日本記念日協会(※1)の2月11日の記念日に「仁丹の日」がある。
制定したのは口中清涼剤「仁丹」の製造販売元として知られる、森下仁丹(株)である。
現在大阪市中央区玉造に本社を置く医薬品製造会社森下仁丹(株)は、創業者の森下博が1893(明治26)年2月11日に、大阪市旧:東区(現・中央区)淡路町にて、薬種商「森下南陽堂」を創業したのが発祥である。
記念日の日付はこの同社の創業日である2月11日と、「仁丹」(※2:森下仁丹HP歴史博物館:仁丹誕生によると、現在発売されている「銀粒仁丹」の前身にあたる懐中薬「赤大粒 仁丹」)の発売日である1905(明治38)年2月11日からだそうだ。以来、同社は今日まで発売され続けている銀粒の「仁丹」の製造元としてその名を知られている。
今年2014(平成26)年で創業121年を迎える同社は、銀粒仁丹の製造から着想を得た液体も包むことの出来るビーズ状のシームレスカプセル(継ぎ目のないカプセル))技術の様々な用途への展開や、長年の 生薬研究から生まれた健康食品や素材、さらには医薬品や医療機器の製造販売に至るまで、幅広い分野を手がける医薬品メーカーのひとつとなっている。
冒頭に掲載の画像は、1912(大正元)年頃の同社の店頭看板。下は右が1905(明治38)年、左が、1916(大正5)年のトレードマークの「大礼服」(登録商標である大礼服姿の通称「将軍マーク」)であるが、時代による微妙な変化が面白い。(画像は『朝日クロニクル週刊20世紀』1912年号の、“広告と生きた世紀”シリーズに掲載されていたものを借用)。
森下仁丹は広告に非常に力を入れていたが、その一つの柱が新聞広告であり、もう一つの柱が屋外広告であった。
同『朝日クロニクル週刊20世紀』にによると、森下仁丹の宣伝部長(当時)だった谷本弘の回顧録によれば、大正時代の広告事情などについて次のように語っていたという。
口腔清涼剤「仁丹」の宣伝が開始されたのは1905(明治38)年2月11日だった。宣伝ターゲットは常備薬とする家庭と海外だった。
ブランド名の「仁丹」は中国・台湾へ売り込むには仁義礼智信(儒教で説く5つの徳目「五徳」)のトップに位置する仁をとるのが良かろうという漢学者の藤沢南岳や朝日新聞社の西村天囚(大阪朝日新聞主筆で、コラム「天声人語」の名付け親)のアドバイスと中国語で丸薬を意味する「丹」を組み合わせたネーミングである。
有名な大礼服のトレードマークは前社長の回想から「(軍人ではなく)仁丹の外交官」とされている。この外交官も当初案に何十回も手が加えられたうえ、その後も度々モデルチェンジされている(※2:森下仁丹HP歴史博物館:大礼服マークは薬の外交官のシンボル参照)。
「仁丹」が新聞に1ページ広告を出して売薬業界に躍り出たのは明治も末の1907(明治40)年以降で、広告を出すたびに全社員に赤飯と尾頭付の魚を配って祝ったという。同社の広告・宣伝費は、新聞6、その他4の割合で振り向けられていた。
その他には、大礼服の立て看板やホーロー製( ホーロー看板)の町名看板までが含まれる。
創業者森下博は、かねがね広告による、「薫化益世」を主張しており、社内ではこれを、「広告益世」と言い換えて踏襲していた。この仁丹の広告量がピークに達したのは1923(大正12)年、関東大震災の年であった(※2:森下仁丹HP歴史博物館:広告ギャラリー)。・・・・・と。
『西洋事情』、『学問のススメ』ほか多数の著作を残した福沢諭吉は、西洋文明をわが国に積極的に紹介し、日本の近代化を推し進めた知識人として知られている。
1882(明治15)年には、日刊紙『時事新報』を発刊し、政党に左右されない「不羈独立」の新聞という理念を実現可能にするために、当初から広告を重視する姿勢を打ち出した。そして、1883(明治16)年発行の『時事新報』に、「商人に告るの文」という一文を掲載し、新聞広告について、「今の時代に在りては其及ぶ所の甚だ広く其費用の甚だ廉なるものは、新聞紙を借りて広告するに匹敵すべきものなし。・・・若し人ありて新聞の手を借らず、他の引札(チラシ)張札(張り紙)等の方法を以て新聞同様の広さに広告を行届かしめんと試むることあらんには、其費用と手数の莫大なる、尋常人の資力には及ぶべからざるものならむ」とも述べて、新聞広告の有用性を訴えている(参考※3の第18回経営の重視 〜紙面改良の工夫とその批判〜、や※4参照)。
創業者森下は、この福沢諭吉の説いた新聞広告の重要性を受けて以降、広告を重要視した販売戦略を掲げた。
開業当時森下自身が開発した香袋『金鵄麝香』(1896年発売)や内服美容剤『肉体美白丸』(1898年)を発売した時までは、大きな成果は生まれなかったが、1900(明治33)年、笹川三男三医学博士の開発した梅毒薬「毒滅」の販売では家財の一切を広告費につぎ込み大々的な宣伝を仕掛けた。
商標にはドイツ宰相ビスマルクを使用、「梅毒薬の新発見、ビ公は知略絶世の名相、毒滅は駆黴唯一の神薬」というコピーを作り、日本で初めて日刊紙(新聞)各紙に全面広告を出した。また全国の街角の掲示板にポスターを出すなど、先駆的な宣伝戦略を打ち出した。
当時、梅毒は花柳病、文明病としてその猛威を振るっており、「毒滅」は画期的な新薬として注目され、ビスマルクの「毒滅」、ビスマルクの「森下南陽堂」の名は瞬く間に広まったという(※2:森下仁丹HP歴史博物館:森下仁丹百年物語第1章黎明期、※5:薬屋本舗レトロの館:日本の名薬>毒滅参照)。
これで社を軌道に乗せた森下は、続いて以前から着目していた家庭保健薬の研究を進め 軍隊に召集された時、任地の台湾で現住民が清涼剤を口に含み伝染病に感染しないようにしていたのを見て発想を得たといわれる総合保健薬の開発研究に取り組み、丸薬の携帯性を高めるため、表面を赤いベンガラでコーティング(1929年=昭和4年からは銀箔)し、こうして大衆薬「仁丹」を1905(明治38)年発売することになった。この時、トレードマークにも修正を重ね、最終的に「毒滅」で使ったビスマルクをデフォルメし、大衆に人気のあった大礼服を着せたという。
そして売り上げの三分の一を宣伝費に投資したといわれ、新聞や街の琺瑯(ホーロー)看板だけでなく薬店に突き出し看板やのぼり、自動販売機などを設置。大礼服マークは当時の薬局の目印になったほどだったという。
そして、「広告益世」の真骨頂ともいえるのが、1914(大正3)年からスタートした、「金言広告」で、「天は人の上に人をつくらず、人の下に人をつくらず」(福沢諭吉)、「堪忍は無事長久の基」(徳川家康)、「勝利は最後の五分にあり」(ナポレオン)など、古今東西の5,000種類の金言を、電柱広告や看板、紙容器などに取り入れたという。
また電柱広告にも目を付け町名表示と広告を併せたものを作ったり、鉄道沿線の野立看板を設置。更に東京浅草や大阪駅前に大イルミネーション・仁丹塔を建てこれらは名所となった。こうして、全国津々浦々に名前が浸透した仁丹は発売わずか2年で売薬中、売上高第1位を達成したという。
つまり、創業者森下博の「広告による薫化益世を使命とする」・・・を信条として大々的な広告でのし上がってきのが森下仁丹であったと言っていいだろう。町には広告が溢れ、いやがうえにも目に就いただろう。
以下参考に記載の※5:「薬屋本舗レトロの館」、※6:「京都仁丹樂會」※7:「仁丹の館」などでは懐かしい、仁丹の広告や古写真に写り込んでいる仁丹の広告看板等が数多くを見ることが出来る。興味のある人は見られるとよい。
ところで、ひとつ、気になったことがある。明治初期、新聞の三大広告主と呼ばれていたのは化粧品と書籍と並んで薬であった。
『時事新報』に、「商人に告るの文」という一文を掲載し、新聞広告の有用性を訴えていたのは福沢諭吉であるが、又、同時に、彼は、当時批判が高まっていた売薬広告について「売薬論」を掲載し、誇大広告を行う売薬広告主とそれを掲載する新聞への批判なども行い、この「売薬論」はその後、東京府下の売薬商組合から営業毀損回復の訴訟を起こされる、「売薬営業毀損事件」にまで発展している(※3の第17回 売薬営業毀損事件や、※4参照)。
日本で梅毒が初めて記録されたのは、1512(永正9)年のことで、歌人・三条西実隆の『再昌草』に以下のように記されているという。
4月24日「道堅法師、唐瘡(からがさ)をわづらふよし申たりしに、 戯に、もにすむや我からかさをかくてだに口のわろさよ世をばうらみじ」
上の「唐瘡」が梅毒のことで、この年、京都では梅毒が大流行したようだ(※8参照)。
梅毒はコロンブスがアメリカからヨーロッパに持ち込んだ後、ヨーロッパ全域に広がり、大航海時代の波に乗って日本には16世紀に伝来し、関西で大流行を起こしたあと、江戸にもやってきて吉原遊郭などで一気に広まったようだ。
梅毒は江戸時代には「瘡毒」(そうどく)と呼ばれていたようだが、日本人にとって梅毒は有効な治療法もなく脅威であった。
公娼に対して、梅毒その他の花柳病感染の有無その他の健康状態を医師により強制的に検診を行う梅毒検査(検梅)を日本で、初めて行ったのは長崎の稲佐遊郭において、ロシア海軍の要請で行ったのは万延元年(1860)のこと(※8参照)。一方、イギリス海軍の軍医だったニュートンが1868(慶応4)年、横浜に日本最初の横浜駆黴院(梅毒病院)を開設している。
しかし、明治になると、状況が変化した。1872(明治5)年に政府は御一新による四民平等の立場から人身売買を禁止し、奴隷的境遇に置かれていた芸娼妓の解放を宣言。「遊女解放令」が出ると、遊女屋は貸座敷と名称を変えるなどし、売春行為が地下に潜り、梅毒が世の中に蔓延してしまった。
この流れを受けて、明治政府は1874(明治7)年、検梅を柱とする「医制」を発布。1876(明治9)年全国の遊郭所在地に駆黴院(梅毒病院)を設置し、ここに日本で初めて検黴(検黴[=検梅]および駆黴[=梅毒を治療すること])制度が出来た。
ちなみに日清戦争(1894年=明治27年〜)直前には、
「兵隊さんの間に梅毒が盛に蔓るとて種々八釜(やまか)しく」(『都新聞』明治26年)
などと書かれるようになり、軍隊でも梅毒が大きな問題となっていたようだ。
当時、治療法は水銀以外にヨウ素が使われたが、ともに危険で、1910(明治43 )年、秦佐八郎らによってサルバルサン(有機ヒ素剤)が開発されたものの、効果は不十分(毒性を持つヒ素を含む化合物であり副作用が強いため、今日では医療用としては使用されない。)であった。…そのようなことから、結局、怪しい民間治療薬が幅をきかせることになっていた(※8参照)。
抗生物質のない時代は確実な治療法はなく、多くの死者を出した。慢性化して障害をかかえたまま苦しむ者も多かったが、現在ではペニシリン(1928年=昭和3年にイギリスのアレクサンダー・フレミングによって発見)などの抗生物質が発見され、早期に治療すれば全快するようになった。
ドイツの宰相ビスマルクの絵が強い印象を与えた「毒滅」の新聞広告。森下仁丹の前身森下南陽堂が、家財を売り払ってまで「毒滅」という梅毒治療薬の全面広告を出し、大ヒットさせたのは1900(明治33)年のことである。「毒滅」とは書いて字の如く「毒を滅ぼす」、つまり梅毒や淋疾(淋病)といった性病を粉砕する為のクスリという意味をこめている。
しかし、「毒滅」が発売されたのは、抗生物質のペニシリンの発見される18年も前のことであり、又、当時では画期的な駆黴薬と言われたサルバルサンが開発される10年も前のことである。実際に「毒滅」が、サルバルサンと同等の効能があったのかどうか?・・・については大いに疑問のあるところだが、新聞広告を見ると「 公立駆黴院長五大家御証明」などと、この分野の泰斗たちのお墨付きまで付いているものがある(※5の新聞広告>明治38年3月8日のもの参照)。
当時の庶民は病気になっても医者に診てもらうことは現代ほど日常的ではなかった。そのような時代梅毒・淋疾に苦しめられていた人々にとって、広告による売薬の「毒滅」は最後の希望の光であったのだろう。
だが、明治・大正における薬の広告は、薬事法が現在のように整備されていなかったこともあって、誇大広告に類するものが多々見うけられるが、当時は日露戦争(1904年=明治37年)に勝利したこともあり、強い軍人や政治家が大変人気のあった時代。「毒滅」の新聞広告に使われたビスマルクの商標は如何にも梅毒淋疾に効いてしまいそうな感じを与えており、そういう意味では、精神的な効能はあったかもしれない。
福沢諭吉による売薬広告に対する非難もあったが、昔から「薬九層倍」と言って原材料費と製造費に対して9倍の値段で売れるため、不特定多数の民衆が目にする新聞を広告メディアとして利用することによって、多額の利益を上げることが可能になった。また、新聞社にとってもそんな薬の広告主は有難いスポンサーでもある。売薬広告は、知のメディアである新聞を利用することによってある種のいかがわしさを携えて明治の人々のココロに偲び込んでいったと言えるだろう。
毒滅発売から僅か8年後(1929年)…森下南洋堂にとってのシンボルとなる大衆売薬銀粒の「仁丹」が登場する(このころ社名「森下博薬房」に変更)。
この「仁丹」も、明治の発売当初は「完全なる懐中薬・消化と毒消し。(また最良なる毒消し)」を、謳い文句としているが、ここでいう「毒」とはコレラや梅毒のことを指しており、特にコレラは明治・大正期においては致死率の非常に高い病気であった。
当時はコレラに対する治療法が徹底されていなかったこともあり、全国紙に一頁広告を幾度も掲載して「消化を良くし、胃腸を健やかにすべし」との考えを広く知らしめたことで、仁丹の売り上げはさらに飛躍することになる。ここでも、新聞広告には、「陸・海軍隊の御用命を蒙る」などと書かれている(※5の新聞広告>明治38年6月7日参照)。少なくとも、ここらあたりの広告では、素晴らしい医薬品的効果を売り物にしている。
同社では、現代もオーラルケア製品として「仁丹」を発売している。
「一服の清涼剤」という言葉がある。この言葉はささやかだが、束の間さわやかな気分にさせるような行為や事柄をいう。
清涼剤には、「口中清涼剤」 「のど清涼剤」 「健胃清涼剤」などがある。
「清涼剤」は、日焼け止めクリームと同じような、「医薬部外品」である。
医薬部外品は、日本の薬事法に定められた、医薬品と化粧品の中間的な分類に属するもの。疾病の診断、治療又は予防に使用することが目的とされているものは、原則として薬事法でいう医薬品に該当する。現代では医薬品としての承認 ・許可を得ていない限り、医薬品と紛らわしいことを表示・広告することは認められていない。
現在販売されている口中清涼剤「仁丹」は、薬事法(昭和35年8月10日 法律第145号)上の「医薬部外品」として販売されている。つまり、口の中がさっぱりした気持ちになるために飲む薬…ということになるだろう。
このような口中清涼剤としては、「仁丹」と共によく知られているものに口中香剤「カオール」(KAOL)があった。
仁丹が発売(1905年)される6年ほど前の1899(明治32)年、現在のオリヂナル(株)(※9参照)の前身である安藤井筒堂が発売していたもので、「カオール」も新聞広告を利用した巧みな宣伝力で、高い売れ行きを上げると共に、「仁丹」と並ぶ口中清涼剤の二大ブランドとして知名度を確立させ、戦前までその知名度を維持していたようだ。こちらの商品も現在継続発売されている。
ちなみに「カオール」は川端康成の初期の代表的作品『伊豆の踊子』に登場している。
この作品は、19歳の川端が伊豆に旅した時の実体験を元にしているといわれるが、小説では最後に、踊り子の兄である栄吉と主人公の私=一高生(現在の東大教養学部)との会話の中に以下のような一節がある(※10の第七章参照)。、
「・・・町は秋の朝風が冷たかった。栄吉は途中で敷島(明治末に発売された煙草の銘柄)四箱と柿とカオールという口中清涼剤とを買ってくれた。」 「妹の名が薫ですから。」 と、かすかに笑いながら言った。
「カオール」は、踊り子の名前「薫(かおる)にかけたオチだろう。この後、「船の中で蜜柑はよくありませんが、柿は船酔いにいいくらいですから食べられます。」・・・・と出てくるように、昔から、柿は船酔いに良いといわれており、徳島出身の私の母など神戸から徳島に里帰りするときなど柿を持って船に乗ったという話を聞いたことがある。
このカオール確か小さなガラス瓶に入れて売られていたと記憶している。今の時代、どれくらいの人が「仁丹」や「カオール」を愛用しているかは知らないが、私は若いころは携帯用のケースに入っていた「仁丹」を愛用していた。昭和30年代、私が大阪の商社に勤めていた時など、女性は知らないが、会社のほとんどの男性が携帯用のケース入り仁丹を持っていたと記憶している。私のような営業マンは日常的に人と接することが多かったので、主とした目的としてはエチケットとして口臭予防のためであったが、仁丹をかんだ後のすっとした清涼感が良かったことも人気の要因だった。
口臭予防としては、手軽に使用でき便利ではあるが、効果は数十分程度であり、虫歯や歯周病などの病的な原因があった場合は一時的に臭いを誤魔化すことしかできないと言う欠点がある。だから、しょっちゅう噛んでいたが、そのうちに、それが習慣になっていたように思われる。
口中清涼剤は、古くは仁丹に代表される口臭の予防と清涼感を与えるもののことだが、現代では、丸剤タイプ、板状の固形のもの、フィルム状のもの、液状の洗口用のもの、液状で噴霧するタイプなどさまざまな形態のものが販売されている。しかし、薬用効果はほとんどなく、主に芳香性香料によるマスキング(覆い隠すこと)効果によって、口臭を抑える効果がある。扱いとしては食品類のものが多く、おしゃれ商品あるいはエチケット商品として販売されている。
口臭の原因は複数に分かれるが、大きく生理的口臭(一時的なものを含む)と病的口臭(慢性的なもの)に分けられる(口臭参照)。口臭は虫歯や胃腸の不調など体の異常を伝えている場合が多いので、口臭を放置せず原因を追求してきちんと対策をたてておかないといけないが、具体的な対策としては、やはり、正しい歯磨きの習慣や食事の後の簡単なケア、生活習慣の改善やタバコを吸っている人は禁煙するなどが代表的で効果的な口臭対策と言えるようだ。以下参考の※11:口臭を予防して生活を守ろう!や、※12:口臭まど参考にされるとよい。
参考:
※1:日本記念日協会
http://www.kinenbi.gr.jp/
※2:森下仁丹
http://www.jintan.co.jp/
※3:慶應義塾大学出版会|慶應義塾・福澤諭吉|ウェブでしか読めない|時事 .新報史
http://www.keio-up.co.jp/kup/webonly/ko/jijisinpou/32.html
※4:Vol.8 明治期の新聞広告 近代広告の幕開けを告げるニューメディア
http://www.yhmf.jp/pdf/activity/adstudies/vol_08_03.pdf#search='%E6%99%82%E4%BA%8B%E6%96%B0%E5%A0%B1+%E5%95%86%E4%BA%BA%E3%81%AB%E5%91%8A%E3%82%8B%E3%81%AE%E6%96%87'
※5:薬屋本舗レトロの館:総目次のページ
http://kusuriya.sakuraweb.com/index-3.htm
※6:京都仁丹樂會:サイトマップ
http://jintan.kyo2.jp/sitemap.html
※7:仁丹の館
http://blogs.yahoo.co.jp/kuzui0215
※8:梅毒の症状と歴史 - 探検コム
http://www.tanken.com/baidoku.html
※9:オリヂナル
http://www.original-co.jp/
※10:『伊豆の踊子』 原文
http://wenku.baidu.com/view/5fafa64f2e3f5727a5e96298.html
※11:口臭清涼剤とは? - 口臭を予防して生活を守ろう!
http://www.bav-savunma.org/koushuu_seiryouzai/what_seiryouzai.html
※12:口臭
http://health.jolly39.com/bad-breath/
稲佐お栄 - 長崎県商工会議所連合会
http://www.nagasaki-cci.or.jp/nagasaki/josei/ijinden_inasaoei.html
新聞 − 広告に利用される知のメディア
http://www.ne.jp/asahi/miyachi/sep/media-contents/newspaper.htm
医薬品産業における広告の役割―研究ノート - J-Stage
<aq href= https://www.jstage.jst.go.jp/article/iken1991/8/4/8_115/_pdf> https://www.jstage.jst.go.jp/article/iken1991/8/4/8_115/_pdf
第22回 「大衆の健康に奉仕する」大胆な広告で一世風靡
http://www.jmam.co.jp/column/column12/1188297_1513.html
明治大正時代の新聞 - Astrohouse
http://astrohouse.opal.ne.jp/ads/service.html
仁丹 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%81%E4%B8%B9
制定したのは口中清涼剤「仁丹」の製造販売元として知られる、森下仁丹(株)である。
現在大阪市中央区玉造に本社を置く医薬品製造会社森下仁丹(株)は、創業者の森下博が1893(明治26)年2月11日に、大阪市旧:東区(現・中央区)淡路町にて、薬種商「森下南陽堂」を創業したのが発祥である。
記念日の日付はこの同社の創業日である2月11日と、「仁丹」(※2:森下仁丹HP歴史博物館:仁丹誕生によると、現在発売されている「銀粒仁丹」の前身にあたる懐中薬「赤大粒 仁丹」)の発売日である1905(明治38)年2月11日からだそうだ。以来、同社は今日まで発売され続けている銀粒の「仁丹」の製造元としてその名を知られている。
今年2014(平成26)年で創業121年を迎える同社は、銀粒仁丹の製造から着想を得た液体も包むことの出来るビーズ状のシームレスカプセル(継ぎ目のないカプセル))技術の様々な用途への展開や、長年の 生薬研究から生まれた健康食品や素材、さらには医薬品や医療機器の製造販売に至るまで、幅広い分野を手がける医薬品メーカーのひとつとなっている。
冒頭に掲載の画像は、1912(大正元)年頃の同社の店頭看板。下は右が1905(明治38)年、左が、1916(大正5)年のトレードマークの「大礼服」(登録商標である大礼服姿の通称「将軍マーク」)であるが、時代による微妙な変化が面白い。(画像は『朝日クロニクル週刊20世紀』1912年号の、“広告と生きた世紀”シリーズに掲載されていたものを借用)。
森下仁丹は広告に非常に力を入れていたが、その一つの柱が新聞広告であり、もう一つの柱が屋外広告であった。
同『朝日クロニクル週刊20世紀』にによると、森下仁丹の宣伝部長(当時)だった谷本弘の回顧録によれば、大正時代の広告事情などについて次のように語っていたという。
口腔清涼剤「仁丹」の宣伝が開始されたのは1905(明治38)年2月11日だった。宣伝ターゲットは常備薬とする家庭と海外だった。
ブランド名の「仁丹」は中国・台湾へ売り込むには仁義礼智信(儒教で説く5つの徳目「五徳」)のトップに位置する仁をとるのが良かろうという漢学者の藤沢南岳や朝日新聞社の西村天囚(大阪朝日新聞主筆で、コラム「天声人語」の名付け親)のアドバイスと中国語で丸薬を意味する「丹」を組み合わせたネーミングである。
有名な大礼服のトレードマークは前社長の回想から「(軍人ではなく)仁丹の外交官」とされている。この外交官も当初案に何十回も手が加えられたうえ、その後も度々モデルチェンジされている(※2:森下仁丹HP歴史博物館:大礼服マークは薬の外交官のシンボル参照)。
「仁丹」が新聞に1ページ広告を出して売薬業界に躍り出たのは明治も末の1907(明治40)年以降で、広告を出すたびに全社員に赤飯と尾頭付の魚を配って祝ったという。同社の広告・宣伝費は、新聞6、その他4の割合で振り向けられていた。
その他には、大礼服の立て看板やホーロー製( ホーロー看板)の町名看板までが含まれる。
創業者森下博は、かねがね広告による、「薫化益世」を主張しており、社内ではこれを、「広告益世」と言い換えて踏襲していた。この仁丹の広告量がピークに達したのは1923(大正12)年、関東大震災の年であった(※2:森下仁丹HP歴史博物館:広告ギャラリー)。・・・・・と。
『西洋事情』、『学問のススメ』ほか多数の著作を残した福沢諭吉は、西洋文明をわが国に積極的に紹介し、日本の近代化を推し進めた知識人として知られている。
1882(明治15)年には、日刊紙『時事新報』を発刊し、政党に左右されない「不羈独立」の新聞という理念を実現可能にするために、当初から広告を重視する姿勢を打ち出した。そして、1883(明治16)年発行の『時事新報』に、「商人に告るの文」という一文を掲載し、新聞広告について、「今の時代に在りては其及ぶ所の甚だ広く其費用の甚だ廉なるものは、新聞紙を借りて広告するに匹敵すべきものなし。・・・若し人ありて新聞の手を借らず、他の引札(チラシ)張札(張り紙)等の方法を以て新聞同様の広さに広告を行届かしめんと試むることあらんには、其費用と手数の莫大なる、尋常人の資力には及ぶべからざるものならむ」とも述べて、新聞広告の有用性を訴えている(参考※3の第18回経営の重視 〜紙面改良の工夫とその批判〜、や※4参照)。
創業者森下は、この福沢諭吉の説いた新聞広告の重要性を受けて以降、広告を重要視した販売戦略を掲げた。
開業当時森下自身が開発した香袋『金鵄麝香』(1896年発売)や内服美容剤『肉体美白丸』(1898年)を発売した時までは、大きな成果は生まれなかったが、1900(明治33)年、笹川三男三医学博士の開発した梅毒薬「毒滅」の販売では家財の一切を広告費につぎ込み大々的な宣伝を仕掛けた。
商標にはドイツ宰相ビスマルクを使用、「梅毒薬の新発見、ビ公は知略絶世の名相、毒滅は駆黴唯一の神薬」というコピーを作り、日本で初めて日刊紙(新聞)各紙に全面広告を出した。また全国の街角の掲示板にポスターを出すなど、先駆的な宣伝戦略を打ち出した。
当時、梅毒は花柳病、文明病としてその猛威を振るっており、「毒滅」は画期的な新薬として注目され、ビスマルクの「毒滅」、ビスマルクの「森下南陽堂」の名は瞬く間に広まったという(※2:森下仁丹HP歴史博物館:森下仁丹百年物語第1章黎明期、※5:薬屋本舗レトロの館:日本の名薬>毒滅参照)。
これで社を軌道に乗せた森下は、続いて以前から着目していた家庭保健薬の研究を進め 軍隊に召集された時、任地の台湾で現住民が清涼剤を口に含み伝染病に感染しないようにしていたのを見て発想を得たといわれる総合保健薬の開発研究に取り組み、丸薬の携帯性を高めるため、表面を赤いベンガラでコーティング(1929年=昭和4年からは銀箔)し、こうして大衆薬「仁丹」を1905(明治38)年発売することになった。この時、トレードマークにも修正を重ね、最終的に「毒滅」で使ったビスマルクをデフォルメし、大衆に人気のあった大礼服を着せたという。
そして売り上げの三分の一を宣伝費に投資したといわれ、新聞や街の琺瑯(ホーロー)看板だけでなく薬店に突き出し看板やのぼり、自動販売機などを設置。大礼服マークは当時の薬局の目印になったほどだったという。
そして、「広告益世」の真骨頂ともいえるのが、1914(大正3)年からスタートした、「金言広告」で、「天は人の上に人をつくらず、人の下に人をつくらず」(福沢諭吉)、「堪忍は無事長久の基」(徳川家康)、「勝利は最後の五分にあり」(ナポレオン)など、古今東西の5,000種類の金言を、電柱広告や看板、紙容器などに取り入れたという。
また電柱広告にも目を付け町名表示と広告を併せたものを作ったり、鉄道沿線の野立看板を設置。更に東京浅草や大阪駅前に大イルミネーション・仁丹塔を建てこれらは名所となった。こうして、全国津々浦々に名前が浸透した仁丹は発売わずか2年で売薬中、売上高第1位を達成したという。
つまり、創業者森下博の「広告による薫化益世を使命とする」・・・を信条として大々的な広告でのし上がってきのが森下仁丹であったと言っていいだろう。町には広告が溢れ、いやがうえにも目に就いただろう。
以下参考に記載の※5:「薬屋本舗レトロの館」、※6:「京都仁丹樂會」※7:「仁丹の館」などでは懐かしい、仁丹の広告や古写真に写り込んでいる仁丹の広告看板等が数多くを見ることが出来る。興味のある人は見られるとよい。
ところで、ひとつ、気になったことがある。明治初期、新聞の三大広告主と呼ばれていたのは化粧品と書籍と並んで薬であった。
『時事新報』に、「商人に告るの文」という一文を掲載し、新聞広告の有用性を訴えていたのは福沢諭吉であるが、又、同時に、彼は、当時批判が高まっていた売薬広告について「売薬論」を掲載し、誇大広告を行う売薬広告主とそれを掲載する新聞への批判なども行い、この「売薬論」はその後、東京府下の売薬商組合から営業毀損回復の訴訟を起こされる、「売薬営業毀損事件」にまで発展している(※3の第17回 売薬営業毀損事件や、※4参照)。
日本で梅毒が初めて記録されたのは、1512(永正9)年のことで、歌人・三条西実隆の『再昌草』に以下のように記されているという。
4月24日「道堅法師、唐瘡(からがさ)をわづらふよし申たりしに、 戯に、もにすむや我からかさをかくてだに口のわろさよ世をばうらみじ」
上の「唐瘡」が梅毒のことで、この年、京都では梅毒が大流行したようだ(※8参照)。
梅毒はコロンブスがアメリカからヨーロッパに持ち込んだ後、ヨーロッパ全域に広がり、大航海時代の波に乗って日本には16世紀に伝来し、関西で大流行を起こしたあと、江戸にもやってきて吉原遊郭などで一気に広まったようだ。
梅毒は江戸時代には「瘡毒」(そうどく)と呼ばれていたようだが、日本人にとって梅毒は有効な治療法もなく脅威であった。
公娼に対して、梅毒その他の花柳病感染の有無その他の健康状態を医師により強制的に検診を行う梅毒検査(検梅)を日本で、初めて行ったのは長崎の稲佐遊郭において、ロシア海軍の要請で行ったのは万延元年(1860)のこと(※8参照)。一方、イギリス海軍の軍医だったニュートンが1868(慶応4)年、横浜に日本最初の横浜駆黴院(梅毒病院)を開設している。
しかし、明治になると、状況が変化した。1872(明治5)年に政府は御一新による四民平等の立場から人身売買を禁止し、奴隷的境遇に置かれていた芸娼妓の解放を宣言。「遊女解放令」が出ると、遊女屋は貸座敷と名称を変えるなどし、売春行為が地下に潜り、梅毒が世の中に蔓延してしまった。
この流れを受けて、明治政府は1874(明治7)年、検梅を柱とする「医制」を発布。1876(明治9)年全国の遊郭所在地に駆黴院(梅毒病院)を設置し、ここに日本で初めて検黴(検黴[=検梅]および駆黴[=梅毒を治療すること])制度が出来た。
ちなみに日清戦争(1894年=明治27年〜)直前には、
「兵隊さんの間に梅毒が盛に蔓るとて種々八釜(やまか)しく」(『都新聞』明治26年)
などと書かれるようになり、軍隊でも梅毒が大きな問題となっていたようだ。
当時、治療法は水銀以外にヨウ素が使われたが、ともに危険で、1910(明治43 )年、秦佐八郎らによってサルバルサン(有機ヒ素剤)が開発されたものの、効果は不十分(毒性を持つヒ素を含む化合物であり副作用が強いため、今日では医療用としては使用されない。)であった。…そのようなことから、結局、怪しい民間治療薬が幅をきかせることになっていた(※8参照)。
抗生物質のない時代は確実な治療法はなく、多くの死者を出した。慢性化して障害をかかえたまま苦しむ者も多かったが、現在ではペニシリン(1928年=昭和3年にイギリスのアレクサンダー・フレミングによって発見)などの抗生物質が発見され、早期に治療すれば全快するようになった。
ドイツの宰相ビスマルクの絵が強い印象を与えた「毒滅」の新聞広告。森下仁丹の前身森下南陽堂が、家財を売り払ってまで「毒滅」という梅毒治療薬の全面広告を出し、大ヒットさせたのは1900(明治33)年のことである。「毒滅」とは書いて字の如く「毒を滅ぼす」、つまり梅毒や淋疾(淋病)といった性病を粉砕する為のクスリという意味をこめている。
しかし、「毒滅」が発売されたのは、抗生物質のペニシリンの発見される18年も前のことであり、又、当時では画期的な駆黴薬と言われたサルバルサンが開発される10年も前のことである。実際に「毒滅」が、サルバルサンと同等の効能があったのかどうか?・・・については大いに疑問のあるところだが、新聞広告を見ると「 公立駆黴院長五大家御証明」などと、この分野の泰斗たちのお墨付きまで付いているものがある(※5の新聞広告>明治38年3月8日のもの参照)。
当時の庶民は病気になっても医者に診てもらうことは現代ほど日常的ではなかった。そのような時代梅毒・淋疾に苦しめられていた人々にとって、広告による売薬の「毒滅」は最後の希望の光であったのだろう。
だが、明治・大正における薬の広告は、薬事法が現在のように整備されていなかったこともあって、誇大広告に類するものが多々見うけられるが、当時は日露戦争(1904年=明治37年)に勝利したこともあり、強い軍人や政治家が大変人気のあった時代。「毒滅」の新聞広告に使われたビスマルクの商標は如何にも梅毒淋疾に効いてしまいそうな感じを与えており、そういう意味では、精神的な効能はあったかもしれない。
福沢諭吉による売薬広告に対する非難もあったが、昔から「薬九層倍」と言って原材料費と製造費に対して9倍の値段で売れるため、不特定多数の民衆が目にする新聞を広告メディアとして利用することによって、多額の利益を上げることが可能になった。また、新聞社にとってもそんな薬の広告主は有難いスポンサーでもある。売薬広告は、知のメディアである新聞を利用することによってある種のいかがわしさを携えて明治の人々のココロに偲び込んでいったと言えるだろう。
毒滅発売から僅か8年後(1929年)…森下南洋堂にとってのシンボルとなる大衆売薬銀粒の「仁丹」が登場する(このころ社名「森下博薬房」に変更)。
この「仁丹」も、明治の発売当初は「完全なる懐中薬・消化と毒消し。(また最良なる毒消し)」を、謳い文句としているが、ここでいう「毒」とはコレラや梅毒のことを指しており、特にコレラは明治・大正期においては致死率の非常に高い病気であった。
当時はコレラに対する治療法が徹底されていなかったこともあり、全国紙に一頁広告を幾度も掲載して「消化を良くし、胃腸を健やかにすべし」との考えを広く知らしめたことで、仁丹の売り上げはさらに飛躍することになる。ここでも、新聞広告には、「陸・海軍隊の御用命を蒙る」などと書かれている(※5の新聞広告>明治38年6月7日参照)。少なくとも、ここらあたりの広告では、素晴らしい医薬品的効果を売り物にしている。
同社では、現代もオーラルケア製品として「仁丹」を発売している。
「一服の清涼剤」という言葉がある。この言葉はささやかだが、束の間さわやかな気分にさせるような行為や事柄をいう。
清涼剤には、「口中清涼剤」 「のど清涼剤」 「健胃清涼剤」などがある。
「清涼剤」は、日焼け止めクリームと同じような、「医薬部外品」である。
医薬部外品は、日本の薬事法に定められた、医薬品と化粧品の中間的な分類に属するもの。疾病の診断、治療又は予防に使用することが目的とされているものは、原則として薬事法でいう医薬品に該当する。現代では医薬品としての承認 ・許可を得ていない限り、医薬品と紛らわしいことを表示・広告することは認められていない。
現在販売されている口中清涼剤「仁丹」は、薬事法(昭和35年8月10日 法律第145号)上の「医薬部外品」として販売されている。つまり、口の中がさっぱりした気持ちになるために飲む薬…ということになるだろう。
このような口中清涼剤としては、「仁丹」と共によく知られているものに口中香剤「カオール」(KAOL)があった。
仁丹が発売(1905年)される6年ほど前の1899(明治32)年、現在のオリヂナル(株)(※9参照)の前身である安藤井筒堂が発売していたもので、「カオール」も新聞広告を利用した巧みな宣伝力で、高い売れ行きを上げると共に、「仁丹」と並ぶ口中清涼剤の二大ブランドとして知名度を確立させ、戦前までその知名度を維持していたようだ。こちらの商品も現在継続発売されている。
ちなみに「カオール」は川端康成の初期の代表的作品『伊豆の踊子』に登場している。
この作品は、19歳の川端が伊豆に旅した時の実体験を元にしているといわれるが、小説では最後に、踊り子の兄である栄吉と主人公の私=一高生(現在の東大教養学部)との会話の中に以下のような一節がある(※10の第七章参照)。、
「・・・町は秋の朝風が冷たかった。栄吉は途中で敷島(明治末に発売された煙草の銘柄)四箱と柿とカオールという口中清涼剤とを買ってくれた。」 「妹の名が薫ですから。」 と、かすかに笑いながら言った。
「カオール」は、踊り子の名前「薫(かおる)にかけたオチだろう。この後、「船の中で蜜柑はよくありませんが、柿は船酔いにいいくらいですから食べられます。」・・・・と出てくるように、昔から、柿は船酔いに良いといわれており、徳島出身の私の母など神戸から徳島に里帰りするときなど柿を持って船に乗ったという話を聞いたことがある。
このカオール確か小さなガラス瓶に入れて売られていたと記憶している。今の時代、どれくらいの人が「仁丹」や「カオール」を愛用しているかは知らないが、私は若いころは携帯用のケースに入っていた「仁丹」を愛用していた。昭和30年代、私が大阪の商社に勤めていた時など、女性は知らないが、会社のほとんどの男性が携帯用のケース入り仁丹を持っていたと記憶している。私のような営業マンは日常的に人と接することが多かったので、主とした目的としてはエチケットとして口臭予防のためであったが、仁丹をかんだ後のすっとした清涼感が良かったことも人気の要因だった。
口臭予防としては、手軽に使用でき便利ではあるが、効果は数十分程度であり、虫歯や歯周病などの病的な原因があった場合は一時的に臭いを誤魔化すことしかできないと言う欠点がある。だから、しょっちゅう噛んでいたが、そのうちに、それが習慣になっていたように思われる。
口中清涼剤は、古くは仁丹に代表される口臭の予防と清涼感を与えるもののことだが、現代では、丸剤タイプ、板状の固形のもの、フィルム状のもの、液状の洗口用のもの、液状で噴霧するタイプなどさまざまな形態のものが販売されている。しかし、薬用効果はほとんどなく、主に芳香性香料によるマスキング(覆い隠すこと)効果によって、口臭を抑える効果がある。扱いとしては食品類のものが多く、おしゃれ商品あるいはエチケット商品として販売されている。
口臭の原因は複数に分かれるが、大きく生理的口臭(一時的なものを含む)と病的口臭(慢性的なもの)に分けられる(口臭参照)。口臭は虫歯や胃腸の不調など体の異常を伝えている場合が多いので、口臭を放置せず原因を追求してきちんと対策をたてておかないといけないが、具体的な対策としては、やはり、正しい歯磨きの習慣や食事の後の簡単なケア、生活習慣の改善やタバコを吸っている人は禁煙するなどが代表的で効果的な口臭対策と言えるようだ。以下参考の※11:口臭を予防して生活を守ろう!や、※12:口臭まど参考にされるとよい。
参考:
※1:日本記念日協会
http://www.kinenbi.gr.jp/
※2:森下仁丹
http://www.jintan.co.jp/
※3:慶應義塾大学出版会|慶應義塾・福澤諭吉|ウェブでしか読めない|時事 .新報史
http://www.keio-up.co.jp/kup/webonly/ko/jijisinpou/32.html
※4:Vol.8 明治期の新聞広告 近代広告の幕開けを告げるニューメディア
http://www.yhmf.jp/pdf/activity/adstudies/vol_08_03.pdf#search='%E6%99%82%E4%BA%8B%E6%96%B0%E5%A0%B1+%E5%95%86%E4%BA%BA%E3%81%AB%E5%91%8A%E3%82%8B%E3%81%AE%E6%96%87'
※5:薬屋本舗レトロの館:総目次のページ
http://kusuriya.sakuraweb.com/index-3.htm
※6:京都仁丹樂會:サイトマップ
http://jintan.kyo2.jp/sitemap.html
※7:仁丹の館
http://blogs.yahoo.co.jp/kuzui0215
※8:梅毒の症状と歴史 - 探検コム
http://www.tanken.com/baidoku.html
※9:オリヂナル
http://www.original-co.jp/
※10:『伊豆の踊子』 原文
http://wenku.baidu.com/view/5fafa64f2e3f5727a5e96298.html
※11:口臭清涼剤とは? - 口臭を予防して生活を守ろう!
http://www.bav-savunma.org/koushuu_seiryouzai/what_seiryouzai.html
※12:口臭
http://health.jolly39.com/bad-breath/
稲佐お栄 - 長崎県商工会議所連合会
http://www.nagasaki-cci.or.jp/nagasaki/josei/ijinden_inasaoei.html
新聞 − 広告に利用される知のメディア
http://www.ne.jp/asahi/miyachi/sep/media-contents/newspaper.htm
医薬品産業における広告の役割―研究ノート - J-Stage
<aq href= https://www.jstage.jst.go.jp/article/iken1991/8/4/8_115/_pdf> https://www.jstage.jst.go.jp/article/iken1991/8/4/8_115/_pdf
第22回 「大衆の健康に奉仕する」大胆な広告で一世風靡
http://www.jmam.co.jp/column/column12/1188297_1513.html
明治大正時代の新聞 - Astrohouse
http://astrohouse.opal.ne.jp/ads/service.html
仁丹 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%81%E4%B8%B9