そもそも人格などの前提ともなる、マナーなどは、生まれてから日常生活をしていく中で自然と身につけるものであるが、特定のコミュニティ、文化の中で作られていったマナーについては、自然と身につける機会は非常に少ない。また、場合によっては一般的なマナーとは全く違う考え方によって「行儀が良い」とされることもある。
漱石の 『模倣と独立』の中にも「約束、法則というものは政治上にも教育上にもソシャル・マナーの上にもある。」と出てくるが、「ソーシャ・ルマナー」という言葉最近よく聞くようになったと思いませんか?
英語では「Social manners 」、ソーシャルは「社会」のことだから、「社会で活用できるマナー」、「社会で役立つスキル」と言える。対人関係の多い商人などには必須となる。
食事のマナーや、冠婚葬祭のマナー、人との付き合いのマナー、ビジネスマナー等々、色々なマナーが想像されるだろうが、結局は、マナーとは、思いやりの心を、形に表すことで、日本語で言うなら、「礼儀作法」と言う言葉になる。
江戸時代のことわざに、「三つ心(みっつこころ)、六つ躾(むっつしつけ)、九つ言葉(ここのつことば)で、十二文(じゅうにふみ)、十五理(じゅうごことわり)で末(すえ)決まる」・・・・というものがある。
江戸の町人の躾は、意外に厳しく、しかも道理に適っていた。昨今問題になっている社会の教育力が江戸期には息づいていた。
諺の意味は、3歳までは愛情深く、子供に接し、子どもの人に対する信頼感を植え付け、6歳までには作法の基本を身につけさせる。
9歳までには他人への口の利き方を教える。12歳になると文字が自在にあやつれるように仕込み、そして15歳になると森羅万象に対してその真実を見抜く力を養っておく、というのが江戸時代の段階的子育て(躾)の基本であった。
●上掲の画像は、『女中風俗艶鏡』 (じょちゅうふうぞくつやかがみ。西川祐信画)より、子供をあやしている図である。(NHKデーター情報部編『ヴィジュアル百科江戸事情』第二巻生活編より借用).
子供を育て、躾(しつけ)るのは母親の役目である。子供のしつけの基本的なものは、遊び、食事、排泄、睡眠。母親や祖母たちから叱られたり、あるいは、仲間の子と一緒に遊びながらそれを習得してゆく。
昔から「三つ子の魂百まで」ということわざもある。三歳までは愛情いっぱいに子供の心を育てる。4 歳から7歳は、理性、知性、社会性が育つ時期といわれているので、6歳までには大人の立ち居振る舞いを見習わせ躾を終わる・・というのもこの時期にしなければならないこととぴったり・・・。
9歳までには、どんな人にも失礼でない挨拶(あいさつ)ができるようにさせる。12歳のころには一家の主(あるじ)の代わりに手紙を書けるようにしておくことである。注文書や請求書、苦情処理の弁解書(弁明書)などもまがりなりにも書けるよう鍛育していたようだ。さらに15歳までには、経済や、物理、科学などの理を暗記でなく実感として理解できるようにさせ、真実を見抜く力を養った。当時。15歳はもう一人前の大人であった。
いわば、知識より理解、つまり、「知る」ことよりも「わかる」ことの重要性を昔の人はわかっていたのかもしれない。「わかる」ことが人への共感や、思いやりの心につながる。
現代の感覚をもってしても、この格言には合理性があり、実に説得力がある。・・・というより、もはや現代では失われてしまった教育の原点、あるいは到達点といっても過言ではないだろう。今はどうなっているのだろう。
江戸時代は職業別に身分制度が編成され、それぞれの職業は家職(家業)として相伝されるところとなる。家の存続を願うとき、子どもを家職の継承者としていかにして一人前に育て上げるかが、それぞれの家にとって大きな課題でもあった。だから、育児と教育の責任は父親にあると考えられていた。
江戸時代には「良妻」という考えはあっても、「賢母」という考えはなかった。「賢母」の考えが自覚されるのは明治になってからのこと。父親の指導で育児の実労働に主として携わったのは、母親であったが、小家族の下級武家も庶民の父親も実際の育児を担っていた。父親も出産に立ち会い手伝っていたことがいくつかの史料から確認されているという。家族ぐるみで育児にあたり、親類や共同体もそれを支えていたようだ(※※18参照)。
ただ商いの取引や訪問客が頻繁な豪農や豪商を除くと、普通の人は「自然に放っておけば一人前になる」という考えが当たり前であった。変化が起きたのはサラリーマンの原型が出てきた明治の終わりくらいからだという。幼い頃からいろんなことを覚え、学校教育で成功することで「よりよい仕事に就き、よりよい人生を送るチャンスを得られる」というライフコースができたからだ。
昔だと、男の子の場合、高等小学校を出た14歳くらいで家を出て、住み込みで働いた。女の子だと、7・8歳ぐらいで子守り奉公に出されたりしたケースもあったし、14歳ぐらいで女中奉公や女工として稼ぎに出た。奉公先では、男の子の場合でいうと、最初は風呂焚きや掃除をし、いつの間にか仕事を覚えていく。何年間か見習いをやって、いずれ独立した。
今では学校に在学する期間が長くなっているから、「ここで切れ目」というのがはっきりしない。1974(昭和49)年くらいに高校進学率が90%を超え(※019参照)、90年代になると大学や専門学校への進学率が上昇し、昔だったら社会に出て自立せざるをえなかった年齢の青少年が、今では家庭の中でずっと親子関係を続けている。
現代社会の少子高齢化と人口減少の背景には晩婚化・非婚化の進展、ひいては「皆婚社会」であった戦後日本の常識的な家族像が大きく変わってきていることが挙げられる。
しかし歴史的に見れば、国民の大半が結婚し、直系家族等、親子を中心とする世帯を形成するのが常態化するのは近世(江戸時代)に入ってからであり、それ以前は大家族の中で未婚のまま過ごす者が少なくなかった。また都市における未婚率は高かった。
中世には名主が名子・被官を動員した大規模な農業経営が一般的であったが、戦国時代から江戸時代へと平和な時代になり、開拓が進むにつれて名子層は平野部に進出して自立し、17世紀中ごろには一夫婦とその直系家族による小規模な家族経営が大半を占めるようになっていった。これを、小農自立という。
この小農自立の流れを決計的にした背景には太閤検地がある。太閤検地は一地一作人制を原則とし、農地一筆ごとに耕作する農民を確定した。このことが家族を単位として耕作を行う近世農村への道を開いたのだ。
昔は、豪農や豪商など以外の一般の家庭では、子供を産んだ母親は、嫁として農作業や夜なべ仕事で休みなく働き、仕事の合間に子供に乳を与える時ぐらいが唯一ほっとできる時間であり、そのため、普段は、働けなくなった年寄りや年長の子供が子守りや世話をしていた。つまり、生活に追われていた母親は余り子育てに手間ひまかけられなかった。
しかし、少し子供が大きくなれば、奉公先や村のネットワークに参加してそこでしつけられた。だから、ムラ共同体の影響力が強かった。礼儀作法をはじめとして世の中を生きていくうえで必要なマナーやスキルはムラのルールの中で暮らしていけば、自然にいろんなことが身に付く、・・・と考えられており、親があまり教育的な配慮をすることの必要がなかったともいえる。いまは全く逆になっている。
幼い頃から子供を熱心に教育するというのは、社会の一部でずっと続いていて、それが「男が外で働き、女が家で子育てし、家庭教育する」というふうに分業したのは明治の後半からのことである。
明治時代に学校制度が誕生し、学校が始まったことで子どもは徒弟のために他家に行かずに、家で家族と共に生活するようになったからだ。このことから、家庭において子どもと見なされるようになった。親子の距離がそれまでよりも接近したゆえに親は子どもに対して愛着という感情を抱くようになり、親と子の関係が密になっていく中でそれまでにはみられなかった「情の結びつき」が発生した。つまり、それまでとは違って、子どもが「小さな大人」=「労働者」としてみなされなくなった。
そして、地域社会の共同体性も失われ、教育期間が伸びるにつれて親子関係が長期化していく中で、今では親が子供の面倒を見続ける時代になった。
つまり、前近代社会のように徒弟として家族以外のところで子どもを教育したり、地域全体で子どもを育てるという意識のあったころと比較し、子どもに対するいわゆる「しつけ」は家庭の母親がその責任を負うような形が出来上がってきたのである。
しかし、親は長期間、親としての責任を果たさないといけない。一方、子供はすぐに自立しなくてよくなった反面、いつまでも親の保護と干渉を受け続ける。親離れや自立が、いつどういう形で達成されるのかが見えにくい時代になった。
一方、地域の共同体(英語:community)というものは同質性を本質としている。村落などに見られるように、何代もに渡って互いに熟知した間柄を保ち、同じ生活価値を共有し、同じ掟を守る。しかし、都市化や郊外化に伴って、異質性が人間関係の基本となっていく。
故郷を後にして都会に出てきた人々は互いに見知らぬ者同士である。生活価値観も異なり、習慣や風習も異なる。この異質な者同士が社会を形成して公共的生活を営んでいくところに近代の特質がある。
同質性の関係から異質性の関係へ。このプロセスのなかで、それまでの地域社会や血縁の深い絆も解体していった。こうして、1960年代にはまだかろうじて残っていた共同体性が消えていった。
高度経済成長の頃から、核家族化が始まり、女性の社会進出、夫婦共稼ぎが普通となった昨今、家庭でのしつけも難しくなっている。
しかも、現代のコミュニティにおいては、様々なマナーが主張されるケースも多くなってきている。また、マナー自体が絶対的な定義によって決められる物ではないため、絶対に正しいマナーが存在しないことも珍しくない。
そのため、人によってマナーと思われる作法、礼儀、行儀が異なるケースがあり、複数のマナーが衝突することもある。
マナーとは個々人の主体的自覚に訴えたものである。人間は本来動物や機械のように外からの圧力(要因)によって動かされるものではない。外から律せられて動かされるのではなく、自ら律して意思で行動することができる。従って、自らの行動によって発生した問題に対して、その行動の「責任」は自分自身に帰するものだ。
だが、会社組織での働きとは、唯我独尊で自分一人が行うものではない。意見の異なる者であったとしても共通の目的に向かって協働して進むものだ。
マナーを守れないだけでなく、各人が、様々なマナーを主張されてはそれが無理だ。そのため、罰則付きの「決まり」の強制に変えたものがルール(rule=規則 )というものだ。
マナーは善悪の判断が主体的にできる人間を前提としたものであるが、ルールは放っておくと何をするかわからない人を前提としている。人間観でいえば、マナーは性善説、ルールは性悪説だ。
実はマナーとルールの対立は、漢字になおせば「礼」と「法」の対立であり、二千年前の中国での儒家(孟子)と法家(韓非子)の対立にまでさかのぼる。
孔子自身は礼は士のもので庶人には無理とあきらめていた。つまり礼を基準として生きる者には法(罰)は不要で、そうでない庶人には法しかない、と思っていた。なぜなら礼とは「衣食足りて礼節を知る」というわけで、衣食を足らせるのに精いっぱいの人々に礼を要求することが所詮無理で、それらの人たちはせめて法に違反しないで他人に迷惑をかけなければよしとされていたが、現実には庶民といえども衣食が足りてくると、礼を求めるようになり、江戸時代初期、江戸庶民の間で小笠原流礼法が大流行した。そして、江戸の町では後に「江戸しぐさ」(※21参照)といわれる公共のマナーまで出来たのだ。
ところが、道徳の基準である武士階級がなくなり、さらに和魂洋才で生きようとした明治の精神も滅び、衣食を足らせることから再出発した戦後の日本人は、すでに礼とは無縁の人種となっていた。
「違法でなければ個人の自由=法に触れなければ何をやってもいい」という倫理の最低水準付近をうろつく発想には、「ベストな振舞いとは何か」という理想水準を問題にする礼の入る余地がない。そうなると、法(罰則)でしばるしかない。
礼は善悪を自律的に判断できる自己の尊厳を守る。「決まりだから守れ」という無思考な発想をとらない。守るべきだから守るのだ。礼で自己制御できる人には権力による強制によって法で縛る必要はない。だから、法など作らなくて済むように礼を守ることが大切なのだが・・・(※22参照)。しかし、現代の日本では、ルールを徹底しなければいけない状況があまりにも多くできてきているように思う。
昨今、緊急性の低い症状でも安易に救急車を利用しようとするため肝心の時に電話が通じないなど、救急車利用のマナー悪化が問題となっており、、今年4月には、総務省消防庁より「救急車利用マニュアル」が公表(※23参照)されたりしているが、最近問題となっているネットでの炎上や自転車の乗車マナー、なども、ただマナーに頼っているだけではなく、徹底的に取り締まらないといけないでしょう。
最後に、今はやりの「おもてなし」。この「おもてなし」とはどういうことかよく理解しておいた方が良い。参考※24:「「接客マナーは心の礎」 おもてなしの「礎」語源」に詳しく解説されている。
「思い遣る心」を【形】として表わすことが「マナー」。
「おもてなし」は、「もてなし」に丁寧語「お」を付けた言葉で、「もてなし」語源は「モノを持って成し遂げる」という意味であり、別に、お客様に応対する扱い、待遇とも言われている。
「おもてなし」のもう一つの語源は「表裏なし」、つまり、表裏のない「心」でお客様をお迎えすることで、 接客業、サービス業に限らず、人の生活する場、すべての家、人にひつようなもの。
この「おもてなし」には目に見える「もの」と、目に見えない「こと」があるという。
この「もの」「こと」を、お茶の世界(茶道)で例えると主客一体の心の元、お見え頂いた「お客人」をもてなす際に、季節感のある生花、お迎えするお客様に合わせた掛け軸、絵、茶器、匂い(御香)など具体的に身体に感じ、目に見えるリアルな「もの」である。
もてなす人の瞬時に消えてしまう言葉、表情、仕草など、目に見えないバーチャルな心を「こと」と言いあらわしている。
東京オリンピックでは、世界からのお客様を「おもてなし」すると約束した。
みなさんも「おもてなし」どのようにおもてなしをするか・・・考えておいてください。・・・でも、その前に、当然守られなければならないマナーをあなた自身は守れているか・・・セルフチェックしておいた方がいいですね。
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