何時もこのブログを書くのに参考にさせてもらっている「今日は何の日〜毎日が記念日〜」(※1)に毎月15日「ひよ子の日」があった。由緒が書かれていないのでネットで「ひよこ」を検索すると、Wikipediaで見つかった。
福岡には辛子明太子などとともに博多(福岡市)土産の定番となっている「ひよ子饅頭」がある。愛くるしいひよ子の形をした立体形の饅頭であることが特徴。
製造・販売をしているのは現在本社を福岡市南区(工場は飯塚市など)に置く株式会社ひよ子(ひよ子本舗吉野堂。※2参照)。記念日の日付は、毎月14日と15日となっているが、ひ(1)よ(4)こ(5)」の語呂合わせらしい。本当は14日にこのブログアップしたかったのだが出来なかったのが残念。
私も現役時代仕事でよく福岡へは出張する機会も多かったし、後半の2000(平成12 )年くらいまで約5年ほどは福岡へ転居して、仕事をしていたので、神戸へ帰る時などよく土産に買ったものだ。
上掲の画像がそのひよ子饅頭。画像は同社HP掲載のものを借用した。
同社HPなどによると、元々は筑豊炭坑地帯であった飯塚市の菓子屋で、屋号である「吉野堂」は、福岡から飯塚に抜ける八木山に咲く「染井吉野」に由来したものだという。私も福岡に住んでいた時、八木山展望公園の桜を見に行ったことがあるが、ミニ吉野と言った感じの素晴らしい景観だったのを記憶している。
江戸時代に、現在の飯塚市域に長崎街道が整備された。現在の飯塚市中心部に飯塚宿が、市南部(旧・筑穂町町域)に内野宿が整備され、それぞれ宿場町として栄えた。
長崎街道(正式には長崎路)とは、江戸時代に整備された脇街道の一つで、豊前国小倉(現:福岡県北九州市小倉北区)の常盤橋を始点として、筑前六(む)宿(黒崎・木屋(こやの)瀬(せ)[北九州市]、飯塚・内野[飯塚市]、山家(やまえ)・原田(はるだ)[筑紫野市])を経て、肥前に入り、天領の日見(ひみ)、長崎に至る25宿、57里(228キロ)の道のりは、筑前・筑後・肥前・肥後・薩摩の諸大名の参勤交代のほか、長崎奉行や西国筋郡代の交代、さらにはオランダ人や中国人の江戸参府や交易・献上品の運搬にも用いられたほか、様々な物・技術・文化を海外から日本へ、また、日本から海外へと伝えていった街道でもあった(長崎街道マップは、※3参照)。
例えば、食文化に大きな影響を与えた「砂糖」。南蛮貿易で長崎に入ってきた砂糖は、この街道を通り、大阪や江戸など日本各地へと広まった。
この砂糖が船運によって、経済発展していた長崎街道地域に大量に運ばれてきたため、この一帯は、菓子文化が他の地域と比べて発達しており、南蛮菓子を起源に持つ「丸ぼうろ」「カステラ」「鶏卵素麺」といった菓子が誕生した。
また、広義の長崎街道周辺には小城や飯塚といった菓子製造業が盛んな地域や、伝統行事に砂糖をふんだんに使う地域が多く、この事から、長崎街道は俗に「砂糖の道」「シュガーロード」とも呼ばれている(※4参照)。
長崎街道飯塚宿があった飯塚は、このような伝統に加えて、炭鉱開発で大手資本が進出し、豊富な財力を使った贅沢な文化が栄えた。また、炭鉱での重労働の疲労を回復するために甘いものが求められたことも、菓子の発達につながったようだ。
1897(明治30)年より飯塚で菓子屋をしていたというひよ子本舗吉野堂の2代目が夢で見たという“ひよこ”にヒントを得て、立体的なひよこの形をした饅頭がこの飯塚でうぶ声をあげたのは1912(大正元)年だ・・というから、2年前の2012(平成24)年に100周年を迎えていた勘定になる。
吉野堂は、1957(昭和32)年に、福岡市内(天神)に進出、ここでも人気となり福岡市内一円に進出、辛子明太子などとともに博多(福岡市)土産の定番に育っていったというわけだ。
ひよ子発祥の地吉野堂飯塚本店は、現在は、旧長崎街道飯塚宿の街道筋がそのままアーケードになっていると云う本町通り商店街の中にある(※4参照)。
1964(昭和39)年に開催された東京五輪をきっかけに東京へも進出し、東京駅や羽田空港などターミナルを中心に出店、現在では東京土産としても有名になり、関東以北では「東京銘菓 ひよ子」と宣伝して知名度を獲得した経緯から、福岡発祥の菓子であることを知らない者も多く「東京から来た人が福岡の人に東京土産として『ひよ子』を持ってきた」などという笑い話もあるそうだ。
1963(昭和38)年、詩人・作詞家のサトウハチローに依頼し作られた 『ひよこの歌』は、当時提供した天気予報(RKBテレビ)のバックミュージックとして、テレビを通じて親しまれ、またソノ・シートを製作して、幼稚園や保育園などにも配布し、子どもたちや先生方からたいへん喜ばれたという(ここ参照)。
又、1965(昭和40)年には それまで「ひげ文字」で表現されていた ひよ子の文字も その当時の 女性書道家 町春草により かわいい 「ひよ子文字」 (ここ参照)となり高度経済成長の中での 広告デザインの 先駆けともなった。
先に書いたサトウハチローの 『ひよこの歌』、作曲は、あの有名な童謡『ちいさい秋みつけた』や『めだかの学校』の作曲家中田喜直のものであり、一度聞いてみたいと思ったが、同社HPにも掲載がなく聞けないのが残念。
そういえば、サトウハチロー(作詞)と、中田喜直(作曲)による童謡に『可愛いかくれんぼ』(1951年)があった。1番の歌詞だけを以下に書こう。
「ひよこがね
お庭でぴょこぴょこ かくれんぼ
どんなにじょうずに かくれても
黄色いあんよが 見えてるよ
だんだん だれが めっかった」
この歌今もよく歌われているようだが、歌は以下で聞ける。↓
かわいいかくれんぼ - YouTube
【童謡】かわいいかくれんぼ-
貝原益軒の『日本釈名』(元禄12年)には、「卵(カヒコ) 鳥の玉子也、かへる子也、かへるとは玉子の変わりて、ひよことなるを云」とあり、又、寺島良安の『和漢三才図絵』(正徳2頃年)四十四 鳥の用には、「卵 和名 加比古 音敷 孵(ふ)・・とある(※5:「古事類苑.」 動物部のコマ番号62−63参照)
卵を玉子とも書くのは形が丸いところからきたと思われるが、魂(たま)の入ったものと考えたためとも解されている。古語は「カヒコ」で、カヒコは単にカヒとも云つた。其のカヒと云ふは、『和名抄』によると貝や虫の皮甲などをも云ひ、要するに、殼である。故にカヒコは「カヘルコ」のつまったものと、貝のような石灰質の殻に入った子という意味からきたとも解されているようだ(ここ参照)。
上掲の画像は循環する原因と結果
ところで、 鶏が卵を産みヒナになりそれがひよこになる。この循環を繰り返しているが、どちらとも判定がつかないことの「たとえ」に「タマゴが先かニワトリが先か」という言葉がある。
現在家禽となっている鶏(ニワトリ)の祖先は今でも、インドからマレー半島、スマトラ、フィリピンなど東南アジア熱帯地域のジャングルに生息している「野鶏(ヤケイ)」と呼ばれる野生のニワトリのひとつである「セキショクヤケイ」だとする説(単元節)とセキショクヤケイとハイイロヤケイの雑種の子孫であるとする多元説(交雑説)があるようだ。
いずれにしても、ニワトリの身体的特徴の一つとして、ニワトリの足をよく見ると「鱗(ウロコ)」の跡が観察できる。これは、鳥類が爬虫類から進化したことを物語っているそうだ。そうであれば、爬虫類の産んだタマゴから鳥類の祖先が生まれたと考えるのが自然だとされている。
また、現在のように様々な種類のニワトリ(鶏種)に分かれたのは、あるタマゴから新しい種類のニワトリが産まれたからで、生物の進化からいうとニワトリとタマゴでは、やはり「タマゴが先」ということになりのだそうだ(ここ参照)。
ニワトリ(鶏)は肉と卵を食用に、羽を衣服(特に防寒具)や寝具に利用するため、世界中で飼育されている家禽である(養鶏)であり、東南アジアから中国南部において家畜化された後、日本においては4世紀から5世紀ごろに伝来したと言われる。
ただ、天武天皇 4年4月17日(675年5月19日)の肉食禁止令において、ウシ・ウマ・イヌ・ニホンザル・ニワトリを食べることが禁じられている(※6参照)が、ニワトリは神の使いとする神道に配慮したからだと考えられており、その後は時を告げる鳥として神聖視され、また、愛玩動物としても扱われていた。
武士の誕生とともに鍛練として狩猟が行われ、野鳥の肉を食すようになったが、まだ、ニワトリは生んだ卵も含めて食用とは看做されていなかった。
江戸時代でも、人間の食料がやっとという時代。貴重な穀物をエサとする鶏を「鶏肉」として飼育するのは至難の業。中期以降野山に生息する野鳥を捕食していたところ、乱獲で野鳥が絶滅することを恐れた幕府によって野鳥の食用を禁止する措置がとられた。そしてこのころには、無精卵が孵化しない事が知られるようになると、鶏卵を食しても殺生にはあたらないとして、ようやく食用とされるようになり、採卵用としてニワトリが飼われるようになった。しかし、江戸時代でも鶏の肉はまだあまり食べられてはいなかったようだ。
上掲の画像は、『和漢三才図会』の巻第四十二の原禽類 鶏の項。
先に紹介した1712(正徳2)頃年に出版された寺島良安著図説百科事典『和漢三才図会』の巻第四十二の原禽類 鶏の項、冒頭には、以下のように書かれている。
鶏 (ニワトリ)和名加介 又云う久太加介 又云う木綿附(ユフツケ)鳥 俗云庭鳥。
本綱に鶏は者稽也 能く時を稽(カンカフ)也 其の大なる者を蜀と日ふ 、小なる者を荊と日ふ、其の雛をヒヨコ(日與子)と日ふ…(以下略)・・と(詳細は参考※7のコマ番号81。また※8のここ 参照)。
ここで、和名加介 又云う久太加介についてはよく判らないが、何故「綿附(ユフツケ)鳥」と言ったかは参考※9 :「ゆふつげどり【木綿付鳥】 | 情報言語学研究室」には、いろいろと、「木綿付鳥」の現れる文献を例示し、《補助》として、小学館『日本国語大辞典』第二版、角川『古語大辞典』を引用しているが、それらによると、
「ゆうつけ‐どり[ゆふつけ:]【木綿付鳥】〔名〕(後世「ゆうづけどり」「ゆうつげどり」とも。古代、世の乱れたとき、四境の祭といって、鶏に木綿(ゆう)をつけて、京城四境の関でまつったという故事に基づく。木綿をつけた鶏。また、鶏の異称。木綿付の鳥。*古今集〔九〇五(延喜五)〜九一四(延喜一四)〕恋一・五三六「相坂のゆふつけどりもわがごとく人やこひしきねのみなくらむ〈よみ人しらず〉」の歌がある(小学館『日本国語大辞典』)。
鶏は鬼気や妖怪の活躍する夜の時間の終る晨(あした)を告げる鳥として、古くから邪気を払う力があるとされた。中世の霊気祭には、鶏の絵に唾をかけて祓(はらへ)をしたり(看聞御記・永享八・三・二七)、近世にも節分の夜、厄払(やくはらひ)が厄を払った後に鶏の鳴き声をなして去ったという(日次紀事・十二月)。院政期以後「逢坂のゆふつけ鳥」の形が多く用いられるが、「たがみそぎゆふつけとりか唐衣たつたの山にをりはへてなく(古今集・雑下)」の竜田山(たつたやま)も、平城京への西の入り口にあり、古く鶏に木綿を付けて祓をすることが行われたのであろう(角川『古語大辞典』)。・・・ということであり、結論としては、古くニワトリに木綿を付け、ニワトリの鳴き声をなして祓をすることが行われていたことからつけられた名前ということのようだ。
又、『和漢三才図会』に出てくる蜀・荊・・と呼ばれる鳥は何か?
以下参考※10の【鷄】では、『塩鉄論』には以下のようなことが記されているという。
郭璞曰く、「鷄大なる者蜀とは、今の蜀鷄なり。鷄、蜀魯荊越の諸種有り。越鷄は小、蜀鷄は大。魯鷄は又其の大なる者なり」と。『荘子』に曰く、「越鷄は鵠卵を伏する能はざるも、魯鷄固より能くす」と(ことわざ辞典参照)。成玄英(※10の【鷄】の注釈5参照)曰く、「越鷄は荊鷄なり。魯鷄は今の蜀鷄なり」・・・と。
中国ではニワトリは「時を告げる鳥として神聖視されていたので「蜀鷄」は体も大きいが大きな声で長く時を告げたので珍重されたのだろう。それに反して、越鷄は体も小さく鳴き声も小さかったのだろう。江戸前期の食物本草『本朝食鑑』巻5 禽之二原禽類十三種の鶏項には、「大なる者を唐麻呂と称す 是れ素華自り来るの之謂ひか乎 麻呂は者古へ男子の之通称也」とあり、江戸初期には「大唐丸」(蜀鶏)他、数種のニワトリが中国大陸から日本へ渡ってきて在来種と混じり合ったのだろう(参考※11のコマ番号25。また、※8のここ参照)。
現在の日本の家禽(※12のここ参照)に、世界的に有名な天然記念物の長鳴鶏「蜀鶏(トウマル)」がいる。三長鳴鶏(唐丸、東天紅、声良)の中で、最もニワトリらしい鳴き声をする。主たる飼育地は新潟県で、中国渡来の大唐丸と小国系統の長鳴鶏種とを交配したものという、体重は雄3,750gと大型だ。以下で一度その鳴き声聞いてみたら・・・、すごく長い間鳴いているよ・・・。
蜀鶏
『和漢三才図会』巻第四十二の原禽類の項の最後には、以下のようなことも書かれている。
「小児五歳以下にして鶏を食えば、かい虫を生ず。鶏肉と糯米(もちごめ)と同じく食えばかい虫を生ず。鶏肉を葫(にんにく)・蒜(ねぎ)・芥(からし)・李(すもも)と合わせて之を食ふベからず。鶏肉と生葱(なまねぎ)と同じく食えば虫痔となる。鶏肉を鯉魚と同じく食へば癰癤(ようせつ。ここ参照))と成る」・・・と。
これらの記述から、今では常識のようになっているニワトリとネギを一緒に食べると寄生虫を生ずると信じられていたようだ。これらの食い合わせのほとんどは迷信だろう。現在では食用の鳥といえばニワトリだが、江戸時代にはニワトリは中国同様、「時を告げる家禽」として食用にすることを忌避する傾向があり、食用の鳥といえば鴨が一般的で、また最も美味しいものとされていたようだ。しかし、先にも書いたように、採卵用としてニワトリが飼われるようになり、卵は食べられるようになっていた。そして、天明年間(1781年-1789年)には「万宝料理秘密箱」という鶏卵の料理書も出版されているという(※13参照)。
又、江戸時代後期の『守貞漫稿』(喜多川守貞著、 嘉永5年-1853年)の近世風俗志 第五遍生業下 “揚出し鶏卵売” には、以下の記載がある。(参考※14の.109コマ参照)。
「鶏卵の水煮売る。価大約廿文。
詞に「たまごたまご」と云。必ず二声のみ。
一ト声も亦三声も云はず。
因に云。
四月八日には鶏とあひるの玉子を売る。
江俗云ひ伝ふ。
今日家鴨(あひる)の卵を食する者は
中風を不病(やまざる)の呪と。京阪此事無き也」。
とあり、文化年間以降京都や大阪、江戸においてニワトリとあひるの玉子が食されるようになったとの記述がある。また、文化以来、京阪はかしわという鶏を葱鍋にして食べているが江戸では、しゃもという闘鶏を同じように煮て食べていたことが書かれている(※※14の80コマ参照)。
「苞にする十の命や寒鶏卵(かんたまご)」 (太祗 「太祗句集後篇」)
江戸時代中期の俳人 炭太祇の作で、句集として『太祇句選』、『太祇句選後編』(※15参照)などがある。
寒卵は寒玉子のことで、季語は、三冬。「苞にする」は、「お土産にする」でもよいが、「藁苞(わらほう」にして卵を包み込んだもの」と解したほうがよさそう。まだ生きている寒卵、ほのかに温いのかもしれない。寒の卵は滋養があると言われている。太祇は、藁苞に10個玉子を包んでどこの土産にするのだろうか。ひょっとしたらその相手は病気でもしていたのだろうか・・・。
当時のニワトリは、今のブロイラーのように毎日卵を産まなかった。卵は、江戸近郊の百姓家が、庭で放し飼いにしている地鶏が自然に産んだ卵を、野菜の商いのついでに売りに来るものだったようで、価格も今とは違って高価であったようだ。江戸末期には生卵やゆで卵の行商人もいたが、八百屋の一角などにもみ殻を敷き詰めた板箱を置き、そこに卵を一つずつ立てて売られている様子が当時の浮世絵に描かれていたのを見たような気もする。
『守貞謾稿』には、「うどんの上に卵焼き、かまぼこ、しいたけ、慈姑(くわい)などを具に食べる」「卵とじうどんにする」などといったことも書かれており。卵の値段も書かれているが、かけそばやうどんが一杯十六文のところ玉子とじうどんとなると三十二文と、ぜいたくな食べ物だったのかも・・。。
さて、「ひよこ」の語源は、先に書いたサトウハチローの 動揺『可愛いかくれんぼ』の歌詞「お庭でぴょこぴょこ かくれんぼ」の「ぴょこぴょこ」は「ひょこひょこ」と同じこと。小きざみにはねるさまや気軽に出歩くさま(ひょいひょい)をいう。だから、そんな「ひょこひょこ」から「ひよこ」になった・・・なんて説も聞くが、あまり信ぴょう性はないようだ。
広義では、「ひよこ」は、孵化して間もない鳥の子。狭義では、特にニワトリ(鶏)のひな鳥のことを言う。だから、「ひよこ」は漢字で「雛」と書く。『和漢三才図絵』には、和名比奈(ヒナ)、今比興古(ヒヨコ)と云うとある。
「雛」は雛人形の「ひな」で、「雛人形」は鳥の雛のごとく小さい人形の意。古くはひひな、あるいはひいなといった。生まれたばかりの鳥の子がヒヒと鳴く、即ち「ヒヒナク」のつまったのが語源という。したがって、幼い子の意味から、幼稚な者や未熟な者をさす言葉としても使われている。また、広義では、他の鳥(特にアヒル)のひな鳥の呼称としても用いられることがある。
現代は、鶏の肉は、焼鳥や、唐揚げ(フライド・チキン)、ロースト・チキン、水炊きや親子丼の具などに、また、卵はゆで卵だけでなく、目玉焼き、オムレツ、玉子焼き、だし巻卵、茶碗蒸しや、各種卵とじなどに、そして、最近では新鮮な生たまごも美味しいと評判だ。この様に、鶏肉と鶏卵は、今の私たちの食生活には、無くてはならない食材となっており、重要なタンパク質源でもある。
この様な、鶏肉として食べているニワトリも卵を産むニワトリも、かつては、卵肉兼用種(※16のここ参照)の同じニワトリであった。
戦時中、私は母方の田舎徳島のへ疎開をしていたが疎開先は徳島では大手の農家で、田畑だけではなく山も持ち、家には牛やニワトリなども買っていた。それで、卵をとるだけではなく、祭りの時など飼っているニワトリを家の庭先で首を締めてさばいているのを見て、都会育ちの私など、しばらく鶏肉を食べるのが嫌になったのを思い出す。また、戦後神戸へ帰ってきても焼け野原となっているところにバラックを建てて鶏を飼っているところが家の近所にあった。
戦後のアメリカ駐留軍の影響から鶏肉料理の需要が増大し、農家が内職的に食肉用としてニワトリを飼育するようになったのをきっかけとして昭和20年代後半からブロイラー産業が開始され、昭和40年にはアメリカからブロイラー用(肉専用種)のヒナ鶏が輸入され、それに伴い生産量も急速に増加。
ブロイラーは、ひなを殆ど運動させず、配合飼料で育てた若鶏を言い、その生育がとても早い。したがって価格も安くなる。それに、自然のニワトリに比べれば肉が柔らかいことも特徴で、かえってその肉の柔らかさが気に入られ、鶏肉用としては、今では、一部地鶏のもの以外卵肉兼用種は鶏肉用としての役割を失い、鶏肉用としてはアメリカ発祥のブロイラーがすっかり日本に定着し、日本人の食を支えるようになった。
ところでニワトリは交尾をしてもしなくても卵を産むのですよ・・・。
ニワトリは交尾をしてもしなくても約25時間に1個の割合でたまごを産むそうだ。 交尾をしていれば「有精卵」(受精した卵)が産まれ、交尾をしていなければ「無精卵」(未受精卵)が産まれる。
最近は有精卵が特殊卵(※のここ参照)として売られているが、スーパー等で売られている普通のタマゴは、ニワトリが「ケージ」と呼ばれる(鳥かご)の中に1羽ずつ入れられて、無精卵を産んでいる(ケージ飼い) 。
「有精卵」を産ませるためには、オス鶏1羽にメス鶏10羽くらいの割合で混飼(こんし)する放し飼いまたは平飼いが行われる(養鶏、また、※17のQ&A参照)。
一般に鶏卵は調理後のものを「玉子」とし、生の場合「卵」としていうるようだ。だから、これ以降は、タマゴをこの呼び方で書く。上記で説明したように、今では、料理で単に「卵」と言う場合は鶏卵の無精卵を指していると思えばよい。
それでは、日本全国で、一体どれくらいの採卵用ニワトリが飼育されているのだろう。
平成25年2月1日現在の農林水産省統計「畜産統計」平成25年7月2日公表によれば、
全国で卵鶏の飼養戸数は2,650個で、飼料価格の高騰による廃業等で前年に比べ160戸(5,7%)減少している。又、使用羽数は1億7,223万8,000羽で前年に比べて271万1,000羽(1,5%)減少しているそうだ。尚1戸当たり成鶏めす飼養羽数は5万2,000羽で、前年に比べて239万2,000羽増加している。
又、ブロイラーの飼養戸数は2,420戸で、飼養羽数は1億3,162万4,000羽で、一戸当たり飼養羽数は5万4,400羽。出荷戸数は2,440戸で、出荷羽数は6億4,977羽で、1戸当たり出荷羽数は26万6,3000派であった。なお採卵鶏の飼養戸数、羽数の多い地域上位4か所を見ると以下のようになっている(単位:羽数は千羽、飼育戸数は戸)
飼育戸数では、愛知県 186、鹿児島県147、千葉県14茨城県 144の順。
飼養羽数では、茨城県13, 151、千葉県11,757、鹿児島県9,539、愛知県9,222 の順となっている。
上記統計を見ても分かるように、採卵用のニワトリは当然全て雌鳥(めんどり)である。雌鶏は、先にも書いたように約25時間に1個の割合でタマゴを産むというから、雌鳥は狭い折に入れられてほぼ毎日1個の卵を産まされていると言ってよいだろう。全国でブロイラーの飼養羽数は1億3,162万4,000羽もいるというから日本の人口とほぼ同じであり、日本人は毎日1人あたり玉子1個は食べている勘定になる。それに、地鶏も食べているのだからすごい量を消費していることになる。
上掲の画像は近代的なブロイラー飼育場。
ニワトリは孵化(ふ化)して4ケ月前後でたまごを産みだすそうだが、初玉子は、その産み始めの小さい卵のことをいい、地方によっては、お産をする女性に食べさせると安産になるということで親しまれているようだ。
受精した卵をふ卵器に入れ、摂氏38度位で温めると、21日目位に、自らの力で殻を割り、ヒナが誕生をする。それがひよこというものだ。生まれたばかりの元気良くピヨピヨと鳴いているひよこは実にかわいらしい。
「苗売のとなり子どものひよこ売 」(星野麥丘人。※18参照)
私たちが子供の頃、戦中戦後など、縁日ではよくひよこを箱に入れて売っていた.小さい頃の話なのでよくは覚えていないが、1度は買ったものの、数日は可愛い可愛いと言いながら遊んでいたものの数日で冷たくなって死んでいた記憶がある。可愛そうなことをしたものだ。 以来、余り動物や昆虫類など生き物は買わなくなった。
この様な縁日などで売られていたひよこは、卵を産めない雄(おす)ばかりだということを知ったのは成人してからのことである。卵を産むことのできない雄が子供のおもちゃのように売られていた。大きくなると、世話に困るし餌代もかかる哀れな雄のひよこであった。
買ったひよこの値段などとんと記憶にないが、いずれにしても小さな子供が買うのだから大した値段ではない。そんなひよこを1日で何匹売っていたかしれないが大した額にならないだろう。江戸時代の卵売りの方がよほど商売になったかもしれない。そんなひよこを売ってひよこ売はどんな暮らしをしていたのだろうか。そんなことでしなければ生きられなかった戦後は誰もが非常に貧しかった。
雌は卵を産む鶏だ、生まれて卵が産める間は大事にされる。しかし、卵が産めなくなるとどうなるのだろう・・・。
孵卵場は「卵をヒナに孵化させる所」であるが、卵の孵化は養鶏場がしていると思われがちなのだが、今の時代専門化が進み、卵の孵化は孵卵場と言う専門の業者が担当している事がほとんどのようだという。
そんな孵卵場では、卵からひながかえると、まず、「雌雄鑑別」が行われ、雌のひな(雄鶏)が、選り抜かれる。孵ったひなの約半数は雄である。卵を産むことのできない雄は、塩化ビニール製の箱の中にポイポイと放り込まれ、箱がひなで一杯になると、その箱は場内の片隅に無造作に積み重ねられ、次々と重ねてゆくと下段に積み重ねられた箱は重みで、押しつぶされて行くだろう。何段も重ねられた箱の中にいるひよこの運命は・・?考えただけでゾットする。
人間の都合で、どんどん卵を産まされ、役に立たない雄は食用にもされず育てるだけ無駄と圧死させられ、最後は廃棄物処理されるそうだ。
圧死させられるひよこ
一方処分されずに残った雌のニワトリも卵を産みはじめてから、養鶏場では約1年6ケ月ほどの間、卵を産ませられる。
その養鶏場の雌のニワトリの一生は、誕生してから約2年という短い期間で幕を閉じ、最終処分業者が引き取るらしい。これを「淘汰(とうた)する」といい、処分される鶏を「淘汰鶏」と呼ぶのだとか。
毎日健康の為とかなんとか言って食用にされている玉子。その卵からかえった可愛いひよこは雄・雌ともに可愛そうな運命が待っている。なんたる人間の身勝手さか・・・。
人が生きるということは・・・、他の生あるものを食べるということに通じる。人が生きてゆくために多くの生物が犠牲になって、人を生かしてくれているのだ、そう思うと、生きていけることに心から感謝しなければいけないだろう。「有難う!」。この感謝気持ちだけは忘れてはいけないだろう(卵のことは参考の※17を参照)。
※1:今日は何の日〜毎日が記念日〜
http://www.nnh.to/04/15.html
※2:ひよ子本舗吉野堂
http://www.hiyoko.co.jp/
※3:長崎街道内野宿:長崎街道マップ
http://www.nagasakikaido-uchinoshuku.jp/nagasaki-kaidou.html
※4:シュガーロード長崎街道(1)〜飯塚生まれのお菓子たち
http://futatsumekusa.air-nifty.com/blog/2005/12/post_62de.html
※5:古事類苑. 動物部3-近代デジタルライブラリー
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/897896
※6:日本の肉食禁止の歴史 食の雑学 補足12
http://www.in-ava.com/hosoku11.html
※7: 和漢三才図会. 中之巻(第37巻-54巻)-近代デジタルライブラリー
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/898161
※8:高知のにわとり:サイトマップ
http://ameblo.jp/tachibana2007/theme1-10006420121.html#main
※9:ゆふつげどり【木綿付鳥】 | 情報言語学研究室
http://club.ap.teacup.com/hagi/1064.html
※10:加納喜光研究室: {土+卑}雅の研究−中国博物誌の一斑−
http://chubun.hum.ibaraki.ac.jp/kano/peper/piya/index.htm
※11:本朝食鑑 12巻-国立国会図書館目次
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2607234?tocOpened=1
※12:日本家禽学会
http://jpn-psa.jp/index.html
※13:余録:「万宝料理秘密箱」。何やら… - 毎日新聞
http://mainichi.jp/opinion/news/20131218k0000m070156000c.html
※14:類聚近世風俗志 : 原名守貞漫稿-近代デジタルライブラリー
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1444386/065
※15:太祇句選後編
http://www.geocities.jp/haikunomori/taigi2.html
※16: 畜産Zoo鑑:鶏
http://zookan.lin.gr.jp/kototen/tori/index.htm
※17:たまご博物館
http://homepage3.nifty.com/takakis2/index.htm
日本釈名(原本)
http://base1.nijl.ac.jp/iview/Frame.jsp?DB_ID=G0003917KTM&C_CODE=XYA8-04801&IMG_SIZE=&IMG_NO=2
ひよ子 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%B2%E3%82%88%E5%AD%90
福岡には辛子明太子などとともに博多(福岡市)土産の定番となっている「ひよ子饅頭」がある。愛くるしいひよ子の形をした立体形の饅頭であることが特徴。
製造・販売をしているのは現在本社を福岡市南区(工場は飯塚市など)に置く株式会社ひよ子(ひよ子本舗吉野堂。※2参照)。記念日の日付は、毎月14日と15日となっているが、ひ(1)よ(4)こ(5)」の語呂合わせらしい。本当は14日にこのブログアップしたかったのだが出来なかったのが残念。
私も現役時代仕事でよく福岡へは出張する機会も多かったし、後半の2000(平成12 )年くらいまで約5年ほどは福岡へ転居して、仕事をしていたので、神戸へ帰る時などよく土産に買ったものだ。
上掲の画像がそのひよ子饅頭。画像は同社HP掲載のものを借用した。
同社HPなどによると、元々は筑豊炭坑地帯であった飯塚市の菓子屋で、屋号である「吉野堂」は、福岡から飯塚に抜ける八木山に咲く「染井吉野」に由来したものだという。私も福岡に住んでいた時、八木山展望公園の桜を見に行ったことがあるが、ミニ吉野と言った感じの素晴らしい景観だったのを記憶している。
江戸時代に、現在の飯塚市域に長崎街道が整備された。現在の飯塚市中心部に飯塚宿が、市南部(旧・筑穂町町域)に内野宿が整備され、それぞれ宿場町として栄えた。
長崎街道(正式には長崎路)とは、江戸時代に整備された脇街道の一つで、豊前国小倉(現:福岡県北九州市小倉北区)の常盤橋を始点として、筑前六(む)宿(黒崎・木屋(こやの)瀬(せ)[北九州市]、飯塚・内野[飯塚市]、山家(やまえ)・原田(はるだ)[筑紫野市])を経て、肥前に入り、天領の日見(ひみ)、長崎に至る25宿、57里(228キロ)の道のりは、筑前・筑後・肥前・肥後・薩摩の諸大名の参勤交代のほか、長崎奉行や西国筋郡代の交代、さらにはオランダ人や中国人の江戸参府や交易・献上品の運搬にも用いられたほか、様々な物・技術・文化を海外から日本へ、また、日本から海外へと伝えていった街道でもあった(長崎街道マップは、※3参照)。
例えば、食文化に大きな影響を与えた「砂糖」。南蛮貿易で長崎に入ってきた砂糖は、この街道を通り、大阪や江戸など日本各地へと広まった。
この砂糖が船運によって、経済発展していた長崎街道地域に大量に運ばれてきたため、この一帯は、菓子文化が他の地域と比べて発達しており、南蛮菓子を起源に持つ「丸ぼうろ」「カステラ」「鶏卵素麺」といった菓子が誕生した。
また、広義の長崎街道周辺には小城や飯塚といった菓子製造業が盛んな地域や、伝統行事に砂糖をふんだんに使う地域が多く、この事から、長崎街道は俗に「砂糖の道」「シュガーロード」とも呼ばれている(※4参照)。
長崎街道飯塚宿があった飯塚は、このような伝統に加えて、炭鉱開発で大手資本が進出し、豊富な財力を使った贅沢な文化が栄えた。また、炭鉱での重労働の疲労を回復するために甘いものが求められたことも、菓子の発達につながったようだ。
1897(明治30)年より飯塚で菓子屋をしていたというひよ子本舗吉野堂の2代目が夢で見たという“ひよこ”にヒントを得て、立体的なひよこの形をした饅頭がこの飯塚でうぶ声をあげたのは1912(大正元)年だ・・というから、2年前の2012(平成24)年に100周年を迎えていた勘定になる。
吉野堂は、1957(昭和32)年に、福岡市内(天神)に進出、ここでも人気となり福岡市内一円に進出、辛子明太子などとともに博多(福岡市)土産の定番に育っていったというわけだ。
ひよ子発祥の地吉野堂飯塚本店は、現在は、旧長崎街道飯塚宿の街道筋がそのままアーケードになっていると云う本町通り商店街の中にある(※4参照)。
1964(昭和39)年に開催された東京五輪をきっかけに東京へも進出し、東京駅や羽田空港などターミナルを中心に出店、現在では東京土産としても有名になり、関東以北では「東京銘菓 ひよ子」と宣伝して知名度を獲得した経緯から、福岡発祥の菓子であることを知らない者も多く「東京から来た人が福岡の人に東京土産として『ひよ子』を持ってきた」などという笑い話もあるそうだ。
1963(昭和38)年、詩人・作詞家のサトウハチローに依頼し作られた 『ひよこの歌』は、当時提供した天気予報(RKBテレビ)のバックミュージックとして、テレビを通じて親しまれ、またソノ・シートを製作して、幼稚園や保育園などにも配布し、子どもたちや先生方からたいへん喜ばれたという(ここ参照)。
又、1965(昭和40)年には それまで「ひげ文字」で表現されていた ひよ子の文字も その当時の 女性書道家 町春草により かわいい 「ひよ子文字」 (ここ参照)となり高度経済成長の中での 広告デザインの 先駆けともなった。
先に書いたサトウハチローの 『ひよこの歌』、作曲は、あの有名な童謡『ちいさい秋みつけた』や『めだかの学校』の作曲家中田喜直のものであり、一度聞いてみたいと思ったが、同社HPにも掲載がなく聞けないのが残念。
そういえば、サトウハチロー(作詞)と、中田喜直(作曲)による童謡に『可愛いかくれんぼ』(1951年)があった。1番の歌詞だけを以下に書こう。
「ひよこがね
お庭でぴょこぴょこ かくれんぼ
どんなにじょうずに かくれても
黄色いあんよが 見えてるよ
だんだん だれが めっかった」
この歌今もよく歌われているようだが、歌は以下で聞ける。↓
かわいいかくれんぼ - YouTube
【童謡】かわいいかくれんぼ-
貝原益軒の『日本釈名』(元禄12年)には、「卵(カヒコ) 鳥の玉子也、かへる子也、かへるとは玉子の変わりて、ひよことなるを云」とあり、又、寺島良安の『和漢三才図絵』(正徳2頃年)四十四 鳥の用には、「卵 和名 加比古 音敷 孵(ふ)・・とある(※5:「古事類苑.」 動物部のコマ番号62−63参照)
卵を玉子とも書くのは形が丸いところからきたと思われるが、魂(たま)の入ったものと考えたためとも解されている。古語は「カヒコ」で、カヒコは単にカヒとも云つた。其のカヒと云ふは、『和名抄』によると貝や虫の皮甲などをも云ひ、要するに、殼である。故にカヒコは「カヘルコ」のつまったものと、貝のような石灰質の殻に入った子という意味からきたとも解されているようだ(ここ参照)。
上掲の画像は循環する原因と結果
ところで、 鶏が卵を産みヒナになりそれがひよこになる。この循環を繰り返しているが、どちらとも判定がつかないことの「たとえ」に「タマゴが先かニワトリが先か」という言葉がある。
現在家禽となっている鶏(ニワトリ)の祖先は今でも、インドからマレー半島、スマトラ、フィリピンなど東南アジア熱帯地域のジャングルに生息している「野鶏(ヤケイ)」と呼ばれる野生のニワトリのひとつである「セキショクヤケイ」だとする説(単元節)とセキショクヤケイとハイイロヤケイの雑種の子孫であるとする多元説(交雑説)があるようだ。
いずれにしても、ニワトリの身体的特徴の一つとして、ニワトリの足をよく見ると「鱗(ウロコ)」の跡が観察できる。これは、鳥類が爬虫類から進化したことを物語っているそうだ。そうであれば、爬虫類の産んだタマゴから鳥類の祖先が生まれたと考えるのが自然だとされている。
また、現在のように様々な種類のニワトリ(鶏種)に分かれたのは、あるタマゴから新しい種類のニワトリが産まれたからで、生物の進化からいうとニワトリとタマゴでは、やはり「タマゴが先」ということになりのだそうだ(ここ参照)。
ニワトリ(鶏)は肉と卵を食用に、羽を衣服(特に防寒具)や寝具に利用するため、世界中で飼育されている家禽である(養鶏)であり、東南アジアから中国南部において家畜化された後、日本においては4世紀から5世紀ごろに伝来したと言われる。
ただ、天武天皇 4年4月17日(675年5月19日)の肉食禁止令において、ウシ・ウマ・イヌ・ニホンザル・ニワトリを食べることが禁じられている(※6参照)が、ニワトリは神の使いとする神道に配慮したからだと考えられており、その後は時を告げる鳥として神聖視され、また、愛玩動物としても扱われていた。
武士の誕生とともに鍛練として狩猟が行われ、野鳥の肉を食すようになったが、まだ、ニワトリは生んだ卵も含めて食用とは看做されていなかった。
江戸時代でも、人間の食料がやっとという時代。貴重な穀物をエサとする鶏を「鶏肉」として飼育するのは至難の業。中期以降野山に生息する野鳥を捕食していたところ、乱獲で野鳥が絶滅することを恐れた幕府によって野鳥の食用を禁止する措置がとられた。そしてこのころには、無精卵が孵化しない事が知られるようになると、鶏卵を食しても殺生にはあたらないとして、ようやく食用とされるようになり、採卵用としてニワトリが飼われるようになった。しかし、江戸時代でも鶏の肉はまだあまり食べられてはいなかったようだ。
上掲の画像は、『和漢三才図会』の巻第四十二の原禽類 鶏の項。
先に紹介した1712(正徳2)頃年に出版された寺島良安著図説百科事典『和漢三才図会』の巻第四十二の原禽類 鶏の項、冒頭には、以下のように書かれている。
鶏 (ニワトリ)和名加介 又云う久太加介 又云う木綿附(ユフツケ)鳥 俗云庭鳥。
本綱に鶏は者稽也 能く時を稽(カンカフ)也 其の大なる者を蜀と日ふ 、小なる者を荊と日ふ、其の雛をヒヨコ(日與子)と日ふ…(以下略)・・と(詳細は参考※7のコマ番号81。また※8のここ 参照)。
ここで、和名加介 又云う久太加介についてはよく判らないが、何故「綿附(ユフツケ)鳥」と言ったかは参考※9 :「ゆふつげどり【木綿付鳥】 | 情報言語学研究室」には、いろいろと、「木綿付鳥」の現れる文献を例示し、《補助》として、小学館『日本国語大辞典』第二版、角川『古語大辞典』を引用しているが、それらによると、
「ゆうつけ‐どり[ゆふつけ:]【木綿付鳥】〔名〕(後世「ゆうづけどり」「ゆうつげどり」とも。古代、世の乱れたとき、四境の祭といって、鶏に木綿(ゆう)をつけて、京城四境の関でまつったという故事に基づく。木綿をつけた鶏。また、鶏の異称。木綿付の鳥。*古今集〔九〇五(延喜五)〜九一四(延喜一四)〕恋一・五三六「相坂のゆふつけどりもわがごとく人やこひしきねのみなくらむ〈よみ人しらず〉」の歌がある(小学館『日本国語大辞典』)。
鶏は鬼気や妖怪の活躍する夜の時間の終る晨(あした)を告げる鳥として、古くから邪気を払う力があるとされた。中世の霊気祭には、鶏の絵に唾をかけて祓(はらへ)をしたり(看聞御記・永享八・三・二七)、近世にも節分の夜、厄払(やくはらひ)が厄を払った後に鶏の鳴き声をなして去ったという(日次紀事・十二月)。院政期以後「逢坂のゆふつけ鳥」の形が多く用いられるが、「たがみそぎゆふつけとりか唐衣たつたの山にをりはへてなく(古今集・雑下)」の竜田山(たつたやま)も、平城京への西の入り口にあり、古く鶏に木綿を付けて祓をすることが行われたのであろう(角川『古語大辞典』)。・・・ということであり、結論としては、古くニワトリに木綿を付け、ニワトリの鳴き声をなして祓をすることが行われていたことからつけられた名前ということのようだ。
又、『和漢三才図会』に出てくる蜀・荊・・と呼ばれる鳥は何か?
以下参考※10の【鷄】では、『塩鉄論』には以下のようなことが記されているという。
郭璞曰く、「鷄大なる者蜀とは、今の蜀鷄なり。鷄、蜀魯荊越の諸種有り。越鷄は小、蜀鷄は大。魯鷄は又其の大なる者なり」と。『荘子』に曰く、「越鷄は鵠卵を伏する能はざるも、魯鷄固より能くす」と(ことわざ辞典参照)。成玄英(※10の【鷄】の注釈5参照)曰く、「越鷄は荊鷄なり。魯鷄は今の蜀鷄なり」・・・と。
中国ではニワトリは「時を告げる鳥として神聖視されていたので「蜀鷄」は体も大きいが大きな声で長く時を告げたので珍重されたのだろう。それに反して、越鷄は体も小さく鳴き声も小さかったのだろう。江戸前期の食物本草『本朝食鑑』巻5 禽之二原禽類十三種の鶏項には、「大なる者を唐麻呂と称す 是れ素華自り来るの之謂ひか乎 麻呂は者古へ男子の之通称也」とあり、江戸初期には「大唐丸」(蜀鶏)他、数種のニワトリが中国大陸から日本へ渡ってきて在来種と混じり合ったのだろう(参考※11のコマ番号25。また、※8のここ参照)。
現在の日本の家禽(※12のここ参照)に、世界的に有名な天然記念物の長鳴鶏「蜀鶏(トウマル)」がいる。三長鳴鶏(唐丸、東天紅、声良)の中で、最もニワトリらしい鳴き声をする。主たる飼育地は新潟県で、中国渡来の大唐丸と小国系統の長鳴鶏種とを交配したものという、体重は雄3,750gと大型だ。以下で一度その鳴き声聞いてみたら・・・、すごく長い間鳴いているよ・・・。
蜀鶏
『和漢三才図会』巻第四十二の原禽類の項の最後には、以下のようなことも書かれている。
「小児五歳以下にして鶏を食えば、かい虫を生ず。鶏肉と糯米(もちごめ)と同じく食えばかい虫を生ず。鶏肉を葫(にんにく)・蒜(ねぎ)・芥(からし)・李(すもも)と合わせて之を食ふベからず。鶏肉と生葱(なまねぎ)と同じく食えば虫痔となる。鶏肉を鯉魚と同じく食へば癰癤(ようせつ。ここ参照))と成る」・・・と。
これらの記述から、今では常識のようになっているニワトリとネギを一緒に食べると寄生虫を生ずると信じられていたようだ。これらの食い合わせのほとんどは迷信だろう。現在では食用の鳥といえばニワトリだが、江戸時代にはニワトリは中国同様、「時を告げる家禽」として食用にすることを忌避する傾向があり、食用の鳥といえば鴨が一般的で、また最も美味しいものとされていたようだ。しかし、先にも書いたように、採卵用としてニワトリが飼われるようになり、卵は食べられるようになっていた。そして、天明年間(1781年-1789年)には「万宝料理秘密箱」という鶏卵の料理書も出版されているという(※13参照)。
又、江戸時代後期の『守貞漫稿』(喜多川守貞著、 嘉永5年-1853年)の近世風俗志 第五遍生業下 “揚出し鶏卵売” には、以下の記載がある。(参考※14の.109コマ参照)。
「鶏卵の水煮売る。価大約廿文。
詞に「たまごたまご」と云。必ず二声のみ。
一ト声も亦三声も云はず。
因に云。
四月八日には鶏とあひるの玉子を売る。
江俗云ひ伝ふ。
今日家鴨(あひる)の卵を食する者は
中風を不病(やまざる)の呪と。京阪此事無き也」。
とあり、文化年間以降京都や大阪、江戸においてニワトリとあひるの玉子が食されるようになったとの記述がある。また、文化以来、京阪はかしわという鶏を葱鍋にして食べているが江戸では、しゃもという闘鶏を同じように煮て食べていたことが書かれている(※※14の80コマ参照)。
「苞にする十の命や寒鶏卵(かんたまご)」 (太祗 「太祗句集後篇」)
江戸時代中期の俳人 炭太祇の作で、句集として『太祇句選』、『太祇句選後編』(※15参照)などがある。
寒卵は寒玉子のことで、季語は、三冬。「苞にする」は、「お土産にする」でもよいが、「藁苞(わらほう」にして卵を包み込んだもの」と解したほうがよさそう。まだ生きている寒卵、ほのかに温いのかもしれない。寒の卵は滋養があると言われている。太祇は、藁苞に10個玉子を包んでどこの土産にするのだろうか。ひょっとしたらその相手は病気でもしていたのだろうか・・・。
当時のニワトリは、今のブロイラーのように毎日卵を産まなかった。卵は、江戸近郊の百姓家が、庭で放し飼いにしている地鶏が自然に産んだ卵を、野菜の商いのついでに売りに来るものだったようで、価格も今とは違って高価であったようだ。江戸末期には生卵やゆで卵の行商人もいたが、八百屋の一角などにもみ殻を敷き詰めた板箱を置き、そこに卵を一つずつ立てて売られている様子が当時の浮世絵に描かれていたのを見たような気もする。
『守貞謾稿』には、「うどんの上に卵焼き、かまぼこ、しいたけ、慈姑(くわい)などを具に食べる」「卵とじうどんにする」などといったことも書かれており。卵の値段も書かれているが、かけそばやうどんが一杯十六文のところ玉子とじうどんとなると三十二文と、ぜいたくな食べ物だったのかも・・。。
さて、「ひよこ」の語源は、先に書いたサトウハチローの 動揺『可愛いかくれんぼ』の歌詞「お庭でぴょこぴょこ かくれんぼ」の「ぴょこぴょこ」は「ひょこひょこ」と同じこと。小きざみにはねるさまや気軽に出歩くさま(ひょいひょい)をいう。だから、そんな「ひょこひょこ」から「ひよこ」になった・・・なんて説も聞くが、あまり信ぴょう性はないようだ。
広義では、「ひよこ」は、孵化して間もない鳥の子。狭義では、特にニワトリ(鶏)のひな鳥のことを言う。だから、「ひよこ」は漢字で「雛」と書く。『和漢三才図絵』には、和名比奈(ヒナ)、今比興古(ヒヨコ)と云うとある。
「雛」は雛人形の「ひな」で、「雛人形」は鳥の雛のごとく小さい人形の意。古くはひひな、あるいはひいなといった。生まれたばかりの鳥の子がヒヒと鳴く、即ち「ヒヒナク」のつまったのが語源という。したがって、幼い子の意味から、幼稚な者や未熟な者をさす言葉としても使われている。また、広義では、他の鳥(特にアヒル)のひな鳥の呼称としても用いられることがある。
現代は、鶏の肉は、焼鳥や、唐揚げ(フライド・チキン)、ロースト・チキン、水炊きや親子丼の具などに、また、卵はゆで卵だけでなく、目玉焼き、オムレツ、玉子焼き、だし巻卵、茶碗蒸しや、各種卵とじなどに、そして、最近では新鮮な生たまごも美味しいと評判だ。この様に、鶏肉と鶏卵は、今の私たちの食生活には、無くてはならない食材となっており、重要なタンパク質源でもある。
この様な、鶏肉として食べているニワトリも卵を産むニワトリも、かつては、卵肉兼用種(※16のここ参照)の同じニワトリであった。
戦時中、私は母方の田舎徳島のへ疎開をしていたが疎開先は徳島では大手の農家で、田畑だけではなく山も持ち、家には牛やニワトリなども買っていた。それで、卵をとるだけではなく、祭りの時など飼っているニワトリを家の庭先で首を締めてさばいているのを見て、都会育ちの私など、しばらく鶏肉を食べるのが嫌になったのを思い出す。また、戦後神戸へ帰ってきても焼け野原となっているところにバラックを建てて鶏を飼っているところが家の近所にあった。
戦後のアメリカ駐留軍の影響から鶏肉料理の需要が増大し、農家が内職的に食肉用としてニワトリを飼育するようになったのをきっかけとして昭和20年代後半からブロイラー産業が開始され、昭和40年にはアメリカからブロイラー用(肉専用種)のヒナ鶏が輸入され、それに伴い生産量も急速に増加。
ブロイラーは、ひなを殆ど運動させず、配合飼料で育てた若鶏を言い、その生育がとても早い。したがって価格も安くなる。それに、自然のニワトリに比べれば肉が柔らかいことも特徴で、かえってその肉の柔らかさが気に入られ、鶏肉用としては、今では、一部地鶏のもの以外卵肉兼用種は鶏肉用としての役割を失い、鶏肉用としてはアメリカ発祥のブロイラーがすっかり日本に定着し、日本人の食を支えるようになった。
ところでニワトリは交尾をしてもしなくても卵を産むのですよ・・・。
ニワトリは交尾をしてもしなくても約25時間に1個の割合でたまごを産むそうだ。 交尾をしていれば「有精卵」(受精した卵)が産まれ、交尾をしていなければ「無精卵」(未受精卵)が産まれる。
最近は有精卵が特殊卵(※のここ参照)として売られているが、スーパー等で売られている普通のタマゴは、ニワトリが「ケージ」と呼ばれる(鳥かご)の中に1羽ずつ入れられて、無精卵を産んでいる(ケージ飼い) 。
「有精卵」を産ませるためには、オス鶏1羽にメス鶏10羽くらいの割合で混飼(こんし)する放し飼いまたは平飼いが行われる(養鶏、また、※17のQ&A参照)。
一般に鶏卵は調理後のものを「玉子」とし、生の場合「卵」としていうるようだ。だから、これ以降は、タマゴをこの呼び方で書く。上記で説明したように、今では、料理で単に「卵」と言う場合は鶏卵の無精卵を指していると思えばよい。
それでは、日本全国で、一体どれくらいの採卵用ニワトリが飼育されているのだろう。
平成25年2月1日現在の農林水産省統計「畜産統計」平成25年7月2日公表によれば、
全国で卵鶏の飼養戸数は2,650個で、飼料価格の高騰による廃業等で前年に比べ160戸(5,7%)減少している。又、使用羽数は1億7,223万8,000羽で前年に比べて271万1,000羽(1,5%)減少しているそうだ。尚1戸当たり成鶏めす飼養羽数は5万2,000羽で、前年に比べて239万2,000羽増加している。
又、ブロイラーの飼養戸数は2,420戸で、飼養羽数は1億3,162万4,000羽で、一戸当たり飼養羽数は5万4,400羽。出荷戸数は2,440戸で、出荷羽数は6億4,977羽で、1戸当たり出荷羽数は26万6,3000派であった。なお採卵鶏の飼養戸数、羽数の多い地域上位4か所を見ると以下のようになっている(単位:羽数は千羽、飼育戸数は戸)
飼育戸数では、愛知県 186、鹿児島県147、千葉県14茨城県 144の順。
飼養羽数では、茨城県13, 151、千葉県11,757、鹿児島県9,539、愛知県9,222 の順となっている。
上記統計を見ても分かるように、採卵用のニワトリは当然全て雌鳥(めんどり)である。雌鶏は、先にも書いたように約25時間に1個の割合でタマゴを産むというから、雌鳥は狭い折に入れられてほぼ毎日1個の卵を産まされていると言ってよいだろう。全国でブロイラーの飼養羽数は1億3,162万4,000羽もいるというから日本の人口とほぼ同じであり、日本人は毎日1人あたり玉子1個は食べている勘定になる。それに、地鶏も食べているのだからすごい量を消費していることになる。
上掲の画像は近代的なブロイラー飼育場。
ニワトリは孵化(ふ化)して4ケ月前後でたまごを産みだすそうだが、初玉子は、その産み始めの小さい卵のことをいい、地方によっては、お産をする女性に食べさせると安産になるということで親しまれているようだ。
受精した卵をふ卵器に入れ、摂氏38度位で温めると、21日目位に、自らの力で殻を割り、ヒナが誕生をする。それがひよこというものだ。生まれたばかりの元気良くピヨピヨと鳴いているひよこは実にかわいらしい。
「苗売のとなり子どものひよこ売 」(星野麥丘人。※18参照)
私たちが子供の頃、戦中戦後など、縁日ではよくひよこを箱に入れて売っていた.小さい頃の話なのでよくは覚えていないが、1度は買ったものの、数日は可愛い可愛いと言いながら遊んでいたものの数日で冷たくなって死んでいた記憶がある。可愛そうなことをしたものだ。 以来、余り動物や昆虫類など生き物は買わなくなった。
この様な縁日などで売られていたひよこは、卵を産めない雄(おす)ばかりだということを知ったのは成人してからのことである。卵を産むことのできない雄が子供のおもちゃのように売られていた。大きくなると、世話に困るし餌代もかかる哀れな雄のひよこであった。
買ったひよこの値段などとんと記憶にないが、いずれにしても小さな子供が買うのだから大した値段ではない。そんなひよこを1日で何匹売っていたかしれないが大した額にならないだろう。江戸時代の卵売りの方がよほど商売になったかもしれない。そんなひよこを売ってひよこ売はどんな暮らしをしていたのだろうか。そんなことでしなければ生きられなかった戦後は誰もが非常に貧しかった。
雌は卵を産む鶏だ、生まれて卵が産める間は大事にされる。しかし、卵が産めなくなるとどうなるのだろう・・・。
孵卵場は「卵をヒナに孵化させる所」であるが、卵の孵化は養鶏場がしていると思われがちなのだが、今の時代専門化が進み、卵の孵化は孵卵場と言う専門の業者が担当している事がほとんどのようだという。
そんな孵卵場では、卵からひながかえると、まず、「雌雄鑑別」が行われ、雌のひな(雄鶏)が、選り抜かれる。孵ったひなの約半数は雄である。卵を産むことのできない雄は、塩化ビニール製の箱の中にポイポイと放り込まれ、箱がひなで一杯になると、その箱は場内の片隅に無造作に積み重ねられ、次々と重ねてゆくと下段に積み重ねられた箱は重みで、押しつぶされて行くだろう。何段も重ねられた箱の中にいるひよこの運命は・・?考えただけでゾットする。
人間の都合で、どんどん卵を産まされ、役に立たない雄は食用にもされず育てるだけ無駄と圧死させられ、最後は廃棄物処理されるそうだ。
圧死させられるひよこ
一方処分されずに残った雌のニワトリも卵を産みはじめてから、養鶏場では約1年6ケ月ほどの間、卵を産ませられる。
その養鶏場の雌のニワトリの一生は、誕生してから約2年という短い期間で幕を閉じ、最終処分業者が引き取るらしい。これを「淘汰(とうた)する」といい、処分される鶏を「淘汰鶏」と呼ぶのだとか。
毎日健康の為とかなんとか言って食用にされている玉子。その卵からかえった可愛いひよこは雄・雌ともに可愛そうな運命が待っている。なんたる人間の身勝手さか・・・。
人が生きるということは・・・、他の生あるものを食べるということに通じる。人が生きてゆくために多くの生物が犠牲になって、人を生かしてくれているのだ、そう思うと、生きていけることに心から感謝しなければいけないだろう。「有難う!」。この感謝気持ちだけは忘れてはいけないだろう(卵のことは参考の※17を参照)。
※1:今日は何の日〜毎日が記念日〜
http://www.nnh.to/04/15.html
※2:ひよ子本舗吉野堂
http://www.hiyoko.co.jp/
※3:長崎街道内野宿:長崎街道マップ
http://www.nagasakikaido-uchinoshuku.jp/nagasaki-kaidou.html
※4:シュガーロード長崎街道(1)〜飯塚生まれのお菓子たち
http://futatsumekusa.air-nifty.com/blog/2005/12/post_62de.html
※5:古事類苑. 動物部3-近代デジタルライブラリー
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/897896
※6:日本の肉食禁止の歴史 食の雑学 補足12
http://www.in-ava.com/hosoku11.html
※7: 和漢三才図会. 中之巻(第37巻-54巻)-近代デジタルライブラリー
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/898161
※8:高知のにわとり:サイトマップ
http://ameblo.jp/tachibana2007/theme1-10006420121.html#main
※9:ゆふつげどり【木綿付鳥】 | 情報言語学研究室
http://club.ap.teacup.com/hagi/1064.html
※10:加納喜光研究室: {土+卑}雅の研究−中国博物誌の一斑−
http://chubun.hum.ibaraki.ac.jp/kano/peper/piya/index.htm
※11:本朝食鑑 12巻-国立国会図書館目次
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2607234?tocOpened=1
※12:日本家禽学会
http://jpn-psa.jp/index.html
※13:余録:「万宝料理秘密箱」。何やら… - 毎日新聞
http://mainichi.jp/opinion/news/20131218k0000m070156000c.html
※14:類聚近世風俗志 : 原名守貞漫稿-近代デジタルライブラリー
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1444386/065
※15:太祇句選後編
http://www.geocities.jp/haikunomori/taigi2.html
※16: 畜産Zoo鑑:鶏
http://zookan.lin.gr.jp/kototen/tori/index.htm
※17:たまご博物館
http://homepage3.nifty.com/takakis2/index.htm
日本釈名(原本)
http://base1.nijl.ac.jp/iview/Frame.jsp?DB_ID=G0003917KTM&C_CODE=XYA8-04801&IMG_SIZE=&IMG_NO=2
ひよ子 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%B2%E3%82%88%E5%AD%90