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神田の錦輝館で東京で初めて映画が公開された

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錦輝館(きんきかん。1891年10月9日 開業 - 1918年8月19日 焼失)は、かつて東京に存在した日本の映画館であり、1891年(明治24年)10月9日、東京府東京市神田区錦町(現在の東京都千代田区神田錦町3-3)に開業した。
錦輝館が開業した1897(明治30)年当時の神田駿河台を中心とする地域は学者・医者・華族。財界人の高級住宅地として発展した。駿河台は、その地名のとおり、昔は東京から富士山を見る名所の一つで、永井荷風の生育地でもあり、随筆『日和下駄』(※1参照)にも登場する。
この駿河台に対して、低地の神田小川町周辺の繁華街はキリスト教各派の社会改良運動を手段とする伝道の絶好の舞台であった。
1891(明治24)年2月には神田駿河台東紅梅町の旧火消屋敷跡(定御火消 蒔田数馬之助 役宅跡)にハリスト(キリスト)復活大聖堂(東京復活大聖堂・ニコライ堂)が建設された。
さらに、1894(明治27)年に、東京基督教青年会館(のちの神田YMCA、2003年閉館)が完成し、1000人を収容する大講堂が出来、労働運動の発火点となる演説会が盛んに開催されていた。
この東京基督教青年会館の中には、1898(明治31)年1月に、日本医学図書館が開館。1891年(明治24)年10月9日には錦輝館が開場したが、この錦輝館は、日本医学図書館の維持費を得るための集会場(貸席)として作られた(※2参照)ものだそうで、東京基督教青年会館と並んで職人・学生を中心とする政治運動・社会運動の中心地として知られ、府下に於ける学生の巣窟といわれていたようだ。
そのようなことから、ここは、後に赤旗事件の舞台となったことでも知られている。
1891(明治24)年に御茶水橋が駿河台西紅梅町と本郷湯島3丁目との間に架けられて以降、この神田本郷の間の交通が便利になり、この辺りの往来が増えた。
そして、錦輝館で1897(明治30)年の今日・3月6日から「電気活動大写真会」と銘打ち、東京初のヴァイタスコープによる映画の上映会が行なわれた。
映画の歴史上、19世紀後半に、写真を動かそうとする試みが相次いだ中で、日本では、まだ独自に映画の撮影機・上映機は開発されていなかった。そのため、日本における映画は、機械の輸入から始まった。
1891(明治24)年にアメリカの発明王トーマス・エジソンらが発明した(実際の開発者は、ウィリアム・K・L・ディクソンだという)「キネトスコープ」は、スクリーンに映写されるのではなく、大きな箱の中にフィルムを装填し、のぞき窓を小窓から中を覗き込むという非投影式の映画装置であり、一度に一人しか見られず、とても今日の映画と同じ物とはいえないものの、ブロードウェイで動く写真が一般公開されると世界の人たちが驚いた。とにかくこれが、世界最初の映画(動く画像)を観る装置ではあった。
日本でエジソンが発明したキネトスコープとフィルムを輸入し、初上映したのは、1896(明治29)年、神戸相生町の鉄砲火薬商高橋信治によるもので、最初の披露は皇族を招いて知事の別荘で行われ、引き続き、花隈の神港倶楽部(当時の神戸在住財界人の社交場)で、11月25日から5日間一般公開の興行が打たれた。
興行は10種類のフィルムを日ごとに分けて行ったという。見る時間は1,2分ですぐに終わってしまうため、長い説明を交えて行ったという。装置は、非常に幼稚なものだったが、兎に角写真が動くということが当時としては大変珍しく、話題を賑わし人気が良かったので、当初予定されていた上映を、12月1日まで日延べしたそうで、キリの良いこの日を、映画産業団体連合会が、日本における映画産業発祥の年、明治29年(1896年)より数えて60年目にあたる昭和31年(1956年)に、この12月1日を記念日として設定した。このことは、前にこのブログ12月1日、「映画の日」でも書いたことがある。
しかし、キネトスコープはのぞき箱の中の小さな映像でしかなかったため、その後人気が続かず、又、すぐに上映機が輸入されたために、その人気は短命であった。
一度に多くの人が鑑賞できるスクリーンに投影される形の映画(シネマ)は、リュミエール兄弟による「シネマトグラフ」の発明(1895年)を待つことになる。
そして最初の商業公開(有料公開)がリュミエール兄弟によって行なわれたのが同年12月28日、パリグラン・カフェ地階のサロン・ナンディアン(現:ホテル・スクリーブ・パリ)であった。
その際、上映されたフィルムは「工場の出口」を含む10本の短編映画だったと言われており、スクリーン上の人が歩く映像や、列車が近づいてくる映像に大勢の観客が興奮した。
これが今日の映画上映のスタイルと同じ物であったことから、一般的には、この日が映画の誕生日と見なされている(Wikipedia -映画の日参照)。

上掲のものが、フランスリヨン(フランスにおける金融センターのひとつであり、永井荷風が横浜正金銀行の社員として滞在したこともある)のリュミエール社が独自に開発した動く“写真映写装置”「シネマトグラフ」(Wikipediaより)で、撮影機、映写機、焼付け機をかねていた。リュミエール社はシネマトグラフを発明後、この装置を販売せず、その市場を独占的に拡げていた。
まだ、アメリカにシネマトグラフが輸入される以前の1896年、キネトスコープが、人気がなくなり落ち込んでいたエジソン社が発明したものとして1986年4月に発表されたものがヴァイタスコープ(キネトスコープの改良型。スクリーン投射可能)であった。何でもこの映写機はトーマス・アーマットという人の発明品の権利を買い取ってエジソンの発明品としたものとのことである(詳しくは、参考※3:「映画の歴史という名の無間地獄」映画の歴史>エジソン社のヴァイタスコープを参照)。
1897(明治30)年、リュミエール社のシネマトグラフやこのエジソン社のヴァイタスコープがほぼ同時に輸入され、日本でも映画の上映が行われるようになった。
シネマトグラフを初めて日本に持ってきたのは、京都の著名な実業家であった稲畑勝太郎(現:稲畑産業の創業者。※4参照)であった。
リュミエール兄弟の兄オーギュストと稲畑とは、稲畑が京都府師範学校(現京都教育大学)の学生時代、当時の最先端染色技術を学ぶためにフランスに留学していたとき、リヨンの、リヨン工業学校で学んでいたときの同級生であり友人でもあったという。
その稲畑が紡績機械購入のために渡仏したときオーギュストと再会し、シネマトグラフを知った。
当時京都で染料会社を営んでいた稲畑が、畑違いの映画にどうして、それ程興味を持ったのかは知らないが、発明されたばかりの映画(シネマトグラフ)を見せられて、よほど感激したのだろう、リュミエール社の日本における代理人となった。それには、リュミエール社がシネマトグラフを発明後、技師を養成して、世界各地にカメラマンを派遣し、風物を撮影させていたが、そのような社の方針からも、東の果てのジャパンの風俗の撮影にも興味があったからだろう。
1897(明治30)年1月、稲畑は、リュミエール社がシネマトグラフの映写・撮影のために同行させた技師・フランソワ・ コンスタン・ジレルと共に映写機材一式をもって、神戸に到着した。
京都では、当時の電気設備が乏しい時代、屋内での映写が不安なためか、京都四条河原町の京都電燈会社(現関西電力)敷地内で試写を行った後、同年2月15日から28日にかけて大阪の南地演舞場(後の南街会館)にて本邦初の一般公開を行った。
多数の人で同じスク リーンを見るという盛り上がりで雰囲気がのぞき方式とはまるで違ったようだ。 大阪では連日超満員で場外の柵は壊され、札止めで帰った人が多く いたという。続いて京都の新京極元東向演劇場、神田の川上座、横浜の港座と各地で公開されていったが、興行成績は至って良好で、さ らに地方興行に移って行った。
このとき映写機とともに持ち帰ったフィルムの種類は「フランス士官の騎馬演習」 「パリ中学生の水泳」 「リオ ンの市街」 「パリの踏会」「テームズ河畔の舟遊び」など欧米の風俗を撮影した一種2〜3分のもので、一興行40分から1時間に組み合わせて公開しという。
この時の大阪ミナミの南地演舞場での興行が、一般的には日本で最初の映画興行であるといわれている。又、この興行を委託されたのが、後に日活(日本活動写真株式会社)の創立に中心的な役割を担った稲畑の友人であった高木永之助(のちの横田永之助)であった。
高畑が直接興行を手掛けなかったのは、当時、興行の世界は、任侠が仕切っているヤクザな仕事として見られていたため、堅気の世界で、一流事業家を自負している稲畑が、興行のしきたりに明るい高木に興行権を譲ったようだ。
このシネマ トグラフの初公開 (大阪) から20日ほど遅れて別ル一トの機械が入ってきた。 東京新橋で幻灯機の製作販売を業とする吉沢商会で、在日イタリア人の陸軍砲工学校の講師をしていたプラチャ リーニが持ち込んだものを購入。 これを3月9日から横浜の港座で初披露。同地にある居留地にあるパブリックホールを経て、同月27日から東京神田の錦輝館で興行する。注目すべきはこのとき吉沢商店ではフィルムに彩色して、いわゆる着色映画を試みていたとのことである。
一方、 時をほぼ同じく してエジソン社の映写方式ヴァイタスコープが入ってくる。 輸入元は大阪の西洋雑貨商荒木和一。 シネマ トグラフの初公開から僅か1週間後の2月22日から同じ大阪の新町演舞場(現在の大阪屋本店、西区新町2-5。※5)で上映され、 3月には道頓堀五座のひとつと称された朝日座(※6)に場を移して興行している。 このときはやはりエジソンが発明した蓄音器と併せて上映したといい、吉沢商店のカラー、荒木の音と映画の将来を見据えた試みがすでになされていたようだ。
東京でもヴァイタスコープが貿易と興行物の海外斡旋業の新居商会の手で輸入され、1897(明治30)年の今日・3月6日から「電気活動大写真会」と銘打ち、ヴァイタスコープによる映画の上映会が神田錦輝館で行なわれた。吉沢商店が行なった3月27日興行よりこちらの方が早いので、これが、東京における最初の映画興行の日ということになる。
入場料は、特別:1円、ー等:50銭,、2等:30銭,、3等:20銭と高い(☆1参照)が、内容は「露国皇帝即位戴冠式」 「メ リー女王死刑の舞台」「ナイ ヤガラ瀑布」「群鳩飼養の図」などほかと大同小異。 ただし、このときから十二人のジャズバンドによるオーケス トラが映写に伴奏を加えていた。
又、このときには映画の説明者もついていたようであり、これがやがて初期の日本映画興行界における特徴のひとつである活動写真弁士と呼ばれる存在になった最初の一人十文字大元であった。
何でも、ヴァイタスコープには直流電源が必要で、新居商会に発電のための石油エンジン(石油発動機)を貸し出した十文字商会の人物が十文字大元であり、その縁で手伝うこととなり、同日上映の際の弁士を務めたのだという。又、宣伝を仕切ったのが広告代理店の広目屋駒田好洋であった。駒田は後に、ヴァイタスコープの機械を新居商会から譲り受け、興行を行うこととなる(※7、※2の映画の歴史日本1-1901年参照)。
このブログ冒頭に掲載の画像が、錦輝館での映画上映風景である。【『風俗画報』(※8)1987(明治30)年4月10日号に掲載された「神田錦輝館活動大写真の図」】。上映は常打ちの芝居小屋での珍しい見世物として公開された(『アサヒクロニクル週刊20世紀』1904年号より)。こう した輸入物の映画は、日本ではさかんに競争しあい、業者によってさ まざまに翻訳され広めて行ったが、当時の広告や紹介文によると、キネ トスコープは「活動写真また写真活動 」シネマトグラフは「自動写真、また自動幻画や電気作用活動大写真」、 ヴァイ タスコープは「蓄動射影活動写真、また、活動大写真や、自動幻画、電気作用活動大写真」 などいろいろ使われていたが、やがて、 三者に共通する 「活動写真」 という言葉で統一されるようになる。
多くの文学者が錦輝館で映画をみたことを日記に書き残し、小説に同館を登場させているが、その中で、永井荷風の『ぼく東綺譚』(参考※1のぼく東綺譚参照)では、冒頭から以下のように書かれている。

「わたくしは殆ど活動写真を見に行ったことがない。
 おぼろ気な記憶をたどれば、明治三十年頃でもあろう。神田錦町にあった貸席錦輝館で、サンフランシスコ市街の光景を写したものを見たことがあった。活動写真という言葉のできたのも恐らくはその時分からであろう。それから四十余年を過ぎた今日では、活動という語は既にすたれて他のものに代えられているらしいが、初めて耳にしたものの方が口馴れて言いやすいから、わたくしは依然としてむかしの廃語をここに用いる。
震災の後、わたくしの家に遊びに来た青年作家の一人が、時勢におくれるからと言って、無理やりにわたくしを赤坂溜池(ためいけ。☆2参照)の活動小屋に連れて行ったことがある。何でもその頃非常に評判の好いものであったというが、見ればモオパッサンの短編小説を脚色したものであったので、わたくしはあれなら写真を看(み)るにも及ばない。原作をよめばいい。その方がもっと面白いと言ったことがあった。
しかし活動写真は老弱の別(わかち)なく、今の人の喜んでこれを見て、日常の話柄(わへい。話す事柄。話のたね。話題)にしているものであるから、せめてわたくしも、人が何の話をしているのかというくらいの事は分かるようにして置きたいと思って、活動小屋の前を通りかかる時には看板の画と名題とには勉(つと)めて目を向けるように心がけている。看板を一瞥(いちべつ)すれば写真を見ずとも脚色の梗概(こうがい。物語などのあらすじ)も想像がつくし、どういう場面が喜ばれているかという事も会得(えとく)せられる。
活動写真の看板を一度に最(もつとも)多く一瞥する事のできるのは浅草公園である。ここへ来ればあらゆる種類のものを一ト目に眺めて、おのずからその巧拙をも比較することができる。・・・・」・・・と。

墨東(ぼくとう)というのは、現在の墨田区にあった戦前の玉ノ井という私娼街であり、当時このあたりは東京の郊外であった。
関東大震災後の復興に際して、浅草では銘酒屋の再建が許可されず、亀戸とともに銘酒屋営業が認められた玉の井は、ますます繁栄したという。
『ぼく東綺譚』は1937(昭和12)年、朝日新聞に連載されたものであるが、この小説の書かれた時代背景は、今でいう映画「活動写真」が日本で初めて公開されるなど、日本の文化の中に、西洋の文化がどっと入ってきた時代である。
舞台となった玉の井は、1918、19年(大正7、8年)から関東大震災の後にかけて、浅草にあった銘酒屋街(私娼窟)が移転してきたもので、後の東武伊勢崎線東向島駅(旧名・玉ノ井駅)付近である
小説の主人公であるわたくし大江匡は作者・永井荷風の分身である。永井自身は、1903年(明治36年)渡米後〜1907年までタコマ、カラマズー、ニューヨーク、ワシントンD.C.などにあってフランス語を修める傍ら、日本大使館や正金銀行に勤め、さらに1907年から1908年にかけてはフランスに10ヶ月滞在し、リヨンの正金銀行に勤め、退職後パリに遊び、モーパッサンら文人の由緒巡りをし、帰国後には『あめりか物語』や『ふらんす物語』(『ふらんす物語は届出と同時に発売禁止)を刊行したほどの西洋通であった。しかし、荷風は、当時、まだ、伝統的な文学が存在していた日本には、新しい文化ではなく、日本の文化的なものを求め、女性についても、洋装の現代的女性ではなく、和装の古風な女性を求めている。
だが、震災後に出来た新しい町は自分のイメージと違ったものとなっていた。寺町や裏町や路地を好んで歩いた荷風は、現代(昭和12年当時)のような、ただ狭くむさくるしいものではなく、過ぎ去った時代のうら寂しい情味の残る玉の井で偶然出会った可憐な娼婦お雪に心を癒され、季節のうつりかわりとともに、その交情が消えていくさまを美しくも哀れに描いている。
荷風は『ぼく東綺譚』の中で、映画の広告看板を一瞥すれば実際の映画を見ずとも物語などの概要・あらすじも想像がつくので、映画はあまり見ないが、巷の話題、時代の流れに遅れないように看板を見て映画の内容を把握するよう努力をしている。・・・と言っている。そして、そのころ、最も多くの看板を一瞥する事のできるのが浅草公園であると・・・。
1873年(明治6年)の太政官布告により浅草寺境内が「浅草公園」と命名され、翌年に一区から七区までに区画された中の浅草六区には、浅草寺裏手の通称奥山地区から見せ物小屋等が移転し歓楽街が形成され、演劇場、活動写真常設館、オペラ常設館などが出来て隆盛を誇っていた。
これまでの日本で見る映画、つまり、リュミエール社のシネマトグラフやてエジソン社のヴァイ タスコープは、'すべて海の彼方の出来事や様子を伝えるものであり、珍しい光景などかの国のことはかの国のこととして観客はひとつの距離を置いてみていた。
それでは、 日本を舞台にしたものは当時の映画には全く登場しなかったのかと言うとそうではない。
リュミエール社から派遣され稲垣と共に来日した技師ジレルは、1897 (明治30)年1月から約ー年間京都に滞在し、上映の操作の指導と各地の撮影に従事しており、その行動範囲は極めて広く、京都'、横浜、東京から名古屋、瀬戸内海、長崎、そして函館、室蘭にまで及んでおり、撮影機と映写機を兼ねるシネマ トグラフの特性を生かして、三台のヵメラで興行と撮影を両立させていた。つまり、ジレルは、日本で映画を撮影した最初のカメラマンと言うことになる。

上掲の画像は、ジレルとアイヌの人々である。撮影者としてのジレルは、この年10月初めには室蘭から奥地に入り、アイヌの人々の生活を撮影している。「蝦夷のアイヌ」は貴重なフイルムとなった。左端がジレルである(『アサヒクロニクル週刊20世紀」』1904年号)。
ジレルの帰国後、ジレルに代わってガブリエル・ヴェールと言う人物が派遣され1898 (明治31) 年10月に来日し、4ヶ月ほど東京に滞在して技術指導と撮影にあたっている。また、二人が不在であった時期に、日本人カメラマン・柴田常吉(※9)によっても映画『紅葉狩』(歌舞伎座で公演の歌舞伎舞踊)などが1899(明治32)年に撮影されている(これが、日本人によって撮影された現存する最古の動画とされている)。
ジレルとヴェールの二人が残したものと柴田常吉の作品などリュミエール社による日本での撮影フィルム33本の作品が『明治の日本』と名付けられて、東京の国立近代美術館フィルムセンターに収められているという。これらは、初めて生の日本と日本人を伝えるものであった。
リュミエール社は日本以外の国々にも技師を派遣し、撮影を行っているが、日本を撮影した本数は他の国と比べて多いが、これは、当時フランスを中心としたヨーロッパに「ジャポニズム」と呼ばれた日本趣味・日本心酔があったことから日本の特質を取り込もうというモード(Mode。流行)があったためとも言われているようだ。
ただ、日本で撮影されたフィルムは単なるドキュメンタリーだけではなく、演出がなされており、単におもしろいシーンを撮影したいという意思のほかに、フランス人のイメージに合った日本人像を撮影したいという意思が感じられ、例えば、「田に水を送る水車」という作品では、当時の日本では裸(ふんどし)で農作業を行うという風習はなかったが、撮影では農民が裸のみで作業を行っているシーンが撮られており、これは、日本人は裸でいるものという概念に従って撮影されたものではないかと指摘されている(「映画伝来」)ようだ。
ジレルが帰国した1897(明治30)年の秋までには、東京の小西写真店(後のコニカ)にイギリスのバクスター・アンド・レイ社製映画撮影機B&Wシネマトグラフが輸入された。元々、小西では本機械を輸入販売する為に仕入れたものであったが、製品に取扱説明書がついておらず、試験撮影を行う必要が生じ、この時試験撮影を小西の店員で当時20歳であった浅野四郎が担当した。
撮影の対象となったのは、日本橋や浅草の絵葉書的風景や芸人などの演技をしている人物であり、リュミエール兄弟のように人々の日常の生活のような光景は撮影しなかったという。この時撮影した映像が1899(明治32)年6月20日、歌舞伎座にて一般公開され、日本における活動写真のはしりとなった。
このようにして日本でも映画の上映が行われるようになるが、映画は、最初のうちこそ大衆の好奇心を引きつけはしたものの、映画輸入が活発に生されるわけでも、国内での映画撮影が熱心に行なわれたわけでもなかった。そして、20世紀に入るころには、映画の関心も余りなくなってしまっていたようだ。
1899年(明治32年)6月1日、米西戦争(1898年)についてのアメリカエジソン社のニュース映画『米西戦争活動大写真』が神田錦輝館で上映され、これが「日本初のニュース映画上映」とされているが、このほか、1900年(明治33年)10月18日同館で、「北清事変活動大写真」が上映された。これは日本人カメラマン柴田常吉が撮影した義和団事件の実況フィルムで、日本人によるニュース映画の初めてのものだといわれる(※10)。
このような報道映画は、上映にあたって、大々的に宣伝はされはしたが、こうした映像による出来事の記録が社会的な意味を持つようになるのは、まだ暫く時間が必要だった。
映画の上映は20世紀初頭までは、大都市に限られていた。その場所は演劇のための劇場で、芝居が上映されていない合間を使って行なわれた。また、寄席の1プログラムとして上映されたりするのが普通だったからだ。
日本初の映画専門館(常設館)「電気館」を浅草六区にオープンしたのは、神田錦輝館で映画が初公開された6年後の1903年(明治36年)のことであったが、幻灯と錦絵の商売が本業であり、この2年ほど前から映画の輸入・撮影にも乗り出していた吉沢商店がこの映画館の経営にあたった。この頃になると、上映用映画のフイルムのストックも増え、フイルムと映写機を持った巡業隊が地方を回り映画を上映し始めた。しかし、映画が注目を引くようになったのは、日露戦争がきっかけだった。
大本営写真班が結成され、その中に映画撮影のカメラマンも加えられた。1904(明治37)年5月1日に映画の上映プログラムが加えられて以降、日露戦争関係の映画が興行的に大成功を収めるようになったという(『アサヒクロニクル週刊20世紀』1904年号)。
以下参考の※11「1900年〜日露戦争 - 明治・大正期に日本で公開されたロシア映画」によると、日露戦争が勃発する直前の1903年8月25日の「錦輝館活動大写真」のプログラムは「日英露活動写真」と銘打たれていて正に「ロシアと一戦交えるべし!」と戦争がまだ始まっていないにも関らず、そんな時代の風潮を匂わせていたという。そして、1904(明治37)年2月、日露戦争の勃発と同時に"活動写真"の輸入・製作・上映を手がけてきた吉沢商店は、専属のカメラマンを戦地に派遣。5月1日には、錦輝館にて、この第一報とともに、各国の従軍カメラマンの撮影した映画も一緒にして上映されているという。(「露国番兵の失敗」「露国コサック兵の動作」「露国コサック白昼交戦をなすの実況」日本活動写真会[=吉沢商店]提供。詳しくは※11参照)。
この5月の最初の上映以来東京では、毎週どこかの劇場で、日露戦争映画をプログラムに含む映画上映がおこなわれるという前代未聞の状況となっていたそうだ。日露戦争映画として上映された作品には、外国製のものも多く、記録映画の偽装をした作り物も多く存在していた。こうした偽りの記録映画に対して文句をいう観客もいたらしいが、多くの観客は満足し、映画がスペクタクル(壮大な見世物)として、社会的な認知を受けるのに大いに貢献していたようだ。
兎に角、戦争が終わる1905〜1906年頃までは、新しく公開される映画は「日露戦争」もののオンパレードであり、こうした日露戦争のフィルムが、日本で映画を大衆的なものとして普及させる一因ともなったとされている。

上掲の画像は、錦輝館での「社会パック活動写真」の上映を告知したチラシである(画像は、『アサヒクロニクル週刊20世紀」』1906-7年号から)。
日露戦争後の好景気を背景に、欧米に比した一等国への自負の機運が高まるなか、1906(明治39)年9月、神田錦輝館で「社会パック活動写真」と称する上映会が催され、「活写会の玉乗り」「当世紳士の正体」などの喜劇や「女学生の末路」「飲酒と家庭」といった道徳劇が上映された。それぞれ、社会を痛烈に風刺した作品だったようである。
「社会パック活動写真」は、殖民世界社を主宰し主に台湾で活動していた高松豊次郎(活動写真資料研究会参照)が映画による社会啓蒙を意図して3年ほど前から吉沢商店のカメラマン千葉吉蔵を監督・撮影に起用して制作していたものだった。「パック」(Puck)とは漫画を意味し、時事新報に風刺漫画を描いていた北沢楽天が創刊した漫画雑誌『東京パック』に由来する。
高松豊次郎は鐘淵紡績(カネボウ参照)の職工だったときに、左腕を機械に切断されたことから労働者の権利と保護に目覚め、明治法律学校に学んだ後片山潜が結成した「労働組合期成会」の宣伝活動を担当していたが、「社会パック活動写真」はその一環として映画を使っての宣伝教化活動であった。こうした高松の活動は、映画の社会的機能を自覚した嚆矢(こうし)といえるが、高松自身は同じ頃、台湾総督府の民政長官だった後藤新平の依頼で台湾に赴いていたこともあり、彼が「活動写真資料研究会」を設立して映画による啓蒙運動を再び始めるのは、10年ほど経ってからであった。(『アサヒクロニクル週刊20世紀」』1906-7年号)。
明治40年代には映画常設館が急速に増加していく。東京で見ると、まず1907(明治40)年に浅草の美音館、三友館、新声館、神田の新声館が、1908年に浅草の大勝館、富士館、牛込の文明館、麻布の第二文明館が開館し、1909年になると東京府下の映画常設館は40館以上に急増したという。このような映画常設館の急増は、京都、大阪、名古屋の大都市などでも起こっている。(※12)。
上映される映画は、1907(明治40)年頃までは大部分が、外国映画だったが、1908(明治41)年には、吉沢商店が、現在の目黒区下目黒に、日本初の撮影所を建設し、本格的に映画を製作し始めると、地方巡業に力を注いでいた京都の横田商会も劇映画製作を本格的に始めた。こうして、日本映画は、1908(明治41)年から1910(明治43)年にかけて驚くほどの勢いで成長し、後の映画製作の礎(いしずえ)が出来たのである。
参考:
☆1:1987年ではないが、1900(明治34)年の賃金は、綿糸紡績職工平均賃金:1日男子約30銭)女約20銭(これは、1日11〜11、5時間労働。残業で18時間労働に成る事も少なくない。昼夜交替制でのもの。農商務省商工局調査)また、物価はビール大瓶19銭、牛肉100g7銭、ハガキ1銭5厘、理髪15銭(週間朝日編「値段の風俗史」などから)、資料は『アサヒクロニクル週刊20世紀』1901年号より。
☆2:「溜池」とは、江戸時代にこの地に作られた大規模なため池(貯水用の池)のことで、これに由来する溜池町(後の赤坂溜池町。現在の赤坂一・二丁目の各一部)という町名が住居表示が実施された1967年まで付近に存在していた。

※1:作家別作品リスト:No.1341:永井 荷風
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person1341.html#sakuhin_list_1
※2:神田錦輝館のあった場所 「『日本医学図書館』
http://www015.upp.so-net.ne.jp/reposit-horie/newpage19.html
※3:映画の歴史という名の無間地獄
http://www.geocities.co.jp/Hollywood-Stage/4989/historytitle.html
※4:稲畑勝太郎と京都産業の発展
http://www.joho-kyoto.or.jp/~retail/akinai/senjin/inahata-1.html
※5:西区の歴史? 新町遊郭・新町演舞場・砂場
http://mariachiweb.blog13.fc2.com/blog-entry-86.html
※6:道頓堀繁盛記(Adobe PDF)
http://www.oml.city.osaka.jp/info/osakaasobo/asobo_050.pdf#search='道頓堀繁盛記'
※7:ときのそのとき - 風俗画報
http://www.meijitaisho.net/toa/fuzoku_gaho.php
※8:映画渡来? 日本は映画をどう受容したか(Adobe PDF) - html
http://hokuga.hgu.jp/dspace/bitstream/123456789/1278/1/JINBUN-10-5.pdf#search='映画渡来'
※9:古写真館:全国写真師一覧表 さ行
http://www.geocities.jp/photography1862/kikakusitu/syasinsiitiran-sa.html
※10:2 日本人が撮影した映画 - 館報「開港のひろば」 横浜開港資料館
http://www.kaikou.city.yokohama.jp/journal/089/089_05_02.html
※ 11:1900年〜日露戦争 - 明治・大正期に日本で公開されたロシア映画
http://czarist.nomaki.jp/1.html
※12:映画常設館の出現と変容 ―1900 年代の電気館とその観客から―(Adobe PDF)
http://www.arc.ritsumei.ac.jp/oldarc/kiyou/09/ueda.pdf#search='映画常設館 三友館'
※13:2. シネマ産業(Adobe PDF)
http://www.ushio.co.jp/documents/technology/lightedge/lightedge_19/ushio_le19-02.pdf#search='2シネマ産業'
最古の日本映画について ―― 小西本店製作の活動写真
http://www.momat.go.jp/research/kiyo/13/pp65_91.pdf#search='最古の映画'
映画史探訪第2章−サイレント黄金時代(特別企画)文豪の映画礼讃〜谷崎潤一郎の映画製作〜
http://www5f.biglobe.ne.jp/~st_octopus/MOVIE/MOVIEINDEX.htm
東京YMCA歴史130年
http://tokyo.ymca.or.jp/ymca/enkaku.html
Wikipedia - 錦輝館
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8C%A6%E8%BC%9D%E9%A4%A8

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