金座・銀座を廃止
02月12日(歴)・新聞で満映のスター李香蘭の東京日劇での歌謡ショーで起った日劇7回り半事件の状況が報道された。

02月13日(記)・苗字制定記念日
02月13日(記)・地方公務員法施行記念日
02月13日(人)・映画監督・ 市川崑 の忌日 
02月13日(人)・歌手・タレント・女優・江利チエミ (「三人娘」の一人)の忌日

02月14日(記)・バレンタインデー煮干の日
02月14日(人)・平清盛の寵愛を受けた白拍子・祇王(妓王=ぎおう)の忌日
02月14日(人)・小説家・山本周五郎(『樅の木は残った』『赤ひげ診療譚』) の忌日 
02月14日(歴)・佐渡流罪の日蓮、鎌倉へ帰る
02月14日(ひ)・気象庁は本日春一番が吹いたと発表

02月15日(記)・春一番名附けの日
02月15日(人)・「西行忌」「円位忌」歌人・西行法師の忌日 
02月15日(人)・「兼好忌」随筆『徒然草』の作者兼好法師の忌日 
02月15日(歴)・「西南戦争」始る
02月15日(ひ)・幸せを売る男

02月16日(記)・天気図記念日寒天の日
02月16日(記)・「全国狩猟禁止」の日
02月16日(行)・所得税の確定申告始まる

02月17日(記)・天使の囁きの日ノアの洪水の日
02月17日(記)・まんかい(万回)の日
02月17日(人)・「安吾忌」小説家・坂口安吾の忌日
02月17日(人)・時代劇「必殺」シリーズなどで人気を集めた 俳優・藤田まことの忌日(?・?)
02月17日(歴)・『マダム・バタフライ(蝶々夫人)』がミラノ・スカラ座で初演 された日
02月17日(ひ)・政権盟友もふらふら

02月18日(記)・嫌煙運動の日冥王星の日
02月18日(記)・ひな人形飾りつけの日防犯の日
02月18日(人)・「かの子忌」作家・詩人・仏教研究家である岡本かの子のの忌日
02月18日(歴)・レーガン米大統領が「レーガノミックス」を発表した日 

02月19日(記)・「プロレスの日」天地の日
02月19日(人)・「瓢々忌」小説家・尾崎士郎の忌日
02月19日(行)・「雨水」【うすい】  
02月19日(歴)・浅間山荘事件の日

02月20日(記)・旅券の日アレルギーの日
02月20日(記)・尿もれ克服の日
02月20日(歴)・ルバング島で小野田元日本軍少尉を発見した日
02月20日(歴)・東大構内でポポロ事件が発生した日

02月21日(記) ・漱石の日日刊新聞創刊の日
02月21日(記)・国際母語デー同窓会の日
02月21日(記)・食糧管理法公布記念日

02月22日(記)・猫の日おでんの日
02月22日(記)・食器洗い乾燥機の日・・だんらん? 
02月22日(行)・「太子会」の日

02月23日(記)・富士山の日 ・ふろしきの日
02月23日(記)・税理士記念日妊婦さんの日 
02月23日(記)・富士山の日NEW不眠の日 
02月23日(歴)・陸軍省が戦意昂揚の為、「撃ちてし止まむ」のポスター5万枚を配布した日 

02月24日(記)・月光仮面登場の日鉄道ストの日
02月24日(人)・「南国忌」大衆作家・直木三十五の忌日 
02月24日(人)・不器男忌(俳人・芝不器男の忌日
02月24日(人)・宝塚歌劇団出身の女優・淡島 千景を偲んで
02月24日(行)・昭和天皇の大喪の礼
02月24日(ひ)・年金水準30年後2割減

02月25日(記)・箱根用水完成の日夕刊紙の日
02月25日(歴)・清水次郎長賭博で逮捕される 
02月25日(歴)・松竹歌劇団(SKD)が、新宿の厚生年金会館で最終公演を した日
02月25日(歴)・スティーブン・スピルバーグ監督の映画 「未知との遭遇」が日本で公開された

02月26日(記)・咸臨丸の日
02月26日(歴)・2・26事件の日
02月26日(歴)・ニューヨークの世界貿易センター爆破事件 のあった日
02月26日(歴)・1979(昭和54)年2月26日文部省が自殺防止対策を通達
02月26日(ひ)・「ジャケ買い」?、麻生首相?時を待つ心

02月27日(記)・新選組の日
02月27日(歴)・徳川光圀が『大日本史』の編纂に着手した日 
02月27日(歴)・大海人皇子が即位し、第40代天皇・天武天皇となる
02月27日(歴)・日大の人力飛行機「リネット号」が初飛行に成功した。〔日本初の人力飛行 〕

02月28日(記)・バカヤローの日ビスケットの日  
02月28日(記)・織部の日・エッセイ記念日
02月28日(人)・きんさん・ぎんさんで有名な双子姉妹の妹・蟹江ぎんの忌日 
02月28日(行)・東京マラソン

02月29日(記)・閏日「2月29日」   































1947年労働省が発足。山川菊栄が婦人少年局長に就任し、日本初の女性局長となる

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今、安倍晋三政権が経済再生に向けて展開している一連の経済政策 アベノミクス「大胆な金融政策」「機動的な財政政策」「成長戦略」の「3本の矢」(※1のここ参照 )。
その「3本目の矢」の一つ、持続 的な日本の経済成長につなげるための「成長戦略」の中で、女性の力の活用や社会参画の促進が日本の強い経済を取り戻すために不可欠との認識に基づき、全ての女性が生き方に自信 と誇りを持ち、輝けるような国づくりを目指している。
そして、安倍政権は女性の活躍支援を日本の成長戦略の中核ととらえて、女性管理職の数値目標を示すなど企業の取り組みを促しているほか、子育ての負担軽減策や復職支援など幅広いテーマに取り組んでいる。
15〜64歳の生産年齢人口の減少が深刻化する中、政府による女性の社会進出の後押しは、欠かせない状況となっているようだ(※1のここ参照)。
このように、国が政策として女性を活用しようと数値目標を掲げてくれるのは、女性にとっては非常に頼もしいことだろうし、女性の社会進出に異論をとなえる人も、基本的には多くはいないだろう。
しかし、現状の女性管理職は10%。欧米の3〜4割には遠く及ばない。このような現況の中、解決しなければならないことは山と有り、女性だけに単に「頑張れ!!」といっても、中々大変なことだろうとは思う(※2.※3参照)。
日本の社会において、結婚した女性が主婦として家事労働をするか、社会へ出て男性と同じように働くべきかは明治の文明開化以降、さんざん論議されてきたことだが、今では、家事労働をしている主婦がムード的には、マイナー的な存在になっており、社会へ出て、バリバリ働く女性こそが正当な女性である・・・といった考えが主流をなしている。
ただ、今回、このブログで、そういった、女性の社会進出の是非や安倍首相が掲げた政策「女性の活躍」推進に対しての私見を述べるつもりはない。

第二次世界大戦後の激しいインフレの中で、日本共産党産別会議により労働運動が高揚し、1946(昭和21)年には新聞、放送、国鉄、海員組合、炭鉱、電気産業などで相次いで労働争議が発生し、産業と国民生活に重大な影響を与えるようになっていた。
日本共産党は、労働闘争による吉田内閣(第一次)打倒を公言し、日本の共産化を画策していた。
冷戦の兆しを感じていた米国は、日本をアジアにおける共産化の防波堤にしようと考え始めていたため、全官公労や産別会議等の過半数の労働組合を指導している共産党を脅威と考えるようになった。
連合国の対日政策機関であるワシントンD.C.の極東委員会も、民主化のための労働運動の必要性を確認しながらも、「野放図な争議行動は許されない」とする方針を発表。
ゼネストへの動きが高まる中で、GHQマッカーサーも当初はゼネストは許されないと、忠告する程度のものだったが、1947年1月31日には「衰弱した現在の日本では、ゼネストは公共の福祉に反するものだから、これを許さない」としてゼネストの中止を指令。
戦後、日本に徹底した民主化方針を示し、財閥解体農地解放労働組合育成などの諸改革を断行してきたGHQではあったが、この二・一ゼネストの中止は、日本の民主化を進めてきたGHQの方針転換を示す事件であったとされている。
意図的に労働者の権利意識を向上させつつも、占領政策に抵触する場合、あるいは共産主義の影響力を感じた場合、連合軍は労働者の味方はしないことを内外に誇示したものであり、これは、戦後日本の労働運動の方向を大きく左右したものと言えるだろう。
そして、2月7日、マッカーサーは、総選挙実施を指示した。
このような背景の中、4月25日 新憲法下で行われた、最初の総選挙(「第23回衆議院議員総選挙」1947年4月25日)では、婦人議員が85人中15人当選。前回より24名減少する(1946年戦後初の衆銀選挙では女性が初の参政権を行使し候補者79人中39人が当選していた)が、日本社会党が143人の当選者を得て第一党となり、同党委員長片山哲が5月23日衆議院と参議院で首班に指名された(「2.1ゼネスト」から片山哲内閣の誕生までの日本の状況については、※4:「戦後政治史検証」の1947年上半期の主なできごと.事件年表を参照されるとよい)。

画像は、東京有楽町朝日新聞前、1947年総選挙結果を見守る民衆。日本社会党は戦後最大のゼネスト二・一スト後の総選挙で第一党となったが過半数には満たず、組閣にあたっては、自由党(総裁:吉田茂)からは閣僚を得られず、やむを得ず、民主党(芦田 均総裁)・国民協同党(常任委員会議長:岡田勢一、書記長:三木武夫)3党を中心に6月1日連立内閣を組閣した。
無産政党の議員が首相を務める内閣としては史上初のものであった。しかし、党内の路線対立などから翌1948(昭和23)年2月には総辞職、片山内閣は、わずか9か月の短命に終わっている。
片山内閣総辞職の後、民主党総裁の芦田均が第47代内閣総理大臣に任命されるが、この芦田内閣も、6か月後の同年10月07日には総辞職をしているが、これは、米国の意に反する片山哲内閣、芦田均内閣がGHQの力によってつぶされたものであり、その結果として創設されたのが二度目の吉田茂内閣(第2次吉田内閣)だったようだ(※5 参照)。

上掲画像は、片山内閣初会議の様子。向かって右から数えて2人目三木武夫逓信大臣、9番目中央付近が片山哲首相、その隣10人目が芦田 均外務大臣、左手前から4人目が 無任所大臣米窪満亮である。
労働行政の充実のため、労働省を 設置することを公約として選挙戦を戦った社会党政権の片山内閣は、1947(昭和22 )年9月1日 、 厚生省の労働行政部門を分割し、旧労働省を設置。無任所大臣として入閣していた米窪満亮を初代労働大臣に就任させ、この旧労働省発足と同時に、婦人労働問題、年少労働問題、そして一般の婦人問題に関する総合的な施策を国の責任において実施するために、婦人少年局(現厚生労働省雇用均等・児童家庭局)を設け、その初代婦人少年局長として山川菊栄を就任させた。
この婦人少年局の設置には、GHQが大きな役割を果たしている。女性に参政権を認め、女性の解放を5大改革指令(日本の戦後改革)に掲げていたGHQは、日本政府の中に1920年にアメリカ労働省に置かれた婦人局(Women’s Bureau)のような局を作ることを強く望んでいたようである。
1948(昭和23)年に46都道府県(沖縄県は1972年=昭和47年までは米軍の施政権下に置かれていた)に出先機関として婦人少年局職員室が置かれ、山川菊栄は抵抗を制して、室長を全員女性にしていたという。
この時代に労働基準法が施行され、「男女同一賃金の原則」、「女子保護規定」(深夜勤務の原則禁止や時間外勤務の上限など).が明文化された。
この時、出来た婦人少年局が、日本の官公庁で初めて、女性の問題を専門に取り扱う部署となったが、1951(昭和26)年6月に在職わずか3年半で退任に追い込まれたようだが、この山川菊栄が、戦後の日本の女性労働政策の礎を築いた人ともいえるそうだ。
以後、婦人少年局は、婦人局、女性局、雇用均等・児童家庭局と名称を変えながら、働く女性のより良い環境づくりのために取り組んできた。 そして、今日・2014(平成25)年の9月1日で、婦人少年局が誕生して65年になる。
山川菊栄個人のことについて、私はよく知らないが、Wikipediaによれば、父は森田龍之助、母は水戸藩士で弘道館教授頭取代理・彰考館権総裁を務めた儒学者・史学者の青山延寿の娘・千世で、菊栄自身は青山姓を名乗っていたようだ。
弘道館の初代教授頭取を務めた儒学者・青山延于は母方の曾祖父にあたるという。
1912(明治4)年、女子英学塾(現:津田塾大学)卒業後、1915(大正4)年堺利彦幸徳秋水らの金曜講演会、大杉栄の平民講演会を通して社会主義を学ぶ。
翌・1916(大正5)年社会主義運動家山川均と結婚し山川性を名乗るようになる。夫山川均は「大逆事件(幸徳事件)」のあったころ、彼も赤旗事件で投獄されており、幸徳事件のことは千葉の監獄で大杉栄から聞いて知ったという。
1918(大正7)年ころから始まった母性保護論争に参加。
平塚らいてうは、国家は母性を保護し、妊娠・出産・育児期の女性は国家によって保護されるべきと「母性中心主義」を唱える。
それに対し、与謝野晶子は国家による母性保護を否定。妊娠・出産を国庫に補助させようとする平塚らいてうの唱える母性中心主義を、形を変えた新たな良妻賢母にすぎないと論評し、国家による母性保護を「奴隷道徳」「依頼主義」と難じた。「婦人は男子にも国家にも寄りかかるべきではない」と主張した。
これに対して、女性解放思想家山川菊栄は、与謝野と平塚の主張の双方を部分的に認めつつも批判し、保護(平塚)か経済的自立(与謝野)かの対立に、差別のない社会でしか婦人の解放はありえないと社会主義の立場から主張。平塚らいてう・伊藤野枝らの運動を批判。
そこへ良妻賢母主義的立場から山田わかが論争に参入。「独立」という美辞に惑わされず家庭婦人(専業主婦)も金銭的報酬はもらっていないが、家庭内で働いているのだから誇りを持つべきと主張したという。
この論争には島中雄三、山田嘉吉(山田わかの夫)ら男性も加わり、新聞にも賛否様々の投書が送られたという。
山川菊栄は、この母性保護論争で論壇に登場して以後、ベーベル(August Bebel)の『婦人論』を初完訳、カーペンター(Clarence Ray Carpente)らの著作を翻訳紹介する一方、『婦人の勝利』(1919年),『婦人問題と婦人運動』(1925年)などの著作で,科学的社会主義(マルクス主義の別称)に基づく婦人論,婦人運動理論を樹立したという。
1962(昭和37)年4月婦人問題の総合的研究団体として田中寿美子らと婦人問題懇話会を設立し、亡くなるまでその代表者として後進の指導にあたったようだ。

そういえば、女性解放思想・運動家・平塚らいてふ(本名:明)が、日本女子大学校時代の友人らと文芸誌『青鞜』を発刊したのも、奇(く)しくも、今から103年前の1911(明治44)年の今日・9月1日のことであった。


上掲の画像は上段『青鞜』創刊号の表紙。下段の画像は、青鞜社、雑誌『青鞜』を発刊した年の12月の集い。前列右から小林哥津子、柳清美、物集和子、田中みさを、後列』右から4人目が、らいてふ。画像は、『朝日クロニカル週刊20世紀』女性の100年より。

「元始、女性は実に太陽であつた。真正の人であつた。今、女性は月である。他に依つて生き、他の光によつて輝く、病人のやうな蒼白い顔の月である」
力強く、挑むような調子で始まる『青鞜』の辞(※6「日本ペンクラブ:電子文藝館 総目次」の、評論・研究:平塚 らいてう 「元始女性は太陽であつた」参照)」。
表紙は長沼智恵(後に彫刻家・詩人の高村光太郎と結婚。夫の光太郎が、彼女の死後に出版した詩集『智恵子抄』で有名)が描いた。
『青鞜』発刊の前年1910(明治43)年には、幸徳秋水ら社会主義者が、天皇暗殺を企てたとして捕まり、1911(明治44)年1月には12人が死刑執行されるという、国家権力の暴走が目に余った時代である。自由な言論は圧殺され、石川啄木の言葉を借りれば「時代閉塞」の状況(※6の評論:石川 啄木 「時代閉塞の現状」)参照)が日本を覆っていたとされるが、女にとっては、むしろ、このときこそ長い幽閉のときから目覚めた人間性回復の年であった。
そのとばりをひらいた明(らいてふの本名)は、この創刊の辞を書き上げた際に、初めて「らいてう」という筆名を用いた。この時彼女は25歳であった。
父・平塚定二郎は明治政府の高級官吏(会計検査院に勤務)、のちに一高の講師も務めた人。
母・光沢(つや)の両親は徳川御三卿のひとつ田安家奥医師の飯島家の夫婦養子となった家柄。娘2人を開校間もない日本女子大学に入れる財もあれば、洋行経験もある高級官僚であり、明はまぎれもない「令嬢」であった。
当時の女性たちは、1899(明治32)年の高等女学校令高等女学校の設置などで、少しずつ女子教育への門戸が開かれ始めていた頃であったとは言え、当時求められていた女性像は、家族制度の守り手としての「良妻賢母」であった。
それも、これら良妻賢母像が求められていたのは中堅層以上の恵まれた家庭に生まれた女性であり、中堅以下の下層の女は、牛馬同然の労働力であり、また 男性にとっての性のはけ口である娼婦としての肉体ともみなされていた。つまり、当時の女性達の人生は男との関係性によって規定されていたともいえるが、その点からも、「良妻賢母」の予備軍としての「令嬢」を縛る規範の第一は「処女性」であった。平塚明はこの「規範」に挑戦したともいえる。
明は3年前の1908(明治41)年の春、聴講していた閨秀文学講座の森田草平と栃木県塩原で心中未遂事件を起こしている。幸い心中は未遂に終わり、二人は保護され、「文学士と令嬢の情死未遂」事件は、新聞を賑わした(※7参照)。
それにしてもタフな二人であり、森田は心中未遂の後始末として、師・夏目漱石の推薦で翌年小説『煤煙』(※6の小説:森田 草平 「煤煙 抄」参照)を朝日新聞に連載し、これが彼の文壇デビューとなった。
一方、の明も、このスキャンダルにへこたれず、同士たちを糾合して「隠れたる我が太陽を、潜める天才を発現せよ」。釈尊は「実に全自我を解放した大自覚者となったのだ。」(※6の『青鞜』の辞参照)と釈尊を例にだし、女性解放のためには、自分で自分を縛っていることから解放せよ、と訴える。
「規範」破りでは、先輩の、与謝野晶子が、同創刊号に「山の動く日来る」「すべて眠りし女今ぞ目覚めて動くなる」(※6「日本ペンクラブ:電子文藝館の総目次」の物故会員 | 詩: 与謝野 晶子 そぞろごと参照)と、出発を促す詩を寄稿し頼もしい。
これに多くの女性が呼応し、小説や詩や短歌や随筆に自分の思いを表出し始めた。
そして、『青鞜』は、 いわゆる「貞操論争」、 「堕胎論争」、 「売春 (廃娼) 論争」 という三つの論争の 舞台. となっていった。
国家権力は発禁を持ってそのような『青鞜』を葬ろうとしたようだが、「規範」破りは続々と後に続き、かくて、男に都合の良い家族制度の一角が静かに崩壊し始めた。やはり女姓にとっては、1911(明治44)年が、女性解放運動の出発点であり、最も、記念すべき年なのだろうね。
「青鞜」は女性の文芸雑誌から女性解放へ軸足を変え、らいてうも成長、脱皮してゆく。大正、昭和と困難な時代にありながら、ほぼ一貫して女性解放、母性保護を訴え続けた。
戦後も平和運動、婦人団体のリーダーとして先頭に立つた。1970(昭和45)年の安保改定の時、本人が強く要望し、病身をおして東京・成城の自宅周辺で改定反対のデモをしたという。翌年85歳で死去している。
今の時代、口先だけではなく、このような強いリーダーシップを発揮している女性は誰なのだろうか。
参考:
※1:成長戦略で、明るい日本に! 〜「チーム・ジャパン」で力強く実行へ〜 | 首相官邸ホームページ
http://www.kantei.go.jp/jp/headline/seichosenryaku/index.html
※2:女性管理職:キーワード|ダイヤモンド・オンライン
http://diamond.jp/search/word/%E5%A5%B3%E6%80%A7%E7%AE%A1%E7%90%86%E8%81%B7
※3:安倍政権の「女性の活躍」政策に反論続出 | nikkei BPnet 〈日経BPネット)
http://www.nikkeibp.co.jp/article/matome/20130612/354019/
※4:「戦後政治史検証」
http://www.marino.ne.jp/~rendaico/toshi/nihonkiyosanto_nokenkiyu_toshi.htm
※5:植草一秀の『知られざる真実』: 2010年4月
http://uekusak.cocolog-nifty.com/blog/2010/04/
※6:日本ペンクラブ:電子文藝館 総目次
http://www.japanpen.or.jp/e-bungeikan/home.html#Mokuzi
※7:森田草平と平塚らいてう―栃木・塩原温泉 - 朝日新聞デジタル
http://www.asahi.com/travel/traveler/TKY200611110128.html

青鞜における「共同」PDFhttp://dspace.wul.waseda.ac.jp/dspace/bitstream/2065/39230/1/BungakuKenkyukaKiyo1_58_Yauchi.pdf#search='%E5%B0%8F%E6%9E%97%E5%93%A5%E6%B4%A5%E5%AD%90'
第12回 女性労働行政と男女共同参画 - あすばる
http://www.asubaru.or.jp/purpose/websemi/
女性管理職 - ハフィントンポスト
http://www.huffingtonpost.jp/news/joseikanrishoku/
日本の女性史年表 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E5%A5%B3%E6%80%A7%E5%8F%B2%E5%B9%B4%E8%A1%A8

白露

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日本には何月何日というデシタルなとともに、「立春」とか「清明」「白露」などの美しい言葉で示される「二十四節気」という暦がある。
四季に恵まれた日本では、「二十四節気」によって、自然の再生・循環と季節の移ろいを身体全体で感じ、 自然との共生をしてきた。
その節気の一つ一つをさらに三等分し最初の五日間を初候(一候)、次の五日間を次候(二候)、最後の五日間を末候(三候)として、一年間を七十二等分したものを七十二候という。
「七十二候」は、二十四節気と同様、それぞれの季節にふさわしい名を付けて時候の推移をあらわしたもの。一候の長さは、ほぼ五日間であるが、もともとは中国で考えられたものであるため、日本との季節の相違による不都合が生じ、江戸時代に入って囲碁棋士であり天文暦学者でもある渋川春海(※1参照)らによって日本の気候 風土に合うように改訂されたものが「本朝七十二候」である。そして、土用、彼岸などの雑節も設けられた(節季・雑節等については※2参照)。
因みに冲方丁による江戸時代に日本初の暦作りに挑戦した実在の人物安井算哲(後の渋川春海)の生涯を描いた時代小説『天地明察』が第31回吉川英治文学新人賞、第7回本屋大賞を受賞し、2年前(2012年)には、『おくりびと』の滝田洋二郎監督で映画化(主演は今人気のV6岡田准一)もされているので、このような暦にも興味を持つ人が増えたかもしれない。以下はその映画チラシである。映画あらすじなどは※3Movie Walkerを参照されるとよい。

上掲は「天地明察」の映画のチラシ。

今日は二十四節気の第15「白露(はくろ)」、八月節(旧暦8月の節気。新暦では9月8日頃〜9月22日頃)にあたる。現在広まっている定気法では太陽黄経が165度のときで、例年9月8日ごろであるが、2014年は、9月8日である。
野の草に宿る白露(しらつゆ)も、秋の風情を感じさせるようになる頃。白露とは露(つゆ)の美称,で、露が玉のように白く輝いている様子をいう。夜の内、大気が冷え込むようになり、朝がた草木の葉先に水晶の玉のような美しい露が宿ることが多くなる。
『暦便覧』(著者:太玄斎他。※4参照)では、「陰気(いんき)やうやく重りて、露にごりて白色となれば也」と説明している。
日中はまだ汗ばむような暑さが残るが、この頃になるとさすがに朝夕僅に涼しくなり、日、一日と秋の気配が深まっていく頃。しかし、今年は例年異常に秋は早く来ているが、それにしても、白露とはいかにも日本的な美しい言葉ではある。
万葉集にも白露(しらつゆ)を詠んだ歌は多くある(※5参照)が、小倉百人一首第37番には文屋朝康の以下の歌が選ばれている。

「白露に 風の吹きしく 秋の野は つらぬきとめぬ 玉ぞ散りける」

上掲の画像は「百人一首」文屋朝康。

この「白露に・・・」(後撰308)の歌の、
【通釈】草の上の白露に風がしきりと吹きつける秋の野とは、緒で貫き通していない玉が散り乱れるものだったのだ。
【語釈】◇白露 大気中の水蒸気が葉の上などに凝結したもの。和歌では涙の喩えやはかないものの象徴ともなる。◇吹きしく 「しく」は「事が重なって起きる」意。◇つらぬきとめぬ玉 緒で通して留めていない玉。白い玉と言えば真珠を指すことが多かったようであるが、この歌では数珠を連想させられるので、玻璃珠(水晶玉)や白珊瑚の珠などを思い浮かべても良いか・・という。
【補記】草葉の上の白露が風に吹き散らされる情景を、玉の散り乱れる様に喩えている。
ただ、この歌は、寛平元年(889年)の「寛平御時后宮歌合」(※6、※7参照)、同5年の「新撰万葉集」に見える歌(参考※6の「寛平御時后宮歌合」の00090、「新撰万葉集」。00087参照)である。
後撰集の詞書に「延喜御時、歌召しければ」としているが、「延喜御時」は 醍醐天皇の御代(897年〜930年)であり、後撰集の詞書には疑問がありそうだ。

文屋朝康(ふんやのあさやす)は、六歌仙中古三十六歌仙の一人縫殿助 文屋康秀の子。
是貞親王家歌合』(※6参照)の作者として出詠するなど、『古今和歌集』成立直前の歌壇で活躍している。
しかし、勅撰和歌集には、『古今和歌集』に1首と『後撰和歌集』に2首が入集しているに過ぎない。
宇多醍醐朝の卑官(階級の低い官)の専門歌人のようだ。歌の解釈等は以下も含め、参考※8:「千人万首」を参考。
冒頭に掲載の写真は葉の上の露。
後撰集にはもう一句、」「題しらず」として、以下の歌がよまれている。

「浪わけて見るよしもがなわたつみの底のみるめも紅葉ちるやと」(後撰417)
【通釈】わたつみは海のこと。波を分けて見てみたいものだ。海の底を見れば、みるめ(海松布)も紅葉して散っているのかと想いを馳せた歌。
【補記】紅葉した木の葉が散り始める頃、海底でも同じ様な現象が見られるのかと思いを馳せた歌。

そして、古今集には「是貞のみこの家の歌合の家の歌合によめる」歌として次の一首が掲載されている。

「秋の野におく白露は玉なれやつらぬきかくる蜘蛛の糸すぢ」(古今225)

【通釈】秋の野に置く露は玉だろうか。つらぬいて通す蜘蛛の糸すじよ。
【補記】蜘蛛の掛け渡した糸に白露が掛かっている情景を、緒に貫いた玉に見立てた。
是貞親王(これさだのみこ)は平安時代前期の皇族。光孝天皇の第二皇子。『新撰万葉集』の編纂に先立って宇多天皇より託されて、その元となる『是貞親王家歌合』の撰定を行っている。この歌合は寛平4年(892年)頃催された。

上掲の画像は、クモの網に結露した露。Wikipediaより。
露は木の葉、草の葉につくものである。他の物にも着くが、葉はある程度水をはじく性質があるため、水滴として視認しやすい。特に葉の先端や、鋸歯のある葉ではその突出部に大粒の水滴が見られることがある。また、クモの網に水滴が着くのもよく見られる。特に横糸には粘球があり、この粘球に露が追加される形で大きくなる。朝日を浴びると美しく輝くのが見られる。私の家でも庭木の蜘蛛の巣に露がついている時があるが、綺麗なものだ。

「百人一首」に採りあげられた「白露に 風の吹きしく 秋の野は つらぬきとめぬ 玉ぞ散りける」の歌の排列は、第37番歌。
百人一首では朝康が古今集歌人の最後に位置し、次の右近から後撰・拾遺集の時代に移る。
百人秀歌では38番目になり、一つ前の参議等の以下の「浅茅生の…」と合わされることで、恋歌の風趣を帯びる。

「百人一首」参議等
「浅茅生の 小野の篠原 忍ぶれど あまりてなどか 人の恋しき」(後撰577 参議等)(百人秀歌では37、百人一首では39番、※9:『百人一首』・響き合う歌の心」の『百人秀歌』一覧)。

【通釈】浅茅の生えている野原の、篠竹の群落――その篠竹が茅(ちがや)の丈に余って隠れようがないように、忍んでも私の思いは余って、どうしてこうあなたが恋しいのでしょう。
【語釈】浅茅生(あさぢふ) 丈の低いチガヤ(イネ科の多年草)が一面に生えているところ。普通、人の手が入っていない荒れた草地を言う。◇小野 野。野原。「小(を)」はさして意味のない接頭辞。◇篠原 篠竹(細い竹の類)の群落。「原」は「三輪の檜原」(三輪山林)、「庭の萩原」(庭の萩の繁み)などと同じ用法で、ある植物が群をなして生えている場所の意。◇あまりて 忍びあまって。思いを堪えきれずに。◇人 ここでは歌を贈った相手の恋人を指す(※※8:「千人万首」のここ参照)

『百人秀歌』は、藤原定家の撰による歌集である。1951(昭和26)年、有吉保によって存在が明らかになったという。
同じく定家撰の『百人一首』の後に記された物であると言われている。『百人一首』が1首ずつ年代順に記されているのに対し、『百人秀歌』は2首で1組という構成になっている(※10参照)。

秋の晴れた空は高く澄み渡り俗に「天高く馬肥ゆる秋」ともいわれるが、夜が長くなり、月や星を賞でたり、読書にいそしむ・・・いわゆる「読書の秋」でもある。
慣れ親しんだ百人一首の後に記された『百人秀歌』定家が選んだ歌を2首1組で詠んでみるのも面白いかも・・・。
今年(2014年)の中秋の名月(十五夜)は、今日・9月8日(月曜日)でもある。
そして、明日9日は「重陽の節句」である。
食べることよりもお酒の方が大好きな私。今夜は月を見ながら「月見酒」。明日は風流を気取ってコレクションの中のお気に入りの大盃に菊の花びらでも浮かべて菊酒でもいただこうか・・・・。
「草の戸や 日暮れてくれし菊の酒」(松尾芭蕉
この頃は局地的に急に大雨が降ったりするが、今日・明日天気が良いことを願っている。

参考:
※1:渋川春海 - 国立科学博物館
http://www.kahaku.go.jp/userguide/hotnews/theme.php?id=0001347959426703&p=2
※2:みんなの知識【ちょっと便利帳】 - 二十四節気
http://www.benricho.org/koyomi/24sekki.html
※3:天地明察 | Movie Walker
http://movie.walkerplus.com/mv47754/
※4:国立国会図書館デジタルコレクション - こよみ便覧
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2536637
※5:たのしい万葉集: 白露(しらつゆ)を詠んだ歌
http://www6.airnet.ne.jp/manyo/main/nature/shiratsuyu.html.
※6:和歌 作品集成立年順索引
http://tois.nichibun.ac.jp/database/html2/waka/index_era.html
※7:寛平御時后宮歌合(十巻本) - e国宝
http://www.emuseum.jp/detail/100161/000/000?mode=detail&d_lang=ja&s_lang=ja&class=2&title=&c_e=®ion=&era=¢ury=&cptype=&owner=&pos=9&num=5
※8:千人万首
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin.html
※9:『百人一首』・響き合う歌の心
http://homepage2.nifty.com/100-1/teika/HYAKUNIN/main.htm
※10:タイトルネーミングの由来 - 明日香の風
http://blog.goo.ne.jp/nose_yo/e/901fb5642870c6bebf67a7180d834618>http://homepage2.nifty.com/100-1/teika/HYAKUNIN/main.htm
こよみのページ
http://koyomi8.com/
国立天文台暦計算室 こよみ用語解説 二十四節気
http://eco.mtk.nao.ac.jp/koyomi/faq/24sekki.html
※NPO PTPL ・ PLANT A TREE,PLANT LOVE
http://www.plantatree.gr.jp/
露 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9C%B2

水路記念日

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日本記念日協会(※1)の今日・9月12日の記念日に「水路記念日」がある。
「水路」(すいろ、英語: water way)には、主として、人工的に造られた水を流すための人工のみち(構造物)である、用水路放水路 などと、海・川・湖・運河(人工的なものもある)などの、船の航行する道、航路がなどある。
今日の「水路記念日」で取り上げる「水路」は後者の方である。
1871(明治4)年の今日(旧暦では7月28日)、明治政府内の兵部省 海軍部に水路局が設置されたことから、海上保安庁が制定したもの。水路業務を広く人々に理解してもらうために、展示会などを開いているそうだ。
海上保安庁に設置されている内部部局のひとつに海洋情報部(英語表記:Hydrographic and Oceanographic Department。※2参照)があり、ここでは、海図や電子海図(ENC=Electronic Navigational Chart)および水路誌などを用いての安全な航海に資する情報の提供や、海底火山漂流物に関する情報の速報、領海のための調査、海流・潮流(潮汐)の観測、航海に必要な天文情報の収集・提供を行っている。組織としては旧日本海軍の水路部を母体としている。
海上保安庁海洋情報部(※2)の「水路記念日について」の説明によれば、1869(明治2)年8月に兵部省が設置され、翌3年3月その下に海軍掛と陸軍掛との分課が設けられ、1871(明治4)年7月28日(旧暦)に兵部省が海軍部と陸軍部に分けられた。
この時、海軍部に第1秘史局、第2軍務局、第3造船局、第4水路局、第5会計局の5局が置かれた。ここに、当時わが国の緊急課題であった日本沿岸の安全を図るための海図作りを使命とした水路局が初めて誕生した。
1951(昭和26)年の水路部創立80周年記念事業を期に、その後、毎年7月28日を水路部の創立の日として制定していたが、1971(昭和46)年の創立100年を期して、太陰暦から太陽暦に換算し、9月1日を創立の日とし、以後、この日を「水路記念日」としているそうだ。

道路に交通規制があるように、海にも信号や守らなければならないルールがたくさんある。一方通行や進入禁止、速力制限もある。いま自分がどこにいて、いかに安全に気持ちよく目的地へ行けるか。
そんな時、あれば便利なのが、今も昔もかわらず、それぞれの「みち」筋における各種の情報だろう。その一つが、陸の「みち」や海の「みち」を案内し一望することができる地図であったことは、間違い。海のみちの地図は海図である。

敗戦後の私がまだ子供の頃、日本には、外国映画が沢山入ってきた。中でもチャンバラ物の好きな私は、海賊などが登場する海洋映画が大好きであった。
その中の1つに冒険映画「宝島」(1950年、英・米合作)がある。原作は1934(昭和9)年の映画に続き2度目の映画化となるロバート・ルイス・スティーヴンソンの冒険小説『宝島』(英題『Treasure Island』)で、本作はディズニーにとって初の実写のみで作られた劇映画作であるとともに、初めてカラーで劇場上映された『宝島』作品でもある(冒頭の画像は1911年版スティーヴンソンの冒険小説『宝島』)

18世紀末。英国西海岸で母と2人で宿屋を開いていたジム少年、その宿へ或る日、船長と名乗る老水夫がやってきた。それから次々と事件が起こり、その船長が仲間に殺されたことから、彼の残した一枚の地図を手に入れた。
それが、有名な海賊フリントが孤島にかくした財宝の場所を示したものであることを知り、その宝を探し出すために船を買って冒険に出発する。
その地図には緯度・経度、付近の水深、島の山や湾や入海の名、それから船を安全な碇泊所に入れるに必要らしい注意などが書いてあった。まさしくこれは海の地図−今でいうところの海図である。

上掲の画像がスティーヴンソンの冒険小説『宝島』に描かれている地図(※3の「青空文庫-宝島」より)。

海図は船が安全に航海するためのものであり、現代の海図には陸の地図にはない情報がたくさん載っている。目には見えない水中・海底の様子、海の交通ルール…等々。記号も地図とは違う。私は専門的なことは判らないので、参考※2「海上保安庁 海洋情報部」のここや4:「日本水路協会」のここなど参照されるとよい。
人類が船で未知の海に乗り出すようになると、海図は船乗りにとってなくてはならない航海の道具の一つとして作り出され、発達してきた。
現代の海図は、中国から羅針盤が導入された13世紀のヨーロッパで発達した。
世界で最も古い海図は、13世紀中頃に地中海一帯で用いられた「ポルトラノ海図」といわれる図で、図示された羅針盤(コンパスローズ)から多数の方位線が引かれている。船は目的の港の方角に羅針盤(コンパス)を合わせて進んだ。
15世紀以降の大航海時代には、航路の開拓とともに水深も徐々に記入されるようになる。1569年、オランダの地理学者・メルカトルが、経線と緯線(子午線参照)を格子状に書き込むメルカトル図法を考案し、以後の海図にはこの図法が用いられるようになった。

日本では、安土桃山時代から鎖国前の江戸時代初期には当時のヨーロッパで使われていた「ボルトラノ海図」が多く作られ、幕府の許可を得た貿易船(朱印船貿易)では、その海図が用いられ、中国沿岸や東南アジア各国へ航海していた。しかし、鎖国政策の実施とともに海図は用いられなくなった。
鎖国により船舶航行の範囲を国内に限定していたが、江戸時代後半になると、沿岸の海運も活発になり、日本沿岸から瀬戸内海への西廻り東廻り航路が発達し、沿岸航海用の質素で実用的な航路の案内図−「海瀕舟行図」などが多く作られ、北前船などに利用された(※5:「日本財団図書館」の総記>逐次刊行物.年鑑>成果物情報>しおかぜ60号::世界海図あ・ら・か・る・と参照)。
また、欧米各国の船が開国を求めて日本沿岸に現れるようになり、中には航海の安全のためとして、勝手に沿岸を測量し、海図を作成し始める国も出た。
これらの状況は、海防の上でも、海上交通の安全からも問題があると見て、幕府は海図の作成を始めようとする。まず、沿岸の測量を行い、1821(文政4)年には伊能忠敬が「大日本沿海輿地全図」(伊能図)を完成させた。しかし、これは全国沿岸地図であり海図ではない。

日本初の海図は、1859(安政6)年に刊行された「神奈川港図」で、測量者は、長崎海軍伝習所でオランダ式測量術を学んだ松岡磐吉らの様である。
開国後の1862(文久2)年には、幕府も日本近海の測量を始めたものの、本格的な海図作成は明治時代になってからであった。
明治新政府は「海軍の創立はまず航海測量を基礎とする」という立場からこの水路業務を継承し、当時の実務は、勝海舟らとともに長崎海軍伝習所においてオランダ式の航海・測量術を学んだ津藩出身の柳楢悦少佐〔初代水路部長〕を中心として東京築地海軍兵学寮(後の兵学校)の一室で、現在の水路業務の基礎がスタートした。
日本の沿岸測量に最も精力的に従事していたイギリスの指導を受け、1870(明治3)年には、三重県志摩の的矢湾と尾鷲湾(三重県南部、熊野灘に面した湾.。尾鷲港参照)、塩飽諸島の測量が行われた。
1871(明治4)年には日本海軍水路寮(水路局)が創設され、北海道の諸港湾、岩手県の宮古湾釜石湾が測量された。
そしてわが国における近代的海図の第1号は「陸中国釜石港之図」(※ここ参照)で、1872(明治5)年9月(旧暦8月)に完成している。

,今の日本は尖閣諸島問題・竹島問題を抱えている。
日本が自国領土として実効支配している尖閣諸島について、1971年から台湾(中華民国)と中国(中華人民共和国)が領有権を主張しているが、日本政府は、尖閣諸島が我が国の固有の領土であることは、歴史的にも国際法上も疑いがなく、現に我が国はこれを有効に支配している。したがって、尖閣諸島を巡り解決すべき領有権の問題はそもそも存在しない。・・としている。
一方、竹島を巡る問題については、我が国は、遅くとも江戸時代初期にあたる17世紀半ばには、竹島の領有権を確立していた。
そして、サンフランシスコ平和条約起草過程における竹島の扱い についても、韓国は、米国に対し、日本が権利、権原及び請求権を放棄する地域の一つに竹島を加えるよう要望したが、これに対し米国は、かつて竹島は朝鮮の領土として扱われたことはなく、また朝鮮によって領有権の主張がなされたとは見られない旨回答し、韓国側の主張を明確に否定した。・・・等により、韓国による竹島の占拠は、国際法上何ら根拠がないまま行われている不法占拠であり、国際司法裁判所への提訴の提案 をしている(※7、※8参照)。
これら領土問題について、意見を述べるほどの知識を私は持っていない。今世界のあちこちで領有権問題が起こっているが、利害の対立する国同士での話合いで解決できるような単純な問題ではない。
回りを海で囲まれている海洋国の日本には、多数の無人島を抱えている。そして、人の住んでいる島でも少子高齢化と共に無人島化しているところが多く出始めていると聞く。これらの島を守ることは、これからの日本にとっては、国防上からも最重要課題となってゆくだろう。

参考:
※1:日本記念日協会
http://www.kinenbi.gr.jp/
※2:海上保安庁 海洋情報部公式HP
http://www1.kaiho.mlit.go.jp/jhd.html
※3:図書カード:宝島 - 青空文庫
http://www.aozora.gr.jp/cards/000888/card33206.html
※4:日本水路協会
http://www.jha.or.jp/
※5:日本財団図書館(電子図書館)
https://nippon.zaidan.info/index.html
※6:新収資料コーナー 開港直後の横浜の港と町の測量図 - 館報「開港のひろば(横浜資料館) ...
http://www.kaikou.city.yokohama.jp/journal/093/093_05.html
※7:平成24年9月10日(月)午後 - 首相官邸
http://www.kantei.go.jp/jp/tyoukanpress/201209/10_p.html
※8:竹島問題について | 首相官邸ホームページ
http://www.kantei.go.jp/jp/headline/takeshima.html
海図の誕生
http://www.tanken.com/kaizu.html
日本の地図測量年表
http://www5a.biglobe.ne.jp/~kaempfer/archive/ac-otona/nenpyou2.pdf#search='%E3%82%AA%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%80%E5%BC%8F%E6%B8%AC%E9%87%8F%E8%A1%93%E3%82%92%E5%AD%A6%E3%82%93%E3%81%A0%E7%A6%8F%E5%B2%A1%E4%B9%85%E5%8F%B3%E8%A1%9B%E9%96%80'
神戸大学海事博物館
http://www.museum.maritime.kobe-u.ac.jp/index.html
水路 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B4%E8%B7%AF

第1回カンヌ国際映画祭が開催された日ー参考

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参考:
※001:「French Mania」
http://french.rose.ne.jp/index.html
※002:Festival de Cannes:映画祭について :
http://www.festival-cannes.com/jp/about.html
※003:第7芸術:現代美術用語辞典|美術館・アート情報 artscape
http://artscape.jp/dictionary/modern/1198689_1637.html
※004:映画は見世物から第七芸術へ
http://shisly.cocolog-nifty.com/blog/2008/02/post_bcab.html
※005:歴史の国の歴史映画〜イタリア史劇「カビリア」
http://www5f.biglobe.ne.jp/~st_octopus/MOVIE/SILENT/01ITALIA.htm
※006:文芸映画シリーズとイタリア映画 - 映画中毒者の映画の歴史
http://d.hatena.ne.jp/cinedict/20060615/1150376387
※007:ハリウッド100年史
http://www.geocities.jp/gosuke2006/movie.history.html
※008:史劇大作の隆盛からみるイタリア映画産業 - 桃山学院大学(Adobe PDF)
http://www.andrew.ac.jp/gakuron/pdf/gakuron26-6.pdf#search='%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB%E6%98%A0%E7%94%BB+%E9%9A%86%E7%9B%9B'
カンヌ国際映画祭 - allcinema
http://www.allcinema.net/prog/award_top.php?num_a=2
カンヌ映画祭のまとめ検索結果(116件)-NAVERまとめ
http://matome.naver.jp/search?q=%E3%82%AB%E3%83%B3%E3%83%8C%E6%98%A0%E7%94%BB%E7%A5%AD&slot=4&sf=1
カンヌ映画祭スペシャル2014映画専門チャンネル「ムービープラス」
http://www.movieplus.jp/fes/cannes2014/s/about/history.html
カンヌ国際映画祭受賞一覧 - Cannes
http://www.geocities.jp/yurikoariki/cannes.html
カンヌ国際映画祭 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%B3%E3%83%8C%E5%9B%BD%E9%9A%9B%E6%98%A0%E7%94%BB%E7%A5%AD

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第1回カンヌ国際映画祭が開催された日(2-2)

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映画はその誕生から1世紀そこそこの新興芸術であり、その最初期は、遊園地のアトラクションまたは見世物小屋の呼び物であった。当時、映画は大衆娯楽でしかなく、芸術としては認められてはいなかった。
1908年から映画についての執筆活動を始めたイタリアの若き映画理論家リッチョット・カニュードは、映画を既存の芸術ジャンルと対比しながら、その特性の定義を試み、音楽・舞踏・文学の「時間の芸術」と建築・絵画・彫刻の「空間の芸術」というの既成の6つの芸術をつなぐ第7番目の芸術として、「映画は第七芸術という総合芸術である」と宣言した(『第七芸術宣言』1911年。※003、※004参照)。

第二次世界大戦の影響を受け、フリッツ・ラング(ドイツ)やジャン・ルノワール(フランス)等の多くの映画人がアメリカに亡命した。
亡命ではなく招聘(しょうへい=礼を尽くして人を招くこと)されてあるいは自ら望んでアメリカに行ったマックス・オフュルスエルンスト・ルビッチ(ドイツ)、ルネ・クレール(フランス)などの作家も含めると、1930年代から1940年代にかけてのアメリカには著名な多くの映画作家が世界中から集まった。
そのため、映画製作本数も年間400本を超え、この頃、質量共にアメリカは世界の映画界の頂点にあった。このことにより、1930年代〜1940年代は「ハリウッド全盛期」、「アメリカ映画の黄金時代」とも呼ばれている。
サイレント映画の黄金時代(1913〜1927)、世界各地で数多くの名作・傑作が生まれ、映画は単なる娯楽から、芸術の一分野としての地位を築きあげるようになった。そして1910代初頭は、イタリア映画の時代でもあった。
この時期に世界に名を轟かしたイタリア映画の大半は歴史映画であったというのも歴史の国イタリアらしい。そうしたイタリア史劇の中で、最高の成功作とも言われているのが、現在唯一ビデオで鑑賞することができるらしい『カビリア』(1913年制作)だと言われている。監督は、すでに『トロイ陥落』で成功を治めていたジョヴァンニ・パストローネ(別名ピエロ・フォスコ。1883〜1959)。映画の内容等は※005,006参照。
無声映画時代に映画界を革新したイタリア製スペクタクル史劇だが、『カビリア』をピークに、以降,イタリアの映画産業自体の衰退と共に下降線を辿っていく。
ちょうど『カビリア』が公開された1914年に、第一次世界大戦(1914年 - 1918年)が勃発する。凄惨な主戦場となったヨーロッパ全体が大きな損害を受け、イタリアも、映画制作どころではなくなった。
その間に,「スタジオ」と称される大手映画会社を次々と設立したり、世界初の長編発声映画(トーキー映画)を制作したりと着々と力をつけるアメリカが、世界の映画産業の中心となっていった。
第二次世界大戦が終わって1950年代に入ると、イタリアとアメリカで大作主義が回帰した。第一次世界大戦以降、低迷の一途を辿っていたイタリアと、世界の映画産業の中心として既に不動の地位を確立しつつあったアメリカ、ハリウッド。
世界の映画産業をリードし、第二次世界大戦では勝戦国ともなり、順風満帆であるかのように思えたアメリカの映画産業だったが、大戦終結と同時に、世界はアメリカとソ連を中心にした東西冷戦の時代に突入。
1947年から、反共産主義活動が本格的に開始され、赤狩り(レッドパージ。詳しくはマッカーシズム参照)が行われた。
共産主義勢力が拡大することを危惧した米政府は、見せしめのため、娯楽産業を代表する映画業界に第一に赤狩りの矛先を向けた。これによって,映画監督、脚本家など、映画産業に関わる者が多数追放された。しかし,この赤狩りによる追放が、イタリアとアメリカの映画産業を繋げるきっかけを作ることとなった。
赤狩りで追放された1人に、ダルトン・トランボという脚本家がいた(運動の最初の標的とされたハリウッド映画界の著名な10人の映画人ハリウッド・テンの一人)。
追放された後、彼はアメリカ国外に出て偽名を使いながら数々の脚本を書きあげた。その代表作が、ローマを舞台にアメリカ制作で映画化され、オードリー・ヘップバーンが主演の名作『ローマの休日』(1953年)である。
そして,トランボはこの後,依頼を受けてハリウッド史劇大作『スパルタカス』(1960年、製作総指揮・主演カーク・ダグラス)の脚本を手がけた。
『スパルタカス』は、豪華絢爛な衣装やセットに、偉大な英雄を主人公に用意した他の典型的な史劇大作とは少し異なり、社会的身分の低い奴隷スパルタカスを主人公に置き、権力に立ち向かう姿を描いた社会派スペクタクル史劇といえ、人間の自由と尊厳の意義を訴えたこの作品は、祖国に迫害されて全てを失ったトランボ自身に重ねられるものなのかもしれないという。
他にも赤狩りによって追放された者の多くが、国外、特にヨーロッパに逃れ、偽名や匿名で映画の仕事に携わっていた。彼らは、再び母国アメリカで日の目を見る時を待ち望みながら、映画人としての誇りを捨てずに、他国でもその才能を存分に発揮させて映画制作に関わり続けていた。
また、同時期の1948年,パラマウントなどのハリウッドのメジャースタジオ8社に対して,独占禁止法(反トラスト法)違反の罪を問う訴訟の判決が下され、事実上、スタジオ側が敗訴する。
力を失った大手映画会社に成り代わり、スタジオに頼らず低予算のロケーション撮影主体で映画を制作する独立系小規模プロダクションの作品や外国の作品が、急速にアメリカの映画市場を大きく占めていくこととなった。
更に、テレビ放送開始に伴うテレビの急速な普及は追い討ちをかけ,たちまち映画館から観客を奪った。他にもレジャーやスポーツ、音楽など人々の関心が他の娯楽文化に移るようになった。戦後の高度経済成長に伴い、人々のライフスタイル(生活の仕方、生活様式)が多様化していったのだ。
娯楽産業としての地位を脅かされていく映画が、テレビや、他の娯楽文化に対抗して観客を集めるためには、大作を制作する必然性が生じた。
また、この頃,テレビへの対抗意識が高まる中で映画の技術も急速に進み、ほとんどの作品でカラーやワイドスクリーンが採用されるようになった。
その為、撮影スタジオでのミニチュア合成や国内のロケーション撮影による背景映像に、観客は満足しなくなる。こうして,アメリカは豪華で迫力のあるスペクタクル史劇制作に力を入れるようになった。
しかし、赤狩りやスタジオ・システムの崩壊で弱体化し、技術費用や人件費も高騰してしまったアメリカには、大作を制作する費用もスタッフも撮影スタジオも足りなかった。
それに第二次世界大戦後、アメリカ映画が世界中に輸出されたが、輸出先の外貨事情が悪いために収益金が凍結していた。映画会社はそれを回収するために海外ロケで映画を製作、又、映画の制作拠点そのものを海外に移す傾向があらわれた。これを当時はランナウェイ方式と呼んだ。
中でもイタリアは好まれた。アメリカ国内よりもヨーロッパで制作するほうが低予算に抑えられる上、ローマには,ヨーロッパ最大級の撮影所、チネチッタがある。
文化遺産が街に多く残っているイタリアは大規模なロケーション撮影が可能であり、神話や聖書などスペクタクル史劇の題材を十分に持っていて、かつてスペクタクル史劇大作の栄華を極めた歴史と伝統もある。
このようにして、イタリアで数々のハリウッド史劇が制作されるようになり、『十戒』(1956年監督:セシル・B・デミル主演:チャールトン・ヘストン)、『ベン・ハー』(1959年,監督ウィリアム・ワイラー。主演:チャールトン・ヘストン)といった名作が生み出された。
日本の大映の協力の下、奈良や京都で撮影が行なわれたマーロン・ブランド主演、日本の京マチ子共演の『八月十五夜の茶屋』(1956年)や、主演のデヴィッド・ニーヴンや当時新進女優であったシャーリー・マクレーンなど数十人の有名な俳優が部分部分に入れ替わり立ち替わり登場し、世界をロケしまくっている『八十日間世界一周』(1956年)なども海外ロケで映画を製作したランナウェイ映画である。
一方のイタリアも、このようなアメリカの影響もあり、歴史を題材。文化遺産を撮影に使った史劇作品の制作に再び乗り出した。
第二次世界大戦後の1940年代後半から1960 年代にかけての時代は、長いイタリアの映画史にとっても大きな転機となった。敗戦し、多くのものを失い、映画制作自体ままならないはずのイタリアは,、すぐに映画産業を復興へ導いていった。
なぜ大戦直後の短期間で成功を収めたのか。その大きなきっかけとなったのが,ネオレアリズモであったという。
ネオレアリズモとは、イタリアで、主に文学や映画において盛んになっていた「新しい現実」を芸術表現した潮流である。
戦後にわかに強まったネオレアリズモは、イタリア国内に留まらず、アメリカなど世界の戦後映画の流れをも大き く変えた。
その特徴としては,ロベルト・ロッセリーニの『無防備都市』に代表されるように、.ドキュメンタリー要素が強く、社会問題や政治問題など現実的なテーマを取り扱ったものが多い。
この映画は、1945年.第1回カンヌ映画祭でグランプリに選ばれた作品の一つである。
敗戦して多くを失った自国の現状を目の当たりにして、映画制作者たちは、より身近に、より重く「現実」に目を向けた。それは本来の人々の姿をありのままに映像に映し出す原点回帰でもあり、新たな手法による新たな価値の創造でもあった。
ネオレアリズモには、芸術を再生させ、新しい時代を自ら築いていこうとする映画制作者たちの、芸術家としての熱く強い意思が感じられる。
しかし,映画界に再生と転機をもたらしたネオレアリズモの潮流は1950年代初頭にはすっかり勢いをなくしてしまう。
それでも,映画産業復興への流れと、原点を顧みるという方向性は変わらず、新たに戦後復興期を支える映画ジャンルが登場する。
正確には,再来というべきだろうか。代表的なものが、喜劇と、そして、歴史や神話が題材となったスペクタクル史劇であった。
共に,初期の無声映画時代から存在するという古い伝統を持つ。とりわけ、アメリカの影響を受けて再び制作するようになったスペクタクル史劇は、異質な存在感を持ち、圧倒的に人気があった。
イタリアのスペクタクル史劇大作といえば,豪華絢爛なセットに衣装、そして何より欠かせないのがワイドスクリーンを悠々と駆け巡る、屈強そうな怪力ヒーローたちであった。
さて、この時期に恰も大作主義を嘲笑うかの様にひたすら作家としての拘りを追求した作家たちがいた。これは二つのそれぞれ起源の異なるものに分けられる。一つがアメリカの内から生まれた1950年代のB級映画の流れを汲むものであり、もう一つがフランスで1960年代に新風を起こした「ヌーヴェル・ヴァーグ」の流れを汲むものである。
1960 年代の後半から1970 年代の初めにかけて、アメリカの映画産業は最悪の状態にあった。
それを打開したのが「アメリカン・ニュー・シネマ」と呼ばれるものであった。
政治の腐敗というところに帰結し、アメリカの各地で糾弾運動が巻き起こった。アメリカン・ニューシネマはこのような当時のアメリカの世相を投影していたと言われる。
しかし、ベトナム戦争の終結とともに、アメリカ各地で起こっていた反体制運動も下火となっていき、それを反映するかのようにニューシネマの人気も下降していくことになる。
このように、映画も時代と共に年々変化をしながら今日に至っている。映画史等以下参考の※007、008などが詳しく、このブログもこれらを参考に第1回カンヌ国際映画開催前後の大きな流れを書いた。

第1回カンヌ国際映画祭が開催された日ー参考
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