今から29年前の1986(昭和61)年11月15日、伊豆大島の中心にある三原山が、1974(昭和49)年以来12年ぶりに噴火した。山頂火口での噴火から割れ目噴火に移るなど、態様を変えながら3回の噴火を繰り返した。割れ目火口から流れ出た溶岩が人口密集地に向かい、1万300人の全島民は観光客と船で脱出し、1か月間の避難生活を余儀なくされた。
三原山は過去1500年の間に、約150年の周期で大規模噴火を起こし、その間に、中規模噴火を繰り返して来た。
11月15日の最初の噴火は山頂火口で起きた。オレンジ色のマグマのしぶきを激しく噴き上げる、珍しい「ファイアファウンテン」(英:fire fountain。火の噴水また溶岩噴泉とも。)と呼ばれる現象が見られた。このタイプの噴火はハワイ島のキラウエア火山などにみられるものである。
19日火口にたまった溶岩はカルデラ内輪山(内輪山=中央火口丘のこと。外輪山の内側にあるのでいう。)の縁を超え溶岩流となって流れ出した。この時の溶岩流は外輪山を超えることはなく火山活動の脅威の景観に見物人が列をなしたという。
21日夕方小康状態にあった三原山は再び大噴火した。今度は1421(応永28)年以来の「割れ目噴火」であった。カルデラ内の内側と外輪山の北側で突然次々と地面に亀裂が走り、そこからマグマが火のカーテンのように噴出したのである。
●冒頭の画像は、11月21日の「割れ目噴火」とそれを見ている人たち。
割れ目の長さはカルデラの内外でいずれも1㎞にわたった。外輪山の新しい火口列から流れ出る溶岩流は、午後にはカルデラ外の噴火口から、人口が密集しているふもとの、元町市街地区に溶岩が向かったため、同日深夜になって、全島民1万3千人と観光客2000人に避難命令が出た。溶岩流は最終的に民家から300m付近にまで達したところがある。
●上掲の画像は、11月22日午前5時東京竹芝桟橋(ここ参照)に着いた避難民たち。大島を出た船は静岡県伊東港、東伊豆の稲取港へも向かい、家族が離散したケースもあったという。戸締りもせず、簡単な手荷物、あるいは着のみ着のままで非難した人たちもいた。島民が島に帰ったのは12月19日以降のことである。この時は、その後一カ月も避難生活が続くとは思いもよらなかっただろう。
この3回の噴火について、火山噴火予知連絡会は、正確な直前予知情報を出すことに失敗したようだ。
火山性微動(マグマや水蒸気が火山の地下を移動したり、沸騰して気泡が発生することなどによって起こる地表の微弱な振動。)は7月下旬からあった。しかし、予知連は10月30日、「将来の噴火の可能性が否定されたわけではない」「大規模噴火が切迫している兆候は認められない」とのあいまいなコメントを出して、まず1回目の空振り。
噴火直後には、下鶴大輔・予知連会長が「大規模な噴火はない。溶岩が外輪山の外へ流れることはないだろう」とコメントしたが、割れ目噴火でこれも覆された。12月12日には、「火山活動は短期的に見れば休止に向かいつつある」との統一見解をまとめ、こうした判断に基づいて同日、東京都の災害対策本部(ここ参照)が全員帰島を決定した。ところが帰島開始の前日の18日になってまたしても噴火が起きた。同日夜、下鶴会長は「いいわけはしません。」「この程度の噴火の余地は難しい」と、敗北を認めざるを得なかったという。
溶岩流が山を下るという危機感の中で、全島民の避難は整然と行われた。しかし、それをいつ、どういう状況で、解除するのかが当時問題となった。
避難した島民は東京都内の小中学校、スポーツセンター、福祉会館などに分散して収容された。急な脱出行だっただけに、着の身着のままの人も多く、日がたつにつれて体の不調を訴える人が増えていった。火山はその後小康状態を続けたが、科学には「もう大丈夫」と断言できるほどの予知能力はない。結局帰島は、中曽根康弘首相ら政治の強いリーダーシップで判断された。「解除」には政治が関与せざるを得ないことを印象付けたのだが・・・・(画像、文等『アサヒクロニクル週刊20世紀』1986年号参照)。
火山活動と地震活動の間には, 密接な関係があることが古くから知られているようだが、ここのところ日本列島で火山の噴火が相次いでいる。
最近では、2013年に小笠原諸島の西之島が噴火以降、現在も活発な火山活動が続いている。西之島は海底火山の活動により生じた火山島(無人島)であるが、現在も活発な噴火活動が見られ、大量の溶岩流や噴出物が海面上まで堆積して西之島(旧島)付近に新しい陸地を形成しており、この陸地は「西之島新島」と命名され、「新島ブーム」とマスコミにも報道され、大きな話題となった。これなど、人的被害がなく島が大きくなるのだから日本にとっては結構な話ではあるが、昨2014年9月には御嶽山(長野、岐阜県)が噴火し、戦後最悪となる噴火による犠牲者63人(死者。内行方不明者5人)を出した。
今年2015(平成27)年に入ってから5月には、屋久島の西方約12kmに位置する口永良部島新岳で爆発的噴火を起こし、火砕流が海岸まで到達した。噴火による避難は日頃からの訓練のおかげで、1人の被害者も出さず見事にできたが、今も噴火警戒レベル5が続き、屋久島に避難している避難民の方は未だに帰島のめどが立たずに困っておられると聞く(*1参照)。この後何年避難生活をしなくてはならないのか・・・。三原山の噴火の時以上に避難生活が長引いており、帰島の時期についてはやはり政治家がしなくてはならないのだろう。
そのほか、頻繁に噴火を繰り返している鹿児島県の桜島と諏訪之瀬島を除いて6月には長野県と群馬県堺にある浅間山、8月には、小笠原諸島南端近くの硫黄島、9月には、神奈川県と静岡県にまたがる箱根山、熊本の阿蘇山、10月には 北海道の雌阿寒岳、霧島山(えびの高原〔硫黄山〕周辺での火山性地震頻発)など火山活動が活発化したり、噴火に至るケースが相次いでおり、2011年3月11日の東日本大震災以降、火山噴火が多いと感じている人は少なくないだろう。
20世紀以降に世界で起きたマグニチュード(M)9級の巨大地震後には、周辺で例外なく噴火が発生しているようだが、東北地方太平洋沖地震だけが、これまで噴火が起きておらず、例外的だと思われていたのだが、昨年9月に、御嶽山が噴火して以降、日本の火山も今後、活動期に入る可能性があると指摘している専門家もいるようだ。
ただ詳しいデーターがないが、「長い目で見ると実は、この100年のあいだ、日本列島は異常なほど静かだっただけと言える。
火山の噴火はさまざまなタイプと規模があるが、火山学者は東京ドーム約250杯分以上の噴出物があったものを「大噴火」と定義している。この「大噴火」は日本の場合、100年間に4~6回ほどは必ず起きていた。それが20世紀に入って以降、1914年の桜島と、1929年の北海道駒ヶ岳で「大噴火」があっただけで、ずっと静かな状態が続いている。そう考えれば、3.11以降、むしろ普段に戻っただけとも言えるわけで、今世紀に4~6回の「大噴火」が起きても、何の不思議もない。」・・という(*2参照)。
日本が誇る富士山は、2013(平成25)年6月には関連する文化財群とともに「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」の名で世界文化遺産にも登録され、近年アベノミクスの円安政策なども引き金となり、日本を訪れる外国人観光客も激増し、富士登山客もこれにより、激増している(ただ昨年は天候不順で少し減少 ここ参照)。これは結構なことなのだが、その富士山がいつ噴火してもおかしくないとも言われている。
もし実際に富士山で噴火が起こったら、・・・、首都東京はどうなる・・・? 日本は大変なことになってしまうだろう。心配はないのだろうか?
【最悪のシナリオ】富士山が噴火したら東京はどうなる?? - NAVER まとめ
こんなことには何の知識のない私などがいくら考えても仕方がないことなのでこれ以上詮索しないようにしよう。
ところで、三原山は、伊豆大島の大半を占める複式活火山(複式火山参照)であり、その最高点は三原新山(764m)である。富士火山帯に属し、玄武岩の安山岩(火成岩の種)。ここ参照)からなり、40あまりの寄生火山(側火山参照)がある。
狭義の三原山は外輪山に囲まれた直径 3~4kmのカルデラ内にある円錐状の中央火口丘をいっている。1777年に始まった安永噴火で誕生(*3の伊豆大島 有史以降の火山活動参照)し、頂部に直径300 m、深さ200 m以上の切り立 った竪坑状の火口が口を開けている。
日本の活火山の中でも玄武岩質マグマの活発なこと で知られており、およそ35年以内に一度は比較的大きな噴火を行い、少しずつ姿を変えている。
その間に起こる小噴火も含めて、吹き上がる火柱や火映は古来御神火とあがめられてきた。
●1951年の噴火。
●1957年噴火。
三原山の噴火は、戦後では、1950(昭和25)年7月15日に突如活動を開始し、その後しばらくなりを潜めていたが、1951(昭和26)年2月4日再び噴火を始め溶岩流がラクダに乗って歩く砂漠地帯の大半をうめたという。いずれも中規模噴ではあったが、これに、続き1957(昭和32)年10月13日にも1950以来の大規模な噴火をし、この時の爆発で火口付近の観光客のうち1名が、火山弾によって死亡し、53人が重軽傷者を負ったという(*3の伊豆大島 有史以降の火山活動参照)。そして、この1986(昭和61)年11月15日の大噴火では全島民が避難する騒ぎになったのだがこの噴火以来静けさを保ち、まじかに火口周辺の絶景を見ることができ、振り向けばカルデラ内外に四季折々のすばらしい景観がひろがり、さらに海原を越えて伊豆の島々から伊豆半島・富士山までグルリと見渡すことも出来る。1998(平成10)年5月には三原山噴火口を一周する『おはち巡りコース』が開通し三原山の雄大さを間近に見る事が出来る様になった。特にここから見る噴火口は、まさに圧巻である。
この三原山が自殺の名所になったのは1933(昭和8)年のことである。三原山の自然に引かれて火口に身を投じた文学好きの女子学生、東京の実践高等女子学校専門部の学生らが投身、2月にも同行の国文科2年の学生が投身これらがマスコミで大々的に報じられて以降、三原山は自殺の名所になった。これらの事件のあと自殺志願者が相次ぎ、大島署では挙動不審なものを保護したり、自殺防止に努めたが一時は留置場の扉も閉まらないほどに満員状態になってしまったという。島民も自殺防止に必死で、郵便局員が「動く看板」を背負い、志願者に思いとどまるようにした。しかし、流行は衰えず、『明治・大正・昭和世相史』(社会思想社刊)によるとこの年は4月までに三原山での自殺者は60人、未遂者は160人にも上ったという(『アサヒクロニクル週刊20世紀』1933-34年号、参照、)。島民の方にとっては迷惑な話でしたね~。
●自殺防止のため「動く看板」を背負って歩く郵便局員。
その三原山のある伊豆大島の。面積は91.06平方キロm。行政区域は、東京都の町大島町であり、都はるみの歌「アンコ椿は恋の花」で知られる。
東京都の区域内には気象庁が、火山災害軽減のため、監視し、噴火警報・予報を発表している全国110の活火山(*3参照)のうち、21の火山が存在している。これらの火山は全て島嶼(とうしょ)地域に存在し、住民が居住している火山島は8つある(大島、利島、新島、神津島、三宅島、御蔵島、八丈島、青ヶ島)。このうち特に活発に活動しているのが大島と三宅島で、この100年間で大島が3回(36~38年間隔)、三宅島が4回(17~22年間隔)噴火しており、噴石、火山灰、溶岩流及び火山ガスによる直接・間接の被害や住民の避難が発生しているいう(*4参照)。
大島と名のつく島は日本各地にあるが、国土地理院では伊豆大島と表記する。
伊豆大島は、本州で最も近い伊豆半島からは南東方約25kmに位置する。
現在の伊豆大島の下には、岡田火山、行者窟火山、筆島火山の三つの古い火山が隠れている。乳ヶ崎~岡田~筆島にかけての海岸に急な崖があるのは、古い火山が露出しているからだそうだ。三つの火山が活動していたのは遥か昔、数十万年も前のこと。
伊豆大島火山は今から数万年前、次第に活動を終え、海水に侵食されていったこれら三つの火山の近くに海底火山として誕生した。誕生まもない伊豆大島火山の火口は海面近くにあり、地下から上がってきたマグマは水と接触して、激しい噴火を繰り返した。噴出物が火口のまわりに積もり、火口が海面から顔を出し、現在の大島の形がほぼ出来上がったのは約2万年前の事であった。つまり、伊豆大島はその噴き出たマグマによって三つの古い島(火山体)を覆って、形成された島…ということになる(*3のここまた* 5 参照)。三つの古い火山体は、大島北端の乳が崎から大島南東部の筆島まで続く海食崖において露出している。
このような歴史もあり、大島の水中は噴火により流れ出たマグマが形成したダイナミックな地形で溢れ、他にはない“生きている火山”を海からも堪能できる。
伊豆大島は地質学的にみた日本の貴重な自然資源として2007年には、日本の地質百選に選定され、2010年には日本ジオパークにも認定されている(その見事な地層は*6のここ参照)。
三原山の噴火に伴い全島民が一時島を脱出した日(2-2)へ続く
三原山の噴火に伴い全島民が一時島を脱出した日(参考)へ
三原山は過去1500年の間に、約150年の周期で大規模噴火を起こし、その間に、中規模噴火を繰り返して来た。
11月15日の最初の噴火は山頂火口で起きた。オレンジ色のマグマのしぶきを激しく噴き上げる、珍しい「ファイアファウンテン」(英:fire fountain。火の噴水また溶岩噴泉とも。)と呼ばれる現象が見られた。このタイプの噴火はハワイ島のキラウエア火山などにみられるものである。
19日火口にたまった溶岩はカルデラ内輪山(内輪山=中央火口丘のこと。外輪山の内側にあるのでいう。)の縁を超え溶岩流となって流れ出した。この時の溶岩流は外輪山を超えることはなく火山活動の脅威の景観に見物人が列をなしたという。
21日夕方小康状態にあった三原山は再び大噴火した。今度は1421(応永28)年以来の「割れ目噴火」であった。カルデラ内の内側と外輪山の北側で突然次々と地面に亀裂が走り、そこからマグマが火のカーテンのように噴出したのである。
●冒頭の画像は、11月21日の「割れ目噴火」とそれを見ている人たち。
割れ目の長さはカルデラの内外でいずれも1㎞にわたった。外輪山の新しい火口列から流れ出る溶岩流は、午後にはカルデラ外の噴火口から、人口が密集しているふもとの、元町市街地区に溶岩が向かったため、同日深夜になって、全島民1万3千人と観光客2000人に避難命令が出た。溶岩流は最終的に民家から300m付近にまで達したところがある。
●上掲の画像は、11月22日午前5時東京竹芝桟橋(ここ参照)に着いた避難民たち。大島を出た船は静岡県伊東港、東伊豆の稲取港へも向かい、家族が離散したケースもあったという。戸締りもせず、簡単な手荷物、あるいは着のみ着のままで非難した人たちもいた。島民が島に帰ったのは12月19日以降のことである。この時は、その後一カ月も避難生活が続くとは思いもよらなかっただろう。
この3回の噴火について、火山噴火予知連絡会は、正確な直前予知情報を出すことに失敗したようだ。
火山性微動(マグマや水蒸気が火山の地下を移動したり、沸騰して気泡が発生することなどによって起こる地表の微弱な振動。)は7月下旬からあった。しかし、予知連は10月30日、「将来の噴火の可能性が否定されたわけではない」「大規模噴火が切迫している兆候は認められない」とのあいまいなコメントを出して、まず1回目の空振り。
噴火直後には、下鶴大輔・予知連会長が「大規模な噴火はない。溶岩が外輪山の外へ流れることはないだろう」とコメントしたが、割れ目噴火でこれも覆された。12月12日には、「火山活動は短期的に見れば休止に向かいつつある」との統一見解をまとめ、こうした判断に基づいて同日、東京都の災害対策本部(ここ参照)が全員帰島を決定した。ところが帰島開始の前日の18日になってまたしても噴火が起きた。同日夜、下鶴会長は「いいわけはしません。」「この程度の噴火の余地は難しい」と、敗北を認めざるを得なかったという。
溶岩流が山を下るという危機感の中で、全島民の避難は整然と行われた。しかし、それをいつ、どういう状況で、解除するのかが当時問題となった。
避難した島民は東京都内の小中学校、スポーツセンター、福祉会館などに分散して収容された。急な脱出行だっただけに、着の身着のままの人も多く、日がたつにつれて体の不調を訴える人が増えていった。火山はその後小康状態を続けたが、科学には「もう大丈夫」と断言できるほどの予知能力はない。結局帰島は、中曽根康弘首相ら政治の強いリーダーシップで判断された。「解除」には政治が関与せざるを得ないことを印象付けたのだが・・・・(画像、文等『アサヒクロニクル週刊20世紀』1986年号参照)。
火山活動と地震活動の間には, 密接な関係があることが古くから知られているようだが、ここのところ日本列島で火山の噴火が相次いでいる。
最近では、2013年に小笠原諸島の西之島が噴火以降、現在も活発な火山活動が続いている。西之島は海底火山の活動により生じた火山島(無人島)であるが、現在も活発な噴火活動が見られ、大量の溶岩流や噴出物が海面上まで堆積して西之島(旧島)付近に新しい陸地を形成しており、この陸地は「西之島新島」と命名され、「新島ブーム」とマスコミにも報道され、大きな話題となった。これなど、人的被害がなく島が大きくなるのだから日本にとっては結構な話ではあるが、昨2014年9月には御嶽山(長野、岐阜県)が噴火し、戦後最悪となる噴火による犠牲者63人(死者。内行方不明者5人)を出した。
今年2015(平成27)年に入ってから5月には、屋久島の西方約12kmに位置する口永良部島新岳で爆発的噴火を起こし、火砕流が海岸まで到達した。噴火による避難は日頃からの訓練のおかげで、1人の被害者も出さず見事にできたが、今も噴火警戒レベル5が続き、屋久島に避難している避難民の方は未だに帰島のめどが立たずに困っておられると聞く(*1参照)。この後何年避難生活をしなくてはならないのか・・・。三原山の噴火の時以上に避難生活が長引いており、帰島の時期についてはやはり政治家がしなくてはならないのだろう。
そのほか、頻繁に噴火を繰り返している鹿児島県の桜島と諏訪之瀬島を除いて6月には長野県と群馬県堺にある浅間山、8月には、小笠原諸島南端近くの硫黄島、9月には、神奈川県と静岡県にまたがる箱根山、熊本の阿蘇山、10月には 北海道の雌阿寒岳、霧島山(えびの高原〔硫黄山〕周辺での火山性地震頻発)など火山活動が活発化したり、噴火に至るケースが相次いでおり、2011年3月11日の東日本大震災以降、火山噴火が多いと感じている人は少なくないだろう。
20世紀以降に世界で起きたマグニチュード(M)9級の巨大地震後には、周辺で例外なく噴火が発生しているようだが、東北地方太平洋沖地震だけが、これまで噴火が起きておらず、例外的だと思われていたのだが、昨年9月に、御嶽山が噴火して以降、日本の火山も今後、活動期に入る可能性があると指摘している専門家もいるようだ。
ただ詳しいデーターがないが、「長い目で見ると実は、この100年のあいだ、日本列島は異常なほど静かだっただけと言える。
火山の噴火はさまざまなタイプと規模があるが、火山学者は東京ドーム約250杯分以上の噴出物があったものを「大噴火」と定義している。この「大噴火」は日本の場合、100年間に4~6回ほどは必ず起きていた。それが20世紀に入って以降、1914年の桜島と、1929年の北海道駒ヶ岳で「大噴火」があっただけで、ずっと静かな状態が続いている。そう考えれば、3.11以降、むしろ普段に戻っただけとも言えるわけで、今世紀に4~6回の「大噴火」が起きても、何の不思議もない。」・・という(*2参照)。
日本が誇る富士山は、2013(平成25)年6月には関連する文化財群とともに「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」の名で世界文化遺産にも登録され、近年アベノミクスの円安政策なども引き金となり、日本を訪れる外国人観光客も激増し、富士登山客もこれにより、激増している(ただ昨年は天候不順で少し減少 ここ参照)。これは結構なことなのだが、その富士山がいつ噴火してもおかしくないとも言われている。
もし実際に富士山で噴火が起こったら、・・・、首都東京はどうなる・・・? 日本は大変なことになってしまうだろう。心配はないのだろうか?
【最悪のシナリオ】富士山が噴火したら東京はどうなる?? - NAVER まとめ
こんなことには何の知識のない私などがいくら考えても仕方がないことなのでこれ以上詮索しないようにしよう。
ところで、三原山は、伊豆大島の大半を占める複式活火山(複式火山参照)であり、その最高点は三原新山(764m)である。富士火山帯に属し、玄武岩の安山岩(火成岩の種)。ここ参照)からなり、40あまりの寄生火山(側火山参照)がある。
狭義の三原山は外輪山に囲まれた直径 3~4kmのカルデラ内にある円錐状の中央火口丘をいっている。1777年に始まった安永噴火で誕生(*3の伊豆大島 有史以降の火山活動参照)し、頂部に直径300 m、深さ200 m以上の切り立 った竪坑状の火口が口を開けている。
日本の活火山の中でも玄武岩質マグマの活発なこと で知られており、およそ35年以内に一度は比較的大きな噴火を行い、少しずつ姿を変えている。
その間に起こる小噴火も含めて、吹き上がる火柱や火映は古来御神火とあがめられてきた。
●1951年の噴火。
●1957年噴火。
三原山の噴火は、戦後では、1950(昭和25)年7月15日に突如活動を開始し、その後しばらくなりを潜めていたが、1951(昭和26)年2月4日再び噴火を始め溶岩流がラクダに乗って歩く砂漠地帯の大半をうめたという。いずれも中規模噴ではあったが、これに、続き1957(昭和32)年10月13日にも1950以来の大規模な噴火をし、この時の爆発で火口付近の観光客のうち1名が、火山弾によって死亡し、53人が重軽傷者を負ったという(*3の伊豆大島 有史以降の火山活動参照)。そして、この1986(昭和61)年11月15日の大噴火では全島民が避難する騒ぎになったのだがこの噴火以来静けさを保ち、まじかに火口周辺の絶景を見ることができ、振り向けばカルデラ内外に四季折々のすばらしい景観がひろがり、さらに海原を越えて伊豆の島々から伊豆半島・富士山までグルリと見渡すことも出来る。1998(平成10)年5月には三原山噴火口を一周する『おはち巡りコース』が開通し三原山の雄大さを間近に見る事が出来る様になった。特にここから見る噴火口は、まさに圧巻である。
この三原山が自殺の名所になったのは1933(昭和8)年のことである。三原山の自然に引かれて火口に身を投じた文学好きの女子学生、東京の実践高等女子学校専門部の学生らが投身、2月にも同行の国文科2年の学生が投身これらがマスコミで大々的に報じられて以降、三原山は自殺の名所になった。これらの事件のあと自殺志願者が相次ぎ、大島署では挙動不審なものを保護したり、自殺防止に努めたが一時は留置場の扉も閉まらないほどに満員状態になってしまったという。島民も自殺防止に必死で、郵便局員が「動く看板」を背負い、志願者に思いとどまるようにした。しかし、流行は衰えず、『明治・大正・昭和世相史』(社会思想社刊)によるとこの年は4月までに三原山での自殺者は60人、未遂者は160人にも上ったという(『アサヒクロニクル週刊20世紀』1933-34年号、参照、)。島民の方にとっては迷惑な話でしたね~。
●自殺防止のため「動く看板」を背負って歩く郵便局員。
その三原山のある伊豆大島の。面積は91.06平方キロm。行政区域は、東京都の町大島町であり、都はるみの歌「アンコ椿は恋の花」で知られる。
東京都の区域内には気象庁が、火山災害軽減のため、監視し、噴火警報・予報を発表している全国110の活火山(*3参照)のうち、21の火山が存在している。これらの火山は全て島嶼(とうしょ)地域に存在し、住民が居住している火山島は8つある(大島、利島、新島、神津島、三宅島、御蔵島、八丈島、青ヶ島)。このうち特に活発に活動しているのが大島と三宅島で、この100年間で大島が3回(36~38年間隔)、三宅島が4回(17~22年間隔)噴火しており、噴石、火山灰、溶岩流及び火山ガスによる直接・間接の被害や住民の避難が発生しているいう(*4参照)。
大島と名のつく島は日本各地にあるが、国土地理院では伊豆大島と表記する。
伊豆大島は、本州で最も近い伊豆半島からは南東方約25kmに位置する。
現在の伊豆大島の下には、岡田火山、行者窟火山、筆島火山の三つの古い火山が隠れている。乳ヶ崎~岡田~筆島にかけての海岸に急な崖があるのは、古い火山が露出しているからだそうだ。三つの火山が活動していたのは遥か昔、数十万年も前のこと。
伊豆大島火山は今から数万年前、次第に活動を終え、海水に侵食されていったこれら三つの火山の近くに海底火山として誕生した。誕生まもない伊豆大島火山の火口は海面近くにあり、地下から上がってきたマグマは水と接触して、激しい噴火を繰り返した。噴出物が火口のまわりに積もり、火口が海面から顔を出し、現在の大島の形がほぼ出来上がったのは約2万年前の事であった。つまり、伊豆大島はその噴き出たマグマによって三つの古い島(火山体)を覆って、形成された島…ということになる(*3のここまた* 5 参照)。三つの古い火山体は、大島北端の乳が崎から大島南東部の筆島まで続く海食崖において露出している。
このような歴史もあり、大島の水中は噴火により流れ出たマグマが形成したダイナミックな地形で溢れ、他にはない“生きている火山”を海からも堪能できる。
伊豆大島は地質学的にみた日本の貴重な自然資源として2007年には、日本の地質百選に選定され、2010年には日本ジオパークにも認定されている(その見事な地層は*6のここ参照)。
三原山の噴火に伴い全島民が一時島を脱出した日(2-2)へ続く
三原山の噴火に伴い全島民が一時島を脱出した日(参考)へ