日本記念日協会の今日・10月30日の記念日に「マナーの日」がある。
ビジネスマナー、一般マナーなど、あらゆる場面において必要不可欠な「マナー」について見直し、生活に役立ててもらうことを目的にNPO法人・日本サービスマナー協会が制定(※1参照)したもの。日付は協会が設立された2008年10月30日からだそうだ。
同協会のHPでは、同協会について以下のように紹介している。
“企業が成り立つ重要な要素として、「ヒト」「モノ」「カネ」「情報」があると言われる中で、この不況を乗り切るために一番重要とされているのが人材教育だと言われている。 特に最近は「人は財産」という考え方から「人財」とする企業も多くなってきた。
現代の社会では今まで以上に顧客に対する現場の対応力が問われるようになり、相手先の企業やお客様とどのように接することが出来るかということが顧客満足度(CS)を高める重要な要素となってきている。
当協会はエアライン・ホテル・旅行・ブライダルなどの接客サービスが求められる業界の接客サービス研修から、一般企業の社員研修、大学生のための就職活動に向けたビジネスマナー教育などを通じて、相手先の企業担当者やお客様に喜んでいただけるサービスがきちんと提供できるような技能を多くの人たちに身につけていただくための研修教育を提供できる事を大きな目的としている。”・・・・と。
「お客様は神様です」は三波春夫の有名なフレーズである(※2参照)が、確かに、サービス業(サービスを取り扱う産業)のビジネスマンにとって、相手先の企業担当者やお客様に満足度を高めなければ、成果は得られないし、そのために必要なビジネスマナーは当然身に着けておく必要があるだろう。
企業における経営管理(経営管理論参照)とは、企業活動を円滑に行うとともに、企業の目的を達成するために、「ヒト・モノ・カネ・情報」の4つの経営資源を調達し、効率的に配分し、適切に組み合わせる、といった諸活動のことである。
中でも特に、主体的に行動する「ヒト」(人的資源)が重要であり、これに上手く働きかけて、組織化し協働させたり、活性化させ(もしくは能力を発揮させ)たりするようなシステムを如何に構築するかということが主要な課題となっている。
企業は人間を扱い、その人間を使う企業人も人間である。つまり、人間が人間を使う組織であるが、これが、企業経営の本質的問題でもあるともいえる。
そのようなことから、近頃では「人材」に「人財」という言葉が充てられることが多くなった。
「人材」の「材」は「材料の「材」であり、「人財」の「財」は「財産」の「財(たから)」である。
「人材」に「人財」という言葉が充てられるようなったのは、企業が、「あなたは企業にとって『材料』ではなく貴重な『財産』ですよ。」というメッセージを、「人財」という一言に載せて発信することで、従業員を大切にする姿勢を伝えようとしているわけである。
つまり、人が企業の中の単なる歯車の一つではなく、感情を持つ一人の人間として、「会社のために頑張りたい!」との意欲を高めるために・・・、
モチベーション(動機づけ)のために使っていると言っていいだろう。
ただ、企業が何の施策もなく、「人財」という流行の言葉を意味もなく使っているだけでは従業員は誰も会社を信用しなくなるだろう。「人財」という言葉を使用するためには、何故「人材」を「人財」と使い分けているかの理由や、「人財」として人を大切にする制度が、会社の中にしっかりと存在していなくてはいけない。
「人材」の「材」という字は「木」+音符「才」の会意形声文字(字源参照)であり、決して悪い意味だけではなく、「材料」という意味とともに「才能。また、才能のある人」という意味もある。要するに人材は単なる「労働力」や「人的資源」ではなく、今の企業経営にとって大きな役割を担い、多様な資源を提供してくれる企業経営におけるパートナーだということを実感させなければ、「人財」などという言葉を使ってもそれは単なる言葉遊びにしか過ぎないといえるだろう(※3参照)。
私が現役時代関係していたある大手流通業社では、就業規則その他諸規定(※4参照)がよく整備されており、中でも、就業規則の中での賞罰に関する規定(報奨・懲戒処分※5参照)では、守らなければならないことを「こんなこと社会人としての常識じゃ〜ないか」と思われることまで、非常に細かく定めていた。
恐らく他社の人達が見れば驚くほど詳しく書かれており、その是非については賛否両論があるだろうが、急成長をし、若い社員や、パート・アルバイトを多数採用していた同社では企業の組織力を発揮するためのツールとして非常に重視をしていた。
それは、「会社の最低限守らなければならない規則を守りさえすれば、あとは何をしようとも自由ですよ」ということの表明でもあり、その趣旨や理由、企業人として会社で働く上で必要な最低限守らなければならないルールやマナー・・・、この基本的なことだけは入社後の教育時に徹底的に教え込まれる。
一方、会社は人を大切にし、特に、個々人の個性は非常に尊重にする。そして、10年20年先を見通した将来の会社に必要な人材の養成にも非常に力をそそぎ、教育投資を惜しまない。学歴や男女間の格差などは一切せず、完全な実力・能力主義を基本とし、こと評価に関しては、同じ仕事をしている以上年齢による差別もしない。
そして、頭は良くても口先だけで行動しない人ではなく、失敗を恐れず積極的に行動する人が評価された。結果的に、たとえ、失敗しても再挑戦のチャンスが与えられた。
そんな会社の人事制度をよく知る人からは「教育の○○」と高く評価されていたが、そのことが、結果的に非常に優秀な人材を多く育て、今では、その人たちが中心となって会社を支えており、業界では日本のナンバーワン企業といわれるまでに急成長を遂げている。
「世の中には、法律とか、法則とかいうものがあって、これは外圧的に人間というものを一束(ひとたば)にしようとする。貴方がたも一束にされて教育を受けている。十把一(じっぱひと)からげにして教育されている。そうしないと始末に終(お)えないから、やむをえず外圧的に皆さんを圧迫しているのである。これも一種の約束で、そうしないと教育上に困難であるからである。その約束、法則というものは政治上にも教育上にもソシャル・マナーの上にもある。
飯を食べるのにサラサラグチャグチャは不可(いけ)ないという。そういうのはこれは法則でしょう。それから道徳の法則、これは当り前の話で、金を借りればどうしても返さねばならぬようになっている。それから芸術上の法則というのがある。これがまた在来の日本画だとか、御能(おのう)だとか、芝居の踊りだとかいうものには、非常に究屈(きゅうくつ)な面倒な固(かた)まった法則があって、動かすことが出来ないようになっております。・・・」(夏目漱石 『模倣と独立』 より、引用。※6の「青空文庫」参照)
『模倣と独立』は、第一高等学校校友会雑誌所載の筆記によるものである。
漱石は、1913(大正2)年、第一高等学校における講演で、道徳、芸術、社会などにおいて人は常に「模倣」(英語:イミテーション【imitation】)をする。一方で人間は「独立」(英語:インデペンデント【independent】)していてスペシアル(【special】。特別、特殊)なものである。人はこの両面を持つが、日本に必要なのは他国の模倣ではなくインデペンデントだと説いている。
この中で、「人格から出た品位を保っている本統(ほんとう)の紳士もありましょうが人格というものを度外(どがい)に置いて、ただマナーだけを以て紳士だとして立派に通用している人の方が多いでしょう。まあ八割位はそうだろうと思います。気高(けだか)いというものがない。」・・とも言っている。
ここには、ドイツの哲学者カントの思想が入っているように思われる。
カントは行為の結果よりもそれをなす動機となる《善意志》こそ重要だと考えており、この《善意志》にもとづき、道徳法則(※7参照)の命じる道徳的行為を、実践理性(実践理性批判も参照)で捉え自律的に行う主体である人間を、「人格」と呼んでいる。
カントは道徳律(Sittengesetz)を「仮言命法」としてではなく、「定言命法」(kategorischer Imperativ)として受取ることである。 仮言命法とは、「もし…なら…べきだ」というものである。道徳律においても、このようなものは多く見られる。たとえば,「もし人から信用されたいのならば、嘘をついてはいけない」とか、「早起きは三文の得」などがそれにあたる。それに対して、条件なしに「…すべきだ」とだけ命ずることを定言命法(無上命法)という。(詳しくは、※7、※8参照)
個人の心理面での特性。人柄。または人間の人としての主体である人格形成には、事故や病気等による外的要因を除いて、幼少期における経験や体験が大きく影響を与えているとされている。
人格は、英語でパーソナリティ【personality】とも表現されるが、その場合、日本語の「人格者」のような肯定的な価値は含まれないが、パーソナリティの形成に影響を及ぼすのは主に遺伝要因と環境要因(※9参照)であり、両者は密接に結びついている。
前者は気質と深く関連する生理的・身体的特性に影響を与える。後者は家庭環境と自然的・文化的環境とに分かれ、そこでの成長・適応の過程で個人のパーソナリティに影響を与える。
品位とは、判り易く言えば気品や品格、人品などともいわれるが、個人ないし特定の団体が、礼儀 (人間関係や社会生活の秩序を維持するために人が守るべき行動様式。特に、敬意を表す作法。)や節度(行き過ぎのない適当な程度。ほどあい)や人徳(その人の身についている徳)、気高さに富む様をいい、そうした、品位の保持は人々より尊敬、或いは信用を受けるとされる。
この品位は特定の作法やマナーなど、立ち居振る舞いを厳格に定める価値基準も存在するが、基本的にはきわめて観念的な国際的価値観であり、国際的な権威であるマナー・プロトコル(国際儀礼)など一位の行動基準を共有する外交や通商の場の他は、それぞれの国や習俗により差異もあり、その価値観も一定ではない。
いずれにせよ、身だしなみや言葉遣いはもとよりルール(【rule】規則)やマナー(作法を含む)、立ち居振る舞い、他者や周囲への気遣い・気配りなど日常的な自律的行動が品位の醸成につながるとされることは確かである。
こうしたことから、幼児期から躾(しつけ)や行儀作法 (立ち居振る舞いのしかた)やテーブルマナー(食事の際のマナー)などの教育に力を入れる学校や家庭も多く存在する。
このような品位は家庭教育や学校教育の他、社会的な鍛錬などにより洗練されることも多いが、最終的には個人の心がけによるものである。また、身だしなみやマナーや行儀作法の修得といった外面的な修練も品位には欠かせないが、基本にあるのはむしろ内面にあるといえる。
例えば、落ち着いた態度や節度、言葉遣い、他者や周囲への気配り、遠慮、謙虚さなどが重要な要素である。 外面的に品位の保持に努めたとしても、それに相応しい行動や気配りが伴わなければ評価を受けず、人徳が豊かであっても自己流で他者から評価されなければ品位あるともみられない場合もある。
社会的には、就職活動に際しての、身だしなみや言葉遣い、態度が評価される他、営業や交渉、催しの開催に際しての対応、公的な場での言動などにおいて品位が問われる場も少なくなく、公務員や公的な資格に基づく職業については法律にて品位の保持が規定されているものもある(法律で品位の維持を義務付けられている地位・職業参照)。
このような、品位の保持とは自ずから心がけとして行うものであり、他者に見せ付けたり、強要することは本来の様ではない。さり気なく自然に備わる様であるといえる。
さて、本題のマナーについて書く前に、今月初めの毎日新聞の夕刊社会面の「憂楽帳」という記者が書く短めのコラムに面白いことが書かれていたのを思い出す。詳細は忘れたので、以下参考の※10:「憂楽帳 アーカイブ:毎日jp」の2013年10月05日付記事から以下に抜粋する。
「アルゼンチン・ブエノスアイレスで2020年夏のオリンピック開催地を決めるIOC(国際オリンピック委員会)の総会が行われ、東京がプレゼンテーションを行いました。そのなかで滝川クリステルさんが「おもてなし」の心をアピールし、IOC委員に東京招致を訴えました。
ワシントンでタクシーに乗った時、目的地の30メートルほど前で「降りろ」と言われた。戸惑いながら従うと、 運転手は新しい客を乗せて走り去った。米国人の助手に尋ねたら「次の客を見つけたら手前でも降ろす。時々あります」。
政治のあおりとはいえ、今月から観光施設まで閉鎖された(※11参照)のも「サービスは二の次」という体質の表れだろう。
だが、米国には別の顔もある。ワシントンに赴任して間もなく、現地校に通う娘が8歳の誕生日を迎えた。
パーティーに10人以上の同級生を招待したが、「急に転校してきた外国人のためにどれだけ集まってくれるだろうか」と 直前まで気をもんだ。ところが、ほぼ全員が大きなプレゼントを抱えて次々と駆けつけ、盛大に祝ってくれた。
東京五輪の招致演説では「日本のタクシー運転手は世界で最も感じが良い」と「おもてなし」の精神がアピールされた。
確かに日本人のきめ細かな配慮は世界に誇れる。しかし、ヘイトスピーチが公然と繰り広げられる国に外国人を 分け隔てなく迎え入れる文化は根付いているだろうか。」・・・と。
2020 TOKYO Olympic Games滝川クリステル『おもてなし』字幕付フルスピーチ
以下参考※12:MSN産経ニュース-【主張】では「ヘイトスピーチについては今年5月の国会審議で、安倍晋三首相は「結果として自分たちを辱めている」と指摘し、「日本人は和(和の文化を参照)を重んじ、反日デモでは、多くの日の丸が焼かれた。侮蔑的な言動もあったが、その多くは放置された。日本と日本人は国内で、あらゆる国や民族へのそうした行為を許さない。そういう存在でありたい。」・・と述べられているがその通りである。
しかし、最近、ネット上では誹謗・中傷が氾濫し社会問題化している中、金沢市の「餃子の王将金沢片町店」で客の男が裸になってすらりと並び、その画像がインターネット上に 公開された事件でこのうちの客の2人(風俗店経営者・店長)が威力業務妨害と公然わいせつ容疑で逮捕されたり(※13参)、札幌市の衣料品店「ファッションセンターしまむら」で購入した商品が不良品だと訴え、店員に土下座させ、その様子を写真に撮ってTwitterに投稿した女性が強要罪の疑いで逮捕されるといった事件が相次いでいる。
また、危険な携帯電話などを見ながらの自動車や自転車の運転をしたり、公共の場(特に病院内や混雑した電車内など)で携帯電話などの使用を控えるように注意されていても、ほとんどの人は守っていない。若い人だけでなく中年以上のいい大人まででが・・・。
今のIT社会(IT【Internet Technology】。今ではICT【Information and Communication Technology】ともいう。日本語では一般に「情報通信技術」と訳される)、でのマナーや常識がなかなか守られていないなど、近年はIT社会だけでなく、一般の社会でも日本人のマナーはかなり、乱れてきているようには思われる。
マナー (英語【manners】)と は、一般的に礼儀、行儀・作法を指すが、このマナーは、日常生活をしていく中で自然と身につけていく作法であり、○人に会ったら挨拶をする、○目上の方には敬語を使う、○何かしていただいたら「ありがとう」と言う、等々、誰か人と会うとき、誰かと会話をするとき、誰かとものを食べるとき、自分がやりやすいように、そしてほかの人が不快にならないように気をつけることなどありとあらゆる場面にある。
マナーの様式は、多くの場合、堅苦しく感じられるが、その形はその社会のなかで人間が気持ちよく生活していくための文化や知恵であり、こうした方が美しいであるとか、素晴らしいであるとか、気持ちが伝わるであるとか、そのような行儀や作法である。
このようなマナーは国や民族、文化、時代、宗教のさまざまな習慣によって、形式が異なる。また、くわえタバコやものを食べながらでの歩行、など、個人間でも価値観や捉え方による差異もあるし、ある国では美徳とされている事が、他の国では不快に思われることもある。
例えば、日本では食事の際に飯椀を持ち上げて食べることが一般的であるが、諸外国では逆に皿を食卓に置いたまま箸や匙、フォークを用いるのが一般的であり、食器を持って食べることはマナー違反とされる等々・・・。
マナー自体が絶対的な定義によって決められる物ではないため、絶対に正しいマナーが存在しないことも珍しくない。
そのため、人によってマナーと思われる作法、礼儀、行儀が異なるケースがあり、複数のマナーが衝突することもある。
最近は、注意をすれば逆切れする人(特に若者)が多くなったようで,
うっかり、注意も出来ない。それに、戦後教育(教育改革参照)のせいか、法に触れなければ何しても構わない(自由だ)と言う思想がはびこっているように思われる。
そのようなことから、個々人が自分の世界にあり、持っている文化がまちまちになるということは、個々人の文化がバラバラの状況になってくるわけで、そうなると、異文化の衝突が非常なストレス社会(※15参照)を生む一因にもなり、世の中の人の心が荒んでくるのではないかと思われる。
●上掲の画像は、2013年10月8日付朝日新聞朝刊に掲載されていた画象である。インドネシア・バリ島を訪問している安倍晋三首相の昭恵夫人が、7日、アジア太平洋経済協力会議(APEC)参加国首脳らとの記念撮影の際、韓国の朴槿恵大統領(右端)と笑顔で言葉を交わし、握手している場面である。一方、既に別の会議で朴氏と握手した首相(後列左端)は昭恵夫人の様子を見守っている。
この写真を見た翌日の朝日新聞朝刊(10月8日付)の天声人語には、良いことが書かれていた。それを以下に抜粋する。
「いい笑顔は、相手の心に素直に飛び込むらしい。昨日の本紙面に載った安倍昭恵さんの写真は良かった。あの表情で向き合われたら韓国の朴槿恵大統領も白い歯で応じざるをえない。『往く言葉が美しければ、来る言葉も美しい』。かの国の言葉をふと思い出した。
一部地域は紙面の都合で載らなかったが、首相夫人と大統領は笑顔で握手を交わした。朴氏も作り笑いには見えない。冷え切り、すさびきった日韓の関係(Category:日韓関係参照)にかすかな明かりを見た人もいたのではないか。
先月昭恵さんが、日韓交流の行事に参加したとネットに投稿したら、批判が相次いだ。昭恵さんは「色々なご意見がおありだと思いますが、お隣の国ですので、仲よくしてゆきたい」と書き足した。ファーストレディーとしてなんら間違ってはいまい。
歴史や領土でにらみ合う現実は、むろん甘くはない。反日に嫌韓が応酬して「売り言葉に買い言葉」の観をなす。しかし、そうでない人も多い。
ノーベル文学賞候補にあがる韓国の詩人高銀氏が3・11直後に韓国紙に寄せた「日本への礼儀」と題する詩は忘れがたい。一部を紹介すると、
<あんなにもだいじにしていたあなた方の家/みな流れていた。・・・>
<しかしながら、日本は今更にうつくしい/決してこの不幸の極限に沈没せず/犯罪も/買占めも/混乱もなく/相手のことを自分のことと/自分のことを相手のことと思い・・・>(青柳優子訳)。
海峡を越えてこうした言葉が行き来しないか。}・・・・と。
[東日本大地震 ] 日本への礼儀 (韓国詩人 ) -
現在日韓関係は不幸にして領土問題等のために冷え込んでいるが、いかなる国同士であろうが、一国の首脳が、国際舞台で顔を合わせば、笑顔で挨拶ぐらいは、社会人としてのマナーというよりも人としての常識(人格)によるものだろう。国際間のいがみ合いは、いくら時間がかかっても両国間での話し合いで解決するか、それがだめなら国際司法裁判所で解決するしかないだろう。それを、話し合いの機会をも拒否していると、戦争でもしなければならなくなる。
いがみ合っている国の首脳が笑顔で挨拶している姿を報道できない国なんて、文化程度の低い未成熟の国であることを表明しているようなものだろう。
3・11東日本大震災、では高銀氏の詩で歌われるように、悲惨な状況の中で、涙なしには語れない美しい秘話も多く聞いているし多くの人が同情と感動を得たことだろう。それを一番わかってくれた台湾などは国を挙げて支援をしてくれた。本当の意味での友好国と言えるだろう。この様な災害に対する支援の方法を見てもその国の品格が窺える(東日本大震災に対するアジア諸国の対応参照)。
ただ、3・11東日本大震災での高銀氏の歌「日本への礼儀」では、「日本は今更にうつくしい」として、色々褒めそやしてくれてはいるが、実際には、このような美しい話ばかりで悪い話はなかったのだろうか。
わが地元で起こった1995年(平成7年)1月17日(火)の阪神・淡路大震災では、耳にしたくないことも多くあった。
多くの家屋が倒半壊し、その修復にどの家庭も苦労をしている中、これ幸いと非常に多くの業者が、全国各地から神戸に押し寄せてきた。そして、契約をしてお金だけを騙し取り、工事をしないまま帰ってしまったり、工事はしても不当な工事費を請求する。質の悪いいい加減な工事をする等々、よくもまあ、途方に暮れている人間を相手にこれだけあくどいことができるものと感心するほどのひどい話を多く聞いた。それも、いま日本で大流行りのおれおれ詐欺(振り込め詐欺)同様に、お気の毒な年寄を食い物のにしてのものが多い。
こんなことは、建設業界だけでない。電気は意外に早く復旧したがガスが使えないので、ガスボンベなどを買いたいと思っても、それを1本1000円もの高値で販売するといった具合である。私などそれを目にしている。中には、がれきの山で公共交通機関どころか自動車さえ市内に入れない中で、善意のボランティアの人たちが、遠くからバイクなど使って応援に駆け付けてくれ、被災者の家の中に入っている一瞬のうちに、そのバイクが盗まれる。三宮などの市街地では宝飾店等多くの店がどさくさの中でシャッターを破られ盗難に遭う。
また、家屋が倒壊した避難民が宿泊している避難所の中でも現金など貴重品が盗難に遭っているなど、情けないことがあちこちで起こっていた。そして、家屋等倒壊の被害は免れ、避難所に避難することはなかったものの、食べるものがなく、避難所には全国各地からの支援物資が来ているので、それを分けてもらおうと非難所に行くと、家屋が倒壊もせず、非難する必要もないのに食べ物だけを貰いに来たと避難所の人から白い目で見られるなど、数え上げたらきりがないほど嫌なことは多く聞いている。
マスコミではそんな車も入れない街中に入ってまで現実の状況を取材はしていないので、そのような不幸な出来事はごく一部しか報道されず、善意のボランティアの活躍ばかりが報じられていたように思われる(※16参照)。
東北地方の場合には地震での家屋の倒・半壊ではなく津波ですべてを流されてしまったため、神戸のように中途半端な半壊の家屋などが少なかったことから、あくどい建設業者による詐欺や、また盗難なども少なかったのかもしれない。また、素朴な東北の農・漁村地と、世知辛い大都市神戸との地域差によるものなのかは知らないが・・・。
理想主義者の詩人などには、日本が悪いことなど何もない理想郷ように見えたのだろう。
いずれにしても、今の日本が、詩で詠われるような「美しい国」と褒めそやされるといささか恐縮の至りである。もし日本以外の国の人々が、日本がそれほど美しい国に見えるのなら、その国の内情はもっともっとひどい状況なのだろう。そうであれば、やはり、まだまだ、他国から見るとよい国なのだろう。日本に住んでいることを幸せに思う。
マナーの日2−2へ
マナーの日:参考へ
ビジネスマナー、一般マナーなど、あらゆる場面において必要不可欠な「マナー」について見直し、生活に役立ててもらうことを目的にNPO法人・日本サービスマナー協会が制定(※1参照)したもの。日付は協会が設立された2008年10月30日からだそうだ。
同協会のHPでは、同協会について以下のように紹介している。
“企業が成り立つ重要な要素として、「ヒト」「モノ」「カネ」「情報」があると言われる中で、この不況を乗り切るために一番重要とされているのが人材教育だと言われている。 特に最近は「人は財産」という考え方から「人財」とする企業も多くなってきた。
現代の社会では今まで以上に顧客に対する現場の対応力が問われるようになり、相手先の企業やお客様とどのように接することが出来るかということが顧客満足度(CS)を高める重要な要素となってきている。
当協会はエアライン・ホテル・旅行・ブライダルなどの接客サービスが求められる業界の接客サービス研修から、一般企業の社員研修、大学生のための就職活動に向けたビジネスマナー教育などを通じて、相手先の企業担当者やお客様に喜んでいただけるサービスがきちんと提供できるような技能を多くの人たちに身につけていただくための研修教育を提供できる事を大きな目的としている。”・・・・と。
「お客様は神様です」は三波春夫の有名なフレーズである(※2参照)が、確かに、サービス業(サービスを取り扱う産業)のビジネスマンにとって、相手先の企業担当者やお客様に満足度を高めなければ、成果は得られないし、そのために必要なビジネスマナーは当然身に着けておく必要があるだろう。
企業における経営管理(経営管理論参照)とは、企業活動を円滑に行うとともに、企業の目的を達成するために、「ヒト・モノ・カネ・情報」の4つの経営資源を調達し、効率的に配分し、適切に組み合わせる、といった諸活動のことである。
中でも特に、主体的に行動する「ヒト」(人的資源)が重要であり、これに上手く働きかけて、組織化し協働させたり、活性化させ(もしくは能力を発揮させ)たりするようなシステムを如何に構築するかということが主要な課題となっている。
企業は人間を扱い、その人間を使う企業人も人間である。つまり、人間が人間を使う組織であるが、これが、企業経営の本質的問題でもあるともいえる。
そのようなことから、近頃では「人材」に「人財」という言葉が充てられることが多くなった。
「人材」の「材」は「材料の「材」であり、「人財」の「財」は「財産」の「財(たから)」である。
「人材」に「人財」という言葉が充てられるようなったのは、企業が、「あなたは企業にとって『材料』ではなく貴重な『財産』ですよ。」というメッセージを、「人財」という一言に載せて発信することで、従業員を大切にする姿勢を伝えようとしているわけである。
つまり、人が企業の中の単なる歯車の一つではなく、感情を持つ一人の人間として、「会社のために頑張りたい!」との意欲を高めるために・・・、
モチベーション(動機づけ)のために使っていると言っていいだろう。
ただ、企業が何の施策もなく、「人財」という流行の言葉を意味もなく使っているだけでは従業員は誰も会社を信用しなくなるだろう。「人財」という言葉を使用するためには、何故「人材」を「人財」と使い分けているかの理由や、「人財」として人を大切にする制度が、会社の中にしっかりと存在していなくてはいけない。
「人材」の「材」という字は「木」+音符「才」の会意形声文字(字源参照)であり、決して悪い意味だけではなく、「材料」という意味とともに「才能。また、才能のある人」という意味もある。要するに人材は単なる「労働力」や「人的資源」ではなく、今の企業経営にとって大きな役割を担い、多様な資源を提供してくれる企業経営におけるパートナーだということを実感させなければ、「人財」などという言葉を使ってもそれは単なる言葉遊びにしか過ぎないといえるだろう(※3参照)。
私が現役時代関係していたある大手流通業社では、就業規則その他諸規定(※4参照)がよく整備されており、中でも、就業規則の中での賞罰に関する規定(報奨・懲戒処分※5参照)では、守らなければならないことを「こんなこと社会人としての常識じゃ〜ないか」と思われることまで、非常に細かく定めていた。
恐らく他社の人達が見れば驚くほど詳しく書かれており、その是非については賛否両論があるだろうが、急成長をし、若い社員や、パート・アルバイトを多数採用していた同社では企業の組織力を発揮するためのツールとして非常に重視をしていた。
それは、「会社の最低限守らなければならない規則を守りさえすれば、あとは何をしようとも自由ですよ」ということの表明でもあり、その趣旨や理由、企業人として会社で働く上で必要な最低限守らなければならないルールやマナー・・・、この基本的なことだけは入社後の教育時に徹底的に教え込まれる。
一方、会社は人を大切にし、特に、個々人の個性は非常に尊重にする。そして、10年20年先を見通した将来の会社に必要な人材の養成にも非常に力をそそぎ、教育投資を惜しまない。学歴や男女間の格差などは一切せず、完全な実力・能力主義を基本とし、こと評価に関しては、同じ仕事をしている以上年齢による差別もしない。
そして、頭は良くても口先だけで行動しない人ではなく、失敗を恐れず積極的に行動する人が評価された。結果的に、たとえ、失敗しても再挑戦のチャンスが与えられた。
そんな会社の人事制度をよく知る人からは「教育の○○」と高く評価されていたが、そのことが、結果的に非常に優秀な人材を多く育て、今では、その人たちが中心となって会社を支えており、業界では日本のナンバーワン企業といわれるまでに急成長を遂げている。
「世の中には、法律とか、法則とかいうものがあって、これは外圧的に人間というものを一束(ひとたば)にしようとする。貴方がたも一束にされて教育を受けている。十把一(じっぱひと)からげにして教育されている。そうしないと始末に終(お)えないから、やむをえず外圧的に皆さんを圧迫しているのである。これも一種の約束で、そうしないと教育上に困難であるからである。その約束、法則というものは政治上にも教育上にもソシャル・マナーの上にもある。
飯を食べるのにサラサラグチャグチャは不可(いけ)ないという。そういうのはこれは法則でしょう。それから道徳の法則、これは当り前の話で、金を借りればどうしても返さねばならぬようになっている。それから芸術上の法則というのがある。これがまた在来の日本画だとか、御能(おのう)だとか、芝居の踊りだとかいうものには、非常に究屈(きゅうくつ)な面倒な固(かた)まった法則があって、動かすことが出来ないようになっております。・・・」(夏目漱石 『模倣と独立』 より、引用。※6の「青空文庫」参照)
『模倣と独立』は、第一高等学校校友会雑誌所載の筆記によるものである。
漱石は、1913(大正2)年、第一高等学校における講演で、道徳、芸術、社会などにおいて人は常に「模倣」(英語:イミテーション【imitation】)をする。一方で人間は「独立」(英語:インデペンデント【independent】)していてスペシアル(【special】。特別、特殊)なものである。人はこの両面を持つが、日本に必要なのは他国の模倣ではなくインデペンデントだと説いている。
この中で、「人格から出た品位を保っている本統(ほんとう)の紳士もありましょうが人格というものを度外(どがい)に置いて、ただマナーだけを以て紳士だとして立派に通用している人の方が多いでしょう。まあ八割位はそうだろうと思います。気高(けだか)いというものがない。」・・とも言っている。
ここには、ドイツの哲学者カントの思想が入っているように思われる。
カントは行為の結果よりもそれをなす動機となる《善意志》こそ重要だと考えており、この《善意志》にもとづき、道徳法則(※7参照)の命じる道徳的行為を、実践理性(実践理性批判も参照)で捉え自律的に行う主体である人間を、「人格」と呼んでいる。
カントは道徳律(Sittengesetz)を「仮言命法」としてではなく、「定言命法」(kategorischer Imperativ)として受取ることである。 仮言命法とは、「もし…なら…べきだ」というものである。道徳律においても、このようなものは多く見られる。たとえば,「もし人から信用されたいのならば、嘘をついてはいけない」とか、「早起きは三文の得」などがそれにあたる。それに対して、条件なしに「…すべきだ」とだけ命ずることを定言命法(無上命法)という。(詳しくは、※7、※8参照)
個人の心理面での特性。人柄。または人間の人としての主体である人格形成には、事故や病気等による外的要因を除いて、幼少期における経験や体験が大きく影響を与えているとされている。
人格は、英語でパーソナリティ【personality】とも表現されるが、その場合、日本語の「人格者」のような肯定的な価値は含まれないが、パーソナリティの形成に影響を及ぼすのは主に遺伝要因と環境要因(※9参照)であり、両者は密接に結びついている。
前者は気質と深く関連する生理的・身体的特性に影響を与える。後者は家庭環境と自然的・文化的環境とに分かれ、そこでの成長・適応の過程で個人のパーソナリティに影響を与える。
品位とは、判り易く言えば気品や品格、人品などともいわれるが、個人ないし特定の団体が、礼儀 (人間関係や社会生活の秩序を維持するために人が守るべき行動様式。特に、敬意を表す作法。)や節度(行き過ぎのない適当な程度。ほどあい)や人徳(その人の身についている徳)、気高さに富む様をいい、そうした、品位の保持は人々より尊敬、或いは信用を受けるとされる。
この品位は特定の作法やマナーなど、立ち居振る舞いを厳格に定める価値基準も存在するが、基本的にはきわめて観念的な国際的価値観であり、国際的な権威であるマナー・プロトコル(国際儀礼)など一位の行動基準を共有する外交や通商の場の他は、それぞれの国や習俗により差異もあり、その価値観も一定ではない。
いずれにせよ、身だしなみや言葉遣いはもとよりルール(【rule】規則)やマナー(作法を含む)、立ち居振る舞い、他者や周囲への気遣い・気配りなど日常的な自律的行動が品位の醸成につながるとされることは確かである。
こうしたことから、幼児期から躾(しつけ)や行儀作法 (立ち居振る舞いのしかた)やテーブルマナー(食事の際のマナー)などの教育に力を入れる学校や家庭も多く存在する。
このような品位は家庭教育や学校教育の他、社会的な鍛錬などにより洗練されることも多いが、最終的には個人の心がけによるものである。また、身だしなみやマナーや行儀作法の修得といった外面的な修練も品位には欠かせないが、基本にあるのはむしろ内面にあるといえる。
例えば、落ち着いた態度や節度、言葉遣い、他者や周囲への気配り、遠慮、謙虚さなどが重要な要素である。 外面的に品位の保持に努めたとしても、それに相応しい行動や気配りが伴わなければ評価を受けず、人徳が豊かであっても自己流で他者から評価されなければ品位あるともみられない場合もある。
社会的には、就職活動に際しての、身だしなみや言葉遣い、態度が評価される他、営業や交渉、催しの開催に際しての対応、公的な場での言動などにおいて品位が問われる場も少なくなく、公務員や公的な資格に基づく職業については法律にて品位の保持が規定されているものもある(法律で品位の維持を義務付けられている地位・職業参照)。
このような、品位の保持とは自ずから心がけとして行うものであり、他者に見せ付けたり、強要することは本来の様ではない。さり気なく自然に備わる様であるといえる。
さて、本題のマナーについて書く前に、今月初めの毎日新聞の夕刊社会面の「憂楽帳」という記者が書く短めのコラムに面白いことが書かれていたのを思い出す。詳細は忘れたので、以下参考の※10:「憂楽帳 アーカイブ:毎日jp」の2013年10月05日付記事から以下に抜粋する。
「アルゼンチン・ブエノスアイレスで2020年夏のオリンピック開催地を決めるIOC(国際オリンピック委員会)の総会が行われ、東京がプレゼンテーションを行いました。そのなかで滝川クリステルさんが「おもてなし」の心をアピールし、IOC委員に東京招致を訴えました。
ワシントンでタクシーに乗った時、目的地の30メートルほど前で「降りろ」と言われた。戸惑いながら従うと、 運転手は新しい客を乗せて走り去った。米国人の助手に尋ねたら「次の客を見つけたら手前でも降ろす。時々あります」。
政治のあおりとはいえ、今月から観光施設まで閉鎖された(※11参照)のも「サービスは二の次」という体質の表れだろう。
だが、米国には別の顔もある。ワシントンに赴任して間もなく、現地校に通う娘が8歳の誕生日を迎えた。
パーティーに10人以上の同級生を招待したが、「急に転校してきた外国人のためにどれだけ集まってくれるだろうか」と 直前まで気をもんだ。ところが、ほぼ全員が大きなプレゼントを抱えて次々と駆けつけ、盛大に祝ってくれた。
東京五輪の招致演説では「日本のタクシー運転手は世界で最も感じが良い」と「おもてなし」の精神がアピールされた。
確かに日本人のきめ細かな配慮は世界に誇れる。しかし、ヘイトスピーチが公然と繰り広げられる国に外国人を 分け隔てなく迎え入れる文化は根付いているだろうか。」・・・と。
2020 TOKYO Olympic Games滝川クリステル『おもてなし』字幕付フルスピーチ
以下参考※12:MSN産経ニュース-【主張】では「ヘイトスピーチについては今年5月の国会審議で、安倍晋三首相は「結果として自分たちを辱めている」と指摘し、「日本人は和(和の文化を参照)を重んじ、反日デモでは、多くの日の丸が焼かれた。侮蔑的な言動もあったが、その多くは放置された。日本と日本人は国内で、あらゆる国や民族へのそうした行為を許さない。そういう存在でありたい。」・・と述べられているがその通りである。
しかし、最近、ネット上では誹謗・中傷が氾濫し社会問題化している中、金沢市の「餃子の王将金沢片町店」で客の男が裸になってすらりと並び、その画像がインターネット上に 公開された事件でこのうちの客の2人(風俗店経営者・店長)が威力業務妨害と公然わいせつ容疑で逮捕されたり(※13参)、札幌市の衣料品店「ファッションセンターしまむら」で購入した商品が不良品だと訴え、店員に土下座させ、その様子を写真に撮ってTwitterに投稿した女性が強要罪の疑いで逮捕されるといった事件が相次いでいる。
また、危険な携帯電話などを見ながらの自動車や自転車の運転をしたり、公共の場(特に病院内や混雑した電車内など)で携帯電話などの使用を控えるように注意されていても、ほとんどの人は守っていない。若い人だけでなく中年以上のいい大人まででが・・・。
今のIT社会(IT【Internet Technology】。今ではICT【Information and Communication Technology】ともいう。日本語では一般に「情報通信技術」と訳される)、でのマナーや常識がなかなか守られていないなど、近年はIT社会だけでなく、一般の社会でも日本人のマナーはかなり、乱れてきているようには思われる。
マナー (英語【manners】)と は、一般的に礼儀、行儀・作法を指すが、このマナーは、日常生活をしていく中で自然と身につけていく作法であり、○人に会ったら挨拶をする、○目上の方には敬語を使う、○何かしていただいたら「ありがとう」と言う、等々、誰か人と会うとき、誰かと会話をするとき、誰かとものを食べるとき、自分がやりやすいように、そしてほかの人が不快にならないように気をつけることなどありとあらゆる場面にある。
マナーの様式は、多くの場合、堅苦しく感じられるが、その形はその社会のなかで人間が気持ちよく生活していくための文化や知恵であり、こうした方が美しいであるとか、素晴らしいであるとか、気持ちが伝わるであるとか、そのような行儀や作法である。
このようなマナーは国や民族、文化、時代、宗教のさまざまな習慣によって、形式が異なる。また、くわえタバコやものを食べながらでの歩行、など、個人間でも価値観や捉え方による差異もあるし、ある国では美徳とされている事が、他の国では不快に思われることもある。
例えば、日本では食事の際に飯椀を持ち上げて食べることが一般的であるが、諸外国では逆に皿を食卓に置いたまま箸や匙、フォークを用いるのが一般的であり、食器を持って食べることはマナー違反とされる等々・・・。
マナー自体が絶対的な定義によって決められる物ではないため、絶対に正しいマナーが存在しないことも珍しくない。
そのため、人によってマナーと思われる作法、礼儀、行儀が異なるケースがあり、複数のマナーが衝突することもある。
最近は、注意をすれば逆切れする人(特に若者)が多くなったようで,
うっかり、注意も出来ない。それに、戦後教育(教育改革参照)のせいか、法に触れなければ何しても構わない(自由だ)と言う思想がはびこっているように思われる。
そのようなことから、個々人が自分の世界にあり、持っている文化がまちまちになるということは、個々人の文化がバラバラの状況になってくるわけで、そうなると、異文化の衝突が非常なストレス社会(※15参照)を生む一因にもなり、世の中の人の心が荒んでくるのではないかと思われる。
●上掲の画像は、2013年10月8日付朝日新聞朝刊に掲載されていた画象である。インドネシア・バリ島を訪問している安倍晋三首相の昭恵夫人が、7日、アジア太平洋経済協力会議(APEC)参加国首脳らとの記念撮影の際、韓国の朴槿恵大統領(右端)と笑顔で言葉を交わし、握手している場面である。一方、既に別の会議で朴氏と握手した首相(後列左端)は昭恵夫人の様子を見守っている。
この写真を見た翌日の朝日新聞朝刊(10月8日付)の天声人語には、良いことが書かれていた。それを以下に抜粋する。
「いい笑顔は、相手の心に素直に飛び込むらしい。昨日の本紙面に載った安倍昭恵さんの写真は良かった。あの表情で向き合われたら韓国の朴槿恵大統領も白い歯で応じざるをえない。『往く言葉が美しければ、来る言葉も美しい』。かの国の言葉をふと思い出した。
一部地域は紙面の都合で載らなかったが、首相夫人と大統領は笑顔で握手を交わした。朴氏も作り笑いには見えない。冷え切り、すさびきった日韓の関係(Category:日韓関係参照)にかすかな明かりを見た人もいたのではないか。
先月昭恵さんが、日韓交流の行事に参加したとネットに投稿したら、批判が相次いだ。昭恵さんは「色々なご意見がおありだと思いますが、お隣の国ですので、仲よくしてゆきたい」と書き足した。ファーストレディーとしてなんら間違ってはいまい。
歴史や領土でにらみ合う現実は、むろん甘くはない。反日に嫌韓が応酬して「売り言葉に買い言葉」の観をなす。しかし、そうでない人も多い。
ノーベル文学賞候補にあがる韓国の詩人高銀氏が3・11直後に韓国紙に寄せた「日本への礼儀」と題する詩は忘れがたい。一部を紹介すると、
<あんなにもだいじにしていたあなた方の家/みな流れていた。・・・>
<しかしながら、日本は今更にうつくしい/決してこの不幸の極限に沈没せず/犯罪も/買占めも/混乱もなく/相手のことを自分のことと/自分のことを相手のことと思い・・・>(青柳優子訳)。
海峡を越えてこうした言葉が行き来しないか。}・・・・と。
[東日本大地震 ] 日本への礼儀 (韓国詩人 ) -
現在日韓関係は不幸にして領土問題等のために冷え込んでいるが、いかなる国同士であろうが、一国の首脳が、国際舞台で顔を合わせば、笑顔で挨拶ぐらいは、社会人としてのマナーというよりも人としての常識(人格)によるものだろう。国際間のいがみ合いは、いくら時間がかかっても両国間での話し合いで解決するか、それがだめなら国際司法裁判所で解決するしかないだろう。それを、話し合いの機会をも拒否していると、戦争でもしなければならなくなる。
いがみ合っている国の首脳が笑顔で挨拶している姿を報道できない国なんて、文化程度の低い未成熟の国であることを表明しているようなものだろう。
3・11東日本大震災、では高銀氏の詩で歌われるように、悲惨な状況の中で、涙なしには語れない美しい秘話も多く聞いているし多くの人が同情と感動を得たことだろう。それを一番わかってくれた台湾などは国を挙げて支援をしてくれた。本当の意味での友好国と言えるだろう。この様な災害に対する支援の方法を見てもその国の品格が窺える(東日本大震災に対するアジア諸国の対応参照)。
ただ、3・11東日本大震災での高銀氏の歌「日本への礼儀」では、「日本は今更にうつくしい」として、色々褒めそやしてくれてはいるが、実際には、このような美しい話ばかりで悪い話はなかったのだろうか。
わが地元で起こった1995年(平成7年)1月17日(火)の阪神・淡路大震災では、耳にしたくないことも多くあった。
多くの家屋が倒半壊し、その修復にどの家庭も苦労をしている中、これ幸いと非常に多くの業者が、全国各地から神戸に押し寄せてきた。そして、契約をしてお金だけを騙し取り、工事をしないまま帰ってしまったり、工事はしても不当な工事費を請求する。質の悪いいい加減な工事をする等々、よくもまあ、途方に暮れている人間を相手にこれだけあくどいことができるものと感心するほどのひどい話を多く聞いた。それも、いま日本で大流行りのおれおれ詐欺(振り込め詐欺)同様に、お気の毒な年寄を食い物のにしてのものが多い。
こんなことは、建設業界だけでない。電気は意外に早く復旧したがガスが使えないので、ガスボンベなどを買いたいと思っても、それを1本1000円もの高値で販売するといった具合である。私などそれを目にしている。中には、がれきの山で公共交通機関どころか自動車さえ市内に入れない中で、善意のボランティアの人たちが、遠くからバイクなど使って応援に駆け付けてくれ、被災者の家の中に入っている一瞬のうちに、そのバイクが盗まれる。三宮などの市街地では宝飾店等多くの店がどさくさの中でシャッターを破られ盗難に遭う。
また、家屋が倒壊した避難民が宿泊している避難所の中でも現金など貴重品が盗難に遭っているなど、情けないことがあちこちで起こっていた。そして、家屋等倒壊の被害は免れ、避難所に避難することはなかったものの、食べるものがなく、避難所には全国各地からの支援物資が来ているので、それを分けてもらおうと非難所に行くと、家屋が倒壊もせず、非難する必要もないのに食べ物だけを貰いに来たと避難所の人から白い目で見られるなど、数え上げたらきりがないほど嫌なことは多く聞いている。
マスコミではそんな車も入れない街中に入ってまで現実の状況を取材はしていないので、そのような不幸な出来事はごく一部しか報道されず、善意のボランティアの活躍ばかりが報じられていたように思われる(※16参照)。
東北地方の場合には地震での家屋の倒・半壊ではなく津波ですべてを流されてしまったため、神戸のように中途半端な半壊の家屋などが少なかったことから、あくどい建設業者による詐欺や、また盗難なども少なかったのかもしれない。また、素朴な東北の農・漁村地と、世知辛い大都市神戸との地域差によるものなのかは知らないが・・・。
理想主義者の詩人などには、日本が悪いことなど何もない理想郷ように見えたのだろう。
いずれにしても、今の日本が、詩で詠われるような「美しい国」と褒めそやされるといささか恐縮の至りである。もし日本以外の国の人々が、日本がそれほど美しい国に見えるのなら、その国の内情はもっともっとひどい状況なのだろう。そうであれば、やはり、まだまだ、他国から見るとよい国なのだろう。日本に住んでいることを幸せに思う。
マナーの日2−2へ
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