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上掲の画像向かって左:北里柴三郎明治43年撮影。右:晩年の志賀潔と孫の岡明(立っている人。ここ参照)と研究室でのもの。(朝日クロニクル 週刊20世紀紀掲載のもの借用)画像クリックで拡大。
志賀は、その後ドイツのエールリッヒのもとに留学し、1904(明治37)年に化学療法剤トリバンロートを共同で開発。秦も同伝染病研究所に勤め、ここからエールリッヒのもとに留学して、1909(明治42)年サルバルサンの発見を助けた。このように、留学した年若い医学者たちが多くの成果をあげて世界中から感謝、称賛された。
この頃。日本では脚気病も軍部で特に問題になっていた。
ドイツのフィッシャーにタンパク質科学(タンパク質の化学的特性質を研究する学問分野)を学んで帰国した鈴木梅太郎は、栄養障害説をとり、1910(明治43年)年米ぬかの中にある脚気に効く成分(ビタミンB1)を抽出し、「オリザニン」と命名する(日本の脚気史参照)。当時脚気の原因については、伝染病説、中毒説、栄養障害説が対立していた。
がん(癌)も問題であった、細胞 病理学説を唱えるドイツのウイルヒョーに学んで帰国した山極勝三郎は師の説に従って、刺激によるがんの発生を考え、イエウサギ(ペット用に品種改良されたウサギ)の耳の内側に毎日コールタールを塗布し、1915(大正4)年、がんの実験的発生に世界で初めて成功する。
高峰譲吉が早々とタカジアスターゼやアドレナリンの研究(1901年発見)で成果を上げたのは、アメリカにおいてであった。アドレナリンは世界で最初のホルモン抽出、結晶化であった。当時の日本ではそれが行えるだけの条件はなかった。
ただ、池田菊苗の「味の素」の発明は一味違った発明であった。東京大学とドイツのオズワルドのもとで純正化学を学び1901(明治34)年東大教授となった池田が1907(明治40)年、昆布から「うま味」のもとであるグルタミン酸塩を取り出す仕事を始め、鈴木三郎助と組んで工業化に成功した。
ここで見落とせないのは、成功の基礎に物理化学があったことと、池田が取得した特許は「うま味」の素以外にも多数あったことである(彼が生涯において取得した特許は、国内で32件、海外で17件もあるという。※16参照)。
池田と対照的なのが長岡半太郎や木下季吉の研究である。鋼の磁気歪の研究(長岡)や原子構造の土星型有核模型(長岡。※13参照.)などは、日本の物証物理学も早くも国際水準に及びつつあったことを示している。ただ、こうした優れた人材は育ちつつあったが、社会的基盤が弱かったということである。
高峰譲吉は1913(大正13)年に築地精養軒にて日本の学術・工業を盛んにするには創造的科学研究を可能にする大研究所が必要だと説き、これが、理化学研究所誕生の契機となった。高峰が必要だと説いた研究所は、1911(明治44)年に創設されたドイツの「カイザー・ヴィルヘルム協会」を模して構想されたものらしい。
これは、1908(明治41)年に中村清二が『時事新報』に書いた、『帝国理学研究所設立の必要』という所論と同様のものであったようだ。
この理研設立の経緯については、以下参考に記載の※17:「理化学研究所の誕生と軌跡」に非常に詳しく書いてあるので、理研誕生の経緯についてはこれ以降、この記事を参考に書かせてもらう(一部捕捉をしているが)。
この計画は、当時で、およそ2,000万円(現在では約320億円に相当=米価換算)の資金で研究所を設立しようとするものであったが、まず500万円くらいの資金で差し当たり最も急務とする「化学研究所」の設立を企画した。翌1914(大正3)年、実業界の大御所渋沢栄一と池田菊苗、鈴木梅太郎ら化学、応用化学、農芸化学、薬学界の長老が連名で議会に化学研究所設立の請願書を提出した。
この請願は、議会の解散もあって目的を達成することはできなかったらしいが、研究所設立に追い風が吹いた。1914(大正3)年6月に第1次世界大戦が勃発、わが国は西欧からの医薬品や工業原料の輸入が絶たれ、また制限されたりしたことから産業上、多大な障害を来すこととなった。そこで、農商務省は化学研究所設立を農商務大臣(大浦兼武)に建議したが、ただ化学だけでは範囲が狭すぎるため、化学と物理学の両面を包含した「理化学研究所」を設立すべきとの意見が出された。
日本薬学会初代会長長井長義、冶金学者の渡辺渡(※18参照)、工学博士・東京工業試験所の所長高松豊吉、物理化学者・東京化学会(日本化学会の前身)の会長桜井錠二、農学博士古在由直が特別委員となって協議し、渋沢栄一、菊池大麓、渋沢の盟友で官僚出身の政治家・実業家中野武営らも加わって新たな草案を練り上げ、設立計画の大要、研究事項などを決めた。これを主な実業家や関係者に送り、賛同を求めることになった。
渋沢、中野らは三井家総領家である北家当主三井八郎右衛門、三菱財閥の4代目総帥岩崎小弥太をはじめ、財界・民間から研究所設立に必要な資金の寄付金を募る一方、時の総理大臣大隈重信が内務、大蔵、文部、農商務各省の大臣および学者、実業家を招いて設立発起協議会を開くなど、設立への準備は整い始めた。さらに、政府の補助も認められ、これに基づき、「理化学を研究する公益法人に対し、国庫補助を為す法律案」が可決され、1916年(大正5年)3月6日に公布された。
これを受けて、創立委員長に渋沢栄一、常務委員に桜井錠二、当時の三井財閥総帥団琢磨、中野武営ら7名が就き、研究所の建物・設備については、物理関係は長岡半太郎、大河内正敏、化学関係は池田菊苗、井上仁吉(?後東北帝国大学工科部長から2代目総長になった人?)に委嘱された。そして、委員長らの寄付の勧誘が功を奏し、設立に必要な額200万円を上回る寄付金を集め、「財団法人理化学研究所」が1917(大正6)年3月20日に設立された。
つまり、理研は、政府の補助金、皇室の御下賜金、産業界の寄付金を基に設立されたのである。
ところで、ここでは「理化学研究所が3月20日に設立された」と書いてあるが、冒頭に書いたように、「今日は何の日〜毎日が記念日〜」では、「6月19日、、この日、理化学研究所が、東京都文京区本駒込に設立された。」・・・とある。
蔵書の『朝日クロニクル 週刊20世紀』には、3月20日「理化学研究所の設立認可」とあるので、法人組織として登記し、スタートした日(設立)は3月20日だと思うのだが、ひょっとしたら理研としての活動を始めた日、営業開始(創業)を設立日と勘違いしたのか?それとも何か他の理由による単純な誤りなのだろうか?・・・・。そのような日付の問題は、この際、ここでは無視して以下話を続ける。
この創立当時の理研の最もユニークなところは、参考※17:「理化学研究所の誕生と軌跡」にも記されているように、今でいうところの新技術の研究開発や、新事業の創出を図ることを目的として、大学などの教育機関・研究機関と民間企業が連携した「産学連携」、それに、政府・地方公共団体などの「官」をも加えた、大規模な「産学官連携」を実現したことにあるのだろう。
理研は、1917(大正6)年、伏見宮貞愛親王殿下を総裁に奉載(1917〜1923Sし、副総裁に渋沢と菊池大麓(帝国学士院長、元文部大臣)を迎え、初代所長に菊池が就任して活動を開始した。
物理部の研究員として東京帝大の大河内(造兵学)、鯨井恒太郎(電気工学)、化学部は鈴木梅太郎(農芸化学)、田丸節郎、和田猪三郎(純正化学。※19参照)の各教授、東北帝大から真島利行(有機化学)らが選ばれた。しかし、初代所長の菊池が就任5カ月で急逝、その後を継いだ古市公威(土木学界の長老)も1921(大正10)年9月、健康上の理由で辞任し、大河内が第3 代所長に就任したが、この大河内こそが、理研の黄金期を作り上げた人物であった。
当時第1次世界大戦後の戦後不況で、予定していた財界、産業界からの寄付金はなかなか集まらなかった。大河内は、研究成果の実施企業を自ら設立し、財政的に自立する方途を講じようと2つの改革を実行した。
その第1が研究体制の一新、つまり、研究室制度を打ち出した(1922年=大正11年)ことであり、第2が、研究成果の実用化であった。
当時の研究体制は、長岡を部長とする物理学部と池田を部長とする化学部の2つしかなく、しかも、2つの部は激しく対立していたらしい。
そこで、部制を廃止して主任研究員制度を新設し、主任研究員は大学教授との兼任も可能とし、長岡や池田をはじめとする14の主任研究員が研究室をもち、所長の直下に同列に並べられ、敵対していた両部の部長も、一主任研究員となった。
そして、主任研究員に研究テーマ、予算、人事の裁量権を持たせ、研究者の自由な創意を育む環境を作り上げ、すべての主任研究員には、同等の権限を与え、平等にすることを基本に置いたのである。
ところがWikipediaに寄れが、この研究室制度は理化学研究所を活性化したのだが、湯水のごとく研究費が投入され財政難に陥ったという。同年、鈴木梅太郎研究室所属の高橋克己が長岡半太郎や寺田寅彦の助力を得て魚のタラの肝油から世界で初めてビタミンAの分離と抽出に成功し、試作品として売り出したところ、肺結核の特効薬との噂が広まり患者の家族らが殺到する事態となった。
大河内所長はその様子を見てこれを製品化することを決断し、鈴木梅太郎研究室をせきたてて4ヶ月で製品化にこぎつけた。既存の医薬品企業と提携せずに理化学研究所の自主生産で「理研ヴィタミン」を販売し財政難を乗り切った。1924年(大正13年)には理化学研究所の作業収入の8割をビタミンAが稼ぎ出す結果となったという。
上掲の画像は、ビタミンA製剤「理研ヴィタミン」の雑誌広告(1938年=昭和13年)。こうした商品の収益が「科学者たちの楽園」を支えた。ビタミンAの1カプセルあたりの製造原価は1,2銭だったが、理化学研究所はこれを10銭で直接販売したため利益幅は大きかったというが、そりゃあそうだろう、薬九層倍と云われる世界。製造直販ならもうかってしかたがないだろう。
1927(昭和2)年には、理化学研究所の発明を製品化する事業体として理化学興業を創設し大河内所長が会長に就任。理化学興業と理化学研究所は工作機械、マグネシウム、ゴム、飛行機用部品、合成酒など多数の発明品の生産会社を擁す理研産業団(理研コンツェルン)を形成していった。
最盛期には会社数63、工場数121の大コンツェルンとなったという。そして、1939(昭和14)年の理化学研究所の収入370万5000円のうち、特許料や配当などの形で理研産業団各社が納めた額は303万3000円を占めたという。その年の理研の研究費は231万1000円だったので、理化学研究所は資金潤沢で何の束縛もない「科学者たちの楽園」だったようだ。のちに理研コンツェルンの事業を継承した会社には事務機器、光学機器などの製造を行っているメーカーのリコー等理研グループと呼ばれる企業群がある。
1937(昭和12)年にには、仁科芳雄研究室が日本で最初のサイクロトロンを完成させた(1944年には大型のサイクロンも完成)。
1941(昭和16)年には、陸軍の要請を受け、仁科が中心となって原子爆弾開発の極秘研究(ニ号研究)さえ開始していたようである。
上掲の画像は、1950年8湯川秀樹博士(向かって左)と仁科芳雄。「技術的には可能であっても、大規模な施設や技術者養成などで巨額の経費と時間がかかる。…大量生産せざるをえないことなど考えあわせると無駄が多い」−1943年6月原爆について陸軍首脳から問われ、こう書いたメモを渡している。という。『朝日クロニクル 週刊20世紀』1939年号より。
1946(昭和21)年、太平洋戦争終結とともに連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の指命により理化学研究所、理研工業(理化学興業の後身)、理研産業団は解体され、仁科研究室のサイクロトロンも海中に投棄された。そして、公職追放された大河内所長に代わって仁科が第4代所長に就任している。
GHQは1947年(昭和22年)12月、過度経済力集中排除法の施行により、理研産業団を財閥とみなし、解体した。
そして、一時は、産業団だけでなく理研本体も解体すべきという意見も出されたが、「日本再建のためには、理研本体は必要不可欠」という仁科の主張に、マッカーサー占領軍司官の科学顧問であったハリー・ケリーらGHQ科学技術課が理解を示したことから、辛うじて理研本体は残り、戦後、株式会社「科学研究所」、特殊法人時代を経て、2003年(平成15年)10月に文部科学省所轄の独立行政法人理化学研究所として再発足したのが現在の理研である。
組織として研究所が存在する意義は、相互作用に他ならない。規模が大きいほど、その知が織りなす「総力」を高める仕組みが求められる。
だが、理研はバブル崩壊後、資金量を膨張させながらも、人材と組織の分散を繰り返してきた。今の理研は設立当時の理研とは違う。
研究不正が起きた原因には、CDBおよび理研本体の「貧弱すぎるガバナンス体制」があるとされている。小保方氏とSTAP論文問題は、理研の組織の片隅で起きた特異な事件ではないように思う。
もう一度、これを機会に、創業精神に立ち返りこれからの理研のあるべき姿を再構築すべきだろう。決して、「理研」が「利権」にだけはならないようにして欲しいものだ。
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上掲の画像向かって左:北里柴三郎明治43年撮影。右:晩年の志賀潔と孫の岡明(立っている人。ここ参照)と研究室でのもの。(朝日クロニクル 週刊20世紀紀掲載のもの借用)画像クリックで拡大。
志賀は、その後ドイツのエールリッヒのもとに留学し、1904(明治37)年に化学療法剤トリバンロートを共同で開発。秦も同伝染病研究所に勤め、ここからエールリッヒのもとに留学して、1909(明治42)年サルバルサンの発見を助けた。このように、留学した年若い医学者たちが多くの成果をあげて世界中から感謝、称賛された。
この頃。日本では脚気病も軍部で特に問題になっていた。
ドイツのフィッシャーにタンパク質科学(タンパク質の化学的特性質を研究する学問分野)を学んで帰国した鈴木梅太郎は、栄養障害説をとり、1910(明治43年)年米ぬかの中にある脚気に効く成分(ビタミンB1)を抽出し、「オリザニン」と命名する(日本の脚気史参照)。当時脚気の原因については、伝染病説、中毒説、栄養障害説が対立していた。
がん(癌)も問題であった、細胞 病理学説を唱えるドイツのウイルヒョーに学んで帰国した山極勝三郎は師の説に従って、刺激によるがんの発生を考え、イエウサギ(ペット用に品種改良されたウサギ)の耳の内側に毎日コールタールを塗布し、1915(大正4)年、がんの実験的発生に世界で初めて成功する。
高峰譲吉が早々とタカジアスターゼやアドレナリンの研究(1901年発見)で成果を上げたのは、アメリカにおいてであった。アドレナリンは世界で最初のホルモン抽出、結晶化であった。当時の日本ではそれが行えるだけの条件はなかった。
ただ、池田菊苗の「味の素」の発明は一味違った発明であった。東京大学とドイツのオズワルドのもとで純正化学を学び1901(明治34)年東大教授となった池田が1907(明治40)年、昆布から「うま味」のもとであるグルタミン酸塩を取り出す仕事を始め、鈴木三郎助と組んで工業化に成功した。
ここで見落とせないのは、成功の基礎に物理化学があったことと、池田が取得した特許は「うま味」の素以外にも多数あったことである(彼が生涯において取得した特許は、国内で32件、海外で17件もあるという。※16参照)。
池田と対照的なのが長岡半太郎や木下季吉の研究である。鋼の磁気歪の研究(長岡)や原子構造の土星型有核模型(長岡。※13参照.)などは、日本の物証物理学も早くも国際水準に及びつつあったことを示している。ただ、こうした優れた人材は育ちつつあったが、社会的基盤が弱かったということである。
高峰譲吉は1913(大正13)年に築地精養軒にて日本の学術・工業を盛んにするには創造的科学研究を可能にする大研究所が必要だと説き、これが、理化学研究所誕生の契機となった。高峰が必要だと説いた研究所は、1911(明治44)年に創設されたドイツの「カイザー・ヴィルヘルム協会」を模して構想されたものらしい。
これは、1908(明治41)年に中村清二が『時事新報』に書いた、『帝国理学研究所設立の必要』という所論と同様のものであったようだ。
この理研設立の経緯については、以下参考に記載の※17:「理化学研究所の誕生と軌跡」に非常に詳しく書いてあるので、理研誕生の経緯についてはこれ以降、この記事を参考に書かせてもらう(一部捕捉をしているが)。
この計画は、当時で、およそ2,000万円(現在では約320億円に相当=米価換算)の資金で研究所を設立しようとするものであったが、まず500万円くらいの資金で差し当たり最も急務とする「化学研究所」の設立を企画した。翌1914(大正3)年、実業界の大御所渋沢栄一と池田菊苗、鈴木梅太郎ら化学、応用化学、農芸化学、薬学界の長老が連名で議会に化学研究所設立の請願書を提出した。
この請願は、議会の解散もあって目的を達成することはできなかったらしいが、研究所設立に追い風が吹いた。1914(大正3)年6月に第1次世界大戦が勃発、わが国は西欧からの医薬品や工業原料の輸入が絶たれ、また制限されたりしたことから産業上、多大な障害を来すこととなった。そこで、農商務省は化学研究所設立を農商務大臣(大浦兼武)に建議したが、ただ化学だけでは範囲が狭すぎるため、化学と物理学の両面を包含した「理化学研究所」を設立すべきとの意見が出された。
日本薬学会初代会長長井長義、冶金学者の渡辺渡(※18参照)、工学博士・東京工業試験所の所長高松豊吉、物理化学者・東京化学会(日本化学会の前身)の会長桜井錠二、農学博士古在由直が特別委員となって協議し、渋沢栄一、菊池大麓、渋沢の盟友で官僚出身の政治家・実業家中野武営らも加わって新たな草案を練り上げ、設立計画の大要、研究事項などを決めた。これを主な実業家や関係者に送り、賛同を求めることになった。
渋沢、中野らは三井家総領家である北家当主三井八郎右衛門、三菱財閥の4代目総帥岩崎小弥太をはじめ、財界・民間から研究所設立に必要な資金の寄付金を募る一方、時の総理大臣大隈重信が内務、大蔵、文部、農商務各省の大臣および学者、実業家を招いて設立発起協議会を開くなど、設立への準備は整い始めた。さらに、政府の補助も認められ、これに基づき、「理化学を研究する公益法人に対し、国庫補助を為す法律案」が可決され、1916年(大正5年)3月6日に公布された。
これを受けて、創立委員長に渋沢栄一、常務委員に桜井錠二、当時の三井財閥総帥団琢磨、中野武営ら7名が就き、研究所の建物・設備については、物理関係は長岡半太郎、大河内正敏、化学関係は池田菊苗、井上仁吉(?後東北帝国大学工科部長から2代目総長になった人?)に委嘱された。そして、委員長らの寄付の勧誘が功を奏し、設立に必要な額200万円を上回る寄付金を集め、「財団法人理化学研究所」が1917(大正6)年3月20日に設立された。
つまり、理研は、政府の補助金、皇室の御下賜金、産業界の寄付金を基に設立されたのである。
ところで、ここでは「理化学研究所が3月20日に設立された」と書いてあるが、冒頭に書いたように、「今日は何の日〜毎日が記念日〜」では、「6月19日、、この日、理化学研究所が、東京都文京区本駒込に設立された。」・・・とある。
蔵書の『朝日クロニクル 週刊20世紀』には、3月20日「理化学研究所の設立認可」とあるので、法人組織として登記し、スタートした日(設立)は3月20日だと思うのだが、ひょっとしたら理研としての活動を始めた日、営業開始(創業)を設立日と勘違いしたのか?それとも何か他の理由による単純な誤りなのだろうか?・・・・。そのような日付の問題は、この際、ここでは無視して以下話を続ける。
この創立当時の理研の最もユニークなところは、参考※17:「理化学研究所の誕生と軌跡」にも記されているように、今でいうところの新技術の研究開発や、新事業の創出を図ることを目的として、大学などの教育機関・研究機関と民間企業が連携した「産学連携」、それに、政府・地方公共団体などの「官」をも加えた、大規模な「産学官連携」を実現したことにあるのだろう。
理研は、1917(大正6)年、伏見宮貞愛親王殿下を総裁に奉載(1917〜1923Sし、副総裁に渋沢と菊池大麓(帝国学士院長、元文部大臣)を迎え、初代所長に菊池が就任して活動を開始した。
物理部の研究員として東京帝大の大河内(造兵学)、鯨井恒太郎(電気工学)、化学部は鈴木梅太郎(農芸化学)、田丸節郎、和田猪三郎(純正化学。※19参照)の各教授、東北帝大から真島利行(有機化学)らが選ばれた。しかし、初代所長の菊池が就任5カ月で急逝、その後を継いだ古市公威(土木学界の長老)も1921(大正10)年9月、健康上の理由で辞任し、大河内が第3 代所長に就任したが、この大河内こそが、理研の黄金期を作り上げた人物であった。
当時第1次世界大戦後の戦後不況で、予定していた財界、産業界からの寄付金はなかなか集まらなかった。大河内は、研究成果の実施企業を自ら設立し、財政的に自立する方途を講じようと2つの改革を実行した。
その第1が研究体制の一新、つまり、研究室制度を打ち出した(1922年=大正11年)ことであり、第2が、研究成果の実用化であった。
当時の研究体制は、長岡を部長とする物理学部と池田を部長とする化学部の2つしかなく、しかも、2つの部は激しく対立していたらしい。
そこで、部制を廃止して主任研究員制度を新設し、主任研究員は大学教授との兼任も可能とし、長岡や池田をはじめとする14の主任研究員が研究室をもち、所長の直下に同列に並べられ、敵対していた両部の部長も、一主任研究員となった。
そして、主任研究員に研究テーマ、予算、人事の裁量権を持たせ、研究者の自由な創意を育む環境を作り上げ、すべての主任研究員には、同等の権限を与え、平等にすることを基本に置いたのである。
ところがWikipediaに寄れが、この研究室制度は理化学研究所を活性化したのだが、湯水のごとく研究費が投入され財政難に陥ったという。同年、鈴木梅太郎研究室所属の高橋克己が長岡半太郎や寺田寅彦の助力を得て魚のタラの肝油から世界で初めてビタミンAの分離と抽出に成功し、試作品として売り出したところ、肺結核の特効薬との噂が広まり患者の家族らが殺到する事態となった。
大河内所長はその様子を見てこれを製品化することを決断し、鈴木梅太郎研究室をせきたてて4ヶ月で製品化にこぎつけた。既存の医薬品企業と提携せずに理化学研究所の自主生産で「理研ヴィタミン」を販売し財政難を乗り切った。1924年(大正13年)には理化学研究所の作業収入の8割をビタミンAが稼ぎ出す結果となったという。
上掲の画像は、ビタミンA製剤「理研ヴィタミン」の雑誌広告(1938年=昭和13年)。こうした商品の収益が「科学者たちの楽園」を支えた。ビタミンAの1カプセルあたりの製造原価は1,2銭だったが、理化学研究所はこれを10銭で直接販売したため利益幅は大きかったというが、そりゃあそうだろう、薬九層倍と云われる世界。製造直販ならもうかってしかたがないだろう。
1927(昭和2)年には、理化学研究所の発明を製品化する事業体として理化学興業を創設し大河内所長が会長に就任。理化学興業と理化学研究所は工作機械、マグネシウム、ゴム、飛行機用部品、合成酒など多数の発明品の生産会社を擁す理研産業団(理研コンツェルン)を形成していった。
最盛期には会社数63、工場数121の大コンツェルンとなったという。そして、1939(昭和14)年の理化学研究所の収入370万5000円のうち、特許料や配当などの形で理研産業団各社が納めた額は303万3000円を占めたという。その年の理研の研究費は231万1000円だったので、理化学研究所は資金潤沢で何の束縛もない「科学者たちの楽園」だったようだ。のちに理研コンツェルンの事業を継承した会社には事務機器、光学機器などの製造を行っているメーカーのリコー等理研グループと呼ばれる企業群がある。
1937(昭和12)年にには、仁科芳雄研究室が日本で最初のサイクロトロンを完成させた(1944年には大型のサイクロンも完成)。
1941(昭和16)年には、陸軍の要請を受け、仁科が中心となって原子爆弾開発の極秘研究(ニ号研究)さえ開始していたようである。
上掲の画像は、1950年8湯川秀樹博士(向かって左)と仁科芳雄。「技術的には可能であっても、大規模な施設や技術者養成などで巨額の経費と時間がかかる。…大量生産せざるをえないことなど考えあわせると無駄が多い」−1943年6月原爆について陸軍首脳から問われ、こう書いたメモを渡している。という。『朝日クロニクル 週刊20世紀』1939年号より。
1946(昭和21)年、太平洋戦争終結とともに連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の指命により理化学研究所、理研工業(理化学興業の後身)、理研産業団は解体され、仁科研究室のサイクロトロンも海中に投棄された。そして、公職追放された大河内所長に代わって仁科が第4代所長に就任している。
GHQは1947年(昭和22年)12月、過度経済力集中排除法の施行により、理研産業団を財閥とみなし、解体した。
そして、一時は、産業団だけでなく理研本体も解体すべきという意見も出されたが、「日本再建のためには、理研本体は必要不可欠」という仁科の主張に、マッカーサー占領軍司官の科学顧問であったハリー・ケリーらGHQ科学技術課が理解を示したことから、辛うじて理研本体は残り、戦後、株式会社「科学研究所」、特殊法人時代を経て、2003年(平成15年)10月に文部科学省所轄の独立行政法人理化学研究所として再発足したのが現在の理研である。
組織として研究所が存在する意義は、相互作用に他ならない。規模が大きいほど、その知が織りなす「総力」を高める仕組みが求められる。
だが、理研はバブル崩壊後、資金量を膨張させながらも、人材と組織の分散を繰り返してきた。今の理研は設立当時の理研とは違う。
研究不正が起きた原因には、CDBおよび理研本体の「貧弱すぎるガバナンス体制」があるとされている。小保方氏とSTAP論文問題は、理研の組織の片隅で起きた特異な事件ではないように思う。
もう一度、これを機会に、創業精神に立ち返りこれからの理研のあるべき姿を再構築すべきだろう。決して、「理研」が「利権」にだけはならないようにして欲しいものだ。
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