今日10月1日は「デザインの日」である。
1959(昭和34)年のこの日、通商産業省(現在の経済産業省)に、デザイン奨励審議会(※1参照)が設置され、デザイン振興政策が行われるようになったことを記念して、同省等により1990(平成2)年に制定されたもの。
つまり、今日は「デザインに対する理解を深める日」と云うことになるのだろう。
最近、デザイナー(英:designer)の佐野研二郎氏が制作した2020年東京五輪・パラリンピックのエンブレム(英::emblem)について、ベルギーのリエージュ劇場のロゴ(ロゴタイプ。英; logotype)が酷似していると指摘され、デザイン(英:design)を手がけた佐野氏の盗作疑惑が問題となった。当の佐野氏は盗作について事実無根としているが、別の案件でも次々と疑惑が発覚。ついに、大会組織委員会は、使用を中止することを決めた(2015年9月1日。※2参照)。
デザインの盗作問題以前に、先ず、「デザインとは何か」、「デザインの創造性とは何か?」といったことがこのようなことの専門ではない私にはよくわからないのだが、これを機に、少し、デザインのことについて調べ。勉強して、そのことを書いてみる気になった。
「デザインは、ある対象について、良い構成を工夫すること。」(wikipedia)とあるように、デザインは日本語ではある特定のものに対する「設計」にもあたり、「形態」や「意匠」(※3の制度 > 知的財産権制度の概要>意匠とは参照)と訳されてきたが、それだけに限らず、人間の行為(その多くは目的を持つ)をより良いかたちで適えるための「計画」も意味していて、その多くは目的を果たすために使われている。
「意匠(英語:デザイン[design])」の語源はデッサン(dessin)と同じく、“計画を記号に表す”という意味のラテン語designareであることから、デザインとは、ある問題を解決するために思考・概念の組み立てを行い、それを様々な媒体に応じて表現することと解さている。つまり、創意工夫という意味合いが強いようだ。
従って、デザインは芸術の分野だけにとどまらず、建築や服飾、あらゆる製品など多岐にわたって使われていることから普段の生活にとても身近な存在であり、また、それらを取り扱う産業界にとっても非常に重要なものである。
特にマスメディアの発達した現代において、デザインの重要性は年々大きくなり、そのデザインの良否があらゆる産業の営業活動に大きな影響を及ぼすようになった。
オリンピックのエンブレムに使われたロゴもオリンピック協賛企業にとっては、多額の協賛金の見返りとして、自社製品販売等の営業面に大きな影響を与えるものであろう。言い換えれば、そのロゴを利用したいがために協賛しているといえる企業も多いことだろうから、今回のような問題は本当に困った問題であろう(※4、※5参照)。
かって工芸と呼ばれたものは、実用品に芸術的な意匠を施し、機能性と美術的な美しさを融合させた工作物のこと。多くは、緻密な手作業によって製作される手工業品である。あくまでも実用性を重視しており、鑑賞目的の芸術作品とは異なる。ただし両者の境界は曖昧であり、人によっても解釈は異なる。
そのような、工芸と呼ばれた職人の技術をデザインという新しい基準に応用し、産業の発展へ、さらには世界レベルの水準向上へと推し進めてきたのは、先人のたゆまない努力があってのことだろう。
現在では、「工芸」は美術工芸を指す用語となっているが、これはごく近年になってからのこと。現在の国立研究開発法人産業技術総合研究所(略称:産総研)の前身となった機関のひとつでもある「工芸指導所」の名称からも、当時の認識が読み取れるという(※1のデザイン振興活動のあゆみ参照)。
嘉永6 年(1853年)、ペリーが浦賀に来航し,日本の長い鎖国時代は幕をとじた。この時,欧米先進国ではすでに産業革命が終了し,工場制工業も軌道にのり,資本主義社会の基盤となる諸法制もほぼ整備された段階であった。反面,我が国では,家内工業を中心とした封建的産業経済様式をとっており,商業制度を支えるべき商工業者の特権的集団である株仲間も,江戸時代末期からの商品流通構造の変化,多様化により経済発展の阻害要因となるなど商業ルールまでもが混乱状況を呈しつつあった。
このような状況において,我が国が欧米先進国に伍してゆくためには,欧米諸国のように一定の発展過程を経て近代化を成しとげてゆくのを待つ訳にはゆかず、短期間に欧米の諸法制及び技術の移植を行うことによって近代化を図らなくてはならなかった。
西欧諸国からの技術・機械の導入にあたって、その資金を得るため外貨を獲得すること、すなわち輸出品の増大は明治政府にとって最重要課題のひとつであった。当時の我が国の輸出品は,産業の発達段階からみても、生糸、茶、銅等の原材料が主要品であったが、加工品として陶磁器などの工芸品が挙げられる。
輸出品としての工芸品は我が国政府として1873(明治6)年初めて出品したオーストリアのウィーンで開かれた万国博覧会での,日本独特の風趣を備えた美術工芸品について大好評を得て、東洋の小島にすぎなかった我が国の名を、欧米に知らしめる効果があった(6年前のパリ博覧会には,徳川幕府をはじめ2,3 の藩が出品したが,国を代表していた訳ではなかった)。
この後、海外博覧会への出品は、ウィーンを皮切りに明治26 年まで20 数回にわたっておこなったが、逆に、ウイーンの機械館を見て、産業の近代化を一足早く成し逐げていた欧米の優秀な技術を見るに及んで、日本の拙劣さが目立ち、多くの課題を抱え込むこととなったのである。
このように、日本の近代化の中で150年ほど前から始まったザイン振興活動は、当時の主な輸出商品である工芸品の形状や色彩を改良する活動からスタートしていった。
日本では、1888(明治21)年の意匠条例が意匠の登録制度の始まりであり、その後、約10 年毎に3 回の法改正がなされ,大正10 年法へと引継がれているが、その後同法の時代が第二次世界大戦をはさんで約39 年間続き、その後昭和34 年法が29 年間施行されてきた。
最初の意匠法は「工業上ノ物品ニ應用スヘキ考案即チ各種ノ形狀模様等ニシテ工業ト相須テ離ルヘカラサルモノ」(農商務省案に付された理由書)であると認識され、その内容について意匠とは「専ラ工業上ノ物品ニ應用スヘキ風韻上ノ考案」(農商務省案に付された逐条説明)と説明されていた(※3の制度>知的財産権制度の概要>意匠制度120年の歩み参照)
このようにこれらは外観デザインの改良にすぎないが、大正10 年法施行後約10 年を経た、意匠制度史上の中間地点にあたる1928(昭和3)年に法改正作業が行われており、法改正は未完に終ったが、そこでは、デザイン活動の革命的変化、つまり、当時の情報化社会が生み出したソフト産業、サービス産業の発展とそれに伴い、そこに生じる知的資産・独創性についての保護を求めて、「知的所有権」の新たな位置づけと役割を要請されていた。
そして、1928(昭和3)年には、小規模ながらも商工省(1949年通商産業省に改組後、現:経済産業省に改組)が国策事業として仙台市にある仙台陸軍幼年学校の跡地に国井喜太郎(*4の国井喜太郎産業工芸賞参照)を所長とする「工芸指導所」(後に工業技術院産業工芸試験所→統合再編により現:産総研)を設立したのが、日本の産業工芸とデザインの研究・振興施策の歴史の始まりといえる(※6参照)。
これは当時の世界的な不況(世界恐慌)の中、各国の、輸入制限や保護関税政策を引き起こさせ、我が国の輸出にも大きな影響を与えたことから、この難局に直面した日本政府は国産品愛用と海外販路開拓の政策を執るがその効果は思わしくなく、昭和2年、産業合理化運動を展開している中、帝国工芸会会長で男爵でもある阪谷芳郎が各国の輸入抑制の中輸出を活発化する為に、商工大臣中橋徳五郎にあて、「工芸振興ニ関スル建議」を行い、この後、工芸的手工業に最新の科学技術の応用を図り、内外デザイン思想の紹介普及と人材育成の中心機関として、設置されたものであった。(※3:「経済産業省 “特許庁」の”意匠制度120年の歩み“参照)。
当時、工芸指導所では、世界の最新動向を把握しながら実験的な試作を行い、勃興しつつあったモダンデザインを取り入れて改良を図ろうとしていた。そのために、世界的なブルーノ・タウトやシャルロット・ペリアンなどの著名なデザイナーが招聘された(※7参照)。
1940(昭和15)年12月、工芸指導所は東京に移転したが、この頃から戦火が激しくなり、本来の目的は、十分に遂行はできなかったようだが、終戦をむかえると、経済復興を支える重要な政策として、再びデザイン振興がスポットを浴びるようになった。
第二次世界大戦の敗戦によって産業・経済に大きな打撃を受けた我が国は、早急に経済を回復することによって国民生活を安定させ、産業の基礎を固める必要があった。そのためには国内の資源を開発して各種の産業を活発化するとともに貿易の振興によって海外市場を獲得するなど、民間資本の蓄積,増大を図らなければならなかった。
戦後、我が国の生産技術及び産業意匠への啓発の契機となったのは、欧米文化の直接的な流入であった。1946(昭和 21) 年には進駐軍から住宅及び家具什器類など大量発注が行われ、設計と試作には工芸指導所が当たり、その生産には全国の有力工場が加わるという、我が国工業界にとって画期的な事業となり、量産方式の各種技術が修得された。
一方、1950 年代は「I.D栄光の時代」といわれ,戦後のデザインを代表する作品が欧米に次々に登場し、我が国にも紹介された。戦後の我が国の産業界はこのような国際的なデザインをかつてないほど急激に吸収しながら進行した(※3の財産権制度の概要>意匠制度120年の歩み>第8章 昭和34年意匠法の改正参照)。
だが、戦後の産業復興とともにデザイン活動が活発に展開するなかで、欧米デザインの模倣・盗用問題が発生した。1950年代まで、ほとんどの日本企業(とくに製造業)には、専門のデザイン部門はなく、当時、産業工芸試験所は、東芝やソニーからもデザインの委託を受けていたという。
日本経済にとって貿易輸出の伸長は極めて重要な課題であり、戦後の通商政策は貿易の障害となるこの種の問題に早急に対処する必要があった。
このような反省に基づき、1946(昭和 21 )年に早くも産業意匠権の確立運動がみられた。
この年、政府は、生活必需品の優良化と適正商品の量産化を図るため、当時の商工省の外局であった特許標準局(現:特許庁)内に商品標準化委員会を設け、商品の標準化による原料資材の有効利用及び生活能率の向上を期すると同時に,国民生活の文化的合理的再建を目指し、工芸学会もまたこの問題に関し世論の喚起に努め、図案家及び図案の保護を提唱した。そして1947(昭和 22) 年 4 月には,勅令第 5 号発明奨励委員会官制に基づいて設置された発明奨励委員会第 6 部会に対して,商工大臣から「輸出貿易の促進を図るための優秀意匠の奨励及活用方策如何」という諮問がなされ、その答申において意匠の創作権保護に関し、現行意匠法の改正及び民間団体による意匠権保護に関する運動と実践を提案。この提案における意匠法改正には意匠法の保護対象につき,その内容を「近代的産業意匠」とすることを要望しているが、急には実効を上げるに至らなかったようだ。
1952(昭和27)年4 月に、工芸指導所は産業工芸試験所(英:Industrial Art Institute。略称:IAI)と改称し、インダストリアル・デザイン(英:industrial design)の指導・研究が主要な業務となった。
産業工芸試験所では、G. ネルソン、E. ソットサスといった著名なデザイナーを海外より招聘し、企業のデザイン部門をはじめとするデザイン関係者を実地に指導する場を積極的に設けた。
昭和30 年代に入ると高度経済成長が始まり,産業が発展し、その構造も変わり、製品デザインの対象産業領域も広がったが、日本では、1955(昭和30 )年頃、まだまだ国内メーカーが欧米のプロダクトデザイン(英: product design。製品のデザインのこと)を模倣し、海外から非難されていた。
デザイン制作の主たる目的は輸出政策としてデザインの盗用及び模倣を防止することにあったことから、1957(昭和32)年には、優れたプロダクトデザインを選定するGマーク選定制度を開始(Gマークの「G」はgood designの略。公益財団法人日本デザイン振興会〔※1〕が主催するグッドデザイン賞を受賞した商品・サービス・活動などに表示されるマーク)。また、「輸出検査法」(昭和 32年法律 97号. ※8参照)を制定し、輸出検査制度の強化をした。これは、輸出品の声価の維持および向上をはかり,輸出貿易の健全な発達に寄与することを目的としている(第1条)
上掲の画像はGマーク
経済産業省(当時、通商産業省)は1958(昭和33))年にデザイン課を設置して以来、時代の変遷に沿って組織や業務を変革しながらデザイン政策を続けてきた。
1959(昭和34)年には、「輸出品デザイン法」(昭和34年法律第129号。※9参照)を制定して、盗用模倣防止の法的体制の整備をし、デザイン奨励審議会 を設置し、本格的なデザイン政策を開始している。
さらにJETRO(ジェトロ。日本貿易振興機構の略)等と共同して国際見本市等での対外宣伝に努め、世界市場に向けて個性が発揮できるよう指導するとともに、製品管理や包装の合理化、色彩研究などといった関連分野まで、その業務範囲を広げて指導に努めた。
ここから、秋岡芳夫や剣持勇、豊口克平ら日本を代表するデザイナーが輩出していった(※7参照)。
またこの時期に、日本インダストリアルデザイン協会(※10)や日本デザインコミッティーなどのデザイナー団体も設立され、デザイナーの活動も活発化していった。
1960年代に入ると、デザイン活動の中心は企業へと移っていった。大きな役割を終えた産業工芸試験所は、1969(昭和44)年に製品科学研究所(産総研の前身である工業技術院に属した研究所のひとつ)として組織再編を受け新たな役割を果たしていった。
デザインと言う、このような専門分野のことを、私のような専門知識を持たないものが書くことは難しい。ネットで調べたことなどを基に書いたが、色々と謝ったことを書いているかもさ入れない。デザイン制度のその後の歩みなど、その概略は、参考※3:「経済産業省 特許庁>制度・手続 > 意匠」のところで、詳しく書かれているが、その概略なら、同HPの“第3部 意匠制度120 年史年表”を見られるとよい。
今問題となっていることは、特に「デザイン」創造性についてだろう。
日本語の「学(まな)ぶ」は「学(まね)ぶ」に同義で、「真似(まね)る」に同義だとも言われている(ここ参照)。
人は、それぞれ特技や長所を持っており、自分にはない他人のそんな良い点、スキルを手本として、先ずはその人に劣らないように学(まね)ぶことから始めるのが、学びの基本・・・とされている。
最近はよく個性の時代と言われる。テレビなど、吉本のタレントや女性の恰好?をしただけの人などが多く出ている。以前。朝日新聞の「天声人語」にこんなことが書いてあったのを覚えている。
「芸能人能がついて芸がなし」
昔は芸を磨き優れた芸を売るのが芸能人だった。しかし、何時のころか余り芸のない人たちが芸能人と呼ばれだした。今のテレビはコマーシャルの合間に、あまり売れていない金のかからないタレントと呼ばれる人、私流の定義でいえば、タレントとは「芸のない芸人、昔はスポーツ選手や歌手その他の職業で少しは名の売れてはいたが、今はそれでは食えなくなった人達のこと」と解釈している。
たとえ芸にしても、先ず基本をしっかり身に着けてそれから自分の特色を芸に生かすべきだろうが、それでは年数がかかりすぎ、今はJ時間をかけてそのような基本を身につけていない若い未熟な人や昔売った名前や顔を利用しているだけの人ばかりがテレビには出演している。まず、今の、テレビそのものが、芸を見せる場所ではなくなってしまったからそれでよいのかもしれないが・・・。、
しかし、まともなビジネスの世界ではそのようなものは通用しない。
私なども職業柄、商社、メーカー、チェーンストアーなどのサービス業などいろいろな流通業界の仕事を経験し、そして、非常に多くの会社を見てきたが、例えば、日本では後発のスーパー業界などでも、その先進国であるアメリカなど本場のスーパーの多様な業態を視察し、それをまずは徹底的に学(まね)び、それをやってみて、その中から、アメリカではなく、日本の風土に合う独自の業態開発に力を入れてきたところだけが今生き残っている。ただ、単に、真似ごとをしているだけのところは、倒産あるいは吸収されている。
日本は日本の独特の風土がある、それをわからないままに攻めてきた、アメリカやフランスなど流通業の先進国もほとんどが失敗をしている。それに引き換え、スーパーではないが、コンビニエンスストアーのセブンイレブンなど、本家アメリカのセブン-イレブンを飲み込んでいる。また、日本でチェーンストアーが始まった時には、四日市の片田舎の呉服屋上がりのスーパーであった岡田屋は、新業態を開発し、今では当時日本一であったダイエーをも飲み込み、イオンとして世界市場を制覇しようとしている。
これら成功している企業は単に、真似事をしただけではなく、徹底的に学(まね)び、それを消化したうえで、じっくりと時間をかけて独自のノウハウを付加して完全に自分のものとしたからこそ強いのである。私達消費者などが、店舗など表面的なものを見ても、わからない、管理・運営上のノウハウを創造しているのである。
さて、デザインの世界はどうなのだろう。
デザインを勉強している人も最初から思いついたデザインを次々と書ける人はいないだろう。多くの人は、優秀な先人デザイナーの書いたものを見て、学んできたことだろう。
どんな分野であれ、それまでに先人が残してきたものを学び、知識なり秘術を習得せずして一流の専門家になるのは不可能だろう。数字や英字などを使ったロゴに関しても、今までどんなものが創られきているか。そして、それが何を表現しようとして、そのような、「形態」「意匠」ができあがったのか等々。
デザインの語源がデッサン(dessin)と同じく、“計画を記号に表す”という意味のラテン語designareであるとすれば、言い換えれば、「デザインは、思考というプロセスを経た結果としての表現」であると言えるのだろう。
新しいデザインを想像するには、いろいろ過去にあるものを見た上で、それらで使われていたロゴとよく似たものを一部使ったとしても、全体としてそこにその人の思考や計画を表すための明確な根拠があれば良いのではないかと考えられる。ただし、意匠登録されているものは使えないが・・・。
しかし、佐野市氏は、盗作とされているもののデザインを「見たこともない」し、「私はアートディレクター・デザイナーとして、ものをパクるということをしたことは一切ありません」と、盗作疑惑を記者会見で一蹴していた。
私はこの時の会見を不思議に思った。私は、若い時、東京で5年間ほど住んでいた(昭和30年代末〜昭和40年代初め)。、当時、東京タワーへは、東京テレビ(1960年に東京放送[TBS)に改称)で 『アイデア買います』 という番組の公開放送を見るために何度も行った事がある。素人発明家のアイデアを審査して、良いものがあれば、業者がそのアイデアを買うといった番組で、当時人気番組であった。それに刺戟されて、新宿近辺にあった発明協会へ加入し、会社の私と同じ面白い事大好き人間同士で、つまらぬものをいろいろ考え出し、それでも、3つぐらい実用新案の申請をしたが、中途半端で特許もとれなかった。それでも、そのお遊びのお蔭で、特許の仕方や、当時品川にあった特許庁へ提出済みの特許などを調べに行って、特許に係るいろいろな知識を身につけたのは、無駄にはならなかった.。しかし、その時、まだ製品化はされていないが今後使用するかもわからない製品の名称やデザインなどすごい数の意匠登録数がされているのに驚かされた。
それなのに、佐野氏のようなプロが似ているとされているものについて見たこともない。パクリはしていない・・などの発言を聞いて、実際にどうだったのかは知らないが、この男は信用できないな・・・と思った。
其の後、佐野氏のエンブレムの原案については、組織委員会が国際商標登録(※12)を行うためにIOC(国際オリンピック委員会)と共同で行った国内外の商標調査の中で、複数の似たデザインが見つかったことなどから、2回にわたって佐野氏自身によって修正が加えられて、最終的なデザインが決まったという(※13参照)。つまり、2度も修正したものがまた問題となっていたのである。
アメリカの建築家フランク・ロイド・ライトの以下の名言があるという(※14参照)。
「全体は部分の為にあり、部分は全体の為にある。そしてそれら全てが全体に奉仕する。」
では、佐野氏の原案は、2度修正されているが、その部分も全体も一体どのような理由づけで何を表現するために修正されたのかか。「パクリ」ではないというなら、デザイナーとして、きっちりとその理由づけを説明すべきではないのだろうか。その真実は知らないが、それをしない限り、不信感はぬぐえないだろう。しかも、修正が2回もあったことやどのようなデザインになったのかなど完成まで、組織委員会が、審査委員に伝えていなかった…などと聞くと、組織委員会と佐野氏間に何があったのか・・そんなことまで疑問が感じられる。
このデザイン疑惑だけでなく、2020年東京オリンピックのメイン会場となる新国立競技場(東京都新宿区)建設問題(※15参照)や、東芝の不正会計処理(粉飾決算)問題(※16参照)等、外国から見れば、日本の国はちょっと何かがおかしいと思い始めているのではないだろうか。国にしても大企業にしても内部統制が全く機能していないな~。
参考:
※1:日本デザイン振興会
http://www.jidp.or.jp/
※2:東京五輪のエンブレムを組織委員会が使用中止とする方針 - GIGAZINE
http://gigazine.net/news/20150901-tokyo-2020-emblem/
※3:経済産業省 特許庁>制度・手続 > 意匠
https://www.jpo.go.jp/seido/isho/index.html
※4:[6]2020年大会のスポンサーが決定! : TVステーション
http://tvstation.jp/sport/olympic-verification/6758/2/
※5:東京五輪スポンサー一覧 佐野研二郎エンブレムを使っている企業への不買運動も・・・
http://mera.red/%E4%BA%94%E8%BC%AA%E3%82%B9%E3%83%9D%E3%83%B3%E3%82%B5%E3%83%BC%E4%B8%80%E8%A6%A7
※6:財団法人 工芸財団
http://www.k5.dion.ne.jp/~kougei/index.htm
※7:「工芸」から 「デザイン」へ - AIST: 産業技術総合研究所(Adobe PDF)
http://www.aist.go.jp/Portals/0/resource_images/aist_j/aistinfo/aist_today/vol05_06/vol05_06_p40_41.pdf#search='%E7%94%A3%E6%A5%AD%E5%B7%A5%E8%8A%B8%E8%A9%A6%E9%A8%93%E6%89%80++G.+%E3%83%8D%E3%83%AB%E3%82%BD%E3%83%B3'
※8:輸出検査法(廃)
http://www.houko.com/00/01/S32/097.HTM
※9:輸出品デザイン法 新旧対照表 1
<ahref= http://nomenclator.la.coocan.jp/ip/suprev/rev/exportd/r001.htm > http://nomenclator.la.coocan.jp/ip/suprev/rev/exportd/r001.htm
※10:日本インダストリアルデザイン協会
http://www.jida.or.jp/
※11:日本デザインコミッティー
http://designcommittee.jp/
※12:国際商標登録とは - 商標権取得応援サイト
http://www.trademark-jp.net/intlreg.html
※13:エンブレム問題 修正内容を完成まで伝えず NHKニュース - NHKオンライン
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20150903/k10010215341000.html
※14:デザイン 名言集・ 格言 ~最大級~ - 心に残る名言集・格言
https://mobile.twitter.com/design_bot
※15:総工費は1550億円…新国立・新計画決まる :-まとめ
http://www.yomiuri.co.jp/matome/20150605-OYT8T50063.html
※16 :東芝の粉飾決算は何故刑事事件にしないのか 東芝に限らず粉飾決算は上場企業で...
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q14149768779
デザイン ー Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%82%B6%E3%82%A4%E3%83%B3
1959(昭和34)年のこの日、通商産業省(現在の経済産業省)に、デザイン奨励審議会(※1参照)が設置され、デザイン振興政策が行われるようになったことを記念して、同省等により1990(平成2)年に制定されたもの。
つまり、今日は「デザインに対する理解を深める日」と云うことになるのだろう。
最近、デザイナー(英:designer)の佐野研二郎氏が制作した2020年東京五輪・パラリンピックのエンブレム(英::emblem)について、ベルギーのリエージュ劇場のロゴ(ロゴタイプ。英; logotype)が酷似していると指摘され、デザイン(英:design)を手がけた佐野氏の盗作疑惑が問題となった。当の佐野氏は盗作について事実無根としているが、別の案件でも次々と疑惑が発覚。ついに、大会組織委員会は、使用を中止することを決めた(2015年9月1日。※2参照)。
デザインの盗作問題以前に、先ず、「デザインとは何か」、「デザインの創造性とは何か?」といったことがこのようなことの専門ではない私にはよくわからないのだが、これを機に、少し、デザインのことについて調べ。勉強して、そのことを書いてみる気になった。
「デザインは、ある対象について、良い構成を工夫すること。」(wikipedia)とあるように、デザインは日本語ではある特定のものに対する「設計」にもあたり、「形態」や「意匠」(※3の制度 > 知的財産権制度の概要>意匠とは参照)と訳されてきたが、それだけに限らず、人間の行為(その多くは目的を持つ)をより良いかたちで適えるための「計画」も意味していて、その多くは目的を果たすために使われている。
「意匠(英語:デザイン[design])」の語源はデッサン(dessin)と同じく、“計画を記号に表す”という意味のラテン語designareであることから、デザインとは、ある問題を解決するために思考・概念の組み立てを行い、それを様々な媒体に応じて表現することと解さている。つまり、創意工夫という意味合いが強いようだ。
従って、デザインは芸術の分野だけにとどまらず、建築や服飾、あらゆる製品など多岐にわたって使われていることから普段の生活にとても身近な存在であり、また、それらを取り扱う産業界にとっても非常に重要なものである。
特にマスメディアの発達した現代において、デザインの重要性は年々大きくなり、そのデザインの良否があらゆる産業の営業活動に大きな影響を及ぼすようになった。
オリンピックのエンブレムに使われたロゴもオリンピック協賛企業にとっては、多額の協賛金の見返りとして、自社製品販売等の営業面に大きな影響を与えるものであろう。言い換えれば、そのロゴを利用したいがために協賛しているといえる企業も多いことだろうから、今回のような問題は本当に困った問題であろう(※4、※5参照)。
かって工芸と呼ばれたものは、実用品に芸術的な意匠を施し、機能性と美術的な美しさを融合させた工作物のこと。多くは、緻密な手作業によって製作される手工業品である。あくまでも実用性を重視しており、鑑賞目的の芸術作品とは異なる。ただし両者の境界は曖昧であり、人によっても解釈は異なる。
そのような、工芸と呼ばれた職人の技術をデザインという新しい基準に応用し、産業の発展へ、さらには世界レベルの水準向上へと推し進めてきたのは、先人のたゆまない努力があってのことだろう。
現在では、「工芸」は美術工芸を指す用語となっているが、これはごく近年になってからのこと。現在の国立研究開発法人産業技術総合研究所(略称:産総研)の前身となった機関のひとつでもある「工芸指導所」の名称からも、当時の認識が読み取れるという(※1のデザイン振興活動のあゆみ参照)。
嘉永6 年(1853年)、ペリーが浦賀に来航し,日本の長い鎖国時代は幕をとじた。この時,欧米先進国ではすでに産業革命が終了し,工場制工業も軌道にのり,資本主義社会の基盤となる諸法制もほぼ整備された段階であった。反面,我が国では,家内工業を中心とした封建的産業経済様式をとっており,商業制度を支えるべき商工業者の特権的集団である株仲間も,江戸時代末期からの商品流通構造の変化,多様化により経済発展の阻害要因となるなど商業ルールまでもが混乱状況を呈しつつあった。
このような状況において,我が国が欧米先進国に伍してゆくためには,欧米諸国のように一定の発展過程を経て近代化を成しとげてゆくのを待つ訳にはゆかず、短期間に欧米の諸法制及び技術の移植を行うことによって近代化を図らなくてはならなかった。
西欧諸国からの技術・機械の導入にあたって、その資金を得るため外貨を獲得すること、すなわち輸出品の増大は明治政府にとって最重要課題のひとつであった。当時の我が国の輸出品は,産業の発達段階からみても、生糸、茶、銅等の原材料が主要品であったが、加工品として陶磁器などの工芸品が挙げられる。
輸出品としての工芸品は我が国政府として1873(明治6)年初めて出品したオーストリアのウィーンで開かれた万国博覧会での,日本独特の風趣を備えた美術工芸品について大好評を得て、東洋の小島にすぎなかった我が国の名を、欧米に知らしめる効果があった(6年前のパリ博覧会には,徳川幕府をはじめ2,3 の藩が出品したが,国を代表していた訳ではなかった)。
この後、海外博覧会への出品は、ウィーンを皮切りに明治26 年まで20 数回にわたっておこなったが、逆に、ウイーンの機械館を見て、産業の近代化を一足早く成し逐げていた欧米の優秀な技術を見るに及んで、日本の拙劣さが目立ち、多くの課題を抱え込むこととなったのである。
このように、日本の近代化の中で150年ほど前から始まったザイン振興活動は、当時の主な輸出商品である工芸品の形状や色彩を改良する活動からスタートしていった。
日本では、1888(明治21)年の意匠条例が意匠の登録制度の始まりであり、その後、約10 年毎に3 回の法改正がなされ,大正10 年法へと引継がれているが、その後同法の時代が第二次世界大戦をはさんで約39 年間続き、その後昭和34 年法が29 年間施行されてきた。
最初の意匠法は「工業上ノ物品ニ應用スヘキ考案即チ各種ノ形狀模様等ニシテ工業ト相須テ離ルヘカラサルモノ」(農商務省案に付された理由書)であると認識され、その内容について意匠とは「専ラ工業上ノ物品ニ應用スヘキ風韻上ノ考案」(農商務省案に付された逐条説明)と説明されていた(※3の制度>知的財産権制度の概要>意匠制度120年の歩み参照)
このようにこれらは外観デザインの改良にすぎないが、大正10 年法施行後約10 年を経た、意匠制度史上の中間地点にあたる1928(昭和3)年に法改正作業が行われており、法改正は未完に終ったが、そこでは、デザイン活動の革命的変化、つまり、当時の情報化社会が生み出したソフト産業、サービス産業の発展とそれに伴い、そこに生じる知的資産・独創性についての保護を求めて、「知的所有権」の新たな位置づけと役割を要請されていた。
そして、1928(昭和3)年には、小規模ながらも商工省(1949年通商産業省に改組後、現:経済産業省に改組)が国策事業として仙台市にある仙台陸軍幼年学校の跡地に国井喜太郎(*4の国井喜太郎産業工芸賞参照)を所長とする「工芸指導所」(後に工業技術院産業工芸試験所→統合再編により現:産総研)を設立したのが、日本の産業工芸とデザインの研究・振興施策の歴史の始まりといえる(※6参照)。
これは当時の世界的な不況(世界恐慌)の中、各国の、輸入制限や保護関税政策を引き起こさせ、我が国の輸出にも大きな影響を与えたことから、この難局に直面した日本政府は国産品愛用と海外販路開拓の政策を執るがその効果は思わしくなく、昭和2年、産業合理化運動を展開している中、帝国工芸会会長で男爵でもある阪谷芳郎が各国の輸入抑制の中輸出を活発化する為に、商工大臣中橋徳五郎にあて、「工芸振興ニ関スル建議」を行い、この後、工芸的手工業に最新の科学技術の応用を図り、内外デザイン思想の紹介普及と人材育成の中心機関として、設置されたものであった。(※3:「経済産業省 “特許庁」の”意匠制度120年の歩み“参照)。
当時、工芸指導所では、世界の最新動向を把握しながら実験的な試作を行い、勃興しつつあったモダンデザインを取り入れて改良を図ろうとしていた。そのために、世界的なブルーノ・タウトやシャルロット・ペリアンなどの著名なデザイナーが招聘された(※7参照)。
1940(昭和15)年12月、工芸指導所は東京に移転したが、この頃から戦火が激しくなり、本来の目的は、十分に遂行はできなかったようだが、終戦をむかえると、経済復興を支える重要な政策として、再びデザイン振興がスポットを浴びるようになった。
第二次世界大戦の敗戦によって産業・経済に大きな打撃を受けた我が国は、早急に経済を回復することによって国民生活を安定させ、産業の基礎を固める必要があった。そのためには国内の資源を開発して各種の産業を活発化するとともに貿易の振興によって海外市場を獲得するなど、民間資本の蓄積,増大を図らなければならなかった。
戦後、我が国の生産技術及び産業意匠への啓発の契機となったのは、欧米文化の直接的な流入であった。1946(昭和 21) 年には進駐軍から住宅及び家具什器類など大量発注が行われ、設計と試作には工芸指導所が当たり、その生産には全国の有力工場が加わるという、我が国工業界にとって画期的な事業となり、量産方式の各種技術が修得された。
一方、1950 年代は「I.D栄光の時代」といわれ,戦後のデザインを代表する作品が欧米に次々に登場し、我が国にも紹介された。戦後の我が国の産業界はこのような国際的なデザインをかつてないほど急激に吸収しながら進行した(※3の財産権制度の概要>意匠制度120年の歩み>第8章 昭和34年意匠法の改正参照)。
だが、戦後の産業復興とともにデザイン活動が活発に展開するなかで、欧米デザインの模倣・盗用問題が発生した。1950年代まで、ほとんどの日本企業(とくに製造業)には、専門のデザイン部門はなく、当時、産業工芸試験所は、東芝やソニーからもデザインの委託を受けていたという。
日本経済にとって貿易輸出の伸長は極めて重要な課題であり、戦後の通商政策は貿易の障害となるこの種の問題に早急に対処する必要があった。
このような反省に基づき、1946(昭和 21 )年に早くも産業意匠権の確立運動がみられた。
この年、政府は、生活必需品の優良化と適正商品の量産化を図るため、当時の商工省の外局であった特許標準局(現:特許庁)内に商品標準化委員会を設け、商品の標準化による原料資材の有効利用及び生活能率の向上を期すると同時に,国民生活の文化的合理的再建を目指し、工芸学会もまたこの問題に関し世論の喚起に努め、図案家及び図案の保護を提唱した。そして1947(昭和 22) 年 4 月には,勅令第 5 号発明奨励委員会官制に基づいて設置された発明奨励委員会第 6 部会に対して,商工大臣から「輸出貿易の促進を図るための優秀意匠の奨励及活用方策如何」という諮問がなされ、その答申において意匠の創作権保護に関し、現行意匠法の改正及び民間団体による意匠権保護に関する運動と実践を提案。この提案における意匠法改正には意匠法の保護対象につき,その内容を「近代的産業意匠」とすることを要望しているが、急には実効を上げるに至らなかったようだ。
1952(昭和27)年4 月に、工芸指導所は産業工芸試験所(英:Industrial Art Institute。略称:IAI)と改称し、インダストリアル・デザイン(英:industrial design)の指導・研究が主要な業務となった。
産業工芸試験所では、G. ネルソン、E. ソットサスといった著名なデザイナーを海外より招聘し、企業のデザイン部門をはじめとするデザイン関係者を実地に指導する場を積極的に設けた。
昭和30 年代に入ると高度経済成長が始まり,産業が発展し、その構造も変わり、製品デザインの対象産業領域も広がったが、日本では、1955(昭和30 )年頃、まだまだ国内メーカーが欧米のプロダクトデザイン(英: product design。製品のデザインのこと)を模倣し、海外から非難されていた。
デザイン制作の主たる目的は輸出政策としてデザインの盗用及び模倣を防止することにあったことから、1957(昭和32)年には、優れたプロダクトデザインを選定するGマーク選定制度を開始(Gマークの「G」はgood designの略。公益財団法人日本デザイン振興会〔※1〕が主催するグッドデザイン賞を受賞した商品・サービス・活動などに表示されるマーク)。また、「輸出検査法」(昭和 32年法律 97号. ※8参照)を制定し、輸出検査制度の強化をした。これは、輸出品の声価の維持および向上をはかり,輸出貿易の健全な発達に寄与することを目的としている(第1条)
上掲の画像はGマーク
経済産業省(当時、通商産業省)は1958(昭和33))年にデザイン課を設置して以来、時代の変遷に沿って組織や業務を変革しながらデザイン政策を続けてきた。
1959(昭和34)年には、「輸出品デザイン法」(昭和34年法律第129号。※9参照)を制定して、盗用模倣防止の法的体制の整備をし、デザイン奨励審議会 を設置し、本格的なデザイン政策を開始している。
さらにJETRO(ジェトロ。日本貿易振興機構の略)等と共同して国際見本市等での対外宣伝に努め、世界市場に向けて個性が発揮できるよう指導するとともに、製品管理や包装の合理化、色彩研究などといった関連分野まで、その業務範囲を広げて指導に努めた。
ここから、秋岡芳夫や剣持勇、豊口克平ら日本を代表するデザイナーが輩出していった(※7参照)。
またこの時期に、日本インダストリアルデザイン協会(※10)や日本デザインコミッティーなどのデザイナー団体も設立され、デザイナーの活動も活発化していった。
1960年代に入ると、デザイン活動の中心は企業へと移っていった。大きな役割を終えた産業工芸試験所は、1969(昭和44)年に製品科学研究所(産総研の前身である工業技術院に属した研究所のひとつ)として組織再編を受け新たな役割を果たしていった。
デザインと言う、このような専門分野のことを、私のような専門知識を持たないものが書くことは難しい。ネットで調べたことなどを基に書いたが、色々と謝ったことを書いているかもさ入れない。デザイン制度のその後の歩みなど、その概略は、参考※3:「経済産業省 特許庁>制度・手続 > 意匠」のところで、詳しく書かれているが、その概略なら、同HPの“第3部 意匠制度120 年史年表”を見られるとよい。
今問題となっていることは、特に「デザイン」創造性についてだろう。
日本語の「学(まな)ぶ」は「学(まね)ぶ」に同義で、「真似(まね)る」に同義だとも言われている(ここ参照)。
人は、それぞれ特技や長所を持っており、自分にはない他人のそんな良い点、スキルを手本として、先ずはその人に劣らないように学(まね)ぶことから始めるのが、学びの基本・・・とされている。
最近はよく個性の時代と言われる。テレビなど、吉本のタレントや女性の恰好?をしただけの人などが多く出ている。以前。朝日新聞の「天声人語」にこんなことが書いてあったのを覚えている。
「芸能人能がついて芸がなし」
昔は芸を磨き優れた芸を売るのが芸能人だった。しかし、何時のころか余り芸のない人たちが芸能人と呼ばれだした。今のテレビはコマーシャルの合間に、あまり売れていない金のかからないタレントと呼ばれる人、私流の定義でいえば、タレントとは「芸のない芸人、昔はスポーツ選手や歌手その他の職業で少しは名の売れてはいたが、今はそれでは食えなくなった人達のこと」と解釈している。
たとえ芸にしても、先ず基本をしっかり身に着けてそれから自分の特色を芸に生かすべきだろうが、それでは年数がかかりすぎ、今はJ時間をかけてそのような基本を身につけていない若い未熟な人や昔売った名前や顔を利用しているだけの人ばかりがテレビには出演している。まず、今の、テレビそのものが、芸を見せる場所ではなくなってしまったからそれでよいのかもしれないが・・・。、
しかし、まともなビジネスの世界ではそのようなものは通用しない。
私なども職業柄、商社、メーカー、チェーンストアーなどのサービス業などいろいろな流通業界の仕事を経験し、そして、非常に多くの会社を見てきたが、例えば、日本では後発のスーパー業界などでも、その先進国であるアメリカなど本場のスーパーの多様な業態を視察し、それをまずは徹底的に学(まね)び、それをやってみて、その中から、アメリカではなく、日本の風土に合う独自の業態開発に力を入れてきたところだけが今生き残っている。ただ、単に、真似ごとをしているだけのところは、倒産あるいは吸収されている。
日本は日本の独特の風土がある、それをわからないままに攻めてきた、アメリカやフランスなど流通業の先進国もほとんどが失敗をしている。それに引き換え、スーパーではないが、コンビニエンスストアーのセブンイレブンなど、本家アメリカのセブン-イレブンを飲み込んでいる。また、日本でチェーンストアーが始まった時には、四日市の片田舎の呉服屋上がりのスーパーであった岡田屋は、新業態を開発し、今では当時日本一であったダイエーをも飲み込み、イオンとして世界市場を制覇しようとしている。
これら成功している企業は単に、真似事をしただけではなく、徹底的に学(まね)び、それを消化したうえで、じっくりと時間をかけて独自のノウハウを付加して完全に自分のものとしたからこそ強いのである。私達消費者などが、店舗など表面的なものを見ても、わからない、管理・運営上のノウハウを創造しているのである。
さて、デザインの世界はどうなのだろう。
デザインを勉強している人も最初から思いついたデザインを次々と書ける人はいないだろう。多くの人は、優秀な先人デザイナーの書いたものを見て、学んできたことだろう。
どんな分野であれ、それまでに先人が残してきたものを学び、知識なり秘術を習得せずして一流の専門家になるのは不可能だろう。数字や英字などを使ったロゴに関しても、今までどんなものが創られきているか。そして、それが何を表現しようとして、そのような、「形態」「意匠」ができあがったのか等々。
デザインの語源がデッサン(dessin)と同じく、“計画を記号に表す”という意味のラテン語designareであるとすれば、言い換えれば、「デザインは、思考というプロセスを経た結果としての表現」であると言えるのだろう。
新しいデザインを想像するには、いろいろ過去にあるものを見た上で、それらで使われていたロゴとよく似たものを一部使ったとしても、全体としてそこにその人の思考や計画を表すための明確な根拠があれば良いのではないかと考えられる。ただし、意匠登録されているものは使えないが・・・。
しかし、佐野市氏は、盗作とされているもののデザインを「見たこともない」し、「私はアートディレクター・デザイナーとして、ものをパクるということをしたことは一切ありません」と、盗作疑惑を記者会見で一蹴していた。
私はこの時の会見を不思議に思った。私は、若い時、東京で5年間ほど住んでいた(昭和30年代末〜昭和40年代初め)。、当時、東京タワーへは、東京テレビ(1960年に東京放送[TBS)に改称)で 『アイデア買います』 という番組の公開放送を見るために何度も行った事がある。素人発明家のアイデアを審査して、良いものがあれば、業者がそのアイデアを買うといった番組で、当時人気番組であった。それに刺戟されて、新宿近辺にあった発明協会へ加入し、会社の私と同じ面白い事大好き人間同士で、つまらぬものをいろいろ考え出し、それでも、3つぐらい実用新案の申請をしたが、中途半端で特許もとれなかった。それでも、そのお遊びのお蔭で、特許の仕方や、当時品川にあった特許庁へ提出済みの特許などを調べに行って、特許に係るいろいろな知識を身につけたのは、無駄にはならなかった.。しかし、その時、まだ製品化はされていないが今後使用するかもわからない製品の名称やデザインなどすごい数の意匠登録数がされているのに驚かされた。
それなのに、佐野氏のようなプロが似ているとされているものについて見たこともない。パクリはしていない・・などの発言を聞いて、実際にどうだったのかは知らないが、この男は信用できないな・・・と思った。
其の後、佐野氏のエンブレムの原案については、組織委員会が国際商標登録(※12)を行うためにIOC(国際オリンピック委員会)と共同で行った国内外の商標調査の中で、複数の似たデザインが見つかったことなどから、2回にわたって佐野氏自身によって修正が加えられて、最終的なデザインが決まったという(※13参照)。つまり、2度も修正したものがまた問題となっていたのである。
アメリカの建築家フランク・ロイド・ライトの以下の名言があるという(※14参照)。
「全体は部分の為にあり、部分は全体の為にある。そしてそれら全てが全体に奉仕する。」
では、佐野氏の原案は、2度修正されているが、その部分も全体も一体どのような理由づけで何を表現するために修正されたのかか。「パクリ」ではないというなら、デザイナーとして、きっちりとその理由づけを説明すべきではないのだろうか。その真実は知らないが、それをしない限り、不信感はぬぐえないだろう。しかも、修正が2回もあったことやどのようなデザインになったのかなど完成まで、組織委員会が、審査委員に伝えていなかった…などと聞くと、組織委員会と佐野氏間に何があったのか・・そんなことまで疑問が感じられる。
このデザイン疑惑だけでなく、2020年東京オリンピックのメイン会場となる新国立競技場(東京都新宿区)建設問題(※15参照)や、東芝の不正会計処理(粉飾決算)問題(※16参照)等、外国から見れば、日本の国はちょっと何かがおかしいと思い始めているのではないだろうか。国にしても大企業にしても内部統制が全く機能していないな~。
参考:
※1:日本デザイン振興会
http://www.jidp.or.jp/
※2:東京五輪のエンブレムを組織委員会が使用中止とする方針 - GIGAZINE
http://gigazine.net/news/20150901-tokyo-2020-emblem/
※3:経済産業省 特許庁>制度・手続 > 意匠
https://www.jpo.go.jp/seido/isho/index.html
※4:[6]2020年大会のスポンサーが決定! : TVステーション
http://tvstation.jp/sport/olympic-verification/6758/2/
※5:東京五輪スポンサー一覧 佐野研二郎エンブレムを使っている企業への不買運動も・・・
http://mera.red/%E4%BA%94%E8%BC%AA%E3%82%B9%E3%83%9D%E3%83%B3%E3%82%B5%E3%83%BC%E4%B8%80%E8%A6%A7
※6:財団法人 工芸財団
http://www.k5.dion.ne.jp/~kougei/index.htm
※7:「工芸」から 「デザイン」へ - AIST: 産業技術総合研究所(Adobe PDF)
http://www.aist.go.jp/Portals/0/resource_images/aist_j/aistinfo/aist_today/vol05_06/vol05_06_p40_41.pdf#search='%E7%94%A3%E6%A5%AD%E5%B7%A5%E8%8A%B8%E8%A9%A6%E9%A8%93%E6%89%80++G.+%E3%83%8D%E3%83%AB%E3%82%BD%E3%83%B3'
※8:輸出検査法(廃)
http://www.houko.com/00/01/S32/097.HTM
※9:輸出品デザイン法 新旧対照表 1
<ahref= http://nomenclator.la.coocan.jp/ip/suprev/rev/exportd/r001.htm > http://nomenclator.la.coocan.jp/ip/suprev/rev/exportd/r001.htm
※10:日本インダストリアルデザイン協会
http://www.jida.or.jp/
※11:日本デザインコミッティー
http://designcommittee.jp/
※12:国際商標登録とは - 商標権取得応援サイト
http://www.trademark-jp.net/intlreg.html
※13:エンブレム問題 修正内容を完成まで伝えず NHKニュース - NHKオンライン
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20150903/k10010215341000.html
※14:デザイン 名言集・ 格言 ~最大級~ - 心に残る名言集・格言
https://mobile.twitter.com/design_bot
※15:総工費は1550億円…新国立・新計画決まる :-まとめ
http://www.yomiuri.co.jp/matome/20150605-OYT8T50063.html
※16 :東芝の粉飾決算は何故刑事事件にしないのか 東芝に限らず粉飾決算は上場企業で...
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q14149768779
デザイン ー Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%82%B6%E3%82%A4%E3%83%B3