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オコパー・タコパーの日

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今日は余り肩の凝らない記念日を紹介をしておこう。
日本記念日協会に毎月第3土曜日の記念日として登録されているものに「オコパー・タコパーの日」がある。
「オコパー・タコパー」とは「お好み焼パーティ・たこ焼パーティ」のこと。お好み焼とたこ焼はみんなで調理を楽しめて食卓が盛り上がるだけでなく、食材費も安く出来る素晴らしい団らんメニューであるということから、お好み焼粉、たこ焼粉を製造販売する日清製粉グループ(※1)の日清フーズ株式会社が制定したもの。日付は家計に優しい料理なので給料日前となることの多い毎月の第3土曜日としたもの・・・ だそうである。
うどん(饂飩、温飩)やお好み焼などの「粉もん(コナモン=粉物)文化」が盛んな関西
合理的な精神をもつ関西人、特に大阪人や、我が地元神戸の中でも、特に長田地区の人達は、安くておいしい庶民的な食べ物にこだわりを持っている。
コナモンのお好み焼きやたこ焼き、「イカ焼き」などは、昼食におやつに、そして、気の合う仲間とちょっと一杯やりながら食べるものとして広く利用され、大人気であり、まさに、大阪や神戸のソウルフードの一つとも言える存在となっており、それは町のあちこちに目立つ看板の多さを見てもよくわかるだろう。
お好み焼きは、鉄板焼き料理のひとつで、水に溶いた小麦粉を生地として、野菜、肉、魚介類などを具材とし、鉄板の上で焼き上げ、調味料をつけて食するものである。
一昨年(2010年)のNHK朝の連続テレビ小説「てっぱん」では、広島県尾道で生まれた主人公の村上あかりが、ある日、祖母・初音が尾道を訪ねてきたことから、祖母の住む大阪にやってきて、色々有る中、育ての母から受け継いだ広島の味と初音から仕込まれた大阪の味を二枚看板に、お好み焼き屋「おのみっちゃん」を開業していた。
そこで焼かれていたのが、「関西風お好み焼き」と「広島風お好み焼き」であり、大阪を中心とする「関西風お好み焼き」の最もポピュラーな形としては、小麦粉の生地に刻んだキャベツや魚介類などの具材を混ぜ合わせて、鉄板上で焼く調理法である。一方の「広島風お好み焼き」の焼き方は、小麦粉の生地と具財を混ぜずに生地の上に刻んだキャべつや魚介類の具財を重ね焼きする。お好み焼きでは、この2種類の調理法が代表的であるが、その他の地域にも同じような料理は多数存在する。
お好み焼き類の起源は、安土桃山時代に茶の湯で有名な千利休が茶会の茶菓子として作らせていた「麩の焼き(フノヤキ)」だといわれている。麩焼きとも呼ぶ。
「麩の焼き」は、小麦粉を水で溶いて薄く焼き上げ、芥子(ケシ)の実などを入れ、山椒味噌や砂糖を塗った生地を巻物状に巻いて成形したもので、利休の茶会記『利休百会記』にもたびたび「フノヤキ」の名が見えるという。
どうもこの「フノヤキ」は今のクレープのようなものだったらしいが、その後、麩の焼きを起源としていろいろ変化して味噌の代わりに餡を巻いて作る名物「助惣焼(すけそうやき)」が生まれ、寛永年間(1624年〜1645年)に、江戸麹町3丁目の橘屋で大木元佐治兵衛が売っていたという(※2参照)。
江戸時代の風俗・事物を説明した一種の類書(百科事典)である守貞謾稿では、「助惣焼」について「温飩粉(うどんこ)を薄くやきて餡を包み。麹町にて売る。今も存すれども廃れて買ふ人稀なり。」とある(※3:巻之十八参照)。
「温飩粉(うどんこ))とは、小麦を挽いて作られた粉「小麦粉」のことであり、昔からうどんの製造によく使われていたことから、「うどん粉」と呼ばれていた。関西などでは「メリケン粉」という呼び方がよく使われているが、これは国内で生産された小麦をうどん粉と呼ぶのに対して、外国産の機械製粉された白い小麦粉(「アメリカの粉」)という意味で使用されている(日本に輸入された頃 "American" が「メリケン」と聞こえたため)。
現在、小麦粉は含まれるタンパク質(主にグリアジングルテニン)の割合と形成されるグルテンの性質によって薄力粉、中力粉、強力粉の3つに分類されているが、その中の中間的な性質を持つ中力粉(タンパク質の割合が9%前後)がうどんによく使われるほか、お好み焼きや、たこ焼きなどにも用いられている。
なお、小麦粉のタンパク質分を除いた残渣(濾過したあとなどに残ったかす)を精製したものは浮き粉(うきこ)と呼び、澱粉だけで出来たちょうど片栗粉のようなものになる。明石焼き(正式には玉子焼き)や和菓子、香港の透明な皮の海老餃子などの原料として使われている。
小麦粉を練ったものを細長く切り、茹でて食べる料理であるうどんは、奈良時代に中国より伝わった小麦粉の餡入りの団子菓子「混飩( こんとん)」に起源を求める説(中国文学者青木正児説)があり、この団子菓子が後に温かい汁の中に入れて食べられるようになり、それを「温飩(おんとん→うどん)」と呼ぶようになったとされているが、最近は、中国から渡来した切り麦(今の冷や麦)が日本で独自に進化したものであるという新説(伝承料理研究家の奥村彪生説)も出ている(※4参照)。
いずれにしても、江戸時代、江戸市中において、すでにうどんは一般に普及していた。だが、特に江戸前期には、まだ江戸っ子の好きな麺類としてのそば(蕎麦切〔細長い麵状のそばのこと〕)は、一般には普及しておらず、 そばがきとして食べられていた。従って、江戸でも麺類としてはまだうどんに人気があったようである。江戸で、蕎麦切を食べるようになったのは、江戸中期以降のことのようである。
うどんを売る店でも蕎麦を売っていたし、そばを売る店でもうどんを売っていたが、うどん好きの関西のように主としてうどんを売る店では、うどん屋と称し、そば(蕎麦)好きの江戸など、蕎麦を主として売っていた店は蕎麦屋と称した。
以下参考の※5:「髭鬚髯散人之廬」では、 守貞謾稿巻之五(生業上)から「温飩 蕎麦屋」のこと・・・を解説しているが、その中にもそのことは書かれている(ここに出てくる「沽るは[売る]の意)。その中で守貞謾稿には、“うどんは、昔は「小麦粉を団子のごとくまろめ、中に餡をいれ煮たる物なり」→「形丸くして、ぐるぐる回りて端なき意」なので「混沌」と名付けて、其の後、さんずいが食扁に変わったという「珍説」も紹介されている。”としているが、守貞謾稿の記載から、江戸時代、すでに先に述べた青木正児説と同様の説があったことを示しているものと解釈するのだが、青木正児説以降に奥村彪生による新説が出たので、それが正しいとして、前説を「珍説」しているのだろう。
私には、どちらの説が正しいのか分からないが、守貞謾稿では、うどんを、昔は「小麦粉を団子のごとくまろめ、中に餡をいれ煮たる物なり」とし、又、「助惣焼」について「温飩粉(うどんこ)を薄くやきて餡を包み。」としているのを見ると、小麦粉を団子のごとくまろめ、中に餡をいれ煮ていたものを、江戸時代になって、小麦粉を薄く焼いて飴を包んだ菓子としたのだ・・・と、みるとそれはそれで面白い説と私は思っている。「麩の焼き」の麩の材料となる当時の小麦粉がどのようなものであったかは正確には分からないが、現在の「浮き粉」は、小麦粉の生地から麩(ふ)の原料としても使われるものであり、先にも書いたように明石焼きや和菓子の材料として使われているものだ。
ちょっと回り道をしたが、いずれにしても、一般的にはこの「助惣焼」が、今の「お好み焼」や「どら焼き」の由来の一つではないかとされている。
「どら焼き」は、助惣焼が銅鑼(どら)で焼かれたのでそう呼ぶようになったという。これら食べ物に共通 する主材料は、うどん粉(メリケン粉)である。
麩の焼き から 助惣焼へ、それが発展して、「もんじゃ焼き)」「どんどん焼き」が生まれた。
「もんじゃ焼き」のルーツは、明治時代の文字焼き。小麦粉を水で溶いたゆるめの生地を使って、駄菓子屋の店先の鉄板に文字を書き、子どもたちに文字を教えながら売った「文字焼き」がルーツだと言われている。
「どんどん焼き」は、もんじゃ焼きが、路上販売用に変化したもので、持ち帰り出来るように、水の配分を少なくして固めに焼き上げたもので、名称は、商品を売る屋台で「どんどん」と太鼓を鳴らしていたことから、あるいは、作るそばから「どんどん」売れたことから名付けられたとされるように、屋台の売り子が叩く太鼓の音よろしく全国に「どんどん」普及していったようだ。
それらが大阪にも伝わり、コンニャクや豆の具などを入れしょう油味で食べる「ベタ焼」「チョボ焼」が誕生し、それが各種鉄板料理へと派生していったとされている。
戦前までは、関西地方の「洋食焼き」(大阪)、や「一銭洋食」(京都)、「にくてん」(兵庫)などと呼ばれて、水で溶いた小麦粉を鉄板に円状に広げて刻みネギや天かすなどをのせて焼いた物に、ソースをかけた物が駄菓子屋や店舗の軒下などで売られていたが、子供のおやつのようなものであった。当時はソースさえかければなんでも洋食と見なされており、“安くて美味い”物に弱い関西人の間で人気の食べ物となった。かつて(1955年(昭和30年)前後まで)関西の下町では、町内に一軒位の割合でお好み焼き屋があり、庶民に親しまれる日常の食べ物であった。
そういえば、私の地元神戸地域では、お好み焼きと呼ばれる以前には、つまり、大正末期から昭和初期は、「にくてん」と呼ばれていて、長田区大正筋商店街付近には、にくてん専門店が軒を連ねる「にくてん街」と称するエリアがあった。水溶きの生地をおたまで、円く薄くひいて、ネギやキャベツ、すじ肉などをのせたあと、わずかに生地をかけて、ひっくり返す。ぺったんこの薄焼き。パリッとした生地の皮と野菜、すじ肉の甘味と旨味をすったトロトロの生地。にくてんの語源には「にく=スジ肉、てん=天カス」からなど諸説ある。牛スジ肉とコンニャクを甘辛く味付けして煮込んだものを長田区周辺では、「ぼっかけ」と称している。「「ぼっかけ」は汁のうどんにも入れて使われ、「ぼっかけうどん」と呼ばれている。美味しいので私も大好きだ。
少し話はそれるが、明治期の神戸は、兵庫港(かって大輪田泊や兵庫津と呼ばれた)、を中心とする「兵庫地区」と外国人居留地を中心とする「元町地区」が繁栄していた。
その中間を流れていて、東西を分断していた旧湊川(※7も参照)を付け替え、1905(明治38)年に長い埋立地が誕生した。それが現在の新開地本通り(商店街)である。
本通には、劇場や映画館などの娯楽施設が軒を連ね、当時は神戸市役所も隣地にあり、新聞社やデパートなどの業務集積エリアを抱え、花街・福原の賑わいともに、旧神戸文化の中心地であった。
1945(昭和20)年3月の神戸大空襲で新開地 とその周辺も焼け野原となった。戦後、新開地の東側一帯の焼け跡には米軍のウエスト・キャンプができ、その接収解除が遅れたことや、映画館・劇場などの娯楽施設が新興の三宮付近に多くできたこと、また、新開地周辺にあった神戸市役所や新聞社などが三宮へ移転した事などにより、繁華街の中心は次第に三宮方面に移っていき、今は昔日の面影が失われているが、かっては、「東の浅草、西の新開地」と言われる西日本を代表する繁華街として君臨していた。
又、現在のJR新長田駅の南口の駅前通りの西側に並行して伸びる商店街(新長田1番街商店街)を南に進み国道2号線を超えると大正筋商店街入口に達する(南北約300mほどの商店街)。大正筋商店街を南に抜けた地点より東方向に伸びる商店街が、歩道の幅が約六間あるという事から、古くより六間道商店街と言われていたところである。その間何本もの商店街があるが、この新湊川の西に広がる地域は、戦後、焼け残ったこともあり、昭和時代後半頃までは神戸では新開地の次に繁華街として栄えていたところであり、西新開地とも言われていたところである。私が子供の頃は、遊びに行くのは、新開地か、ここかであった。兎に角ここは庶民的な町なので食べ物も安く、楽しく遊べたところであった。
この地域は、阪神・淡路大震災とその時の大火により壊滅的な被害受けた後、再開発事業により、町の建物や商店街自体は綺麗に整備がされ、住民も増えては来たが、そもそも町自体の規模が余りにも大きすぎて、戦前戦後の賑わいを取り戻せるわけでもなくし資金面では困っている商店が多いのが実情のようだ(復興は外見だけ。私は神戸市の復興計画の誤りだと思っている)。
回り道をしたが、今でも、新長田駅周辺地域や高砂姫路などの地域で「にくてん」は売られているようだが、私も、長いこと食べていない。このブログを書きながら、やけに「にくてん」が懐かしく思い出される。
新長田周辺や神戸地域の「にくてん」は、すじこん(牛スジ肉と、こんにゃくを煮たもの)が入っているが、生地を引いて焼く薄焼きのお好み焼き自体を総称して言う時もある。
今のお好み焼のように、何でも彼でもメリケン粉の中へまぜこんで焼き上げるのではなく、皮のように薄く引いたメリケン粉に、牛挽肉(すじこんが美味しい)と刻み葱を入れ、ざっくりとまぜ合わせて焼いたものに、ソースをかけただけのシンプルな食べ物が懐かしい・・・・。
広島のお好み焼きも神戸と似たような焼き方で戦前からあったが、戦後、おなかのすいた子供たち用に、おいしくボリュームを出すために、中華そばやうどんを入れて重ね焼きする広島焼きが考え出され今では、全国的に普及し、親しまれる食べ物へ進化していった。
大阪、京都を中心とする関西では、「一銭洋食」「洋食焼」の名前で子どものおやつとして親しまれる一方、大人を相手に風流お好み焼の店が流行した。間仕切りのある空間に鉄板を置いて、自分たちで好きなように焼くゆえに、「お好み焼き」の名がついたといわれる。大阪ならではの混ぜ焼きスタイルの誕生である。
私が就職した昭和30年代の大阪で、店名は「きよ」・・・、古いことなのでうろ覚えだが、たしか漢字では「喜」と言う字がついていたので「喜代」だったと思う・・。大きなお好み焼き専門の店で会社仲間とよく食べに行ったが、よく流行っていて何時も満席だったのを思い出す。 焼く際、“生地は混ぜ過ぎない、厚みを残して生地を鉄板に流し、コテで押さえつけない」・・・など、大阪風のお好み焼きを美味しく焼くのは初めての人には難しいものだ。
関西のコナモンで、お好み焼きととも知られているのが、「たこ焼」。たこ焼きは、普通は、半球状の窪みのある鉄板に水またはだし汁で溶いた小麦粉を流し込み生地の中にタコを入れ球形に焼き上げ、完成したたこ焼きにはソースをかけ、鰹節、青海苔、生姜などを降りかけて食べるもので、特に、大阪が有名である。
そして、それと並ぶのが兵庫県・明石市の「玉子焼き」(通称:明石焼き)であるが、明石焼きは、先にも述べたように、材料に小麦粉ではなく浮粉と鶏卵などを使い、生地が非常にやわらかい点、具が基本的にタコのみである点、焼き上がったものを出汁に浸けて食べる点などが大きな特徴となっている。
一般的にたこ焼きは、大阪が発祥で、創始者は、西成区玉出に本店を置く会津屋の初代・遠藤留吉とされているそうだ(Wikipedia)。
1933年(昭和8年)、遠藤はラジオ焼きを改良し、従来のこんにゃくの代わりに醤油味の牛肉を入れて肉焼きとして販売。1935年(昭和10年)、タコと鶏卵を入れる明石焼に影響を受け、牛肉ではなくタコ・鶏卵を入れるようになり、たこ焼きと名付けたという。
ラジオ焼き(ラヂヲ焼き)は、昭和8年ごろ、ちょぼ焼きに関東煮の具材として用いられていたスジ肉を入れたことに始まり、当時まだ高価でハイカラの象徴だったラジオにあやかってラジオ焼きと呼ばれるようになった。後に明石焼きに影響を受けてたこを入れたものがたこ焼きに発展したものだという。
お好み焼き、たこ焼きの原型であるちょぼ焼きは、水で溶いたうどん粉を半円に窪んだ物が並んだ金板に流し、そこにこんにゃく、紅ショウガ、えんどう豆他に醤油をいれたりねぎや鰹節をまぶしたりしたものを、上下2段になった箱型のカンテキ(七輪)で焼いたもので、大正から昭和初期のおやつ的存在で、子供たちが集まっては各家庭でつくっていたそうだ。型のくぼんだ所だけではなく、一面(べた)にうどん粉をひいて作ったものをべた焼きという言い方もある。
ちょぼ(点)とは、「中国渡来の賭博(とばく)の樗蒲(ちょぼ)の采(さい)の目(サイコロの目)の打ち方に似ているところからきたとされる。しるしとして打つ点。ぽちなど。今でも「おちょぼ口」と言うなど「ちょぼ」は小さい意に使われる。
大阪のたこ焼きと明石の玉子焼きとは共にコナモノンであり、丸い型をに焼いたものであっても、その制法食べ方から、全く違った系統の食べ物と言っても良いだろう。
我が地元神戸には、「神戸たこ焼き」というものがある。隣町の明石焼きの影響を受けているのだろう、大阪風のたこ焼きにソースを塗って出汁につけて食べる。
神戸では長田区、兵庫区あたりでこの方法で提供している店があるようだが、正直、私は、このような食べ方がある事は知っているがそのような食べ方はしたことがない。神戸以外に、姫路市・加古川市・高砂市あたりにもあるようだ。
私は、たこ焼きも好きだが、基本的には昔から明石焼きが好きだった。昭和30年代初めのころたこ焼きの本場大阪で仕事をしているとき、明石焼きの店を捜したら梅田に一軒あるのを見つけたた。たしか「たこ八」といったと思うが、明石焼専門の店で、カウンターには5〜6人しか座れない小さな店だったので、人気もあり、順番待ちが大変だった。私の家の近くには、美味しい明石焼きの店があるのでありがたい。
たこ焼きはつくってまで食べないが、お好み焼きは好きなので、家で、よく作って食べてるが、最近は歳のせいで、余り粉っぽいものやこってりとしたソース味のものは、胃が受け付けなくなってきた。そのため、家で作るときは、明石焼きのように、お好み焼き粉を卵と水で薄く溶いたものをホットプレートに、7〜8?くらいの小判型に、ごく薄くひき、とんぺい焼き」とは違って薄切りの豚のバラ肉生地とを同寸くらいに切ったものを置き、自分で焼きながら食べている。具は肉以外入れない。焼きあがったものは普通のウスターソースを薄っすらと塗るだけ。具財は豚肉の他に、大好きな、牡蠣や帆立貝などを使用して作るが、これもそれぞれの具に合わせて薄く溶いた生地にそれらの具だけを乗せて焼き、これらは、ポン酢醤油で食べている。具とは別に、野菜炒めのようにニ、キャベツや玉葱、キノコ類を肉類を焼いているホットプレートの横の方で焼いている。一種の焼肉感覚だ。
このブログを書いていて、やたら、「にくてん」が食べたくなった。近くの市場の中のうどん屋さんで、おいいしい「筋コン」を売っているので、それを買ってきて筋コンいるのにくてんをつくってみよう。
もし、色んなお好み焼きやたこ焼きが食べたいなら、日清フーズの※8:「ようこそオコタコ島へ」アクセスすると色々なつくり方のものが紹介されているよ。

冒頭の画像は、お好み焼きと屋台で調理中のたこ焼き。Wikipediaより)
参考:
※1:日清HP
http://www.nisshin.com/
※2:麹町菓子舗「助惣」引札(貨幣博物館)
http://www.imes.boj.or.jp/cm/pdffiles/nishikie0305.pdf
※3:坪田敦緒:相撲評論家の頁>史料庫>記録・随筆・紀行>守貞謾稿
http://www.ep.sci.hokudai.ac.jp/~tsubota/chrono/morisada.html
※4:うどんのルーツに新説-四国新聞社
http://www.shikoku-np.co.jp/feature/tuiseki/457/index.htm
※5:髭鬚髯散人之廬 守貞謾稿(近世風俗志)
http://rienmei.blog20.fc2.com/blog-category-6.html
※6:『お好み焼き』の仲間・関東編(財団法人製粉振興会)
http://www.seifun.or.jp/wadai/hukei/huukei-09_06.html
※7:兵庫県/湊川流路の変遷
http://web.pref.hyogo.jp/ko05/ko05_1_000000016.html
※8:ようこそオコタコ島へ(日清フーズ)
http://nisshin.okotako.jp/
中小企業庁:がんばる商店街77選:神戸市内11商店街等
http://www.chusho.meti.go.jp/shogyo/shogyo/shoutengai77sen/machidukuri/5kinki/3_kinki_11.html
日本記念日協会
http://www.kinenbi.gr.jp/index2.html
新長田・六間道
http://tamagazou.machinami.net/shinnagata-rokkenmichi.htm
お好み焼き - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8A%E5%A5%BD%E3%81%BF%E7%84%BC%E3%81%8D

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