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三原山の噴火に伴い全島民が一時島を脱出した日(2-2完)

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こう書いていて、ふと、現在の伊豆大島の下になっているという、行者窟火山の名前が気になって調べてみた。
この行者というのは、飛鳥時代から奈良時代の呪術者であり山伏(修験道)の開祖とされている役小角(えんのおづぬ)のことのようである。
日本書紀』に続く六国史の第二にあたる『続日本紀』(794年成立)の巻第一文武天皇三年五月丁丑の条には、役小角について以下のように記されている(*7参照)。
《文武三年(六九九)五月丁丑(廿四)》○丁丑。役君小角流于伊豆嶋。初小角住於葛木山。以呪術称。外従五位下韓国連広足師焉。後害其能。讒以妖惑。故
大意:文武天皇3年5月24日、役君小角を伊豆大島に配流した。そもそも、小角は葛城山に住み、呪術で称賛されていた。のちに外従五位下の韓国連広足が師と仰いでいたほどであったが, 後にその才能をねたんである人が彼の能力を妬み、妖惑のかどで讒言した((讒言者はこれを広足だとする説等解釈はいろいろあり)。それゆえ、彼を遠方に配流したのである。世間は相伝えて、「小角は鬼神を使役することができ、水を汲ませたり、薪を採らせたりした。もし鬼神が彼の命令に従わなければ、彼らを呪縛した」という。

上掲は、葛飾北斎北斎漫画』より、前鬼・後鬼を従えた役小角。
正史からわかるのはこれだけであるが、言い伝えでは、役行者は流刑先の伊豆大島で昼は行者窟(ぎょうじゃのいわや)に住んで修行し、夜になると富士山へ飛んで修行し赦免を願ったという。富士山麓の御殿場市にある青龍寺は役行者の建立といわれているようだ。
平安時代初期の説話集『日本霊異記』(日本現報善悪霊異記)には、佐渡に流されてから、昼だけ伊豆におり、夜には富士山に行って修行したとあるそうなのでそれに基づいているのだろう。「大島公園海岸遊歩道」の終点近くに、「役の行者」ゆかりの「行者窟」という聖なる場所がある(*8参照)。



日本の火山の分布(*3:気象庁HPの活火山分布図参照)は、千島、北海道、東北日本を経て伊豆諸島からマリアナ諸島に至る東日本火山帯と、山陰から九州を経て南西諸島に至る西日本火山帯に分けられる(火山帯参照)が東日本火山帯の火山フロント(火山前線。*3の火山噴火の仕組みも参照)は千島海溝日本海溝伊豆・小笠原海溝,に平行に走っており、西日本火山帯のうち九州から南西諸島に至る火山フロントは琉球海溝に平行に走っている。
そして、伊豆・小笠原島弧北部の火山フロントは、八ヶ岳から富士山・箱根火山を経て、日本列島の中央部の伊豆半島から伊豆大島、三宅島、御蔵島、八丈島とほぼ南北方向に連なっているが、伊豆・小笠原弧の北端部にある伊豆半島とその周辺陸域・海域は,プレート境界の近傍に位置する活発な地殻活動・火山活動の場として知られている。
1974(昭和49)年の伊豆半島沖地震以後、伊豆半島付近の地震活動が活発になり、1976(昭和51)年に河津地震(M5.4)、1978(昭和53)年に伊豆大島近海の地震(M7.0)などが発生し、1989(平成元)年7月13日には、静岡県伊東市の沖合3 kmで海底噴火が起こり、手石海丘という海底火山が誕生した(伊豆東部火山群)。
これは,伊豆東部火山群としては有史以来初の噴火と言われているが、伊豆半島の噴火の歴史を地質学的に調べると、1989((平成元)年の手石海丘の噴火と似た事件が伊豆半島の陸上で過去15万年間繰り返してきたことがわかるという。以下参照。
伊豆東部火山群の火山活動解説資料(平成 23 年9月)気象庁地震火山部火山監視・情報センター(Adobe PDF)
伊豆半島は、現在ある場所に最初からあったわけでも,本州につながる半島の形をしていたわけでもなく、約2千万年前は,本州から南に1500kmほどへだたった熱帯海域の海底火山であったと考えられているようだ。
その後フィリピン海プレートに載った伊豆の地殻は火山噴出部を積み増しながら北上を続けて約100万年前には本州沖に達し、海面上に火山島として出現し、本州に衝突して合体する時がきた。
本州と陸続きになったのは約60万年前で、伊豆火山島は本州から突き出た半島の形になり、現在見られる伊豆半島の原形ができあがった。陸地となった後の伊豆半島では、あちらこちらで噴火がはじまり、たくさんの大きな火山体ができたが、天城山(天城火山)や達磨山(達磨火山)は,この時さかんに噴火していた火山なのだという。(*9の伊豆半島の火山とテクトニクス、 伊豆半島の火山  参照)。
伊豆半島の南東部にある下田市爪木崎西側の海岸にある、「俵磯」と呼ばれる「柱状節理」(画像)は、伊豆地域が海底火山だった頃の火山活動で、地下のマグマが地層の隙間に入り込んで冷え固まったものであり、この柱状節理は静岡県の指定文化財ともなっている。
伊豆半島の東海岸沿いの陸地と海底では、現在も火山活動や地殻変動が続いているが、伊豆半島の東側付け根に位置する熱海市の熱海港から高速船で25分ほどの、相模灘に浮かぶ初島の平らな地形は、そこにあった浅瀬が隆起して島になったことを物語っている。
また、熱海市沖の海底には参道状の石畳や階段のような石積み、船着き場と思われる桟橋が眠っているという。2004(平成16)年にはマスコミ(朝日新聞)でも”謎の海底遺跡”と話題になっていた(*10参照)。そうだとすれば、ここがかつては陸地であったことを証明していることになる。
詳細の記録はないが、鎌倉時代後期の13世紀末頃に成立したとみられる『百錬抄』巻第十六 の後深草天皇の条には以下の通り記されている(*11の・第十六のコマ番号153参照)。
〔百練抄  十六 後深草〕
寶治元年正月十二日丙寅、此間風聞云、伊豆國長十二町、弘八町自十餘町行去、其跡如二湖水一云々
意訳:宝治元年(1247年) 1月12日 噂によれば、伊豆国で長さ1308m・巾872m (1町は60≒109m)程が沖に向かって1㎞程滑って沈んだのか失われて、その跡は湖水のようになった。・・・ということだが、『吾妻鏡』(*12参照)の寛元四年(1246年)11月27日に、「寅の刻、大地震」とあるので、これが百練抄の記事に該当するのだろう。
鎌倉時代中期に海底火山の噴火に伴って大規模な地殻変動が起こり伊豆山沖が陥没したのではないだろうか。
熱海は、古くからの湯治の地であり、平安、鎌倉時代には阿多美郷(あたみごう)といわれていたらしいが、海中から熱湯が噴き出し、「あつうみが崎」と呼ばれ、それが変じて「熱い海」であることから、熱海と名付けられたらしい。そのことは、熱海市のホームページ”あたみ昔ばなし”のページ(*13)の「熱海の由来」で、1枚の面白い画(「,万巻上人薬師の化現と逢図」)とともに書かれている。.
まずはそのページを見てください。→熱海の由来
スキューバダイビングのインストラクターで、熱海の海底遺跡第一発見者見者だといわれている國次秀紀氏は、熱海の海底遺跡保存会を設立し、独自・独創的な発想によって阿多美(熱海)の有様を調査し発表している(*14参照)。以下参照。YOUTUBE動画サイトへアップしている熱海の海底遺跡動画も見られる。
熱海の海底遺跡保存会
その中であつうみケ崎「万巻上人薬師の化現と逢図」の検証をしている(上記熱海の海底遺跡保存会参照)が、熱海の海底に眠る遺跡は熱海市の錦ヶ浦や熱海サンビーチ沖1キロの海底にあり、参道状の石畳や階段のような石積み、船着き場と思われる桟橋が眠っているという。そして、江戸時代以前、鎌倉中期、1247年頃に火山噴火と大地震で沈んだと見ている。つまり、『百練抄』『吾妻鏡』に出てくる時期ということのようだ。
鎌倉時代には『吾妻鏡』をはじめ鎌倉を中心とした地震の記録が多く現れる(*15のここ参照)が、政治の中心が鎌倉にあったためで、鎌倉だけに地震が多かったわけではない。この年代の11月26日にも鎌倉で大地震があるが、この地震の約50年後の、1293年5月20日(5月27日)(正応6年4月13日)に起こった鎌倉大地震(永仁の関東地震ともいう)では23,024人もの死者が発生したとされている。朝廷では、永仁への改元までしている。
しかし、熱海海底遺跡は、一体何の跡だったのだろうか?
『吾妻鏡』には壇ノ浦の戦いについて
寿永4年3月24日(1185年4 月24日)長 門の国赤間関の海上に於いて、八百四十余艘の兵船を浮かぶ。平氏また五百余艘を漕 ぎ向かい合戦す。午の刻逆党敗北す(**12参照)。
・・・とあるように、長門国彦島(山口県下関市)の平氏水軍を撃滅すべく、義経は摂津国の渡辺水軍、伊予国の河野水軍、紀伊国の熊野水軍などを味方につけて840艘(『吾妻鏡』)の水軍を編成している。
海底考古学会のすぺッシャリスト 茂在寅男東京海洋大学名誉教授は、
源頼朝は水軍族の頭領であり、当時の熱海は「鎌倉幕府の軍港」だった可能性があるという。それが鎌倉時代のある日突然、大地震か火山の噴火で沈んだという説を立てている。それが、この熱海の海底遺跡だろうとするのだが・・・。以下参照。
歴史ミステリー 熱海海底遺跡は鎌倉幕府の軍港だった?1
歴史ミステリー 熱海海底遺跡は鎌倉幕府の軍港だった?2

いずれにしても、伊豆半島の東海岸沿いの陸地と海底は、活発な火山活動を続けてきたし、「伊豆大島から一直線に伊豆大島にかけて火山列島は要監視地域でもあり、火山噴火後には必ず大地震が起きている」・・・という木村 政昭琉球大学名誉教授(*16参照)等の話は、気になるところではある。これを否定する学者もいるのだが、興味のある人は、一度以下のページを読んでみては・・・。

三原山噴火→富士山噴火へ着々 連続する小笠原深発地震の不気味
伊豆大島三原山の噴火の後には必ず大地震が起きている


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