日本記念日協会(※1)に登録されている5月2日の記念日に「新茶の日」がある。
登録しているのは、静岡県掛川市にあるお茶を扱う山啓製茶の山啓会が制定したものらしい。
立春から数えて八十八日目の日となる雑節の「八十八夜」。
この日に摘んだ新茶は上等なものとされ、この日に新茶を飲むと長生きすると伝えられていることから、新茶の試飲や販促活動を行うのが目的とか。
1.夏も近づく八十八夜
野にも山にも若葉が茂る
「あれに見えるは茶摘みぢやないか
あかねだすきに菅(すげ)の笠」
2.日和(ひより)つづきの今日このごろを
心のどかに摘みつつ歌ふ
「摘めよ摘め摘め摘まねばならぬ
摘まにゃ日本(にほん)の茶にならぬ」
文部省唱歌『茶摘み』。
1912(明治45)年に刊行された『尋常小学唱歌 第三学年用』が初出らしい。2007(平成19)年に「日本の歌百選」に選ばれている。
また、小児が2人組で向かい合って行う、「せっせっせーのよいよいよい」で始まる手遊び歌としてもしばしば用いられる。この手遊びでの繰り返しの動作は、茶葉を摘む手つきを真似たものとも言われる。
1・2番とも、第3・4節は京都府綴喜郡宇治田原村(現:宇治田原町)に伝わる茶摘み歌「向こうに見えるは茶摘みじゃないか。あかねだすきに菅の笠」、「お茶を摘め摘め摘まねばならぬ。摘まにゃ田原の茶にならぬ」から取られたのではないかという説があるそうだ。
しかし、その根拠となっているのは『日本の唱歌(上)』(明治篇講談社 1977年金田一春彦編)らしいが、この本も、実際に宇治田原を取材したりした結果 に基づくものではなく、人の話の聞き書きであり、宇治田原起源説を後押しするような有力な証拠(「事実」)の裏付けがあるわけではないという。同じような茶摘み歌は京都府内に限らず各地に伝承されている。
そして、宇治田原町の隣り、京都府内産「宇治茶」の最大の生産量を誇る町、相楽郡和束町や、同じく隣りの滋賀県大津市田上(高砂町)、宇治田原ではなく、奈良県奈良市の田原地区、そして、宇治茶の本場とされている宇治市に残る民謡などに、この唱歌の引用によく似た表現が見られるという(各地に伝わる歌の内容などは※3「宇治田原ふるさと歴史クラブ」の茶摘み歌の考察参照)。
上掲の宇治田原町「お茶を摘め摘め摘まねばならぬ。摘まにゃ田原の茶にならぬ」は、京都宇治田原村ではなく、奈良田原の茶摘み歌(奈良県)の伝承歌に出てくるものであり、宇治田原にも伝承の残る「田原天皇(施基皇子)」の陵墓があったり、お茶の産地であったりと共通点がある。又、「和束の茶摘み歌」では、「摘まにゃ田原の茶にならぬ」ではなく、「摘まにゃ和束の 茶にならぬ」になっている。
そして、宇治市の茶摘み歌では文部省唱歌に見られる「 あれに見えるは茶摘みぢゃないか 茜襷に菅の笠」が見られる。大津市田上の歌の「 お茶をつめつめ つまねばならぬ つまにゃ日本の茶にならぬ 」とあわせてこれらが唱歌に採用されたのではないかという。
昔は各地を渡り歩き農作業などを手伝う人々がいて、茶摘みの時期が早い地区から遅い地区へと渡り歩いていた。そういう人たちが作業時に歌っていた歌がその土地に合わせた歌詞にアレンジされて歌われていたと思われる。そうした人から人に伝承されていた茶摘み歌を基に文部省唱歌が作られたのだということだろう。
さて、茶摘み歌には「茜襷に菅の笠」とあるように、茜(あかね)色の襷(たすき)を懸けて、 菅(すげ)の笠(かさ)を被って作業することを歌っているのだが、よく民謡踊りでも見かける赤い色の襷は、単なるファッションではなく、アカネ(茜)は、止血剤として知られているそうだ(※4参照)。茶摘みは素手の作業なので、指先にケガを負いやすい。そのため、ケガに効く茜の成分を擦り込みながら作業を続けるといううのだが・・・。
このような知恵が広まり、民謡踊りの衣装として定着してしまったのかどうかは知らないが、茜の襷は静岡の『ちゃっきり節』を踊るときにも見られる。
北原白秋:作詞、町田嘉章:作曲『ちゃっきり節』は、現在では静岡県民謡と見なされているが、新民謡のひとつで静岡市の花柳界のお座敷唄であり、1927(昭和2)年に、静岡市近郊に開園した狐ヶ崎遊園地(後の狐ヶ崎ヤングランド 1993年閉園)のコマーシャルソングとして、静岡電気鉄道(現・静岡鉄道)によって制作されたものである。
大正時代から昭和時代初期にかけては、地域おこしや観光宣伝のため、旧来からの民謡を広く紹介し、あるいはPRソングとして民謡風の新曲を作るなどの動きが日本の各地で見られた。ちゃっきり節もその一つとして作成されたものである。
作詞依頼を受けた白秋は、当初、「私は民謡をつくったことがないから」と断っていたらしいが、当時の、静岡電気鉄道の遊園部長より、「園内には料亭兼旅館(翠紅苑[すいこうえん])があり、名産のお茶やミカンの買い付けのため、全国各地から訪れる人々にも広く利用されるよう願っていること、したがって、その利用客や入園者にも愛唱されるサービス用の唄が、どうしても必要なこと、その唄を通じて特産品が認識され、輸出産業として発展すれば国策にもかなうこと」などじっくりと熱意をこめて説明した結果引き受けてもらったという(※5参照)。なんとこの歌30番まである長い歌だ。その全歌詞は※5「静鉄グループHP」のちゃっきりぶし全歌詞を参照されるとよい。
この『ちゃっきり節』。北原白秋作詞によるものにもかかわらず作成当時は、座敷を中心に、花柳徳太郎振り付けによる踊りと合わせて歌われている程度で、それほど広く歌われはしなかったようだ。それは他の民謡とちがって『ちやっきり節』が手拍子では歌いづらく、三味線で聞く調子の唄だったせいかもしれないという。それが全国的に大流行するようになったきっかけは、戦後、芸者歌手市丸がレコードに吹き込んで以来のことという。私たち年代には懐かしいきれいな声だ。以下で聞ける。
ちゃっきり節(市丸) - YouTube
ただ、この『ちやっきり節』、先にも述べたように、その起源は、静岡ではなく、京都の宇治茶の産地周辺である。
『ちゃっきり節』は「茶切節」ないし「茶切ぶし」「などと表記されることもあるが、「ちゃっきり、ちゃっきり、ちゃっきりよ」、という軽快な囃子ことばからの命名であり、この「ちゃっきり」とは静岡の言葉で、茶を刈る鋏(はさみ)の音に因んだものだそうだ。
この歌は絣(かすり)の着物に赤いたすきの茶摘み娘が踊るように振り付けられているから、伝統的な茶摘み風景を歌ったものと思われがちだが、その所作をよくみると、お茶を摘む手つきではなく、両手を前にだして大きな鋏(はさみ)を使う様子を表していることに気がつく。以下参照。
金谷茶まつり総踊り20120415「ちゃっきり節」1 - YouTube
白秋は静岡周辺の方言や伝説を参考にして作詞したようだが、まさにその頃、静岡の茶畑では、従来の手摘みにかわって、効率のよい鋏の使用が増えていた。白秋の故郷の九州ではあまり見ることのなかった茶鋏に興味を抱いた白秋が、早速にその様子を織り込んだものと思われるという(※6:「お茶百科事典」:「ちゃっきりぶし」は時代の子参照)。茶鋏の刃先には切り取った茶葉が収まるように布袋が取り付けられている。茶鋏での茶刈りの光景を以下で見られる。
茶鋏1 - YouTube
それでは以下の絵葉書を見てみよう。
静岡 日本茶 茶摘み娘 - 鵜の目・鷹の目・絵葉書の目
同絵葉書説明文にもあるように、時代はわからないが、雄大な富士山をバックに広々とした茶畑ということで静岡の茶畑の様であるが、合成写真のようにも見える。そして、この絵葉書は手彩色を施したものであるが、娘たちのつけている襷(たすき)には赤く色が付けられている。正に、風景としては『ちゃっきり節』の情景なのだが・・・。
この娘達は出稼ぎの”茶摘み”かもしれないが、下部のタイトル(NATIVE GIRLS PICKING TEA LEAVES)にもあるように、娘たちは茶葉を鋏を使わず手で摘んでいる。この絵葉書が『ちゃっきり節』のできたと同年代であれば鋏で刈っていたはずだが、それ以前のものであれば手で摘んでいてもおかしくない。
当時、日本茶もシルク同様に立派な輸出品だった様であるし、右上に ”JAPAN TEA” とあり、下部のタイトルも英語で書かれており外人向けの絵葉書であると思われる。当時、静岡茶は輸出策を取っていたという話を私は聞いた記憶がある。何となく演出された感のある絵葉書ではある。
『日本三大茶』と云われるのは、静岡茶と宇治茶、狭山茶のことであるが、狭山茶は生産量が少なく、省かれる事もあり、宇治茶が、静岡茶と共に『日本二大茶』とも言われている。
宇治茶は、宇治市を中心とする京都府南部地域で生産される日本茶の高級ブランドをいう。
一般的に「宇治のお茶」とイメージされているが宇治市の茶園面積は80ha未満であり、「自治体内に100haの茶園面積を有すること」が条件となっている「全国茶サミット」には特例でメンバーとなっている。現在の京都府内における「宇治茶」の生産について、以下参考の※7:「茶業統計/京都府ホームページ」の平成25年度京都府茶業統計を見れば、昨・平成25年の京都府内の茶園面積は 1,624,2ha、在来種茶157,7ha、優良品種茶園率90,3%。平均経営面積148,8 aであり、茶園面積を地域別に見れば以下の通りとなっている。
1位、相楽郡和束町在来種茶21,4ha、優良品種551,8ha、計573,2ha
2位、相楽郡南山城村在来種茶28,0 ha, 優良品種258,4 ha計286,4ha
3位、綴喜郡宇治田原町在来種32ha,優良品種197,6ha計229,6ha
4位、木津川市在来種茶25,1ha、優良品種133,3ha計137,5ha
5位、宇治市 在来種17,3ha、優良品種58,4ha計75,7ha
このように現在、京都府内における「宇治茶」の主産地は、相楽郡和束町・相楽郡南山城村、綴喜郡宇治田原町などの周辺地域であり、宇治市の生産量は5位と、意外に少ないことが分かるだろう。
わが国のお茶は、遣唐使が往来していた奈良・平安時代に、留学僧が、唐よりお茶の種子を持ち帰ったのが始まりとされているが、平安初期(815年)の『日本後記』には、「嵯峨天皇に大僧都永忠が近江の梵釈寺において茶を煎じて奉った」と記述されているのが、わが国における日本茶の喫茶に関する最初の記述といわれている(※8 :「お茶街道」・ お茶の書物と記録2 参照)。しかし、このころのお茶は非常に貴重で、僧侶や貴族階級などのごく限られた人々だけが口にすることができたものであった。
このお茶の栽培は鎌倉初期に栄西(えいさい)禅師が宋(南宋)から帰国する際、茶を持ち帰り、その種子を佐賀県脊振山に植えたのが始まりだといわれている。
その後、京都の明恵(みょうえ)上人が栄西より種子を譲り受け、京都栂尾(とがのお)に蒔き、宇治茶の基礎をつくるとともに、全国に広めたとされている。
南北朝時代の成立になるとされる『異制庭訓往来』(虎関師錬著とされる)には以下のように書かれている。
「我が朝の名山は梶尾を以て第一となすなり。仁和寺・醍醐・宇治・葉室・般若寺・神尾寺は是れ補佐たり。此の他、大和室尾・伊賀八鳥・伊勢河居・駿河清見・武蔵河越の茶、皆是れ天下指言するところなり。仁和寺及び大和・伊賀の名所を処々の国に比するは、瑪瑙(メノウ)を以て瓦礫(がれき)に比するが如し・・・。」(※8:「お茶街道」お茶の歴史年表参照)とある。
また、「分類草人木」(利休時代の茶書)に宇治七名園の存在が記されており、宇治七園までの流れと当代の茶風を説き、茶道具の名が出てくることから、 この当時、既に、今日で言う抹茶を用いた喫茶法が行われていたことが判るという。
栄西は『喫茶養生記 』の中で茶の種類や抹茶の製法、身体を壮健にする喫茶の効用などを説いているが、その栄西が宋で身近に体験した抹茶法は、お茶の葉を蒸して乾燥させるという単純なものであり、これが日本国内に普及し、のちに茶の湯(茶道)となったことは、以前このブログ「お茶漬けの日」でも書いた。
栄西禅師が宋から持ち帰った茶の実を明恵につたえ、山内で植え育てたところ、修行の妨げとなる眠りを覚ます効果があるので衆僧にすすめたという。その最古の茶園は清滝川(京都府北区・右京区を流れる淀川水系桂川支流の一級河川)の対岸、深瀬(ふかいぜ)三本木にあった。
中世以来、京都栂尾の茶を本茶、それ以外を非茶と呼ぶそうだ。「日本最古之茶園」碑が立つ現在の茶園は、もと高山寺の中心的僧房・神護寺の別院とされる、神護寺十無尽院(じゅうむじんいん)があった場所と考えられている。現在も、5月中旬に茶摘みが行われるようだ(※9参照)。
1690(元禄3)年、オランダ商館付きの医師であるエンゲルベルト・ケンペルは、約2年間出島に滞在中、将軍徳川綱吉に謁見するため長崎と江戸を往還している。その行程の詳細については『江戸参府旅行記』(※10)に記されているが、元禄4年(1691)2月28日の条にはこの日夜明けより大阪方面から京に向かい宇治に入り、「宇治の村は開放的の小さき市にして、日本にて最佳茶を産ずるによりて名高し。(△□茶の風味世の常ならず美にして、且多量に製出するを以て)毎年将軍の宮廷に献上す。」(※10のコマ番号193参照)とあるように、この記述からも、宇治茶が将軍家に献上される高級茶の産地として広く知られていたことがわかる。おそらくはオランダ人たちに随行した役人らがわざわざこのように紹介したのだろう。宇治=茶どころのイメージは江戸時代中頃にはすでに定着していたのである。
それから100年ほど後、1780(安永9)年に出版された京都に関する地誌『都名所図会』(全6巻11冊。※11参照)は(秋里籬島)による文章と竹原春朝斎による挿画によって宇治の名所を紹介している。
●先ず上掲の画像を、見てください。『都名所図会』の巻之五 「前朱雀再刻」 宇治の里 (宇治里)の図である(※11の49頁で原寸大の図が見られる)。
将軍家に献上されるような良質の茶を育てるために、上掲画像に見られるように宇治の茶園の多くは、茶摘み前に茶園を日覆いを掛けてすっぽりと隠す、覆下(おいした)と呼ばれる栽培が行われ、他の茶産地と違う茶園風景を作り出している。
この独特で手間のかかる栽培方法を継承し、宇治茶は安土桃山時代から天下にその名声をはせてきたのであった。
宇治茶の覆下栽培は、新芽が育つ4月頃に茶園に覆いを施して日光を遮ることで、茶葉の渋み成分であるタンニン生成を抑え旨味成分テアニン生成を促進させる方法で、宇治茶伝統の碾茶(抹茶の原料)や玉露などの高級茶に製茶される。これに対して、露天園は主に煎茶用の茶葉を栽培することとなる。
覆下は、本来丸太杭と竹で棚を作り、その上に葦簀(よしず)を広げて藁(わら)を敷くものであり、「本簀(ほんず)」と呼ばれる。現在は効率化の中で、化学繊維製の黒い寒冷紗の覆いが普及したが、伝統的な本簀も全体の1割ほどで継承されているという。
覆下栽培の初期の様子を知る史料に、安土桃山時代のイエズス会宣教師ジョアン・ロドリゲスが書き残した『日本協会史』があり、この中に、宇治では茶園に「棚をつくり、葦か藁(わら)かの蓆(むしろ)で全部をかこう」とういう記述があり、これが、現在の覆下栽培の史料所見となっているようだ。
ロドリゲスは、覆下の目的は、繊細な新芽を 霜害から防ぐためと記しているようだが、確かに遅霜は茶葉の大敵であり、覆いによる霜害対策は説得力があるが、現在状況を踏まえるとこの覆いによる味の変化を経験的に知ることにより宇治では品質向上を主目的として覆下栽培が改良されつつ継承されてきたと考えられているようだ。宇治の茶摘み見物は、宇治を代表する初夏の風物詩として知られており、今なおこの季節になると、多くの「茶摘みさん」が覆下園に集まり、朝早くから日暮れるまで覆下の中で茶摘みに勤しむ姿がうかがえるという(※12参照)。
尚、余談だが、『都名所図会』の巻之五 「前朱雀再刻」 宇治の里 (宇治里)の図には以下の芭蕉の句が書かれている。
「木がくれて茶摘(ちゃつみ)も聞(きく)や子規(ほとゝぎす )」
句意としては、「いま一声鳴いて渡っていったホトトギスの声を、茶畑の茶ノ木に隠れて見え隠れする茶摘女達も聴いたであろうか。 」と言ったところらしい(※14)。
本来茶摘みと時鳥(ホトトギス.)は季重なりなのだが、夏の季語(初夏五月)の「時鳥」と春の季語(四月上旬)の「茶摘み」を芭蕉は「木がくれて」で「季と季との時候の取り合わせ」としているのだそうだ。
宇治市の西側には、かつて宇治川、木津川、桂川が流れ込んでいた巨椋池があり、現在は干拓田としての広大な農地と自動車交通の要所となっている。
宇治の場合、茶摘みの風景のほかに、宇治川での鮎汲みの挿画(※11の宇治川の網代 59p参照)や、蛍狩りの挿画(※11の宇治川の蛍狩り55p参照)が収載されている。宇治は茶どころであるばかりでなく、当時の人びとを惹きつけるに足る遊興の地として認知されていたことがわかる。
こうした『都名所図会』にみられるような宇治のイメージは、幕末期の1861(文久元)年に出版された地誌『宇治川両岸一覧』(乾,坤 / 暁晴翁 著、松川半山 画)の最所の絵にもあらわれている。特に、宇治川に関して「当国(山城)第一の大河」としたうえで、「まことに当国南方の奇観なり」と紹介している。
●以下の画像は『宇治川両岸一覧』の宇治の茶摘み風景。
ところで、先に紹介した『都名所図会』や『宇治川両岸一覧』の図に見られる宇治茶の茶摘み風景には、「白い襷」あるいは「白手ぬぐい」をしているが、1917(大正6)年5月.26日付の国民新聞には「山城宇治の茶摘は今が丁度盛りである、「君に別れて何時又逢うぞ明けて五月の茶摘時」、と鄙びた名物の茶摘歌は絣の着物に赤襷白手拭を姉様冠りの若い女の群から茶園の●●(字不明)を透して聞えて来る・・・」・・・とあるように、このころには、赤い襷をするようになっていたようだが、やはり、『ちゃっきり節』の影響があったのだろうか?。
また、この新聞には、このようなことが書かれている。
「後陽成天皇(1571年-1617年の頃より宇治の献茶は恒例であった。
目下本邦以外宇治から茶の輸出される販路は支邦各地印度南洋方面より墨西哥まで及んで名声を馳せている、この多量の茶は彼の姉様冠りの若い女の手で一葉々々と摘まれ小さな焙炉(ばいろ)に蒸芽八百目宛をいれ大の男が一時間もかかって漸く出来上るのである、若葉の風薫る宇治郷の昨今は野も山も見渡す限り●●の藁屋根が架けられ、例の茶摘歌が聞え焙炉小屋からは「お茶よ揉め揉め」と焙炉師がどら声を挙げ新茶の香りが鼻を衝く 。
久世郡だけでも茶摘女が約一万人、焙炉師が千四百人その七割が土地の者で三割が河内大和丹波地方から輸入されてくる、それが例年定った雇主を需(もと。漢字の意味は※16参照)めて五月の始めから入込んで来る、賃銭は女の手職として賃金は上の部である、故に茶摘女はそれで陽気に歌いさざめいて宇治一帯の地を賑わしている。
製茶家は久世郡で約七百、茶商人は約九十戸ある、これが全国及び海外へ供給する、かくして名物宇治茶は世界の人々の前に黄金の色を出し、高き香りを発するのである、今や五月の光りは若葉の上に照り渡り、宇治郷一帯の地は一年の書入時として陽気にさざめいている、新緑の候この地に●を曳き茶摘歌を聞くも一興である」・・・と(●は不明字)。なかなかの名文である。
●上掲の画像は、『日本山海名物図会』(平瀬補世著、蔀関月挿画。1799年刊5巻5冊。※17参照)第二巻に掲載されている焙炉の図である(拡大図は※17焙炉参照)。
茶摘みでは、摘んだ芽や葉を、蒸して、焙炉で熱を加えて乾燥する。乾燥する間に揉んで葉を巻く。刈茶は洗ってから大鍋で炒(い)る。洗った時の水気で葉もじくも茹でたように柔らかくなるが、柔らかくならぬじくは取り捨てる。上掲の図の右は、焙炉で乾かす作業で左上は石臼で挽いて抹茶にする作業をしているところである。
同図には、茶名物大概、宇治茶摘、茶製法などの図が説明入りで描かれている。
この頃の一般の人たちが飲んでいたのは煎じ茶(煎茶)であった。これは覆いのない茶園の若葉・古葉を残らず摘み取って、 灰汁 あく で湯がいて冷水で冷やし、よく絞って筵に干し、筵の上であらく揉んでつくった。今から見れば番茶のようなもの。しかし、 永谷宗円 は煎茶の製法に工夫を凝らし,抹茶の製法に則り、若芽だけを摘んで蒸籠で蒸し、焙炉で揉みながら乾かして、香味ともによい青色の煎茶の製造に成功した。
この宗円が発明した「青製煎茶製法」はその後の日本緑茶の主流となる製法となった。宗円は完成した茶を携えて江戸に赴き、茶商の山本嘉兵衛(現:山本山の先祖であり、現社長は9代目)に販売を託したところ、たちまち評判となり、以後「宇治の煎茶」は日本を代表する茶となった。
宗円の煎茶を販売し大きく利益を得た「山本山」では、明治8年(1875年)まで永谷家に毎年小判25両を贈ったという(Wikipedia)。
宗円は自身が発明した製茶法を近隣にも惜しみなく伝えたため、「永谷式煎茶」「宇治製煎茶」は全国に広がることとなった。また、宗円の子孫の一人が東京で「永谷園」を創業したのだという。
日本の文化の一つともいえる「日本茶」。
この日本茶も紅茶もウーロン茶も植物としては、すべて同じツバキ科の常緑樹チャノキ。違うのは茶を作るときの「発酵の違い」だけ。茶という植物、つむと同時に発酵を開始する特殊な酵素が含まれている。
ぼやっとしていると発酵が進み、十分に発酵させると紅茶に、発酵をとめると緑茶(日本茶)に、その中間でウーロン茶やジャスミン茶など半発酵茶となる。
日本茶の多くは、蒸すことで加熱処理をして酸化・発酵を止めたのち、揉んで(揉まないものもある)、乾燥させる製法をとる。この方法は日本独自で発展したものであり、世界的にみても製茶過程で"蒸し"という工程が行われている国は他に類を見ないという。一説によると、宋時代の古代中国において少数派であった製法を、たまたま日本が持ち帰ったものだといわれている。
渋み、苦み、旨みなどの独特な味わいをもつ緑茶には、人間の健康によい影響を与えるとされる成分が多く含まれており、実に多様な効果・効能があるという(※20のお茶(緑茶)の成分と効果・効能参照)。
私はお茶が大好きなので、若い頃、少しお点前を習っていたこともある。焼き物も好きなので、茶碗類も古いものや新しいものを少しはもっているのだが、最近は、自分で茶をたてることはなく、家人に入れてもらった物を飲むだけ。今、食事券などをくれる株主優待のある株を少しづつ買っているが、去年買った株に、静岡県を地盤に、神奈川・山梨・愛知で展開するイオングループの食品チェーンマックスバリュー東海がある。ここは、最低単位の株式数で5000円相当の「静岡県産銘茶セット」がもらえる。今月中には届くはずなので、それを楽しみに待っているところだ。これから、また、これを機会に、ちょっと、品質の良いお茶を飲むようにしようかな〜・・・。
冒頭の画像は、茶摘5円切手(1949年発行)。当時(1948年〜1950年50頃)の通常切手は戦後復興期の日本を支えた様々な産業、農婦・炭鉱夫・印刷女工 ・紡績女工・捕鯨・植林などを図案にした切手が発行された。これは収集家の間では“産業図案切手”と総称されている。他の切手図案などは※21を参照。
参考:
※1:日本記念日協会
http://www.kinenbi.gr.jp/
※2:二十四節気および雑節 平成26年 (2014) - 国立天文台 天文情報センター
http://eco.mtk.nao.ac.jp/koyomi/yoko/2014/rekiyou142.html
※3:宇治田原ふるさと歴史クラブ
http://www.geocities.jp/uji_tawara/
※4:艾葉,茜根及び三七根の止血作用に就て - J-Stage
https://www.jstage.jst.go.jp/article/fpj1925/39/3/39_3_328/_pdf
※5:ちゃっきり節誕生秘話-静鉄グループHP
http://www.shizutetsu.co.jp/column/column_cya_story_01.html
※6:お茶百科事典
http://www.o-cha.net/japan/dictionary/japan/culture/culture10.html
※7:茶業統計/京都府ホームページ
http://www.pref.kyoto.jp/nosan/11700012.html
※8:「お茶街道」
http://www.ochakaido.com/index.htm
※9:日本最古の茶園 - 世界遺産 栂尾山 高山寺 公式ホームページ
http://www.kosanji.com/chaen.html
※10:『ケンプェル江戸参府紀行』 - 近代デジタルライブラリー
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1876448
※11:都名所図会データベース - 日本文化研究センター
http://www.nichibun.ac.jp/meisyozue/kyoto/c-pg1.html
※12:第2章(変更) - 宇治市(Adobe PDF)
http://www.city.uji.kyoto.jp/cmsfiles/contents/0000011/11321/2syou-1.pdf#search='%E9%83%BD%E5%90%8D%E6%89%80%E5%9B%B3%E4%BC%9A+%E5%AE%87%E6%B2%BB%E3%81%AE%E8%8C%B6%E6%91%98%E3%81%BF'
※13:『宇治川両岸一覧』
http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/ru04/ru04_03762/index.html
※14:木隠れて茶摘みも聞くやほととぎす-芭蕉db
http://www2.yamanashi-ken.ac.jp/~itoyo/basho/haikusyu/tyatumi.htm
※15:宇治の茶摘 - 神戸大学 電子図書館システム
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=00717235&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1
※16:「もとめる(求、索、需、要…)」の漢字の違いを使い分ける
http://mmm-o.seesaa.net/article/225466323.html
※17:日本山海名物図会 - 九州大学デジタルアーカイブ
http://record.museum.kyushu-u.ac.jp/meibutu/
※18:文献資料に見る製茶
http://www.geocities.jp/uji_tawara/chabunka/bunken.html
※19:山本嘉兵衛撰 九代目商品 - 山本山
http://www.yamamotoyama.co.jp/products/kudaime.html
※20:お茶百科(伊藤園)
http://ocha.tv/varieties/
※21:郵便学者・内藤陽介のブログ 茶摘み
http://yosukenaito.blog40.fc2.com/blog-entry-339.html
宇治新茶・八十八夜茶摘みの集いが開催されます/京都府ホームページ
http://www.pref.kyoto.jp/yamashiro/ocha/news/ujicha-news2.html
茶 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8C%B6
登録しているのは、静岡県掛川市にあるお茶を扱う山啓製茶の山啓会が制定したものらしい。
立春から数えて八十八日目の日となる雑節の「八十八夜」。
この日に摘んだ新茶は上等なものとされ、この日に新茶を飲むと長生きすると伝えられていることから、新茶の試飲や販促活動を行うのが目的とか。
1.夏も近づく八十八夜
野にも山にも若葉が茂る
「あれに見えるは茶摘みぢやないか
あかねだすきに菅(すげ)の笠」
2.日和(ひより)つづきの今日このごろを
心のどかに摘みつつ歌ふ
「摘めよ摘め摘め摘まねばならぬ
摘まにゃ日本(にほん)の茶にならぬ」
文部省唱歌『茶摘み』。
1912(明治45)年に刊行された『尋常小学唱歌 第三学年用』が初出らしい。2007(平成19)年に「日本の歌百選」に選ばれている。
また、小児が2人組で向かい合って行う、「せっせっせーのよいよいよい」で始まる手遊び歌としてもしばしば用いられる。この手遊びでの繰り返しの動作は、茶葉を摘む手つきを真似たものとも言われる。
1・2番とも、第3・4節は京都府綴喜郡宇治田原村(現:宇治田原町)に伝わる茶摘み歌「向こうに見えるは茶摘みじゃないか。あかねだすきに菅の笠」、「お茶を摘め摘め摘まねばならぬ。摘まにゃ田原の茶にならぬ」から取られたのではないかという説があるそうだ。
しかし、その根拠となっているのは『日本の唱歌(上)』(明治篇講談社 1977年金田一春彦編)らしいが、この本も、実際に宇治田原を取材したりした結果 に基づくものではなく、人の話の聞き書きであり、宇治田原起源説を後押しするような有力な証拠(「事実」)の裏付けがあるわけではないという。同じような茶摘み歌は京都府内に限らず各地に伝承されている。
そして、宇治田原町の隣り、京都府内産「宇治茶」の最大の生産量を誇る町、相楽郡和束町や、同じく隣りの滋賀県大津市田上(高砂町)、宇治田原ではなく、奈良県奈良市の田原地区、そして、宇治茶の本場とされている宇治市に残る民謡などに、この唱歌の引用によく似た表現が見られるという(各地に伝わる歌の内容などは※3「宇治田原ふるさと歴史クラブ」の茶摘み歌の考察参照)。
上掲の宇治田原町「お茶を摘め摘め摘まねばならぬ。摘まにゃ田原の茶にならぬ」は、京都宇治田原村ではなく、奈良田原の茶摘み歌(奈良県)の伝承歌に出てくるものであり、宇治田原にも伝承の残る「田原天皇(施基皇子)」の陵墓があったり、お茶の産地であったりと共通点がある。又、「和束の茶摘み歌」では、「摘まにゃ田原の茶にならぬ」ではなく、「摘まにゃ和束の 茶にならぬ」になっている。
そして、宇治市の茶摘み歌では文部省唱歌に見られる「 あれに見えるは茶摘みぢゃないか 茜襷に菅の笠」が見られる。大津市田上の歌の「 お茶をつめつめ つまねばならぬ つまにゃ日本の茶にならぬ 」とあわせてこれらが唱歌に採用されたのではないかという。
昔は各地を渡り歩き農作業などを手伝う人々がいて、茶摘みの時期が早い地区から遅い地区へと渡り歩いていた。そういう人たちが作業時に歌っていた歌がその土地に合わせた歌詞にアレンジされて歌われていたと思われる。そうした人から人に伝承されていた茶摘み歌を基に文部省唱歌が作られたのだということだろう。
さて、茶摘み歌には「茜襷に菅の笠」とあるように、茜(あかね)色の襷(たすき)を懸けて、 菅(すげ)の笠(かさ)を被って作業することを歌っているのだが、よく民謡踊りでも見かける赤い色の襷は、単なるファッションではなく、アカネ(茜)は、止血剤として知られているそうだ(※4参照)。茶摘みは素手の作業なので、指先にケガを負いやすい。そのため、ケガに効く茜の成分を擦り込みながら作業を続けるといううのだが・・・。
このような知恵が広まり、民謡踊りの衣装として定着してしまったのかどうかは知らないが、茜の襷は静岡の『ちゃっきり節』を踊るときにも見られる。
北原白秋:作詞、町田嘉章:作曲『ちゃっきり節』は、現在では静岡県民謡と見なされているが、新民謡のひとつで静岡市の花柳界のお座敷唄であり、1927(昭和2)年に、静岡市近郊に開園した狐ヶ崎遊園地(後の狐ヶ崎ヤングランド 1993年閉園)のコマーシャルソングとして、静岡電気鉄道(現・静岡鉄道)によって制作されたものである。
大正時代から昭和時代初期にかけては、地域おこしや観光宣伝のため、旧来からの民謡を広く紹介し、あるいはPRソングとして民謡風の新曲を作るなどの動きが日本の各地で見られた。ちゃっきり節もその一つとして作成されたものである。
作詞依頼を受けた白秋は、当初、「私は民謡をつくったことがないから」と断っていたらしいが、当時の、静岡電気鉄道の遊園部長より、「園内には料亭兼旅館(翠紅苑[すいこうえん])があり、名産のお茶やミカンの買い付けのため、全国各地から訪れる人々にも広く利用されるよう願っていること、したがって、その利用客や入園者にも愛唱されるサービス用の唄が、どうしても必要なこと、その唄を通じて特産品が認識され、輸出産業として発展すれば国策にもかなうこと」などじっくりと熱意をこめて説明した結果引き受けてもらったという(※5参照)。なんとこの歌30番まである長い歌だ。その全歌詞は※5「静鉄グループHP」のちゃっきりぶし全歌詞を参照されるとよい。
この『ちゃっきり節』。北原白秋作詞によるものにもかかわらず作成当時は、座敷を中心に、花柳徳太郎振り付けによる踊りと合わせて歌われている程度で、それほど広く歌われはしなかったようだ。それは他の民謡とちがって『ちやっきり節』が手拍子では歌いづらく、三味線で聞く調子の唄だったせいかもしれないという。それが全国的に大流行するようになったきっかけは、戦後、芸者歌手市丸がレコードに吹き込んで以来のことという。私たち年代には懐かしいきれいな声だ。以下で聞ける。
ちゃっきり節(市丸) - YouTube
ただ、この『ちやっきり節』、先にも述べたように、その起源は、静岡ではなく、京都の宇治茶の産地周辺である。
『ちゃっきり節』は「茶切節」ないし「茶切ぶし」「などと表記されることもあるが、「ちゃっきり、ちゃっきり、ちゃっきりよ」、という軽快な囃子ことばからの命名であり、この「ちゃっきり」とは静岡の言葉で、茶を刈る鋏(はさみ)の音に因んだものだそうだ。
この歌は絣(かすり)の着物に赤いたすきの茶摘み娘が踊るように振り付けられているから、伝統的な茶摘み風景を歌ったものと思われがちだが、その所作をよくみると、お茶を摘む手つきではなく、両手を前にだして大きな鋏(はさみ)を使う様子を表していることに気がつく。以下参照。
金谷茶まつり総踊り20120415「ちゃっきり節」1 - YouTube
白秋は静岡周辺の方言や伝説を参考にして作詞したようだが、まさにその頃、静岡の茶畑では、従来の手摘みにかわって、効率のよい鋏の使用が増えていた。白秋の故郷の九州ではあまり見ることのなかった茶鋏に興味を抱いた白秋が、早速にその様子を織り込んだものと思われるという(※6:「お茶百科事典」:「ちゃっきりぶし」は時代の子参照)。茶鋏の刃先には切り取った茶葉が収まるように布袋が取り付けられている。茶鋏での茶刈りの光景を以下で見られる。
茶鋏1 - YouTube
それでは以下の絵葉書を見てみよう。
静岡 日本茶 茶摘み娘 - 鵜の目・鷹の目・絵葉書の目
同絵葉書説明文にもあるように、時代はわからないが、雄大な富士山をバックに広々とした茶畑ということで静岡の茶畑の様であるが、合成写真のようにも見える。そして、この絵葉書は手彩色を施したものであるが、娘たちのつけている襷(たすき)には赤く色が付けられている。正に、風景としては『ちゃっきり節』の情景なのだが・・・。
この娘達は出稼ぎの”茶摘み”かもしれないが、下部のタイトル(NATIVE GIRLS PICKING TEA LEAVES)にもあるように、娘たちは茶葉を鋏を使わず手で摘んでいる。この絵葉書が『ちゃっきり節』のできたと同年代であれば鋏で刈っていたはずだが、それ以前のものであれば手で摘んでいてもおかしくない。
当時、日本茶もシルク同様に立派な輸出品だった様であるし、右上に ”JAPAN TEA” とあり、下部のタイトルも英語で書かれており外人向けの絵葉書であると思われる。当時、静岡茶は輸出策を取っていたという話を私は聞いた記憶がある。何となく演出された感のある絵葉書ではある。
『日本三大茶』と云われるのは、静岡茶と宇治茶、狭山茶のことであるが、狭山茶は生産量が少なく、省かれる事もあり、宇治茶が、静岡茶と共に『日本二大茶』とも言われている。
宇治茶は、宇治市を中心とする京都府南部地域で生産される日本茶の高級ブランドをいう。
一般的に「宇治のお茶」とイメージされているが宇治市の茶園面積は80ha未満であり、「自治体内に100haの茶園面積を有すること」が条件となっている「全国茶サミット」には特例でメンバーとなっている。現在の京都府内における「宇治茶」の生産について、以下参考の※7:「茶業統計/京都府ホームページ」の平成25年度京都府茶業統計を見れば、昨・平成25年の京都府内の茶園面積は 1,624,2ha、在来種茶157,7ha、優良品種茶園率90,3%。平均経営面積148,8 aであり、茶園面積を地域別に見れば以下の通りとなっている。
1位、相楽郡和束町在来種茶21,4ha、優良品種551,8ha、計573,2ha
2位、相楽郡南山城村在来種茶28,0 ha, 優良品種258,4 ha計286,4ha
3位、綴喜郡宇治田原町在来種32ha,優良品種197,6ha計229,6ha
4位、木津川市在来種茶25,1ha、優良品種133,3ha計137,5ha
5位、宇治市 在来種17,3ha、優良品種58,4ha計75,7ha
このように現在、京都府内における「宇治茶」の主産地は、相楽郡和束町・相楽郡南山城村、綴喜郡宇治田原町などの周辺地域であり、宇治市の生産量は5位と、意外に少ないことが分かるだろう。
わが国のお茶は、遣唐使が往来していた奈良・平安時代に、留学僧が、唐よりお茶の種子を持ち帰ったのが始まりとされているが、平安初期(815年)の『日本後記』には、「嵯峨天皇に大僧都永忠が近江の梵釈寺において茶を煎じて奉った」と記述されているのが、わが国における日本茶の喫茶に関する最初の記述といわれている(※8 :「お茶街道」・ お茶の書物と記録2 参照)。しかし、このころのお茶は非常に貴重で、僧侶や貴族階級などのごく限られた人々だけが口にすることができたものであった。
このお茶の栽培は鎌倉初期に栄西(えいさい)禅師が宋(南宋)から帰国する際、茶を持ち帰り、その種子を佐賀県脊振山に植えたのが始まりだといわれている。
その後、京都の明恵(みょうえ)上人が栄西より種子を譲り受け、京都栂尾(とがのお)に蒔き、宇治茶の基礎をつくるとともに、全国に広めたとされている。
南北朝時代の成立になるとされる『異制庭訓往来』(虎関師錬著とされる)には以下のように書かれている。
「我が朝の名山は梶尾を以て第一となすなり。仁和寺・醍醐・宇治・葉室・般若寺・神尾寺は是れ補佐たり。此の他、大和室尾・伊賀八鳥・伊勢河居・駿河清見・武蔵河越の茶、皆是れ天下指言するところなり。仁和寺及び大和・伊賀の名所を処々の国に比するは、瑪瑙(メノウ)を以て瓦礫(がれき)に比するが如し・・・。」(※8:「お茶街道」お茶の歴史年表参照)とある。
また、「分類草人木」(利休時代の茶書)に宇治七名園の存在が記されており、宇治七園までの流れと当代の茶風を説き、茶道具の名が出てくることから、 この当時、既に、今日で言う抹茶を用いた喫茶法が行われていたことが判るという。
栄西は『喫茶養生記 』の中で茶の種類や抹茶の製法、身体を壮健にする喫茶の効用などを説いているが、その栄西が宋で身近に体験した抹茶法は、お茶の葉を蒸して乾燥させるという単純なものであり、これが日本国内に普及し、のちに茶の湯(茶道)となったことは、以前このブログ「お茶漬けの日」でも書いた。
栄西禅師が宋から持ち帰った茶の実を明恵につたえ、山内で植え育てたところ、修行の妨げとなる眠りを覚ます効果があるので衆僧にすすめたという。その最古の茶園は清滝川(京都府北区・右京区を流れる淀川水系桂川支流の一級河川)の対岸、深瀬(ふかいぜ)三本木にあった。
中世以来、京都栂尾の茶を本茶、それ以外を非茶と呼ぶそうだ。「日本最古之茶園」碑が立つ現在の茶園は、もと高山寺の中心的僧房・神護寺の別院とされる、神護寺十無尽院(じゅうむじんいん)があった場所と考えられている。現在も、5月中旬に茶摘みが行われるようだ(※9参照)。
1690(元禄3)年、オランダ商館付きの医師であるエンゲルベルト・ケンペルは、約2年間出島に滞在中、将軍徳川綱吉に謁見するため長崎と江戸を往還している。その行程の詳細については『江戸参府旅行記』(※10)に記されているが、元禄4年(1691)2月28日の条にはこの日夜明けより大阪方面から京に向かい宇治に入り、「宇治の村は開放的の小さき市にして、日本にて最佳茶を産ずるによりて名高し。(△□茶の風味世の常ならず美にして、且多量に製出するを以て)毎年将軍の宮廷に献上す。」(※10のコマ番号193参照)とあるように、この記述からも、宇治茶が将軍家に献上される高級茶の産地として広く知られていたことがわかる。おそらくはオランダ人たちに随行した役人らがわざわざこのように紹介したのだろう。宇治=茶どころのイメージは江戸時代中頃にはすでに定着していたのである。
それから100年ほど後、1780(安永9)年に出版された京都に関する地誌『都名所図会』(全6巻11冊。※11参照)は(秋里籬島)による文章と竹原春朝斎による挿画によって宇治の名所を紹介している。
●先ず上掲の画像を、見てください。『都名所図会』の巻之五 「前朱雀再刻」 宇治の里 (宇治里)の図である(※11の49頁で原寸大の図が見られる)。
将軍家に献上されるような良質の茶を育てるために、上掲画像に見られるように宇治の茶園の多くは、茶摘み前に茶園を日覆いを掛けてすっぽりと隠す、覆下(おいした)と呼ばれる栽培が行われ、他の茶産地と違う茶園風景を作り出している。
この独特で手間のかかる栽培方法を継承し、宇治茶は安土桃山時代から天下にその名声をはせてきたのであった。
宇治茶の覆下栽培は、新芽が育つ4月頃に茶園に覆いを施して日光を遮ることで、茶葉の渋み成分であるタンニン生成を抑え旨味成分テアニン生成を促進させる方法で、宇治茶伝統の碾茶(抹茶の原料)や玉露などの高級茶に製茶される。これに対して、露天園は主に煎茶用の茶葉を栽培することとなる。
覆下は、本来丸太杭と竹で棚を作り、その上に葦簀(よしず)を広げて藁(わら)を敷くものであり、「本簀(ほんず)」と呼ばれる。現在は効率化の中で、化学繊維製の黒い寒冷紗の覆いが普及したが、伝統的な本簀も全体の1割ほどで継承されているという。
覆下栽培の初期の様子を知る史料に、安土桃山時代のイエズス会宣教師ジョアン・ロドリゲスが書き残した『日本協会史』があり、この中に、宇治では茶園に「棚をつくり、葦か藁(わら)かの蓆(むしろ)で全部をかこう」とういう記述があり、これが、現在の覆下栽培の史料所見となっているようだ。
ロドリゲスは、覆下の目的は、繊細な新芽を 霜害から防ぐためと記しているようだが、確かに遅霜は茶葉の大敵であり、覆いによる霜害対策は説得力があるが、現在状況を踏まえるとこの覆いによる味の変化を経験的に知ることにより宇治では品質向上を主目的として覆下栽培が改良されつつ継承されてきたと考えられているようだ。宇治の茶摘み見物は、宇治を代表する初夏の風物詩として知られており、今なおこの季節になると、多くの「茶摘みさん」が覆下園に集まり、朝早くから日暮れるまで覆下の中で茶摘みに勤しむ姿がうかがえるという(※12参照)。
尚、余談だが、『都名所図会』の巻之五 「前朱雀再刻」 宇治の里 (宇治里)の図には以下の芭蕉の句が書かれている。
「木がくれて茶摘(ちゃつみ)も聞(きく)や子規(ほとゝぎす )」
句意としては、「いま一声鳴いて渡っていったホトトギスの声を、茶畑の茶ノ木に隠れて見え隠れする茶摘女達も聴いたであろうか。 」と言ったところらしい(※14)。
本来茶摘みと時鳥(ホトトギス.)は季重なりなのだが、夏の季語(初夏五月)の「時鳥」と春の季語(四月上旬)の「茶摘み」を芭蕉は「木がくれて」で「季と季との時候の取り合わせ」としているのだそうだ。
宇治市の西側には、かつて宇治川、木津川、桂川が流れ込んでいた巨椋池があり、現在は干拓田としての広大な農地と自動車交通の要所となっている。
宇治の場合、茶摘みの風景のほかに、宇治川での鮎汲みの挿画(※11の宇治川の網代 59p参照)や、蛍狩りの挿画(※11の宇治川の蛍狩り55p参照)が収載されている。宇治は茶どころであるばかりでなく、当時の人びとを惹きつけるに足る遊興の地として認知されていたことがわかる。
こうした『都名所図会』にみられるような宇治のイメージは、幕末期の1861(文久元)年に出版された地誌『宇治川両岸一覧』(乾,坤 / 暁晴翁 著、松川半山 画)の最所の絵にもあらわれている。特に、宇治川に関して「当国(山城)第一の大河」としたうえで、「まことに当国南方の奇観なり」と紹介している。
●以下の画像は『宇治川両岸一覧』の宇治の茶摘み風景。
ところで、先に紹介した『都名所図会』や『宇治川両岸一覧』の図に見られる宇治茶の茶摘み風景には、「白い襷」あるいは「白手ぬぐい」をしているが、1917(大正6)年5月.26日付の国民新聞には「山城宇治の茶摘は今が丁度盛りである、「君に別れて何時又逢うぞ明けて五月の茶摘時」、と鄙びた名物の茶摘歌は絣の着物に赤襷白手拭を姉様冠りの若い女の群から茶園の●●(字不明)を透して聞えて来る・・・」・・・とあるように、このころには、赤い襷をするようになっていたようだが、やはり、『ちゃっきり節』の影響があったのだろうか?。
また、この新聞には、このようなことが書かれている。
「後陽成天皇(1571年-1617年の頃より宇治の献茶は恒例であった。
目下本邦以外宇治から茶の輸出される販路は支邦各地印度南洋方面より墨西哥まで及んで名声を馳せている、この多量の茶は彼の姉様冠りの若い女の手で一葉々々と摘まれ小さな焙炉(ばいろ)に蒸芽八百目宛をいれ大の男が一時間もかかって漸く出来上るのである、若葉の風薫る宇治郷の昨今は野も山も見渡す限り●●の藁屋根が架けられ、例の茶摘歌が聞え焙炉小屋からは「お茶よ揉め揉め」と焙炉師がどら声を挙げ新茶の香りが鼻を衝く 。
久世郡だけでも茶摘女が約一万人、焙炉師が千四百人その七割が土地の者で三割が河内大和丹波地方から輸入されてくる、それが例年定った雇主を需(もと。漢字の意味は※16参照)めて五月の始めから入込んで来る、賃銭は女の手職として賃金は上の部である、故に茶摘女はそれで陽気に歌いさざめいて宇治一帯の地を賑わしている。
製茶家は久世郡で約七百、茶商人は約九十戸ある、これが全国及び海外へ供給する、かくして名物宇治茶は世界の人々の前に黄金の色を出し、高き香りを発するのである、今や五月の光りは若葉の上に照り渡り、宇治郷一帯の地は一年の書入時として陽気にさざめいている、新緑の候この地に●を曳き茶摘歌を聞くも一興である」・・・と(●は不明字)。なかなかの名文である。
●上掲の画像は、『日本山海名物図会』(平瀬補世著、蔀関月挿画。1799年刊5巻5冊。※17参照)第二巻に掲載されている焙炉の図である(拡大図は※17焙炉参照)。
茶摘みでは、摘んだ芽や葉を、蒸して、焙炉で熱を加えて乾燥する。乾燥する間に揉んで葉を巻く。刈茶は洗ってから大鍋で炒(い)る。洗った時の水気で葉もじくも茹でたように柔らかくなるが、柔らかくならぬじくは取り捨てる。上掲の図の右は、焙炉で乾かす作業で左上は石臼で挽いて抹茶にする作業をしているところである。
同図には、茶名物大概、宇治茶摘、茶製法などの図が説明入りで描かれている。
この頃の一般の人たちが飲んでいたのは煎じ茶(煎茶)であった。これは覆いのない茶園の若葉・古葉を残らず摘み取って、 灰汁 あく で湯がいて冷水で冷やし、よく絞って筵に干し、筵の上であらく揉んでつくった。今から見れば番茶のようなもの。しかし、 永谷宗円 は煎茶の製法に工夫を凝らし,抹茶の製法に則り、若芽だけを摘んで蒸籠で蒸し、焙炉で揉みながら乾かして、香味ともによい青色の煎茶の製造に成功した。
この宗円が発明した「青製煎茶製法」はその後の日本緑茶の主流となる製法となった。宗円は完成した茶を携えて江戸に赴き、茶商の山本嘉兵衛(現:山本山の先祖であり、現社長は9代目)に販売を託したところ、たちまち評判となり、以後「宇治の煎茶」は日本を代表する茶となった。
宗円の煎茶を販売し大きく利益を得た「山本山」では、明治8年(1875年)まで永谷家に毎年小判25両を贈ったという(Wikipedia)。
宗円は自身が発明した製茶法を近隣にも惜しみなく伝えたため、「永谷式煎茶」「宇治製煎茶」は全国に広がることとなった。また、宗円の子孫の一人が東京で「永谷園」を創業したのだという。
日本の文化の一つともいえる「日本茶」。
この日本茶も紅茶もウーロン茶も植物としては、すべて同じツバキ科の常緑樹チャノキ。違うのは茶を作るときの「発酵の違い」だけ。茶という植物、つむと同時に発酵を開始する特殊な酵素が含まれている。
ぼやっとしていると発酵が進み、十分に発酵させると紅茶に、発酵をとめると緑茶(日本茶)に、その中間でウーロン茶やジャスミン茶など半発酵茶となる。
日本茶の多くは、蒸すことで加熱処理をして酸化・発酵を止めたのち、揉んで(揉まないものもある)、乾燥させる製法をとる。この方法は日本独自で発展したものであり、世界的にみても製茶過程で"蒸し"という工程が行われている国は他に類を見ないという。一説によると、宋時代の古代中国において少数派であった製法を、たまたま日本が持ち帰ったものだといわれている。
渋み、苦み、旨みなどの独特な味わいをもつ緑茶には、人間の健康によい影響を与えるとされる成分が多く含まれており、実に多様な効果・効能があるという(※20のお茶(緑茶)の成分と効果・効能参照)。
私はお茶が大好きなので、若い頃、少しお点前を習っていたこともある。焼き物も好きなので、茶碗類も古いものや新しいものを少しはもっているのだが、最近は、自分で茶をたてることはなく、家人に入れてもらった物を飲むだけ。今、食事券などをくれる株主優待のある株を少しづつ買っているが、去年買った株に、静岡県を地盤に、神奈川・山梨・愛知で展開するイオングループの食品チェーンマックスバリュー東海がある。ここは、最低単位の株式数で5000円相当の「静岡県産銘茶セット」がもらえる。今月中には届くはずなので、それを楽しみに待っているところだ。これから、また、これを機会に、ちょっと、品質の良いお茶を飲むようにしようかな〜・・・。
冒頭の画像は、茶摘5円切手(1949年発行)。当時(1948年〜1950年50頃)の通常切手は戦後復興期の日本を支えた様々な産業、農婦・炭鉱夫・印刷女工 ・紡績女工・捕鯨・植林などを図案にした切手が発行された。これは収集家の間では“産業図案切手”と総称されている。他の切手図案などは※21を参照。
参考:
※1:日本記念日協会
http://www.kinenbi.gr.jp/
※2:二十四節気および雑節 平成26年 (2014) - 国立天文台 天文情報センター
http://eco.mtk.nao.ac.jp/koyomi/yoko/2014/rekiyou142.html
※3:宇治田原ふるさと歴史クラブ
http://www.geocities.jp/uji_tawara/
※4:艾葉,茜根及び三七根の止血作用に就て - J-Stage
https://www.jstage.jst.go.jp/article/fpj1925/39/3/39_3_328/_pdf
※5:ちゃっきり節誕生秘話-静鉄グループHP
http://www.shizutetsu.co.jp/column/column_cya_story_01.html
※6:お茶百科事典
http://www.o-cha.net/japan/dictionary/japan/culture/culture10.html
※7:茶業統計/京都府ホームページ
http://www.pref.kyoto.jp/nosan/11700012.html
※8:「お茶街道」
http://www.ochakaido.com/index.htm
※9:日本最古の茶園 - 世界遺産 栂尾山 高山寺 公式ホームページ
http://www.kosanji.com/chaen.html
※10:『ケンプェル江戸参府紀行』 - 近代デジタルライブラリー
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1876448
※11:都名所図会データベース - 日本文化研究センター
http://www.nichibun.ac.jp/meisyozue/kyoto/c-pg1.html
※12:第2章(変更) - 宇治市(Adobe PDF)
http://www.city.uji.kyoto.jp/cmsfiles/contents/0000011/11321/2syou-1.pdf#search='%E9%83%BD%E5%90%8D%E6%89%80%E5%9B%B3%E4%BC%9A+%E5%AE%87%E6%B2%BB%E3%81%AE%E8%8C%B6%E6%91%98%E3%81%BF'
※13:『宇治川両岸一覧』
http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/ru04/ru04_03762/index.html
※14:木隠れて茶摘みも聞くやほととぎす-芭蕉db
http://www2.yamanashi-ken.ac.jp/~itoyo/basho/haikusyu/tyatumi.htm
※15:宇治の茶摘 - 神戸大学 電子図書館システム
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=00717235&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1
※16:「もとめる(求、索、需、要…)」の漢字の違いを使い分ける
http://mmm-o.seesaa.net/article/225466323.html
※17:日本山海名物図会 - 九州大学デジタルアーカイブ
http://record.museum.kyushu-u.ac.jp/meibutu/
※18:文献資料に見る製茶
http://www.geocities.jp/uji_tawara/chabunka/bunken.html
※19:山本嘉兵衛撰 九代目商品 - 山本山
http://www.yamamotoyama.co.jp/products/kudaime.html
※20:お茶百科(伊藤園)
http://ocha.tv/varieties/
※21:郵便学者・内藤陽介のブログ 茶摘み
http://yosukenaito.blog40.fc2.com/blog-entry-339.html
宇治新茶・八十八夜茶摘みの集いが開催されます/京都府ホームページ
http://www.pref.kyoto.jp/yamashiro/ocha/news/ujicha-news2.html
茶 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8C%B6