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宮崎県木城町に武者小路実篤が推進する「新しき村」が開村した日

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「新しき村」とは、白樺派の文学者武者小路実篤(むしゃのこうじさねあつ)が提唱した生活共同体(村=理想主義的な集団)である。

畑の中の道の両側に高々と幟(のぼり)が翻る。「自然から与えられた人間の食べ物、人間の喜び 私はそれを尊敬する」「皆で皆で 皆の為に働くことができるのだ 自分達は皆で」「「大きな城を築くことを知らないものは 小さい石材を 小さい石材のまますてておく」。
武者小路実篤の言葉を記した幟(のぼり)の立つ道をゆくと「新しき村」への入り口がある。門柱には、「この門に入るものは、自己と他人の生命を尊重しなければならない」と書かれている。その奥に「新しき村」が広がる。埼玉県入間郡毛呂山町の村(「東の村」)である。
●冒頭の画像、「新しき村」入口(『朝日クロニクル週刊20世紀』1918−1919年号より)。

白樺派の作者・武者小路実篤が「自他共生」(自他共に生きる)の理想郷を目指して、家族や同士と共に宮崎県児湯(こゆ)郡木城(きじょう)村(現、木城町)に、「新しき村」を創設したのは、今から95年前の1918(大正7)年の今日・11月14日のことであった。(※1:「宮崎県HP」所蔵資料>新しき村開墾助成願を参照)
その20年後の1938(昭和13)年にダム(小丸川発電所)の建設により農地が水没することになったため、その補償額を元に、翌・1939年(昭和14年)、現在の地・埼玉県入間郡毛呂山町に第二の村(「東の村」)を作り移転した。
但し、実篤は1924(大正13)年に離村し、村に居住せずに会費のみを納める村外会員となったため、実際に村民だったのはわずか6年である。
現在、新しき村の本部はこの移転後の埼玉県入間郡毛呂山町にあるが、宮崎県が創設の地であり、現在も存続し、そこに住む同士によって建設が進められている。
この「東の村」は、第二次世界大戦終了時には、1世帯のみとなっていたらしいが、入村者が増え、1948(昭和23)年には、埼玉県から財団法人の認可を受け、1958(昭和33)年にはついに自活できるようになったという。
新しき村は、創立時から、村内生活者の日々の仕事は農業が中心である。その理由は、新しき村公式サイト(※2参照)によれば、実篤の言葉「それは百姓の労働が一番もとだからだ。 衣食住をただにするには百姓の労働が一番近か道だ。それ以上の生活はそれからだ。」によっているという。
2011(平成23)年現在、村内には10所帯13名が住み、約10ヘクタール、借地約3ヘクタールの土地に、卵・椎茸・米・野菜・茶・竹炭などを生産・販売している。ほかに、筍・梅・ゆず・ぎんなんなどを収穫・販売しているという。土壌改良剤としての鶏糞も販売しているそうだ。
村内に、建物は、公会堂兼食堂(580?)、新しき村美術館(250?)、生活文化館(200?)、小集会場、アトリエ、茶室、住宅、作業場、畜舎等88棟に、理容室(村内中心)もあり、生活文化館(新しき村ギャラリー)は年中無休で無料公開しているそうだ。
そのほか、文化事業として、武者小路実篤記念新しき村美術館を公開し所蔵品の貸し出しを行なったり、機関誌『新しき村』を毎月発行しているようだ。
生活状況については、村内生活者ひとりの一年間の生活費は、平均すると、税金等を含めて120万円強だという。共同で働き、食事は食堂で、義務農業を果たしさえすれば、余暇を絵や音楽、焼き物など好きなことに費やすことができるそうだ。
人間が人間らしく、互いの個性と自我を尊重する集団生活。だが不安材料がないわけではない。かっては、村内生活者が50人を超え、村には幼稚園もあったというが、今では、村内の高齢化が進み、子供の姿はなく、年を取ったものがわずかに住んでいるだけ。農業収入の低迷もあり、村の運営には困難も増しているのが実情の様である。
この村はただ生活するためのものではなく、精神に基いた世界を築く目的で開村されており、入村は40歳まで、村に住むには、「村の精神に共感する」が絶対条件となっている(新しき村の精神は※2:新しき村公式サイト参照)
若い人は仮入村しても長続きできないらしい。しかし、住んでいる人は「実篤先生と一緒に暮らしているようなもの」と屈託がないようだ。
今は、村内生活者以外に、自分は村に入れないが、村の活動には協力したいとする村外会員(第二種会員とも呼ぶ)が約170名いるという。

なお、創設の地である宮崎県の新しき村は現在、財団法人「日向新しき村」として存続しており、現状は、5.5ヘクタールの土地に、建物は住宅三棟、食堂があり、村内生活者2世帯4名が生活し、水稲1ヘクタール、畑20アールの農業を営んでいるという。また、武者小路実篤が住んでいたとされる旧居は復元され、武者小路実篤記念館として資料、写真などが展示され見学ができるようになっているそうだ。
現在の日向新しき村の状況は、以下で窺える。
日向新しき村(2ページある)

武者小路実篤の名は小説を書くときのペンネームではなく、実名である。彼は、江戸時代から公卿の家系である武者小路家に、父子爵武者小路実世と母秋子(なるこ。勘解由小路家出身)の8番目の末子として生まれた。2歳の時に、父が死去している。
しかし、名家の出身らしく、学習院初等科、同中等学科、高等学科を経て、1906(明治39)年9月に東京帝国大学哲学科社会学専修に入学。
この間、1903(明治36)年3月、実篤は中等科6年、18歳の時に、3年前より恋していた姉とともに伯母を頼って上京していた「お貞さん」こと志茂テイ(当時12才)が帰郷し失恋している。この失恋は実篤のその後の人生観に大きな影響を与え、文学へ傾斜させる要因ともなったようだ。
又、この夏三浦半島の叔父・勘解由小路資承の家で読んだトルストイの『我宗教』(※3)『我懺悔』(※4)により、トルストイに強くひかれるようになり、聖書、仏典などをしきりに読むようになったという。
小説家の武者小路実篤からは想像できないが、小さい頃は作文が苦手だったという。その彼が、翌1907(明治40)年4月、学習院時代からの同級生だった志賀直哉や備中国賀陽郡足守村(現・岡山市北区)足守)の足守藩最後の藩主・木下利恭の弟・利永の二男で子爵の木下利玄、伯爵正親町実正の長男正親町公和らと志賀宅に各自の創作を持って参集し「十四日会」と命名する。この時彼22才であった。
そして、同年8月に、作家活動専念のために大学を中退し、翌1908(明治41)年4月23才の時には、創作感想集『荒野』を自費出版。また、「十四日会」で回覧雑誌「暴矢」を創刊、のちにこれは「望野」と改題している。
その2年後、1910(明治43)年4月、25歳の時、志賀直哉、有島武郎、有島武郎の弟有島 生馬らと共に『白樺』という文学雑誌を創刊。創刊号に「『それから』に就て」を発表している。彼らはこの雑誌に因んで『白樺派』と呼ばれるようになる。
それから』は、『「それから」に就て』が発表される前の年・1909(明治42)年に夏目漱石の書いた新聞連載小説であり、この小説は『三四郎』に次ぐ作品であり、次作『』(1910年)とで前期三部作をなすもの。漱石はこの小説で「色々な意味に於てそれからである」と紹介した。
「それから」というタイトルは、作者の漱石が先に発表した「三四郎」の主人公である三四郎のようなタイプの人間の”それから”を描くという意味でつけられたものであることが、漱石自身が書いた連載予告で明かになってる。
また、『それから』の代助は最後に、社会的・経済的立場や家族を捨てて、好きになった女性と一緒になることを決心するが、『門』の主人公の宗助は、妻と一緒になったために社会的に日陰の身になったものとして暮らしている。つまり、代助が好きな女性と結婚したあとの姿が、宗助と重なっている。
漱石は実篤ら白樺派の作家たちが最も尊敬する作家であった。
世の中の暗い面ばかりに目を向ける、重苦しい雰囲気の自然主義の文学に対して反発を感じていた彼らは、知的で倫理的な作風の漱石を文壇における先輩として尊敬していた。
しかし、ここで実篤は漱石の「それから」に託して、実は、彼なりの生き方(「思想」)と書き方(「技巧」・「顕はし方」)を主張しているのだという。
例えば、「思想」について語る三章の中で、「(略)自分は漱石氏は何時までも今のまゝに、社会に対して絶望的な考を持つてゐられるか、或は社会と人間の自然性の間にある調和を見出されるかを見たいと思ふ」・・・と、「自然」という言葉が、繰り返し取り上げられており、自然のままに行動すれば人間の心は喜ぶけれど、社会からはみ出してしまう。社会の決めごとにしたがって行動すれば世の中ではやっていけるけれど、心は空虚感を抱えるようになる。漱石はこの板挟みの中で破滅するまでをリアルに書いたが、これからは自然の方を重視して、調和の道を進んでいって欲しい、というのが実篤の主張であるという。
漱石から評価されたこともあって文壇に認められていったにも関わらず、自分たちの個性を信じて漱石の文学とは異なる方向に進んでいった彼らの道すじを、この文章は予告している。
このように、白樺派の出発点ともなる雑誌『白樺』の創刊号に書いた「『それから』に就て」は、白樺派が文壇に登場する高らかな宣言の役割をこの文章がになっている点、また、実篤たちと夏目漱石との接点と立場の違いの両面がここにはっきりと書かれており、実篤が書いた作品の中で「文学史上最も重要な作品」といえるかもしれない文だという(※5:「調布市武者小路実篤記念館」の武者小路実篤 > 作品鑑賞>館報『美愛眞』12号:評論「それからに就て」参照)。
このころ、白樺派の実篤らはその支柱でもあったトルストイに傾倒していたが、その、トルストイはこの年11月に82才で没している。
又、フランスの彫刻家で『近代彫刻の父』とも称されるオーギュスト・ロダンは、わが国にもいち早く紹介されており、激しい動きと秘められた深い思索を想起させるその躍動的な彫刻に、白樺派の青年たちが熱い称賛の念を抱いていた。
そして、この『白樺』創刊年である1910(明治43)年は、ロダンの70歳の誕生日であることから、11月に『白樺』に「ロダン特集号」を組み、『いずれ浮世絵を送る』という主旨の手紙を有島生馬がこの巨匠ロダンに誰の紹介もなしに書き送っていたらしい。このあと半年ばかり待っていたものの返事も来ないが、それでも、約束だからと、金を工面して浮世絵を20枚購入し、同人の愛蔵しているものを加えて30枚にして8月頃ロダンに送った。
その時の不安な心境を実篤は、『白樺』第三巻第二号(1912年3月26日)に以下のようにつづっているという。
「自分たちはロダンが見てどんなに思うだろう、喜んでくれるかしらん。つまらぬものを送ってきたと思いはしないか、などと思った。なお密(ひそ)かに素画を一枚ぐらいくれればいいと思っていた。しかしそれは難しいことと思っていた。・・・」・・・と。
しかし、これに対し、ロダンからの突然の手紙に、浮世絵の返礼に、まさかとおもっていた本物のロダンの彫刻が送られてくるとあり、大喜びしていると翌・1911(明治44)年12月、本物のブロンズ像小作品が3点も贈られてきた(「マダム・ロダン像」「巴里ゴロツキの首」「ある小さき影」)。
ロダンの彫刻は日本ではじめてのものであった。(※6:「白樺文学館」白樺便り11.最新入手作品ご紹介/ロダンと白樺派参照)。 
この年から岸田劉生(当時20歳の画学生)との交友も始まり、12月岸田が実篤のもとへ訪問した際、実篤の勧めで届いたばかりのロダンの本物の彫刻を見て岸田も感動したことが、岸田の画学生宛手紙であきらかとなっている(※5:調布市武者小路実篤記念館の資料室>所蔵資料から>館報『美愛眞』23号より、岸田劉生より木村荘八あての手紙 ─実篤と劉生の出会い─参照)。
1913(大正2)年、実篤28歳の時に竹尾房子と結婚。実篤はこの前年、『白樺創刊から2年目の1912(明治45 )年、27才の時に『世間知らず』を刊行している。
この『世間知らず』の中で語られる「C子」が実篤の初婚の相手、竹尾房子であるという。作者(実篤)は晩年の回想の中で本作に触れ、「この小説に価値があるとすれば、大半は房子の手紙の書き方が面白いからという事になるかも知れない」と語っているそうだ。
参考※7:「第12号−武者小路実篤『世間知らず』『友情』に見るジェンダー観」では、実篤が初めて房子に出会ったときの印象、そして好きになっていく過程などが書かれているが、大正デモクラシーという時代背景を考えたとしても、C子の行動から、有名な作者に手紙を送りつけ、対面を果たすという大胆さを持ち合わせた女性であることが窺える。・・という。しかしどうやら、実篤好みの美人ではなかったらしい。
房子と結婚後は実篤の生家で同居。翌年入籍し、生家を出て、麹町区下に家を借りるがその後、神奈川や東京で度々転居していたらしいが、肺病の誤診宣告を機に東京から志賀直哉・柳宗悦が移り住んでいた我孫子(我孫子市船戸2丁目21番)に移住したのは1916(大正5)年の暮、実篤31歳の時であった。
ロダンからの彫刻が到着したのを機に実篤らの美術館建設の構想が芽をふき、1917(大正6)年には、『白樺』10月号で「美術館をつくる計画」を発表、日本最初の西洋近代美術の美術館設立運動を提唱するに至る。そして、同年11月17日ロダンが逝去すると12月に、、白樺』は「ロダン追悼号」(1月号)を刊行し、その後も巻を追うごとに主だった代表作を写真図版によって紹介していたようだ。
そして、1918(大正7)年33歳の時、5月〜7月に後に「新しき村に就ての対話」と改題された三つの対話(「第一の対話」「第二の対話」「第三の対話」)を『白樺』と『大阪毎日新聞』に発表し、新しき村の創設を提唱。7月には機関雑誌『新しき村』を創刊する。この翌月の8月号にはこの時の同士43名の名前が報じられているという(※8参照)。
また、これに「新しき村に就ての対話」をふくむ単行本『新しき村の生活』を8月に出版している。
この「新しき村に就ての対話」は、実篤が「新しき村」をはじめる第一歩となった作品であるが、10年前、実篤23歳の時(1908年)の日記には既に「自分は此頃になつて何か大きな仕事が出来る様に思へて来た。(略)それは新しき社会をつくる事だ。理想国の小さいモデルを作る事だ」と書いていたという
そして、「第三の対話」の末尾近くに次の一節がある。
「自分達は良心にたいして自分達を無能力者だからと云ふ云ひわけをつかふことはやめにしよう。協力さへすれば、そして本気になれば無能力ではない。」・・・と。実篤が「新しき村」をつくることで切り開いたのは、世界の人々が理想的に生活できる可能性だけではなく、新しい行動を起こす前に現実主義に逃げ込む精神に対する批判だったのだといえるようだ(※5の武者小路実篤>作品鑑賞>館報『美愛眞』15号より「新しき村に就いての対話を参照)。
ただ、実篤が23歳の時の日記にも書いてあるとはいえ、「新しき村に就ての対話」で新しき村の創設を提唱してから、4か月後の9月には、新しき村建設のために我孫子を出発し、11月には宮崎県児湯郡木城村(現・木城町)の土地を買う契約を済ませ、そのまま妻の房子や同志の仲間と暮らしはじめた。
1920(大正9)年2月に書き上げられ、その4月に雑誌『解放』に掲載された小説「土地」には新しき村の土地が決まり、開墾の日々に至るまでが描かれ、ようやく桃源郷を探し当てて驚喜する場面がある(※9参照)。
地主のいない共同農場が誕生したのである。この新しい村への最初の入村者は妻の房子など同士18名(男性13名、女性5名)であるらしい。
最初の土地は田畑・山林併せて7600余坪から始まったという。最初は石河内町の借家から通い、次々と家を建て、2年目に母屋(合宿所)が完成したと記録されているようだ(※2:「新しき村公式サイト」参照)。

●上掲の画象は宮崎県の「新しき村」のメンバーと、武者小路実篤(後列中央麦わら帽の男性)である。画像は『朝日クロニクル週刊20世紀』より借用)
武者小路実篤は当初「東京から日帰りに行ける土地」を探していたが、決定地が、木城村の地に決まるまでには多少の曲折があった。日向に土地の目当てを付けた理由については、実篤がしばし書いているように、新聞紙上でも「第一日向という名が気に入り、冬に働けるのが気に入り、日本の最初に起こった土地だというのが気に入った」と語っている。しかし、正直に言えば、その条件に「その上土地が安かった」というのを付け加える必要があったようだ。
新しき村の土地は何処がいいか、それは最初から問題となっていたようだ。
「新しき村」は当時の社会的文化的大事件であり、先の両著には新聞雑誌をはじめ、各界著名人たちの反響が詳しく述べられているが、同人の志賀直哉や、柳宗悦も雑誌「新しき村」の第一号での餞(はなむけ)の言葉ではエールを送っているものの実篤の杜撰な計画には危惧を示していたようだ。
白樺派の中で正面切って批判したのは有島武郎だけで、「新しき村」の企ての発足を知ったとき、有島武郎は『中央公論』に発表された「武者小路兄へ」(大正7年7月)で、有島らしい難解な言い回しの文章だが、実篤との断交を招いた「私はあなたの企てが如何に綿密に思慮され実行されても失敗に終わると思うものです」という有名な一節があり、ここには「如何に綿密に思慮されても失敗の確率が高いというのに、あなたの企ての杜撰さは何なんだ」という慨嘆が窺えるという(※1また※11の弐の続き参照)。

「新しき村」という生活共同体の村の精神は、自他を犠牲にすることなく”自己を生かす”ことにあり、村民はみずからの生活を支えたうえで、自由を楽しみ、個性を生かす生活を全うする・・・理想的な調和社会、階級闘争の無い世界という理想郷の実現を目指してきた。
当初の入村者は男性13名、女性5名の総勢18名で、土地や田畑の開墾から宿舎の建築まですべてを自分たちの手で行なった。しかし、提唱者の実篤自身が子爵という出自であることからもわかるように、村民となった人々の中には農業を生業とする者はほとんどいなかったようだ。
自給自足のための開墾をしたうえ作物を収穫するなどということがどれほど大変なことか、素人でも分かるはずなのに、敢えてその無謀ともいえる実践に飛び込んだのだから、若さゆえの冒険心だけではなく「新しい時代」や「新しい生活」への大きな希望と理想があったのだろうということは理解できる。しかし、開墾当時の労働の困難は、実篤らの当初の想像をはるかに超えた過酷さが余儀なくされただろう。
希望と理想に燃えて建設した村ではあったものの、次第に人間関係の軋轢が目立ち開村2年目の1919(大正8 )年春には村に内紛も起こったようだ。しかし、実篤が重視した余暇時間の文化活動はかなり実現していろいろ活動していたようで精神的には充実していたようだ。なおこの年、農作業、建築の手伝い、資材の運搬などの仕事を村の青年たちとともに分担した。
実篤は皆とともに仕事をし、文筆に講演にと、内外に活動し、村の仕事も農業ばかりでなく、出版に演劇にと幅広いものであった。
ロシア革命の成功による社会主義思想の普及,国内の政治的経済的混乱、大正デモクラシーの運動(大正デモクラシーと相次ぐ恐慌参照)など多様な社会的要因に、実篤のトルストイズム(トルストイが文学作品や人生を通して訴えた社会思想。)が結合した白樺派人格主義の実践は、とくに青年層に大きな反響を呼び起こした。
入村希望者も数多く、反面、離村する者も毎月のようにあったというが数年後には村内の人数も40人を超えたようだ。
そして、自分は村に入れないが、村の活動に協力したいとする村外会員(第二種会員とも呼ぶ)も次第に増加し、東京・京都・奈良・神戸などで支部活動が盛んになったという。
1921(大正10)年3月36歳の時、「白樺美術館第一回展覧会」を開催。セザンヌの「風景」、ゴッホの「向日葵」等が公開されたという。
因みに、このセザンヌの「風景」は、白樺同人が「白樺美術館」の建設を目的に皆で金を出しあって購入したものだが、その後、この美術館の設立は実現せず、長く柳宗悦の家にて保管していたが、セザンヌ好きだった大原總一郎が柳宗悦に懇望して、寄託というかたちで大原美術館にて展示をしていたが、いよいよ実現不可能として、現在は、この作品をロダンのブロンズの小作品3点と一緒に大原美術館に永久寄託し、同美術館で展示されているようだ(※8参照)。
1922(大正11)年、37歳の時、実篤は房子と離婚し、前年新しき村に入村した飯河(いごう)安子と結婚。村内で『人間万歳』を発表。
雑誌『白樺』創刊時よりの同士・有島 武郎がこの年、軽井沢の別荘(浄月荘)で波多野秋子と心中。7月7日に遺体が発見され、当時の新聞紙上でセンセーションを巻き起こした。
雑誌『白樺』は、1923(大正12)年8月まで続き、全160号が発刊され、161号も刊行予定だったが、関東大震災の影響により廃刊となっている。
また、この時の震災で実篤の母は無事だったが生家が焼失している。
1925 (大正14)年、実篤40才の時、新しき村を開村してからわずか7年で新しき村を離村し、志賀直哉が住む奈良に移り、以後、村外会員として村の活動を支えた。
「新しい村」はその後、新しき村の会員杉山正雄らの力で継続され、杉山は、1932(昭和7)年に実篤の養子となり、房子と結婚。その後、村の常務理事を務めたという。
どうもこの辺の実篤、房子、安子、杉山の4名の関係がよくわからないのだが、参考※1:「宮崎県ホームページ」のみやざきの101人-武者小路 房子 によれば、以下のように書いてある。
新しい村で、「実篤と飯河安子の恋愛問題が起こり、彼は去り村外会員になった。房子もまた杉山正雄との恋愛事件が起こり、実篤とは別れて生活することになった。4年後の1932(昭和7)年に房子は杉山と正式に結婚。実篤は2人を養子にして武者小路姓を名乗らせ、2人は「日向新しき村」に生涯をかけることとなった。」・・・と。
また、武者小路房子を訪ね、思い出話を聞いた中から許しを得て回想という形で、黒木清次がまとめた『武者小路房子−古くて新しき村とともに50年−』(日向おんな)には、
 「本当の愛情というものをわたしが知ったのは、村に入ってからでした。(中略)病気と幻滅感、いっぽうにはそのときまでに不自由なく豊かな生活の中に気ままに育ってきたわたしには、無意識のうちにそなわっていた高慢さ−そうした交錯したわたしの精神と肉体の苦難の時期を温かくいちずに支えてくれたのが杉山でした」。・・・と。
そして、この続きの文が、参考の※12:「歴史の里:新しき村」の関連サイト「杉山夫妻」に綴られている。
「そんな状態のとき武者小路にも新しい愛が始まっていました。わたしと杉山は一時的に新しき村を離れて鎌倉に住みました。四人がそれぞれに愛情というものの試練のなかにおかれたのでした。「愛はどんな障害も通り抜けて生きなければならない」「運命から与えられるものは甘受してそれを生かせるだけ生かす……」あの時期、これ程の愛への自覚があったかどうかは自らにも問えませんが、いま静かに思えばわたしたち四人は、それぞれの立場でこの言葉のように自らを処置していったことになるのでしょうか。」・・・と。
そして、杉山正雄・房子の主治医であった吉田隆氏は「村は終わったー最後の人となった房子」「史友会報」などに、杉山正雄・房子について、次のように記しているという。
「実篤は村を去った。村を支援しつつ、自分の道を生き抜いた。安子との愛を全うした。 杉山正雄は村にとどまった。師である実篤の教え「愛はどこまでも貫き通さねばならない」のとおり、房子との愛を誠実に奉仕的に全うした。(杉山は房子より11歳年下である) そしてトルストイの思想に傾倒した実篤は「自己を徹底して生かす」という独自の生き方をした。杉山も、独自の生き方・思想を模索し、独自の境地を掴みえたのではなかろうか。 昭和58年4月28日、杉山正雄は逝去した。(80歳) 平成元年10月25日、房子は新しき村のこの家にて逝去した(97歳)。・・と。
そして、50年の歳月を経過したとき、一人が加わります。さらに七年後の1976(昭和51)年には松田省吾・ヤイ子夫妻が移ってきて、杉山夫妻と四人で新しき村発祥の地を守ってきました。・・と注記されている。
男女の恋愛問題・・・、最初に誰が火種を作ったのか、事の真相は、書き手側によっても違ってくるだろうからよくわからないが、新しい村での内紛は、村の運営に関するものだけではなく、実篤の最初の妻、房子と再婚した飯河安子、それに、杉山正雄をめぐる四角関係の内紛もあったようだ。
兎に角、1925 (大正14)年に武者小路が離村、そして1939(昭和14)年ダム建設のための土地収用を機に埼玉県に移され、日向の地における試みは終焉するが、実篤が去った後も、結婚した杉山正雄と房子の二人が杉山は50余年、房子は60余年、必死に助け合いながら、二人きりになった村を、特に戦中から戦後にかけて誰からの助けも受けず、ずっと守り続けてきたようだ。
実篤は、新しき村を開村してから、わずか7年で新しき村を離村し、志賀直哉が住む奈良に移ったが、参考※11:「武者小路実篤の章」の章の参には、武者小路実篤の年譜に見当たらない真杉静枝という人物との醜聞記事が見られるという。
巌谷大四の『物語女流文壇史』という著作の中で、真杉静枝という人物の生涯について書かれている中に実篤関連の以下のような記載があるようだ。
「その頃21歳で、大阪の小さな夕刊新聞の記者をしていた真杉(ますぎ)静枝は、大正15年9月のある日、奈良へ行って志賀直哉と武者小路実篤の訪問記事をとってくるように部長から命じられた。彼女は志賀よりも武者のほうが近づきやすいような気がして武者を訪ねた。武者は気軽に彼女の質問に答えてくれ、感激した真杉が『先生、私みたいな者でも作家になれるでしょうか?』という質問に、『もちろんなれるでしょう。あなたは実に純粋な魂をもった人だから、その純粋な魂をそのまま文章に書いたら、立派な文学じゃないかね』と励ました。彼女はすっかり武者に魅せられてしまい、その幸福感を失いたくなくて志賀を訪問するのはやめて・・・・」(中簡略)「わたし、決心したの。どんな事があっても武者小路先生をつかまえるわ。・・・」と「社の男性記者たち(婦人記者は彼女一人だった)に放言した。」そして、「1週間以内ではなかったが、やがてそのとおりになった。」という。
又、巌谷は別の『物語女流文壇史』という著作の中で真杉静枝の生涯について記しており、「いつか二人はずるずると深間に入り、静枝は武者小路に囲われる身となり、東京に移った。二人の関係は数年続いたが、結局、妻子のある公卿あがりの作家である相手は、はじめから静枝を、ただ温情から囲ったのであって、本心ではなかった。次第に武者小路の方から遠ざかって行った。しかし…彼女も初めから相手の文名を利用するつもりだったので、悔いはなかった」・・・と。
そして、林真理子の『女文士』にも「 武者(実篤のこと)はこのころ、男をつくった最初の妻房子を新しき村へ置き去りにして、自分は新村民となった飯河安子と世帯を構え、新聞に四角関係などとはやされています。真杉は奈良の家を訪ねた折に、二人目の子供を生んだばかりの安子に会っています。そんな状況の中で、武者は真杉に熱をあげ、昭和2年、妻子を連れて東京に転居したのちに真杉を呼び寄せ、麹町に一軒家を与えて住まわせます。武者は毎日この家に出勤し、アトリエにした二階で絵を描き、真杉のつくった昼食をとり、夕方にわが家へ帰る生活を続けます。」「しかし、体が弱い安子にはもう何年も触れていないと言っていた武者に第三女が生まれたことを知った真杉は、男の不実さを感じて日向堂の常連客となった帝大生の中村地平に接近します。ある日、二人の関係をかぎつけた新聞記者が隠れ家を襲います。武者はあわてて家の裏から着物の裾を大きく広げて垣根を越えて逃げ出そうとしますが、記者に捕まり、『君、まさか家に行って妻に何か言ったりはしてないだろうね』と叫びます。それを聞いたとき、真杉は妻に未練のある男の正体を実感し、別れを決意するのです。」・・・と。他にもいろいろ書かれている様だ。
これに対して、実篤が触れているものがあるようだ。80歳近くになって『或る男』の続編として著した自伝『一人の男』(※5の資料室>所蔵資料から>館報『美愛眞』9号 より「一人の男」原稿参照)の中に、次の一文が見つかったという。
「ドイツの諺に《終りよければすべてよし》と言う言葉があるが、真杉と僕の関係はその反対で、プラスマイナス零、清算がたちすぎて、死なれた今でも、悪い思い出も別にないがいい思い出もなくなった。二人とも自分の夢に酔って、一番不適当な相手を選んだと言うべきだったかと思う。」
「僕は真杉は新しき村にとって有用な人間になれる素質があると思い、真杉は自分の文学の仕事に僕は役に立つと思っていたらしい。
 しかしそれは間違っていた。少なくも真杉のものの考え方や神経が僕の文学に対する評価の埒外にあった。僕は自分の愛憎で文学の評価をきめる人間ではなかった。これは死んだ者に対して言うべき言葉でないかも知れない。」・・・と、情を交わしたこともあるという女性に対するこの表現はちょっと冷淡ではないでしょうかね〜。

参考※12:「歴史の里:新しき村」の関連サイト“新しき村雑感”にも書かれているように、実篤の「新しき村」からたった7年での離村には、母の病気のこと、村の経済を安定させるために文学活動に専念すること。村の生活が肌に合わないこと。安子と夫婦でありながら妻であった房子と同じ村にいるという人間関係のことなど、いろいろな理由が想像できるが、結局は、武者小路家という子爵の出である彼のある種のわがままからのものであるのだろう。
だから、その後を継いだ世間的には二人の関係でいろいろと悪評も残っているらしい杉山正雄・房子夫婦の地道な努力を私も評価したいと思う。
生前の実篤の書物は5百冊ないしは7百冊を越えるといわれているにもかかわらず、実篤には日本文学史上に残るような名作が残っていない。そんな彼の名作がないのは、「新しき村」の経費を稼ぐために売文家になってしまったたからではないかという声もある。
ただ、そんな実篤がえらかったのは、「新しき村」に対する経済的支援だけは終生続け通したことであり、世間からは桃源郷的な発想に対する批判や揶揄をされても、有島武郎など白樺同人たちからの忠告を受けても、どんなに苦境に立とうとも、実篤は天与の向日的姿勢(陽気な」「明るい」といった性質。実篤の場合、楽天的なという意味にも捉えられる)を堅持した。結局、実篤は作家というより新しき村の求道者として名を残したというべきかもしれない。
実篤の楽天主義、理想主義もまた大正デモクラシーの生み落としたものだった。内心(表に出さない気持ち。心のうち)の要求に忠実に、互いに自己を生かすべく実篤の呼びかけに全国より多くの青年が新しく村に参加した。そして、京都、東京、大阪、神戸、信州、浜松、函館、青森、福岡、横浜、帯広、呉、盛岡などに「新しき村」支部が生まれた。
「新しき村」は、『赤い鳥』とともに大正期(1912〜1926)の思想、文化の有力な反映といえる。
大正期には 「新しき村」 「新しい女」 「新思想」 など、 「新」 という言葉が流行していた。

この「新しき村」 は日本に存在しただけではない。1924(大正13 )年にブラジルサンパウロ州奥地に、「アリアンサ村」という日本人民間移住地が生まれたという。
計画作成の中心となったのは永田稠北原地価造輪湖俊午郎らだったそうだ。
「アリアンサ」とは共同を意味するポルトガル語で、「自治と協同の理想」 を掲げ、組合方式による運営をおこない、選挙によって選出された役員が運営に当たっていたという。当時の日本は大量の移民送り出し国だった。
輪湖は日本に戻ることを前提とした出稼ぎ移民ではなく、民間主導による新しい共同移住地をつくろうと理想に燃えていた。日本からブラジルに移住してきたのは、渡米支援団体の「力行会」(※14参照)というキリスト教団体の人たちが多かったという(※15:「南山城の光芒:第30回南山城の光芒(新聞『山城』の25年)」の第31回〜32回 (13)城南八幡の「新しき村」実篤の思想とアリアンサ移住地(中)参照)。
日本人のブラジルへの移民が始まったのは1908年だが、当時の日本は、明治維新以後の人口の増加、農村の疲弊、失業者の増大という問題を抱えており、その対処策として政府は海外への出稼ぎ移民を奨励していた。当初ブラジルにやってきた日本人移民(日経ブラジル人参照)達は、ブラジルでよりよい人格を形成し、ブラジルに永住して豊かな生活をおくることを目的としていたわけではなく、短期的にお金を稼いで日本に帰国するために行った。
アリアンサ移住地には素晴らしい理念があった一方で、その建設と発展の背景には多くの困難があったようだ。残念なことに、アリアンサ移住地の発展の過程で多くの住民がアリアンサ移住地を離れ、それと同時に、アリアンサ移住地の理念も忘れ去られようとしているという。その中でも、経済活動のみに力点を置くのではなく、文化活動にこそ自らの存在意義を見いだしている弓場農場(※16の中にある”弓場農場に入植して”を参照)には、当初からのアリアンサ移住地の理念が色濃く残っているようだ。
アリアンサ移住地の日系人人口の減少という問題があり、1925年から2005年までの第一アリアンサ移住地の日系人人口の推移をみると、第一アリアンサ移住地では1945年ころまでは人口は増加しているが、それ以降は減少する一方で、2005年では約350人にまで減少している。
アリアンサ移住地では、第二次世界大戦が終わる1945年を境にサンパウロ市などの都市に人口が流出しはじめ、さらに近年では日本への出稼ぎも増加し、アリアンサ移住地のこれまでの歴史を将来に伝える役割を担う若者はますます減少しているようだ。ブラジルのアリアンサ移住地のこともっと詳しく知りたい人は、※16:「ありあんさ通信:移住史ライブラリIndex」を見られるとよい。

今は日本の農村も過疎化しているし、「新しき村」はなお苦戦している。近年、定年で現役をリタイアしたサラリーマンなどが、田舎で農業をしながら、現役時代になかなか出来なかった趣味を愉しみながら余生を過ごしている姿をテレビなどの報道でよく見かける。
現役時代にしっかりと働き、それなりの貯蓄をして、老後にその資金を元に、好きなことをして過ごせる人は本当に恵まれた人達だろう。農業をすると言っても、年金は入るのだし、収入は少なくとも生活に支障をきたすわけでもないからあくせくする必要もない。趣味でやるのだか楽しいことだろう。
しかし、若い人が辺鄙な郷で農業をし、好きな趣味を楽しみに生きるのは、理想としては望ましいが、それを実際にやるとなるとなかなか大変なことだろう。特に結婚をして子供ができると、教育問題や結婚問題など子供の将来を考えなければならなくなるし、自分たちにしても年を取り体が不自由になってくると、病院通いや買い物をするにしても車に乗っていかないとだめな場所で、車に乗れないようになるとそれもできなくなる。
今、不便な郊外に住んでいた高齢者が続々と生活の便利な都市部に移住してきている状況である。
それに、グローバル化した現代において、農業にしても、従来のようなかたちでの保護政策はとられなくなるだろうし、外国からの安い輸入品に対抗できる良い品を安く生産するには、今までのような方法での農業ではなく新しい農業のあり方が求められるようになるだろう。
理想郷(ユートピア)の実現には、ただ一生懸命働くだけではなく、時代にあった新しい村のあり方を築かなければ存続はなかなか難しいのだろうね〜。しかし、どこまでやれるか、頑張っては欲しいものだ。

参考:
※1:宮崎県HP
http://www.pref.miyazaki.lg.jp/contents/org/somu/somu/bunsho/index.html
※2:新しき村公式サイト
http://www.atarashiki-mura.or.jp/
※3:近代デジタルライブラリー - 我宗教
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/825352/89
※4:近代デジタルライブラリー - 我懺悔
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/899793/24
※5::調布市武者小路実篤記念館
http://www.mushakoji.org/index.html
※6:白樺文学館
http://www.shirakaba.ne.jp/index.htm
※7:第12号−武者小路実篤『世間知らず』『友情』に見るジェンダー観
http://gender.jp/journal/no12/05-02-sasaki.html
※8:新しき村余録(上)(Adobe PDF)
http://www.seijo.ac.jp/pdf/falit/050/050-02.pdf#search='%E7%99%BD%E6%A8%BA+%E6%96%B0%E3%81%97%E3%81%8D%E6%9D%91%E3%81%AB%E5%B0%B1%E3%81%A6%E3%81%AE%E5%AF%BE%E8%A9%B1+%E9%9B%91%E8%AA%8C%E6%96%B0%E3%81%97%E3%81%8D%E6%9D%91'
※9:武者小路実篤::日向新しき村を訪ねて
http://www.geocities.jp/kenyalink365/atarasiki_mura/atarasiki_mura.html
※10:第15回 吉田璋也の流儀(2)
http://homepage2.nifty.com/teiyu/leaflet/nakayama_0505.html
※11:武者小路実篤の章(壱〜参迄)
http://blogs.yahoo.co.jp/yuzan9224/33691023.html
※12:歴史の里:新しき村
http://nanjaroka.jp/siseki/atarasikimura/index.html
※13:真の友情とは?
http://blogs.yahoo.co.jp/bgytw146/31599626.html
※14:財団法人日本力行会について
http://www.rikkokai.or.jp/main/index.html
※15:南山城の光芒:第30回南山城の光芒(新聞『山城』の25年)
http://www.rakutai.co.jp/etc/yamashiro/file/030.html
※16:ありあんさ通信:移住史ライブラリIndex
http://www.gendaiza.org/aliansa/lib/index.html
「武者小路実篤」作家略歴
http://www.gm2000.co.jp/profile/mushaname.html
セザンヌ - 大原美術館
http://www.ohara.or.jp/201001/jp/C/C3a14.html
武者小路実篤 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E8%80%85%E5%B0%8F%E8%B7%AF%E5%AE%9F%E7%AF%A4

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