1936(昭和11)年の今日(2月5日)は、チャップリンの映画「モダン・タイムス」(Modern Times)がアメリカで公開された日である。
山高帽にだぶだぶズボン、どた靴にちょび髭―チャップリンは、スクリーンに登場するや、たちまち世界中の人気者に。
権威や秩序をひっくり返し、世の不正に怒り、虐げられた人々に生きる勇気と喜びを与える。まさに弱者の英雄であった。貧乏のどん底で養った鋭い観察眼が花開き、笑いと人間愛の傑作を次々と生み出した。
映画は見れば分かるものだから音は不要とずっとパントマイムとサイレントにこだわって来たチャップリンが1931(昭和6)年製作の「街の灯」(1931年)で初めてテーマ曲だけをサウンドで流した。
Charlie Chaplin - City Lights - YouTube(「街の灯」テーマ曲)
当時は「西部戦線異常なし」(1930年)など次々にトーキーで公開され、サイレント映画は終焉の時期を迎えていたが、そんな中で「街の灯」(1931年)は世界中で大ヒットとなった。
この映画完成後、チャップリンは1年4ヶ月間にわたる世界一周の旅に出、各国で歓迎を受ける中、政界をはじめ各界の要人に会い世界の抱える問題について意見交換を重ねている。
この世界一周旅行も終わりに近い1932(昭和7)年に、チャップリンは日本を訪れている。憧れの日本への第一歩を記した。同年5月14日7時45分、神戸港に到着したチャップリンは神戸港で数千人の歓迎を受けた後、車で神戸市のビジネスセンター、居留地などを抜けて料亭「菊水」で一服する。ここで、仲居10人が余興に「酋長の娘」などを三味線伴奏で和風ジャズ舞踏として踊ったところ、チャップリンはいたく喜んでアンコールを所望したという。
酋長の娘 勝丸 - YouTube
この後、昼の12時25分神戸発の燕号に乗り、東京駅に入り、帝国ホテルに宿泊。翌15日、相撲見物の帰りに、2日後に会う予定だった犬養毅首相が暗殺されたことを知る。5.15事件の勃発だった。
この事件では、首謀者の古賀清志海軍中尉が、後日の軍法会議でアメリカの「有名人であり資本家どものお気に入りである」チャップリンを殺すことで「アメリカとの戦争を惹き起こせると信じた」と陳述し、チャップリンも犬養首相とともに暗殺する計画があったことを暴露しているという(※001参照)。6月帰国するが、この旅の中で次作「モダン・タイムス」(1936年公開)、「チャップリンの独裁者」(1940年公開)、「ライムライト」(1952年公開)などのヒントを得たという。
ところで少し余談になるが、世界中で大ヒットした映画「街の灯」は、日本でも前評判が高く、翌年の1931(昭和7)年、早くも和製主題歌がポリドール(矢追婦美子歌唱「花売娘の唄」6月)やコロムビア(淡谷のり子歌唱「街の灯」7月)より発売された。しかし、日本での映画の公開が2年も遅れて1934(昭和9)年1月となってしまったため、映画公開より歌の方を早く出してしまったコロムビアは、淡谷のり子に同じ歌詞(浜田広介作詩)だが作曲だけを変えて(古賀政男→杉田良造に変更)、1934(昭和9)年2月に「街の灯」を改めて出すことになったという(※2参照)。
私も大好きだった若き日の淡谷のり子の懐かしい曲が以下で聞ける。両作品とも別な良い雰囲気があるが、和製主題歌にするとこんな歌になってしまうのだね〜。背景の画像(映画「街の灯」)をイメージして楽しまれるとよい。
街の灯 淡谷のり子 1934年盤 - YouTube(杉田良造作曲、奥山貞吉編曲によるもの)
街の灯 淡谷のり子.wmv - YouTube(古賀政男作曲によるもの)
さて、チャップリンの映画「モダン・タイムス」がアメリカで公開された1936(昭和11)年といえば、日本では5.15事件(1932年)に次ぐ2・26事件が発生(2月26日から)した年であり、世界では世界恐慌(1929年)の影響によって超インフレ、街には失業者があふれ、世 界は第二次世界大戦への道へ歩み始めていた頃である。
当時のドイツはヒットラーによるナチス政権、イタリアはムッソリ ーニによる一党独裁政権、日本は軍部が実権を持ち、「モダン・タイムス」が米国公開された翌・1937(昭和12)年の蘆溝橋事件に端を発した日中戦争の拡大につれ、映画界にも戦争の影響が出始めた(※003。尚、太平洋戦争への突入は1941(昭和16)年12月8日のことである)。
映画「モダン・タイムス」が米国公開された翌1937(昭和12)年、外国映画禁止輸入処分によって、最も影響を受けたのがアメリカ映画であった。公開本数で前年までの222本から一気に94本と半数以下に激減。外国映画興行界2本併映体制を維持できなくなり、協力作品一本体制に移行。そうした中、チャップリンの映画「モダン・タイムス」が1938(昭和13)年日本公開された(『朝日クロニクル週刊20世紀』1938年号)。
「産業と個人企業と、幸福を追い求めて戦う人間性の物語」という字幕から始まるチャップリンの名作「モダン・タイムス」。
18世紀半ばからイギリスで起こった産業革命。それを契機に19世紀には機械及び動力の発明により、新しい技術が次々に生み出され、人類は「機械化」のおかげで物質面における空前の大発展を遂げ豊かになったのだが、果たしてそれで人間はより幸福になったのだろうか?
文明という名の機械化の波があれよあれよという間に押し寄せてきた1930年代。不況の中、街には失業者があふれ、人の心も荒んだ暗い世の中を生き抜く人々。巨大な機械工場では、社長がモニターで厳しく監視する中、オートメーション化された機械の部品の如く働かされる工員たちいた。
工場で働くチャーリーは、スパナを両手に次々とベルトコンベアーで送られてくるの部品のネジを回して締めていた。ところが絶え間なく運ばれてくる部品のネジをただひたすら回し続ける単純作業の繰り返しに頭がおかしくなり、ベルトコンベアの上に乗り、巨大な歯車の中に巻き込まれてしまう。歯車の中から戻った彼は完全に頭がおかしくなり、ちょっとでも突起したものがあればそれを締め上げたりするなど、工場内を大混乱に陥れ、病院送りとなった。そのシーンは以下で見られる。
『モダン・タイムス』 工場で大暴れのシーン
そんな彼は、退院した矢先にふとしたことがきっかけでデモ団体のリーダーと間違われ、捕まってしまうが、脱獄囚を撃退した功績で模範囚として放免される。仕事も紹介されたが上手くいかず辞めてしまい、街をうろつく生活に・・・。
この映画は最初の字幕にもあるように、「人間の機械化に反対して、個人の幸福を求める物語」であり、「機械化」に象徴される「Modern Times(近代)」、を皮肉たっぷりに批判しているコメディーである。
驚異的に進む機械化された産業社会の中、歯車に組み込まれた人々は「人間の尊厳」と言う本質を見失って「機械の一部」のようになって工場で単純労働を繰り返す。それを私設テレビで監視する資本家との構図によって、この後訪れる人間喪失の時代を予見している点、彼の社会に対する観察眼の鋭さに驚かされる。
チャップリンがこの様な映画を作ろうと思った背景には1929(昭和4)年に始まった大恐慌があったのだろう。
この映画のベルトコンベアの流れ作業、監視カメラ、ストライキ・・・・と続くシーンなどを見ていると、フランスの映画監督ルネ・クレールの「自由を我等に」(1931年製作)がダブってくる。
管理社会により、人間らしさが失われた異常な状態が正常とされている社会の恐怖をこのシークエンス(Sequence。連続性)は表わしている。
クレールの映画「自由を我等に」は、大量生産の時代に生きる窮屈さを皮肉っている作品であり、チャップリンの信奉者を自認するクレールが、遂に喜劇王の「モダン・タイムス」に影響を与えた作品だとされている(映画の解説は※004参照)。
その諷刺と男同士の友情話、サイレント的ギャグ、そしてG・オーリックの楽しい音楽が渾然一体となった、オペレッタ的コメディのこの作品を観ているとチャップリンがこの映画を参考にした・・と言われているのも納得できる。以下では同映画のシーンと共に映画の主題歌が聞ける。
また、G・オーリックの歌の解説は※005:「作曲家ジョルジュ・オーリック」を参照されるとよい。
フランス映画「自由を我等に "A Nous la Liberte"」主題歌 - YouTube
映画「モダン・タイムス」は当時の世界情勢を反映して、ドイツや、イタリアでは上映が禁止された。ソ連でも流れ作業のシーンなどが問題となり、批判の的にもなったという(『朝日クロニクル週刊20世紀」1938年号』)。しかし、我が国では映画評論家たちに高く評価され、キネマ旬報ベストテンの4位にランクされた(1938年の日本公開映画参照)。そして、戦後の1972(昭和47)年11月には、リバイバル上映もされている。
「モダン・タイムス」の映画で、機械にたよった流れ作業の工場で働く放浪紳士チャーリーは、働いているうちに、心身ともにボロボロになっていくが、今までの他の映画に登場するチャップリン演じる放浪の紳士は、貧乏のどん底であったが、この映画では工場の悪条件や低賃金や失業と戦う、普通の人間として登場している。このため、一部の新聞で「モダンタイムス」は共産主義の宣伝映画であると非難されもしたようだ。
このように「Modern Times」(近代)・・は、機械化時代への警告と風刺を込めて描いた作品だが、ただそれだけはない。冒頭字幕にあるように、人間性の回復を高らかにうたった映画でもある。
チャーリーは貧乏な娘(ポーレット・ゴダード)と出会い、食べるために働き、クビになり、投獄され、また食べるために働き・・・・を繰り返す。まるでこの映画は労働と解雇と投獄の連続で構成されている映画と言ってもいいほどであるが、そんな場面場面でのチャーリーの奮闘ぶりは抱腹絶倒もので、何をやっても社会に適合できない小男と、彼に翻弄される“常識社会”の人々とのコントラストが笑いを誘う。
そんなシーンの中で、最もチャップリンの哲学が読み取れるシーン・・・・。それが、デパートでのシーンである。
ストライキにより職を失い、住むところも食べるものも手に入れることが困難になったチャップリンが、同じく貧しい少女(ポーレット・ゴダード)と出会い2人は草むらで休憩する。幸せそうな若い夫婦がこぎれいな家から出てきて抱擁するのを見て、楽しげに笑う二人。「僕たちにもあんな家があるといいね」少女との幸せな家庭生活を夢想するチャーリー。「よしやってやる。そのために働いて家を作る」と意気投合したチャーリーは、二人のために家を建てるという夢を胸に一念発起とばかり働き出す。
そして、チャーリーはデパートの夜警に雇われると、閉店後のデパートに少女を招いた後、初めに、食料品売り場で食事をし、腹ごしらえをすると、次に、4階のおもちゃ売り場へ、大の大人が少女とローラースケートで楽しく遊ぶ。
因みに、この4階のおもちゃ売り場で目隠しをしてローラースケートを滑り冷や冷やさせるシーンなど存分にチャップリンの至芸を堪能出来る・・のだが、チャップリンは最後の最後まで、トーキー映画にこだわってはいるものの、その実、映像面では最先端のVFXを使いこなしていることがわかる。以下ブログでそのローラースケートの名場面が見られるので鑑賞されるとよい。
チャーリー・チャップリン 『モダン・タイムス』 Modern Times-ローラースケートの名場面
遊んだあと、少女は5階の家具売り場のベッドで就寝する。一方、チャーリーはスケートに乗りながら各階を見回ていて、三人組の強盗に襲われる。そのうちの一人は、エレクトロ鉄鋼会社の工場でチャーリーと一緒に働いていたビッグ・ビルだった。懐かしいな、とチャーリーに握手するビッグ・ビル。「俺たちは泥棒じゃない。空腹なだけなんだ」と店の酒を飲んで乾杯するチャーリーとビッグ・ビル。そしてチャーリーは婦人服売り場の中で寝込んでしまい、結局、働いた最初の日に警察送りとなる。
釈放され出て来ると、少女が迎え、海のそばにある家とはいえないボロ家を見つけたことを告げる。その時字幕に“It's Paradise !”と出る。“天国”だ・・・と喜ぶチャーリー。何が人間の幸せか、考えさせられるシーンである。
つまり、「食べ−遊び−寝る場所」がある。これらは人間にとっての必要最低限の条件であるともいえるが、逆に言えばこれさえあれば十分。人間が人間としてあるべき姿なのである。つまり、人間の幸福に「機械化」も「多くのお金」もいらない。むしろ、それらを否定することにより、人間の幸せを見出そうとする。・・ここにチャップリンの哲学が見えてくるような気がする。
チャップリンには多くの名言があるが、チャップリンが初めて素顔を出した長編映画であり、同時にアメリカでの最後の作品ともなった1952(昭和27)年公開の「ライムライト」の中で、「人生に必要なものは勇気(courage)と想像力(imagination)と少しのお金(a little dollar)だ」という名言を残している。
「ほんの少しばかりのお金」は「お金に左右されない清貧の心」「自立の心」ともいえるだろう。
世の中には、お金で買えない大事なことがたくさんある。それは、信頼、友情、愛、自由、時間などである。ただ、現代社会の中ではやはり最低限のお金は必要だが、大金はいらない。これをいかに有効活用して、自分の夢の実現のために勇気をもって行動できるか…それこそが大切なことだ。…と彼は言いたいのだろうと私は思う。
海のそばの家とも言えないボロ家に天国だと喜んで住み、朝食を食べながら新聞を読むチャーリーは「工場再開される。労働者仕事に就く」という記事を見て喜ぶ。仕事にありつけるぞ。やっと本当の家をもてる・・。チャーリーは巨大機械の機械工の助手となるが、すぐに工場はストライキとなり、チャーリーは職を失い、そして、又、ストライキの首謀者と間違われて、警察送りとなってしまう。
チャーリーが釈放されると、少女は路上で踊っていた踊りが認められてキャバレー(今日見られる男性向けのものとは違い、ダンスステージつき居酒屋のような所)の踊り子になって働いていた。彼女の推薦で彼もそこの店で給仕をして歌うことになり、彼女がカフスに歌詞を書いておいてくれたのだが、ホールに飛び出して腕を振ったとたんに外れてしまい、歌詞が分からず何語ともつかぬ即興のアドリブで「ティティーナ」を歌うシーンがある。
今までの映画の中で初めてチャップリン自身の歌声が流れる貴重なワンシーンであるが、この「ティティーナ」という曲。原曲は、1917(大正6)年のフランス歌曲「Je cherche apres Titine(ティティーヌを探して)」だという。「ティティーヌ(ティティン)」とは、一般的な女性名の愛称だそうだ。
この曲、2004(平成16)年には、ロサンゼルス出身の歌手Jfive(ジェイ・ファイブ)が、チャップリンの歌う「ティティーナ」をヒップホップ風にアレンジした「Modern Times」をリリースしている。以下のブログでは、そんな、チャップリンの歌う「ティティナ(ティティーナ)」と共に、J-FIVEの「Modern Times」も動画で聞くことが出来るので聞き比べてみるとよいだろう。
ティティナ(ティティーナ)チャップリン映画「モダン・タイムス」
キャバレーでの見世物も大成功するなど上々だったが、少女は今までの微罪により少年鑑別所に連れ戻されそうになったため、チャーリーは少女を連れてキャバレーを逃げ出す。そして、ラストには感動的な「スマイル」の曲とシーンが待っている。
「Dawn」 = 「夜が明けて」
仕事も、ささやかな家(あばら家)も失い、少女は途方にくれて泣き出してしまう。
「Wha’s the use of trying?」 = 「いくら がんばっても 無駄なのよ」・・・と少女。
「Back up - never say die We'll get along!」 = 「諦めちゃいけない さあ また 一緒に頑張ろうよ」と少女を励ますチャーリー。
励まされ生きる勇気を得て立ち上がり、手をつないで道路中央に来た少女の顔がまだ堅いのを見て “Smil”(笑ってごらん)… と、パントマイム(口の端を持ち上げて)で笑顔を促すチャーリー。
それに応えて笑顔になった少女と手を取り合った二人が道路の真ん中を歩いていく。二人の後ろに歩んできた道があり。二人の前途の道にはいくつもの山がある。
有名なこのシーン以下で見れる。
Smile, Charlie Chaplin, Modern Times (1936) 720p - YouTube
映画は、どうも現実世界に適合できないチャーリー(チャップリン)と少女(ポーレット)が道路の真ん中を手をつないで歩いていくこのシーンで、「スマイル」の盛大なフィナーレと共に幕切れする。、このシーンこそが、現代社会を生きる私たちへ最後に伝えたかったチャップリンからのメッセージだったのだろう。
つまりこの映画は、『モダンタイムス(Modern Times)』(現代社会)を爆笑のうちに皮肉り、批判しながら、そんな中で、人間らしさを失うまいと厳しい社会と格闘し、人生を正面から歩んでいる人々への賛歌だと言える。二人の前に続く長い道は、同時に スクリーンに向き合う私たちの前にも続く厳しい道なのである。
本作のラストシーンで印象的な曲「スマイル」は、チャップリンが作曲した音楽の中では特に有名であるが、喜劇映画にあっては暗いニ短調の曲であるが、1954(昭和29)年、その暗い曲調とは裏腹に「スマイル」という曲名が付けられ、ナット・キング・コールによって歌詞付きの歌が歌われている。以下で聞ける。
smile - nat king cole-YouTube
1936(昭和11)年米国で、「モダンタイムズ」の撮影を終えたチャップリンは、共演した少女役のポーレット・ゴダードとシンガポールで結婚し、アメリカへ帰る途中の1936(昭和11)年3月6日、客船クーリッジ号で又、神戸に立ち寄っている。
「お忍び」の旅行だったため、新聞報道はなかったが、映画解説で有名だった神戸出身の故・淀川長治(当時、ユナイテッド・アーチスツ社大阪支社の社員)が、船上デッキで面談したという(※006参照)。そして、同年5月にも南アジア旅行の帰途に再度来日している。歌舞伎、文楽、相撲、鵜飼などが好きで、食べ物ではエビのてんぷらが好きであったらしい。
1940年代〜1950年代にかけてアメリカに吹き荒れた赤狩りの嵐をもろにかぶったのはチャップリンであった。「モダンタイムズ」以降の作品で、ヒトラーを皮肉った「独裁者」(1940年。完全なトーキーに踏みきった作品)や「一人を殺せば絞首刑だが大勢殺せば勲章がもらえる」というセリフがあまり有名な「殺人狂時代」(1947年)などを作ったことが重なって、右翼の保守派ににらまれ、1952年にはロンドンで「ライムライト」のプレミアのために向かう船の途中アメリカからの追放処分を受け、そのまま、スイスに移り住んだチャップリンは、1961(昭和36)年にも、飛行機で4度目の来日をしているが、敗戦後のすっかり変わってしまった日本には昔日の面影はなく落胆しこの時以降2度と訪れることはなくなった。
チャップリンが初来日し、神戸を訪れた際メリケン波止場に上陸したことから、映画発祥の地を示す記念碑「メリケンシアター」がメリケンパークに創られている。
上掲の画像は、メリケン シアター石の“スクリーン”である。
チャップリンが再びアメリカの土を踏んだのは20年後の1973(昭和48)年、第44回アカデミー特別賞(名誉賞)を受けたときであり、授賞式のフィナーレで、彼がオスカー像を受け取る際、会場のゲスト全員で歌詞の付いた「スマイル」の曲が歌われた。
参考:
※001:戦 時 下 に 喪 わ れ た日 本 の 商 船::照 国 丸
http://homepage2.nifty.com/i-museum/19391121terukuni/terukuni.htm
※002:昭和初期の映画主題歌あれこれ:昭和9年(その3)
http://blog.livedoor.jp/oke1609/archives/50385754.html
※003:「表現規制とのたたかい」について - 日本映画監督協会
http://www.dgj.or.jp/freedom_expression_g/index_4.html
※004:映画 自由を我等に - allcinema
http://www.allcinema.net/prog/show_c.php?num_c=10621
※005:作曲家ジョルジュ・オーリック(1899-1983)(Adobe PDF)
http://9264f1be048181e8.lolipop.jp/Georges_Auric.pdf#search='%E6%98%A0%E7%94%BB%E3%80%8C%E8%87%AA%E7%94%B1%E3%82%92%E6%88%91%E7%AD%89%E3%81%AB%E3%80%8D%E4%B8%BB%E9%A1%8C%E6%AD%8C+%E6%AD%8C%E8%A9%9E'
※006:チャップリンと会う! その1
http://homepage1.nifty.com/Kinemount-P/yodogawa-meetschaplin.htm
モダン・タイムス - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%83%80%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%83%A0%E3%82%B9
山高帽にだぶだぶズボン、どた靴にちょび髭―チャップリンは、スクリーンに登場するや、たちまち世界中の人気者に。
権威や秩序をひっくり返し、世の不正に怒り、虐げられた人々に生きる勇気と喜びを与える。まさに弱者の英雄であった。貧乏のどん底で養った鋭い観察眼が花開き、笑いと人間愛の傑作を次々と生み出した。
映画は見れば分かるものだから音は不要とずっとパントマイムとサイレントにこだわって来たチャップリンが1931(昭和6)年製作の「街の灯」(1931年)で初めてテーマ曲だけをサウンドで流した。
Charlie Chaplin - City Lights - YouTube(「街の灯」テーマ曲)
当時は「西部戦線異常なし」(1930年)など次々にトーキーで公開され、サイレント映画は終焉の時期を迎えていたが、そんな中で「街の灯」(1931年)は世界中で大ヒットとなった。
この映画完成後、チャップリンは1年4ヶ月間にわたる世界一周の旅に出、各国で歓迎を受ける中、政界をはじめ各界の要人に会い世界の抱える問題について意見交換を重ねている。
この世界一周旅行も終わりに近い1932(昭和7)年に、チャップリンは日本を訪れている。憧れの日本への第一歩を記した。同年5月14日7時45分、神戸港に到着したチャップリンは神戸港で数千人の歓迎を受けた後、車で神戸市のビジネスセンター、居留地などを抜けて料亭「菊水」で一服する。ここで、仲居10人が余興に「酋長の娘」などを三味線伴奏で和風ジャズ舞踏として踊ったところ、チャップリンはいたく喜んでアンコールを所望したという。
酋長の娘 勝丸 - YouTube
この後、昼の12時25分神戸発の燕号に乗り、東京駅に入り、帝国ホテルに宿泊。翌15日、相撲見物の帰りに、2日後に会う予定だった犬養毅首相が暗殺されたことを知る。5.15事件の勃発だった。
この事件では、首謀者の古賀清志海軍中尉が、後日の軍法会議でアメリカの「有名人であり資本家どものお気に入りである」チャップリンを殺すことで「アメリカとの戦争を惹き起こせると信じた」と陳述し、チャップリンも犬養首相とともに暗殺する計画があったことを暴露しているという(※001参照)。6月帰国するが、この旅の中で次作「モダン・タイムス」(1936年公開)、「チャップリンの独裁者」(1940年公開)、「ライムライト」(1952年公開)などのヒントを得たという。
ところで少し余談になるが、世界中で大ヒットした映画「街の灯」は、日本でも前評判が高く、翌年の1931(昭和7)年、早くも和製主題歌がポリドール(矢追婦美子歌唱「花売娘の唄」6月)やコロムビア(淡谷のり子歌唱「街の灯」7月)より発売された。しかし、日本での映画の公開が2年も遅れて1934(昭和9)年1月となってしまったため、映画公開より歌の方を早く出してしまったコロムビアは、淡谷のり子に同じ歌詞(浜田広介作詩)だが作曲だけを変えて(古賀政男→杉田良造に変更)、1934(昭和9)年2月に「街の灯」を改めて出すことになったという(※2参照)。
私も大好きだった若き日の淡谷のり子の懐かしい曲が以下で聞ける。両作品とも別な良い雰囲気があるが、和製主題歌にするとこんな歌になってしまうのだね〜。背景の画像(映画「街の灯」)をイメージして楽しまれるとよい。
街の灯 淡谷のり子 1934年盤 - YouTube(杉田良造作曲、奥山貞吉編曲によるもの)
街の灯 淡谷のり子.wmv - YouTube(古賀政男作曲によるもの)
さて、チャップリンの映画「モダン・タイムス」がアメリカで公開された1936(昭和11)年といえば、日本では5.15事件(1932年)に次ぐ2・26事件が発生(2月26日から)した年であり、世界では世界恐慌(1929年)の影響によって超インフレ、街には失業者があふれ、世 界は第二次世界大戦への道へ歩み始めていた頃である。
当時のドイツはヒットラーによるナチス政権、イタリアはムッソリ ーニによる一党独裁政権、日本は軍部が実権を持ち、「モダン・タイムス」が米国公開された翌・1937(昭和12)年の蘆溝橋事件に端を発した日中戦争の拡大につれ、映画界にも戦争の影響が出始めた(※003。尚、太平洋戦争への突入は1941(昭和16)年12月8日のことである)。
映画「モダン・タイムス」が米国公開された翌1937(昭和12)年、外国映画禁止輸入処分によって、最も影響を受けたのがアメリカ映画であった。公開本数で前年までの222本から一気に94本と半数以下に激減。外国映画興行界2本併映体制を維持できなくなり、協力作品一本体制に移行。そうした中、チャップリンの映画「モダン・タイムス」が1938(昭和13)年日本公開された(『朝日クロニクル週刊20世紀』1938年号)。
「産業と個人企業と、幸福を追い求めて戦う人間性の物語」という字幕から始まるチャップリンの名作「モダン・タイムス」。
18世紀半ばからイギリスで起こった産業革命。それを契機に19世紀には機械及び動力の発明により、新しい技術が次々に生み出され、人類は「機械化」のおかげで物質面における空前の大発展を遂げ豊かになったのだが、果たしてそれで人間はより幸福になったのだろうか?
文明という名の機械化の波があれよあれよという間に押し寄せてきた1930年代。不況の中、街には失業者があふれ、人の心も荒んだ暗い世の中を生き抜く人々。巨大な機械工場では、社長がモニターで厳しく監視する中、オートメーション化された機械の部品の如く働かされる工員たちいた。
工場で働くチャーリーは、スパナを両手に次々とベルトコンベアーで送られてくるの部品のネジを回して締めていた。ところが絶え間なく運ばれてくる部品のネジをただひたすら回し続ける単純作業の繰り返しに頭がおかしくなり、ベルトコンベアの上に乗り、巨大な歯車の中に巻き込まれてしまう。歯車の中から戻った彼は完全に頭がおかしくなり、ちょっとでも突起したものがあればそれを締め上げたりするなど、工場内を大混乱に陥れ、病院送りとなった。そのシーンは以下で見られる。
『モダン・タイムス』 工場で大暴れのシーン
そんな彼は、退院した矢先にふとしたことがきっかけでデモ団体のリーダーと間違われ、捕まってしまうが、脱獄囚を撃退した功績で模範囚として放免される。仕事も紹介されたが上手くいかず辞めてしまい、街をうろつく生活に・・・。
この映画は最初の字幕にもあるように、「人間の機械化に反対して、個人の幸福を求める物語」であり、「機械化」に象徴される「Modern Times(近代)」、を皮肉たっぷりに批判しているコメディーである。
驚異的に進む機械化された産業社会の中、歯車に組み込まれた人々は「人間の尊厳」と言う本質を見失って「機械の一部」のようになって工場で単純労働を繰り返す。それを私設テレビで監視する資本家との構図によって、この後訪れる人間喪失の時代を予見している点、彼の社会に対する観察眼の鋭さに驚かされる。
チャップリンがこの様な映画を作ろうと思った背景には1929(昭和4)年に始まった大恐慌があったのだろう。
この映画のベルトコンベアの流れ作業、監視カメラ、ストライキ・・・・と続くシーンなどを見ていると、フランスの映画監督ルネ・クレールの「自由を我等に」(1931年製作)がダブってくる。
管理社会により、人間らしさが失われた異常な状態が正常とされている社会の恐怖をこのシークエンス(Sequence。連続性)は表わしている。
クレールの映画「自由を我等に」は、大量生産の時代に生きる窮屈さを皮肉っている作品であり、チャップリンの信奉者を自認するクレールが、遂に喜劇王の「モダン・タイムス」に影響を与えた作品だとされている(映画の解説は※004参照)。
その諷刺と男同士の友情話、サイレント的ギャグ、そしてG・オーリックの楽しい音楽が渾然一体となった、オペレッタ的コメディのこの作品を観ているとチャップリンがこの映画を参考にした・・と言われているのも納得できる。以下では同映画のシーンと共に映画の主題歌が聞ける。
また、G・オーリックの歌の解説は※005:「作曲家ジョルジュ・オーリック」を参照されるとよい。
フランス映画「自由を我等に "A Nous la Liberte"」主題歌 - YouTube
映画「モダン・タイムス」は当時の世界情勢を反映して、ドイツや、イタリアでは上映が禁止された。ソ連でも流れ作業のシーンなどが問題となり、批判の的にもなったという(『朝日クロニクル週刊20世紀」1938年号』)。しかし、我が国では映画評論家たちに高く評価され、キネマ旬報ベストテンの4位にランクされた(1938年の日本公開映画参照)。そして、戦後の1972(昭和47)年11月には、リバイバル上映もされている。
「モダン・タイムス」の映画で、機械にたよった流れ作業の工場で働く放浪紳士チャーリーは、働いているうちに、心身ともにボロボロになっていくが、今までの他の映画に登場するチャップリン演じる放浪の紳士は、貧乏のどん底であったが、この映画では工場の悪条件や低賃金や失業と戦う、普通の人間として登場している。このため、一部の新聞で「モダンタイムス」は共産主義の宣伝映画であると非難されもしたようだ。
このように「Modern Times」(近代)・・は、機械化時代への警告と風刺を込めて描いた作品だが、ただそれだけはない。冒頭字幕にあるように、人間性の回復を高らかにうたった映画でもある。
チャーリーは貧乏な娘(ポーレット・ゴダード)と出会い、食べるために働き、クビになり、投獄され、また食べるために働き・・・・を繰り返す。まるでこの映画は労働と解雇と投獄の連続で構成されている映画と言ってもいいほどであるが、そんな場面場面でのチャーリーの奮闘ぶりは抱腹絶倒もので、何をやっても社会に適合できない小男と、彼に翻弄される“常識社会”の人々とのコントラストが笑いを誘う。
そんなシーンの中で、最もチャップリンの哲学が読み取れるシーン・・・・。それが、デパートでのシーンである。
ストライキにより職を失い、住むところも食べるものも手に入れることが困難になったチャップリンが、同じく貧しい少女(ポーレット・ゴダード)と出会い2人は草むらで休憩する。幸せそうな若い夫婦がこぎれいな家から出てきて抱擁するのを見て、楽しげに笑う二人。「僕たちにもあんな家があるといいね」少女との幸せな家庭生活を夢想するチャーリー。「よしやってやる。そのために働いて家を作る」と意気投合したチャーリーは、二人のために家を建てるという夢を胸に一念発起とばかり働き出す。
そして、チャーリーはデパートの夜警に雇われると、閉店後のデパートに少女を招いた後、初めに、食料品売り場で食事をし、腹ごしらえをすると、次に、4階のおもちゃ売り場へ、大の大人が少女とローラースケートで楽しく遊ぶ。
因みに、この4階のおもちゃ売り場で目隠しをしてローラースケートを滑り冷や冷やさせるシーンなど存分にチャップリンの至芸を堪能出来る・・のだが、チャップリンは最後の最後まで、トーキー映画にこだわってはいるものの、その実、映像面では最先端のVFXを使いこなしていることがわかる。以下ブログでそのローラースケートの名場面が見られるので鑑賞されるとよい。
チャーリー・チャップリン 『モダン・タイムス』 Modern Times-ローラースケートの名場面
遊んだあと、少女は5階の家具売り場のベッドで就寝する。一方、チャーリーはスケートに乗りながら各階を見回ていて、三人組の強盗に襲われる。そのうちの一人は、エレクトロ鉄鋼会社の工場でチャーリーと一緒に働いていたビッグ・ビルだった。懐かしいな、とチャーリーに握手するビッグ・ビル。「俺たちは泥棒じゃない。空腹なだけなんだ」と店の酒を飲んで乾杯するチャーリーとビッグ・ビル。そしてチャーリーは婦人服売り場の中で寝込んでしまい、結局、働いた最初の日に警察送りとなる。
釈放され出て来ると、少女が迎え、海のそばにある家とはいえないボロ家を見つけたことを告げる。その時字幕に“It's Paradise !”と出る。“天国”だ・・・と喜ぶチャーリー。何が人間の幸せか、考えさせられるシーンである。
つまり、「食べ−遊び−寝る場所」がある。これらは人間にとっての必要最低限の条件であるともいえるが、逆に言えばこれさえあれば十分。人間が人間としてあるべき姿なのである。つまり、人間の幸福に「機械化」も「多くのお金」もいらない。むしろ、それらを否定することにより、人間の幸せを見出そうとする。・・ここにチャップリンの哲学が見えてくるような気がする。
チャップリンには多くの名言があるが、チャップリンが初めて素顔を出した長編映画であり、同時にアメリカでの最後の作品ともなった1952(昭和27)年公開の「ライムライト」の中で、「人生に必要なものは勇気(courage)と想像力(imagination)と少しのお金(a little dollar)だ」という名言を残している。
「ほんの少しばかりのお金」は「お金に左右されない清貧の心」「自立の心」ともいえるだろう。
世の中には、お金で買えない大事なことがたくさんある。それは、信頼、友情、愛、自由、時間などである。ただ、現代社会の中ではやはり最低限のお金は必要だが、大金はいらない。これをいかに有効活用して、自分の夢の実現のために勇気をもって行動できるか…それこそが大切なことだ。…と彼は言いたいのだろうと私は思う。
海のそばの家とも言えないボロ家に天国だと喜んで住み、朝食を食べながら新聞を読むチャーリーは「工場再開される。労働者仕事に就く」という記事を見て喜ぶ。仕事にありつけるぞ。やっと本当の家をもてる・・。チャーリーは巨大機械の機械工の助手となるが、すぐに工場はストライキとなり、チャーリーは職を失い、そして、又、ストライキの首謀者と間違われて、警察送りとなってしまう。
チャーリーが釈放されると、少女は路上で踊っていた踊りが認められてキャバレー(今日見られる男性向けのものとは違い、ダンスステージつき居酒屋のような所)の踊り子になって働いていた。彼女の推薦で彼もそこの店で給仕をして歌うことになり、彼女がカフスに歌詞を書いておいてくれたのだが、ホールに飛び出して腕を振ったとたんに外れてしまい、歌詞が分からず何語ともつかぬ即興のアドリブで「ティティーナ」を歌うシーンがある。
今までの映画の中で初めてチャップリン自身の歌声が流れる貴重なワンシーンであるが、この「ティティーナ」という曲。原曲は、1917(大正6)年のフランス歌曲「Je cherche apres Titine(ティティーヌを探して)」だという。「ティティーヌ(ティティン)」とは、一般的な女性名の愛称だそうだ。
この曲、2004(平成16)年には、ロサンゼルス出身の歌手Jfive(ジェイ・ファイブ)が、チャップリンの歌う「ティティーナ」をヒップホップ風にアレンジした「Modern Times」をリリースしている。以下のブログでは、そんな、チャップリンの歌う「ティティナ(ティティーナ)」と共に、J-FIVEの「Modern Times」も動画で聞くことが出来るので聞き比べてみるとよいだろう。
ティティナ(ティティーナ)チャップリン映画「モダン・タイムス」
キャバレーでの見世物も大成功するなど上々だったが、少女は今までの微罪により少年鑑別所に連れ戻されそうになったため、チャーリーは少女を連れてキャバレーを逃げ出す。そして、ラストには感動的な「スマイル」の曲とシーンが待っている。
「Dawn」 = 「夜が明けて」
仕事も、ささやかな家(あばら家)も失い、少女は途方にくれて泣き出してしまう。
「Wha’s the use of trying?」 = 「いくら がんばっても 無駄なのよ」・・・と少女。
「Back up - never say die We'll get along!」 = 「諦めちゃいけない さあ また 一緒に頑張ろうよ」と少女を励ますチャーリー。
励まされ生きる勇気を得て立ち上がり、手をつないで道路中央に来た少女の顔がまだ堅いのを見て “Smil”(笑ってごらん)… と、パントマイム(口の端を持ち上げて)で笑顔を促すチャーリー。
それに応えて笑顔になった少女と手を取り合った二人が道路の真ん中を歩いていく。二人の後ろに歩んできた道があり。二人の前途の道にはいくつもの山がある。
有名なこのシーン以下で見れる。
Smile, Charlie Chaplin, Modern Times (1936) 720p - YouTube
映画は、どうも現実世界に適合できないチャーリー(チャップリン)と少女(ポーレット)が道路の真ん中を手をつないで歩いていくこのシーンで、「スマイル」の盛大なフィナーレと共に幕切れする。、このシーンこそが、現代社会を生きる私たちへ最後に伝えたかったチャップリンからのメッセージだったのだろう。
つまりこの映画は、『モダンタイムス(Modern Times)』(現代社会)を爆笑のうちに皮肉り、批判しながら、そんな中で、人間らしさを失うまいと厳しい社会と格闘し、人生を正面から歩んでいる人々への賛歌だと言える。二人の前に続く長い道は、同時に スクリーンに向き合う私たちの前にも続く厳しい道なのである。
本作のラストシーンで印象的な曲「スマイル」は、チャップリンが作曲した音楽の中では特に有名であるが、喜劇映画にあっては暗いニ短調の曲であるが、1954(昭和29)年、その暗い曲調とは裏腹に「スマイル」という曲名が付けられ、ナット・キング・コールによって歌詞付きの歌が歌われている。以下で聞ける。
smile - nat king cole-YouTube
1936(昭和11)年米国で、「モダンタイムズ」の撮影を終えたチャップリンは、共演した少女役のポーレット・ゴダードとシンガポールで結婚し、アメリカへ帰る途中の1936(昭和11)年3月6日、客船クーリッジ号で又、神戸に立ち寄っている。
「お忍び」の旅行だったため、新聞報道はなかったが、映画解説で有名だった神戸出身の故・淀川長治(当時、ユナイテッド・アーチスツ社大阪支社の社員)が、船上デッキで面談したという(※006参照)。そして、同年5月にも南アジア旅行の帰途に再度来日している。歌舞伎、文楽、相撲、鵜飼などが好きで、食べ物ではエビのてんぷらが好きであったらしい。
1940年代〜1950年代にかけてアメリカに吹き荒れた赤狩りの嵐をもろにかぶったのはチャップリンであった。「モダンタイムズ」以降の作品で、ヒトラーを皮肉った「独裁者」(1940年。完全なトーキーに踏みきった作品)や「一人を殺せば絞首刑だが大勢殺せば勲章がもらえる」というセリフがあまり有名な「殺人狂時代」(1947年)などを作ったことが重なって、右翼の保守派ににらまれ、1952年にはロンドンで「ライムライト」のプレミアのために向かう船の途中アメリカからの追放処分を受け、そのまま、スイスに移り住んだチャップリンは、1961(昭和36)年にも、飛行機で4度目の来日をしているが、敗戦後のすっかり変わってしまった日本には昔日の面影はなく落胆しこの時以降2度と訪れることはなくなった。
チャップリンが初来日し、神戸を訪れた際メリケン波止場に上陸したことから、映画発祥の地を示す記念碑「メリケンシアター」がメリケンパークに創られている。
上掲の画像は、メリケン シアター石の“スクリーン”である。
チャップリンが再びアメリカの土を踏んだのは20年後の1973(昭和48)年、第44回アカデミー特別賞(名誉賞)を受けたときであり、授賞式のフィナーレで、彼がオスカー像を受け取る際、会場のゲスト全員で歌詞の付いた「スマイル」の曲が歌われた。
参考:
※001:戦 時 下 に 喪 わ れ た日 本 の 商 船::照 国 丸
http://homepage2.nifty.com/i-museum/19391121terukuni/terukuni.htm
※002:昭和初期の映画主題歌あれこれ:昭和9年(その3)
http://blog.livedoor.jp/oke1609/archives/50385754.html
※003:「表現規制とのたたかい」について - 日本映画監督協会
http://www.dgj.or.jp/freedom_expression_g/index_4.html
※004:映画 自由を我等に - allcinema
http://www.allcinema.net/prog/show_c.php?num_c=10621
※005:作曲家ジョルジュ・オーリック(1899-1983)(Adobe PDF)
http://9264f1be048181e8.lolipop.jp/Georges_Auric.pdf#search='%E6%98%A0%E7%94%BB%E3%80%8C%E8%87%AA%E7%94%B1%E3%82%92%E6%88%91%E7%AD%89%E3%81%AB%E3%80%8D%E4%B8%BB%E9%A1%8C%E6%AD%8C+%E6%AD%8C%E8%A9%9E'
※006:チャップリンと会う! その1
http://homepage1.nifty.com/Kinemount-P/yodogawa-meetschaplin.htm
モダン・タイムス - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%83%80%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%83%A0%E3%82%B9