陰暦5月25日を、「有無(ありなし)の日」というそうだ。
「有り無し」とは、
1)[名]あることとないこと。あるかないか。有無(うむ)。
2)[形動]①あるかないかわからないほどに、かすかなさま。②いるかいないかわからないほどに、軽視するさま。・・をいう。
この日は村上天皇の967年(康保4年)の忌日であるが、「村上天皇は、急な事件のほかは政治を行わなかったことから」・・・だと大辞林 第三版には書かれている。(ここ参照)
村上天皇は、平安時代中期の第62代天皇(在位:天慶9年4月28日[946年5月31日] - 康保4年5月25日[967年7月5日])であり、諱は成明(なりあきら)。
延長4年6月2日(926年7月14日)、醍醐天皇の第14皇子として生まれる。保明親王(醍醐天皇の第二皇子)、朱雀天皇(醍醐天皇の第11皇子)、の同母弟であり、母は太政大臣・藤原基経の娘中宮・穏子である。
保明親王は伯父の左大臣・藤原時平(藤原基経の長男)の後ろ盾により、わずか2歳で立太子し、東宮となるが、延喜9年(909年)、親王の即位を見ることなく時平が没する(この時親王6歳)。その後、親王は即位することなく、父・醍醐天皇に先立ち薨御(享年21)。
保明親王薨去後、その第一王子・慶頼王(時平の外孫)が皇太子に立てられるが、2年後僅か5歳で薨御し、代わりに保明親王の同母弟、寛明親王(後の朱雀天皇)が皇太子となった。
保明親王・慶頼王ともに藤原時平と繋がりが深かったことから、両者の相次ぐ薨去は時平が追い落とした菅原道真の祟りによるものとの風評が立った。これを受けて醍醐天皇は道真を右大臣に戻し正二位を追贈する詔を発し、道真追放の詔を破棄する。・・・が、なおも、台風・洪水・疫病と災厄は収まらず、延長8年(930年)6月には内裏の清涼殿に落雷が発生し(→清涼殿落雷事件)、公卿を含む複数の死者が出た。醍醐天皇はこれを見て病に臥し、3ヵ月後寛明親王に譲位、7日後崩御した。
成明(後の村上天皇)の兄である朱雀帝は、醍醐天皇の崩御を受け8歳で即位したが、政治は、伯父忠平(基経の四男)が摂関として取り仕切っていた。
朱雀帝治世中の承平5年(935年)2月には、平将門が関東で反乱を起こし、次いで翌年には瀬戸内海で藤原純友が乱を起こした(承平天慶の乱)。懐柔策を試みたがうまくいかず、天慶3年(940年)、藤原忠文を征東大将軍に任命して将門征伐軍を送り、藤原秀郷の手により将門は討たれた。翌年には橘遠保により藤原純友が討たれ、乱はようやく収束している。
又、朱雀帝の治世中にはこのほかにも富士山の噴火(※1参照)や地震・洪水などの災害・変異が多く、その心労からか、また、皇子女に恵まれなかったこともあってか、天慶9年(946年)早々と3歳年下の弟成明(村上天皇)に譲位し、仁和寺に入ってしまった。そのため、成明(村上天皇)が、21才で践祚した。
年齢からいっても、摂政や関白を置く必要がなかったが、村上天皇の時代になっても、先代に続いて、天皇の外舅藤原忠平が関白を務めたが、忠平は穏和な性格で、よく村上天皇を補佐し良き治世を行ったとされており、3年後の天暦3年(949年)に忠平が死去すると、それ以後は摂関(摂政と関白)を置かず、天皇自ら政治を行い、文治面では、天暦5年(951年)には、梨壺(庭に梨の木が植えられていたところから。平安御所七殿五舎の一つである昭陽舎の異称)に撰和歌所を設け、『後撰集』(『後撰和歌集』)の編纂を下命したり、天徳4年(960年)3月に内裏歌合を催行し、歌人としても歌壇の庇護者としても後世に評価されている(村上天皇の歌は※2:「やまとうた」千人万首のここ参照、)。
また『清涼記』の著者と伝えられ、琴や琵琶などの楽器にも精通し、平安文化を開花させた天皇といえることから、父である醍醐天皇と同じく天皇親政が行われたとされている。この両治世は「天皇政治の理想」と言われ、その時の年号を取って「延喜・天暦の治」とも呼ばれている。
半世紀後に作成された『枕草子』も、村上朝に、理想的な親政国家の姿をみていることが窺がえる.。
『枕草子』は、梨壺の五人の一にして著名歌人であった清原元輔(908年 - 990年)の娘で、中宮定子に仕えていた女房・清少納言が書いたとされる日本最古の女流随筆文学である。(『枕草子』原文全文は※3を参照、また、以下に書く各段の解説文は※4のここを参照されるとよい)。
『枕草子』180段「村上の前帝の御時に」に描かれた兵衛(兵衛府の四等官以外の武官)の蔵人・181段に描かれる御形の宣旨のエピソードは村上朝に仕えた才気ある女房の話を打開的に記したもので女房にとっての理想像として登場する。
作者が実際に見たわけではない、このようなエピソードが枕草子に描かれる背景には、一条朝において、聖帝の御代として理想化された村上朝の位置がある。さらにそれは、宮廷サロン・後宮においては、模範とすべき「昔」として語り伝えられる時代でもあったようである。
107段「雨のうちはへ降るころ」に同じく村上朝の話として語られる犬抱き(皇后安子の下仕女)と藤原時柄(蔵人)のエピソードもそのような形で伝えられていたものだろう。「清涼殿の丑寅のすみ」の段(20段)に描かれる定子サロンはいわば宮廷説話として語り伝えられているエピソードを再現しようとする姿勢を示しているが、このことは理想的なあり方として賛美される過去を自己のサロンの中に取り込んでゆこうとする点で単に「昔」を語る以上に積極的な方向性を持っていると言えるだろう。
この段で定子が女房たちに古歌を一種づつ書かせたのが、円融朝において天皇から殿上人に与えられた課題の再現であったように、女房達に『古今集』(『古今和歌集』)のテストを行うのは村上帝と宣燿殿女御のエピソードを再現することでもあったようである。この段の末尾は、「昔はえせものも皆をかしうこそありけれ。このごろかやうなる事やは聞ゆる」など、御前に侍ふ人々、うへの女房のこなたゆるされたるなど參りて、口々いひ出でなどしたる程は、誠に思ふ事なくこそ覺ゆれ。という形で結ばれていて、ここでも過去と現在とが対比的にとらえられている。そして定子サロンの現在は、村上朝後宮の栄光と重ね合わせることによって、二重に「めでたき」ものとして位置づけられるのである。
ここで、作者の視点を考えるとき注目されるのは理想とするサロンのあり方が天皇主導型であるということである。
180段の場合も、村上先帝の御時に雪のいと高う降りたりけるを、楊器(様器。規定どおりに作られた儀式用の食器)にもらせ給ひて、梅の花をさして、月いと明きに、「これに歌よめ、いかがいふべき」と兵衞の藏人に賜びたりければ、雪月花の時と奏したりけるこそ、いみじうめでさせ給ひけれ。「歌などよまんには世の常なり、かく折にあひたる事なん、言ひ難き」とこそ仰せられけれ。・・・とある。
白氏文集をふまえた兵衛の蔵人(女蔵人)の秀句は、村上天皇によって演出され意図的に引き出されたものとして描かれており、宮廷サロンの華やかさ「めでたさ」も天皇の権威と指導力の下に実現されるという作者の視点を読み取ることができるという。
このような点から、村上朝を考える時、思いおこされるのは、清少納言の父・清原元輔のことである。元輔は、歌人としての名声とは対照的に、官吏としては不遇に終わった人であったが、彼の生涯の中で最も輝かしい時代をあげるならば、やはり、選和歌所の寄人に選任され、「梨壺の五人」の一人として、歌人的名声を高めた時期だろう。それが正に村上朝においてなのであった。
元輔の晩年の子として生まれ、「叙目に司(官)得ぬ人の家」(22段・すさまじきもの)に描かれるようなみじめな現実を見ていたであろう作者にとって、その時期は、父親にとっての最も華やかなりし時代として、思い描かれたことであろう。梨壺(昭陽舎)における元輔は天皇周辺の世界に身を置く者として六位蔵人とも響きあう存在であり、又、女房として中宮に仕える作者(清少納言)自身の存在とも対をなしている。作者にとって、村上朝とは、父・元輔の記憶と深く関わる過去であり、特殊な位相を持つ時代だったようだ(※5参照)。
村上天皇を支えたのは、関白太政大臣藤原忠平、左大臣に実頼(忠平の長男)、右大臣に師輔(忠平の次男)、権中納言に源高明(醍醐天皇の第10皇子。藤原師輔、その娘の中宮安子の後援を得て朝廷で重んじられていた)、参議に藤原師尹(忠平の五男)、小野好古などがいた。
これらを見ていてもわかるように、当時は摂関家が政治の上層を独占する摂関政治が展開し、中流・下流貴族は特定の官職を世襲してそれ以上の昇進が望めない、といった家職の固定化が進んでいた。そうした中で、中流貴族も上層へある程度昇進していた延喜・天暦期を理想の治世とする考えが中下流貴族の間に広まっていたようである。
しかしながら、天暦3年(949)に忠平が没した後も、天皇が摂関を置かず親政を行ったとされるが、それはおそらく形式上に過ぎず、政治の実権は実際には右大臣藤原師輔が握っていたのではないかという説もある。
実際、延喜・天暦期は律令国家体制から王朝国家体制へ移行する過渡期に当たっており、様々な改革が展開した時期であり、それらの改革は天皇親政というよりも、徐々に形成しつつあった摂関政治によって支えられていた。しかし、後世の人々によって、延喜・天暦期の聖代視は意識的に喧伝されていき、平安後期には理想の政治像として定着したようだ。従って、村上天皇の実態は、おそらくは、「有り無し」でも、②の「いるかいないかわからないほどに、軽視するさま。」・・・に相当する存在だったということだろう。
藤原師輔は、娘安子の産んだ第2子憲平親王を生後間もなく皇太子とし、康保4年(967年)5月25日、村上天皇は在位のまま42歳で崩御すると憲平親王が即位して冷泉天皇となるが、この帝は病弱で神経の病を得、やがて藤原兼通・兼家の台頭を許して、政治の実権は藤原北家に移ることとなる。
ところで、我が地元である兵庫県神戸市須磨区に「村上帝社」という名の神社がある。JR須磨駅から国道2号線を渡って東に歩いていくと、道沿いに小さな赤鳥居が建っており、その奥に広がるこじんまりとした境内にある小さな社殿がそうだ(※6:「須磨観光協会」のここ参照)。
上掲の画像は、村上帝社。
祀られているのは、村上天皇であり、謡曲「絃上」ゆかりの地である。そのため村上帝社と呼ばれている。村上帝は、琵琶や琴に造詣が深い人物であったといわれるが、ここの本当の主役は、村上天皇ではなく当時の執政である左大臣・藤原頼長の長男で、当代随一と呼ばれた琵琶の名手・藤原師長である。
雅楽の歴史においては、源博雅(醍醐天皇の孫)と並ぶ平安時代を代表する音楽家として名を残している。特に箏や琵琶の名手として知られ、更に神楽・声明・朗詠・今様・催馬楽など当時の音楽のあらゆる分野に精通していたと言われている。琵琶の流派を一つにまとめ、次世代に秘曲を伝授していく基礎を確立した。
この神社の創建については案内板には以下のように記されている。
琵琶の名手太政大臣・藤原師長は唐(中国)に渡りなおも奥義を極めたいと願い、都を出立して須磨の汐汲み(塩をつくるために海水を汲むこと。また,その人)の老夫婦の塩屋に宿る。夫婦の奏でる秘曲「越天楽」の「感涙もこぼれ嬰児も躍るばかり」の神技に感じ入った師長は渡唐を思い留まった。この老夫婦は、名器「絃上」の所持者村上天皇の梨壷の女御が渡唐を止めさせる為に師長の前に現れた精霊であった。やがて村上天皇が本体を現し、竜神を呼んで今ひとつの名器獅子丸の琵琶を持参せしめて師長に授け、喜びの舞をなし給うという国威宣揚を意図して描かれた曲である。村上帝社は摂関政治を抑え、文化の向上や倹約を旨とされて「天略の治」として名高い社である。師長の名器獅子丸を埋めた琵琶塚は、もと境内にあったが、今は線路で二分されている。(謡曲史跡保存会)
上掲画像村上帝社案内板。
つまり、ここは、謡曲『絃上』ゆかりの地であり、この伝承を題材として能の「絃上」(玄象)が作られたことに基づき、土地の人が村上天皇を祀ったのが当社であると伝えられるが、創建時期は不明である。
神社後方には山陽電車が走っており,線路の向こうに琵琶塚がある。そして、.近くには須磨の関があったとされる場所に史跡関守稲荷神社※6参照)と紫式部の作とされる『源氏物語』の主人公・光源氏がわび住まいしたところと伝えられている現光寺(「源氏寺とも呼ばれる」がある(※6 参照)。
現光寺の源氏寺碑の裏側には、『源氏物語』第12帖「須磨」の一部分が記されている。
おはすべき所は行平中納言の藻潮(もしほ)たれつつわびける家居(いえい)近きわたりなりけり 海面(うみづら)はやや入りてあはれにすごげなる山なかなり(※7:源氏物語の世界 再編集版の第十二帖第二章 第一段 須磨の住居2.1.1参照)。
歌の行平中納言とは、桓武天皇の第1皇子平城天皇の第一皇子阿保親王の次男(または三男)在原 行平のことである。やんごとなき皇統の血筋であったが、薬子の変によって平城天皇が剃髪出家し、阿保親王も太宰権帥に左遷されたため、親王の子息は、弟・業平らとともに在原朝臣姓を賜与され臣籍降下された。
小倉百人一首の歌「立ち別れ いなばの山の みねにおふる まつとし聞かば 今帰り来む」(第16番)で知られるが、『古今集』(『古今和歌集』)によれば、理由は明らかでないが文徳天皇のとき須磨に蟄居を余儀なくされたといい、須磨滞在時に寂しさを紛らわすために浜辺に流れ着いた木片から一弦琴「須磨琴」を製作したと伝えられている。なお、謡曲の『松風』は百人一首の行平の和歌や、須磨漂流などを題材としている。山陽電鉄須磨駅より1つ東の駅「須磨寺駅」から北へ歩いてすぐにある上野山福祥寺、通称須磨寺において須磨琴保存会が1965年に発足している。
「月々に月みる月は多 けれど、月みる月はこの月の月」
月は毎月見れるけれども、やっぱり中秋の名月が最高!ということだろうが、この歌の作者は、不明である。しかし、神戸では、私が子どもの頃から、在原行平の歌ではないかなどとと言われている。そして、須磨離宮公園の東の一角に「月見台」がある。千年以上も昔から、月を愛でる場所として親しまれてきた。平安の貴族であり歌人の在原行平がこの地で月見をし、後に「月見山」となる(山陽電鉄月見山駅より徒歩10分。須磨寺駅よりも同程度)。京の都を想い、遠く須磨までやってきた心を慰めたことだろう。
以前にこのブログ「『笈の小文』の旅に出た松尾芭蕉が、大坂から舟で神戸に着いた」(ここ)でも書いたのだが、『源氏物語』のおこりなどについてのいくつかの古注のなかでは、最高の水準にあるとされている四辻善成の『河海抄』には、村上天皇の第10皇女選子内親王から新しい物語を所望され石山寺(滋賀県大津市)にこもって構想を練っていた紫式部は、8月15日夜、琵琶湖の湖面に映った月を見て『源氏物語』の構想を思いつき、須磨の巻の「こよいは十五夜なりと思し出で」と書き綴ったのがきっかけだとしているそうだ(※7:「源氏物語の世界 再編集版」の第十二帖 須磨・第三章 光る源氏の物語 須磨の秋の物語の3.2.1また、※8参照)。・・・ただ否定説もあるようだが・・。
朧月夜との仲が発覚し、追いつめられた光源氏は後見する東宮(後の朱雀帝)に累が及ばないよう、自ら須磨へ退去した。 そして、須磨で行平が侘び住まいした付近に住み、都の人々と便りを交わしたり絵を描いたりしつつ、憂愁の日々を送る源氏を癒してくれたのが、須磨の月であった。『源氏物語』「須磨」は、行平が須磨に流されたあとの松風・村雨との恋物語なども当然、題材としたと思われる。
上掲の画像は、中納言行平朝臣、須磨の浦に左遷され村雨・松風二(ふたり)の蜑(あま)に逢ひ、戯れるの図」。月岡芳年画。
この在原行平の弟業平の歌も『古今和歌集』(卷第九 羈旅歌)の中に掲載されている。
『古今和歌集』は、醍醐天皇の勅命により『万葉集』に撰ばれなかった古い時代の歌から紀貫之等が選者となり編纂されたものがであるが、業平は、『日本三代実録』の卒伝(元慶4年5月28日条)に「体貌閑麗、放縦不拘」と記され、昔から美男の代名詞のようにいわれており、この後に「略無才学 善作倭歌」と続くそうだ。基礎的学力が乏しいが、和歌はすばらしい、という意味だろうと解されている。そして、『古今和歌集』の仮名序においては、平安時代初期の和歌の名手「六歌仙」の一人にあげられている。
『古今集』卷第九巻目の羇旅歌(きりょか)は、旅に関する思いを詠んだ歌だが・・・。遣唐使として派遣されながら帰国が叶わなかった安倍仲麻呂の歌、遣唐使副大使として選ばれながら事情により出立しなかった小野篁の歌、今では怨霊として恐れられている菅原道真が、行幸にて詠んだ歌などと共に、罪を受け、東国(あづまのくに)への旅の途中で詠んだ業平の歌二首が掲載されている。以下がそれである(※9参照)。
(9-410)唐衣きつつなれにしつましあればはるばるきぬる旅をしぞ思ふ
(9-411)名にし負はばいざ言(こと)問はむ都鳥わが思ふ人はありやなしやと
この二首には詞書があるがそれをここでは省略しているが
9-410は、「東国へと友人数人を伴って行った時、途中、三河国の八橋(愛知県知立市)というところで、その川のほとりにカキツバタが美しく咲いているのを見て、木陰で馬を降りて、カキツバタいう五文字を句の頭に置いて旅の心を詠む」として詠んだ歌である。
【通釈】衣を長く着ていると褄(つま)が熟(な)れてしまうが・・・、そんなふうに馴れ親しんで来た妻が都にいるので、遥々とやって来たこの旅をしみじみと哀れに思うことである。
この歌では 『伊勢物語』と元を同じくする詞書の助けもあり、歌の中に散らされたカ・キ・ツ・ハ・タ(カ:からころも、キ:きつつなれにし、ツ:つましあれば、ハ:はるばるきぬる、タ:たびをしぞおもふ)は、内容を表す言葉の外にありながら、歌の背景によくなじんでいる。
9-411の詞書は長いが、これも詞書は『伊勢物語』の本文(第九段)とほとんど変わらない(※10の大九段東下り参照)。要は詞書の最後の 「これなむみやこ鳥」という言葉に反応して出た歌と考えられている。
この詞書にも9-410の「八橋」同様、「隅田川」という地名が出てくるが、それらの地名には反応せず、旅の途中で足を止める度に都への思いが湧き、ここではカキツバタではなく、都鳥をきっかけとして都への思いを歌ったものである。
「名にしおはば」(名にし負はば)は、そのような名前を持っているならばという意味であり、ここでの「ありやなしや」は、村上天皇のときの②いるかいないかわからないほどに、軽視するさま。と言った意味ではなく、「元気で生きているかいないか」といった意味に使っているのだろうから。
【通釈】「都」というその名を持つのに相応しければ、さあ尋ねよう、都鳥よ。私が恋しく思う人は無事でいるかどうかと。・・・といった意味になるのだろう。(この二首の歌の解説等は※10また、※5 :「やまとうた」千人万首のここ参照)
上掲の画像は、「風流錦絵伊勢物語」 勝川春章画。第9段の東下り隅田川の景を描く。
なにか、女々しい感じのする歌でもあるが、今とは違って、当時東北地方南部から新潟県の中越・下越地方及び九州南部は未だ完全に掌握できていない辺境の地である。何等かの罪に問われ東下りする業平たちから見れば、自身は、都の圏外にはじき出されたかつての都人、つまり失格者である。そこに 「京には見えぬ」名ばかりの「みやこ鳥」がからむことで、彼らの身の置き所のなさが増幅されている。
全125 段からなる『伊勢物語』は、在原業平の物語であると古くからみなされてきた。
日本の民俗学者、国文学、国語学者でもある折口信夫が日本の物語文学の特徴を分析するときに、しばしば「貴種流離譚」という概念に言及している。
「高貴に生まれた主人公が、力のない若い時に運命のいたずらで遠い地をさすらう苦難を経験する。その際、身分の賎しい人々に助けられるが、やがてその貴い血筋が認知され、最高の栄誉を受ける」というストーリーを原型にして、多くの物語がそこから派生しているという。例えば、『源氏物語』の須磨の帖では光源氏が都から遠ざけられ須磨に配流となる。また、『伊勢物語』東下りの段(第九段)では昔男(業平)が都を去り東国に下る。
そのような都から遠いところへ旅するのだから、旅も楽しいはずがない。都鳥は、当時ユリカモメを言っていたらしいが、そんな「都」の付く鳥を見ただけで、都に残してきた恋しい人が思い出されるのも仕方がないだろう。
ここで業平が都鳥に「私が恋しく思う人は無事でいるかどうか」と、問うている恋しく思う人は清和天皇の女御でのち皇太后となった二条后(藤原高子)であろう。彼は高子と駆け落ちをしている。
ちょっと回り道をしたようだが、今日は、村上天皇の「有無(ありなし)の日」なので、在原行平の「ありやなしや」の和歌で締めた。これ以上書くと長くなりすぎるので、『伊勢物語』については、以下参考の※10 、※11 を参考にされるとよい。
冒頭の画像は、村上天皇像(永平寺蔵)Wikipediaより。
参考:
※1:富士山の歴史噴火総覧 - 山梨県富士山科学研究所(Adobe PDF)
http://www.mfri.pref.yamanashi.jp/fujikazan/web/P119-136.pdf#search='%E6%97%A5%E6%9C%AC%E7%B4%80%E7%95%A5+%E5%A3%AB%E5%B1%B1+%E5%99%B4%E7%81%AB'
※2:やまとうた
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/index.html
hosi 3 :原文『枕草子』全文(「伝能因所持本」の段落に合わせている)
http://www.geocities.jp/rikwhi/nyumon/az/makuranosou ※3:教育の職人:授業の足跡
http://www.pat.hi-ho.ne.jp/nobu-nisi/koten.htm
※4 :教育の職人:授業の足跡
http://www.pat.hi-ho.ne.jp/nobu-nisi/koten.htm
※5 :枕草子における 「昔」 「今」 の意識(Adobe PDF)
https://dspace.wul.waseda.ac.jp/dspace/bitstream/2065/43021/1/KokubungakuKenkyu_75_Tabata.pdf#search='%E3%80%8E%E6%9E%95%E8%8D%89%E5%AD%90%E3%80%8F+%E6%9D%91%E4%B8%8A%E5%A4%A9%E7%9A%87+%E7%90%86%E6%83%B3%E7%9A%84%E3%81%AA%E8%A6%AA%E6%94%BF%E5%9B%BD%E5%AE%B6'
※6 :須磨観光協会須磨浦周辺
http://www.suma-kankokyokai.gr.jp/modules/gnavi/index.php?page=category&cid=2
※7 :源氏物語の世界 再編集版
http://www.genji-monogatari.net/
※8 :滋賀県石山観光協会 紫式部ゆかりの花の寺 石山寺
http://www.ishiyamadera.or.jp/ishiyamadera/genjistory.html
※9 :古今和歌集の部屋:巻別一覧
http://www.milord-club.com/Kokin/kan/kan01.htm
※10:伊勢物語現代語訳 - 楽古文
http://www.raku-kobun.com/isemonogatari.html
※11:伊勢物語を語る
http://homepage2.nifty.com/toka3aki/ise/isemono.html
『枕草子』章段対照表
http://www.sap.hokkyodai.ac.jp/nakajima/waka/data/makura1.html
村上天皇- Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%91%E4%B8%8A%E5%A4%A9%E7%9A%87
「有り無し」とは、
1)[名]あることとないこと。あるかないか。有無(うむ)。
2)[形動]①あるかないかわからないほどに、かすかなさま。②いるかいないかわからないほどに、軽視するさま。・・をいう。
この日は村上天皇の967年(康保4年)の忌日であるが、「村上天皇は、急な事件のほかは政治を行わなかったことから」・・・だと大辞林 第三版には書かれている。(ここ参照)
村上天皇は、平安時代中期の第62代天皇(在位:天慶9年4月28日[946年5月31日] - 康保4年5月25日[967年7月5日])であり、諱は成明(なりあきら)。
延長4年6月2日(926年7月14日)、醍醐天皇の第14皇子として生まれる。保明親王(醍醐天皇の第二皇子)、朱雀天皇(醍醐天皇の第11皇子)、の同母弟であり、母は太政大臣・藤原基経の娘中宮・穏子である。
保明親王は伯父の左大臣・藤原時平(藤原基経の長男)の後ろ盾により、わずか2歳で立太子し、東宮となるが、延喜9年(909年)、親王の即位を見ることなく時平が没する(この時親王6歳)。その後、親王は即位することなく、父・醍醐天皇に先立ち薨御(享年21)。
保明親王薨去後、その第一王子・慶頼王(時平の外孫)が皇太子に立てられるが、2年後僅か5歳で薨御し、代わりに保明親王の同母弟、寛明親王(後の朱雀天皇)が皇太子となった。
保明親王・慶頼王ともに藤原時平と繋がりが深かったことから、両者の相次ぐ薨去は時平が追い落とした菅原道真の祟りによるものとの風評が立った。これを受けて醍醐天皇は道真を右大臣に戻し正二位を追贈する詔を発し、道真追放の詔を破棄する。・・・が、なおも、台風・洪水・疫病と災厄は収まらず、延長8年(930年)6月には内裏の清涼殿に落雷が発生し(→清涼殿落雷事件)、公卿を含む複数の死者が出た。醍醐天皇はこれを見て病に臥し、3ヵ月後寛明親王に譲位、7日後崩御した。
成明(後の村上天皇)の兄である朱雀帝は、醍醐天皇の崩御を受け8歳で即位したが、政治は、伯父忠平(基経の四男)が摂関として取り仕切っていた。
朱雀帝治世中の承平5年(935年)2月には、平将門が関東で反乱を起こし、次いで翌年には瀬戸内海で藤原純友が乱を起こした(承平天慶の乱)。懐柔策を試みたがうまくいかず、天慶3年(940年)、藤原忠文を征東大将軍に任命して将門征伐軍を送り、藤原秀郷の手により将門は討たれた。翌年には橘遠保により藤原純友が討たれ、乱はようやく収束している。
又、朱雀帝の治世中にはこのほかにも富士山の噴火(※1参照)や地震・洪水などの災害・変異が多く、その心労からか、また、皇子女に恵まれなかったこともあってか、天慶9年(946年)早々と3歳年下の弟成明(村上天皇)に譲位し、仁和寺に入ってしまった。そのため、成明(村上天皇)が、21才で践祚した。
年齢からいっても、摂政や関白を置く必要がなかったが、村上天皇の時代になっても、先代に続いて、天皇の外舅藤原忠平が関白を務めたが、忠平は穏和な性格で、よく村上天皇を補佐し良き治世を行ったとされており、3年後の天暦3年(949年)に忠平が死去すると、それ以後は摂関(摂政と関白)を置かず、天皇自ら政治を行い、文治面では、天暦5年(951年)には、梨壺(庭に梨の木が植えられていたところから。平安御所七殿五舎の一つである昭陽舎の異称)に撰和歌所を設け、『後撰集』(『後撰和歌集』)の編纂を下命したり、天徳4年(960年)3月に内裏歌合を催行し、歌人としても歌壇の庇護者としても後世に評価されている(村上天皇の歌は※2:「やまとうた」千人万首のここ参照、)。
また『清涼記』の著者と伝えられ、琴や琵琶などの楽器にも精通し、平安文化を開花させた天皇といえることから、父である醍醐天皇と同じく天皇親政が行われたとされている。この両治世は「天皇政治の理想」と言われ、その時の年号を取って「延喜・天暦の治」とも呼ばれている。
半世紀後に作成された『枕草子』も、村上朝に、理想的な親政国家の姿をみていることが窺がえる.。
『枕草子』は、梨壺の五人の一にして著名歌人であった清原元輔(908年 - 990年)の娘で、中宮定子に仕えていた女房・清少納言が書いたとされる日本最古の女流随筆文学である。(『枕草子』原文全文は※3を参照、また、以下に書く各段の解説文は※4のここを参照されるとよい)。
『枕草子』180段「村上の前帝の御時に」に描かれた兵衛(兵衛府の四等官以外の武官)の蔵人・181段に描かれる御形の宣旨のエピソードは村上朝に仕えた才気ある女房の話を打開的に記したもので女房にとっての理想像として登場する。
作者が実際に見たわけではない、このようなエピソードが枕草子に描かれる背景には、一条朝において、聖帝の御代として理想化された村上朝の位置がある。さらにそれは、宮廷サロン・後宮においては、模範とすべき「昔」として語り伝えられる時代でもあったようである。
107段「雨のうちはへ降るころ」に同じく村上朝の話として語られる犬抱き(皇后安子の下仕女)と藤原時柄(蔵人)のエピソードもそのような形で伝えられていたものだろう。「清涼殿の丑寅のすみ」の段(20段)に描かれる定子サロンはいわば宮廷説話として語り伝えられているエピソードを再現しようとする姿勢を示しているが、このことは理想的なあり方として賛美される過去を自己のサロンの中に取り込んでゆこうとする点で単に「昔」を語る以上に積極的な方向性を持っていると言えるだろう。
この段で定子が女房たちに古歌を一種づつ書かせたのが、円融朝において天皇から殿上人に与えられた課題の再現であったように、女房達に『古今集』(『古今和歌集』)のテストを行うのは村上帝と宣燿殿女御のエピソードを再現することでもあったようである。この段の末尾は、「昔はえせものも皆をかしうこそありけれ。このごろかやうなる事やは聞ゆる」など、御前に侍ふ人々、うへの女房のこなたゆるされたるなど參りて、口々いひ出でなどしたる程は、誠に思ふ事なくこそ覺ゆれ。という形で結ばれていて、ここでも過去と現在とが対比的にとらえられている。そして定子サロンの現在は、村上朝後宮の栄光と重ね合わせることによって、二重に「めでたき」ものとして位置づけられるのである。
ここで、作者の視点を考えるとき注目されるのは理想とするサロンのあり方が天皇主導型であるということである。
180段の場合も、村上先帝の御時に雪のいと高う降りたりけるを、楊器(様器。規定どおりに作られた儀式用の食器)にもらせ給ひて、梅の花をさして、月いと明きに、「これに歌よめ、いかがいふべき」と兵衞の藏人に賜びたりければ、雪月花の時と奏したりけるこそ、いみじうめでさせ給ひけれ。「歌などよまんには世の常なり、かく折にあひたる事なん、言ひ難き」とこそ仰せられけれ。・・・とある。
白氏文集をふまえた兵衛の蔵人(女蔵人)の秀句は、村上天皇によって演出され意図的に引き出されたものとして描かれており、宮廷サロンの華やかさ「めでたさ」も天皇の権威と指導力の下に実現されるという作者の視点を読み取ることができるという。
このような点から、村上朝を考える時、思いおこされるのは、清少納言の父・清原元輔のことである。元輔は、歌人としての名声とは対照的に、官吏としては不遇に終わった人であったが、彼の生涯の中で最も輝かしい時代をあげるならば、やはり、選和歌所の寄人に選任され、「梨壺の五人」の一人として、歌人的名声を高めた時期だろう。それが正に村上朝においてなのであった。
元輔の晩年の子として生まれ、「叙目に司(官)得ぬ人の家」(22段・すさまじきもの)に描かれるようなみじめな現実を見ていたであろう作者にとって、その時期は、父親にとっての最も華やかなりし時代として、思い描かれたことであろう。梨壺(昭陽舎)における元輔は天皇周辺の世界に身を置く者として六位蔵人とも響きあう存在であり、又、女房として中宮に仕える作者(清少納言)自身の存在とも対をなしている。作者にとって、村上朝とは、父・元輔の記憶と深く関わる過去であり、特殊な位相を持つ時代だったようだ(※5参照)。
村上天皇を支えたのは、関白太政大臣藤原忠平、左大臣に実頼(忠平の長男)、右大臣に師輔(忠平の次男)、権中納言に源高明(醍醐天皇の第10皇子。藤原師輔、その娘の中宮安子の後援を得て朝廷で重んじられていた)、参議に藤原師尹(忠平の五男)、小野好古などがいた。
これらを見ていてもわかるように、当時は摂関家が政治の上層を独占する摂関政治が展開し、中流・下流貴族は特定の官職を世襲してそれ以上の昇進が望めない、といった家職の固定化が進んでいた。そうした中で、中流貴族も上層へある程度昇進していた延喜・天暦期を理想の治世とする考えが中下流貴族の間に広まっていたようである。
しかしながら、天暦3年(949)に忠平が没した後も、天皇が摂関を置かず親政を行ったとされるが、それはおそらく形式上に過ぎず、政治の実権は実際には右大臣藤原師輔が握っていたのではないかという説もある。
実際、延喜・天暦期は律令国家体制から王朝国家体制へ移行する過渡期に当たっており、様々な改革が展開した時期であり、それらの改革は天皇親政というよりも、徐々に形成しつつあった摂関政治によって支えられていた。しかし、後世の人々によって、延喜・天暦期の聖代視は意識的に喧伝されていき、平安後期には理想の政治像として定着したようだ。従って、村上天皇の実態は、おそらくは、「有り無し」でも、②の「いるかいないかわからないほどに、軽視するさま。」・・・に相当する存在だったということだろう。
藤原師輔は、娘安子の産んだ第2子憲平親王を生後間もなく皇太子とし、康保4年(967年)5月25日、村上天皇は在位のまま42歳で崩御すると憲平親王が即位して冷泉天皇となるが、この帝は病弱で神経の病を得、やがて藤原兼通・兼家の台頭を許して、政治の実権は藤原北家に移ることとなる。
ところで、我が地元である兵庫県神戸市須磨区に「村上帝社」という名の神社がある。JR須磨駅から国道2号線を渡って東に歩いていくと、道沿いに小さな赤鳥居が建っており、その奥に広がるこじんまりとした境内にある小さな社殿がそうだ(※6:「須磨観光協会」のここ参照)。
上掲の画像は、村上帝社。
祀られているのは、村上天皇であり、謡曲「絃上」ゆかりの地である。そのため村上帝社と呼ばれている。村上帝は、琵琶や琴に造詣が深い人物であったといわれるが、ここの本当の主役は、村上天皇ではなく当時の執政である左大臣・藤原頼長の長男で、当代随一と呼ばれた琵琶の名手・藤原師長である。
雅楽の歴史においては、源博雅(醍醐天皇の孫)と並ぶ平安時代を代表する音楽家として名を残している。特に箏や琵琶の名手として知られ、更に神楽・声明・朗詠・今様・催馬楽など当時の音楽のあらゆる分野に精通していたと言われている。琵琶の流派を一つにまとめ、次世代に秘曲を伝授していく基礎を確立した。
この神社の創建については案内板には以下のように記されている。
琵琶の名手太政大臣・藤原師長は唐(中国)に渡りなおも奥義を極めたいと願い、都を出立して須磨の汐汲み(塩をつくるために海水を汲むこと。また,その人)の老夫婦の塩屋に宿る。夫婦の奏でる秘曲「越天楽」の「感涙もこぼれ嬰児も躍るばかり」の神技に感じ入った師長は渡唐を思い留まった。この老夫婦は、名器「絃上」の所持者村上天皇の梨壷の女御が渡唐を止めさせる為に師長の前に現れた精霊であった。やがて村上天皇が本体を現し、竜神を呼んで今ひとつの名器獅子丸の琵琶を持参せしめて師長に授け、喜びの舞をなし給うという国威宣揚を意図して描かれた曲である。村上帝社は摂関政治を抑え、文化の向上や倹約を旨とされて「天略の治」として名高い社である。師長の名器獅子丸を埋めた琵琶塚は、もと境内にあったが、今は線路で二分されている。(謡曲史跡保存会)
上掲画像村上帝社案内板。
つまり、ここは、謡曲『絃上』ゆかりの地であり、この伝承を題材として能の「絃上」(玄象)が作られたことに基づき、土地の人が村上天皇を祀ったのが当社であると伝えられるが、創建時期は不明である。
神社後方には山陽電車が走っており,線路の向こうに琵琶塚がある。そして、.近くには須磨の関があったとされる場所に史跡関守稲荷神社※6参照)と紫式部の作とされる『源氏物語』の主人公・光源氏がわび住まいしたところと伝えられている現光寺(「源氏寺とも呼ばれる」がある(※6 参照)。
現光寺の源氏寺碑の裏側には、『源氏物語』第12帖「須磨」の一部分が記されている。
おはすべき所は行平中納言の藻潮(もしほ)たれつつわびける家居(いえい)近きわたりなりけり 海面(うみづら)はやや入りてあはれにすごげなる山なかなり(※7:源氏物語の世界 再編集版の第十二帖第二章 第一段 須磨の住居2.1.1参照)。
歌の行平中納言とは、桓武天皇の第1皇子平城天皇の第一皇子阿保親王の次男(または三男)在原 行平のことである。やんごとなき皇統の血筋であったが、薬子の変によって平城天皇が剃髪出家し、阿保親王も太宰権帥に左遷されたため、親王の子息は、弟・業平らとともに在原朝臣姓を賜与され臣籍降下された。
小倉百人一首の歌「立ち別れ いなばの山の みねにおふる まつとし聞かば 今帰り来む」(第16番)で知られるが、『古今集』(『古今和歌集』)によれば、理由は明らかでないが文徳天皇のとき須磨に蟄居を余儀なくされたといい、須磨滞在時に寂しさを紛らわすために浜辺に流れ着いた木片から一弦琴「須磨琴」を製作したと伝えられている。なお、謡曲の『松風』は百人一首の行平の和歌や、須磨漂流などを題材としている。山陽電鉄須磨駅より1つ東の駅「須磨寺駅」から北へ歩いてすぐにある上野山福祥寺、通称須磨寺において須磨琴保存会が1965年に発足している。
「月々に月みる月は多 けれど、月みる月はこの月の月」
月は毎月見れるけれども、やっぱり中秋の名月が最高!ということだろうが、この歌の作者は、不明である。しかし、神戸では、私が子どもの頃から、在原行平の歌ではないかなどとと言われている。そして、須磨離宮公園の東の一角に「月見台」がある。千年以上も昔から、月を愛でる場所として親しまれてきた。平安の貴族であり歌人の在原行平がこの地で月見をし、後に「月見山」となる(山陽電鉄月見山駅より徒歩10分。須磨寺駅よりも同程度)。京の都を想い、遠く須磨までやってきた心を慰めたことだろう。
以前にこのブログ「『笈の小文』の旅に出た松尾芭蕉が、大坂から舟で神戸に着いた」(ここ)でも書いたのだが、『源氏物語』のおこりなどについてのいくつかの古注のなかでは、最高の水準にあるとされている四辻善成の『河海抄』には、村上天皇の第10皇女選子内親王から新しい物語を所望され石山寺(滋賀県大津市)にこもって構想を練っていた紫式部は、8月15日夜、琵琶湖の湖面に映った月を見て『源氏物語』の構想を思いつき、須磨の巻の「こよいは十五夜なりと思し出で」と書き綴ったのがきっかけだとしているそうだ(※7:「源氏物語の世界 再編集版」の第十二帖 須磨・第三章 光る源氏の物語 須磨の秋の物語の3.2.1また、※8参照)。・・・ただ否定説もあるようだが・・。
朧月夜との仲が発覚し、追いつめられた光源氏は後見する東宮(後の朱雀帝)に累が及ばないよう、自ら須磨へ退去した。 そして、須磨で行平が侘び住まいした付近に住み、都の人々と便りを交わしたり絵を描いたりしつつ、憂愁の日々を送る源氏を癒してくれたのが、須磨の月であった。『源氏物語』「須磨」は、行平が須磨に流されたあとの松風・村雨との恋物語なども当然、題材としたと思われる。
上掲の画像は、中納言行平朝臣、須磨の浦に左遷され村雨・松風二(ふたり)の蜑(あま)に逢ひ、戯れるの図」。月岡芳年画。
この在原行平の弟業平の歌も『古今和歌集』(卷第九 羈旅歌)の中に掲載されている。
『古今和歌集』は、醍醐天皇の勅命により『万葉集』に撰ばれなかった古い時代の歌から紀貫之等が選者となり編纂されたものがであるが、業平は、『日本三代実録』の卒伝(元慶4年5月28日条)に「体貌閑麗、放縦不拘」と記され、昔から美男の代名詞のようにいわれており、この後に「略無才学 善作倭歌」と続くそうだ。基礎的学力が乏しいが、和歌はすばらしい、という意味だろうと解されている。そして、『古今和歌集』の仮名序においては、平安時代初期の和歌の名手「六歌仙」の一人にあげられている。
『古今集』卷第九巻目の羇旅歌(きりょか)は、旅に関する思いを詠んだ歌だが・・・。遣唐使として派遣されながら帰国が叶わなかった安倍仲麻呂の歌、遣唐使副大使として選ばれながら事情により出立しなかった小野篁の歌、今では怨霊として恐れられている菅原道真が、行幸にて詠んだ歌などと共に、罪を受け、東国(あづまのくに)への旅の途中で詠んだ業平の歌二首が掲載されている。以下がそれである(※9参照)。
(9-410)唐衣きつつなれにしつましあればはるばるきぬる旅をしぞ思ふ
(9-411)名にし負はばいざ言(こと)問はむ都鳥わが思ふ人はありやなしやと
この二首には詞書があるがそれをここでは省略しているが
9-410は、「東国へと友人数人を伴って行った時、途中、三河国の八橋(愛知県知立市)というところで、その川のほとりにカキツバタが美しく咲いているのを見て、木陰で馬を降りて、カキツバタいう五文字を句の頭に置いて旅の心を詠む」として詠んだ歌である。
【通釈】衣を長く着ていると褄(つま)が熟(な)れてしまうが・・・、そんなふうに馴れ親しんで来た妻が都にいるので、遥々とやって来たこの旅をしみじみと哀れに思うことである。
この歌では 『伊勢物語』と元を同じくする詞書の助けもあり、歌の中に散らされたカ・キ・ツ・ハ・タ(カ:からころも、キ:きつつなれにし、ツ:つましあれば、ハ:はるばるきぬる、タ:たびをしぞおもふ)は、内容を表す言葉の外にありながら、歌の背景によくなじんでいる。
9-411の詞書は長いが、これも詞書は『伊勢物語』の本文(第九段)とほとんど変わらない(※10の大九段東下り参照)。要は詞書の最後の 「これなむみやこ鳥」という言葉に反応して出た歌と考えられている。
この詞書にも9-410の「八橋」同様、「隅田川」という地名が出てくるが、それらの地名には反応せず、旅の途中で足を止める度に都への思いが湧き、ここではカキツバタではなく、都鳥をきっかけとして都への思いを歌ったものである。
「名にしおはば」(名にし負はば)は、そのような名前を持っているならばという意味であり、ここでの「ありやなしや」は、村上天皇のときの②いるかいないかわからないほどに、軽視するさま。と言った意味ではなく、「元気で生きているかいないか」といった意味に使っているのだろうから。
【通釈】「都」というその名を持つのに相応しければ、さあ尋ねよう、都鳥よ。私が恋しく思う人は無事でいるかどうかと。・・・といった意味になるのだろう。(この二首の歌の解説等は※10また、※5 :「やまとうた」千人万首のここ参照)
上掲の画像は、「風流錦絵伊勢物語」 勝川春章画。第9段の東下り隅田川の景を描く。
なにか、女々しい感じのする歌でもあるが、今とは違って、当時東北地方南部から新潟県の中越・下越地方及び九州南部は未だ完全に掌握できていない辺境の地である。何等かの罪に問われ東下りする業平たちから見れば、自身は、都の圏外にはじき出されたかつての都人、つまり失格者である。そこに 「京には見えぬ」名ばかりの「みやこ鳥」がからむことで、彼らの身の置き所のなさが増幅されている。
全125 段からなる『伊勢物語』は、在原業平の物語であると古くからみなされてきた。
日本の民俗学者、国文学、国語学者でもある折口信夫が日本の物語文学の特徴を分析するときに、しばしば「貴種流離譚」という概念に言及している。
「高貴に生まれた主人公が、力のない若い時に運命のいたずらで遠い地をさすらう苦難を経験する。その際、身分の賎しい人々に助けられるが、やがてその貴い血筋が認知され、最高の栄誉を受ける」というストーリーを原型にして、多くの物語がそこから派生しているという。例えば、『源氏物語』の須磨の帖では光源氏が都から遠ざけられ須磨に配流となる。また、『伊勢物語』東下りの段(第九段)では昔男(業平)が都を去り東国に下る。
そのような都から遠いところへ旅するのだから、旅も楽しいはずがない。都鳥は、当時ユリカモメを言っていたらしいが、そんな「都」の付く鳥を見ただけで、都に残してきた恋しい人が思い出されるのも仕方がないだろう。
ここで業平が都鳥に「私が恋しく思う人は無事でいるかどうか」と、問うている恋しく思う人は清和天皇の女御でのち皇太后となった二条后(藤原高子)であろう。彼は高子と駆け落ちをしている。
ちょっと回り道をしたようだが、今日は、村上天皇の「有無(ありなし)の日」なので、在原行平の「ありやなしや」の和歌で締めた。これ以上書くと長くなりすぎるので、『伊勢物語』については、以下参考の※10 、※11 を参考にされるとよい。
冒頭の画像は、村上天皇像(永平寺蔵)Wikipediaより。
参考:
※1:富士山の歴史噴火総覧 - 山梨県富士山科学研究所(Adobe PDF)
http://www.mfri.pref.yamanashi.jp/fujikazan/web/P119-136.pdf#search='%E6%97%A5%E6%9C%AC%E7%B4%80%E7%95%A5+%E5%A3%AB%E5%B1%B1+%E5%99%B4%E7%81%AB'
※2:やまとうた
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/index.html
hosi 3 :原文『枕草子』全文(「伝能因所持本」の段落に合わせている)
http://www.geocities.jp/rikwhi/nyumon/az/makuranosou ※3:教育の職人:授業の足跡
http://www.pat.hi-ho.ne.jp/nobu-nisi/koten.htm
※4 :教育の職人:授業の足跡
http://www.pat.hi-ho.ne.jp/nobu-nisi/koten.htm
※5 :枕草子における 「昔」 「今」 の意識(Adobe PDF)
https://dspace.wul.waseda.ac.jp/dspace/bitstream/2065/43021/1/KokubungakuKenkyu_75_Tabata.pdf#search='%E3%80%8E%E6%9E%95%E8%8D%89%E5%AD%90%E3%80%8F+%E6%9D%91%E4%B8%8A%E5%A4%A9%E7%9A%87+%E7%90%86%E6%83%B3%E7%9A%84%E3%81%AA%E8%A6%AA%E6%94%BF%E5%9B%BD%E5%AE%B6'
※6 :須磨観光協会須磨浦周辺
http://www.suma-kankokyokai.gr.jp/modules/gnavi/index.php?page=category&cid=2
※7 :源氏物語の世界 再編集版
http://www.genji-monogatari.net/
※8 :滋賀県石山観光協会 紫式部ゆかりの花の寺 石山寺
http://www.ishiyamadera.or.jp/ishiyamadera/genjistory.html
※9 :古今和歌集の部屋:巻別一覧
http://www.milord-club.com/Kokin/kan/kan01.htm
※10:伊勢物語現代語訳 - 楽古文
http://www.raku-kobun.com/isemonogatari.html
※11:伊勢物語を語る
http://homepage2.nifty.com/toka3aki/ise/isemono.html
『枕草子』章段対照表
http://www.sap.hokkyodai.ac.jp/nakajima/waka/data/makura1.html
村上天皇- Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%91%E4%B8%8A%E5%A4%A9%E7%9A%87