今日5月11日は、「時の流れに身をまかせ」(テレサ・テン歌唱、作詞:荒木とよひさ)や「津軽海峡・冬景色」(石川さゆり歌唱。作詞:阿久悠)など多くの演歌・歌謡曲のヒットを生んだ作曲家・三木たかしの2009(平成21)年の忌日である(享年64歳)。
三木 たかし(本名:渡邊匡。わたなべ ただし)は、1945(昭和20)年1月12日東京都に生まれる。
歌手・女優の黛ジュン(本名:渡邊順子)は3歳下の実妹である。
三木 たかしのプロフィールについては、Wikipediaでも、貧困家庭に育ち、借金取りが訪れると妹と押入れに籠もり、紙で書いた鍵盤をひいて遊んでいたという。・・・とあるだけで、それ以上詳しいことは分からないが、彼が生まれた1945(昭和20)年は、第二次世界大(大東亜戦争〔太平洋戦争〕)終結の年であり、国民の生活はどん底に落ち込んでいた。主要都市の多くでは、空襲による焼け野原が目立ちトタン屋根のバラックや防空壕を住まいとする家族が少なくなった。敗戦後の復員兵に仕事はなく、もっと悲惨なのが、外地で生活をしていた約300万人とも言われる引揚者たちであり、住む家も仕事も援護の手さえ差し伸べられることはなかった。
中でも、家だけでなく、親おもなくし浮浪児となったあわれな戦災孤児たちが溢れていた。こうした国内にあふれた人々が一番直面していた問題は食糧問題であった。
配給制度はあったものの、終戦の1ヵ月前に6大都府県の主食の配給は2合1勺(297グラム)と定められていたが、戦争が終わって食糧事情はより悪化し、米はほとんど配給されず、芋や豆粕、くず芋が配給品となった。このため米を要求するデモが各地で頻発していた。だが、いっこうに配給は増えず、国民は手元に残った晴れ着や衣類を農村への買い出しや闇市などに持ち込み食糧を調達しなければならず、全国で戦死者よりも多い餓死者が続出した。
今NHKの朝の連続テレビ小説「梅ちゃん先生」(※1)でもそんな戦後の時代を背景としているが、実際には、もっと悲惨な状況であった。公共放送NHKの番組の舞台であるから、あの程度に描かれているのであろう。
「梅ちゃん先生」の家庭など貧しいと言っても大学病院の医師の家庭であり、当時としては恵まれた環境にあるから、主役の梅ちゃんもあんなのんびり屋で居られたのだろう。恵まれない人があの時代にあんな性格では生きてゆけない。
三木たかしと黛ジュンの兄弟が、貧困家庭に育ったといっても、当時は殆どの家庭が貧乏であり、私の家も戦後の混乱した時代に父が商売で詐欺に合いそれまでとは一転して、借金取りに追い回され、生きるか死ぬかの辛い子供時代を経験してきた。
昔から、"若いときの苦労は買ってでもしろ!"言われるが、厭が上にも子供の頃から音楽好きだった2人の兄弟が支え合いながらそのような境遇をバネに努力をした結果、兄弟そろって芸能界で、兄は偉大な作詞家として妹も偉大な歌手・女優として成功を収めたのだろう。
三木 たかしは、中学校卒業後、1960年代半ばごろには歌手を志して作曲家船村徹に弟子入りするも、船村から「君は作曲家の方が向いている」と云われ、作曲家に転換。1967(昭和42)年、当時の売れっ子作詩家であったなかにし礼の推薦を受け、「恋はハートで」 (歌唱: 泉アキ/クラウン・レコード) で作曲家としてデビューした。
泉アキ/恋はハートで - YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=gmRxu0OLD3M
しかし、この曲よりも前に彼が作曲した名曲がある。
今はなき昭和の歌謡界を代表する歌手・美空ひばり歌唱による「さくらの唄」がそれである。ひばりの歌としては余り広く知られていないかもしれないが、この曲は、三木たかしが10代のときに作った曲だそうで、後年になってこの曲に、なかにし礼が詞を書いて、三木たかしが歌ったレコードが1970(昭和45)年に発売されていたそうだ。三木たかし歌唱の「さくらの唄」は知らないが、ひばりの歌は聞いて知っている。
美空ひばり さくらの唄 三木たかし
http://v.youku.com/v_show/id_XMTI0MTM2MTgw.html
なんでも、この曲に魅了された作家で演出家の故久世光彦が、是非この曲をもう一度世に出したいという強い思いから、美空ひばりを訪ねてこの曲のテープを聴いてもらいひばりも感動しリリースしたと聞く。
そして1976(昭和51)年にTBSで放送されたテレビドラマ「さくらの唄」ののエンディング曲として挿入されもした。
何もかも僕はなくしたの
生きてることがつらくてならぬ
もしも僕が死んだら 友達に
ひきょうなやつとわらわれるだろう
なんとも絶望感に満ちた哀しい内容の歌だが、以下参考の※2:「美空ひばりの歌が流れていた頃」によると、歌謡界の女王といわれた美空ひばりの身辺に不幸が続き(Wikipedia-美空ひばりの兄弟とひばりのトラブル参照)、紅白への出場から除外された後の歌手としても辛いどん底の時期に、作詞をしたなかにし礼が当時、実の兄の多額の借金を背負わされて、なかにし自身も失意のドン底と絶望の中で遺書のつもりで書いものだったという。それを、ひばりが、自身の見に重ね淡々と語るように歌っているのだが、そもそも、なかにしは、三木たかしが中学時代に作曲したものに詞をつけたものであり、この曲自体が、既に、貧乏な生活の中で、絶望感に喘いでいた三木少年の心情が表現されていたものだったと言うべきではないだろうか・・・。
この歌は女性が歌うよりも苦労を重ねてきた作曲家の三木たかし本人が歌った方がぴったりなのだろう。本人が歌っていた時の歌が聴けないのが残念だ。
これではなくても、三木たかし本人が歌っている歌がないか検索していたら、テレサ・テンの曲を数多く手がけた彼は、1995(平成7)年5月8日に他界したテレサが眠る台湾を没後8年経った2003(平成15)年に訪れ、ゴールデンコンビ荒木とよひさ(作詞)と共につくり上げたテレサに捧げる最後歌(追憶歌)「聴かせて・・・」を、墓前でギターを弾きながら歌っているものがあった。以下は、恐らく、2003(平成15)年、テレサテンの生誕50年記念番組「風の伝説テレサ・テン(テレビ朝日系列)」で放送されていたときのものだろう。
聴かせて 歌:三木たかし(テレサ・テンに捧げた歌) - YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=ZEC0vQzgeZk
この歌は、今、鈴木幸治 (Kohji Suzuki) が歌っているがなかなかいい曲である。
『聴かせて・・・』 KIKASETE ・・ 幸治 (Kohji Suzuki) - YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=Z_zzB7yGtv4&feature=related
三木は泉アキの「恋はハートで」でデビュー後、1968(昭和43)年、実妹・黛ジュンに提供した「夕月」が66万枚を超えるセールスを記録し、黛自身の最大のヒット曲ともなった。以下で聞ける。
秋風のバラード(夕月) 黛ジュン - YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=JZsWNqpJFO0
ポップス系の黛ジュンが初めて古風な雰囲気の曲を歌ったものだが、上掲の曲は、YouTubeへのアップロード者が書いているところによると、リサイタル用に作った曲で、この時はシングルカットは考えていなかったようで、大ヒットした夕月の原形となる曲だそうだ。それに、語りの部分で聞こえるギターは三木たかしによるものだという。以下の曲と聞き比べてみるのも面白い。
黛ジュン / 夕月 - デイリーモーション動画
http://www.dailymotion.com/video/x8hjm3_yyyy-yy_music
この黛の「夕月」の曲は、昨・2011(平成23)年10月に発売され話題となった由紀さおり・ ピンク・マルティーニのコラボによるカバーアルバム「1969」の6曲目に収録されている。
1977(昭和52)年には、「ブーメランストリート」(作詞: 阿久悠、歌唱:西城秀樹)、思秋期 (作詞: 阿久悠、歌唱:岩崎宏美)や石川さゆりの「津軽海峡・冬景色」 で日本レコード大賞中山晋平賞を受賞。一流作曲家としての地位を築いた。その後もテレサ・テンの「時の流れに身をまかせ」他「つぐない 」(作詞: 荒木とよひさ) 「愛人」「別れの予感」(作詞: 荒木とよひさ) をはじめ、坂本冬美の「夜桜お七」 (作詞: 林あまり)、日本テレビ系アニメ「それいけ!アンパンマン」のオープニングテーマ曲「アンパンマンのマーチ」など、。明るく伸びやかなポップスから哀愁味のある演歌まで日本歌謡史を飾る多彩なヒット曲を送り出した。また、劇団四季や宝塚歌劇団のオリジナルミュージカルの音楽なども数多く手掛けた。
2004(平成16)年からは日本作曲家協会理事長を務める。2005(平成17)年には、紫綬褒章を受章している。
2006(平成18)年に、咽頭(いんとう)がん手術を受け、声帯の一部を切除、その後声を失ってしまうが、その闘病生活の様子は、以下参考の※3:「闘病記:私の生きる道」に詳しく書かれている。
2009(平成21)年の1月13日には、「NHK歌謡コンサート」で、妹・黛ジュンと30年ぶりに兄妹出演を果たし、自身の作曲「さくらの花よ 泣きなさい」(作詞:荒木とよひさ)を黛が歌唱し、その後ろで三木がギター伴奏を披露したが、これが三木の生涯最後のテレビ出演となった。
黛ジュン/さくらの花よ 泣きなさい - YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=-_m2HF9IXdQ
久々に聞く黛の歌だが、その歌にはYouTubeへのコメントにもあるように、苦難の人生をしっかりと生き抜いた者だけが感じさせてくれる深い感動がある。
それにしても、三木たかしが中学生の頃に最初に作った曲が「さくらの唄」であり、2009年、亡くなる前に30年ぶりの妹・黛との兄弟出演のコンサートで黛が歌い自分がギター演奏した曲が「さくらの花よ 泣きなさい」とは、彼の心象には「さくら」が深く関っているのだろう。
今朝のNHK「あさイチ」のゲストには、森山直太郎が出演していたが、20歳の頃まで、ちょっといい感じのサラリーマンを目指していた彼が、音楽に興味を持ち歌手を目指すようになり街角で歌を歌っているときに作った曲がデビュー曲の「さくら」だったと語っていた。彼は彼で、母親の森山良子とは異なった道を目指しながら結局、途中から歌手を目指すようになったには、それなりに孤独な人には話せない悩みがあったのだろう。番組では多くを語らなかったが、Wikipediaの「さくら」の曲の解説には、「ある時、友達が結婚する話をきいた時に、・・・・、自分も旅立つったときに、迷ったら戻ってくる原点がここにあるように思えて創った」と書いてあった。
古くから日本人に親しまれている「サクラ」は、人生の転機を彩る花にもなっている。
(冒頭の画像は2009年5月11日朝日新聞に掲載されていたものである)
参考:
※1:連続テレビ小説「梅ちゃん先生」
http://www9.nhk.or.jp/umechan/
※2:美空ひばりの歌が流れていた頃:さくらの唄
http://88123516.at.webry.info/200704/article_1.html
※3:闘病記:私の生きる道
http://www.gsic.jp/survivor/sv_01/34/index.html
さくらの花よ 泣きなさい 黛ジュン 歌詞情報 - goo 音楽
http://music.goo.ne.jp/lyric/LYRUTND67569/index.html
三木たかし - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%9C%A8%E3%81%9F%E3%81%8B%E3%81%97
三木 たかし(本名:渡邊匡。わたなべ ただし)は、1945(昭和20)年1月12日東京都に生まれる。
歌手・女優の黛ジュン(本名:渡邊順子)は3歳下の実妹である。
三木 たかしのプロフィールについては、Wikipediaでも、貧困家庭に育ち、借金取りが訪れると妹と押入れに籠もり、紙で書いた鍵盤をひいて遊んでいたという。・・・とあるだけで、それ以上詳しいことは分からないが、彼が生まれた1945(昭和20)年は、第二次世界大(大東亜戦争〔太平洋戦争〕)終結の年であり、国民の生活はどん底に落ち込んでいた。主要都市の多くでは、空襲による焼け野原が目立ちトタン屋根のバラックや防空壕を住まいとする家族が少なくなった。敗戦後の復員兵に仕事はなく、もっと悲惨なのが、外地で生活をしていた約300万人とも言われる引揚者たちであり、住む家も仕事も援護の手さえ差し伸べられることはなかった。
中でも、家だけでなく、親おもなくし浮浪児となったあわれな戦災孤児たちが溢れていた。こうした国内にあふれた人々が一番直面していた問題は食糧問題であった。
配給制度はあったものの、終戦の1ヵ月前に6大都府県の主食の配給は2合1勺(297グラム)と定められていたが、戦争が終わって食糧事情はより悪化し、米はほとんど配給されず、芋や豆粕、くず芋が配給品となった。このため米を要求するデモが各地で頻発していた。だが、いっこうに配給は増えず、国民は手元に残った晴れ着や衣類を農村への買い出しや闇市などに持ち込み食糧を調達しなければならず、全国で戦死者よりも多い餓死者が続出した。
今NHKの朝の連続テレビ小説「梅ちゃん先生」(※1)でもそんな戦後の時代を背景としているが、実際には、もっと悲惨な状況であった。公共放送NHKの番組の舞台であるから、あの程度に描かれているのであろう。
「梅ちゃん先生」の家庭など貧しいと言っても大学病院の医師の家庭であり、当時としては恵まれた環境にあるから、主役の梅ちゃんもあんなのんびり屋で居られたのだろう。恵まれない人があの時代にあんな性格では生きてゆけない。
三木たかしと黛ジュンの兄弟が、貧困家庭に育ったといっても、当時は殆どの家庭が貧乏であり、私の家も戦後の混乱した時代に父が商売で詐欺に合いそれまでとは一転して、借金取りに追い回され、生きるか死ぬかの辛い子供時代を経験してきた。
昔から、"若いときの苦労は買ってでもしろ!"言われるが、厭が上にも子供の頃から音楽好きだった2人の兄弟が支え合いながらそのような境遇をバネに努力をした結果、兄弟そろって芸能界で、兄は偉大な作詞家として妹も偉大な歌手・女優として成功を収めたのだろう。
三木 たかしは、中学校卒業後、1960年代半ばごろには歌手を志して作曲家船村徹に弟子入りするも、船村から「君は作曲家の方が向いている」と云われ、作曲家に転換。1967(昭和42)年、当時の売れっ子作詩家であったなかにし礼の推薦を受け、「恋はハートで」 (歌唱: 泉アキ/クラウン・レコード) で作曲家としてデビューした。
泉アキ/恋はハートで - YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=gmRxu0OLD3M
しかし、この曲よりも前に彼が作曲した名曲がある。
今はなき昭和の歌謡界を代表する歌手・美空ひばり歌唱による「さくらの唄」がそれである。ひばりの歌としては余り広く知られていないかもしれないが、この曲は、三木たかしが10代のときに作った曲だそうで、後年になってこの曲に、なかにし礼が詞を書いて、三木たかしが歌ったレコードが1970(昭和45)年に発売されていたそうだ。三木たかし歌唱の「さくらの唄」は知らないが、ひばりの歌は聞いて知っている。
美空ひばり さくらの唄 三木たかし
http://v.youku.com/v_show/id_XMTI0MTM2MTgw.html
なんでも、この曲に魅了された作家で演出家の故久世光彦が、是非この曲をもう一度世に出したいという強い思いから、美空ひばりを訪ねてこの曲のテープを聴いてもらいひばりも感動しリリースしたと聞く。
そして1976(昭和51)年にTBSで放送されたテレビドラマ「さくらの唄」ののエンディング曲として挿入されもした。
何もかも僕はなくしたの
生きてることがつらくてならぬ
もしも僕が死んだら 友達に
ひきょうなやつとわらわれるだろう
なんとも絶望感に満ちた哀しい内容の歌だが、以下参考の※2:「美空ひばりの歌が流れていた頃」によると、歌謡界の女王といわれた美空ひばりの身辺に不幸が続き(Wikipedia-美空ひばりの兄弟とひばりのトラブル参照)、紅白への出場から除外された後の歌手としても辛いどん底の時期に、作詞をしたなかにし礼が当時、実の兄の多額の借金を背負わされて、なかにし自身も失意のドン底と絶望の中で遺書のつもりで書いものだったという。それを、ひばりが、自身の見に重ね淡々と語るように歌っているのだが、そもそも、なかにしは、三木たかしが中学時代に作曲したものに詞をつけたものであり、この曲自体が、既に、貧乏な生活の中で、絶望感に喘いでいた三木少年の心情が表現されていたものだったと言うべきではないだろうか・・・。
この歌は女性が歌うよりも苦労を重ねてきた作曲家の三木たかし本人が歌った方がぴったりなのだろう。本人が歌っていた時の歌が聴けないのが残念だ。
これではなくても、三木たかし本人が歌っている歌がないか検索していたら、テレサ・テンの曲を数多く手がけた彼は、1995(平成7)年5月8日に他界したテレサが眠る台湾を没後8年経った2003(平成15)年に訪れ、ゴールデンコンビ荒木とよひさ(作詞)と共につくり上げたテレサに捧げる最後歌(追憶歌)「聴かせて・・・」を、墓前でギターを弾きながら歌っているものがあった。以下は、恐らく、2003(平成15)年、テレサテンの生誕50年記念番組「風の伝説テレサ・テン(テレビ朝日系列)」で放送されていたときのものだろう。
聴かせて 歌:三木たかし(テレサ・テンに捧げた歌) - YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=ZEC0vQzgeZk
この歌は、今、鈴木幸治 (Kohji Suzuki) が歌っているがなかなかいい曲である。
『聴かせて・・・』 KIKASETE ・・ 幸治 (Kohji Suzuki) - YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=Z_zzB7yGtv4&feature=related
三木は泉アキの「恋はハートで」でデビュー後、1968(昭和43)年、実妹・黛ジュンに提供した「夕月」が66万枚を超えるセールスを記録し、黛自身の最大のヒット曲ともなった。以下で聞ける。
秋風のバラード(夕月) 黛ジュン - YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=JZsWNqpJFO0
ポップス系の黛ジュンが初めて古風な雰囲気の曲を歌ったものだが、上掲の曲は、YouTubeへのアップロード者が書いているところによると、リサイタル用に作った曲で、この時はシングルカットは考えていなかったようで、大ヒットした夕月の原形となる曲だそうだ。それに、語りの部分で聞こえるギターは三木たかしによるものだという。以下の曲と聞き比べてみるのも面白い。
黛ジュン / 夕月 - デイリーモーション動画
http://www.dailymotion.com/video/x8hjm3_yyyy-yy_music
この黛の「夕月」の曲は、昨・2011(平成23)年10月に発売され話題となった由紀さおり・ ピンク・マルティーニのコラボによるカバーアルバム「1969」の6曲目に収録されている。
1977(昭和52)年には、「ブーメランストリート」(作詞: 阿久悠、歌唱:西城秀樹)、思秋期 (作詞: 阿久悠、歌唱:岩崎宏美)や石川さゆりの「津軽海峡・冬景色」 で日本レコード大賞中山晋平賞を受賞。一流作曲家としての地位を築いた。その後もテレサ・テンの「時の流れに身をまかせ」他「つぐない 」(作詞: 荒木とよひさ) 「愛人」「別れの予感」(作詞: 荒木とよひさ) をはじめ、坂本冬美の「夜桜お七」 (作詞: 林あまり)、日本テレビ系アニメ「それいけ!アンパンマン」のオープニングテーマ曲「アンパンマンのマーチ」など、。明るく伸びやかなポップスから哀愁味のある演歌まで日本歌謡史を飾る多彩なヒット曲を送り出した。また、劇団四季や宝塚歌劇団のオリジナルミュージカルの音楽なども数多く手掛けた。
2004(平成16)年からは日本作曲家協会理事長を務める。2005(平成17)年には、紫綬褒章を受章している。
2006(平成18)年に、咽頭(いんとう)がん手術を受け、声帯の一部を切除、その後声を失ってしまうが、その闘病生活の様子は、以下参考の※3:「闘病記:私の生きる道」に詳しく書かれている。
2009(平成21)年の1月13日には、「NHK歌謡コンサート」で、妹・黛ジュンと30年ぶりに兄妹出演を果たし、自身の作曲「さくらの花よ 泣きなさい」(作詞:荒木とよひさ)を黛が歌唱し、その後ろで三木がギター伴奏を披露したが、これが三木の生涯最後のテレビ出演となった。
黛ジュン/さくらの花よ 泣きなさい - YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=-_m2HF9IXdQ
久々に聞く黛の歌だが、その歌にはYouTubeへのコメントにもあるように、苦難の人生をしっかりと生き抜いた者だけが感じさせてくれる深い感動がある。
それにしても、三木たかしが中学生の頃に最初に作った曲が「さくらの唄」であり、2009年、亡くなる前に30年ぶりの妹・黛との兄弟出演のコンサートで黛が歌い自分がギター演奏した曲が「さくらの花よ 泣きなさい」とは、彼の心象には「さくら」が深く関っているのだろう。
今朝のNHK「あさイチ」のゲストには、森山直太郎が出演していたが、20歳の頃まで、ちょっといい感じのサラリーマンを目指していた彼が、音楽に興味を持ち歌手を目指すようになり街角で歌を歌っているときに作った曲がデビュー曲の「さくら」だったと語っていた。彼は彼で、母親の森山良子とは異なった道を目指しながら結局、途中から歌手を目指すようになったには、それなりに孤独な人には話せない悩みがあったのだろう。番組では多くを語らなかったが、Wikipediaの「さくら」の曲の解説には、「ある時、友達が結婚する話をきいた時に、・・・・、自分も旅立つったときに、迷ったら戻ってくる原点がここにあるように思えて創った」と書いてあった。
古くから日本人に親しまれている「サクラ」は、人生の転機を彩る花にもなっている。
(冒頭の画像は2009年5月11日朝日新聞に掲載されていたものである)
参考:
※1:連続テレビ小説「梅ちゃん先生」
http://www9.nhk.or.jp/umechan/
※2:美空ひばりの歌が流れていた頃:さくらの唄
http://88123516.at.webry.info/200704/article_1.html
※3:闘病記:私の生きる道
http://www.gsic.jp/survivor/sv_01/34/index.html
さくらの花よ 泣きなさい 黛ジュン 歌詞情報 - goo 音楽
http://music.goo.ne.jp/lyric/LYRUTND67569/index.html
三木たかし - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%9C%A8%E3%81%9F%E3%81%8B%E3%81%97