空に真赤(まっか)な雲のいろ。
玻璃(はり)に真赤な酒のいろ。
なんでこの身が悲しかろ。
空に真赤な雲のいろ。
「パンの会」の会歌となった北原白秋の詩「空に真赤な」である。北原白秋の処女詩集『邪宗門』より(※1:「青空文庫」北原白秋-邪宗門 参照)。
1906(明治39)年、北原白秋は、21歳の時、新詩社に参加。与謝野鉄幹、与謝野晶子、木下杢太郎、石川啄木らと知り合う。
新詩社の機関紙『明星』で発表した詩は、上田敏、蒲原有明、薄田泣菫らの賞賛するところとなり、文壇の交友をさらに広がる。また、この頃より象徴派に興味を持つようになる。
1907(明治40)年、鉄幹らと九州・平戸などに遊び(『五足の靴』参照)、南蛮趣味(ここ参照)に目覚める。また森鴎外によって観潮楼歌会(※2参照)に招かれ、斎藤茂吉らアララギ派歌人とも面識を得るようになった。
1908(明治41)年、『謀叛』(※1:「青空文庫」北原白秋-邪宗門 参照)を発表し世評高くなる。
”汝等臣民は思想の中庸を誤らず、華を去り実につけ”という趣旨の「戊申勅書」が1908(明治41)年10月に発布された。
それに挑むかのように、この年(明治41年)、12月12日耽美派(耽美主義を奉じる一派)の詩人や画家が芸術団体「パンの会」を結成した。
メンバーは、年初に新詩社を脱退した木下杢太郎(筆頭発起人)、北原白秋らの若い詩人と、美術雑誌『方寸』同人の石井柏亭(主宰)らの青年画家たち。そこに集まって飲み、歌い、語り合い若さを爆発させた。
この会には吉井勇、高村光太郎らも加わり、象徴主義、耽美主義的詩風を志向する文学運動の拠点になった。
1910(明治43)年11月、雑誌「新思潮」に谷崎潤一郎の短編『刺青』が掲載された。これが谷崎の実質的な処女作である。
小説『刺青』は、「其れはまだ人々が「愚(おろか)」と云う貴い徳を持って居て、世の中が今のように激しく軋(きし)み合わない時分であった」という文から始まる。
世界史の中では戦争が繰り返されるているのに、日本では300年もの泰平の世が続いている町人文化の物語。日本の文化はジャポニズムとして世界に知られている。この江戸文化の円熟期、腕利きの彫り物師(刺青師)の紹介から物語りはスタートする。
“肌をさされてもだえる人の姿にいいしれぬ愉悦を感じる刺青師清吉が年来の宿願であった光輝ある美女の背に蜘蛛を彫りおえた時、今度は……。”
性的倒錯の世界を描き、美しいものに征服される喜び、すべて「美しい者は強者であり、醜い者は弱者であった。」・・・とするこの作品には、谷崎の以後の作品に共通するモチーフ、皮膚や足に対するフェティシズムと、それに溺れる男など、谷崎独自の美の世界が見られる(谷崎はフットフェティシズムであったとも言われている)。
刺青とは入墨のこと。明治政府は刺青をアイヌの刺青すら野蛮だと禁止(1872=明治5年)していた(違式詿違条例)。
欧米の文化や化学力に追いつけ!・・・と、文明開化に必死な時代。谷崎には“政府の発表した『刺青』には禁止した”刺青は芸術だ!”・・といった反骨精神が窺えるのだが・・・。
又、このころ、“武者小路実篤、志賀直哉等によって『白樺』が創刊(1910年4月)され、芸苑(文学者・芸術家の社会。芸術界)のあらゆる方面に鬱勃(うつぼつ)たる新興精神が瀰(ひろが)っていた。”・・・と、やや遅れて参加した高村光太郎は「ヒウザン会とパンの会」(※1「青空文庫」参照)の中で書いている(「ヒウザン会」についてはコトバンクヒュウザン会 とはまたフュウザン会 とはを参照)。
そして、高村は次のように続けている。
“「パンの会」はそうした、エスプリ(esprit)の現われであって、石井柏亭等同人の美術雑誌「方寸」の連中を中心とし北原白秋、木下杢太郎、長田秀雄、吉井勇、それから私など集ってはよく飲んだものである。
別に会の綱領などと言うものがあるわけではなく、集ると飲んで虹のような気焔(きえん)を挙げたのであるが、その中に自然と新しい空気を醸成し、上田敏氏など有力な同情者の一人であった。
パンの会の会場で最も頻繁に使用されたのは、当時、小伝馬町の裏にあった三州屋と言う西洋料理屋で、その他、永代橋の「都川」、鎧橋傍(よろいばしわき)の「鴻の巣」(※4参照)、雷門の「よか楼」などにもよく集ったものである。
三州屋の集りの時は芳町の芸妓が酒間(しゅかん。酒を飲んでいる間。酒宴の間。)を斡旋した。
パンの会は、当時、素晴らしい反響を各方面に与え、一種の憧憬を以て各方面の人士が集ったもので、少い時で十五六人、多い時は四五十人にも達した。異様の風体の人間が猛烈な気焔をあげるので、ついには会場に刑事が見張りをするようになった。
詩人では当時の名家が殆んど顔を出したし、俳優では、猿之助、段四郎、それに「方寸」の連中、阿部次郎はじめ夏目漱石門下、潤一郎、永井荷風の一党など、兎も角盛なものであった。
松山省三が「カフエ プランタン」をはじめたのもその頃(1911年)であり、尾張町(東京・銀座五丁目と六丁目付近の旧地名)角には、ビヤホール「ライオン」(築地精養軒経営。※5参照)があって人気を独占していた。ライオンではカウンター台の上に土で作ったライオンの首が飾ってあって、何ガロンかビールの樽(たる)が空くと、その度毎にライオンが「ウオ ウオ」と凄じい呻(うな)り声を発する仕掛であった。
「カフエにて」と題する当時の短い詩に
泥でこさへたライオンが
お礼申すとほえてゐる
肉でこさへたたましひが
人こひしいと飲んでゐる
○
無理は天下の醜悪だ
人間仲間の悪癖だ
酔つぱらつた課長殿よ
さめてもその自由を失ふな
というのがある。
永代橋の「都川」で例会があった時、倉田白羊が酔っぱらって大虎になり、橋の鉄骨の一番高いところへ攀(よ)じ登ったが川風で酔いが醒(さ)めて、さてこんどは降りられない。野次馬がたかって大騒ぎになったことがあった。白羊の眼が悪くなったのは、たぶんこんな深酒が祟(たた)っているのだろう。“・・・と。また、木下杢太郎も『パンの会の回想』(※1参照)を書いている。
「パンの会」の「パーン」(日本語表記では「パン」とも)とは、ギリシア神話に登場する神の一柱で、アイギパーン(古代ギリシャ語: Αἰγίπαν, Aigipān, 「山羊のパーン」の意)とも呼ばれる半獣で、ローマ神話におけるファウヌス(Faunus)と同一視される。
●冒頭の画像は、笛の演奏をエローメノスの羊飼いダフニスに教えるパーンの彫像(Wikipediaより)。
パーンは、牧神で、享楽(思いのままに快楽を味わうこと)の神でもある。このことから、パニック(Panic)の語源にもなったそうだ。
1894年にベルリンで結成された芸術運動「パンの会」に因むものだという。
20代の若い芸術家たちが中心となり、浪漫派の新芸術を語り合う目的で出発し、東京をパリに、隅田川をパリのセーヌ川に見立て、月に数回、隅田河畔の西洋料理店(大川近くの小伝馬町や小網町、あるいは深川などの料理店)に集まり、青春放埓(ほうらつ)の宴を続けていたようだ。白秋の『東京景物詩』(※1:「青空文庫」の北原白秋『東京景物詩及其他』や、※6参照)、杢太郎の詩集『食後の唄』(※7参照)はこの会の記念的作品である。
しかし、次第に放逸な酒宴の場となり、酒好きの会員が多く、どんちゃん騒ぎになることもあり、また、社会主義者の集まりと誤解され、刑事が様子を見に来たこともあったようだ。
石井柏亭の外遊と長田秀雄・柳啓介の入営(兵役に編入される者が兵営にはいること)の送別会を兼ねて盛大に行うことになった。
1910(明治43)年11月の会合では、会場に掲げられた「祝長田君・柳君入営」の貼り紙に高村光太郎が黒枠を描き込んでいたため、「萬朝報」に取上げられ、徴兵制度を非難する非国民の会と批判されてしまうという「黒枠事件」を起こしている。
大逆事件の裁判を控えた時期でもあり、当事件以後は次第に盛上りを欠くものになっていったらしい。
このパンの会は、1908(明治41)年末から1913(大正2)年頃まで続いたという。明治の終焉とほぼ同時期であり、ちょうど小山内薫の自由劇場(1909年)や雑誌『三田文学』・『新思潮』(第2次)・『白樺』の創刊(1910年)など、文芸上の新しい動きが起こっていた時期であった。
会そのものは短い期間だったが、自然主義に対する耽美主義を特徴づける印象主義の手法や、都会趣味・江戸趣味の諸傾向はすべてこの会から生まれたものだそうである。
●上記に掲載の画像は、木村荘八が描いたパンの会の集い(画像は、朝日クロニクル『週刊20世紀』1908−9年、050号より借用)。木村荘八は、故郷「東京」の移ろいゆく姿を 情感豊かに描き続け、永井荷風の代表作『ボク東綺譚』や大佛次郎の『霧笛』(明治時代の横浜を舞台とした「開化物」)などの挿絵の分野でも知られる画家である。
又、冒頭に掲載の詩「空に真赤な」(作詞明治41年5月)は、「謀叛」(作詞明治40年12月)同様、新詩社を脱退して、木下杢太郎を介して、石井柏亭らの主宰するパンの会に参加した翌年の1909(明治42)年3月、白秋24歳のときに発表した処女詩集『邪宗門』に掲載されている。
本集に収めた6章約121篇の詩は1906(明治39)年の4月より1908(明治41)年の臘月(ろうげつ。陰暦12月の異称)に至る3年間の所作であり、大半は殆ど明治41年作詞のものが多い。
「今後の新しい詩の、基礎となるべきものだ」・・、白秋と親交のあった歌人・石川啄木は、この詩集を読んで、日記にこう綴っているという(※6参照)。
白秋の処女詩集『邪宗門』。タイトルとなった邪宗門とは、邪悪な宗教のこと。一般的にはキリスト教のことと解されている。ただし、これは豊臣政権及び徳川幕府(江戸幕府)による政治用語と呼ぶべき性格の言葉であり、宗教用語とは言い難い。
明治維新直後の1868(慶応4)年に明治政府から出された五榜の掲示(太政官が立てた五つの高札)の第三札には、「切支丹邪宗門」が掲げられた。
この文言があることを知った欧米諸国は明治政府に猛抗議を行い、政府はあわてて「切支丹・邪宗門」のそれぞれについての禁止と訂正をさせた。しかし、1873(明治6)年のキリスト教解禁までには紆余曲折があり、特に300年近くにわたってキリスト教=邪宗門の観念を植え付けられてきた一般民衆の間に、解禁に対する恐怖を訴える者もあったとされている。
詩集『邪宗門』の中の「邪宗門秘曲」(※1参照)は、同詩集の主題となる作品であり、官能的・耽美的な世界を描き出している。信仰のためなら磔(はりつけ)になっても構わないキリスト教徒、それくらいの意気込みで、我々も詩作に打ち込むのだという強い意志が感じられる。
この処女詩集『邪宗門』が刊行された1909(明治42)年伊藤博文が、ハルピンで暗殺されている。
この様な時期、つまり、先にも書いたように1908(明治41)年10月に発布された”汝等臣民は思想の中庸を誤らず、華を去り実につけ”という趣旨の「戊申勅書」に挑むかのようにパンの会が結成された訳であるが、「戊申詔書」が発布された政治背景を、もう少し、詳しく見てみることにしよう。
「戊申詔書」は、その年(1908年)の干支(えと)である戊申(ぼしん)に名付けられた詔書であることから、こう呼ばれている。
明治維新(1867年)によって日本は幕藩体制を廃し、<ahref= http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%8B%E6%86%B2%E5%90%9B%E4%B8%BB%E5%88%B6 >立憲君主国家としてその国力を高め、欧米先進国に追いつくことを目指した。西洋文化を移入し、近代重工業を興し、国民総生産は急速に伸びたが、同時に軍事力も飛躍的に強化された。
そして、日清戦争(明治27年7月〜明治28年3月)、日露戦争(明治37年.2月〜明治38年9月)において勝利し、世界の強国の一角に名を連ねるまでになった。
日清戦争後、日本が獲得した戦時賠償による消費の拡大から日本経済は大きく前進し、殖産興業がますます推進されることになり大戦景気、自由主義や個人主義、さらには社会主義の思想的の風潮が生まれていた。
しかし、日露戦争は勝利に終わったものの、賠償金(戦争賠償参照)を得ることができなかったため、外国債(ユダヤ系投資銀行クーン・ローブ商会からの借り入れ[※8も参照])の返済などが財政を圧迫、重税がやがて物価の高騰を招いた。
こうした国民の負担の増加は民衆の不満を増大させ、1905(明治38)年9月の日比谷焼討事件を頂点とする全国主要都市における日露講和反対運動を最初として都市民衆の暴動がしばしば発生していた。
また、各地の商業会議所、実業組合に結集した中・小資本家も営業税など悪税反対運動を展開し、政府の軍備偏重の政策を批判した。
以下参考の※9:「百年前の財政危機」の図2の実線はわが国の政府債務の対名目<GDP(国民総生産)比率が過去120年間どのように推移してきたかを示しているが、この120年間で政府債務が増加する局面は3つあり、その第1の局面が1905(明治38)年の前後の時期である。これは日露戦争に伴って戦費が膨らみ、政府債務が増加した局面であり、図ではよくわからないが、日露戦争直前の<a href= http://kotobank.jp/word/%E6%94%BF%E5%BA%9C%E5%82%B5%E5%8B%99 >政府債務は名目GDP比で20%程度であったが日露戦争直後の1906(明治39)年には70%と3倍以上にも達している。
又当時の世相を見ると、明治30年代から40年代にかけて「ハイカラ」という言葉が流行っていた。男のシャツの”high collat”から生まれた流行語で、西洋かぶれを揶揄する意味も含まれていた。
ハイカラはいつか洋風のものをあれこれさす言葉となり、「ハイカラソング」「ハイカラ節」も生まれてゆく。以下はハイカラ節の一節。
「ゴールド眼鏡のハイカラは 都の西の目白台 女子大学の女学生
片手にバイロン、ゲーテの詩 口には唱える自然主義
早稲田の稲穂がサーラサラ 魔風恋風そよそよと♪」
以下でその歌が聞ける。
添田唖蝉坊・ああわからない / 土取利行(弾き唄い)
また、「マガイゝ節」なんていう歌も流行した。以下はその一節。
「いやだいやだよハイカラさんはいやだ
頭の真ン中に栄螺の壷焼
ナンテマガイインデショー♪」
栄螺(さざえ)の壷焼というのは、このころはやった女性の髪形のことで、髪を高く、ぐんと前に突き出したさまを人は二百三高地(髷)」とからかった。203高地は日露戦争時の激戦の地だ。
「二百三高地に海老茶の袴
そして麻裏はく人は
それでもお前はハイカラカ
ちと解らない♪」
余段ではあるが、日本で初めての美人コンクールが時事新報社の募集で行われ1908(明治41)年3月5日に発表された。1等となったのは、学習院女学部3年生(16歳)の末弘 ヒロ子であった。
コンクールはシカゴ・トリビューン社が企画し、日本では「良家の淑女」を対象として写真選考が行われた(芸妓・女優・職業モデルなどは参加不可)。
末広は知らない間に写真を送られて1等になったのだが、コンクール参加を理由に、学習院を退学処分になった。しかし、学習院院長の乃木希典は自ら彼女の仲人になり、翌年には、彼女は野津鎮之助(陸軍大将・野津道貫の長男)侯爵婦人となったたという(朝日クロニク『週刊20世紀』050号)。
●上掲の画象左が朝日クロニク『週刊20世紀』050号にコンクールの説明文と共に掲載された末弘 ヒロ子の写真である。彼女の結っている髷が「二百三高地(髷)」と言われるもの。左写真では下向き加減でよくわからないが、右のWikipedia掲載の前を向いた写真を見るとよくわかるが、ぐんと上に高く盛り上がっているのが特徴である。
この時の審査は写真選考のみで、ヒロ子の義兄が勝手に写真を応募したものらしい。洋画家の岡田三郎助、彫刻家の高村光雲(高村 光太郎の実父)、歌舞伎俳優の中村芝翫など芸術界、芸能界を代表する各界著名人13名が審査員となった。
これが日本初の全国ミスコンであり、事実上のミス日本を決める最初の大会でもあったそうだ。彼女はアメリカの選考会で堂々6位に入賞しているらしい。
当時の203高地での乃木の闘いぶり、末弘 ヒロ子の結婚のことなど、以下参考の※10を見られるとよい。
当時の女学生は教養ある女性を代表する存在で、時代風俗の象徴として注目されていたが、そのスタイルは椅子に座り授業を受ける際、裾が乱れるとの理由で、男袴の着用が強要され、時代によって違うがこの頃はみんな海老茶色の袴を穿いていたから、紫式部の名になぞらへて海老茶式部と呼ばれていた(※11参照)。
洋髪にしながら和風の袴をはき、和風の麻裏草履(草履の裏に、麻糸を平たく編んだひもをとじつけたもの)を履く人のちぐはぐさがからかいの対象になっていた。
演歌師 添田唖蝉坊は1908(明治41)年 『ああわからない』をつくった。唖蝉坊は、「ハイカラ文化」の背景にある文明開化のありようそのものを皮肉っている。
「ああわからないわからない 今の浮世はわからない
文明開化といふけれど 表面(うはべ)ばかりぢやわからない
瓦斯や電氣は立派でも 蒸汽の力は便利でも
メツキ細工か天ぷらか 見かけ倒しの夏玉子
人は不景氣不景氣と なき言ばかりを繰り返し
年がら年中火の車 廻してゐるのがわからない♪(以下略)」
上記は、『ああわからない』の一節。面白い歌だ。いろいろ今の世の中にアレンジして忘年会などでも歌ってみると受けるるかも・・・よ。どんな歌か以下で聞ける。
添田唖蝉坊・ああわからない / 土取利行(弾き唄い)
夏目漱石は『現代日本の開化』の中で、西洋の開花は内発的だが日本は外発的であると言っている(漱石の『現代日本の開化』は※1「青空文庫」で読める)。そんな漱石のいう「外発性」の文明開化はうめき声をよそに進行した。当時の人々はハイカラの波にもまれる己の姿を笑いつつ演歌で憂さをはらしていたようだ。
日露戦争後、にわかに台頭してきた自由主義・個人主義、さらには社会主義の思想的潮流に危機感を抱きながら政権を担った桂太郎内閣(1908 =明治41年、第2次、)は、天皇制に立脚する国民道徳(国民として守らなければならない道徳。※12参照)を強化する思想対策の一環として天皇の名において制定したものが「戊申詔書」であり、華美を戒め、上下一致、勤倹力行して国富増強にあたることが強調されている。
「戊申詔書」の内容とそれを口語訳したものは以下参考の※13:「『戊申詔書』の読み方- Yahoo!知恵袋」を見ればよくわかる。
「華を去り実に就く(かをさりじつにつく)」は四字熟語「去華就実(きょかしゅうじつ)」を読み下したもので、「華やかなこと、華美なことに走らず、実質あるものに力を注ごう」、「外見だけの華やかな装いを捨て去って、中身の充実を図れ」・・・ということ。普通四字熟語は中国の故事を転居とするが、この言葉は日本でこの時から使われたものと聞く。
文中に出てくる「華ヲ去リ實ニ就キ荒怠相誡メ自彊息マサルヘシ」の部分、ここでは、「軽薄を退けて質実を重んじ、荒んだ生活や怠けた暮らしに落ち込まないように、互いに戒め合って、弛みなく努力を続けてゆくべきである」・・・と訳している。この様な西洋かぶれを厳しく批判されていることに反発して、「パンの会」が設立されたのだろう。
第2次桂内閣は、「戊申詔書」による風紀引き締めと同時に、社会主義運動を弾圧、大逆事件(幸徳事件)の摘発や南北朝正閏問題への介入、出版物の取締強化を行った。また、徹底した緊縮財政とともに地方改良運動を起こして地方の立て直しを図った。
外交面では韓国併合(1910=明治43年)を実現したが、ここには朝鮮統監であった伊藤博文暗殺があったことで親日派と早期併合に向かったという。また、関税自主権の回復による条約改正の終了などが日本の国際的地位向上に尽くした。
このような時代背景のもとに結成された「パンの会」は耽美派のメッカの観を呈していたというが、文芸評論家野田宇太郎は、以下参考の※14:「異国情調の文藝運動」で敬愛した木下杢太郎らが興した、異国趣味溢れたパンの会という特異な近代文藝運動の論考をしている。その中で、以下のように書いている。
「パンの会は一面放肆(放恣/ほうし)なところもあったが,畢竟(ひっきょう)するに一の文芸運動で、因循な封建時代の遺風に反対する欧化主義運動であった。例の印象派の理論、パルナシャン、また、サンボリストの詩、一体に欧羅巴(ヨーロッパ)のその頃の文芸評論などが之に気勢を添へ、明星、又スバル、方寸、屋上庭園、あるいは、自由劇場というようなものの起こった時代に適応するものであった。
当時は皆概して、芸術至上主義で、好芸術を作ろうという欲望に燃えて居り、その為の竃(かまど)としてパンの会などが作られたのである」と木下杢太郎は書いている(石井柏亭談話より)。
木下杢太郎はこのパンの会の発起者であり、北原白秋と共にこの会を絶えず動かし、又爆発させた主導者であつた。
パンの会は一面、杢太郎が書いてゐるやうに放肆(放恣/ほうし)なところもあった。それはやがて、頽唐(たいとう)と言われ、デカタン(退廃的な生活をする人)と片付けられる理由となった。
何故、放肆でありデカタンの傾向をおびたのであろうか。
パンの会の人々は、当時二十四五歳を中心とした青年たちであった。彼らが放肆と云われる理由はその青年性にあった。つまり、彼らは青春の権利を主張したのであった。パンの会を文芸運動として成功せしめた力であったのである。
デカタンの傾向を帯びたのは、その精神の激しさを示すものであった。デカタンとは謂わば反逆精神である。当時にあっては、杢太郎が書いているように因循な封建思想に対する自由思想の反逆であり、封建固陋(ころう)の文学に対する欧羅巴精神の移入による世界文学への突進であった。世界性に向かって目を開かんとした当時の文学にあっては、異国情調 an exotic mood 又、は、 exoticism(異国かぶれ)が当然起きた。
パンの会は一面エキゾチシズム(異国の文物に憧れを抱く心境)の運動でもあった。エキゾチシズムを停滞した形で見るとき、それは頽唐という言葉にもなるのであろうが、パンの会のエキゾチシズムは不断の流動をみせたエキゾチシズムであった。
また、そのエキゾチシズムを当時の都会情調の文学としてエコオル(学派、流派)を造ったのはパンの会であった。・・・と、以降詳しい考察が書かれているので興味ある方を、そこを詠まれるとよい。
参考:
※1:青空文庫
http://www.aozora.gr.jp/index.html
※2:鴎外と観潮楼歌会
http://homepage3.nifty.com/nousann/ougai.htm
※3:刺青/谷崎潤一郎のあらすじと読書感想文
http://www5b.biglobe.ne.jp/~michimar/book/194.html
※4:写真で見る鎧橋の歴史
http://www.dumbonet.co.jp/yoroibashi_history.html
※5:銀座ライオン 会社概要 歴史・沿革 - サッポロライオン
http://www.ginzalion.jp/company/history/
※6:北原白秋記念館
http://www.hakushu.or.jp/index02.php
※7:食後の唄, 木下杢太郎著, 大正8
http://school.nijl.ac.jp/kindai/CKMR/CKMR-00023.html
※8 :クーン・ローブ商会のジェイコブ・シフ (3) HEATの日記
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/350.html
※9:百年前の財政危機(PDF)
http://jp.fujitsu.com/group/fri/downloads/report/economic-review/200804/02.pdf
※10:明治41年、ミスユニバース代表は学習院を退学処分になった。
http://blogs.yahoo.co.jp/padapadatalent/33717911.html
※11:海老茶式部
http://www.geocities.jp/wakame_01/memo_data/203kouchi.htm
※12:国民道徳
http://m-space.jp/a/novel.php?ID=R0319&serial=34610&page=0&view=1
※13:『戊申詔書』の読み方-- Yahoo!知恵袋
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1167345006
※14:異国情調の文藝運動 (野田宇太郎)
http://www.japanpen.or.jp/e-bungeikan/study/nodautaro.html
パンの会 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%83%B3%E3%81%AE%E4%BC%9A
玻璃(はり)に真赤な酒のいろ。
なんでこの身が悲しかろ。
空に真赤な雲のいろ。
「パンの会」の会歌となった北原白秋の詩「空に真赤な」である。北原白秋の処女詩集『邪宗門』より(※1:「青空文庫」北原白秋-邪宗門 参照)。
1906(明治39)年、北原白秋は、21歳の時、新詩社に参加。与謝野鉄幹、与謝野晶子、木下杢太郎、石川啄木らと知り合う。
新詩社の機関紙『明星』で発表した詩は、上田敏、蒲原有明、薄田泣菫らの賞賛するところとなり、文壇の交友をさらに広がる。また、この頃より象徴派に興味を持つようになる。
1907(明治40)年、鉄幹らと九州・平戸などに遊び(『五足の靴』参照)、南蛮趣味(ここ参照)に目覚める。また森鴎外によって観潮楼歌会(※2参照)に招かれ、斎藤茂吉らアララギ派歌人とも面識を得るようになった。
1908(明治41)年、『謀叛』(※1:「青空文庫」北原白秋-邪宗門 参照)を発表し世評高くなる。
”汝等臣民は思想の中庸を誤らず、華を去り実につけ”という趣旨の「戊申勅書」が1908(明治41)年10月に発布された。
それに挑むかのように、この年(明治41年)、12月12日耽美派(耽美主義を奉じる一派)の詩人や画家が芸術団体「パンの会」を結成した。
メンバーは、年初に新詩社を脱退した木下杢太郎(筆頭発起人)、北原白秋らの若い詩人と、美術雑誌『方寸』同人の石井柏亭(主宰)らの青年画家たち。そこに集まって飲み、歌い、語り合い若さを爆発させた。
この会には吉井勇、高村光太郎らも加わり、象徴主義、耽美主義的詩風を志向する文学運動の拠点になった。
1910(明治43)年11月、雑誌「新思潮」に谷崎潤一郎の短編『刺青』が掲載された。これが谷崎の実質的な処女作である。
小説『刺青』は、「其れはまだ人々が「愚(おろか)」と云う貴い徳を持って居て、世の中が今のように激しく軋(きし)み合わない時分であった」という文から始まる。
世界史の中では戦争が繰り返されるているのに、日本では300年もの泰平の世が続いている町人文化の物語。日本の文化はジャポニズムとして世界に知られている。この江戸文化の円熟期、腕利きの彫り物師(刺青師)の紹介から物語りはスタートする。
“肌をさされてもだえる人の姿にいいしれぬ愉悦を感じる刺青師清吉が年来の宿願であった光輝ある美女の背に蜘蛛を彫りおえた時、今度は……。”
性的倒錯の世界を描き、美しいものに征服される喜び、すべて「美しい者は強者であり、醜い者は弱者であった。」・・・とするこの作品には、谷崎の以後の作品に共通するモチーフ、皮膚や足に対するフェティシズムと、それに溺れる男など、谷崎独自の美の世界が見られる(谷崎はフットフェティシズムであったとも言われている)。
刺青とは入墨のこと。明治政府は刺青をアイヌの刺青すら野蛮だと禁止(1872=明治5年)していた(違式詿違条例)。
欧米の文化や化学力に追いつけ!・・・と、文明開化に必死な時代。谷崎には“政府の発表した『刺青』には禁止した”刺青は芸術だ!”・・といった反骨精神が窺えるのだが・・・。
又、このころ、“武者小路実篤、志賀直哉等によって『白樺』が創刊(1910年4月)され、芸苑(文学者・芸術家の社会。芸術界)のあらゆる方面に鬱勃(うつぼつ)たる新興精神が瀰(ひろが)っていた。”・・・と、やや遅れて参加した高村光太郎は「ヒウザン会とパンの会」(※1「青空文庫」参照)の中で書いている(「ヒウザン会」についてはコトバンクヒュウザン会 とはまたフュウザン会 とはを参照)。
そして、高村は次のように続けている。
“「パンの会」はそうした、エスプリ(esprit)の現われであって、石井柏亭等同人の美術雑誌「方寸」の連中を中心とし北原白秋、木下杢太郎、長田秀雄、吉井勇、それから私など集ってはよく飲んだものである。
別に会の綱領などと言うものがあるわけではなく、集ると飲んで虹のような気焔(きえん)を挙げたのであるが、その中に自然と新しい空気を醸成し、上田敏氏など有力な同情者の一人であった。
パンの会の会場で最も頻繁に使用されたのは、当時、小伝馬町の裏にあった三州屋と言う西洋料理屋で、その他、永代橋の「都川」、鎧橋傍(よろいばしわき)の「鴻の巣」(※4参照)、雷門の「よか楼」などにもよく集ったものである。
三州屋の集りの時は芳町の芸妓が酒間(しゅかん。酒を飲んでいる間。酒宴の間。)を斡旋した。
パンの会は、当時、素晴らしい反響を各方面に与え、一種の憧憬を以て各方面の人士が集ったもので、少い時で十五六人、多い時は四五十人にも達した。異様の風体の人間が猛烈な気焔をあげるので、ついには会場に刑事が見張りをするようになった。
詩人では当時の名家が殆んど顔を出したし、俳優では、猿之助、段四郎、それに「方寸」の連中、阿部次郎はじめ夏目漱石門下、潤一郎、永井荷風の一党など、兎も角盛なものであった。
松山省三が「カフエ プランタン」をはじめたのもその頃(1911年)であり、尾張町(東京・銀座五丁目と六丁目付近の旧地名)角には、ビヤホール「ライオン」(築地精養軒経営。※5参照)があって人気を独占していた。ライオンではカウンター台の上に土で作ったライオンの首が飾ってあって、何ガロンかビールの樽(たる)が空くと、その度毎にライオンが「ウオ ウオ」と凄じい呻(うな)り声を発する仕掛であった。
「カフエにて」と題する当時の短い詩に
泥でこさへたライオンが
お礼申すとほえてゐる
肉でこさへたたましひが
人こひしいと飲んでゐる
○
無理は天下の醜悪だ
人間仲間の悪癖だ
酔つぱらつた課長殿よ
さめてもその自由を失ふな
というのがある。
永代橋の「都川」で例会があった時、倉田白羊が酔っぱらって大虎になり、橋の鉄骨の一番高いところへ攀(よ)じ登ったが川風で酔いが醒(さ)めて、さてこんどは降りられない。野次馬がたかって大騒ぎになったことがあった。白羊の眼が悪くなったのは、たぶんこんな深酒が祟(たた)っているのだろう。“・・・と。また、木下杢太郎も『パンの会の回想』(※1参照)を書いている。
「パンの会」の「パーン」(日本語表記では「パン」とも)とは、ギリシア神話に登場する神の一柱で、アイギパーン(古代ギリシャ語: Αἰγίπαν, Aigipān, 「山羊のパーン」の意)とも呼ばれる半獣で、ローマ神話におけるファウヌス(Faunus)と同一視される。
●冒頭の画像は、笛の演奏をエローメノスの羊飼いダフニスに教えるパーンの彫像(Wikipediaより)。
パーンは、牧神で、享楽(思いのままに快楽を味わうこと)の神でもある。このことから、パニック(Panic)の語源にもなったそうだ。
1894年にベルリンで結成された芸術運動「パンの会」に因むものだという。
20代の若い芸術家たちが中心となり、浪漫派の新芸術を語り合う目的で出発し、東京をパリに、隅田川をパリのセーヌ川に見立て、月に数回、隅田河畔の西洋料理店(大川近くの小伝馬町や小網町、あるいは深川などの料理店)に集まり、青春放埓(ほうらつ)の宴を続けていたようだ。白秋の『東京景物詩』(※1:「青空文庫」の北原白秋『東京景物詩及其他』や、※6参照)、杢太郎の詩集『食後の唄』(※7参照)はこの会の記念的作品である。
しかし、次第に放逸な酒宴の場となり、酒好きの会員が多く、どんちゃん騒ぎになることもあり、また、社会主義者の集まりと誤解され、刑事が様子を見に来たこともあったようだ。
石井柏亭の外遊と長田秀雄・柳啓介の入営(兵役に編入される者が兵営にはいること)の送別会を兼ねて盛大に行うことになった。
1910(明治43)年11月の会合では、会場に掲げられた「祝長田君・柳君入営」の貼り紙に高村光太郎が黒枠を描き込んでいたため、「萬朝報」に取上げられ、徴兵制度を非難する非国民の会と批判されてしまうという「黒枠事件」を起こしている。
大逆事件の裁判を控えた時期でもあり、当事件以後は次第に盛上りを欠くものになっていったらしい。
このパンの会は、1908(明治41)年末から1913(大正2)年頃まで続いたという。明治の終焉とほぼ同時期であり、ちょうど小山内薫の自由劇場(1909年)や雑誌『三田文学』・『新思潮』(第2次)・『白樺』の創刊(1910年)など、文芸上の新しい動きが起こっていた時期であった。
会そのものは短い期間だったが、自然主義に対する耽美主義を特徴づける印象主義の手法や、都会趣味・江戸趣味の諸傾向はすべてこの会から生まれたものだそうである。
●上記に掲載の画像は、木村荘八が描いたパンの会の集い(画像は、朝日クロニクル『週刊20世紀』1908−9年、050号より借用)。木村荘八は、故郷「東京」の移ろいゆく姿を 情感豊かに描き続け、永井荷風の代表作『ボク東綺譚』や大佛次郎の『霧笛』(明治時代の横浜を舞台とした「開化物」)などの挿絵の分野でも知られる画家である。
又、冒頭に掲載の詩「空に真赤な」(作詞明治41年5月)は、「謀叛」(作詞明治40年12月)同様、新詩社を脱退して、木下杢太郎を介して、石井柏亭らの主宰するパンの会に参加した翌年の1909(明治42)年3月、白秋24歳のときに発表した処女詩集『邪宗門』に掲載されている。
本集に収めた6章約121篇の詩は1906(明治39)年の4月より1908(明治41)年の臘月(ろうげつ。陰暦12月の異称)に至る3年間の所作であり、大半は殆ど明治41年作詞のものが多い。
「今後の新しい詩の、基礎となるべきものだ」・・、白秋と親交のあった歌人・石川啄木は、この詩集を読んで、日記にこう綴っているという(※6参照)。
白秋の処女詩集『邪宗門』。タイトルとなった邪宗門とは、邪悪な宗教のこと。一般的にはキリスト教のことと解されている。ただし、これは豊臣政権及び徳川幕府(江戸幕府)による政治用語と呼ぶべき性格の言葉であり、宗教用語とは言い難い。
明治維新直後の1868(慶応4)年に明治政府から出された五榜の掲示(太政官が立てた五つの高札)の第三札には、「切支丹邪宗門」が掲げられた。
この文言があることを知った欧米諸国は明治政府に猛抗議を行い、政府はあわてて「切支丹・邪宗門」のそれぞれについての禁止と訂正をさせた。しかし、1873(明治6)年のキリスト教解禁までには紆余曲折があり、特に300年近くにわたってキリスト教=邪宗門の観念を植え付けられてきた一般民衆の間に、解禁に対する恐怖を訴える者もあったとされている。
詩集『邪宗門』の中の「邪宗門秘曲」(※1参照)は、同詩集の主題となる作品であり、官能的・耽美的な世界を描き出している。信仰のためなら磔(はりつけ)になっても構わないキリスト教徒、それくらいの意気込みで、我々も詩作に打ち込むのだという強い意志が感じられる。
この処女詩集『邪宗門』が刊行された1909(明治42)年伊藤博文が、ハルピンで暗殺されている。
この様な時期、つまり、先にも書いたように1908(明治41)年10月に発布された”汝等臣民は思想の中庸を誤らず、華を去り実につけ”という趣旨の「戊申勅書」に挑むかのようにパンの会が結成された訳であるが、「戊申詔書」が発布された政治背景を、もう少し、詳しく見てみることにしよう。
「戊申詔書」は、その年(1908年)の干支(えと)である戊申(ぼしん)に名付けられた詔書であることから、こう呼ばれている。
明治維新(1867年)によって日本は幕藩体制を廃し、<ahref= http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%8B%E6%86%B2%E5%90%9B%E4%B8%BB%E5%88%B6 >立憲君主国家としてその国力を高め、欧米先進国に追いつくことを目指した。西洋文化を移入し、近代重工業を興し、国民総生産は急速に伸びたが、同時に軍事力も飛躍的に強化された。
そして、日清戦争(明治27年7月〜明治28年3月)、日露戦争(明治37年.2月〜明治38年9月)において勝利し、世界の強国の一角に名を連ねるまでになった。
日清戦争後、日本が獲得した戦時賠償による消費の拡大から日本経済は大きく前進し、殖産興業がますます推進されることになり大戦景気、自由主義や個人主義、さらには社会主義の思想的の風潮が生まれていた。
しかし、日露戦争は勝利に終わったものの、賠償金(戦争賠償参照)を得ることができなかったため、外国債(ユダヤ系投資銀行クーン・ローブ商会からの借り入れ[※8も参照])の返済などが財政を圧迫、重税がやがて物価の高騰を招いた。
こうした国民の負担の増加は民衆の不満を増大させ、1905(明治38)年9月の日比谷焼討事件を頂点とする全国主要都市における日露講和反対運動を最初として都市民衆の暴動がしばしば発生していた。
また、各地の商業会議所、実業組合に結集した中・小資本家も営業税など悪税反対運動を展開し、政府の軍備偏重の政策を批判した。
以下参考の※9:「百年前の財政危機」の図2の実線はわが国の政府債務の対名目<GDP(国民総生産)比率が過去120年間どのように推移してきたかを示しているが、この120年間で政府債務が増加する局面は3つあり、その第1の局面が1905(明治38)年の前後の時期である。これは日露戦争に伴って戦費が膨らみ、政府債務が増加した局面であり、図ではよくわからないが、日露戦争直前の<a href= http://kotobank.jp/word/%E6%94%BF%E5%BA%9C%E5%82%B5%E5%8B%99 >政府債務は名目GDP比で20%程度であったが日露戦争直後の1906(明治39)年には70%と3倍以上にも達している。
又当時の世相を見ると、明治30年代から40年代にかけて「ハイカラ」という言葉が流行っていた。男のシャツの”high collat”から生まれた流行語で、西洋かぶれを揶揄する意味も含まれていた。
ハイカラはいつか洋風のものをあれこれさす言葉となり、「ハイカラソング」「ハイカラ節」も生まれてゆく。以下はハイカラ節の一節。
「ゴールド眼鏡のハイカラは 都の西の目白台 女子大学の女学生
片手にバイロン、ゲーテの詩 口には唱える自然主義
早稲田の稲穂がサーラサラ 魔風恋風そよそよと♪」
以下でその歌が聞ける。
添田唖蝉坊・ああわからない / 土取利行(弾き唄い)
また、「マガイゝ節」なんていう歌も流行した。以下はその一節。
「いやだいやだよハイカラさんはいやだ
頭の真ン中に栄螺の壷焼
ナンテマガイインデショー♪」
栄螺(さざえ)の壷焼というのは、このころはやった女性の髪形のことで、髪を高く、ぐんと前に突き出したさまを人は二百三高地(髷)」とからかった。203高地は日露戦争時の激戦の地だ。
「二百三高地に海老茶の袴
そして麻裏はく人は
それでもお前はハイカラカ
ちと解らない♪」
余段ではあるが、日本で初めての美人コンクールが時事新報社の募集で行われ1908(明治41)年3月5日に発表された。1等となったのは、学習院女学部3年生(16歳)の末弘 ヒロ子であった。
コンクールはシカゴ・トリビューン社が企画し、日本では「良家の淑女」を対象として写真選考が行われた(芸妓・女優・職業モデルなどは参加不可)。
末広は知らない間に写真を送られて1等になったのだが、コンクール参加を理由に、学習院を退学処分になった。しかし、学習院院長の乃木希典は自ら彼女の仲人になり、翌年には、彼女は野津鎮之助(陸軍大将・野津道貫の長男)侯爵婦人となったたという(朝日クロニク『週刊20世紀』050号)。
●上掲の画象左が朝日クロニク『週刊20世紀』050号にコンクールの説明文と共に掲載された末弘 ヒロ子の写真である。彼女の結っている髷が「二百三高地(髷)」と言われるもの。左写真では下向き加減でよくわからないが、右のWikipedia掲載の前を向いた写真を見るとよくわかるが、ぐんと上に高く盛り上がっているのが特徴である。
この時の審査は写真選考のみで、ヒロ子の義兄が勝手に写真を応募したものらしい。洋画家の岡田三郎助、彫刻家の高村光雲(高村 光太郎の実父)、歌舞伎俳優の中村芝翫など芸術界、芸能界を代表する各界著名人13名が審査員となった。
これが日本初の全国ミスコンであり、事実上のミス日本を決める最初の大会でもあったそうだ。彼女はアメリカの選考会で堂々6位に入賞しているらしい。
当時の203高地での乃木の闘いぶり、末弘 ヒロ子の結婚のことなど、以下参考の※10を見られるとよい。
当時の女学生は教養ある女性を代表する存在で、時代風俗の象徴として注目されていたが、そのスタイルは椅子に座り授業を受ける際、裾が乱れるとの理由で、男袴の着用が強要され、時代によって違うがこの頃はみんな海老茶色の袴を穿いていたから、紫式部の名になぞらへて海老茶式部と呼ばれていた(※11参照)。
洋髪にしながら和風の袴をはき、和風の麻裏草履(草履の裏に、麻糸を平たく編んだひもをとじつけたもの)を履く人のちぐはぐさがからかいの対象になっていた。
演歌師 添田唖蝉坊は1908(明治41)年 『ああわからない』をつくった。唖蝉坊は、「ハイカラ文化」の背景にある文明開化のありようそのものを皮肉っている。
「ああわからないわからない 今の浮世はわからない
文明開化といふけれど 表面(うはべ)ばかりぢやわからない
瓦斯や電氣は立派でも 蒸汽の力は便利でも
メツキ細工か天ぷらか 見かけ倒しの夏玉子
人は不景氣不景氣と なき言ばかりを繰り返し
年がら年中火の車 廻してゐるのがわからない♪(以下略)」
上記は、『ああわからない』の一節。面白い歌だ。いろいろ今の世の中にアレンジして忘年会などでも歌ってみると受けるるかも・・・よ。どんな歌か以下で聞ける。
添田唖蝉坊・ああわからない / 土取利行(弾き唄い)
夏目漱石は『現代日本の開化』の中で、西洋の開花は内発的だが日本は外発的であると言っている(漱石の『現代日本の開化』は※1「青空文庫」で読める)。そんな漱石のいう「外発性」の文明開化はうめき声をよそに進行した。当時の人々はハイカラの波にもまれる己の姿を笑いつつ演歌で憂さをはらしていたようだ。
日露戦争後、にわかに台頭してきた自由主義・個人主義、さらには社会主義の思想的潮流に危機感を抱きながら政権を担った桂太郎内閣(1908 =明治41年、第2次、)は、天皇制に立脚する国民道徳(国民として守らなければならない道徳。※12参照)を強化する思想対策の一環として天皇の名において制定したものが「戊申詔書」であり、華美を戒め、上下一致、勤倹力行して国富増強にあたることが強調されている。
「戊申詔書」の内容とそれを口語訳したものは以下参考の※13:「『戊申詔書』の読み方- Yahoo!知恵袋」を見ればよくわかる。
「華を去り実に就く(かをさりじつにつく)」は四字熟語「去華就実(きょかしゅうじつ)」を読み下したもので、「華やかなこと、華美なことに走らず、実質あるものに力を注ごう」、「外見だけの華やかな装いを捨て去って、中身の充実を図れ」・・・ということ。普通四字熟語は中国の故事を転居とするが、この言葉は日本でこの時から使われたものと聞く。
文中に出てくる「華ヲ去リ實ニ就キ荒怠相誡メ自彊息マサルヘシ」の部分、ここでは、「軽薄を退けて質実を重んじ、荒んだ生活や怠けた暮らしに落ち込まないように、互いに戒め合って、弛みなく努力を続けてゆくべきである」・・・と訳している。この様な西洋かぶれを厳しく批判されていることに反発して、「パンの会」が設立されたのだろう。
第2次桂内閣は、「戊申詔書」による風紀引き締めと同時に、社会主義運動を弾圧、大逆事件(幸徳事件)の摘発や南北朝正閏問題への介入、出版物の取締強化を行った。また、徹底した緊縮財政とともに地方改良運動を起こして地方の立て直しを図った。
外交面では韓国併合(1910=明治43年)を実現したが、ここには朝鮮統監であった伊藤博文暗殺があったことで親日派と早期併合に向かったという。また、関税自主権の回復による条約改正の終了などが日本の国際的地位向上に尽くした。
このような時代背景のもとに結成された「パンの会」は耽美派のメッカの観を呈していたというが、文芸評論家野田宇太郎は、以下参考の※14:「異国情調の文藝運動」で敬愛した木下杢太郎らが興した、異国趣味溢れたパンの会という特異な近代文藝運動の論考をしている。その中で、以下のように書いている。
「パンの会は一面放肆(放恣/ほうし)なところもあったが,畢竟(ひっきょう)するに一の文芸運動で、因循な封建時代の遺風に反対する欧化主義運動であった。例の印象派の理論、パルナシャン、また、サンボリストの詩、一体に欧羅巴(ヨーロッパ)のその頃の文芸評論などが之に気勢を添へ、明星、又スバル、方寸、屋上庭園、あるいは、自由劇場というようなものの起こった時代に適応するものであった。
当時は皆概して、芸術至上主義で、好芸術を作ろうという欲望に燃えて居り、その為の竃(かまど)としてパンの会などが作られたのである」と木下杢太郎は書いている(石井柏亭談話より)。
木下杢太郎はこのパンの会の発起者であり、北原白秋と共にこの会を絶えず動かし、又爆発させた主導者であつた。
パンの会は一面、杢太郎が書いてゐるやうに放肆(放恣/ほうし)なところもあった。それはやがて、頽唐(たいとう)と言われ、デカタン(退廃的な生活をする人)と片付けられる理由となった。
何故、放肆でありデカタンの傾向をおびたのであろうか。
パンの会の人々は、当時二十四五歳を中心とした青年たちであった。彼らが放肆と云われる理由はその青年性にあった。つまり、彼らは青春の権利を主張したのであった。パンの会を文芸運動として成功せしめた力であったのである。
デカタンの傾向を帯びたのは、その精神の激しさを示すものであった。デカタンとは謂わば反逆精神である。当時にあっては、杢太郎が書いているように因循な封建思想に対する自由思想の反逆であり、封建固陋(ころう)の文学に対する欧羅巴精神の移入による世界文学への突進であった。世界性に向かって目を開かんとした当時の文学にあっては、異国情調 an exotic mood 又、は、 exoticism(異国かぶれ)が当然起きた。
パンの会は一面エキゾチシズム(異国の文物に憧れを抱く心境)の運動でもあった。エキゾチシズムを停滞した形で見るとき、それは頽唐という言葉にもなるのであろうが、パンの会のエキゾチシズムは不断の流動をみせたエキゾチシズムであった。
また、そのエキゾチシズムを当時の都会情調の文学としてエコオル(学派、流派)を造ったのはパンの会であった。・・・と、以降詳しい考察が書かれているので興味ある方を、そこを詠まれるとよい。
参考:
※1:青空文庫
http://www.aozora.gr.jp/index.html
※2:鴎外と観潮楼歌会
http://homepage3.nifty.com/nousann/ougai.htm
※3:刺青/谷崎潤一郎のあらすじと読書感想文
http://www5b.biglobe.ne.jp/~michimar/book/194.html
※4:写真で見る鎧橋の歴史
http://www.dumbonet.co.jp/yoroibashi_history.html
※5:銀座ライオン 会社概要 歴史・沿革 - サッポロライオン
http://www.ginzalion.jp/company/history/
※6:北原白秋記念館
http://www.hakushu.or.jp/index02.php
※7:食後の唄, 木下杢太郎著, 大正8
http://school.nijl.ac.jp/kindai/CKMR/CKMR-00023.html
※8 :クーン・ローブ商会のジェイコブ・シフ (3) HEATの日記
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/350.html
※9:百年前の財政危機(PDF)
http://jp.fujitsu.com/group/fri/downloads/report/economic-review/200804/02.pdf
※10:明治41年、ミスユニバース代表は学習院を退学処分になった。
http://blogs.yahoo.co.jp/padapadatalent/33717911.html
※11:海老茶式部
http://www.geocities.jp/wakame_01/memo_data/203kouchi.htm
※12:国民道徳
http://m-space.jp/a/novel.php?ID=R0319&serial=34610&page=0&view=1
※13:『戊申詔書』の読み方-- Yahoo!知恵袋
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1167345006
※14:異国情調の文藝運動 (野田宇太郎)
http://www.japanpen.or.jp/e-bungeikan/study/nodautaro.html
パンの会 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%83%B3%E3%81%AE%E4%BC%9A