今日5月3日は、国民の祝日に関する法律(祝日法。昭和23年法律第178号)により指定された国民の祝日の一つ「憲法記念日」であり、祝日法では、「日本国憲法の施行を記念し、国の成長を期する。」・・・ことを趣旨としている。
日本国憲法は、敗戦後2年目の1947(昭和22)年5月3日に施行され、翌・1948(昭和23)年に公布・施行された祝日法によって制定された。しかし、憲法が実際に公布されたのは、施行日前年の1946昭和21)年11月3日であったが施行が半年後の1947(昭和22)年5月3日となったもの。
日本国憲法の公布日および施行日については、その日をいつにするか議論があったようだが、結局、様々な思惑から、日本国憲法が『平和と文化』を重視していることから、この日は「文化の日」として残された。当時法制局長官であった入江俊郎がこの間の経緯については、後に記している文面等があるがこれについては→ 新憲法の公布日をめぐる議論を参照。
祝日法では、この日は、「自由と平和を愛し、文化をすすめる」ことを趣旨としている。
実際に文化の日には「日本の文化の大きな発展に貢献した人」を選出して、皇居で文化勲章の親授式が行われている.のは、御存じの通りである。
いわば「文化の日」と「憲法記念日」は兄弟のような間柄である。
「文化の日」は、日本国憲法が公布された日に由来するもの。「憲法記念日」は、日本国憲法が施行されたに日に由来するもの…ということである。
公布と施行の違いであるが、法律の公布とは、すでに成立した新しい法令を広く一般人が知ることができる状態におく行為であり、日本国憲法は、それを、天皇の国事行為としている (7条1号)。又、法律の施行は、法令が現実に効力を発し、実施される状態にすることである。
もともと、この11月3日「文化の日」は制定以前から祝祭日(休日)になっていたものである。
1873(明治6)年に公布された年中祭日祝日ノ休暇日ヲ定ム(明治6年太政官布告第344号)以降1911(明治44)年までは天長節、1927(昭和2)年に改正された休日ニ関スル件(昭和2年3月4日勅令第25号)以降1947(昭和22)年までは明治節として、明治天皇の誕生日による祝祭日(休日)となっていた。名前は違うが、今で言う「昭和の日」(昭和天皇の誕生日)と同じことだ。
文化の日は上記の経緯と関係なく定められたということになっているが、当時の国会答弁や憲法制定スケジュールの変遷をみると、明治節に憲法公布の日をあわせたとも考えられる(※1参照)。
本当は日本としてはせっかくだから11月3日を「憲法記念日」にしたかったのだろうが、当時、戦後の日本を管轄していたGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)から11月3日を、憲法記念日という名にすることだけは絶対にだめだと言われて、「文化の日」という名前でそのまま祝日に改めて制定したものであったようだ。
しかし、この「新しい日本の出発」となる日本国憲法を実際に制定するに当たり、その基本概念となったもの、ならびにその制約となったものとしてまず、真っ先に挙げなければならないのが、ポツダム宣言である。
ポツダム宣言は、1945(昭和20)年7月26日にアメリカ合衆国大統領、イギリス首相、中華民国主席の名において大日本帝国(日本)に対して発せられた、「全日本軍の無条件降伏」等を求めた全13か条から成る宣言である(13条の日本語条文は※2のここ参照)。
ポツダム宣言には国体護持の条項他がなかったため、当初はその受諾に際して政府内では議論が巻き起こったようだ。
しかし、その後のソ連側の日ソ中立条約の一方的破棄、広島・長崎の原爆投下によって「国体護持」一点を条件に降伏文書に調印する旨、連合国側に通告し、これに対する回答を待ったが、連合国側の回答は微妙なものであり、取りようによってはどちらとも取れる曖昧な内容であったようだが、同年8月14日、日本政府は御前会議により協議を続けた結果、ポツダム宣言の受諾を決定し連合国側に通告した。翌15日、昭和天皇が「玉音放送」によって、ポツダム宣言の受諾(=日本の降伏表明)を連合国側に通告したことを、帝国臣民に公表した。
つまり、日本は、ポツダム宣言を受諾することで第二次世界大戦(太平洋戦争/大東亜戦争)の降伏を認め、ならびに、そこに書かれた条文に従うことを約束したことで、事実上憲法改正の法的義務を負うことになったわけである。
ポツダム宣言では、日本を占領する組織はoccupying forces of the Allies(「聯合国ノ占領軍」、ポツダム宣言12条)と表現されている。続いて、同年9月2日に締結された降伏文書の中では、日本政府はSupreme Commander for the Allied Powers(「聯合国最高司令官総司令部」、 日本では、G HQ=General Headquarters)と呼称)の指示に従うこととされ、同時に出された降伏文書調印に関する詔書も、「聯合国最高司令官」の指示に従うべきことを表明している。
上掲の画像は、1945(昭和20)年9月2日、アメリカ戦艦ミズーリ前方甲板上においてリチャード・サザランド中将が見守る中、日本の降伏文書に署名する重光葵臣外務大臣である。
そこで連合国軍占領中に、G HQの監督の下で「憲法改正草案要綱」を作成(※2のここ参照)し、その後の紆余曲折を経て起草された新憲法案は、大日本帝国憲法73条の憲法改正手続に従い、1946(昭和21)年5月16日の第90回帝国議会の審議(※3のここ参照)を経て若干の修正を受けた後、11月3日に日本国憲法として公布され、その6か月後に施行されたというわけである。
日本を占領したGHQのダグラス・マッカーサーに対し、アメリカ政府が示した占領の主要目的は「日本の武装解除ならびに非軍国主義化」であり、非軍国主義化には、軍国主義体制の解体と民主主義制度(基本的人権の尊重)の確立の2つの側面があった。
このためマッカーサーは、「征服者」と「改革者」の2つの顔をもって占領下の日本に君臨した。1946(昭和21)年初めには、GHQの機構やスタッフも整備され、民生局(GS)を中心に、日本側の想定を上回る急進的改革が矢継ぎ早に打ち出された。
軍国主義の解体については前年秋からの、特高警察の廃止、戦犯容疑者の逮捕、神道指令による政教分離などが進んでいたが、1946(昭和21)年1月4日には広い範囲で戦争関係者の公職追放が司令された。更に財閥解体や中途半端な農地改革も実施された。
民主主義制度確立の面では、前年中に、女性に参政権が与えられ、労働組合法が制定されたあと、1946(昭和21)年11月3日に日本国憲法が公布されたのであるが・・・。
新憲法は「法的革命とも言うべき占領改革(※4参照)」の頂点であったとも言われるが、占領軍による、様々な改革は、民主主義を実現するために非民主主義的な手段で強制するという矛盾がなくはなかった。
特に新憲法の制定については不十分な日本政府の改正案に対して、GHQが力で原案(マッカーサー草案)を押し付けた実態があるにはあるが、アメリカ側は「日本国民の意思に支持されない政治形態を強要しない」という建前にはこだわっていたため、制定経過は極めて複雑でねじれたプロセスをたどった。
マッカーサーは1945(昭和20)年10月に幣原喜重郎首相と会見した時、憲法の自由化を口にしたが、具体的な改革要求は示さなかった。
日本側の自発的な取り組みに期待したのだが、日本政府は改正を急ぐ必要はないと受け止め、松本蒸治国務相の下に憲法問題調査委員会(松本委員会とも呼ばれる。※5のここ参照)を設けることでしのごうとした(日本政府および日本国民の憲法改正動向参照)。
そうした中で、1946(昭和21)年2月1日付の毎日新聞が「憲法問題調査委員会試案」をスクープした(※2のここ参照)。
その内容は天皇の統治権を認めるなど、明治憲法とろくに変わらぬ超保守的なものだった(松本試案参照)。
報告を受けたマッカーサーは、2月3日、ホイットニー民政局長に天皇制存続、戦争の放棄など3項目の原則を示して、早急にGHQ案を起草し日本側に提示するよう命じた。
当時、米英ソ3国外相会議で日本管理のため、新たに極東委員会を設置することが決まったことから、マッカーサーは天皇制存続について他の連合国の介入を招くことを恐れ、憲法の改定を急がざるを得なくなっていた。
極東委員会とは、GHQよりも上位に位置する組織である。日本を直接占領したのはアメリカ軍であったが、立場的には、アメリカ軍は連合国軍の一員として占領をしていたのである。このことは、特に憲法改正問題については、アメリカ政府は、極東委員会の合意なくしてGHQに対して指令を発することができなくなることを意味していた。
そのような中、日本の憲法改正に関しては、米国政府の指針を示す文書(SWNCC228)がある。この文書は、極東委員会のこともあり、あくまで、アメリカ政府がマッカーサーに対して、どのような日本を目指すべきかを、「指令」ではなく「情報」の形で示したものであり、文書には、マッカーサーが日本政府に対し、選挙民に責任を負う政府の樹立、基本的人権の保障、国民の自由意思が表明される方法による憲法の改正といった目的を達成すべく、統治体制の改革を示唆すべきである・・・と、したものであった(※2のここ及び 2013年3月4日時点のページ参照)。
毎日新聞に掲載された「松本委員会案」の内容が日本の民主化のために不十分であり、国内世論も代表していないと判断したマッカーサーは、もう、「日本政府と協議して草案を作っている暇はない」と判断したのだろう。
マッカーサーの指示により、GHQ案は極秘で進められ、たった9日間で作業を終わった。
ホイットニー等は2月13日、吉田茂外相と松本国務相に会いGHQ案の受け入れを迫った。その際GHQ側は、マッカーサーは天皇を戦犯として取り調べるべきだとの他国からの圧力を受けていると強調し、「新しい憲法の諸法規が受け入れられるならば、実際問題として天皇は安泰になる」と説得したという。
GHQの動きを全く知らなかった日本側は愕然として受け入れに抵抗したものの、字句が修正された程度で、3月6日に政府案要綱として発表せざるを得なかった(※2のここ参照)。もちろんGHQの動きは隠されたままだった。
日本側が先に改革に手をつけた唯一の例外が農地改革だった。しかし、1945(昭和20)年末の国会で承認された第1次農地改革は、地上に平均5町歩(山林・田畑の面積を町を単位として数えるとき用いる語)の農地保有を認める不徹底な内容だったため、マッカーサーは本国から農業専門家を呼び寄せ、不在地主の所有地を全て開放し、在村地主の保有地は1町歩とする、より厳しい改革案をつくり、1946(昭和21)年10月の国会で成立させた。
翌年3月に始まった第2次農地改革は、1950(昭和20)年7月の完了までに全国の小作地(小作人が地主から借りて、耕作している農地)の約80%を開放する成果を上げ、軍国主義の温床となった日本の農村の貧しさを解消する土台となった。
占領軍の民主主義改革は1941(昭和21)年の2・1スト中止命令で終わりを告げるが、短期間で軍国日本を全面的に改造した実績は、絶対的権力に加え共産党まで、アメリカ軍を開放軍と歓迎するほど日本国民の支持があったのは、マッカーサーが単なる軍人ではなかったことの証明でもあるだろう。
憲法記念日2-2へ
憲法記念日(参考)へ
※冒頭の画像は、新憲法公布の日、皇居前広場で午後2時から10万人が集まって「日本国憲法公布記念祝賀都民大会」が開かれ天皇・皇后も臨席した。戦争放棄をうたう新憲法がスタートした(『朝日クロニクル週刊20世紀』1946年号より)。
日本国憲法は、敗戦後2年目の1947(昭和22)年5月3日に施行され、翌・1948(昭和23)年に公布・施行された祝日法によって制定された。しかし、憲法が実際に公布されたのは、施行日前年の1946昭和21)年11月3日であったが施行が半年後の1947(昭和22)年5月3日となったもの。
日本国憲法の公布日および施行日については、その日をいつにするか議論があったようだが、結局、様々な思惑から、日本国憲法が『平和と文化』を重視していることから、この日は「文化の日」として残された。当時法制局長官であった入江俊郎がこの間の経緯については、後に記している文面等があるがこれについては→ 新憲法の公布日をめぐる議論を参照。
祝日法では、この日は、「自由と平和を愛し、文化をすすめる」ことを趣旨としている。
実際に文化の日には「日本の文化の大きな発展に貢献した人」を選出して、皇居で文化勲章の親授式が行われている.のは、御存じの通りである。
いわば「文化の日」と「憲法記念日」は兄弟のような間柄である。
「文化の日」は、日本国憲法が公布された日に由来するもの。「憲法記念日」は、日本国憲法が施行されたに日に由来するもの…ということである。
公布と施行の違いであるが、法律の公布とは、すでに成立した新しい法令を広く一般人が知ることができる状態におく行為であり、日本国憲法は、それを、天皇の国事行為としている (7条1号)。又、法律の施行は、法令が現実に効力を発し、実施される状態にすることである。
もともと、この11月3日「文化の日」は制定以前から祝祭日(休日)になっていたものである。
1873(明治6)年に公布された年中祭日祝日ノ休暇日ヲ定ム(明治6年太政官布告第344号)以降1911(明治44)年までは天長節、1927(昭和2)年に改正された休日ニ関スル件(昭和2年3月4日勅令第25号)以降1947(昭和22)年までは明治節として、明治天皇の誕生日による祝祭日(休日)となっていた。名前は違うが、今で言う「昭和の日」(昭和天皇の誕生日)と同じことだ。
文化の日は上記の経緯と関係なく定められたということになっているが、当時の国会答弁や憲法制定スケジュールの変遷をみると、明治節に憲法公布の日をあわせたとも考えられる(※1参照)。
本当は日本としてはせっかくだから11月3日を「憲法記念日」にしたかったのだろうが、当時、戦後の日本を管轄していたGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)から11月3日を、憲法記念日という名にすることだけは絶対にだめだと言われて、「文化の日」という名前でそのまま祝日に改めて制定したものであったようだ。
しかし、この「新しい日本の出発」となる日本国憲法を実際に制定するに当たり、その基本概念となったもの、ならびにその制約となったものとしてまず、真っ先に挙げなければならないのが、ポツダム宣言である。
ポツダム宣言は、1945(昭和20)年7月26日にアメリカ合衆国大統領、イギリス首相、中華民国主席の名において大日本帝国(日本)に対して発せられた、「全日本軍の無条件降伏」等を求めた全13か条から成る宣言である(13条の日本語条文は※2のここ参照)。
ポツダム宣言には国体護持の条項他がなかったため、当初はその受諾に際して政府内では議論が巻き起こったようだ。
しかし、その後のソ連側の日ソ中立条約の一方的破棄、広島・長崎の原爆投下によって「国体護持」一点を条件に降伏文書に調印する旨、連合国側に通告し、これに対する回答を待ったが、連合国側の回答は微妙なものであり、取りようによってはどちらとも取れる曖昧な内容であったようだが、同年8月14日、日本政府は御前会議により協議を続けた結果、ポツダム宣言の受諾を決定し連合国側に通告した。翌15日、昭和天皇が「玉音放送」によって、ポツダム宣言の受諾(=日本の降伏表明)を連合国側に通告したことを、帝国臣民に公表した。
つまり、日本は、ポツダム宣言を受諾することで第二次世界大戦(太平洋戦争/大東亜戦争)の降伏を認め、ならびに、そこに書かれた条文に従うことを約束したことで、事実上憲法改正の法的義務を負うことになったわけである。
ポツダム宣言では、日本を占領する組織はoccupying forces of the Allies(「聯合国ノ占領軍」、ポツダム宣言12条)と表現されている。続いて、同年9月2日に締結された降伏文書の中では、日本政府はSupreme Commander for the Allied Powers(「聯合国最高司令官総司令部」、 日本では、G HQ=General Headquarters)と呼称)の指示に従うこととされ、同時に出された降伏文書調印に関する詔書も、「聯合国最高司令官」の指示に従うべきことを表明している。
上掲の画像は、1945(昭和20)年9月2日、アメリカ戦艦ミズーリ前方甲板上においてリチャード・サザランド中将が見守る中、日本の降伏文書に署名する重光葵臣外務大臣である。
そこで連合国軍占領中に、G HQの監督の下で「憲法改正草案要綱」を作成(※2のここ参照)し、その後の紆余曲折を経て起草された新憲法案は、大日本帝国憲法73条の憲法改正手続に従い、1946(昭和21)年5月16日の第90回帝国議会の審議(※3のここ参照)を経て若干の修正を受けた後、11月3日に日本国憲法として公布され、その6か月後に施行されたというわけである。
日本を占領したGHQのダグラス・マッカーサーに対し、アメリカ政府が示した占領の主要目的は「日本の武装解除ならびに非軍国主義化」であり、非軍国主義化には、軍国主義体制の解体と民主主義制度(基本的人権の尊重)の確立の2つの側面があった。
このためマッカーサーは、「征服者」と「改革者」の2つの顔をもって占領下の日本に君臨した。1946(昭和21)年初めには、GHQの機構やスタッフも整備され、民生局(GS)を中心に、日本側の想定を上回る急進的改革が矢継ぎ早に打ち出された。
軍国主義の解体については前年秋からの、特高警察の廃止、戦犯容疑者の逮捕、神道指令による政教分離などが進んでいたが、1946(昭和21)年1月4日には広い範囲で戦争関係者の公職追放が司令された。更に財閥解体や中途半端な農地改革も実施された。
民主主義制度確立の面では、前年中に、女性に参政権が与えられ、労働組合法が制定されたあと、1946(昭和21)年11月3日に日本国憲法が公布されたのであるが・・・。
新憲法は「法的革命とも言うべき占領改革(※4参照)」の頂点であったとも言われるが、占領軍による、様々な改革は、民主主義を実現するために非民主主義的な手段で強制するという矛盾がなくはなかった。
特に新憲法の制定については不十分な日本政府の改正案に対して、GHQが力で原案(マッカーサー草案)を押し付けた実態があるにはあるが、アメリカ側は「日本国民の意思に支持されない政治形態を強要しない」という建前にはこだわっていたため、制定経過は極めて複雑でねじれたプロセスをたどった。
マッカーサーは1945(昭和20)年10月に幣原喜重郎首相と会見した時、憲法の自由化を口にしたが、具体的な改革要求は示さなかった。
日本側の自発的な取り組みに期待したのだが、日本政府は改正を急ぐ必要はないと受け止め、松本蒸治国務相の下に憲法問題調査委員会(松本委員会とも呼ばれる。※5のここ参照)を設けることでしのごうとした(日本政府および日本国民の憲法改正動向参照)。
そうした中で、1946(昭和21)年2月1日付の毎日新聞が「憲法問題調査委員会試案」をスクープした(※2のここ参照)。
その内容は天皇の統治権を認めるなど、明治憲法とろくに変わらぬ超保守的なものだった(松本試案参照)。
報告を受けたマッカーサーは、2月3日、ホイットニー民政局長に天皇制存続、戦争の放棄など3項目の原則を示して、早急にGHQ案を起草し日本側に提示するよう命じた。
当時、米英ソ3国外相会議で日本管理のため、新たに極東委員会を設置することが決まったことから、マッカーサーは天皇制存続について他の連合国の介入を招くことを恐れ、憲法の改定を急がざるを得なくなっていた。
極東委員会とは、GHQよりも上位に位置する組織である。日本を直接占領したのはアメリカ軍であったが、立場的には、アメリカ軍は連合国軍の一員として占領をしていたのである。このことは、特に憲法改正問題については、アメリカ政府は、極東委員会の合意なくしてGHQに対して指令を発することができなくなることを意味していた。
そのような中、日本の憲法改正に関しては、米国政府の指針を示す文書(SWNCC228)がある。この文書は、極東委員会のこともあり、あくまで、アメリカ政府がマッカーサーに対して、どのような日本を目指すべきかを、「指令」ではなく「情報」の形で示したものであり、文書には、マッカーサーが日本政府に対し、選挙民に責任を負う政府の樹立、基本的人権の保障、国民の自由意思が表明される方法による憲法の改正といった目的を達成すべく、統治体制の改革を示唆すべきである・・・と、したものであった(※2のここ及び 2013年3月4日時点のページ参照)。
毎日新聞に掲載された「松本委員会案」の内容が日本の民主化のために不十分であり、国内世論も代表していないと判断したマッカーサーは、もう、「日本政府と協議して草案を作っている暇はない」と判断したのだろう。
マッカーサーの指示により、GHQ案は極秘で進められ、たった9日間で作業を終わった。
ホイットニー等は2月13日、吉田茂外相と松本国務相に会いGHQ案の受け入れを迫った。その際GHQ側は、マッカーサーは天皇を戦犯として取り調べるべきだとの他国からの圧力を受けていると強調し、「新しい憲法の諸法規が受け入れられるならば、実際問題として天皇は安泰になる」と説得したという。
GHQの動きを全く知らなかった日本側は愕然として受け入れに抵抗したものの、字句が修正された程度で、3月6日に政府案要綱として発表せざるを得なかった(※2のここ参照)。もちろんGHQの動きは隠されたままだった。
日本側が先に改革に手をつけた唯一の例外が農地改革だった。しかし、1945(昭和20)年末の国会で承認された第1次農地改革は、地上に平均5町歩(山林・田畑の面積を町を単位として数えるとき用いる語)の農地保有を認める不徹底な内容だったため、マッカーサーは本国から農業専門家を呼び寄せ、不在地主の所有地を全て開放し、在村地主の保有地は1町歩とする、より厳しい改革案をつくり、1946(昭和21)年10月の国会で成立させた。
翌年3月に始まった第2次農地改革は、1950(昭和20)年7月の完了までに全国の小作地(小作人が地主から借りて、耕作している農地)の約80%を開放する成果を上げ、軍国主義の温床となった日本の農村の貧しさを解消する土台となった。
占領軍の民主主義改革は1941(昭和21)年の2・1スト中止命令で終わりを告げるが、短期間で軍国日本を全面的に改造した実績は、絶対的権力に加え共産党まで、アメリカ軍を開放軍と歓迎するほど日本国民の支持があったのは、マッカーサーが単なる軍人ではなかったことの証明でもあるだろう。
憲法記念日2-2へ
憲法記念日(参考)へ
※冒頭の画像は、新憲法公布の日、皇居前広場で午後2時から10万人が集まって「日本国憲法公布記念祝賀都民大会」が開かれ天皇・皇后も臨席した。戦争放棄をうたう新憲法がスタートした(『朝日クロニクル週刊20世紀』1946年号より)。