本格ぜんざい(レシピ)日本記念日協会で10月31日の記念日を見ると、「出雲ぜんざいの日」があった。
由緒を見ると、「出雲地方では旧暦の10月を神在月と呼び、その神在祭に振る舞われたのが「神在もち(じんざいもち)」。これが「ぜんざい」の語源となったと言われていることから、島根県出雲市の出雲観光協会が制定した日。日付は神在月(出雲以外の地では神無月)の10月のなかでも、10と31で「せんざい」語呂合わせで読める10月31日を選んだもの。」・・・とあった(*1参照)。
日本記念日協会に登録されたのは2007年だそうだ。いわゆる最近多くなった、観光客誘致のための市の特産品PRのためのもののようである。同市では、記念日の申請にあたって、同年に「日本ぜんざい学会」を立ち上げ、「日本ぜんざい学会新聞」(2007.7.1創刊号発行。*2参照)まで発行してPRに努めている。各自治体が町おこし(地域おこし、まちづくりを参照)は、それなりに意義のあることではあるだろう。
例年猛暑の夏が終わると、食欲の秋が来る。その秋も深まり、気温がぐっと冷え込んでくると、温かい食べ物が恋しくなるが、甘党の人にとっては「ぜんざい(善哉)」もその一つであろう。
「ぜんざい」は、小豆を砂糖で甘く煮て餅や白玉団子(白玉粉と呼ばれる米の粉で作った団子)、などを入れた汁物である。これに対して、関東ではこれを「おしるこ(お汁粉」と呼び、汁気のない餡を用いたものを「ぜんざい」と呼ぶようだ。つまり、漉(こ)し餅を用いたものも粒餅を用いたものも汁のあるものは汁粉と呼ばれ、汁のないものが「ぜんざい」となるようだ。
関西地方では、粒餡を用いたものが「ぜんざい」で、漉(こ)し餡を用いたものは「しるこ」と呼んで区別しており、汁気のない餡を用いたものは、「亀山」や「小倉(小倉餡)」と呼んでいる。
「亀山」は、かつて岐阜県武儀郡にあった小金田村の旧村名・小屋名村のトップ級の大地主であっ亀山善兵衛かまた、その娘婿かは定かでないようだが、明治時代に大阪の天満に出てきて「亀山屋」という屋号で餅屋を開店し、目玉商品に亀山屋のぜんざいを「かめやま」という名で売っていたという。食道楽の大阪のド真申で、大阪の善哉とは違う田舎丸出しの小屋名風のぜんざい(田舎善哉)を大阪では「亀山」と呼ぶようになったようだ。(*3:「武儀郡小金田村」HPのいなかぜんざいの話(亀山異聞)を参照)。なお、これがそうかどうかはよくわからないが、ネットで検索すると、亀山氏の系譜について書かれているものがあった。この中に善兵衛の名も出てくる(*4を参照)。
また、京都市右京区の嵯峨二尊院門前長神町の二尊院内に「小倉餡発祥の地」と刻まれた石碑が建っている(建立者は、井筒八ツ橋本舗の六代津田佐兵衛)。
日本で初めて小豆と砂糖で餡が炊かれたのは平安京が出来て間のない820年頃の ことで、京のこのあたり 小倉の里(京都・嵯峨野-小倉山麓。小倉百人一首が撰ばれた地と伝わる)に亀の甲せんべいを作っていた和三郎という菓子職人がいて 809年に空海が中国から持ち帰った小豆の種子を栽培しそれに御所から下賜された砂糖を加え煮つめて餡を作り これを毎年御所に献上した。 その後、この和三郎の努力で洛西を中心に小豆が広く栽培され、江戸時代には茶道の 菓子にも用いられ、ハレの料理にも加えられるようになったといわれている(*5参照 )。
ただ、日本の製塩は縄文時代から始まり、調味、防腐、保存に使用していたが、砂糖は日本には奈良時代に鑑真によって伝えられたとされており、当時は、糖蜜の形で使用され、医薬品として扱われていたが、ある程度製糖の知識も普及し菓子や贈答品の一種として扱われるようになったのは平安時代後期のことと言われているが、ここで毎年御所に献上されたとされる餡も、当初のものは薬として献上されていたものだろうが、京都では平安時代の早い時期から薬じゃなく砂糖で小豆の餡が嗜好品として作られていたということだろう。
関西人の私など、「善哉」というと、まず第一に頭に浮かぶのは、豊田四郎監督の映画、『夫婦善哉』である。
この映画のことはこのブログ、「11月13日豊田四郎の忌日」でも簡単に触れた(ここ参照)が、同映画は、大阪を代表する作家織田作之助の小説『夫婦善哉』(*6の『夫婦善哉』参照)を原作に、大正から昭和にかけての大阪を舞台に、大店のドラ息子(主演:森繁久彌)としっかり者の芸者(淡島千景)の愛情をなにわ情緒豊かにユーモラスに描かれたものである。
作品のタイトルとなっている「夫婦善哉」という言葉は、法善寺横丁にあるぜんざいの店「夫婦善哉(めをとぜんざい)」の名前から採られたたものである。
法善寺を「大阪の顔」だと言い、大阪を知らない人から、最も大阪的なところを案内してくれといわれたら、法善寺へ連れて行くと言う織田は、「めをとぜんざい」について次のように語っている。
「俗に法善寺横丁とよばれる路地は、まさに食道である。三人も並んで歩けないほどの細い路地の両側は、殆んど軒並みに飲食店だ。
「めをとぜんざい」はそれらの飲食店のなかで、最も有名である。道頓堀からの路地と、千日前――難波新地(補足:ここも参照)の路地の角に当る角店である。店の入口にガラス張りの陳列窓があり、そこに古びた阿多福人形が坐っている。恐らく徳川時代からそこに座っているのであろう。不気味に燻んでちょこんと窮屈そうに坐っている。そして、休む暇もなく愛嬌を振りまいている。その横に「めをとぜんざい」と書いた大きな提灯がぶら下っている。
はいって、ぜんざいを注文すると、薄っぺらな茶碗に盛って、二杯ずつ運んで来る。二杯で一組になっている。それを夫婦(めおと)と名づけたところに、大阪の下町的な味がある。そしてまた、入口に大きな阿多福人形を据えたところに、大阪のユーモアがある。ややこしい顔をした阿多福人形は単に「めをとぜんざい」の看板であるばかりでなく、法善寺のぬしであり、そしてまた大阪のユーモアの象徴でもあろう。」・・・と(*6の『大阪発見』の第二段 のところ参照)。
そして、また、豊田監督の映画「夫婦善哉」の中でも柳吉と蝶子が、夫婦善哉のいわれを語るシーンがある。
柳吉「こ、こ、ここの善哉(ぜんざい)はなんで、二、二、二杯ずつ持って来よるか知ってるか、知らんやろ。こら昔何とか大夫(だゆう)ちう浄瑠璃のお師匠はんがひらいた店でな、一杯山盛にするより、ちょっとずつ二杯にする方が沢山(ぎょうさん)はいってるように見えるやろ、そこをうまいこと考えよったのや」、
蝶子「一人より女夫(めおと)の方がええいうことでっしゃろ」
放蕩で甲斐性のない柳吉が知ったかぶりで話し、喧嘩は絶えないが惚れた弱みで別れられないが、しっかりものの蝶子がすぐさま切り返す。
この店の、店名と同じ看板メニューは1人前のぜんざいを2つの器に分けたもので、いかにも得をした感じにさせるところが大阪らしい発想である.。因みに、柳吉の話に「昔何とか大夫ちう浄瑠璃のお師匠はんがひらいた店でな・・・」とあるが、これは、明治16年頃、文楽の浄瑠璃語りの竹本琴太夫(5代目竹本政太夫の門弟。 7代竹本咲太夫)が「お福」というお店を開業したのが始まりという(*7参照)。
ただ面白いことに、*7には、「杯のぜんざいを2杯に分けて出すことにします。少しでも多く見えるように、分厚いがお皿のように浅い容器二つに分け、備前焼の湯呑、赤塗りの箸、これを朱塗りの盆にのせて出す。片方はあんをこした汁粉、もうひとつは小豆粒のぜんざいと決め、これを熱くしてふうふう吹きかけながら食べる趣向です。」・・・と、書かれている。
え・・・?夫婦善哉って、明治の開業当初は、あんをこした汁粉と小豆粒のぜんざいの2種類を出していたの・・?今はどうなのだろう?
私は神戸っ子だが、若いころから大阪で勤務していたし、飲兵衛だったので、法善寺横丁にはしょっちゅう行き、あちこちの店で飲んでいたし、最後には、夜食にお結び屋などへも行ったのは覚えているが、残念ながら、善哉を食べるために「夫婦善哉」の店などには行ったことがない。私は酒飲みだが甘いものも大好きの甘辛党で、家では善哉もよく食べるのだが、その時は、関西人らしく粒あんのものと決まっており、「夫婦善哉」では、粒あんのぜんざいが二杯出てくるものと思っていたのだが・・・。実際はどうなのだろう?
大阪には、もともと潰し餡の善哉しかなかったのだが、明治後半、三越呉服店(現:三越百貨店)内に食堂が開店、そこで漉し餡の東京風汁粉が売り出された。これが汁粉の本格的な大阪デビューだという説がある。前後して大阪には、或る食の遊びがあり、浪速橋筋の瓦町辺りの或る汁粉屋さんの店では「汁粉十二月」と言い、一月=若菜 二月=むめ 三月=さくら 四月=卯の花 五月=皐月 六月=水無月 七月=天の川 八月=名月 九月=翁草 十月=小春 十一月=神参 十二月=飛雲の12種類の汁粉があったという。これらの汁粉は一月の若菜から次第に甘みが加えられ十二月の飛雲に至っては極めて甘いものであったそうで、これらを一月から十二月まで無事に食べれば代金は無料。しかし、客は概ね五~六月で降参。大阪らしい酒落のキツイ遊びであったようだ(*8:「御座候HP」の“Azukiこぼればなし” ●寒露No.133を参照)。
いずれにしても、大阪でも、明治後半には小豆の粒あん以外のものも食べられてはいたようだ。
開店当初、また現在の夫婦善哉の「ぜんざい」が実際にはどのようなものかは別として、「ぜんざい」について、一般に言われている関西と関東での認識の違いはなぜおきているのだろうか?
それは、どうも、うどんの“きつね・たぬき論争”(*9参照)でみられるように、すでに、江戸時代からその認識の違いはあったようだ。
江戸時代後期の三都(江戸・京都・大阪)の風俗、事物を説明した一種の類書(百科事典のようなもの)である『守貞謾稿』(1853年)の巻六 生業には、「善哉」が登場し、また、「汁粉」についても言及している。そこには以下のように書かれている。(*10:『古事類苑>』飲食部/餅<団子・餡・併入>の善哉。の『守貞漫稿』 六生業巻についての記載部分559 頁560 頁〔ここ〕を参照。)。
守貞漫稿 六 生業
善哉賣
京坂ニテハ、專ラ赤小豆ノ皮ヲ去ズ、糖ヲ加ヘ、丸餅ヲ煮ル、號テ善哉ト云、
汁粉賣
江戸ハ赤小豆ノ皮ヲ去リ、白糖ノ下品或ハ糖ヲ加ヘ、切餅ヲ煮ル、號テ汁粉ト云、京坂ニテモ皮ヲ去リタルハ汁粉、又ハ漉饀ノ善哉ト云、又江戸ニテ善哉ニ似タルヲツブシアント云、又マシ粉アンノ別ニ全體ノ赤小豆ヲ交ヘタルヲ鄙(イナカ)汁粉ト云、或ハ八重成アリ、八重成ハ小豆ニ似テ碧色也、・・・・」
つまり、意訳すれば、京坂では専ら赤小豆(=小豆.アズキのこと)の皮を取らないで黒砂糖で煮、これに丸餅を入れたものを善哉と云い、これに対して、江戸では赤小豆の皮を取って、白砂糖の上等でないものか黒砂糖を入れて煮、切り餅をいれたものを汁粉と云っている。ただ、京坂にも、皮を取った汁粉はあり、漉し餡の善哉という言い方をしたと『守貞謾稿』には書かれており、また、江戸では、善哉に似たものをつぶし餡と云い、又、こしあんの別に「つぶあん」を使った汁粉は、「鄙(田舎)しるこ」といわれたようだ。また、八重成(やえなり)という小豆に似た碧色(青緑色)した豆を使った汁粉も商っていたようだ。そして、掲載文では省略したが、これら善哉や汁粉、雑煮などを夜商いする人のことを、三都ともに「正月屋」と呼んでいたようだ。その理由はよくわからないが、雑煮は正月を祝うもの、鏡餅を割って雑煮や汁粉・ぜんざいにして食べる鏡開きも正月の行事だったことなどが理由にあるのかもしれない。
そもそも、「ぜんざい」と「おしるこ」の語源は何なのだろう。「おしるこ」は「お汁粉」と表記することから、見た感じをそのままネーミングにしたのであろうことはすぐに察せられるが、関西では「ぜんざい」を「善哉」と表記するが、この善哉は元々仏教語であり、「よきかな」」を意味するサンスクリット語「sadhu」の漢訳である。
仏典では、仏が弟子の言葉に賛成・賞賛の意を表すときに、「それはすばらしい」「実に良い」といった意味で用いられている。
江戸期関西の文化が多く江戸に伝わっているのでぜんざいも関西から江戸に広がった食べ物であるとも考えられるが、江戸でいつ「おしるこ」と呼ばれるようになったかなどその経緯はよくわからないようで、関西のぜんざい・おしるこの違いが正しく伝わらなかったとの説もあるようだ。
江戸時代後期の全国的規模の方言辞書『物類稱呼』(越谷吾山 著)には以下のように出ている(*10:の汁粉>『物類稱呼』 四 衣食 558P参照)
〔物類稱呼 四 衣食 558P 〕
ぜんざいもち、京江戸共に云、上總にてじざいもち、出雲にてじんざいもちと云、〈在餅と書よし也〉土佐にてじんざい煮といふ、土州(土佐国の別称)にては小豆に餅を入て醬油にて煮、砂糖をかけて喰ふ、在煮又善在煮などゝ稱すとなり、(以下略)
このように、地域で呼び方が違うのは、現代よりも地域色(方言)が豊かであった江戸時代なら当然のことであろうが、京大阪で云う「ぜんざいもち」(善哉餅)を上總や土佐など出雲地方に古くから伝わる「じんざいもち」〈在餅〉と同じような表現をしているところがある。
出雲地方では、旧暦の10月に八百万の神が全国から出雲の国に集まり、この時、出雲では「神在祭(かみありさい)」と呼ばれる神事が執り行わ、そのお祭りの時に振る舞われた「神在(じんざい)餅」の「じんざい」が、出雲弁(ずーずー弁)で訛って、「ずんざい」、さらに「ぜんざい」となって、京都に伝わったと言うのだが・・・(*1)。
この「じんざいもち」(在餅)に触れた文献としては、江戸時代後期の喜多村信節 の随筆『嬉遊笑覧』(天保1 念=1830年 刊)には,
「【祇園物語】又云、出雲國に在もちひと申事あり、京にてぜんざいもちひと申は、是申あやまるにや、十月には日本國の、みな出雲に集り給ふ故に、在と申なり、その祭に赤小 豆を煮て、汁をおほくしすこし餅を入て、節々まつり候を、在もちひと申よし云々いへり、此事【懷橘談】大社のことをかける條にも云ず、されど、【犬筑波集】に、出雲への留主もれ宿のふくのとあれば、古きいひ習はしと見ゆ、また在餅は善哉餅の訛りにて、やがて無月の説に附會したるにや、【尺素往來】に、新年の善哉は、是修正之祝著也とあり、年の初めに餅を祝ふことゝ聞ゆ、善哉は佛語にてよろこぶ意あるより取たるべし、」(*10:古事類縁の汁粉>〔嬉遊笑覽〕〈十上飮食〉また、詳しくは『嬉遊笑覽』下 巻十 上 飲食 四三六〔神在餅〕の コマ番号239を参照)・・・とあり、「ぜんざい」の出雲起源説はこれによっているようである(✳11参照。ここに、意訳分あり)。
ただ、この文には、ここへの引用文には書かれていないが、仏教語の「善哉」がお汁粉を意味するようになった由来は、これを食べたとんちで有名な室町時代の禅僧(一休禅師)が餅入りの小豆汁を食べ、おいしさに感動してあまりのおいしさに「善哉々々」と賞賛したのが、始まりとするとの説もあるとも書かれており、また、「今は赤小豆(あずき)の粉をゆるく汁にしたるを汁粉といえども昔はさにあらず。すべてこといふは汁の実なり、・・・とある。
そのことから、私はよく知らない本だが、『和菓子の系譜』には、「本来は餡の汁の中に子(実)として餅を入れるので餡汁子餅であり、略して汁子、転じて汁粉になった」としているよう(✳12参照)で、どうやら汁粉は、江戸で発祥したもののようだ(餅などを入れだしたのは、特に江戸時代末の模様)。
そして、善哉餅から神在餅が始まったという説もあるが、善哉の語源は汎語の善哉で、仏様が弟子たちの意見に賛成する時に「sadhu sadhu(善哉、善哉)」と言ったという。やがて大乗仏教の教典にこの「善哉」という言葉がしばしば現われるので庶民に親しまれるようになり、善哉は喜びを表す言葉になった。そして美味しい餅入り小豆汁を上方(関西)で善哉と呼ぶようになった。出雲地方ではこの「ぜんざい」が訛って「じんざい」になり、神在餅の名が生まれたというのだが・・・。
江戸中期の百科事典山岡浚明の著『類聚名物考』(成立年未詳。明治36~38年(1903~05)7冊の活版本として刊行.)の飲食の中に、ぜんざい(善哉)のことについて書かれているところがあり、ようやくすると、以下のようになる。
「比叡山から京都へ出る道に長谷越(な がたにごえ)というのがあり、俗にシルタニゴエと言う。渓谷の間なので道が悪く、水が流れているのでこの名がある。この善哉餅も、赤小豆の粉が煮られて粘るのが谷道のぬかっているようなので、そこから転じたもので、長谷餅とも言う。もともとは渋谷(しぶたに)越だったが、江戸時代にはシルタニゴエと訛って「滑谷越」などと書くようになっていた。それでシルタニゴエからシルコになったというのだが、こじつけもいいことだろう(原文は*10の汁粉〔類聚名物考〕〈飮食〉参照)。
結局何が真実か・・?はわからないままである。
参考:
*1:毎月19日は「食育の日」~「出雲ぜんざいの日」ご存知ですか?~ | 出雲市
http://www.city.izumo.shimane.jp/www/contents/1318842254728/
*2:ぜんざいの日ー出雲ぜんざい学会
http://www.1031-zenzai.com/
*3 :武儀郡小金田村HP
http://www.sudadenki.com/koganedamura/
*4:亀山氏の系譜の研究 その⑤
http://ameblo.jp/tengetu-akindo/entry-11391692395.html
*5:発祥の地コレクション/小倉餡発祥の地
http://hamadayori.com/hass-col/food/OguraAn.htm
*6:作家別作品リスト:織田 作之助
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person40.html
*7:みなとQ人気連載>わが町人物史:木文字 かめ
http://minato-q.jp/blog/?cat=16
*8:御座候HP
http://www.gozasoro.co.jp/index.html
*9:『きつねうどん』と『たぬきそば』の謎
http://www.geocities.co.jp/Playtown-Dice/9450/kitsune.html
*10:古事類縁 飲食部/餅<団子・餡・併入>
http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/index.php?%E9%A3%AE%E9%A3%9F%E9%83%A8%2F%E9%A4%85%E3%80%88%E5%9C%98%E5%AD%90%E3%80%80%E9%A4%A1%E3%80%80%E4%BD%B5%E5%85%A5%E3%80%89
✳11:神在餅についての記述【嬉遊笑覧】 佐太神社公式ホームページ
http://sadajinjya.jp/?m=wp&WID=5613
ぜんざい - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%9C%E3%82%93%E3%81%96%E3%81%84