今日11月28日は「税関記念日」である。大蔵省(現在の財務省)が1952(昭和27)年に制定。
記念日の日付は、1872(明治5)年のこの日、運上所の呼称を「税関」と改め、ここに税関が正式に発足したことによる。
税関では、この11月28日を「税関記念日」として、全国各地の税関では、この日を中心に、広く税関の役割や業務について理解を得るとともに、税関業務への協力を求めるため、様々なイベントを開催している(※1参照)。
税関(英::Customs)は、日本国においては財務省の地方支分部局として置かれる国の機関であり、函館、東京、横浜、名古屋、大阪、神戸、門司及び長崎の8税関のほか、沖縄地区税関が設置されている。(税関の管轄区域参照)
そして、関税及び内国消費税(※2、※3参照)等の徴収、輸出入貨物の通関、密輸の取締り、保税地域の管理などを主たる目的・業務としている。
ときおり、出入国管理や国境の警備をする機関と思われる事もあるようだが、そのような業務は日本の場合は法務省入国管理局が行う。税関は、国際的な物流の管理に関与する必須的な機関なのである。
冒頭掲載の画像は、税関のロゴ。画像は※1:税関ホームページより借用。このデザインは、中央に航空機、船、ゲート(門)を組み合わせ、従前のロゴマークにあった"関"の字を引き継いでいるそうだ。また、ゲート(門)の中の秤は公平を、鍵は保全を意味し、税関の役割を図で表現するとともに、3つの桜が税関の使命(安全・安心な社会の確保、関税等の適正・公平な課税、貿易の円滑化)を示しているのだという。
尚、このロゴマークは、神戸税関職員がデザインしたもので、平成19年(2007年)11月1日から全国の税関で使われているそうだ。
実は、「税関記念日」のことは、このブログで以前に簡単に書いたことがある(ここ参照)。だから今回は2度目であるが、今回、税関は日本の開港と同時に設置されたものであり、設置された当時の日本の歴史を振り返りながら、税関設立の経緯を書いていくことにする。
日本において、徳川幕府は世界史的にみて脅威的な安定社会を生み出していた。良きにせよ悪しきにせよ、近世に至ってこれほどの長期政権は例が無い。
200年以上に渡って鎖国政策(近年の研究参照)を続けていた江戸時代には、長崎の出島が日本と外国を結ぶ唯一の港であった。
しかし、18世紀後半になると、異国船が次々訪れ、武力を背景に日本に正式な通商を求めてきたが、江戸幕府はこれを拒絶し続けていた。
又、文化8年(1811年)のゴローニン事件、文化5年(1808年)のフェートン号事件のような摩擦・紛争をきっかけに異国船打払令が出され、逆に非武装商船に対する発砲事件(モリソン号事件)への反省から薪水給与令が出されるなど、幕府の対外政策は揺れ動いていた。
しかし、嘉永6年6月(1853年7月)、蒸気船を配備した東インド艦隊を引きいたペリーが、浦賀沖に来航(黒船来航)し、開国を求めるアメリカ大統領国書を提出した後、日本を離れ、翌嘉永7年1月(1854年2月)、ペリーは国書の返答を求めるため、再び浦賀へ来航した。
国中が、開国か攘夷(攘夷論参照)かの対応をめぐり議論が大いに沸騰しているなか、嘉永6年(1853年)、第12代将軍・徳川家慶が病死したことを受けて、第13代将軍となったばかりの徳川家定(いえさだ)は心身共に虚弱な人物で、到底この国難にリーダーシップを発揮して、立ち向かえる人物ではなく、幕府は、諸外国の圧迫に対し確固とした方策を持って望む事ができなかった。
しかも、既に大英帝国と清帝国が争った結果(アヘン戦争)、天保13年(1842年)には、南京条約が結ばれていた。そういう国際情勢に通じている幕府は驚異を感じ条約締結に向うこととなった。
そして、3月幕府は遂に、日米和親条約を締結した。
この条約はアメリカ艦船への物資の補給と漂流民・来航船員の優遇を約束し、その為に下田と箱館(後函館)の2港を開き、かつ日本が他国に対してアメリカに与えていない権益を将来許した時には直ちにアメリカにも同一権益を許すという最恵国条款(参考の★1参照)を与えていた。この最恵国条款は、後の修好通商条約にも引き継がれ不平等条約の内容のひとつとなった。
ここに遂に200年余りにわたって続いた鎖国体制が打ち破られた。ペリー来航によって撃ち込まれた外圧のくさびは、鎖国を基本とした幕藩体制に決定的な影響を与えた。
ペリー来航1か月後に来航したロシア海軍中将プチャーチンによる日露和親条約をはじめ、日英・日蘭条約も結ばれた。
そして、安政3年(1856年)、日米和親条約により、日本初の総領事として下田に赴任したタウンゼント・ハリスによって、翌安政4年(1857年)日米協約(下田条約)が締結された。
ハリスは当初から通商条約の締結を計画していたが、日本側は消極的態度に終始した。しかしハリスの強硬な主張により,交渉担当者の間でアメリカとの自由通商はやむを得ないという雰囲気が醸成されると、江戸幕府は、条約の交渉を開始させた。その内容に関して合意を得た後、孝明天皇の勅許(天皇の許可)を得て世論を納得させた上での通商条約締結を企図する。
しかし、攘夷(鎖国)派の少壮(若くて意気盛んなこと)公家らが抵抗。また、孝明天皇自身、和親条約に基づく恩恵的な薪水給与(薪水給与令参照)であればやむ得ずとの考えもあったようだが、対等な立場で異国との通商条約締結は、従来の秩序に大きな変化をもたらすものであると考え、頑に勅許を拒否していた。
安政4年(1857年)6月攘夷(鎖国)派であった老中阿部正弘が死去後、廃人同様だったともいえる第13代将軍家定の継嗣問題を契機に開国派と攘夷派の対立が一段と激化してくる中、開国派の実力者彦根藩主井伊直弼が大老に就任し、独断専行で、徳川慶福(徳川家茂)を将軍継嗣に決定するとともに、威嚇と督促を重ねて迫るハリスに対しては、安政5年(1858年)6月19日、勅許をえないままに日米通商条約を調印(14代将軍徳川家茂の署名)してしまった。
継嗣問題で一敗地にまみれた一橋派(継嗣問題で一橋徳川家の当主・徳川慶喜[のちの15代将軍]を推した一派)は、井伊の違勅調印を理由に一斉に井伊攻撃に立ち上がった。「違勅」に対しては、「尊王」を、「開国」に対しては「攘夷」をとなえ、ここに尊王攘夷つまり、尊攘は反井伊・半幕府のスローガンとなったのである。
公明天皇も、激怒して、攘夷の意向を示し、同年8月には条約調印に不満を示す勅諚(戊午の密約)を水戸藩へ下した。
この将軍の臣下であるはずの水戸藩へ朝廷から直接勅書が渡され、幕府がないがしろにされ威信を失墜させられたことに対し、幕府の危機を見た井伊が徹底的な弾圧策をとったのが安政の大獄であり、このことが桜田門外の変の引き金になった。
安政5年(1858年))6月19日に調印された日米通商条約に続いて蘭(オランダ)、露(ロシア)、英(イギリス)、仏(フランス)などと相次いで通商条約を締結した(安政の仮条約ともいう。安政五か国条約参照)。
条約は神奈川(横浜。下田を閉鎖)・長崎・箱館(函館)の3港が開かれることが決められた。そして、安政6年(1859年)、長崎、横浜及び箱館(函館)の港に「運上所」が設けられ、今日の税関業務と同様の輸出入貨物の監督や税金の徴収といった運上業務や、外交事務を取り扱うことになった。これが税関の前身である。こうして本格的な貿易が開始された。当時貿易相手国は主にイギリスであった。日本からは生糸や茶などが輸出され、毛織物、綿織物や艦船や武器などが輸入された。
この安政五か国条約では、神奈川(横浜)・長崎・箱館(函館)の3港以外にも期限付きで新潟・兵庫(両港)を開港場(条約港)とし、江戸・大阪両都の開市も定められていた。これらの時期は、新潟を1860年1月、江戸を1862年1月、大坂・兵庫を18663年1月と決められていた。
しかし、安政五カ国条約による開港・開市問題はその後の交渉の争点となった。列国の意図するところは自由貿易であった。
後進国にとっては、自由貿易それ自体が不平等を意味したが、そのほかに領事裁判権(外国人犯罪に日本の法律や裁判が適用されないこと。いわゆる治外法権)や関税自主権の欠如(輸入品にかかる関税を自由にきめる権限がなく、外国との協定税率にしばられていること。)、さらには和親条約から引き継がれた無条件かつ片務的な最恵国条款(通商航海条約や通商協定において、最恵国待遇を規定する条項)などが日本を規制した。日本にとって不利な内容を含む不平等条約であった。
金銀交換比率の内外差による金の流出(幕末の通貨問題参照)、外国商人が日本商品(特に絹)を高く購入したことにより生じた物価上昇などが、尊王攘夷運動の激化や一揆、打ちこわし等を招いた。
幕府は物価高騰と流通の混乱を防ぐため、開港から10ヶ月後の万延1年(1860)閏3月、五品江戸廻送令を公布して貿易の統制を図ろうとするが失敗する(※5:「なるほど幕末」の考察・エッセイ>幕末覚え書>4 開国と幕府瓦解(1)開国による経済混乱 参照)など、国内問題が山積していた。さらに、井伊が暗殺された後も朝廷は大坂開市と兵庫開港に猛反発したため、幕府は期日通りの開市開港は無理と見て、諸外国に開市開港延期を申し出る。
アメリカ公使タウンゼント・ハリスは、幕閣とも親しく実情を理解していたこともあり、延期やむを得ずとしたが、英国公使ラザフォード・オールコックは断固反対であった。このため、幕府は欧州本国政府との直接交渉のため、文久遣欧使節を欧州に派遣することとした。
上掲の画象は、文久遣欧使節団の主要メンバー。左から、副使の松平康英(石見守)、正使の竹内保徳(下野守)、目付(監察使)の京極高郎(能登守)、柴田貞太郎(組頭)。
努力の甲斐あって最終的には、文久2年5月9日(1862年6月6日)、開市開港を1863年1月1日より5年遅らせ1868年1月1日とすることを定めたロンドン覚書を英国と交換し、同年8月9日(10月2日)には仏とパリ覚書も締結した(※4参照)。
日本は開市開港の延期を認められたものの、代償として関税の低減化を始めとする貿易の自由化を認めさせられた(ロンドン覚書主な内容参照)。
また、その間の1863年から1864年にかけて長州藩と、英・仏・蘭・米国の四カ国との間に下関戦争が勃発し、敗れた同藩は賠償金300万ドルを支払うこととなった。
しかし、長州藩は外国船に対する砲撃は幕府の攘夷実行命令に従っただけであり、賠償金は幕府が負担すべきとの理論を展開し、四カ国もこれを受け入れた。幕府は300万ドルを支払うか、あるいは幕府が四カ国が納得する新たな提案を実施することとなった。
英国は、この機に乗じて兵庫の早期開港と天皇からの勅許を得ることを計画し、他の3国の合意を得、慶応元年9月16日(1865年11月4日)連合艦隊合計8隻を兵庫に派遣、幕府に圧力をかけた。
これに対し、幕府は孝明天皇が条約の批准に同意したと、四カ国国に対して回答。開港日は当初の通り慶応3年12月7日(1868年1月1日)であり、前倒しされることはなかったが、天皇の同意を得たことは四カ国の外交上の勝利と思われた。また、関税率の改定も行われ、同時に幕府が下関戦争の賠償金300万ドルを支払うことも確認された。
ところが、朝廷は安政五カ国条約を勅許したものの、京都に近い兵庫開港についてはなお勅許を与えない状況が続いた。この兵庫開港の勅許が得られたのは、延期された開港予定日を約半年後に控えた慶応3年5月24日(1867年6月26日)のことである。
第15代将軍に就任した徳川慶喜は2度にわたって兵庫開港の勅許を要請したがいずれも却下され、慶喜自身が参内して開催を要求した朝議を経てようやく5月24日勅許を得ることができたという。
慶応3年12月7日(1868年1月1日)、各国の艦隊が停泊する中、神戸港は無事開港した。
その直後の 慶応4年1月3日(1868年1月27日)、鳥羽・伏見の戦いが勃発した。1月11日(1868年2月4日)、神戸事件が発生し、兵庫港に停泊中の諸艦の水兵が神戸を占領すると言った事件が起こっている。
なお、鳥羽・伏見の戦いに敗れた徳川慶喜はで江戸に脱出。同年4月11日江戸城無血開城に至っている。同年9月8日明治と改元。
江戸幕府を倒した薩摩藩・長州藩を中心とした明治政府も、明治2年(1869年)に政府として改めて開国を決定して、以後は不平等条約の撤廃(条約改正)が外交課題となっていくことになる。
開港場に設けられた居留地制度は、事実上日本の法律の及ばない租界的な様相を帯びていた。
この領事裁判権が問題になったのは明治になってからである(幕末には外国人が被害者になるケースが多かった)。領事裁判権は明治32年(1899年)になってやっと撤廃された(内地雑居の開始)。
この居留地を中心に貿易は開始されたが(居留地貿易)、国内産業の発達に伴って、国内商品と外国商品との競合が始まると、国内産業保護の観点からも関税自主権の獲得は重要課題となったが、その獲得も明治44年(1911年)になってからのことであった。
税関の歴史を辿れば、このように幕末の日本の開国・開港問題から派性たものであることがわかったと思うが、私の生まれ育った、神戸の街は神戸港の開港を期に発展してきたのであり、この機会に、神戸港の歴史とこの港と関係の深い神戸税関のルーツについても少し述べておこう。
六甲山(六甲山系)の連なる山々から大阪湾に至る急峻な地形によって水深が急激に深くなる特徴から「天然の良港」として知られる日本を代表する国際貿易港である神戸港。
その歴史は天平年間、聖武天皇による東大寺大仏殿造営の勧進を行った大僧正行基が築いた大輪田泊(神戸市兵庫区。今の三菱造船所の北側にあった。摂播五泊のひとつ)に始まるが、古代には「務古水門(むこのみなと)」、「敏馬(みぬめ)の浦」と呼ばれ、朝鮮半島の港と交流をしていたことで知られている(※7の兵庫津の歴史参照)。
平安初期に造大輪田船瀬使が置かれ、石椋(いわくら)の築造など修固が加えられた。そして、遣唐使船の 寄港地に利用されたり、平安時代末(12世紀)には近辺の福原に別宮(福原京)を営んだ平清盛がここを重視し、人工島経が島(兵庫島)を築き整備拡張して、日宋貿易の拠点とした。
平氏滅亡後は、源平の争乱で焼失した東大寺大勧進の重源がその事業を引き継いで、修築。
承久の乱後、荘園の発達で年貢輸送船が盛んに往来するようになり、1308(延慶1)年、経ヶ島に兵庫関が置かれるようになった。
その後、元寇の役により大陸との貿易が途絶えるとともに活動が衰えるが、室町時代に入ると国内の海上輸送の拠点であるばかりでなく、1404(応永11)年より、足利義満により開始された日明貿易の拠点として再び国際貿易港としての地位を得、以降ここは国内第一の港として「兵庫津」「兵庫島」と呼ばれるようになる。
当時の 兵庫津の様子は絵巻物『一遍上人絵伝』にも描かれている。以下でその絵が見られる。
絵巻物『一遍上人絵伝 巻第12(模本)』に描かれた「兵庫津沖を行く年貢輸送船」
兵庫津は源平合戦や湊川合戦,でも兵火にあっているが、特に、特に応仁の乱( 文明9年[1467年])では、東西両軍は、兵庫の港からあがる利益(兵庫関から上がる利益)を逃がすまいとして、この地で激しく戦ったため完全に灰燼に帰し、また、この戦乱で瀬戸内海の治安も完全に乱れてしまった。
そのため、堺に繁栄の座を譲った兵庫が再び台頭してくるのは、豊臣秀吉が堺の商人を大阪に移してからであるが、兵庫津は戦国時代にも歴史の舞台の一つとなった。
兵庫津は織田信長や豊臣秀吉らの保護を受け、桶狭間の戦いなどで活躍した池田恒興(諱は信輝) が信長に反旗をひるがえした荒木村重の花熊城を攻略、その用材を用いて兵庫城を築き、それを中心に城下町の整備をすすめたことから兵庫の町の発展がはじまった。
江戸時代になると鎖国政策のため外国貿易は途絶えた一方国内経済は安定していた。当時政治の中心は江戸、経済の中心は大坂であり、このため兵庫の津は全国と大坂、江戸を結ぶ海上輸送の要衝として栄えた。
元和5年(1619年)にはじまる菱垣廻船、寛永16年(1639年)にはじまる北前船による日本海側との航路(西廻り航路)開設、寛文元年(1661年)頃にはじまる樽廻船や内海船(※8参照)などの船舶が兵庫の津を行き交うようになった。また、鎖国はしていたが、通商関係のあった蘭国や朝鮮(朝鮮通信使。※9参照)は江戸渡航に際して兵庫の津を利用することが多々あったようだ。
又、兵庫の町を通る西国街道には宿駅も設けられ、また、灘五郷として酒造りも活発になっていた。
幕府は当初、大阪商人に特別の保護を与え、兵庫を圧迫する方針を採っていたが、自然の良港を持つ兵庫は瀬戸内海第一の集散市場となるなど、その発展を抑えることは出来なかった。
江戸時代中期に兵庫津に本店を置いて活躍した回船問屋高田屋嘉兵衛)や、江戸三百年間の兵庫の豪商北風家たちが兵庫津の隆盛に貢献している。
しかし、江戸末期、兵庫津も激動の渦中にあった。特に嘉永7年(1854)ロシア使節プチャーチンの大阪湾侵入により、周辺の海防が重視され、文久3年(1863)には江戸幕府の軍艦奉行であった勝海舟は海防のための幕臣の教育施設として「海軍操練所」の設立を、呉服商網屋吉兵衛が私財を投じて竣工させた船たで場(フナクイムシを駆除するための乾ドック。船据場ともいう)を利用することを考え、当時の将軍であった徳川家茂に建白した。
翌元治元年(1864年)、明治維新に多大な功績を残した坂本龍馬が塾長を勤めた諸藩の志士のための「海軍塾」と共に開設されたが、勝の更迭と同時に「神戸海軍操練所」と「神戸海軍塾」(※10参照)は閉鎖になった。同じ年に建てられた海防の要・和田岬砲台が、今も神戸市兵庫区に現存している。
一方、「兵庫開港」は、安政5年(1858)の日米修好通商条約で、1863年1月1日と定められたが、朝廷の反対にあい、文久2年のロンドン覚書で5年間延長され、慶応3年12月7日(1868年1月1日)、神戸開港として実現したことは先に書いた通りである。
安政五か国条約上の「開港」とは港だけを開くことではなく、町を外国に開くことであった。開港場、開市場には外国人居留地が開設された。
外国船舶は貿易のため開港場には入港できるが、開市場には入港できない。神戸開港・大坂開市式典は、条約で開港場と取り決められた兵庫から東へ約5キロ離れた神戸村の海沿いに建設中の、神戸外国人居留地南端に新装なった運上所で行われた。
しかし、神戸開港の勅令は慶応3年5月を以って下され柴田日向守剛中(大坂町奉行)が、7月9日には兵庫奉行を兼務して、もっぱら外国人居留地問題などの外交問題を担当し、神戸の外国人居留地の工事が始まったのは慶応3年(1967年)9月1日のことであり、「神戸港」の開港が12月7日なので、たった3ヶ月前の突貫工事であり、形だけの開港であった。
上掲の画象は、開港当日の神戸港図。この日、停泊中の各国軍艦はそれぞれ日章旗を掲げ、正午には一斉に21発の祝砲を放って開港を祝った(市民のグラフこうべNo95)。
この画像は挿し絵入り週刊誌『イラステッド・ロンドンニュース』掲載の物らしい。
同画像を見ると海岸のところに四角くぽっかりと白くあいているところが見られるが、ここが神戸外国人居留地である。
開港当時、建っていた建物は運上所と倉庫が3つぐらいだけだったという。また、その運上所が完全に完成したのは2月5日のことだったというから、開港当時は一応できていたという程度のもので、他に建物はなく、ただ地ならししただけの状態での開港であったようだ。
神戸沖には18隻の外国艦隊(英12隻、米5隻、仏1隻)が停泊しているが、外国側が大艦隊を派遣した狙いは、日本側に条約どおり開港・開市を実現させること、式典に参加すること以外に,開港・開市を阻止しようとする過激な攘夷運動に列国が団結して対決する姿勢を日本側に見せつける狙いもあったようだ。
外国艦隊が発した21発の礼砲が裏山にこだまし、住民を震え上がらせたことだろう(※12のニュースレター第305号神戸開港秘話〜「神戸事件」当日の神戸沖外国艦隊〜参照)。
上掲の2枚の画像中、上の画像は、開港間もない頃の運上所前波止場。この波止場は先にも述べた納屋吉兵衛が生田川(旧生田川)尻西側に設けた船たで場跡で、開港に際し、幕府の手により波止場に改築され第1波止場(現在ある第1波止場等とは東西に並ぶ順序が逆になっており位置が違う)と呼ばれた。(市民のグラフこうべNo95)
下の画像も同じころのものと思われれるが、赤○印のところが納屋吉兵衛の船たで場跡のあったところにできた神戸海軍操練所。その後にできた運上所である。
運上所のある居留地の北側(上方)に生田神社の参道が見える。「生田(活田)(いくた)」の地名は日本書紀にも出てくる(※13参照)。この辺りは生田神社の社領であったことから神戸(かんべ)→神戸(こうべ)になった。「神戸」は当時、開港場一帯の村の名前でしかなく、幕末の神戸村は、建物といえば海軍操練所と農家が数件という未開地であった。
安政五か国条約上「兵庫」に港を開くことになっていたが、兵庫は歴史のある土地で町も発展し住民も多い。この様な地で外国人とのトラブルを避ける為に、5キロも離れた神戸村の海沿いの何もない「海軍操練所」があった辺りを事実上の「兵庫港」(現:神戸港)として開港をしたのである。
王政復古の2日前、慶応3年12月9日(1868年1月1日)の開港に際して、兵庫の津は湊川(旧湊川)以西を兵庫港、以東を神戸港と称し、外国船の停泊は神戸港を利用する経緯があった。しかし、兵庫港、神戸港の2港時代は、明治25年(1862年)両港を一括して「神戸港」の名称を用いた勅令の公布をもって終わりを告げ、今日言うところの神戸港となった。
諸外国から兵庫港の開港を求められた幕府が、あえて当時人口希薄な一漁村神戸を重点に開発を進めたことから、かって「兵庫津」であった「兵庫港」は次第に「神戸港」に繁栄を譲ることになる。しかし、「兵庫港」と「神戸港」が一つになって「神戸港」と呼ばれるようになってからも、「兵庫港」は「神戸港の兵庫港」として兵庫運河、同運河支線新川運河の建設が行われるなど、「神戸港」の補完的役割を担い、輸入青果物専用埠頭や三菱や川崎の造船所を中心とする工場の材料荷役などを受け持つ兵庫突堤としての存在価値を保ってきた。
慶応4年(1868年5月23日)、兵庫裁判所(元兵庫鎮台)を廃止し、兵庫県が設置され、同じ年の1月に起こった「神戸事件」(ここも参照)で活躍した伊藤俊輔(後の伊藤博文)が初代兵庫県知事に就任し、居留地の造成にも力を尽くした。
神戸税関の前身である「兵庫運上所」は、慶応3年(1868年)、兵庫港(現:神戸港)開港と同時に開設され、幕府の兵庫奉行所の直轄機関であったが、王政復古の大号令により、明治新政府が誕生し、幕府軍が、翌年の正月3日に鳥羽伏見の戦いで幕軍が敗れたため、御用始めどころか、兵庫運上所はわずか1カ月余で事実上の閉鎖となってしまった。
その後、新政府による「神戸運上所」が誕生し、明治5年(1872年)11月28日に、全国の運上所が税関として名称を統一されることとなったのを機に、翌・明治6年1月4日に「兵庫運上所」は「神戸税関」と改称された。
初代本関庁舎は明治5年(1872年)2月に着工され、明治6年12月に完成した。石造の2階建で海に面する正面には菊の紋章がさん然と輝く立派な建物であった。
上記画像 が初代税関庁舎である。和洋折衷の建物に取り付けられた窓ガラスが光るところから、当時の人々は「ビードロの家」とよんだ。写真は明治7年頃のもの、明治6年(1873年)神戸港の輸出・輸入ともに全国の12%であったという。(市民のグラフ神戸No57)。
開港後の明治3年ごろには、神戸には約200人の欧米人がいて256の商社が構えていた。当時、全国には約2600人の外国人が居留し、主として横浜を本拠としていたので、神戸の地位もおのずと察せられる。
しかし、神戸の外国人は、その後急速に増加し、明治11年(1878年)には1000人の大台を超え、貿易額でも明治30年代には横浜とその勢力を2分するほどになったという。非常な躍進ぶりである。
しかし、その頃の神戸港は海岸地先のところどころにまだ白い砂浜が残り、松の疎林があちこちに点在していたという。
神戸港が国際港として、近代的な設備を整え始めたのは明治の末の40年以降のことであるらしい、官民挙げての熱意により、神戸港築港予算が国会を通過、着工をされたのは明治40年(1907年)だというから、初代神戸港長J・マーシャルの神戸港築港計画案(※14参照)が世に出てから24年、神戸市会の決議から8年の歳月が経過してからのことだ。
因みに大阪港の築港計画案は明治30年(1897年)に国会を通過、同年にすでに横浜桟橋が竣工しているので、これら両市に比べると、神戸はまだ経済基盤も弱く資力も乏しかったことが遅れをとった原因だが、しかし、この遅れが逆に、港を生命線として神戸と港とは切り離すことができないという強い感情を市民の間に根付かせたことは否定できないという(『市民のグラフこうべ』No111) 。
大正6年(1917年)には神戸港は開港50年を迎えたが、 神戸港の貿易額は、全国の約4割を占め、特に輸入額は日本一であった。港の造成も進み大正10年(1921年)には「櫛(くし)型」の新港第1突堤から第3突堤が完成し、近代的な港としての第一歩を踏み出した。
そして、大正元年(1922年1月20日) 初代税関本関庁舎を火災で焼失し(※15参照)、2代目本関庁舎(花崗岩・煉瓦張り、地上4階建)が竣工したのは昭和2年(1927年)3月になってからのことであった。
港湾の近代化が進み、開港100年を迎えた昭和42年(1967年)には、わが国初のコンテナターミナルを有する摩耶埠頭が完成した。また、本格的なコンテナ時代に対応するため、ポートアイランドの埋立が昭和41年(1966年)から始まり, 昭和56年(1981年)に完成している。、その後第二期工事として昭和62年(1987年)から神戸空港が新たに作られ完成したのは平成17年(2005年)のことである。
この間、平成7年(1995年)1月の阪神・淡路大震災で壊滅的な被害を受けた神戸港は、急ピッチで復旧工事が行われ、新生神戸港として平成9年(1997年)3月末には全面復旧した。
また、昭和2年(1927年)に竣工していた神戸税関二代目庁舎は、「帝国の大玄関番たる税関として決して恥ずかしからぬ近代式大庁舎」と称された日本最大の税関庁舎で、神戸港新港地区のランドマークにもなっていた。なかでも時計塔はまさに“みなと神戸”のシンボルとして、平屋建の倉庫群の並ぶ港頭にあって、ひときわ目立った存在であったが、阪神・淡路大震災で被災しその建物は半壊した。
現在の神戸税関三代目庁舎は平成8年(1996年)4月に着工され、平成11年(1999年)3月に落成した最新鋭のインテリジェントビルである。保全された旧館とで構成され、旧館を船体に見立てるとその棟の上に現れた新館(3代目庁舎)の高層部が船のブリッジにもみえる。
改築工事では旧本関庁舎に連結する旧別館を取り壊し中心に新館を建設したあと、旧別館の外壁を再構築。それにより旧本関庁舎の花崗岩張りの時計塔を含めた外観と内部ホール等は、ほぼ完全な形で保全された。神戸税関のシンボルの大時計は神戸港に姿を現わし、時を刻み始めてから今年で86年間神戸の港を見守り続けてきたことになる。この景観を残した点が高く評価され、公共建築賞やJIA環境建築賞最優秀賞(第2回 2001年度ここ参照)などの賞を受けている。
上掲の画像が神戸税関三代目庁舎である。画像はWikipediaより。庁舎建築概要写真はここで見られる。
今、神戸税関の管轄区域は、兵庫県、中国地方(山口県を除く)、四国地方の広範囲に及び、全国の税関の中でも長い海岸線(約7,100km)を有している。
管内には平成23年(2011年)7月現在で28の外国貿易港(開港)と5つの国際空港(税関空港)があり、全国120の開港及び29の税関空港のおよそ4分の1を占め、本関のほかに15支署、17出張所、及び2監視署が置かれ、約1,100名の職員が輸出入貨物の通関や密輸の取締りに当たっているそうだ。
神戸税関の貿易統計, 密輸摘発実績等、詳しくは※1:税関公式ホームページを見られるとよい。
税関記念日参考へ
記念日の日付は、1872(明治5)年のこの日、運上所の呼称を「税関」と改め、ここに税関が正式に発足したことによる。
税関では、この11月28日を「税関記念日」として、全国各地の税関では、この日を中心に、広く税関の役割や業務について理解を得るとともに、税関業務への協力を求めるため、様々なイベントを開催している(※1参照)。
税関(英::Customs)は、日本国においては財務省の地方支分部局として置かれる国の機関であり、函館、東京、横浜、名古屋、大阪、神戸、門司及び長崎の8税関のほか、沖縄地区税関が設置されている。(税関の管轄区域参照)
そして、関税及び内国消費税(※2、※3参照)等の徴収、輸出入貨物の通関、密輸の取締り、保税地域の管理などを主たる目的・業務としている。
ときおり、出入国管理や国境の警備をする機関と思われる事もあるようだが、そのような業務は日本の場合は法務省入国管理局が行う。税関は、国際的な物流の管理に関与する必須的な機関なのである。
冒頭掲載の画像は、税関のロゴ。画像は※1:税関ホームページより借用。このデザインは、中央に航空機、船、ゲート(門)を組み合わせ、従前のロゴマークにあった"関"の字を引き継いでいるそうだ。また、ゲート(門)の中の秤は公平を、鍵は保全を意味し、税関の役割を図で表現するとともに、3つの桜が税関の使命(安全・安心な社会の確保、関税等の適正・公平な課税、貿易の円滑化)を示しているのだという。
尚、このロゴマークは、神戸税関職員がデザインしたもので、平成19年(2007年)11月1日から全国の税関で使われているそうだ。
実は、「税関記念日」のことは、このブログで以前に簡単に書いたことがある(ここ参照)。だから今回は2度目であるが、今回、税関は日本の開港と同時に設置されたものであり、設置された当時の日本の歴史を振り返りながら、税関設立の経緯を書いていくことにする。
日本において、徳川幕府は世界史的にみて脅威的な安定社会を生み出していた。良きにせよ悪しきにせよ、近世に至ってこれほどの長期政権は例が無い。
200年以上に渡って鎖国政策(近年の研究参照)を続けていた江戸時代には、長崎の出島が日本と外国を結ぶ唯一の港であった。
しかし、18世紀後半になると、異国船が次々訪れ、武力を背景に日本に正式な通商を求めてきたが、江戸幕府はこれを拒絶し続けていた。
又、文化8年(1811年)のゴローニン事件、文化5年(1808年)のフェートン号事件のような摩擦・紛争をきっかけに異国船打払令が出され、逆に非武装商船に対する発砲事件(モリソン号事件)への反省から薪水給与令が出されるなど、幕府の対外政策は揺れ動いていた。
しかし、嘉永6年6月(1853年7月)、蒸気船を配備した東インド艦隊を引きいたペリーが、浦賀沖に来航(黒船来航)し、開国を求めるアメリカ大統領国書を提出した後、日本を離れ、翌嘉永7年1月(1854年2月)、ペリーは国書の返答を求めるため、再び浦賀へ来航した。
国中が、開国か攘夷(攘夷論参照)かの対応をめぐり議論が大いに沸騰しているなか、嘉永6年(1853年)、第12代将軍・徳川家慶が病死したことを受けて、第13代将軍となったばかりの徳川家定(いえさだ)は心身共に虚弱な人物で、到底この国難にリーダーシップを発揮して、立ち向かえる人物ではなく、幕府は、諸外国の圧迫に対し確固とした方策を持って望む事ができなかった。
しかも、既に大英帝国と清帝国が争った結果(アヘン戦争)、天保13年(1842年)には、南京条約が結ばれていた。そういう国際情勢に通じている幕府は驚異を感じ条約締結に向うこととなった。
そして、3月幕府は遂に、日米和親条約を締結した。
この条約はアメリカ艦船への物資の補給と漂流民・来航船員の優遇を約束し、その為に下田と箱館(後函館)の2港を開き、かつ日本が他国に対してアメリカに与えていない権益を将来許した時には直ちにアメリカにも同一権益を許すという最恵国条款(参考の★1参照)を与えていた。この最恵国条款は、後の修好通商条約にも引き継がれ不平等条約の内容のひとつとなった。
ここに遂に200年余りにわたって続いた鎖国体制が打ち破られた。ペリー来航によって撃ち込まれた外圧のくさびは、鎖国を基本とした幕藩体制に決定的な影響を与えた。
ペリー来航1か月後に来航したロシア海軍中将プチャーチンによる日露和親条約をはじめ、日英・日蘭条約も結ばれた。
そして、安政3年(1856年)、日米和親条約により、日本初の総領事として下田に赴任したタウンゼント・ハリスによって、翌安政4年(1857年)日米協約(下田条約)が締結された。
ハリスは当初から通商条約の締結を計画していたが、日本側は消極的態度に終始した。しかしハリスの強硬な主張により,交渉担当者の間でアメリカとの自由通商はやむを得ないという雰囲気が醸成されると、江戸幕府は、条約の交渉を開始させた。その内容に関して合意を得た後、孝明天皇の勅許(天皇の許可)を得て世論を納得させた上での通商条約締結を企図する。
しかし、攘夷(鎖国)派の少壮(若くて意気盛んなこと)公家らが抵抗。また、孝明天皇自身、和親条約に基づく恩恵的な薪水給与(薪水給与令参照)であればやむ得ずとの考えもあったようだが、対等な立場で異国との通商条約締結は、従来の秩序に大きな変化をもたらすものであると考え、頑に勅許を拒否していた。
安政4年(1857年)6月攘夷(鎖国)派であった老中阿部正弘が死去後、廃人同様だったともいえる第13代将軍家定の継嗣問題を契機に開国派と攘夷派の対立が一段と激化してくる中、開国派の実力者彦根藩主井伊直弼が大老に就任し、独断専行で、徳川慶福(徳川家茂)を将軍継嗣に決定するとともに、威嚇と督促を重ねて迫るハリスに対しては、安政5年(1858年)6月19日、勅許をえないままに日米通商条約を調印(14代将軍徳川家茂の署名)してしまった。
継嗣問題で一敗地にまみれた一橋派(継嗣問題で一橋徳川家の当主・徳川慶喜[のちの15代将軍]を推した一派)は、井伊の違勅調印を理由に一斉に井伊攻撃に立ち上がった。「違勅」に対しては、「尊王」を、「開国」に対しては「攘夷」をとなえ、ここに尊王攘夷つまり、尊攘は反井伊・半幕府のスローガンとなったのである。
公明天皇も、激怒して、攘夷の意向を示し、同年8月には条約調印に不満を示す勅諚(戊午の密約)を水戸藩へ下した。
この将軍の臣下であるはずの水戸藩へ朝廷から直接勅書が渡され、幕府がないがしろにされ威信を失墜させられたことに対し、幕府の危機を見た井伊が徹底的な弾圧策をとったのが安政の大獄であり、このことが桜田門外の変の引き金になった。
安政5年(1858年))6月19日に調印された日米通商条約に続いて蘭(オランダ)、露(ロシア)、英(イギリス)、仏(フランス)などと相次いで通商条約を締結した(安政の仮条約ともいう。安政五か国条約参照)。
条約は神奈川(横浜。下田を閉鎖)・長崎・箱館(函館)の3港が開かれることが決められた。そして、安政6年(1859年)、長崎、横浜及び箱館(函館)の港に「運上所」が設けられ、今日の税関業務と同様の輸出入貨物の監督や税金の徴収といった運上業務や、外交事務を取り扱うことになった。これが税関の前身である。こうして本格的な貿易が開始された。当時貿易相手国は主にイギリスであった。日本からは生糸や茶などが輸出され、毛織物、綿織物や艦船や武器などが輸入された。
この安政五か国条約では、神奈川(横浜)・長崎・箱館(函館)の3港以外にも期限付きで新潟・兵庫(両港)を開港場(条約港)とし、江戸・大阪両都の開市も定められていた。これらの時期は、新潟を1860年1月、江戸を1862年1月、大坂・兵庫を18663年1月と決められていた。
しかし、安政五カ国条約による開港・開市問題はその後の交渉の争点となった。列国の意図するところは自由貿易であった。
後進国にとっては、自由貿易それ自体が不平等を意味したが、そのほかに領事裁判権(外国人犯罪に日本の法律や裁判が適用されないこと。いわゆる治外法権)や関税自主権の欠如(輸入品にかかる関税を自由にきめる権限がなく、外国との協定税率にしばられていること。)、さらには和親条約から引き継がれた無条件かつ片務的な最恵国条款(通商航海条約や通商協定において、最恵国待遇を規定する条項)などが日本を規制した。日本にとって不利な内容を含む不平等条約であった。
金銀交換比率の内外差による金の流出(幕末の通貨問題参照)、外国商人が日本商品(特に絹)を高く購入したことにより生じた物価上昇などが、尊王攘夷運動の激化や一揆、打ちこわし等を招いた。
幕府は物価高騰と流通の混乱を防ぐため、開港から10ヶ月後の万延1年(1860)閏3月、五品江戸廻送令を公布して貿易の統制を図ろうとするが失敗する(※5:「なるほど幕末」の考察・エッセイ>幕末覚え書>4 開国と幕府瓦解(1)開国による経済混乱 参照)など、国内問題が山積していた。さらに、井伊が暗殺された後も朝廷は大坂開市と兵庫開港に猛反発したため、幕府は期日通りの開市開港は無理と見て、諸外国に開市開港延期を申し出る。
アメリカ公使タウンゼント・ハリスは、幕閣とも親しく実情を理解していたこともあり、延期やむを得ずとしたが、英国公使ラザフォード・オールコックは断固反対であった。このため、幕府は欧州本国政府との直接交渉のため、文久遣欧使節を欧州に派遣することとした。
上掲の画象は、文久遣欧使節団の主要メンバー。左から、副使の松平康英(石見守)、正使の竹内保徳(下野守)、目付(監察使)の京極高郎(能登守)、柴田貞太郎(組頭)。
努力の甲斐あって最終的には、文久2年5月9日(1862年6月6日)、開市開港を1863年1月1日より5年遅らせ1868年1月1日とすることを定めたロンドン覚書を英国と交換し、同年8月9日(10月2日)には仏とパリ覚書も締結した(※4参照)。
日本は開市開港の延期を認められたものの、代償として関税の低減化を始めとする貿易の自由化を認めさせられた(ロンドン覚書主な内容参照)。
また、その間の1863年から1864年にかけて長州藩と、英・仏・蘭・米国の四カ国との間に下関戦争が勃発し、敗れた同藩は賠償金300万ドルを支払うこととなった。
しかし、長州藩は外国船に対する砲撃は幕府の攘夷実行命令に従っただけであり、賠償金は幕府が負担すべきとの理論を展開し、四カ国もこれを受け入れた。幕府は300万ドルを支払うか、あるいは幕府が四カ国が納得する新たな提案を実施することとなった。
英国は、この機に乗じて兵庫の早期開港と天皇からの勅許を得ることを計画し、他の3国の合意を得、慶応元年9月16日(1865年11月4日)連合艦隊合計8隻を兵庫に派遣、幕府に圧力をかけた。
これに対し、幕府は孝明天皇が条約の批准に同意したと、四カ国国に対して回答。開港日は当初の通り慶応3年12月7日(1868年1月1日)であり、前倒しされることはなかったが、天皇の同意を得たことは四カ国の外交上の勝利と思われた。また、関税率の改定も行われ、同時に幕府が下関戦争の賠償金300万ドルを支払うことも確認された。
ところが、朝廷は安政五カ国条約を勅許したものの、京都に近い兵庫開港についてはなお勅許を与えない状況が続いた。この兵庫開港の勅許が得られたのは、延期された開港予定日を約半年後に控えた慶応3年5月24日(1867年6月26日)のことである。
第15代将軍に就任した徳川慶喜は2度にわたって兵庫開港の勅許を要請したがいずれも却下され、慶喜自身が参内して開催を要求した朝議を経てようやく5月24日勅許を得ることができたという。
慶応3年12月7日(1868年1月1日)、各国の艦隊が停泊する中、神戸港は無事開港した。
その直後の 慶応4年1月3日(1868年1月27日)、鳥羽・伏見の戦いが勃発した。1月11日(1868年2月4日)、神戸事件が発生し、兵庫港に停泊中の諸艦の水兵が神戸を占領すると言った事件が起こっている。
なお、鳥羽・伏見の戦いに敗れた徳川慶喜はで江戸に脱出。同年4月11日江戸城無血開城に至っている。同年9月8日明治と改元。
江戸幕府を倒した薩摩藩・長州藩を中心とした明治政府も、明治2年(1869年)に政府として改めて開国を決定して、以後は不平等条約の撤廃(条約改正)が外交課題となっていくことになる。
開港場に設けられた居留地制度は、事実上日本の法律の及ばない租界的な様相を帯びていた。
この領事裁判権が問題になったのは明治になってからである(幕末には外国人が被害者になるケースが多かった)。領事裁判権は明治32年(1899年)になってやっと撤廃された(内地雑居の開始)。
この居留地を中心に貿易は開始されたが(居留地貿易)、国内産業の発達に伴って、国内商品と外国商品との競合が始まると、国内産業保護の観点からも関税自主権の獲得は重要課題となったが、その獲得も明治44年(1911年)になってからのことであった。
税関の歴史を辿れば、このように幕末の日本の開国・開港問題から派性たものであることがわかったと思うが、私の生まれ育った、神戸の街は神戸港の開港を期に発展してきたのであり、この機会に、神戸港の歴史とこの港と関係の深い神戸税関のルーツについても少し述べておこう。
六甲山(六甲山系)の連なる山々から大阪湾に至る急峻な地形によって水深が急激に深くなる特徴から「天然の良港」として知られる日本を代表する国際貿易港である神戸港。
その歴史は天平年間、聖武天皇による東大寺大仏殿造営の勧進を行った大僧正行基が築いた大輪田泊(神戸市兵庫区。今の三菱造船所の北側にあった。摂播五泊のひとつ)に始まるが、古代には「務古水門(むこのみなと)」、「敏馬(みぬめ)の浦」と呼ばれ、朝鮮半島の港と交流をしていたことで知られている(※7の兵庫津の歴史参照)。
平安初期に造大輪田船瀬使が置かれ、石椋(いわくら)の築造など修固が加えられた。そして、遣唐使船の 寄港地に利用されたり、平安時代末(12世紀)には近辺の福原に別宮(福原京)を営んだ平清盛がここを重視し、人工島経が島(兵庫島)を築き整備拡張して、日宋貿易の拠点とした。
平氏滅亡後は、源平の争乱で焼失した東大寺大勧進の重源がその事業を引き継いで、修築。
承久の乱後、荘園の発達で年貢輸送船が盛んに往来するようになり、1308(延慶1)年、経ヶ島に兵庫関が置かれるようになった。
その後、元寇の役により大陸との貿易が途絶えるとともに活動が衰えるが、室町時代に入ると国内の海上輸送の拠点であるばかりでなく、1404(応永11)年より、足利義満により開始された日明貿易の拠点として再び国際貿易港としての地位を得、以降ここは国内第一の港として「兵庫津」「兵庫島」と呼ばれるようになる。
当時の 兵庫津の様子は絵巻物『一遍上人絵伝』にも描かれている。以下でその絵が見られる。
絵巻物『一遍上人絵伝 巻第12(模本)』に描かれた「兵庫津沖を行く年貢輸送船」
兵庫津は源平合戦や湊川合戦,でも兵火にあっているが、特に、特に応仁の乱( 文明9年[1467年])では、東西両軍は、兵庫の港からあがる利益(兵庫関から上がる利益)を逃がすまいとして、この地で激しく戦ったため完全に灰燼に帰し、また、この戦乱で瀬戸内海の治安も完全に乱れてしまった。
そのため、堺に繁栄の座を譲った兵庫が再び台頭してくるのは、豊臣秀吉が堺の商人を大阪に移してからであるが、兵庫津は戦国時代にも歴史の舞台の一つとなった。
兵庫津は織田信長や豊臣秀吉らの保護を受け、桶狭間の戦いなどで活躍した池田恒興(諱は信輝) が信長に反旗をひるがえした荒木村重の花熊城を攻略、その用材を用いて兵庫城を築き、それを中心に城下町の整備をすすめたことから兵庫の町の発展がはじまった。
江戸時代になると鎖国政策のため外国貿易は途絶えた一方国内経済は安定していた。当時政治の中心は江戸、経済の中心は大坂であり、このため兵庫の津は全国と大坂、江戸を結ぶ海上輸送の要衝として栄えた。
元和5年(1619年)にはじまる菱垣廻船、寛永16年(1639年)にはじまる北前船による日本海側との航路(西廻り航路)開設、寛文元年(1661年)頃にはじまる樽廻船や内海船(※8参照)などの船舶が兵庫の津を行き交うようになった。また、鎖国はしていたが、通商関係のあった蘭国や朝鮮(朝鮮通信使。※9参照)は江戸渡航に際して兵庫の津を利用することが多々あったようだ。
又、兵庫の町を通る西国街道には宿駅も設けられ、また、灘五郷として酒造りも活発になっていた。
幕府は当初、大阪商人に特別の保護を与え、兵庫を圧迫する方針を採っていたが、自然の良港を持つ兵庫は瀬戸内海第一の集散市場となるなど、その発展を抑えることは出来なかった。
江戸時代中期に兵庫津に本店を置いて活躍した回船問屋高田屋嘉兵衛)や、江戸三百年間の兵庫の豪商北風家たちが兵庫津の隆盛に貢献している。
しかし、江戸末期、兵庫津も激動の渦中にあった。特に嘉永7年(1854)ロシア使節プチャーチンの大阪湾侵入により、周辺の海防が重視され、文久3年(1863)には江戸幕府の軍艦奉行であった勝海舟は海防のための幕臣の教育施設として「海軍操練所」の設立を、呉服商網屋吉兵衛が私財を投じて竣工させた船たで場(フナクイムシを駆除するための乾ドック。船据場ともいう)を利用することを考え、当時の将軍であった徳川家茂に建白した。
翌元治元年(1864年)、明治維新に多大な功績を残した坂本龍馬が塾長を勤めた諸藩の志士のための「海軍塾」と共に開設されたが、勝の更迭と同時に「神戸海軍操練所」と「神戸海軍塾」(※10参照)は閉鎖になった。同じ年に建てられた海防の要・和田岬砲台が、今も神戸市兵庫区に現存している。
一方、「兵庫開港」は、安政5年(1858)の日米修好通商条約で、1863年1月1日と定められたが、朝廷の反対にあい、文久2年のロンドン覚書で5年間延長され、慶応3年12月7日(1868年1月1日)、神戸開港として実現したことは先に書いた通りである。
安政五か国条約上の「開港」とは港だけを開くことではなく、町を外国に開くことであった。開港場、開市場には外国人居留地が開設された。
外国船舶は貿易のため開港場には入港できるが、開市場には入港できない。神戸開港・大坂開市式典は、条約で開港場と取り決められた兵庫から東へ約5キロ離れた神戸村の海沿いに建設中の、神戸外国人居留地南端に新装なった運上所で行われた。
しかし、神戸開港の勅令は慶応3年5月を以って下され柴田日向守剛中(大坂町奉行)が、7月9日には兵庫奉行を兼務して、もっぱら外国人居留地問題などの外交問題を担当し、神戸の外国人居留地の工事が始まったのは慶応3年(1967年)9月1日のことであり、「神戸港」の開港が12月7日なので、たった3ヶ月前の突貫工事であり、形だけの開港であった。
上掲の画象は、開港当日の神戸港図。この日、停泊中の各国軍艦はそれぞれ日章旗を掲げ、正午には一斉に21発の祝砲を放って開港を祝った(市民のグラフこうべNo95)。
この画像は挿し絵入り週刊誌『イラステッド・ロンドンニュース』掲載の物らしい。
同画像を見ると海岸のところに四角くぽっかりと白くあいているところが見られるが、ここが神戸外国人居留地である。
開港当時、建っていた建物は運上所と倉庫が3つぐらいだけだったという。また、その運上所が完全に完成したのは2月5日のことだったというから、開港当時は一応できていたという程度のもので、他に建物はなく、ただ地ならししただけの状態での開港であったようだ。
神戸沖には18隻の外国艦隊(英12隻、米5隻、仏1隻)が停泊しているが、外国側が大艦隊を派遣した狙いは、日本側に条約どおり開港・開市を実現させること、式典に参加すること以外に,開港・開市を阻止しようとする過激な攘夷運動に列国が団結して対決する姿勢を日本側に見せつける狙いもあったようだ。
外国艦隊が発した21発の礼砲が裏山にこだまし、住民を震え上がらせたことだろう(※12のニュースレター第305号神戸開港秘話〜「神戸事件」当日の神戸沖外国艦隊〜参照)。
上掲の2枚の画像中、上の画像は、開港間もない頃の運上所前波止場。この波止場は先にも述べた納屋吉兵衛が生田川(旧生田川)尻西側に設けた船たで場跡で、開港に際し、幕府の手により波止場に改築され第1波止場(現在ある第1波止場等とは東西に並ぶ順序が逆になっており位置が違う)と呼ばれた。(市民のグラフこうべNo95)
下の画像も同じころのものと思われれるが、赤○印のところが納屋吉兵衛の船たで場跡のあったところにできた神戸海軍操練所。その後にできた運上所である。
運上所のある居留地の北側(上方)に生田神社の参道が見える。「生田(活田)(いくた)」の地名は日本書紀にも出てくる(※13参照)。この辺りは生田神社の社領であったことから神戸(かんべ)→神戸(こうべ)になった。「神戸」は当時、開港場一帯の村の名前でしかなく、幕末の神戸村は、建物といえば海軍操練所と農家が数件という未開地であった。
安政五か国条約上「兵庫」に港を開くことになっていたが、兵庫は歴史のある土地で町も発展し住民も多い。この様な地で外国人とのトラブルを避ける為に、5キロも離れた神戸村の海沿いの何もない「海軍操練所」があった辺りを事実上の「兵庫港」(現:神戸港)として開港をしたのである。
王政復古の2日前、慶応3年12月9日(1868年1月1日)の開港に際して、兵庫の津は湊川(旧湊川)以西を兵庫港、以東を神戸港と称し、外国船の停泊は神戸港を利用する経緯があった。しかし、兵庫港、神戸港の2港時代は、明治25年(1862年)両港を一括して「神戸港」の名称を用いた勅令の公布をもって終わりを告げ、今日言うところの神戸港となった。
諸外国から兵庫港の開港を求められた幕府が、あえて当時人口希薄な一漁村神戸を重点に開発を進めたことから、かって「兵庫津」であった「兵庫港」は次第に「神戸港」に繁栄を譲ることになる。しかし、「兵庫港」と「神戸港」が一つになって「神戸港」と呼ばれるようになってからも、「兵庫港」は「神戸港の兵庫港」として兵庫運河、同運河支線新川運河の建設が行われるなど、「神戸港」の補完的役割を担い、輸入青果物専用埠頭や三菱や川崎の造船所を中心とする工場の材料荷役などを受け持つ兵庫突堤としての存在価値を保ってきた。
慶応4年(1868年5月23日)、兵庫裁判所(元兵庫鎮台)を廃止し、兵庫県が設置され、同じ年の1月に起こった「神戸事件」(ここも参照)で活躍した伊藤俊輔(後の伊藤博文)が初代兵庫県知事に就任し、居留地の造成にも力を尽くした。
神戸税関の前身である「兵庫運上所」は、慶応3年(1868年)、兵庫港(現:神戸港)開港と同時に開設され、幕府の兵庫奉行所の直轄機関であったが、王政復古の大号令により、明治新政府が誕生し、幕府軍が、翌年の正月3日に鳥羽伏見の戦いで幕軍が敗れたため、御用始めどころか、兵庫運上所はわずか1カ月余で事実上の閉鎖となってしまった。
その後、新政府による「神戸運上所」が誕生し、明治5年(1872年)11月28日に、全国の運上所が税関として名称を統一されることとなったのを機に、翌・明治6年1月4日に「兵庫運上所」は「神戸税関」と改称された。
初代本関庁舎は明治5年(1872年)2月に着工され、明治6年12月に完成した。石造の2階建で海に面する正面には菊の紋章がさん然と輝く立派な建物であった。
上記画像 が初代税関庁舎である。和洋折衷の建物に取り付けられた窓ガラスが光るところから、当時の人々は「ビードロの家」とよんだ。写真は明治7年頃のもの、明治6年(1873年)神戸港の輸出・輸入ともに全国の12%であったという。(市民のグラフ神戸No57)。
開港後の明治3年ごろには、神戸には約200人の欧米人がいて256の商社が構えていた。当時、全国には約2600人の外国人が居留し、主として横浜を本拠としていたので、神戸の地位もおのずと察せられる。
しかし、神戸の外国人は、その後急速に増加し、明治11年(1878年)には1000人の大台を超え、貿易額でも明治30年代には横浜とその勢力を2分するほどになったという。非常な躍進ぶりである。
しかし、その頃の神戸港は海岸地先のところどころにまだ白い砂浜が残り、松の疎林があちこちに点在していたという。
神戸港が国際港として、近代的な設備を整え始めたのは明治の末の40年以降のことであるらしい、官民挙げての熱意により、神戸港築港予算が国会を通過、着工をされたのは明治40年(1907年)だというから、初代神戸港長J・マーシャルの神戸港築港計画案(※14参照)が世に出てから24年、神戸市会の決議から8年の歳月が経過してからのことだ。
因みに大阪港の築港計画案は明治30年(1897年)に国会を通過、同年にすでに横浜桟橋が竣工しているので、これら両市に比べると、神戸はまだ経済基盤も弱く資力も乏しかったことが遅れをとった原因だが、しかし、この遅れが逆に、港を生命線として神戸と港とは切り離すことができないという強い感情を市民の間に根付かせたことは否定できないという(『市民のグラフこうべ』No111) 。
大正6年(1917年)には神戸港は開港50年を迎えたが、 神戸港の貿易額は、全国の約4割を占め、特に輸入額は日本一であった。港の造成も進み大正10年(1921年)には「櫛(くし)型」の新港第1突堤から第3突堤が完成し、近代的な港としての第一歩を踏み出した。
そして、大正元年(1922年1月20日) 初代税関本関庁舎を火災で焼失し(※15参照)、2代目本関庁舎(花崗岩・煉瓦張り、地上4階建)が竣工したのは昭和2年(1927年)3月になってからのことであった。
港湾の近代化が進み、開港100年を迎えた昭和42年(1967年)には、わが国初のコンテナターミナルを有する摩耶埠頭が完成した。また、本格的なコンテナ時代に対応するため、ポートアイランドの埋立が昭和41年(1966年)から始まり, 昭和56年(1981年)に完成している。、その後第二期工事として昭和62年(1987年)から神戸空港が新たに作られ完成したのは平成17年(2005年)のことである。
この間、平成7年(1995年)1月の阪神・淡路大震災で壊滅的な被害を受けた神戸港は、急ピッチで復旧工事が行われ、新生神戸港として平成9年(1997年)3月末には全面復旧した。
また、昭和2年(1927年)に竣工していた神戸税関二代目庁舎は、「帝国の大玄関番たる税関として決して恥ずかしからぬ近代式大庁舎」と称された日本最大の税関庁舎で、神戸港新港地区のランドマークにもなっていた。なかでも時計塔はまさに“みなと神戸”のシンボルとして、平屋建の倉庫群の並ぶ港頭にあって、ひときわ目立った存在であったが、阪神・淡路大震災で被災しその建物は半壊した。
現在の神戸税関三代目庁舎は平成8年(1996年)4月に着工され、平成11年(1999年)3月に落成した最新鋭のインテリジェントビルである。保全された旧館とで構成され、旧館を船体に見立てるとその棟の上に現れた新館(3代目庁舎)の高層部が船のブリッジにもみえる。
改築工事では旧本関庁舎に連結する旧別館を取り壊し中心に新館を建設したあと、旧別館の外壁を再構築。それにより旧本関庁舎の花崗岩張りの時計塔を含めた外観と内部ホール等は、ほぼ完全な形で保全された。神戸税関のシンボルの大時計は神戸港に姿を現わし、時を刻み始めてから今年で86年間神戸の港を見守り続けてきたことになる。この景観を残した点が高く評価され、公共建築賞やJIA環境建築賞最優秀賞(第2回 2001年度ここ参照)などの賞を受けている。
上掲の画像が神戸税関三代目庁舎である。画像はWikipediaより。庁舎建築概要写真はここで見られる。
今、神戸税関の管轄区域は、兵庫県、中国地方(山口県を除く)、四国地方の広範囲に及び、全国の税関の中でも長い海岸線(約7,100km)を有している。
管内には平成23年(2011年)7月現在で28の外国貿易港(開港)と5つの国際空港(税関空港)があり、全国120の開港及び29の税関空港のおよそ4分の1を占め、本関のほかに15支署、17出張所、及び2監視署が置かれ、約1,100名の職員が輸出入貨物の通関や密輸の取締りに当たっているそうだ。
神戸税関の貿易統計, 密輸摘発実績等、詳しくは※1:税関公式ホームページを見られるとよい。
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