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平 清盛 忌日

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治承5年閏2月4日(1181年3月20日)は、平安時代末期の武将公卿政治家である、平 清盛(たいら の きよもり)の忌日である(享年64歳)。
清盛の命日とされる4日午後1時から、清盛とゆかりの深い神戸市兵庫区 北逆瀬川町にある能福寺で清盛の追善供養と歴史講演会、琵琶演奏会が行われている。
清盛は、元永元年(1118年)伊勢平氏の棟梁・平忠盛の嫡子として生まれ、平氏棟梁となる。母の出自は不明で、白河院の寵姫祇園女御の妹とも。
若い頃は、中納言藤原家成に仕えて鳥羽上皇の恩顧を得、(保元元年(1156年7月)の保元の乱 の武功で後白河天皇の信頼を得て、平治の乱(平治元年12月9日=1160年1月19日)、で最終的な勝利者となって以降、清盛は、その後、譲位後の白河上皇と、二条天皇親子の対立の間に立ってアナタコナタ(彼方此方。『愚管抄』。※2の愚管抄第五巻参照)しつつも目覚しい進出をとげ、仁安二年(1167年)、武士では初めて従一位太政大臣の極官にまで昇りつめ、翌仁安3年(1168年)、妻時子の妹建春門院(平 滋子)を仲介に、高倉帝に娘徳子を入内させ、言仁親王(安徳帝)の出生により天皇の外戚としての地位を固め、「平氏にあらずんば人にあらず」(『平家物語』 [これは平時忠の言葉であり、清盛自身はこのようなことは言っていない。])と言われる時代を築いた(平氏政権)。
そして、鹿ケ谷の陰謀を摘発した翌々年治承3年(1179年)のクーデター(治承三年の政変)で、陰謀事件に関与した後白河院政を停止し、政権を完全に掌握し全盛の極みに達するが、平氏の独裁は貴族・寺社・武士などから大きな反発を受けていた。
そんな中、翌・治承4年(1180年)2月、清盛は、高倉天皇に譲位させ、娘徳子との間に生まれたわずか3歳の安徳天皇を即位させたことから、これに不満を持ったのが、即位の望みを全く絶たれてしまった後白河法皇の第三皇子の高倉宮以仁王であり、安徳天皇即位の3ヶ月目には、源頼政を誘って平氏政権に反旗を翻し、平氏追討を命ずる令旨を諸国の源氏に発令したことに始まり、東国武士団の挙兵が始まった。
諸国での叛乱が激化する中、治承5年閏4月4日(1181年3月20日)、清盛は、九条河原口の平盛国の邸で死亡。そして、保元・平治の乱などの武功により朝廷の政治世界に武家の地位を急速に確立させてきて、10年も経たない、寿永4年(1185年)、源頼朝が派遣した鎌倉源氏軍との最期の決戦である壇ノ浦の戦いで平氏一門は海に没し滅んでしまった。
祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり
 沙羅双樹の花の色 盛者必衰の理をあらはす
 おごれる人も久しからず ただ春の夜の夢のごとし・・・・」
(『平家物語』序文・抄より。参考の※1の平家物語参照)
平家物語』序文に見られる沙羅双樹は、インド原産で、別名サラノキ。釈迦入滅ゆかりの聖木として、日本では、ツバキ科落葉樹の「ナツツバキ」のことをいっているようだが、本当は正しくないようだ。この白い花は朝咲くと夕方には散るというところから「一日花」とも言われているようでだ。『平家物語』序文では、“沙羅双樹の花の色は、まるで盛者必衰の道理を表しているかのようだ。
驕り高ぶっている人も、いつまでもそれが続くものではない。”・・・と、平氏一門の慌しい、盛衰の中に人間の如何ともしがたい運命の厳しさを見出し、沙羅双樹の花を世の無常を象徴する花として登場させている。
戦後学説の多くは、草深く未開な原野の広がる東北に身を起こして武家政権を起立した源頼朝と東国武士に対して、京都の宮廷生活、貴族文化にひたって栄華を極めた清盛と平氏一門の没落を当然とし、所詮は院の傭兵隊長でしかなかった平氏のあり方に、武家政権としての未熟さが現れている。・・・としてきた。
これに対して、最近では、ついには、滅びたといえ、平氏政権がのちの鎌倉幕府に継承されるさまざまな軍事制度や独自な支配原理をそれなりに生み出している事実がむしろ強調されようになっている。
そのようなこともあるからだろうか、今年(2012年)1月8日から放送が開始されたNHKの大河ドラマ「平清盛」(※3)“第一話ふたりの父”では、鎌倉で父・義朝の菩提寺の立柱儀式に臨んでいた源頼朝の元に政子壇ノ浦での平家一門の滅亡を知らせるところから始まっている。そして、狂喜する御家人や政子を「清盛がいなかったら今の武士の世はなかった」と頼朝が窘(たしな)めている。
この平家滅亡の回想から始まった今年の大河ドラマの原作はなく、脚本は藤本有紀のオリジナル作品だという。作品紹介で、”「平家物語」ではアンチヒーローとして描かれていた男に新たな光をあて、歴史絵巻から解放された、躍動感とエネルギーにあふれる男として描く。“・・・と、その意気込みが感じられるが・・・。
しかし、放送早々、井戸敏三兵庫県知事から、大河ドラマ「平清盛」について、「画面(映像)が汚い。鮮やかさがなく、チャンネルを回す気にならない」と酷評。主演の松山ケンイチ演じる清盛像について、NHKは番組ホームページで、「武士の子と思えない汚い格好で、庶民に混じり、やんちゃを繰り返す」と紹介しているが、ゆかりの地の知事として、演出が気に入らなかったようだ。NHK広報部は、「リアルな時代表現を目指しており、武士は汚く、貴族は可憐に描いている。清盛も今後は美しくなっていくので、長い目で見てもらいたい」と話している(1月11日朝日新聞朝刊)・・・と、NHKは、この苦言に対し現行路線で行くと強気のようだが、清盛は現在の神戸市福原京を置くなど兵庫県はドラマの主要な舞台の1つ。不満には、番組とタイアップしながら観光客誘致を進めたいと考えていたのに、同回の放送が大河ドラマの初回放送としては過去3番目の低さ(17.3%)だったことに対する苛立ちもあったようだ。これに対して、最近の噂では先行き不安な幕開けに局内は動揺しているようで、大幅な脚本の手直しがあり今後、これまでの大河ドラマにはなかったような過激で激しいシーンも予定されているというのだが(※4)・・・。一体、これからどのような演出がされてゆくのだろう・・・か。
このような歴史上の人物について、小説を書いたり、ドラマ化するとき、それぞれの立場や方法があってよいのだが、ある人物の史実を史料によって構築することと、その人物について伝えられる物語や説話が生まれた過程を追うこととの間に軽量はなく、史実がすべてと言うわけでもないだろう。
この大河ドラマの主人公平清盛と言えば、『平家物語』や戦前の『国定教科書』などによって、権勢を誇る悪役としてイメージが広く知られている。
鹿ヶ谷の変後、清盛が後白河法皇を法住寺殿に幽閉しようとした際の嫡男重盛の「忠ならんとすれば孝ならず孝ならんとすれば忠ならず」の名セリフ前で、「衣の下の鎧」をかくす悪逆歩非道の清盛像があった(※5)。
しかし、戦後、この清盛の衣の下に国際感覚に富んだ新しい人物像が発見されている。
音戸の瀬戸を修築し、船の航行を可能にしたのは、若き日の安芸守清盛であり、遣唐使を廃止して閉鎖的な国粋主義が横行していた時代に、西に大宰府をおさえ、日本で最初の人工港を博多に築き貿易を本格化させ、東には神戸の港(摂津国福原京の外港大輪田泊)を修復・拡張したのも清盛である。音戸はそれを結ぶ海路であった。そして、雄大な彼の構想にあったのは中国貿易(日宋貿易)であった。(※6の第21回 平氏でなければ人ではない? 海に目を向けた平清盛参照)。
私の大好きな作家の1人である吉川英治の小説に『新・平家物語』がある。
この小説が書かれた当時は、戦時中の国粋主義に破れ、世界に目を開いた。こうした世相を反映して、 『新・平家物語』の清盛は、貧困と荒廃を乗り越え、因習にとらわれないで、新しい魅力的青年として再登場した。
この小説は、1950(昭和25)年から1957(昭和32)年まで『週刊朝日』に連載されたものだが、元朝日新聞に在籍していた評論家、編集者、ジャーナリストである故・扇谷正造は、『日本史探訪』6源平の争乱(角川書店文庫本)の中で、昭和22年、初めて吉川と連載小説の打ち合わせをした時『平家物語』が浮かびあがり、『新・平家物語』は、壇ノ浦から始まる予定だったという。
つまり、戦後の追放(公職追放のことを言っているのだろう)などひっくるめた日本の世相というのが、壇ノ浦で平家が散り散りになって「木の葉が沈み、石の浮かぶ時代」、価値転換の時代と重なって、吉川の念頭にあった、“人間の運命は、はかりがたい“・・・に合っていたからだという。
ところが、当時、吉川が自宅で構想を練っているときに、村の青年たちが次々復員してきて、彼らが、これから自分達はどうなるんだろうと毎晩のように心配してやって来る。それを聞いているうちに、吉川は、日本はこのままで良いのだろうかという様なことを考え出し、急に構想を変えて、青年清盛から始めることになったという。それによって、若い人に生きる希望と方向を与えられるのではないかと考えたのだろう。だから、青年清盛が、京の雑踏の中を歩く描写などは、当時の闇市を思わせたりするのだという。
清盛の青年時代については、歴史家の間でいろいろ説があるだろうが、吉川は、戦後の窮乏時代の青年を思い浮かべていたので、清盛をグンと落として、地下人、つまり、貧しい平家一門の青年として書いたのだという。
ただ、「歴史的には、平家一門は、急速に成り上がったとはいうものの、清盛の代になると吉川が小説家の自由な想像として書いたよりはかなり金持ちで、しかも、白河上皇の御落胤と言うようなこともある。清盛は、吉川が書いたより、かなり華やかな教養ある生活をしている」と対談相手の劇作家、評論家、演劇学者山崎正和は言っている(『平家物語』では清盛は祇園女御となっているが、今では古文書などから、歴史家の間では、祇園女御のもとに通ううちに、その妹にも魅かれ、妹との間に出来たという説をとる人が少なくないという)。
『新・平家物語』第1巻わんわん市場には、「じつは若い清盛の身なりの方がおよそ一目を引くものだった。よれよれな布直垂(ぬのひたたれ)に、垢じみた肌着ひとえ。羅生門に巣くう浮浪児でも、これほど汚くはあるまい。もし腰なる太刀を除いたら、一体何にまちがわれるかだーー。」・・と、この時 二十歳になった青年清盛の風体を羅生門に巣くう浮浪児より汚いと書いているが、吉川も歴史的なことは承知の上で書いたことだろう。
この風体は、今回始まった大河ドラマ「平清盛」とそっくりだ。先にも書いた兵庫県知事の清盛が汚いという苦言に対して、NHK広報部は、リアルな時代表現を目指しているというが・・・本当にこれがリアルな表現と言いたいのだろうか・・・?
ところで、一般的に治承・寿永の乱のことを「源平合戦」とも言い天下を二分した源氏と平家の戦いとのイメージがあるか知れないが、これは源氏と平氏の戦いという訳ではなく、平清盛一族と源為義の孫達との戦いであった。
例えば、あの保元元年(1156年)の皇位継承問題や摂関家の内紛により朝廷が後白河天皇方と崇徳上皇方に分裂し双方の武力衝突に至った政変・「保元の乱」でも、摂関家(藤原家)では、藤原頼長が上皇方に、頼長の兄藤原忠通が天皇方に、これに、天皇方には、藤原通憲(信西)という藤原頼長と並んで評判の学者が参謀としてついている。
武家では、源氏の源 為義が、頼賢為朝ら一族を率いて上皇方につくが、為朝の長男の義朝が東国武士団を率いて天皇方に参陣。
平家では平清盛とは早くから不和であった清盛の叔父平忠正が上皇方についたのに対して、清盛一家が天皇方について争った。つまり、藤原も、源氏、平氏も同じ氏同士が、そして、親子、兄弟が骨肉の争いをしているのである。
この戦いは後白河天皇方が勝つが、戦後、崇徳上皇は讃岐に配流された。武士に対する処罰は厳しく、薬子の変を最後に公的には行われていなかった死刑が復活し、28日に忠正が、30日に為義らが一族もろとも斬首された。
そして、絶対的な権勢を誇っていた藤原氏が保元の乱の鎮圧に平清盛と源義朝を用いたことで時代の担い手が藤原氏から源平両氏に移った。
しかし、乱後の、藤原通憲(信西)が論功行賞を取り仕切ったが、源義朝が左馬頭への任官に留まったのに対し、清盛が播磨守・大宰大弐(だざいのだいに。この当時では、大宰府において実質の長官の役割を担うもの)と差が付いたのが、義朝としては面白くない・・・ということで、同じように出世に不満を持っている藤原信頼と手を組んで、源義朝と平清盛・・・源平両家が競い合い、その争いが平治の乱となり源氏敗退となった。藤原信頼は斬首され、源義朝は東国へ逃れようとするが、尾張国で長田忠致に誘い出されて殺されてしまう。こうして、天皇方は反対派の排除に成功したが、宮廷の対立が武力によって解決され、数百年ぶりに死刑が執行されたことは人々に衝撃を与え、実力で敵を倒す中世という時代の到来を示すものとなった。
慈円は『愚管抄』においてこの乱が「武者の世」の始まりであり、歴史の転換点だったと論じている。そして、平氏の・・・といっても、平氏にも色々諸流があり、伊勢平氏・平清盛一族の天下がやってきたのであった。
清盛は特に後白河上皇に重用され援助を受け官位を昇進させたが、その後の清盛の行動は慎重で「アナタコナタ (彼方、此方)しける」(『愚管抄』(※2の愚管抄 第五巻又、※7の清盛出世物語>3.平大相国清盛。※8参照)といわれるように、諸方に細心の気配りをし異常な速さでの昇進であったにも関わらず、この当時は比較的、敵対する人も少なかったようだ。晩年の行動を思うに、清盛は大変横暴な人物とされているが、もともと如才の少ない人柄で、その点は父祖の伝統・血筋を継いでいたといえるのかも知れない。
ただ、ひとつ、清盛に甘い面があった。それは、平治の乱の後、義母の池禅尼に「亡くなった息子に似ている。殺さないで欲しい」と懇願されたとはいえ、折角捕まえた源義朝の嫡男、源頼朝を助命し、伊豆への流刑に。さらに、後に源義経と名乗る牛若丸などの義朝の子供達も、その母親である常磐の美しさに惚れ助命し、鞍馬寺に入れてしまったことである。これが、平家一門の滅亡に繋がってゆくのだが・・・。
保元・平治の乱後では、京都での戦に敗れ、敗走する源氏の武将たちは、しばしば坂東に逃れようとするが、坂東という地は源氏ゆかりの地、源氏が基盤をなした地であるいうだけではない。足柄・碓氷の坂より東に位置している坂東(東国参照)という地は、中央の勢力が及ばない言わば半独立国家のような地だった。
平安京遷都が行われて以来、その後数百年にわたって公家・貴族たち特殊階級の人たちによって絢爛豪華な王朝絵巻物語が繰り広げられていた時代は、平安時代と呼ばれているが、この時代を動かしていたのは一部の公家・貴族たち、中でも藤原氏一族が、時の朝廷をも動かす大きな勢力を有していた。
家柄・氏・素性がものをいっていたこの時代、政治の中心の特権階級以外の者達はいかに活躍しようとなかなか出世することもなく、せいぜい都の護衛(検非違使)くらいの仕事しかなく、特権を有しない人々は家族、一族らとともに生きる場所を求めて新天地を求めて都から地方へ生活の場を求めるようになり、特に、 大化改新前後を通じて一種の異域とみられていた坂東に終結しはじめた。
そんな中、地方の武士団を統率し、その棟梁として勢力を拡大していった勢力がある。その二大勢力が、源氏と平氏である。
源氏も平氏も没落貴族の子孫である皇族が臣籍降下する際に名乗った氏の一つであるが、桓武天皇の皇子たちの子孫で平姓を給わって臣下にくだった家を桓武平氏と言うが、このように皇室の出自でありながら、臣籍降下した、平氏には、桓武平氏のほか仁明平氏、文徳平氏、光孝平氏などがあり、武家平氏として活躍が知られるのはそのうち高望王坂東平氏の流れのみで、常陸平氏伊勢平氏などがこれに相当する。
源氏では、もっとも有名なものは、幕府を開き将軍の家柄となった清和源氏であるが、家格が最も高いのは村上源氏であるとされるが、流派はこのほか多数ある。また、平安以降臣籍降下が頻発すると源、平の二姓ばかりになる。
この坂東という地は中央からの監視の目を逃れて、自由に振舞える絶好の地の利を有していたが、その分秩序が乱れやすいということでもあった。平将門高望王の三男平良将の子)の乱はまさにこの盲点を巧みに利用しようとした事件であり、ほかに藤原純友の乱など(承平・天慶の乱)、地方で不穏な動きが広がっていった。
平将門の乱は、平貞盛平国香の長子)ら追討軍の攻撃を受けて関東に独立勢力圏を打ち立てようとする目的は果たせず2ヶ月で滅ぼされた。
平家の棟梁平清盛の一族は、この将門と激しい戦いを繰り広げた、平貞盛の子のうち、平維衡(4男)を始祖とするグループで、伊勢(三重県)に移り住んだ伊勢平氏中の一流であり、それも清盛の祖父・平正盛からである。そのほかの平氏の多くは関東に土着している。
又、平将門の乱以来平穏だった関東地方では長元元年(1028年)に房総三カ国(上総国、下総国、安房国)で大規模な「平忠常の乱」が発生するが、この乱の追討使を命じられるほどの剛の者であった平直方の父は、平貞盛の直系の孫(長男維将の子)平維時である。
鎌倉に本拠を置き、摂関家の家人として在京軍事貴族でもある直方は、源頼義の舅でもあり、直方の娘と、頼義の間からは源義家、源義綱、源義光の兄弟が生まれている。八幡太郎の通称でも知られる義家は後に武家政権鎌倉幕府を開いた源頼朝の祖先に当たる(※9の武士の発生と成立>兵の家各流>平氏の流れの中の平氏の系図参照)。
直方は、本拠地の鎌倉を娘婿である源頼義に与えたことから、源氏隆盛の礎を築いた功労者と言えるが、子孫はそれほど源氏から優遇されていない。
平治の乱で父・源義朝が敗れると伊豆国へ流されれた源 頼朝は河内源氏(清和源氏為義流)であり、平清盛は伊勢平氏中の一流であるが、両者の家系を辿れば、同じ坂東平氏平貞盛へと繋がっていく。その両家の戦いが源平の戦いであり、清盛から義朝の時代へと武家政権が継承されていったのである。
実力で政権を奪う“中世”の時代を切り開き、朝廷の政治世界に武家の地位を確立させた平清盛の功績は大きい。・・・が、では源平合戦(治承・寿永の合戦)でなぜ平家が源氏に敗れたのだろうか?
歴史家は、その要因の一つに、源平武士団結成の仕組みの違いをあげている。源氏は「御家人の利益獲得を厳しく管理する」兵団であったのに対して、平氏は固い主従関係に基づく兵団ではなく、むしろ当時の武士は貴族社会を守るための「駆武者(かりむしゃ=諸方から駆り集めた武者)。傭兵」に依存していた。そのため、負け戦となれば、金の切れ目が縁の切れ目になり、兵団は霧消してしまったという。このような西国武者(平氏)と東国武者(源氏)の武士の違いを、『平家物語』では、治承4年(1180年)に駿河国富士川で源頼朝、武田信義平維盛が戦った際に、従軍していた東国出身の斎藤実盛は、維盛との会話の中で、「親が討たれ子が討たれても、その屍を乗り越えて戦うのが合戦というものだ。ところが西国では、親が死ねば供養をし、忌が明けてから攻め寄せる。子が討たれると歎き悲しんで攻め込んでこない。兵糧米がなくなれば、春には田を作り、秋には刈り取ってから攻め寄せてくる。夏は熱い、冬寒いといって戦を嫌う。東国ではこのようなことはない。」と、西国の武士は伝統的な秩序がありそれを重んじているが、東国にはこのような秩序:習慣はなく、戦いになると、敵を倒すために遮二無二(しゃにむに。なりふり構わず)に戦っている、。だから強いのだ・・・と語らせている。(参考の※1、※11の平家物語巻第5富士川の段を参照)。ただ、斎藤実盛がこの合戦に従軍していた史実はなく、この話は東国武士の優越さを誇張するための虚構と考えられる。
最後に、このブログで、先に武家としての清盛について触れた学説上の対立については、実は、平氏一門の中に実在した矛盾の表現ではないかという。鎌倉幕府を樹立した頼朝が京都の天空に駆け上がろうとする志向と、東国の大地に深く根を下ろすことを求める動きとの葛藤の中で苦悩したのと同様に、清盛も「二つの魂」の相克―京都の宮廷に強く心引かれ、その中で地歩を確立することを求める人々と、独自な足場に立って自立した政権、国家の起立に突き進もうとする人々との対立が平氏一門の中にもあったのではないかというのだが・・・。 これからの大河ドラマ「平清盛」が史実に基づいて、どのような展開をしていくのか見ていくことにしよう。 
文字数の制約上中途半端なブログになったが、参考の※10:「一 輪 奏 :平家物語」や※11:「風の音 総目次」を見ておくとドラマが楽しくなるかも・・・。
(冒頭の画像:平治の乱の終幕に間近い六波羅合戦の一場面。源氏軍の闘将悪源太義平は、平氏の本邸六波羅を猛攻する。これをよくしのぎぬいた清盛は、今度は逆に手勢を率いて六波羅の大門から出撃。激しい戦いが開始される。この絵は、清盛が黒馬に乗り、大声でおめいて出ようとする、その「清盛出撃」の情景である。『平氏物語絵巻』個人像。部分。この画は週間朝日百科「日本の歴史?。中世ー?ー?源氏と平氏掲載のものを借用)
参考:
※1:Cube-Aki 【保元物語、平治物語、平家物語、吾妻鏡の原帖そして現代語訳等】
http://cubeaki.dip.jp/
※2:義経デジタル文庫
http://www.st.rim.or.jp/~success/bunko_yositune.html
※3:2012年大河ドラマ「平清盛」の公式サイト
http://www9.nhk.or.jp/kiyomori/
※4:痛いニュース(ノ∀`) : NHK大河「平清盛」低視聴率挽回へ、濡れ場シーン投入・・・
http://blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/1692932.html
※5:忠を選ぶか孝を選ぶか、平重盛が下した決断 - 西野神社 社務日誌
http://d.hatena.ne.jp/nisinojinnjya/20081122
※6:日本史-歴史研究
http://www.uraken.net/rekishi/rekijap.html
※7:平家礼賛
http://www6.plala.or.jp/HEIKE-RAISAN/index.html
※8:二条天皇と後白河上皇の応保元年
http://www2.ngu.ac.jp/uri/gengo/pdf/genbun_vol2202_08.pdf#search='愚管抄 清盛 アナタコナタ'
※9:北道倶楽部
http://www.ktmchi.com/index.html
※10:一 輪 奏 :平家物語
http://ichirinso.web.fc2.com/heike_ind.html
※11:風の音 
http://kazeoto.com/kaze-oto.sakuin.html
日本史・世界史の事象と人物
http://www5f.biglobe.ne.jp/~mind/vision/history001/world_history.html
神戸市文書館源平特集目次:
http://www.city.kobe.lg.jp/information/institution/institution/document/genpei/genpei.html
大河ドラマ「平清盛」あらすじ&歴史背景
http://unmeican.seesaa.net/

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