日本記念日協会の今日11月7日の記念日に「いい女の日」があった。記念日登録をしているのは女性の心と体を癒すトータルエステティックサロンを全国に120店舗以上展開する「たかの友梨ビューティクリニック」(※1)だそうだ。
同社では創業当時から「1107」を「いいおんな」と読む語呂合わせから、サロンの電話番号などに多数使用しており、この日を美しくなりたい女性を応援する特別な日としているという。
私は男性なので、エスティックサロンのことなど余り興味もないし、よくわからないので、単に一般的な「いい女」のことについて書くことにしよう。
ところで、「いい女」ってどういう女を言うのだろう。
「武子さんの、あの上品な気品の高い姿や顔形は、日本的な女らしさとでもいうような美の極致だと思います。
あんな綺麗な方はめったにないと思います。綺麗な人は得なもので、どんな髷に結っても、どのような衣裳をつけられても、皆が皆よう似合うのです。
いつでしたか、一度丸髷に結うていられたことがありました。たいていはハイカラで、髷を結うていなさることは滅多にないので、私は記念に、手早く写生させて貰いましたが、まことに水もしたたるような美しさでした。「月蝕の宵」はその時の写生を参考にしたのです。もちろん全部武子夫人の写生を用いたという訳ではありませんが……」
上掲の文は女性の目を通して明治期から戦争(太平洋戦争)が終る時代にかけて「美人画」を描き、女性として初めて文化勲章を受賞した京都の日本画家・上村 松園の随筆『無題抄』(※2の「青空文庫」参照)からの抜粋である。
「月蝕の宵」の絵がどんなものかはここ参照→天絲繡典 -- 《上村松園作品》
「水(みず)も滴(したた)る」とは、『広辞苑』第5版では「美男、美女の形容」としてこの語を説明し、『日本語大辞典』(講談社)も「生気ある男や女の、また美男美女の、つやつや(艶々)とした、また、みずみず(瑞々)しい美しさの形容」と説明している。この語の後に、いい男、いい女などと続けて「水も滴るいい男」「水も滴るいい女」などと使うが、もともとは、「水も滴る若衆姿」などと、いい役者(いい男)などに使っていたものが、後に、女性にも使われるようになったと聞く。
「いい女」の顔についても、上村 松園は『女の顔』(※2参照)の中で、以下のように言っている
。
「美人絵の顔も時代に依って変遷しますようで、昔の美人は何だか顔の道具が総体伸びやかで少し間の抜けたところもあるようです。先ず歌麿以前はお多福豆(※ソラマメの1品種で、豆がとくに大きく、おかめ[=お多福]の面のようにふっくらしている)のような顔でしたが、それからは細面のマスクになって居ります。然しいずれの世を通じましても、この瓜実(うりざね)いうのが一番美人だろうと思います。」・・・と。
日本人の顔は弥生時代に日本に持ち込まれた稲作が、噛む力を弱めて顔を小顔化しているようだ(※3参照)が、現代では、男女とも身長に対して、非常に小さな丸顔で、釣り目の「猫顔」が人気になってきているようだ。
では、どんな女が「いい女」か?というのは、時代の変遷によっても変わるが、それがどんなものであったかを少し遡って見てみよう。
先ず、平安の時代に貴族の男性が好みとした女性像はどんなものであったか。
平安中期に書かれた紫式部の『源氏物語』は、主人公の光源氏を通じて周辺の女性たちとの華やかな生涯を描いている前半と、その子供の薫と光の孫になる匂宮と宇治八の宮の姫君たちとの複雑な人間関係を写している後半に分けられるが、二帖「帚木(ははきぎ)」の中で、五月雨の夜、宮中の宿直所で、まだ17歳になったばかりの若き光源氏のもとを訪ねてきた、源氏の年長の親友であり、義兄であり、政敵であり、また恋の競争相手でもある頭中将(位階が四位の殿上人)と女性論の話になり、さらに途中から加わる左馬頭(さまのかみ。左馬寮の長官。従五位上相当)、藤式部丞(とうしきぶのじょう。式部省の役人で左馬頭よりは下位。)を交えて4人で女性談義が盛り上がる。この場面は慣例的に『雨夜の品定め』と呼ばれる。本文、現代語訳、詳しい注釈等は、※4:「源氏物語の世界 再編集版」の第二帖 帚木を参考にされるとよい。
ここではどのような女が素晴らしいか、欠点に思うところなど女性論を展開しているがその結果「よき限り(=女性の長所)」「難ずべきくさはひ(=女性の短所)」は概ね以下のようなことが挙げられいる。
「よき限り(=女性の長所)」
・手紙や和歌など、文筆にすぐれていること。・当意即妙に返答ができること。・年若く、容貌も良いこと。・言葉や性格がおっとりしていること。・嫉妬を表に出さないこと。・夫の世話や家事をそつなくこなすこと。・素直でまじめであること。・頼もしくて信頼のおけること。
「難ずべきくさはひ(=女性の短所)」
・他人をばかにし、自分の得意なことを自慢すること。・行儀が悪く、みっともないこと。・好色で浮気なこと。・嫉妬心がはげしいこと。・一人で何もできず、頼りないこと。・ふいっといなくなったりして、信頼がおけないこと。
そして、頭中将は、女性と付き合うなら「中の品(ぼん)」(中流)の女性がいろいろ特徴があり、魅力的で一番よいとしている(※5、6、7など参照)。
結局、必要だと思う色々な理想を言っても、理想的な女性というのは「ただひとへに、ものまめやかに、静かなる心の趣」の人だという。つまり、心がねじけておらずに自然で、ひたすらに実意があり、心の穏やかな、やさしい人がよいという結論らしい。
そして、面白いことに、好色で浮気なことなどは、ほどほどならばよしとし、後世の人たちから見て、最も重要な女性の徳と思われる貞操は余り問題にされていない。
当時は平安朝の宮廷においてのみならず、武家の家庭でも、源氏の例をみても、範頼の母は池田宿の遊女、義仲の母は江口の遊女(小枝御前)、そのほか悪源太義平 の母も橋本の遊女といわれており、義経の母の常盤御前などは、短い間に三度も夫を換えている。
平安時代の貴族にあっては、女子の教養は音楽・和歌・書道の三分野を中心として、みやびやかな朗らかな女性に育つように仕組まれていた。その才能によって、女性は上品、中品 、下品格付けられた。女性と男性が直接会えなかった時代なので、和歌は「話す」方法の一つでもあった。
手紙の内容、様子、香りによって、知識や性格まで理解されていた。そして、服装の合わせが上手で、琴が弾け、綺麗に文字を書き、短歌も作れる女性が、良い女であったという。
以上から、一夫多妻という婚姻形態を持つ時代の理想的な女性のイメージは、才能が豊かで、心が優しく、外見が美しいというものであったことが、『源氏物語』などから窺える。
鎌倉・室町の時代になっても公家の女子は、古代と同じく、音楽・和歌・書道をもって重要な教養分野としたが、有職故実を尊ぶ時勢の影響もあって、歴史にかかわる学習の風もおこった。それは、『庭の訓(おしえ)』(鎌倉初期撰。「庭訓(ていきん)」を訓読みにした語。家庭教育。庭訓=庭訓往来)や『乳母の草紙』などにみられるという。
これらは、『源氏物語』と比べると、仏教や儒教的な考えが取り込まれでおり、「妹君の乳母の教えでは、美しい外見や芸能の多才さより心の方が大事、他人に対して、悪口を言わず、仏を信仰しなければならない、両親や年上の人を尊敬し、世話をしなければならない」ことなどが述べられているといった特徴を持つている(女訓書。参考※8:「日本古典文学テキスト」の乳母のふみ 一名「庭のをしへ」参照)。つまり、仏教や儒教の影響を受けながら、平安時代の女性イメージが継承され、「しとやかで貞淑」な女性の理想像が強化されていったと言えるようだ。
そして、武家の正妻となる者は、まず貞操を全うすることを以て婦人の第一の美徳と考えられるようになり、家庭生活が厳粛になってきたが、この転換には、鎌倉幕府を開いた源頼朝の正室となった北条政子の影響があるようだ。
平安時代の男女関係は意外とおおらかであり、男女ともに貞操観念は低かった。 しかし、政子の頼朝に対する貞操はしっかりしたものであり、夫や家を大切にする点では、その後の日本女性の典型になっていた。
政子は自らを厳しく律し、夫に仕えながらも、夫に間違っている点があれば堂々と指摘する。自分の身を厳しく 律し、貞操観念を守ることで「妻の権威」を得、そして家を大事にして、夫や息子たちが男として立派に生きるように指導する。「日本の賢母」の典型は、政子から始まったといえる。その伝統は、つい最近までの日本婦人の生き方を決定してきたのである。
江戸時代の女性はどうだったか・・・?
江戸時代になると、幕府による統治が安定し、260 年間平和な状態が続いた。
江戸時代の女性も基本的に、鎌倉・室町の時代と変わらない。ただ、この時代には儒学などの教学が盛んになり、社会一般に及んだ。
中国漢代の儒者戴徳が、儒家の礼に関する古い記録を整理し、その理論と解説を記した『大戴礼記』(大戴礼ともよぶ)にある七去(しちきょ)(妻を離婚できる七つの事由)、というものが、日本では宝永7年(1710年)、貝原益軒が81歳のときに記した『和俗童子訓』(※9参照)巻の五の「女子を教える法」の中に記載がされている(ここ参照)。
この「女子を教える法」は後に女性の教育に用いられるようになった教訓書『女大学』などの書物によって一般化し、江戸時代中期から太平洋戦争戦前まで、女子教育のバイブルとして君臨した。
「教女子法」において、最初に「男性は外に出でて、(中略)女子はつねに内に居て」「いにしえ、天子より以下、男は外をおさめ、女は内をおさむ」と述べて、女は男と違い奥向きのことをすべきこと。そして、「婦人は、人につかうるもの也」であるとし、身分に関わらず早朝から深夜まで怠けずに、舅姑(きゅうこ。舅と姑)や夫に仕えなければならないし、「みずから衣をたたみ、席を掃き、食をととのえ、うみ、つむぎ、ぬい物し、子をそだてて、けがれをあらい、(中略)是れ婦人の職分」だと述べている。
その上で、「婦人に七去(しちきょ)とて、あしき事七あり。一にしてもあれば、夫より遂去(おいさ)らるる理(ことわり)なり。故に是(これ)を七去と云(いう)。是古(いにしえ)の法なり。女子にをしえきかすべし。一には父母にしたがはざるは去(さる)。二に子なければさる。三に淫なればさる(淫=淫乱のこと。浮気、姦通など)。四に嫉(ねた)めばさる(嫉み=嫉妬のこと。家族を恨み、怒る場合)。五に悪疾(あしきやまい)あればさる。六に多言なればさる(.男のようによく喋り、家の方針についてあれこれ口を挟むこと)。七に竊盗(ぬすみ)すればさる」と七去の一つでも守れないと、離婚されることのもあるとしている。
又、「七去三従」という言葉も使われた。「三従」とは、「生家では父に従い、嫁しては夫に従い、夫の死後は子供に従え」という教えであり、やはり儒教の教えと関係が深い言葉であり、一個人より「家」の方が大切なものと考えられていた。
こうして、江戸時代には鎌倉室町時代以上に、女性には「貞女」としての貞操が求められ、「女の道」という倫理が武家社会に強く意識されるようになり、これらの傾向は、武士だけでなく、社会一般にもおよんだとされている。
しかし、参考※10:「誰が守るか女大学ー三下半と江戸時代の女性像ー」に、式亭三馬の滑稽本『浮世風呂』の序文には「蓋(けだし)世に女教の書許多(あまた)あれど、女大学今川のたぐひ、丸薬の口に苦ければ婦女子も心に味ふこと少なし」とある。つまり『女大学』は苦い薬のようなもので、自分のものとしてる女はいないという認識であった。・・・とあるように、江戸時代の女性は、言われているほどにひ弱ではなかった。…というより、結構たのもしく、したたかに生きていたようである。
古来日本は性には開放的な民族で、徳川後半の日本の全国のムラでは、夜這いなどは、ありきたりの風習で、どこでも行われていたことであったようだから・・・。
男女の婚姻形態に大きな影響を及ぼしたのは、明治時代に制定された家制度である。1898(明治31)年に制定されたこの民法で戸主制が決められ、江戸時代から続く庶民の夜這い婚(集団婚、妻問婚の名残とみる説また、近世郷村の農村社会に固有の様式であり、村落共同体という自治集団を維持していくための実質的な婚姻制度、もしくは性的規範であるとする説がある)に代表されるおおらかな性の有り様も、貞操観や良妻賢母を理想とする女性像に変質していく。
この 明治と昭和という大きな時代に挟まれたわずか14年半という短い期間の大正時代は、国内外共に激動の時代であった。テクノロジーの発達は目覚ましく、デパートの大量消費,電車に乗り通勤するサラリーマンとその主婦の登場、文化住宅など現在の我々の生活の基盤ができあがったのもこの頃である。
ラジオや活動写真で流行歌や演劇を楽しみ、街にはネオンが輝き、ダンスホールやカフェーに集まるモダンガールやモダンボーイ(モボ・モガ)たちがダンスを楽しんだ。モダン都市・東京の中心銀座文化」には女性が大きな役割を果たした。こうした華やかな雰囲気はしばしば大正ロマンと表現をされる。和と洋のミックスされた異国情緒の甘い香り漂うこの文化は、現在でも様々な面で注目されている。
中でも一大ブームを巻き起こした竹久夢二、高畠華宵。中原淳一や、松本かつぢ、加藤まさを、蕗谷虹児などの抒情画に代表される。彼らの絵の根底にはロマン主義が共通して見て取れるが、大きく分けると竹久夢二と高畠華宵のこの二人の画家は,健康的な美ではなく、女性の色気が強く表現されているように思わる。
夢二が日本の伝統的な女性の美を描いたのに対して、華宵の描く女性は都会的で西洋の影響を強く受けているように思われる。しかし両者の絵もどことなく退廃的で,甘美な感傷の世界が漂っている。
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上掲の画象、向かって、左:竹久夢二画「寧楽椿市(ならつばいち)」、大正期の作。右:高畠華宵画「師走の風」昭和初期作。画像は、朝日クロニクル『週刊20世紀』1926年号掲載分より借用。
上掲の画像向かって、左:夢二の画には「たらちねの母がよぶなを申さめど道行く人を誰としりてか」と夢二の文字が見える。椿市(海石榴市)は奈良県桜井市三輪町。古代、物品交易の市として栄えた。
歌(万葉集)の意は「私の名を申し上げてよろしいのですが、あなたどなたかわからないので申しあげないでおきましょう」。(万葉集のこの歌、なかなか奥深い意味がある。この歌の詳しい意は※11を参照されるとよい。)
『モダニズム』『デモクラシー』大正の枕詞は新鮮で明るい。しかし、花は咲くもののあわただしかったが、散るのも早かった。
二人のそれぞれの画家は美に対する独自の信念をもち、急激な都市の変化に伴うこの時代の風潮や流行を敏感にとらえたうえで、当時の人々の心情のあり方を繊細に描き出しているように見受けられる。また、当時の女性たちも、多少の違和感を覚えながらも親の絶対的権限は心得ており、良い娘・妻であろうとした。
当時は、まだ、これまでの時代と同様に、姑の言うことを良く聞き、家事全般を行い、子を産み、夫を支え、家庭を守るのが女性の役割であり、求められた姿であった。
国は富国強兵のもと兵力を必要とし,女性に子を産むことを推奨するため良妻賢母の教育を行った。良妻賢母といっても,その内容はただたただ家族に従順であり、家以外のことは何も知らぬ女であれという奴隷教育のようなものであった。
女性の教育の場であるはずの女学校も、裕福層が増えたことで娘を女学校に通わせることが親たちのステータスになり、本気で自立する力をつけさせようとする親はほとんどいない。実際授業の大半は家庭科で占められ、花嫁修業の場と言っても過言ではない状況であった。
新しい時代の自由を身に感じ始めていた彼女たちも、現実は「生活に無力なために、生きるがために結婚することを余儀なくされていたのである。
自分ではどうすることもできない無念さを感じる彼女たちはまさに、抒情画に描かれる、はかなく悲しみを帯びた女性の姿に強く共感することができたのであろう。そこに自分を投影し、竹久夢二によって創られた詩歌のタイトル「宵待草」のように恋に生き、恋人をずっと待ち続ける女性に夢を託し、ある時は虚しく遠くを見つめる女性に自分を見て慰めたりしたのではないかという(※12参照)。
「待てど暮らせど 来ぬひとを 宵待草の やるせなさ 今宵は月も 出ぬそうな.」(宵待草)以下で、歌が出来た経緯と曲がわかる。良い曲ですよ。
宵待草: 二木紘三のうた物語
しかし夢二の描く女性も、華宵の都会的なモダンガールも、描かれるのはあくまで男性から見た女性の姿であり、そこには画家たちの理想像が強く投影されている。彼らは力の弱い、何かにもたれかかる受け身の女性の姿に「もののあわれ」の美を見いだしたのである。それは新しいとはいえない、明治の女性の姿そのままであった。それにも関わらず大正の女性の支持を得たのは絵に対する共感だけでなく、女性が男性に養って貰う他に生きる術を持たないため、男性の求める「女性」の姿を見て取り、より「女性」らしくある必要を受け止めていたからではないかという。したがって、この絵を支持するのは女性に限って言えば女学生や一般家庭婦人、芸者や喫茶店の女給、芸能人などであって職業婦人は少なかったという。
明治までの街並みも趣味も服装も西洋的に変化を遂げ、何から何まで新しく生まれ変わったモダンな大正文化の中で、一大ブームとなった抒情画のその根底を支えていたのは、新しい思想に目覚めた自活した女性ではなく、明治から変わらぬ古い因習にがんじがらめに苦しむ人々であった。彼らの理想と現実に対する絶望感や無力感が原動力となり、大正ロマンのあの独特の負の雰囲気が醸し出されていたのである(※12参照)。
もちろん女学生の生活は学校での授業だけでなく、楽しみや悩みからも成っていた。昔の女学生も現代と同じく雑誌が好きであった。二十世紀の始めに、最も人気があった『少女倶楽部』(1923年創刊)、『少女画報』(1912年創刊)、『少女の友』(1908 年創刊)、『令女界』(1922 年創刊)などの雑誌は、その時代を反映したものであって、そこに表れた豊富な情報をもとに、服装やヘアスタイルその他色々な情報を得た。
大正も中頃になると女性の職業も増え、自活をする女性も現れる。これら本当の意味で新しい女性たちは、周りからの非難・嘲笑にも耐え、自らの力で男女の自由を獲得できない苦しみや「社会的弊害を突破して、恋愛の自由や結婚の自由を実現するようになった。
今年のNHK朝ドラ・連続テレビ小説『ごちそうさん』。主演の卯野 め以子を演ずる杏はオーディションなしでの直接オファーでヒロインを演じることが決まったらしいが、オーディションなしでヒロインが決定したのは、2012年度上半期『梅ちゃん先生』の堀北真希以来だそうである。
時代設定は大正・昭和期。東京のレストラン「開明軒」の食いしん坊の娘・め以子は大正ロマンを生きる女学生に成長後は、お洒落や恋愛に興味を持ち、高い身長に悩み始めるが、食いしん坊ぶりは相変わらずな上、料理をすることや学問には関心がなく、将来についても結婚したいという漠然とした考えしか持っていなかった。落第が危ぶまれても関係ないと開き直るが、下宿している偏屈な大阪男・西門悠太郎から食べ物になぞらえて勉強を教えてもらい成績が向上した事をきっかけに、自分の人生や、悠太郎に対する気持ちに変化が現れ始め、ついには、太郎と恋に落ち、悠太郎の下に嫁ぐ。そして、苦労しながら食い倒れの街・大阪を舞台に、関東・関西の食文化の違いを克服しつつ、料理と夫に愛情を注ぐことで、め以子が力強い母へと成長していく物語だそうである(ここ参照)。
冒頭の画像は、Wikipedia-コケットリーより、ヘンリ・ジェルボー(ここ参照)のスケッチ。
「よろしければ、この美しい肩に野蛮な男のキスはいかかがですか?」
「もっとよくみた後なら好きなだけ」
これは、ヘンリ・ジェルボーのスケッチにつけられたキャプション、1901年。
いい女の日(2-2)へ続く
いい女の日(参考)へ
同社では創業当時から「1107」を「いいおんな」と読む語呂合わせから、サロンの電話番号などに多数使用しており、この日を美しくなりたい女性を応援する特別な日としているという。
私は男性なので、エスティックサロンのことなど余り興味もないし、よくわからないので、単に一般的な「いい女」のことについて書くことにしよう。
ところで、「いい女」ってどういう女を言うのだろう。
「武子さんの、あの上品な気品の高い姿や顔形は、日本的な女らしさとでもいうような美の極致だと思います。
あんな綺麗な方はめったにないと思います。綺麗な人は得なもので、どんな髷に結っても、どのような衣裳をつけられても、皆が皆よう似合うのです。
いつでしたか、一度丸髷に結うていられたことがありました。たいていはハイカラで、髷を結うていなさることは滅多にないので、私は記念に、手早く写生させて貰いましたが、まことに水もしたたるような美しさでした。「月蝕の宵」はその時の写生を参考にしたのです。もちろん全部武子夫人の写生を用いたという訳ではありませんが……」
上掲の文は女性の目を通して明治期から戦争(太平洋戦争)が終る時代にかけて「美人画」を描き、女性として初めて文化勲章を受賞した京都の日本画家・上村 松園の随筆『無題抄』(※2の「青空文庫」参照)からの抜粋である。
「月蝕の宵」の絵がどんなものかはここ参照→天絲繡典 -- 《上村松園作品》
「水(みず)も滴(したた)る」とは、『広辞苑』第5版では「美男、美女の形容」としてこの語を説明し、『日本語大辞典』(講談社)も「生気ある男や女の、また美男美女の、つやつや(艶々)とした、また、みずみず(瑞々)しい美しさの形容」と説明している。この語の後に、いい男、いい女などと続けて「水も滴るいい男」「水も滴るいい女」などと使うが、もともとは、「水も滴る若衆姿」などと、いい役者(いい男)などに使っていたものが、後に、女性にも使われるようになったと聞く。
「いい女」の顔についても、上村 松園は『女の顔』(※2参照)の中で、以下のように言っている
。
「美人絵の顔も時代に依って変遷しますようで、昔の美人は何だか顔の道具が総体伸びやかで少し間の抜けたところもあるようです。先ず歌麿以前はお多福豆(※ソラマメの1品種で、豆がとくに大きく、おかめ[=お多福]の面のようにふっくらしている)のような顔でしたが、それからは細面のマスクになって居ります。然しいずれの世を通じましても、この瓜実(うりざね)いうのが一番美人だろうと思います。」・・・と。
日本人の顔は弥生時代に日本に持ち込まれた稲作が、噛む力を弱めて顔を小顔化しているようだ(※3参照)が、現代では、男女とも身長に対して、非常に小さな丸顔で、釣り目の「猫顔」が人気になってきているようだ。
では、どんな女が「いい女」か?というのは、時代の変遷によっても変わるが、それがどんなものであったかを少し遡って見てみよう。
先ず、平安の時代に貴族の男性が好みとした女性像はどんなものであったか。
平安中期に書かれた紫式部の『源氏物語』は、主人公の光源氏を通じて周辺の女性たちとの華やかな生涯を描いている前半と、その子供の薫と光の孫になる匂宮と宇治八の宮の姫君たちとの複雑な人間関係を写している後半に分けられるが、二帖「帚木(ははきぎ)」の中で、五月雨の夜、宮中の宿直所で、まだ17歳になったばかりの若き光源氏のもとを訪ねてきた、源氏の年長の親友であり、義兄であり、政敵であり、また恋の競争相手でもある頭中将(位階が四位の殿上人)と女性論の話になり、さらに途中から加わる左馬頭(さまのかみ。左馬寮の長官。従五位上相当)、藤式部丞(とうしきぶのじょう。式部省の役人で左馬頭よりは下位。)を交えて4人で女性談義が盛り上がる。この場面は慣例的に『雨夜の品定め』と呼ばれる。本文、現代語訳、詳しい注釈等は、※4:「源氏物語の世界 再編集版」の第二帖 帚木を参考にされるとよい。
ここではどのような女が素晴らしいか、欠点に思うところなど女性論を展開しているがその結果「よき限り(=女性の長所)」「難ずべきくさはひ(=女性の短所)」は概ね以下のようなことが挙げられいる。
「よき限り(=女性の長所)」
・手紙や和歌など、文筆にすぐれていること。・当意即妙に返答ができること。・年若く、容貌も良いこと。・言葉や性格がおっとりしていること。・嫉妬を表に出さないこと。・夫の世話や家事をそつなくこなすこと。・素直でまじめであること。・頼もしくて信頼のおけること。
「難ずべきくさはひ(=女性の短所)」
・他人をばかにし、自分の得意なことを自慢すること。・行儀が悪く、みっともないこと。・好色で浮気なこと。・嫉妬心がはげしいこと。・一人で何もできず、頼りないこと。・ふいっといなくなったりして、信頼がおけないこと。
そして、頭中将は、女性と付き合うなら「中の品(ぼん)」(中流)の女性がいろいろ特徴があり、魅力的で一番よいとしている(※5、6、7など参照)。
結局、必要だと思う色々な理想を言っても、理想的な女性というのは「ただひとへに、ものまめやかに、静かなる心の趣」の人だという。つまり、心がねじけておらずに自然で、ひたすらに実意があり、心の穏やかな、やさしい人がよいという結論らしい。
そして、面白いことに、好色で浮気なことなどは、ほどほどならばよしとし、後世の人たちから見て、最も重要な女性の徳と思われる貞操は余り問題にされていない。
当時は平安朝の宮廷においてのみならず、武家の家庭でも、源氏の例をみても、範頼の母は池田宿の遊女、義仲の母は江口の遊女(小枝御前)、そのほか悪源太義平 の母も橋本の遊女といわれており、義経の母の常盤御前などは、短い間に三度も夫を換えている。
平安時代の貴族にあっては、女子の教養は音楽・和歌・書道の三分野を中心として、みやびやかな朗らかな女性に育つように仕組まれていた。その才能によって、女性は上品、中品 、下品格付けられた。女性と男性が直接会えなかった時代なので、和歌は「話す」方法の一つでもあった。
手紙の内容、様子、香りによって、知識や性格まで理解されていた。そして、服装の合わせが上手で、琴が弾け、綺麗に文字を書き、短歌も作れる女性が、良い女であったという。
以上から、一夫多妻という婚姻形態を持つ時代の理想的な女性のイメージは、才能が豊かで、心が優しく、外見が美しいというものであったことが、『源氏物語』などから窺える。
鎌倉・室町の時代になっても公家の女子は、古代と同じく、音楽・和歌・書道をもって重要な教養分野としたが、有職故実を尊ぶ時勢の影響もあって、歴史にかかわる学習の風もおこった。それは、『庭の訓(おしえ)』(鎌倉初期撰。「庭訓(ていきん)」を訓読みにした語。家庭教育。庭訓=庭訓往来)や『乳母の草紙』などにみられるという。
これらは、『源氏物語』と比べると、仏教や儒教的な考えが取り込まれでおり、「妹君の乳母の教えでは、美しい外見や芸能の多才さより心の方が大事、他人に対して、悪口を言わず、仏を信仰しなければならない、両親や年上の人を尊敬し、世話をしなければならない」ことなどが述べられているといった特徴を持つている(女訓書。参考※8:「日本古典文学テキスト」の乳母のふみ 一名「庭のをしへ」参照)。つまり、仏教や儒教の影響を受けながら、平安時代の女性イメージが継承され、「しとやかで貞淑」な女性の理想像が強化されていったと言えるようだ。
そして、武家の正妻となる者は、まず貞操を全うすることを以て婦人の第一の美徳と考えられるようになり、家庭生活が厳粛になってきたが、この転換には、鎌倉幕府を開いた源頼朝の正室となった北条政子の影響があるようだ。
平安時代の男女関係は意外とおおらかであり、男女ともに貞操観念は低かった。 しかし、政子の頼朝に対する貞操はしっかりしたものであり、夫や家を大切にする点では、その後の日本女性の典型になっていた。
政子は自らを厳しく律し、夫に仕えながらも、夫に間違っている点があれば堂々と指摘する。自分の身を厳しく 律し、貞操観念を守ることで「妻の権威」を得、そして家を大事にして、夫や息子たちが男として立派に生きるように指導する。「日本の賢母」の典型は、政子から始まったといえる。その伝統は、つい最近までの日本婦人の生き方を決定してきたのである。
江戸時代の女性はどうだったか・・・?
江戸時代になると、幕府による統治が安定し、260 年間平和な状態が続いた。
江戸時代の女性も基本的に、鎌倉・室町の時代と変わらない。ただ、この時代には儒学などの教学が盛んになり、社会一般に及んだ。
中国漢代の儒者戴徳が、儒家の礼に関する古い記録を整理し、その理論と解説を記した『大戴礼記』(大戴礼ともよぶ)にある七去(しちきょ)(妻を離婚できる七つの事由)、というものが、日本では宝永7年(1710年)、貝原益軒が81歳のときに記した『和俗童子訓』(※9参照)巻の五の「女子を教える法」の中に記載がされている(ここ参照)。
この「女子を教える法」は後に女性の教育に用いられるようになった教訓書『女大学』などの書物によって一般化し、江戸時代中期から太平洋戦争戦前まで、女子教育のバイブルとして君臨した。
「教女子法」において、最初に「男性は外に出でて、(中略)女子はつねに内に居て」「いにしえ、天子より以下、男は外をおさめ、女は内をおさむ」と述べて、女は男と違い奥向きのことをすべきこと。そして、「婦人は、人につかうるもの也」であるとし、身分に関わらず早朝から深夜まで怠けずに、舅姑(きゅうこ。舅と姑)や夫に仕えなければならないし、「みずから衣をたたみ、席を掃き、食をととのえ、うみ、つむぎ、ぬい物し、子をそだてて、けがれをあらい、(中略)是れ婦人の職分」だと述べている。
その上で、「婦人に七去(しちきょ)とて、あしき事七あり。一にしてもあれば、夫より遂去(おいさ)らるる理(ことわり)なり。故に是(これ)を七去と云(いう)。是古(いにしえ)の法なり。女子にをしえきかすべし。一には父母にしたがはざるは去(さる)。二に子なければさる。三に淫なればさる(淫=淫乱のこと。浮気、姦通など)。四に嫉(ねた)めばさる(嫉み=嫉妬のこと。家族を恨み、怒る場合)。五に悪疾(あしきやまい)あればさる。六に多言なればさる(.男のようによく喋り、家の方針についてあれこれ口を挟むこと)。七に竊盗(ぬすみ)すればさる」と七去の一つでも守れないと、離婚されることのもあるとしている。
又、「七去三従」という言葉も使われた。「三従」とは、「生家では父に従い、嫁しては夫に従い、夫の死後は子供に従え」という教えであり、やはり儒教の教えと関係が深い言葉であり、一個人より「家」の方が大切なものと考えられていた。
こうして、江戸時代には鎌倉室町時代以上に、女性には「貞女」としての貞操が求められ、「女の道」という倫理が武家社会に強く意識されるようになり、これらの傾向は、武士だけでなく、社会一般にもおよんだとされている。
しかし、参考※10:「誰が守るか女大学ー三下半と江戸時代の女性像ー」に、式亭三馬の滑稽本『浮世風呂』の序文には「蓋(けだし)世に女教の書許多(あまた)あれど、女大学今川のたぐひ、丸薬の口に苦ければ婦女子も心に味ふこと少なし」とある。つまり『女大学』は苦い薬のようなもので、自分のものとしてる女はいないという認識であった。・・・とあるように、江戸時代の女性は、言われているほどにひ弱ではなかった。…というより、結構たのもしく、したたかに生きていたようである。
古来日本は性には開放的な民族で、徳川後半の日本の全国のムラでは、夜這いなどは、ありきたりの風習で、どこでも行われていたことであったようだから・・・。
男女の婚姻形態に大きな影響を及ぼしたのは、明治時代に制定された家制度である。1898(明治31)年に制定されたこの民法で戸主制が決められ、江戸時代から続く庶民の夜這い婚(集団婚、妻問婚の名残とみる説また、近世郷村の農村社会に固有の様式であり、村落共同体という自治集団を維持していくための実質的な婚姻制度、もしくは性的規範であるとする説がある)に代表されるおおらかな性の有り様も、貞操観や良妻賢母を理想とする女性像に変質していく。
この 明治と昭和という大きな時代に挟まれたわずか14年半という短い期間の大正時代は、国内外共に激動の時代であった。テクノロジーの発達は目覚ましく、デパートの大量消費,電車に乗り通勤するサラリーマンとその主婦の登場、文化住宅など現在の我々の生活の基盤ができあがったのもこの頃である。
ラジオや活動写真で流行歌や演劇を楽しみ、街にはネオンが輝き、ダンスホールやカフェーに集まるモダンガールやモダンボーイ(モボ・モガ)たちがダンスを楽しんだ。モダン都市・東京の中心銀座文化」には女性が大きな役割を果たした。こうした華やかな雰囲気はしばしば大正ロマンと表現をされる。和と洋のミックスされた異国情緒の甘い香り漂うこの文化は、現在でも様々な面で注目されている。
中でも一大ブームを巻き起こした竹久夢二、高畠華宵。中原淳一や、松本かつぢ、加藤まさを、蕗谷虹児などの抒情画に代表される。彼らの絵の根底にはロマン主義が共通して見て取れるが、大きく分けると竹久夢二と高畠華宵のこの二人の画家は,健康的な美ではなく、女性の色気が強く表現されているように思わる。
夢二が日本の伝統的な女性の美を描いたのに対して、華宵の描く女性は都会的で西洋の影響を強く受けているように思われる。しかし両者の絵もどことなく退廃的で,甘美な感傷の世界が漂っている。
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上掲の画象、向かって、左:竹久夢二画「寧楽椿市(ならつばいち)」、大正期の作。右:高畠華宵画「師走の風」昭和初期作。画像は、朝日クロニクル『週刊20世紀』1926年号掲載分より借用。
上掲の画像向かって、左:夢二の画には「たらちねの母がよぶなを申さめど道行く人を誰としりてか」と夢二の文字が見える。椿市(海石榴市)は奈良県桜井市三輪町。古代、物品交易の市として栄えた。
歌(万葉集)の意は「私の名を申し上げてよろしいのですが、あなたどなたかわからないので申しあげないでおきましょう」。(万葉集のこの歌、なかなか奥深い意味がある。この歌の詳しい意は※11を参照されるとよい。)
『モダニズム』『デモクラシー』大正の枕詞は新鮮で明るい。しかし、花は咲くもののあわただしかったが、散るのも早かった。
二人のそれぞれの画家は美に対する独自の信念をもち、急激な都市の変化に伴うこの時代の風潮や流行を敏感にとらえたうえで、当時の人々の心情のあり方を繊細に描き出しているように見受けられる。また、当時の女性たちも、多少の違和感を覚えながらも親の絶対的権限は心得ており、良い娘・妻であろうとした。
当時は、まだ、これまでの時代と同様に、姑の言うことを良く聞き、家事全般を行い、子を産み、夫を支え、家庭を守るのが女性の役割であり、求められた姿であった。
国は富国強兵のもと兵力を必要とし,女性に子を産むことを推奨するため良妻賢母の教育を行った。良妻賢母といっても,その内容はただたただ家族に従順であり、家以外のことは何も知らぬ女であれという奴隷教育のようなものであった。
女性の教育の場であるはずの女学校も、裕福層が増えたことで娘を女学校に通わせることが親たちのステータスになり、本気で自立する力をつけさせようとする親はほとんどいない。実際授業の大半は家庭科で占められ、花嫁修業の場と言っても過言ではない状況であった。
新しい時代の自由を身に感じ始めていた彼女たちも、現実は「生活に無力なために、生きるがために結婚することを余儀なくされていたのである。
自分ではどうすることもできない無念さを感じる彼女たちはまさに、抒情画に描かれる、はかなく悲しみを帯びた女性の姿に強く共感することができたのであろう。そこに自分を投影し、竹久夢二によって創られた詩歌のタイトル「宵待草」のように恋に生き、恋人をずっと待ち続ける女性に夢を託し、ある時は虚しく遠くを見つめる女性に自分を見て慰めたりしたのではないかという(※12参照)。
「待てど暮らせど 来ぬひとを 宵待草の やるせなさ 今宵は月も 出ぬそうな.」(宵待草)以下で、歌が出来た経緯と曲がわかる。良い曲ですよ。
宵待草: 二木紘三のうた物語
しかし夢二の描く女性も、華宵の都会的なモダンガールも、描かれるのはあくまで男性から見た女性の姿であり、そこには画家たちの理想像が強く投影されている。彼らは力の弱い、何かにもたれかかる受け身の女性の姿に「もののあわれ」の美を見いだしたのである。それは新しいとはいえない、明治の女性の姿そのままであった。それにも関わらず大正の女性の支持を得たのは絵に対する共感だけでなく、女性が男性に養って貰う他に生きる術を持たないため、男性の求める「女性」の姿を見て取り、より「女性」らしくある必要を受け止めていたからではないかという。したがって、この絵を支持するのは女性に限って言えば女学生や一般家庭婦人、芸者や喫茶店の女給、芸能人などであって職業婦人は少なかったという。
明治までの街並みも趣味も服装も西洋的に変化を遂げ、何から何まで新しく生まれ変わったモダンな大正文化の中で、一大ブームとなった抒情画のその根底を支えていたのは、新しい思想に目覚めた自活した女性ではなく、明治から変わらぬ古い因習にがんじがらめに苦しむ人々であった。彼らの理想と現実に対する絶望感や無力感が原動力となり、大正ロマンのあの独特の負の雰囲気が醸し出されていたのである(※12参照)。
もちろん女学生の生活は学校での授業だけでなく、楽しみや悩みからも成っていた。昔の女学生も現代と同じく雑誌が好きであった。二十世紀の始めに、最も人気があった『少女倶楽部』(1923年創刊)、『少女画報』(1912年創刊)、『少女の友』(1908 年創刊)、『令女界』(1922 年創刊)などの雑誌は、その時代を反映したものであって、そこに表れた豊富な情報をもとに、服装やヘアスタイルその他色々な情報を得た。
大正も中頃になると女性の職業も増え、自活をする女性も現れる。これら本当の意味で新しい女性たちは、周りからの非難・嘲笑にも耐え、自らの力で男女の自由を獲得できない苦しみや「社会的弊害を突破して、恋愛の自由や結婚の自由を実現するようになった。
今年のNHK朝ドラ・連続テレビ小説『ごちそうさん』。主演の卯野 め以子を演ずる杏はオーディションなしでの直接オファーでヒロインを演じることが決まったらしいが、オーディションなしでヒロインが決定したのは、2012年度上半期『梅ちゃん先生』の堀北真希以来だそうである。
時代設定は大正・昭和期。東京のレストラン「開明軒」の食いしん坊の娘・め以子は大正ロマンを生きる女学生に成長後は、お洒落や恋愛に興味を持ち、高い身長に悩み始めるが、食いしん坊ぶりは相変わらずな上、料理をすることや学問には関心がなく、将来についても結婚したいという漠然とした考えしか持っていなかった。落第が危ぶまれても関係ないと開き直るが、下宿している偏屈な大阪男・西門悠太郎から食べ物になぞらえて勉強を教えてもらい成績が向上した事をきっかけに、自分の人生や、悠太郎に対する気持ちに変化が現れ始め、ついには、太郎と恋に落ち、悠太郎の下に嫁ぐ。そして、苦労しながら食い倒れの街・大阪を舞台に、関東・関西の食文化の違いを克服しつつ、料理と夫に愛情を注ぐことで、め以子が力強い母へと成長していく物語だそうである(ここ参照)。
冒頭の画像は、Wikipedia-コケットリーより、ヘンリ・ジェルボー(ここ参照)のスケッチ。
「よろしければ、この美しい肩に野蛮な男のキスはいかかがですか?」
「もっとよくみた後なら好きなだけ」
これは、ヘンリ・ジェルボーのスケッチにつけられたキャプション、1901年。
いい女の日(2-2)へ続く
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