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葛飾北齋忌日

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人魂(ひとだま)で  
 行く気散じや 
 夏野原    (葛飾北斎)

江戸時代後期の化政文化を代表する浮世絵師の一人葛飾 北斎(かつしか ほくさい)は、.嘉永2年4月18日(1849年5月10日)、江戸・浅草聖天町(町名は町内に待乳山聖天宮があるのにちなんで付けられた。※1の待乳山聖天宮・今戸橋を参照)にある遍照院(浅草寺の子院)境内の仮宅で没した。享年90歳。上掲は、北斎辞世の句である。(冒頭の画像は北斎の自画像、向かって右は、年代不明『週刊朝日百科日本の歴史』より借用、左は、天保13年(1842年)、82歳(数え年83歳)頃の自画像(一部)という。Wikipediaより)
北斎の代表作『富嶽三十六景』シリーズの初版は文政6年(1823年)に制作が始まり、天保2年(1831年)に西村永寿堂より出版されたが、相当人気があったとみえて当初計画になかった、裏富士十図10枚を追加して、合計46図が同4年(1833年)に完結している。『冨嶽三十六景』は江戸市中から見た富士を13図、江戸近郊から4図、上総(現在の千葉県南部)から2図、常州(茨城県)から1図、東海道筋から18図、そして甲州(山梨県)方面から7図、その他1図である。
『富嶽三十六景』の「神奈川沖浪裏」や、「凱風快晴」など、今も世界に知られる作品の数々の誕生と同時に、北斎は72歳にして、ついに誰もが認める浮世絵師の頂点へと登りつめたのであった。
『富嶽三十六景』シリーズ(46枚)は、以下の作品一覧以下でも見られるが、その下の東京国立博物館所蔵の物の方がきれいな詳細画で見られるので、1枚づつ干渉されるならお勧めである。

Wikipedia-『富嶽三十六景』シリーズ作品一覧』

東京国立博物館検索画面『富嶽三十六景』

数え年で90歳というと、当時としてはすごく長命であった。「気散じ(きさんじ)」とは心の憂さをまぎらわすこと、気晴らしのことであるから、これからの俺は「やることはやったので、ひと魂(ひとだま)」となって、ふうわりふうわりと夏の原を気ままに漂(ただよ)ってみることにするか・・・」。とでもいったところだろうか。

同時代、版画独特の美を発展させ、「並ぶ方なし」と言われた美人画の巨人、喜多川歌麿とともに活躍した葛飾北斎は、浮世絵師のなかで最も長い70年余の作画期中森羅万象の真を描くことに執念を燃やし、画風を次々と変転させながら3万点を超える作品を発表し、各分野に一流を樹立し、9世紀末、ヨーロッパにジャポニスム旋風を起こし、世界に衝撃を与えた。
北斎は、1999年の、米ライフ誌が選んだ「この1000年で最も重要な功績を残した世界の人物100人」に唯一選ばれた日本人であり、近年で最も注目を集めている浮世絵師である。
しかし、同時期に活躍していた歌麿は北斎より早く名を挙げていたが、北斎は歌麿に比べれば相当遅咲きの桜であったとはいえる。

北斎は、宝暦10年9月23日?(1760年10月31日?)、武蔵国葛飾郡本所割下水(現:東京都墨田区の一角。「北斎通り」参照)の川村家に生まれたが、家が貧しかったのか、幼くして,幕府の御用鏡磨師中島伊勢の養子となる。幼名は時太郎と言い、のち、鉄蔵(てつぞう)と称した。通称は中島八右衛門、晩年には三浦屋八右衛門と名乗っていたようである(※2 参照)。
その後、貸本屋の丁稚、木版彫刻師の従弟となって労苦を重ねたのち、役者絵の名手とうたわれた浮世絵師・勝川春章に入門したとされる。安永7年(1778年)から勝川派を出る。寛政6(1794)年ごろまでは春朗を名乗っていた。
この頃は、狩野派唐絵、西洋画などあらゆる画法を学び勝川春朗の名で絵師として名所絵(浮世絵風景画)や特に、お家芸である役者絵を多く手がけ、安永8年(1779年) 役者絵「瀬川菊之丞 正宗娘おれん」でデビューするまでの習作期で多種多様な画作をしている。

瀬川菊之丞:正宗娘おれん  ここ参照→ 東京国立博物館 - 北斎展

寛政6年(1794年) 勝川派を破門されているらしいが、理由は、最古参の兄弟子である勝川春好との不仲とも、春章に隠れて狩野融川に出入りし、狩野派の画法を学んだからともいわれるが、真相は不明だそうである。ただ融川以外にも、堤等琳 についたり、『芥子園画伝』などから中国絵画をも習得していたようである。
寛政7年(1795年) 「北斎宗理」(1795~1798年頃),の号を使用し始める。以後、北斎(1796~1814年頃),戴斗(1811~1820年),為一(1820~1834年頃),卍(1834~1849年頃)の主要な画号のほか,画狂人(1800~1808年頃)など生涯に30 余の号を頻繁に改号していたが、葛飾北斎の号は、文化2年(1805年)頃から使用しており、出生地が葛飾郡であったことから名乗ったといわれている。
北斎が「宗理」の号を使用し始めたころは、歌麿が既に美人画で人気を博していた時代であり、老中・松平定信は質素倹約を奨励し、華美なものを禁じ、寛政の改革(天明7年[1787年]~寛政5年[1793年])に着手していた。その改革の標的の一つとなったのが、歌麿だった。当時の幕府による禁令を見ると、歌麿が対象としか思えない触書が矢継ぎ早に出されていることがわかる(※3:「浮世絵文献資料館」の浮世絵に関する御触書参照)。
当時の歌麿は蔦屋重三郎の店から浮世絵を出版していた。蔦屋は遊郭・吉原の評判記『吉原細見』を売り出して人気を得た板元である。出版する絵本や浮世絵は、豪華な色使いや、刺激的な世相風刺が話題となり次々とベストセラーを送り出していた。店には、山東京伝らの人気作家や若い日の滝沢馬琴(曲亭 馬琴)などが出入りし、当時の江戸文化人サロンの中心となっていたが、松平定信にとっては、蔦屋サロンこそ統制の対象となるべき存在であった。
寛政2年(1790年)、幕府は「絵本絵草紙類までも風俗の為に相成らず、猥(みだ)らがましき事など勿論無用に候」との禁令(※3の浮世絵に関する御触書の十月〔『御触書天保集成』下810(触書番号6418)〕参照)を出し、歌麿の豪華絵本などが出版停止処分となった。翌寛政3年(1790年)には、山東京伝の洒落本が禁令に触れ、京伝は「手鎖50日の刑」に処せられ、蔦谷は身代半減の処罰を受けた。
こうしたことに反発し、絵を描き続けた歌麿は、この頃から『婦女人相十品』(その1枚・ポッピンを吹く女[ここ参照]など)、『婦人相学十躰』(その1枚・浮気之相[ここ参照]など)といった美人大首絵を描き始めた。そして、それまで以上に人気を博するようになる。そんな歌麿がこの世を去った(文化3年[1806年])頃、北斎はようやくチャンスを掴むことになる。
北斎は浮世絵以外にも、いわゆる挿絵画家としても活躍していた。黄表紙洒落本読本など数多くの戯作の挿絵を手がけたが、作者の提示した下絵の通りに絵を描かなかったためにしばしば作者と衝突を繰り返していたという。
「葛飾北斎」の号を用いるのは文化2年(1805年)の頃からであるが、数ある号の一つ「葛飾北斎」を名乗っていたのは当時の人気戯作者・曲亭馬琴とコンビを組んだほんの一時期で、その間に『新編水滸画伝』(※4参照)『椿説弓張月』(※4参照)などの作品を発表し、馬琴とともにその名を一躍不動のものとした(これら他の読み本も、以下参考の※4で見ることが出来る)。
北斎は、それまで読み物のおまけ程度の扱いでしかなかった挿絵の評価を格段に引き上げた人物とも言われているそうだ。なお、北斎は一時期、馬琴宅に居候(いそうろう)していたことがあるようだ。 これ挿絵により、その名を広く知らしめた北斎は文化11年(1814年)54歳の時 画号・「戴斗(たいと)」の号で、もう一つの代表作『北斎漫画』初版を発刊(注:文政2年[1819年]頃に門人が二代目戴斗を襲名している)。そして、文政3年(1820年)から 「為一(いいつ)」の号を用い、文政6年(1823年)には『富嶽三十六景』の初版の制作を始め、天保2年(1831年)に開版、同4年(1833年)に完結することになるのである。
北斎は、読本の挿絵の仕事がひと段落した1812(文化9)年、関西へ旅立った。その帰り、尾張(名古屋)の後援者で門人の牧墨僊宅に半年ほど逗留し、人物や風物その他300余りのスケッチを描いていた。この下絵を見た名古屋の版元永楽屋東四郎(永楽堂)がその、デッサンの確かさ、生き生きとした動き、見ていて飽きのこないユーモラスなタッチを気に入り、これなら売れると即断、『北斎漫画』と題して翌年出版にこぎつけたのであった。この初編が好評であったことから、『北斎漫画』は、翌文化12年(1815年)に二編、三編を、文政2年(1819年)までに九編、十編まで出し、天保5年(1834年)まで十二編、北斎の亡くなる年の嘉永2年(1849年)に十三編が刊行されるが、全編(十五編)が完結するのは北斎没後の明治11年(1878)のことである(『北斎漫画』は※4で見ることが出来る)。 


上掲の画像『北斎漫画』の「相馬公家」は貴族に対する風刺画である。『週刊朝日百科日本の歴史』より。
全十五編には、人物、風俗、動植物、妖怪変化まで約4000図が描かれている。北斎はこの絵のことを「気の向くままに漫然と描いた画」と言っているようであるが、北尾政美(鍬形斎の名で知られる)の『諸職画鏡』(しょしょくえかがみ。※5参照)や『略画式』(※5参照)から着想を得て書かれているようだ。


上記2つの相撲図を比べると、恵斎の方があっさりとした描き方をしているのに対して、北斎は手足や体の動きがリアルに生き生きと描かれている。

また、1804(文化元)年から1806(文化3)年にかけて、恵斎が松平定信から要請を受けて描いたという肉筆図巻3軸「近世職人尽絵詞」(※6参照)にも強烈な刺激を受け、「なにくそ」という北斎の反骨心が「北斎漫画」を誕生させたのである。
この鍬形斎(1764-1824)という人物は、今日ではややマイナーな存在であるが、江戸時代には俗に、「北斎嫌いの斎好き」という言葉ができるほど評価された絵師であったようだ。
作風は、狩野派以外にも大和絵琳派などといった伝統画法も広く習得し、前述通り軽妙で洒落の効いた略画風の漫画を多数描いたことでも知られ、『増補浮世絵類考』(※3:「浮世絵文献資料館」のここ参照))では、「政美は近世の上手なり。狩野派の筆意をも学びて一家をなす。又光琳芳中が筆意を慕い略画式の工夫行われし事世に知る所なり」と高く評しているという。
こうした政美の「略画式」や鳥瞰的な一覧図は、同時代の北斎に『北斎漫画』や『東海道名所一覧』( ここ参照)『木曽名所一覧』といった形で真似された政美はこれを苦々しく思ったらしく、「北斎はとかく人の真似をなす。何でも己が始めたることなし」と非難したという逸話が残っている(斎藤月岑武江年表』の「寛政年間の記事」)ようだ。

ま、そのような絵画への執念が、『冨嶽三十六景』シリーズをも生み出したと言えるだろう。北斎は、大好評であった『富嶽三十六景』に飽き足らず、「為一」、「画狂老人」などの号で天保5年(1834年)、3巻からなる絵本『富嶽百景』をも出版している。3巻からなる絵本で、初編天保5年(1834年)刊行、二編は天保6年(1835年)、三編は刊行年不明(かなり遅れたらしい)。75歳のときが初版(為一筆)。富士山を画題に102図を描いたスケッチ集であるが、当時の風物や人々の営みを巧みに交えたもの。
以下の画像は、北斎の『富嶽百景』の1つ「浅草鶏越の図」で、中央の球は天体運行を観測するための渾天儀。国立国会図書館蔵。浅草天文台週刊朝日百科日本の歴史47より。
幕府は宝暦暦が宝暦13年(1763年)9月の日食予報を見落としたため改暦の作業に着手し、明和2年、(1765年)牛込に新暦調御用所(※7参照)を置いた。この役所は恒常的に天体観測を行っていたらしく、木が茂って空が見えにくくなったとして天明2年(1782年)浅草に移転したそうだ。

富岳百景の画像は他にみあたらないが、どんなものが描かれていたか、以下富岳百景図録で想像してください。

富岳百景図録–葛飾 北斎 著 (単行本/芸艸堂[うんそうどう])

しかし、広く世に知られているのはこの作品よりもむしろ、尋常ならざる図画への意欲を著した以下の跋文(後書き)のようである。
「己 六才より物の形状を写の癖ありて 半百の此より数々画図を顕すといえども 七十年前画く所は実に取るに足るものなし七十三才にして稍(やや)禽獣虫魚の骨格草木の出生を悟し得たり故に八十六才にしては益々進み 九十才にして猶(なお)其(その)奥意を極め 一百歳にして正に神妙ならんか 百有十歳にしては一点一格にして生るがごとくならん願わくは長寿の君子 予言の妄ならざるを見たまふべし」
つまり、「私は6歳より物の形状を写し取る癖があり、50歳の頃から数々の図画を表した。とは言え、70歳までに描いたものは本当に取るに足らぬものばかりである。(そのような私であるが、)73歳になってさまざまな生き物や草木の生まれと造りをいくらかは知ることができた。ゆえに、86歳になればますます腕は上達し、90歳ともなると奥義を極め、100歳に至っては正に神妙の域に達するであろうか。(そして、)100歳を超えて描く一点は一つの命を得たかのように生きたものとなろう。長寿の神には、このような私の言葉が世迷い言などではないことをご覧いただきたく願いたいものだ。」・・・と、100歳を超えてもなお絵師として、向上しようとする気概を語っている。
天保13年(1842年) 秋、83歳にして弟子の高井鴻山が住む信濃国高井郡小布施まで足を延ばし、亡くなる前年の嘉永元年(1848年)まで滞在。多くの作品を残している。当時の交通事情を考えると想像を絶する旅だった。
晩年期の天保5年(1834年)頃から肉筆画(肉筆浮世絵)を手がけるようになり、嘉永2年1月(嘉永二己酉年正月辰ノ日。1849年)、亡くなる3ヶ月ほど前に描かれた『富士越龍図』(絹本着色。落款:九十老人卍筆)が、北斎最晩年の作であり、これが絶筆、あるいはそれに極めて近いものと考えられている。幾何学的山容を見せる白い霊峰・富士の麓を巡り黒雲とともに昇天する龍に自らをなぞらえて、北斎は逝った。

北斎の代表作『富嶽三十六景』の「富嶽」とは富士山のことであり、各地から望む富士山の景観を描いているのである。江戸の人たちにとって富士山は常日頃仰ぎ見ることのできる山岳信仰のお山でもあった。
しかし、現代人と同じように素晴らしい景観の富士を見ることのできるところにいるからと言っても、当時は、各地に厳しい関所があり、人の移動は厳格に制限されていたし、道中の危険もあったので、一般に庶民の旅行は自由ではなかったが、公用・商用の旅、参詣湯治などの遊行、女性の場合には婚姻や奉公など様々な理由での旅はあったが、一般に庶民の旅行は自由ではなかった。
これらも含めて、庶民が自由に旅に出られるようになったのには、いくつかの理由がある。
先ずは江戸後期になって、江戸文化が花開き、娯楽が広がった。同時に街道が整備され,それに伴って、宿場も整い、旅の安全が確保されるようになった。
人々は通行手形を檀家である寺から発行してもらう事で、目的の場所に出掛けられ、特に信仰を目的にすれば、意外とどこにでも出かけられたが、あくまでも信仰だから、本音と建て前を区別しなければならない。遠くは四国の金毘羅権現や、伊勢参り。木曽の御嶽信仰。富士講等々。しかし、その目的地やそこにゆくまでの宿場には飯盛り女の居る宿も多く、当初から、参詣を理由とした観光や夜のお楽しみを目的とした旅も多かったようだ。
この頃に、有名な十辺舎一九が書いた弥次さん喜多さん旅物語『東海道中膝栗毛』は、名所・名物紹介に終始していた従来の紀行物と違い、旅先での失敗談や庶民の生活・文化を描き絶大な人気を博した。,又地図の代わりに観光名所の案内として、名所図会と云う画の案内書も売られる様になる。
そして、それまで、美人や役者を中心的な題材としていた浮世絵に、風景が主なジャンルとして本格的に加わってくるが、その立役者が、葛飾北斎と歌川広重である。
はじめに風景版画への扉を開いたのが、大ベテランの北斎で、富士を驚きの構図で、さまざまに描いた連作「冨嶽三十六景」が、当時の”お山信仰”“富士 山ブーム”、”旅行ブーム”と相まって空前の大ヒットし、それが元で広重 によって『東海道五十三次』が刊行された。
これは、天保3年(1832年)広重が東海道を初めて旅した後に作製したといわれている。北斎の『富嶽三十六景の』初版が西村永寿堂より出版された翌年のことである。広重は寛政9年(1797年)の生まれだから、『富嶽三十六景』初版が出たとき天保2年(1831年)は、まだ、34歳、『東海道五十三次』を出したときは35歳ということになる。
bw手ランと若い二人によって浮世絵における名所絵(風景画)が発達した。
二人はその後も、互いに意識しあい、新たな風景画シリーズの刊行、また、花鳥画のジャンルなどでも市場を競いあい、やがて北斎は版画の道を後進の広重に譲りつつも、肉筆画を中心に、亡くなる90歳まで現役を続行したのであった。そして、広重は、いっそう風景画の世界へと歩みをすすめ、ともに数多くの足跡をこの世に残してくれた。

以下目面しい画のみここにおいて置こう。


上掲の画像は、北斎の『江戸名所三十六景』本所の光景。東京国立博物館蔵。『週刊朝日百科日本の暦sぢ』24より。浮世絵師のとらえた近世の職人の働く姿はまことにダイナミックである。




上掲の画像は、「大小暦」 
現在私たちが使っているグレゴリウスでは、毎年、大の月と小の月の配列は変わらない、ところが、月の満ち欠けに基礎を置く太陰太陽暦では、毎年29日の小の月と30日の大の月の配列が異なり、更に閏月の挟み込まれることもあった。江戸時代の商慣習では掛け売りの清算は晦日となっていたから、庶民に月の大小を正確に知っておくことはとても大事なことだった。「大小暦」は、その年の大小の配列を工夫して1枚の刷り物に仕立てた略歴の一種で、貞享、元禄の頃から主に江戸を中心に流行した。機知にあふれ、多彩な摺り物の技法の盛り込まれた大小暦は現代のカレンダー文化の先駆けともいえる。
掲載の画像は、「謎解き」(寛政4年)。子の字を12並べ、文字の大小で、月の大小を示す。12字をどう読むか謎だったが、小野篁が「猫の子の子猫,ししの子の子獅子」と読み解いた伝えられるそうだ。勝川春朗(葛飾北斎)画。『週刊朝日百科日本の歴史』47より。

「余の美人画は、お栄に及ばざるなり お栄は巧妙に描きて、よく画法にかなえり」 (葛飾北斎)
(美人画にかけては応為には敵わない 応為は妙々と描き、よく画法に適っている) 
世界にその名が知れ渡っている伝説の浮世絵師である父の葛飾北斎にそう言わしめ、最も彼の才能と破天荒な性格を受け継いだと言われる北斎の三女お栄。彼女は画号を“葛飾応為(おうい)”とし 北斎の肉筆美人画の代作や春画の彩色を担当してきたという。 
世界に応為の作品は10点ほどしか現存していないそうだが その作品は、以下参考※8:「父北・斎の才能を受け継ぐ葛飾応為が描いた幻の作品「光の浮世絵」」で見ることができる。
また、葛飾北斎が描いた琉球(沖縄)の風景画が8点あるようだ。
しかし、北斎は実際に琉球を訪れた訳ではなく、1756年に来琉した冊封使・周煌が書いた琉球の見聞録『琉球国志略』に収録された絵図(「中山八景」)を元に描き、想像で着色したものだそうだ。これについては、以下参考の※9:「琉球八景(りゅうきゅうはっけい) - 沖縄事典 あじまぁ」で、絵お比較して展示しとぇいるので見てみるとよい。。

今日は、あえて、2013年(平成25年)6月22日に関連する文化財群とともに「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」の名で世界文化遺産に登録された富士山との関連でブログを書いた。
葛飾北斎の画業は主要画号の使用時期を基準に6期に区分するのが一般的なようである。
第1期「春朗期-習作の時代」 20歳頃~/安永8年(1779)頃~
第2期「宗理期-宗理様式の展開」 36歳頃~/寛政6年(1794)頃~
第3期「葛飾北斎期-読本挿絵への傾注」 46歳頃~/文化2年(1805)頃~
第4期「戴斗期-多彩な絵手本の時代」 51歳頃~/文化7年(1810)頃~
第5期「為一期-錦絵の時代」 61歳頃~/文政3年(1820)頃~
第6期「画狂老人卍期-最晩年」 75歳頃~90歳/天保5年(1834)頃~嘉永2年(1849)
詳しくは以下参参考の※10:「北斎展 作品リスト - 東京国立博物館」を参照。
ここには、各期ごとに、作品の名称、 版型・寸法 、 所蔵者 等が詳しく書かれているので、詳しく知りたい人は、これを頼りに、調べられるとよいだろう。
また、北斎のもう一つの代表作『北斎漫画』については、参考※11:「視点・論点 「漫画誌から見た『北斎漫画』」 | 視点・論点 | NHK 解説委員室」で、詳しく論いられているので参考にされるとよいだろう。、


参考:
※1:錦絵で楽しむ江戸の名所
http://www.ndl.go.jp/landmarks/
※2:葛飾北斎直筆の肖像画見つかる
http://www.ic.daito.ac.jp/~hama/news/s980902.html
※3:浮世絵文献資料館
http://www.ne.jp/asahi/kato/yoshio/index.html
※4:早稲田大学図書館:古典籍総合データベース:葛飾北斎
http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/search.php?cndbn=%8A%8B%8F%FC%96k%8D%D6
※5:早稲田大学図書館:古典籍総合データベース:北尾政美
http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/search.php?cndbn=%96%6b%94%f6+%90%ad%94%fc
※6:近世職人尽絵巻画像一覧 - 東京国立博物館
http://www.tnm.jp/modules/r_collection/index.php?controller=other&colid=A83
※7:東京都新宿区の歴史 新暦調御用所跡(天文屋敷跡)
http://tokyoshinjuku.blog.shinobi.jp/%E8%A2%8B%E7%94%BA/%E6%96%B0%E6%9A%A6%E8%AA%BF%E5%BE%A1%E7%94%A8%E6%89%80%E8%B7%A1%EF%BC%88%E5%A4%A9%E6%96%87%E5%B1%8B%E6%95%B7%E8%B7%A1%EF%BC%89
※8:父北・斎の才能を受け継ぐ葛飾応為が描いた幻の作品「光の浮世絵」
http://ameblo.jp/igatakeru/entry-11774514955.html
※9:琉球八景(りゅうきゅうはっけい) - 沖縄事典 あじまぁ
http://100.ajima.jp/history/term-history/e279.html
※10:北斎展 作品リスト - 東京国立博物館
http://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=24
※11:視点・論点 「漫画誌から見た『北斎漫画』」 | 視点・論点 | NHK 解説委員室
http://www.nhk.or.jp/kaisetsu-blog/400/197218.html
信州小布施 北斎館:サイトマップ
http://hokusai-kan.com/w/?page_id=1891
信州大学:付属図書館:近世日本山岳関係データーベース:
http://moaej.shinshu-u.ac.jp/?classification=%E7%B5%B5%E7%94%BB&paged=2
画狂老人卍的世界 INDEX
http://jam.velvet.jp/hokusai-0.html
「人物略画式」全頁画像(一覧)-福岡大学図書館
http://www.lib.fukuoka-u.ac.jp/e-library/tenji/wabi/wabi-html/ten/zen/jin/jin_itiran.html
国立国会図書館デジタルコレクション:江戸名所図会
http://dl.ndl.go.jp/search/searchResult?featureCode=all&searchWord=%E6%B1%9F%E6%88%B8%E5%90%8D%E6%89%80%E5%9B%B3%E4%BC%9A&viewRestricted=0
国枝史郎 北斎と幽霊 - 青空文庫
http://www.aozora.gr.jp/cards/000255/files/43563_17048.html
カオスを描いた北斎の謎
http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20070316/121233/
葛飾北斎 - GATAG|フリー絵画・版画素材集 - GATAG
http://free-artworks.gatag.net/tag/%E8%91%9B%E9%A3%BE%E5%8C%97%E6%96%8E
葛飾北斎 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%91%9B%E9%A3%BE%E5%8C%97%E6%96%8E


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