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米国のテレビドラマ『ローハイド』(西部劇)が日本で放送開始された日

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ローハイド』(Rawhide)は、1959年1月9日~1965年12月7日までアメリカCBSで制作・放送されたドラマ(テレビ映画西部劇)である。
日本では、10ヶ月後の1959(昭和34)年の11月28日~1965(昭和40)年10月14日まで、NET(現:テレビ朝日)系で放送された。その後、数度再放送が行われ、最近では2006(平成18)年にNHK-BS1でも放送された。


「INCIDENT OF THE CALICO GUN(おとりの女)」は、『ローハイド』第1シーズン[1-15]、1959年4月24日(日本放映日1960/3/5)のものである(*2参照)。

西部劇(Westernの訳語)は、アメリカの映画とともに歴史を歩んできた。そして西部劇はハリウッドが築き上げた独自のジャンルであり、西部開拓の歴史を持つアメリカだからこそ生まれたとも言える。
19世紀後半の特に1860年代から1890年代にかけてアメリカの西部開拓時代に、フロンティアと呼ばれた未開拓地であったアメリカ西部を舞台にした西部劇は、開拓者魂を持つ白人の主人公が西部の荒野で、逆境にも立ち向かい、無法者や先住民と対決するというプロット(物語)が、アメリカ人の開拓者精神と合致し、大きな人気を得て、20世紀前半のアメリカ映画の興隆とともに映画の1つのジャンルとして形成されたもので、第二次世界大戦が終わる頃まで、アメリカ映画の中でも確固とした地位を築いていた。
そして、戦後はテレビの登場とともに数多くのテレビ西部劇が製作され、それらは1960年代初頭まで隆盛を誇っていた。
テレビの実験放送が日本で開始されたのは1939(昭和14)年3月のことであるが、日本放送協会(NHK)のテレビ放送開始(日本での地上波テレビ放送の開始)は、戦後の1953(昭和28)年2月1日のこと。そして同年8月28日に、日本テレビが、放送を開始、これが、民放での、初めてのテレビ放送開始である。
続いて、1955(昭和30)年4月1日 、 ラジオ東京(KRT・KRテレビ、現:TBSテレビ)がテレビ放送を開始以降、次々と、特に 1958(昭和33)年から1959(昭和34)年にかけて多くの局が開設された。
当時の主な番組は大相撲、プロレス、プロ野球などのスポーツ中継や、記録映画など。まだ放送が開始された当初のテレビは高価なものであり、一般人には買えないため、多くの大衆は繁華街や主要駅などに設置された街頭テレビや、喫茶店、そば屋などが客寄せに設置したテレビ、また、一部の富裕世帯宅で見ていたが1959(昭和34)年4月10日の皇太子明仁親王今上天皇)御成婚の中継をきっかけにテレビ受像機が一般に普及し始めた(ミッチーブームが起こる)。これは、1950年代の映画黄金期(第二黄金時代)以降年々縮小傾向にあった、日本の映画業界には大きな打撃を与えた。
そのため、この頃より、東映を除く映画会社が、テレビへの作品販売や所属俳優の出演を拒否したため、代替として、アメリカ製のホームドラマや当時アメリカで隆盛を誇っていた西部劇などが多く輸入され、当時のテレビ番組の主力として高い人気を博していた。このような、傾向は1970年頃まで続いたが、これが、アメリカ的生活様式を日本の家庭に浸透させる要因にもなったといえる(アメリカ合衆国のテレビドラマ一覧〔年代順〕参照)。
1959(昭和34)年2月1日に教育テレビ局としてスタートしたばかりのNET(現:テレビ朝日)が、当時、単発番組を除いてテレビ映画としては初の一時間枠の西部劇『ローハイド』『ララミー牧場』をゴールデンタイムにぶつけて、他局に対抗した(当時の西部劇は30分ものばかり)。
ブラウン管白黒テレビが、やっと日本の家庭に普及し始めたころ、茶の間に人気を博したのが、先行した「ローハイド」であった。それに続き放送された「ララミー牧場」も1959年から1963年にかけてアメリカのNBCで放送されたものであり、60年代前半のテレビ西部劇の黄金期にローハイドと並んでもっとも視聴率が高かった番組であった(「ララミー牧場」の日本での放送は、1960年6月30日から)。

勇壮なメロディーとフランキー・レーンの力強い唄いっぷり。ネッド・ワシントン(ここ参照)作詞、ディミトリー・ティオムキン作曲によるテーマ曲「Rawhide」は、ポピュラー音楽としても大ヒットした。

ローレン、ローレン、ロレーン・・・・ローハイド! ♪

歌の冒頭部分は確かに、ローレンローレンローレン・・・と、聞こえるが英語の歌詞を見るとRollin' Rollin' Rollinとなっている。日本語読みではローレンではなくローリングなのだが、の意味がよく分からなかったが、これは、どうも、牛をあやつる掛け声のようで、進め!とか 行け! という感じらしい(ここ参照)。
この歌の合間には牛を追う掛け声やピシッ! ピシッ!と鳴り響く鞭の音も入っている。
英語の"Rawhide"(ローハイド) は、直訳すれば「ロウ(raw、生の)」+「ハイド(hide、皮)」、つまり「生皮(きかわ)」「生皮の鞭」「生皮の鞭で打つ」などを意味するが、そこから派生してカウボーイ達のズボンの上から着用する革製のズボンカバー(チャップス)のことを指す言葉でもあり、更にはそこから、カウボーイ達そのものを指す言葉ともなっているようだ。
したがって、タイトルの『ローハイド』の意味するところには、荒野の中を牛の大群を追うカウボーイといったところでもあるようだ。CBSで制作開始時の仮タイトルは「アウトライダー」(牛の群れの外側から牛を追い立てるカウボーイの意味)だったらしいが、CBSのウィリアム・S・ペイリー会長が反対し、「生皮」を意味する「ローハイド」と名付けたのだという(*2参照)。
『ローハイド』、は、南北戦争後の1870年代のアメリカ西部を舞台に、テキサス州サンアントニオからミズーリ州のセデリア(ローハイドの中ではセデリアと言っているが地名は“SEDALIA”と書き、カタカナ書きではセダリアだが?)まで、約3000頭の牛を運ぶカウボーイ達の牛を狙うインディアンや強盗、あるいは、日照りや雷雨・砂嵐といった自然との戦い、また、仲間同士のトラブルなどの克服といった長い道中ロングドライブで起こる,様々な出来事や事件を描いた物語である。
この物語の魅力は、運ばれる牛の大群が画面いっぱいに咆哮する迫力ある映像もさることながら、汗と誇りにまみれた衣服のカウボーイたちの生活をリアルに描いたところにあったのではないか。
テキサス州は今でも家畜生産量では合衆国内で最大級であり、牛が最も収益を上げる生産物となっている。当時、南北戦争後に、牛が不足し、東部での食肉価格が高騰していたため、高く売れる牛を、東部への運送拠点である鉄道のターミナル駅のあるセダリアまで牛を運んだのである。最寄りの駅といっても、テキサスからは約1300Km離れたところであり、途中で牛に草を食べさせ、太らせながらの旅だったようだから、3~4ヶ月かかるのが普通だったようだ。  

こんなロングドライブを描いた映画にハワード・ホークス監督、ジョン・ウェイン主演による『赤い河( Red River。)』があった。
『ローハイド』よりちょうど10年ほど前の1948年に、ニュース雑誌『サタディ・イヴニング・ポスト』に掲載されたボーデン・チェイスの史実に基づいて執筆した小説"Blazing Guns on the Chisholm Trail"(『チザム・トレイル(英語版)』)を映画化したもので、アカデミー賞2部門(アカデミー原案賞:ボーデン・チェイス、アカデミー編集賞:クリスチャン・ナイビー)にノミネートされた、西部劇映画の傑作の一つであるが、この映画はハワード・ホークスにとっての初めての西部劇映画でもあった。
チザム・トレイルとは、1877年にジェシー・チゾルム(Jesse Chisholm)が開発した、テキサスからオクラホマ州を北へ縦断しカンザス鉄道へと向かう連絡路(cattle drive=キャトルドライブ=集めた牛を他の場所に移動させる。)のことで、映画では牧場主のトーマス・ダンソン(架空の人物。ジョン・ウェイが演じている)とカウボーイたちが1万頭の牛を率いて、1000マイル/100日をドライヴ(旅)する過程が描かれる。
赤い河(Red River)とは、テキサス州北西部よりルイジアナ州へと流れミシシッピー河に合流する延長1200マイルの大河のことである。当時新人のモンゴメリー・クリフトは、本作に出演した事によりスターの仲間入りを果たした。
『ローハイド』は『赤い河』をテレビドラマ化したのではないかとも思えるところがある。もし、時間があれば映画評論家町山智浩の『赤い河』の解説をしているものがあり、これを見ると当時の「チザム・トレイル」(キャトルドライブ)のことや当時のカーボーイなどのことがよく分かり、『ローハイド』を見るうえでも参考になるので、見られるとよい(少し長いので、後で見てもよい)。

町山智浩の映画塾!#74『赤い河』<予習編>
町山智浩の映画塾!#74『赤い河』<復讐編>
『ローハイド』の主演は隊長ギル・フェイバー役のエリック・フレミングである。
彼の俳優としてのキャリアは1950年代前半にテレビ映画の単発での出演が多く、映画はB級映画の「宇宙征服」((1955年米国。*4、*5参照)などに準主役として出演しているが、彼をスターにしたのは、まさにこの「ローハイド」であり、日本でもこの番組の主演で一気に俳優として知られた存在になった。
『ローハイ』では1966年までの全8シーズン217話のうち、7シーズン203話まで、3000頭の牛を運ぶ長旅の隊長ギル・フェイバーを演じている。
当時は助演格でレギュラー出演して、まだ若く好奇心旺盛で女に甘い相棒の副隊長ロディ・イェーツ役を演じていたのが、今では大ス ターのクリント・イーストウッドであり、ローハイド撮影時は、エリック・フレミングの方が格が上であった。
これに堅実な仕事ぶりの斥候(せっこう patrol)役ピート・ノーランをシェブ・ウーリー、メンバ最年長の頑固だが料理自慢のコックであるウィッシュボン役のポール・ブラインガーらが絡んで一話完結方式で毎回展開された。
主演のエリック・フレミングは隊長であることから他のメンバーは日本語版では「フェイバーさん」と尊敬を込めて呼び、それがそのまま彼のイメージとなった。そしてドラマの中ではイーストウッドに助言したり諭したりする人生の先輩としての役割を果たしていた。

上掲の画像:前列髭の男性がポール・ブラインガー、後列左より、エリック・フレミング、グ、クリント・イーストウッド、シェブ・ウーリー
1959(昭和34)年11月からNETテレビ(現在のテレビ朝日)の土曜日夜10時から放送を開始し、その後月曜日そして木曜日に移って1965(昭和40)年10月まで同局で放送された。エリック・フレミングが最後の第8シーズンを降板したので、最後のシーズンは相棒であったクリント・イーストウッドが主演し、隊長格になったが、このシーズン限りで製作を中止している(各シーズンの詳細等は※:2を参照)。そして日本ではこの最後のシーズンの作品は放送されていないが、のちにDVD化されている。このころにはさすがに成長し、初期の副隊長役時からは随分と貫禄が出ている。上掲の画像と以下を比較してみるとよい。
ローハイド | クリント・イーストウッド初主演作が初DVD化!
クリント・イーストウッドは、1950年代初めにユニバーサル映画と契約を結ぶが、当初は『半魚人の逆襲』(*5 参照)『世紀の怪物/タランチュラの襲撃』(*5参照)といったB級映画の端役しか与えられないという、不遇の時代を過ごしたが1959年からCBSで放映されたテレビ西部劇『ローハイド』が約7年間に亘り220話近く製作された人気シリーズとなったおかげでイーストウッドの知名度と人気も世界的に高まった。
1964年にはセルジオ・レオーネ監督にイタリアに招かれ、マカロニ・ウェスタンの嚆矢でありかつそれを代表する作品となった『荒野の用心棒』に出演。その後も『ローハイド』の撮影の合間を縫って『夕陽のガンマン』、『続・夕陽のガンマン/地獄の決斗』と都合3作のレオーネ作品に出演した。これらの映画の人気により、イーストウッドの映画俳優としての評価はヨーロッパが先行し、アメリカに逆輸入された形となった。
『ローハイド』は初期には冒頭で隊長ギル・フェイバーの独白で始まっている。隊長の任務、西部を旅する者の心得、カウボーイの生きがい、頭にかぶるテンガロンハットの使い方などを語り、最後は「私の名はギル・フェイバー。この隊の隊長である」で終わって、ストーリーが始まる(フェイバーの「オープニング語り」は*2のここを参照)。
そして毎回ラストでは3000頭の牛を出発させる合図となる掛け声「さあ~行くぞ~。しゅっぱ~つ(出発)」の掛け声とともにフランキー・レーンの主題歌が流れるが、日本語版でのフェイバー役小林修の渋い声がぴったりで、その後のフランキー・レーンのローハイドの唄とともにいつまでも私たちの記憶に残っている。とにかく、日本の時代劇とともにアメリカの時代劇ともいえる西部劇が大好きであった私には忘れられない作品である。
歌を歌っているフランキー・レイン(Frankie Laine)はアメリカ・イリノイ州出身の歌手・俳優で、本名はフランチェスコ・パオロ・ロヴェッキオ(Francesco Paolo LoVecchio)。イタリアシシリー島の移民の子で、1952年のフレッド・ジンネマン監督の西部劇映画で「真昼の決闘」(主演:ゲイリー・クーパー)のテーマ曲「ハイ・ヌーン」(音楽を担当したディミトリ・ティオムキンアカデミー歌曲賞を受賞)や「ローハイド」のテーマ曲のほか、1957年ジョン・スタージェス監督の西部劇映画『OK牧場の決斗( Gunfight at the O.K. Corral)』(主演:バート・ランカスター」のテーマ曲(作曲は「ローハイド」同様ディミトリ・ティオムキン)もヒットさせている。
「ハイ・ヌーン」は映画「真昼の決闘」のサウンド・トラックでは、テックス・リッターの歌で流れ、テックス・リッターのレコードも発売されたが、全米では12位止まりだったが、フランキー・レインのカヴァー盤が全米5位のミリオン・セラー・ヒットを出し本命盤を上回ったそうだ(*6参照)。
また、「ローハイド」や「OK牧場の決斗」のテーマ曲はアメリカではヒットではなかったそうだが、日本ではヒット(*5参照)。どちらも私自身は大好きな曲である。
ところで、「ハイ・ヌーン」。テックス・リッターの歌とフランキー・レインの歌どちらが好きですか。



上掲のものテックス・リッターの、「ハイ・ヌーン」、下がフランキー・レインのものです。


この下はフランキー・レインの「OK牧場の決闘」です。



どうでした。この映画『真昼の決闘』の最大の特徴は、それまでの西部劇では悪漢に立ち向かう主役の保安官は無敵のヒーローとして描くのが普通であったが、そのイメージに反して、暴力を恐れる普通の人間として描かれている事にある。主演が>ゲイリー・クーパーで、歳を重ねて渋味のある中年男の孤独と苦悩を演じてアカデミー賞の主演男優賞を獲得し、後にモナコ王妃となったグレイス・ケリーが妻役を演じていた。きれいな人だったな~。
そういえば、『ローハイド』で乗馬が颯爽としていた斥候ピート・ノーラン役のシェブ・ウーリ-は、この『真昼の決闘』で悪役の一人として出演し、親玉と並んでゲーリー・クーパーと対峙した際、4人の悪党の中では真っ先に撃たれ、声もなく死んでいたが、彼は、非常に多芸でカントリー歌手でもあった。彼の歌っているものを探していたら、一つ見つかった。以下参照。
One Eyed one Horned Flying Purple People Eater - YouTube
『OK牧場の決斗』は史実として名高い1881年10月26日、ワイアット・アープらを始めとする市保安官たちと、クラントン兄弟をはじめとするカウボーイズと呼ばれる土着の牧童達とがアリゾナ州トゥームストーンの町で撃ち合い銃撃戦となったこと(『OK牧場の決斗』)を題材にした西部劇映画である。しかし、これは正式な意味での決闘ではなく、表面的には市保安官が銃所持者を武装解除しようとした際に発生した銃撃戦と言える。そして実際にはアープ組とカウボーイズ組とのさまざまな確執の結果であるというのが今日の見方だそうである。ここでのカーボーイなど、先に紹介した映画評論家町山智浩の『赤い河』の解説を見ていない人は、それを見れば、当時のカーボーイが私たちが今想像しているようなカーボーイではないことがよくわかるだろう。史実では決闘後、アープ組は殺人罪で起訴されたが、全員無罪となったもののその後、アープ組はカウボーイズの追及を受け、いろいろ事件を起こしているようだ。映画では恰好いい保安官とされているアープも実際には元は無頼のギャンブラー(賭博師)だったのだ。
また、アープに味方してクラントン一家と撃ち合ったドク・ホリデイも歯学博士の称号を持っていたため、"ドク"と呼ばれていたが、アメリカ開拓時代のガンマンであり、ギャンブラーだったのである。
私は主演のアープ役のバート・ランカスターのファンだったがドク・ホリデイを演じていたカーク・ダグラス)も好きであった。

ところで、『ローハイド』がNETテレビで放送された当時、このテレビ番組のスポンサーは”トリスウィスキー”の「洋酒の寿屋」(今の)だったのを覚えていますか。
まだ安酒のトリスが販売の主軸であった時代、サントリーはこのマスコットキャラクターのアンクルトリスで成功を収めたといってもいいくらい。
洋酒天国というサントリーの発刊する雑誌や、トリスバーというウィスキーバーにもアンクルトリスを起用した。 洋酒天国にはアンクルトリスのイラストが表紙に起用され、トリスバーの看板や壁にもアンクルトリスのポスターが張られていたのを覚えている。
柳原良平がデザインしたイメージキャラクター「アンクルトリス」は、中年の男性をユーモラスに表現したキャラクターで、1960年代の酒類の広告キャラクターの中でも認知度が一番高い。なつかしいな~このCM。以下でどうぞ。


最近は、ソフトバンクの西部劇のCMテレビ映画「ローハイド」の主題歌が使われている。以下参照。、
上戸彩の影武者か ソフトバンク新CM白戸家「西部劇」篇が話題いろいろ話題の多いテレビ映画「ローハイドであったが、私にとっては、今でも忘れられないとても懐かしいテレビ番組であった。それにしても、最近はこのような西部劇が普通のテレビでは見られなくなっってしまったのが寂しいな~。

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