文治6年4月11日(ユリウス暦1190年5月16日)、陰陽道の陰陽五行説による「三合厄歳」(三合の厄)を避ける為、建久(けんきゅう)に改元。
建久の元号は、『晋書』の「建久安於万歳、垂長世於元窮」および『呉書』の「安国和民、建久長之計」を出典として命名。勧進者は文章博士・藤原光輔。光輔は、平安時代中期の貴族、藤原式家の出身で能書家・従五位下・加賀守藤原 文正の子とされている。
前元号は文治。. 建久10年4月27日(ユリウス暦1199年5月23日)土御門天皇即位による代始改元(君主の交代による改元)により正治と改められる(『百錬抄』)。
上掲の画像は、後鳥羽院像(伝藤原信実筆、水無瀬神宮蔵)Wikipediaより
元号の建久は、1190年から1198年まで。.太上天皇(後白河天皇)の院宣を受ける形で、「神器なき即位」をした後鳥羽天皇(高倉天皇の第四皇子。母は、坊門信隆の娘・殖子[七条院]。後白河天皇の孫で安徳天皇の異母弟)の代の元号。
同じく高倉天皇を父に持ち、母は平清盛の娘の徳子(後の建礼門院)の子である異母兄安徳天皇(第81代天皇)が、退位しないまま後鳥羽天皇が即位したため寿永2年(1183年)から平家滅亡の文治元年(1185年)まで在位期間が2年間重複している。
つまり、源氏と平家が相争った治承・寿永の乱の時代。源頼朝の源氏方では寿永の元号を使用せず以前の治承を引き続き使用していたが、源氏方と朝廷の政治交渉が本格化し、朝廷から寿永2 年10月宣旨が与えられた寿永2年(1183年)以降、京都と同じ元号が鎌倉でも用いられるようになる。また、平家方では都落ちした後も次の元暦とその次の文治の元号を使用せず、この寿永をその滅亡まで引き続き使用した。
安徳天皇は、文治1年(1185年)3月の壇ノ浦の戦いで源氏に敗れ、寿永4年3月24日(1185年4月25日)三種の神器である神璽と宝剣を身につけた祖母・二位尼(平時子)に抱かれて壇ノ浦に身を投じ、8歳で崩御している。神器のうち宝剣だけは、いくら探しても海中に沈んだまま遂に回収されることが無かった。伝統が重視される宮廷社会において、皇位の象徴である三種の神器が揃わないまま治世を過ごした後鳥羽天皇にとって、このことは一種の「コンプレックス」であり続けた。
例えば、Wikipedia では、藤原定家は後鳥羽上皇と順徳天皇(後鳥羽天皇の第三皇子。母は、高倉範季の娘・重子[修明門院])の度を越した蹴鞠好きを批判した際に「百王八十余代、神剣没海、卅廻于茲。事理可然」(『明月記』建保元年4月29日条)と神器の不在に原因を求め、近代においても武士の台頭の原因として、後鳥羽天皇が「虚器」を擁していたことに求める意見があった(池田晃淵「承久の乱の起因に就て」『史学雑誌』第7巻第2号、1896年)と記している。
それがゆえに、後鳥羽天皇は、一連の「コンプレックス」を克服するために強力な王権の存在を内外に示す必要があり、それが内外に対する強硬的な政治姿勢、ひいては承久の乱の遠因になったとする見方もある・・・と。
この時代、平氏討滅後、鎌倉を本拠として関東を制圧し、弟たちを代官として源義仲や平氏を倒し、戦功のあった末弟・源義経を追放の後、諸国に守護と地頭を配して力を強めた源 頼朝は、奥州合戦で奥州藤原氏を滅ぼして全国を平定していた。
建久3年(1192年)3月までは、後白河法皇による院政が続いていた。後白河院の死後は関白・九条兼実が朝廷を指導した。兼実は後白河法皇が忌避した源頼朝への征夷大将軍の授与を実現した。これにより、頼朝は、鎌倉幕府を開くことが出来た・・・・が、頼朝の娘(大姫)の入内問題(ここ参照)から関係が疎遠となった。これは土御門通親の策謀によるといわれている。
建久7年(1196年)、通親の養女・在子に皇子(為仁、後の土御門天皇)が産まれた事を機に政変(建久七年の政変)が起こり、兼実の勢力は朝廷から一掃され、兼実の娘・任子も中宮の位を奪われ宮中から追われた。この政変には頼朝の同意があったとも言う。
建久9年 後鳥羽天皇が土御門天皇に譲位。しかし、土御門は父・後鳥羽天皇の譲位により3歳で践祚したため、立太子もしていなかった。土御門天皇即位後、事実上は、後鳥羽上皇による院政がしかれ, 以後、順徳天皇、仲恭天皇と、承久3年(1221年)まで、3代23年間に亘り上皇として院政を敷く。上皇になると土御門通親をも排し、殿上人を整理(旧来は天皇在位中の殿上人はそのまま院の殿上人となる慣例であった)して、院政機構の改革を行うなどの積極的な政策を採り、正治元年(1199年)の頼朝の死後も台頭する鎌倉幕府に対しても強硬な路線を採った。
元号は、歴史上の年を数えるために主権者が定めたものであり、一般には年号と呼ばれる。元は〈はじめ〉の意である。中国を中心とする東洋の漢字文化圏に広まった紀年法で、前漢の武帝のときに始まる。
日本に於ける正式の年号の初めは皇極天皇4年(645年)蘇我氏(蘇我蝦夷・入鹿親子)の討滅を機(乙巳の変・大化の改新)に天皇の禅(ゆず)りを受けて、皇弟・軽皇子が即位し、孝徳天皇となり、数日後、『日本書記』に「天豊財重日足姫天皇(皇極天皇)の4年を改めて、大化元年と為す」(※1:「古典館目次」の日本書紀巻第25-1参照)と記されているのがそれである。
大化以前において法隆寺金堂の釈迦三尊像の光背の銘や『伊予国風土記』逸文の道後温泉の碑文などによって法興という年号(※2:「聖徳太子」の伊予湯岡碑文の考察参照)のあったことが知られているが、これは以下に述べる「白鳳」「朱雀」などと共に、公式に定められたという徴証(ちょうしょう=あかしとなる証拠)がなく、逸年号もしくは広い意味で私年号というべきものとされている。
しかし、蘇我氏の氏寺で、奈良県明日香村にある日本最古の本格的寺院でもある法興寺(飛鳥寺の異称)は、「仏法が興隆する寺」の意であり、隋の文帝(楊堅)が「三宝興隆の詔」を出した591年を「法興元年」と称したこととの関連が指摘されている(※3参照)。
大化6年(650年)穴戸(長門国,の古称)国司より白雉(しろきぎす。はくち。=白色のキジ)を献上されたのを祥瑞(しょうずい。瑞祥【ずいしょう】と同じ。めでたいことが起こるという前兆。吉兆)として、白雉(はくち)と改元したが、同5年孝徳天皇崩御して以後改元は行われず、天武朝の末年、朱鳥(あかみとり)の年号が定められたが、その年天皇が崩御してこれも続かず、文武天皇5年(701年)に至って対馬から金が貢上されたのを機に大宝の年号が建てられた。
そして、大宝律令において初めて日本の国号が定められ(大化元年7月[645年8月]の条に、高句麗や百済の使者に示した詔に「明神御宇日本天皇[あきつみかみとあめのしたしらすやまとのすめらみこと]の文言が出ている(※1の日本書記巻第25-1参照)。本格的な中央集権統治体制を成立したといえる。
この年施行された大宝令には、公文に年を記す時はすべて元号(年号)を用いることが規定されていたことから、律令制度と年号は切り離すことの出来ないものとなり、次第に国民の間に浸透。年号は、大宝以降絶えることなく現代に及んでいる。
尚、南北朝時代の朝廷は、南朝(大和国吉野行宮)と北朝(山城国平安京)に2つの朝廷が存在し、それぞれが正統性を主張し、南北朝合一まで、それぞれが元号を建てていた(元号一覧参照)。
改元行事もこのころから制度化したと考えられ、改元の理由にはおおよそ(1)君主の交代による代始改元(即位改元ともいう)、(2)吉事を理由とする祥瑞改元、(3)凶事に際してその影響を断ち切るための災異改元、(4)革命改元といわれる辛酉(しんゆう)と、甲子(きのえね)の年の改元があることは、以前このブログ文化(元号)でも書いたことあるが、そのほかに、建久の改元のように、「三合厄歳」(三合の厄)を避ける為の改元があることを知った。
三合とは、陰陽道(おんようどう)でいう厄年の一で、太歳・太陰・客気の三神が合することで、災害が多いのだという。
菅野真道らが延暦16年(797年)に完成したという『続日本紀』)には、災害が外から来るという記述と、疫病鬼が人民の家に入ろうとする記述が二つ見え、その一つ、『続日本紀』平宝字二(758)年八月十八日の天皇の勅 に”陰陽道でいう厄年の一つ。大歳・太陰・客気の三神が一年の中に合した、三合の年は洪水・日照り・疫病の災害が起こる、諸仏の母である『摩訶般若波羅密多経』のような四句の偈 (仏をたたえる詩)などを読誦すれば、福徳が集まってきて、その功徳は考えられない程であり、天子がこれを念ずる時は、兵乱や災害は国内に入らない。庶民が念じたならば、病気や疫病鬼は家の中に入らず、悪を断ち幸福を得るのでこれ以上のものはないと。
又、.『続日本紀』宝亀五(774)年夏四月十一日の天皇の勅にも、天下の諸国に悪性の流行病の者が多くて、医療をほどこしてもまだ回復しないと聞く。朕は宇宙に君臨して人民を子として育んでいる。このことを思って寝ても覚めても心を労している。『摩訶般若波羅蜜経』は諸仏の母である。天子が『摩訶般若波羅蜜経』を念ずる時は、兵乱や災害は国内に入らず、一般の人が念ずる時は流行病や流行病の神は家内に入らない。この慈悲によって短命を救わんと思う。・・と。
この二つの例から、八世紀後半以降、疫病が内から発生するのではなく、疫病鬼が外から家の中に入ろうとして起こるという意識があったのではないかと考えられる。「兵乱や災害は国内に入らず」という部分から考えると、「国内」つまり、天皇の非支配領域から疫病が来ているという考え方もあったと解釈できるという。
結局、支配者、すなわち朝廷の貴族やその官人などが一番望んでいたのは、収穫物が滞りなく徴収できることだったと考えられる。以上記述されている救済法(使いを遣わすこと及び薬を給すること)から考えると、人民が長生きできるように、しっかり活動できるようにするのは、まず収穫物を滞りなく収めさせるためで、また、人民が多く死亡したり、支配する人民が減ったりすることは、支配者としての権力が衰退することにつながるからだろう。だから、人民を救うことには政治的な意味があり、支配者の利益に関わる問題だと言えるようだ(※4参照)。
だから、そのような三合の年には、改元までして災難を逃れようとしたのだろう。
古い時代から、伝統社会においては、その社会で共有される宇宙論の中で、王はその中心を象徴するものとして神聖視される場合が多かったようだ。特に農耕社会にあっては、王は農作物の成長を促すエネルギーの源であり、森羅万象を統制する力を持つものとされた。ここにおいては、王は人間の身でありながら、同時に宇宙の秩序を司る存在として捉えられていたようである。
神話や宇宙論、宗教や伝統的な信仰に支えられた「神聖なる王」が制度化するために重要なのが王位継承の儀式であった。
王位継承は、多くの場合、単に統治者としての任務の継承ではなく人が神に変わる経過をたどり、秘儀(非公開で、ひそかに行う儀式。密儀)を含んだ儀礼として劇化される。それは人格の変換を意識される伝統的な通過儀礼といくつかの面で共通点を有している。
例えば、ヨーロッパの王権に見られる王冠・王笏(おうしゃく)・宝珠、中国の歴代皇帝に伝えられてきた伝国璽、日本の天皇制における「三種の神器」などである。
紀年法の一種である元号は、皇帝や王など君主の即位に定められている(治世の途中に随意に行われる改元もある)が、君主が特定の時代に名前を付ける行為は、君主が空間と共に時間まで支配するという思想に基づいており、「正朔を奉ずる」(天子の定めた元号と暦法を用いる)ことがその王権への服従の要件となっていた。
元号が政治的支配の正統性を象徴するという観念は、元号を建てることにより、既存の王朝よりも自らの正統性が優越しているか、少なくとも対等であることを示すことができるという意識を生んだ。そのため、時の王朝に対する反乱勢力はしばしば独自の元号を建てた。また、時の政権に何らかの批判を持つ勢力が、密かに独自の元号を建てて使用することもあった。このように、後世から公認されなかった元号を「私年号」と呼ぶ。
中国王朝の政治制度を受容した周囲の王権は元号制度もともに取り入れているが、これも同様の発想に由来する。中国王朝から見れば、中国王朝を真似て、しかもこれと対等であることを示すために建てられた周辺諸国の元号は、やはり「私年号」であり、使用は許されないものであった。一方で周辺諸国の王権は中国王朝から冊封を受け、周囲の競争勢力に対する自らの正統性の保障としたが、冊封の条件の一つが「正朔を奉ずる」ことであったため、独自元号の使用と冊封は両立しない要素であった。
中国や日本では君主の称号として天子が用いられていた。天下を治める者。国王、皇帝、天皇などの別号として用いられる。
王は天(天帝)の子であり天命により天下を治めるとする古代中国の思想を起源としている。
周代、周公旦によって「天帝がその子として王を認め王位は家系によって継承されていく。王家が徳を失えば新たな家系が天命により定まる」という「天人相関説」が唱えられ、天と君主の関係を表す語として「天子」が用いられるようになったという。
秦の始皇帝により、天下を治める者の呼称が神格化された皇帝へと変わると、天子の称は用いられなくなったが、漢代にいたり儒教精神の復活をみると、再び天子の称が用いられるようになり、それは皇帝の別名となった。
上掲の画像は、中国前漢時代の儒学、『春秋』学者者董 仲舒(とう ちゅうじょ)。
儒家の思想を国家教学とすることを献策した人物。その思想の最大の特徴は「災異説」である。画像は、Wikipediaより。
皇帝の支配は、空間(領土)の支配と時間(暦と年号)に及び、皇帝以外の者の支配は許されなかった。
前漢の武帝は、太陰暦と太陽暦を合体した太初暦を制定。皇帝の下した暦を用いるのが、皇帝の主権を認めた証拠となり、これを「正朔を奉ずる」と言ったのである。
皇帝は天帝に対しては天の子=天子として天を祭る儀礼を司り、それは皇帝だけに許された神聖儀礼として多少の変化はしながらも清朝に至るまで連綿と引き継がれた(皇帝祭祀も参照)。皇帝祭祀はまた日本の天皇が執り行う宮中祭祀(新嘗祭など)にも影響を与えた天皇の即位儀礼「大嘗祭」との関連性も指摘されている。
中国の影響を多く受けた日本神話の天地開闢・国土創造については、『日本書紀』卷第一 代上(※5:「古代史獺祭」の日本書紀参照)の冒頭に「古(いにしえ)天地(あめつち)未だ剖(わか)れず、陰・陽、分かれざりしときに、渾沌たること鷄(とり)の子の如くして、溟(ほのか)に牙(きざし)を含めり。 其(そ)れ清く陽(あきらか)なるは、薄靡(たなび)きて天(あめ)と爲り、重く濁れるは、淹滞(つつ)いて地(つち)と爲るに及びて、精(くわ)しく妙(たえ)なるが合えるは摶(むらが)り易(やす)く、重く濁れるが凝(こ)るは竭(かたま)り難し。 故(かれ)、天(あめ)先(ま)ず成りて、地(つち)後に定まる。」・・とあるが、これも、中国思想の借用、つまり、中国前漢の武帝の頃に、淮南王(漢の高祖・劉邦の七男)が学者を集めて編纂させた思想書『准南子(えなんじ)』紀元前140)の天文訓に、記されている天地創造神話(※1の日本書紀-1-1冒頭部分参照)を基にしてできたものである。
陰陽道の「三合」がどんなものであるか専門外の私には詳しいことはよく判らない。以下参考の※6:「三合の理」、※7:「易・五行、讖緯思想」など参照されるとよい。
冒頭の画像は、陰と陽。太極図。Wikipediaより。
参考:
※1:古典館目次
http://www.kyoto.zaq.ne.jp/dkanp700/koten/koten.htm
※2:聖徳太子
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Desert/8918/sub1.html
※3:古代史の論点:大宝以前の逸年号-逸年号論序説-
http://www2.odn.ne.jp/~cbe66980/Main/NENGO.htm
※4:儺祭詞にみえる疫病鬼に対する呪的作用について(その@)
http://www.7key.jp/data/thought/shintou/norito/
※5:古代史獺祭;日本書紀
http://www004.upp.so-net.ne.jp/dassai1/shoki/frame/01/01/fr.htm
※6:三合の理 - 人生の謎学
http://blog.goo.ne.jp/syncr/e/193410a361ebeff8c5cb8cbc8b222f29
※7:易・五行、讖緯思想
http://www17.plala.or.jp/urashimasetuwa/newpage1.html
建久の元号は、『晋書』の「建久安於万歳、垂長世於元窮」および『呉書』の「安国和民、建久長之計」を出典として命名。勧進者は文章博士・藤原光輔。光輔は、平安時代中期の貴族、藤原式家の出身で能書家・従五位下・加賀守藤原 文正の子とされている。
前元号は文治。. 建久10年4月27日(ユリウス暦1199年5月23日)土御門天皇即位による代始改元(君主の交代による改元)により正治と改められる(『百錬抄』)。
上掲の画像は、後鳥羽院像(伝藤原信実筆、水無瀬神宮蔵)Wikipediaより
元号の建久は、1190年から1198年まで。.太上天皇(後白河天皇)の院宣を受ける形で、「神器なき即位」をした後鳥羽天皇(高倉天皇の第四皇子。母は、坊門信隆の娘・殖子[七条院]。後白河天皇の孫で安徳天皇の異母弟)の代の元号。
同じく高倉天皇を父に持ち、母は平清盛の娘の徳子(後の建礼門院)の子である異母兄安徳天皇(第81代天皇)が、退位しないまま後鳥羽天皇が即位したため寿永2年(1183年)から平家滅亡の文治元年(1185年)まで在位期間が2年間重複している。
つまり、源氏と平家が相争った治承・寿永の乱の時代。源頼朝の源氏方では寿永の元号を使用せず以前の治承を引き続き使用していたが、源氏方と朝廷の政治交渉が本格化し、朝廷から寿永2 年10月宣旨が与えられた寿永2年(1183年)以降、京都と同じ元号が鎌倉でも用いられるようになる。また、平家方では都落ちした後も次の元暦とその次の文治の元号を使用せず、この寿永をその滅亡まで引き続き使用した。
安徳天皇は、文治1年(1185年)3月の壇ノ浦の戦いで源氏に敗れ、寿永4年3月24日(1185年4月25日)三種の神器である神璽と宝剣を身につけた祖母・二位尼(平時子)に抱かれて壇ノ浦に身を投じ、8歳で崩御している。神器のうち宝剣だけは、いくら探しても海中に沈んだまま遂に回収されることが無かった。伝統が重視される宮廷社会において、皇位の象徴である三種の神器が揃わないまま治世を過ごした後鳥羽天皇にとって、このことは一種の「コンプレックス」であり続けた。
例えば、Wikipedia では、藤原定家は後鳥羽上皇と順徳天皇(後鳥羽天皇の第三皇子。母は、高倉範季の娘・重子[修明門院])の度を越した蹴鞠好きを批判した際に「百王八十余代、神剣没海、卅廻于茲。事理可然」(『明月記』建保元年4月29日条)と神器の不在に原因を求め、近代においても武士の台頭の原因として、後鳥羽天皇が「虚器」を擁していたことに求める意見があった(池田晃淵「承久の乱の起因に就て」『史学雑誌』第7巻第2号、1896年)と記している。
それがゆえに、後鳥羽天皇は、一連の「コンプレックス」を克服するために強力な王権の存在を内外に示す必要があり、それが内外に対する強硬的な政治姿勢、ひいては承久の乱の遠因になったとする見方もある・・・と。
この時代、平氏討滅後、鎌倉を本拠として関東を制圧し、弟たちを代官として源義仲や平氏を倒し、戦功のあった末弟・源義経を追放の後、諸国に守護と地頭を配して力を強めた源 頼朝は、奥州合戦で奥州藤原氏を滅ぼして全国を平定していた。
建久3年(1192年)3月までは、後白河法皇による院政が続いていた。後白河院の死後は関白・九条兼実が朝廷を指導した。兼実は後白河法皇が忌避した源頼朝への征夷大将軍の授与を実現した。これにより、頼朝は、鎌倉幕府を開くことが出来た・・・・が、頼朝の娘(大姫)の入内問題(ここ参照)から関係が疎遠となった。これは土御門通親の策謀によるといわれている。
建久7年(1196年)、通親の養女・在子に皇子(為仁、後の土御門天皇)が産まれた事を機に政変(建久七年の政変)が起こり、兼実の勢力は朝廷から一掃され、兼実の娘・任子も中宮の位を奪われ宮中から追われた。この政変には頼朝の同意があったとも言う。
建久9年 後鳥羽天皇が土御門天皇に譲位。しかし、土御門は父・後鳥羽天皇の譲位により3歳で践祚したため、立太子もしていなかった。土御門天皇即位後、事実上は、後鳥羽上皇による院政がしかれ, 以後、順徳天皇、仲恭天皇と、承久3年(1221年)まで、3代23年間に亘り上皇として院政を敷く。上皇になると土御門通親をも排し、殿上人を整理(旧来は天皇在位中の殿上人はそのまま院の殿上人となる慣例であった)して、院政機構の改革を行うなどの積極的な政策を採り、正治元年(1199年)の頼朝の死後も台頭する鎌倉幕府に対しても強硬な路線を採った。
元号は、歴史上の年を数えるために主権者が定めたものであり、一般には年号と呼ばれる。元は〈はじめ〉の意である。中国を中心とする東洋の漢字文化圏に広まった紀年法で、前漢の武帝のときに始まる。
日本に於ける正式の年号の初めは皇極天皇4年(645年)蘇我氏(蘇我蝦夷・入鹿親子)の討滅を機(乙巳の変・大化の改新)に天皇の禅(ゆず)りを受けて、皇弟・軽皇子が即位し、孝徳天皇となり、数日後、『日本書記』に「天豊財重日足姫天皇(皇極天皇)の4年を改めて、大化元年と為す」(※1:「古典館目次」の日本書紀巻第25-1参照)と記されているのがそれである。
大化以前において法隆寺金堂の釈迦三尊像の光背の銘や『伊予国風土記』逸文の道後温泉の碑文などによって法興という年号(※2:「聖徳太子」の伊予湯岡碑文の考察参照)のあったことが知られているが、これは以下に述べる「白鳳」「朱雀」などと共に、公式に定められたという徴証(ちょうしょう=あかしとなる証拠)がなく、逸年号もしくは広い意味で私年号というべきものとされている。
しかし、蘇我氏の氏寺で、奈良県明日香村にある日本最古の本格的寺院でもある法興寺(飛鳥寺の異称)は、「仏法が興隆する寺」の意であり、隋の文帝(楊堅)が「三宝興隆の詔」を出した591年を「法興元年」と称したこととの関連が指摘されている(※3参照)。
大化6年(650年)穴戸(長門国,の古称)国司より白雉(しろきぎす。はくち。=白色のキジ)を献上されたのを祥瑞(しょうずい。瑞祥【ずいしょう】と同じ。めでたいことが起こるという前兆。吉兆)として、白雉(はくち)と改元したが、同5年孝徳天皇崩御して以後改元は行われず、天武朝の末年、朱鳥(あかみとり)の年号が定められたが、その年天皇が崩御してこれも続かず、文武天皇5年(701年)に至って対馬から金が貢上されたのを機に大宝の年号が建てられた。
そして、大宝律令において初めて日本の国号が定められ(大化元年7月[645年8月]の条に、高句麗や百済の使者に示した詔に「明神御宇日本天皇[あきつみかみとあめのしたしらすやまとのすめらみこと]の文言が出ている(※1の日本書記巻第25-1参照)。本格的な中央集権統治体制を成立したといえる。
この年施行された大宝令には、公文に年を記す時はすべて元号(年号)を用いることが規定されていたことから、律令制度と年号は切り離すことの出来ないものとなり、次第に国民の間に浸透。年号は、大宝以降絶えることなく現代に及んでいる。
尚、南北朝時代の朝廷は、南朝(大和国吉野行宮)と北朝(山城国平安京)に2つの朝廷が存在し、それぞれが正統性を主張し、南北朝合一まで、それぞれが元号を建てていた(元号一覧参照)。
改元行事もこのころから制度化したと考えられ、改元の理由にはおおよそ(1)君主の交代による代始改元(即位改元ともいう)、(2)吉事を理由とする祥瑞改元、(3)凶事に際してその影響を断ち切るための災異改元、(4)革命改元といわれる辛酉(しんゆう)と、甲子(きのえね)の年の改元があることは、以前このブログ文化(元号)でも書いたことあるが、そのほかに、建久の改元のように、「三合厄歳」(三合の厄)を避ける為の改元があることを知った。
三合とは、陰陽道(おんようどう)でいう厄年の一で、太歳・太陰・客気の三神が合することで、災害が多いのだという。
菅野真道らが延暦16年(797年)に完成したという『続日本紀』)には、災害が外から来るという記述と、疫病鬼が人民の家に入ろうとする記述が二つ見え、その一つ、『続日本紀』平宝字二(758)年八月十八日の天皇の勅 に”陰陽道でいう厄年の一つ。大歳・太陰・客気の三神が一年の中に合した、三合の年は洪水・日照り・疫病の災害が起こる、諸仏の母である『摩訶般若波羅密多経』のような四句の偈 (仏をたたえる詩)などを読誦すれば、福徳が集まってきて、その功徳は考えられない程であり、天子がこれを念ずる時は、兵乱や災害は国内に入らない。庶民が念じたならば、病気や疫病鬼は家の中に入らず、悪を断ち幸福を得るのでこれ以上のものはないと。
又、.『続日本紀』宝亀五(774)年夏四月十一日の天皇の勅にも、天下の諸国に悪性の流行病の者が多くて、医療をほどこしてもまだ回復しないと聞く。朕は宇宙に君臨して人民を子として育んでいる。このことを思って寝ても覚めても心を労している。『摩訶般若波羅蜜経』は諸仏の母である。天子が『摩訶般若波羅蜜経』を念ずる時は、兵乱や災害は国内に入らず、一般の人が念ずる時は流行病や流行病の神は家内に入らない。この慈悲によって短命を救わんと思う。・・と。
この二つの例から、八世紀後半以降、疫病が内から発生するのではなく、疫病鬼が外から家の中に入ろうとして起こるという意識があったのではないかと考えられる。「兵乱や災害は国内に入らず」という部分から考えると、「国内」つまり、天皇の非支配領域から疫病が来ているという考え方もあったと解釈できるという。
結局、支配者、すなわち朝廷の貴族やその官人などが一番望んでいたのは、収穫物が滞りなく徴収できることだったと考えられる。以上記述されている救済法(使いを遣わすこと及び薬を給すること)から考えると、人民が長生きできるように、しっかり活動できるようにするのは、まず収穫物を滞りなく収めさせるためで、また、人民が多く死亡したり、支配する人民が減ったりすることは、支配者としての権力が衰退することにつながるからだろう。だから、人民を救うことには政治的な意味があり、支配者の利益に関わる問題だと言えるようだ(※4参照)。
だから、そのような三合の年には、改元までして災難を逃れようとしたのだろう。
古い時代から、伝統社会においては、その社会で共有される宇宙論の中で、王はその中心を象徴するものとして神聖視される場合が多かったようだ。特に農耕社会にあっては、王は農作物の成長を促すエネルギーの源であり、森羅万象を統制する力を持つものとされた。ここにおいては、王は人間の身でありながら、同時に宇宙の秩序を司る存在として捉えられていたようである。
神話や宇宙論、宗教や伝統的な信仰に支えられた「神聖なる王」が制度化するために重要なのが王位継承の儀式であった。
王位継承は、多くの場合、単に統治者としての任務の継承ではなく人が神に変わる経過をたどり、秘儀(非公開で、ひそかに行う儀式。密儀)を含んだ儀礼として劇化される。それは人格の変換を意識される伝統的な通過儀礼といくつかの面で共通点を有している。
例えば、ヨーロッパの王権に見られる王冠・王笏(おうしゃく)・宝珠、中国の歴代皇帝に伝えられてきた伝国璽、日本の天皇制における「三種の神器」などである。
紀年法の一種である元号は、皇帝や王など君主の即位に定められている(治世の途中に随意に行われる改元もある)が、君主が特定の時代に名前を付ける行為は、君主が空間と共に時間まで支配するという思想に基づいており、「正朔を奉ずる」(天子の定めた元号と暦法を用いる)ことがその王権への服従の要件となっていた。
元号が政治的支配の正統性を象徴するという観念は、元号を建てることにより、既存の王朝よりも自らの正統性が優越しているか、少なくとも対等であることを示すことができるという意識を生んだ。そのため、時の王朝に対する反乱勢力はしばしば独自の元号を建てた。また、時の政権に何らかの批判を持つ勢力が、密かに独自の元号を建てて使用することもあった。このように、後世から公認されなかった元号を「私年号」と呼ぶ。
中国王朝の政治制度を受容した周囲の王権は元号制度もともに取り入れているが、これも同様の発想に由来する。中国王朝から見れば、中国王朝を真似て、しかもこれと対等であることを示すために建てられた周辺諸国の元号は、やはり「私年号」であり、使用は許されないものであった。一方で周辺諸国の王権は中国王朝から冊封を受け、周囲の競争勢力に対する自らの正統性の保障としたが、冊封の条件の一つが「正朔を奉ずる」ことであったため、独自元号の使用と冊封は両立しない要素であった。
中国や日本では君主の称号として天子が用いられていた。天下を治める者。国王、皇帝、天皇などの別号として用いられる。
王は天(天帝)の子であり天命により天下を治めるとする古代中国の思想を起源としている。
周代、周公旦によって「天帝がその子として王を認め王位は家系によって継承されていく。王家が徳を失えば新たな家系が天命により定まる」という「天人相関説」が唱えられ、天と君主の関係を表す語として「天子」が用いられるようになったという。
秦の始皇帝により、天下を治める者の呼称が神格化された皇帝へと変わると、天子の称は用いられなくなったが、漢代にいたり儒教精神の復活をみると、再び天子の称が用いられるようになり、それは皇帝の別名となった。
上掲の画像は、中国前漢時代の儒学、『春秋』学者者董 仲舒(とう ちゅうじょ)。
儒家の思想を国家教学とすることを献策した人物。その思想の最大の特徴は「災異説」である。画像は、Wikipediaより。
皇帝の支配は、空間(領土)の支配と時間(暦と年号)に及び、皇帝以外の者の支配は許されなかった。
前漢の武帝は、太陰暦と太陽暦を合体した太初暦を制定。皇帝の下した暦を用いるのが、皇帝の主権を認めた証拠となり、これを「正朔を奉ずる」と言ったのである。
皇帝は天帝に対しては天の子=天子として天を祭る儀礼を司り、それは皇帝だけに許された神聖儀礼として多少の変化はしながらも清朝に至るまで連綿と引き継がれた(皇帝祭祀も参照)。皇帝祭祀はまた日本の天皇が執り行う宮中祭祀(新嘗祭など)にも影響を与えた天皇の即位儀礼「大嘗祭」との関連性も指摘されている。
中国の影響を多く受けた日本神話の天地開闢・国土創造については、『日本書紀』卷第一 代上(※5:「古代史獺祭」の日本書紀参照)の冒頭に「古(いにしえ)天地(あめつち)未だ剖(わか)れず、陰・陽、分かれざりしときに、渾沌たること鷄(とり)の子の如くして、溟(ほのか)に牙(きざし)を含めり。 其(そ)れ清く陽(あきらか)なるは、薄靡(たなび)きて天(あめ)と爲り、重く濁れるは、淹滞(つつ)いて地(つち)と爲るに及びて、精(くわ)しく妙(たえ)なるが合えるは摶(むらが)り易(やす)く、重く濁れるが凝(こ)るは竭(かたま)り難し。 故(かれ)、天(あめ)先(ま)ず成りて、地(つち)後に定まる。」・・とあるが、これも、中国思想の借用、つまり、中国前漢の武帝の頃に、淮南王(漢の高祖・劉邦の七男)が学者を集めて編纂させた思想書『准南子(えなんじ)』紀元前140)の天文訓に、記されている天地創造神話(※1の日本書紀-1-1冒頭部分参照)を基にしてできたものである。
陰陽道の「三合」がどんなものであるか専門外の私には詳しいことはよく判らない。以下参考の※6:「三合の理」、※7:「易・五行、讖緯思想」など参照されるとよい。
冒頭の画像は、陰と陽。太極図。Wikipediaより。
参考:
※1:古典館目次
http://www.kyoto.zaq.ne.jp/dkanp700/koten/koten.htm
※2:聖徳太子
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Desert/8918/sub1.html
※3:古代史の論点:大宝以前の逸年号-逸年号論序説-
http://www2.odn.ne.jp/~cbe66980/Main/NENGO.htm
※4:儺祭詞にみえる疫病鬼に対する呪的作用について(その@)
http://www.7key.jp/data/thought/shintou/norito/
※5:古代史獺祭;日本書紀
http://www004.upp.so-net.ne.jp/dassai1/shoki/frame/01/01/fr.htm
※6:三合の理 - 人生の謎学
http://blog.goo.ne.jp/syncr/e/193410a361ebeff8c5cb8cbc8b222f29
※7:易・五行、讖緯思想
http://www17.plala.or.jp/urashimasetuwa/newpage1.html