号外 (ごうがい。英:newspaper extra)とは、突発的な事件、事故、災害やスポーツの試合結果など、世間の関心度が高いと判断されるニュースを逸早く伝えるために、街頭で販売または配布されている新聞であり、その性質上、発行は不定期であり、日本では通常無料で配布される。
通常の新聞とは異なり、特定のニュースのみを報道する目的で発行されるため、2ページないし多くて4ページとなるのが大半で、片面のみの印刷である場合もある。そして、新聞は通常、発刊の度に通し番号が付番されるが、号外の場合は緊急特別の発刊であるため、発刊番号の対象外であるとされ、このため「号外」と呼ばれ、本紙では発刊番号が記載されている欄などには「号外」と記載されている。
日本には現在の新聞と似たものとして瓦版(読売とも呼ばれていた)が江戸時代以前から存在し、木版製のものが多かった。現存する最古の瓦版は1614年〜1615年(慶長19年~20年)の大坂の役(大坂の陣)を記事にしたもののようである(※1:「かわら版のはじまり」の図1、6参照)。
現在の紙媒体の新聞は、幕末から明治時代に欧米を真似て作り、国民に広まった。新聞という言葉は明治時代に作られた造語である(ここ参照)。
江戸時代後期の幕末には、手書きの回覧文章を「新聞」と称するケースがあった。1861年6月22日(文久元年5月15日)には英字新聞として『ナガサキ・シッピング・リスト・アンド・アドバタイザー』、同じ年の11月23日(10月21日)には横浜で英語の週刊新聞『ジャパン・ヘラルド』が発行された。この新聞が本邦最初のものということになる。
そして、1862年1月1日(文久元年12月2日)には初の日本語の新聞として『官板バタビヤ新聞』が刊行される。これはバタビヤ(インドネシアの首都ジャカルタのオランダ植民地時代の名称)にあったオランダ総督府の機関誌『ヤパッシェ・クーランド』を、幕府の蕃書調所が和訳し、海外事情を国別に紹介したもので、3月には『官板海外新聞』と改名するが、一般には「バタビヤ新聞」として知られている。これが日本人発行の最初の新聞とされている。また、播州(播磨)の水夫であったジョセフ・ヒコ(浜田彦蔵)が、1864年(文久3年)に出した『海外新聞』(のちに『新聞誌』に改名)が、日本での新聞第2号とされている。
明治時代に入ると、文明開化の流れに乗って新聞が多数創刊されるが、その中で1868年(慶応4年)2月、幕府の開成所(蕃書調所を改称)頭取・柳河春三(ここも参照)が木版の小冊子形態の新聞『中外新聞』を創刊した。
最初は、外字紙、外国紙の日本記事の抄訳が多かったが、やがて幕府や新政府・官軍の動向、布令、人事などの国内情報を載せるようになった。新聞の名称は、外国新聞を翻訳して外国事情を紹介しつつ国内事情をも報道するという意味で「中外」と名づけたようだ。形こそ冊子型だが戊辰戦争が緊迫するなか国内のニュースに重点を置いた内容、売れ行き、影響力から見て日本人発行の初の本格的新聞と言えるものであった(※2参照)。
なお、この年の閏4月3日には、福地桜痴(本名:福地 源一郎等による『江湖新聞』も創刊された。そして、1870年(明治3年)には日本最初の日刊紙である『横浜毎日新聞』が創刊されるようになる。この間の新聞事情は、参考※3:「新聞と神奈川」を読まれるとよい。
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上掲の画像は、1868年(文久2年)発行の『官板バタビヤ新聞』と1868年(慶応4年)2月に創刊した中外新聞(第1号)である。画像は、朝日クロニクル週刊20世紀“メディアの100年”より借用。
明治という年代は、1868年1月25日(明治元年1月1日=慶応4年1月1日)から始まるが、実際に改元の詔書が出されたのは明治天皇が即位した慶応4年9月8日(グレゴリオ暦1868年10月23日)で、慶応4年1月1日に遡って明治元年とすると定めたものである。
慶応4年1月1日(1868年1月25日)は、江戸幕府最後の第15代将軍徳川慶喜が討薩表を朝廷に提出した日であり、これが契機となり、王政復古を経て明治政府を樹立した薩摩藩・長州藩らを中核とした新政府軍と、旧幕府勢力(佐幕派)および奥羽越列藩同盟が戦った内戦・戊辰戦争が始まる。
この緒戦となった戦い・鳥羽・伏見の戦いが1868年1月27日(慶応4年1月3日)に、翌1月28日(慶応4年1月4日)には阿波沖海戦が始まるが、慶応4年1月4日には旧幕府軍は淀方向への後退が続き、同日、仁和寺宮嘉彰親王を征討大将軍と為し錦旗・節刀を与え出馬する朝命が下った。
これにより、薩長軍などは正式に官軍とされ逆に、旧幕府の中の反乱勢力は賊軍と認知されるに及び、佐幕派諸藩は大いに動揺した。
こういった背景により慶応4年1月5日、藩主である老中・稲葉正邦(当時江戸詰)の留守を守っていた山城淀藩は賊軍となった旧幕府軍の入城を受け入れず、旧幕府軍は淀城下町に放火し、石清水八幡宮の鎮座する男山・橋本方面へ後退した。また、この戦闘で新選組隊士の3分の1が戦死した。
1月6日、旧幕府軍は八幡・山崎で新政府軍を迎え撃ったが、山崎の砲台に駐屯していた津藩が朝廷に従い旧幕府軍への砲撃を始めた。旧幕府軍は山崎以東の京坂地域から敗北撤退し大坂に戻った。
この時点では未だに総兵力で旧幕府軍が上回っていたが、開戦に積極的でなかったといわれる慶喜は1月6日夜、自軍を捨てて大坂城から少数の側近を連れ大坂湾に停泊中の幕府軍艦開陽丸で海路江戸へ退却した。
慶喜の退却により旧幕府軍は戦争目的を喪失し、各藩は戦いを停止して兵を帰した。また戦力の一部は江戸方面へと撤退した。
江戸へ到着した徳川慶喜は、慶応4年1月15日、幕府主戦派の中心人物・小栗忠順(小栗上野介)を罷免。さらに2月12日、慶喜は江戸城を出て上野の寛永寺に謹慎し、明治天皇に反抗する意志がないことを示した。
一方、明治天皇から朝敵の宣告を受けた松平容保は会津へ戻った。容保は新政府に哀訴嘆願書を提出し天皇への恭順の姿勢は示したが、新政府の権威は認めず、武装は解かず、求められていた出頭も謝罪もしなかった。
その一方で、先の江戸での薩摩藩の騒乱行為(江戸薩摩藩邸の焼討事件)を取り締まったため新政府からの敵意を感じていた庄内藩主・酒井忠篤と会庄同盟を結成し、薩長同盟に対抗する準備を進めた。旧幕府に属した人々は、あるいは国許で謹慎し、またあるいは徳川慶喜に従い、またあるいは反新政府の立場から会津藩等を頼り東北地方へ逃れた。
新政府は有栖川宮熾仁親王を大総督宮とした東征軍をつくり、東海道軍・東山道軍・北陸道軍の3軍に別れ江戸へ向けて進軍。旧幕府軍は近藤勇らが率いる甲陽鎮撫隊(旧新撰組)をつくり、甲府城を防衛拠点としようとしたが、新政府軍の板垣 退助が率いる迅衝隊が甲陽鎮撫隊より先に甲府城に到着し城を接収していた。
甲府城へ向かっていた甲陽鎮撫隊は慶応4年3月6日(同3月29日)新政府軍と戦い完敗。近藤勇は偽名を使って潜伏したが、のち新政府に捕縛され処刑されている。一方、東山道を進んだ東山道軍の本隊は、3月8日に武州熊谷宿に到着、3月9日に近くの梁田宿(現・足利市)で宿泊していた旧幕府歩兵隊の脱走部隊(後の衝鋒隊)に奇襲をかけ、これを撃破した。
駿府に進軍した新政府は3月6日の軍議で江戸城総攻撃を3月15日としていたが、その後の幕府の全権を委任さていた陸軍総裁の勝海舟と東征大総督府参謀の西郷隆盛の江戸開城の交渉により、15日の総攻撃は中止となった。
結果、慶応4年4月4日 (同4月26日)に勅使(先鋒総督・橋本実梁、同副総督・柳原前光)が江戸城に入り、「慶喜は水戸にて謹慎すること」「江戸城は尾張家に預けること」等とした条件を勅諚として伝え、4月11日(同5月3日)に江戸城は無血開城され、城は尾張藩、武器は肥後藩の監督下に置かれることになった。同日、慶喜が水戸へ向けて出発。4月21日(同5月13日)には東征大都督である有栖川宮熾仁親王が江戸城に入城して江戸城は新政府の支配下に入った。
日本の新聞の先駆者の1人である柳川春三が『中外新聞』を創刊したのは、慶喜が江戸城を出て上野寛永寺に謹慎し、明治天皇に反抗する意志がないことを示した1868年(慶応4年)2月のことであるが、その後も江戸無血城に従わぬ旧幕臣の一部が千葉方面に逃亡、船橋大神宮に陣をはり、閏4月3日(5月24日)に市川・鎌ヶ谷・船橋周辺で両軍が衝突した(市川・船橋戦争)。
又、宇都宮藩兵をはじめ野州(下野国の異称)世直しを鎮圧するために板橋から宇都宮に派兵された東山道総督府軍を中心とする新政府軍と、下総市川の国府台から次期戦闘地日光廟へ向けて行軍中の伝習隊を中心とする旧幕府軍の間で起きた「宇都宮城の戦い」などが起こっている( ※4:「上杉家の戊辰戦争」の野州戦争第一章〜第五章参照)。
又、江戸城の無血開城を決定して官軍による江戸総攻撃は回避されたが、抗戦派の幕臣や一橋家家臣の渋沢成一郎( 渋沢栄一の従兄)、天野八郎らが彰義隊を結成していた。
彰義隊は当初本営を本願寺に置いていたが、後に上野に移した。旧幕府の恭順派は彰義隊を公認して江戸市内の警護を命ずるなどして懐柔をはかっていたが、徳川慶喜が水戸へ向かい渋沢らが隊から離れると彰義隊では天野らの強硬派が台頭し、旧新選組の残党(原田左之助が参加していたといわれる)などを加えて徳川家菩提寺である上野の寛永寺に集結して、輪王寺公現入道親王(後の北白川宮能久親王)を擁立した。
そして、慶応4年5月15日(1868年7月4日)、長州藩の大村益次郎が指揮した新政府軍が攻撃し1日で彰義隊を撃破した。上野戦争と呼ばれるものである。
戦争後、逃走した彰義隊残党の一部は、北陸や常磐、会津方面へと逃れて新政府軍に抗戦し、転戦を重ねて箱館戦争に参加した者もいる。
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上掲の画像は、「本能寺合戦之図」 さくら坊芳盛(歌川 芳盛)画 1969年(明治2年)錦絵3枚続き。
上野戦争を明智光秀の織田信長を襲撃した本能寺合戦に名を借りて描いた錦絵である。右手の黒門口はすでに破られ、新政府軍は既に奥まで侵攻している。
上野戦争で新政府軍が彰義隊を攻撃し撃破したその翌日の慶應4年5月16日(旧暦。グレゴリオ暦1868年7月5日)に『中外新聞』は、本紙とは別の『別段 中外新聞』と外題した上野東叡山(寛永寺)に立て篭もった彰義隊を撃破する様子を、8 ページにわたる記事で報道している。この角書きの別段が号外を意味しており、これが日本最初の号外であるといわれている(冒頭掲載の画像が日本初の号外である)。
形態は当時の日本の他の新聞と同じく和紙に木活字刷りの冊子型で本文は 4 丁(ちょう=綴じた紙の一葉)、そこに「一昨日 大総督府より左の通り御内達ありしよし風聞の侭写し留む・・・(以下略)」として本文は、以下のような書き出しで書かれている.。
「昨十五日朝未明より太鼓の音処々に聞えて、官軍繰出しに相成り、御門々々皆〆 切となり出入を止めらる。間も無く砲声少々相きこえ、湯島通り出火あり、此頃中 の大雨にて十分しめり之有る折柄なれば、手過ちの出火にはあるべからず、何様只 事ならずと思えども往来留なれば火元見の者を出す事も叶わず、只あつまりて此頃 中の風聞を語り合い出火方角を眺め居たり。 ・・・・以下略」(旧漢字、旧かな使いは変えてある。)
尚、5月16日付『別段 中外新聞』の原文は以下参考の※5:「早稲田大学-古典籍総合データベース」の別段中外新聞. 戊辰五月十六日 / [柳川春三 編]にて、また、その現代文での読み下し文は、参考※6:「会津の歴史」の戊辰戦争百話・第五話之二:上野の戦争で読むことが出来る。
また、先にも書いた福地 桜痴(福地 源一郎)が発行した『江湖新聞』第 20 号(5月18日付)では、「去ル十五日東叡山の始末ハ中外新聞に記し別号として之を刊行せり故に我新聞には之を載せず」と書かれているという(※7参照)。
福地は、江戸開城後の慶応4年閏4月3日(1868年5月)に『江湖新聞』を創刊したが、その翌月彰義隊が上野で敗れた後、同誌に「強弱論」を掲載し、「ええじゃないか、とか明治維新というが、ただ政権が徳川から薩長に 変わっただけではないか。ただ、徳川幕府が倒れて薩長を中心とした幕府が生 まれただけだ」と厳しく述べたという。これが新政府の怒りを買い、新聞は発禁処分、福地は逮捕されたが、木戸孝允が取り成したため、無罪放免とされたという(Wikipedia)。明治時代初の言論弾圧事件である。
法学者(専門は法制史)であり、明治文化研究者でもある尾佐竹猛が、1920年(大正9年)に、柳川春三を論じた論文「(新聞雑誌之創始者)柳川春三」(※8参照)を発表し、その中で、柳川春三の功績を讃えている。
この中で、「中外新聞は大体4日めぐらい間隔をおいて発行し、創刊の年1868年(慶応4年)6月8日出板の第45号限りで消滅し、明治2年には『官准中外新聞』と改題し、号を新にして発行しているが、これは『江湖新聞』の福地 源一郎の筆過事件以来新聞は厳禁せられ、其の後禁は解かれたが厳重なる 新聞紙条例の発布があったからで、此時は幾多の新聞社が倒産しているが、中外新聞独りが異彩を放って居た」・・・ことなどが書かれている。
新聞紙条例は、自由民権運動の高揚するなか、新聞・雑誌による反政府的言論活動を封ずるため制定したものだが、この条例に準拠して発行したのが『官准 中外新聞』である。
各紙は、新聞を再刊する為に、政府の許可を得て、このように新たに「官許」「官准」を誌名に冠して発行したのであった。つまり、官の規制下で再生メディアとして登場した種々の官許新聞等は、ジャーナリズムとしての活力=反権力性を失ったと言える。
以降佐幕的傾向の記事は全く跡を絶ち、新政府の施策を謳歌し、政府系新聞への対抗性を喪失したメディアとして、新聞の通史では序章されており、『中外新聞』についても条例の監視下で慶応4年当時の「柳川の筆勢がすっかりキバを抜かれた」感じになったという(※9参照)。
ただ当初『中外新聞』を筆頭に、江戸の新聞がいずれも佐幕的にならざるを得なかったのはその地理的条件もさることながら発行責任者が会訳社、開成所など幕府関係のブレーン的要職にあったことや海外事情に詳しいエリートであったこと、などのほかにこの内戦は薩長両藩による幕府打倒の戦いであると見て、開国策をとる幕府を心情的に支持したものだったとも云われている(※10参照)。
江戸時代末期、日本に定期性を持った新聞が誕生して以降、何か大きなニュースや事件が起った際に、それをいち早く報道するための手段として、その定期発行の枠を外して臨時に発行される「号外」というものが誕生した。号外は朝刊や夕刊発行までの時間差を埋めるための速報媒体として、また新たな読者を獲得するための手段として、様々な変化を遂げつつ発展してきた。日本の新聞史の中で、新聞が商業的に成功するために号外は必要不可欠な存在であったといっても過言ではないともいう。
そして、日本の新聞史上、最も号外で報じられたニュースは「戦争」であった。特にラジオが登場する以前は、遠く離れた戦場の様子を知ることができるのは新聞だけであり、とりわけその中でも号外は、刻一刻と変わる戦地の状況をいち早く知ることができることで人々に歓迎されてきた。
しかし、大衆に宣伝し、煽動し、組織するためには新聞を発行しなければ、といった新聞の機能については国民は、全然と言ってよいくらい無知なものが多かった・・・とも言えるだろう。
号外による競争が最も激しかったのが1904年〜1905年(明治37年〜明治38年)の日露戦争だろう。このときの『大阪朝日新聞』と『大阪毎日新聞』の号外合戦はすさまじいもので戦争中の両社の号外発行回数は『大阪朝日新聞』が389回、『大阪毎日新聞』が498回という記録が残っているという(※7参照)。
大衆に宣伝し、煽動し、組織するための報道は、そのマス媒体が、新聞からラジオ、テレビへと変わってきた現代でも意識的に行われているように思われる。
例えば「安倍政権が集団的自衛権の行使容認に向けた姿勢を強めるなか、朝日新聞社は憲法に関する全国郵送世論調査を行い、有権者の意識を探ったところによると、集団的自衛権について「行使できない立場を維持する」が昨年の調査の56%から63%に増え、「行使できるようにする」の29%を大きく上回った」・・・と伝えられている(※11参照)が、一方、「政府が目指す集団的自衛権の行使に関して、「必要最小限の範囲で使えるようにすべきだ」とした“限定容認論”を支持する人は63%に上ることが、読売新聞社の全国世論調査で分かった。「全面的に使えるようにすべきだ」と答えた8%と合わせて計71%が行使を容認する考えを示した」・・・とも報じられている(※12参照)。
このように、同じような国民の世論の調査でさえ、マスコミの機関によって、全く違った意見が取り上げられ報道されているのである。この様に、当初より、政府側を後押ししようとする機関と、それに批判的な機関では、同じような世論調査でも、その機関の恣意的な質問書によって行えば、その機関の期待する意見が導き出され、それを国民の声として報道されることになるのである。つまり、マスコミがよく使う「世間の意見」など質問書の作成の仕方や、アンケートのやり方でどうにでもなるということである。この様なことは、新聞、雑誌、ラジオ、テレビなど、毎日接している報道の中で、それとなく如何にも真面目顔で報道されていることを、心しておかなければいけないだろうと私は思うのだが・・・。
(冒頭の画像は日本最初の号外と云われる慶應4年5月16日付『別段 中外新聞』)
参考:
※1:かわら版のはじまり - 東京大学総合研究博物館
http://www.um.u-tokyo.ac.jp/publish_db/1999news/02/0201.html
※2:柳河春三 - 日本新聞博物館 NEWSPARK(Adobe PDF)
http://newspark.jp/newspark/data/pdf_shinbunjin/b_30.pdf#search='%E6%9F%B3%E6%B2%B3%E6%98%A5%E4%B8%89'
※3:新聞と神奈川- 有隣堂
http://www.yurindo.co.jp/static/yurin/back/395_1.html
※4:上杉家の戊辰戦争
http://www7a.biglobe.ne.jp/~soutokufu/index.html
※5:早稲田大学-古典籍総合データベース-中外新聞
http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/search.php?cndbn=%92%86%8AO%90V%95%B7
※6:会津の歴史
http://aizu.sub.jp/index.html
※7:戦争と号外(1) - 立命館大学(Adobe PDF)
http://www.ritsumei.ac.jp/acd/gr/gsce/ce/2012/km02.pdf#search='%E5%88%A5%E6%AE%B5%E4%B8%AD%E5%A4%96%E6%96%B0%E8%81%9E.+%E6%88%8A%E8%BE%B0%E4%BA%94%E6%9C%88%E5%8D%81%E5%85%AD%E6%97%A5'
※8:近代デジタルライブラリー - 新聞雑誌之創始者柳河春三
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/958097/2
※9:官許・官准」新聞の成立と機能 : 明治2年(1869)刊『中外新聞』を軸に
http://hermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/rs/bitstream/10086/18821/1/shomotsu0000900230.pdf
※10:近代新聞への胎動-中外新聞から内外新聞まで(Adobe PDF)
http://www.kwansei.ac.jp/s_sociology/kiyou/20/20-ch04.pdf#search='%E8%BF%91%E4%BB%A3%E6%96%B0%E8%81%9E%E3%81%B8%E3%81%AE%E8%83%8E%E5%8B%95%E4%B8%AD%E5%A4%96%E6%96%B0%E8%81%9E%E3%81%8B%E3%82%89%E5%86%85%E5%A4%96%E6%96%B0%E8%81%9E%E3%81%BE%E3%81%A7'
※11:集団的自衛権、行使容認反対63%に増 朝日新聞調査:朝日新聞デジタル
http://www.asahi.com/articles/ASG3L72L6G3LUZPS007.html
※12:集団的自衛権、行使容認71%…読売世論調査 : 政治 : 読売新聞
http://www.yomiuri.co.jp/politics/20140512-OYT1T50017.html
新聞・雑誌の部屋
http://www.nagumosyoten.jp/image1top/bunya/(14)sinbun.2014.2.12.pdf
江湖新聞【PDF】
://newspark.jp/newspark/data/pdf_yokoso/a_008.pdf
近代デジタルライブラリー - 彰義隊戦史(著者: 山崎有信 隆文館出版)
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/773365/127
通常の新聞とは異なり、特定のニュースのみを報道する目的で発行されるため、2ページないし多くて4ページとなるのが大半で、片面のみの印刷である場合もある。そして、新聞は通常、発刊の度に通し番号が付番されるが、号外の場合は緊急特別の発刊であるため、発刊番号の対象外であるとされ、このため「号外」と呼ばれ、本紙では発刊番号が記載されている欄などには「号外」と記載されている。
日本には現在の新聞と似たものとして瓦版(読売とも呼ばれていた)が江戸時代以前から存在し、木版製のものが多かった。現存する最古の瓦版は1614年〜1615年(慶長19年~20年)の大坂の役(大坂の陣)を記事にしたもののようである(※1:「かわら版のはじまり」の図1、6参照)。
現在の紙媒体の新聞は、幕末から明治時代に欧米を真似て作り、国民に広まった。新聞という言葉は明治時代に作られた造語である(ここ参照)。
江戸時代後期の幕末には、手書きの回覧文章を「新聞」と称するケースがあった。1861年6月22日(文久元年5月15日)には英字新聞として『ナガサキ・シッピング・リスト・アンド・アドバタイザー』、同じ年の11月23日(10月21日)には横浜で英語の週刊新聞『ジャパン・ヘラルド』が発行された。この新聞が本邦最初のものということになる。
そして、1862年1月1日(文久元年12月2日)には初の日本語の新聞として『官板バタビヤ新聞』が刊行される。これはバタビヤ(インドネシアの首都ジャカルタのオランダ植民地時代の名称)にあったオランダ総督府の機関誌『ヤパッシェ・クーランド』を、幕府の蕃書調所が和訳し、海外事情を国別に紹介したもので、3月には『官板海外新聞』と改名するが、一般には「バタビヤ新聞」として知られている。これが日本人発行の最初の新聞とされている。また、播州(播磨)の水夫であったジョセフ・ヒコ(浜田彦蔵)が、1864年(文久3年)に出した『海外新聞』(のちに『新聞誌』に改名)が、日本での新聞第2号とされている。
明治時代に入ると、文明開化の流れに乗って新聞が多数創刊されるが、その中で1868年(慶応4年)2月、幕府の開成所(蕃書調所を改称)頭取・柳河春三(ここも参照)が木版の小冊子形態の新聞『中外新聞』を創刊した。
最初は、外字紙、外国紙の日本記事の抄訳が多かったが、やがて幕府や新政府・官軍の動向、布令、人事などの国内情報を載せるようになった。新聞の名称は、外国新聞を翻訳して外国事情を紹介しつつ国内事情をも報道するという意味で「中外」と名づけたようだ。形こそ冊子型だが戊辰戦争が緊迫するなか国内のニュースに重点を置いた内容、売れ行き、影響力から見て日本人発行の初の本格的新聞と言えるものであった(※2参照)。
なお、この年の閏4月3日には、福地桜痴(本名:福地 源一郎等による『江湖新聞』も創刊された。そして、1870年(明治3年)には日本最初の日刊紙である『横浜毎日新聞』が創刊されるようになる。この間の新聞事情は、参考※3:「新聞と神奈川」を読まれるとよい。
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上掲の画像は、1868年(文久2年)発行の『官板バタビヤ新聞』と1868年(慶応4年)2月に創刊した中外新聞(第1号)である。画像は、朝日クロニクル週刊20世紀“メディアの100年”より借用。
明治という年代は、1868年1月25日(明治元年1月1日=慶応4年1月1日)から始まるが、実際に改元の詔書が出されたのは明治天皇が即位した慶応4年9月8日(グレゴリオ暦1868年10月23日)で、慶応4年1月1日に遡って明治元年とすると定めたものである。
慶応4年1月1日(1868年1月25日)は、江戸幕府最後の第15代将軍徳川慶喜が討薩表を朝廷に提出した日であり、これが契機となり、王政復古を経て明治政府を樹立した薩摩藩・長州藩らを中核とした新政府軍と、旧幕府勢力(佐幕派)および奥羽越列藩同盟が戦った内戦・戊辰戦争が始まる。
この緒戦となった戦い・鳥羽・伏見の戦いが1868年1月27日(慶応4年1月3日)に、翌1月28日(慶応4年1月4日)には阿波沖海戦が始まるが、慶応4年1月4日には旧幕府軍は淀方向への後退が続き、同日、仁和寺宮嘉彰親王を征討大将軍と為し錦旗・節刀を与え出馬する朝命が下った。
これにより、薩長軍などは正式に官軍とされ逆に、旧幕府の中の反乱勢力は賊軍と認知されるに及び、佐幕派諸藩は大いに動揺した。
こういった背景により慶応4年1月5日、藩主である老中・稲葉正邦(当時江戸詰)の留守を守っていた山城淀藩は賊軍となった旧幕府軍の入城を受け入れず、旧幕府軍は淀城下町に放火し、石清水八幡宮の鎮座する男山・橋本方面へ後退した。また、この戦闘で新選組隊士の3分の1が戦死した。
1月6日、旧幕府軍は八幡・山崎で新政府軍を迎え撃ったが、山崎の砲台に駐屯していた津藩が朝廷に従い旧幕府軍への砲撃を始めた。旧幕府軍は山崎以東の京坂地域から敗北撤退し大坂に戻った。
この時点では未だに総兵力で旧幕府軍が上回っていたが、開戦に積極的でなかったといわれる慶喜は1月6日夜、自軍を捨てて大坂城から少数の側近を連れ大坂湾に停泊中の幕府軍艦開陽丸で海路江戸へ退却した。
慶喜の退却により旧幕府軍は戦争目的を喪失し、各藩は戦いを停止して兵を帰した。また戦力の一部は江戸方面へと撤退した。
江戸へ到着した徳川慶喜は、慶応4年1月15日、幕府主戦派の中心人物・小栗忠順(小栗上野介)を罷免。さらに2月12日、慶喜は江戸城を出て上野の寛永寺に謹慎し、明治天皇に反抗する意志がないことを示した。
一方、明治天皇から朝敵の宣告を受けた松平容保は会津へ戻った。容保は新政府に哀訴嘆願書を提出し天皇への恭順の姿勢は示したが、新政府の権威は認めず、武装は解かず、求められていた出頭も謝罪もしなかった。
その一方で、先の江戸での薩摩藩の騒乱行為(江戸薩摩藩邸の焼討事件)を取り締まったため新政府からの敵意を感じていた庄内藩主・酒井忠篤と会庄同盟を結成し、薩長同盟に対抗する準備を進めた。旧幕府に属した人々は、あるいは国許で謹慎し、またあるいは徳川慶喜に従い、またあるいは反新政府の立場から会津藩等を頼り東北地方へ逃れた。
新政府は有栖川宮熾仁親王を大総督宮とした東征軍をつくり、東海道軍・東山道軍・北陸道軍の3軍に別れ江戸へ向けて進軍。旧幕府軍は近藤勇らが率いる甲陽鎮撫隊(旧新撰組)をつくり、甲府城を防衛拠点としようとしたが、新政府軍の板垣 退助が率いる迅衝隊が甲陽鎮撫隊より先に甲府城に到着し城を接収していた。
甲府城へ向かっていた甲陽鎮撫隊は慶応4年3月6日(同3月29日)新政府軍と戦い完敗。近藤勇は偽名を使って潜伏したが、のち新政府に捕縛され処刑されている。一方、東山道を進んだ東山道軍の本隊は、3月8日に武州熊谷宿に到着、3月9日に近くの梁田宿(現・足利市)で宿泊していた旧幕府歩兵隊の脱走部隊(後の衝鋒隊)に奇襲をかけ、これを撃破した。
駿府に進軍した新政府は3月6日の軍議で江戸城総攻撃を3月15日としていたが、その後の幕府の全権を委任さていた陸軍総裁の勝海舟と東征大総督府参謀の西郷隆盛の江戸開城の交渉により、15日の総攻撃は中止となった。
結果、慶応4年4月4日 (同4月26日)に勅使(先鋒総督・橋本実梁、同副総督・柳原前光)が江戸城に入り、「慶喜は水戸にて謹慎すること」「江戸城は尾張家に預けること」等とした条件を勅諚として伝え、4月11日(同5月3日)に江戸城は無血開城され、城は尾張藩、武器は肥後藩の監督下に置かれることになった。同日、慶喜が水戸へ向けて出発。4月21日(同5月13日)には東征大都督である有栖川宮熾仁親王が江戸城に入城して江戸城は新政府の支配下に入った。
日本の新聞の先駆者の1人である柳川春三が『中外新聞』を創刊したのは、慶喜が江戸城を出て上野寛永寺に謹慎し、明治天皇に反抗する意志がないことを示した1868年(慶応4年)2月のことであるが、その後も江戸無血城に従わぬ旧幕臣の一部が千葉方面に逃亡、船橋大神宮に陣をはり、閏4月3日(5月24日)に市川・鎌ヶ谷・船橋周辺で両軍が衝突した(市川・船橋戦争)。
又、宇都宮藩兵をはじめ野州(下野国の異称)世直しを鎮圧するために板橋から宇都宮に派兵された東山道総督府軍を中心とする新政府軍と、下総市川の国府台から次期戦闘地日光廟へ向けて行軍中の伝習隊を中心とする旧幕府軍の間で起きた「宇都宮城の戦い」などが起こっている( ※4:「上杉家の戊辰戦争」の野州戦争第一章〜第五章参照)。
又、江戸城の無血開城を決定して官軍による江戸総攻撃は回避されたが、抗戦派の幕臣や一橋家家臣の渋沢成一郎( 渋沢栄一の従兄)、天野八郎らが彰義隊を結成していた。
彰義隊は当初本営を本願寺に置いていたが、後に上野に移した。旧幕府の恭順派は彰義隊を公認して江戸市内の警護を命ずるなどして懐柔をはかっていたが、徳川慶喜が水戸へ向かい渋沢らが隊から離れると彰義隊では天野らの強硬派が台頭し、旧新選組の残党(原田左之助が参加していたといわれる)などを加えて徳川家菩提寺である上野の寛永寺に集結して、輪王寺公現入道親王(後の北白川宮能久親王)を擁立した。
そして、慶応4年5月15日(1868年7月4日)、長州藩の大村益次郎が指揮した新政府軍が攻撃し1日で彰義隊を撃破した。上野戦争と呼ばれるものである。
戦争後、逃走した彰義隊残党の一部は、北陸や常磐、会津方面へと逃れて新政府軍に抗戦し、転戦を重ねて箱館戦争に参加した者もいる。
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上掲の画像は、「本能寺合戦之図」 さくら坊芳盛(歌川 芳盛)画 1969年(明治2年)錦絵3枚続き。
上野戦争を明智光秀の織田信長を襲撃した本能寺合戦に名を借りて描いた錦絵である。右手の黒門口はすでに破られ、新政府軍は既に奥まで侵攻している。
上野戦争で新政府軍が彰義隊を攻撃し撃破したその翌日の慶應4年5月16日(旧暦。グレゴリオ暦1868年7月5日)に『中外新聞』は、本紙とは別の『別段 中外新聞』と外題した上野東叡山(寛永寺)に立て篭もった彰義隊を撃破する様子を、8 ページにわたる記事で報道している。この角書きの別段が号外を意味しており、これが日本最初の号外であるといわれている(冒頭掲載の画像が日本初の号外である)。
形態は当時の日本の他の新聞と同じく和紙に木活字刷りの冊子型で本文は 4 丁(ちょう=綴じた紙の一葉)、そこに「一昨日 大総督府より左の通り御内達ありしよし風聞の侭写し留む・・・(以下略)」として本文は、以下のような書き出しで書かれている.。
「昨十五日朝未明より太鼓の音処々に聞えて、官軍繰出しに相成り、御門々々皆〆 切となり出入を止めらる。間も無く砲声少々相きこえ、湯島通り出火あり、此頃中 の大雨にて十分しめり之有る折柄なれば、手過ちの出火にはあるべからず、何様只 事ならずと思えども往来留なれば火元見の者を出す事も叶わず、只あつまりて此頃 中の風聞を語り合い出火方角を眺め居たり。 ・・・・以下略」(旧漢字、旧かな使いは変えてある。)
尚、5月16日付『別段 中外新聞』の原文は以下参考の※5:「早稲田大学-古典籍総合データベース」の別段中外新聞. 戊辰五月十六日 / [柳川春三 編]にて、また、その現代文での読み下し文は、参考※6:「会津の歴史」の戊辰戦争百話・第五話之二:上野の戦争で読むことが出来る。
また、先にも書いた福地 桜痴(福地 源一郎)が発行した『江湖新聞』第 20 号(5月18日付)では、「去ル十五日東叡山の始末ハ中外新聞に記し別号として之を刊行せり故に我新聞には之を載せず」と書かれているという(※7参照)。
福地は、江戸開城後の慶応4年閏4月3日(1868年5月)に『江湖新聞』を創刊したが、その翌月彰義隊が上野で敗れた後、同誌に「強弱論」を掲載し、「ええじゃないか、とか明治維新というが、ただ政権が徳川から薩長に 変わっただけではないか。ただ、徳川幕府が倒れて薩長を中心とした幕府が生 まれただけだ」と厳しく述べたという。これが新政府の怒りを買い、新聞は発禁処分、福地は逮捕されたが、木戸孝允が取り成したため、無罪放免とされたという(Wikipedia)。明治時代初の言論弾圧事件である。
法学者(専門は法制史)であり、明治文化研究者でもある尾佐竹猛が、1920年(大正9年)に、柳川春三を論じた論文「(新聞雑誌之創始者)柳川春三」(※8参照)を発表し、その中で、柳川春三の功績を讃えている。
この中で、「中外新聞は大体4日めぐらい間隔をおいて発行し、創刊の年1868年(慶応4年)6月8日出板の第45号限りで消滅し、明治2年には『官准中外新聞』と改題し、号を新にして発行しているが、これは『江湖新聞』の福地 源一郎の筆過事件以来新聞は厳禁せられ、其の後禁は解かれたが厳重なる 新聞紙条例の発布があったからで、此時は幾多の新聞社が倒産しているが、中外新聞独りが異彩を放って居た」・・・ことなどが書かれている。
新聞紙条例は、自由民権運動の高揚するなか、新聞・雑誌による反政府的言論活動を封ずるため制定したものだが、この条例に準拠して発行したのが『官准 中外新聞』である。
各紙は、新聞を再刊する為に、政府の許可を得て、このように新たに「官許」「官准」を誌名に冠して発行したのであった。つまり、官の規制下で再生メディアとして登場した種々の官許新聞等は、ジャーナリズムとしての活力=反権力性を失ったと言える。
以降佐幕的傾向の記事は全く跡を絶ち、新政府の施策を謳歌し、政府系新聞への対抗性を喪失したメディアとして、新聞の通史では序章されており、『中外新聞』についても条例の監視下で慶応4年当時の「柳川の筆勢がすっかりキバを抜かれた」感じになったという(※9参照)。
ただ当初『中外新聞』を筆頭に、江戸の新聞がいずれも佐幕的にならざるを得なかったのはその地理的条件もさることながら発行責任者が会訳社、開成所など幕府関係のブレーン的要職にあったことや海外事情に詳しいエリートであったこと、などのほかにこの内戦は薩長両藩による幕府打倒の戦いであると見て、開国策をとる幕府を心情的に支持したものだったとも云われている(※10参照)。
江戸時代末期、日本に定期性を持った新聞が誕生して以降、何か大きなニュースや事件が起った際に、それをいち早く報道するための手段として、その定期発行の枠を外して臨時に発行される「号外」というものが誕生した。号外は朝刊や夕刊発行までの時間差を埋めるための速報媒体として、また新たな読者を獲得するための手段として、様々な変化を遂げつつ発展してきた。日本の新聞史の中で、新聞が商業的に成功するために号外は必要不可欠な存在であったといっても過言ではないともいう。
そして、日本の新聞史上、最も号外で報じられたニュースは「戦争」であった。特にラジオが登場する以前は、遠く離れた戦場の様子を知ることができるのは新聞だけであり、とりわけその中でも号外は、刻一刻と変わる戦地の状況をいち早く知ることができることで人々に歓迎されてきた。
しかし、大衆に宣伝し、煽動し、組織するためには新聞を発行しなければ、といった新聞の機能については国民は、全然と言ってよいくらい無知なものが多かった・・・とも言えるだろう。
号外による競争が最も激しかったのが1904年〜1905年(明治37年〜明治38年)の日露戦争だろう。このときの『大阪朝日新聞』と『大阪毎日新聞』の号外合戦はすさまじいもので戦争中の両社の号外発行回数は『大阪朝日新聞』が389回、『大阪毎日新聞』が498回という記録が残っているという(※7参照)。
大衆に宣伝し、煽動し、組織するための報道は、そのマス媒体が、新聞からラジオ、テレビへと変わってきた現代でも意識的に行われているように思われる。
例えば「安倍政権が集団的自衛権の行使容認に向けた姿勢を強めるなか、朝日新聞社は憲法に関する全国郵送世論調査を行い、有権者の意識を探ったところによると、集団的自衛権について「行使できない立場を維持する」が昨年の調査の56%から63%に増え、「行使できるようにする」の29%を大きく上回った」・・・と伝えられている(※11参照)が、一方、「政府が目指す集団的自衛権の行使に関して、「必要最小限の範囲で使えるようにすべきだ」とした“限定容認論”を支持する人は63%に上ることが、読売新聞社の全国世論調査で分かった。「全面的に使えるようにすべきだ」と答えた8%と合わせて計71%が行使を容認する考えを示した」・・・とも報じられている(※12参照)。
このように、同じような国民の世論の調査でさえ、マスコミの機関によって、全く違った意見が取り上げられ報道されているのである。この様に、当初より、政府側を後押ししようとする機関と、それに批判的な機関では、同じような世論調査でも、その機関の恣意的な質問書によって行えば、その機関の期待する意見が導き出され、それを国民の声として報道されることになるのである。つまり、マスコミがよく使う「世間の意見」など質問書の作成の仕方や、アンケートのやり方でどうにでもなるということである。この様なことは、新聞、雑誌、ラジオ、テレビなど、毎日接している報道の中で、それとなく如何にも真面目顔で報道されていることを、心しておかなければいけないだろうと私は思うのだが・・・。
(冒頭の画像は日本最初の号外と云われる慶應4年5月16日付『別段 中外新聞』)
参考:
※1:かわら版のはじまり - 東京大学総合研究博物館
http://www.um.u-tokyo.ac.jp/publish_db/1999news/02/0201.html
※2:柳河春三 - 日本新聞博物館 NEWSPARK(Adobe PDF)
http://newspark.jp/newspark/data/pdf_shinbunjin/b_30.pdf#search='%E6%9F%B3%E6%B2%B3%E6%98%A5%E4%B8%89'
※3:新聞と神奈川- 有隣堂
http://www.yurindo.co.jp/static/yurin/back/395_1.html
※4:上杉家の戊辰戦争
http://www7a.biglobe.ne.jp/~soutokufu/index.html
※5:早稲田大学-古典籍総合データベース-中外新聞
http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/search.php?cndbn=%92%86%8AO%90V%95%B7
※6:会津の歴史
http://aizu.sub.jp/index.html
※7:戦争と号外(1) - 立命館大学(Adobe PDF)
http://www.ritsumei.ac.jp/acd/gr/gsce/ce/2012/km02.pdf#search='%E5%88%A5%E6%AE%B5%E4%B8%AD%E5%A4%96%E6%96%B0%E8%81%9E.+%E6%88%8A%E8%BE%B0%E4%BA%94%E6%9C%88%E5%8D%81%E5%85%AD%E6%97%A5'
※8:近代デジタルライブラリー - 新聞雑誌之創始者柳河春三
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/958097/2
※9:官許・官准」新聞の成立と機能 : 明治2年(1869)刊『中外新聞』を軸に
http://hermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/rs/bitstream/10086/18821/1/shomotsu0000900230.pdf
※10:近代新聞への胎動-中外新聞から内外新聞まで(Adobe PDF)
http://www.kwansei.ac.jp/s_sociology/kiyou/20/20-ch04.pdf#search='%E8%BF%91%E4%BB%A3%E6%96%B0%E8%81%9E%E3%81%B8%E3%81%AE%E8%83%8E%E5%8B%95%E4%B8%AD%E5%A4%96%E6%96%B0%E8%81%9E%E3%81%8B%E3%82%89%E5%86%85%E5%A4%96%E6%96%B0%E8%81%9E%E3%81%BE%E3%81%A7'
※11:集団的自衛権、行使容認反対63%に増 朝日新聞調査:朝日新聞デジタル
http://www.asahi.com/articles/ASG3L72L6G3LUZPS007.html
※12:集団的自衛権、行使容認71%…読売世論調査 : 政治 : 読売新聞
http://www.yomiuri.co.jp/politics/20140512-OYT1T50017.html
新聞・雑誌の部屋
http://www.nagumosyoten.jp/image1top/bunya/(14)sinbun.2014.2.12.pdf
江湖新聞【PDF】
://newspark.jp/newspark/data/pdf_yokoso/a_008.pdf
近代デジタルライブラリー - 彰義隊戦史(著者: 山崎有信 隆文館出版)
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/773365/127