日本記念日協会の記念日に「ビスケットの日」がある。
全国ビスケット協会(※1)が1981(昭和56)年に制定したもの。
ビスケット(biscuit) の殆どは、小麦粉を主材料に牛乳、ショートニング、バター、砂糖など副原料を混ぜて、サクサクした食感に焼いたものであるが、使用される副原料の組み合わせによって種類は様々。ビスケットの仲間には他に、クラッカー、乾パン、カットパン(乾パンと同じような製法で水分がやや多く、砂糖ミルク等の副原料も多く、乾パンとパンの中間的な製品。)、プレッツェル、パイ、またこれらの加工品がある。
加工品には、クリームサンド、ジャムサンドなどのサンドもの、チョコレートや砂糖をかけたものなど、すべて加工品として分類されている。これらのビスケット類は、小麦粉を主原料として練った生地を成熟して焼くという点が共通している。
日本では、ビスケットとクッキー両方の名前が使われているが、実はこれは同じ意味。ただ、菓子業界では糖分や油分が多めの、手作り風のものを、クッキーと呼んでもよいという決まりがあり、区別して使われることもあるが、海外では日本でいうところのクッキーの区別は存在せず、英国では両者をビスケット、米国では両者をクッキーと呼んでいる。
ビスケットの名は、フランス語のビスキュイ(biscuit)から来ている。フランス語においてbisは「2」を意味する接頭語もしくは「2度」を意味する副詞であり、cuitは動詞cuire(「焼く」を意味する)の過去分詞形であるため、全体として「二度焼いたパン」という意味を表ているという。これをさらに遡っての語源はラテン語のビスコクトゥス・パーニス(biscoctus panis)「二度焼いたパン」からだとか・・。
これは保存食として作られた堅パンを指ししているそうだ。 ビスケットをフランスでは「ビスキュイ」、ドイツでは「ビスキュイート」イタリアでは「ビスコッティ」などと呼ばれているのも、ここからで、いずれも2度焼かれたという意味をもっている。
「クッキー」の語源はオランダ語の「クオキエ」(koekje又略式のkoekie)「小さなケーキ)」からで、アメリカに渡ったオランダ人が自家製の菓子をクッキーと呼んだのが始まりだとか。
米国でいうビスケットは、生地にショートニングやラードを加え、重曹とベーキングパウダーで膨らませた、外側はサクサク感で内側はふっくらとした食感のあるパン/ケーキのことをいい、英国のプレーンのスコーンとよく似ているが、動物性油脂のバターを使うスコーンに較べて植物性油脂のショートニングを使うビスケットは油気が少なくあっさりしているようだ。
朝食として供されるほか、料理の付け合わせや菓子類に加工されることもある。料理ではグレイビーをかけたり、焼いたハムやソーセージを挟んで食べることもあり、アメリカ南部料理によく使用されているようだ。また本来のショートケーキはスポンジケーキではなくこのビスケットを土台に用いたものを指すという (ショートとは「サクサクしている」「崩れやすい」という意味だそうだ)。
日本ではケンタッキーフライドチキンがこのタイプのビスケットを販売している(※2)。
つまるところ、小さなケーキを意味するオランダ語のkoekjeまたは(略式の)koekieから、北米にてオランダ語から英語に派生。アメリカ英語から、ビスケットが一般的な語であるイギリス英語に広まったようだ。だから、クッキーは北米だけで使われる言葉で、それ以外の英語圏では一般的にビスケットと呼ばれている。
このように、クッキーとビスケットは国・地域や言語によって、混同されていたり異なるものであったりと定義はまちまちのようであるが、日本では、先にも書いたように、ビスケットとクッキー両方の名前が使われているが、日本でのクッキーとビスケットの違いについては、1971(昭和46)年に施行された「ビスケット類の表示に関する公正競争規約」(※3)において、明確な定義づけによる区別をし、ビスケットのうち、クッキーと表示することができるものとして、施行規則第3条には、以下のものを掲げている。
(1) 「手づくり風」の外観を有し、糖分、脂肪分の合計が重量百分比で40%以上のもので、嗜好に応じ、卵、乳製品、ナッツ、乾果、蜂蜜等により製品の特徴づけをおこなって風味よく焼きあげたもの。
(2) その他、全国ビスケット公正取引協議会の承認を得た場合。
では、なぜ日本だけ、こんな定義づけをしたのか・・?
それは、当時の日本にあって、「クッキー」は「ビスケット」よりも高級だと思われていたため、安価な「ビスケット」を「クッキー」の名称で販売するのは、消費者に誤解を与える恐れがあるとの判断から、定められたものだそうである。
ただ、この規約は日本ビスケット協会による自主ルールであるため、協会に加盟していなければこれに従う必要はないらしい。日本で協会に加盟のところは冒頭に述べたビスケット類の製造物には、袋又はパッケージの商品名にその区分を併記することが義務づけられている。まあ、このような国内での規約はあるものの、複雑であり、輸入品も多く、実際には、消費者のイメージで分けられているのが実状ではないかという。
ビスケット工場が、近代企業として独立するまで、パン工場に従属していた。その理由は、その出発点がパンの仲間と考えられていたからのようだ。
人類がパンを作り始めたのは、石器時代後期のこと。今から1万年も昔にさかのぼる。当時のバビロニア人は、小麦粉を発酵させる原理も知っていたそうで、チグリス、ユーフラテス河一帯に栄えたバビロニア遺跡からは、小麦粉をこねてパンを作った道具や、その様子を描いた壁画が発見されているという。
ヨーロッパでは古代から航海や遠征のための食糧として、日持ちをよくするために、パンを乾燥させてもう一度焼いたもの(堅パン)を持って出かけたという。当時の言葉では食糧としてのパンと、菓子としてのビスケットとは明瞭に区別されていなく、混用されていた。これがビスケットの始まりと伝えられている。
ギリシャを経てヨーロッパに広まったビスケットは、探検家のコロンブス(1492年出航)やマゼラン(1519年出航)も長い航海にのり出す時に、大量のビスケットを積み込んだという話が残っている(参考4、※5、又※6:「不思議館」の〜史実に隠された衝撃的な話〜>“コロンブスの真実”や〜海にまつわる恐ろしい話〜>“大航海時代の実情”を参照)。
尚、※5:の「グロリア・スコット号事件」とは、コナン・ドイルによるシャーロック・ホームズシリーズの短編小説の一つである。
「堅パン(ビスケット)」の歴史は古いが、それが何時生まれたのか正確なことは定かではないが、コロンブスの時代以前から航海用また軍隊用の保存食として必須食品だった。
Dr. Johnson(サミュエル・ジョンソン。Samuel Johnson)の英語辞典(1755年初版)には「遠洋航海用に(保存性を高めるため)四度焼く」との説明があるらしい(Wikipedia)。
同じビスケット類の「乾パン」は堅パンの亜流で堅パンは、乾パンと比べ非常に堅いのが特徴。別名ハード・タック(Hardtack)と言い、南北戦争(1861年 - 1865年)時に米兵の間ではアイアンプレート(鉄みたいに堅い)と蔑称されたというから、「ハードタック」はまさしくハード・ビスケットの中のハード・ビスケット(まさしく硬派)だったのだろう。
現代に近いビスケットが本格的に作られるようになったのは16世紀になってからで、ヨーロッパの宮廷で盛んに食べられるようになり、色々な味やおいしさが工夫されるようになったようだ。
イギリスのエリザベス女王は、技師オスボンに命じて宮廷に焼き釜を作らせ、ビスケットを焼かせたといわれており、また、フランス王妃、マリー・アントワネットも宮廷でビスケット作りをさせていたそうで、ビスケットにオスボン、マリーという名が残っているのも、そのためだといわれている(※7)。
やがて産業革命(1760年代)が起こり、製造機械も高度化して大量生産されたため、一般にも普及し、ヨーロッパからアジア他世界各地へ伝えられた。
日本には、戦国時代の16世紀の中頃ポルトガル人によって、鉄砲やキリスト教などとともに、カステラや金平糖、等いろいろな南蛮菓子と共にビスカウト(ビスケット)が日本に伝えられた(年代は諸説あり)といわれている。
ところで、よく知られている長崎名物として有名なカステラという名の菓子は、ポルトガルには無く、その原型とされるものは、ポルトガルの隣、当時の大国カスティーリャ王国(スペインの前身)のポルトガル語発音である「カステーラ」(Castela)からとされているそうだが、カステラの基本材料は、小麦粉と卵と砂糖であるが、これに近いスペインの伝統菓子を探してみると、ビスコッチョ(BISCOCHO)という菓子があり、ビスコッチョそのものは、現在のスペインではごく普通のスポンジ菓子だが、その発生は、遥か中世に遡ると、歴史的な菓子であり、その名は“BIS+”COCHO“で、二度焼いたパンの意味である。
冒頭にも書いたように、ビスケットと同様、元は乾パン状の非常に堅く、日持ちのよい物であったが、時代の経過とともに多少とも柔らかいスポンジ状の菓子もビスコッチョと言ったのだろうという。しかし、日本に渡来した当時のカステラ=ビスコッチョは、現在のものよりは、かなり堅く、ぼそっとして、甘さが少ない物であったと思われるという(参考※8参照)。
この様なビスコッチョ=カステラは、その後日本人の嗜好に合わせて、配合、形態等に創意工夫が加えられ、技術の改良が重ねられ、特に明治以降水飴を多量に配合した今日見られるしっとりとしたビスコッチョとは似て非なる我が国独自の「カステラ」が完成されるに至っている。
日本は、稲作農業の国であり、古くから米などで作った糒(ほしい・ほしいい:乾飯とも書く)と呼ばれる保存食・非常食(アルファ化米)が存在していた。
例えば『伊勢物語』第九段…”から衣”の「東下り」の段で在原業平が糒の上に涙をこぼしてふやけてしまうという場面は良く知られている。
上掲の画像は、『伊勢物語』東下りの段で、“ある沢のほとりの木陰におりて、乾飯食(かれいひ)を食べている”くだりの図である(画像は、以下参考に記載の※9:「関西大学電子図書館:伊勢物語」より借用)。
乾飯は、読んで字の如く、蒸した米(ご飯)を天日に当てて干し、湯や水に浸し、ふやけさせて食べたり、あるいは水を加えて炒めたり、茹でて戻したりして食べた。
乾燥させてあるので軽く、雑菌も繁殖しにくい上、水を加えさえすればすぐに柔らかくなるので、旅先での携行食料品としてとても便利な現代のアルファ化米の元祖のような優れものであったと言っていいだろう(※10「:つれづれ化学草紙_乾飯の巻_伊勢物語」で伊勢物語のこの段と“乾飯”の詳しい解説がされている)。
鎌倉時代よりは「糒」の漢字が使われるようになったが、それ以前には「干し飯」(ほしめし・ほしいい)とも呼ばれていた。
大人数の食糧をまかなう上で、糒は保存性がよく軽量で運びやすいこともあって、軍事用の携帯食(兵糧)などで戦国時代などに広く盛んに利用されていたが、多少調理しないとそのままでは食べにくいため、各藩はその他にもいろいろな保存糧食を研究していた。
そのようなとき、ポルトガル人によって持ち込まれたビスケット(堅パン)は当時日本人にはちょっと異質な味だったので、あまり人気がなく、長崎周辺で外国人向けにだけ作られていたようだが、面白いことに、16世紀末から17世紀初めにかけて、日本で作られたビスケットがルソン(フィリピン)に輸出されていたという。以降、江戸時代に、パンやビスケットが日本人に食べられたという記録がないのは、当時のキリシタン禁制(バテレン追放令)も関係していたのであろう。
日本に入ってきたビスケット(堅パン)が、日本人の手によって作られたのは、1840(天保11)年に中国で起こったアヘン戦争がきっかけであった。東洋一の大国であった清国が敗戦して植民地化されていったことに、日本人はかなりの衝撃を受けるとともに、次に狙われるのは日本かもしれないという危機感を強く感じていた。
そのため、徳川幕府は、日本にも外国軍が攻めてくることを恐れ、兵糧としてパンを作らせたという。米飯では炊くときの煙が敵方にとって格好の標的になりかねないが、それに比べ、固いパンは、保存性と携帯性などの面で「糒」よりもよりすぐれていると考えたからだ。幸い、この非常食は活用されずにすんだが、このときパン作りの指揮をとったのが反射炉で有名な伊豆韮山の代官江川太郎左衛門(英龍)だとされ、パン業界では、彼を、日本のパン祖と呼んでいるようだ(※11)。
ここで、保存性と携帯性の面ですぐれている固いパンというのは、ビスケット(堅パン)のことだろうが・・・。初めて堅パンが焼かれたのが1842(天保13)年4月12日であることから、この日を記念して、パンの業界では毎月12日を「パンの日」としている。しかし、それがどのような資料的根拠によっているものかは明示されていないのでよく判らない。
江戸にいた江川が、どうして、パンのことを知ったのかは知らないが、長崎町年寄・高島茂起(四郎兵衛)の3男として生まれた高島 秋帆が、出島のオランダ人らを通じてオランダ語や洋式砲術を学び、このころ、幕府からは砲術の専門家として重用され、江川らに師匠として砲術を伝授していた。だから、彼は、当然、長崎で堅パンが焼かれていたことを、知っていただろうし、それが、非常食にて適したものとして目をつけていただろうから、彼が江川に乾パンの製作を奨励したのではないかと言うことは類推できるので、それを聞いて、江川がパンの製造を指揮した・・ということは考えられる。
日本で、はじめてビスケットに関する記述が文献上に登場するのは、幕末に長崎で開業していた水戸藩の蘭医柴田方庵の日記である。水戸藩は、ビスケットが“保存のきく食糧であることに注目。
1854(安政元)年、水戸藩から兵糧になる西洋の保存食として「パン・ビスコイト製造」を習得し報告するよう依頼を受けた彼は、オランダ人からビスケットの製法を学び、1855(安政2)年にその製法書を送ったことが方庵の日記に書かれており、これが日本でビスケットが作られたことが明確にわかる最も古い記録であり、その日記が2月28日であったことから社団法人全国ビスケット協会は、この日を「ビスケットの日」と定めている。
又、幕末の名君といわれた島津斉彬は、新日本建設の理想をいだき、幕政および藩政を改革し西洋文化の輸入に努め、日本の最先端を行った集成館事業により洋式の軍艦や大船を建造し、紡績、硝子、陶器、その他各種の近代的産業に着目し、その製造に当たったが、その一環として「蒸餅(むしもち)」をも製造していたという。「島津斉彬言行録」では、斉彬が、軍用のため、蒸餅数千個の製造を命じ、1〜2年は虫が付かない備蓄方法を研究するよう言及している。日本では、「パン」のことを古くは「蒸餅」ともいっていたようで、この「蒸餅」はその目的からいって乾パンに近いものであったろうといわている。なお、薩摩藩出身に大山巌元帥がいるが、この人は、パン祖と言われている江川太郎座衛門(英龍)の弟子である。
そして、明治元年6月、江戸の風月堂は薩摩藩の兵粮(ひょうろう・兵糧)方からの要請によって、東北征伐(戊辰の役)用の兵粮パン(兵粮麺包【めんぱお=中国語で「パン」】)を焼いたが、当時の記録によるとそれは黒胡麻入りのパンであったという。斉彬がつくらせた「蒸餅」の製造ノウハウが薩摩藩から風月堂に伝えられたのかもしれない。ただ、明治時代の風月堂のビスケット広告には「乾蒸餅(ビスケット)製造之要趣」と題しているように、この時、薩藩兵粮方より製造を命じられたとき作った黒胡麻入りの麺包はビスケットであるとしている。(※12、※13参照)。
その後、江戸幕府が大政奉還し、明治政府が樹立した時に、富国強兵政策により日本にも近代的な軍隊が創設され、外国の軍隊を模範とする様になった。
新生日本帝国軍は食事も西洋風を取り入れるようになるが、日清戦争(1894【明治27】年7月-1895年【明治28】年3月)を経て、海外にも進出した日本軍は、国内とは違って戦線が拡大し補給線が延びると、末端まで糧食をスムーズに配給するのが難しくなるという兵站上の問題が発生し、そこで、手軽に食べられる携行食の重要性を痛感した軍は、技師を欧州に派遣し、ドイツ式の横長ビスケットを参考にして、簡易携帯口糧として開発したものが「重焼麺麭 じゅうしょうめんぽう (意味は二度焼いたパン、すなわちビスケットのこと)」であり、日露戦争(1904【明治37】年2月- 1905【明治38】年9月)後、軍用食の改良が行なわれ、5%ほどのもち米を入れたり、おにぎりのような感覚で胡麻をまぶすようにった。
「重焼パン」の名称は“重傷”にも通じるとして忌み嫌い、その後「乾麺麭(かんめんぽう)」と改められた。昭和期には更なる改良が行われ味形共に現在の姿と変わらないものとなり、同じく名称呼称も「カンパン(乾パン)」となった。カンパンは、その性格上味付けがされていない。旧陸軍が研究開発した当時は、7年半の保存を目標としたため、糖、脂肪を除く必要があったからである1920(大正)年に、糖分を補う目的で金米糖をカンパンと一緒に入れるようになった。
現在でも、カンパンは自衛隊の非常用糧食に使われており、大型と小型の2種類がある。大型のものは海上自衛隊で採用されており、大きさはおおよそ縦8cm、横5.5cm、厚さ1.5cm、重さ23g。表面に15個の針穴がある。これを10枚1包として1食としている。チューブに入れられた水飴も配布される(カニヤ製、※14参照)。小型のものは、陸上自衛隊と航空自衛隊で採用されており、大きさはおおよそ縦3.2cm、横1.8cm、厚さ0.7cm、重さ3g。表面に2個の針穴がある。これを150g分、そして金平糖15gを同梱して1食としている(三立製菓製)そうだ。なお。「カンパン」のことについては、参考※15:「THE戦闘糧食」の “帝国陸軍伝統の非常食”の項に非常に詳しく記されている。
ポルトガル人によって、持ち込まれた菓子類は南蛮菓とよばれていたが、その中のビスケットは改良され、日本では戊辰戦争以降の軍事用の携帯食料「カンパン」として発展し活躍した。これを日本で、ビスケットとして本格的に販売を始めたのが風月堂・・・。※16:「お菓子@おやつ情報館!ICHIGO村」によると、1875(明治8)年、米津風月堂(当時の番頭の米津松蔵が、風月堂総本店より暖簾を分けしてもらい起した店)で機械を使い本格的なビスケットの製造を開始した・・・とある。
南蛮菓子は、明治時代になって鎖国令が解かれると、海外からビスケット、クッキー、キャンディー、チョコレート、スポンジケーキなどが輸入されるようになり、和菓子と区別するために洋菓子とよばれようになるが、日本の菓子は革命とも言える大転機を迎える事になった。
大航海時代からの経済発展により完成の域に達したフランス菓子などが伝えられる一方で、産業革命により機械化効率化した菓子製造法まで一気に伝来し、日本の「洋菓子」として幅広い発展を見る事となった。
日本での洋菓子の生産は1900年(明治34年)ごろ、ビスケットやドロップの生産から始まった。
大正期に入るとキャラメルやチューインガム、マシュマロなど種類も増え、メーカーが競って販売するようになり、工場の量産体制も整って安く買えるようになり、ハイカラなお菓子として庶民に好まれるようになっていった。
山のおくの谿(たに)あひに
きれいなお菓子の家がある
門の柱は飴ん棒
屋根の瓦はチョコレイト
左右の壁は麦落雁(むぎらくがん)
踏む鋪籍石がビスケット
あつく黄色い鎧戸も
おせば零(こぼ)れるカステイラ
静かに午(ひる)をしらせるは
金平糖の角時計
『西条八十童謡全集』(1924年新潮社刊)に掲載されたお菓子の家のくだりである(全文※17参照)。お菓子に寄せる子供たちの夢そのものを顕わしている。
この頃、つまり、第1次世界大戦が勃発した1914(大正3)年、創業(1899【明治32】年)から16年目に、今の森永製菓が、芝田町工場内にビスケットの焼き窯を新設し、東南アジア市場への輸出用ビスケットの試作にとりくみ、翌1915(大正4)年から、ビスケットの生産販売を開始し、ビスケット分野への進出を果たしたが、当初は輸出向けで、国内向けは1923(大正12)年から。国内向けのビスケットは一切販売しなかった理由は、当時国内では、外形のみにこだわった品質上問題のある粗悪品のビスケットが多く出回っていたからだとか・・・。それは品質へのこだわりで、本格的に国内でビスケットを製造販売するために1920(大正9)年、新工場『塚口工場』(塚口:兵庫県尼崎市塚口町)を建設し、欧米の製菓会社に匹敵する近代的生産設備を設け、最新鋭の機器を集め行った。その生産量は、当時東洋一だったそうだ(※18)。その後、多くの製菓会社が創立された。
現在日本の国内問題としては、以前から少子高齢化の影響が言われて来たが、2005(平成17)年前後から実態経済、各産業分野でその影響が顕在化ており、各企業の経営者たちも難しい舵取りに迫られている。従来からの生産の海外シフト戦略から、販売も海外市場を重視するようにその経営戦略を転換させてきた企業も数多く見られるが、菓子の国内市場も1992(平成4)年をピークに減少傾向にあるようだ。菓子業界は昔から小規模な生産者が多いが、チョコレート、スナック菓子、ビスケット、チューインガムなどの分野でも、大手の寡占状態と言って良いほど競争が激しい。その中で、ビスケットでは、ブルボン22.7%、森永製菓9.4%、不二家8.6%となっているようだ((2006年。※19参照)。
なお、2010(平成22)年時点での日本国内の菓子市場全体の推定生産数量および金額推移(全日本菓子協会)は、参考※20をみると判る。
(冒頭の画像、クッキーとビスケット及び、中間でのカンパンの画像はWikipediaのものを使用)
参考:
※1:社団法人・全国ビスケット協会
http://www.biscuit.or.jp/top.html
※2:ケンタッキーフライドチキン|商品情報|
http://www.kfc.co.jp/menu/detail/index.cgi?pid=OR_side_01
※3:ビスケット類の表示に関する公正競争規約 規 約 施 行 規 則(Adobe PDF)
http://www.jfftc.org/cgi-bin/data/bunsyo/A-15.pdf#search='ビスケット類'
※4:異文化に出会う時Part3:ピガフェッタの不思議な旅前篇 | 高畑由起夫
http://kg-sps.jp/blogs/takahata/2011/06/13/4514/
※5:《グロリア・スコット号》事件の食卓風景
http://homepage2.nifty.com/shworld/21_dining_table/19/glor.html
※6:不思議館
http://members.jcom.home.ne.jp/invader/
※7:豆知識:イトウ製菓
http://www.mr-ito.jp/trivia.html
※8:カステラ物語 - カステラ銀装のホームページ
http://www.ginso.co.jp/sweets/story/main.html
※9:関西大学電子図書館:伊勢物語
http://web.lib.kansai-u.ac.jp/library/etenji/isemonogatari/ise-top.html
※10:つれづれ化学草紙_乾飯の巻_伊勢物語
http://chem-sai.web.infoseek.co.jp/sosi_kareii.htm
※11:パンのはなし【パン食普及協議会】
http://www.panstory.jp/index.htm
※12:九州地方パン業界の暦譜
http://www.panstory.jp/books/100nennshi/data/kyusyu.pdf#search='島津斉彬言行録 蒸餅'
※13:風月堂のビスケット事始 - 鹿児島の情報は南日本新聞
http://373news.com/_bunka/jikokushi/131.php
※14:カニヤhome
http://www.yin.or.jp/user/kaniya/
※15:THE戦闘糧食
http://10.studio-web.net/~phototec/
※16:お菓子@おやつ情報館!ICHIGO村
http://www.osmkj.com/
※17:赤い鳥の童謡: お菓子の家
http://redbird-tatsu.blogspot.com/2007/08/blog-post_2730.html
※18:ビスケット|森永製菓
http://www.morinaga.co.jp/biscuit/
※19:成熟する国内市場と日本の 洋菓子メーカーの経営戦略(Adobe PDF)
http://dspace.wul.waseda.ac.jp/dspace/bitstream/2065/32179/1/WasedaSyogaku_417_00_002_Miyashita.pdf#search='ビスケット メーカー別 販売シェアー'
※20:日本の菓子推定生産数量および金額推移
http://phototec.hp.infoseek.co.jp/kanpan2.htm
伊勢物語 現代語訳 群論編付
http://teppou13.fc2web.com/hana/narihira/ise_story.html
日本記念日協会
http://www.kinenbi.gr.jp/index2.html
ビスケット - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%93%E3%82%B9%E3%82%B1%E3%83%83%E3%83%88
全国ビスケット協会(※1)が1981(昭和56)年に制定したもの。
ビスケット(biscuit) の殆どは、小麦粉を主材料に牛乳、ショートニング、バター、砂糖など副原料を混ぜて、サクサクした食感に焼いたものであるが、使用される副原料の組み合わせによって種類は様々。ビスケットの仲間には他に、クラッカー、乾パン、カットパン(乾パンと同じような製法で水分がやや多く、砂糖ミルク等の副原料も多く、乾パンとパンの中間的な製品。)、プレッツェル、パイ、またこれらの加工品がある。
加工品には、クリームサンド、ジャムサンドなどのサンドもの、チョコレートや砂糖をかけたものなど、すべて加工品として分類されている。これらのビスケット類は、小麦粉を主原料として練った生地を成熟して焼くという点が共通している。
日本では、ビスケットとクッキー両方の名前が使われているが、実はこれは同じ意味。ただ、菓子業界では糖分や油分が多めの、手作り風のものを、クッキーと呼んでもよいという決まりがあり、区別して使われることもあるが、海外では日本でいうところのクッキーの区別は存在せず、英国では両者をビスケット、米国では両者をクッキーと呼んでいる。
ビスケットの名は、フランス語のビスキュイ(biscuit)から来ている。フランス語においてbisは「2」を意味する接頭語もしくは「2度」を意味する副詞であり、cuitは動詞cuire(「焼く」を意味する)の過去分詞形であるため、全体として「二度焼いたパン」という意味を表ているという。これをさらに遡っての語源はラテン語のビスコクトゥス・パーニス(biscoctus panis)「二度焼いたパン」からだとか・・。
これは保存食として作られた堅パンを指ししているそうだ。 ビスケットをフランスでは「ビスキュイ」、ドイツでは「ビスキュイート」イタリアでは「ビスコッティ」などと呼ばれているのも、ここからで、いずれも2度焼かれたという意味をもっている。
「クッキー」の語源はオランダ語の「クオキエ」(koekje又略式のkoekie)「小さなケーキ)」からで、アメリカに渡ったオランダ人が自家製の菓子をクッキーと呼んだのが始まりだとか。
米国でいうビスケットは、生地にショートニングやラードを加え、重曹とベーキングパウダーで膨らませた、外側はサクサク感で内側はふっくらとした食感のあるパン/ケーキのことをいい、英国のプレーンのスコーンとよく似ているが、動物性油脂のバターを使うスコーンに較べて植物性油脂のショートニングを使うビスケットは油気が少なくあっさりしているようだ。
朝食として供されるほか、料理の付け合わせや菓子類に加工されることもある。料理ではグレイビーをかけたり、焼いたハムやソーセージを挟んで食べることもあり、アメリカ南部料理によく使用されているようだ。また本来のショートケーキはスポンジケーキではなくこのビスケットを土台に用いたものを指すという (ショートとは「サクサクしている」「崩れやすい」という意味だそうだ)。
日本ではケンタッキーフライドチキンがこのタイプのビスケットを販売している(※2)。
つまるところ、小さなケーキを意味するオランダ語のkoekjeまたは(略式の)koekieから、北米にてオランダ語から英語に派生。アメリカ英語から、ビスケットが一般的な語であるイギリス英語に広まったようだ。だから、クッキーは北米だけで使われる言葉で、それ以外の英語圏では一般的にビスケットと呼ばれている。
このように、クッキーとビスケットは国・地域や言語によって、混同されていたり異なるものであったりと定義はまちまちのようであるが、日本では、先にも書いたように、ビスケットとクッキー両方の名前が使われているが、日本でのクッキーとビスケットの違いについては、1971(昭和46)年に施行された「ビスケット類の表示に関する公正競争規約」(※3)において、明確な定義づけによる区別をし、ビスケットのうち、クッキーと表示することができるものとして、施行規則第3条には、以下のものを掲げている。
(1) 「手づくり風」の外観を有し、糖分、脂肪分の合計が重量百分比で40%以上のもので、嗜好に応じ、卵、乳製品、ナッツ、乾果、蜂蜜等により製品の特徴づけをおこなって風味よく焼きあげたもの。
(2) その他、全国ビスケット公正取引協議会の承認を得た場合。
では、なぜ日本だけ、こんな定義づけをしたのか・・?
それは、当時の日本にあって、「クッキー」は「ビスケット」よりも高級だと思われていたため、安価な「ビスケット」を「クッキー」の名称で販売するのは、消費者に誤解を与える恐れがあるとの判断から、定められたものだそうである。
ただ、この規約は日本ビスケット協会による自主ルールであるため、協会に加盟していなければこれに従う必要はないらしい。日本で協会に加盟のところは冒頭に述べたビスケット類の製造物には、袋又はパッケージの商品名にその区分を併記することが義務づけられている。まあ、このような国内での規約はあるものの、複雑であり、輸入品も多く、実際には、消費者のイメージで分けられているのが実状ではないかという。
ビスケット工場が、近代企業として独立するまで、パン工場に従属していた。その理由は、その出発点がパンの仲間と考えられていたからのようだ。
人類がパンを作り始めたのは、石器時代後期のこと。今から1万年も昔にさかのぼる。当時のバビロニア人は、小麦粉を発酵させる原理も知っていたそうで、チグリス、ユーフラテス河一帯に栄えたバビロニア遺跡からは、小麦粉をこねてパンを作った道具や、その様子を描いた壁画が発見されているという。
ヨーロッパでは古代から航海や遠征のための食糧として、日持ちをよくするために、パンを乾燥させてもう一度焼いたもの(堅パン)を持って出かけたという。当時の言葉では食糧としてのパンと、菓子としてのビスケットとは明瞭に区別されていなく、混用されていた。これがビスケットの始まりと伝えられている。
ギリシャを経てヨーロッパに広まったビスケットは、探検家のコロンブス(1492年出航)やマゼラン(1519年出航)も長い航海にのり出す時に、大量のビスケットを積み込んだという話が残っている(参考4、※5、又※6:「不思議館」の〜史実に隠された衝撃的な話〜>“コロンブスの真実”や〜海にまつわる恐ろしい話〜>“大航海時代の実情”を参照)。
尚、※5:の「グロリア・スコット号事件」とは、コナン・ドイルによるシャーロック・ホームズシリーズの短編小説の一つである。
「堅パン(ビスケット)」の歴史は古いが、それが何時生まれたのか正確なことは定かではないが、コロンブスの時代以前から航海用また軍隊用の保存食として必須食品だった。
Dr. Johnson(サミュエル・ジョンソン。Samuel Johnson)の英語辞典(1755年初版)には「遠洋航海用に(保存性を高めるため)四度焼く」との説明があるらしい(Wikipedia)。
同じビスケット類の「乾パン」は堅パンの亜流で堅パンは、乾パンと比べ非常に堅いのが特徴。別名ハード・タック(Hardtack)と言い、南北戦争(1861年 - 1865年)時に米兵の間ではアイアンプレート(鉄みたいに堅い)と蔑称されたというから、「ハードタック」はまさしくハード・ビスケットの中のハード・ビスケット(まさしく硬派)だったのだろう。
現代に近いビスケットが本格的に作られるようになったのは16世紀になってからで、ヨーロッパの宮廷で盛んに食べられるようになり、色々な味やおいしさが工夫されるようになったようだ。
イギリスのエリザベス女王は、技師オスボンに命じて宮廷に焼き釜を作らせ、ビスケットを焼かせたといわれており、また、フランス王妃、マリー・アントワネットも宮廷でビスケット作りをさせていたそうで、ビスケットにオスボン、マリーという名が残っているのも、そのためだといわれている(※7)。
やがて産業革命(1760年代)が起こり、製造機械も高度化して大量生産されたため、一般にも普及し、ヨーロッパからアジア他世界各地へ伝えられた。
日本には、戦国時代の16世紀の中頃ポルトガル人によって、鉄砲やキリスト教などとともに、カステラや金平糖、等いろいろな南蛮菓子と共にビスカウト(ビスケット)が日本に伝えられた(年代は諸説あり)といわれている。
ところで、よく知られている長崎名物として有名なカステラという名の菓子は、ポルトガルには無く、その原型とされるものは、ポルトガルの隣、当時の大国カスティーリャ王国(スペインの前身)のポルトガル語発音である「カステーラ」(Castela)からとされているそうだが、カステラの基本材料は、小麦粉と卵と砂糖であるが、これに近いスペインの伝統菓子を探してみると、ビスコッチョ(BISCOCHO)という菓子があり、ビスコッチョそのものは、現在のスペインではごく普通のスポンジ菓子だが、その発生は、遥か中世に遡ると、歴史的な菓子であり、その名は“BIS+”COCHO“で、二度焼いたパンの意味である。
冒頭にも書いたように、ビスケットと同様、元は乾パン状の非常に堅く、日持ちのよい物であったが、時代の経過とともに多少とも柔らかいスポンジ状の菓子もビスコッチョと言ったのだろうという。しかし、日本に渡来した当時のカステラ=ビスコッチョは、現在のものよりは、かなり堅く、ぼそっとして、甘さが少ない物であったと思われるという(参考※8参照)。
この様なビスコッチョ=カステラは、その後日本人の嗜好に合わせて、配合、形態等に創意工夫が加えられ、技術の改良が重ねられ、特に明治以降水飴を多量に配合した今日見られるしっとりとしたビスコッチョとは似て非なる我が国独自の「カステラ」が完成されるに至っている。
日本は、稲作農業の国であり、古くから米などで作った糒(ほしい・ほしいい:乾飯とも書く)と呼ばれる保存食・非常食(アルファ化米)が存在していた。
例えば『伊勢物語』第九段…”から衣”の「東下り」の段で在原業平が糒の上に涙をこぼしてふやけてしまうという場面は良く知られている。
上掲の画像は、『伊勢物語』東下りの段で、“ある沢のほとりの木陰におりて、乾飯食(かれいひ)を食べている”くだりの図である(画像は、以下参考に記載の※9:「関西大学電子図書館:伊勢物語」より借用)。
乾飯は、読んで字の如く、蒸した米(ご飯)を天日に当てて干し、湯や水に浸し、ふやけさせて食べたり、あるいは水を加えて炒めたり、茹でて戻したりして食べた。
乾燥させてあるので軽く、雑菌も繁殖しにくい上、水を加えさえすればすぐに柔らかくなるので、旅先での携行食料品としてとても便利な現代のアルファ化米の元祖のような優れものであったと言っていいだろう(※10「:つれづれ化学草紙_乾飯の巻_伊勢物語」で伊勢物語のこの段と“乾飯”の詳しい解説がされている)。
鎌倉時代よりは「糒」の漢字が使われるようになったが、それ以前には「干し飯」(ほしめし・ほしいい)とも呼ばれていた。
大人数の食糧をまかなう上で、糒は保存性がよく軽量で運びやすいこともあって、軍事用の携帯食(兵糧)などで戦国時代などに広く盛んに利用されていたが、多少調理しないとそのままでは食べにくいため、各藩はその他にもいろいろな保存糧食を研究していた。
そのようなとき、ポルトガル人によって持ち込まれたビスケット(堅パン)は当時日本人にはちょっと異質な味だったので、あまり人気がなく、長崎周辺で外国人向けにだけ作られていたようだが、面白いことに、16世紀末から17世紀初めにかけて、日本で作られたビスケットがルソン(フィリピン)に輸出されていたという。以降、江戸時代に、パンやビスケットが日本人に食べられたという記録がないのは、当時のキリシタン禁制(バテレン追放令)も関係していたのであろう。
日本に入ってきたビスケット(堅パン)が、日本人の手によって作られたのは、1840(天保11)年に中国で起こったアヘン戦争がきっかけであった。東洋一の大国であった清国が敗戦して植民地化されていったことに、日本人はかなりの衝撃を受けるとともに、次に狙われるのは日本かもしれないという危機感を強く感じていた。
そのため、徳川幕府は、日本にも外国軍が攻めてくることを恐れ、兵糧としてパンを作らせたという。米飯では炊くときの煙が敵方にとって格好の標的になりかねないが、それに比べ、固いパンは、保存性と携帯性などの面で「糒」よりもよりすぐれていると考えたからだ。幸い、この非常食は活用されずにすんだが、このときパン作りの指揮をとったのが反射炉で有名な伊豆韮山の代官江川太郎左衛門(英龍)だとされ、パン業界では、彼を、日本のパン祖と呼んでいるようだ(※11)。
ここで、保存性と携帯性の面ですぐれている固いパンというのは、ビスケット(堅パン)のことだろうが・・・。初めて堅パンが焼かれたのが1842(天保13)年4月12日であることから、この日を記念して、パンの業界では毎月12日を「パンの日」としている。しかし、それがどのような資料的根拠によっているものかは明示されていないのでよく判らない。
江戸にいた江川が、どうして、パンのことを知ったのかは知らないが、長崎町年寄・高島茂起(四郎兵衛)の3男として生まれた高島 秋帆が、出島のオランダ人らを通じてオランダ語や洋式砲術を学び、このころ、幕府からは砲術の専門家として重用され、江川らに師匠として砲術を伝授していた。だから、彼は、当然、長崎で堅パンが焼かれていたことを、知っていただろうし、それが、非常食にて適したものとして目をつけていただろうから、彼が江川に乾パンの製作を奨励したのではないかと言うことは類推できるので、それを聞いて、江川がパンの製造を指揮した・・ということは考えられる。
日本で、はじめてビスケットに関する記述が文献上に登場するのは、幕末に長崎で開業していた水戸藩の蘭医柴田方庵の日記である。水戸藩は、ビスケットが“保存のきく食糧であることに注目。
1854(安政元)年、水戸藩から兵糧になる西洋の保存食として「パン・ビスコイト製造」を習得し報告するよう依頼を受けた彼は、オランダ人からビスケットの製法を学び、1855(安政2)年にその製法書を送ったことが方庵の日記に書かれており、これが日本でビスケットが作られたことが明確にわかる最も古い記録であり、その日記が2月28日であったことから社団法人全国ビスケット協会は、この日を「ビスケットの日」と定めている。
又、幕末の名君といわれた島津斉彬は、新日本建設の理想をいだき、幕政および藩政を改革し西洋文化の輸入に努め、日本の最先端を行った集成館事業により洋式の軍艦や大船を建造し、紡績、硝子、陶器、その他各種の近代的産業に着目し、その製造に当たったが、その一環として「蒸餅(むしもち)」をも製造していたという。「島津斉彬言行録」では、斉彬が、軍用のため、蒸餅数千個の製造を命じ、1〜2年は虫が付かない備蓄方法を研究するよう言及している。日本では、「パン」のことを古くは「蒸餅」ともいっていたようで、この「蒸餅」はその目的からいって乾パンに近いものであったろうといわている。なお、薩摩藩出身に大山巌元帥がいるが、この人は、パン祖と言われている江川太郎座衛門(英龍)の弟子である。
そして、明治元年6月、江戸の風月堂は薩摩藩の兵粮(ひょうろう・兵糧)方からの要請によって、東北征伐(戊辰の役)用の兵粮パン(兵粮麺包【めんぱお=中国語で「パン」】)を焼いたが、当時の記録によるとそれは黒胡麻入りのパンであったという。斉彬がつくらせた「蒸餅」の製造ノウハウが薩摩藩から風月堂に伝えられたのかもしれない。ただ、明治時代の風月堂のビスケット広告には「乾蒸餅(ビスケット)製造之要趣」と題しているように、この時、薩藩兵粮方より製造を命じられたとき作った黒胡麻入りの麺包はビスケットであるとしている。(※12、※13参照)。
その後、江戸幕府が大政奉還し、明治政府が樹立した時に、富国強兵政策により日本にも近代的な軍隊が創設され、外国の軍隊を模範とする様になった。
新生日本帝国軍は食事も西洋風を取り入れるようになるが、日清戦争(1894【明治27】年7月-1895年【明治28】年3月)を経て、海外にも進出した日本軍は、国内とは違って戦線が拡大し補給線が延びると、末端まで糧食をスムーズに配給するのが難しくなるという兵站上の問題が発生し、そこで、手軽に食べられる携行食の重要性を痛感した軍は、技師を欧州に派遣し、ドイツ式の横長ビスケットを参考にして、簡易携帯口糧として開発したものが「重焼麺麭 じゅうしょうめんぽう (意味は二度焼いたパン、すなわちビスケットのこと)」であり、日露戦争(1904【明治37】年2月- 1905【明治38】年9月)後、軍用食の改良が行なわれ、5%ほどのもち米を入れたり、おにぎりのような感覚で胡麻をまぶすようにった。
「重焼パン」の名称は“重傷”にも通じるとして忌み嫌い、その後「乾麺麭(かんめんぽう)」と改められた。昭和期には更なる改良が行われ味形共に現在の姿と変わらないものとなり、同じく名称呼称も「カンパン(乾パン)」となった。カンパンは、その性格上味付けがされていない。旧陸軍が研究開発した当時は、7年半の保存を目標としたため、糖、脂肪を除く必要があったからである1920(大正)年に、糖分を補う目的で金米糖をカンパンと一緒に入れるようになった。
現在でも、カンパンは自衛隊の非常用糧食に使われており、大型と小型の2種類がある。大型のものは海上自衛隊で採用されており、大きさはおおよそ縦8cm、横5.5cm、厚さ1.5cm、重さ23g。表面に15個の針穴がある。これを10枚1包として1食としている。チューブに入れられた水飴も配布される(カニヤ製、※14参照)。小型のものは、陸上自衛隊と航空自衛隊で採用されており、大きさはおおよそ縦3.2cm、横1.8cm、厚さ0.7cm、重さ3g。表面に2個の針穴がある。これを150g分、そして金平糖15gを同梱して1食としている(三立製菓製)そうだ。なお。「カンパン」のことについては、参考※15:「THE戦闘糧食」の “帝国陸軍伝統の非常食”の項に非常に詳しく記されている。
ポルトガル人によって、持ち込まれた菓子類は南蛮菓とよばれていたが、その中のビスケットは改良され、日本では戊辰戦争以降の軍事用の携帯食料「カンパン」として発展し活躍した。これを日本で、ビスケットとして本格的に販売を始めたのが風月堂・・・。※16:「お菓子@おやつ情報館!ICHIGO村」によると、1875(明治8)年、米津風月堂(当時の番頭の米津松蔵が、風月堂総本店より暖簾を分けしてもらい起した店)で機械を使い本格的なビスケットの製造を開始した・・・とある。
南蛮菓子は、明治時代になって鎖国令が解かれると、海外からビスケット、クッキー、キャンディー、チョコレート、スポンジケーキなどが輸入されるようになり、和菓子と区別するために洋菓子とよばれようになるが、日本の菓子は革命とも言える大転機を迎える事になった。
大航海時代からの経済発展により完成の域に達したフランス菓子などが伝えられる一方で、産業革命により機械化効率化した菓子製造法まで一気に伝来し、日本の「洋菓子」として幅広い発展を見る事となった。
日本での洋菓子の生産は1900年(明治34年)ごろ、ビスケットやドロップの生産から始まった。
大正期に入るとキャラメルやチューインガム、マシュマロなど種類も増え、メーカーが競って販売するようになり、工場の量産体制も整って安く買えるようになり、ハイカラなお菓子として庶民に好まれるようになっていった。
山のおくの谿(たに)あひに
きれいなお菓子の家がある
門の柱は飴ん棒
屋根の瓦はチョコレイト
左右の壁は麦落雁(むぎらくがん)
踏む鋪籍石がビスケット
あつく黄色い鎧戸も
おせば零(こぼ)れるカステイラ
静かに午(ひる)をしらせるは
金平糖の角時計
『西条八十童謡全集』(1924年新潮社刊)に掲載されたお菓子の家のくだりである(全文※17参照)。お菓子に寄せる子供たちの夢そのものを顕わしている。
この頃、つまり、第1次世界大戦が勃発した1914(大正3)年、創業(1899【明治32】年)から16年目に、今の森永製菓が、芝田町工場内にビスケットの焼き窯を新設し、東南アジア市場への輸出用ビスケットの試作にとりくみ、翌1915(大正4)年から、ビスケットの生産販売を開始し、ビスケット分野への進出を果たしたが、当初は輸出向けで、国内向けは1923(大正12)年から。国内向けのビスケットは一切販売しなかった理由は、当時国内では、外形のみにこだわった品質上問題のある粗悪品のビスケットが多く出回っていたからだとか・・・。それは品質へのこだわりで、本格的に国内でビスケットを製造販売するために1920(大正9)年、新工場『塚口工場』(塚口:兵庫県尼崎市塚口町)を建設し、欧米の製菓会社に匹敵する近代的生産設備を設け、最新鋭の機器を集め行った。その生産量は、当時東洋一だったそうだ(※18)。その後、多くの製菓会社が創立された。
現在日本の国内問題としては、以前から少子高齢化の影響が言われて来たが、2005(平成17)年前後から実態経済、各産業分野でその影響が顕在化ており、各企業の経営者たちも難しい舵取りに迫られている。従来からの生産の海外シフト戦略から、販売も海外市場を重視するようにその経営戦略を転換させてきた企業も数多く見られるが、菓子の国内市場も1992(平成4)年をピークに減少傾向にあるようだ。菓子業界は昔から小規模な生産者が多いが、チョコレート、スナック菓子、ビスケット、チューインガムなどの分野でも、大手の寡占状態と言って良いほど競争が激しい。その中で、ビスケットでは、ブルボン22.7%、森永製菓9.4%、不二家8.6%となっているようだ((2006年。※19参照)。
なお、2010(平成22)年時点での日本国内の菓子市場全体の推定生産数量および金額推移(全日本菓子協会)は、参考※20をみると判る。
(冒頭の画像、クッキーとビスケット及び、中間でのカンパンの画像はWikipediaのものを使用)
参考:
※1:社団法人・全国ビスケット協会
http://www.biscuit.or.jp/top.html
※2:ケンタッキーフライドチキン|商品情報|
http://www.kfc.co.jp/menu/detail/index.cgi?pid=OR_side_01
※3:ビスケット類の表示に関する公正競争規約 規 約 施 行 規 則(Adobe PDF)
http://www.jfftc.org/cgi-bin/data/bunsyo/A-15.pdf#search='ビスケット類'
※4:異文化に出会う時Part3:ピガフェッタの不思議な旅前篇 | 高畑由起夫
http://kg-sps.jp/blogs/takahata/2011/06/13/4514/
※5:《グロリア・スコット号》事件の食卓風景
http://homepage2.nifty.com/shworld/21_dining_table/19/glor.html
※6:不思議館
http://members.jcom.home.ne.jp/invader/
※7:豆知識:イトウ製菓
http://www.mr-ito.jp/trivia.html
※8:カステラ物語 - カステラ銀装のホームページ
http://www.ginso.co.jp/sweets/story/main.html
※9:関西大学電子図書館:伊勢物語
http://web.lib.kansai-u.ac.jp/library/etenji/isemonogatari/ise-top.html
※10:つれづれ化学草紙_乾飯の巻_伊勢物語
http://chem-sai.web.infoseek.co.jp/sosi_kareii.htm
※11:パンのはなし【パン食普及協議会】
http://www.panstory.jp/index.htm
※12:九州地方パン業界の暦譜
http://www.panstory.jp/books/100nennshi/data/kyusyu.pdf#search='島津斉彬言行録 蒸餅'
※13:風月堂のビスケット事始 - 鹿児島の情報は南日本新聞
http://373news.com/_bunka/jikokushi/131.php
※14:カニヤhome
http://www.yin.or.jp/user/kaniya/
※15:THE戦闘糧食
http://10.studio-web.net/~phototec/
※16:お菓子@おやつ情報館!ICHIGO村
http://www.osmkj.com/
※17:赤い鳥の童謡: お菓子の家
http://redbird-tatsu.blogspot.com/2007/08/blog-post_2730.html
※18:ビスケット|森永製菓
http://www.morinaga.co.jp/biscuit/
※19:成熟する国内市場と日本の 洋菓子メーカーの経営戦略(Adobe PDF)
http://dspace.wul.waseda.ac.jp/dspace/bitstream/2065/32179/1/WasedaSyogaku_417_00_002_Miyashita.pdf#search='ビスケット メーカー別 販売シェアー'
※20:日本の菓子推定生産数量および金額推移
http://phototec.hp.infoseek.co.jp/kanpan2.htm
伊勢物語 現代語訳 群論編付
http://teppou13.fc2web.com/hana/narihira/ise_story.html
日本記念日協会
http://www.kinenbi.gr.jp/index2.html
ビスケット - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%93%E3%82%B9%E3%82%B1%E3%83%83%E3%83%88