「閑(しずけさや)や岩にしみ入る蝉の声」
この句は、江戸時代前期の俳諧師松尾芭蕉が、1689(元禄2)年5月27日(新暦7月13日)に、山形市立石寺(山寺)(正式には宝珠山阿所川院立石寺)に参詣した際に詠んだもので、紀行文集『奥の細道』に収録中の最も優れた発句の一つとされている。
初案は、随伴した河合曾良が記した『随行日記』に記されている「山寺や石にしみつく蝉の聲」(『俳諧書留』曾良)であったらしく、後には「さびしさや岩にしみ込む蝉の聲」(『初蝉・泊船集』)となり、現在のかたちに納まったのはよほど後のことらしい(※1「芭蕉DB」の奥の細道立石寺参照)。
1925(大正15)年、山形県出身の歌人斎藤茂吉はこの句に出てくる蝉についてアブラゼミであると断定し、雑誌『改造』の4月号に書いた「童馬山房漫筆」に発表。これをきっかけに蝉の種類についての文学論争が起こった。
このアブラゼミと主張する茂吉に対し、東北帝国大学の教授で夏目漱石の門下だった小宮豊隆は「閑さ、岩にしみ入るという語はアブラゼミに合わないこと」、「元禄2年5月末は太陽暦に直すと7月上旬となり、アブラゼミはまだ鳴いていないこと」を理由に、この蝉はニイニイゼミであると主張し、大きく対立するなど、白熱した蝉論争が起こるが、その後茂吉は実地調査などの結果をもとに二人のあいだでは小宮が主張したニイニイゼミで決着したようだ(※2、※3参照)。
ただ、芭蕉と門人の河合曽良(そら)が、尾花沢から取って返して立石寺を訪れたのは、それまで滞在していた尾花沢の人々の勧めがあったためと芭蕉は記す。つまり、当初は立石寺を訪問する予定はなかったようである。
みちのくを旅するにあたって、曽良は松島をはじめとする東北地方の行脚予定コースの歌枕(古くから和歌に詠まれた名所旧跡)について、延喜式神名帳抄録(抄録=要約)および名勝備忘録を用意して旅に出た(※4:「曽良と歩く奥の細道展」河合曽良略年譜参照)と言うが、立石寺は歌枕ではなかったことから この「名勝備忘録」に立石寺についての記載がなく、立石寺訪問が予定外であったことを裏付けている。詩歌に無名であった立石寺が芭蕉のこの句によって、その後、霊場立石寺という「俳枕」(俳句に詠まれた名所・旧跡) として、詩歌の地誌の上に登録されていくことになった。
私も、東北旅行時に一度だけ立石寺を訪れたことがあるが、聳(そび)え立つ岩山に堂が点在する山寺の風景に、中国の山水画に描かれた深山幽谷を見た思いがして感動したものだった。(写真等※5参照。案内図にマウスポイント当てると画像が拡大する)。
芭蕉も尾花沢から立石寺へ訪れ、到着後、まだ陽が残っていたので、麓の坊に宿を借りておいて、山上の御堂に上ったという。
当然、百丈岩に聳え立つ慈覚大師のお堂(開山堂)や、その堂から上へ到る細い階段を登ったところにある、慈覚大師が五大明王を安置して、天下泰平を祈る道場として使用したという五大堂からのすばらしい光景を見て感動したことであろう。
ただ※3の中でも、芭蕉が立石寺を訪れた太陽暦の7月13日頃の山形に出現しうる可能性のあるセミの種類の中で、アブラゼミの出現は7月中旬〜8月下旬頃であり、7月13日というと「アブラゼミは初鳴きがぎりぎりのところ」ともあり、芭蕉が訪れた時には、アブラゼミの数が多いか少ないかは別として、アブラゼミが鳴いていたかもしれない。そのことに関連して、※1:芭蕉DBでは、この句の論争でセミ以外の岩のことには触れられていないことや、このようなセミの種類や数論争で物議をかもすのも、この句の偉大さであり、言葉のプロとしての芭蕉の偉大さの故かもしれない。・・ことを指摘してしている。
芭蕉は山寺を訪れ、挨拶(俳諧でいう挨拶については、※6.※7参照)として、最初に詠んだのは「山寺や石にしみつく蝉の聲」であり、その後、推敲に推敲を重ねた末に「閑さや岩にしみ入る蝉の声」が奥の細道に掲載されるのだが、そこには、深い訳があるだろうが、そこらあたりの説明が詳しくは書かれていない。
そこで、ネット上で、この句をもっと詳しく解析しているものを探していると、以下参考に掲載の※8:古代文化研究所による「奥細道俳諧事調」が見つかった。一度、立石寺を訪れた者としては、その解説を読んでいて、さもあらん・・・とよく納得できたので、そのエキス的なところを以下へ抜き書きさせてもらおう。
芭蕉が吟じたのは、昼なお暗い仁王門や釈迦堂下のせみ塚あたりの景色である。そこには、立石寺の法宝である百丈岩が屹立(きりつ)している。だから、「閑さや岩にしみ入る蝉の声」は、奥の院や開山堂や五大堂を見終わった帰りの吟であることが分かる。なぜなら、屹立する百丈岩の大岩の上に開山堂が鎮座坐(ちんざましま)することを、芭蕉は意識して句作しているからである(立石寺境内位置図は※5参照。)。
芭蕉が初案であれほどこだわった挨拶を捨てて、「閑さや岩にしみ入る蝉の声」と改変したのは、臨場感を捨てて、内実にこだわったからであろう。宝珠山阿所川院立石寺として、清和天皇の御代から、延々と続く法統(仏語。仏法の伝統。仏法の流派。法流)を尊重した結果に他ならない。「閑さや」の上五が表すのは、立石寺境内全体が醸し出す雰囲気である。ここに切れ字「や」があるのは、「閑さや」と、句頭に立石寺境内全体の雰囲気を述べたのを一端、言い切る必要性が存在したからである。念の為に言うと、立石寺境内全体の雰囲気と言うのは、見て感じ取るものである。芭蕉は、あくまで立石寺の見目を表現しているのであって、何も音がしないとか、閑静であることを強調しているわけではない。
立石寺境内は、何と落ち着いて、安定していることか。それもこれもすべて、開山以来、連綿と数百年も続く法灯が醸し出す雰囲気が「閑さや」であって、一朝一夕に出来上がるものではないことが言いたいのである。また、それは現在の立石寺境内から、決してうかがい知れるようなものではない。現在の立石寺は当時の立石寺の完全なミニチュア版でしかない。元禄時代、ここには壮大な寺院伽藍が存在していたし、膨大な数の僧侶が氾濫していた。ある意味、立石寺は当時、僧の町であり、殷賑(いんしん=にぎやかで、繁盛しているさま)を極めていた。その賑わいは、到底現在の立石寺には存在しないものである。それでいて、寺はしっとりと落ち着いている。現在の閑散とした立石寺からは、「閑さや」の風情は想像すら出来ないであろう。芭蕉はそれを 「閑さや」と詠んだのである。立石寺の殷賑ぶりが「閑さや」の表現となっている。・・・(中簡略)。この句での、眼目は「岩」そのものであって、「閑さや」や「蝉の声」ではないし、まして「しみ入る」などではない。
そして、多くの著作が「蝉の声」を殊更取り上げて説明・解説したりしているが、それは全くの勘違いに過ぎない。俳諧を知らない者の仕草である。俳諧で最も肝要なのは、季節ではないし、切れ字(「ぞ」「かな」「や」「けり」「ず」「ぬ」「らむ」など、Wikipedia の俳句区切れ参照)でもない。それは挨拶である。その挨拶を無視する限り、俳諧を味わうことは不可能である。芭蕉は、この「岩に」の表現で、立石寺に挨拶しているのである。」・・・・と手厳しい。
「閑さや岩にしみ入る蝉の声」は、極めて芭蕉の思想性が色濃く出ている作品となっており、この句については、王籍の詩、「入若耶渓(じゃくやけいにいる)」との関係がよく知られているという(王籍の詩の解析と芭蕉の句のことは、※9を読めばよく分かる)。兎に角、芭蕉の句は素直ではない。かなりひねったものが多い。芭蕉の「閑さや」の句について、古代文化研究所「奥細道俳諧事調」では非常に詳しく解説されているので、関心のある方は是非一読されると良い。
「俳句とは何か」という、本質的問いに対する答えは多数存在するようだが、その中で、俳句評論家の山本健吉はエッセイ「挨拶と滑稽」のなかで、俳句の本質として3ヶ条をあげており、それが「俳句は滑稽なり。俳句は挨拶なり。俳句は即興なり」である。ここで述べている「挨拶」は山本が言っているところの「挨拶」のことであろう(※6.※7参照)。
セミ(蝉)は、あの臭いカメムシ(亀虫)の仲間、つまり、カメムシ目(旧・半翅目)に分類される昆虫の総称であり、ヨコバイ亜目とも近縁で、樹木に止まってる姿をよく見ていると横に這っていることがある。蝉の卵は木の枯れ枝や、樹皮などに産み付けられ、産み付けられた卵はその年の秋、または年を越して翌年の初夏に孵化する。卵から孵(かえ)った幼虫は地上に降り、すぐに土の中へ潜って木の根にとりつき、数年間、針のような口を木の根に差し込んで樹液を吸いながら過ごした後、夏の夕方頃、地上に出て木に登り、羽化して成虫となる不完全変態をする虫である。山に近い我が家の小さな小さな裏庭でも時期になると、朝起きて庭に散水していると、こんなところにと思う小さな木に蝉の抜け殻や抜け出たばかりの成虫を見つけることが多くある。
日本の場合、気象庁の梅雨明けとともに始まる蝉時雨。
「時雨(しぐれ)」とは、「過ぐる」から派生した言葉で、初冬に降る雨。多くの蝉が一斉に鳴きたてる声を時雨の降る音に見立てた語として使われる。
成虫が出現するのは主に夏だが、ハルゼミのように春(4月ごろ)に出現するものなどもいる。温暖化が進んだ近年では、東京などの都市部や九州などでは、10月に入ってもわずかながらセミが鳴いていることも珍しくなくなった。
蝉時雨を演出してくれるのは、東日本ではアブラゼミ(油蝉)、西日本ではクマゼミ(熊蝉)が主役のようだ。
蝉時雨と聞くと、なんとなく来心地よい鳴き声のようにも聞こえるのだが、近年の猛暑続きの中では、クマゼミや夜のアブラゼミの鳴声は、やや不快音に思えたりもする。
関東以西の大都市などでは環境の変化やヒートアイランド現象等によりアブラゼミの生息数が減少しているという。一方、北陸地方など近年アブラゼミの勢力が著しく強くなっている地域もあるようだ。
ミンミンゼミは、アブラゼミやクマゼミと比べると暑さに弱いらしが、そういえば、猛暑の続く1〜2年我が地元神戸では、山に近い我が家でも、ミンミンゼミの鳴声を聞かなくなったように思う。
蝉は、幼虫として地下生活する期間はまだ十分には解明されていないようだが、3〜17年(アブラゼミは6年)に達し、短命どころか昆虫類でも上位に入る寿命の長さをもつともいわれているようだ。成虫になってからの期間は1〜2週間ほどと言われていたが、これは成虫の飼育が困難ですぐ死んでしまうことからきた俗説らしく、野外では1か月ほどと言われているようだ。
日本では、種毎に独特の鳴き声を発し、地上に出ると短期間で死んでいくセミは、古来より感動と無常観を呼び起こさせ「もののあはれ」の代表だった。蝉の抜け殻を空蝉(うつせみ)と呼んで、現身(うつしみ)と連して考えたものである。
吉田兼好の随筆『徒然草』中でも有名な第7段“あだし野の露消ゆる時なく”では強烈に無常観を主張しており、以下のような形でセミが登場している。
「蜻蛉(とんぼ)は朝に生れて夕べには死ぬ(のに、人間は何時までも長生きしている)。また、夏のセミは秋を知らないほどに短命だ。
しみじみと一年を暮らせば、豊かな時間が過ぎていくのだ。逆に、命を惜しいと思って生きていると千年生きても短いと思うだろう。」・・・と(※10参照)。
また、芭蕉は奥の細道の旅から戻った翌年1690(元禄3)年、、4月〜7月(陽暦の5月〜9月)までの4か月を滋賀県大津市国分山の幻住庵に暮らし、その間の暮しぶりや人生観などを『幻住庵記としてまとめ翌年7月刊行の『猿蓑』に収めている』(※11:「私の芭蕉記」の”私の幻住庵”で、『幻住庵記』の全文が読める)。
この幻住庵に金沢の門人秋之坊(※1:「芭蕉DB」関係人名集参照)という僧が訪ねてきたときに、芭蕉が見せた句に以下の句がある。
「やがて死ぬけしきは見えず蝉の声」
前詞に「無常迅速」とあるとおりこの頃芭蕉は佛頂上人(※1:「芭蕉DB」関係人名集佛頂和尚参照)の影響か仏教へ傾斜していたという、(※1:「芭蕉DB」芭蕉句集参照)。
やがて死ぬのは、蝉なのか、芭蕉自身なのか、秋之坊なのか、おそらくそのいずれでもあるのだろう。生あるものは必ず死ぬ。この句は、まさに「閑けさや」の句以上に、命の儚さに対するこだわりが強烈ににじみ出ている。
目をつぶればすでに眼前のけしきは消え失せ、ただ蝉の声だけが聞こえてくる。今この時、この一瞬を鳴く蝉の生き方こそが、生を得たものの自然な生き方である。・・といった意味だろう。
佛頂上人は、芭蕉参禅の師らしい。前詞にある「無常迅速」とは、禅の言葉、『生死事大(しょうじじだい)無常迅速(むじょうじんそく)各宜醒覚(かくぎせいかく)慎勿放逸(しんもつほういつ)』からのもので、その意味は「生死は仏の一大事、時は無常に迅速に過ぎ去っていくから、各人はこのことに目覚めて、弁道精進(ひたすら仏道修行に励むこと、※12参照)につとめ、無為に過ごしてはいけない」。叩いて合図をするだけではなく、その音声で心をも目覚めさせようとの意味が込められているのだそうだ(※13:「長泉禅寺HP」の不立文字>生死事大 無常迅速を参照)。
従って、「この道や」の句の「この道」には、芭蕉が、尊敬して止まない芸道の先人たちが切り開いた道のことをも意味しており、そこに現在は誰もいないことを嘆きつつも、しかしいつかは時と所を越えて、必ず「この道」を辿る者が現れることを信じて、死んでいく己の生き様・・・といった芭蕉の奥深い思想が込められているようだ。芭蕉は、この句を詠んで一ヶ月後、51歳のけっして長くはない生涯を終えた。
蕉風と呼ばれる芸術性の極めて高い句風を確立し、俳聖として世界的にも知られる、日本史上最高の俳諧師の一人に上り詰めた芭蕉の「辞世句」ともなった「この道」の句。立石寺で詠んだ「閑や」の句同様の推敲を重ねてこの秀作が出来るまでの解説を、以下参考の※14:「芭蕉の辞世句「この道」」で詳しく書かれている。
ところで、彫刻家である一方、『智恵子抄』などの作品で知られる詩人の高村光太郎は、好んで蝉を彫り、また詩作の中にも「蝉を彫る」がある(参考の※15に、セミの彫刻と”蝉を彫る”の詩あり)。
よほど蝉の造形に感心が高かったようで、「私はよく蝉の木彫をする。……」という書き出しで始まる随筆『蝉の美と造型』(※16の青空文庫参照)の中で、何故蝉を彫るのか、蝉の魅力について熱く語っている。
そこでは、蝉の線の魅力に言及し、更には蝉の表現方法を通して「真の美」のあり方まで述べられており、高村によると、あの蝉の薄い翅をそのまま薄く彫ってしまっては下品になる。薄い物を薄く彫るのは浅はかで、むしろ逆なくらいがよいという(セミの彫刻は、※15参照)。
そして、「埃及(エジプト)人が永生の象徴として好んで甲虫(スカラベイ)のお守を彫ったように、古代ギリシャ人は美と幸福と平和の象徴として好んでセミの小彫刻を作って装身具などの装飾にした。声とその階調(かいちょう)の美とを賞したのだという。」・・・とも記されている。
上掲の画像は、王家の谷の壁画に描かれたスカラベ(Wikipediaより)中国では地中から出てきて飛び立つセミは、生き返り(蘇生、そせい)、復活の象徴として、玉(翡翠参照)などをセミの姿に彫った装飾品が新石器時代から作られてきた。また、西周ごろには、地位の高い者が亡くなった際にこのような「玉蝉」を口に入れて埋葬し、復活を願う習慣が生まれたという。これは、古代エジプトのスカラベと同じようなものだったかもしれない。
そしてまた、光太郎は、「蝉時雨(せみしぐれ)というような言葉で表現されている林間のセミの競演の如きは夢のように美しい夏の贈物だと思う。セミを彫っているとそういう林間の緑したたる涼風が部屋に満ちて来るような気がする。」と言っている、※15の詩”蝉を彫る”には、セミへの洞察と想いが、彫刻を通して語られ、興味深いものがある。
蝉の鳴き声は、現在でも夏を連想させる効果音として映画やドラマなどで多用されるが、映画やドラマにもなった藤沢周平の『蝉しぐれ』にも、いくつか蝉の鳴く光景がでてくる。
上掲の画像は映画「蝉時雨」チラシ。マイコレクションチラシより)藤沢周平(本名:小菅留治)は、山形県鶴岡市出身である。
小説は海坂藩を舞台に、政変に巻きこまれて父を失い、家禄を減らされた牧文四郎青年の過酷な境遇をひたむきに生きる姿が描かれている。作者創造による架空の藩海坂藩は、藤沢の出身地を治めた庄内藩とその城下町鶴岡がモチーフになっていると考えられている。
物語は、蛇に噛まれたおふくを救う「(かなわぬ)「恋のはじまり」で始まり、前半のクライマックスは、藩の政争に破れた父の斬首の場に少年がたった一人でおもむき、遺骸を引き取り、夏の城下を歯を食いしばって父をのせた荷車をひく。そこにかけよった少女おふくが涙を浮かべつつだまって荷車を押しはじめるシーン。 蝉しぐれの題名が、このシーンに見事に重なる。
最終章は、小説全体のタイトルと同じ「蝉しぐれ」で終わる。おふくと再会し、二人はお互いの人生を振り返り、共に生きる道はなかったのかと思いあうのだが、ままならぬのが人生。福と別れた文四郎に、黒松林の蝉しぐれが耳を聾(ろう)するばかりにふりそそぎ、福とともに過ごした幼少の頃の雑木林の風景が脳裏に浮かんでくる。ひと時、幻想の中で過ごした文四郎は、現実にたち戻るため、真夏の太陽が照らす野の中に馬腹を蹴って、熱い光の中に走り出ていくシーン。全編に静謐(せいひつ)さと夏の熱い空気が漂っている。
長編小説『蝉しぐれ』の初出は1986年(昭和61年)7月から1年間、山形新聞の夕刊連載であった。この時代は、都心の土地高騰が地方にまで広がり、日本中がバブル経済に狂乱していた時代であった。藤沢は自分自身の前半生の体験のつらさを込めて、誇りを失わずに逆境に耐える人間を描いているが、特に魅力的なのが、舞台となって出てくる架空の海坂藩であり、そこには、かって、存在した日本の原風景があった。戦後の社会からは消えていった日本人の心や暮らしのたたずまいが伝えわり、現代人の心にある懐かしさをかきたてた。経済優先の現代の世の中にあって、精神的に癒されるのが藤沢作品の特徴だろう。
最後になったが、『イソップ寓話集』の中でも、日本で特に有名な寓話「アリとキリギリス」は、元は「アリとセミ」だということは、よく知られているが、以下参考の※17:「インターネットで蝉を追う」では、“セミがどうしてキリギリスになったのか”・・・といったことなど詳しく書かれている。又、そこでは、怪談「雪女」や「耳なし芳一」でなじみの深い明治の文豪・小泉八雲の随筆『蝉』の紹介もしている(特別付録 ラフカディオ・ハーン小泉八雲)『蝉』を参照)など、蝉のことは非常に詳しく書かれていてなかなか面白い。
このブログを見ている人は、何故、梅雨にも入らない早くから蝉のことを書いているのか。どうせ書くなら、7月の梅雨明け頃にでも書けば時節に合っていていいのに・・・・と、思うかも知れないが、日本の蝉とエジプトの蝉の違いや西洋人と日本人の蝉の鳴声の感じ方のちがいなど『蝉』も色々調べると奥の深いもの。
梅雨が明けると本格的にセミの季節がやってくるガ今年は梅雨入りが早いというから梅雨明けも早いのだろう(※18)。
今年の夏は、電力不足で暑い夏になり暑さをしのぐのが大変そうだ。その前に、蝉のこと色々と調べて、新しい知識を持った上でセミの声を聴くと、蝉時雨も、ただうるさいものとは感じず、心地よい音色として聴こえるかも知れない・・・などと思ってね。
(冒頭の画像はアブラゼミ。Wikipediaより)
参考:
※1:芭蕉DB
http://www2.yamanashi-ken.ac.jp/~itoyo/basho/basho.htm
※2:閑さや岩にしみ入る蝉の声 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%91%E3%81%95%E3%82%84%E5%B2%A9%E3%81%AB%E3%81%97%E3%81%BF%E5%85%A5%E3%82%8B%E8%9D%89%E3%81%AE%E5%A3%B0
※3:蝉(せみ) - 万葉の生きものたち
href=http://www.bioweather.net/column/ikimono/manyo/m0508_1.htm
※4:曽良と歩く奥の細道展(諏訪市博物館)
http://www.city.suwa.lg.jp/scm/dat/kikaku/data_files/html_dat/H11_sora/index.htm※5:山寺の由来[ 山寺観光協会]
http://www.yamaderakankou.com/origin/
※6:日本俳句研究会:俳句作り方>俳句は挨拶
http://www.jphaiku.jp/how/aisatu.html
※7:俳句用語
http://thatgirlnextdooruk.blogspot.jp/2012/05/blog-post_06.html
8:古代文化研究所-奥細道俳諧事調
href=http://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/folder/1131267.html
※9:季節のことば -音の句
http://blogs.yahoo.co.jp/bgydk072/archive/2011/10/1
※10:徒然草DB
http://www2.yamanashi-ken.ac.jp/~itoyo/tsuredure/turedure_index.htm
※11:私の芭蕉記
http://www.intweb.co.jp/miura.shtml
※12:長泉禅寺HP
http://www3.ic-net.or.jp/~yaguchi/index.htm
※13:弁道話 - つらつら日暮らしWiki〈曹洞宗関連用語集〉
http://wiki.livedoor.jp/turatura/d/%CA%DB%C6%BB%CF%C3
※14:芭蕉の辞世句「この道」
http://www.st.rim.or.jp/~success/konomiti_ye.html
※15:東北文庫 高村光太郎 「詩集・造形詩編」
http://www.touhoku.com/00x-52tk-touhoku-zoukeisi.htm
※16:青空文庫:高村光太郎「蝉の美と造型」
http://www.aozora.gr.jp/cards/001168/files/46374_25629.html
※17:インターネットで蝉を追う
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/tiakio/cicada/preface.html
※18:気象庁 | 平成24年の梅雨入りと梅雨明け(速報値)
http://www.data.jma.go.jp/fcd/yoho/baiu/sokuhou_baiu.html
生き物調査「セミの図鑑」
http://web2.kagakukan.sendai-c.ed.jp/ikimono/neo/zukan/semi/zukan_semi.html
プレスリリース / 環境省、平成20年10月16日「いきものみっけ」夏の実施結果について(速報)
http://www.env.go.jp/press/press.php?serial=10292
俳句の作り方 〜初心者入門と定型・切れ字・季語〜
http://haiku-nyuumon.com/
この句は、江戸時代前期の俳諧師松尾芭蕉が、1689(元禄2)年5月27日(新暦7月13日)に、山形市立石寺(山寺)(正式には宝珠山阿所川院立石寺)に参詣した際に詠んだもので、紀行文集『奥の細道』に収録中の最も優れた発句の一つとされている。
初案は、随伴した河合曾良が記した『随行日記』に記されている「山寺や石にしみつく蝉の聲」(『俳諧書留』曾良)であったらしく、後には「さびしさや岩にしみ込む蝉の聲」(『初蝉・泊船集』)となり、現在のかたちに納まったのはよほど後のことらしい(※1「芭蕉DB」の奥の細道立石寺参照)。
1925(大正15)年、山形県出身の歌人斎藤茂吉はこの句に出てくる蝉についてアブラゼミであると断定し、雑誌『改造』の4月号に書いた「童馬山房漫筆」に発表。これをきっかけに蝉の種類についての文学論争が起こった。
このアブラゼミと主張する茂吉に対し、東北帝国大学の教授で夏目漱石の門下だった小宮豊隆は「閑さ、岩にしみ入るという語はアブラゼミに合わないこと」、「元禄2年5月末は太陽暦に直すと7月上旬となり、アブラゼミはまだ鳴いていないこと」を理由に、この蝉はニイニイゼミであると主張し、大きく対立するなど、白熱した蝉論争が起こるが、その後茂吉は実地調査などの結果をもとに二人のあいだでは小宮が主張したニイニイゼミで決着したようだ(※2、※3参照)。
ただ、芭蕉と門人の河合曽良(そら)が、尾花沢から取って返して立石寺を訪れたのは、それまで滞在していた尾花沢の人々の勧めがあったためと芭蕉は記す。つまり、当初は立石寺を訪問する予定はなかったようである。
みちのくを旅するにあたって、曽良は松島をはじめとする東北地方の行脚予定コースの歌枕(古くから和歌に詠まれた名所旧跡)について、延喜式神名帳抄録(抄録=要約)および名勝備忘録を用意して旅に出た(※4:「曽良と歩く奥の細道展」河合曽良略年譜参照)と言うが、立石寺は歌枕ではなかったことから この「名勝備忘録」に立石寺についての記載がなく、立石寺訪問が予定外であったことを裏付けている。詩歌に無名であった立石寺が芭蕉のこの句によって、その後、霊場立石寺という「俳枕」(俳句に詠まれた名所・旧跡) として、詩歌の地誌の上に登録されていくことになった。
私も、東北旅行時に一度だけ立石寺を訪れたことがあるが、聳(そび)え立つ岩山に堂が点在する山寺の風景に、中国の山水画に描かれた深山幽谷を見た思いがして感動したものだった。(写真等※5参照。案内図にマウスポイント当てると画像が拡大する)。
芭蕉も尾花沢から立石寺へ訪れ、到着後、まだ陽が残っていたので、麓の坊に宿を借りておいて、山上の御堂に上ったという。
当然、百丈岩に聳え立つ慈覚大師のお堂(開山堂)や、その堂から上へ到る細い階段を登ったところにある、慈覚大師が五大明王を安置して、天下泰平を祈る道場として使用したという五大堂からのすばらしい光景を見て感動したことであろう。
ただ※3の中でも、芭蕉が立石寺を訪れた太陽暦の7月13日頃の山形に出現しうる可能性のあるセミの種類の中で、アブラゼミの出現は7月中旬〜8月下旬頃であり、7月13日というと「アブラゼミは初鳴きがぎりぎりのところ」ともあり、芭蕉が訪れた時には、アブラゼミの数が多いか少ないかは別として、アブラゼミが鳴いていたかもしれない。そのことに関連して、※1:芭蕉DBでは、この句の論争でセミ以外の岩のことには触れられていないことや、このようなセミの種類や数論争で物議をかもすのも、この句の偉大さであり、言葉のプロとしての芭蕉の偉大さの故かもしれない。・・ことを指摘してしている。
芭蕉は山寺を訪れ、挨拶(俳諧でいう挨拶については、※6.※7参照)として、最初に詠んだのは「山寺や石にしみつく蝉の聲」であり、その後、推敲に推敲を重ねた末に「閑さや岩にしみ入る蝉の声」が奥の細道に掲載されるのだが、そこには、深い訳があるだろうが、そこらあたりの説明が詳しくは書かれていない。
そこで、ネット上で、この句をもっと詳しく解析しているものを探していると、以下参考に掲載の※8:古代文化研究所による「奥細道俳諧事調」が見つかった。一度、立石寺を訪れた者としては、その解説を読んでいて、さもあらん・・・とよく納得できたので、そのエキス的なところを以下へ抜き書きさせてもらおう。
芭蕉が吟じたのは、昼なお暗い仁王門や釈迦堂下のせみ塚あたりの景色である。そこには、立石寺の法宝である百丈岩が屹立(きりつ)している。だから、「閑さや岩にしみ入る蝉の声」は、奥の院や開山堂や五大堂を見終わった帰りの吟であることが分かる。なぜなら、屹立する百丈岩の大岩の上に開山堂が鎮座坐(ちんざましま)することを、芭蕉は意識して句作しているからである(立石寺境内位置図は※5参照。)。
芭蕉が初案であれほどこだわった挨拶を捨てて、「閑さや岩にしみ入る蝉の声」と改変したのは、臨場感を捨てて、内実にこだわったからであろう。宝珠山阿所川院立石寺として、清和天皇の御代から、延々と続く法統(仏語。仏法の伝統。仏法の流派。法流)を尊重した結果に他ならない。「閑さや」の上五が表すのは、立石寺境内全体が醸し出す雰囲気である。ここに切れ字「や」があるのは、「閑さや」と、句頭に立石寺境内全体の雰囲気を述べたのを一端、言い切る必要性が存在したからである。念の為に言うと、立石寺境内全体の雰囲気と言うのは、見て感じ取るものである。芭蕉は、あくまで立石寺の見目を表現しているのであって、何も音がしないとか、閑静であることを強調しているわけではない。
立石寺境内は、何と落ち着いて、安定していることか。それもこれもすべて、開山以来、連綿と数百年も続く法灯が醸し出す雰囲気が「閑さや」であって、一朝一夕に出来上がるものではないことが言いたいのである。また、それは現在の立石寺境内から、決してうかがい知れるようなものではない。現在の立石寺は当時の立石寺の完全なミニチュア版でしかない。元禄時代、ここには壮大な寺院伽藍が存在していたし、膨大な数の僧侶が氾濫していた。ある意味、立石寺は当時、僧の町であり、殷賑(いんしん=にぎやかで、繁盛しているさま)を極めていた。その賑わいは、到底現在の立石寺には存在しないものである。それでいて、寺はしっとりと落ち着いている。現在の閑散とした立石寺からは、「閑さや」の風情は想像すら出来ないであろう。芭蕉はそれを 「閑さや」と詠んだのである。立石寺の殷賑ぶりが「閑さや」の表現となっている。・・・(中簡略)。この句での、眼目は「岩」そのものであって、「閑さや」や「蝉の声」ではないし、まして「しみ入る」などではない。
そして、多くの著作が「蝉の声」を殊更取り上げて説明・解説したりしているが、それは全くの勘違いに過ぎない。俳諧を知らない者の仕草である。俳諧で最も肝要なのは、季節ではないし、切れ字(「ぞ」「かな」「や」「けり」「ず」「ぬ」「らむ」など、Wikipedia の俳句区切れ参照)でもない。それは挨拶である。その挨拶を無視する限り、俳諧を味わうことは不可能である。芭蕉は、この「岩に」の表現で、立石寺に挨拶しているのである。」・・・・と手厳しい。
「閑さや岩にしみ入る蝉の声」は、極めて芭蕉の思想性が色濃く出ている作品となっており、この句については、王籍の詩、「入若耶渓(じゃくやけいにいる)」との関係がよく知られているという(王籍の詩の解析と芭蕉の句のことは、※9を読めばよく分かる)。兎に角、芭蕉の句は素直ではない。かなりひねったものが多い。芭蕉の「閑さや」の句について、古代文化研究所「奥細道俳諧事調」では非常に詳しく解説されているので、関心のある方は是非一読されると良い。
「俳句とは何か」という、本質的問いに対する答えは多数存在するようだが、その中で、俳句評論家の山本健吉はエッセイ「挨拶と滑稽」のなかで、俳句の本質として3ヶ条をあげており、それが「俳句は滑稽なり。俳句は挨拶なり。俳句は即興なり」である。ここで述べている「挨拶」は山本が言っているところの「挨拶」のことであろう(※6.※7参照)。
セミ(蝉)は、あの臭いカメムシ(亀虫)の仲間、つまり、カメムシ目(旧・半翅目)に分類される昆虫の総称であり、ヨコバイ亜目とも近縁で、樹木に止まってる姿をよく見ていると横に這っていることがある。蝉の卵は木の枯れ枝や、樹皮などに産み付けられ、産み付けられた卵はその年の秋、または年を越して翌年の初夏に孵化する。卵から孵(かえ)った幼虫は地上に降り、すぐに土の中へ潜って木の根にとりつき、数年間、針のような口を木の根に差し込んで樹液を吸いながら過ごした後、夏の夕方頃、地上に出て木に登り、羽化して成虫となる不完全変態をする虫である。山に近い我が家の小さな小さな裏庭でも時期になると、朝起きて庭に散水していると、こんなところにと思う小さな木に蝉の抜け殻や抜け出たばかりの成虫を見つけることが多くある。
日本の場合、気象庁の梅雨明けとともに始まる蝉時雨。
「時雨(しぐれ)」とは、「過ぐる」から派生した言葉で、初冬に降る雨。多くの蝉が一斉に鳴きたてる声を時雨の降る音に見立てた語として使われる。
成虫が出現するのは主に夏だが、ハルゼミのように春(4月ごろ)に出現するものなどもいる。温暖化が進んだ近年では、東京などの都市部や九州などでは、10月に入ってもわずかながらセミが鳴いていることも珍しくなくなった。
蝉時雨を演出してくれるのは、東日本ではアブラゼミ(油蝉)、西日本ではクマゼミ(熊蝉)が主役のようだ。
蝉時雨と聞くと、なんとなく来心地よい鳴き声のようにも聞こえるのだが、近年の猛暑続きの中では、クマゼミや夜のアブラゼミの鳴声は、やや不快音に思えたりもする。
関東以西の大都市などでは環境の変化やヒートアイランド現象等によりアブラゼミの生息数が減少しているという。一方、北陸地方など近年アブラゼミの勢力が著しく強くなっている地域もあるようだ。
ミンミンゼミは、アブラゼミやクマゼミと比べると暑さに弱いらしが、そういえば、猛暑の続く1〜2年我が地元神戸では、山に近い我が家でも、ミンミンゼミの鳴声を聞かなくなったように思う。
蝉は、幼虫として地下生活する期間はまだ十分には解明されていないようだが、3〜17年(アブラゼミは6年)に達し、短命どころか昆虫類でも上位に入る寿命の長さをもつともいわれているようだ。成虫になってからの期間は1〜2週間ほどと言われていたが、これは成虫の飼育が困難ですぐ死んでしまうことからきた俗説らしく、野外では1か月ほどと言われているようだ。
日本では、種毎に独特の鳴き声を発し、地上に出ると短期間で死んでいくセミは、古来より感動と無常観を呼び起こさせ「もののあはれ」の代表だった。蝉の抜け殻を空蝉(うつせみ)と呼んで、現身(うつしみ)と連して考えたものである。
吉田兼好の随筆『徒然草』中でも有名な第7段“あだし野の露消ゆる時なく”では強烈に無常観を主張しており、以下のような形でセミが登場している。
「蜻蛉(とんぼ)は朝に生れて夕べには死ぬ(のに、人間は何時までも長生きしている)。また、夏のセミは秋を知らないほどに短命だ。
しみじみと一年を暮らせば、豊かな時間が過ぎていくのだ。逆に、命を惜しいと思って生きていると千年生きても短いと思うだろう。」・・・と(※10参照)。
また、芭蕉は奥の細道の旅から戻った翌年1690(元禄3)年、、4月〜7月(陽暦の5月〜9月)までの4か月を滋賀県大津市国分山の幻住庵に暮らし、その間の暮しぶりや人生観などを『幻住庵記としてまとめ翌年7月刊行の『猿蓑』に収めている』(※11:「私の芭蕉記」の”私の幻住庵”で、『幻住庵記』の全文が読める)。
この幻住庵に金沢の門人秋之坊(※1:「芭蕉DB」関係人名集参照)という僧が訪ねてきたときに、芭蕉が見せた句に以下の句がある。
「やがて死ぬけしきは見えず蝉の声」
前詞に「無常迅速」とあるとおりこの頃芭蕉は佛頂上人(※1:「芭蕉DB」関係人名集佛頂和尚参照)の影響か仏教へ傾斜していたという、(※1:「芭蕉DB」芭蕉句集参照)。
やがて死ぬのは、蝉なのか、芭蕉自身なのか、秋之坊なのか、おそらくそのいずれでもあるのだろう。生あるものは必ず死ぬ。この句は、まさに「閑けさや」の句以上に、命の儚さに対するこだわりが強烈ににじみ出ている。
目をつぶればすでに眼前のけしきは消え失せ、ただ蝉の声だけが聞こえてくる。今この時、この一瞬を鳴く蝉の生き方こそが、生を得たものの自然な生き方である。・・といった意味だろう。
佛頂上人は、芭蕉参禅の師らしい。前詞にある「無常迅速」とは、禅の言葉、『生死事大(しょうじじだい)無常迅速(むじょうじんそく)各宜醒覚(かくぎせいかく)慎勿放逸(しんもつほういつ)』からのもので、その意味は「生死は仏の一大事、時は無常に迅速に過ぎ去っていくから、各人はこのことに目覚めて、弁道精進(ひたすら仏道修行に励むこと、※12参照)につとめ、無為に過ごしてはいけない」。叩いて合図をするだけではなく、その音声で心をも目覚めさせようとの意味が込められているのだそうだ(※13:「長泉禅寺HP」の不立文字>生死事大 無常迅速を参照)。
従って、「この道や」の句の「この道」には、芭蕉が、尊敬して止まない芸道の先人たちが切り開いた道のことをも意味しており、そこに現在は誰もいないことを嘆きつつも、しかしいつかは時と所を越えて、必ず「この道」を辿る者が現れることを信じて、死んでいく己の生き様・・・といった芭蕉の奥深い思想が込められているようだ。芭蕉は、この句を詠んで一ヶ月後、51歳のけっして長くはない生涯を終えた。
蕉風と呼ばれる芸術性の極めて高い句風を確立し、俳聖として世界的にも知られる、日本史上最高の俳諧師の一人に上り詰めた芭蕉の「辞世句」ともなった「この道」の句。立石寺で詠んだ「閑や」の句同様の推敲を重ねてこの秀作が出来るまでの解説を、以下参考の※14:「芭蕉の辞世句「この道」」で詳しく書かれている。
ところで、彫刻家である一方、『智恵子抄』などの作品で知られる詩人の高村光太郎は、好んで蝉を彫り、また詩作の中にも「蝉を彫る」がある(参考の※15に、セミの彫刻と”蝉を彫る”の詩あり)。
よほど蝉の造形に感心が高かったようで、「私はよく蝉の木彫をする。……」という書き出しで始まる随筆『蝉の美と造型』(※16の青空文庫参照)の中で、何故蝉を彫るのか、蝉の魅力について熱く語っている。
そこでは、蝉の線の魅力に言及し、更には蝉の表現方法を通して「真の美」のあり方まで述べられており、高村によると、あの蝉の薄い翅をそのまま薄く彫ってしまっては下品になる。薄い物を薄く彫るのは浅はかで、むしろ逆なくらいがよいという(セミの彫刻は、※15参照)。
そして、「埃及(エジプト)人が永生の象徴として好んで甲虫(スカラベイ)のお守を彫ったように、古代ギリシャ人は美と幸福と平和の象徴として好んでセミの小彫刻を作って装身具などの装飾にした。声とその階調(かいちょう)の美とを賞したのだという。」・・・とも記されている。
上掲の画像は、王家の谷の壁画に描かれたスカラベ(Wikipediaより)中国では地中から出てきて飛び立つセミは、生き返り(蘇生、そせい)、復活の象徴として、玉(翡翠参照)などをセミの姿に彫った装飾品が新石器時代から作られてきた。また、西周ごろには、地位の高い者が亡くなった際にこのような「玉蝉」を口に入れて埋葬し、復活を願う習慣が生まれたという。これは、古代エジプトのスカラベと同じようなものだったかもしれない。
そしてまた、光太郎は、「蝉時雨(せみしぐれ)というような言葉で表現されている林間のセミの競演の如きは夢のように美しい夏の贈物だと思う。セミを彫っているとそういう林間の緑したたる涼風が部屋に満ちて来るような気がする。」と言っている、※15の詩”蝉を彫る”には、セミへの洞察と想いが、彫刻を通して語られ、興味深いものがある。
蝉の鳴き声は、現在でも夏を連想させる効果音として映画やドラマなどで多用されるが、映画やドラマにもなった藤沢周平の『蝉しぐれ』にも、いくつか蝉の鳴く光景がでてくる。
上掲の画像は映画「蝉時雨」チラシ。マイコレクションチラシより)藤沢周平(本名:小菅留治)は、山形県鶴岡市出身である。
小説は海坂藩を舞台に、政変に巻きこまれて父を失い、家禄を減らされた牧文四郎青年の過酷な境遇をひたむきに生きる姿が描かれている。作者創造による架空の藩海坂藩は、藤沢の出身地を治めた庄内藩とその城下町鶴岡がモチーフになっていると考えられている。
物語は、蛇に噛まれたおふくを救う「(かなわぬ)「恋のはじまり」で始まり、前半のクライマックスは、藩の政争に破れた父の斬首の場に少年がたった一人でおもむき、遺骸を引き取り、夏の城下を歯を食いしばって父をのせた荷車をひく。そこにかけよった少女おふくが涙を浮かべつつだまって荷車を押しはじめるシーン。 蝉しぐれの題名が、このシーンに見事に重なる。
最終章は、小説全体のタイトルと同じ「蝉しぐれ」で終わる。おふくと再会し、二人はお互いの人生を振り返り、共に生きる道はなかったのかと思いあうのだが、ままならぬのが人生。福と別れた文四郎に、黒松林の蝉しぐれが耳を聾(ろう)するばかりにふりそそぎ、福とともに過ごした幼少の頃の雑木林の風景が脳裏に浮かんでくる。ひと時、幻想の中で過ごした文四郎は、現実にたち戻るため、真夏の太陽が照らす野の中に馬腹を蹴って、熱い光の中に走り出ていくシーン。全編に静謐(せいひつ)さと夏の熱い空気が漂っている。
長編小説『蝉しぐれ』の初出は1986年(昭和61年)7月から1年間、山形新聞の夕刊連載であった。この時代は、都心の土地高騰が地方にまで広がり、日本中がバブル経済に狂乱していた時代であった。藤沢は自分自身の前半生の体験のつらさを込めて、誇りを失わずに逆境に耐える人間を描いているが、特に魅力的なのが、舞台となって出てくる架空の海坂藩であり、そこには、かって、存在した日本の原風景があった。戦後の社会からは消えていった日本人の心や暮らしのたたずまいが伝えわり、現代人の心にある懐かしさをかきたてた。経済優先の現代の世の中にあって、精神的に癒されるのが藤沢作品の特徴だろう。
最後になったが、『イソップ寓話集』の中でも、日本で特に有名な寓話「アリとキリギリス」は、元は「アリとセミ」だということは、よく知られているが、以下参考の※17:「インターネットで蝉を追う」では、“セミがどうしてキリギリスになったのか”・・・といったことなど詳しく書かれている。又、そこでは、怪談「雪女」や「耳なし芳一」でなじみの深い明治の文豪・小泉八雲の随筆『蝉』の紹介もしている(特別付録 ラフカディオ・ハーン小泉八雲)『蝉』を参照)など、蝉のことは非常に詳しく書かれていてなかなか面白い。
このブログを見ている人は、何故、梅雨にも入らない早くから蝉のことを書いているのか。どうせ書くなら、7月の梅雨明け頃にでも書けば時節に合っていていいのに・・・・と、思うかも知れないが、日本の蝉とエジプトの蝉の違いや西洋人と日本人の蝉の鳴声の感じ方のちがいなど『蝉』も色々調べると奥の深いもの。
梅雨が明けると本格的にセミの季節がやってくるガ今年は梅雨入りが早いというから梅雨明けも早いのだろう(※18)。
今年の夏は、電力不足で暑い夏になり暑さをしのぐのが大変そうだ。その前に、蝉のこと色々と調べて、新しい知識を持った上でセミの声を聴くと、蝉時雨も、ただうるさいものとは感じず、心地よい音色として聴こえるかも知れない・・・などと思ってね。
(冒頭の画像はアブラゼミ。Wikipediaより)
参考:
※1:芭蕉DB
http://www2.yamanashi-ken.ac.jp/~itoyo/basho/basho.htm
※2:閑さや岩にしみ入る蝉の声 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%91%E3%81%95%E3%82%84%E5%B2%A9%E3%81%AB%E3%81%97%E3%81%BF%E5%85%A5%E3%82%8B%E8%9D%89%E3%81%AE%E5%A3%B0
※3:蝉(せみ) - 万葉の生きものたち
href=http://www.bioweather.net/column/ikimono/manyo/m0508_1.htm
※4:曽良と歩く奥の細道展(諏訪市博物館)
http://www.city.suwa.lg.jp/scm/dat/kikaku/data_files/html_dat/H11_sora/index.htm※5:山寺の由来[ 山寺観光協会]
http://www.yamaderakankou.com/origin/
※6:日本俳句研究会:俳句作り方>俳句は挨拶
http://www.jphaiku.jp/how/aisatu.html
※7:俳句用語
http://thatgirlnextdooruk.blogspot.jp/2012/05/blog-post_06.html
8:古代文化研究所-奥細道俳諧事調
href=http://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/folder/1131267.html
※9:季節のことば -音の句
http://blogs.yahoo.co.jp/bgydk072/archive/2011/10/1
※10:徒然草DB
http://www2.yamanashi-ken.ac.jp/~itoyo/tsuredure/turedure_index.htm
※11:私の芭蕉記
http://www.intweb.co.jp/miura.shtml
※12:長泉禅寺HP
http://www3.ic-net.or.jp/~yaguchi/index.htm
※13:弁道話 - つらつら日暮らしWiki〈曹洞宗関連用語集〉
http://wiki.livedoor.jp/turatura/d/%CA%DB%C6%BB%CF%C3
※14:芭蕉の辞世句「この道」
http://www.st.rim.or.jp/~success/konomiti_ye.html
※15:東北文庫 高村光太郎 「詩集・造形詩編」
http://www.touhoku.com/00x-52tk-touhoku-zoukeisi.htm
※16:青空文庫:高村光太郎「蝉の美と造型」
http://www.aozora.gr.jp/cards/001168/files/46374_25629.html
※17:インターネットで蝉を追う
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/tiakio/cicada/preface.html
※18:気象庁 | 平成24年の梅雨入りと梅雨明け(速報値)
http://www.data.jma.go.jp/fcd/yoho/baiu/sokuhou_baiu.html
生き物調査「セミの図鑑」
http://web2.kagakukan.sendai-c.ed.jp/ikimono/neo/zukan/semi/zukan_semi.html
プレスリリース / 環境省、平成20年10月16日「いきものみっけ」夏の実施結果について(速報)
http://www.env.go.jp/press/press.php?serial=10292
俳句の作り方 〜初心者入門と定型・切れ字・季語〜
http://haiku-nyuumon.com/