粋で、奔放、妖艶・・・映画や舞台でさまざまな女を演じ、女優として初めて文化勲章を受けた(ただし、受章辞退者を含めれば杉村春子が初)山田五十鈴が多臓器不全のため東京都内の病院で死去(95歳)したのが1年前の今日・2012年7月9日であった。
山田五十鈴(やまだ・いすず、本名美津=みつ)は、大阪府大阪市中央区(旧大阪市南区千年町)出身。戦前戦後を通して活躍した日本を代表する女優である。
1917(大正6)年2月5日、大阪市南区で新派劇俳優の山田九州男(くすお)の娘として誕生。幼少時から常磐津、清元、舞踊などを習っていた。
品のあるうりざねの美貌を見込まれ、1930年(昭和5年)、13歳の時に日活に入社し、山田五十鈴の芸名で「剣を越えて」(※1)で大河内傳次郎の相手役としてデビューし、アイドル的人気を得た。
●上掲の画象:日活の人気女優達が夏の日の照りつける海岸で水着姿を披露。後年の大女優もまだピチピチのギャルだった。向かって左から夏川静江、佐久間妙子、山田五十鈴、滝花久子。1932年。(『朝日クロニクル週刊20世紀』1931-1932年号より)。
以降伊藤大輔監督の[素浪人忠弥]「興亡新撰組」、伊丹万作監督の諧謔(かいぎゃく)と風刺の精神をもつ明朗な「ナンセンス時代劇」で、その先駆的映画表現が評価され1932(昭和7)年度キネマ旬報ベストテン6位を獲得した「國士無双」(1932年1月公開)など多くの日活時代劇作品に出演し人気を高める。
●上掲の画象は映画「国士無双」の片岡千恵蔵、と山田五十鈴。Wikipediaより。
1934(昭和9)年、永田雅一が日活から独立して作った第一映画社へ移籍。1935年頃、二枚目俳優の月田一郎と親しくなり結婚。1936年3月に後に女優となる娘・瑳峨三智子を出産している。
1936(昭和11)年に溝口健二監督の「浪華悲歌」(1936年0月公開)、「祇園の姉妹」(1936年10月公開)への出演(主演)により、演技を開眼、第一線女優としての地位を確立する。
●上掲の画象は(1936年第一映画「祇園の姉妹」から。山田五十鈴(向かって右)と梅村 蓉子。 『朝日クロニクル週刊20世紀』 1936年号より。
この1936年1公開された溝口健二監督の「祇園の姉妹」は京都の色町に生きる人情肌の姉(梅吉=梅村蓉子)と打算的な妹(芸妓おもちゃ=山田五十鈴)の姉妹芸者を主人公に徹底したリアリズム描写によって現代風俗を痛烈に風刺して好評を得、キネマ旬報ベストワンに輝いた。
それまで浪漫の色濃い明治物を発表してきた溝口監督は、この年の5月に公開された『浪華悲歌(エレジー)』で現代女性の転落を突き放した批判的リアリズムで描いて新しい境地を切り開いた。
その作品もベストテン3位に入り、溝口監督は自他ともに認める巨匠としての地位を築いた。この2つの作品ともに脚本は依田義賢、主演は山田五十鈴、製作は永田雅一だった。
私はこの作品を見ていないが、溝口監督はもともと山田五十鈴の起用を前提として原作を書いたとされ、山田も監督の厳しい演出に耐え「自立する女性」村井アヤ子を見事に演じきり、これまでの邦画に無かった女性像を演じた山田五十鈴には、高貴なまでの美しさがあったという(この2作品の内容とについては※2を参照。
永田が2年前に興した第一映画社は、この年(1936年)に解散。短命だった第一映画社が唯一残したのが日本映画史上に輝くこの2つの傑作だった。
この後新興キネマへ入社し、1938(昭和13)年に東宝へ移籍してからは、川口松太郎の出世作『鶴八鶴次郎』(『オール読物』1934年10月号に発表した短編。翌年発表の小説『風流深川唄』などとあわせて第1回直木賞を受賞している)を、成瀬巳喜男が映画化した同名映画の「鶴八鶴次郎」(1938年公開)で長谷川一夫とコンビを組み好演。
この映画は新内芸人の悲恋物語である。
鶴八(山田)の亡き母親が新内の師匠だった関係から、鶴次郎(長谷川)は鶴八とは幼馴染だったが、芸の上では衝突を繰り返してきた。
結婚すると思われた二人が、小さな行き違いから、鶴八は人の良いパトロンに嫁いだ。芸を忘れられぬ彼女は鶴次郎との舞台に復帰し大ヒットする。しかし鶴次郎がコンビの継続を断る。それは鶴次郎の愛情表現であった。成瀬巳喜男の抑制の利いた演出、二人の好演、脇を固めた助演者、藤原鎌足(鶴次郎の番頭、佐平)など。それがこの人情劇を「崇高な愛情劇」に変えた(※3参照)。以下その1シーン、鶴次郎(長谷川)と鶴八(山田)。
●
この当時映画では、時代劇が非常に人気があったのだが、東宝の俳優人には、時代劇こそ、その本領を発揮できるという長谷川一夫や大河内傳次郎が控えているにもかかわらず、時代劇としては熊谷久虎監督の「阿部一族」(1938年)が唯一高い評価を得たくらいで、本格的な時代劇がうまく作れておらず、「鶴八鶴次郎」や渡辺はま子の歌支那の夜 (曲)(作詞:西條八十)のヒットを受けて作られた、日本・満州国合作の国策映画で長谷川一夫・李香蘭の主演による「大陸三部作」(白蘭の歌」(1939年)、支那の夜」(1940年)、「熱砂の誓ひ」(1940年)などであった。
そんな時、松竹から時代劇の名匠・衣笠貞之助が東宝入りしてきた。その第1回作品として企画されたのが、川口松太郎が1939(昭和14)年10月から毎日新聞に連載し、私の大好きな岩田専太郎の流麗な挿絵(※6参照)と共に大好評を博した波瀾と怪奇に富んだ時代絵巻『蛇姫様』の同名映画化(※4参照)であった。
この作品には長谷川一夫、山田五十鈴、入江たか子、大河内伝次郎など、かつての日活、松竹の時代劇大スターが総出演している。
悪家老の息子を斬って旅一座に逃げ込んだ千太郎(長谷川一夫)が、三味線弾きのお島(山田五十鈴)と恋に落ちる。前後編ものの超大作で、興行面でも記録的なヒットをしたそうだ。
この映画も私自身は見ていないが、今の人が見た場合映画の内容としては余り評判は良くないようだが、ただ、花の盛りの山田五十鈴の美しさを称賛する声は多い。以下参考※4に掲載されているスチール写真をみても確かに美しいことがわかる。
この写真を見ていると、山田が第一映画に移籍したばかりの18歳の時に月田との間に生んだ娘の女優瑳峨三智子 (1992年に死亡)を思い出す。彼女自身の出演した映画(1960年酒井辰雄監督)の題名から「こつまなんきん」とも愛称された彼女も、母親に負けない妖艶なそして、絶世の美女であった(※5参照)。
「蛇姫様」の映画はその後、大映や東映で、市川雷蔵(1959年大映「蛇姫様」)、東千代之助(1954年東映「蛇姫様」第1部〜第3部)、美空ひばり(1965年東映「新蛇姫様 お島千太郎」などの主演で再映画化されているので、内容そのものはご記憶の方も多いだろう。
市川雷蔵主演(千太郎)による映画化(1959年「蛇姫様」)では、入江たか子(第1部では原節子が演じていたらしいが・・?)が演じていた琴姫を瑳峨三智子が演じていたのを思い出す。
その後山田五十鈴は、松崎啓次と台湾人映画監督・劉吶鴎(りゅう・とつおう.、※7参照)らを中心として設立した日中合作の中華電影公司と、東宝が共同で制作した映画「上海の月」(1940年製作翌年公開)に、出演している。
この映画は、松崎の刊行した『上海人文記』を原作に成瀬巳喜男が監督し、1937年12月に上海に出来た日本のラジオ局、大上海放送局(※9参照)を舞台にした映画らしい。以下参考の※9:「映画「上海の月」 映画旬報より」には、この映画について、以下のように書いている。
“反軍閥、反共産党をコンセプトとした映画で、南京市の営業収入記録を立てた人気映画だったようだ。監督の成瀬によれば、「内容が宣伝の関係上、会合、演説、スローガンが多すぎる。演出、技術、演技に特に見るべきところは無い・・・」という感想だ。”・・と。
また、“山田五十鈴の「上海から帰って」というタイトルのついたキャプション(写真や挿絵に添えた説明文)を読むと、1941年2月14日から4月30日まで上海に滞在。2月18日には南京の汪主席に挨拶に行ったとある。また、自分の役を、「袁露糸という中国人のアナウンサーで、始め抗日派の間諜(スパイのこと)となり、後に新東亜建設(※10参照)の重大使命を自覚してついに昔の仲間の手に倒される役」と書いている。
ここに出てくる袁露糸(エン・ロシ)はテンピンルー(鄭蘋如)というラジオ局のアナウンサーとして活動した人がモデルらしい(※11参照)。
東アジアにおける電波戦争の中、日本人居留民向けのラジオ局ではあったが、上海語や英語、ロシア語のニュース放送もあり、日本政府の宣撫工作の目的も持っていたようだ。
いずれにしても、この時代には山田五十鈴など映画俳優もお国のために、このような国策映画への出演協力をしなければいけない状況にあったというわけだ。
ただ、この映画「上海の月」には西条八十作詞、服部良一作曲、という「蘇州夜曲」コンビで作った主題歌があり、その一つ「牡丹の曲」を
主演女優である山田五十鈴が歌っている。
あかい牡丹の はなびら染めた 踊り衣裳が なみだに濡れる
ないちゃいけない しな人形 春は優しく またかえる
ISUZU YAMADA 山田五十鈴 sings MUDAN SONG 牡丹の曲
晩年の嗄れ声の山田しか記憶にない人は驚くくらいきれいな声で歌っている。もう一曲も「明日の運命(あすのさだめ)」と言って、やはり、同コンビによるもので、歌は霧島登、渡辺はま子のデュエットである(※12参照)。
1942年、長谷川一夫と共演した泉鏡花の同名小説を映画化した「婦系図」(監督:マキノ正博)が大ヒット、男と女のドラマを情感こめて描かせたらの右の出るものはないと言われるマキノの作品。
この「婦系図」は、スリ上がりのドイツ語学者、早瀬主税(長谷川一夫)と芸者、お蔦(山田五十鈴)との悲恋の物語で新派の代表的な当り狂言である、流行歌にもなり、戦後にも3度映画化されている。
ただ、戦争中のことなので主税がドイツ語学者でなく、火薬研究の学者に、恋仇の坂田(進藤英太郎)がその秘密を外国に売ろうとするスパイになってアクション映画としての要素もある変な「婦系図」だが、それでも二人の愛のドラマの魅力をそこなっていないのが名匠の冴えである。山田が実に美しい。
太平洋戦争へと突入後、社会は戦時一色に変貌。映画も国策映画に限られるようになり、コケティッシュな魅力が身上の山田の出番は少なくなり。山田は、1942(昭和17)年から長谷川と実演の演劇を行うために新演伎座を結成。同年3月1日 - 3月25日、東京宝塚劇場で、旗揚げ(第一回)公演を打った。
演目は、菊田一夫作・演出の『ハワイの晩鐘』、六世藤間勘十郎作・演出の『鷺娘』、川口松太郎作、金子洋文演出の『お嶋千太郎』であった(※13参照)。しかし、戦局が深まった1944(昭和19)年、最終公演を行い、戦後解散する。
戦前戦後を通じて日本代表する女優・山田五十鈴の忌日2−2へ
戦前戦後を通じて日本代表する女優・山田五十鈴の忌日:参考へ
山田五十鈴(やまだ・いすず、本名美津=みつ)は、大阪府大阪市中央区(旧大阪市南区千年町)出身。戦前戦後を通して活躍した日本を代表する女優である。
1917(大正6)年2月5日、大阪市南区で新派劇俳優の山田九州男(くすお)の娘として誕生。幼少時から常磐津、清元、舞踊などを習っていた。
品のあるうりざねの美貌を見込まれ、1930年(昭和5年)、13歳の時に日活に入社し、山田五十鈴の芸名で「剣を越えて」(※1)で大河内傳次郎の相手役としてデビューし、アイドル的人気を得た。
●上掲の画象:日活の人気女優達が夏の日の照りつける海岸で水着姿を披露。後年の大女優もまだピチピチのギャルだった。向かって左から夏川静江、佐久間妙子、山田五十鈴、滝花久子。1932年。(『朝日クロニクル週刊20世紀』1931-1932年号より)。
以降伊藤大輔監督の[素浪人忠弥]「興亡新撰組」、伊丹万作監督の諧謔(かいぎゃく)と風刺の精神をもつ明朗な「ナンセンス時代劇」で、その先駆的映画表現が評価され1932(昭和7)年度キネマ旬報ベストテン6位を獲得した「國士無双」(1932年1月公開)など多くの日活時代劇作品に出演し人気を高める。
●上掲の画象は映画「国士無双」の片岡千恵蔵、と山田五十鈴。Wikipediaより。
1934(昭和9)年、永田雅一が日活から独立して作った第一映画社へ移籍。1935年頃、二枚目俳優の月田一郎と親しくなり結婚。1936年3月に後に女優となる娘・瑳峨三智子を出産している。
1936(昭和11)年に溝口健二監督の「浪華悲歌」(1936年0月公開)、「祇園の姉妹」(1936年10月公開)への出演(主演)により、演技を開眼、第一線女優としての地位を確立する。
●上掲の画象は(1936年第一映画「祇園の姉妹」から。山田五十鈴(向かって右)と梅村 蓉子。 『朝日クロニクル週刊20世紀』 1936年号より。
この1936年1公開された溝口健二監督の「祇園の姉妹」は京都の色町に生きる人情肌の姉(梅吉=梅村蓉子)と打算的な妹(芸妓おもちゃ=山田五十鈴)の姉妹芸者を主人公に徹底したリアリズム描写によって現代風俗を痛烈に風刺して好評を得、キネマ旬報ベストワンに輝いた。
それまで浪漫の色濃い明治物を発表してきた溝口監督は、この年の5月に公開された『浪華悲歌(エレジー)』で現代女性の転落を突き放した批判的リアリズムで描いて新しい境地を切り開いた。
その作品もベストテン3位に入り、溝口監督は自他ともに認める巨匠としての地位を築いた。この2つの作品ともに脚本は依田義賢、主演は山田五十鈴、製作は永田雅一だった。
私はこの作品を見ていないが、溝口監督はもともと山田五十鈴の起用を前提として原作を書いたとされ、山田も監督の厳しい演出に耐え「自立する女性」村井アヤ子を見事に演じきり、これまでの邦画に無かった女性像を演じた山田五十鈴には、高貴なまでの美しさがあったという(この2作品の内容とについては※2を参照。
永田が2年前に興した第一映画社は、この年(1936年)に解散。短命だった第一映画社が唯一残したのが日本映画史上に輝くこの2つの傑作だった。
この後新興キネマへ入社し、1938(昭和13)年に東宝へ移籍してからは、川口松太郎の出世作『鶴八鶴次郎』(『オール読物』1934年10月号に発表した短編。翌年発表の小説『風流深川唄』などとあわせて第1回直木賞を受賞している)を、成瀬巳喜男が映画化した同名映画の「鶴八鶴次郎」(1938年公開)で長谷川一夫とコンビを組み好演。
この映画は新内芸人の悲恋物語である。
鶴八(山田)の亡き母親が新内の師匠だった関係から、鶴次郎(長谷川)は鶴八とは幼馴染だったが、芸の上では衝突を繰り返してきた。
結婚すると思われた二人が、小さな行き違いから、鶴八は人の良いパトロンに嫁いだ。芸を忘れられぬ彼女は鶴次郎との舞台に復帰し大ヒットする。しかし鶴次郎がコンビの継続を断る。それは鶴次郎の愛情表現であった。成瀬巳喜男の抑制の利いた演出、二人の好演、脇を固めた助演者、藤原鎌足(鶴次郎の番頭、佐平)など。それがこの人情劇を「崇高な愛情劇」に変えた(※3参照)。以下その1シーン、鶴次郎(長谷川)と鶴八(山田)。
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この当時映画では、時代劇が非常に人気があったのだが、東宝の俳優人には、時代劇こそ、その本領を発揮できるという長谷川一夫や大河内傳次郎が控えているにもかかわらず、時代劇としては熊谷久虎監督の「阿部一族」(1938年)が唯一高い評価を得たくらいで、本格的な時代劇がうまく作れておらず、「鶴八鶴次郎」や渡辺はま子の歌支那の夜 (曲)(作詞:西條八十)のヒットを受けて作られた、日本・満州国合作の国策映画で長谷川一夫・李香蘭の主演による「大陸三部作」(白蘭の歌」(1939年)、支那の夜」(1940年)、「熱砂の誓ひ」(1940年)などであった。
そんな時、松竹から時代劇の名匠・衣笠貞之助が東宝入りしてきた。その第1回作品として企画されたのが、川口松太郎が1939(昭和14)年10月から毎日新聞に連載し、私の大好きな岩田専太郎の流麗な挿絵(※6参照)と共に大好評を博した波瀾と怪奇に富んだ時代絵巻『蛇姫様』の同名映画化(※4参照)であった。
この作品には長谷川一夫、山田五十鈴、入江たか子、大河内伝次郎など、かつての日活、松竹の時代劇大スターが総出演している。
悪家老の息子を斬って旅一座に逃げ込んだ千太郎(長谷川一夫)が、三味線弾きのお島(山田五十鈴)と恋に落ちる。前後編ものの超大作で、興行面でも記録的なヒットをしたそうだ。
この映画も私自身は見ていないが、今の人が見た場合映画の内容としては余り評判は良くないようだが、ただ、花の盛りの山田五十鈴の美しさを称賛する声は多い。以下参考※4に掲載されているスチール写真をみても確かに美しいことがわかる。
この写真を見ていると、山田が第一映画に移籍したばかりの18歳の時に月田との間に生んだ娘の女優瑳峨三智子 (1992年に死亡)を思い出す。彼女自身の出演した映画(1960年酒井辰雄監督)の題名から「こつまなんきん」とも愛称された彼女も、母親に負けない妖艶なそして、絶世の美女であった(※5参照)。
「蛇姫様」の映画はその後、大映や東映で、市川雷蔵(1959年大映「蛇姫様」)、東千代之助(1954年東映「蛇姫様」第1部〜第3部)、美空ひばり(1965年東映「新蛇姫様 お島千太郎」などの主演で再映画化されているので、内容そのものはご記憶の方も多いだろう。
市川雷蔵主演(千太郎)による映画化(1959年「蛇姫様」)では、入江たか子(第1部では原節子が演じていたらしいが・・?)が演じていた琴姫を瑳峨三智子が演じていたのを思い出す。
その後山田五十鈴は、松崎啓次と台湾人映画監督・劉吶鴎(りゅう・とつおう.、※7参照)らを中心として設立した日中合作の中華電影公司と、東宝が共同で制作した映画「上海の月」(1940年製作翌年公開)に、出演している。
この映画は、松崎の刊行した『上海人文記』を原作に成瀬巳喜男が監督し、1937年12月に上海に出来た日本のラジオ局、大上海放送局(※9参照)を舞台にした映画らしい。以下参考の※9:「映画「上海の月」 映画旬報より」には、この映画について、以下のように書いている。
“反軍閥、反共産党をコンセプトとした映画で、南京市の営業収入記録を立てた人気映画だったようだ。監督の成瀬によれば、「内容が宣伝の関係上、会合、演説、スローガンが多すぎる。演出、技術、演技に特に見るべきところは無い・・・」という感想だ。”・・と。
また、“山田五十鈴の「上海から帰って」というタイトルのついたキャプション(写真や挿絵に添えた説明文)を読むと、1941年2月14日から4月30日まで上海に滞在。2月18日には南京の汪主席に挨拶に行ったとある。また、自分の役を、「袁露糸という中国人のアナウンサーで、始め抗日派の間諜(スパイのこと)となり、後に新東亜建設(※10参照)の重大使命を自覚してついに昔の仲間の手に倒される役」と書いている。
ここに出てくる袁露糸(エン・ロシ)はテンピンルー(鄭蘋如)というラジオ局のアナウンサーとして活動した人がモデルらしい(※11参照)。
東アジアにおける電波戦争の中、日本人居留民向けのラジオ局ではあったが、上海語や英語、ロシア語のニュース放送もあり、日本政府の宣撫工作の目的も持っていたようだ。
いずれにしても、この時代には山田五十鈴など映画俳優もお国のために、このような国策映画への出演協力をしなければいけない状況にあったというわけだ。
ただ、この映画「上海の月」には西条八十作詞、服部良一作曲、という「蘇州夜曲」コンビで作った主題歌があり、その一つ「牡丹の曲」を
主演女優である山田五十鈴が歌っている。
あかい牡丹の はなびら染めた 踊り衣裳が なみだに濡れる
ないちゃいけない しな人形 春は優しく またかえる
ISUZU YAMADA 山田五十鈴 sings MUDAN SONG 牡丹の曲
晩年の嗄れ声の山田しか記憶にない人は驚くくらいきれいな声で歌っている。もう一曲も「明日の運命(あすのさだめ)」と言って、やはり、同コンビによるもので、歌は霧島登、渡辺はま子のデュエットである(※12参照)。
1942年、長谷川一夫と共演した泉鏡花の同名小説を映画化した「婦系図」(監督:マキノ正博)が大ヒット、男と女のドラマを情感こめて描かせたらの右の出るものはないと言われるマキノの作品。
この「婦系図」は、スリ上がりのドイツ語学者、早瀬主税(長谷川一夫)と芸者、お蔦(山田五十鈴)との悲恋の物語で新派の代表的な当り狂言である、流行歌にもなり、戦後にも3度映画化されている。
ただ、戦争中のことなので主税がドイツ語学者でなく、火薬研究の学者に、恋仇の坂田(進藤英太郎)がその秘密を外国に売ろうとするスパイになってアクション映画としての要素もある変な「婦系図」だが、それでも二人の愛のドラマの魅力をそこなっていないのが名匠の冴えである。山田が実に美しい。
太平洋戦争へと突入後、社会は戦時一色に変貌。映画も国策映画に限られるようになり、コケティッシュな魅力が身上の山田の出番は少なくなり。山田は、1942(昭和17)年から長谷川と実演の演劇を行うために新演伎座を結成。同年3月1日 - 3月25日、東京宝塚劇場で、旗揚げ(第一回)公演を打った。
演目は、菊田一夫作・演出の『ハワイの晩鐘』、六世藤間勘十郎作・演出の『鷺娘』、川口松太郎作、金子洋文演出の『お嶋千太郎』であった(※13参照)。しかし、戦局が深まった1944(昭和19)年、最終公演を行い、戦後解散する。
戦前戦後を通じて日本代表する女優・山田五十鈴の忌日2−2へ
戦前戦後を通じて日本代表する女優・山田五十鈴の忌日:参考へ