享和4年2月11日(グレゴリオ暦1804年3月22日)は、 甲子革令(かっしかくれい)に当たるため文化(ぶんか)に改元された。
日本の元号「文化」は、享和(きょうわ)の後、文化15年4月22日(グレゴリオ暦1818年5月26日) 「文政」に改元されるまでの期間を指す。
この時代の天皇は光格天皇、仁孝天皇であり、当時の江戸幕府将軍は第11代徳川家斉であった。
17世紀終わり頃から18世紀初頭にかけて、元禄時代(1688年 - 1707年)を中心として、主に京都・大坂(大阪)などの上方を中心に発展しいたた元禄文化に代わり、江戸を中心とした町人の文化(culture)が顕著に発展した時期であり、後続する文政期とあわせ、化政文化という。これ以降、文中に多くの元号名が出てくるが、すべてをリンクしていないので、元号や改元理由等について知りたい時は、以下参考の※1:「Category:日本の元号」を参照してください。
元号は一般には年号と呼ばれている。中国を中心とする東洋の漢字文化圏に広まった紀年法で、紀元前140年、前漢の武帝の時に始まった。
日本に於ける正式の年号の初めは皇極天皇4年(645年)蘇我氏(蘇我蝦夷・入鹿親子)の討滅を機(乙巳の変・大化の改新)に天皇の禅(ゆず)りを受けて、皇弟・軽皇子が即位し、孝徳天皇となり、数日後、『日本書記』に「天豊財重日足姫天皇(あめとよたからいかしひたらしひめのすめらみこと=皇極天皇)の4年を改めて、大化元年と為す」と記されているのがそれである。
このとき以前にも法興と言う年号などがあるが、これは私年号である。大化6年(650年)穴戸(長門国の古称)国司より白雉(しろきぎす。はくち。=白色のキジ)を献上されたのを祥瑞(しょうずい。瑞祥【ずいしょう】と同じ。めでたいことが起こるという前兆。吉兆)として、白雉(はくち)と改元したが、同5年孝徳天皇崩御して以後行われず、天武朝の末年、朱鳥(あかみとり、しゅちょう、すちょう)の年号が定められたが、その年天皇が崩御してこれも続かず、文武天皇5年(701年)に至って対馬から金が貢上されたのを機に大宝の年号が建てられた。大宝律令において初めて日本の国号が定められ、本格的な中央集権統治体制を成立した。
この年施行された大宝令には、公文に年を記す時はすべて元号(年号)を用いることが規定されていたことから、律令制度と年号は切り離すことの出来ないものとなり、次第に国民の間に浸透。年号は、大宝以降絶えることなく現代に及んでいる(※1参照)。
大宝から平成まで、天皇の代数は83代(北朝を含めると89代)を数えるが、その間の年号は244、(このうち北朝の年号は17)を数える。この代数に比べ年号の数が多いのは、一代のうちに幾たびも改元される場合が多いからである。
例えば、文化・文政の頃の天皇の時代の改元状況を、見ると、以下のようになっており、光格天皇の代では4度も改元をしているのである。
光格天皇
改元年元号(年数と改元理由)
1781年天明(9年、光格天皇の即位のため代始改元)
1789年寛政(13年、辛酉改元 )
1804年文化(15年、甲子改元辛酉改元
改元時の天皇仁孝天皇
1818年文政(13年、仁孝天皇即位のため代始改元)
1830年天保(15年、災異改元)
1844年弘化(5年、災異改元)
改元は、?君主の交代による代始改元、?吉事を理由とする祥瑞改元 、?凶事に際してその影響を断ち切るための災異改元が行なわれるほか、注目すべきは、平安時代より、江戸時代末期まで行なわれていた?革命改元といわれる・辛酉(しんゆう)と、甲子(きのえね)の年の改元がある。
?の辛酉と甲子の改元は昌泰4年(901年)の辛酉の年にあたり、文章博士の三善清行が、中国で発展した讖緯(しんい)説による辛酉革命、甲子革命の思想により、改元の勘文(意見書。革命勘文参照)を上奏し、これにより「延喜」と改元したことから辛酉改元が始まり、甲子改元は、康保の改元(964年)から始まり、以後幾つかの例外はあるが、江戸時代の末まで、辛酉と甲子の年には改元するのが例となっている。
上掲の通り、光格天皇の代にも辛酉と甲子の改元が行われている。ただ“中国では辛酉改元・甲子改元などは、行われていない。その意味では、日本の暦の歴史の上に現れている特異な現象である。”・・・ともいう(※3、※4参照。尚、※4にはちょっと面白いことも書かれてるよ)。
日本の改元は概ね?か?であり、?の早い例が「白雉」の改元であり主として、奈良時代か平安時代に行なわれた。この祥瑞改元に代ってあらわれるのが?の災異改元であり、これは災難を天の戒めとみるもので、奈良時代にも天平神護の改元(765年、藤原仲麻呂の乱を神霊の護りによって平定したことによる)例はあるが、平安時代に入って水潦(すいろう。=雨、水災)、疾疫によって延長の改元(923年)が行なわれて以後、地震、暴風、火災、飢饉、兵乱など?の災異による改元は江戸時代まで行われた。光格天皇、仁孝天皇の代でも?の災異による改元が多いのがわかるだろう。
代始改元の場合、奈良時代には即位と同時に改元する例が何度かあるが、平安時代からは「大同」の改元(806年)以外は、即位の翌年に改元するのが例となった。皇位継承の年に改元するのは先帝に対して非礼であるとする考えに基づくようだ。
もともと天子(日本では大王・天皇の別名)が特定の時代に元号という名前を付ける行為は、天子の在位期間を基準とした在位紀年法に由来し、天子が空間と共に時間(世)を支配するという思想に基づいており、「正朔を奉ずる」(天子の定めた元号と暦法を用いる)ことがその王権への服従の要件となっていた(天子参照)。
元号が政治的支配の正統性を象徴するという観念から、改元は朝廷の権限によるところのものであり、改元手続きは、平安時代中頃では、天皇の仰せにより、式部大輔や文章博士などの儒者が中国の経史(経書と史書)から佳字を選び出典を付して提出された年号勘文が天皇に奏上された後、公家たちが先例や文字の吉凶などを難陳(非難したり弁解したり、互いに議論をたたかわせること)した結果最善と思われるものが天皇に奉上され、勅裁(詔勅参照)を得て、公布され、この手続きは、武家政権が確立した後も、改元はほとんど唯一天皇大権として残され、後世まで引き継がれる。
ただ、中世(平安末期)以降、朝廷の権力が低下し、武家の権力が強くなると、武家側の意向が改元の上に影響を及ぼすようになり、江戸時代に入ると幕府によって出された禁中並公家諸法度第8条により「漢朝年号の内、吉例を以て相定むべし(中国の元号の中から良いものを選べ)」とされ、幕府が元号決定に強く介入することになった。
その最初が、「元和」であり、この改元は、家康の命により、唐の憲宗の年号を用いたものだという。改元の直前に発生した大坂夏の陣によって豊臣氏は滅亡した(5月8日)。元和は長く続いた戦国時代の終わりと平和の始まりを意味するそうだ。
兎に角、一人の天皇の在世中に頻繁に年号が変わっていては、天皇の在位期間も非常に判りづらく、親しまれるわけもなく、何かと不便なので、庶民のほとんどは干支に頼っていだ。
そこで、わが国では「明治」の改元に当たり、旧制を改めて一世一元の制が採用された。一世一元制は、中国では、明・清両朝において行なわれ、我が国でも、江戸時代に学者によって論じられていたが、明治元年(慶応4年)9月8日(グレゴリオ暦:1868年10月23日)の改元勅書に「慶応4年を改めて明治元年と為す、今より以後旧制を革易(かくえき)し、一世一元を以て永式と為す」(原文は漢文。※5参照)と明示された。改元の手続きも、旧来の難陳の儀が廃止され、年号勘問の中から2,3の佳号を選び、天皇が賢所(かしこどころ)の神前で籤(くじ)を引き「明治」がきめられたという。
改元が年の呼称を改めるということから、慶応4年1月1日(1868年1月25日)に遡って適用された。法的には慶応4年1月1日より明治元年となる。在位中の改元は行わないものとなった。このことは、明治22年(1889年)の皇室典範でも確認されている。その後、同42年公布の「登極令」にて、「践祚後は直ちに元号を改める」 「元号は枢密顧問官に諮詢を経て勅定し、詔書で公布する」と規定して改訂手続きの大綱を定め、これに基づいて、「大正」「昭和」の改元が行われ、この元号の告示は内閣によって行なわれた。
第二次世界大戦後、日本国憲法施行と皇室典範改正により、元号の法的根拠は一旦消失したが、昭和54年(1979年)施行の元号法(新)によって新しい根拠を持つに至り、皇位の継承があった場合に限り元号を変更すること。また、「元号は政令で定める」として、内閣の権限となった。
さて、元号そのものの話はこれまでとして、最後に本題の「文化文政」の時代について簡単に触れておこう。
光格天皇及び仁孝天皇の代は第11代徳川家斉の治下である。家斉は、天明6年(1786年)第10代将軍・徳川家治急死を受け、天明7年(1787年)に15歳で第11代将軍に就任。
将軍に就任すると、家治時代に権勢を振るった田沼意次を罷免し、代わって徳川御三家から推挙された陸奥白河藩主で名君の誉れ高かった松平定信を老中首座に任命。これは家斉が若年のため、家斉と共に第11代将軍に目されていた定信を御三家が立てて、家斉が成長するまでの代繋ぎにしようとしたものだという。この定信が主導した政策が「寛政の改革」と呼ばれるものである。
松平定信による、「寛政の改革」では積極的に幕府財政の建て直し(幕政改革)が図られたが、厳格過ぎたため次第に家斉や他の幕府上層部からも批判が起こり、さらに朝廷と江戸幕府との間に発生した閑院宮典仁親王への尊号贈与に関する尊号事件なども重なって次第に家斉と対立するようになり、寛政5年(1793年)7月、定信は家斉に罷免され、家定による6年余りに及ぶ寛政の改革は途絶えた。
ただ、定信の失脚後、ただちに幕政が根本から転換したわけではなく、家斉は定信の元で幕政に携わってきた松平信明を老中首座に任命。これを戸田氏教、本多忠籌ら定信が登用した老中達が支える形で定信の政策は継続されていった(彼らは寛政の遺老と呼ばれた)。しかし、文化14年(1817年)松平信明が病死すると、家斉は自らの手で政治を始めたが、寛政の改革に対する反動的な政治をしたと言われている。
家斉は、天保8年(1837年)退隠し、世子家慶に将軍職を譲りはしたものの、その後も、天保12年(1841年)1月、69歳で死去するまで西丸で大御所として強大な発言権を保持し政治の実験を握り続けていた。ことから、後の人から「大御所時代」とも呼ばれるようになった。
本来幕府が重視してきた農業を基本とする社会形態を、 商人達による商業を中心とした資本力によって社会の活力を求め、幕府の財政を立て直す政策に転換した事により、景気は上昇し社会は活況を呈していた。
寛政の改革は、「江戸幕府の三大改革」のひとつにも数えられる一大事行であるにもかかわらず、何故か、この時代を「寛政期」とは呼ばれずに、「文化・文政期(化政時代)」と呼ばれている。
徳川家斉の下でこの改革に携った定信は将軍徳川吉宗の孫にあたり、吉宗の行った「享保の改革」」を理想として掲げ、政治改革を断行(1716-1745年)を理想としたため、田沼意次時代の重商主義によるインフレを収めるため、本来幕府が重視してきた農業を基本とする社会形態(重農主義)に戻すべく、質素倹約・風紀取り締まりを進め、超緊縮財政で臨んだ。
寛政の改革の倹約令では、武士の華美な生活を規制するだけではなく、町人や百姓の華美な生活も規制の対象としたことにより、単なる武士の家計の収支を安定させる政策に留まらず、貨幣経済の進展に伴う経済活動全般を規制するという、極めて時代錯誤的なものとなった。
又、多額の借金を抱えた旗本御家人の債権放棄・債務繰延べを債権者である札差に対しさせた武士救済法令でもある「棄捐令」も当初、借金を棒引きに感謝していた武士達も、札差達の一斉締め貸し(金融拒否)により生活が困窮し逆に幕府の政策を恨むようになり、化政期を経て札差は再び隆盛し、旗本・御家人たちの借金は寛政の頃と同じかそれ以上に増大。社会にモラルバザーをもたらせ結果になった。
そこには、この改革の性格が、田沼時代の全否定にあり、華美な文化がすべての悪の元凶であり、昔に戻すことが改革の根本であるという定信の復古主義的政策の基調が経済政策の失敗を招いたといえる。この時代には、町人や百姓の華美な生活はすでに、江戸時代の経済を回すに不可欠な需要創出機能を担っていた。
そして武士の華美な生活もまた、その一端を担っていたのであり、寛政の改革の経済政策に対する批判は、それが有効需要を削減して深刻な不景気をもたらすという面において、批判されるものであった。
結局、田沼時代に健全化した財政は再び悪化に転じ、もはや倹約令ごときでは回復不能になっていた。改革も人心収攬にも失敗。綱紀(国家を治める大法と細則。また、一般に起律)は弛み風俗は頽廃、江戸市民は遊楽を事としたが、その一方で、町人芸術は爛熟の極に達し、小説(山東京伝・式亭三馬・滝沢馬琴)、戯曲(鶴屋南北)、俳諧(小林一茶)、浮世絵(喜多川歌麿・東洲斎写楽・葛飾北斎)、西洋画(司馬江漢)、文人画(谷文晁)など優れた作家を輩出した。江戸から発生した文化は、商人などの全国的交流や、出版・教育の普及によって各地に伝えられていった。
この期間は家斉が在職中の天明、寛政、享和、文化、文政、天保の各元号のなかで、「寛政の改革」(天明7年【1787年】-寛政5年【1793】)と「天保の改革」(文政13年【1830年】 - 天保14年【1843年】)の間の期間、つまり、文化から天保までをさす。寛政・天保は、財政的な改革の時期であり、この時代は緊縮財政のために、文化はあまり発展しなかったが、江戸時代の文化を考えるとき、文化・文政は元禄とともに特徴的な時代であることから、文化文政時代(略して化政時代)とも呼ばれている。
しかし、この時代は江戸を中心に、化政文化が栄えた一方、江戸幕府が衰退する始まりでもあった。貨幣経済の発達に伴って逼迫した幕府財政の再興を目的とした天保の改革の影響は大きく、厳しい統制の時代になったため、昔を懐かしんだ人々がこの時代を大御所時代と呼び始めたともいわれる。
ただ、松平定信主導による経済政策では、改革の直前に、近世最大の飢饉といわれる「天明の大飢饉」があったことから、低下した幕府の指導力を取り戻すために、儒学のうち農業と上下の秩序を重視した朱子学を正学として復興させ、思想統制を行い、 幕府組織の強化を図った。
この中では仁政(為政者が人々をいたわりいつくしむよい政治)を担う人材を育てる政策も行なわれており、それが、後には、農政面で生かされるようになり、又、それが、武士だけでなく二宮 尊徳のような、民を慈しむべきものと捉え、自らが代官となって村の再建に尽力する固い信念をもった百姓が生まれる背景ともなった。ただ、皮肉なことに、この朱子学の台頭によって天皇を中心とした国づくりをするべきという尊王論と尊王運動が起こり、後の倒幕運動と明治維新へ繋がっていくのである。
農業に関する経済面では、飢饉に備える為の囲米と「七分積金」の制度により、困窮した人に対する救済金の制度を設けた。又、「旧里帰農令」により、江戸へ大量に流入していた地方出身の農民達に資金を与え帰農させ、農村の復興と農業人口の確保を狙った。
そして、江戸石川島(東京都中央区)には、罪を犯した軽度犯罪者や無宿人、浮浪人を収容して職業訓練を行なう更生施設として「人足寄場」を設置し、治安対策も兼ねた。 これら者に対して教育的・自立支援的なアプローチを取り入れた処遇を行った点は当時としては画期的ものだったが、これは、なんと、あの池波正太郎の時代小説またそれをテレビ化してよく知られている「鬼平犯科帳」に登場する火付盗賊改方長官・長谷川平蔵(宣以)が定信に提案し設置されたものである。
寛政の改革自体はわずか6年程度であったが、定信の老中退陣後も彼の同志寛政の遺老たちによって継続して進められ、一定の成果を挙げ、一時的にせよ社会の安定には役立っていた。
定信主導によるこの改革は、封建領主が主に村からの年貢によって暮らす社会体制の安定と維持をねらったものであったが、この頃既に、貨幣経済の進展によって、社会の分解と貧富の差の拡大、そして政治の機能不全がさらに進展し、封建的領主権に基づく武家の支配が、経済的にも政治的にも弱体化し、封建社会とそれを基盤とした幕藩政治そのものが立ち行かなくなっていたのであり、打ち続く社会危機にも無策であった幕府や藩の権威は地に落ちつつあった。
このような、内政的な面だけでなく、この時代は、ヨーロッパ勢力のアジアへの侵出が拡大していた時期であり、ロシアをはじめとして日本に対して新たな通商を求める動きが活発化し、幕府は鎖国体制を見直すかどうかの、大きな問題もあり、内政の危機と外交の危機とが一体となって進んでいた。
その上、朝廷・天皇の権威が次第に上昇し始め、同時に幕府が行う全国統治にほころびが見えてくるや、幕府に統治権限を委任した朝廷に頼って幕府の政治を改めようという動きや、直接的に幕府に代わって朝廷が全国を統治するべきだとする動きさえ生まれてきつつあった。
そんな中、文化への改元を行なった光格天皇は、天明の大飢饉の際には幕府に領民救済を申し入れて、ゴローニン事件の際には交渉の経過を報告させるなど、朝廷権威の復権に務めていた。
また、朝幕間の特筆すべき事件として、先にも書いた、尊号一件が挙げられるが、この事件では、天皇になったことのない父・典仁親王に、一般的には天皇になったことのある場合におくられる太上天皇号をおくろうとした天皇の意向は、幕府の反対によって断念せざるを得なかったが、この事件の影響は尾を引き、やがて尊王思想を助長する結果ともなった。
明治天皇は典仁親王の玄孫であり、典仁親王は直接の祖先にあたるということで、明治17年(1884年)には、慶光天皇(慶光院とも)の諡号と太上天皇の称号が贈られている。
この寛政の改革についてどのように見るかについては、以下参考の※6の中の「第3章:近世の日本」批判31 貨幣経済の進展に翻弄される封建領主体制ー寛政の改革と改革政治の弛緩に詳しく書かれている。文化とは何かについては、又の機会に書いてみたい。
(冒頭の画像は、正倉院の宝物容器。715年、元正天皇即位、左京職より瑞亀(背に北斗七星のある亀)が献上され、和銅から霊亀に改元された。祥瑞による改元。この宝物は、その記念品との見方もあるそうだ。正倉院蔵。画像は、週間朝日百科「日本の歴史47」古代-?暦と年号・度量衡より借用)
参考:
※1:Category:日本の元号- Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/Category:%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E5%85%83%E5%8F%B7
※2:「大化」は日本最初の年号ではない!!
http://www004.upp.so-net.ne.jp/teikoku-denmo/html/history/honbun/nengou.html
※3:こよみのページ>暦のこぼれ話> 2008/09/18辛酉革命
http://koyomi.vis.ne.jp/doc/mlwa/200809180.htm
※4:日本書紀の謎を解く鍵=菅原道真
http://www.geocities.jp/yasuko8787/0x-t9.htm
※5:中野文庫 - 詔書(明治元年)
http://www.geocities.jp/nakanolib/shou/sm01.htm
文化人類学入門
http://cscd.osaka-u.ac.jp/user/rosaldo/0-culanthro.html
※6:新しい歴史教科書・その嘘の構造と歴史的位置:徹底検証:「新しい歴史教科書」の光と影
http://www4.plala.or.jp/kawa-k/rekishi.htm
文化 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E5%8C%96
改元思想背景及びその実態についての一考察
http://203.72.2.115/Ejournal/AI02001705.pdf#search='改元思想背景及びその実態についての一考察'
皇紀2600年(三浦佑之)
http://homepage1.nifty.com/miuras-tiger/kouki2600nen.htm
れきしのおべんきょう
http://rekishiiroiro.blog130.fc2.com/archives.html
文化とは何か(目次)
http://www.asahi-net.or.jp/~yg5t-ssgc/page003.html
日本の元号「文化」は、享和(きょうわ)の後、文化15年4月22日(グレゴリオ暦1818年5月26日) 「文政」に改元されるまでの期間を指す。
この時代の天皇は光格天皇、仁孝天皇であり、当時の江戸幕府将軍は第11代徳川家斉であった。
17世紀終わり頃から18世紀初頭にかけて、元禄時代(1688年 - 1707年)を中心として、主に京都・大坂(大阪)などの上方を中心に発展しいたた元禄文化に代わり、江戸を中心とした町人の文化(culture)が顕著に発展した時期であり、後続する文政期とあわせ、化政文化という。これ以降、文中に多くの元号名が出てくるが、すべてをリンクしていないので、元号や改元理由等について知りたい時は、以下参考の※1:「Category:日本の元号」を参照してください。
元号は一般には年号と呼ばれている。中国を中心とする東洋の漢字文化圏に広まった紀年法で、紀元前140年、前漢の武帝の時に始まった。
日本に於ける正式の年号の初めは皇極天皇4年(645年)蘇我氏(蘇我蝦夷・入鹿親子)の討滅を機(乙巳の変・大化の改新)に天皇の禅(ゆず)りを受けて、皇弟・軽皇子が即位し、孝徳天皇となり、数日後、『日本書記』に「天豊財重日足姫天皇(あめとよたからいかしひたらしひめのすめらみこと=皇極天皇)の4年を改めて、大化元年と為す」と記されているのがそれである。
このとき以前にも法興と言う年号などがあるが、これは私年号である。大化6年(650年)穴戸(長門国の古称)国司より白雉(しろきぎす。はくち。=白色のキジ)を献上されたのを祥瑞(しょうずい。瑞祥【ずいしょう】と同じ。めでたいことが起こるという前兆。吉兆)として、白雉(はくち)と改元したが、同5年孝徳天皇崩御して以後行われず、天武朝の末年、朱鳥(あかみとり、しゅちょう、すちょう)の年号が定められたが、その年天皇が崩御してこれも続かず、文武天皇5年(701年)に至って対馬から金が貢上されたのを機に大宝の年号が建てられた。大宝律令において初めて日本の国号が定められ、本格的な中央集権統治体制を成立した。
この年施行された大宝令には、公文に年を記す時はすべて元号(年号)を用いることが規定されていたことから、律令制度と年号は切り離すことの出来ないものとなり、次第に国民の間に浸透。年号は、大宝以降絶えることなく現代に及んでいる(※1参照)。
大宝から平成まで、天皇の代数は83代(北朝を含めると89代)を数えるが、その間の年号は244、(このうち北朝の年号は17)を数える。この代数に比べ年号の数が多いのは、一代のうちに幾たびも改元される場合が多いからである。
例えば、文化・文政の頃の天皇の時代の改元状況を、見ると、以下のようになっており、光格天皇の代では4度も改元をしているのである。
光格天皇
改元年元号(年数と改元理由)
1781年天明(9年、光格天皇の即位のため代始改元)
1789年寛政(13年、辛酉改元 )
1804年文化(15年、甲子改元辛酉改元
改元時の天皇仁孝天皇
1818年文政(13年、仁孝天皇即位のため代始改元)
1830年天保(15年、災異改元)
1844年弘化(5年、災異改元)
改元は、?君主の交代による代始改元、?吉事を理由とする祥瑞改元 、?凶事に際してその影響を断ち切るための災異改元が行なわれるほか、注目すべきは、平安時代より、江戸時代末期まで行なわれていた?革命改元といわれる・辛酉(しんゆう)と、甲子(きのえね)の年の改元がある。
?の辛酉と甲子の改元は昌泰4年(901年)の辛酉の年にあたり、文章博士の三善清行が、中国で発展した讖緯(しんい)説による辛酉革命、甲子革命の思想により、改元の勘文(意見書。革命勘文参照)を上奏し、これにより「延喜」と改元したことから辛酉改元が始まり、甲子改元は、康保の改元(964年)から始まり、以後幾つかの例外はあるが、江戸時代の末まで、辛酉と甲子の年には改元するのが例となっている。
上掲の通り、光格天皇の代にも辛酉と甲子の改元が行われている。ただ“中国では辛酉改元・甲子改元などは、行われていない。その意味では、日本の暦の歴史の上に現れている特異な現象である。”・・・ともいう(※3、※4参照。尚、※4にはちょっと面白いことも書かれてるよ)。
日本の改元は概ね?か?であり、?の早い例が「白雉」の改元であり主として、奈良時代か平安時代に行なわれた。この祥瑞改元に代ってあらわれるのが?の災異改元であり、これは災難を天の戒めとみるもので、奈良時代にも天平神護の改元(765年、藤原仲麻呂の乱を神霊の護りによって平定したことによる)例はあるが、平安時代に入って水潦(すいろう。=雨、水災)、疾疫によって延長の改元(923年)が行なわれて以後、地震、暴風、火災、飢饉、兵乱など?の災異による改元は江戸時代まで行われた。光格天皇、仁孝天皇の代でも?の災異による改元が多いのがわかるだろう。
代始改元の場合、奈良時代には即位と同時に改元する例が何度かあるが、平安時代からは「大同」の改元(806年)以外は、即位の翌年に改元するのが例となった。皇位継承の年に改元するのは先帝に対して非礼であるとする考えに基づくようだ。
もともと天子(日本では大王・天皇の別名)が特定の時代に元号という名前を付ける行為は、天子の在位期間を基準とした在位紀年法に由来し、天子が空間と共に時間(世)を支配するという思想に基づいており、「正朔を奉ずる」(天子の定めた元号と暦法を用いる)ことがその王権への服従の要件となっていた(天子参照)。
元号が政治的支配の正統性を象徴するという観念から、改元は朝廷の権限によるところのものであり、改元手続きは、平安時代中頃では、天皇の仰せにより、式部大輔や文章博士などの儒者が中国の経史(経書と史書)から佳字を選び出典を付して提出された年号勘文が天皇に奏上された後、公家たちが先例や文字の吉凶などを難陳(非難したり弁解したり、互いに議論をたたかわせること)した結果最善と思われるものが天皇に奉上され、勅裁(詔勅参照)を得て、公布され、この手続きは、武家政権が確立した後も、改元はほとんど唯一天皇大権として残され、後世まで引き継がれる。
ただ、中世(平安末期)以降、朝廷の権力が低下し、武家の権力が強くなると、武家側の意向が改元の上に影響を及ぼすようになり、江戸時代に入ると幕府によって出された禁中並公家諸法度第8条により「漢朝年号の内、吉例を以て相定むべし(中国の元号の中から良いものを選べ)」とされ、幕府が元号決定に強く介入することになった。
その最初が、「元和」であり、この改元は、家康の命により、唐の憲宗の年号を用いたものだという。改元の直前に発生した大坂夏の陣によって豊臣氏は滅亡した(5月8日)。元和は長く続いた戦国時代の終わりと平和の始まりを意味するそうだ。
兎に角、一人の天皇の在世中に頻繁に年号が変わっていては、天皇の在位期間も非常に判りづらく、親しまれるわけもなく、何かと不便なので、庶民のほとんどは干支に頼っていだ。
そこで、わが国では「明治」の改元に当たり、旧制を改めて一世一元の制が採用された。一世一元制は、中国では、明・清両朝において行なわれ、我が国でも、江戸時代に学者によって論じられていたが、明治元年(慶応4年)9月8日(グレゴリオ暦:1868年10月23日)の改元勅書に「慶応4年を改めて明治元年と為す、今より以後旧制を革易(かくえき)し、一世一元を以て永式と為す」(原文は漢文。※5参照)と明示された。改元の手続きも、旧来の難陳の儀が廃止され、年号勘問の中から2,3の佳号を選び、天皇が賢所(かしこどころ)の神前で籤(くじ)を引き「明治」がきめられたという。
改元が年の呼称を改めるということから、慶応4年1月1日(1868年1月25日)に遡って適用された。法的には慶応4年1月1日より明治元年となる。在位中の改元は行わないものとなった。このことは、明治22年(1889年)の皇室典範でも確認されている。その後、同42年公布の「登極令」にて、「践祚後は直ちに元号を改める」 「元号は枢密顧問官に諮詢を経て勅定し、詔書で公布する」と規定して改訂手続きの大綱を定め、これに基づいて、「大正」「昭和」の改元が行われ、この元号の告示は内閣によって行なわれた。
第二次世界大戦後、日本国憲法施行と皇室典範改正により、元号の法的根拠は一旦消失したが、昭和54年(1979年)施行の元号法(新)によって新しい根拠を持つに至り、皇位の継承があった場合に限り元号を変更すること。また、「元号は政令で定める」として、内閣の権限となった。
さて、元号そのものの話はこれまでとして、最後に本題の「文化文政」の時代について簡単に触れておこう。
光格天皇及び仁孝天皇の代は第11代徳川家斉の治下である。家斉は、天明6年(1786年)第10代将軍・徳川家治急死を受け、天明7年(1787年)に15歳で第11代将軍に就任。
将軍に就任すると、家治時代に権勢を振るった田沼意次を罷免し、代わって徳川御三家から推挙された陸奥白河藩主で名君の誉れ高かった松平定信を老中首座に任命。これは家斉が若年のため、家斉と共に第11代将軍に目されていた定信を御三家が立てて、家斉が成長するまでの代繋ぎにしようとしたものだという。この定信が主導した政策が「寛政の改革」と呼ばれるものである。
松平定信による、「寛政の改革」では積極的に幕府財政の建て直し(幕政改革)が図られたが、厳格過ぎたため次第に家斉や他の幕府上層部からも批判が起こり、さらに朝廷と江戸幕府との間に発生した閑院宮典仁親王への尊号贈与に関する尊号事件なども重なって次第に家斉と対立するようになり、寛政5年(1793年)7月、定信は家斉に罷免され、家定による6年余りに及ぶ寛政の改革は途絶えた。
ただ、定信の失脚後、ただちに幕政が根本から転換したわけではなく、家斉は定信の元で幕政に携わってきた松平信明を老中首座に任命。これを戸田氏教、本多忠籌ら定信が登用した老中達が支える形で定信の政策は継続されていった(彼らは寛政の遺老と呼ばれた)。しかし、文化14年(1817年)松平信明が病死すると、家斉は自らの手で政治を始めたが、寛政の改革に対する反動的な政治をしたと言われている。
家斉は、天保8年(1837年)退隠し、世子家慶に将軍職を譲りはしたものの、その後も、天保12年(1841年)1月、69歳で死去するまで西丸で大御所として強大な発言権を保持し政治の実験を握り続けていた。ことから、後の人から「大御所時代」とも呼ばれるようになった。
本来幕府が重視してきた農業を基本とする社会形態を、 商人達による商業を中心とした資本力によって社会の活力を求め、幕府の財政を立て直す政策に転換した事により、景気は上昇し社会は活況を呈していた。
寛政の改革は、「江戸幕府の三大改革」のひとつにも数えられる一大事行であるにもかかわらず、何故か、この時代を「寛政期」とは呼ばれずに、「文化・文政期(化政時代)」と呼ばれている。
徳川家斉の下でこの改革に携った定信は将軍徳川吉宗の孫にあたり、吉宗の行った「享保の改革」」を理想として掲げ、政治改革を断行(1716-1745年)を理想としたため、田沼意次時代の重商主義によるインフレを収めるため、本来幕府が重視してきた農業を基本とする社会形態(重農主義)に戻すべく、質素倹約・風紀取り締まりを進め、超緊縮財政で臨んだ。
寛政の改革の倹約令では、武士の華美な生活を規制するだけではなく、町人や百姓の華美な生活も規制の対象としたことにより、単なる武士の家計の収支を安定させる政策に留まらず、貨幣経済の進展に伴う経済活動全般を規制するという、極めて時代錯誤的なものとなった。
又、多額の借金を抱えた旗本御家人の債権放棄・債務繰延べを債権者である札差に対しさせた武士救済法令でもある「棄捐令」も当初、借金を棒引きに感謝していた武士達も、札差達の一斉締め貸し(金融拒否)により生活が困窮し逆に幕府の政策を恨むようになり、化政期を経て札差は再び隆盛し、旗本・御家人たちの借金は寛政の頃と同じかそれ以上に増大。社会にモラルバザーをもたらせ結果になった。
そこには、この改革の性格が、田沼時代の全否定にあり、華美な文化がすべての悪の元凶であり、昔に戻すことが改革の根本であるという定信の復古主義的政策の基調が経済政策の失敗を招いたといえる。この時代には、町人や百姓の華美な生活はすでに、江戸時代の経済を回すに不可欠な需要創出機能を担っていた。
そして武士の華美な生活もまた、その一端を担っていたのであり、寛政の改革の経済政策に対する批判は、それが有効需要を削減して深刻な不景気をもたらすという面において、批判されるものであった。
結局、田沼時代に健全化した財政は再び悪化に転じ、もはや倹約令ごときでは回復不能になっていた。改革も人心収攬にも失敗。綱紀(国家を治める大法と細則。また、一般に起律)は弛み風俗は頽廃、江戸市民は遊楽を事としたが、その一方で、町人芸術は爛熟の極に達し、小説(山東京伝・式亭三馬・滝沢馬琴)、戯曲(鶴屋南北)、俳諧(小林一茶)、浮世絵(喜多川歌麿・東洲斎写楽・葛飾北斎)、西洋画(司馬江漢)、文人画(谷文晁)など優れた作家を輩出した。江戸から発生した文化は、商人などの全国的交流や、出版・教育の普及によって各地に伝えられていった。
この期間は家斉が在職中の天明、寛政、享和、文化、文政、天保の各元号のなかで、「寛政の改革」(天明7年【1787年】-寛政5年【1793】)と「天保の改革」(文政13年【1830年】 - 天保14年【1843年】)の間の期間、つまり、文化から天保までをさす。寛政・天保は、財政的な改革の時期であり、この時代は緊縮財政のために、文化はあまり発展しなかったが、江戸時代の文化を考えるとき、文化・文政は元禄とともに特徴的な時代であることから、文化文政時代(略して化政時代)とも呼ばれている。
しかし、この時代は江戸を中心に、化政文化が栄えた一方、江戸幕府が衰退する始まりでもあった。貨幣経済の発達に伴って逼迫した幕府財政の再興を目的とした天保の改革の影響は大きく、厳しい統制の時代になったため、昔を懐かしんだ人々がこの時代を大御所時代と呼び始めたともいわれる。
ただ、松平定信主導による経済政策では、改革の直前に、近世最大の飢饉といわれる「天明の大飢饉」があったことから、低下した幕府の指導力を取り戻すために、儒学のうち農業と上下の秩序を重視した朱子学を正学として復興させ、思想統制を行い、 幕府組織の強化を図った。
この中では仁政(為政者が人々をいたわりいつくしむよい政治)を担う人材を育てる政策も行なわれており、それが、後には、農政面で生かされるようになり、又、それが、武士だけでなく二宮 尊徳のような、民を慈しむべきものと捉え、自らが代官となって村の再建に尽力する固い信念をもった百姓が生まれる背景ともなった。ただ、皮肉なことに、この朱子学の台頭によって天皇を中心とした国づくりをするべきという尊王論と尊王運動が起こり、後の倒幕運動と明治維新へ繋がっていくのである。
農業に関する経済面では、飢饉に備える為の囲米と「七分積金」の制度により、困窮した人に対する救済金の制度を設けた。又、「旧里帰農令」により、江戸へ大量に流入していた地方出身の農民達に資金を与え帰農させ、農村の復興と農業人口の確保を狙った。
そして、江戸石川島(東京都中央区)には、罪を犯した軽度犯罪者や無宿人、浮浪人を収容して職業訓練を行なう更生施設として「人足寄場」を設置し、治安対策も兼ねた。 これら者に対して教育的・自立支援的なアプローチを取り入れた処遇を行った点は当時としては画期的ものだったが、これは、なんと、あの池波正太郎の時代小説またそれをテレビ化してよく知られている「鬼平犯科帳」に登場する火付盗賊改方長官・長谷川平蔵(宣以)が定信に提案し設置されたものである。
寛政の改革自体はわずか6年程度であったが、定信の老中退陣後も彼の同志寛政の遺老たちによって継続して進められ、一定の成果を挙げ、一時的にせよ社会の安定には役立っていた。
定信主導によるこの改革は、封建領主が主に村からの年貢によって暮らす社会体制の安定と維持をねらったものであったが、この頃既に、貨幣経済の進展によって、社会の分解と貧富の差の拡大、そして政治の機能不全がさらに進展し、封建的領主権に基づく武家の支配が、経済的にも政治的にも弱体化し、封建社会とそれを基盤とした幕藩政治そのものが立ち行かなくなっていたのであり、打ち続く社会危機にも無策であった幕府や藩の権威は地に落ちつつあった。
このような、内政的な面だけでなく、この時代は、ヨーロッパ勢力のアジアへの侵出が拡大していた時期であり、ロシアをはじめとして日本に対して新たな通商を求める動きが活発化し、幕府は鎖国体制を見直すかどうかの、大きな問題もあり、内政の危機と外交の危機とが一体となって進んでいた。
その上、朝廷・天皇の権威が次第に上昇し始め、同時に幕府が行う全国統治にほころびが見えてくるや、幕府に統治権限を委任した朝廷に頼って幕府の政治を改めようという動きや、直接的に幕府に代わって朝廷が全国を統治するべきだとする動きさえ生まれてきつつあった。
そんな中、文化への改元を行なった光格天皇は、天明の大飢饉の際には幕府に領民救済を申し入れて、ゴローニン事件の際には交渉の経過を報告させるなど、朝廷権威の復権に務めていた。
また、朝幕間の特筆すべき事件として、先にも書いた、尊号一件が挙げられるが、この事件では、天皇になったことのない父・典仁親王に、一般的には天皇になったことのある場合におくられる太上天皇号をおくろうとした天皇の意向は、幕府の反対によって断念せざるを得なかったが、この事件の影響は尾を引き、やがて尊王思想を助長する結果ともなった。
明治天皇は典仁親王の玄孫であり、典仁親王は直接の祖先にあたるということで、明治17年(1884年)には、慶光天皇(慶光院とも)の諡号と太上天皇の称号が贈られている。
この寛政の改革についてどのように見るかについては、以下参考の※6の中の「第3章:近世の日本」批判31 貨幣経済の進展に翻弄される封建領主体制ー寛政の改革と改革政治の弛緩に詳しく書かれている。文化とは何かについては、又の機会に書いてみたい。
(冒頭の画像は、正倉院の宝物容器。715年、元正天皇即位、左京職より瑞亀(背に北斗七星のある亀)が献上され、和銅から霊亀に改元された。祥瑞による改元。この宝物は、その記念品との見方もあるそうだ。正倉院蔵。画像は、週間朝日百科「日本の歴史47」古代-?暦と年号・度量衡より借用)
参考:
※1:Category:日本の元号- Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/Category:%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E5%85%83%E5%8F%B7
※2:「大化」は日本最初の年号ではない!!
http://www004.upp.so-net.ne.jp/teikoku-denmo/html/history/honbun/nengou.html
※3:こよみのページ>暦のこぼれ話> 2008/09/18辛酉革命
http://koyomi.vis.ne.jp/doc/mlwa/200809180.htm
※4:日本書紀の謎を解く鍵=菅原道真
http://www.geocities.jp/yasuko8787/0x-t9.htm
※5:中野文庫 - 詔書(明治元年)
http://www.geocities.jp/nakanolib/shou/sm01.htm
文化人類学入門
http://cscd.osaka-u.ac.jp/user/rosaldo/0-culanthro.html
※6:新しい歴史教科書・その嘘の構造と歴史的位置:徹底検証:「新しい歴史教科書」の光と影
http://www4.plala.or.jp/kawa-k/rekishi.htm
文化 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E5%8C%96
改元思想背景及びその実態についての一考察
http://203.72.2.115/Ejournal/AI02001705.pdf#search='改元思想背景及びその実態についての一考察'
皇紀2600年(三浦佑之)
http://homepage1.nifty.com/miuras-tiger/kouki2600nen.htm
れきしのおべんきょう
http://rekishiiroiro.blog130.fc2.com/archives.html
文化とは何か(目次)
http://www.asahi-net.or.jp/~yg5t-ssgc/page003.html