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日本初の自主開発油田(「カフジ油田」)を発掘した日

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1960(昭和35)年の今日・01月29日、日本のアラビア石油クウェート沖カフジ油田(*1のカフジ油田も参照)を堀り当てた。
カフジ油田は、サウジアラビアとクウェートの旧中立地帯(現在の分割地帯。ここ参照)であるカフジ(英語:Khafji。 アラビア語:ラスアル・カフジ=カフジ岬の意)の沖合約40kmにある、アラビア湾(別名ペルシャ湾陸棚(水深 30m )にある海底油田であり、これは、石油メジャーに拠らない日本初の自主開発油田であり、「日の丸油田」として知られている。

上掲画像赤塗りの所がKhafji(カフジ)。

戦後の1957(昭和32)年、日本輸出石油(株)(アラビア石油株式会社の前身)の社長山下太郎)が、サウジアラビア政府と石油採掘利権獲得のため交渉を重ね、サウジアラビアおよびクウェートの中立地帯沖合地域の石油開発利権協定を締結し、サウジアラビアと採掘権を獲得。
翌1958((昭和33)年2月、山下は、石坂泰三ら財界の協力のもと、電力、鉄鋼、商社など日本の代表的企業40社の参加を得て、アラビア石油(株)を設立、日本輸出石油からサウジアラビアの利権を継承。翌年クウェートでの採掘協定も締結。
サウジアラビア政府、クウェート石油公団もそれぞれ10%ずつ株式を所有し、東京電力関西電力等を上回る最大の株主となる。1960(昭和35)年1月に 大規模海底油田を発見し、これをカフジ油田と命名し、1961((昭和36)年2月より生産が開始された。
カフジ油田の産油量は、1979(昭和54) 年の 40 万バレル/日台をピークとして減退に転じ、2002(平成14) 年の産油量は 25.4 万バレル/日、同年末における累計生産量は 39 億 9,700 万バレルと公表されているそうだ。
アラビア石油は、サウジアラビア・クウェート両国から得た利権に基づき操業を行っていたが、サウジとの採掘利権協定は 2000 (平成12)年 2 月、クウェートとの協定は 2003(平成15) 年 1 月にそれぞれ失効し、現在は、サウジ側がアラムコの子会社 AGOC (Aramco Gulf Operations Company=アラムコ・ガルフ・オペレーションズ社)、クウェート側は KOC(クウェイト石油会社) の子会社 KGOC (Kuwait Gulf Oil Company)が権益を継承している。
ただし、クウェートとは、2023(平成35)年までの原油売買契約が結ばれており、以降はクウェートを中心にオペレーターを務める企業などに技術者を派遣する形で事業の継続を行ってきたが、2008(平成20)年にクウェートとの技術サービス契約が終了し、事業規模が縮小。
2012(平成24)年12月に持株会社のAOCホールディングスは、石油・天然ガスの開発・生産事業(石油上流事業=原油の開発・生産部門)からの事実上の撤退を発表。2013年(平成25年)4月1日に会社分割によりJX日鉱日石開発テクニカルサービス株式会社を設立し、石油上流事業関連の人員を承継した上で、その全株式をJX日鉱日石開発株式会社に譲渡した。
JX石油開発株式会社は、2010(平成22)年4月に日本の石油元売最大手(第1位)の新日本石油(現・JXエネルギー)と同6位新日鉱ホールディングス(現・JX金属)が経営統合により設立したJXホールディングスを中心とする「JXグループ」の内、石油や天然ガス等の開発に関連する事業を再編し同年7月1日に発足したものである。JXの名称は、ジャパンの「J」と未知を示す「X」から・・・とか。

国内石油卸1位の新日本石油と同6位の新日鉱ホールディングスとの経営統合は、業界内では1999(平成11)年に日本石油三菱石油とが合併して以来約10年ぶりの大型再編であった。
このような大型の経営統合の背景には、石油危機(オイルショック)後の金融危機による景気後退や環境問題に端を発する石油製品の需要減といった当時の状況(*2:の第2編 第4章第2節 石油製品需要の動向を参照)があり、規模拡大による生産力・販売力の強化が不可欠と判断されたためといわれているが・・・。。
太平洋戦争への突入が、石油資源の獲得を大きな要因としていたように、エネルギー資源の乏しい日本は、戦前からその確保に苦慮してきた。
戦後、燃料や製品の原料として、石炭から石油へシフトする中で、日本は独自の石油資源獲得に動き始めた。日本が独自にこだわったのは、かつてアメリカに石油輸出を禁止(ABCD包囲網参照)されて苦境に陥り、戦争へ発展した苦い経験があった。
そんな中で、日本輸出石油株式会社がサウジアラビアで採掘権を獲得し、クウェート沖の海底で大規模な油田を掘り当てた。これがカフジ油田であり、石油メジャーと呼ばれた欧米の巨大石油企業に頼らない日本初の自主開発油田、いわゆる「日の丸油田」と称されるものの第1号であり、この海外油田獲得の意味するところは非常に大きく、その採掘に努力した、山下太郎は、後年アラビア太郎と呼ばれるようになった。
確かにカフジ油田の存在感は大きく、それに関わった人々の情熱や先見性は素晴らしいが、日本の石油開発の歴史(*2の「石油産業年表」を参照)を遡ってみると、カフジ油田の34年前、1926(大正15)年に北樺太石油会社が、旧ソ連サハリン(日本ではこれを「樺太」と呼ぶ)州北部のオハにおいて、日本初の石油の海外自主開発に成功していた(オハ油田参照)。
当油田は、北樺太のオホーツク海側で最初に開発された油田であり、日本が占領中の1926(昭和元)年に、北樺太石油会社設立以降1944(昭和19)年、北樺太における日本側の採掘権が消滅するまで生産されていたが、ソ連側が人員や物資の出入りを制限するなどの操業妨害(*3参照)をしばしば行ったことから、1941(昭和16)年に松岡洋右外相が日ソ中立条約締結の引き換えにその利権を放棄したという歴史がある。

日露戦争(1904年2月8日 - 1905年9月5日)後のポーツマス条約(日露講和条約ともいう)において,サハリン島(日本では樺太〔からふと〕、樺太島などと称する)は北緯50 度線を境界として南は日本領に,北はロシア領に分割されていた。
ここでいう北樺太とは,そのロシア領であったサハリン島の北半分を指しているが、なぜ、この期間に日本が北樺太で軍政のもと石油開発を行っていたのか・・・。

それは、1917(大正 6) 年に勃発したロシア革命の翌1918(大正 7)年、同革命によるロシア内戦の武力干渉目的で、フランス,イギリス,アメリカと共同して日本も、シベリアへ出兵して干渉戦争を続けていたことに始まる。
我が国の石油政策は、戦前戦時を通して軍事的目的と密接に関連しながら展開されてきたようで、特に、海軍の要請を反映しながら実行され、必ず政策の裏には軍事的目的が読み取れるという。
北樺太油田が最初に発見されたのは、1880(明治13)年であり、ロシアの毛皮商人によってオハ川上流に石油の大露頭が発見され、その後、ロシア人による試掘・調査が行われ有望な油田であることが判明。1903(明治36)年には、イギリス調査隊も北樺太に入り調査を行い、イギリスは、1910(明治43)年にはロンドンでセカンド・サガレン・シンジケートという新会社をも設立していたようだ。
わが国において北樺太の油田が注目され始めたのは、日露戦争中に日本軍が北樺太を占領し、1906(明治39)年から1907(明治40)年にかけて日露間の南北樺太境界画定の交渉が行われて以降のこと。
天津にあった支那石油会社の代理店である松昌洋行が、1911(明治44)年に北樺太に技師を派遣し現地の調査を行い、油田開発の有望なることを海軍省および日本石油に報告したことから、イギリスの北樺太油田利権獲得の活動も日本人の知るところとなり、大隈重信をはじめとする識者の問でも海外石油資源の獲得の必要性が説かれ始めたようだ。
大隈はこれを好機として捉え、1918(大正 7)年、ロシア有数の炭坑経営を行っているスタヘーエフ商会と久原鉱業(久原財閥)との間に合弁事業に関する覚え書が交換され、調査隊が北樺太に派遣され数カ月の調査をした後帰国。
従来より油田事業の監督督励をしていた海軍省は、この活動経緯に着目し、久原鉱業一社だけではなく広く民間有力企業を集め、組合を組織して事業を促進する方針を打ちだした。
こうした海軍省の呼びかけにより1919(大正8)年、久原鉱業、三菱商事(当時の三菱財閥の一つ)、大倉商事(日本石油と宝田石油に次ぐ石油会社、大倉財閥、当時)、日本石油(現:新日本石油)、宝田石油(当時日本石油とともに二大石油会社であった。1921年両社合併。)の五社が提携して北辰会という組合を組織。北辰会は、「久原・スタヘーエフ契約」の権利・義務一切を継承し、従業員二百仁余りを現地に派遣し採掘活動に着手したが、現地における治安は、極めて悪く、そのうえ1920(大正9)年には、尼港事件が発生。日本から救援部隊が出動し、事件は鎮圧され、同年4月混乱は一応治まった。
日本政府は、その責任と賠償を求め,革命中のロシアにその責任をとりうる政権が樹立されるまでの保障として,この事件以降5年間尼港対岸のロシア領北樺太を保障占領すると同時に、油田地域に守備隊を派遣した。
この間の北樺太は,日本帝国に新たに加わった「新領土」と見なされ,日本軍政下の同地には多数の日本人が来住し経済活動を行っていた。その頃の同地での日本人の活動の様子は、参考*4の「保障占領下北樺太における日本人の活動」を見ればよくわかる。
北辰会では、この事件発生のため活動を一時中止していたが、治安が回復すると採掘作業を再開。1923(大正12)年、オハで油田が発見され、同年中に最初の油井が生産を開始した。この間、1922(大正11)年には、北辰会は新たに三井鉱山(現:日本コークス工業株式会社)および鈴木商店(かつて存在した日本の財閥)を加えて株式会社北辰会に改組し、橋本圭三郎が会長に就任している。
そして、1924(大正13)年日ソ間の国交が修復され、北樺太の石油利権に関する問題が国家間レベルで交渉されることとなり、1925(大正14)年1月20日、北京で日ソ国交修復条約(日ソ基本条約)が成立し、さらに同年12月14日モスクワにおいてソ連下北樺太油田の開発に関する利権契約の調印が実現。
利権契約が国家間において正式に成立したので、北辰会は、その利権一切を新たに設立される北サガレン石油企業組合に譲渡することとした。 
北サガレン石油企業組合とは,ソビエト政府との問に締結された利権契約中の規定による北樺太油田を開発するための「日本政府の推薦する日本国企業」として設立された組合であり、北辰会の利権を受け継ぎ利権契約成立後は勅令によって「北樺太石油株式会社」に改組された。そして、海軍中将中里重次が、利権契約交渉の日本代表者および北樺太石油利権会社社長となった。 
1926(大正15)年3月5日、勅令第9号により同社は商法適用外の優遇措置をとることとなり、北樺太石油株式会社として改組されている(*5参照)。

石油は、このように海軍省主導のもと、民間企業連合体で開発に参加して、1944(昭和19)年に北樺太における日本側の採掘権が消滅するまで生産されていたが、最後は松岡外相が日ソ中立条約締結の引き換えに放棄した背景には何があったのか・・・。

1920年代に入り、大戦中の好景気から一転して、深刻な戦後不況に見舞われているところを関東大震災に見舞われ、経済に大きな打撃を受けていた。加えてアメリカが日本の中国進出を警戒して、1924(大正13)年には排日移民法を成立させ、日本人移民の制限などをした。
そこで日本政府は、ソ連との国交を樹立し、経済関係を結ぶことに方向を転じ「日ソ基本条約」を締結して、オハ油田などの北樺太石油地帯の経済的利権を手にした日本は事業化に一応の成功したようにも見えたのだが、1936(昭和11)年の日独防共協定(ここ参照)が成立すると、日ソ間の国際関係は悪化し始め、試掘期限の延長申請は認められなくなり、ソ連側の要求は厳しくなる一方で、人員や物資の出入りを制限するなどの操業妨害(*3参照)もしばしば行われ、日本政府は、1937(昭和12)年以降5年間に12,847,000円にのぼる莫大な石油試掘交付金を支給して援助を行ったが、日中戦争の拡大、事実上の日ソ問の戦闘状態を示したノモンハン事件(1938年)、その後に続く太平洋戦争(1941年)勃発の大きな流れには抗し得ず、1941(昭和16)年に松岡外相が日ソ中立条約締結の引き換えにその利権を放棄し1942(昭和17)以降、採油活動は中止されたのであるが、多くの人はこんな油田が存在したことすら知らないのではないだろうか・・。

アラビア石油はカフジ油田の生産を開始し、長い間、日の丸原油として日本の石油産業に貢献して来たが、2000年および2002年にサウジおよびクウェィトとの利権協定がそれぞれ失効、ついに2013年、事実上消滅してしまった。利権協定の更新交渉が実を結ばなかったことについては、色々言われている(*6も参照)が、その裏には、米系石油メジャーの動きもあったりして、企業単独による自主開発が、難しいことを示しているように思われるのだが・・・。。
カフジ油田の主油層(*1のここ参照)は白亜紀のブルガン層の砂岩とラタウィ層の石灰岩で、深さは前者が約 1,800m 、後者が約 2,300m で、隣接するサファニヤ油田(1951年に、アラビアン・アメリカン・オイル・カンパニー〔通称:ARAMCO=アラムコ〕によって発見された。*1 でサファニア油田参照)の開発が進むにつれて、本油田とサファニヤ油田とは一連のものであることが判明したため、両者を合わせて「サファニヤ・カフジ油田」と呼ぶことがあるそうだ。
アラビア石油のカフジ油田の利権喪失後、現在は、サウジ側がアラムコの子会社 AGOC (Aramco Gulf Operations Company)、クウェート側は KOC の子会社 KGOC (Kuwait Gulf Oil Company)が権益を継承し、共同オペレーターとなっている。
日本の原油輸入先は、2012年度実績で、83.2%を中東地域に依存(経済産業省「資源エネルギー統計年報」*7)しており、地域的にきわめて偏った状況となっている。
原油の中東地域への依存度は、第一次石油危機(オイルショック)が発生した1973年においても78%であったが、石油危機以降、輸入先の多様化を図り、中国、インドネシア、メキシコなどからの輸入を拡大した結果、1985年には68%まで低下したが、1990年代を迎えると、中東以外の産油国は、自国内の経済成長による需要増から輸出余力が徐々に低下したことから、再び中東依存度が高まり、近年は80%以上のレベルで推移しているようだ。
自然エネルギーの中でも石油のウエイトがいまだに高い以上、中東依存比率の大幅な低減は難しいものの、極力輸入先の分散化を図るとともに、新たな鉱区権益獲得と新規油田の自主開発促進や石油備蓄の拡充等を推進することが必要だろう。
アメリカでの「シェールオイル」の開発などが注目を浴びていたが、今、石油価格の急落で、アメリカのシェールガス関連業界がダメージを受けているようだが、同業界を積極的に後押ししたウォールストリートが、大ダメージを受けており(*8参照)、それが今世界の株価下落に大きく影響しているとも聞く。
こん後の日本の行方は・・・・。気になるところである。




参考:
*1:JOGMEC:石油・天然ガス資源情報
http://oilgas-info.jogmec.go.jp/index.html
*2:JXエネルギー:石油便覧トップ
http://www.noe.jx-group.co.jp/binran/index.html
*3:神戸大学 電子図書館 - 新聞記事文庫 外交(147-006) 2015年6月10日閲覧
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=10169437&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1
*4:保障占領下北樺太における日本人の活動 (1920-1925)(
http://eprints.lib.hokudai.ac.jp/dspace/bitstream/2115/52284/1/ES_62(3)_031.pdf#search='%E5%8C%97%E6%A8%BA%E5%A4%AA+%E4%BF%9D%E9%9A%9C%E5%8D%A0%E9%A0%98'
*5:北樺太石油株式会社と帝国石油株式会社
http://ci.nii.ac.jp/naid/110006263413
*6:アラビア石油破綻事件の深層
http://fujiwaraha01.web.fc2.com/fujiwara/article/zaikai0104.htm
*7:総合エネルギー統計 - 資源エネルギー庁 - 経済産業省
http://www.enecho.meti.go.jp/statistics/total_energy/
*8:第37話 石油価格急落、危ないのはロシアよりウォールストリート
http://jmcasemi.jp/column/article.php?article=1585
2008-01-1 - 化学業界の話題(データベース)
http://www.knak.jp/blog/2008-01-1.htm
5分でわかるエネルギー問題 - 地球村
http://www.chikyumura.org/environmental/earth_problem/energy_crisis.html
それゆけ!石油探検隊
http://www.sekiyuexpedition.com/
日露関係史 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E9%9C%B2%E9%96%A2%E4%BF%82%E5%8F%B2

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