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土用の丑の日”蒲焼きの日?”

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7月22日の今日は土用の丑の日である。
土用の丑の日は、土用の間のうち十二支の日であるが、特に夏の土用の丑の日のことを言うことが多い。夏の土用には丑の日が年に1日か2日(平均1.57日)あり、2日ある場合はそれぞれ一の丑・二の丑という。
2013年の今年は、7月22日の今日が一の丑、8月3日が二の丑にあたる。

「丑の日に うなぎのぼりの 鰻食い」 よーさん

お粗末でした。江戸時代の川柳の句集『誹風柳多留』(※1参照)に、「うなぎ屋の隣茶漬けの鼻で喰ひ」が見られるが、鰻の蒲焼は江戸時代の庶民には高嶺(たかね)の花だったが、日本鰻の稚魚シラスウナギは、2010(平成22)年から不漁が続き、水産庁は今年も鰻の高騰は避けられないだろうといっていたが、そんな価格が鰻のぼりした鰻は、現代人の私たちでさえ高嶺の花になってしまった。それで、つい、お遊びでくだらぬ句を書いてしまった次第。
日本では土用の丑の日に、暑い時期を乗り切る栄養をつけるために古くから鰻を食べる習慣がある。しかし、今年のように価格が高騰しても、なお、土曜には食べなくてはいけないと無理して食べている人が多くいることだろう。
土曜のことは、以前にこのブログで「 土用 の入り。夏本番」として簡単に書いたので、今日はパート2的なものになり、一部ダブルところもあるが、今回、テーマーは鰻の蒲焼きのことを中心に書く。それでサブタイトルを”蒲焼きの日?”とした。

江戸時代の風俗を記した随筆『明和誌』(青山白峰著。文政5年)によれば、安永・天明の頃(1772年 - 1788年)から土用の丑の日にウナギを食べる風習になったということが書かれているそうだ。
鰻を食べる習慣についての由来には諸説あり、その中に、江戸時代の本草学者、戯作者平賀源内が、夏に暑くて売り上げ不振のうなぎ屋から相談を受け、丑の日に「う」のつく食べ物を食べると体によいという伝承を利用して「本日土用の丑の日」と書いて店先に貼紙をしたところ、大繁盛したことから、一般に定着したという説があるが、このことは『明和誌』には書かれていない(※2参照)ようなので、この通説の信ぴょう性については怪しいようだ。

「土用丑のろのろされぬ蒲焼屋」

江戸時代の川柳(※1参照)にも見られるように、普段は客の注文を受けてからおもむろに裂きにかかる鰻屋も.この日ばかりは殺到する客にウシのようにのろのろなどはしていられない。
だいたい、どんな魚もそうなのだが、鰻のも秋から冬にかけてであり、旬の味を貴ぶ江戸っ子は、当時、夏の鰻なんて見向きもしなかっただろうと思うのだが、新しい物好きでもある江戸っ子が平賀源内のキャッチコピーに飛びついたからかどうかは知らないが、このころから土用の丑の日にウナギを食べる習慣が広がったようだ。
ただ、なぜ丑の日にかぎって鰻なのかよくわからないが、丑の“う”と鰻の“う”とをかけた駄洒落コピーの先駆けとも言われるものが受けたのかもしれないが、これなど駄洒落好きの多い今の若者の気質とよく似ている感じだな〜。
それをマスコミがあおって、我も我もと同じ方向に突っ走る・・・・。日露戦争への突入の時もそうであったが、今年6月に富士山世界文化遺産に登録されると、また、我も我もと押しかけて、これからの富士山の自然環境の保護問題が心配されている。このような日本人の習性。
それが怖くって、第二次世界大戦終了後、GHQは、憲法によって、日本には軍備を持たせず、また、当時世界でも有数であった農業国日本の農業力を衰えさすために、農地改革(農地解放)をし、これにより、戦前の封建制度が改善された面はあるものの、今のような力のない個人の小農の集団に変えられてしまったことが、日本の農業の国際競争力を低下させていくこととなったともいえる。もっとも品質面ですぐれているので、高いコメを食べれる人には良い面もあるのだが・・・。
日本人が鰻を食べるようになったのは古く、約5000年前の縄文遺跡(遺跡一覧)の貝塚からうなぎの骨が出土しており、文献としては奈良時代の『万葉集』の、大伴家持の歌に「武奈伎」(むなぎ)として見えるのが初出のようだ。
「石麻呂(いはまろ)に、我(わ)れもの申す、夏痩(や)せによしといふものぞ、武奈伎(むなぎ)を漁(と)り食(め)せ」(巻十六-3853)
通称、吉田老((よしだのおゆ=吉田石麻呂)という痩せた老有力者が夏バテしてなお痩せていたのをみた家持が、「夏痩せにはウナギがいいらしいから、漁ってきて食べ、栄養をつけなさいよ」と、からかい半分に詠んだものであるが、この歌に対しては、吉田老が次のように返している。
「痩す痩すも生けらばあらむをはたやはた鰻を漁ると川に流るな」(巻十六-3854)
つまり、「私は痩せていても生きているから、まだいいよ。あなたこそ、ウナギを漁(と)ろうとして、川で流されてしまわないようにしなさいよ」と・・・・。(以下参考の※3 :「萬葉集の部屋 」の巻十六-3853、3854等参照)
この歌を見ても、今から1200年も前の万葉集が詠まれた奈良時代から、ウナギが夏やせに効くとして、日本人が食べていたこと、またウナギ漁が「川に立ち込む」漁であることが知られていたことなどが興味深い。しかし、これ以降、ウナギの史料は江戸時代までほとんどない。
しかし、鰻の栄養価の高さは物知りの源内のみならず江戸の庶民だって生活の知恵として承知していただろうが、とくに暑い盛りの土用の丑の日を選んで鰻を食べるという習慣は江戸川柳に見られる頃まではなかったのである。
「武奈伎(ムナギ)」は万葉仮名で「ウナギ」を表わす古語であり、その後「ムナギ」から「ウナギ」へと転呼併称されたが、平安後期頃までは「ウナギ」のことを「ムナギ」と呼んでいたようだ。
貝原益軒の『日本釈名』(元禄12年刊行)には、「ム」と「ウ」とは音通ずるが故に「ウナギ」といい、その意味棟木(むなぎ)なり。その形丸くして 長く、家の棟木に似てるなり」とある。(※4 参照)
一方、このよび方は胸が黄色い「胸黄(むなぎ)」から とか諸説あるようだが、正確なことはわからないらしい。
明治時代に作成された百科事典、『古事類苑』の「動物部」の「鰻」(※4)の項目には前に挙げたの『万葉集』の歌のほかに『新撰字鏡』『和名抄』などの平安時代初頭の辞書類が挙げられているが、その後は江戸期の料理書などにとんでしまう。
江戸時代以前、鰻は料理方法も確立しておらず、油が強くしつこい下等魚で決して美味な魚ではなかったことから、薬か、栄養食として食べられていた。
室町期の『大草家料理書』に「宇治丸、かばやきの事、丸にあぶりて後に切也、醬油と酒と交て付る也、又、山椒味噌付て出しても吉也」という一条がある。
これがウナギの蒲焼の初見で、宇治丸というのは、はじめは宇治川産のウナギを指したが、やがてウナギの異名となり、ウナギ鮨をもこの名で呼んだ.。
この蒲焼は、「丸にあぶりて後に切也」とあるように、ウナギを裂かずに長いまま竹ぐしを通して焼いたもので、かまぼこ(蒲鉾)同様ガマ(蒲)の穂に形が似ていたための名であった(※4参照)。
越谷吾山(こしがや ござん)の江戸時代の方言辞書『物類称呼』 動物に「鰻(うなぎ):山城の国宇治にて”うじまろ”と云、この魚の小なるものを京にて”めゝぞうなぎ”と云、是は”みゝずうなぎ”の誤り也。江戸に”めそ”と云。上総にて”かよう”と云、また、”くわんよッこ”とも云、常陸にて”がよこ”と云、信濃にて”すべら”と云、土佐にて”はりうなぎ”と云、今按(あん=調べる)に京都にてうなぎを鮓となすは宇治川のうなぎをすぐれたりとす、よって、宇治麻呂と人の名を以てす、江戸にては、浅草川深川辺りの産を江戸前とよびて賞す、他所より出すを旅うなぎと云、また世俗に丑寅の年の生まれの人は、一代の守本尊虚空蔵菩薩にて生涯うなぎを食うことを禁ずと云。」・・とある(※4参照)。
ここでうじまろの名前の由来は、近江の宇治川のうなぎが美味で優れているところから宇治の麻呂と人の名をつけ尊称したとある。「宇治丸」と呼ばれた鰻ずしやごぼうを巻いた「八幡巻き」はこの地方の特産品であった。
なお、ここでいっている「この魚の小なるもの」とは、ウナギの子(稚魚= シラスウナギ)の少し成長したものをいうようだ。
また今では「すし」のことを江戸前と呼ばれるがもともと江戸の浅草川や、深川辺りで獲れたウナギをこうよんでいたこと、そして、江戸前以外の他の利根川水域等他から持ち込まれたウナギは旅ウナギと呼ばれ区別されていた。それだけ江戸前のウナギの質が良かったのだろう。
江戸川柳に、「丑の日に籠でのり込む旅うなぎ」(※1参照)と詠まれているが、夏の土用の丑の日には、江戸前だけでは、量が足らず、他の地域からの質の落ちるウナギも大量に焼かれていたということだろう。
しかし、面白いのは、丑寅年生まれ人は、生涯ウナギを食べられないと言われていたこと。今でも、お年寄りには鰻を食べないという人がいるようだが、お気の毒な話だ。その理由は、※5:「神使の館」の虚空蔵菩薩と牛・虎-2を見られるとよい。
正徳2年(1712年)発刊の『和漢三才図会』には次のように記してある。
「馥焼(かばやき):中ぐらいの鰻をさいて腸を取り去り、四切れか五切れにし、串に貫いて正油あるいは味噌をつけて、あぶり食べる。味は甘香(かんばし)くて美(よろ)し、あるいはナデ醋(す)にひたして食べることもあり。多く食べると、頬悶して死ぬることあり。之は酸を得て鰻肉が腹中で膨張する故なり」と。(※6参照。尚、原文は、※7の「和漢三才図会巻第五十・五十一」の鰻鱺の最後、鱧の前のここ参照。)☆「馥」は「よいにおい」という意味。
これを見ても元禄の1700年頃には現在の割いた形の「蒲焼」を売る露店や鰻売りが関西で売られ始めていたことがわかる。
江戸の文化は、ほとんどそうだが、蒲焼きも、もともと上方(関西)で発達し、これから十数年遅れて正徳年間(1711-1715年)に江戸に伝わったといわれており、本格的な「鰻料理屋」が登場するのは、明和から天明年間(1764年-1781年)の頃であり、蒲焼と飯を別々に出す「江戸前大かばやき、附めし」という形で売られていた。

●上掲の画は、享保年間(1716年-1735年)に出版されたといわれる『江戸名所百人一首』(近藤清春筆)近代デジタルライブラリー より借用(※8のコマ番号26番参照)。
深川八幡社の画で「めいぶつ大かばやき」と書かれた行灯のある、露店のような粗末な店が境内にあり、そこで蒲焼を焼いている人が描かれている。

●上掲の画は鍬形?斎(北尾 政美)の『近世職人尽絵巻』・蒲焼屋.。東京国立博物館所蔵.。以下参考の※9:文化遺産オンラインより借用(五段目左から2枚目の左部分カット)。
文化3年(1806年)刊行のこの絵巻物は様々な職人の様子を描いたもの。まだまだ、うなぎの頭を落とすのも割くのも店先である。
関西では鰻を腹から開き、江戸では武家の町として腹切りを忌み、背割りにしたと言われている。焼き方とたれが蒲焼の味を大きく左右することから、その技術が競われた。
文化年間(1804年-1818年)頃になると、現在の「うな丼」の前身となる、どんぶりに熱い飯を盛って、飯の間に蒲焼を挟んだ「鰻めし」が、当時芝居で賑わった堺町(現在の東京人形町)の隣町、葺屋町にある鰻屋・大野屋が「元祖鰻めし」という看板で売り出したのが最初だと言う。
しかし、明治18年(1885年)の宮川政運『俗事百工起源』には、うなぎ好きな堺町の芝居金主、大久保今助がこの鰻丼を考え出したと書かれているそうだ(ここ参照)がどちらが、先かはよくわからない。
ただ、大野屋では、六十四文から売り始めたが、後には百文、二百文の高級品となったという(※10)。非常に9人気が良かったということだろう。この鰻飯が幕末の安政の頃から、熱い飯を丼に盛って蒲焼を上に載せる庶民向けの「うな丼」となり登場した。
兎に角、文化・文政から嘉永年間(1804〜1854年)には江戸で蒲焼きが全盛期を向かえた。これには、天明年間(1781〜1789年)に銚子で開発された濃口醤油(現ヒゲタ醤油など)が関係しているようだ。
嘉永5年(1852)に刊行された江戸の鰻屋の見立番付「江戸前大蒲焼番附」がある(※11参照)。この番付には約200軒の鰻屋が掲載されているが、「此外東西数多ニ御座候得共猶校合の上再板仕候」(この他にも数多くあるので調査の上、再版する)とあり、この他にも数多くの鰻屋があったことが推測されるという。
また、嘉永元年(1848年)に刊行された江戸の飲食店の紹介本である『江戸名物酒飯手引草』にも90軒の鰻屋が載っており、この番付に載っている店も複数、掲載されているという。

ところでうなぎの調理法は、東西によって異なる。
関東では、背開き。白焼きにした後蒸し、その後にタレをつけて焼 く。
関西では、腹開き。白焼きにし、蒸さないでタレをつけて蒲焼きにする。(別名地焼き)・・・と言う工程となる。
この調理方法の違い。特に大きな点は、白焼きにしたものを蒸してから焼くか蒸さずに焼くかについてだが、このことについて、野村信之氏(1991年.関西鰻蒲焼論)は以下のように言っているそうだ。
「関東では白焼きのあと蒸すが、これは=流れの少ない所に育つ鰻の泥臭さを蒸しによって抜いたもので、関西の鰻は=清流でとれるので臭いが少ない。 調理法のちがいは生息場所によるものである。」・・ と。そして、「これは天然鰻だけを食べていた時代のことと思われるが、養殖鰻が大半を占めるようになった今日でも関東と関西での調理法はもとのまま行われているのだ」・・・・と(※12のNo.7 鰻と日本人参照)。

近年、稚魚のシラスウナギが減り、供給量が激減し、鰻は激減、価格が高騰している。そこへ持ってきて、消費が増える夏を迎え価格が急騰している。
以下参考の※13:「日本養鰻漁業協同組合連合会:統 計 資 料」によると2012(平成)年 の鰻輸入量及び国内養殖生産量の総計37,207のうち, 輸入量19,661t(52,84%。うち、活鰻4,678t、加工鰻14,983t)、国内養殖生産量17,377t(46,70%)、国内天然漁獲量169t(0,45%)であり、国内天然漁獲量は、養殖を含めた国内生産量の0、95%と1%にも満たない漁獲量なのである(注:加工鰻は生鰻に換算した量、加工製品数量としては8,990t)。
国内養殖生産量と国内天然漁獲量の推移をみると以下のようになっている。
国内養殖生産量:2,003年、21,526t→2012年17,377t、2,003年対比80,72%に減少
国内天然漁獲量:2,003年、  589t→2012年  169t、2,003年対比28,69%と激減。(ここ参照)。
したがって、鰻養殖生産価格も、2,002年の926から2011年は2281(円/kg)と2,46倍に上がっている。これが原因で、鰻業経営体数は、1997(平成9)年、全国で651あったものが、2008(平成20)年には、444と68,2%に減少している。
だから、国内天然もののうなぎなど、地元の料理屋などで消費されてしまうため、通常の流通ルートに乗ることはほとんどなく、我々にとっては、高値の花どころか、口に入ることのない幻の食材となりかけており、養殖物の鰻でさえ、高値の花になりかけている。
後は、輸入物の主力である、台湾産、中国産の鰻で我慢しなければ仕方がないのだが、中国産など、その品質面が非常に気にかかる。
アベノミクスで、円安・株高。恩恵を受けている高所得者は、結構なのだが、その恩恵にあずかっていない中小企業者や、サラリーマン、そして、年金生活者の私達などは、円安による諸物価が高騰している中、給料やボーナスも上がる見込みがなく、年金額も減らされている状況の中で、夏土用の鰻の値上がりはつらい。
もともと、日常食ではなかった鰻が、江戸時代に、夏に鰻を食べるとよいとの土用の丑のキャッチコピーに乗せられて食べるようになり、それが、戦後の高度経済成長と共に大量消費社会になって、あたかも日常食として、スーパーなどで安売りをされるようになった。
それが、このような状況になったのは、日本鰻の稚魚シラスウナギの激変が根本的な問題である。
今や、輸入物なくしては、ウナギを国内の養殖(養鰻)では需要を賄いきれない。
養鰻の安定供給を目指して、養鰻の生産技術に関する開発研究が東京深川で試みられたのが1879(明治12)年のことだが、後に養鰻の中心地は浜名湖周辺へ移った。1891(明治24)年に、原田仙右エ門という人物が7ヘクタールの池を造り、日本で初めて人工池での養鰻を試みたのが、浜名湖の養殖ウナギのルーツである。
その後各地で養鰻を始める。しかし、太平洋戦争によって養鰻業が急速に衰退する。以下。※14:「鰻 養 殖 の 歴 史」に基づいて簡単に』その概略を記す。
ウナギの養殖はまず、天然のシラスウナギを捕ることから始まる。黒潮に乗って日本沿岸にたどり着いたウナギの稚魚、シラスウナギを大量に漁獲してこれを育てるのである。つまり、この段階では、他所で採ってきた稚魚(シラスウナギ)を池で大人のウナギに育てるだけのことである。
ウナギの稚魚不漁のため、台湾・韓国・中国よりシラスウナギを試験的に輸入したのが、1964(昭和39)年のことである。1969(昭和44)年、シラスウナギ不漁のため、日鰻連(日本養鰻漁業協同組合連合会)がフランスよりシラスウナギを大量に輸入し、わが国で初めて日本産ウナギ以外のものが養殖種苗とするために導入される。
ウナギの人工孵化は、1973(昭和48)年に世界で初めて、北海道大学において初めて成功した。
1976(昭和54)年、輸出貿易管理令(※15)が発令され 1匹13g以下のシラスウナギが輸出禁止となる。
2000(平成12)年、中国、台湾から13万t以上のウナギが輸入され、日本の生産量も合わせ16万tと過去最高の供給量となる。養鰻振興議員懇談会が国に対してセーフガード発動を国に申し入れたという。
2002(平成14)年には、 国内養鰻経営体500軒(農林統計481)を割っている。しかしながら、ウナギは極めて特殊な生活史を持つ魚類であることから、人為的に成熟させ、採卵、授精、孵(ふ)化、仔魚の飼育を経てシラスウナギ(養殖用種苗)とすることは容易ではなかったが、翌2003(平成15)年には、三重県の独立行政法人水産総合センター(現「増養殖研究所」)が世界で初めて人口孵化仔魚をシラスウナギに変態させる、シラスウナギの人工.生産に成功した。
現在ウナギ種苗の人工生産の実用化に向け、安定生産に不可欠な基盤研究がすすめられているという(※16参照)。しかし2005(平成17)年、国内生産量2万トン(農林統計19,495t)を割っている 。
そうした中での2010(平成22)年、水産総合研究センターが人工孵化したウナギを親ウナギに成長させ、さらに次の世代の稚魚を誕生させるという完全養殖に世界で初めて成功したと発表。
しかし人工孵化と孵化直後養殖技術はいまだ莫大な費用が掛かり、成功率も低いため研究中で、養殖種苗となるシラスウナギを海岸で捕獲し、成魚になるまで養殖する方法しか商業的には実現していない。
自然界における個体数の減少、稚魚の減少にも直接繋がっており、養殖産業自身も打撃を受けつつある。
この技術が完成すれば、養鰻業に寄与するだけでなく、天然シラスウナギに対する乱獲を緩和させ、天然資源の保全に繋がる。また健全な自然河川環境が取り戻せれば、天然ウナギは増えるに違いない。
減少した資源の回復と保全のために、人工シラスウナギの開発研究を急がねばならない。それまで、はとにかく、乱獲を防止しなくてはいけないだろう。
鰻の美味いのは秋、冬であり、それでなくとも高くなった鰻。土用丑のために高騰しているものを無理に食べなくてもいいのだが・・・。理屈は分かっていても、今まで、続けてきた行事のようなものを止めるのもさびしいが・・・。
三日前の・2013(平成25)年7月19日付、朝日新聞朝刊に、高値で食べたいけれど手の出ないという消費者のために、安い別品種のうなぎ、インドネシアなどでとれる「ピカーラウナギ」などが出回る他、ウナギに見立てたナスや鶏肉の蒲焼にも人気が集まっているという。
なにか、少々情けない気もするが、そこは、じっとこらえて、いつか安く自由に食べれる日を楽しみに待つことも大事なのでは・・・。
古く万葉の時代から滋養強壮の食べ物であると知られていたウナギ。浮世絵の題材にも多く取り上げられている。

●上掲の画象は、江戸時代後期の浮世絵師葛飾 北斎の代表作『北斎漫画』(スケッチ画集)の「鰻登り」。以下参考の※17:「近代デジタルライブラリー - 北斎漫画. 12編」コマ番号30より借用。
「鰻(うなぎ)登り」は、3尾の巨大な鰻が鰻屋のまな板から職人の手をすり抜けて、天に昇っていく様子を描いている。幕府の経済政策の失敗による物価の高騰を暗に批判している、との説もあるようだが、当時の蒲(かば)焼きはもともと高価なごちそうだった。
客の顔を見てから鰻を吟味し、割いて焼くから手間暇かかる。 客の方は酒を飲んだり、男性なら女性を口説いたりして、待ち時間を楽しんだという。
これは名の通った店なら今でも同じだ。「鰻屋のたくあん」ともいう。良いウナギ屋は、注文をしてから焼きあがるまで時間がかかるので、良い漬物が出てくる。客の方は、たくあんのお茶でも飲みながら、おしゃべりを楽しむ。
私が現役の頃、大阪・野田にいい鰻屋があったが、仕事の昼休みなどに食べに行くと、何時も食事の後に喫茶店などでくつろぐのだが、喫茶店に行く時間がない。だから、もうあきらめて、鰻屋へ行くときには、気の合うものとそこの店でゆっくりと時間を過ごすことにしていた。
この様に、今でもたまにはよい店で、江戸の人々のように、オツな時間を過ごしてみたいものだが、うなぎのぼりの蒲焼きはますます庶民の口に入りにくいものになっている。
また、落語や川柳にも数多く取り上げられ、古典落語の「鰻の幇間」は、八代目桂文楽の十八番であった。書けばきりがないが、最後に、私もファンだった故3代目古今亭志ん朝鰻の幇間を聞いて終ることにしよう。
鰻を題材にした噺は多いが、その代表格がこれ。いわゆる幇間(ほうかん)ものに分類されるもの。文楽の何か切羽詰ったような悲壮感に比べ、ここに登場する志ん生の一八は、どこかニヒルさが感じられ、ヨイショが嫌いだったという、いわば幇間に向かない印象にもかかわらず、別の意味で野幇間の無頼さをよく出している。
一八は、客を釣ろうとして、「鰻」をつかんでしまいぬらりぬらりと逃げられたわけだが、ウナギの勘定だけでなく履いてきたゲタまで履いて行かれる。
落語のあらましと解説は参考の※18を読めばよいが、落語は以下のYouTubeで聞ける。実際の寄席の実写版とレコードの再生のもの2つ用意しているのでお好きな方を聞かれるとよい。

志ん朝 鰻の幇間 - YouTube  実写版

鰻の幇間:古今亭志ん朝.wmv - YouTube レコード盤

蒲焼きという革命的な料理法を生み出したウナギは、今では、日本の代表的な食文化ともなっているのだが、その一方で、ウナギの生態はいまだに多くの謎に包まれているようだが、長くなるので、これで終えよう。気が向けば以下のリンクしているところなど覗かれるとよい。。
猛暑続きの夏、これからが夏本番。どうか、熱中症には気を付けて、元気にこの夏を乗り越えてください。
私も、今日から、8月末まで、夏休みに入り、その間このブログの投稿も休止します。9月に入ったら再開しますので、その際は、またよろしくお願いします。

参考:

※1:鰻・登亭:うなぎの世界
http://www.noboritei.co.jp/unagi/06.html
※2:そのことば江戸っ子だってね!?
http://www.web-nihongo.com/wn/edo/00.html/
※3:萬葉集の部屋
http://www.geocities.jp/yassakasyota/manyo/manyo.html
※4:国際日本文化研究センター:故事類苑検索システム>部門目録一覧>28.動物部>目録表示863鰻 
http://shinku.nichibun.ac.jp/kojiruien/html/dobu_1/dobu_1_1355.html
※5:神使の館
http://www9.plala.or.jp/sinsi/07sinsi/01sinsi.html#usi
※6:第41回 長崎料理ここに始まる。(十三) | 長崎の食文化
http://www.mirokuya.co.jp/syokubunka/bunka41.html
※7:和漢三才図会 巻第五十・五十一
http://record.museum.kyushu-u.ac.jp/wakan/wakan-jin/page.html?style=a&part=27&no=1
※8:近代デジタルライブラリー - 『神社仏閣江戸名所百人一首』
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/932168
※9:文化遺産オンライン:近世職人尽絵詞
http://bunka.nii.ac.jp/ResultImage.do?heritageId=13984&linkType=index&imageNum=7
※10:落語「鰻屋」の舞台を歩く
http://ginjo.fc2web.com/111unagiya/unagiya.htm
※11:6. 江戸前大蒲焼番附 - 東京都立図書館
http://www.library.metro.tokyo.jp/digital_library/collection/042/no6/tabid/3129/Default.aspx
※12:おさかな普及センター資料館
http://shimura.moo.jp/osakana.htm
※13:日本養鰻漁業協同組合連合会:統 計 資 料
http://www.wbs.ne.jp/bt/nichimanren/toukei.html
※14:鰻 養 殖 の 歴 史
http://www.wbs.ne.jp/bt/nichimanren/rekishi.htm
※15:輸出貿易管理令 - 法令データ提供システム
http://law.e-gov.go.jp/htmldata/S24/S24SE378.html
※16:ウナギ人工種苗の実用化を目指して - 農林水産技術会議 -農林水産省
http://www.s.affrc.go.jp/docs/report/report26/no26_p3.htm
※17:近代デジタルライブラリー - 北斎漫画. 12編
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/851657?contentNo=9
※18:鰻の幇間(うなぎのたいこ) 落語: 落語あらすじ事典 千字寄席
http://app.m-cocolog.jp/t/typecast/62757/6/6065596
うなぎ雑学(うな繁)
http://www.unasige.com/indexzatugaku.html
環境省 報道発表資料
http://www.env.go.jp/press/index.php
日本釈名
http://base1.nijl.ac.jp/iview/Frame.jsp?DB_ID=G0003917KTM&C_CODE=XYA8-04801
水産庁/ウナギをめぐる最近の状況と対策について - 水産庁 - 農林水産省
http://www.jfa.maff.go.jp/j/press/saibai/pdf/130530-01.pdf
ニホンウナギの資源状態について - 水産総合研究センター(Adobe PDF)
http://www.fra.affrc.go.jp/unagi/unagi_shigen.pdf#search='%E9%B0%BB%E3%81%AE%E6%BC%81%E7%8D%B2%E9%87%8F'
真名真魚字典
http://www.manabook.jp/manamana-uohenkanji.htm
近代デジタルライブラリー - 皇都午睡 : 三編
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/763829/9
土用の丑の日 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%9F%E7%94%A8%E3%81%AE%E4%B8%91%E3%81%AE%E6%97%A5

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