今まで格闘技の中でも特に荒々しく、男臭いプロレスやプロボクシングなどの世界は男性のファンで支えられていたものだったが、そんな荒々しい格闘技に女性ファンが急増していると聞く。それも若いファンが多いという。その詳しい理由を私は良く知らないが、恐らく、若くて鍛えられた肉体美を誇る、しかもイケメンがこれらの世界へも進出してきたからではないだろうか。
昔は男らしい男性を女性は好んだものだが、戦後の平和な時代が続くと、近年、女性は男臭い男性よりも優男を好む傾向があり、そのような影響もあってだろう、最近は、女性か男性かわからない中世的な男性が増えてきた。TVの世界はそんな男性であふれかえっている。
最近、錦織圭がTVCMに顔を出すようになったが、いまだに松岡修造などがにTVCMを独占しているのも、格好良く逞しく明るい男性スポーツ選手などがなかなか現れないからであろう。今の女性は、男性同様厳しい社会の中で自立しており、ストレスが溜まった時などには、鍛えられた逞しい、しかもイケメンが活躍する格闘技を見て、ストレスを発散させたいと思う女性が増えているのではないだろうか。ただの優男より、逞しい男性が持てるようになったとすれば、これからの男性像も少しづつ変化してゆくだろう。
終戦の私が子供の頃は、太平洋戦争に負け、男どもは自身喪失していた。戦後日本はGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)により武道の禁止指令により柔道も禁止されていたが、そんな中、1951(昭和26)年に相撲界から力道山がデビューした。これが、日本におけるプロレス元年とされている。
プロレス興行が根付いたのは力道山が1953(昭和28)年に日本プロレスを旗揚げしてからのことである。戦後間もない頃で多くの日本人が反米感情を募らせていた背景から、力道山が外国人レスラーを空手チョップで痛快になぎ倒す姿は街頭テレビを見る群集の心を大いに掴み、プロ野球、大相撲と並び国民的な人気を獲得したものだ。
日本の本格的ボクシングは1921(大正10)年、アメリカ帰りの渡辺勇次郎が東京下目黒にオープンした日本検討クラブに始まる。渡辺が栃木県で凱旋興行したとき、母校の真岡中学で発掘したのが堀口恒男。ラッシュ(rush=突進すること。猛然と攻撃すること)戦法(彼の場合「ピストン戦法」と呼ばれた)の“ピストン堀口”である。
中学卒業と共に日倶に入門。早大専門部に通う堀口が一躍脚光を浴びたのは1933(昭和8)年、前世界チャンピオンのエミール・ブラドネル(仏)と引き分けたときである。1930年代後半のボクシング界はこの堀口を軸に展開した。渡辺勇次郎の夢見た「世界選手権を日本人に」を実現したのは、戦後のヒーロー白井義男だった。
1952(昭和27)年5月19日、東京・後楽園球場特設リンクで、フィリピン系ハワイ人の世界フライ級王者ダド・マリノ(米国)に挑戦し、15回判定勝ちで、日本人初の世界タイトル保持者となった。渡辺のジム開設から31年後のことであった。
白井は、以後4度の防衛を果たしたが、敗戦に打ちひしがれた日本人にとって、白井の王者獲得とその後の防衛での活躍は"希望の光"となった。因みに、この5月19日は、2010(平成22)年に、日本プロボクシング協会によって「ボクシングの日」に指定されており、毎年この日には「ファン感謝イベント」が開催されているようだ。
上掲の画像は、5月19日後楽園特設リンクでエミール・ブラドネルと戦う白井。『アサヒクロニクルス 週刊20世紀』スポーツの100年より。
その白井のあとを追うように、1950年代後半ファイティング原田(本名は原田 政彦)、海老原博幸、青木勝利の“軽量級三羽烏時代”が現れ、ボクシング黄金期を迎えることになる。特に、原田はフライ級に続いて“黄金のバンタム” エデル・ジョフレ(ブラジル)を破って世界王座の2階級制覇を成し遂げた。多くの専門誌が「歴代最も偉大な日本人ボクサー」として原田の名前を挙げている。日本のボクシング世界王者のことについては、Wikipedia のここ 又、その戦績などは※1:「ボクシングのページ」の日本のジム所属の歴代世界チャンピオンを参照されるとよい。
冒頭の画像は1955年5月18日、バンタム級の不敗の王者、エデル・ジョフレに挑戦し、ラッシュ戦法が効を奏し2対1で判定勝ちし、慣習にこたえている原田。『アサヒクロニクル週刊20世紀』1965年号より。
今日はこの原田の栄光の時代と試合のことについて触れてみたい。なお、このブログを書くに当たり、原田の経歴試合内容等については、Wikipediaだけでは詳細な記録が見られないので、以下参考の※2:「究極の格闘技ボクシングの歴史」のボクシング黄金時代最強のトリオや、※3:「キングオブスポーツ ボクシング」の名ボクサー名鑑よりファイティング原田を参考にさせてもらった。
白井のあと、彗星のごとく現れた原田は終戦の2年前、1943(昭和18)年4月5日、東京の世田谷に生まれた。植木職人であった父親が、中学2年の時、仕事中の怪我により働けなくなったため、彼は高校進学をあきらめ、当時、白井義男の活躍によりボクシング人気が高まっていたこともあり、友人に誘われ、近所にあった精米店で働きながら猛練習で知られる笹崎ボクシングホール(現:笹崎ボクシングジム。目黒区)に入門した。この笹崎ジムの初代会長笹崎僙(たけし)も、渡辺の門下生で、戦後に元同門のピストン堀口のライバルとして活躍した昭和初期における日本を代表するボクサーの一人であり、その鋭いストレートから「槍の笹崎」の異名で呼ばれた人物である。
笹崎ジムに通っていた原田は、初めてのスパーリングで激しい連打を披露し、笹崎会長を驚かせたという。原田が将来の名選手になることを確信した笹崎会長は、徹底的に原田少年を鍛え抜いた。
そして、1960(昭和35)年、わずか16歳10ヶ月で彼はデビュー戦にのぞみ、見事4ラウンドKO勝ちをおさめた。これを機に、彼は、3ヵ月後には精米店を辞め、ジムの合宿生となり、ボクシングに専念するようになった。
そして、同年秋、彼は東日本新人王戦(全日本新人王決定戦参照)に出場し順当に勝ち進み、準決勝で彼が対戦することになったのは、同じジムの親友でもあった斉藤清作であったが、斉藤は、「負傷」と言うことで出場を辞退している。実力的には五分五分であったといわれていただけに、ジムの会長が両者の接戦を予測し、共倒れを恐れ斉藤に辞退させたのだろうと推測されている。後に、「タコ八郎」の名で、コメディアンとして人気者になった斎藤とは、その後も長く交友が続き、死の直前にも電話を受けたといわれている。
決勝に進んだ原田は、やはりKOパンチャーとして売出し中で、後にフライ級世界チャンピオンにもなった海老原博幸に判定勝ちしている。この試合は6回戦とは思えない名勝負となり、序盤は原田がラッシュし、途中二度のダウンを奪って大きくリードするが、終盤には、海老原が後に“カミソリ・パンチ”と言われた左を再三ヒットして反撃、原田は何とか耐え抜き判定に持ち込み、ダウンポイントが利き、原田がこの試合をものにした(この後、海老原が試合中にダウンを喫することは、引退まで二度となかった。そして日本人相手に敗れることも)。この対戦は、後の世界王者同士の対決として、新人王戦史上に残る名勝負と言われている。
1962(昭和37)年5月3日、ノンタイトル10回戦に判定勝ち。デビュー以来25連勝を達成し、海老原、青木とともに次代のホープとして「フライ級三羽烏」と称されるようになった。しかし、成長盛りの年代でもあり、次第にフライ級での体重維持が困難になり、バンタム級への転向を考え始めていた彼は、同年6月同級へのテストマッチとして臨んだ世界バンタム級7位のエドモンド・エスパルサ(メキシコ)戦で10R(ラウンド)判定で敗れてしまい、バンタム級転向を発表できずにいた。
童顔の風貌とは裏腹に、原田のボクシングスタイルは力強い連打で打って打って打ちまくるラッシュ戦法であった。後に「狂った風車」とも呼ばれた激しいファイトスタイルも、このバンタム級へのテストマッチ戦では、パンチ力を生かすことができずに敗戦を喫し、たとえ、階級をあげてもパンチ力だけでは勝てないことを知った。そして、この戦いの後、まもなく、世界フライ級王者ポーン・キングピッチ(タイ)に挑戦が内定していたのは、同級1位の矢尾板貞雄であったが矢尾板が突然引退したため、同じ日本人のホープ原田に突然挑戦のチャンスが回ってくるという運の強さも持っていた。
世界タイトルマッチを目前にしての突然の引退であり、日本での試合はすでに準備されており、チャンピオンのポーン・キングピッチは急遽対戦相手に原田を指名したのだが、この時、原田はまだ世界ランキングにも登場していない無名の存在であったが、彼は海老原に次ぐ日本ランキングの2位のボクサーであった。順当なら対戦相手には海老原が選ばれるべきであったが、海老原の強さの方が海外には知られており、原田がバンタム級7位の相手に敗れていることも知られていたことから、海老原より原田の方がポーンにとってはやりやすかったのだろう。そのようなことから、原田の挑戦についてはいろいろ議論もあったたようだが、結局、ポーンが勝てば防衛にはならない、原田が勝てば王座獲得という変則的な条件で、1962(昭和37)年10月10日に無事に世界タイトルマッチにこぎつけた(ただ、挑戦時には原田に世界10位のランクがつき、正式な世界タイトルマッチとなるが、これは、タイトル戦への権威づけなのであろう)。
蔵前国技館で行われた試合は、原田が左ジャブとフットワークでポーンをコントロールし、11R、相手コーナーに追い詰め、80数発もの左右連打を浴びせポーンはコーナーロープに腰を落としてカウントアウトされKO負けとなった。勝って当たり前のチャンピオン、あきらかに油断があったのだろう。一方、駄目でもともとの原田はラッシュ戦法で一方的に攻めまくり、見事世界の頂点を極めたのである。白井義男に次いで2人目、10年ぶりの世界王者誕生にファンは大熱狂。無数の祝福の座布団が会場に舞ったのは当然だろう。10代での世界王者誕生に日本中も大いに湧いた。
しかし、華々しく奪った世界タイトルだったが、成長盛りの彼にとって普段の体重の維持はもう限界になっていた。3ヵ月後の1963(昭和38)年1月、敵地でのリターンマッチ戦では、元チャンピオンも今度は十分な準備をして待ち受けていた。しかも、敵地での対戦はKOしなければ勝てないことは十分にわかってはいても、原田の方は、減量のためだけの練習になっていた。結局、体調不良が響き微妙な判定負けでタイトルを失った。
この試合後、彼はフライ級からバンタム級に転じ、バンタム級へ転向後は連勝を続け、半年で世界ランクの4位となり、同級3位のジョー・メデル(メキシコ)と、1963(昭和38)年9月26日、世界タイトルへの挑戦権を賭けて対戦することとなった。メデルは、クロス・カウンターを得意とするアウトボクサーで、「ロープ際の魔術師」の異名を持つ強豪であった。
仕合では、5Rまでは、原田のラッシュが勝り一方的な展開であったが、6R、原田の単調な動きを見切ったメデルに、得意のカウンターをヒットされ3度のダウンの末にKO負けしてしまった。この敗戦により原田は、今までの戦法では通じないことを悟り、単調なラッシュ戦法にフェイントを加え、さらに体力アップによるラッシュ時間を増やすことを目指し猛練習。すぐに再起し、翌・1964(昭和39)年10月29日、”メガトン・パンチ”と称された強打を誇る東洋王者・青木勝利に新戦法で闘い、3RKO勝ちし、バンタム級世界王座への挑戦権を掴んだ。
当時の世界チャンピオン、エデル・ジョフレ(ブラジル)は「ガロ・デ・オーロ(黄金のバンタム)」の異名通り、世界王座を獲得した試合、8度の防衛戦にいずれもKO勝ちしていた。その中には、青木や、原田にKO勝ちしたジョー・メデルも含まれていた。強打者であり、パンチを的確にヒットさせ、ディフェンスも堅い実力王者だった。原田の猛練習は、取材していた新聞記者が、疲労で床にへたり込む程の激しさだったと言う。しかし、試合前の予想は、ジョフレの一方的有利、原田が何ラウンドまで持つか、という悲観的な見方がほとんどだった。
その試合は、奇(く)しくも、今から、ちょうど50年前の今日・1965(昭和40)年5月18日に名古屋・愛知県体育館で行われたのであった。この時、ジョフレは29歳、原田はまだ22歳であった。
試合開始のゴングを聞いた原田は、当初今までのボクシングスタイルを捨て、アウトボクシングに出た。かなりの大博打を打ったと言えるが、果たして原田はこの博打に勝った。原田のラッシュを予想した作戦を組み立てていたであろうジョフレに、明らかに戸惑いが見られ、その端正なボクシングに狂いが出始めたのである。そして、4R、ジョフレはリング中央で原田との打ち合いに応じたが、パンチにいつもの的確性がなく、原田のパンチが勝っていた。そして遂に、ジョフレ唯一の弱点である細いアゴを、原田の右アッパーが打ち抜いた。これでロープまで吹っ飛ばされたジョフレに、原田はラッシュを仕掛ける。だが、ジョフレもよく追撃打をブロックでしのぎ、次の5Rには、強烈な右をヒットし、原田はコーナーを間違えるほどのダメージを負った。だが、練習量豊富な原田は、次の回から立ち直り、終盤は一進一退の展開を迎える。そして遂に15Rの終了ゴングが鳴った。ボクシング史に残る死闘となったこの試合、どちらが勝ってもおかしくない内容だったが、手数で上回った原田が僅差で制した。勝敗の判定は、日本の高田(ジャッジ)が72-70で原田、アメリカのエドソン(ジャッジ)が72-71でジョフレ、そして、アメリカ人バーニー・ロス(レフェリー)が71-69で原田、2-1の判定勝ちで原田は世界王座奪取した。
レフェリーのロスは、現役時代、原田同様のラッシャーであり、それが原田に有利に作用したのでは、という噂もあったようだが、いずれにしても、原田のファイトが圧倒的不利の予想を覆し2階級制覇に成功したのであった。人格者でもあったジョフレは、。上述の通りクロス・ゲーム原田にタイトルを奪われた試合後には笑顔で原田を担ぎ上げていた。
そして、1965(昭和40)年11月30日、初防衛戦では、リヴァプール出身のアラン・ラドキン(イギリス)を15回判定で破り、翌・1966(昭和41)年5月31日、2度目の防衛戦では、前王者ジョフレを15回判定で下し防衛に成功。
1967(昭和42)年1月3日、3度目の防衛戦。では、かつてKO負けしたジョー・メデルとの再戦となる。この試合、前回メデルのカウンター攻撃に倒された原田は、足を使って、メデルのカウンターの射程圏外に出て、攻勢時には、身体を密着させてラッシュし、カウンターを封じた。原田の一方的なポイントリードで迎えた最終15回、メデルの左フックのカウンターが遂に命中し、一瞬ふらりとしたが、クリンチで何とか逃げ切り王座を防衛した。
同年7月4日、4度目の防衛戦。ベルナルド・カラバロ(コロンビア)を15回判定で下し王座防衛。4度の防衛を果たしたが、1968(昭和43)年2月27日、5度目の防衛戦で、当時19歳の無名挑戦者ライオネル・ローズ(オーストラリア)に15回判定負けしタイトルを失った。
この頃バンタム級でも原田の減量苦は限界を超し始めていたため、以降フェザー級に転向した。この当時、世界のボクシング界はボクシング団体がWBCとWBAに分裂し始めていた。日本のボクシング団体であるJBCは、まだWBAの存在しか認めていなかったため、原田はWBA認定のフェザー級チャンピオンとなっていたラウル・ロハス(米)に挑戦することしかできなかったが、当時、日本ではほとんど無名の存在であった、西城正三が、たまたま武者修行先のアメリカで、ロハスとの練習試合を行いまさかの勝利を収めたことから、タイトル戦への挑戦機会を得て、またまたロハスに勝利してチャンピオンになっていた。
このまさかの日本人世界チャンピオンの誕生で、日本のボクシング界で初めての日本人対決の可能性が浮上してきたため、西城への挑戦準備が進む中、原田は同級の格下相手と調整試合を行ったが、調整の遅れもあり、原田もまさかの敗戦を喫してしまった。この敗戦により、彼は世界ランキングを落としてしまい、タイトルへの挑戦権を失うという大誤算となった。WBAでのタイトル挑戦が厳しくなったことから、彼はしかたなくWBCタイトルへの挑戦を目指した。相手は、オーストラリア人のジェームス・ファメションであった。
1969(昭和44)年7月28日、WBCフェザー級王座に敵地シドニーで挑戦。敵地での試合ということで原田はKOでの勝利を目指して、果敢に攻め、ファメションをKOギリギリまで追い込み3度ダウンを奪ったにもかかわらずレフェリーがダウンしたファメションを助け起こすという事件が起きる。そのうえ、内容的に原田が圧倒していたにも関わらず、15回判定負け。判定はチャンピオンの勝利となってしまった。この試合の判定は英国式ルールにより、判定がレフェリー一人にまかされていたことも問題なようで、露骨なホームタウンディシジョンでの防衛であることは明らかで、リングサイドで観戦していたライオネル・ローズもそれを認めており、当時の地元スポーツ新聞にはリング上で失神している王者の写真がデカデカと掲載されていたというから、いかに地元オーストラリアにとっても不名誉な勝利であったかが伺える。だが、結果として、地元判定に泣いた「幻の三階級制覇」となってしまった。
当然、ここまで問題が大きくなったことでWBCは再戦を要求。翌1970(昭和45)年1月6日、ファメションは王者の意地と誇りを賭けて今度は原田の地元東京・東京体育館にて再戦(日本で行われた初のWBC世界タイトルマッチ)を行ったが、原田はいい所が無いまま14RでKO負けしてしまった。もともと太りやすい体質の原田。無理な減量による10年間の戦いに肉体は思っている以上に衰えていたのかもしれない。この敗戦から3週間後の、同年1月27日、彼は引退を発表した。
原田の時代までは世界タイトル統括団体は世界ボクシング協会(WBA)たったひとつ。階級も8クラスしかなかった。つまり、世界王者はたった8人しかいなかった。しかし、現在はメジャーな統括団体が4つ、階級は17クラス、しかもスーパーだの暫定だの休養だのが乱発されている。今と違って原田が戦った1960年代当時、2階級制覇した、いや、ローズ戦の不当な試合結果がなければ三階級制覇もなっていた・・・というのは凄いことなのである。
ファイティング原田の名前が示すように原田は連打で打って打って打ちまくるラッシュ戦法を得意としていた。もともと太りやすい体質の原田が成長期に減量苦に耐え、そして類まれな闘志、根性から生みだしたものである。そのスタイルから努力、根性といった当時の日本人が好む匂いに溢れた選手だった。世界での評価も高く、米国にある世界ボクシング殿堂入りを果たした唯一の日本人ボクサーである。
そして、バンタム級歴代最強論争にも必ず登場する原田。1950年代後半から1960年代初めにかけて最強の名をほしいままにしたジョフレの戦績は78戦72勝(50KO)2敗4分・・と、たった2敗しかしていない。しかし、この2敗はいずれもがファイティング原田に喫したものである。すなわち‘「黄金のバンタム」を破った男はファイティング原田しかいないのである。
とにかく、彼のタイトルマッチは、高視聴率をマークする試合が多かったが、この1戦がやはり、ボクシング放送での1番の高視聴率となった歴史的な試合であった。以下は、ビデオリサーチによる、全局高世帯視聴率番組50(※4参照)の順位である。この視聴率を見れば、彼がどれくらい当時の人から愛されていたかがわかるだろう。
タイトル戦テレビ視聴率
第1 位第14回NHK紅白歌合戦 1963年12月31日(火)NHK総合 81.4 %。
第2 東京オリンピック大会(女子バレー・日本×ソ連 ほか) 1964年10月23日(金) NHK総合 66.8%
第3位 2002FIFAワールドカップHグループリーグ・日本×ロシア 2002年6月9日(日) フジテレビ 66.1%
第4位 プロレス(WWA 世界選手権・デストロイヤー×力道山) 1963年5月24日(金) 日本テレビ 64.0 %
上記に続いて、以下の通り、歴代視聴率ベスト10に2試合、30位までに6試合もランクされているのである。
第5位、世界バンタム級タイトルマッチ(ファイティング原田×エデル・ジョフレ) 1966年5月31日(火)フジテレビ 63.7%
第8位、世界バンタム級タイトルマッチ(ファイティング原田×アラン・ラドキン) 1965年11月30日(火) フジテレビ 60.4 %
第13位、世界バンタム級タイトルマッチ(ファイティング原田×ベルナルド・カラバロ) 1967年7月4日(火)フジテレビ 57.0 %
第22位 世界バンタム級タイトルマッチ(ファイティング原田×エデル・ジョフレ) 1965年5月18日(火) フジテレビ 54.9%
第23位 世界バンタム級タイトルマッチ(ファイティング原田×ジョー・メデル) 1967年1月3日(火)フジテレビ 53.9 %
第25位 世界バンタム級タイトルマッチ(ファイティング原田×ローズ) 1968年2月27日(火) フジテレビ 53.4%
この視聴率を見れば、彼がどれくらい当時の人から愛されていたかがわかるだろう。
「幻の三階級制覇」の後、ローズ戦再選に負け、引退後は、解説者として活躍する一方、トーアファイティングジム(現・ファイティング原田ボクシングジム)にて後進の指導にあたっていた。現在は、同ジム会長。2010年3月、第10代日本プロボクシング協会(JPBA)会長退任後、同顧問。プロボクシング・世界チャンピオン会最高顧問に就いている。
今日はそんな原田の懐かしい試合を思い起こしながら後のブログを閉めよう。とりあえず見つかったものだけをいかに添付しておく。
上掲はファイティング原田 VS ポーン・キング(1962年)勝利し世界フライ級王者となったた時のもの。
原田 VS ポーン・キングピッチ(1963年) 14・15ラウンド。微妙な判定負けでタイトルを失った時のもの。
上掲は1964年10月29日、原田とライバル青木との世界挑戦権を賭けた戦い。
上掲は1965年5月18日愛知県体育館でのバンタム級チャンピオンエデル・ジョフレとの試合で圧倒的不利の予想を覆し2階級制覇に成功した時のもの。
参考:
※1:ボクシングのページ
http://www.geocities.jp/takawo2222/box.html
※2:究極の格闘技ボクシングの歴史
http://zip2000.server-shared.com/onboxing.htm
※3:キングオブスポーツ ボクシング
http://hands-of-stone.seesaa.net/
ファイティング原田|スポーツの名言
http://meigenatsumemashita.web.fc2.com/sports/fighting-harada.html
※4:全局高世帯視聴率番組50 | ビデオリサーチ
http://www.videor.co.jp/data/ratedata/all50.htm
百田尚樹 『「黄金のバンタム」を破った男』 PHP文芸文庫 -
http://blog.livedoor.jp/hattoridou/archives/51901514.html
■日本人の平均身長・平均体重の推移(1950年~)
http://dearbooks.cafe.coocan.jp/rekishi05.html
ファイティング原田 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%82%B0%E5%8E%9F%E7%94%B0
昔は男らしい男性を女性は好んだものだが、戦後の平和な時代が続くと、近年、女性は男臭い男性よりも優男を好む傾向があり、そのような影響もあってだろう、最近は、女性か男性かわからない中世的な男性が増えてきた。TVの世界はそんな男性であふれかえっている。
最近、錦織圭がTVCMに顔を出すようになったが、いまだに松岡修造などがにTVCMを独占しているのも、格好良く逞しく明るい男性スポーツ選手などがなかなか現れないからであろう。今の女性は、男性同様厳しい社会の中で自立しており、ストレスが溜まった時などには、鍛えられた逞しい、しかもイケメンが活躍する格闘技を見て、ストレスを発散させたいと思う女性が増えているのではないだろうか。ただの優男より、逞しい男性が持てるようになったとすれば、これからの男性像も少しづつ変化してゆくだろう。
終戦の私が子供の頃は、太平洋戦争に負け、男どもは自身喪失していた。戦後日本はGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)により武道の禁止指令により柔道も禁止されていたが、そんな中、1951(昭和26)年に相撲界から力道山がデビューした。これが、日本におけるプロレス元年とされている。
プロレス興行が根付いたのは力道山が1953(昭和28)年に日本プロレスを旗揚げしてからのことである。戦後間もない頃で多くの日本人が反米感情を募らせていた背景から、力道山が外国人レスラーを空手チョップで痛快になぎ倒す姿は街頭テレビを見る群集の心を大いに掴み、プロ野球、大相撲と並び国民的な人気を獲得したものだ。
日本の本格的ボクシングは1921(大正10)年、アメリカ帰りの渡辺勇次郎が東京下目黒にオープンした日本検討クラブに始まる。渡辺が栃木県で凱旋興行したとき、母校の真岡中学で発掘したのが堀口恒男。ラッシュ(rush=突進すること。猛然と攻撃すること)戦法(彼の場合「ピストン戦法」と呼ばれた)の“ピストン堀口”である。
中学卒業と共に日倶に入門。早大専門部に通う堀口が一躍脚光を浴びたのは1933(昭和8)年、前世界チャンピオンのエミール・ブラドネル(仏)と引き分けたときである。1930年代後半のボクシング界はこの堀口を軸に展開した。渡辺勇次郎の夢見た「世界選手権を日本人に」を実現したのは、戦後のヒーロー白井義男だった。
1952(昭和27)年5月19日、東京・後楽園球場特設リンクで、フィリピン系ハワイ人の世界フライ級王者ダド・マリノ(米国)に挑戦し、15回判定勝ちで、日本人初の世界タイトル保持者となった。渡辺のジム開設から31年後のことであった。
白井は、以後4度の防衛を果たしたが、敗戦に打ちひしがれた日本人にとって、白井の王者獲得とその後の防衛での活躍は"希望の光"となった。因みに、この5月19日は、2010(平成22)年に、日本プロボクシング協会によって「ボクシングの日」に指定されており、毎年この日には「ファン感謝イベント」が開催されているようだ。
上掲の画像は、5月19日後楽園特設リンクでエミール・ブラドネルと戦う白井。『アサヒクロニクルス 週刊20世紀』スポーツの100年より。
その白井のあとを追うように、1950年代後半ファイティング原田(本名は原田 政彦)、海老原博幸、青木勝利の“軽量級三羽烏時代”が現れ、ボクシング黄金期を迎えることになる。特に、原田はフライ級に続いて“黄金のバンタム” エデル・ジョフレ(ブラジル)を破って世界王座の2階級制覇を成し遂げた。多くの専門誌が「歴代最も偉大な日本人ボクサー」として原田の名前を挙げている。日本のボクシング世界王者のことについては、Wikipedia のここ 又、その戦績などは※1:「ボクシングのページ」の日本のジム所属の歴代世界チャンピオンを参照されるとよい。
冒頭の画像は1955年5月18日、バンタム級の不敗の王者、エデル・ジョフレに挑戦し、ラッシュ戦法が効を奏し2対1で判定勝ちし、慣習にこたえている原田。『アサヒクロニクル週刊20世紀』1965年号より。
今日はこの原田の栄光の時代と試合のことについて触れてみたい。なお、このブログを書くに当たり、原田の経歴試合内容等については、Wikipediaだけでは詳細な記録が見られないので、以下参考の※2:「究極の格闘技ボクシングの歴史」のボクシング黄金時代最強のトリオや、※3:「キングオブスポーツ ボクシング」の名ボクサー名鑑よりファイティング原田を参考にさせてもらった。
白井のあと、彗星のごとく現れた原田は終戦の2年前、1943(昭和18)年4月5日、東京の世田谷に生まれた。植木職人であった父親が、中学2年の時、仕事中の怪我により働けなくなったため、彼は高校進学をあきらめ、当時、白井義男の活躍によりボクシング人気が高まっていたこともあり、友人に誘われ、近所にあった精米店で働きながら猛練習で知られる笹崎ボクシングホール(現:笹崎ボクシングジム。目黒区)に入門した。この笹崎ジムの初代会長笹崎僙(たけし)も、渡辺の門下生で、戦後に元同門のピストン堀口のライバルとして活躍した昭和初期における日本を代表するボクサーの一人であり、その鋭いストレートから「槍の笹崎」の異名で呼ばれた人物である。
笹崎ジムに通っていた原田は、初めてのスパーリングで激しい連打を披露し、笹崎会長を驚かせたという。原田が将来の名選手になることを確信した笹崎会長は、徹底的に原田少年を鍛え抜いた。
そして、1960(昭和35)年、わずか16歳10ヶ月で彼はデビュー戦にのぞみ、見事4ラウンドKO勝ちをおさめた。これを機に、彼は、3ヵ月後には精米店を辞め、ジムの合宿生となり、ボクシングに専念するようになった。
そして、同年秋、彼は東日本新人王戦(全日本新人王決定戦参照)に出場し順当に勝ち進み、準決勝で彼が対戦することになったのは、同じジムの親友でもあった斉藤清作であったが、斉藤は、「負傷」と言うことで出場を辞退している。実力的には五分五分であったといわれていただけに、ジムの会長が両者の接戦を予測し、共倒れを恐れ斉藤に辞退させたのだろうと推測されている。後に、「タコ八郎」の名で、コメディアンとして人気者になった斎藤とは、その後も長く交友が続き、死の直前にも電話を受けたといわれている。
決勝に進んだ原田は、やはりKOパンチャーとして売出し中で、後にフライ級世界チャンピオンにもなった海老原博幸に判定勝ちしている。この試合は6回戦とは思えない名勝負となり、序盤は原田がラッシュし、途中二度のダウンを奪って大きくリードするが、終盤には、海老原が後に“カミソリ・パンチ”と言われた左を再三ヒットして反撃、原田は何とか耐え抜き判定に持ち込み、ダウンポイントが利き、原田がこの試合をものにした(この後、海老原が試合中にダウンを喫することは、引退まで二度となかった。そして日本人相手に敗れることも)。この対戦は、後の世界王者同士の対決として、新人王戦史上に残る名勝負と言われている。
1962(昭和37)年5月3日、ノンタイトル10回戦に判定勝ち。デビュー以来25連勝を達成し、海老原、青木とともに次代のホープとして「フライ級三羽烏」と称されるようになった。しかし、成長盛りの年代でもあり、次第にフライ級での体重維持が困難になり、バンタム級への転向を考え始めていた彼は、同年6月同級へのテストマッチとして臨んだ世界バンタム級7位のエドモンド・エスパルサ(メキシコ)戦で10R(ラウンド)判定で敗れてしまい、バンタム級転向を発表できずにいた。
童顔の風貌とは裏腹に、原田のボクシングスタイルは力強い連打で打って打って打ちまくるラッシュ戦法であった。後に「狂った風車」とも呼ばれた激しいファイトスタイルも、このバンタム級へのテストマッチ戦では、パンチ力を生かすことができずに敗戦を喫し、たとえ、階級をあげてもパンチ力だけでは勝てないことを知った。そして、この戦いの後、まもなく、世界フライ級王者ポーン・キングピッチ(タイ)に挑戦が内定していたのは、同級1位の矢尾板貞雄であったが矢尾板が突然引退したため、同じ日本人のホープ原田に突然挑戦のチャンスが回ってくるという運の強さも持っていた。
世界タイトルマッチを目前にしての突然の引退であり、日本での試合はすでに準備されており、チャンピオンのポーン・キングピッチは急遽対戦相手に原田を指名したのだが、この時、原田はまだ世界ランキングにも登場していない無名の存在であったが、彼は海老原に次ぐ日本ランキングの2位のボクサーであった。順当なら対戦相手には海老原が選ばれるべきであったが、海老原の強さの方が海外には知られており、原田がバンタム級7位の相手に敗れていることも知られていたことから、海老原より原田の方がポーンにとってはやりやすかったのだろう。そのようなことから、原田の挑戦についてはいろいろ議論もあったたようだが、結局、ポーンが勝てば防衛にはならない、原田が勝てば王座獲得という変則的な条件で、1962(昭和37)年10月10日に無事に世界タイトルマッチにこぎつけた(ただ、挑戦時には原田に世界10位のランクがつき、正式な世界タイトルマッチとなるが、これは、タイトル戦への権威づけなのであろう)。
蔵前国技館で行われた試合は、原田が左ジャブとフットワークでポーンをコントロールし、11R、相手コーナーに追い詰め、80数発もの左右連打を浴びせポーンはコーナーロープに腰を落としてカウントアウトされKO負けとなった。勝って当たり前のチャンピオン、あきらかに油断があったのだろう。一方、駄目でもともとの原田はラッシュ戦法で一方的に攻めまくり、見事世界の頂点を極めたのである。白井義男に次いで2人目、10年ぶりの世界王者誕生にファンは大熱狂。無数の祝福の座布団が会場に舞ったのは当然だろう。10代での世界王者誕生に日本中も大いに湧いた。
しかし、華々しく奪った世界タイトルだったが、成長盛りの彼にとって普段の体重の維持はもう限界になっていた。3ヵ月後の1963(昭和38)年1月、敵地でのリターンマッチ戦では、元チャンピオンも今度は十分な準備をして待ち受けていた。しかも、敵地での対戦はKOしなければ勝てないことは十分にわかってはいても、原田の方は、減量のためだけの練習になっていた。結局、体調不良が響き微妙な判定負けでタイトルを失った。
この試合後、彼はフライ級からバンタム級に転じ、バンタム級へ転向後は連勝を続け、半年で世界ランクの4位となり、同級3位のジョー・メデル(メキシコ)と、1963(昭和38)年9月26日、世界タイトルへの挑戦権を賭けて対戦することとなった。メデルは、クロス・カウンターを得意とするアウトボクサーで、「ロープ際の魔術師」の異名を持つ強豪であった。
仕合では、5Rまでは、原田のラッシュが勝り一方的な展開であったが、6R、原田の単調な動きを見切ったメデルに、得意のカウンターをヒットされ3度のダウンの末にKO負けしてしまった。この敗戦により原田は、今までの戦法では通じないことを悟り、単調なラッシュ戦法にフェイントを加え、さらに体力アップによるラッシュ時間を増やすことを目指し猛練習。すぐに再起し、翌・1964(昭和39)年10月29日、”メガトン・パンチ”と称された強打を誇る東洋王者・青木勝利に新戦法で闘い、3RKO勝ちし、バンタム級世界王座への挑戦権を掴んだ。
当時の世界チャンピオン、エデル・ジョフレ(ブラジル)は「ガロ・デ・オーロ(黄金のバンタム)」の異名通り、世界王座を獲得した試合、8度の防衛戦にいずれもKO勝ちしていた。その中には、青木や、原田にKO勝ちしたジョー・メデルも含まれていた。強打者であり、パンチを的確にヒットさせ、ディフェンスも堅い実力王者だった。原田の猛練習は、取材していた新聞記者が、疲労で床にへたり込む程の激しさだったと言う。しかし、試合前の予想は、ジョフレの一方的有利、原田が何ラウンドまで持つか、という悲観的な見方がほとんどだった。
その試合は、奇(く)しくも、今から、ちょうど50年前の今日・1965(昭和40)年5月18日に名古屋・愛知県体育館で行われたのであった。この時、ジョフレは29歳、原田はまだ22歳であった。
試合開始のゴングを聞いた原田は、当初今までのボクシングスタイルを捨て、アウトボクシングに出た。かなりの大博打を打ったと言えるが、果たして原田はこの博打に勝った。原田のラッシュを予想した作戦を組み立てていたであろうジョフレに、明らかに戸惑いが見られ、その端正なボクシングに狂いが出始めたのである。そして、4R、ジョフレはリング中央で原田との打ち合いに応じたが、パンチにいつもの的確性がなく、原田のパンチが勝っていた。そして遂に、ジョフレ唯一の弱点である細いアゴを、原田の右アッパーが打ち抜いた。これでロープまで吹っ飛ばされたジョフレに、原田はラッシュを仕掛ける。だが、ジョフレもよく追撃打をブロックでしのぎ、次の5Rには、強烈な右をヒットし、原田はコーナーを間違えるほどのダメージを負った。だが、練習量豊富な原田は、次の回から立ち直り、終盤は一進一退の展開を迎える。そして遂に15Rの終了ゴングが鳴った。ボクシング史に残る死闘となったこの試合、どちらが勝ってもおかしくない内容だったが、手数で上回った原田が僅差で制した。勝敗の判定は、日本の高田(ジャッジ)が72-70で原田、アメリカのエドソン(ジャッジ)が72-71でジョフレ、そして、アメリカ人バーニー・ロス(レフェリー)が71-69で原田、2-1の判定勝ちで原田は世界王座奪取した。
レフェリーのロスは、現役時代、原田同様のラッシャーであり、それが原田に有利に作用したのでは、という噂もあったようだが、いずれにしても、原田のファイトが圧倒的不利の予想を覆し2階級制覇に成功したのであった。人格者でもあったジョフレは、。上述の通りクロス・ゲーム原田にタイトルを奪われた試合後には笑顔で原田を担ぎ上げていた。
そして、1965(昭和40)年11月30日、初防衛戦では、リヴァプール出身のアラン・ラドキン(イギリス)を15回判定で破り、翌・1966(昭和41)年5月31日、2度目の防衛戦では、前王者ジョフレを15回判定で下し防衛に成功。
1967(昭和42)年1月3日、3度目の防衛戦。では、かつてKO負けしたジョー・メデルとの再戦となる。この試合、前回メデルのカウンター攻撃に倒された原田は、足を使って、メデルのカウンターの射程圏外に出て、攻勢時には、身体を密着させてラッシュし、カウンターを封じた。原田の一方的なポイントリードで迎えた最終15回、メデルの左フックのカウンターが遂に命中し、一瞬ふらりとしたが、クリンチで何とか逃げ切り王座を防衛した。
同年7月4日、4度目の防衛戦。ベルナルド・カラバロ(コロンビア)を15回判定で下し王座防衛。4度の防衛を果たしたが、1968(昭和43)年2月27日、5度目の防衛戦で、当時19歳の無名挑戦者ライオネル・ローズ(オーストラリア)に15回判定負けしタイトルを失った。
この頃バンタム級でも原田の減量苦は限界を超し始めていたため、以降フェザー級に転向した。この当時、世界のボクシング界はボクシング団体がWBCとWBAに分裂し始めていた。日本のボクシング団体であるJBCは、まだWBAの存在しか認めていなかったため、原田はWBA認定のフェザー級チャンピオンとなっていたラウル・ロハス(米)に挑戦することしかできなかったが、当時、日本ではほとんど無名の存在であった、西城正三が、たまたま武者修行先のアメリカで、ロハスとの練習試合を行いまさかの勝利を収めたことから、タイトル戦への挑戦機会を得て、またまたロハスに勝利してチャンピオンになっていた。
このまさかの日本人世界チャンピオンの誕生で、日本のボクシング界で初めての日本人対決の可能性が浮上してきたため、西城への挑戦準備が進む中、原田は同級の格下相手と調整試合を行ったが、調整の遅れもあり、原田もまさかの敗戦を喫してしまった。この敗戦により、彼は世界ランキングを落としてしまい、タイトルへの挑戦権を失うという大誤算となった。WBAでのタイトル挑戦が厳しくなったことから、彼はしかたなくWBCタイトルへの挑戦を目指した。相手は、オーストラリア人のジェームス・ファメションであった。
1969(昭和44)年7月28日、WBCフェザー級王座に敵地シドニーで挑戦。敵地での試合ということで原田はKOでの勝利を目指して、果敢に攻め、ファメションをKOギリギリまで追い込み3度ダウンを奪ったにもかかわらずレフェリーがダウンしたファメションを助け起こすという事件が起きる。そのうえ、内容的に原田が圧倒していたにも関わらず、15回判定負け。判定はチャンピオンの勝利となってしまった。この試合の判定は英国式ルールにより、判定がレフェリー一人にまかされていたことも問題なようで、露骨なホームタウンディシジョンでの防衛であることは明らかで、リングサイドで観戦していたライオネル・ローズもそれを認めており、当時の地元スポーツ新聞にはリング上で失神している王者の写真がデカデカと掲載されていたというから、いかに地元オーストラリアにとっても不名誉な勝利であったかが伺える。だが、結果として、地元判定に泣いた「幻の三階級制覇」となってしまった。
当然、ここまで問題が大きくなったことでWBCは再戦を要求。翌1970(昭和45)年1月6日、ファメションは王者の意地と誇りを賭けて今度は原田の地元東京・東京体育館にて再戦(日本で行われた初のWBC世界タイトルマッチ)を行ったが、原田はいい所が無いまま14RでKO負けしてしまった。もともと太りやすい体質の原田。無理な減量による10年間の戦いに肉体は思っている以上に衰えていたのかもしれない。この敗戦から3週間後の、同年1月27日、彼は引退を発表した。
原田の時代までは世界タイトル統括団体は世界ボクシング協会(WBA)たったひとつ。階級も8クラスしかなかった。つまり、世界王者はたった8人しかいなかった。しかし、現在はメジャーな統括団体が4つ、階級は17クラス、しかもスーパーだの暫定だの休養だのが乱発されている。今と違って原田が戦った1960年代当時、2階級制覇した、いや、ローズ戦の不当な試合結果がなければ三階級制覇もなっていた・・・というのは凄いことなのである。
ファイティング原田の名前が示すように原田は連打で打って打って打ちまくるラッシュ戦法を得意としていた。もともと太りやすい体質の原田が成長期に減量苦に耐え、そして類まれな闘志、根性から生みだしたものである。そのスタイルから努力、根性といった当時の日本人が好む匂いに溢れた選手だった。世界での評価も高く、米国にある世界ボクシング殿堂入りを果たした唯一の日本人ボクサーである。
そして、バンタム級歴代最強論争にも必ず登場する原田。1950年代後半から1960年代初めにかけて最強の名をほしいままにしたジョフレの戦績は78戦72勝(50KO)2敗4分・・と、たった2敗しかしていない。しかし、この2敗はいずれもがファイティング原田に喫したものである。すなわち‘「黄金のバンタム」を破った男はファイティング原田しかいないのである。
とにかく、彼のタイトルマッチは、高視聴率をマークする試合が多かったが、この1戦がやはり、ボクシング放送での1番の高視聴率となった歴史的な試合であった。以下は、ビデオリサーチによる、全局高世帯視聴率番組50(※4参照)の順位である。この視聴率を見れば、彼がどれくらい当時の人から愛されていたかがわかるだろう。
タイトル戦テレビ視聴率
第1 位第14回NHK紅白歌合戦 1963年12月31日(火)NHK総合 81.4 %。
第2 東京オリンピック大会(女子バレー・日本×ソ連 ほか) 1964年10月23日(金) NHK総合 66.8%
第3位 2002FIFAワールドカップHグループリーグ・日本×ロシア 2002年6月9日(日) フジテレビ 66.1%
第4位 プロレス(WWA 世界選手権・デストロイヤー×力道山) 1963年5月24日(金) 日本テレビ 64.0 %
上記に続いて、以下の通り、歴代視聴率ベスト10に2試合、30位までに6試合もランクされているのである。
第5位、世界バンタム級タイトルマッチ(ファイティング原田×エデル・ジョフレ) 1966年5月31日(火)フジテレビ 63.7%
第8位、世界バンタム級タイトルマッチ(ファイティング原田×アラン・ラドキン) 1965年11月30日(火) フジテレビ 60.4 %
第13位、世界バンタム級タイトルマッチ(ファイティング原田×ベルナルド・カラバロ) 1967年7月4日(火)フジテレビ 57.0 %
第22位 世界バンタム級タイトルマッチ(ファイティング原田×エデル・ジョフレ) 1965年5月18日(火) フジテレビ 54.9%
第23位 世界バンタム級タイトルマッチ(ファイティング原田×ジョー・メデル) 1967年1月3日(火)フジテレビ 53.9 %
第25位 世界バンタム級タイトルマッチ(ファイティング原田×ローズ) 1968年2月27日(火) フジテレビ 53.4%
この視聴率を見れば、彼がどれくらい当時の人から愛されていたかがわかるだろう。
「幻の三階級制覇」の後、ローズ戦再選に負け、引退後は、解説者として活躍する一方、トーアファイティングジム(現・ファイティング原田ボクシングジム)にて後進の指導にあたっていた。現在は、同ジム会長。2010年3月、第10代日本プロボクシング協会(JPBA)会長退任後、同顧問。プロボクシング・世界チャンピオン会最高顧問に就いている。
今日はそんな原田の懐かしい試合を思い起こしながら後のブログを閉めよう。とりあえず見つかったものだけをいかに添付しておく。
上掲はファイティング原田 VS ポーン・キング(1962年)勝利し世界フライ級王者となったた時のもの。
原田 VS ポーン・キングピッチ(1963年) 14・15ラウンド。微妙な判定負けでタイトルを失った時のもの。
上掲は1964年10月29日、原田とライバル青木との世界挑戦権を賭けた戦い。
上掲は1965年5月18日愛知県体育館でのバンタム級チャンピオンエデル・ジョフレとの試合で圧倒的不利の予想を覆し2階級制覇に成功した時のもの。
参考:
※1:ボクシングのページ
http://www.geocities.jp/takawo2222/box.html
※2:究極の格闘技ボクシングの歴史
http://zip2000.server-shared.com/onboxing.htm
※3:キングオブスポーツ ボクシング
http://hands-of-stone.seesaa.net/
ファイティング原田|スポーツの名言
http://meigenatsumemashita.web.fc2.com/sports/fighting-harada.html
※4:全局高世帯視聴率番組50 | ビデオリサーチ
http://www.videor.co.jp/data/ratedata/all50.htm
百田尚樹 『「黄金のバンタム」を破った男』 PHP文芸文庫 -
http://blog.livedoor.jp/hattoridou/archives/51901514.html
■日本人の平均身長・平均体重の推移(1950年~)
http://dearbooks.cafe.coocan.jp/rekishi05.html
ファイティング原田 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%82%B0%E5%8E%9F%E7%94%B0