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第1回カンヌ国際映画祭が開催された日(2-1)

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1946年の今日・9月20日は第1回カンヌ国際映画祭開催された日である。
世界各地で開催される映画業界の祭典「映画祭」の中で、最も有名ななものは「国際映画祭」であり、同映画祭は、多様な作品の上映を中心に、優れた作品の選考や、映画売買のマーケットとしての機能も備えている。、
世界23か国・26の映画製作者団体で構成され、フランスパリに本部の置かれている国際映画製作者連盟(Fédération Internationale des Associations de Producteurs de Films, 英語:International Federation of Film Producers Associations, 略称:FIAPF)が公認している国際映画祭では、各映画祭を「コンペティティブ」(Competitive)、「コンペティティブ・スペシャライズド」(Competitive Specialised, あるジャンルに特化した映画祭)、「非コンペティティブ」(Non-Competitive, 賞の選考を目的としない映画祭)と「ドキュメンタリー/短編」(Documentary/Short Film) の4つに分類している。
因みに、「コンペティティブ」(competitive)は、名詞:「コンペティショ(competition)」の形容詞で、競争率が高い。つまり、同映画祭では、パルム・ドールグランプリ、監督賞、男優賞、女優賞などの審査対象になる作品のことで、一般的に「カンヌ映画祭○○賞受賞」と言われるものはこのカテゴリの受賞作品のことを指しているようだ。
FIAPF公認の映画祭の中で、イタリアのベネチア国際映画祭、フランスのカンヌ国際映画祭、ドイツのベルリン国際映画祭が世界3大国際映画祭として知られている。
映画祭は政治や社会の動きともかかわりが深く、1932(昭和7)年にスタートした最も歴史が長いベネチア国際映画祭は、第2次世界大戦中にファシズム政権に利用され、「ムッソリーニ杯」が設けられた時期もあった。
FIAPFが公認している国際映画は、世界三大映画祭以外にチェコのカルロビバリ、ロシアのモスクワ、スペインのサンセバスチャン、中国の上海、日本の東京、エジプトのカイロ、スイスのロカルノ、アルゼンチンのマルデルプラタ、など、合計52もあるそうだ。
その中でも、世界最大の映画祭、「カンヌ国際映画祭」は独特である。
世界最古の歴史を持つ映画祭イタリアの「ヴェネチア国際映画祭」は、最も歴史の古い国際美術展であるヴェネツィア・ビエンナーレの第18回(1932年)の際に、その一部門(映画部門)「ベネチア映画芸術国際展」として開始された。
初回の最優秀賞は観客の投票で決められた。
2年後の1934年第2回が開催され、この年からコンペティション部門がスタート。自由な作品上映を目指して始まったが、1936年にはムッソリーニ賞が設定されるなど、独裁政治家だったムッソリーニのプロバガンダとして映画祭が開催されるようになるなど、1930年代後半からファシスト政府の介入を受け、次第に政治色を強めた「ヴェネツィア国際映画祭」に対抗し、自由な映画祭をつくろうという発想のもと、フランス政府の援助を受けて開催される事になったのが「カンヌ国際映画祭」である。
1939年から開催の予定だった第1回は、当日に第二次世界大戦勃発のため中止。
結局、「第1回カンヌ国際映画祭」(La première édition du Festival international du film)は終戦後1年が経過した1946(昭和21)年の今日・9月20日 から 10月5日の間に開催された。しかし、映画祭はまだ「カンヌ」の名を冠していない(正式名=仏: Festival International du Film de Cannes)。又、この時は、古いカジノを改装して上映会場としたという。

上掲の画像第1回の会場近辺。
この「第1回カンヌ国際映画祭」には、長篇映画40本、短篇映画68本、21か国が参加した。現在の最高賞は「パルム・ドール」、次点が「グランプリ」であるが、まだこの時には「パルム・ドール」という名称は生まれておらず、同賞に当たる最高賞「グランプリ」該当作が11本選ばれた(ここ参照)。
審査員は、フランスのエコール・デ・ボザール学長で本映画祭の創立者のひとりであるジョルジュ・ユイスマンを委員長に、18か国から選出された。開会宣言は、当時の国務大臣が行なったという。
その後も、会場設備・予算などの問題などから第2回は1947(昭和22)年9月12日 〜 同25日に、第3回は1949(昭和24)年9月2日から17日にかけて開催されたが、1948年、1950年と中止が相次ぐなど当初は混乱も見られたものの、1951年(第4回)からは映画祭としての環境が整備され、この頃から1946年に完成したパレ・デ・フェスティバルが会場として使用され、世界最大の国際映画祭へと成長していった。

掲の画像がパレ・デ・フェスティバル・エ・デ・コングレ。
カンヌ国際映画祭で賞の対象となるのは、先にも述べたコンペティション部門に出品された作品のみ。審査するのは、映画祭事務局によって選出された著名な映画人や文化人などのシネフィルであり、この審査団がどのような作品を選んでくるかが、この賞の最大の面白味のようである。また、世界最大の所以(ゆえん=いわれ、理由)は、映画祭と併行して行われる「国際批評家週間」と「監督週間」にあるという。
前者はフランス映画批評家組合(SC)が主催するカンヌ映画祭とは独立した並行部門で、1962年から新人監督の作品を、後者もフランス監督協会が主催するカンヌ映画祭とは独立した並行部門で、1969年から世界中の映画監督の作品を、映画ジャーナリストたちに公開している。
 1968年の第21回にはパリの五月革命に呼応したフランスヌーヴェルヴァーグの旗手ジャン=リュック・ゴダール監督らによる実力行使により、各賞選出が中止に追い込まれるといった事件(カンヌ国際映画祭粉砕事件)が起きたり、あるいは1979年(第32回)には、この年の審査委員長を務めた作家のフランソワーズ・サガンからフランシス・コッポラの『地獄の黙示録』がグランプリをとったが、それには“審査に実行委員会から圧力がかかった”と衝撃発言が後日フランス社会党系新聞『ル・マタン』紙に発表され、スキャンダルとなる(※001:「French Mania」のカンヌ映画祭とスキャンダル参照)など、カンヌはスキャンダルにも事欠かなかったようだが、むしろ、様々なスキャンダルとともに成長してきた映画祭とも言えるようだ。
カンヌ国際映画祭は当初9月開催であったが、1951年の第4回頃からは4月から5月にかけて開催されるようになり、1957年(第10回)から5月に開催されるようになったようだ。
併設されている国際見本市「カンヌ・フィルム・マーケット」(Marché du Film)は、イタリア・ミラノの「ミフェド」(MIFED)、「アメリカン・フィルム・マーケット」(American Film Marke)と並び世界三大マーケットのひとつである。マーケットには例年800社、数千人の映画製作者(プロデューサー)、バイヤー、俳優などが揃い、世界各国から集まる映画配給会社へ新作映画を売り込むプロモーションの場となっている。
とりわけ、世界三大映画祭と世界三大マーケットが同時に開催されるのはカンヌだけであるため、世界中のマスメディアから多大な注目が集まり、毎回全世界から数多くの俳優、映画製作者が出席。毎年春の映画祭開催時期、南フランスの小さな観光都市カンヌは映画一色となる。
開催期間中は、メイン会場を始め各映画館では映画が上映され、見本市では各製作会社によるブースでプレゼンとパーティが行われる。これから公開される映画はもちろんのこと、予告編しかできていない映画やまだ脚本すらできていない企画段階の映画までが売り込みに出され売買されるようだ。

戦後アメリカの影響を大きく受けている日本の若者などには、世界三大映画祭の中でも最大の映画祭であるカンヌなどよりもアメリカのアカデミー賞の方に関心があるのではないだろうか。
アカデミー賞は、「アメリカ映画の祭典」という冠詞を付けられることが多い事からも分かる通り、基本はアメリカ映画を対象とした映画賞であり、作品の選考対象も「1年以内にロサンゼルス地区で上映された作品」と比較的狭義である。つまり、あくまでもアメリカの映画人の内輪の大会なのである。
従って、カンヌ等と違い、賞レースには、プロダクション関係のロビーストロビー活動が盛んであり、結果的に、映画の優秀さより、ロビー活動での成否が大きく影響するとも云われている。
それに対して、カンヌは、映画祭と併催される映画関連の巨大マーケットであり、権威と・見識によって各賞が決定され、アカデミー受賞作と比較しても、誰もが納得出来る優秀な作品が選抜されているといわれている。
しかし、アカデミー賞は、その知名度と世界三大映画祭よりも古い歴史(初回は1929年5月16日)を持つ権威ある賞であるため、マーケットへの影響力は国際映画祭の各賞以上に大きく、受賞結果が各国の興行成績に多大な影響を与えていることはまちがいない。このため各国のマスコミは「映画界最高の栄誉」と報道することが多い。

さて、肝心の映画のことだが、最初の1946(昭和21)年の第1回カンヌ国際映画祭開催時は社交界の集まりのようなものであり、ほぼ全ての映画に賞が授与され、世界のスターがレッドカーペットに登場した。「グランプリに選ばれた受賞作(ここを参照)。
11作品中で、私の記憶にあるのは、デヴィッド・リーン監督の『逢びき』(原題::Brief Encounter。セリア・ジョンソントレヴァー・ハワードが主演)くらいか。
互いに配偶者を持つ身でありながら道ならぬ恋に惑う男女の出会いと別れを描いた恋愛映画である。当時jまだ子供であった私が見たのは、大人になってからで、1974(昭和49)年にリチャード・バートンソフィア・ローレンの主演によるテレビ映画化でリメイクされたものだ。日本では1976(昭和51)年に劇場公開された。

上掲の画像はDVD映画「逢びき」(1974年公開)
映画の内容は、不倫してる男女の出会い・・・、邦題タイトルそのままの映画である。日本ではまだ、デートなど、不道徳なこととされていた時代、“相愛の男女が人目を避けてこっそりと会うこと(密会)”を、「逢いびき」などと云う言葉で表していた。江戸後期から使われ始めた語のようであるが、男女の出会いをなんでもデートの一言で言い表す今の時代には、懐かしい言葉ではある。
もう一つ私は映画を見ていないので詳しく語れないが当時話題になった作品が1つある。ロベルト・ロッセリーニ監督による『無防備都市』であるが、この映画のことは、この後簡単に触れる。
第2回映画祭(1947年)では、グランプリは発表されず、部門ごとの受賞となったようだ(受賞結果はここ参照)。その中で知っているのは「アニメーション賞」を受賞した (Best Animation Design)に、ディズニーの子象を主人公にした長編アニメ『ダンボ』(1941年公開映画)ぐらいである。日本では『空飛ぶゾウ ダンボ』という題名で1954(昭和29)年に公開されている。
ダンボが公開された1941年10月の時点で、既に欧州第二次世界大戦が始まっており、日米間の緊張がピークに達し太平洋戦争の勃発(12月)が間近に迫っていた時期でもあった。
Wikipediaによると、真珠湾攻撃直後のアメリカを舞台にしたスティーヴン・スピルバーグのコメディ映画『1941』(1979年)では、米陸軍のジョセフ・スティルウェル将軍が劇場で公開中の『ダンボ』を鑑賞し、母子の愛情に涙するシーンがあるそうで、日本公開当時のパンフレットによると、映画に感動して涙する件(くだ)りはスティルウェルの回顧録にヒントを得たものだという。
MGMMGMカートゥーンの『トムとジェリー』に、本作のパロディである「ジェリーとジャンボ(Jerry and Jumbo)」という短編作品が存在する。同作では子象が「ジャンボ」を名乗っている。
私の家はケーブルテレビJ:KOM(ZAQ)に加入しているが、子供たちの夏休みである8月には、602チャンネル(カートゥーンワークHD)で、日本上陸50周年記念として「トムとジェリー」の漫画を毎週放送していた。数が非常に多いのでタイトル名はいちいち覚えていないが確かその中に、小象の出てくるものがあった。久しぶりに、楽しませてもらった。

1948年は、カンヌ国際映画祭が開催されず、1949(昭和24)年第3回のグランプリ(最高賞のパルム・ドール賞)に輝いたのはキャロル・リード監督の『第三の男』.。原作・脚本を書いたのが、戦後イギリス文壇で代表的な位置に立つカソリック作家グレアム・グリーンである。
第二次世界大戦直後のウィーンを舞台にしたフィルム・ノワール。光と影を効果的に用いた映像美、戦争の影を背負った人々の姿を巧みに描いたプロットで高く評価されている。翌・1950年度のアカデミー賞では監督賞、撮影賞(白黒部門)、編集賞の3部門でノミネートされた。そのうちロバート・クラスカーが撮影賞(白黒部門)を受賞している。
この映画は、オーストリアの民俗楽器、チターが奏でるテーマ音楽と相まって20世紀屈指の古典的名作として現在でもよく知られている。私も非常に印象に残っている映画であり、また、若い頃、この曲でギターの練習もよくしたものだ。
大好きなこの映画のことは、前にこのブログ『グレアム・グリーン (英:小説家『第三の男』) の忌日』 でも詳しく書いた。
1950年もカンヌ国際映画祭は開催されず、1951(昭和26)年第4回、のグランプリにはスエーデンの監督:アルフ・シェーベルイの『令嬢ジュリー』と、ネオ・リアリズモの嚆矢(こうし)で、代表作『自転車泥棒』(1948 年)などで知られるイタリヤの監督ヴィットリオ・デ・シーカの.『ミラノの奇蹟』が入賞している。
又、審査員特別賞(女優賞)に入賞の米国『ジョセフ・L・マンキウィッツ監督のイヴの総て』は、実在の女優エリザベート・ベルクナーをモデルとしたものだそうで、主役のマーゴ・チャニングをベティ・デイヴィス)が演じ、ブロードウェイの裏側を見事に描ききったとして、アカデミー賞では、作品賞をはじめとして6部門で受賞している。
カンヌ国際映画祭はこの第4回から、毎年開催さるようになり、その様子が絶えずメディアに報道され、急速に国際的、伝説的な評判となった。
1950年代には,カーク ダグラス、ソフィア ローレン、グレース ケリーブリジット バルドーケーリー グラントロミー シュナイダーアラン ドロンシモーヌ シニョレジーナ ロロブリジーダ…といった有名人の出席により知名度を上げていった。
創設以来、カンヌ映画祭は、設立時の開催目的を忠実に守り続けているという。その目的とは、映画の発展に貢献するために作品を紹介し、援助すること、世界中の映画産業発展の援助をすること、第7芸術を国際的に称揚することだという(※002参照)。

第1回カンヌ国際映画祭が開催された日ー参考
第1回カンヌ国際映画祭が開催された日ー(2-2)


冒頭の画像はレッドカーペット

結核予防週間

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9月24日〜9月30日は「結核予防週間」である。
1949(昭和24)年から厚生省(現在の厚生労働省)と結核予防会(JATA)が実施している。
結核についての正しい知識を普及し、これからの活動を考える週間として、結核予防会では周知ポスターやパンフレット「結核の常識」等を作成配布するとともに、「全国一斉複十字シール運動キャンペーン」として全国各地で街頭募金や無料結核検診、健康相談等を実施して、結核予防の大切さを伝えている(参考※1「公益法人結核予防会」HPの結核予防週間参照)。
 
「みちのくの母のいのちを一目見ん一目みんとぞただにいそげる」 

上掲の短歌は、日本を代表する短歌結社誌『アララギ』の中心人物として明治・大正・昭和と長く活躍した歌人・斎藤茂吉の処女歌集で、1913(大正2)年に刊行された『赤光』(死にたまふ母 其の一)に所収のものである(※2参照)。
茂吉は、1882(明治15)年、山形県守谷家の三男に生まれる。生家には経済面の余裕が無く、茂吉は、15歳の頃より東京に出て浅草で精神科医院を開業するも跡継ぎのなかった同郷の医師、斎藤紀一の家に養子候補として厄介になっていた。
上京してからの茂吉は開成中学(現・開成高校)から旧制第一高校(現:東京大学の前身)へと進学、このころから歌を詠むようになり、幸田露伴森鴎外などを愛読。とくに露伴の影響は大きかったようだ。
1902(明治35)年第三学部((現:東京大学教養学部)の学生となった茂吉は、発行されたばかりの正岡子規の遺稿集第一篇『竹の里歌』(※3参照)を読んで強い感銘を受け、作歌を志すようになる。
しかし、養家の医師である斉藤家を継ぐため、同年、第一高等学校卒業後、東京帝国大学医科大学>(現在の東大医学部医学科)に入学し,1910(明治43)年に卒業している。
その翌・1911(明治44)年には、東大医科大学副手となり、精神病学を学ぶかたわら付属病院に勤務。7月より東京府巣鴨病院勤務し、授業と診療の生活が始まっていた。この時茂吉29歳。
その間1906(明39)年、子規の流れを汲む伊藤左千夫に入門し、本格的に短歌の道を歩み初めていた。
そして、茂吉が31歳の時、生母いくが1913(大正2)年5月に亡くなっている。上掲の短歌は臨終を迎えようとしている郷里山形の母に対する想いを詠んだ短歌である。東京に住んでいた茂吉。今のように飛行機も新幹線もなかった時代。 おそらく夜行列車に揺られているときに浮かんできた短歌だろう。
「一目見ん一目見んとぞ」と反復させることで、作者の願いや祈り、あせりが強く表現されている。
そんな茂吉のエッセイ(随筆)『結核症』(1926=大正15年)がある。
日本を代表する歌人でありながら、精神科医を本業としていた茂吉が、ここでは肺結核の病状が作風に影響を及ぼす例を分析している。一般的に結核性の病に罹(かか)ると神経が研ぎ澄まされ、健康な人の目に見えないところも見えて来るようになり、更に末期になると病に平気になり呑気になるものの依然として鋭い神経を持つ傾向にあるそうだ。
そして、肺結核患者は健康の人が平気でやっていることに強い厭味(いやみ)を感じたり、細かい粗(あら)が見えたりすることがあるそうで、その例として子規が若い頃は傾倒していた幸田露伴の作品に対して嫌味というか細かい指摘をしたことを挙げている。
そして子規の末期の作品を「センチメンタリズムから脱却しているが、感慨が露(あら)わでなく沈痛の響に乏しい」のは、俳人としての稽古によるものでなく、末期の肺結核特有の症状から来たものと結論づけている(参考※4:「青空文庫」参照)。

茂吉の『結核症』に出てくる正岡子規や、国木田独歩の他、高山樗牛(ちよぎう)、綱島梁川(りやうせん)、石川啄木 、森鴎外など結核で亡くなった文豪等が登場する。
正岡子規は、1894(明治27)年夏に日清戦争が勃発すると、翌1895(明治28)年4月、近衛師団つきの従軍記者として遼東半島に渡ったものの、上陸した2日後に下関条約が調印されたため、同年5月、第2軍兵站部軍医部長の森林太郎(鴎外)等に挨拶をして帰国の途についたが、その船中で喀血して重態に陥り、神戸病院(現:神戸大学医学部附属病院)に入院。その後7月には、療養のために須磨保養院へ移り、故郷の松山へ行くまでの1ヶ月間、須磨に滞在していた。
当時須磨には、鶴崎平三郎博士によって解説された日本最初のサナトリウム「須磨浦療養院」(現:須磨浦病院。※5参照)があり、紛らわしいことに、隣接して「須磨保養院」もあった(須磨浦療養院より須磨駅方向。同じ須磨浦公園内の東端)。後者は療用にも保養にも利用されていた施設で、子規はこの「須磨保養院」に滞在し、サナトリウムの医師の診察を受けていたようだ。
松山に帰郷した子規は、1897(明治30)年に俳句雑誌『ホトトギス』を創刊しているが、その4年後 1902(明治35)年9月に肺結核が悪化し34歳 の若さで死去した。辞世の句「糸瓜咲て痰のつまりし仏かな」「痰一斗糸瓜の水も間にあはず」「をとゝひのへちまの水も取らざりき」を残している、苦しんで死んだことだろう。

国木田独歩は、1905(明治38)年5月の日本海海戦で、日露戦争 の勝利がほぼ確実になると、戦後にそなえ翌1906年初頭にかけて、新しい雑誌を次々と企画・創刊して、12誌もの雑誌の編集長を兼任していた。そして、日露戦争の終結後自ら独歩社を創立したが、1907(明治40)年には破産。その上独歩は肺結核にかかる。
しかし皮肉にも、前年に刊行した作品集『運命は』(「運命論者」など9編を収める第3著作集、うち「運命論者」は※4:「青空文庫」参照)が高く評価され、独歩は自然主義運動の中心的存在として、文壇の注目の的になった。
神奈川県茅ケ崎にある結核療養所の南湖院で療養生活を送る。「竹の木戸」「窮死」「節操」などを発表するが、病状は悪化していき、1908(明治41)年6月、満36歳で死去している。

高山樗牛は、明治時代の文芸評論家、思想家である。1871年2月28日(明治4年1月10日) 現在の山形県鶴岡市に生まれた。父は庄内藩士・斎藤親信。生後高山家の養子になった。樗牛の号は『荘子』の巻頭に載せられている「逍遥遊」(何ものにも拘束されない全く自由の境地。伸びやかに遊ぶ荘子の意か・・※6参照)からという。
樗牛がこの号を用いるようになったのは、彼が仙台の旧制第二高等学校に在学中のことであったという。彼は自分の性格を良く知っていたのだった。若輩の身で天下国家を論じるような、良く言えばスケールの大きな話、悪く言えば大風呂敷と見做されるような話を好んでする性格を、樗牛は自覚していたのだった。
1896(明治29)年に東京帝国大学文科大学哲学科卒業後、第二高等学校の教授になったが、翌年、校長排斥運動をきっかけに辞任。博文館に入社し『太陽』編集主幹になった。
当時は三国干渉後で国粋主義的な気運が盛り上がっており、「日本主義」を鼓吹する評論を多く書いていたようた。一方で『わがそでの記』のようなロマン主義的な美文を書いたり、美学をめぐっては森鴎外と論争を行っていたという。
1900(明治33)年、文部省から美学研究のため海外留学を命じられた。夏目漱石芳賀矢一らと同時期の任命であり、帰国後は京都帝国大学(現:京大)の教授が内定していたが、洋行の送別会後に喀血し、入院。療養生活に入った。
翌・1901(明治34)年、留学を辞退。病中に書いた『文明批評家としての文学者』ではニーチェの思想を個人主義の立場から紹介した。また、田中智學の影響を受け日蓮研究を進めていたという。
当時病気で喀血で入院と云えば結核であった。樗牛は、24 歳の時に結核を発症してからは、時として頭をもたげてくるこの病をなだめながら、評論活動を続けたのだったが、病床に臥していたある時(1897年=明治 30年)、次のように述べているという。
「われ病にかかりて、ここにまことの人生を見そめき。あだ波たてる世の常にかけはなれて、ここに静かなる寂しきまことの世相を観じそめき。利に走り名にあこがるるともがらの外に、真の友情の貴むべき事を覚えそめき。あだにすごせし幾とせの、偽り多くつみ深きを想ひて、ここに青春の移ろひやすく、勝事のとこしへならざるを嘆きそめき。(『わがそでの記』)
この文章は、友人の姉崎嘲風との交友について、樗牛が書いたものだそうである(※7、※8参照)
1902年(明治35年)、論文『奈良朝の美術』により文学博士号を授与されたが、病状が悪化し、前年東大の講師になり週1回、日本美術を講じていたが、これを辞任、12月24日に31歳の若さで死去している。

綱島梁川 、本名:栄一郎は、1873(明治6)年5月年岡山県上房郡有漢村(現:高梁市)生まれの宗教思想家、評論家である。
1890(明治23)年に岡山の高梁教会で牧師より洗礼を受ける。1892(明治25)年に東京専門学校(後の早稲田大学)に入学。
坪内逍遥大西祝の教えを受ける。逍遥の『早稲田文学』の編輯に加わり、文藝・美術評論を書く。
横井時雄本郷教会植村正久の一番町教会(後の富士見町教会)に出席する。この頃正統的な神学に懐疑的になり、倫理に傾倒するようになった。
肺結核で神田の吉田病院に入院しているときに、副院長の橋本善次郎神戸教会牧師の海老名弾正と出会って信仰を回復。
文芸評論家として活動すると同時に、倫理学者としても活動した。病身になってからは、主に宗教の論評を発表するようになり、明治38年(1905年)に『新人』に発表した『病間録』「余の見神の実験」は大きな反響を呼んだ。この宗教的な思索は、安部能成、斎藤勇らに大きな影響を与えたという。綱島も肺結核のため満34歳で死去している。

岩手県出身の歌人、詩人石川啄木は、曹洞宗日照山常光寺住職の長男として生まれる。戸籍によると1886年2月20日の誕生だが、1885(明治18)年10月28日に誕生したともいわれているそうだ。
盛岡中学校(現:岩手県立盛岡一高)時代に、のちに妻となる堀合節子や、親友の岡山不衣金田一京助らと知り合う。
明星』を読んで与謝野晶子らの短歌に傾倒し、また上級生の野村長一(のちの野村胡堂)や及川古志郎らの影響を受け、文学への志を抱くようになる。
1901(明治34)年12月から翌年にかけて友人とともに『岩手日報』に短歌を発表し、啄木の作品も「翠江」(すいこう)の筆名で掲載された。これが初めて活字となった啄木の短歌だったという。
しかし、翌1902(明治35)年文学で立身することを決意し、盛岡中学校を中退し、11月9日、雑誌『明星』への投稿でつながりがあった新詩社の集まりに参加、10日には、当時、歌壇ではきら星の如き存在であった与謝野鉄幹・晶子夫妻を訪ねる。
東京滞在は続き作歌もするが出版社への就職がうまく行かず、結核の発病もあり、1903(明治36)年2月、父に迎えられて故郷に帰る。
1903(明治36)年 5月から6月にかけ『岩手日報』に評論を連載、11月には『明星』に再び短歌を発表し新詩社同人となる。この頃から啄木のペンネームを使い始め、12月には啄木名で『明星』に長詩「愁調」を掲載、歌壇で注目されるようになる。
啄木は貧窮と病に冒された漂白の生活の中、1910(明治43)年)には、処女歌集『一握の砂』(※4「青空文庫」で読める)を発表。新しい光を世に放つ551首が納められたこの歌集を残して、2年後の1912(明治45)年わずか26歳で夭逝した.。

森鴎外は、東京大学医学部卒業後、陸軍軍医になり、陸軍省派遣留学生としてドイツで4年過ごして、帰国後、訳詩編{於母影』、小説『舞姫』、翻訳[『即興詩人』を発表する一方、同人たちと文芸雑誌『しがらみ草紙』(※:「青空文庫」の55柵草紙の山房論文参照)を創刊して文筆活動に入った。
その後、日清戦争出征や小倉転勤などにより、一時期創作活動から遠ざかったものの、『スバル』創刊後に『ヰタ・セクスアリス』『』などを発表。乃木希典の殉死に影響されて『興津弥五右衛門の遺書』を発表後、『阿部一族』『高瀬舟』など歴史小説や史伝『澁江抽斎』等も執筆した。
晩年、帝室博物館(現在の東京国立博物館・奈良国立博物館・京都国立博物館等)総長や帝国美術院(現日本芸術院)初代院長なども歴任するなど幅の広い文芸活動とともに幅広い交際もしてきた鷗外も、1922(大正11)年、親族と親友の賀古鶴所らが付きそう中、腎萎縮、肺結核のため60歳で死去している。
森鴎外の死については、鴎外の妹で、訳詩集『於母影』の共訳者として、紅一点で名をつらねる等、女性文学者として明治期に若松賤子バーネットの『小公子』の名訳で知られる)と並び称された歌人・随筆家でもある小金井喜美子が、『鴎外の思い出』の中で、以下のように書いている(※3:「青空文庫」参照)。
「近親中で長生したのは主人の八十七、祖母の八十八でした。祖母は晩年には老耄(ろうもう)して、私と母とを間違えるようでした。主人は確かで、至って安らかに終りました。この頃亡兄は結核であったといわれるようになりましたが、主人も歿(ぼつ)後解剖の結果、結核だとせられました。解剖家は死後解剖するという契約なのです。医者でいる子供たちも、父は健康で長命して、老衰で終ったとばかり思っていましたら、執刀せられた博士たちは、人間は老衰だけで終るものではない、昔結核を患った痕跡(こんせき)もあるし、それが再発したのだといわれます。解剖して見た上でいわれるのですから、ほんとでしょう。つくづく人体というものを不思議に思います。」・・・と。
喜美子の兄、鴎外の直接の死はやはり結核によるものだったようだ.
続いて「割合に早く終った兄は気の毒でした。何も長命が幸福ともいわれませんけれど、その一生に長命の人以上の仕事をせられたのですから。・・・長年の間、戦闘員でこそなけれ、軍人として戦地に行き、蕃地(ばんち)にも渡り、停年までその職に堪えた上、文学上にもあれだけの仕事をされたのですから、確かに過労に違いありません。よくもなされたと驚くばかりですが、それにつけても、晩年にはもっと静養させたかったと、ただそれだけが残念です」・・・と。
結核で亡くなったその他の文豪たちの中では鴎外の60歳での死は湯治としては早い方ではないが、長生きの家系の中では意外と早死した兄の働き過ぎを惜しんでいる。
又、喜美子の夫は日本解剖学会初代会長などをつとめた小金井良精であり、その夫も、当時としては長生きの88歳で亡くなったがその死因は老衰ではなく解剖の結果死因は結核だったそうだ。

上記以外にも明治以降、とされる主な文豪、樋口一葉(24歳と6ヶ月)、•二葉亭四迷(45歳)、•宮沢賢治(37歳)梶井基次郎(31歳)などは、肺結核で亡くなっていると言われている。
特に梶井基次郎氏は、京都の三高在学中、四条大橋の上で文学仲間に「肺病になりたい、肺病にならんとええ文学はでけへん。」と叫んだそうだ(祖母も弟も肺病で先に亡くしている)。その直後、肺結核を発病、その後名作『檸檬』を残し、31歳で生涯を閉じたという(※9参照)。

明治時代から昭和20 年代までの永い間、「国民病」「亡国病」と恐れられた結核は、年間死亡者数も10数万人に及び死亡原因の第1位であった。
医療や生活水準の向上により、今では薬を飲めば完治できる時代になったが、過去の病気と思っていたら、結核の集団感染が学校や病院、老人ホームなどで続き、1999(平成11)年には厚生省から「結核緊急事態宣言」が出された((※10:「厚生労働省」のここ参照)。
1997(平成9)年の国内の結核新規登録患者数は42,715 人で、前年比243人増。1998(平成10)年は44,016人で、さらに1,301 人増加と、確実に増えてきた。
世界的に見ると、日本は先進国中で図抜けた罹患率( 平成10年34.8)であった(※10:「厚生労働省」のこのページの参考資料-1参照) 。
この状況は、現在でも同様である。「平成24年結核登録者情報調査年報集計結果(概況)」(※10:「厚生労働省」のこのページの参考資料 1参照)を見ても、日本の結核罹患率16.7は、米国(3.4)の4.9倍、ドイツ(4.3)の3.9倍、オーストラリア(5.4)の3.1倍である。、欧米諸国と比較すると、日本の結核罹患率は依然として高い。
このような状況から判断して、結核罹患率が、10人以下となっている欧米先進国に比べ日本はまだまだ結核は多く、現在でも世界の中では依然「“中”蔓延国」とされている状況である。
人口10万人あたり10人以下の「“低” 蔓延国」になるにはまだまだ相当年数かかるだろうし、100万人あたり1人以下の「制圧」までには50年以上かかるのではないかという予測もあるようだ。
それには、結核を知ることが予防への第一歩であり、早期発見・早期治療は本人の重症化を防ぐためだけではなく、大切な家族や職場等への感染の拡大を防ぐためにも重要である。

結核は明治前期の資本主義経済の発展と共に増え続けたと言われている。
貧しい農村か若い女性を製糸、紡績工場に集め、低賃金、重労働で働かせた。作業場も住宅も不潔で栄養不良が重なると、徐行は結核に倒れ、故郷に帰りひっそりと暮らした。このような過酷な労働条件下で働く女工について語るとき、これを「女工哀史」などともいった。
結核を患い故郷に帰った女性は、親や兄弟に厄介者扱いされるケースもあった上、家族に菌を移し、農村に結核を広げた。死亡率が高かった頃は、病名「結核」はあまりにも直接的で人々の口に出しづらかった面があったからだ。
折しも、1908(明治41)年6月、結核菌の発見をしたドイツの細菌学者コッホ夫妻が来日した。

上掲の写真はその折の記念写真。前列左がコッホ、後列右端が弟子の北里柴三郎である(画象『朝日クロニクル週刊20世紀』1913-1914 年号より。
コッホは来日時の談話で、イギリス、プロシアなどで結核が減少している理由として、
1)伝染を恐れ注意するようになった。2)一般に衛生思想が発達した。3)貧民の住宅事情を良くした。4)療養所を増やし、感染源を隔離できるようになった。・・・ことを指摘したという。これを機に日本でもようやく本格的な結核対策を講じる機運が高まったようだ。
そして、1913(大正2)年は、このような結核予防史上重要な年となった。財団法人日本結核予防協会が発足したからだ。発会式は2月11日の紀元節に行われ、会頭に芳川顕正、理事長に北里柴三郎が就任した。
それまでは北里柴三郎らの大日本私立衛生会(日本公衆衛生協会の前身、※11参照)と、2年前にクリスチャン医師ら数名により出来た白十字会(※12、※13参照))があったが、国家的な取り組みが求められていた。
同協会の事業を1939(昭和14)年に引き継いだのが、今の結核予防会である。
日本結核予防協会は啓発活動の小冊子を発行し、翌1914(大正3)年には東京大正博覧会で大がかりな展示をし、「結核征伐の歌」を製作、その後も映画、劇で広く大衆に予防を訴えた。
1、そも肺病は目に見えぬ 結核菌の襲ひ来て
強と見ゆる體(からだ)にも 呼吸に障(さわ)りあるときは
その弱點(じゃくてん)につけ入りて ついに発するものぞかし

2、されば豫防(よぼう)の第一は 結核菌を近づけず
常に體を養ひて よしかの菌の襲ふとも
打ちかつ程の體力(たいりょく)を 備へおくこそ秘訣なれ

上掲は「結核征伐の歌結核征伐の歌」1、2番、 歌詞は10番まであるようだ。
また、冒頭に掲載のものは、大正末期に作られた結核予防協会の宣伝ポスター。このころは3月27日が結核予防デーだったのだろうか。歌も、ポスターも時代を感じさせるよね〜。、

政府の方針で1917(大正6)年初めて結核療養所・大阪市立刀根山病院(現:国立病院機構刀根山病院)が開院した。
この施設は結核専門の診療所であると同時に根本的な治療方法のない結核という病気の研究機関でもあった。結核治療という分野に関していえば日本国内で最古の歴史を持つと言える。
個人の結核療養所としては、先にも書いた通り、神戸の須磨浦療病院が1889(明治22)年に設立されているが、その2年前の1887(明治20)年に、鎌倉海浜院が設立されているが,翌年ホテル(鎌倉海浜院ホテル)に転向しているので、本格的な日本最初の結核サナトリウムは須磨浦療病院といってよいであろう。
開設者は鶴崎平三郎博士で,湘南と同様,景勝の気候温暖な海浜が建設地として選ばれている。
湘南地方にはその後1892(明治25)年に鎌倉養生院、1887(明治30)年に杏雲堂平塚分院、1899(明治32)年に中村恵風園療養所と南湖院が次々と開設され、最も多い時代には12のサナトリウムが湘南地方にあったという。
この中で,医師高田畊安によって開院された南湖院は最初は5千坪強の土地から発足し、最後には5万坪の土地に総病床数200床強の施設に発展し、当時東洋一と云われた施設であったらしい。東京の医科大学の学生が施設見学にくるなど、診療の他に医学教育にも貢献している施設であったという(※1:「公益法人結核予防会」HPのここ参照)。

上掲の画像は神奈川県・茅ケ崎にあった民間の結核療養所「南湖院」。写真は、1931(昭和6)年南湖院海浜会場で衛生講和をしている様子(写真は鶴田蒔子氏蔵のもので、『朝日クロニクル週刊20世紀』1913-1914年号掲載のものより借用した)。

しかし,入院料は1939(昭和14)年に一番安い病床でも1日3円であり、1カ月入院すると100円弱かかり、当時大学出の初任給が100円くらいであったことを考えると、庶民には長く入院することは困難であったようだ。それは、湘南と同様、景勝の気候温暖な海浜が建設地として選ばれた「須磨浦療病院」も同様であった。
そのようなことから公的な療養所として最初に大阪市、そして、東京市に続いて、第3番目に建設されたのがわが地元、神戸市立療養所であったという。
須磨浦療病院のある須磨公園駅から山陽電鉄板宿まで行き、市営地下鉄で2駅目の名谷で下車、車で数分の国立神戸医療センターが、今は旧神戸市立療養所跡に建てられた施設である。1918 (大正7)年創立の神戸市立屯田療養所を伝統的母体として、1941(昭和16)年にこれを統合して現在の地(多井畑)に神戸市立多井畑療養所として開設されたものである。
1919(大正8)年には、旧結核予防法が施行され、人口5万人以上の市に結核療養所の設置が命じられ,強く蔓延していた結核に対応するために,公立の結核療養所は急速に増えていった。そして、患者の家の消毒、有業制限、結核療養所への収容や生活保護などを定め、性病やらい病などその後に次々とできる予防法の手本となった。
しかし、この当時は、まだ、患者の救済・援助よりは感染から社会を防衛する意識が強かったようだ。
先にも書いたように、かって、結核は若き天才が倒れる病気であった。1898(明治31)年徳富蘆花の『不如帰』は上流階級のモデル小説で、結核に倒れ、離縁される薄幸の新妻、浪子(大山 巌元帥の娘信子がモデルとされる)を通じて結核の残酷さを浮き彫りにした。このことは目にこのブログ蘆花忌で詳しく書いた(※14参照)。

結核とは、「結核菌」という細菌が引き起こす「おでき」のようなものだという。最初は炎症から始まり、肺ならば肺炎のような症状になる。
 炎症が進むと、組織がだめになって「化膿」に似た状態になる。肺結核ではこの状態がかなり長く続き、レントゲンなどに写る影の大半がこの時期の病巣で、その後、だめになった組織がドロドロにとけて、咳(せき)やくしゃみと一緒に気管支を通って肺の外に出され、病巣は空洞(穴のあいた状態)になる。
空洞なので空気も肺からの栄養も十分にあり、結核菌には絶好のすみかとなって菌はどんどん増殖するのだという。
 ここから菌が肺の他の部分に飛び火したり、リンパや血液の流れに乗って他の臓器でも結核菌が悪さを始めたりすることもある。こうして結核は肺全体、全身に拡がって行く。最後には肺の組織が破壊され呼吸困難や、他の臓器不全を起こして生命の危機を招くことになるという。
こう書けば怖い病気だが、予防法や治療法の発達により、現在の結核の罹患率などは明治大正、昭和前期の結核の壮絶さとはとうてい比較にならないほど低くはなっている。
しかし、先進国中でも高い水準にあるのは、日本が諸外国と比べて湿気が多いという結核になりやすい気候条件のあることが大きな理由のようでもある。加えて戦前は、衛生面で劣悪(これは日本に限ったことではないが)だったことも、感染に拍車をかけていた。
日本結核予防協会の「結核征伐の歌」じゃないけれど、「結核予防の第一は 結核菌を近づけず、常に身体を養って 結核菌に打ちかつだけの体力を備へおくことが最も基本的に大事なことではあるのだが、今後日本は更なる高齢化により、患者数が再び増加に転じる恐れが強まっており、これを食い止めるため厚生労働省や結核予防会などが結核予防の啓発活動を進めているわけである。
結核を撲滅するためには、なによりも、だれもが結核について正しい知識を持っていることが大切であり、この機会に、結核について少し学んでみるのも良いのではないだろうか(※15、※16参照)。

冒頭の画像は、結核予防会の2014年度結核予防週間のポスター。
参考:
※1:公益法人結核予防会
http://www.jatahq.org/index.html
※2:小さな資料室:資料91 斎藤茂吉「死にたまふ母」(初版『赤光』による)
http://www.geocities.jp/sybrma/91syakkou.syohan.html
※3:近代デジタルライブラリー - 竹の里歌
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/873702
※4:青空文庫
http://www.aozora.gr.jp/
※5:須磨浦病院HP
http://www5c.biglobe.ne.jp/~sumaura/
※6:(逍遥遊篇)のすべて [ 原文・読み下し・訳]
http://www.1-em.net/sampo/sisyogokyo/souji/soushi1.htm
※7:明治三十年代の文明論 : 文明批評の成立と展開<1>- 北海学園大学(Adobe PDF)
http://hokuga.hgu.jp/dspace/bitstream/123456789/1256/1/JINBUN-6-13.pdf#search='%E6%96%87%E6%98%8E%E6%89%B9%E8%A9%95%E5%AE%B6%E3%81%A8%E3%81%97%E3%81%A6%E3%81%AE%E6%96%87%E5%AD%A6%E8%80%85'
※8:高山樗牛と「冥想の松」 - 東北薬科大学(Adobe PDF)
http://www.tohoku-pharm.ac.jp/laboratory/germany/PDF%20chogyu.html.pdf#search='%E9%AB%98%E5%B1%B1%E6%A8%97%E7%89%9B+%E7%B5%90%E6%A0%B8'
※9:肺結核と文豪、文学 - やさしイイ呼吸器教室
http://tnagao.sblo.jp/article/60254385.html
※10:厚生労働省
http://www.mhlw.go.jp/kouseiroudoushou/shozaiannai/
※11:「北里柴三郎博士と日本私立衛生会」(PDF )
http://www.kitasato.ac.jp/kinen-shitsu/data/download/syonaihou_52.pdf#search='%E5%A4%A7%E6%97%A5%E6%9C%AC%E7%A7%81%E7%AB%8B%E8%A1%9B%E7%94%9F%E4%BC%9A'
※12:連載 - 結核予防会結核研究所(Adobe PDF)
http://www.jata.or.jp/rit/rj/2010_1.pdf#search='1911%E5%B9%B4+%E7%B5%90%E6%A0%B8+%E7%99%BD%E5%8D%81%E5%AD%97%E4%BC%9A'
※13:社会福祉法人白十字会
http://fields.canpan.info/organization/detail/1159347721
※14:今日のことあれこれと・・・蘆花忌(小説家・冨蘆花の忌日)
http://blog.goo.ne.jp/yousan02/e/2b06b2e4bd2f1732efd5dae461deadd1
※15:結核ってこんな病気
http://www.jazzday.net/
※16:結核(BCG) |厚生労働省
http://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/kenkou_iryou/kenkou/kekkaku-kansenshou03/
結核 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B5%90%E6%A0%B8

テレビドラマ版「男はつらいよ」が開始された日

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(語り)
私生まれも育ちも葛飾柴又です
帝釈天でうぶ湯を使い
姓は車 名は寅次郎
人呼んで フーテンの寅と発します

1)
俺がいたんじゃ お嫁に行けぬ
(*どうせ俺らは ヤクザな兄貴)
わかっちゃいるんだ 妹よ
いつかおまえの よろこぶような
偉い兄貴になりたくて
奮闘努力の甲斐もなく
今日も涙の
今日も涙の 日が落ちる 日が落ちる

2)
ドブに落ちても 根のある奴は
いつかは蓮の 花と咲く
意地は張っても 心の中じゃ
泣いているんだ 兄さんは
目方で男が 売れるなら
こんな苦労も 
こんな苦労も かけまいに かけまいに
(間奏)
男とゆうもの つらいもの
顔で笑って
顔で笑って  腹で泣く 腹で泣く

3)
どうせおいらは 底抜けバケツ
わかっちゃいるんだ 妹よ
入れたつもりが すっぽんのぽんで
何もせぬより まだ悪い
それでも男の 夢だけは
なんで忘れて  いるものか いるものか

4)
あても無いのに あるよな素振り
それじゃ行くぜと 風の中
止めに来るかと あと振り返りゃ
誰も来ないで 汽車が来る
男の人生 一人旅
泣くな嘆くな  影奉仕 影奉仕

星野哲郎作詞、山本直純作曲 『男はつらいよ』の主題歌である。
歌は主役の寅を演じている渥美清。1968(昭和43)年に全26話(一話45分)の連続テレビドラマ(フジテレビ)の主題歌として作られ、1969(昭和44)年から松竹映画でも使われた。映画5作目以降は歌詞1行目が(*印)の様になった。
しかしこの歌の冒頭の語りなど良いね〜。その後に続く歌詞にしても語調が良くて歌いやすい。日本の歌謡曲の良さがすべて出ていると言ってもいいだろう。
この寅さんの主題歌を聞いているとまるで、寅さんの映画を見ているようにそのシーンが蘇えってくる。私の大好きな歌の一つである。

映画『男はつらいよ(第1作)』の製作は、1969(昭和44)年春に始まった。テレビドラマの映画化だったことから製作する松竹内の空気は冷ややかで、前評判も注目度もそれほど高くなくシリーズ化など当初は考えられてもなかったようだ。
テレビ版『男はつらいよ』シリーズの放映がフジテレビで開始されたのは、前年(1968=昭和43年)の今日・10月3日から半年間であった。
主役の寅さんこと車寅次郎は渥美清、異母妹のさくら役は長山藍子。このテレビ版『男はつらいよ』シリーズはヒットしたが、最終回で寅次郎が奄美大島ハブを取りに行って、逆にハブに噛まれ、毒が回り死んだという結末に視聴者から局に多数の抗議が殺到し、これが映画化につながったという。以下は、1969(昭和44)年3月27日の最終話である。

[TVドラマ] 男はつらいよ(1969)最終話 ー YouTube

そして、映画『男はつらいよ』シリーズは、1969(昭和44)年8月に記念すべき第1作が上映された(冒頭の画像は『男はつらいよ』第1作のポスター)。
結果は大当たり、すぐに続編が製作され、第2作『続・男はつらいよ』は約3ヶ月後、第3作『男はつらいよ フーテンの寅』(森崎東)はその2ヶ月後、第4作『新・男はつらいよ』(監督:小林俊一)にいたっては、その1ヶ月後に公開されている。映画が予想外のヒットをしたことから松竹側が作れ作れと急かしていたようで、寅次郎というキャラクターの発案者である山田洋次自身が十分に演出をする余裕がなっかたと聞いている。
そして、第5作『男はつらいよ 望郷篇』(1970年8月公開)以降、山田が監督し、映画界一番の書き入れ時である盆と正月の年2回公開が定番となっていく。
映画の筋は極めて単純である。
テキ屋稼業を生業とする「フーテンの寅」こと車寅次郎(渥美清)は、毎度美女(マドンナ」)と出会い惚れつつも、失恋するか身を引くかして成就しないまま旅に出る。そんな、寅さんを、故郷の葛飾柴又に住む妹のさくらやおいちゃん、おばちゃんが温かく見守っていく。映画は、そんな寅次郎の恋愛模様を、日本各地の美しい風景を背景に描かれる。

●上掲の画像は、映画『男はつらいよ』映画第1作の1シーン(画像は、『朝日クロニクル週刊20世紀』映画の100年より借用)。
渥美が演じる下町育ちの風来坊・車寅次郎とその一家や旅行先で出会った人々が繰り広げる人情喜劇は、1995(平成7)年公開の第48作『寅次郎紅の花』が、渥美清の遺作となった。
この最後の48作目の作品で、寅さんは阪神・淡路大震災の被災地に立った。わが地元である神戸市の人々から「寅さんに来てもらえれば被災した人々も勇気づけられる」として、松竹サイドに依頼。山田洋次監督がそれに応えて実現したもの。

●上掲の画像:神戸市長田区の菅原市場でのロケは1995年10月24日のもの。
地元では看板や店舗、エキストラの手配まで全面的に協力した。1000人近い見物人が集まり「ほんまに寅さんや、うれしい、最高や」などと大喜びであった(画像は『朝日クロニクル週刊20世紀』1996年号より)。以下では、当時の御蔵通・菅原通の被災状況や菅原商店街での山田洋次監督の「男はつらいよ」ロケ風景などが見られる。
震災記録写真(大木本美通撮影) :御菅地区

世代を超えて親しまれてきた当シリーズの総本数48は世界最高。実に、26年間の長きにわたって公開された国民的人気シリーズは、世界長寿のシリーズとしてギネスブックにも掲載された。
映画に登場したマドンナ役は36人。最後のマドンナは浅岡ルリ子。最多出演4回を誇り、寅次郎といわば「相思相愛」だったリリーが最後というのは何かの因縁のようだ。

●上掲の画像は、寅さんとリリー役の浅岡ルリ子。最後の『寅次郎紅の花』の撮影中のツーショット。奄美諸島加計呂麻島で撮影したもの。浅岡ルリ子はリリー役を「私の一番好きな役と言ってもいいくらい」と言っていたそうだ。(画像は『朝日クロニクル週刊20世紀』1996年号より)

映画に登場するマドンナも様々だが、この映画の主題歌の方もいろいろと変化を遂げた。
テレビドラマ版『男はつらいよ』の放映が開始されたのは今日から46年も前のことであるが、フジテレビのプロデューサーだった小林 俊一は、渥美清と東京・原宿で渥美の好物にんにくソバを食べに行ったとき、渥美が「ケッコー毛だらけ猫灰だらけ」と声を張り上げ、テキ屋の話をしたのを聞いて、この時の話から渥美主演のテレビドラマを企画したという(2009年5月23日付朝日新聞be)。
ところで、若い人は「ケッコー毛だらけ猫灰だらけ」って何か知っていますか。これは、露天商などが巧みな話術で客引きの為にしゃべる啖呵売(たんかばい)と呼ばれる商売手法の一つであり、昔のと言っても私たちが子供の頃までは縁日や路上販売などで、よく行われていたもの。 渥美演じる寅さんがテンポ良く、巧みな話術で客を楽しませたうえで、ありきたりのものを売りさばく。・・・映画でも見せ場の一つだった。
この啖呵売には、いろいろある(※2:「さすらいの月虎■「男はつらいよ」独尊記」の8.寅さんの啖呵売参照)。そのうちの一つ、寅さんの映画の中での啖呵売が以下で見られる。
男はつらいよ寅さん啖呵売 - YouTube

話は元に戻って、テレビドラマの企画・監督をした山田洋次は渥美演じる主人公「寅」さん(車寅次郎)の名は落語の熊さんから発想し、熊より寅の方が良い言うことで決めたという。
又、テレビ版『男はつらいよ』には、当初、「愚兄賢妹」というサブタイトルが付いていたが、当時、TBS系列で放送されていた山田洋次監督、渥美清主演の人気テレビドラマ『泣いてたまるか』の最終回が「男はつらい」というタイトルであったことと、その頃の北島三郎が唄う演歌「意地のすじがね」の歌詞に「つらいもんだぜ男とは」という一節があったことに目を留めた小林が、この1節を上下逆にして番組のタイトルを『男はつらいよ』に決定したという。
そして、この歌の作詞が星野哲郎であったことから、自然の流れとして「じゃあ、このテレビドラマの主題歌の作詞は星野先生にお願いしよう」ということで当時面識もなかった星野に依頼したとそうだ。
しかし、突然面識のない小林俊一から、「愚兄賢妹」と云った内容のドラマの粗筋を送るから物語をどう展開しても良いように作詞してください」との作詞依頼を受けた星野は面食らったようだが、そのころちょうど仕事に飢えていた時で、「なんでもやります」と引き受けたという。
星野が最初に浮かんだのは、「俺がいたんじゃお嫁に行けぬ」だったという。そして、当時、主人公を演じる渥美の世間一般のイメージがエーザイ製薬CF(CMと同様)でのキャッチコピーが「丈夫で長持ち」という形容であったこと。また、このドラマの主人公・フーテンの寅さんはどこかそんな渥美のイメージとダブるところがあったことなどから、「目方で売ったらどうだろう」と考えたという(3番まで書いた原稿用紙が残っているようだ)。
作曲は星野より「あいつは音楽家の寅次郎だから」とクラシックの大衆化を目指していた親友の山本直純に頼んだ。頼まれた山本は、「誰にでも歌えるメロディーに」と即興に近い型で作曲したという。一流の作詞家と一流の作曲家によって作られた歌だ。良いのにきまっている。
歌は声の良い渥美が唄うことになった。渥美は歌手として「浅草日記」(1977年発売。作詞:星野哲郎、 作曲:山田つぐと 、編曲:高橋信之)などの持ち歌がある。この歌もいい歌なので興味があれば以下で聞いてみるとよい。役者でも歌手でも声の良いのが絶対条件だ。

「浅草日記」渥美清 - YouTube

寅さんの主題歌はイントロが長いので、急遽セリフ(語り)をいれたという。出来上がった主題歌について山田監督は「奮闘努力って寅には似合わないが俺なりに努力しているというユーモアがある。名曲だし、僕も好きです」と満足したという。
先にも書いたように人気のテレビドラマ版は26回の最後で寅さんがハブにかまれて死に、これに「なぜ、寅さんを殺す!」との抗議が多数寄せられたことから、山田監督は、1話完結で映画化を決意し、妹さくらを結婚させた。
ところが、映画第1作が予想外の好評を受けて続編(『続・男はつらいよ』)も作ることになった。
しかし、「お嫁に行けぬ」(1番)の歌詞ではまずいので2番の「ドブに落ちても」をつかった。そして本作から寅次郎は腹巻きにお守りぶら下げて素足に雪駄のスタイルとなっている。
第2作から2ヶ月後に公開の第3作『男はつらいよ フーテンの寅』では、1番と2番の両方が流れた。この映画、監督は山田洋次から森崎東に変わっている。この映画では、森崎自身がリアルな香具師の差別の世界をテーマに脚本を書いたのだが、それが没になり、脚本は山田洋次、小林俊一、宮崎晃の共同執筆で森崎が監督のみをすることになったのだという。
山田監督に戻った第5作からは、1番の出だしを「どうせ俺らは ヤクザな兄貴」に変えた。
更に、第17作から第19作までは4番の「あても無いのに」を使った。2番の次に「男と言うものつらいもの」が加わる作品(第2作)などもある。他にも細かい変化は多いようだ(※1:「【連載】『男はつらいよ』」の5-3 「男はつらいよ」主題歌物語や、※2:「さすらいの月虎■「男はつらいよ」独尊記」の4.「男はつらいよ」の主題歌など参照)。

この映画が受けた理由を小林俊一は「働け働けの高度成長の時代に一人逆らったのが寅。誰もがうらやましいと思った」からだろうという。
渥美は寅さんのように面白い話で周囲を笑わせたが、普段は寡黙な人だったという。

渥美が青春時代をはいずり回っていたのは 東京の浅草である。
浅草寺の隣に浅草六区が広がる。その中央の交差点に浅草演芸ホールが立つ。何人もの芸人が輩出したかっての浅草フランス座である。
Wikipediaによれば、渥美清(本名:田所 康雄)は1928(昭和3)年、東京市下谷区車坂町(現・上野7丁目)に生れた。家庭が貧乏で小学校時代は欠食児童で、しかも、病弱で様々な病気を患い学校も欠席しがちであったが、欠席中は、日がな一日ラジオに耳を傾け徳川夢声や落語を聴いて過ごし、覚えた落語を学校で披露すると大変な評判だったという。
第二次世界大戦中の1942(昭和17)年に巣鴨中学校に入学するが、学徒動員で軍需工場へ駆り出される。1945(昭和20)年に同校を卒業するも、3月10日の東京大空襲で自宅が被災し焼け出される。
卒業後は工員として働きながら、一時期、担ぎ屋やテキ屋の手伝いもしていたそうだ(親友の谷幹一に、かつて自分は霊岸島桝屋一家に身を寄せていた、と語った事があるという)。どうやら、ここで、啖呵売の手伝いをしていたようだ。啖呵売は渥美の得意とするものだったらしい。
この幼少期に培った知識が後の『男はつらいよ』シリーズの寅次郎のスタイルを産むきっかけになったともいえるようだ。
1946(昭和21)年、中学を卒業すると、高校に入学するための学力も金もなく、職を転々とした後、友人の父の新派軽演劇の座長の誘いでその一座に入り『阿部定一代記』という芝居でのチョイ役で初舞台を踏んだ。
その後、喜劇俳優の道を目指し、さまざまな劇団を渡り歩き、1951(昭和26)年6月、「渥美清」という芸名で浅草六区のストリップ劇場(百万弗劇場→観音劇場参照)の専属コメディアンになる。
しかし、翌年、同劇場が倒産し、他の劇場(川崎セントラルと云われるが・・)に移るが、1953 (昭和28)年には再び浅草に戻り、フランス座に入り、本格的にコメディアンとして活躍を始める。コメディアン仲間には、谷幹一、関敬六八波むと志佐山俊二南利明などがいた。
しかし、当時のフランス座はストリップ(ストリップティーズ【Striptease】の略)が中心でコメディアンは刺身のツマのような存在で、給料も安かった。踊り子に向きがちな観客の目を自分に向けようと渥美は必死に努力した。ここで大いにアドリブの才を磨いたようだ。
しかし、無理がたたって肺結核で入院、右肺を摘出し、3年の療養後復帰した時、フランス座で舞台の振興係をしていたのが当時上智大学の学生だった作家の井上ひさしだった。井上は渥美の為に必死に台本を書いた。この井上のおかげで渥美が世に出たと言っても過言ではないという。
井上は著書『浅草フランス座の時間』(※3参照)に、「いい喜劇役者は矛盾したものを二つ以上持っている。渥美さんは顔が空前絶後の面白さで、声が実に二枚目だ」と書いていると云う。
又、渥美と交友の長かった永六輔の手記によると、戦後の焼け跡の中から鉄くずや銅線を掘り出して現金に換える悪さをしていた子供のグループのボスとして、渥美清(田所康男)がいた。ある時、田所少年は警官に捕まって説教される。「お前みたいな一度見たら忘れられない顔は泥棒に向かないんだ。ここは浅草なんだから、役者になった方がいい。一度見たら忘れられない顔は役者に向いているんだ」と勧められたという(「週刊朝日」1996年8月30日号)。

その後、1959(昭和34)年にフランス座は改装し「浅草新喜劇」を目指したが、1964(昭359)年の東京オリンピックで普及したテレビに浅草の芸人が引き抜かれる。
渥美もNHKの「夢で逢いましょう」に出演(1961年)。更に映画『背景天皇陛下様』(1963年)に出演している。これに注目したのが、フジテレビの小林俊一であり、ここから寅さんが産まれることになった。
寅さん映画について井上は「渥美清は渥美清に扮した時が一番面白い。暴れん坊で、おっちょこちょいで気が良くて、すぐかっとなるが、相手が可愛そうになって舌鋒が鈍る。そういう自分を演じている時が最も輝く」といっているそうだ。

寅さんの映画を支えたのは、渥美と山田監督だった。渥美は寅さんのキャラクターと違い物静かな人物として知られている。「怒ったり、声を荒げたりするところなんかは見たこともないと言われている。そして、仕事とプライバシーのけじめをきっちりとつける役者だったとも・・・。
『男はつらいよ』シリーズのすべての脚本に携わり、初期の作品2本を除きメガホンをとってきた山田監督は、ヒットの理由について、「進歩を競い合っていた時代だからこそ、それに背を向けた停滞そのものの人物が受け入れられた。何か大切なものを失っていくという不安がみんなをこの映画に駆り立てたのでしょう」と分析している(朝日クロニクル週刊20世紀1996年号)。

思い起こせば、『男はつらいよ』の映画第1作が公開された1969(昭和44)年には、「東大粉砕」を叫ぶ学生たちが恐怖と闘いながら東大・安田講堂に立てこもるという事件があった(東大安田講堂事件参照)。
安田講堂を巡る学生と機動隊の攻防戦は35時間続き、籠城学生全員の逮捕に終わった。体制や権力や高度経済成長や生き残り競争を支配する価値観から見ればまことに馬鹿な生き方であったと思うのだが・・・。
このような団塊の世代大学紛争の最中にあった1960年代後半、怒れる学生たちは革命家ゲバラに憧れる一方で任侠映画に熱い思いを託していたのではないか。
全共闘の若者たちには、そこに、玉砕の美意識みたいなものが見られたのだろう。
この年の記憶に残るのは映画では、高倉健の「任侠もの」や藤純子「お竜さん」であり、歌謡曲では藤圭子の「恨み節」(※4参照)であり、劇画の「あしたのジョー」だった。
藤圭子は、「バカだなバカだなだまされちゃって」と「新宿の女」(※4参照)を歌い、翌1970年「十五、十六、十七と 私の人生暗かった」と「圭子の夢は夜ひらく 」(※5参照)を歌い人気が爆発する。このころは「はぐれもの」が受けた時代だった。
藤圭子は9歳のころから浪曲師の父母と旅をしに生きてきた。
網走番外地』(映画は※6参照)の健さんも「女ざかりを渡世にかけて/張った体に緋牡丹燃える・・・」の主題歌(※4参照)にのってゆく『緋牡丹博徒』シリーズ(映画は※6参照)の女渡世人お竜(藤純子)さんも裏街道を行く「はぐれもの」だし、チンピラ出身、一匹狼のボクサー・ジョーは、死を覚悟した最後の試合で燃え尽きた。
恐らく勝てないであろうことを予測しながらも安田講堂を巡る実力闘争に入った若者達・・・。抑圧された者がやむにやまれず決起したしたときには美しく負けよう・・・。そういった美学を全共闘の精神につなげたのではないだろうか。そこには浪花節的価値観が見られる。
一方、『緋牡丹博徒』シリーズものなどとはかなり様相を異にするが、その後30年にわたって、連作がことごとくヒットした『男はつらいよ』シリーズもこの年第1作が公開されたのだが、、こちらの方の通称寅さん映画は東京の下町に義理人情の世界を描いて日本人の共感を得た。、
そもそも映画や演劇を見る楽しみの一番大きなもののひとつは、いいセリフが朗々とした、いい調子で心行くまで語られるのを聞くことだといわれている。歌舞伎新派劇はそういうものだったし、映画では主に時代劇や任侠ものがその役割を受け持っていた。
現代劇の映画は残念ながらそうはゆかなかった。現代日本語は、歌舞伎や新派、講談落語のような雄弁術は生み出せなかったからである。
ところがその名調子のセリフの源泉である時代劇映画は1960年代に大幅に衰退し、以後は細々としか残っていない。
一時それを肩代わりしたのが任侠映画で、ヤクザの仁義啖呵をはじめ、異様なまでにメリハリの利いた美辞麗句でファンを喜ばせてくれたものであったが、約10年でその流行も終わった。
この任侠映画の流行が峠を越した1969年から、それとオーバーラップするような形で現れて、同じような名調子のセリフの雄弁術を存分に楽しませてくれたのが、寅さん映画『男はつらいよ』シリーズであった。
任侠映画が悲愴美を謳いあげるものだったのに対し、寅さん映画は喜劇だったが、時代劇が大幅に衰えて、芝居がかった七五調やそれに近い名調子は映画では、もうそこにしか残っていなかったのである。
そして任侠映画が終わった1970年代の半ば以降には、『男はつらいよ』シリーズは七五調的名せりフの最後の砦になって、以後20年間もその孤塁を守ってきたというわけだ。
孤塁というとわびしいがこのシリーズ48作がこの時代の日本映画の例外的なドル箱だったことは誰でも知っていることだろう。何故このシリーズが名せりフ、名調子の砦であり得たか。
それは、寅さんを演じる渥美清の特技がテキヤの啖呵売の話術だったからである。時代劇や歌舞伎、講談ゆずりの名セリフは、いかに名調子であっても現代に応用することはできない。任侠映画は時々現代を扱うが、これは暗黒街のものだからそのセリフは堅気の普通の人々の生活には使えない。
その点、フーテンの寅のテキ屋と云う職業は、親分子分の絆が強かったり、かってはガセネタと呼ばれるインチキ商品を売ることが多かったり、縄張り争いなどの暴力沙汰があったりで、半ばヤクザと見られていたが、基本的には、街道行商人という正業だから、普通の庶民生活の中に入ってきてもおかしくはない。
それどころか、規則づくめのサラリーマンには対極の自由気ままな風来坊にさえも見える。実際にはテキヤと云う商売も、親分子分関係の規律と全国祭礼のスケジュールに追われる厳しいものらしいが、世間の目には実態がよく判らないだけに、現代にも可能な唯一の庶民的な自由業のような錯覚も成り立たせることが出来る。
そして、そこには、講談以上にメリハリが利いて、落語以上に下世話(俗なこと)で、意表を突くボキャブラリーが止どめなく出てくる七五調の口上がある。もちろんそれは、特殊な実用話芸であって、日常会話の言葉ではないが、山田洋二と渥美清は、啖呵売の口上のセリフを『男はつらいよ』シリーズで日常会話に持ち込むことに成功した。
そして、そのことが、時代劇が衰え、任侠映画が消えた後に、唯一、七五調やそれに近い詩的言語による大衆映画、しかも現代風俗を存分に語る映画にしたのである。
一見したところ、『男はつらいよ』シリーズは、ごくありきたりな下町人情喜劇である。古くからよくある定型のものであるが、それにしては良くできている。しかし、新しい要素は何もないと評されることが多い。確かに、新しいものは特にないが、忘れられた古い庶民的雄弁術の伝統を現代に蘇らせ、それに磨きをかけ、伝統と云うものは意外なところから再発見できるものだと教えてくれた・・・という点では希有の創造性を発揮した作品だったと言えるようだ(1996年8月25日号『朝日グラフ』増刊寅さん逝くの渥美清の話芸より)。

難しいことは、ともかくとして、この映画は、家族、故郷、思いやり、心のゆとり・・・など現代の、私たちが豊かさと引き換えに失った物を描いているだけに、今も変わらぬ人気を誇るのだろう・・・。
渥美は、1996(平成8)年8月4日、転移性肺癌のため病院でこの世を去ったが、死後、日本政府から渥美に国民栄誉賞が贈られた。
『男はつらいよ』シリーズを通じて人情味豊かな演技で広く国民に喜びと潤いを与えたことが受賞理由である。俳優で国民栄誉賞が贈られるのは、1984年に死去した長谷川一夫に次いで2人目であった。
かっての本当の意味での芸人と言われる人たちがが次々といなくなって、言葉だけは洋風で立派なタレントなどと呼ばれる人ばかりになってきたのが寂しいことだ。

参考:
※歌詞説明などは以下参考と2009年5月23日付朝日新聞be「変化重ねた寅さんの歌」を参考にしている。
※1:【連載】『男はつらいよ』
http://www.gavza.com/nikoniko/tora/tora_index.shtml#menu
※2:さすらいの月虎■「男はつらいよ」独尊記
lhttp://www.asahi-net.or.jp/~vd3t-smz/torasan.html
※3:『浅草フランス座の時間』/井上ひさし - 寅さんとわたし
http://dear-tora-san.net/?p=59
※4::歌ネット-全文検索結果表示画面
http://www.uta-net.com/user/index_search/search2.html
※5:二木紘三のうた物語
http://duarbo.air-nifty.com/songs/2013/08/post-0eb9.html
※6:昭和史に残る不滅の日本映画
http://nihon.eigajiten.com/fumetu%20100sen.htm
男はつらいよ・松竹公式サイト
http://www.tora-san.jp/index.html
拝啓渥美清様
http://z-atu.zeicompany.co.jp/index.html
【連載】『男はつらいよ』
http://www.gavza.com/nikoniko/tora/tora01.html
男はつらいよ - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B7%E3%81%AF%E3%81%A4%E3%82%89%E3%81%84%E3%82%88

皆既月食

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月食(英: lunar eclipse)は地球が太陽と月の間に入り、地球の影が月にかかることによって月が欠けて見える現象のこと。望(満月)の時に起こる。
日食と違い、月が見える場所であれば地球上のどこからでも同時に観測・観察できる。
満月が完全に地球の影に隠れ、暗い赤銅色に見える皆既月食が昨日・2014年10月8日にあった。
幸い、昨夜は天気も良く、2011 年12 月以来約3年ぶりの皆既月食が欠け始めから終わりまで観測することが出来た。日本で次に見られる皆既月食は、2015年4月4日のことだそうだ。
掲載の画像.19時ごろのもの。どうしたわけか、望遠レンズが見当たらず普通にカメラのズームアップで撮った。
あまり綺麗に撮れていないが、私としてはそれなりに撮れていたのでアップした。

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漫画『アンパンマン』の生みの親やなせたかし(漫画家)の忌日

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世代を超えて愛されているアニメ『アンパンマン』の生みの親として知られる、やなせ たかしが一年前の2013(平成25)年8月に体調を崩して東京都内の病院へ入院していたが、10月13日に心不全で亡くなられて今日ではや1年になる(享年94歳)。
社団法人日本漫画家協会代表理事理事長(2000年5月 - 2012年6月)、同代表理事会長(2012年6月 - 2013年10月)を歴任していた。1990(平成2)年に勲四等瑞宝章を受賞、1995(平成7)年には日本漫画家協会文部大臣賞を受賞している(※1参照)。

やなせたかし(本名:柳瀬 嵩)は1919(大正8)年に東京で生まれるが父親が亡くなって後は、父母の郷里である高知県に移住し、高知で旧制中学を卒業後、中学生の頃から絵に関心を抱いて、官立旧制東京高等工芸学校図案科(現・千葉大学工学部デザイン学科)に進学。
卒業後、田辺製薬(現:田辺三菱製薬)宣伝部に就職するが、1941(昭和16)年に出兵。やなせ自身は、従軍中は戦闘のない地域にいたため、一度も敵に向かって銃を撃つこともなかったというが、弟は、特攻兵器回天の特別攻撃隊要員となり、台湾とフィリピンの間のバシー海峡で撃沈され戦死したそうだ。
終戦後、高知新聞社に入社し、『月刊高知』編集部で編集の傍ら文章、漫画、表紙絵などを手掛けていたが同僚の小松暢(こまつ のぶ)が転職し上京するのを知り、1947(昭和22)年に自らも退職、上京し小松と結婚。
この時期、やなせは漫画家を志していたが、東京での生活がまだ確立されていなかったために、兼業漫画家という道を選び、同年三越に入社し宣伝部でグラフィックデザイナーとして活躍(三越の包装紙「華ひらく」のmitsukoshi文字はやなせの作だという※2参照)、そして1953(昭和28)年三越を退社しに専業漫画家となる。この時が34歳。
やなせは絵本作家・詩人としての活動が本格化する前までは頼まれた仕事はなんでもこなしたといい、編集者、舞台美術家、演出家、司会者、コピーライター、作詞家、シナリオライターなど様々な活動を行っていたようだ。当時の漫画の代表作にはニッポンビール(のちのサッポロビール)のキャラクターとなった四コマ漫画「ビールの王さま」がある(※2参照)。
そんな中、1960(昭和35)年に、永六輔作演出のミュージカル「見上げてごらん夜の星を」(テーマソング「見上げてごらん夜の星を」が坂本九の歌でヒットしたことでも知られる)の舞台美術を手掛けた際に、作曲家のいずみたくと知り合い、翌1961(昭和36 )年に『手のひらを太陽に』を作詞(作曲:いずみたく)。

ぼくらはみんな 生きている
生きているから 歌うんだ
ぼくらはみんな 生きている
生きているから かなしいんだ
手のひらを太陽に すかしてみれば
まっかに流れる ぼくの血潮(ちしお)
ミミズだって オケラだって
アメンボだって
みんな みんな生きているんだ
友だちなんだ

『手のひらを太陽に』。より1番を抜粋(3番まであり)。
この歌にも、やなせの哲学が滲んでいる。同曲は教科書に載るほどのスタンダードな曲ともなっているが、多くの作詞を手がけたやなせ最大の代表作ともなっている。

手のひらを太陽に tiebao - YouTube

その後、いずみたくとコンビを組み「0歳から99歳までの童謡」シリーズ(ここ)を続け、代表作を詩集『こどもごころの歌』として自費出版している。以下でその試聴が出来る。

やなせたかし・いずみたくからの歌のおくりもの 「0歳から99歳までの童謡」

又、1969(昭和44)年、虫プロダクションの劇場アニメ『千夜一夜物語』(大人のためのアニメーション。「アニメラマ-3部作」の一。「アニメラマ-3部作」については、※3を参照)制作の際に、エロチック路線を求めていた手塚治虫は、やなせの漫画を気に入り美術監督として招き入れたという。
同作がヒットしたお礼として、手塚は、やなせが1967(昭和42)年に手掛けたラジオドラマ「やさしいライオン」をアニメ映画化し、毎日映画コンクール大藤信郎賞を受賞。同作はやなせの代表作のひとつとなっており、後にフレーベル館より絵本にもなっている(※4のここ参照)。以下では、アニメ映画の一部が見られる。

やさしいライオン - YouTube

このようなメルヘン童話の作り手であったことでも知られているやなせは、この頃、まだ、大人漫画を描く漫画家が中心の団体「漫画集団」に所属していた。
そんな時、NHK総合テレビで放送されていた児童向け番組 『まんが学校』が、1964(昭和39)年4月から1967(昭和42)年3月まで3年間放映された。
今の日本のマンガブームの時代では、子供も)大人も普通にマンガを読んでいるが、60年代はまだ少年マンガというのは一種の「ブーム」であり、親や家によっては読むのを禁じられたりもしていた。
そうしたブームを踏まえての番組だったが、当時のお堅いNHKがまず民放より先に、こういう番組を作ったのが面白い。
司会は、落語家の故立川談志)で、やなせは「漫画指導」という講師役の立場で毎回出演していたが、この出演をきっかけに、大人漫画から子供漫画の方へ変わっていったようだ。
1973(昭和48)年には、雑誌『詩とメルヘン』(ここ参照)を立ち上げ長く編集長を務めたが、このメルヘン童話にはとりわけ思い入れがあったようで、自分が作ったメルヘン作品の中でも「『やさしいライオン』がなければ、アンパンマンは生まれなかったと思う」と述べていたことが、やなせスタジオのHPの中で紹介されている(※4のここ参照)。
又、『詩とメルヘン』の編集長を務める一方で、「漫画家の絵本の会」という同人サークルを立ち上げるなど、詩人・絵本作家としての活動を本格化させた。

アンパンマン誕生のきっかけは、1973(昭和48)年にフレーベル館より刊行された幼稚園・保育園向けの月刊絵本『キンダーおはなし絵本』(※5参照)であり、「あんぱんまん」というタイトル

上掲がその時の『あんぱんまん』である。
しかし、もともとのアンパンマンの原型作品は、『PHP』という雑誌に連載されていた(大人向けの)短編童話『こどもの絵本』(単行本のタイトルは『十二の真珠』)の中の一つ(第10回連載「アンパンマン」10月号)であった。
この時の主人公のアンパンマンは顔がパンとは違い普通の人間であるなど現在と大きく異なる設定が幾つか見られるが、空腹の人のところにパンを届けるという骨子は同一だった。
しかし、主人公アンパンマンの、小太りで不格好な姿には当時、流行し始めていた仮面ライダーウルトラマンなどの正義のヒーローへの疑問と反発が込められていたとする専門家もいるようだが、京都国際マンガミュージアム 学芸室員 倉持佳代子さんは、以下のように言っている。
「(一般的なヒーローは)マント一つ汚さずに飛び去っていく。壊した町も、どうなったのか分からない。そういうヒーローって、本当の正義なんだろうか。
本当におなかがすいて困って、一人ぼっちで寂しくてって言う人のところには、そういうヒーローは、なぜか現れない。誰をいったい助けているんだろう、そういう疑問があって、それでアンパンマンを思いつかれたんだろうと思います。」・・・と(※7参照)。
そして、このアンパンマンを発展させたキャラクターとして、『キンダーおはなし絵本』には、茶こげたマントに身を包み、あんパンでできた頭部を持つ「あんぱんまん」が登場することになった。
この絵本の『あんぱんまん』は、ひらがなで表記されていたが、それは幼児向け作品であり、カタカナ書きでは違和感があったからだというが、1975(昭和50年)には、キャラクター名を片仮名に変更した続編の絵本『それいけ!アンパンマン』が出版されている。
ここでも主人公のアンパンマンは格好のわるい正義のヒーローだ。得意技のアンパンチ(※8参照)で、バイキンマンをやっつけるが、相手が倒れるほど徹底的には痛めつけない。そして、お腹がすいた子供に自分の顔をちぎって食べさせヨレヨレになる。
「声高に語る正義は嘘くさい」「正義も悪もない。唯一ある正義はひもじい者に食わせることだ」。
飢えた人を助ける新ヒーロー誕生の裏には、飢餓に直面した自身の戦争体験があったようだ。先にも書いたように、やなせは、1941年に入隊し中国大陸で戦争を迎えた。代表作の『手の平に太陽を』の「ミミズだって オケラだって アメンボだって みんな みんな生きているんだ 友だちなんだ」の歌詞は、、戦争で得た死生観に裏打ちされたものだと言われている。
24歳で中国に出征したやなせは、飢えに苦しみながらも、戦争の正義を信じて戦ったことだろう。ところが、敗戦を境に、自分たちの信じた正義は一変し、悪魔の軍隊と呼ばれるようにもなった。
今放送中のNHK連続テレビ小説「花子とアン」でも、敗戦後に、親友であった蓮子から「息子の純平を戦地に送り戦死させたのは戦時中に子供向のラジオ放送で、子供たちを戦争に駆りたてたからだとヒロインの花子が責められ、又、親友の朝市も戦時中に学校で子供を戦争に駆り立てる教育をした。そして、花子の兄吉太郎も憲兵などしていた自分に生きる資格はないとそれぞれが悩んでいた。
やなせも軍人として戦争を経験し、死にはしなかったものの食べるものがなく飢えには苦しんだようだ。地域によっては飢えた兵隊が死んだ人の肉だって食べたという話を聞いたことがある。
先の戦争では内地に残っていた銃後の国民の方がつらい目にあった人の数は圧倒的に多い。戦火に合わなくてもは飢えに苦しんだ。
戦争に正義の為の戦いなどない。正義は或る日突然逆転する。A国にとっての正義がB国にも正義だとは限らない。正義は信じがたいものなのだ。「声高に語る正義は嘘くさい」「正義も悪もない。唯一ある正義はひもじい者に食わせることだ」・・。これが飢餓に直面した戦争から体験したやなせの哲学となったのだろう。

そうだ!嬉しいんだ生きる喜び
たとえ胸の傷が痛んでも

何の為に生まれて 何をして生きるのか
答えられないなんて そんなのは嫌だ!
今を生きることで 熱いこころ燃える
だから君は行くんだ微笑んで。

そうだ!嬉しいんだ生きる喜び
たとえ胸の傷が痛んでも。

嗚呼アンパンマン優しい君は
行け!皆の夢守る為

上掲は「アンパンマンのマーチ 」(1番抜粋)。歌は以下で聞ける。

アンパンマンマーチ -YouTube

「アンパンマンのマーチ」は、テレビアニメ『それいけ!アンパンマン』のオープニングテーマ曲として放送開始以来変わらず使用され続けており、『それいけ!アンパンマン』関連のほぼ全てのアルバムにも収録されている。また、最近の童謡として親しまれている。
しかし、この歌、小さな子供には少々難しすぎる気もするのだが・・・。
これに対して、やなせは「子供に容赦する必要はないというのがぼくの持論。だから、『あんぱんまん』のテーマー曲に『何の為に生まれて 何をして生きるのか』という哲学的な歌詞を入れた」・・と言っているそうだ。この歌の問いかけこそがやなせの人生のテーマーでもあり、以下の様にも言っているとも・・・。
「生きていることが大切なんです。今日まで生きてこられたなら、少しくらいつらくても明日もまた生きられる。そうやっているうちに次が開けてくるのです。」・・と。

東日本大震災が発生した時には、その直後から、被災地支援を続けた。ラジオで繰り返し、「アンパンマンのマーチ」が流れ、被災地の子供達からアンパンマン宛ての手紙が届いたという。
やなせ自身は、アンパンマンのヒットの時期から既に体調は必ずしも良好ではなく、60歳代末期には腎臓結石、70歳代には白内障、心臓病、80歳代には膵臓炎、ヘルニア、緑内障、腸閉塞、腎臓癌、膀胱癌、90歳代には腸閉塞(再発)、肺炎、心臓病(再発)と病歴を重ねていたようで、震災のあった2011年春には、視界もぼやけてきたことを理由に周囲には、漫画家引退の考えを告げていたようだが、「引退はやめた。死ぬまで現役だ」と宣言。
「ああアンパンマンやさしい君はいけ、みんなの夢まもるため」と書いたポスターを配ったという。
岩手県陸前高田市の奇跡の「一本松」には特に暑い思いを抱いていたようであり。枯死した一本松保存の為に1千万を寄付。自ら作詞・作曲した歌「陸前高田の松の木」には、こんな歌詞がある。
「ぼくらは生きる。負けずに生きる。生きていくんだ オー オー オー」・・・。

そういえば、NHK総合テレビ『爆笑問題のニッポンの教養』に出演したやなせが、ぬいぐるみで埋め尽くされたアンパンマン部屋で爆笑問題(太田光・田中裕二)を相手に、この歌を大きな声で熱唱していたのを思い出した。以下でそのシーンが見れる。

「陸前高田の松ノ木」やなせたかしSings~IMG

震災の翌・2012(平成24)年6月の日本漫画家協会賞の贈賞式を最後に、高齢と体調不良を理由に後任の理事長はちばてつやに譲り、自身は会長に就任した。

、アニメ映画の製作はその後も続き被災地の支援に尽力したやなせは、”復興三部作”と名付けた映画シリーズの制作に着手していたが、その第1作震災からの「復興」がテーマの『それいけ!アンパンマン よみがえれ バナナ島』(第24作)は、2012(平成24)年7月に公開された。
第2作目の「希望」をテーマとした、『それいけ!アンパンマン とばせ! 希望のハンカチ』(第25作)は、2013(平成25)年7月に公開された。
この舞台挨拶では、「なんとか今のところは死なないでいるんだけど、まもなくだね。病院からはあと2~3週間しか生きられないって言われてる」「死ぬ時は死ぬんだよ。笑いながら死ぬんだよ。そうすれば映画の宣伝になる。死ぬまで一生懸命やるんだよ」と笑いながら語っていたという。

しかし、2013(平成25)年8月に体調を崩して入院し、同年10月13日、心不全のため94歳で死去してしまったが、その6日後の10月19日にやなせの遺作の詩を掲載した季刊誌『誌とファンタジー 24号』が発売された。
やなせは、入院して闘病中だった9月、遺言のようにも読める誌3編を編集者に託していたという。
「一世紀近く生きてきましたから、もう、おしまいです。・・・・ぼくは、未熟の生まれ 死ぬ時も 未熟のままで かえって かえって よかったような気もします」
同誌巻頭の「編集前誌」は、宙を舞う天子のイラストが添えられていた。

上掲の画像は、季刊誌『誌とファンタジー 24号』の「編集前誌」(鎌倉春秋社)。画像は2013年10月17日付朝日新聞社海面より。

「天命」と題した詩は「もはや 無駄な抵抗はせぬ ゼロの世界へ 消えて行くでござる」とつづり、骸骨に向き合って悠々とした表情の老侍が描かれており、もう一遍の「チャーリー」では「ぼくの人生喜劇 シリーズ ついに全巻の終わり」と喜劇王チャップリンを思わせるイラストが微笑んでいるという。
同誌は、やなせの責任編集で2007年創刊。「今の殺伐とした世の中で必要なのは、抒情の復活だ」と話していたそうだ(※9参照)。

やなせが生前に公開できなかった「復興三部作」のラストを飾る「それいけ!アンパンマン りんごぼうやとみんなの願い』 が公開されたのは、今年・2014(平成26)年7月5日のことであった。

上掲の画像は『りんごぼうやとみんなの願い』 の映画のチラシ。

同映画は、やなせによる最後の絵本『アンパンマンとりんごぼうや』が原作。キャッチコピーは「みんなの“ふるさと”は、ぼくが守るよ!」。
この映画には、やなせが最も伝えたかったことが込められている。映画チラシには2種類あるがその説明には以下のように書かれている。
格好いいヒーローに憧(あこがれ)るりんごぼうやの”ふるさと”アップルランド。ある日突然、アップルランドのりんごが何者かに毒りんごにされてしまう。大切な”ふるさと”を守るため”魔法の種”を探すアンパンマンとりんごぼうや、途中、困難にぶつかりながらも諦めないアンパンマンの勇気ある姿を見て、りんごぼうやは、真のヒーローとは何かに気が付く。
途中、アンパンマンと一緒にリンゴちゃんの心を込めたリンゴ作りを手伝ったり、困った人を助けて「ありがとう」と云われると、心の中がぽかぽかすることを知る。
困難にぶつかりながらも決して諦めずにみんなのために頑張るアンパンマンの勇気ある姿を見て、りんごぼうやは、恰好良いだけでない真のヒーローとは何かに気付くのである。大切な”ふるさと”を守るため、アンパンマンとばいきんまん達も力を合わせて戦う。みんなの願いはとどくのだろうか・・・。映画は、「望郷と故郷の再建」をテーマとした内容になっている。

昨2013(平成25)年4月には我が地元神戸市ハーバーランドに「神戸アンパンマン子供ミュージアム&モール」がオープンした.。
阪神・淡路大震災以降、客が減りつ続けていたハーバーランドへの来場者が増えたと聞く。増えた理由はは、このアンパンマン子供ミュージアムの影響大と聞く。うれしいことだ。

神戸アンパンマンこどもミュージアム&モール(神戸市中央区)- YouTube
神戸アンパンマンこどもミュージアム&モール - YouTube

やなせたかしは 、漫画家として国民的ヒーロー・アンパンマンをこの世に送り出したが、年齢的hなものもあるが、私にはそれ以上に偉大な詩人であり、芸術家であったな・・・という印象が強い。

冒頭の画像は、在りし日のやなせ たかし氏。2011年2月朝日新聞インタビュー時のもの。2013年10月16日朝日新聞朝刊より。。
参考:
※1:(社)日本漫画家協会HP
http://www.nihonmangakakyokai.or.jp/
※2:会社員から出発した、やなせたかし94年の人生と作品集-NAVWRまとめ
http://matome.naver.jp/odai/2138209381931941901
※3:アニメラマ三部作
http://columbia.jp/dvd/mushipro/animerama/
※4:アンパンマンショップ(やなせスタジオのHP)
http://www.anpanmanshop.co.jp/
※5:フレーベル館:キンダーブック
http://www.kinder.ne.jp/#header
※6:それゆけアンパンマン
http://anpanman.jp/index.html
※7:アンパンマンに託した夢~人間・やなせたかし - NHKオンライン
http://www.nhk.or.jp/gendai/kiroku/detail02_3423_all.html
※8:アンパンマンとは【ピクシブ百科事典】
http://dic.pixiv.net/a/%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%91%E3%83%B3%E3%83%9E%E3%83%B3
※9:やなせさんの“遺言”を季刊誌が掲載―nikkansports.com芸能
http://www.nikkansports.com/entertainment/news/f-et-tp0-20131016-1204891.html
※10:「それいけ!アンパンマン りんごぼうやとみんなの願い」7月5日公開 やなせたかし先生最後のメッセージ | アニメ!アニメ!
http://animeanime.jp/article/2014/02/06/17362.html
ヒョロ松さん・・・今日のことあれこれと・・・
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白蓮事件

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白蓮事件」とは、大正時代に福岡の炭鉱王・伊藤伝右衛門の妻で、歌人として知られる柳原白蓮(本名伊藤子[あきこ])が、滞在先の東京で出奔し、愛人の帝国大学(現東大)を卒業したばかりの弁護士宮崎龍介と駆け落ちした事件である。

「虚偽を去り真実に就く時が参りました。依って此の手紙により私は全力をあげて女性の人格的尊厳を無視するあなたに永久の決別を告げることにいたします」

1921(大正10)年の10月20日付「大阪朝日新聞」夕刊に掲げられた「絶縁状」の一部である(『朝日クロニクル 週刊20世紀』女性の100年より)。
新聞紙上で伝右衛門の妻白蓮から夫への絶縁状が公開されたことに対して、夫・伝右衛門からも反論文が掲載されるなど、マスコミのスクープ合戦となり、センセーショナルに報じられ、「女性解放」を叫ぶ大正デモクラシーを背景に、当時賛否両論の大論争を巻き起こした。

白蓮事件と言っても分からなかった人でも、先月までNHKの朝ドラ『花子とアン』の中で、主人公のはな(村岡花子)の修和女学校時代からの「腹心の友」である蓮子が仕事のために上京する夫の伝助に同行し、隙を見て宿から抜け出し、宮本と駆け落ちをし、翌日、伝助に宛てて「絶縁状」を書き宮本に郵送を頼むが、その絶縁状は彼女の意に反して新聞に公開される・・・といった内容があったのは覚えているだろう。
この部分は、実際にあった「白蓮事件」を題材にしたものであり、テレビで、仲間由紀恵演じる葉山蓮子は柳原 白蓮を、吉田 鋼太郎演じる九州の炭鉱王・嘉納伝助は、伊藤伝右衛門を、大和田健介演じる蓮子の愛人・宮本純平は宮崎龍介をモデルにしたものである。
NHKのドラマ『花子とアン』は、『赤毛のアン』に代表されるモンゴメリなどの英米児童文学の日本語訳版を著し、明治から昭和の混乱期に翻訳家として活躍した実在の村岡花子(主演:吉高由里子)の半生をもとにしたテレビドラマであるが、もう一つの物語の軸として仲間演じる葉山蓮子の人生がクローズアップされ、第5週、第6週では蓮子がヒロインとなる扱いを受けている。
これにより、彼女のモデルとなる柳原白蓮の生涯を小説にした『白蓮れんれん』(林真理子著※1参照)が注目を浴び品切れ店が続出し、柳原白蓮が2度目の夫・伊藤伝右衛門と10年間暮らした旧伊藤伝右衛門邸(※2、※3参照)へ多くの観光客が詰めかけるなどの現象が生じているという。
私も、同ドラマを毎朝楽しみにして見ていたが、同ドラマの主役である村岡花子の生涯よりも、むしろ、花子とともに激動の時代を生き抜いた「白蓮事件」の当事者である柳原白蓮や伊藤伝右衛門、宮崎龍介などの人物の生き方の方が、その時代を象徴しており、興味があったことから、ここでは、「白蓮事件」をテーマにこのブログを書いた次第である。

柳原白蓮(本名:宮崎子、旧姓:柳原)は、大正から昭和時代にかけての歌人で、大正三美人の一人に数えられた美貌の持ち主である。(冒頭の画像は柳原白蓮)。
Wikipediaをベースに、伊藤伝右衛門との結婚に至るまでの柳原白蓮(本名:子)の生い立ちを見てみよう。
子の父は藤原北家の流れを汲む公家で、後に伯爵家となった柳原前光大正天皇の生母・柳原愛子の兄).である。したがって、子は大正天皇の従妹(いとこ)にあたる。
ただ、子は、父・前光が華やかな鹿鳴館で誕生の知らせを聞いたことから「子」と名付けられ、前光の正妻・初子の次女として入籍されているが、生母は初子ではなく前光の妾のひとりで、柳橋芸妓となっていた奥津りょうであった。
しかし、りょうは柳橋の芸妓とはいえ、その父は幕末の外国奉行でもあった新見正興という没落士族幕臣)であり、それ相当の家柄の出身である。
江戸幕府崩壊後、武士の権力も失われた時代、生活も困窮し、生きてゆく為に母親のりょうは、その美貌を売り物に芸妓になるしか方法はなかったのだろう。りょうは18歳で子を出生後、7日目には子を柳原家の正妻・初子に預けた後、病気がちになり、子の顔を見る事もかなわないまま子3歳の時に病死しているという。
その後、初子のもとで華族の娘としてしつけられ、9歳で遠縁にあたる子爵・北小路隨光(きたこうじ よりみつ)の養女となる。
北小路家は夫婦の間の子がいずれも早世したため、父・前光の弟が養子となっていたが、隨光が女中に男子(資武)を生ませた事から養子関係が解消となり、その代わりに資武の妻にする条件での養子縁組であったという。
北小路家は経済的には苦しかったようだが、養父の隨光により和歌の手ほどきも受け、13歳で華族女学校(現・学習院女子中等科)に入学。
しかし、思春期の盛りで子が他の男と同席するだけで嫉妬して暴力をふるう事もあったという7歳年上で知的障害があったともいわる資武が、結婚相手である事などそれまで知らなかった子は結婚を急がせる養父母に泣いて嫌だと抗議するが聞き入れられず、結局、華族令とそれを元に定められた柳原家範という法の管理下にあった子に選択の余地はなく、結婚を承諾させられ、間もなく妊娠した子は女学校を退学。
1900(明治33)年、北小路邸で質素な結婚式が挙げられ、翌1901(明治34)年、15歳で男子(功光)を出産している。

●上掲の画像は北小路家時代、16歳の子。
出産後、北小路家縁の京都へ一家で引っ越すが、友人も居ない京都で、子の養育は久子に取り上げられ、幼い同級生と子供のように遊びながら家で女中に手を付ける夫とは夫婦の愛情も無く、子は孤独を深めるばかりであった。
結婚から5年後、子の訴えにより事情を知った柳原家と話合いが持たれ、1905(明治38)年、子供は残す条件で離婚が成立し、20歳で実家に戻った。
しかし、子は「出戻り」として柳原家本邸へ入れてもらえず、母・初子の隠居所で監督下に置かれ、門の外に一歩も出る事のない幽閉同然の生活となる。挨拶以外にほとんど誰とも口をきかない生活の中、義理の姉・信子の計らいで古典や小説を差し入れてもらい、ひたすら読書に明け暮れる日々が4年間続いた。
その間、再び子の意向と関わりなく縁談が進められ、結納の日取りまで決められるが、子は家を飛び出し、乳母の家に走ったが、乳母は子の幽閉中に死去していた。そんな子を信子が庇い、柳原家の家督を継いでいた兄・義光夫妻の元に預けられる。
1908(明治41)年、兄嫁・花子の家庭教師が卒業生であった縁から、東洋英和女学校(現・東洋英和女学院高等部)に23歳で編入学し、寄宿舎生活をおくる事となる。
この頃、信子の紹介で佐佐木信綱主宰である短歌の竹柏会に入門。このころから本格的に短歌の創作に打ち込むようになったようだ。
最初の結婚で華族女学校の中退を余儀なくされた子には、再び学ぶことができる幸せな学園生活であったようだ。女学校ではずっと年下の生徒達とも打ち解け、中でも後に翻訳者となる村岡花子とは親交を深め、「腹心の友」となり、信綱を花子に紹介しているという。
NHK朝ドラ『花子とアン』で「修和女学校」となっているのが、「東洋英和女学校」のことであるが、ドラマでは、修和女学校時代の暗い子を花子がかばうような感じで描かれていたが、何か真実とは逆の様である。また、子はここで、慈善事業に関心を持つなど見聞を広めた。

子は1910(明治43)年3月、東洋英和女学校を卒業。11月、上野精養軒で子と九州の炭鉱王・伊藤伝右衛門との見合いが行われた。
仲介者は西郷従道の義弟の得能通要(西郷従道の妻・清子は、通要の父得能良介の長女で通要の姉。※4参照)と三菱鉱業門司支店長で、柳原家とも関わりがある高田正久で、子は当日、それを見合いだとは知らされていなかったようだ。
見合い当時の伝右衛門は50歳、炭鉱労働者からの叩き上げであり、学問はなく、妻を亡くした直後であった。
話は当事者を抜きに仲介の人々によって早々にまとめられたという。
親子ほどの年齢差・身分・教養ともあまりに不釣り合いであり、日の出の勢いの事業家で富豪とはいえ、労働者上がりで地方の一介の炭鉱主が「皇室の藩塀(ばんぺい。国家・王室を守る壁・者)」たる伯爵家から妻を娶るのは前代未聞の事で、「華族の令嬢が売物に出た」と話題になったという。
異例の結婚に新聞では、柳原家への多額の結納金や媒介者への謝儀、宮内省への運動資金など莫大な金が動いた事が書き立てられたが、その背景には貴族院議員である兄義光の選挙資金目的と、一代で成り上がり、代議士や賞勲など様々な肩書きを得た伝右衛門が、後妻に名門華族の家柄を求めた事があったから・・・と見られているようだ。
25歳で肩身の狭い出戻りの身の子は、年齢差の大きい夫は妻を大切にしてくれる、伝右衛門が女学校を経営しており、その財力で女子教育や社会奉仕ができるという兄嫁の説得を受け入れた。最初の不幸な結婚から離れて、今度こそ平和な家庭を得て本当の愛を受けたい、という思いがあったという。
翌1911年(明治44年)2月22日、日比谷大神宮で結婚式が行われ、帝国ホテルでは盛大な披露宴が行われた。
東京日日新聞では結婚式までの3日間に亘り、2人の細かい経歴等を書いた「子と伝ねむ」というタイトルの記事が連載され、“黄金結婚”と大いに祝福された。
NHK連続テレビ小説『花子とアン』で,、子は、窮乏する伯爵家を救うために嫁に行ったという設定になっていたが、子の父柳原前光の妻初子は、裕福な伊予(愛媛県)宇和島藩主伊達宗城の次女であり、実際には娘を身売りしなければならないほど金に困っていたとは思われない。結婚式を前にした新聞取材に対し、伝右衛門は柳原家や仲介者に多額の金銭を送った記事について否定しているというし、子の兄・義光は不釣り合いな結婚については「出戻りですからな」と答えているそうだから、子が美女であったこと、出戻りとはいえ元公卿の家柄であり、見合いの話を持ってきたのが伝右衛門の仕事に関係する三井鉱山の実力者であったことなどが結婚の本当の理由ではないだろうか。

「金襴鍛子の帯締めながら、花嫁御寮は何故泣くのだろう」

1923(大正12)年、に発表された日本の抒情歌『花嫁人形』(作詞:蕗谷 虹児、作曲:杉山長谷夫、誌は※6参照)。この歌詞は、柳原白蓮がモデルになっているという説もあるようだが、実際にはどうなのだろうか?私には少々疑問があるのだが・・・。

●上掲の画像は、1911(明治44)年3月、伊藤伝右衛門と柳原子・結婚写真。
明治、大正、昭和にかけて福岡県中部の筑豊地域は当時石炭エネルギー供給地日本一の場所であった。 当時「筑豊御三家」と呼ばれた家は麻生、貝島、安川であった。
麻生の麻生太吉(第92代内閣総理大臣、現:、副総理兼財務大臣、金融担当大臣の麻生太郎の曽祖父)は庄屋・安川の安川敬一郎は下級武士・貝島の貝島太助は貧農から炭鉱夫を経て実業界に身を投じた。
出身の違いはあれど、三者とも埋蔵されていた明治初年の筑豊炭田採掘から身を起こし、それで蓄えた財産を元手に政界への進出や他の産業への経営・投資を行ったことで共通している。
安川は主家の黒田家を背景とし、敬一郎は、元帥海軍大将子爵井上良馨の娘の秀子を妻としている(※5参照)。
貝島は政治家井上馨を顧問格として迎えた上で、鮎川義介日産コンツェルン創始者)と縁戚関係(太助の四男貝島太市が義介の妹フジと結婚。)にあった。
また鈴木幸夫著『閨閥 結婚で固められる日本の支配者集団』(1965年)58頁によると、「もともと麻生家は、福岡の土豪である。麻生太賀吉の祖父・太吉の代に、祖父伝来の土地から、石炭を発見、貝島炭鉱の貝島太助から事業上の手ほどきを受けた。 また貝島の紹介で、井上馨候に接近、採掘権などの法的手続きを有利にし、ついに九州三大石炭財閥の一つにのしあがった。」という。
そして麻生太賀吉は吉田茂の娘婿となった。その長男が太郎であり、寛仁親王妃信子は太郎の実妹であるから、仁親王は、麻生太郎の義弟にあたる。
この筑豊御三家に続いたのが、蓮子を後妻にした福岡の炭鉱王、伊藤伝右衛門である。

日本には古来皇室を中心にした政略結婚が広く行われ、天皇の外戚になることによって権力を行使する摂関政治といった政治形態が成立していた。
また、武家政権が成立してからも、武家同士、あるいは武家と公家との間の政略結婚は広く行われた。前者の場合、勢力の保持、増大が目的であり、後者では勢力の補完に主眼がおかれているといえる。江戸時代には武家と公家との間の婚姻が将軍家と有力大名家、天皇家と宮家、摂家などの有力公家との間に盛んに行われ、それぞれの影響力の補完が行われた。
明治時代に入ると、華族制度が成立した。華族には公家華族、大名華族、勲功華族などあり、それぞれが格式や実力などに強み弱みがあったため、それぞれを補完するための通婚が行われた。また華族は皇室の藩屏なので当然、天皇家、宮家を巻き込んだものとなった。
富国強兵殖産興業の結果現れた資本家や高級官僚も格式や政治力を得るために華族との通婚を望み、経済的、政策的な支援が期待できることから華族も資本家や高級官僚との婚姻による関係強化を望んだ。そのような閨閥づくりは今の時代でも形を変えて粛々とおこなわれている。
第二次世界大戦後、華族制度は廃止されたため、政・財・官の分野で有力な一族の間での通婚が盛んに行われ、各々の影響力を保持、強化に努めるようになった(※5参照)。
身分が低く、幼少時から苦労に苦労を重ねて成功し、筑豊御三家に続く福岡の炭鉱王とも呼ばれるようになった伊藤伝右衛門が、蓮子のような美しく、そして身分の高い女性を妻に出来るのならしたいと考えたとしても、至極当然なことであっただろう。

伝右衛門は子を迎え入れる為、福岡県嘉穂郡大谷村大字幸袋(現飯塚市)の旧伊藤邸(本邸)は贅を尽くした大改築が行われた。そして、敷地面積約2300坪という敷地に、部屋数25という広大な家屋を設けた。しかも、その内部は京都からわざわざ宮大工を呼んで技を尽くさせたという。
特に二階の子の居室には、竹の節だけを残した欄間(らんま)や銀箔を張った襖など驚くような技法を使い、子好みに仕上げており、また、天井に結界を設け、平民はこれを境に立ち入り禁止にするなど、伝右衛門は子に精一杯気を遣っていたようだ(※2参照)。
この縁談で子の興味を惹いたのは伝右衛門が建てたという女学校であった。
子供の時に北小路家に引き取られ、若い結婚と悲惨な失敗、離婚の傷心と出戻りという立場。鬱屈した彼女の慰めは詩作であり、東洋英和女学校での勉学であった。
だから子は、伝右衛門が女学校を持っていると聞き、女学校時代の束の間の青春を思い出し、女学校運営を再婚生活の希望にしたいと考えていた。
赤貧から一代で身を起こせたのも、己一人の力ではないと、得た利益を地域社会に還元するのは当然だと、貧乏な郡の財政に代わって女学校を建ててやっていたが、伝右衛門自身女子教育に関心があったわけではなかった。そのため、女学校設立の費用全額を寄付し、女学校の運営を、伊藤家は一切放棄していたため、夢見ていた女学校の経営は叶えられず、子はがっかりしたことだろう。
そのうえ、子は、伊藤家の複雑な家族構成を知らされる。前妻との間に子供がいないと聞かされていた伝右衛門には、妾との間に小学6年の実娘・静子がいた。養嗣子として妹の子供で大学生の金次、その弟で小学1年の八郎がおり、父の伝六が妾に生ませた異母妹にあたる女学生の初枝や母方の従弟などもそこで暮らしていた。伝右衛門は若い頃の放蕩が過ぎて子供ができない身体であり、子は実子を持つ事が出来ない不安定な立場で、大勢の使用人・女中・下男も暮らす複雑な大家族の女主人となった。
それまで派手な女遍歴があった伝右衛門だが、子との結婚にあたり、長年に亘る妾のつねと別れるなど身辺整理はしていたが、女中頭のサキは家中を切り回すために必要として家に置いており、妾の立場で家を取り仕切るサキと、子は激しく対立する。
このような正妻と妾を同居させるというようなことは、いくら男尊女卑の時代とはいえ、少々非常識と言わざるをえないが、それは、伝右衛門の粗野や無神経のためというより、幼少時の一家離散のトラウマのためであったかもしれない。しかし、これでは、伝右衛門は幸せでも、子はたまったものではなかっただろう。
それでも、子はまず家風の改革に取り組み、伝右衛門も、又、食事や言葉遣いといった家風改革や子供の縁組みなど子の希望を出来る限り受け入れた。子の世話で1915(大正4)年には娘の静子の婿養子に堀井秀三郎(赤穂浪士・片岡源五右衛門の子孫)を迎え、1918(大正7)年には異母妹である初枝の婿養子に山沢静吾男爵の子息・鉄五郎を迎えた。そして、大正鉱業の二代目を継いだ養子の八郎は、妻を子の縁者にあたる冷泉家から迎えている。

●上掲の画像1914年(大正3年)頃、子と11歳の八郎
そんな歪んだ結婚生活の懊悩・孤独を子はひたすら短歌に託し、竹柏会の機関誌『心の花』に発表し続けた。師である佐佐木信綱は、私生活を赤裸々に歌い上げる内容に驚き、本名ではなく雅号の使用を勧め、信仰していた日蓮にちなんで「白蓮」と名乗ることになったという。そして、1911(明治44)年、『心の花』6月号で「白蓮」の号を初めて使用する。
和歌など無縁なものであった伝右衛門だが、伊藤家の農園で子が中秋名月の歌会を開いた時には、その席に出て客の接待に当たった事もあったという。また福岡市天神町と別府市山の手に、後には「あかがね(赤銅御殿)御殿」(屋根に赤銅が葺 かれていた)と称された豪奢な別邸を造営して歌人として自由に活動させ、歌集の出版資金を出したりもしている。子も又、病に倒れた伝右衛門の看病もしたといわれているし、また、筑豊疑獄事件(※8参照)に伝右衛門がかかわると、子は贈賄側の証人として出廷し伝右衛門を弁護する優しい面もあったようだ。
公の場に表れた事で話題となり、大阪朝日新聞が「筑紫の女王子」というタイトルで連載記事を載せたことがきっかけとなり、白蓮が子である事、「筑紫の女王」という呼び方が全国的に知られるようになる。

●1918年4月11日大阪朝日新聞。
話は戻るが『心の花』に作品を発表し始めた白蓮は、1915(大正4)年に第一歌集『踏繪』を自費出版し歌の世界で頭角を現した。

われは此処に神はいづくにましますや星のまたたき寂しき夜なり
われといふ小さきものを天地(あめつち)の中に生みける不可思議おもふ
踏絵もてためさるる日の来(き)しごとも歌反故(ほぐ)いだき立てる火の前

『踏絵』は哀愁と情熱とロマンに満ち人々を魅了。白蓮の才色兼備を讃える声は高まるが、『踏絵』という作品を通して、人々は、筑紫(つくし)の果(はて)の父親の様な年上で、無学な鉱夫あがりの成金のもとに、まるで人身御供ように嫁いでいった藤原氏の血を引く娘・・・・、その子は踏絵よりも厳しい刑を受けているような哀れな存在として受け止められるようになったようである。
同じ佐佐木信綱の竹柏園に通って古典を学んだ長谷川時雨が『美人伝』の中で、「柳原子(白蓮)」について書いたものがある。以下参考の※7:「青空文庫」のここ参照)
孤立を深めた子は、伊藤家の外に世界を求めたが、福岡天神の別邸は、実際には、利用していなかったようだが、1916(大正5)年に建築された大分・別府の別邸では白蓮を中心にサロンが形成され、竹久夢二高浜虚子など著名な文学者らがたびたびこの地を訪れた。
『踏絵』に続き、1919(大正8)年3月、詩集『几帳のかげ』・歌集『幻の華』刊行。
別府の別荘を訪れた菊池寛が、1920年(大正9年)に出版した『真珠夫人』(※7:「青空文庫」参照)は子がモデルと言われ、ベストセラーになっている。
白蓮が同年戯曲『指鬘外道(しまんげどう)』を雑誌『解放』に発表。これが評判となって本にする事になり、打ち合わせのために1920(大正9)年1月31日、『解放』の主筆で編集を行っていた宮崎龍介は、たまたま九州出身であった事から、同誌の執筆者である白蓮との打ち合わせのため、別府の伊藤家別荘を訪れた。
龍介は子より7歳年下の27歳。日本で孫文(孫逸仙)(、辛亥革命を起こし、「中国革命の父」、中華人民共和国と中華民国では国父と呼ばれる>宮崎滔天の長男で東京帝大学法科の3年に在籍しながら新人会(東大を中心とする学生運動団体)を結成して労働運動に打ち込んでいた。
新人会の後ろ楯となったのが吉野作造ら学者による黎明会であり、『解放』はその機関誌であった。
勉学に勤しむ暇もなく炭坑一筋で続けてきた無学の伝右衛門と比べ、東大出のインテリで、両親共に筋金入りの社会運動家の血を引き、時代の先端を走る社会変革の夢を語る龍介は、子がこれまで出会った事のない新鮮な思想の持ち主であり、心惹かれるようになり、事務的な手紙の中に日常の報告と恋文が混じる文通が始まり、次第に龍介との逢瀬を持つようになる。
やがて龍介の周囲で子との関係の噂が広まり、華族出身のブルジョワ夫人との恋愛遊戯など思想の敵として、1921(大正10)年1月に龍介は『解放』の編集から解任され、4月には新人会を除名された。この事は子の心を一層龍介に傾かせたようだ。
そして、1921(大正10年)年8月、京都での逢瀬で子は龍介の子を(みごも)ったことを知る。早急に竜介は新人会時代の仲間である朝日新聞記者の早川次郎」や赤松克麿らに相談して、子出奔の計画がねられ、子は、10年間生活をした伊藤家を出奔し竜介と駆け落ちをする。そして、10月22日、大阪朝日新聞は子の家出を報じ、同夕刊に『子の絶縁状』を掲載した。

●上掲の画像は、1921年(大正10年)10月、事件当時の柳原白蓮と宮崎龍介。
そこには、10年もの間の愛のない結婚、伊藤家の複雑な家庭事情、伝右衛門と女中との不穏な関係など、子が結婚以来受けていた苦痛を暴露する内容がが連綿と綴られていた。
伯爵家生まれの白蓮の2度目の結婚は金の為という噂があったが、みずからその結婚を否定して「愛する人」と生きることを宣言したのだから、当の妻から絶縁状をでかでかと掲載された男の驚きは想像を絶するが、世間の人々もあっとのけぞたことだろう。
その3日後、同年10月25日から28日までの4日間、「大阪毎日新聞」に掲載されたのが、「絶縁状を読みて子に与ふ」という伊藤伝右衛門の反論文である。この『子の絶縁状』と、伝右衛門の反論文は全文が以下参考※9:「絶縁状と白蓮事件」に書かれている。
その伝右衛門の反論文『絶縁状を読みて子に与ふ』には、
「子!お前が俺(わし)に送った絶縁状というものはまだ手にしていないが、もし新聞に出た通りのものであったら、随分思い切って侮辱したものだ。見る人によったら、安田は刀で殺されたが、伊藤は女に筆で殺されたというだろう。妻から良人(おっと)へ離縁状を叩きつけたということも初めてなら、それが本人の手に渡らない先に、堂々と新聞紙に現れたというのも不思議なことだ。」
・・と書かれているように、白蓮の絶縁状は伝右衛門に届いておらず、新聞沙汰になるなど知らなかった。
妻には離婚権がなく、姦通罪のあった男尊女卑の時代、華族の身であってみれば縛りはより厳しく、このような道ならぬ恋は命がけであった。
したがって、世間に自由と人権を訴えるために宮崎龍介と友人である赤松克麿と、朝日新聞の早坂記者が一緒になって白蓮が書いた原稿を修飾し、この過激な計画を考え、又、朝日の早坂がスクープ狙いで記事を独占し発表したようだ。
その幾重もの縛りを振りほどいて愛人のもとへ走ったこの事件はマスコミでスキャンダラスに報道された。
当時世間の指弾は男をコケにした女に集中したようだが、「日本のノラ(イプセンの戯曲『人形の家』の主人公)」と評価する声もあったようだ。
又、伝右衛門の反論文『絶縁状を読みて子に与ふ』も、伝右衛門自らが書いた文章ではなく、彼が汽車の中で口頭で話した事の経緯を、大阪毎日新聞の記者が興味本位で面白おかしく仕立て上げた文章だったという。伝右衛門の意に沿わぬ形で掲載されていき、当初は全10回の掲載が予定されていたものを、伝右衛門が4回で打ち切ったものだという。この反論文によって伝右衛門は周囲から責められ、伝右衛門自身も苦悩したとのことだが、伝右衛門は親族会議の場で、事件については「末代まで一言の弁明も無用」と固く言い渡したそうだ。
白蓮にしても、伝右衛門にしてもマスコミに踊らされた被害者だと言っていいのではないか。生まれも育ちも、そして親子ほどの年齢差もある全く対照的な二人、御互いに相手を理解しようと努力はしたようだが、上手くゆかなかったということだろう。今の若い世代など性格の不一致だけで離婚なのだから・・・。
いずれにしても、白蓮は、大正時代を生きる人々にとっては、情熱とロマンの象徴でもあったのだろう。なよなよとした風情だが芯は強い。
この事件により、白蓮(子)の兄・柳原義光(異母兄)は貴族院議員を引責辞職するなど柳原家に致命的な痛手をもたらす結果となった。二人も結ばれることなく、子は再び柳原家の監禁の身となり、そこで駆け落ち騒動の最中にできた竜介の子・香織を出産している。
その後、紆余曲折を経て、1923(大正12)年9月の関東大震災をきっかけに、香織と共に宮崎家の人となった子は、それまで経験した事のない経済的困窮に直面することになる。
弁護士となっていた龍介は結核が再発して病床に伏し、宮崎家には父滔天が残した莫大な借金があったという。
復帰後の龍介は、1926(大正15)年に吉野作造・安部磯雄とともに独立労働協会を結成、続いて社会民衆党中央委員となり、1928(昭和3)年11月の第16回衆議院議員総選挙(男子25歳以上の者で実施された最初の男子普通選挙.)に出馬するが、演説会場で昏倒し喀血して絶対安静の身となる。子は龍介に代わって選挙運動の演壇に立ち、色紙を売るなど選挙資金を作って夫を支えたが落選している。

●上掲の画像は1928年、社会民主党から出馬した夫・宮崎龍介の選挙を手伝う子(画像は『朝日クロニクル週刊20世紀』女性の100年より)。 
龍介と結婚後の子は華族を除籍されるが、貧しさの中で母として妻として人間として充実した日々を自分の手で獲得し、二人の子をなしながら文筆業で夫の社会運動を支え、81歳で龍介竜にみとられ没するまで、幸福に暮らしたという。竜介はその4年後の1971(昭和46)年この世を去った(享年78歳)。

冒頭の画像は、柳原 白蓮。
参考:
※1:白蓮れんれん/林真理子のあらすじと読書感想文
http://www5b.biglobe.ne.jp/~michimar/an/0012.html
※2:旧伊藤伝右衛門邸
http://www.kankou-iizuka.jp/denemon/index.htm
※3:炭鉱王・伊藤伝右衛門と筑紫の女王・白蓮が過ごした豪華絢爛な旧邸
http://fff.bi-ki.jp/town/12094/
※4:安川敬一郎 ー旧財閥安川男爵家ー|近代名士家系大観
http://ameblo.jp/derbaumkuchen/entry-11814806329.html
※5:『企業の進むべき道』⑤~閨閥の歴史に迫る その1:政界を牛耳る歴代宰相・政治家~高級官僚閨閥~
http://bbs.kyoudoutai.net/blog/2012/05/1293.html
※6:花嫁人形 歌詞の解説・試聴 - 世界の民謡・童謡
http://www.worldfolksong.com/songbook/japan/hanayome-ningyo.htm
※7:青空文庫
http://www.aozora.gr.jp/
※8:九州の大疑獄事件 - 神戸大学 電子図書館システム
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=10065077&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1
※9:絶縁状と白蓮事件-九州あちこち歴史散歩
http://www.kyushu-sanpo.jp/kanko/fukuoka/byakuren-c/byakuren-c.html
柳原白蓮と白蓮事件
http://yanagiwara-byakuren.hatenablog.jp/
『花子とアン』モデル白蓮 美智子妃ご婚約に猛反対していた
http://ameblo.jp/miminokikoenai/entry-11896649402.html
短歌(1)情熱の歌人 柳原白蓮 生けるかこの身死せるかこの身
http://blog.livedoor.jp/hujikawa516/archives/1541260.html
『花子とアン』も描く白蓮の駆け落ちは朝日新聞の仕込みだった!?
http://lite-ra.com/2014/07/post-247.html
白蓮事件 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E8%93%AE%E4%BA%8B%E4%BB%B6

御嶽山が初噴火した日

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御嶽山が初噴火したのは1979(昭和54)年の今日・10月28日のことだった。
(冒頭の画像は、1979年噴火の状況である。画像は国土地理院-「火山の地図」の報告書>御嶽山(PDF)[5.5MB]に、掲載のものを借用)。

木曽のナァー なかのりさん
木曽のおんたけ ナンチャラホーイ
夏でも寒い ヨイヨイヨイ

長野県木曽地域の民謡「木曽節」の1節である(全歌詞、木曽節の由来は※1参照。)。

私は、この歌を聞くと、昔見た日活映画「白夜の妖女」(1957年。※2参照)を思い出す。泉鏡花原作の『高野聖』(※3参照)を脚色して、月丘夢路葉山良二のコンビに、滝沢修大矢市次郎などのベテランが脇を固める名画である。
弘法大師の開山以来千年の間、仏教の聖地として女人禁制であった高野山が、明治5年、この禁がとかれることになった。全山の僧侶達は反対したが、ただ一人高野の聖と仰がれている宗朝老師は「自分には女人禁制などと口にする資格がない…」と、僧侶一同の前で若き頃の懺悔ばなしをはじめたところから映画は始まる。
そして、そのなかで、24歳の若い宗朝(葉山良二)は飛騨高山から善光寺に向う山中で道に迷い、やっと見出した家には、妖しいまでに美しい女(月丘夢路)と白痴の小人夫婦が住んでいた。
宗朝が一夜の宿を乞うと、女は天然の岩風呂に案内した。しかも、その美女は自分も全裸になって入浴するのだった。その夜、初めてみた女体の美に修業の身の自信を失った宗朝は、・・・・。
女性の魅力に負け一夜を共にしそうになった宗朝も我を取り戻し、女も魔性を棄てた。そして、そこから逃れる宗朝。宗朝とともに逃げようと、女は白痴の手を引いて、宗朝を待たせた崖に戻ったが間に合わず諦めると白痴をつれ、沼の真中に舟を漕ぎ出した。突然、「木曽のオ、御嶽さんはア……」と白痴がこの世のものと思えぬ不思議な美しい声で無邪気に切々と歌い出したが・・・。この映画の女を演じる月丘夢路は本当にきれいだったな~・・・。なんてそんなことはこの際どうでもよい。
山中に響く、「木曽節」。それまで私が聞いたことのある木曽節とは異なり、とても不思議な魅力があった。その時、あ〜、民謡なんて、本当はこうなんだろうな〜と、つくづく思ったものだ(正調木曽節を※1で聞くことができる)。
この「木曽節」は、木曽地域に近世から伝わる民謡であり、木曽の材木を河川に流して運ぶ「川流し」をモチーフに、木曽川や周囲の山々と人情を歌い上げており、歌詞中の「中乗り(なかのり)さん」は諸説あるが、材木をに組んで木曽川を下り運搬する人たちで、先頭を「舳乗り(へのり)」、後ろを「艫乗り(とものり)」、真ん中を「中乗り」といったというのが一般的な解釈のようである。歌詞中には「木曽五木」(江戸時代に尾張藩から伐採が禁止された木曽谷の五木、ヒノキ・アスナロ・コウヤマキ・ネズコ(クロベ)・サワラの五種類の常緑針葉樹林)が歌いこまれている。
この歌の「木曽の御岳さん」とは、長野岐阜県境、東日本火山帯の西端(旧区分による乗鞍火山帯の最南部)に位置する複式火山御嶽山のことである。
標高3,000mを超える山としては、日本国内で最も西に位置し、また、日本の山の標高順で14位の山であり、火山としては富士山に次いで2番目に標高が高い山である。
その最高峰は中央火口丘(カルデラまたは大きな火口の内部に生じた、新しい小さな火山体。)の剣ヶ峰であり、標高は、 3067m。ほかに外輪山の摩利支天山 (2959m) ,継母岳 (2868m) 、側火山(寄生火山)の継子岳 (2859m) などがある(※4参照)。山頂には、南北に一ノ池から五ノ池までの噴火口跡が一列に並び、長い裾野を形成している。
もともとは,富士山に匹敵する高さの成層火山であったと推測されており、大爆発によって崩壊した土砂は土石流となって川を流れ下った岐阜県各務原市付近の各務原台地には御嶽山の土砂が堆積しており、水流によってできた火山灰堆積物が地層となっている。この大爆発によって剣ヶ峰、摩利支天山、継母岳の峰々が形成された複成火山であり、その山容はアフリカのキリマンジャロ山に似ているといわれているそうだ。

御嶽山は、木曽御嶽山、御嶽、王嶽、王御嶽とも称されているが、山名の由来は、遠く三重県からも望め「王御嶽」(おんみたけ)とも呼ばれていた。古くは坐す神を王嶽蔵王権現とされ、修験者がこの山に対する尊称として「王の御嶽」(おうのみたけ)と称して、「王嶽」(おうたけ)となった。その後「御嶽」に変わったとされている(※5参照)。
修験者の総本山の金峯山は「金の御嶽」(かねのみたけ)と尊称され、その流れをくむ甲斐の御嶽武蔵の御嶽などの「みたけ」と称される山と異なり「おんたけ」と称されている。日本には多くの山と嶽が存在するが、近世から近代にかけて「山は富士、嶽は御嶽」と呼ぶようになり、富士山を「山」の代表として、木曽の御嶽を「嶽」の代表としてきた。
ところで、「山」と「嶽」では意味はどのように異なるのだろうか。明確な区分はないが、「山」は、単一の頂上を持つ、すっきりした山容をもつもの、反面、多くのピーク(※6参照)から構成された、連峰のごつごつした山塊を「嶽」と呼んでいるようだ(※7参照)。
木曽の御嶽山と同名の山(御嶽山・御岳山)が日本には多数あり、その最高峰である。
美しい曲線を描きながら天に向かって聳える富士の高嶺と、溶岩質のごつごつとした峰が王冠のように連なる木曽御嶽、全く異なった山容を持つ両山であるが、大きな共通点は、この二つの山が、ともに古来から山岳宗教の霊山とされてきたことであり、富士山山頂には富士山本宮浅間大社(全国の浅間大社の総本社)の奥宮があるように、御嶽山の山頂には御嶽神社(※5参照)奥社がある。
中世までの日本の山岳宗教は、修験者(山伏)とよばれる人々によって担われてきた。彼らは何十日も、ときには数年間も山々に参籠し、激しい修行(※8の精進潔斎参照)に身を挺すことで山に座す神仏との合一を目指したものであった。山は、厳しい戒律と行に耐えることのできる、限られた人々のみ入る事を許された聖地であった。
しかし、平安・鎌倉・室町の中世時代から、民間信仰が結びつき、そうした修行を積む修験者だけではなく、都市や農村に住む庶民が結成した「」とよばれる信仰集団による登山が盛んにおこなわれるようになった。こうした講中登山が最も活発であったのが、富士山と木曽御嶽であった。富士山に登る富士講と御嶽を目指す御嶽講は、修験者などだけに許されていた聖なる山を大衆化した代表的な存在といえる。但し、これらの講中は、決してレジャーのために登山をしていたわけではない。彼らも登山を通じて心身の清浄化(軽精進潔斎)を目指し、頂きに立つことにより山に座す神仏と一体化を図ろうとしていた。講中にとって山嶽の自然は、山の神仏が現前したものとされていたのであった。
こうした集団登拝は江戸時代末まで続き、1784(天明4)年、尾張の行者・覚明(かくめい)によって三岳村の黒沢口が開かれ、1794(寛政6)年には武蔵國の行者・普寛(ふかん)によって王滝口が一般民衆に開放され、これを期に木曽周辺にとどまっていた御嶽信仰(※8の御嶽信仰とは参照)が全国的な信仰へと拡大されていき、信者による集団登拝が盛んに行われ、現在も白装束の登拝者が見られる山である。
1868(明治元)年には、黒沢口8合目の「女人堂」が御嶽山で最初に山小屋としての営業を開始。1872(明治5)年に女人禁制が解かれるまでは、避難小屋などとして登拝者に利用されていてた女人堂から上部への女性の立入りは禁じられていたが、明治初期に外国人の登頂により近代登山が始まり、1894(明治27)年にウォルター・ウェストンが登頂して以降、一般の登山者にも登られるようなった。
其の後、百名山ブーム(日本百名山新日本百名山花の百名山ぎふ百山などに選定)もあって、大勢の登山者が来るようになり、山頂につながる登山道が王滝口、黒沢口、以外にも開田(かいだ)口、日和田(ひわだ)口、小坂(おさか)口の3つが開設されている。
このうち、王滝口は標高2180メートルまで車道が通じており、駐車場に車を止めて登山できる。最高峰の剣ケ峰までは約3時間の行程。ロープウエーで標高2150メートルまで登ることができる黒沢口からも、約3時間半で登頂可能。いずれも朝から登れば昼ごろに頂上に到達し、夕方に下山できることから人気があり、多くの登山者が訪れる。

御嶽山の詳細図 → 御嶽山頂より見える名山(Adobe PDF)

そんな登山者に人気の御嶽山が、今年・2014(平成26)年9月27日に噴火し、1991(平成3)年の雲仙普賢岳火砕流による犠牲者数を上回る事態となった。

上掲の画像は、動画投稿サイト「ユーチューブ」に投稿された噴火の映像。2014・09・28朝日新聞朝刊に掲載のものを使用した。

そもそも我が国は 110(気象庁、2011年)の活火山をかかえる世界でも有数の火山国であり、これまで多くの火山災害が記録されている。
以前は、死火山休火山であるとみられていたが、御嶽山の最後のマグマ噴火は、2006(平成18)年に行われた岐阜県の調査および2008(平成20)年に行われた国土交通省多治見砂防国道事務所や産業技術総合研究所の調査によれば、約5200年前の火砕流を伴う噴火を含め、2万年間に4回(約1万年前以降、約1万年前、約9000年前、約5200年前、約5000年前)のマグマ噴火を起こしているようであり、また、水蒸気噴火は数百年に1回の割合で、堆積物として残る規模のものが発生しているという。
その御嶽山が,突如噴火したのは、1979(昭和54)年の今日・10月28日のことであった(冒頭の画像参照)。
御嶽山の火山活動で、記録に明らかに示されている初めての噴火がこの時の水蒸気爆発による噴火であるが、それまでに、1976年~1978年にかけて王滝村付近で群発地震が観測されていたそうだ。
1979年の時の噴火は、10月28日に剣ヶ峰南西の地獄谷の頭部付近で噴煙活動が始まった。噴火は北西-南東方向の雁行状の火口列を生じ、約20数万トンの火山灰を噴出したという。しかし、活動は28日夕方に弱まり、翌29日早朝には著しく衰えたという。
その後地震地殻変動火山性微動 ,小規模な水蒸気噴噴火(水蒸気爆発)を繰り返していたが、今回の噴火は2007(平成19)年の水蒸気噴火から、7年ぶりのものであり、又、噴火の規模は、1979(昭和54)年の初噴火以来最大規模のものである(1979年の噴火に関してはここを参照)。

今年・2014(平成26)年9月27日の噴火での新たな火口は、1979年噴火の火口列の南西250 - 300m付近の位置に平行に複数個が形成され、最初の噴火では火砕流も発生し火口南西側の地獄谷を約3km程度、火口北西側の尺ナンゾ谷(御岳・継母岳)にも流れ下った事が観測されているという。
とはいえ、今回の噴火では、御嶽山が有史以来初めて噴火した1979(昭和54)年の水蒸気爆発の時より長い日数噴火してはいたものの、その噴火規模は、1979(昭和54)年の時と同程度とみられるが、1979年当時の噴火での死者の記録はないらしいが、今回は、なぜ、ここまで被害が拡大したのか・・・。その被害者の多くは山頂部で発見されたといわれている(死亡57人。安否不明6人)。

御嶽山噴火で死亡した人の数(2014・10.27朝日新聞朝刊より)
「火砕流も発生したが、その多くが、観光客のいない南側の谷に流れ落ちていたにもかかわらず多数の人的被害を出した要因は、噴火した日が「紅葉シーズンの土曜日、午前11時52分という噴火のタイミングと場所だった」
御嶽山は、高山植物や希少動物が生息するなど豊かな自然が魅力の一つで、特に9月下旬〜10月中旬は、8合目周辺でナナカマドなどが色づき、1年間で最も登山者が多くなる時だ。多くの登山客は絶景を眺めながら昼食をとろうと山頂付近に集結しており、噴火はそのそばで起きた。そこへ、噴石が次々に降り注いできたという(※11、※12参照)。
又、今回の噴火は1979(昭和54)年の時同様、水蒸気爆発型噴火であったが、9月10日には52回、翌11日には85回の火山性地震が観測されており、12日には気象庁は「火山灰等の噴出の可能性」を発表(ここ参照)し、各自治体にも通知したが、山の表面の膨張や火山性微動といったマグマの上昇を示すデータは観測されなかったため、警戒レベルは平常時と同じ1のままで、レベル2(火口周辺規制)には変更せず、その後地震の回数が減ったことから、自治体も注視するに留めていた。結果として登山者への喚起は特に行われず、ほとんどの登山者は噴火に対する備えや予備知識が無く、無警戒のままだった。噴火警戒レベルが3に引き上げられたのは、2014(平成26)年9月27日に噴火、南側斜面を火砕流が流れ下ってからであった(噴火警戒レベルについては※10:「気象庁・火山」の噴火警戒レベルの説明参照)。気象庁の火山課長は、「地震の回数だけで噴火の前兆と判断するのは難しい」との認識を示している(※13参照)という。
噴石・火山灰の危険については、火口から約1km圏内では、直径数cmから50 - 60cmの大きさの噴石が、最大時速350 - 720kmで雨のように降り注いだと見られているが、頂上付近は森林限界のため身を隠すような樹木はなく、避難場所となる小屋や御嶽神社の社務所などに逃げ込む前に多くの人が死傷したという。
それに、救助活動において、負傷者・行方不明者の人数が錯綜した要因として、各施設に設置されている登山計画書(登山届)提出箱への投函や警察機関への提出が任意であったことなどがあったとされている。
今回の被害拡大の要因にはこのような複数の原因が重なったことが挙げられており、今後二度と同じような被害を起こさないためには、今回の反省点についての対策が望まれる。兎に角、亡くなった方のご冥福を祈るばかりである。また、捜索が難航してまだ行方不明者の救助されていない人がいるが、積雪の影響で、すでに今季の捜索は打ち切られた由。さぞや、ご親族の方はつらいことでしょう。 ご同情申し上げます。

このような火山の噴火は御嶽山だけの問題ではない。なにしろ、日本は活火山が110もある火山国である。
2011(平成23)年3月11日に発生した東日本大震災の直後から活動が活発になった火山がある。つまり、地下で地震が増えた火山ということで、ざっと20近い火山の地下で地震が起き始めたと、地球科学者の鎌田 浩毅 氏(京都大学大学院 人間・環境学研究科教授)はいう。中でも富士山が気になるというのだが・・・・(※14参照)。
今、気象庁は、噴火災害軽減のため、全国110の活火山を対象として、観測・監視・評価の結果に基づき噴火警報・予報を発表している。
その噴火警戒レベルは、「火山防災のために監視・観測体制の充実等が必要な火山」として火山噴火予知連絡会によって選定された47火山に観測施設を整備し、関係機関の協力も得て、そのうち、御嶽山や富士山、草津白根山など、30火山(平成25年7月現在)を「常時観測火山」として24時間体制で火山活動を監視しているようだ(※10:「気象庁HP:火山」の噴火警報・予報の説明の中の噴火警戒レベルが運用されている火山参照)。
又、2014(平成26)年10月8日、気象庁地震火山部が全国の活火山の活動状況や警戒事項を取りまとめた月間火山概況「火山の状況に関する解説情報 第12号」を発表しているが、それによると、御嶽山・桜島・西之島・草津白根山・阿蘇山・霧島山(新燃岳・硫黄山)・諏訪之瀬島などに注意また警戒を呼びかけているが、ここには、富士山はない。
その優美な風貌は日本国外でも日本の象徴として広く知られている「富士山」.。昨・2013(平成25)年6月22日には、関連する文化財群とともに「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」の名で世界文化遺産に登録され、今では世界中から観光客が押し寄せている。そんな富士山がもし噴火したら・・・・・。
ただ、御嶽山では、24時間体制の観測が行われ、噴火の約2週間前から、地震活動が活発化していた。 それでも噴火が起こるまで、気象庁が設定した警戒レベルは、5段階中もっとも低い、平常の1のままだった。専門家は、予知の限界を指摘する。火山噴火の恐れがあるところは人気観光地ばかりだ。温泉が火山活動の産物だから当然かもしれないが、押し寄せる観光客が減ることを承知で、本当に登山者や地域住民の人達の安全を最優先した警戒態勢を敷くことが出来るのか・・・・。次は何時何処で何が起きるのか・・・。
10月末、富士山の噴火を想定した静岡、山梨、神奈川の3県合同防災訓練も実施もされたが、何かこうなると、火山の近くに住んでいる人は不安だろうね。
余り真剣に考えていると恐ろしくてなってしまうよ・・・。

参考:
※1:木曽節 - 木曽町観光協会
http://www.kankou-kiso.com/event/kisobushi.html
※2:作家別作品リスト:泉 鏡花
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person50.html
※3:白夜の妖女 (1957)| Movie Walker
http://movie.walkerplus.com/mv25200/
※4:木曽御嶽山(王滝口)登山道の紹介 - 王滝村
http://www.vill.otaki.nagano.jp/ontake_tozan/tozan04.html
※5:御嶽神社
http://www.ontakejinja.jp/index2.html
※6:山の用語集 [tozan.net]
http://tozan.org/yougo/
※7:地理用語
http://chiri-zemi.nsf.jp/0-09-jiten.html
※8:御嶽神社
http://www.ontakejinja.jp/index3.html
※9:国土地理院
http://www.gsi.go.jp/index.html
※10:気象庁・火山
http://www.data.jma.go.jp/svd/vois/data/tokyo/STOCK/kaisetsu/vol_know.html
※11;なぜこれほど被害が拡大したのか? 小規模ながら場所とタイミング悪く…。「軽トラック大の噴石も」ー産経新聞
http://www.sankei.com/affairs/news/140929/afr1409290065-n1.html
※12:御嶽山噴火:紅葉シーズンの週末…被害拡大ー毎日新聞
http://mainichi.jp/select/news/20140929k0000m040044000c.html
※13:御嶽山噴火、27人けが 重傷・意識不明者も-日本経済新聞
http://www.nikkei.com/article/DGXLASDG27H0T_X20C14A9MM8000/
※14:演題:「地震と噴火の活動期に入った日本列島 ―「西日本 ... - 京都大学(Adobe PDF)
http://www.gaia.h.kyoto-u.ac.jp/~kamata/2012.8.9.Zaimusho.Lecture.pdf#search='%E5%9C%B0%E9%9C%87%E6%B4%BB%E5%8B%95%E6%9C%9F+%E7%81%AB%E5%B1%B1'
草津、上高地、富士山、伊豆諸島…噴火秒読み7火山 (日刊ゲンダイ) ...
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140930-00000014-nkgendai-life
木曽・御嶽から消えた滝神不動明王と蔵王権現 - 千時千一夜
http://blogs.yahoo.co.jp/tohnofurindo/15478729.html
御嶽山 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A1%E5%B6%BD%E5%B1%B1

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11月25日(人)・「憂国忌」小説家・三島由紀夫の忌日 
11月25日(歴)・福澤諭吉が『学問ノスゝメ』の最終刊・第17篇を刊行 
11月25日(歴)・毛利元就が息子の毛利隆元・吉川元春・小早川隆景に14箇条の遺訓(三子教訓状)を記す(歴)

11月26日(記)・ペンの日
11月26日(人)・第43代横綱: 吉葉山 潤之輔の忌日 
11月26日(人)・俳優・島田正吾(『一本刀土俵入』) の忌日
11月26日(歴)・宇宙戦艦ヤマトが太陽圏を脱出した日(架空) 
11月26日(歴)・ツタンカーメン王の黄金の棺が発見された日
11月26日(歴)・沖ノ鳥島をコンクリートで保全 

11月27日(記)・ノーベル賞制定記念日 ・いい鮒の日
11月27日(歴)・皇太子明仁親王(今上天皇)と正田美智子さんの婚約が発表 された。
11月27日(歴)・池田勇人通産相が衆議院で「中小企業の倒産・自殺もやむを得ない」と発言した日(歴)

11月28日(記)・税関記念日 ・太平洋記念日Ⅱ税関記念日
11月28日(人)・「親鸞 (浄土真宗の開祖)」の忌日
11月28日(歴)・鹿鳴館が落成した日 
11月28日(歴)・東京・青山に日本初のスーパーマーケット、紀伊国屋が誕生した

11月29日(記)・議会開設記念日 ・いい服の日 ・ いい肉の日
11月29日(歴)・「大韓航空機爆破事件」のあった日 
11月29日(歴)・「金属バット殺人事件」の有った日

11月30日(記)・シルバーラブの日 ・鏡の日 
11月30日(記)・カメラの日みその日
11月30日(歴)・「ララ物資」第一便が横浜港に到着した日



































原敬暗殺事件のあった日

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原敬暗殺事件(はらたかしあんさつじけん)は、1921年(大正10年)11月4日、当時の首相原敬が、鉄道省山手線大塚駅職員の中岡艮一によって東京駅乗車口(現在の丸の内南口)で暗殺(刺殺)された事件。

宮中某重大事件が解決した7か月後の、1921年(大正10年)9月28日、午前9時2分ごろ神奈川県大磯町の別邸に滞在中の安田財閥の創立者・安田善次郎(82歳)は、実在の弁護士を装って会見を求めた「社会事業家」を自認する朝日平吾(31歳)によって刺殺された。犯行後犯人は現場において自殺したが、斬奸状(ざんかんじょう)と遺書も持参していたようだ。
その斬奸状には、「大正十年九月 神洲義団団長 朝 日 平 吾」として、以下のように記されている。
「奸富安田善次郎巨富ヲ作(ナ)スト雖(イエド)モ富豪ノ責任ヲ果(ハタ)サズ。国家社会ヲ無視シ、貪欲卑吝(ヒリン=いやしくてけちなこと)ニシテ民衆ノ怨府タルヤ久シ、予其ノ頑迷ヲ愍(アワレ)ミ仏心慈言ヲ以テ訓(オシ)フルト雖(イエ)ドモ改悟セズ。由(ヨッ)テ天誅ヲ加ヘ世ノ警(イマシ)メト為(な7)ス」・・・と。
又、友人宛の遺書においては、自らの行動を「富豪顕官貴族」を打倒する「最初ノ皮切」と意義づけ、あとにつづけと訴えたものであるが、そこで彼は、日本の現状を、既成の支配層が天皇と国民を隔離し、私利私欲のために国民を圧迫しているという形で捉えており、そして、当面の目標として、以下のように9項目を掲げている。
「第一ニ奸富ヲ葬ルコト、第二ニ既成政党ヲ粉砕スルコト、第三ニ顕官貴族ヲ葬ルコト、第四ニ普通選挙ヲ実現スルコト、第五ニ世襲華族世襲財産制ヲ撤廃スルコト、第六ニ土地ヲ国有トナシ小作農ヲ救済スルコト、第七ニ十万円以上ノ富ヲ有スル者ハ一切ヲ没収スルコト、第八ニ大会社ヲ国営トナスコト、第九ニ一年兵役トナスコト……等ニヨリ染手スベシ。」・・・と。そして、「シカモ最急ノ方法ハ奸富征伐ニシテ、ソレハ決死ヲモッテ暗殺スル外ニ道ナシ。」・・・と続けている。(※1、※2、※3参照)。
因みに、この遺書には、「大正十年九月三日付で 東宮殿下ヲ奉迎スルノ日ニ書ス」・・・とあるが、東宮殿下とは、当時皇太子であった裕仁親王(昭和天皇)のことであり、1921(大正10)年3月3日から9月3日までの間ヨーロッパ各国を歴訪(ここ参照)され、この日御帰還された。
この洋行中の6月頃、原 敬首相が総裁である立憲政友会(略称:政友会)内では、内閣改造内閣総辞職を求める動きが強まった。原は皇太子裕仁親王が洋行中に政変を起こせば、病中の大正天皇が内閣認証などの式典に臨むことになるが、それは病状から見て耐えられないとして、裕仁親王の帰国・摂政就任後に改造を行うとして運動の沈静化を図った。その後原は元老山縣 有朋らと摂政設置について協議を行っていた。
話はもとへ戻るが、犯人の朝日が、安田を暗殺したのは、「斬奸状」や「遺書」にも見られるように、安田が社会事業に消極的であると見たのが犯行に及んだ理由であると言われている。
犯人は、いわゆる大陸浪人の体験を持ち、右翼系団体に属していたこともある。内田良平北一輝らへ宛てた遺書を残していたことから、右翼運動に傾斜していたことが窺われるという。
Wikipediaによれば、犯行の原因には前年3月の戦後恐慌で自身は株で大損し、安田財閥の首領・安田善次郎が株を一手に買い占めて2,000万円の利益を得たという噂話を耳にした。この事が 安田暗殺を企てたきっかけとなったという。
大陸浪人の身となり、中国東北部や朝鮮半島を転々としていたがうまくゆかず、1919(大正8)年、失意の内に帰国後、朝日は、神州義団(右翼団体)等の設立を計画し、自らを国士ぶっていたようだが、これも挫折。職も転々とし、行く先々で衝突を起こす日々を繰り返し、自暴自棄から社会への不満を募らせていったようだ。
1921(大正10)年、最後の事業と決めて貧民救済事業に乗り出した朝日にとっては、本来この事業に出資すべきであるのに、利己的になりそれが「亡国修羅」を生む要因となると映っていたためでもあったようだ。
この事件を起こす前には、渋沢栄一の事務所に寄付金の要求に行き、断られると切腹をしかけ当時の金で百円をとっているという。これに味を占めての犯行だろうが、再三要求するも断られ、最後は死を覚悟で安田の暗殺をしたようだ。
当時北は、犯人について第三者として見て、彼は実に立派な死に方であったと称揚したと報じられているという(『朝日クロニクル週刊20世紀』1921-22号)。
北は朝日の遺書を見て、自らの著書『日本改造法案大綱』と根底において共通する発想を見出したのであろう(※3参照)。
別役実脚本、吉田喜重監督による白黒映画『戒厳令』(1973年)がある。この映画は、当時「日本近代批判三部作」の一つとも呼ばれたようで、昭和11年の二・二六事件によって施行された戒厳令(戒厳参照)を背景に、陰の指導者として処刑された北一輝を軸にストーリーは展開される。
映画の内容は、北一輝の『日本改造法案』に影響を受けた朝日平吾が、安田財閥の当主を刺殺しその場で自殺する。彼の思想に影響を受ける若者が増える中、五・一五事件が起こるがクーデターは失敗。青年将校たちはますます混迷を深める社会情勢を改善すべく、「日本改造法案」を元に武装蜂起を企てる。そして2月26日にクーデターを起こすが、またもや未遂に終わってしまう。・・・といたもの(映画の内容は※4参照)。

当時のマスコミや新聞はこぞって朝日を英雄視したようだ。一方、世間から吝嗇(りんしょく)と批判された安田だだが、東京大学の安田講堂や、日比谷公会堂千代田区立麹町中学校校地などは安田の寄贈によるものであるが、「名声を得るために寄付をするのではなく、陰徳でなくてはならない」として匿名で寄付を行っていたため、生前はこれらの寄付行為は世間に知られていなかったが、安田の死後これらの匿名での寄付がつぎつぎ明らかになったという。
金持ちであるのに質素倹約の精神で生きた人だが、実業家としての功績が大きければ、それに対しての羨望や妬みも多いのが人の社会というものだが、そん安田に対してのマスコミの一面からだけの軽薄な報道の相乗効果が吝嗇安田の虚像を創ってしまったようだ。このような、マスコミの報道の在り方は、今でもよく見られることではある・・・。
「五十、六十は鼻たれ小僧 男盛りは八、九十」は善次郎の言葉とされている。

●上掲の画像、向かって左:安田善次郎、右:朝日平吾。

明治維新後の日本は、西欧列強に追いつくために、強引な西欧化から近代化を行い、富国強兵殖産興業を押し進め、西欧列強の植民地政策に追随した帝国主義諸政策を推進していった。
第一次世界大戦中に膨張の極みに達した日本の帝国主義に対する内部告発が1918(大正7)年夏の米騒動であれば、外部からの民族的抵抗が、1919(大正8)年前半の朝鮮の三・一、中国の五・四の両運動であった。これらにより、歯止めをかけられた日本の帝国主義は第一次世界大戦終結により列強の関心が東アジアに再び集まる中で方向転換を図らねばならなかった。

第1次大戦後の経済は物価高を招き、成金続出の陰で勤労民衆をはじめ一般庶民は苦しい生活を強いられてきた。
この安田善次郎暗殺事件の3年前、1918(大正7)年1月、政府が津市の商人(岡半右衛門)に米買占めへの戒告や米穀取引所(米相場参照)に米価高騰のため取引停止命令を発する中、同年7月ロシア革命に対する干渉出兵であるシベリア出兵へ動く中、戦争特需を狙った売り惜しみで米価が暴騰。富山県魚津町で起こった米騒動は瞬く間に全国的に広まり、軍隊が出動して鎮めなければならない事態にまで発展した。
結局、このシベリア出兵に端を発した米騒動への対応を誤った寺内内閣第2次大隈内閣の後を受けて山縣有朋の推挙によって擁立された内閣)が内閣総辞職に追い込まれると、ついに、政党政治を嫌い、藩閥政治(藩閥も参照)にこだわり続けていた山縣有朋も、大正政変の道義的責任を取るとして辞任した西園寺公望の後任として第3代立憲政友会(単に政友会ともいう)総裁に就任していた原敬を後継首班として認めざるをえなくなった。
こうして、1918(大正7)年9月29日に成立した原内閣は、日本初の本格的政党内閣とされている。それは、原が初めて衆議院に議席を持つ政党の党首という資格で首相に任命されたことによるものであり、また閣僚も、陸軍大臣・海軍大臣・外務大臣の3相以外はすべて政友会員が充てられたためであった。
そのような時代に、大磯で安田善次郎暗殺事件が起こったわけである。
そして、原首相もこの事件のあった37日後に、安田と同じ運命に遭遇することになった・・・。

1921(大正10年)年11月4日、京都で行われる政友会近畿大会に出席するため、東京駅に着いた原は、現在の丸の内南口付近(「原首相遭難の現場」というプレートが壁にはめ込まれている。)において、「国賊」と叫びながら突進してきた大塚駅転轍手(てんてつしゅ。転轍機を操作する係。転路手。ポイントマン。分岐器参照) ・中岡良一(当時19歳)によって刺殺された。

盛岡藩の出身で薩長藩閥勢力とは縁がなかったことや爵位も持たなかったことから平民宰相と称された原は,民衆の好意を集めた。そんな原は大正デモクラシーを代表する政治家としての評価が高い。
旧来の閥族政治に変わって原の政党政治を可能にしたのは、米騒動などに現れている民衆の意思であったからであり、原は内閣成立後、高等教育の拡充、 産業の拡充、鉄道網の拡充、国防の拡充の四大政綱なるものを重要な政策課題と位置付け、まずは、米騒動の収拾するため。米穀法を公布し、又、米の輸入自由化の実施をするなど米価の安定に努めたのも、民衆の意思を無視できなかったからというか、その意思に乗ったという点で、一定の進歩性を持っていたことは確かであり、首相就任2年後の総選挙では、原が総裁を務める政友会は、単独過半数を達成している。これは平民宰相原敬の人気に支えられた地すべり的大勝利だった。
しかし、原自身の日頃の立場は、徹底した民主主義の精神とは必ずしも一致したものではなく、原の基本的な立場は、内政面では国力伸長にあったようだ。
政友会総裁の原は金の無心に来る党員に惜しみなく金を配った。また、利権の斡旋もいとわなかったという。政治評論家の馬場恒吾が金のかからぬ政治をやるべきだといったところ、原は言下に「金を欲しがらない人間の社会をこしらえてこい。そうしたら金のかからぬ政治を行って見せる」と答えたという。徹底したリアリストである原の面目躍如というところであろうか。
そして、徳富蘇峰は原の政治を、当面の政治を処理するだけの「今日主義」と断じ、「国家の大経綸」を持たないと批判したという(『朝日クロニクル週刊20世紀』1918-19号)。
「平民宰相」を歓迎するお祭り騒ぎの中で船出した内閣だったが、余りのリアリズムの政治に国民の不満も高まっていた。
原が暗殺された時には、四国や九州では号外売りが万々歳と叫びながら売り歩いたという話が残っているようだ。
ただ原をそれだけの政治家と見るのも一方的だろう。戊辰戦争で賊軍となった南部藩出身で、強大な薩長勢力と闘いながら、政友会基盤の内閣をつくるまでの原の道のりは並大抵のものではなかっただろう。不屈の闘志、おどしを交えた巧妙な駆け引き、大胆な妥協、金の力がなければ挫折していただろう。

「平民宰相」と云われながら、原は普通選挙は時期尚早として最後まで反対した(※6参照)。原のやったことはせいぜい、所得要件を緩和して有権者の数を増やした程度だった。ただこれには、普選に恐怖感をもっていた藩閥の大ボス山科有朋の意を迎える狙いもあったようだ。原自身は、「主義として普選に反対ではないがそこまで行くには順序がある」と明言しているという(※6参照)。
寺内内閣でシベリア出兵が問題になったとき、天皇直属の臨時外交調査会で、兵力はアメリカの提案通り、地域はウラジオストクに限定すべきだとしたのは原と牧野伸顕だけだった。また、ワシントン軍縮会議(1921年)でも、徹底的軍縮で臨んだという。
しかし、原は、政敵である政党に権力を引き渡すよりも、閥族政府に引き継いだ方がましだと考えていた。実際、日露戦争後の政局において、原は政友会が与党となった政権を離れる時には、野党第一党の憲政会に政権を譲らず、元老山県有朋が率いる軍閥・官僚閥に内閣を譲っている。また、原の死後に政友会が政権を離れた際にも、加藤友三郎による超然内閣が復活している。この様な政治のあり方から、大正デモクラシーの内容を普通選挙制と二大政党制と定義すれば、原敬はそのどちらにも反対したとして、原敬の反動性を強調する人もいる(板野潤治「日本近代史」ちくま新書※7参照)。

●上掲の画像は暗殺7か月前の4月5日、議会担当者の新聞記者招待会を官邸で行った時の原首相。左端は高橋是清蔵相。
春うららかな日溜りで、議会対策に長けた首相はご機嫌だったが、『宮中某重大事件』にからむ元老・山科有朋の公職辞職問題、普選要求の高まり、労働争議の頻発など多事多端であった.。

1921(大正10年)年、多数与党を背景に政党内閣として最も安定していた原内閣の人気は急落していた。その理由の大きなものは国民が求めた普通選挙の導入に応じず原の平民宰相のイメージを大きく損なってしまったこと。更に、原を窮地に陥れる事件、満鉄[南満州鉄道]疑獄事件が起こり政友会所属の代議士が政府傘下の鉄道会社に鉱山を売りつけ莫大な利益をえていたことが発覚したこと。ニコラエフスク(尼港。現在のニコラエフスク・ナ・アムーレ)で起こったロシアのパルチザンによる日本人捕虜虐殺事件の責任が問われたこと(尼港事件参照)など、野党がこれらを理由に内閣不信任案を提出したが、政友会が過半数を占めており、これを否決していた。しかし、原内閣は次第に、政権運営に行き詰っていた。その最中の1921(大正10)年11月、政治の腐敗に憤った青年によって原敬は東京駅で刺殺されたのであった。

中岡に、無期懲役の判決を下した東京地裁の判決理由によれば、原襲撃の理由には先に述べた理由と同時に、実行の強い動機付けになったのは朝日平吾による安田暗殺と,犯人に対する世間の同情が予想外に厚かったことだといわれている(※8の判決文参照)。
中岡の弁護にあたった今村力三郎大逆事件弁護人)は、全国の新聞から約200の記事を集め、それらを資料として使った弁論において、「原氏に対する社会の反感は驚くべきほど強きものがあった」と指摘しているという。
原の暗殺には謎が多いが、実際には、先に書いた皇太子(裕仁親王)の外遊を勧めたことが直接のきっかけになったとする説が有力だそうである。貞明皇后と皇太子養育係の杉浦重剛が外遊に反対し、右翼の頭山満が同調していた。暗殺の数日前、それを有力者に予告した頭山系右翼もいたという(※9:「歴代政府・内閣に関するデータベース」の第十九代:原敬内閣参照)
宮中某重大事件のことから山縣が失脚したころに、原も右翼から暗殺予告をうけることがしばしばあったようで、暗殺された8か月前の、1921年2月20日付「原敬日記」には以下のように記されている。
2月20日、「夜、岡崎邦輔平岡定太郎、各別に来訪。余を暗殺するの企てあることを内聞せりとて、余の注意を求めくる。余は厚意は感謝するも別に注意のなしようも無し。また、度々かくのごとき風説伝わり、時としては、脅迫状などくるも、警視庁などに送らずしてそのまま捨ておくくらいなれば、運は天に任せ何ら警戒等をくわえおらざる次第なり。狂犬同様の者にあらざるかぎりは、余を格別憎むべきはずもこれ無しと思うなり。」・・・と(※10:「原敬事典」の「原敬日記」抄2参照)

●上掲の画像は、1922(大正11)年6月12日、東京地裁で、判決を待つ首相暗殺犯人の中岡良一。
犯行は、中岡艮一の単独犯として処理され、中岡は無期懲役の刑を受け服役した。しかし、凶行の原因、動機または犯人の背後関係等については、裁判所も深く追求せず、しごく手軽に無期懲役の判決がくだったという評も多い。
判決は無期懲役だったが、服役後、3度の恩赦を経て、1934年1月30日に刑務満了により出所している。

確かに原は夢を追う政治家ではなかったにせよ、開明的経綸はあったとみるべきだ。
有島武郎は、当時の読売新聞(11月11日付)に、安田。原暗殺の原因が、政治的・世代的ディスコミュニケーション(和製英語。相互不理解)にあることを指摘し、「心と心との間に挟まっている距離が遠くなればなる程、斯(か)かる事件は起こり易くなります」と説明しているという(『朝日クロニクル週刊20世紀』1921-22)。
1921年のテロリズムは深刻なディスコミュニケーションが惹起した短絡現象であったともいえるようだ。
原敬のことについては以下参考の※10:「原敬事典」が詳しいのでそこを参考にされるとよい。

また、最後に余談だが、ちょっと、ひとりごとを・・・。
日本初の本格的政党内閣として誕生した原内閣。山縣有朋が政党政治を嫌っていた中に、政党内閣の利権体質や金権政治があった。
先にも書いたが、政治評論家の馬場恒吾が原に金のかからぬ政治をやるべきだといったところ、原は言下に「金を欲しがらない人間の社会をこしらえてこい。そうしたら金のかからぬ政治を行って見せる」と答えたという。
初めての政党政治が起こった大正の時代から、100年近くを経過した今の時代、日本の政治は、そして、政治家を選ぶ権利(投票権)を持っている日本の国民の政治意識は当時とどれぐらい変わっているのだろうか・・・・。
女性の時代だと言って、阿部政権が目玉として選んだ女性議員は・・・。地方の時代を標榜する阿部政権なのだが・・。
山縣有朋がなぜ 政党政治を嫌っていたか?・・・、一度、以下を読んでみては・・・。
日本近代史で再評価 - 山縣有朋記念館
http://www.general-yamagata-foundation.or.jp/research_a_001.html

(冒頭の画像は、1921年[大正10]10がつ、ワシントン軍縮会議に出発する日本全権団を東京駅に見送った時のスナップ。にこやかに笑みを浮かべているが、この20後、東京駅頭で暗殺された。当ページに掲載の画像は、全て、『朝日クロニクル週刊20世紀』1918-19年1921-22年号に掲載のものを借用した)
参考:
※1:朝日平吾 斬奸状と
http://www.taimukan.com/asahi01.html
※2;朝日平吾氏の声明
http://shinkoku.exblog.jp/10012543
※3:北一輝論 (5) - 古屋哲夫の足跡
http://www.furuyatetuo.com/bunken/b/39_kita_05/15.html
※4:戒厳令(1973・日本) | Movie Walker
http://movie.walkerplus.com/mv19723/
※5:白米、円二升台となる騰る - 神戸大学 電子図書館システム
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=00494943&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1
※6:原政友会総裁の対普選案論 - 神戸大学 電子図書館システム
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=10107821&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1
※7:板野潤治「日本近代史」 - 日本語と日本文化
http://japanese.hix05.com/History/kindai/kindai006.itano.html
※8:東京駅での原敬首相暗殺事件
http://ktymtskz.my.coocan.jp/denki/nakajima3.htm#0
※9:歴代政府・内閣に関するデータベース
http://www.geocities.co.jp/since7903/rekidaiNaikaku.htm
※10:原敬事典
http://homepage3.nifty.com/harakeijiten/index.html
原敬暗殺事件-.Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%9F%E6%95%AC%E6%9A%97%E6%AE%BA%E4%BA%8B%E4%BB%B6

介護の日

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皆さんは「介護」について考えたことがありますか。
今年、後期高齢者(高齢者のうち75歳以上の者。→後期高齢者医療制度参照)の仲間入りをした私など、今のところ、ほんの少し血圧が高い(いわゆる高血圧)ため軽い薬(降圧薬)を飲んでいる以外は、医者に通わなければならない病気もなく、自分では年の割に元気なつもりなのだが、メタポ検診などではいろいろと医者から指摘はされており、平均寿命の延びた今の時代、一番気になることは、やはり女房を含めて、これから先の二人の病気と、体が不自由になった時の看護のことである。
日本では高齢化が進み、生活習慣病などの病気も増えている中、親や配偶者など家族の介護をする人が増えている。
今、介護をしていない人も、何時、家族の介護をする立場になったり、逆に介護を受ける立場になったりするかもしれない。介護は誰にとっても身近なものなのである。

今日11月11日は「介護の日」である。定めているのは厚生労働省(※1)。
厚生労働省のHP(※1)の「介護・高齢者福祉」のところを見ると、以下のように書かれている。
高齢者が尊厳を保ちながら暮らし続けることができる社会の実現を目指して、
高齢者が、 介護が必要になっても、住み慣れた地域や住まいで尊厳ある自立した生活を送ることができるよう、質の高い保健医療・福祉サービスの確保、将来にわたって安定した介護保険制度(※1の介護保険制度の概要参照)の確立などに取り組んでいます。・・・と。
障害福祉サービスの体系は→ここ参照。

そして、介護の日を定めた趣旨については、以下のように書かれている。
高齢化などにより介護が必要な人が増加している一方、介護にまつわる課題は多様化している。こうした中、多くの人々に介護を身近なものとしてとらえてもらうためには、それぞれの立場で介護を考え、関わってもらうことが必要となっている。
介護についての理解と認識を深め、介護サービス利用者及びその家族、介護従事者等を支援するとともに、これらの人たちを取り巻く地域社会における支え合いや交流を促進する観点から、高齢者や障害者等に対する介護に関し、国民への啓発を重点的に実施する日を設定することとした。
名称と日にちについては、意見公募を行った結果、最も支持の多かった名称と日にちを選び「介護の日」と「11月11日」とした。
日にちについては、「いい日、いい日、毎日、あったか介護ありがとう」を念頭に、「いい日、いい日」にかけた、覚えやすく、親しみやすい語呂合わせとなっている。
今後、高齢化がさらに進行することが予想される中で、福祉介護サービス分野は、最も人材確保に真剣に取り組んでいかなければならない分野であり、福祉・介護サービスの仕事が、働きがいのある職業として社会的に認知され、特に若い世代の人々から魅力ある職業として選択されるようにする必要がある。
このため、厚生労働省は、平成19年8月に「社会福祉事業に従事する者の確保を図るための措置に関する基本的な指針」(平成19年度8月28日厚生労働省告示第289号)を策定し、指針に基づく取組を進めているところである。
この取組みの一貫として、11月4日から11月17日までを「福祉人材確保重点実施期間」として設定し、厚生労働省、地方公共団体、関係機関・団体及び事業者等が連携して、福祉・介護サービスの意義の理解を一層深めるための普及啓発及び福祉人材の確保・定着を促進するための取組に努めることとしている。・・・と。

さて、私達は基本的に、一人ひとりが自らの責任と努力によって生活を営んでいるが、病気や怪我、老齢や障害、失業などにより、自分の努力だけでは解決できず、自立した生活を維持できなくなる場合も生じる。そのように個人の責任や努力だけでは対応できないリスクに対して、相互に連帯して支え合い、それでもなお困窮する場合には、必要な生活保障を行うのが、社会保障制度の役割である。
つまり、社会保障制度は、私たち国民の「安心」や生活の「安定」を支えるセーフティーネットであり、戦後の昭和21年11月公布の日本国憲法では生存権の規定 (25条1項) に次いで,「国は、すべての生活部面について、社会福祉社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない」と定められている (同2項) 。
憲法に定められて以降、現在に至るまで、いろいろな経済社会や人口構造(男女・年齢・配偶関係などの属性別の人口の構成)のめまぐるしい変化に直面しながらも、各時代における人々の努力により、社会保障制度に対する国民各層の様々なニーズに応え、それなりの充実は図られてきた。
しかし、21世紀を迎えた今日、経済社会を取り巻く環境が大きく変化する中で、日本の社会は、世界でも稀に見る少子高齢化の進行に直面しており、このため、経済社会の様々な側面で深刻な長期的問題を抱えているが、その中でもとりわけ深刻な課題が社会保障制度の問題であり、現在の制度がそのまま続けば、早晩破綻することが避けられないといわれている。
厚生労働省:政策レポート(戦後社会保障制度史)

この社会保障の中でも、最も重要なのは高齢者の老後の生活の支えとなる年金問題であり、この問題は、長期的に継続する制度なのでとりわけ厄介な問題だが、医療・介護もそれに劣らない政治的、社会的に難しい問題を多く含んでいるが、本日のテーマーは、「介護」が主題なので、以下本日の主題である介護のことについて見てみたい。社会保障制度全般や、年金、介護の問題等は、厚生省HPや、※2.※3、※4等を見て考えてください。

介護(英::nursing, elderly care)とは、自分で体を動かしたり、判断したりすることが困難な障害者の生活支援をすること。あるいは、高齢者や病人などを介抱し世話をすることである。
人はだれでも年をとり、体の機能が衰えていく。そして、噛む力や飲み込む力、骨や筋肉の力、判断力などが弱くなると、食事や入浴、外出など、日常生活のさまざまなことが困難になってくる。また、50代、60代でも、脳卒中糖尿病心臓病、関節疾患(※5参照)、認知症などの病気をきっかけに、それまでできていた日常生活のことが、突然、一人ではできなくなってしまうこともあり、「介護」は、いつか突然、自分や家族に起こるかもしれない、身近なものなのである。
介護保険制度では、被保険者は、65歳以上の第1号被保険者と、40歳以上65 歳未満の第2号被保険者とに分類されている(介護保険参照)。
介護保険事業状況報告の概要(平成26 年7月暫定版)を見ると、
平成26年(7月末現在)の全国の65 歳以上の被保険者、32,348千人( 65才以上75歳未満16,799千人75歳以上15,549千人)、に対して要介護(要支援)認定者数は、5,945千人(男 1,829千人、 女 4,117千人)となっている。
現在の日本の尐子高齢化現象は深刻な問題となっている。尐子高齢化とは、出生率の低下により子供の数が減ると同時に、平均寿命の伸びが原因で、人口全体に占める子供の割合が減り、65 歳以上の高齢者の割合が高まることを言うが、問題は、日本の高齢化進行のスピードが、諸外国との比較において、その進行速度がきわめて速いことである。
今後「団塊の世代」が全て75歳となる2025年には、75歳以上が全人口の18%となる。
そして、我が国の総人口は、今後、長期の人口減少過程に入り、2026年に人口1億2,000万人を下回った後も減少を続け、2048年には1億人を割って9,913万人となり、2060年には8,674万人にまで減少すると推計されているが、一方で、65歳以上は全人口の約40%となることが予想されている(人口構造の変化と現役世代参照).。
このようなことから、介護の面でも、第1号被保険者は、年々増加し、特に、75歳以上の後期高齢者の増加割合が高くなる。つまり、被保険者に占める要介護(要支援)認定者数の増加傾向が、ますます高まるということになる。それだけ、急速な高齢化に対応するための施策を展開していく必要があるということである。
この後期高齢者人口の増加が問題となるのは、加齢に伴い「寝たきり」や「認知症」などの要介護状態となる確率が後期高齢者では高くなるということである。
そして、この高齢化における地域格差の存在である。大都市への若者の集中により地方都市の高齢化率が急速に進んでいる。産業界全体では労働力の供給不足に対する不安などが指摘されているが、他方で、高齢化による公的年金保険制度の破たんの恐れや、それを回避するための保険料率の大幅な引き上げによる被保険者の負担の増大、さらには高齢者医療費の増大による健康保険国民健康保険等の医療保険の赤字財政問題も危険視しされている。
厚生労働省の『社会保障と税の一体改革』では、日本の人口構造の変化について、2010(平成22)年には1人の高齢者を2、6人で支えている社会構造になっており、尐子高齢化が一層進行する2060年には 1 人の高齢者を 1、2 人で支える社会構造になると想定されている(平成14年版「厚生労働白書」1章 人口構造の変化と現役世代参照)。
そうなると、1990 年の頃には高齢者 1 人に対し 5.1 の人が支えていたので、負担率は 1990 年から 2060 年までに 5 倍にも跳ね上がることが予測されているが、ここまで負担が大きくなってしまうと、若者だけで社会保険費を肩代わりできなくなり、ますます赤字財政を生み出すことになってしまうだろう。
また、高齢化対策も急務になってくるのだが、先にも述べたように、日本の尐子高齢社会の特徴として、後期高齢者人口の増大があげられる。高齢者といっても、60 歳代の高齢者の場合、全般的にいえば健康状態も良好であり、介護を要する可能性は低いが、後期高齢者になってくると、寝たきりや認知症といった要介護状態になる可能性が高くなる。それゆえ、この後期高齢者人口の増大という側面は、高齢者扶養における介護問題が大きなウエイトを占めることを意味している。
要介護者の扶養、とりわけ介護についてはこれまで、日本では、“介護は家庭(家族)の問題”という意識があり、「両親は息子(特に長男)や親族が面倒をみるもの」という価値観があった。
しかし、少子高齢化が進展する中、女性の社会進出や核家族化が進行し、又、医療の進歩に伴い寿命が延びたことなどにより、寝たきりや認知症などの要介護高齢者の増加などから、介護期間も「看取り三月」(高齢者を昔は三ヶ月家で看取れば亡くなるという状況を言っていた)などではなくなり、看護期間も長期化したことなどにより、介護を行う家族(配偶者や子)もまた高齢者であるという「老老介護」の問題なども浮かび上がっている。
さらに、認知症の家族を介護している人も認知症の症状があるという「認認介護」の状態も見られる(※7参照)など、家族にとってはより重い負担となっているが、こうした中で、介護に対する負担感から、介護うつや介護ストレス(※8参照)に陥ったり、介護が必要な家族を虐待してしまったり、挙句の果てには、老老介護の苦労や負担に耐え切れず、介護する子が親を殺害するなどのあまりにも哀しい犯罪にも繋がっている。そういった状況は、介護する側にとっても、介護される側にとっても非常に不幸なことである。
介護は、介護する人自身が心も体も健康であることが大事であり、頑張りすぎると、介護をしている人の体も心も病んでしまうのである。
このように日本の家族構成の変化してきた社会では、果たして、一体要介護の高齢者を今後どのような仕組みで、どこで、誰が介護していくのか。従来のサービスを維持していくのか、それとも抜本的な見直しが必要なのか。そのような高齢者の介護問題への対応が迫られることになった。
こういった問題が生じてきたことから、日本の介護保険制度は「介護の社会化」を目的として、要介護高齢者の介護に関する責任を社会的に担う制度として2000(平成12)年4月年スタートしたのだが、その目的はどの程度達成されたのだろうか・・・・。

厚生労働省は2014年3月、25日、特別養護老人ホーム(特養)に入所できていない高齢者が、2013(平成25)年度は52万2000人にも上るとの調査結果を発表している(特別養護老人ホームの入所申込者の状況 |報道発表資料参)。
これは2009(平成21)年12月の前回集計の約42万1千人より4年間で約10 万人、24%増えた。
待機者全体の3分の2を占めているのは、食事や排せつに介助が必要な要介護3~5の中・重度者で約34万5千人に上る。待機者の中でも他の介護施設には入らず、自宅で特養の空きを待っている人は25万8千人(49.6%)もいる。
毎年、各自治体が特養整備を進め、入所者数の枠は2009年時点から7万4800 人分広がっているが、急速な高齢化の進行で、自治体が特養を整備するペースを入所希望が上回り待機者が増加したことになる。
これに対して政府は在宅介護への移行を促しており、特養へは原則、要介護3以上に限定する方針の介護保険法改正案を国会に提出していて、2015年度施行を目指しているようだ。
特養ホームに入れない待機者の受け皿となるのが、在宅介護であるが、これは、自宅で暮らしつつデイサービスホームヘルパーを利用したり、配食や見守りなど一定のサービスが付く高齢者向け集合住宅へ入居したりするのを見込んでいる。
サービス付き高齢者住宅(サ高住)を含めた「有料老人ホーム」の数は、民間企業が運営に参入したこともあり、厚労省の調べで2012年には約7500 と4年間でほぼ倍増しているようだが、特養での介護を望む高齢者が依然多い。
それは、特養が有料老人ホームなどより比較的料金が安いことと食事や入浴、排せつを含め、日常生活全般で手厚い世話を受けられるし、負担額が少なくて済む利点が希望者を増やす理由になっている。待機者の中には「症状が軽いのに早めに申し込む人もいる」との傾向を指摘する地域もある。
その半面、運営費の大半を介護保険で賄い、入所者1人当たりの給付額は月30万円近く保険財政には重荷となっている現実がある。政府方針は症状の重い人に限って特養で受け入れる法改正を目指しているが、ギャップが浮き彫りとなった格好だ。
詳しくは、以下参照。
週間介護情報第85号

いずれにしても、この厚労省の調査が、在宅サービスの供給量が増えたにもかかわらず、特別養護老人ホームなどの介護施設への入所希望者が依然として根強いことを表しており、在宅サービスの利用は増えているものの、在宅介護の主力部分は依然として家族が担っているケースが圧倒的多数であるなど、現状においては、介護者の身体的、精神的、社会的負担が軽減するまでには至っておらず、厚生労働省が目論んでいる「在宅介護」が利用者のニーズを満たすには条件が整っていない現状を露呈していることを示しており、今後のより多様なサービスの開発や普及が求められるということだろう。

厚生労働省が目論む社会保障制度の基となっているのは2025年問題である。
高齢化が進むわが国では、社会保障費は、2012年度109.5兆円(GDP比22.8%)となり、100兆円を超えた。2025年度には148.9兆円(同24.4%)にまで増加する見込みである(出典:厚生労働省社会保障審議会資料12年4月25日「資料4-1社会保障に係る費用の将来推計の改定について」参照)。
2025 年には、4 人に1 人が75 歳以上の後期高齢者になるという超高齢社会が到来するわけだが、75 歳以上ともなると、加齢に伴う心身の機能低下や無数の慢性疾患を抱えているケースも多く、その一部は社会的入院患者や要介護者になっており、団塊世代の年齢が上がるごとにその比率は高まっていき、負担がさらに増えると予想されている。
このような状況のもと、限られた財源で現状のまま社会保障を維持し続けることは困難であり、厚生労働省は2025年を1つの区切りとして医療・介護における改革を行っている。その1つが2012(平成24)年度診療報酬・介護報酬同時改定であったが、このような診療報酬による政策誘導が今後も続くだろうという。
医療機関は地域における役割を明確にし、他の医療機関や介護施設等との連携をすることが求められており、在宅医療(自宅で医師や看護師に訪問され治療を受ける)も推進される。
つまり、少子高齢化により、病院や介護施設が足りず、看取りまで患者を看ることができないことから、今後、国の政策も「脱施設」・「脱病院」そして、「在宅」へと医療・介護財源の問題もあり、在宅での医療・介護支援へのシフトを進め、深夜の往診や自宅での(サ高住)「みとり」の報酬を上げて、医師らが積極的に取り組むように促そうというわけだ。
だが、在宅で介護ができるのは同居世帯であり、「老老介護・認認介護・高齢者のひとり暮らし世帯」などでは、現実的に無理がある。
そうすると「高齢者が安心して住める住まいの普及」が絶対に必要になってくる。それが、「サービス付高齢者住宅」の(サ高住)なのだが・・・。事業者が不必要な介護保険サービスを提供したり、自社の介護利用を入居の条件にしたりといった事態が横行し問題となっている(※9参照)。
サービス付き高齢者向け住宅の費用は「一般型」と「介護型(特定施設入居者生活介護)」で異なるが、主に自立した人を受け入れる一般型ではなく、介護型のところは、介護サービス費は、要介護度などによって異なり、要介護度が高くなるほど、高く設定されており、また、施設の設備や体制、施設で対応する処置やサービスなどに応じて、色々な介護サービス加算が発生し、入居費用も、数千万円かかるものが多く、だれでもが入れというものではない。老後安心して生きてゆくためにはそれ相当の金がなければひどい目に遭いそうだ。
少子高齢化による総人口の減少が日本経済の今後の問題として、しばしば取り上げられるが、本当に問題となるのは、総人口や、総労働力などではなく、介護の労働力(介護者)確保が深刻な問題となることである。そして、医療は介護よりさらに多くの労働力を必要とするが、現在医師不足も言われているが、医師以外の看護婦等医療従事者の賃金は経済全体の平均に比べて高いとは言えず、人員確保は容易でないと言われており、今後の需要増に応えられるかが大きな問題となるだろうとも言われている。
2013年の男性の平均寿命が前年を0,27歳上回り、80,21歳となり、初めて80歳を超えた。女性は前年より0,2上がって過去最高の86,61歳となり、2年連続の世界一。男性の平均寿命は前年の世界5位から4位に順位を上げたことが厚生労働省が、7月31日に発表した「簡易生命表」で判った(平成25年簡易生命表参照)。
又、2014年9月12日、「敬老の日」を前にした厚生労働省の調査で 全国の100歳以上の高齢者が過去最多の5万8820人に上ることが分かった。女性が87.1%を占め、初めて5万人を超えた。前年から4423人増え、44年連続の増加だという(※10参照)。これから先寿命は何歳まで伸びるのだろう。
長寿祝いには様々なものがあるが、数え年60才で行われる「還暦」のお祝いなどは、寿命が長くなった日本では今や長寿祝いというには早すぎる年齢となった。現役を引退したサラリーマンが年金ももらえない。そのうち70才位まで働かないともらえないだろうと言われている。
現在存命中の日本一(長寿世界一でもある)は116歳際の大川ミサヲさん(女性)であるとテレビで紹介されていたが、お元気なのにはびっくり。長寿の人を見ていると、大家族の中で大勢の子供や孫に囲まれて明るく幸せに過ごしている人が多いようだ。
しかし、何によらず、いいことずくめは、ないものであり、寿命もそうで、長寿に恵まれた人だけが知る悲しみもある。
介護老人保健施設や病院のデイケアを訪れて「出前短歌教室」をおこない高齢者の短歌づくりの手伝いをしてきたと云われる医療法人耕和会迫田病院の伊藤一彦さん(評議員、宮崎県立看護大学 客員教授)が、そんなお年寄りの短歌を 『百歳がうたう 百歳をうたう』(、鉱脈社刊)という本にして出版されている。それ等の歌のうち、ブログで紹介されているものを一部、以下に引用させてもらおう。

・一日中言葉なき身の淋しさよ君知り給え我も人の子       東京 103歳 高橋 チヨ

・幾度か友を送る日重なりて辛さを人は長寿ともいう        北海道 101歳 長家 ミノ

・七夕に百歳になっても願いごと名残りはつきぬこの世の中に 熊本 100歳 友枝 巴

他の人がなかなか話しかけてくれない孤独感(高橋さんは耳が遠い)、長家さんは友人をつぎつぎに送らざるをえない悲しみを歌っている。ともに心に深く残る歌であるがつらい内容だ。友枝さんは「名残り」と言っているが、この「名残り」が尽きぬからこそ人は苦しくても、悲しくても、寂しくても、一生懸命に生きるのだろう(※11参照)。
寿命が延びれば延びるほど、自分の周囲から、友達や知人が一人づついなくなってゆく。私などやっと後期高齢者の仲間入りをした程度だが、呑兵衛だった私が仲良くしていた呑兵衛友達などは、もう誰も居なくなってしまった。悪たれ子世にはばかるということか、内臓が人一倍丈夫だったからだろうか。
大勢の家族に見守られて生活している人は良いが、そうでない人は、歳をとればとるほど孤独になる。その上、体の自由が利かなくなって、介護をされながら生きてゆかなければならなくなったことを考えたりしていると、私なども、時々落ち込んでしまう。
ところで、「健康寿命」という言葉を知っいますか?
WHOが2000年にこの言葉を公表したもので、健康寿命とは、健康上の問題がない状態で日常生活を送れる期間のこと。したがって、平均寿命と健康寿命との差は、日常生活に制限のある「不健康な期間」を意味している。
厚生労働省は、2010(平成22年)年の統計では平均寿命と健康寿命(日常生活に制限のない期間)の差は、平成22年で、男性9、13年、女性12、68年となっているそうだ(ここ参照)。
今後、平均寿命の延伸に伴い、こうした健康寿命との差が拡大すれば、医療費や介護給付費の多くを消費する期間が増大することになるので、疾病予防健康増進、介護予防などによって、平均寿命と健康寿命の差を短縮することができれば、個人の生活の質の低下を防ぐとともに、社会保障負担の軽減も期待できる。…というのであるが・・・。
私も元気で長生きはしたい。私が思うには、恐らく、健康寿命が延びれば、人生における「不健康な期間」のパーセンテージは下がるかもしれないが平均寿命も延びるだろう。
年を取って、風邪もひかず何の病気もしないで死ぬなんてことはできないだろう。一年多く長生きすれば、その分、個人としては、医療費もいるし、食事代等の生活費も多くかかる。
しかも、今の日本の経済や社会、そして、社会保険の状況を見ていると、物価は上がり、税金も医療費等もどんどん上がるが、所得のない年金生活者の年金額はどんどん減額されてゆく。これから先、老人が生きてゆくのにどれくらいのお金が要るのだろう。少々の貯蓄では心配でしようがないが・・・。
今ピンチにある国や自治体の年金財政や社会保険料の負担も寿命が延びれば延びるほど増えるのだが・・・、こちらの方は大丈夫なのか?。
先日厚労省は、特別養護老人ホーム(特養)の相部屋代について、一定の所得(夫婦二人所帯で本人の年金収入が211万円超、単身所帯で155万円超)のある入居者には1万5千円を軸に全額負担してもらうことや水道光熱費の値上げなどを提案しているという記事が載っていた。(10月30日朝日新聞)。この様な、負担はどんどん増えるだろう。長生きすればするほど、収入は少なくなり支出は増えてゆく。楽には死なしてもらえなくなる。
そのため私達夫婦は、病気になって、延命のための治療だけはしないことを医師あての紙にし残している。

介護保険制度が担った「介護の社会化」を在宅の介護環境を整備しようということで、ホームヘルパーとかショートステイとかを増強してきたが、在宅の介護の環境整備が整えば整うほど、在宅の介護環境の限界が明らかになる。また在宅の介護環境が整備されればされるほど、在宅での介護環境の限界を止揚する新しい介護ステージを準備しなければいけなくなってくるわけだ。
つまり、多様で豊富な介護サービスができたからこそ、介護の長期化・重度化・高齢化がはじまったということであり、逆に、既に困難な在宅介護の事態が進行していたからこそ介護保険のような施策が登場してきたとも言えるわけである。これは実は介護保険サービスがもたらした一種のパラドックスでもある。
最近の若い人には、結婚もせず、子供もつくらない人が大勢いる。それが少子化の原因であるが、若いうちは、好きなことをして自由に生きるのも良いだろうが、自分の老後がどうなるかは十分に考えておかなければいけないだろう。
安倍政権は今後の日本の発展のためには女性の活躍を期待しており、女性が社会に出てバリバリ仕事をしてもらえるよう環境づくりに努力している。そして、一方、少子化を無くすため、女性が働きやすい環境づくりの一環として子供を預かる保育所を増やそうとしている。ここでも、問題になるのが、保育所と保育士の不足だろう。
少子高齢化の中での介護問題は若い人が少なく要介護者を介護する人が足らないこと。又、その介護者への報酬を十分払う費用がないことである。
介護をしてもらわなければならない老人は寿命が延びて必然的に増加し、少子化を無くすために子供を増やそうとするが子供を産んだ女性は、ますます社会へ出て働く人が増えてゆく。
介護を必要とする老人を介護する人がいない時に、どんどん子供を増やして、生まれたその子供たちは保育所に預けて働きに行く。一体、どれだけの保育所と保育士が必要となるのか。そして、その保育は誰がするのか。ここにも、介護と同様の人手不足や費用の問題が横たわっている。
女性の社会進出促進と、子供を多く生み、育てること。いずれも理想的なことであり、一日も早くこれらを実現できることを期待したいが、ここにも、新しい社会制度が、新しい介護実態を作り出す原因にもなれば、逆にその結果にもなっている介護保険制度と同様のパラドックスがあるように思えるのだが・・・。

(冒頭の画像は、介護の日ポスター。2013年度のもの。厚生労働省HP掲載のもの借用。)
参考:
※1:厚生労働省
http://www.mhlw.go.jp/
※2:わかりやすい年金講座
http://www.geocities.jp/f05_west/anenkin01.html
※3:はじめに - 星 多絵子 | ブクログのパブー
http://p.booklog.jp/book/63920/page/1511644
※4:野口悠紀雄 2040年「超高齢化日本」への提言 - ダイヤモンド・オンライン
http://diamond.jp/category/s-noguchi2040
※5:関節疾患:メルクマニュアル18版日本語版
http://merckmanual.jp/mmpej/sec04/ch034/ch034a.html
※6:社会保障・税一体改革 |厚生労働省
http://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/hokabunya/shakaihoshou/kaikaku.html
※7:No.25–増えている「認認介護」-80歳夫婦の11組に1組も! | 公益社団法人認知症の人と家族の会
http://www.alzheimer.or.jp/?p=3404
※8:介護うつの予防法-いい介護どっとこむ
http://iikai5.com/mental/depression.html
※9:東京新聞:介護漬け横行 高齢者住宅 自治体の半数問題視:社会(TOKYO ...
http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2014102602000134.html
※10:100歳以上、最多の5万8820人 女性が87% :日本経済新聞
http://www.nikkei.com/article/DGXLASDG12H0C_S4A910C1CR0000/
※11:心を表わすよろこび | 医療法人耕和会 迫田病院
http://www.kowakai.jp/letter/1127/
共生社会政策(内閣府)
http://www8.cao.go.jp/souki/index.html
Ⅴ.「介護の社会化」と家族介護者支援を考える介護保険 10 年の検証
http://www.ritsumeihuman.com/cpsic/model4/129_157.pdf#search='%E4%BB%8B%E8%AD%B7%E3%81%AE%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E5%8C%96'
介護労働の実態と課題(Adobe PDF)
http://www.f.waseda.jp/k_okabe/semi-theses/12yuiko_yokomizo.pdf#search='%E7%A6%8F%E7%A5%89%E4%BB%8B%E8%AD%B7%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%83%93%E3%82%B9+%E3%81%AE%E5%95%8F%E9%A1%8C%E7%82%B9+%E8%81%B7%E5%93%A1'
介護保険制度 解説・ハンドブック(手引き) - WAM NET(ワムネット)
http://www.wam.go.jp/content/wamnet/pcpub/kaigo/handbook/
内閣府;平成24年版 高齢社会白書(全体版)
http://www8.cao.go.jp/kourei/whitepaper/w-2012/zenbun/index.html
介護 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8B%E8%AD%B7

ホタテの日

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今日に限らず毎月18日は「ホタテの日」である。
青森県漁業協同組合連合会(※1)とむつ湾漁業振興会が制定。ホタテの「ホ」を分解すると「十八」になることから。元はホタテの旬であり陸奥湾の「むつ」=六つに通じる6月18日のみであったが、後に毎月の記念日に拡大したそうだ。

金毘羅(こんぴら) 船々
追い手に 帆かけて
シュラシュシュシュ♪

香川県・金刀比羅宮を題材とした日本の古い民謡『金比羅船々』。料亭などで舞妓・芸妓と行う「お座敷遊びの曲としても知られている。、
私なども若い頃大阪の商社にいたときには、京都祇園での会社の慰安会などで、こんなお遊びをしたごとがあるが、「ホタテ」の名前からほっと、こんな懐かしい歌のことを思い出した。

お座敷遊び:金比羅船々 - YouTube

「ホタテ」とは「ホタテガイ」のことでであり、動物分類学上は軟体動物門(Mollusca)二枚貝綱(Bivalvia)、糸鰓目(しさいるい、Filibranchia。翼形類参照)、イタヤガイ科(Pectinidae) に分類される二枚貝(貝の種類などは※2参照)の一種で、この科の貝は一般に貝殻は右殻が膨れ殻頂に左右不対称の耳型の部分があり、貝殻表面に放射肋(ほうしゃろく)がある。
世界で300種程が知られており、ホタテガイを英語では、「“scallop”(スカロップ)」と呼ばれるが、これはイタヤガイ科の総称であり、そのうち、日本のホタテ貝は“Japanese Scallop”と分類されている。
世界のScallop類漁獲の主産地は、日本を含む極東地域と北米大陸の大西洋側の アメリカ、カナダ沿岸、ヨーロッパの大西洋岸であり、この他、北米大陸の太平洋岸、南米大陸の太平洋岸、オーストラリア、 ニュージーランド周辺などにも分布しているようだが、近縁種を含め寒海性(年間を通じて水温の低い海域にすむ)のものが大半で、大型で生産量の多い種は南北両半球の高緯度冷水域に分布している(※2、※3参照)。
日本で食用として生産されているホタテガイ類(“Japanese Scallop”)には、(ホタテガイ(Patinopecten yessoensis[JAY])の他、イタヤガイ(板屋貝、Pecten albicans)、アカザラガイ(アズマニシキガイ。Chlamys farreri)、ヒオウギガイ(Chlamys swiftii) の4種類がある(貝の種類などは※2参照)。ホタテガイは北方に生息する貝で、最も成長が早く大型になる貝である。
国際統計・国別統計専門サイト・グローバルノートのホタテ貝(帆立貝)の漁獲量・生産量 国別ランキング統計(※4参照)をみると、2012年の漁獲量は世界合計 2,385,519トンであり、その上位5か国は以下のようになっている(単位トン)。
1位 中国 1419956 、2位、日本  499,674 、3位アメリカ216,468 、4位カナダ 53,462 5位イギリス52、426
この数値は、FAO(国際連合食糧農業機関)の統計数値によるものらしいが、日本水産資源保護協会発行の『我が国の水産業ホタテ貝』(※3)によれば、FAO統計ではホタテガイやイタヤガイなど“Scallop”として一括にされているが、中国産のものは、アメリカ東岸から種苗を搬入して、養殖された“Bay Scallop”(アメリカイタヤガイ Argopecten irradians)でホタテ貝より小型の別種だそうだ。そうすると、純粋のホタテガイの生産では、日本が1位になるということか・・・・(ここの日本の漁獲量はFAOの推測値としている)。
いずれにしても、現代では、ホタテガイは日本が世界に誇る有用な水産資源であり、年間の生産量は50万トン以上に達し、国内第2位のカキ(牡蠣)(約20万トン少々)に圧倒的な差をつけて、食用貝の王者の座に君臨し続けている(※5の“養殖業の現状と課題について”参照)。
ホタテガイは古くから人類の食糧として利用されていたようだが、我が国では、北海道・伊達市の若生貝塚群、北黄金貝塚群(5000年前)、虻田市の入江貝塚、長万部町静狩(4000年前)などからホタテガイの貝殻が出土しており、5000年前の古代人がすでに、ホタテガイを食べていたことが窺える(※6参照)。
そして、江戸時代末期、日本開国のきっかけとなったのマシュー・ペリー率いるアメリカ海軍東インド艦隊黒船)の来航であるが、その主目的は遠洋捕鯨のための補給基地を確保することであったようだ。
日米和親条約により伊豆国下田(現静岡県下田市)と箱舘(現:函館)の開港が決まり、ペリーが函館に寄港した際(1854年)に函館湾よりホタテを採集しアメリカに持ち帰ったといわれている。函館湾における貝類の学術的な調査はこの時の調査に対してアメリカ人Jay (1857) が行ったのが最初で、函館 (Hakodadi) を、模式産地(新種を記載・発表するときに使った標本を採取した場所をいう)として、水産上重要な新種としてホタテガイ(Patinopecten yessoensis[JAY]。「生物分類について」は※7参照)と命名したことが日本の探検報告書に記載されいるようだ(※8参照)。
ラテン語で”patino” は「皿」、”pecten” は「櫛」、”yessoensis”は「蝦夷の」、つまり「蝦夷産の櫛のある皿」という意味で、ホタテガイの貝殻の表面にある条肋を櫛の歯になぞらえたものであり、(,※7参照)。函館湾における貝類の学術的な調査は, 過去にも行われているがホタテガイの調査についてはは、ペリーの黒船が函館港に入港した時のものに対してアメリカ人のJay (1857) が行ったものが最初だそうである。
また、ホタテガイが加工品として登場するのは、今から150年前の江戸時代の末期で、乾(ほし)アワビ、スルメ、昆布等とともにホタテ乾貝柱(干貝柱)が長崎俵物として、対中国貿易による幕府の重要な財源の役割を果たしてきた。
約30年前から北海道や青森県等で増養殖技術が飛躍的に進歩し、現在ではカキと共に親しまれている。
この日本産ホタテガイ(Patinopecten yessoensis)は寒流系の二枚貝であるため、太平洋側では東京湾以北に、日本海側では能登半島以北に分布している。産業的にはホタテガイ養殖発祥の地である青森県陸奥湾、北海道噴火湾サロマ湖オホーツク海沿岸が中心で、近年養殖技術の進歩により、岩手県や宮城県にも産地が広がっており、北海道、青森県、岩手県、宮城県で日本の生産量の99%以上が生産されているようだ(※9参照)。
イタヤガイについては日本全土に生息しているが、島根県などの一部の地域でしか生産されていない。アズマシニシキガイも日本全土に生息しているが、宮城県などの一部の地域でしか生産されていない。ヒオウギガイは南方に生息する貝で、紀伊、四国、九州で養殖されている。この貝は品種改良で色々な色を持っている。ホタテガイは、味も良く食用として人気があるだけでなく収集家にとっても人気のある貝類である。

日本のホタテガイの和名表記は 古くから「帆立貝 ・ 車渠 ・ 海扇」 等、複数あるようだが、現在一般的に使われている「帆立貝」の漢字の由来は、江戸時代に中国明代の『三才図会』を真似て作られた絵入りの百科事典ともいうべき寺島良安の『和漢三才図絵』(1712年編) 介貝部 四十七(※10参照)の「 ほたてかひ/いたやかひ/車渠」の項目に見られる。
そこにある「俗に帆立貝と云ふ。(中簡略)その殻、うえの一片は扁(ひらた)くして蓋(ふた)のごとく、蚶(サキ=赤貝)、蛤(ハマグリ)の輩と同じからず、大なるもの径1~2尺(30~60cm)、数百群行し、口を開いて一の殻は舟のごとく、一の殻は帆のごとくにし、風にのって走る。故に帆立蛤と名づく。」・・との記載によるものだろう。
確かにホタテガイは、ススーッとすばやい動きはするが、それは貝の中に入っている海水を勢いよく吐き出すこと(閉殻筋=貝柱によって殻を開閉する。)によって、その反作用で跳ぶように動くもので、ホタテガイの生態がよく判っていない時代には、それが帆を立てて走っているように見えてつけられたのだろう。
文中に「車渠は北海・西海に多くして」・・・などとあるように、イタヤガイとの混同があるようだ。
同じようなことは、良安の『和漢三才図絵』より3年ほど前の1709(宝永7)年に刊行されている貝原益軒編纂の本草書大和本草』卷之十四(介類 海扇。参考※11の34p参照)にも書かれており、寺島良安も介類についてはこれを参考にしているのだろう。
「海扇」(うみおうぎ)は厳密にはホタテ貝の中国名でもあり、殻の形が扇を連想させることとによるもので、車渠とよばれることもある。また、これを、板屋葺の形に似ていることから、板屋貝とも呼んだようだ。
『和漢三才図絵』ほたてかひの項目の最後には、以下の歌が掲載されている。

「あやしくぞうら珍しきいたや貝とまふくあまの習ひならずや 」 信實

この歌は、貝類を題材とした歌合形式の秀歌選である『三十六貝歌合』(1748年)の中に収録されている11番板屋貝を歌った藤原信実の歌であるが、そのもとは、『新撰和歌六帖』(1243年に藤原家良為家知家・信実・光俊の5人の和歌を所載した類題和歌集)第三:水 1159の歌である(※13参照)。
1748(延享5)年には、京都と江戸で、主に女子向けの教養書として出版された『教訓注解 繪本貝歌仙』(※14参照)に、この中から、36種の貝の歌に注釈と教訓を加えて, 浮世絵師西川祐信挿絵と共に掲載されている。

上掲の画像は西川祐信挿絵による『教訓注解 繪本貝歌仙』中巻に掲載されている信実の11番 いた屋貝の歌 である。
ここでは、いたや貝(板屋貝)の解説で、 イタヤガイ科の二枚貝。扇を拡げた形で、ホタテガイに似、左殻の外面は紅褐色で、放射肋が強く、板ぶき屋根を思わせるのでこの名がある・・・としており、ここでは、いた屋貝をホタテガイに似たものと明確に区分がされている。
尚、良安の『和漢三才図絵』、貝原益軒の『大和本草』の漢文の書き下し文や解説等以下参考の※12:「鬼火」心朽窩旧館>やぶちゃんの電子テクスト集:小説・戯曲・評論・随筆・短歌篇>>和漢三才圖會 介貝部 四十七 寺島良安や、日々の迷走> カテゴリー>「貝原益軒「大和本草」より水族の部」>大和本草卷之十四 水蟲 介類 海扇を参照されるとよい。

ホタテガイはイタヤ貝やヒオウギ貝などと形状がよく似ているが、ちなみに、その違いはどここにあるか?
その回答は、「YAHOO!知恵袋-イタヤ貝とヒオウギ貝、ホタテ貝の違い」に書かれているが、色や大きさの違いもあるが、特徴的なものとして、「ちょうつがいの部分から放射状に伸びる肋(列状の出っ張り)、つまり「放射肋」の外形や、本数」にあるようだ。詳しくはここを覗かれるとよい。
又、ホタテガイの形状のみについ詳しく見たい場合は、ここを参照されるとよく判る。

ホタテガイはフランス語だと 「Petoncle Conque de Venus」 とよぶそうだ。ローマ神話の愛と美の女神ウェヌス(日本語では「ヴィーナス」と英語読みされる。古典ギリシャ語のアフロディテと同じ) の名が入っている。
西洋では海から生まれた美しい女神ウェヌスの持ち物とされ、一説によると女神はホタテガイそのものから生まれたとすらいわれている。
“petoncle”は、ラテン語の“pectin”に“-culus”がついた言葉“pectunculus”の転化で、女神ウェヌスとかかわりのあるこの貝を愛すべきものと考え、語尾に縮小辞“culus”をつけたようだ。また“conque”はギリシァ語の“konkhe”〈貝、貝殻〉からきていて、“conque de Venus”は「ウェヌスの貝」という意味だという(※9参照)。
ヨーロッパではホタテガイ類(ヨーロッパホタテ[学名:Pecten maximus]を主とする近縁種群)は豊穣の象徴としてギリシア神話の女神ウェヌスとともに描かれており、フィレンツェウフィッツィ美術館にあるボッティチェリの有名な「ヴィーナスの誕生」の絵にも帆立貝が描かれている。以下がその絵である。

この絵は、ギリシア神話で語られている通り、女神ヴィーナスが、成熟した大人の女性として、海より誕生し出現した様を描いている。古典的な女神ヴィーナスは、水より出現して貝殻の上に立ち、霊的情熱の象徴であるゼピュロス(西風)に乗って、岸へと吹き寄せられている。季節の女神であるホーラたちの一人が、花で覆われた外套を女神へと差し出している。ギリシア・ローマ古典時代には、貝は女陰の暗喩(メタファー)であった。ヴィーナスのポーズは、当時発見された『恥じらいのヴィーナス』タイプの古代彫刻から得たものだそうだ。
また、ホタテガイは新約聖書に登場するイエス十二使徒の一人聖ヤコブとしても知られ、この聖人の聖地であるサンティアゴ・デ・コンポステーラ(スペイン)へ向かう巡礼者たちは、ホタテガイ類の貝殻を身に着ける風習を中世以来現代まで続けている。
ホタテ貝はヤコブのシンボルで、フランス語ではヨーロッパ産のホタテガイ類(ヨーロッパホタテ[学名:Pecten maximus])を「聖ヤコブの貝」(coquille Saint-Jacques、コキーユ・サンジャック)と呼ぶそうだ(聖ヤコブとサンティアゴ・デ・コンポステーラの詳しいことは※15参照)。

上掲の画像はカルロ・クリヴェッリ作『聖ヤコブの肖像画』
ホタテガイの和名の由来からは少し回り道をしたが、大きく括ってホタテガイの名前の由来という意味では、興味深いものである。

日本の天然のホタテカイの生息場所は水深20~30mの海域で、アサリ、ハマグリ等の生息場よりも粒の大きい砂泥域~砂れき場で、右殻を下にして、砂を被って分散して生活しているが、その生息に至適な海水温は +5~+19℃の冷水であるが、−2~+22℃の間なら生きていける(稚貝はさらに4℃ほど高温でも耐えられる)という。
天敵はヒトデオオカミウオミズダコなどであるが、、ヒトデに襲われると閉殻筋で力強く殻を開閉させて海水を吹き出し、泳いで逃げることができる。
日本の天然のホタテカイは雌雄異体、つまり、雌(めす)と雄(おす)が別々の個体で、明瞭に区別されており、産卵期(水温が4~8℃)になると生殖巣が大きく膨らみ、雄はクリーム色、、雌は赤ピンク色となる。そして、成長に伴い雄の一部が雌に性転換する。天然貝では0年貝と1年貝ではすべて雄だが、2年貝に移行する間に性転換し、 2年貝では半数が雌になるそうだ。
一方、地蒔き漁場(漁場に稚貝を放流)で種苗として放流した稚貝(放流貝)と養殖貝は成長が良いため、満1年貝で性転換するものもあるという。
水温上昇の刺激により放卵、放精し、海中で受精後浮遊する幼生となり、浮遊期間約40日間後に殻長300ミクロン(マイクロメータ)前後になると、何にでも付着するが、自然界ではその多くは海藻類に付着し、養殖貝のものは、採苗器などに付着する(4月中旬~5月下旬)。
付着後、稚貝は採苗器の中で40~60日経過後、殻長約8~10㎜に成長すると付着力が弱まって自然に落下する。もし自然環境で付着していたら海底に落下することになるが、このとき海底にヒトデが多かったり、貧酸素(水中の酸素濃度が少ない)等の悪い環境であれば稚貝は死の危険に晒されることになる。そこで7~8月までに採苗器から稚貝を採取し、中間育成(稚貝を海に放流できるように、より自然に近い環境である程度の大きさになるまで飼育する)ことが増養殖技術のポイントとなっているようだ。養殖にはカゴ(ネット)を使うものと、貝殻の一部に穴を開けてロープに吊す方法(耳つり方式)とがあるようだ。
ホタテ貝は寒海性の二枚貝で海水中の植物プランクトン有機物を餌にして成長する。1年で殻の大きさは2cm、2年で6cm、3年で9cmくらいに成長し、漁獲される。養殖の場合はもっと成長が早く2年で9cmくらいになるそうだ。ホタテ貝の寿命は 12年位で、大きいものは殻が20cmにも成長し、その貝柱の直径はなんと7cmにも達するという。
養殖ホタテは2~4 年で商品として出荷される。何年物かの見方は貝殻の表面にある年輪みたいな濃い目のシマを数えることで知ることができきる。

ホタテガイは甘みと旨味に富み、「貝の王様」とも云われているが、貝の味に寄与しているうま味成分は主にアミノ酸グルタミン酸グリシンアラニンなどで、ホタテガイ特有の甘味成分は筋肉細胞のエネルギー源となる糖タンパクの一つであるグリコーゲンである。特にホタテのグリコーゲンは他のグリコーゲンと異なり、ガンの防止と抑制に効果があることが近年報告されているという(※3参照)。
ホタテガイの貝柱には春から夏にかけてグリコーゲンが大量に蓄積され、更に旨味を増す。また、ホタテガイには市販の「栄養ドリンク」にも含まれているタウリン は体の疲れを癒し、目の疲れをとり、肝臓や心臓の機能を助け、コレステロールを減らし、血圧効果の作用や、基礎代謝能力を高め、ストレスの抑制効果があるとされているそうだ。さらには、免疫力をアップさせ、不足すると味覚障害を起こす亜鉛や、その他にも分やカルシュウムマグネシウムなどのミネラル分がたっぷり含まれていうから、ホタテは美味しいだけでなく、栄養が豊富で万能薬のような自然食材といえるかも・・・。それなら私も大いに食べなきゃいけないな~。

ホタテガイで刺身にされる部分は貝柱である。貝柱は貝殻を閉じる閉殻筋と呼ばれる部分であり、普通2枚貝の場合、この閉殻筋は前後に2つあるが、ホタテガイの場合、前閉殻筋はなくなって、後閉殻筋が大きく発達している。
ホタテ貝は、刺身やサラダ、焼物、揚げ物など調理法の種類も多く、しかも、和・洋・中華風いずれの味付けにも合い、しかも、下ごしらえに手間もかからないのが良い。
冷凍物などいつでも使えるので便利である。我が家でもいつも冷凍物を保管している。古くは超高級品で干し貝柱などは輸出されて国内には出回らないものであったが養殖が盛んとなり、今では日常的な食品のひとつにもなっている。
私は、生のホタテを刺身か寿司ネタにして食べるのが一番好きだが、バターで焼いても非常に美味が、この時はあまり火を通しすぎないのがコツだな~。
こんなこと書いていたら、急に食べたくなった。寿司は数日前に食べたので、家人に行言って明日の夕食には、バター焼にでもしてもらおうかな・・・・。
最後に、ただ心配なことが一つある。最近のニュースなどで、海水温(※16参照)上昇で北海道に異変が起きているという報道があった。
サンマイカ漁が記録的な不振に見舞われている一方、暖かい海流に生息するブリクロマグロの漁獲量が増え、沖縄など暖かい海に分布するシイラマンボウまでが泳いでいるという。
それに、アワビの大敵であるヒトデも大発生しているというから心配である。これから、日本の漁業はどうなるのだろうね~。

参考:
※1:青森県漁業協同組合連合会
http://www.amgyoren.or.jp/index.php
※2:市場魚貝類図鑑:軟体類
http://zukan-bouz.com/category.php?id=2
※3:『我が国の水産業ホタテ貝』(平成6年3月発行)ー社段法人日本水産資源保護協会
http://www.fish-jfrca.jp/02/pdf/pamphlet/067.pdf#search='%E5%8D%97%E5%8C%97%E9%AB%98%E7%B7%AF%E5%BA%A6%E5%86%B7%E6%B0%B4%E5%9F%9F'
※4:ホタテ貝(帆立貝)の漁獲量・生産量 国別ランキング統計・推移:グローバルノート
http://www.globalnote.jp/post-7341.html
※5:養殖業のあり方検討会- 水産庁 - 農林水産省
http://www.jfa.maff.go.jp/j/saibai/yousyoku/arikata/document.html
※6:水産資源と水温の関係~ホタテ編
http://mtcs.hkso.co.jp/me/unchiku/hotate.htm
※7:生物分類について
http://www.cudo29.org/taxonomy.html#cit008
※8:函館貝類研究史-北方圏貝類研究会
http://wsnr.web.fc2.com/wsnr/history.html
※9:ほたてがい豆知識 - 青森県産業技術センター
http://www.aomori-itc.or.jp/public/zoshoku/hotateinf/hotatemame.htm
※10:和漢三才図会 - 島根大学附属図書館
http://www.lib.shimane-u.ac.jp/0/collection/da/da.asp?mode=vt&id=1317
※11:貝原益軒アーカイブー大和本草 - 中村学園大学
http://www.nakamura-u.ac.jp/library/kaibara/archive01/
※12:鬼火
http://homepage2.nifty.com/onibi/
※13:新撰六帖題和歌 - 和歌データベース
http://tois.nichibun.ac.jp/database/html2/waka/waka_i067.html
※14:絵草紙屋:目次
http://www.geocities.jp/ezoushijp/mokuzi.html
※15:聖ヤコブの眠る サンティアゴ・デ・コンポステーラ
http://stella-corp.co.jp/guide/holy/h03.html
※16:気象庁 | 海水温・海流のデータ 日本近海 日別海面水温
http://www.data.jma.go.jp/kaiyou/data/db/kaikyo/daily/sst_jp.html
サンマ1匹1600円…海水温上昇で北海道の海に異変
http://amaebi.net/archives/2185726.html
水産庁/平成25年度 水産白書 全文 - 農林水産省
http://www.jfa.maff.go.jp/e/annual_report/2013/
サンドロ・ボッティチェリ-主要作品の解説と画像・壁紙
http://www.salvastyle.com/menu_renaissance/botticelli.html
7月18日 ホタテの日|なるほど統計学園 - 総務省統計局
http://www.stat.go.jp/naruhodo/c3d0718.htm
ホタテガイ- Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9B%E3%82%BF%E3%83%86

クーベルタン男爵がオリンピックの復活を提唱した日(参考)

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参考:
※1:日本オリンピック委員会
http://www.joc.or.jp/
※2:ギリシャ周遊 オリンピア
http://4travel.jp/travelogue/10240369
※3:《イーリアス》
http://www.aurora.dti.ne.jp/~eggs/iliad.htm
※4;めざせ!!パンクラチオン日本代表!! - 頂上会
http://choujyoukai.com/HTML/mezase_panc.html
※5:国際連合とオリンピック停戦 ~ よくある質問 ~国際連合広報センター
http://www.unic.or.jp/news_press/features_backgrounders/1016/
※6:オリンピックから〈遠い国〉 - フェリス女学院大学
http://www.ferris.ac.jp/departments/sections/global/invitation/invitation_25.html
※7:概要・シカゴ万博
http://www.athena-press.co.jp/sum.columbian_expo..htm
※8:クーベルタンとオリンピック第1回アテネ大会 - 京都産業大学
http://www.cc.kyoto-su.ac.jp/~konokatu/furukubo(04-1-29)
※9:ロンドン五輪百話 :プール 初代は100メートル-YOMIURI ONLINE
http://www.yomiuri.co.jp/olympic/2012/feature/20120507-OYT8T00167.htm
※10:ロンドン五輪特集:大会で振り返る五輪のニュース(MSNニュース)
http://sankei.jp.msn.com/london2012/news/120627/clm12062722220014-n1.htm#2
※11:第一次大戦以降、中国の排日運動を背後から操ったのはどこの国だったのか
http://blog.zaq.ne.jp/shibayan/article/214/
※12:悪評紛々の新国立競技場で本気見せた大成、竹中の思惑
http://diamond.jp/articles/-/61615
※13:オリンピック憲章英和対訳版 (PDF)
http://www.joc.or.jp/olympism/charter/pdf/olympiccharter2011.pdf
※14:企画・連載 : ロンドン五輪2012 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)
http://www.yomiuri.co.jp/olympic/2012/feature/20120409-OYT8T00175.htm
※15:プロ化には2つのプロ化がある
http://www.plus-blog.sportsnavi.com/arenasports/article/2

オリンピック関連年表
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%83%94%E3%83%83%E3%82%AF%E9%96%A2%E9%80%A3%E5%B9%B4%E8%A1%A8
19世紀のオリンピア競技祭
http://home.att.ne.jp/kiwi/meiwa/syoseki21.htm
滝口隆司、毎日新聞運動部記者、スポーツアドバンテージ
http://www.sportsnetwork.co.jp/adv_3/col_takiguchi.html
世界史の目
http://www.kobemantoman.jp/whe.htm

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クーベルタン男爵がオリンピックの復活を提唱した日(2-2完)

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1896年ギリシャ・アテネで開催された第1回オリンピックは、期間は、短かったものの大成功に終わった。しかし、1900年のパリ大会・1904年のセントルイス大会は、同時期に開催された万国博覧会の附属大会に成り下がってしまい、賞金つきの競技(1900年パリ大会)、キセルマラソンの発覚(1904年セントルイス)など大会運営にも不手際が目立った(※10:「ロンドン五輪特集:大会で振り返る五輪のニュース」参照)が、1908年のロンドン大会、1912年のストックホルム大会から本来のオリンピック大会としての体制が整いだした。
この1912年5月からのスウェーデンでの第5回ストックホルム大会は、日本が初めてオリンピックに参加した大会であった。
1909年の春、講道館柔道の創始者嘉納治五郎は、突然近代オリンピックの創設者クーベルタン男爵より、東洋初の国際オリンピック委員になり、日本もオリンピックに参加してくれないか・・・という要請を受けた。
オリンピックのスポーツを通して世界平和に貢献する精神に共鳴した加納は、第12回オリンピック大会をしようと尽力することになる。彼は1882(明治15)年に講道館柔道を創始していた。そのころ世界的スポーツの祭典としてアテネで第1回オリンピック大会を開催したクーベルタンの精神は、柔道を普及し、国民体育の向上を根ざす加納の届き、加納は国際オリンピック委員を引き受けた。そこで、加納は、日本最初の体育団体である大日本体育協会(現:日本体育協会)を設立(1911年)して、翌・第1912年の第5回ストックホルム大会に参加したのであった。
この大会には28の国と地域から2490人の選手が参加。15競技108種目が行われた。
日本の出場選手は、共に陸上競技で短距離の三島弥彦とマラソンの金栗四三のわずか2名であった。行列人数が非常に少なく蕭条(しょうじょう。ひっそりとしてもの寂しいさま)の観があったが、かえって群集の同情をひいた・・・・と、日本人記者は報じていたという。
三島は当日午後短距離予選に出場したが、最初の100m予選でいきなりトップに1秒以上の差をつけられ敗退。つづく200m予選は英米独3選手に敗れ最下位。400m予選は100m、200mで金メダルを取ったラルフ・クレイグ(アメリカ)が他選手に謙譲して棄権したこともあり、見事準決勝進出の権利を得たが、「右足の痛み激しきが為」棄権してしまったという。近年の資料では「精神的肉体的困憊のため」あるいは「勝機無しと見たため」を理由に掲げるものの方が多いそうだ。
一方の金栗は10000mを棄権してマラソンに出場。レース途中で日射病で意識を失って倒れ、近くの農家で介抱された。その農家で目を覚ましたのは、既に競技も終わった翌日の朝であったという。
1967(昭和42)年、ストックホルムオリンピック開催55周年を記念する式典が開催されたが、開催に当たって、当時の記録を調べていたスウェーデンのオリンピック委員会が、陸上競技の男子マラソンにおいて金栗が「(棄権の意思が運営者側に届いていなかったため)競技中に失踪し行方不明」となっていることに気付いた。このため、オリンピック委員会は金栗を記念式典でゴールさせることにし、金栗を式典に招待。招待を受けた金栗はストックホルムへ赴き、競技場内に用意されたゴールテープを切った。ゴールの瞬間、場内には「只今のタイムは54年8ヶ月6日5時間32分20秒3、これで第5回ストックホルム大会は総ての競技を終了しました」とのアナウンスが響いたという。これに対して、金栗はゴール後のスピーチで「長い道のりでした。この間に孫が5人できました」とコメントしている。…という。・・・何とも散々な、不名誉な出来事ではある。

話は元に戻るが、1912年のストックホルム大会で、三島 は、金栗の競技が終えると、嘉納団長、金栗と語らって4年後の1916年ベルリン大会での雪辱を誓い、閉会式を待たずに出国、次大会開催国であるドイツに向かった。ここでオリンピック会場などの視察をした後、砲丸や槍などの当時日本ではまだ知られていないスポーツ用品を買い込んで、翌年2月7日に帰国したという。
その1916年ベルリン大会は第一次世界大戦で開催中止となり、8年間の中断期間を経て1920年(大正9年)に、ベルギーで再開された第7回アントワープ大会には、第一次世界大戦の敗戦国であるドイツ、オーストリア、ハンガリー、ブルガリア、トルコは大会に参加することを禁止された。この辺りは、古代オリンピックの精神にそぐわないように思うのだが・・・・。
日本は、2回目の出場となったこのアントワープ大会で、男子テニスのシングルで熊谷一弥が銀メダルを、またダブルスでも熊谷と柏尾誠一郎のペアで銀メダルを獲得。日本人のスポーツ選手として史上初のオリンピック・メダリストを輩出した記念すべきオリンピックになった。
又、このアントワープ大会で初めてオリンピック旗が会場で掲揚され、オリンピック宣誓が行われている。
この大会以降、1924年パリでの2度目となるパリ大会には、選手村の設置・マイクロフォンの使用、第1回冬季大会(フランス・シャモニー大会)の開催(開催の経過は※1のここ参照)があり、1928年アムステルダム大会 より約3週間の開催期間となり、1936年ベルリン大会より聖火リレーが行われるなど、現在のオリンピック大会の基盤となる施策が採用されたが、オリンピックが盛大になり、それを国策に使おうとする指導者も現れ、1936 年のベルリン大会は、ナチス・ドイツの宣伝大会であったと言われている。
尚、この間のオリンピックでの日本の選手の活躍状況を書くと、以下の通りである。
1924年パリ大会では、レスリングフリースタイルのフェザー級で内藤克俊が銅メダルを獲得。日本レスリング史上初のオリンピックメダリストとなった。
1928年アムステルダム大会では、陸上競技・三段跳びで、織田幹雄が、日本人初の金メダリストとなる。また同じ競技に出場した南部忠平も4位に入賞し、人見絹枝が陸上競技・800メートルで銀メダルを獲得している。
1932年大恐慌下で行われたアメリカでの第10回 ロサンゼルス大会は、ヨーロッパから遠隔地だったため、欧州各国からの参加国(37ヶ国)・選手数(1,328人)が激減した。
そうした中、、満州事変の勃発などで国際世論の風当たりの強い日本が192人の大選手団を派遣。悪化するアメリカの対日感情に加えて祖国の期待という重圧。それに耐え選手たちはメダルに挑んだ。その中で、特に大活躍したのが水泳チームであった。
男子競泳で日本勢は金銀銅合わせて12個の、メダルを獲得。
競泳男子では、6種目中400メートル自由形をのぞく5種目を制し金メダルを獲得。背泳ぎでは金銀銅を独占。水泳日本を印象付けた。
陸上競技・男子100メートルで吉岡隆徳が決勝に進出。6位入賞。
陸上競技・三段跳びで南部忠平が15メートル72を跳んで優勝。日本選手が2連覇を果たした。南部は、1931年に走り幅跳びで7m98の世界記録を出していたが、三段跳びは専門外でほとんど練習していなかったというからすごい。
そして、馬術のグランプリ障害飛越競技では、西竹一中佐が金メダルを獲得している。

上掲の画像、向かって左が陸上競技・三段跳びで優勝した南部忠平。右が背泳ぎでメダルを手にした3選手。右から、清川正二(金)、入江稔夫(銀)、河津憲太郎(銅)。画像は『朝日クロニクル週刊20世紀』1931-32年号より。

そして、 ドイツヒトラー総統の開会宣言で始まった1936 年の第11回ベルリン大会では、参加国も49か国、3959人の選手が出場したが、ここでも日本選手は大奮闘。
陸上競技・三段跳びで、田島直人が優勝し日本人がこの種目3連覇を果たす。また、原田正夫が2位に入り、日本人が1、2位を独占。
陸上競技・棒高跳びで、激闘の末、西田修平大江季雄が2、3位に入賞。
当時日本の占領下にあり、日本代表として出場した朝鮮出身の孫基禎がマラソンで優勝。
水泳では、男子競泳で金メダルを3個獲得。200メートル平泳ぎは三段跳びと同じくオリンピック3連覇となる。
又競泳女子200メートル平泳ぎでは前畑秀子による日本女子初の金メダリストとなる。この競技をラジオ中継したNHK・河西三省アナウンサーの「前畑がんばれ!」の絶叫が伝説となっている。その時の感動的な動画が以下で見れる。

前畑秀子 オリンピック女子200m平泳ぎ 1936 - YouTube
 
二・二六事件、中国での排日運動の激化(※11参照)、欧州ではイタリアのエチオピア侵攻(第二次エチオピア戦争参照)、日本にも世界にも覆った苦しい空気が広がる中で、人々は明るいニュースを求め、国際的孤立感から国威の発揚を願っていた。その絶好のはけ口がベルリンオリンピックだった。
「残念ながらナチのプロパガンダは成功を収めたようだ」とアメリカ人ジャーナリストウイリアム・シャイラーの『ベルリン日記』は8月16日の日記に書いた。『ナチはいまだ見なかったほどの贅(ぜい)をつくした大がかりな大会をやったのだが、これが選手たちの非常な好感を呼んだ』(『ベルリン日記』、大久保和郎他訳)ようであり、ナチに批判的な彼も、ベルリンオリンピックの成功は認めざるを得なかったようだ。
この大会で、日本は金メダル6個銀メダル4個銅メダル8個計18個総メダル数で8位の立派な成績を上げている。それにしても、今の日本は、陸上競技では全く精彩がないが、この当時の男性は、外人に負けない身体能力を備えて活躍していたんだよね~。陸上陣はもっと頑張ってほしいね~。

ベルリン大会の次の1940年第12回大会は東京で開催される予定であったがその誘致については嘉納治五郎が努力したしたことは先に簡単に触れた。
ちょうど1940(昭和15)年は、日本の紀元2600年(紀元二千六百年記念行事参照)にあたり、オリンピックを東京で開催しようとの機運が盛り上がっていた。この招致役には長年国際オリンピック委員をしていた嘉納に白羽の矢が当たり1938(昭和13)年エジプトのカイロで開催国決定の会議が開かれ、当時国際連盟を脱退し、日中戦争に突入している日本に反対する国が多かったが、加納は77歳の高齢をおして会議に臨み、英語で堂々と意見を述べた。「日本は今大会の準備が進んでいないが、大国だから必ず成功させる。国民も戦争よりスポーツを通した平和の素晴らしさに気付くと思う」と熱弁をふるい、各国委員も29年間も国際オリンピック委員を務めている嘉納の為にということで、ついに第12回東京大会が決定すると言った経緯があった(『朝日クロニクル週刊20世紀』1938年号)。
嘉納は日本への帰路ヨーロッパやアメリカにお礼を述べ、バンクーバーを出港したが、帰国途中の船上で肺炎のため急逝した。

上掲の画像はIOCカイロ会議で東京大会決定を祝福される嘉納治五郎。

その後、日本も日中戦争でオリンピックどころではなくなり、開催は中止となってしまった。IOCは急遽ヘルシンキを代替え地として開催準備を進めたが、間もなく、ソ連のフィンランド侵攻(冬戦争参照)が始まり、第12回大会は中止となった。
更に、第13回大会はロンドンが開催地として決定したものの、開催地決定からまもなくヒトラーによるポーランド侵攻を引き金に第二次世界大戦がはじまり、再び中止せざるを得なくなった。
戦後の、第14回大会はイギリスのロンドンで開催されたが、第二次世界大戦の責任を問われ、日本とドイツは招待されなかった。日本の競泳には日本大学在学中の古橋広之進橋爪四郎らメダルが確実視されていた強豪揃いであったが出場できなかったのが残念である。
この大会では、ベルリン大会で感動を呼んだ聖火リレーが踏襲され、こののち、1951年のIOC総会で聖火リレーは「オリンピック憲章」に正式に加えられた。
1952年、第15回ヘルシンキ大会(フィンランド)で、日本は16年ぶりにオリンピック参加をするが、金メダルはレスリングのフリースタイル・バンタム級で石井庄八が獲得したものが唯一であるが、そのほかでは、レスリングフリースタイルフライ級で銀、男子体操、徒手と跳馬で、銀と銅、水泳では競泳男子100m自由形、1500m自由形、800m自由形リレーでそれぞれ銀メダルを獲得している。33回も世界記録を更新して期待されていた水泳の古橋廣之進は400メートル自由形決勝で無念の8位となっている。第14回ロンドン大会に出られなかったことは、本当に悔しかったことだろう。
初めて南半球でオリンピックが開催されることとなった1956年の第16回 メルボルン大会(オーストラリア)は、3つの国際情勢(・イギリスとフランスが関与したスエズ動乱に抗議する国、・ソ連によるハンガリー侵攻への抗議国、・中華民国の参加に抗議する中華人民共和国)によりボイコットする国々が相次いだことにより、参加国、選手数が減少した。
日本は、この大会で、競泳男子200m平泳ぎの古川勝、体操男子鉄棒小野喬、レスリングフリースタイルウエルター級池田三男,同フェザー級笹原正三が4個の金メダルを獲得。銀メダルは、レスリングフリースタイルライト級、水泳では男子競泳200平泳ぎ、バタフライ、400、1500の自由形、男子体操では平行棒、あん馬、徒手、個人総合、団体総合などで10個、銅メダルは、男子体操でつり輪、平行棒鉄棒などで5個、計19個のメダルを獲得。水泳、体操陣が大活躍、した。
1960年、第17回 ローマ大会(イタリア)では、マラソンで、まだ無名だったエチオピアのアベベ・ビキラがはだしのまま石畳のコースを走り抜き優勝を飾り、脚光を浴びた。
日本は16競技に219人(選手167人、役員52人)の大選手団を送るが、男子体操では、団体総合の金メダルを獲得するなどで、金メダル4個、銀メダル7個、銅メダル7個の合計18個を獲得。次の東京大会へ向けて、選手強化面で課題を残した。

残念ながらも、1940(昭和15)年の夏季大会の開催権を返上した東京は、1954(昭和29)年に1960(昭和35)年夏季大会開催地に立候補したが、翌1955(昭和30)年の第50次IOC総会における投票でローマに敗れた。次に1964(昭和39)年夏季大会開催地に立候補し、1959(昭和34)年5月26日に西ドイツのミュンヘンにて開催された第55次IOC総会において欧米の3都市を破り開催地に選出された。

そして、 待ちに待った第18回東京大会が1964年10月10日に開催された(~24日まで)。
アジアで初めて行われる人類最大のイベントに日本中が興奮した。
「第18回近代オリンピアードを祝い、ここにオリンピック東京大会の開会を宣言します」10月10日、大会名誉総裁昭和天皇の声が7万5000の観衆が見守る国立競技場に響き渡った。戦争で消えた幻の東京大会から24年・・・。日本が世界に認められた、そんな気がした瞬間であった。
東京オリンピックにかける日本人の熱意と努力はすさまじかった。国立競技場の拡張、オリンピックプールをはじめ各競技施設、選手村の新設。高速道路の建設や、路面電車の撤去。東京の市街は瞬く間に姿を変えた。
戦後の復興を遂げた日本の国力示威の格好のスター東海道新幹線まで五輪関連施設に含まれ、総費用は1兆8000億円とされている。1964年度の国の一般会計予算が3兆4000億円だから,まさに、国力を傾けての大イベントであった。新幹線の東京―新大阪の開業は10月1日。すべてをオリンピックに向けてひた走ってきたのである。
参加国・選手数も93の国と地域から5,152人が参加。競技種目、参加国、会場の規模ともにすべて新記録である。
この大会で、柔道とバレーボールが正式種目に加わり、実施競技種目数は、20競技163種目となり、世界新記録41、オリンピック新記録365が飛び出した。
競技では様々なドラマが展開されたが、日本人の大会初の金メダリストはウエートリフティング・フェザー級の三宅義信だった。
階級別に行われた柔道で、日本は3階級を制覇した。しかし無差別級ではオランダのアントン・ヘーシンクが日本代表の神永昭夫を制して優勝し、日本の4階級制覇を阻んだ。
この試合、ヘーシンクが神永に勝利した瞬間、会場の日本武道館は信じられないものを見たような静けさに包まれた。敗れて居住まいを正す神永は、顔面蒼白になって泣いているようにも見えたが、この時、オランダ関係者が歓喜のあまり畳の上に土足で上がり駆け寄ろうとしたところ、ヘーシンクはこれを手で制止して試合場まで上らせなかった。
ヘーシンクは、日本の講道館や天理大学で指導を受け、選手としての才能を開花させた。この頃、毎年2ヶ月ほど日本に滞在しトレーニングに励んでいたという。彼のこの時の試合での行動は「礼に始まり礼に終わる」という講道館柔道の精神を体現したものとして、現在でも高く評価されている。
期待されたバレーボール女子の決勝戦では、「東洋の魔女」と呼ばれた日本が回転レシーブの冴えを見せ、ソビエトをセットカウント3 対0で下し金メダルを獲得。勝った瞬間日本チームが泣き、ソ連チームも、控室へ入ってから報道陣をシャットアウトして号泣したと言われている。

上掲の画像は、10月23日夜、駒沢屋内球戯場の女子バレーボール日本対ソ連の決勝戦で、ソ連にスパイクを打つ磯部サダ。『朝日クロニクル週刊20世紀』19634年号より。
そして、オリンピックの伝統的競技であるレスリングでは、日本勢が金メダル5個を獲得する大活躍をみせた。また、遠藤幸雄を中心に、男子体操陣も金メダル5個を獲得するなど、大国の面目をかけた金メダル争いで、日本は金メダル16を獲得し、アメリカ、ソビエトについで3位と健闘した。
最後のマラソンでは、甲州街道をひた走ったエチオピアのアベベが2時間12分11秒2の世界最高記録を出し、ローマに続いて2連覇の偉業をなし遂げた。日本の円谷 幸吉は健闘して3位、最終日のメインスタジオに日の丸を飾った。

この東京オリンピック招致の成功は、開催に先駆けて1964(昭和39)年4月28日に経済協力開発機構 (OECD) への加盟が認められる大きな背景となった。OECD加盟は原加盟国トルコに次いでアジアで2番目、同機構の原型となったマーシャル・プランに無関係の国としては初めてで、戦前は「五大国」の一国であった日本が敗戦を乗り越えて再び先進国として復活した証明の一つともなった。
東京オリンピック開催を契機に競技施設や日本国内の交通網の整備に多額の建設投資が行なわれ、競技や施設を見る旅行需要が喚起され、カラー放送を見るためのテレビ購入の飛躍的増加などの消費も増えたため、日本経済に「オリンピック景気」といわれる好景気をもたらした。テレビ購入者が増えたため「テレビ番組」の視聴者も多くなった。
第二次世界大戦の敗戦から立ち直り、経済成長をしてきた日本の力を世界に示し、これを起爆剤にその後も成長を続けてきた日本、アメリカに次ぐ世界2位の経済力を誇っていたが、近年急成長をしてきた中国に2位の座を開け渡し、今はそれでも3位にいる。
1964(昭和39)年に続いて、56年ぶり2回目の東京でのオリンピックを2020年に開催出来ることになり、日本をこれを機会にさらなるスポーツ振興と共に経済発展が期待されている。そして、1964年東京オリンピックのメインスタジアムとして使用されていた国立競技場は、新国立競技場として全面建て直しを行い、2020年東京オリンピック・東京パラリンピックのメイン会場となる予定である。
ただ、とてつもなく巨大なこの新国立競技場の建設費は当初1,300億円を見込んでいたが、その後の試算により、最大で約3,000億円にまで膨張することが明らかになり、その後、JSC(日本スポーツ振興センター)は昨年11月、床面積を25%削減し建設費を1785億円に削減する設計を公表。12月には、文科省と財務省は、総工費の上限1699億円で合意し、今年(2014年)5月、国立競技場将来構想有識者会議は、総工費1625億円とする基本設計を承認した。しかし、その後も、建設費が当初案に比べると削減されたとは言え、依然として他の大規模競技場と比べると高価であることや巨大すぎる建物が歴史的空間を破壊すると言った反対意見も出るなどいろいろと問題になっている(※12や新国立競技場問題点等参照)。
アベノミクスの円安政策のおかげで、輸出関連会社などは円安メリットの恩恵を受け大儲けをし、市場では株価も上昇しているが、実体経済は依然不審であり、給与アップが消費税アップや株安のインフレに追いつかず中小企業や庶民はアップアップしているのが実情である。
そんな中で、建設費用はますます上がるだろうから工事費がいくらかかるかは、当初より心配されていたことであった。
地方の時代と言われて久しいが、その実行はされずますます地方は過疎化している。そのようなときに、何でも彼んでも東京へ集めようとすること自体、今の時代では問題があるのではないだろうか。まだ、日本が成長を始めたばかりの前回の東京オリンピック時代とは全然状況が違うのですよ・・・・。
弱体化している関西でするとか、原発を海外へ売り込もうと一生懸命の安倍政権が、原子力の安全性を本当に保証できるのなら、東日本大震災で大被害を受けた福島を中心とする東北地方で開催し、震災からの復興と福島原発事故の安全性に問題がないこと示せば、前回の東京大会よりずっと意義ある大会になると私は思うのだが・・・。
ま!そんなことは横へ置いておいて、平和の祭典と云われる近代オリンピックだが・・・。世界の歴史の変動の中で、オリンピックもその大きな波に呑まれてきた。
「オリンピズムは人生哲学」「人間の尊厳保持に重きを置く、平和な社会を推進することにある。」「スポーツを行うことは人権の一つである。すべての個人はいかなる種類の差別もなく、オリンピック精神によりスポーツを行う機会を与えられなければならず・・・」と、オリンピック憲章には、高邁(こうまい)な精神が謳(うた)われている(※13参照)。
しかし、古代オリンピックでは戦争状態にあっても、戦争を一時中止し、すべての国がオリンピックに参加したというが、近代オリンピック開始以降、戦争や紛争が相次ぐと、オリンピックをボイコットする国があったり、戦争が終結しても敗戦国の参加を認めないと言ったことがあったのは先にも書いたが、同じようなことは第二次世界大戦も終わり、東京オリンピック後の1980年の第22回 モスクワ大会(ソビエト)も、ソビエト軍のアフガン侵攻(アフガニスタン紛争参照)に対する制裁措置として、アメリカのカーター大統領がモスクワオリンピックのボイコットを表明。日本は多くの選手、コーチが参加を訴えるなか、5月24日に開かれたJOC臨時総会において不参加を決定。そのため、オリンピックを目指して努力してきた人たちはどれほど悔しい思いをしただろう。
これに対して、次の1984年、アメリカでの第23回 ロサンゼルス大会には、モスクワ大会の報復として、ソビエトや東欧諸国など16の国と地域が参加をボイコットしている。この大会ではアメリカが221種目中83個の金メダルを獲得。これは、東側諸国不参加によって起こった異常事態ではあるが、日本もおこぼれ頂戴で、10個の金メダルを獲得した。
又、当大会では、聖火ランナーからも参加費を集めるなど、増大する運営経費と商業主義が話題になったが、次第に、オリンピックは巨大化し、政治やビジネスなどに利用され、IOCも年々商業ベースで拡大し、開催国が利用されていくようになったとも感じられる。
クーベルタンの有名な言葉「オリンピックで重要なことは、勝つことではなく参加することである」は、実は彼の創作ではなく、英米両チームのあからさまな対立(※14参照)により険悪なムードだったロンドン大会(1908年)中の日曜日、礼拝のためにセントポール大寺院に集まった選手を前に、主教が述べた戒めの言葉だったそうだ(ここ参照)が、、実際の競技では、国も選手も勝ちにこだわり、ドーピングの使用や反則さえ見られることもある。
思い起こせば、以前はオリンピックも「アマチュアの祭典」であり、「プロフェッショナル」を排除していた。「スポーツそのものを楽しむ」ことがスポーツの本来の喜びであり、スポーツによって金銭を得ることは、スポーツ本来の歓びを損なうものだという「アマチュアリズム」に基づいていたが、今では、野球やテニス、サッカーなどプロが参加しているが・・・・。
札幌オリンピック(1972年)当時のIOC第5代会長アベリー・ブランデージは、反プロスポーツ主義者で、いかなる形であれオリンピックにプロフェッショナリズムが持ち込まれることに強く反対ていた。しかし、この態度は次第にスポーツ界からも、また他のIOCメンバーからも賛同を得られなくなってゆき、ランデージがミュンヘンオリンピックで引退後、第6代会長キラニン卿を経てサマランチ会長になった。
ブランデージ時代に逼迫した財政状態にあったIOCは、サマランチ時代にいたって、スポンサー契約や放送権料の大幅な引き上げで息を吹き返したが、同時にオリンピックが「収入の得られる商売」になっっていったとも言えるようだ(利権が生まれるオリンピックの商業主義化は、先に書いた1984年夏季のロサンゼルスオリンピックに始まると評されている)。
そして、「アマチュアリズム」自体が、豊かな余暇時間を持つ上流階級が、スポーツの世界で下層階級を排除するための差別意識から成立しているという指摘などを受けて、1974年には五輪憲章からは「アマチュアリズム」の概念は消え、「スポーツ選手」は、「プロフェッショナル」として、多くの賃金とともに、社会的地位を手に入れる機会を得ることができるようになったようだ(※15参照)。
考えてみれば、アマチュアと言っても、オリンピックに出るような人は皆、どこかの企業など職域団体に所属し職業化している人たちばかりである。違うとすれば、体操や水泳など学校関係に所属の学生ぐらいだろう。職業団体に所属し職業化している人はそのスポーツで飯を食っているのだから、一般にセミプロなどと云われたりしており、野球などの様に職業別の社会人野球大会もある。この野球など大学野球や社会人野球の人達に混ざってプロの選手がオリンピックに出場しているが、サッカーなどJリーグ所属選手ばかりであり、日本でなく、他の国で活躍している人も日本代表チームのメンバーとして、出場している。このようなケースを見ているともう、国対国の対抗戦がオリンピックだというしかないだろう。
そうなれば、国のメンツにかけて勝たさねばならなくなる。柔道女子などでコーチらによるしごきがいじめ問題としてクローズアップされたたりもしたが、どうしても勝たなくてはいけないとなると、そのような問題も発生してくるのだろう。
そして、また、ユニホームや靴などのメーカーが開発した商品を選手が身に着け広告塔としてた戦う。単に人の戦いだけでなく科学技術の争いや競争にもなっている。それを、マスコミが宣伝する。
貧富の格差がアマチュアのスポーツに格差を生むからプロ化したというが、プロ化しても、経済力のある国とそうでない国では、格差が生じている。
古代ギリシャでは、不正をなくすために裸で戦ったというが、科学技術力や、経済力の格差をなくして競うには、古代ギリシャ時代と同じように、裸になって戦うしかないのかも・・・。
「平和の祭典」「スポーツの祭典」と云われるオリンピックではあるが、何かいろいろ問題も多くありそうですね~。

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クーベルタン男爵がオリンピックの復活を提唱した日(参考)

クーベルタン男爵がオリンピックの復活を提唱した日(2-1)

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1892(明治25)年の今日・11月25日は、 クーベルタン男爵オリンピックの復活を提唱した日である。

4年に一度、世界の人々を熱狂させる平和の祭典オリンピック第32回夏季オリンピック)が2020(平成32)年7月24日〜8月9日まで、日本の東京都で開催される
ことが、昨・2013(平成25)年9月7日(現地時間)にブエノスアイレス(アルゼンチン)で行われた第125次IOC総会で決まった。
アジアで開催される夏季オリンピックは北京オリンピック(2008年)以来12年(3大会ぶり)4回目、東京での開催は前回の東京オリンピック(1964年)以来56年ぶり2回目であり、アジア初の同一都市による複数回開催となる。なお、日本でのオリンピック開催は夏季・冬季通じると、冬季開催となった長野オリンピック(1998年)以来、22年ぶり4回目にあたる。
今回、東京都は、第125次IOC総会に日本政府関係者や招致委員会関係者、日本オリンピック委員会(JOC)や各競技団体の関係者らを大量動員し、精力的なロビー活動を行った。
政府からは岸田文雄外務大臣や下村博文文部科学大臣、森喜朗元首相らが現地入りし、現地時間9月6日にはサンクトペテルブルク(ロシア)でのG20を途中で切り上げた安倍晋三内閣総理大臣も現地入りした。また、9月7日の最終プレゼンテーションでは招致委関係者や安倍首相に加えて、皇室から憲仁親王妃久子様が参加して招致演説前にフランス語と英語で計4分半のスピーチを行っている。
日本の皇族がIOC総会に出席したのは今回が初めてである。総会に出席しながら五輪招致活動には関わらないという微妙な立場での「東日本大震災の復興支援への謝意を伝える」スピーチの内容は、久子さま自らが直接まとめられたという。コラムニストの勝家誠彦氏は2020年五輪が東京に決定した最大勝因はIOCの委員にも数多くお会いされたらしいという高円宮久子様にあると語っている。
また、フリーアナウンサーの滝川クリステルがスピーチで発した「お・も・て・な・し」という言葉が話題にもなったが、この言葉は同年の新語・流行語大賞を受賞した。
以下のYouTubで高円宮妃久子様のスピーチ他、滝川クリステル、当時の猪瀬直樹東京都知事のスピーチや、勝家誠彦の談話などが聞ける。

高円宮妃久子さま IOC総会で復興支援に感謝の言葉-YouTube

兎にも角にも、多くの人の努力によって、2020年東京オリンピックの開催が決まった今の日本では、アスリートの多くがこのオリンピックへの参加を目指して頑張っており、活躍してくれるだろうから、私もその日がくるのを楽しみにしているのだが、今から6年後と云うと、私も平均寿命を超える年齢になるので、無事オリンピックが観られるかどうかは微妙なところではある。

さて、現代、国際オリンピック委員会(英:IOC)によって開催されている世界的なスポーツ大会であるオリンピック(近代オリンピック)は、何時から始まったのか・・・。それは、1896(明治29)年に、ギリシャアテネで開催されたのが始まりである(アテネオリンピック 第1回)。
しかし、そのずっと昔、ギリシャのペロポネソス半島西部にあった古代ギリシアエーリス地方、オリュンピアで、4年に1回、ギリシャ全土から選手が集まる当時最大級の競技会であり、祭典があった。
この祭典は「オリュンピア大祭」また「オリュンピア祭典競技」とも呼ばれていた。いわゆる古代オリンピックといわれるものである。
オリュンピア(オリンピア)の名は、オリュンポス十二神の主神ゼウス([Zeus]英語名:ジュピター[Jupiter]。ラテン語名:ユピテル[Jupiter])が、他の11の神々とともに君臨していたギリシアの最高峰であるオリュンピア(オリンポス)山にちなんだものである。古代オリンピックが行われた場所オリュンピア(以下オリンピアと書く)には、現在も数多くの遺跡が存在し、1989年に、世界遺産に登録されている(ギリシャの世界遺産のオリンピアの考古遺跡 参照)。 
以下参考に記載の、Wikipediaの「オリンピック関連年表」や※1:「日本オリンピック委員会」その他のサイト等を参照しながら今日は、ちょっと、オリンピックの歴史を振り返ってみよう。

オリュンピアは、紀元前10世紀ごろにはギリシャ神話の全能の神ゼウスの聖地として栄えたとされている町であり、ペロポネソス半島の西、のどかな緑が広がるクロノスの丘の麓に静かに息づき、オリンピアの遺跡の真中には「ゼウス神殿」があるが、現在、ゼウス像はなく、神殿跡には基壇と倒れた円柱が残るのみとなっている(※2:「ギリシャ周遊 オリンピア」でその風景が見られる)。
しかし、オリンピックの聖火は、今もなお、古代オリンピックが行われていたギリシアのオリンピアにおけるヘーラー(ゼウスの妻)の神殿跡において採火(点火)され開催地へと運ばれている(ここ参照)。

古代オリンピックが始まったのは、考古学的な研究によって紀元前9世紀ごろとされており、以後、紀元後4世紀にかけて行われていた。
現代行われている近代オリンピックは世界平和を究極の目的としたスポーツの祭典(オリンピック・ムーブメント参照)であるが、古代オリンピックはギリシアを中心にしたヘレニズム文化圏の宗教行事であった。つまり、全能の神ゼウスをはじめ多くの神々を崇めるための、神域における体育や芸術の競技祭だったのである。
オリンピアで行われる「オリンピア大祭」は、古代ギリシアにおける四大競技大祭のうちの一つであり、当時のギリシアには、このオリンピアで行われていた「オリンピア大祭」(祭神:ゼウス).の他に、ネメアー で開催されるネメアー大祭(祭神:ゼウス)、イストモス(現・イストミア)で開催されるイストモス大祭(祭神:ポセイドン)、デルポイで開催されるピューティア大祭(祭神:アポロン)があり、4年ごとに都市国家(ポリス)がこぞって参加し、競技が行われていたが、このうち、大神であるゼウスに捧げられる「オリュンピア祭」が最も盛大に行われていたのであった。
古代オリンピックで最初に行われたスポーツ競技は、1スタディオン(約191m)のコース を走る「競走」だけであった。オリンピアの聖地には、競走のための「スタディオン」(階段状観覧席)が築かれていた。因みに、階段状観覧席のある競技場をいうスタジアム(英語:stadium)という語はこのスタディオンに由来している。
紀元前776年の第1回大会から紀元前728年の第13回大会まで、古代オリンピックで開かれていたのはこの競走1種目だけであった。1スタディオンはゼウスの足裏600歩分に相当し、ヘラクレスがこの距離を実測したとも伝えられているそうだ。
ゼウスが男神であることから、オリュンピア祭は女人禁制で、参加資格のあるのは、健康で成年のギリシア人男子のみで、奴隷も参加できなかった。そして奉納競技において競技者は不正を防ぐため、全裸で競技をした。以下ここではスポーツ競技についてのみ述べる。
古代オリンピックの競技種目はその後、第1回からの伝統である192メートル(1スタディオン)のスタディオン走(短距離走)のほか、ディアウロス走と呼ばれる中距離走(2スタディオンの距離を走る。現在の400mに相当)、ドリコス走と呼ばれる長距離走(スタディオンの直線路を10往復する競技)、や幅跳び、円盤投げ、槍投、それにこれらを組み合わせたペンタスロンと呼ばれる五種競技(短距離競走、幅跳び、円盤投げ、やり投げに、レスリングを一人で3種目以上を制した者が優勝者)が行われていた。
そして、五種競技の中のレスリングが、紀元前668年の第23回大会から単独の競技として実施されるようになった。立ったままの姿勢から相手を持ち上げて投げる競技で、正しく美しいフォームで投げなくてはならなかった。時間制限はなく、勝敗が決するまでに長い時間がかかる過酷な競技だったようだ。
又、レスリングと同じ大会から、ボクシング(拳闘)も始まった。レスリングと同様に時間 制限もインターバルもなく、たとえ倒されても敗北を認めない限り相手の攻撃は止まらない。さらに体重別の階級はなく、グローブの代わりに敵へのダメージを大きくするための革ひも(のちに金属の鋲まで埋め込まれた)を拳に巻いての殴り合いだったという。.

上掲の画像は、古代ギリシアのボクサー(ヘレニズム期、ローマ国立博物館蔵)拳には革ひもを巻いている。

紀元前680年の第25回大会からは、映画『ベン・ハー』に見られるような48スタディオンの距離で争われる4頭立ての戦車競走が始まった。また、第33回大会(紀元前648年)からは競馬競走も行われていたようだ。こうした競技はスタディオンの南に位置するヒッポドロモス(=ヒッポドローム [hippodrome] ギリシア語の「ウマ」を意味する hippos と「道」を意味する dromos を組み合わせた語。戦車や馬の競技場)で開催されていたらしいが、現在でも未発掘のため詳細はわかっていないようだが、実際には、この競技がオリュンピア祭の由来であるとする説がある。
神話上ではホメロスの長編叙事詩『イリアス』第23歌「パトロクロスの葬送競技」にトロイア戦争で死んだパトロクロスの死を悼むため、アキレウスが行った戦車競走に関する記述がある(詳しくは、参考※3:《イーリアス》のパトロクロスの葬送競技、ヘクトールの遺体引取りを参照)。
このレースの参加者はディオメデスエウメロスアンティロコスメネラオスメリオネスらであったそうだ。

上掲の画像は、4頭立ての戦車(ミュンヘン古代美術博物館蔵、紀元前540年頃)

尚、戦車競走においての、最初の女性優勝者に、スパルタアルキダモス2世の娘キュニスカがおり、紀元前396年および紀元前392年の2度にわたって、自らが所有する戦車で勝利をおさめているらしい。ただ、古代オリンピックでは女性の参加は認められていなかったが、戦車を使った競い合いは戦車の御者ではなく、その所有者(オーナー)が勝者となるルールがあったためこのようなケースが発生したようだ。つまり、競技者の力より、金に物を言わせて作った戦車が優れていたということで、戦車の御者は競技者と認めていなかったわけだ。
このような陸上競技で走ったり、飛んだり、遠くに物を飛ばしたりするのに一番優れていた者を決める事は出来たが、誰が見ても一番強い者を決める事が出来なかったことからだろうか、第33回大会からはレスリングとボクシングを合わせたような競技パンクラティオンという格闘技も加わった。ギリシア語で「パン」とは「すべての」を、「クラティオン」は「力強い」を意味するそうで、素手ならどんな攻撃をしてもよいというルールで、間接技や首を絞めることも許され、ボクシングと同じようにどちらかが敗北を認めない限りは勝負が決することのない熾烈な競技であったようだ。
競技者は腕を上げることでギブアップしたことを示すことができたが、多くの場合ギブアップは一方の競技者の死亡を意味したともいう。ルールは“目潰しと噛み付きの禁止”の2つのみで、指や骨を折る行為も許されていたようだ。そして、当時オリンピックでは、パンクラチオンの優勝者こそ誰もが認める地上最強の
人間として称賛されていたようだ。(パンクラティオンについて、詳しくは。参考※4参照)。

上掲の画像は、パンクラチオン(Pancratium) 紀元前3世紀頃の像。

先にも書いたように、古代オリンピックにはギリシア全土から競技者や観客が参加して、数々のスポーツ競技、芸術競技が行われた。
当時のギリシアでは、いくつかのポリス(都市国家)が戦いを繰り広げていたが、宗教的に大きな意味のあったオリンピアの祭典には、戦争を中断してでも参加しなければならなかった 。これが「聖なる休戦」とも呼ばれているオリンピック停戦であり、ギリシャ語では、エケケイリアといって「手をつなぐ」という意味を持っているそうだ。
古代ギリシャ王、エーリスイフィトス、ピサ(ペロポネソス半島西部のポリス?)のクレオステネス、スパルタリュクルゴスが、当時としては史上最長となる停戦協定であった停戦協定であったオリンピック協定に署名し、後に、これがギリシャの都市国家間で条約として承認された。
この条約により、交戦中の都市も一時戦いを中止して、敵の選手の国内通過を許した。そして、27年にわたったペロポネソス戦争の間も祭典は中止されなかったという(※5参照)。
競技はその後ヘレニズムアレクサンドロス3世([アレキサンダー大王]の死亡[紀元前323年]からプトレマイオス朝エジプトの滅亡[紀元前30年]するまでの約300年間) にも続いたが、紀元前146年、ギリシアはローマ帝国に支配された。
古代オリンピックはギリシア人以外の参加を認めていなかったが、ローマ帝国が支配する地中海全域の国から競技者が参加するようになり、次第に変容を遂げていく。
さらに392年、ローマ皇帝テオドシウス一世がキリスト教をローマ帝国の国教と定めたことで、宗教と民族の純粋性を失って衰微していった古代オリンピックは393年の第293回オリンピック競技大祭開催を最後に、その後、古代オリンピックで使われたスタジアムやゼウス神殿などは、キリスト教以外の神殿を破壊せよという世命令と、オリンピア地方を襲った大地震とによって、大きく破壊されてしまった。
古代オリンピックの火が途絶えて1500年以上たってからそんなオリンピックを、復活させようとした人がいた。それが、近代オリンピックの父と呼ばれているフランスのピエール・ド・クーベルタン男爵だ。
クーベルタンは、1863年1月1日、貴族の家系の三男としてパリに生まれた。彼もそうであったが、当時の貴族の子息の多くが士官学校に学び、ゆくゆくは軍人か官僚、あるいは政治家になることを期待されていたが、その道は彼を満足させるものではなく、次第に教育学に興味を示すようになったという。
というのも、彼が青春時代を送っていた当時のフランスでは、普仏戦争(1870~71)の敗戦を引きずり沈滞ムードが蔓延していた。この状況を打開するには教育を改革するしかない、と考えるに至り、パブリックスクール視察のために渡英し、イギリスの学生たちが積極的に、かつ紳士的にスポーツに取り組む姿を見て感銘を受け、「服従を旨として知識を詰め込むことに偏っていたフランスの教育では、このような青少年は育たない。即刻、スポーツを取り入れた教育改革を推進する必要がある」と確信したという。
そして、その後も彼は、精力的に各国へ足を伸ばし、世界各地を視察、各国の交流に触れて海外からの選手の招聘、交流試合などに携わることで、次第にスポーツが果たしうるもう一つの役割「国際交流」「平和」が見えてきたことから、古代オリンピックの精神を現在に国際的な規模で復活させるという「国際的競技会」構想へと変わっていったようだ。

その背景には、古代オリンピックが廃止になってから約1000年のときを経て、再び古代オリンピックに光が当たり始めていたことがある。
ルネサンスに入って、古代ギリシャへの関心が急速に高まり、古代ギリシャ時代に書かれた文学作品ホメロスの『イーリアス』や、旅行家パウサニアスの『ギリシャ案内記』(160年から176年頃『ギリシア記』とも呼ばれる)には、オリンピアやデルポイの神域に関する記述で、古代オリンピックや「ピューティア大祭」などの競技会の施設や優勝者を記念する彫像などについての逸話も交えての描写がされるようになり、当時の人々が遙か昔の運動競技に思いを馳せるようになった。
そして、現在のオリンピア遺跡(一部)が発見されたのは1766年、イギリスの考古学者リチャード・チャンドラー (Richard Chandler) によってであった。しかし、遺跡の発掘は1829年、フランスによる「モレア探検」 (Morea expedition) まで行われなかったが、この時、フランス発掘隊により、ゼウス神殿の一部が発掘されている。
1870年代以降、ドイツの帝政が開始され、遺跡の保存・発掘はアテネのドイツ考古学研究所によって行われることになり、オリンピア聖域の遺跡の最初の本格的な発掘は、ドイツの考古学者 E. クルティウス(Ernst Curtius)が1852年に行った講演〈オリュンピア〉が口火となり、ドイツ帝国の事業としてドイツ発掘隊により、1875年から1881年にかけて本格的になされた。
これらの発掘の成果は1878年のパリ万博における「オリンピア遺跡」の展示につながり、古代オリンピックの情景は、パリを訪れた多くの人々のまぶたに焼き付けられることになった。
そして、考古的な研究が進むにつれ、「オリンピック」という名をつけたイベントが、ヨーロッパ各地で見られるようになり、例えば、ビートルズで有名なイギリスのリバプールで開かれた「リバプール・オリンピック」(その後1863、1864、1866、1867)や1866年にも開催)などがある。
このようなイベントの中には、近代オリンピックに影響を与えたものもある。1850年にイギリスのマッチ・ウェンロックで始まったオリンピック競技祭「マッチウェンロック・オリンピック」(その後、1867, 1868, 1874, 1877, 1883年)と、1859 年、アテネでの「オリンピア競技祭」(その後、1870,1875,1889年にも開催)である。
1832 年にオスマン帝国,(トルコ)からの独立を果たした近代ギリシャ(ギリシャ独立戦争参照)において、行われた1859年の大会は、独立記念としのて第1回復活オリンピック大会であり、国家の産業を振興させるという目的で,産業博覧会と運動競技を合わせたオリンピア競技会を開催したようだが、その後の1870年には、運動競技中心のオリンピア競技祭へ移行している。
近代オリンピックの創始者クーベルタンは1890年にマッチ・ウェンロックを訪れて、古代オリンピアの香り漂う競技祭を楽しみ、このとき、主催者であるブルックス博士から、後に近代オリンピックに取り入れることになった大会の国際化や開催都市の持ち回り、芸術競技の実施というアイディアを聞かされたようだ。一方、1859、1870、1875、1889年にアテネで開催された「オリンピア競技祭」と、1891、1893年に開催され「全ギリシャ競技会」は、第1回近代オリンピック大会のアテネ開催(1896)を受け入れる土台となった。 (※6、参照)。

そして、クーベルタン男爵が、パリ・ソルボンヌ大学での講演で、近代オリンピックの復活を提唱したのが、1892(明治25)年の今日・11月25日のことであった。
この講演の中で近代オリンピック復興に関する構想を始めて公表し、オリンピック競技大会復興の支持と協力を要請したが、この時は、あまり協力が得られずオリンピック復活の最初の呼びかけは失敗に終わった。クーベルタンは1893年アメリカで開催されていたシカゴ万国博覧会を見学し、この行事の一環として開かれた世界大会オーグジリアリ(“auxiliary” 補助の)は224の会議を実施 した(※7参照)というが、そのうちの一つである教育会議に出席し、オリンピックの理念を宣伝してまわり支持を得ることができたという。
そして、1894(明治27)年6月23日、パリの万国博覧会に際して開かれたスポーツ競技者連合の会議が開催され、その席上で、オリンピック大会の復興が満場一致で可決された。唯一クーベルタン男爵の構想が外れたのは、近代オリンピックのスタートは1900年のパリからだった構想が第1回大会開催まで6年も待つのは長すぎるという声が高まってきたため、第1回近代オリンピックの栄誉を、ギリシャへ譲るという形になり、それが満場一致で決まったことだという。
オリンピック開催が決まると同時に次のことが会議で決定した(※8参照 )
1)1896年をもって近代オリンピアードの第1年とする。
2)古代の伝統に従い大会は4年ごとに開催する。また大会は世界各国の大都市で持ち回り開催とする。
3) 競技種目は近代スポーツに限る。
4)第1回大会の一切は、クーベルタンおよびビケラス(IOC初代会長)に一任する。
5) オリンピック大会開催に関する最高権威を持つ国際オリンピック委員会(IOC=International Olympic Committee)を設立する。・・・など。
近代オリンピックの基礎となる事柄が決定され、これを記念して、後にIOCはこの日を「オリンピックデー」として推奨。日本では1949(昭和24)年から様々な記念式典や行事が行われている。

上掲の画像は、第1回オリンピック競技大会のポスター。

近代五輪最初の大会として開催されたこの第1回オリンピック大会は、資金集めに苦労し、会期も4月6日から4月15日まで(当時のギリシャのユリウス暦では3月25日から4月3日まで)の10日間と短かった。又、参加者は古代オリンピック同様男子のみであった(女子の参加は第2回オリンピック以降になる)。
実施競技は、・陸上競技・競泳競技(実施場所・ゼーア湾)、・体操、・ウエイトリフティング(体操の種目)、・レスリング(グレコローマンスタイルのみ)、。フェンシング、・射撃、・自転車、・テニスであった。
この大会陸上競技では12種目中、9種目でアメリカ選手が優勝、100mの予選では、全てのレースでアメリカ選手が1位になった。他の国の選手がスタンディングスタートであるのに対して、クラウチングスタートをしていたためだといわれている。100mで優勝したトーマス・バークのクラウチング・スタートは各国選手の注目を集めたという。
陸上競技短・中距離走では優勝者を出せなかったギリシャは、大会最終日の、古戦場から競技場までのコースでおこなわれたマラトン(マラソン)で、無名の牧夫であるスピリドン・ルイスが優勝している。最後の200mでは、大喜びのコンスタンティノス皇太子、ジョージ親王(ゲオルギオス1世、ギリシャ王)が伴走したという(アテネオリンピック (1896年) における陸上競技参照)。
競泳競技(ここ参照)は、水夫のための100m自由形1種目のみで、競技の場所は港(ゼーア湾)の海面であった。第2回パリ大会はセーヌ川、第3回セントルイス大会は人工湖が舞台となった。初めてプールが作られたのは、1908年の第4回ロンドン大会で、しかもプールの長さは今の倍の100で、メーンスタジアムのフィールド内に設置されていた。1 00メートル種目では、まさに陸上のごとく、一直線のコース上で火花が散らされた。今のような50 メートルプールで行われるようになったのは、1924 年の第8回パリ大会からだという(※9参照)。
古代オリンピックでは、パンクラチオンこそオリンピックを代表する競技であり、優勝者は民族の誇りだったが、第1回大会からレスリング、1904年セントルイスオリンピックからボクシングが正式種目として実施されているが、パンクラチオンは危険だという事と国際連盟が存在しなかった事等が理由でいまだに実施されていないが、こんな危険な競技はオリンピック種目としては難しいのだろう。競技のことについては、※1の競技紹介参照されたい。ここではこれ以上のことは省略する。
各国の獲得メダル数は、1位アメリカ合衆国 金11 銀7 銅2 計20個。2位2ギリシャ(開催国)金10、 銀17 、 銅19、計46個、3位ドイツ 金6 、銀 5、銅2  計13個の順だったそうだ。開催国としてメダル総数では1位アメリカの倍以上獲得しており、面目を保っている。
尚、財政事情により、第1回オリンピックでは金メダルは無く、優勝者には銀メダル、第2位の選手には銅メダルが贈られ、第3位の選手には賞状が授与されたという。又、当時は国家単位ではなく個人名義による自由出場だったため、国混合チームが出場していたそうだ。
そして、先にも書いたように、1859年のアテネでの「オリンピア競技祭」は、独立記念としのて第1回復活オリンピック大会であり、国家の産業を振興させるという目的で,産業博覧会と運動競技を合わせたオリンピア競技会を開催していたが、その後の1870年には、運動競技中心のオリンピア競技祭への移行をしているが、これは、近代国際オリンピック競技会においても同じような経過を辿っている。
それでも両者は,芸術的成果への尊敬を忘れなかったようだ。ギリシャでは,1870年の第2回オリンピア競技祭で,産業製品競技の一部として芸術競技が行われ、近代国際オリンピック競技会も,1912年の第5回オリンピック競技会(ストックホルムオリンピック)から芸術競技が導入された。その中身は、絵画,彫刻,建築,音楽などであり、奇しくも同じ内容であったという。
古代オリンピックは神を讃えるという信仰的要素が強いものであり、その点で、スポーツは強く美しい肉体で神を表現することから生まれたものであり、芸術表現も同じく神を表現する一手段であった。また、近代オリンピックにおいてもその理念として「肉体と精神の向上の場」が掲げられており、クーベルタン男爵の希望もあり芸術競技が採用された。
ただ、1948年のロンドンオリンピックまで合計7回の大会で正式競技として実施されたが、以降、正式競技から外れるが、芸術作品について客観的な基準をもって採点を行うことが困難であり、しばしば恣意的な判定があったのではないかとの批判が生じたことが理由とされているようだ。
しかし、このような批判は現在においてもフィギュアスケート、シンクロナイズドスイミング等の芸術的要素が重視される競技においても同様であり、近代オリンピックが「世界的な祭典」からより純粋にトップアスリートの競技の場として変貌していくなかでそぎ落とされたものともいえるようだ。

クーベルタン男爵がオリンピックの復活を提唱した日(2-2完)

クーベルタン男爵がオリンピックの復活を提唱した日(参考)

サントリー山崎蒸溜所にてウイスキーの蒸溜作業を開始(参考)

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サントリー山崎蒸溜所にてウイスキーの蒸溜作業を開始へ戻る

参考:
※1:NHK連続テレビ小説「マッサン」 - NHKオンライン
http://www.nhk.or.jp/massan/
※2:NHK朝の連続テレビ小説 | ビデオリサーチ
http://www.videor.co.jp/data/ratedata/program/02asa.htm
※3:NIKKA WHISKY
http://www.nikka.com/
※4:桃山学院大学お知らせ・イベント
http://www.andrew.ac.jp/newstopics3/2014/hl026a0000000yzp.html
※5:視聴率下落の一因? マッサンに「早くウイスキー作って」の声-日刊ゲンダイ
http://www.excite.co.jp/News/entertainment_g/20141125/Gendai_29297.html
※6:大場蘭園ホ-ムペ-ジ
http://homepage2.nifty.com/BRB51716/
※7:サントリーウイスキー ウイスキー・オン・ザ・ウェブ サントリー
http://www.suntory.co.jp/whisky/index.html
※8:事実とテレビ小説の違い 実在した竹鶴政孝
http://chihojichi.web.fc2.com/Massan.html
※9:ウイスキーの級別について のんだくれ自警団日誌
http://nondakure-jikeidan.at.webry.info/200903/article_8.html
※10:ニッカウヰスキーデータベースwiki - 丸びんニッキー
http://www59.atwiki.jp/nikka/pages/85.html
※11:ウイスキーブーム到来!? 「山崎」が世界最高のウイスキーに選出Jcastニュース
http://www.j-cast.com/2014/11/09220010.html?p=all
時事ドットコム:【図解・経済産業】国内ウイスキー市場の推移(2014年9月)
http://www.jiji.com/jc/graphics?p=ve_eco_seizougyo20140929j-02-w340
サントリー、米ウイスキー大手ビーム社を買収…アベノミクスで大胆に
http://japanese.joins.com/article/631/180631.html
ウイスキーの世界市場規模、日本第2位 [ウイスキー&バー] All About
http://allabout.co.jp/gm/gc/405121/
スコッチから日本の味を造るジャパニーズ・ウイスキー⑴(Adobe PDF)
http://www.eiken.co.jp/modern_media/backnumber/pdf/MM200505-05.pdf#search='%E3%83%98%E3%83%AB%E3%83%A1%E3%82%B9%E3%82%A6%E3%82%A4%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%BC'
2014~2015年は余市町に大注目! 地元でいま話題の「マッサン」とは?―北海道ファンマガジン
http://pucchi.net/hokkaido/funlog/201401yoichidrama.php
竹鶴政孝- Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%B9%E9%B6%B4%E6%94%BF%E5%AD%9D

サントリー山崎蒸溜所にてウイスキーの蒸溜作業を開始へ戻る

サントリー山崎蒸溜所にてウイスキーの蒸溜作業を開始

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今年・2014(平成26)年9月29日にスタートしたNHK朝の連続テレビ小説『マッサン』は、ビデオリサーチの調べでは初回視聴率は21,8%(※2)をとり、その後も連日20%台を確保し好スタートを切った。
『マッサン』は、ニッカウヰスキーの創業者であり、「日本のウイスキー(Japanese whisky)の父」 と呼ばれる竹鶴政孝とその誕生を支えた英国人の妻ジェシー・ロバータ・カウン(通称リタ)がモデルとなる“夫婦の奮闘記”である。
冒頭の画像は、結婚直後の竹鶴政孝・リタ夫妻(1920年頃)。
熱血漢で不器用で、どこか脇が甘い愛すべき日本男児、それがこのドラマのヒーロー・亀山政春(主演:玉山鉄二)ことマッサンであり、これがタイトルとなっているが、これは、リタが政孝のことを、”マッサン"と呼んでいた事にちなんでいる。
一連の連続テレビ小説における男性俳優が主演をつとめる作品としては、1995年度下期の『走らんか!』の三国一夫以来19年ぶりとなる。又、本作のヒロイン亀山エリー役には、朝ドラ史上初となる純外国人(アメリカ)の女優シャーロット・ケイト・フォックスがオーディションで選ばれたが、彼女の祖母は『マッサン』で演じる役柄と同じくスコットランド出身だそうである。
ドラマ『マッサン』第1週「鬼の目にも涙」(第1話)では、1971(昭和46)年北海道余市町のウィスキー蒸留所で開催された「スーパーエリー特別賞受賞祝賀式典」の会場にて、ウイスキー会社の創業者で社長の亀山政春は、壇上に飾られた自社製のウイスキー「スーパーエリー」と妻エリーの写真を眺め、彼女と過ごした日々を回想しているシーンから始まった。
回想シーンの後、ドラマは、スコッチウイスキーの製造を学ぶために本場スコットランドへ渡ったマッサンこと亀山政春が、2年の修業を終え、本場の技術と知識、そして、現地で出会い、結婚した妻のエリーを連れて、意気揚々と帰国するところから始まる。
しかし、広島の政春の実家では、外国人との結婚を母は猛反対するが、父は家業(酒造業)を継がせたい本心を抑え政春の進路を応援してくれる。
そして、第2週 10月6日からの第7話からは、サントリー創業者・鳥井信治郎も登場してきた。この後ドラマは、この二人の出会いが物語中盤を彩り、やがて舞台は大阪から北海道へと展開してゆく予定である。・・・が、あくまで、当ドラマは、実在の人物をモデルにはしているが、フィクションとして再構成した羽原大介のオリジナル作品であり、実在の竹鶴政孝のことをある程度調べてドラマを見ると面白さは増すだろう。                      
実在の人物竹鶴政孝(1894年6月20日 - 1979年8月29日)は、広島県、賀茂郡竹原町(現:竹原市。『安芸の小京都』 と呼ばれている。)の酒造業・竹鶴の本家で生まれた。
当時、広島の酒造業界では三浦仙三郎をリーダーに、抜群のブランドを誇った兵庫の灘酒に負けぬ酒を造ろうと、蔵元たちが酒づくりの改良に意欲的に取り組んでいたが、政孝の父・敬次郎もそのグループの主要メンバーだった。のちに三浦は麹をゆっくりと低温で発酵させる「吟醸づくり」の技術を確立し、酒には不向きとされていた広島の軟水から、灘酒に負けない高品質の酒をつくることに成功した。これが今日、灘・伏見と並び、日本の三大銘醸地と称されている広島(西条)の酒の始まりである。
1907(明治40)年、全国の酒を一堂に集め、その品質だけを純粋に競う「第1回清酒品評会」で優等1位、2位を広島酒が独占したのを始め1911(明治44)年に始まった全国新酒鑑評会など、鑑評会や品評会で広島酒が上位入賞したことで、全国銘柄になった。
敬次郎の酒づくりは厳しく、政孝も大きな影響を受け、厳しい信念を貫いた政孝の品質主義は、広島の環境と父を通じて育まれたようだ。2014年現在、政孝の生家(実家ではない。生まれた時、両親がちょうど本家に来ていた)の造り酒屋は「竹鶴酒造株式会社」という名称で今も続いており、NHK連続テレビ小説『マッサン』に登場する「亀山酒造」のロケ地となった(※1『マッサン』公式サイトのマッサン広島ロケリポート参照)。

上掲の画像は竹鶴酒造株式会社。
政孝は、大阪高等工業学校(後の旧制大阪工業大学、現在の大阪大学工学部)の醸造科にて学び同校の卒業を春に控えた1916(大正5)年3月、新しい酒である洋酒に興味をもっていた政孝は、卒業を待たずに就職したのが当時洋酒業界の雄であった大阪市の大阪の摂津酒造(摂津酒精醸造所、後に宝酒造と合併)であった。
19世紀にウイスキーがアメリカから伝わって以来、日本では欧米の模造品のウイスキーが作られていただけで純国産のウイスキーは作られていなかった。そこで摂津酒造は純国産のウイスキー造りを始めることを計画し、政孝は社長の阿部喜兵衛、常務の岩井喜一郎の命を受けて単身スコットランドに赴き、グラスゴー大学で有機化学と応用化学を学ぶ。
彼は現地で積極的にウイスキー蒸留場を見学し、頼み込んで実習を行わせてもらうこともあった。最終的に政孝はキャンベルタウンのヘーゼルバーン蒸留所で実習を行った(※※3:「NIKKA WHISKY」の竹鶴ノート | ニッカウヰスキー80周年参照).。
ウイスキー用の蒸留釜(ポットスチル)の内部構造を調べるため、専門の職人でさえ嫌がる釜の掃除を買って出たという逸話も残っているそうだ。政孝のこの現地修行が成功していなければ、現在の日本のウイスキーは実現していなかったともいわれている。
蒸留所での2年間の実習の中で、個性豊かなモルトにグレインウイスキーを混合して芳醇な味、香りに仕上げるブレンド技術を学んだ 政孝は、滞在中にジェシー・ロバータ・カウン(通称リタ)と親交を深めリタの家族が反対する中1920年1月8日結婚し、同年11月、リタを連れて日本に帰国。
結婚については実家の家族にも反対されるが、最終的にいったん政孝が分家するという形で一応の決着をみたようだ。結婚後、摂津酒造に程近い現在の住吉区帝塚山に新居を構えた。
帰郷後、政孝はウイスキー造りの研修結果を「実習報告」(竹鶴ノート)にまとめて岩井に提出し、摂津酒造はいよいよ純国産ウイスキーの製造を企画するも、不運にも第一次世界大戦後の戦後恐慌によって資金調達ができなかったため計画は頓挫した。
その後1922(大正11年)年政孝は摂津酒造を退社し、大阪の桃山中学(現:桃山学院高等学校)で教鞭を執り生徒に化学を教えていたという(※3の凛として、※4参照)。
1907(明治40)年に巧みな宣伝で「赤玉ポートワイン」(現在の赤玉スイートワイン)を発売し爆発的な人気を得てその土台を築いた大阪の洋酒製造販売業者壽(寿)屋(現在のサントリー)の創業者である鳥井信治郎は、その成功に満足せず、生涯の業績となるような新しい事業に着手した。その事業というのが日本人向けのウイスキーの製造であったが、日本ではまだアルコールに香料を加えたウイスキーの模造品しか作れなかったこの時代、鳥井も御多分に漏れず同じような模造ウイスキーである「ヘルメス・ウイスキー」や1920(大正9)年には,混成ウイスキーと炭酸を混ぜた発泡酒「ウイスタン」、今で言うハイボールを考え出し発売していたがうまくゆかず、本格的な国産ウイスキー生産の必要性を感じ、蒸留所を日本国内に設置することを計画していた。
そこで、スコットランドから技師を招聘しようと、三井物産のロンドン支店を通して現地のメーカー、大学に連絡を取ると、ウイスキーの製造技術を学んだ竹鶴政孝が帰国していたことを知る。
鳥井は、以前摂津酒造に模造ワイン製造を委託していたことがあり、政孝とも数度面会したことがあったことから、鳥井は政孝をスカウトすることにした。
1923(大正12)年、鳥井は日本でウイスキーを作れるのはお前しかいないと、10年契約、年俸4000円という破格の給料で政孝を迎え入れた。この年俸は、スコットランドから呼び寄せる技師に払うつもりだった額と同じと言われるが、大学卒の月給が40円から50円の時代、鳥居のウイスキーづくりにかける思いがどれだけ強かったかが理解できる。
尚余談だが、先に摂津酒造を退社した竹鶴は寿屋へ入る前に大阪の桃山中学で化学を教えていたと書いたが、ドラマ『マッサン』の第9週11月28日「虎穴に入らずんば虎子を得ず」の放送では、妻のエリーが苦労して鴨居(鳥居)の下でウイスキーづくりに参加するよう再三にわたって作った面談の機会も鴨居の作ろうとするウイスキーが本物ではないとして頑なに拒み続けたものの、まともな仕事も見つからず、食べてゆけない時期、エリーの家庭教師をしていた先から紹介された桃山中学への就職をしようと思っていたところへ、鴨居の方から、4000円の金を持ってスカウトに来たことになっていた。
当ドラマの『マッサン』は放送開始以来、週間平均視聴率が20%を超えていたが、第8週「絵に描いた餅」(11月17日~22日放送)の週間平均視聴率が19,3%(関東地区、ビデオリサーチ調べから算出)とダウンし大きな話題になっていたようだ。視聴率ダウンの原因をめぐっては、ネットにはさまざまな声が飛び交っていたが、最も多数を占めていたのはストーリー展開が遅すぎるという意見で、主人公の政春がウイスキーを作るという本筋になかなか進まなくてもどかしく感じる…と言ったことの様である。・・ひょっとしたら、NHKもそんなネット上の話題を気にして、本筋への展開を早めたのかな・・・?
確かに、今までのところは、マッサンよりも外人妻を演じているヒロイン・亀山エリーの方が中心になっていたし、ドラマを見る限り、エリー無くしてマッサンのウイスキーづくりはなかっように思うものね~。それに、全く日本語を話せなかったと言われるエリー役のシャーロット・ケイト・フォックスの日本語での演技が素晴らしい。NHKの朝ドラの視聴者など男性より女性の方が圧倒的に多いと思うが、マッサンの出世物語よりは、それを大正時代に日本へきて内助の功で支える外国人妻のエリーの方がホームドラマ的で受けるように思われるのだが・・・。これからの展開はマッサンのウイスキーづくりを中心とする本筋のドラマに入るのだろう・・・。

製造工場はスコットランドに似た風土の北海道に作るべきだと考えていた政孝だが、鳥井は消費地から遠く輸送コストがかかることと、客に直接工場見学させたいという理由で難色を示したという。そこで、政孝は大阪近辺の約5箇所の候補地の中から、良質の水が使え、スコットランドの著名なウイスキーの産地ローゼス(Rothes)の風土に近く、霧が多いという条件から山崎(大阪府島本町山崎)を候補地に推しそれが受け入れられた。工場および製造設備は政孝が設計した。特にポットスチル(ウイスキー用蒸留釜)は同種のものを製造したことのある業者が国内になく、政孝は何度も製造業者を訪れて細かい指示を与えたという。
1923(大正12)年、京都郊外・山崎に、日本初のモルトウイスキー蒸溜所・山崎工場(現在の山崎蒸溜所)の建設に着手、翌1924(大正13)年11月11日200万円もの巨費を投じた山崎工場が竣工し、政孝はその初代工場長となり、12月より蒸留が開始され国産ウイスキー製造への第一歩をふみ出した。
ウィスキーは麦芽(モルト)や穀物を原料として、これを糖化発酵させたのち、蒸留し、さらに樽の中で熟成された酒をさし、ウイスキー製造の第一歩、麦芽(モルト)づくりから始まる(ここ参照)。
Wikipediaによれば、「竣工日は、麦芽(モルト)製造開始日の12月2日とされることもある」・・・ようなので、「今日のことあれこれと・・・」を主題に書いているこのブログでは便宜上この日に合わせて書いた次第。したがって、余りこの日付のことについてはこだわらないでください。

政孝はウイスキーの製造には、酒造りに勘のある者が欠かせないと考え、郷里・広島からから日本酒の杜氏十数人を集めて当たらせたという。
こうして、1929(昭和4)年国産初のウイスキー『サントリーウイスキー白札』(現在のサントリーホワイト)が発売された。このとき、初めて、「サントリー」の名称が使用された。これは当時発売していた赤玉ポートワインの「赤玉」を太陽に見立ててサン(英語のSUN)とし、これに鳥井の姓をつけて「SUN」+「鳥井」(とりい)=「サントリー」とした、ということになっているようだ。その後1963(昭和38)年のビール発売を機に、この「サントリー」を社名に採用し、現在に至っている。

上掲の画像は「サントリーウイスキー白札」のポスター。小さくて見にくいが、左下には「・・・彼地仕込みの出藍(しゅつらん)の技師が精魂傾けて造り上げ、空気清澄な酒蔵で、丸七年貯蔵した生一本!恐らく舶来の虚栄はやがてもう昔譚(むかしばなし)となるでせう!」と書かれている。『朝日クロニクル週刊20世紀』1937年号より。
しかし、壽屋の命運をかけた「白札」は市場では輸入ウイスキー(その多くはスコッチウイスキーであった)の味に慣れてしまっていた日本人からは「焦げ臭い」「煙くさい」など散々な批評を受け思うようには売れなかった。ウヰスキーは10年以上熟成させた原種と5年くらいの新しい原種をブレンドすると美味くなるが、まだ新しい原種しかなかったのである。工場の建設だけでも莫大な費用が掛かっている為、会社としては経営上、10年の熟成は待てなかったのであった。
山崎工場が竣工したのは1924年、発売が1929念だと5年しかないので。広告上手で知られる壽屋ではあるが、このポスターの「丸七年貯蔵した生一本」はインチキだよね~・・・。
また翌・1930(昭和5)年には廉価版ウイスキーとして、赤札(現在のサントリーレッド)を発売するが、これも売れ行きは芳しくなく、途中で販売中止を余儀なくされることになった。
この頃から鳥井と正孝のスタンス(物事に取り組む姿勢。心構え。態度。立場)の違いは明白になってきていたようだ。本格的ウイスキーの国産化という基本目標は共通していたものの、酒蔵の息子として産まれた職人肌の技術者で、本場流スコッチの再現に強くこだわる正孝の姿勢に、薬種問屋の丁稚上がりで広告戦略にも長けたビジネスマンの鳥井は、必ずしも全面的賛同はしていなかった。
実際のところ、鳥井は全く採算の取れないウイスキー事業を「身を削りつつ」維持し続けていた。当時の寿屋の主力商品「赤玉ポートワイン」での収益は、その多くがウイスキー事業での赤字で損なわれ、サイドビジネスとして実績を上げつつあった喫煙者向け歯磨き粉「スモカ歯磨」の製造権・商標を売却してしのいだほどであったという。この現実が正孝の理想論と合致しないのはやむを得ないことであったのかもしれない。
しかし幸か不幸か売れ残った原種が歳月と共に熟成し、立派な原酒となり、1937(昭和12)年、亀甲模様の瓶に黄色いラベルを添えた上級ウイスキー「サントリーウイスキー12年」(12年間熟成させたもの)として生まれ変わった。後に「角瓶」と呼ばれるウイスキーである。
政孝主導での草創期から長らく貯蔵・蓄積された原酒をブレンディングベースに、政孝の退社を経て、鳥居はウイスキー製造の方針を根本的に改め、それまでに鳥井が自身で得た経験、さらに長男・鳥井吉太郎の手によって企画され、ウイスキーとしての十分な品質を達成しながら、日本人にも受け入れやすい味とし、なおかつ、収益を上げられる商品として開発されてきたものであり評判は上々であった。、

上掲の画像は、サントリーウイスキー角瓶。『朝日クロニクル週刊20世紀』1937年号より。
これが失敗したら壽屋は倒産しかない、という危機的状況下であったが、おりしも日本が戦時体制に突入しつつある中、舶来産のウイスキーが輸入停止になったことなども幸いし、好調に売り上げを延ばしていった。売れ行き好調の波に乗り、翌1938(昭和13)年、寿屋は大阪梅田の地下街に直営の「サントリーバー」を開設した。
そして、太平洋戦争勃発前の1940(昭和15)年「サントリーウイスキーオールド」の製造を発表するが、戦時下でもあり奢侈品統制令が出されて日の目は見なかった。
間もなくして日本は第二次世界大戦へと突入してゆくが、その間鳥井は当時の日本海軍の取り計らいで手に入れた麦をもとに軍用ウイスキーを製造し続けることになる。やがて日本は敗戦したが、山崎蒸溜所は戦災に遭うこともなく、ウイスキーの生産を続けるに至った。
そして10年経った戦後復興の最中の1950(昭和25)年に、オールドは世に送り出された。その瓶の形状から、ダルマなどの愛称がつけられている。実に高価なウイスキーで庶民からは憧れの的であった。と同時に夜の歓楽街にあるバー・クラブ・スナックなどの店では、芳醇なモルトの味は高い人気を集め、高度経済成長期には、壽屋の売り上げの殆どをオールドで占めた時代もあるほどの売り上げを記録し、サントリーのウイスキーの代表的なブランドを決定づけた。年を負うごとにつれて、徐々にではあるものの、一般の間にも浸透しつつあったが、やはり高級ウイスキーであることには変わらず、人々から一種のステータス的な存在でもあった。

上掲の画像は「サントリーオールド」のポスター。1950年。パケージは版画家の宗像志功による。

一方、自分の理想とするウイスキーづくりを目指した政孝は、1934(昭和9)年3月1日、10年契約の切れるのを契機に退社し北海道余市町でのウイスキー工場(現在の余市蒸溜所)を造ることを決意する。湿地帯が続く余市川沿いには適度の湿度があり、ウイスキーの香りづけに欠かせないピート(Peat=泥炭)層もあった。スコットランドの風土に似た北海道こそ、ウイスキーの理想の地とみていたからだ。
ところで、政孝のサントリー退社の経緯であるが、1929 (昭和4 )年の『白札サントリー』が発売された年に、政孝は、鳥井より、横浜のビール工場工場長兼任を命じられているが、 これには、左遷されたとする話もある。(オリーヴ・チェックランド、1998『マッサンとリタ(和気洋子訳)。1938(昭和8)年、壽屋が、拡張工事にかかっている最中の横浜工場を大日本麦酒傘下の麦酒共同販売(大日本麦酒が日本麦酒鉱泉を合併し現麒麟麦酒と設立した会社)に売却し、政孝はショックを受けていたようである。
又、別の話としては、壽屋の上田武敏、佐藤喜吉らの新技術陣と相容れず、ブレンドについても鳥井と意見が合わず、横浜のビール工場へ送られた、そして、新技術陣、鳥井信治郎と意見が合わず、壽屋を退社することになった(杉森久英(1983)『美酒一代』新潮文庫)との意見もある(※8参照)・・・が、私も感じとしてはそれが真実ではないかという気はするのだが、ドラマ、小説その他、色々話があるようで、私も本当のことはあまりよく判らないまま書いている点、承知しておいてください。
北海道余市はリンゴの産地でもあった(余市は、日本で初めて民間の農家がリンゴの栽培に成功したところとされている)。
ウイスキーは製造開始から出荷までに数年かかるため出荷までは、当然ウイスキー製造による収益はない。そこで竹鶴は、事業開始当初は余市特産のリンゴを絞ってリンゴジュースを作り、その売却益でウイスキー製造を行う計画であった。そこで、資本を集め、7月に大日本果汁株式会社(現:ニッカウヰスキー)を設立し、代表取締役専務に就任した。
筆頭株主は加賀証券社長加賀正太郎。加賀の妻は1924年以来、政孝の妻のリタから英会話を学んでおり、政孝が事業を始めることを聞いた加賀が他の2人の出資者と共に政孝を支援することにしたという(※6:大場蘭園HPの「マッサンと加賀正太郎」'参照)。資本金はわずか10万円、山崎工場の20分の1だったそうだ。
この記述も政孝自身の自伝を元にしているが、Wikipediaによれば、出資者の記述はこれとはだいぶ異なり、竹政は余市で起業する際、壽屋と鳥井には大変に恩があるので、余市でウイスキー製造をする気はない、大日本果汁はその名の通り、リンゴジュースを製造販売する会社だと説明して出資を募ったという。創業後、莫大な返品と積み上がった在庫をどうするのかという話になったところで、ようやくそれらを使って蒸留酒を造る、そのついでに少量のウイスキーも仕込む、という話を持ち出して来たという。・・・と。
実際、大日本果汁は、創業後しばらくは酒造免許を取得していない・・・・。
大日本果汁は 1935(昭和10)年5月、日果林檎ジュース(アップルジュース)の出荷を開始。しかし政孝の品質へのこだわりはジュースにも及び、他社が6銭の果汁入り清涼飲料を作っていたのに対して30銭もする果汁100%ジュースしか販売しなかったため、あまり売れなかったという。混ぜ物をしていないため製品が濁ることがあり、誤解した消費者や小売店からの返品も相次いだようだ。
翌1936(昭和11)年に、ウイスキー・ブランデーの製造免許を受け、製造を開始。1938(昭和13)年「ニッカアップルワイン」を発売している。
そして、政孝が余市で製造した自社製ウイスキー第一号に社名の「日」「果」をとり「ニッカウヰスキー」と命名して発売したのは、壽屋(現サントリー)で、日本初の本格ウイスキー「サントリー白札」を世に送り出してから6年を経過した1940(昭和15)年のことである。

上掲の画像は「ニッカウヰスキー」のポスター。政孝のモットウだった「本格醸造品質第一」の文字が記されている。『朝日クロニクル週刊20世紀』1937年号より。

販売直後に、物価統制の時代に入り、大日本果汁は海軍監督工場となった。当時スコッチウイスキーの国内最大の消費者は帝国海軍であったが、イギリスからのウイスキー輸入が途絶えたため、日本国産ウイスキーへの需要が高まった。このときは将校への配給用の酒を製造するために優先的に原料の大麦が割り当てられたため、事業の継続が可能となった。1943(昭和18)年政孝は専務から社長に就任している。
しかし、終戦(1945年)と同時に状況は一変する。
正孝の自伝「ウイスキーと私」によると、当時ウヰスキーは配給制度で、配給価格は120円のものが闇で1500円もしていたが、会社が闇行為をするわけにもいかず本格ウヰスキーは作るだけで損をする状況になり、本物にこだわる政孝も技術者と経営者の葛藤に苦しむことになる。
1949(昭和24)年酒類は自由販売となるが、他社はアルコールに香りと色だけを付けた三級ウイスキーを大量に売り稼いでいた。当時三級ウイスキーの定義は「原酒が5%未満ゼロ%まで入っているもの」であった(※9:「ウイスキーの級別について」参照)。
品質にこだわり、イミテーションウイスキーはウイスキーではないと主張する政孝にとって、三級ウイスキーの製造は考えられなかったが、経営は苦しく、給料も遅配する状況下では、背に腹は代えられず三級ウイスキーを製造することになる。その製造担当には息子の威(たけし)が当たり、翌1950(昭和25)年「スペッシャルブレンドウイスキー」が販売された。500mlで350円。せめてもの抵抗で原酒は上限5%まで入れていた。
1952(昭和27)年、東京に本社を移し社名をニッカウヰスキーに変更。東京都港区麻布に東京工場を建設するなど徐々に事業を拡げてゆく。
1953(昭和28)年酒税法改正で、一級から三級が特級から二級に変わった。
1954 (昭和29)年大日本果汁の出資者加賀正太郎と柴川又三郎が発行株式の半数にあたる持ち株を朝日麦酒(アサヒビール)社長山本為三郎に売却。(今はアサヒビールが社名変更したアサヒグループホールディングスのグループ下にある)。
山本は営業強化の為に弥(彌)谷醇平(やたにじゅんぺい)という凄腕を送り込んだ。コロンビア大学で経営を学んだ弥谷は正孝に価格引き下げを進言。
壽屋の二級「トリスウイスキー」は640mlで340円。しかし、ニッカの二級を同価格にすると3割ほど原価割れしたが、弥谷は「売り上げが全国で87%伸びれば黒字に転じる」と主張したという。
そして、1956(昭和31)年新たに、二級の「丸びんウイスキー(通称丸びんニッキー)」(※10参照)を640ml340円で発表。初のテレビCMも放送した。
丁度、トリスバー、オーシャンバーなどが人気を呼び洋酒ブームが到来していた時であり、ニッカバーも追随。それに乗って「丸びんニッキー」は大ヒットとなる。
1961(昭和36)年1月、正孝の妻リタが亡くなる。その喪失感から正孝を救ったのもウイスキーであった。息子の威と貯蔵庫にこもり、ティスティング(tasting)を繰り返し翌1962(昭和37)年、新作「スーパーニッカ」を発表した。
720mlで3千円。当時大卒の初任給が約15,000円程度だったのでその5分の1という高級品であった。余市蒸留所で作った原種からえりすぐってブレンドした自信作だった。

上掲の画像は、「スーパーニッカ」である。
ところで、上掲の画像「スーパーニッカ」を見て、何か思い出しませんでしたか。
このブログ、冒頭で、NHKの朝ドラ『マッサン』第1週「鬼の目にも涙」(第1話)では、1971(昭和46)年北海道余市町のウィスキー蒸留所で開催された「スーパーエリー特別賞受賞祝賀式典」の会場にて、ウイスキー会社の創業者で社長の亀山政春は、壇上に飾られた自社製のウイスキー「スーパーエリー」と妻エリーの写真を眺め、彼女と過ごした日々を回想しているシーンから始まった。…と書いたが、このシーンで写っていたウイスキー「スーパーエリー」は、ボトルの形から見て、どう見ても「スーパーニッカ」ではないかと思う。ロケ地は、実在のニッカ余市蒸溜所なのだろう。
イングランドで知り合ったリタが「日本で本物のウイスキーをつくりたい」という正孝の夢に打たれて「私はあなたの夢を共に生き、お手伝いしたいのです」と、両親の反対を押し切ってまで結婚し、正孝について日本にまで来た。そして、数々の苦労をしながら良きパートナーとして正孝のウイスキーづくりを助けてきた。正孝にとってなくてはならならなかたリタ。発売の前年に亡くなった政孝の最愛の妻リタに対する鎮魂の意味も込めて作ったものであったと正孝の息子威はいう。
だからこそ、ドラマ『マッサン』の初回回想シーンで、「スーパーニッカ」と思われるものが使われたのだろう。
この翌年には二級の「ハイニッカ」を発売。
二級ウイスキーとして発売当時500円という低価格で発売され大人気になった商品である。当時の「ハイニッカ」は、二級ウイスキーであるが故、現在よりもスピリッツを多く含ませてウイスキー原酒の割合を少なくして販売していた。それでも酒税法の限度一杯までモルトを使用していた(ここ参照)。これに対して、この時期にはライバルとなっていたサントリーが対抗してかつての赤札(現在のサントリーレッド)を同価格帯で復活させて、応戦するという事態にもなった。
兎に角、「スーパーニッカ」「ハイニッカ」のどちらも評判がよく、「ニッカ」が全国ブランドへと本格的に成長していくことになった。

さて、「日本のウイスキー(Japanese whisky)」の父と云われる竹鶴政孝とその妻リタをモデルにしたNHK連続テレビ小説『マッサン』の高視聴率にも押されて売れ行きを伸ばしていた、サントリーやアサヒビール傘下のニッカウヰスキーは「ブームの再来」に期待を寄せている.。
国産ウイスキーが誕生して約90年。両社は国産ウイスキーの代表であり、いまやその味は本場スコットランドをはじめ、世界のウイスキー好きを唸らせているようだ。
今年・2014(平成26)年11月3日発売の英国の「ワールド・ウイスキー・バイブル2015(Whisky Bible)」が、日本のウイスキー「山崎シングルモルト・シェリーカスク2013(The Yamazaki Single Malt Sherry Cask 2013)」(サントリーー酒類)を、世界最高のウイスキーに選出したことが報じられた(※11参照)。日本のウイスキーが最優秀となったのは初めてのことである
サントリーによると、2014年1~10月期のウイスキーの売上高は、前年同期比5%増と、好調に推移しており、なかでも、「山崎」や「」「白州」といったプレミアムウイスキーの売上高は、2割強も伸びた。同社は2014年の「インターナショナル スピリッツ チャレンジ」でも、「響21年」や「山崎18年」「白州25年」「ジムビームシグニチャークラフト12年」(バーボン)などの18品が金賞を受賞しているという(※7のここ参照)。
一方、ニッカウヰスキーの親会社のアサヒビールも、「好機到来」を実感しており、2014年1~9月期の国産ウイスキーの売り上げは、前年同期に比べて9%増えた。又、朝ドラの「マッサン」の放映がはじまった9月単月だと22%増だったという。とりわけ「竹鶴」ブランドは1~9月期に42%増、9月単月では62%増と絶好調で、同社の柏工場(千葉県)は休日返上のフル稼働状態だという。
今年・2014(平成26)年は、ニッカウヰスキーにとって創業80周年、竹鶴政孝の生誕120周年の節目にあたるため、「年初から販売を強化してきた」というが、高視聴率を叩き出している朝ドラが「追い風」になっているようだ。
かつてのウイスキーブームは1983(昭和58)年のこと。サントリーではこの年、課税数量ベースで35万9000キロリットル(1箱8.4リットル換算で4273万箱)、ニッカウヰスキーでも5万8650キロリットル(698万箱)を売り上げていが,これをピークに、若者の酒離れや低アルコール志向を受け、ウイスキーの売り上げは下降線をたどり、2008年頃には、かつての5分の1の規模にまで縮小していたが、このころから、ちょっとした「ハイボール人気」で再び火がつき、それ以降右肩上がりに転じていた。
これには、かつては日本古来の焼酎を大衆酒と位置付けて低税率とする一方、ウイスキー、ブランデー等の洋酒は高級酒とされて高税率であったが、これについて洋酒生産国から非関税障壁であるとの批判を受けて2008(平成20)年に税率が改正され、ウイスキー、ブランデーも、焼酎やスピリッツ(蒸留酒)同様、アルコール度数37°以上の場合、等しい税額が賦課されるようになったことも影響しているのかもしれない。
兎に角、これを機会にと、2008頃から、ウイスキー業界1位のサントリーがウィスキーの増産に乗り出せば、2位のニッカは14年ぶりに「スーパーニッカ」をリニューアルし、ウイスキーの販売拡大に転じていた。そのような努力もあってのことだろうが、今、実に約30年ぶりの活況を呈しているようだ。
ニッカは朝ドラにタイミングを合わせるように、新ブランド「ザ・ニッカ」(ここ参照)を9月30日に発売し、モルトの香り豊かな「12年」(税別5000円)と濃厚さが特徴の「40年」(同50万円)を出し、基本的には国内に注力。「40年」は700本限定だそうである。
今では筆頭株主からニッカの全株式を取得して親会社となっているアサヒビール「の平野信一専務は「本物の高級ウイスキー。創業80周年の節目に総力を挙げる」と宣言している。
一方のサントリーは10月1日付でサントリーホールディングス社長にローソンの前会長・新浪剛史氏が就任して攻勢をかける。海外販路の拡大が狙いだが、国内向けにもウイスキー復調を引っ張っている「角ハイボール」のさらなるヒットに力を入れるという。
どちらも「国産ウイスキーの草分けはこっち」というプライドがかかっている。ドラマ『マッサン』が回を重ねていくに従って、両社のライバル心も熱くなることだろう。
しかし、ここ数年の若者を中心としたハイボールブームは、かっての酎ハイブームに似たようなものだが、これを引き起こしたのは、若者の低アルコール、炭酸嗜好によるものと思われるが、ハイボールはビールなどと比較すれば安いため、不況による節約志向と相まって売れていたこともある。
ハイボールで、低アルコールの軽いウィスキーの旨さを知った若者世代が、果たしてどれくらいシングルモルトなど「本物」のウイスキー市場に戻ってくるのかどうかは両社の努力次第だろう。
両社とも質を高めた自社の高級ウイスキーを、てこに、新たな顧客層としての若者や外国人観光客を取り込む考えのようだ。
アベノミクス効果?によるものかどうかは知らないが、円安株高での景況感から、外人観光客も増加しているし、ワインの売れ筋の価格帯が2000円台以上に上昇してきたとも聞いている。
中間層以上の円安メリットを享受している人達にとっては高級ウイスキーも良いだろうが、アベノミクスは所得格差も産み、中間層より下のものには、これからも手ごろなハイボールを愉しむしか仕方がない人も多いことだろう。
私は、ドラマ『マッサン』 の主人公のモデルとなったジャパニーズウイスキー生みの親と云われる竹鶴政孝よりも、その外国人妻である・リタの方に興味がある。以下のYouTubeでは、そんな二人のことがよく判る。全三話構成の 第二話であるが、アクセスすると、横のリンク蘭で第一話第三話も見れる。ちょっと、ニッカのCM臭いが・・・。
ウイスキー浪漫 竹鶴の夢 第二話【ニッカウヰスキー】―YouTube

サントリー山崎蒸溜所にてウイスキーの蒸溜作業を開始(参考)

ごめんねの日

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12月10日
日本記念日協会(※1)の今日・12月10日の記念日に「ごめんねの日」があった。由緒を見ると以下のように書いてあった。
外食産業の株式会社すかいらーくが、2009 (平成21)年12月10日に「すかいらーくガスト」の 新メニュー「ハミ出るビーフステーキ」を登場させたことから制定。お皿からハミ出してしまうほどのボリュ ームを「ハミ出してごめんね」と逆説的にアピールして、コミュニケーションをはかるのが目的。関連サイト の「謝り美人」などのプロモーションも人気。・・・・と。以下はガストのCM.。
ガスト ハミ出るビーフステーキセット - YouTube

「ガスト」とは、日本最大のファミリーレストランチェーンを展開しているすかいらーく(SKYLARK CO., LTD.)の洋食ファミリーレストラン主力ブランドである。
2014年(平成26)年11月30日現在、主力のガスト、1,352店(店舗数計2,593店に対する構成比52%超)、バーミヤン、342店、ジョナサン、300店他計2,593店、グループ店舗数では計2,970店を展開している。(※2の企業情報>ブランド一覧参照)。
すかいらーくは、前回の東京五輪が開催された2年前の1962(昭和37)年、横川竟(きわむ)ら横川4兄弟」が現西東京市のひばりが丘団地内に、食料品を取り扱ことぶきスーパー「ことぶき食品」を創業。しかし、当時の高度経済成長時に大駐車場を完備した大型店舗の巨大スーパーの進出が経営を直撃した。
経営規模の違い過ぎる価格競争が続く食品スーパー事業から他業態への転換を模索している中で、当時の経営コンサルタント渥美 俊一らが設立したチェーンストア研究団体「ペガサスクラブ」(※3参照)のアメリカ視察に参加。
アメリカでは既にモータリゼーションが進み、郊外型のレストランが繁盛している点に着目。日本でもマイカーブームが急速に進み始めているところに商機を見出し、マイカーで移動するファミリー客をターゲット(標的)としたレストランを考案し、1970(昭和45)年に、日本初の郊外型ファミリーレストラン「スカイラーク」1号店を出店。1974年11月、「(株)すかいらーく」に商号を変更した。
1980年代中頃、それまでのチェーンレストランには無かった斬新な和食メニュー「麦とろご飯膳」を発表。世の中のヘルシー嗜好等に即した「とろろ」を取り入れた為、ファミリー層を中心に売れ筋メニューとなり、以後、すかいらーくは、和食メニュー開発に積極的に取り組んでいた。
その後も時代のコンセプト(英::concept。概念)や消費者ニーズの多様化に応え、コーヒーショップ「ジョナサン」」(以後各ブランドについては※2のブランド一覧を参照)、中華料理「バーミヤン」、和食「藍屋」など新業態を開発し、レストラン業界のリーディングカンパニーとして成長。
1992(平成4)年に、東京都小平市に「ガスト」1号店を出店。1993(平成5)年には、すかいらーくグループは、外食産業のうち、テーブルサービスレストラン(テーブル・サービスを基本サービスとしているレストランの総称)として初の1000店舗出店を達成し、ファミレスのトップランナーとして日本の外食産業を牽引してきた。
元々「すかいらーく」と「ガスト」とは似たようなコンセプト(洋食)であった中で、1980年代後半のバブル崩壊後の低迷を打開すべく、実験店舗ブランド(当初は高級路線の実験店舗だった)だった「ガスト」を、低価格の新業態として開店した経緯がある。店名は、スペイン語・イタリア語で「味」を意味する” Gusto”(グスト)を英語読みしたものだそうである。
現在では当たり前のように採用されているが、ホールの呼び出しベル、セルフサービスのドリンクバーや作業開始、メニュー品目の絞り込みなどの工夫により、結果として、より少ない従業員での運営を可能にし、すかいらーくでかねてより懸案となっていた人件費率の高騰などを抑えた低価格を実現。
翌・1993(平成5)年には、当時高級志向であった「すかいらーく」の720店のうち420店舗を約1年でガストに転換。「おいしい料理を、ポピュラープライスで、自宅のダイニング感覚でお食事を」をコンセプトに、客単価を大幅に下げたために、1993年頃には業界で「ガスト化」「ガスト現象」などと呼ばれるブームを巻き起こした時期もあった。
そして、この1993(平成5)年には、すかいらーくグループは、外食産業のうち、テーブルサービスレストラン(テーブル・サービスを基本サービスとしているレストランの総称)として初の1000店舗出店を達成し、ファミレスのトップランナーとして日本の外食産業を牽引してきた。
しかしながら、このような接客サービスをしないセルフサービス方式が徒(あだ)となり、客席放置にもつながり、メニューも飽きられ、客層も悪化し、1994年頃には業績が落ち込んだ。
その後、「ロイヤルホスト」のロイヤルホールディングス、「デニーズ」のセブン&アイ・フードシステムズなどと同様に、「ガスト」などを展開するすかいらーくも、デフレ経済下の消費ニーズの変化を読み切れず、2000年代中盤以降、低価格のファストフードに顧客を奪われ、長期にわたり業績が低迷した。デフレの勝ち組がファストフードであり、負け組がファミレスであった。
そのため、2006(平成18)年には、野村ホールディングスの 完全子会社である投資ファンド・野村プリンシパル・ファイナンスと創業家である横川家を中心とした経営陣によるMBO(経営陣による自社買収)を実施し、株式を非公開化(上場廃止)して経営再建に取り組んだ。当時、日本最大級のMBOと話題になったものだ。
そして、翌・2007(平成19)年7月、野村プリンシパルと英大手投資ファンドCVCキャピタル・パートナーズが設立した投資事業会社SNCインベストメント(株)が、すかいらーくを吸収合併(※4参照)、新生すかいらーくが発足した。新生すかいらーくの会長兼社長には創業家の横川竟(きわむ)氏が就任した。
しかし、横川氏の再建計画は軌道に乗らず、創業家と筆頭株主である投資会社の対立が表面化し、その後、2008(平成20)年8月、社長交代(横川竟→谷真常)、追加増資、財務基盤を強化、そして、不採算店を閉鎖するなど、野村主導で経営再建に取り組み、、2009(平成21)年3月から、バーミヤンよりも客単価が100円ほど安くサラダなどの洋食なども扱う「チャイナCaféガスト」の展開を発表、一部のバーミヤン店舗を同年3月に転換し、10月には現存の「すかいらーく」をすべて「ガスト」へと転換したため、創業時からの主力であった「すかいらーく」店舗はすべて消滅した。
又、同年3月からは、ステーキ・ハンバーグの専門店「ステーキ ガスト」も展開しており、同年12月1日現在で計24店舗を展開していたという(2010.12.02付MSN産経ニュース)。
低価格をうりものにするレストラン「ガスト」から鉄板からはみ出るほど大きいステーキセット「ハミ出るビーフステーキセット」が12月10日から3カ月の期間限定で発売された。ステーキは従来サイズの約1・4倍の200グラムにサイズアップ。同セットはライス、サラダ、スープが付いたセットで、価格は1048円。単品価格は838円。「円高や仕入れ担当者が米国の食肉メーカーと直接交渉によりボリュームを上げながら、従来価格に据え置いた」という。
期間中、150万食以上販売を目標と発表していた。
すかいらーくが、日本記念日協会に12月10日を「ごめんねの日」として申請し、同協会から認定された上で、“ボリュームがありすぎて鉄板から肉がハミ出てしまうことに対するおわび”・・・にということ(逆説的アピール)で、10日からの発売になったものだという。
要するに、安い牛ステーキを販売するためのPR用の記念日である。最近は、日本記念日協会登録の記念日もこの手の広告用の記念日がほとんどで、同サイト自身が、もう、記念日登録の手数料を得るためを広告媒体用サイトになっているとも言えるだろう。
このPRも効いてか、大好評で予定販売量は、1カ月で売り切れたが、4月15日これを復活したという(※5、※6参照)。結構なことである。
・・・しかし、すかいらーくの経営は、うまくゆかず、結局、2011(平成23)年10月には、米国の投資ファンド「ベインキャピタル・パートナーズ」が買収を発表し、その後、同社の資本下で再建を進めてきた。
この時から不採算店の整理に取り組み、4500店あった国内店舗を3000店規模に縮小。売り上げは3割減ったが、リストラ効果で2006(平成18)年から2010(平成22)年まで5期続いた赤字経営から脱出。2011(平成23)年から2013(平成25)年まで3期連続の黒字に変身した。
昨・2013(平成25)年以降、アベノミクスにより、デフレから抜け出す気運が強まったことで外食業界の主役が交代し、ファストフード業界が勝ち組の座から滑り落ち、ファミレス業界が息を吹き返しつつあるが、そんな業界の復活を象徴するかのようにすかいらーくは、今年・2014(平成26)年10月9日、東京証券取引所第1部への上場を果たした(※7※8参照)。上場を廃止以来、8年ぶりの再上場である。
新しく株主になったベインは、今年3月には、米マクドナルドホールディングスで社長を務めた経験を持つラルフ・アルバレス(※9)を、すかいらーく取締役会長に送り込んだ。ベインから派遣されてきたコンサルタントとの協議で出た結論が、すかいらーくが創業以来とっていた出店して成長する政策ではなく、既存店の売上高を回復させて成長させるという方策だった。
新しい経営陣に外部の専門家をスカウトし、テーブルレストランの王道を守り、既存店の売上高を回復させるという、地に足のついたやり方をとったのだ。
世の中には再建屋と云う人がいる。経営のプロフェッショナルだ。
今日本はアベノミクスによりデフレから抜け出す気運は強まったとはいえ、まだ、脱出までには海も山もある。世界情勢も不安定であり、下手をすれば、元に戻り、財政赤字だけが増えている・・と言った結果になりかねない状況にある。
「マーケットが縮小する中で成長するためには、何をやらなければならないか」・・それを、きっちりと見極めてとった行動が,ベインから派遣されてきたプロフェッショナル軍団の政策だった。
「すかいらーく」の企業価値を向上させるためでもなく、単に再上場で巨額の利益を得るだけの不純な目的でTOBを仕掛けた野村ホールディングスなどは結局大損をしたようであるが、「すかいらーく」の上場を果たしたベインは、「後から出て来て、儲けさせて貰ってごめんね」・・とばかり、きっちり、大きな利益を得ることになるだろうね~(※10、※11参照)。
創業当初は、メニュー品目を絞り込んだ低価格路線だったが、現在は一部のメニューを残して品質のグレードを上げつつ軌道修正し、単調なメニュー構成から洋風・和風メニューのラインアップを拡充しているようだ。・・・。今、同社の主力ブランドとして全国で展開している「ガスト」。「おはしCafeガスト」「ステーキガスト」「Sガスト」などの別業態もある。・・・この話はこれで終わろう。

最後に、「ごめんねの日」の「ごめんね」について少し、書いておこう。
「ごめんねの日」では、お皿からハミ出してしまうほどのボリュ ームを「ハミ出してごめんね」・・・といった使い方で、本来お客様が喜ぶべき行為をしているのに、「ごめんね」という言葉で、逆説的に、その自慢したいことをアピールしている。
肉が大きくなったのなら、プレートへの盛り付け方をなど工夫すればよいのだが、それをわざとせず、これ見よがしにプレートからはみ出させて誇張する。よくあるPR方法であり、マクドナルドハンバーガーなどもわざと、具材をバンズ(丸パン)からはみ出させてお得感を強調している。
12月10日ガストの新メニュー宣伝のための「ごめんねの日」の記念日登録に合わせて、ネット上では、謝り美人を集めた動画を公開するサイト「謝り美人」も開設し、「友達のペットボトルを振ってごめんなさい」「高校の時の彼を、クリスマスイブに振っちゃってごめんなさい」・・・など。同社のステーキを前にフォークとナイフを手にした美女たちが、思い思いのごめんなさいコメントを発表していた(※12)。以下でその画像を見ることが出来る。

美女が謝りまくるサイト「謝り美人」オープン! :

この「ごめんね!」の様子など見ていると、どれをとっても、まじめに誤っているようには見えないが、可愛い女の子が首をちょっとかしげながら「ごめんね・・・」などと謝られたら男は、「あ、いいよ、いいよ」と、なんでも許しちゃうのだろうか・・・。一寸、男を馬鹿にしたような感じもするのだが・・・。
どうせ人に謝るなら、「ごめんなさい」とか「すみません」とか、まじめな態度で誤って欲しいどは思うのだが・・・。謝り方って結構難しいものなのかも知れない。
「ごめんね」は、謝罪の言葉として、女性などが使っているが、男性の場合などは単に、「ごめん」といった謝り方が多い。
この言葉「御免(ごめん)」は、もともと、許す意味の「」に尊敬の接頭語「御」がついた言葉で、鎌倉時代から見られるらしい。本来は、許す人を敬う言い方として用いられたが、室町前期には許しを求める言い方で相手の寛容を望んだり、自分の無礼を詫びる表現になっていったそうだ。挨拶で用いる「ごめんください」は許しを請う「御免させてください」の意味が挨拶として使われるようになったものだそうだ(※13参照)。

Wikipediaでは、「謝罪」とは、自らの非を認め、相手に許しを請う行為である。謝罪する側、される側共に個人単位、団体単位、国家単位など様々な規模があり、謝罪する理由は本心からのものと、戦略的なものに分けられる。一般的には頭を下げるなどをして謝罪の意思を表す。謝罪は謝罪をする人の社会における地位や影響力、性格、価値観、土地の風習、文化、国際的であるかどうかなどで、具体的な行為は種々さまざまである。・・・と書いてある。
この謝罪では、昨・2013(平成25)年に、阪急阪神ホテルズ他、各地の複数のホテルやレストランなどで提供していた料理のメニューに実際に用いていた食材と異なる食材を用いているように表示していたという食材偽装問題が発覚し、社長など企業の責任者が記者会見を行い、謝罪を行っていたのを思い出すが、その他の業界でも、不祥事が発覚するたびに、お偉い方々が横並びでいっせいに頭を下げている姿をいやというほどテレビの報道で見てきた。
あれなど、ほんの形式的なお詫びであって、誰一人として本当に申し訳ないとは思っていないのだろう。どちらかというと、内心は腹立たしく苦々しくさえ思っているかもしれない。しかし、とりあえずトップが率先して謝罪する姿勢を示さなければ世間が承知しない。いや、世間というよりマスコミがうるさい。だから、そつなく、謝罪をすることで一応の決着をつけ批判をかわす。そのため、何秒間かは深々と頭を下げてさえいれば、やがて嵐は頭の上を通り過ぎてゆくだろう。…そう思って形式的に謝罪しているだけのことなのだろう。Wikipediaにある「戦略的な謝罪」といったところだろうか・・・。
企業などによる不祥事の謝罪と違って、歴史問題における謝罪は主に国家が行った戦争や紛争、政策による被害者とされる側への謝罪である。
日本でも、第二次世界大戦等を通して諸外国に与えた損害について日本政府などが公式あるいは非公式に表明してきた戦争謝罪があるが、不祥事等と較べ謝罪の必要性や加害者、被害者の定義が曖昧である為、加害者とされる側が謝罪を示したとしても被害者とされる側からは「謝罪ではない」、「謝罪が十分ではない」と批判されることがある。逆に、加害者とされる側は謝罪すること自体を「弱腰、自虐的なこと」と批判することがあり、難しいものだ。

謝罪で世界的に有名なものに「カノッサの屈辱」がある。
教皇グレゴリウス7世聖職叙任権をめぐって破門された神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世が、1077年1月、教皇滞在中のカノッサ城(イタリア北部)を訪れ、雪中を3日間城門前に立ち尽して悔悛(かいしゅん)を示し、破門を許された故事をいう。

上掲の画像は、「カノッサの屈辱」、 ハインリヒ4世(中央)、トスカーナ女伯マティルデ(右)、クリュニー修道院長(左)である。

この事件の背景には、ローマ時代の複雑なキリスト教の状況を理解する必要があるが、それは、私のブログ「1月25日はお詫びの日」の中で、「カノッサの屈辱」に触れて書いてあるのでそこを参照してください。
この事件後、正統な皇帝に復帰したハインリヒ4世は、謀反を起こした諸侯を処罰することが可能となった。(もともとそれが目的の政治的なアクションだったから当然だが)。困った教皇は再度ハインリヒの破門を試みたが、傍目にも不当な行動だったので今回は前のような効力は発揮するはずもなく、ハインリヒ4世は軍を率いてイタリア遠征を実施し、グレゴリウスを教皇の座から追い落とした。グレゴリウスは逃亡先の南伊のサレルノで失意のうちに没した。
この戦いにより、ハイリンヒは、「カノッサの屈辱 」を晴らすことに成功したのであるが、1105年、ハインリヒ5世となった息子の手によって彼自身も王位を追われ、さびしい最期をとげることになる。この叙任権闘争は、ドイツ南部のヴォルムスで叙任権は教皇にあることを定めた協約(ヴォルムス協約)が成立する1122年まで続いた。

「カノッサの屈辱」の故事は叙任権闘争、ローマ教皇対神聖ローマ皇帝の長期の抗争における一事件でしかないが、この後、ローマ教皇庁では皇帝ですら教皇に跪いたと教皇権の優位性の宣伝に使われたり、一方16世紀になると、ドイツのプロテスタントは反教皇の立場からこの事件を取り上げる。
又、19世紀には民族主義の高まりの中でビスマルクが、この事件をドイツの屈辱として取り上げるなど、政治的宣伝に利用されたが、ヨーロッパでは現在でも「カノッサの屈辱」は「強制されて屈服、謝罪すること」の慣用句として用いられているようだ。
どのような歴史的事件も、時代により、立場により、いろいろと都合の良いように解釈されるものだ。
最近は、ハインリヒ4世が破門を許され「カノッサの屈辱」を晴らすことに成功したところまでをとりあげて、人は時に、敗北を喫することや、屈辱的なことなど、不本意なことに遭遇しても、それに耐え、奮起し努力を続け、チャンスが来るのを待っていれば、必ず報われる。…そう言った教訓としてこの故事が使われることもあるようだ。
現実の世界では、なかなか、過ちを犯しても素直に「ごめんなさい」と謝れないことが多いものである。、そのために、日頃、家族間、友人間、また、会社などの中でも、尾を引いているわだかまりが解けないでいる人も多いだろう。
宗教などでは、罪の告白をし、悔い改めることを懺悔(ざんげ)という。
そんな大げさなことではないが、もし、今日の「ごめんねの日」を口実に、照れ隠ししながらでも「ごめんね」と謝り、わだかまりをスッキリさせることが出来れば、良いのですがね。

あ!それから、もう12月半ばにもなると、これからは、みなさんも、正月準備や、忘年会、クリスマス・・とお忙しいことでしょう。私も、これから何かと雑用も多くあるので、例年通り、休養もかねて、このブログ、今日から、1月中旬まではお休みしようと思っています。
今年は例年より、かなり寒さも厳しいようなので、風邪などひかないように注意して、忘年会、クリスマスを楽しみ、そして、良いお正月をお迎えしてください。
今年同様m来年もブログ再開後はよろしく訪問お願いします。


参考:
※1:日本記念日協会
http://www.kinenbi.gr.jp/
※2:すかいらーくグループ -SKYLARK GROUP-
http://www.skylark.co.jp/
※3:ペガサスクラブとは・・・
http://www.daiya-grp.co.jp/recruit/education/pegasus_club/pegasus_club.html
※4:すかいらーく、野村グループのSNCインベストメントが筆頭株主に
http://www.nikkeibp.co.jp/news/biz06q3/508305/
※5:SOMETHING IN THE AIR
http://fanblogs.jp/something_in_the_air/archive/273/0
※6:1カ月で売り切れたガストの人気メニュー「ハミ出るビーフステーキ」が復活
http://news.mynavi.jp/news/2010/04/16/057/
※7:すかいらーく再上場 MBOの損得勘定 | 闇株新聞
http://yamikabu.blog136.fc2.com/blog-entry-1245.html
※8:すかいらーく再上場、“外圧”と外部人材が主導した、経営混乱から復活への舞台裏
http://biz-journal.jp/2014/09/post_5873.html
※9:すかいらーく/元マクドナルド社長のアルバレス氏が会長に就任 | 流通ニュース
http://ryutsuu.biz/strategy/e121315.html
※10:経営陣刷新でも前途多難?すかいらーく社長解任の真相 |ダイヤモンド・オンライン
http://diamond.jp/articles/-/1538
※11:すかいらーく再上場 / MBOの成功とは何をさすのか? | 田中博文
http://www.huffingtonpost.jp/hirofumi-tanaka/skylark_b_5746132.html
※12:美女たちが謝りまくるサイト『謝り美人』 まもなく閉鎖 | web R25
http://r25.yahoo.co.jp/fushigi/jikenbo_detail/?id=20100119-00001112-r25
※13:御免(ごめん) - 語源由来辞典
http://gogen-allguide.com/ko/gomen.html
なぜ相次ぐ食品偽装? 背景に4つの理由 :日本経済新聞
http://www.nikkei.com/article/DGXNASFK1802Y_Y3A111C1000000/
日本マクドナルドが業績下方修正、今期は上場来初の営業赤字へ
http://jp.reuters.com/article/topNews/idJPKCN0HW0O920141007
すかいらーく - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%99%E3%81%8B%E3%81%84%E3%82%89%E3%83%BC%E3%81%8F

御嶽山が初噴火した日

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御嶽山が初噴火したのは1979(昭和54)年の今日・10月28日のことだった。
(冒頭の画像は、1979年噴火の状況である。画像は国土地理院-「火山の地図」の報告書>御嶽山(PDF)[5.5MB]に、掲載のものを借用)。

木曽のナァー なかのりさん
木曽のおんたけ ナンチャラホーイ
夏でも寒い ヨイヨイヨイ

長野県木曽地域の民謡「木曽節」の1節である(全歌詞、木曽節の由来は※1参照。)。

私は、この歌を聞くと、昔見た日活映画「白夜の妖女」(1957年。※2参照)を思い出す。泉鏡花原作の『高野聖』(※3参照)を脚色して、月丘夢路葉山良二のコンビに、滝沢修大矢市次郎などのベテランが脇を固める名画である。
弘法大師の開山以来千年の間、仏教の聖地として女人禁制であった高野山が、明治5年、この禁がとかれることになった。全山の僧侶達は反対したが、ただ一人高野の聖と仰がれている宗朝老師は「自分には女人禁制などと口にする資格がない…」と、僧侶一同の前で若き頃の懺悔ばなしをはじめたところから映画は始まる。
そして、そのなかで、24歳の若い宗朝(葉山良二)は飛騨高山から善光寺に向う山中で道に迷い、やっと見出した家には、妖しいまでに美しい女(月丘夢路)と白痴の小人夫婦が住んでいた。
宗朝が一夜の宿を乞うと、女は天然の岩風呂に案内した。しかも、その美女は自分も全裸になって入浴するのだった。その夜、初めてみた女体の美に修業の身の自信を失った宗朝は、・・・・。
女性の魅力に負け一夜を共にしそうになった宗朝も我を取り戻し、女も魔性を棄てた。そして、そこから逃れる宗朝。宗朝とともに逃げようと、女は白痴の手を引いて、宗朝を待たせた崖に戻ったが間に合わず諦めると白痴をつれ、沼の真中に舟を漕ぎ出した。突然、「木曽のオ、御嶽さんはア……」と白痴がこの世のものと思えぬ不思議な美しい声で無邪気に切々と歌い出したが・・・。この映画の女を演じる月丘夢路は本当にきれいだったな~・・・。なんてそんなことはこの際どうでもよい。
山中に響く、「木曽節」。それまで私が聞いたことのある木曽節とは異なり、とても不思議な魅力があった。その時、あ〜、民謡なんて、本当はこうなんだろうな〜と、つくづく思ったものだ(正調木曽節を※1で聞くことができる)。
この「木曽節」は、木曽地域に近世から伝わる民謡であり、木曽の材木を河川に流して運ぶ「川流し」をモチーフに、木曽川や周囲の山々と人情を歌い上げており、歌詞中の「中乗り(なかのり)さん」は諸説あるが、材木をに組んで木曽川を下り運搬する人たちで、先頭を「舳乗り(へのり)」、後ろを「艫乗り(とものり)」、真ん中を「中乗り」といったというのが一般的な解釈のようである。歌詞中には「木曽五木」(江戸時代に尾張藩から伐採が禁止された木曽谷の五木、ヒノキ・アスナロ・コウヤマキ・ネズコ(クロベ)・サワラの五種類の常緑針葉樹林)が歌いこまれている。
この歌の「木曽の御岳さん」とは、長野岐阜県境、東日本火山帯の西端(旧区分による乗鞍火山帯の最南部)に位置する複式火山御嶽山のことである。
標高3,000mを超える山としては、日本国内で最も西に位置し、また、日本の山の標高順で14位の山であり、火山としては富士山に次いで2番目に標高が高い山である。
その最高峰は中央火口丘(カルデラまたは大きな火口の内部に生じた、新しい小さな火山体。)の剣ヶ峰であり、標高は、 3067m。ほかに外輪山の摩利支天山 (2959m) ,継母岳 (2868m) 、側火山(寄生火山)の継子岳 (2859m) などがある(※4参照)。山頂には、南北に一ノ池から五ノ池までの噴火口跡が一列に並び、長い裾野を形成している。
もともとは,富士山に匹敵する高さの成層火山であったと推測されており、大爆発によって崩壊した土砂は土石流となって川を流れ下った岐阜県各務原市付近の各務原台地には御嶽山の土砂が堆積しており、水流によってできた火山灰堆積物が地層となっている。この大爆発によって剣ヶ峰、摩利支天山、継母岳の峰々が形成された複成火山であり、その山容はアフリカのキリマンジャロ山に似ているといわれているそうだ。

御嶽山は、木曽御嶽山、御嶽、王嶽、王御嶽とも称されているが、山名の由来は、遠く三重県からも望め「王御嶽」(おんみたけ)とも呼ばれていた。古くは坐す神を王嶽蔵王権現とされ、修験者がこの山に対する尊称として「王の御嶽」(おうのみたけ)と称して、「王嶽」(おうたけ)となった。その後「御嶽」に変わったとされている(※5参照)。
修験者の総本山の金峯山は「金の御嶽」(かねのみたけ)と尊称され、その流れをくむ甲斐の御嶽武蔵の御嶽などの「みたけ」と称される山と異なり「おんたけ」と称されている。日本には多くの山と嶽が存在するが、近世から近代にかけて「山は富士、嶽は御嶽」と呼ぶようになり、富士山を「山」の代表として、木曽の御嶽を「嶽」の代表としてきた。
ところで、「山」と「嶽」では意味はどのように異なるのだろうか。明確な区分はないが、「山」は、単一の頂上を持つ、すっきりした山容をもつもの、反面、多くのピーク(※6参照)から構成された、連峰のごつごつした山塊を「嶽」と呼んでいるようだ(※7参照)。
木曽の御嶽山と同名の山(御嶽山・御岳山)が日本には多数あり、その最高峰である。
美しい曲線を描きながら天に向かって聳える富士の高嶺と、溶岩質のごつごつとした峰が王冠のように連なる木曽御嶽、全く異なった山容を持つ両山であるが、大きな共通点は、この二つの山が、ともに古来から山岳宗教の霊山とされてきたことであり、富士山山頂には富士山本宮浅間大社(全国の浅間大社の総本社)の奥宮があるように、御嶽山の山頂には御嶽神社(※5参照)奥社がある。
中世までの日本の山岳宗教は、修験者(山伏)とよばれる人々によって担われてきた。彼らは何十日も、ときには数年間も山々に参籠し、激しい修行(※8の精進潔斎参照)に身を挺すことで山に座す神仏との合一を目指したものであった。山は、厳しい戒律と行に耐えることのできる、限られた人々のみ入る事を許された聖地であった。
しかし、平安・鎌倉・室町の中世時代から、民間信仰が結びつき、そうした修行を積む修験者だけではなく、都市や農村に住む庶民が結成した「」とよばれる信仰集団による登山が盛んにおこなわれるようになった。こうした講中登山が最も活発であったのが、富士山と木曽御嶽であった。富士山に登る富士講と御嶽を目指す御嶽講は、修験者などだけに許されていた聖なる山を大衆化した代表的な存在といえる。但し、これらの講中は、決してレジャーのために登山をしていたわけではない。彼らも登山を通じて心身の清浄化(軽精進潔斎)を目指し、頂きに立つことにより山に座す神仏と一体化を図ろうとしていた。講中にとって山嶽の自然は、山の神仏が現前したものとされていたのであった。
こうした集団登拝は江戸時代末まで続き、1784(天明4)年、尾張の行者・覚明(かくめい)によって三岳村の黒沢口が開かれ、1794(寛政6)年には武蔵國の行者・普寛(ふかん)によって王滝口が一般民衆に開放され、これを期に木曽周辺にとどまっていた御嶽信仰(※8の御嶽信仰とは参照)が全国的な信仰へと拡大されていき、信者による集団登拝が盛んに行われ、現在も白装束の登拝者が見られる山である。
1868(明治元)年には、黒沢口8合目の「女人堂」が御嶽山で最初に山小屋としての営業を開始。1872(明治5)年に女人禁制が解かれるまでは、避難小屋などとして登拝者に利用されていてた女人堂から上部への女性の立入りは禁じられていたが、明治初期に外国人の登頂により近代登山が始まり、1894(明治27)年にウォルター・ウェストンが登頂して以降、一般の登山者にも登られるようなった。
其の後、百名山ブーム(日本百名山新日本百名山花の百名山ぎふ百山などに選定)もあって、大勢の登山者が来るようになり、山頂につながる登山道が王滝口、黒沢口、以外にも開田(かいだ)口、日和田(ひわだ)口、小坂(おさか)口の3つが開設されている。
このうち、王滝口は標高2180メートルまで車道が通じており、駐車場に車を止めて登山できる。最高峰の剣ケ峰までは約3時間の行程。ロープウエーで標高2150メートルまで登ることができる黒沢口からも、約3時間半で登頂可能。いずれも朝から登れば昼ごろに頂上に到達し、夕方に下山できることから人気があり、多くの登山者が訪れる。

御嶽山の詳細図 → 御嶽山頂より見える名山(Adobe PDF)

そんな登山者に人気の御嶽山が、今年・2014(平成26)年9月27日に噴火し、1991(平成3)年の雲仙普賢岳火砕流による犠牲者数を上回る事態となった。

上掲の画像は、動画投稿サイト「ユーチューブ」に投稿された噴火の映像。2014・09・28朝日新聞朝刊に掲載のものを使用した。

そもそも我が国は 110(気象庁、2011年)の活火山をかかえる世界でも有数の火山国であり、これまで多くの火山災害が記録されている。
以前は、死火山休火山であるとみられていたが、御嶽山の最後のマグマ噴火は、2006(平成18)年に行われた岐阜県の調査および2008(平成20)年に行われた国土交通省多治見砂防国道事務所や産業技術総合研究所の調査によれば、約5200年前の火砕流を伴う噴火を含め、2万年間に4回(約1万年前以降、約1万年前、約9000年前、約5200年前、約5000年前)のマグマ噴火を起こしているようであり、また、水蒸気噴火は数百年に1回の割合で、堆積物として残る規模のものが発生しているという。
その御嶽山が,突如噴火したのは、1979(昭和54)年の今日・10月28日のことであった(冒頭の画像参照)。
御嶽山の火山活動で、記録に明らかに示されている初めての噴火がこの時の水蒸気爆発による噴火であるが、それまでに、1976年~1978年にかけて王滝村付近で群発地震が観測されていたそうだ。
1979年の時の噴火は、10月28日に剣ヶ峰南西の地獄谷の頭部付近で噴煙活動が始まった。噴火は北西-南東方向の雁行状の火口列を生じ、約20数万トンの火山灰を噴出したという。しかし、活動は28日夕方に弱まり、翌29日早朝には著しく衰えたという。
その後地震地殻変動火山性微動 ,小規模な水蒸気噴噴火(水蒸気爆発)を繰り返していたが、今回の噴火は2007(平成19)年の水蒸気噴火から、7年ぶりのものであり、又、噴火の規模は、1979(昭和54)年の初噴火以来最大規模のものである(1979年の噴火に関してはここを参照)。

今年・2014(平成26)年9月27日の噴火での新たな火口は、1979年噴火の火口列の南西250 - 300m付近の位置に平行に複数個が形成され、最初の噴火では火砕流も発生し火口南西側の地獄谷を約3km程度、火口北西側の尺ナンゾ谷(御岳・継母岳)にも流れ下った事が観測されているという。
とはいえ、今回の噴火では、御嶽山が有史以来初めて噴火した1979(昭和54)年の水蒸気爆発の時より長い日数噴火してはいたものの、その噴火規模は、1979(昭和54)年の時と同程度とみられるが、1979年当時の噴火での死者の記録はないらしいが、今回は、なぜ、ここまで被害が拡大したのか・・・。その被害者の多くは山頂部で発見されたといわれている(死亡57人。安否不明6人)。

御嶽山噴火で死亡した人の数(2014・10.27朝日新聞朝刊より)
「火砕流も発生したが、その多くが、観光客のいない南側の谷に流れ落ちていたにもかかわらず多数の人的被害を出した要因は、噴火した日が「紅葉シーズンの土曜日、午前11時52分という噴火のタイミングと場所だった」
御嶽山は、高山植物や希少動物が生息するなど豊かな自然が魅力の一つで、特に9月下旬〜10月中旬は、8合目周辺でナナカマドなどが色づき、1年間で最も登山者が多くなる時だ。多くの登山客は絶景を眺めながら昼食をとろうと山頂付近に集結しており、噴火はそのそばで起きた。そこへ、噴石が次々に降り注いできたという(※11、※12参照)。
又、今回の噴火は1979(昭和54)年の時同様、水蒸気爆発型噴火であったが、9月10日には52回、翌11日には85回の火山性地震が観測されており、12日には気象庁は「火山灰等の噴出の可能性」を発表(ここ参照)し、各自治体にも通知したが、山の表面の膨張や火山性微動といったマグマの上昇を示すデータは観測されなかったため、警戒レベルは平常時と同じ1のままで、レベル2(火口周辺規制)には変更せず、その後地震の回数が減ったことから、自治体も注視するに留めていた。結果として登山者への喚起は特に行われず、ほとんどの登山者は噴火に対する備えや予備知識が無く、無警戒のままだった。噴火警戒レベルが3に引き上げられたのは、2014(平成26)年9月27日に噴火、南側斜面を火砕流が流れ下ってからであった(噴火警戒レベルについては※10:「気象庁・火山」の噴火警戒レベルの説明参照)。気象庁の火山課長は、「地震の回数だけで噴火の前兆と判断するのは難しい」との認識を示している(※13参照)という。
噴石・火山灰の危険については、火口から約1km圏内では、直径数cmから50 - 60cmの大きさの噴石が、最大時速350 - 720kmで雨のように降り注いだと見られているが、頂上付近は森林限界のため身を隠すような樹木はなく、避難場所となる小屋や御嶽神社の社務所などに逃げ込む前に多くの人が死傷したという。
それに、救助活動において、負傷者・行方不明者の人数が錯綜した要因として、各施設に設置されている登山計画書(登山届)提出箱への投函や警察機関への提出が任意であったことなどがあったとされている。
今回の被害拡大の要因にはこのような複数の原因が重なったことが挙げられており、今後二度と同じような被害を起こさないためには、今回の反省点についての対策が望まれる。兎に角、亡くなった方のご冥福を祈るばかりである。また、捜索が難航してまだ行方不明者の救助されていない人がいるが、積雪の影響で、すでに今季の捜索は打ち切られた由。さぞや、ご親族の方はつらいことでしょう。 ご同情申し上げます。

このような火山の噴火は御嶽山だけの問題ではない。なにしろ、日本は活火山が110もある火山国である。
2011(平成23)年3月11日に発生した東日本大震災の直後から活動が活発になった火山がある。つまり、地下で地震が増えた火山ということで、ざっと20近い火山の地下で地震が起き始めたと、地球科学者の鎌田 浩毅 氏(京都大学大学院 人間・環境学研究科教授)はいう。中でも富士山が気になるというのだが・・・・(※14参照)。
今、気象庁は、噴火災害軽減のため、全国110の活火山を対象として、観測・監視・評価の結果に基づき噴火警報・予報を発表している。
その噴火警戒レベルは、「火山防災のために監視・観測体制の充実等が必要な火山」として火山噴火予知連絡会によって選定された47火山に観測施設を整備し、関係機関の協力も得て、そのうち、御嶽山や富士山、草津白根山など、30火山(平成25年7月現在)を「常時観測火山」として24時間体制で火山活動を監視しているようだ(※10:「気象庁HP:火山」の噴火警報・予報の説明の中の噴火警戒レベルが運用されている火山参照)。
又、2014(平成26)年10月8日、気象庁地震火山部が全国の活火山の活動状況や警戒事項を取りまとめた月間火山概況「火山の状況に関する解説情報 第12号」を発表しているが、それによると、御嶽山・桜島・西之島・草津白根山・阿蘇山・霧島山(新燃岳・硫黄山)・諏訪之瀬島などに注意また警戒を呼びかけているが、ここには、富士山はない。
その優美な風貌は日本国外でも日本の象徴として広く知られている「富士山」.。昨・2013(平成25)年6月22日には、関連する文化財群とともに「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」の名で世界文化遺産に登録され、今では世界中から観光客が押し寄せている。そんな富士山がもし噴火したら・・・・・。
ただ、御嶽山では、24時間体制の観測が行われ、噴火の約2週間前から、地震活動が活発化していた。 それでも噴火が起こるまで、気象庁が設定した警戒レベルは、5段階中もっとも低い、平常の1のままだった。専門家は、予知の限界を指摘する。火山噴火の恐れがあるところは人気観光地ばかりだ。温泉が火山活動の産物だから当然かもしれないが、押し寄せる観光客が減ることを承知で、本当に登山者や地域住民の人達の安全を最優先した警戒態勢を敷くことが出来るのか・・・・。次は何時何処で何が起きるのか・・・。
10月末、富士山の噴火を想定した静岡、山梨、神奈川の3県合同防災訓練も実施もされたが、何かこうなると、火山の近くに住んでいる人は不安だろうね。
余り真剣に考えていると恐ろしくてなってしまうよ・・・。

参考:
※1:木曽節 - 木曽町観光協会
http://www.kankou-kiso.com/event/kisobushi.html
※2:作家別作品リスト:泉 鏡花
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person50.html
※3:白夜の妖女 (1957)| Movie Walker
http://movie.walkerplus.com/mv25200/
※4:木曽御嶽山(王滝口)登山道の紹介 - 王滝村
http://www.vill.otaki.nagano.jp/ontake_tozan/tozan04.html
※5:御嶽神社
http://www.ontakejinja.jp/index2.html
※6:山の用語集 [tozan.net]
http://tozan.org/yougo/
※7:地理用語
http://chiri-zemi.nsf.jp/0-09-jiten.html
※8:御嶽神社
http://www.ontakejinja.jp/index3.html
※9:国土地理院
http://www.gsi.go.jp/index.html
※10:気象庁・火山
http://www.data.jma.go.jp/svd/vois/data/tokyo/STOCK/kaisetsu/vol_know.html
※11;なぜこれほど被害が拡大したのか? 小規模ながら場所とタイミング悪く…。「軽トラック大の噴石も」ー産経新聞
http://www.sankei.com/affairs/news/140929/afr1409290065-n1.html
※12:御嶽山噴火:紅葉シーズンの週末…被害拡大ー毎日新聞
http://mainichi.jp/select/news/20140929k0000m040044000c.html
※13:御嶽山噴火、27人けが 重傷・意識不明者も-日本経済新聞
http://www.nikkei.com/article/DGXLASDG27H0T_X20C14A9MM8000/
※14:演題:「地震と噴火の活動期に入った日本列島 ―「西日本 ... - 京都大学(Adobe PDF)
http://www.gaia.h.kyoto-u.ac.jp/~kamata/2012.8.9.Zaimusho.Lecture.pdf#search='%E5%9C%B0%E9%9C%87%E6%B4%BB%E5%8B%95%E6%9C%9F+%E7%81%AB%E5%B1%B1'
草津、上高地、富士山、伊豆諸島…噴火秒読み7火山 (日刊ゲンダイ) ...
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140930-00000014-nkgendai-life
木曽・御嶽から消えた滝神不動明王と蔵王権現 - 千時千一夜
http://blogs.yahoo.co.jp/tohnofurindo/15478729.html
御嶽山 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A1%E5%B6%BD%E5%B1%B1

明けましておめでとうございます

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明けましておめでとうございます。
皆様のご健康とご多幸を祈っています。
昨年は異常気象の影響でいろいろとありましたが今年は良い年であってほしいですね。
このブログ、1月上旬はお休みいただきますが、よろしくお願いします。
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