日本記念日協会の今日・6月19日の記念日に「ロマンスの日」があった。
記念日の由来を見ると“大切なパートナーとの仲がいつまでも続くように、この日に非日常的な演出をしてふたりの関係にトキメキを甦らせてもらおうと日本ロマンチスト協会(※1)が制定し、「本当に大切な人と極上の一日を過ごす」ことを推奨しているそうだ。
ロマンチストの聖地、長崎県雲仙市愛野町で「ジャガチュー(ジャガイモ畑の中心でロマンスを叫ぶ)」などのイベントを行っているそうで、日付は6と19で「ロマンティック」の語呂合わせなどから。・・・としている。
ここに書いてある由緒だけを見ても、何故愛野町がロマンチストの聖地?で、何故ジャガイモ畑の中心でロマンスを叫ぶのか?などよく分からないので同協会HP(※1)を覗くと、
同協会は、その名の通りロマンチストが集まった団体であり、「ロマンチスト」とは、”恋人や家族など「大切な人を世界で1番幸せにできる人」と協会では定義しているようだ。
そして、同協会の会長波房氏は“ロマンチストというと、「空想癖」や「ナルシスト」(ナルシシズム参照)などちょっとネガティブ(negative)な人物像をイメージするかもしれないが、もっと、ポジティブ(⇔ネガティブ)に定義付け、“大切な人との良い関係作りのためにロマンチックに生きる人が増えれば、世の人の心が温かくなり、社会全体としてもハッピーな状態になるのでは・・・”と考えてこの運動をしているのだという。
そして、雲仙市の愛野町を通るローカル線「島原鉄道」の愛野駅から、吾妻(あづま)駅までの乗車キップは、「愛しの吾が妻(いとしのわがつま)」に通じる縁起物として知られていることから、ここを「聖地」として、同協会の本部をこの地に設置した。
同鉄道の愛野駅はメルヘンチックなかわいらしい駅であり、前方には見晴らしの良い海抜95メートルの断崖絶壁、背後には愛野のバレイショ(ジャガイモ)畑が広がっており、このジャガイモ畑を会場にして、「ジャガイモ畑の中心でロマンスを叫ぶ「ジャガチュー」と題した企画を実施しているのだという。この記念日の設置やこの運動は2008(平成20)年から行っているようだ。同協会ではロマンスの日に、「真実の愛」や「誠実な誓い」の意味を持つ青色の物を大切な人に贈ろう、という運動もしているそうだ。
今の若い人達と私たちの年代のものでは、ロマンの考え方もずいぶん違ってきているのだろうが、ここで言うところの、ロマンチストな若者がジャガイモ畑に集まって、谷に向かって大声で愛の告白などしたりして、それで愛が通じたりするものであるなら、それはそれで、結構なことであり、おおいに、楽しんでやられるとよいだろう。興味のある方は、同協会HPを覗かれると良い。
このブログでは、協会の運動とは関係なく、これ以降は、記念日にあるところの「ロマンス」を題材として書くことにする。
日本では、「ロマンチックな人」のことをロマンチストなどと言っているが、そもそも、「ロマンチスト」は和製英語であり、英語での正しい綴り“romanticist” (ロマンティシスト)は、“ロマン主義”romanticism“を信奉する人。ロマン主義者、つまり、ロマン派文学者・芸術家を言うことが多いが、日本語のロマンチストの意味に近いのは"romantic"であり、“現実を離れた、甘美な空想などを好む人。夢想家。空想家”を言っている。特に、漢字で「浪漫」と書いた場合などは、男性また女性が追い求める夢と希望の事をいっていることが多いようだ。
ロマン主義(※2も参照)という語のもとをなす形容詞ロマンチック“romantic”(英語)、“romantique”(フランス語)は、もともと俗化したラテン語を、ついでその言語によって書かれたすべての作物(小説や物語など)をさしたフランス語のロマン“roman”に由来するが、時代が下るにしたがってロマンは初め韻文で、後には散文でも書かれた中世の騎士道物語に対して用いられ、とくにイギリスでは「ローマ的」という意味でロマンス“romance”とよばれるようになった。
ロマンチックの初出は17世紀中葉のイギリスであり、少し後れてほぼ同時期にドイツ、フランスに入り、主として小説的で幻想的な印象を与える風物や芸術作品の形容詞に用いられていたが、やがて18世紀末から19世紀初頭にかけてイギリス、ドイツ、フランスを中心にヨーロッパ各地で、文学・芸術・思想上の自由解放を信奉する革新的思潮の高まりの中から、合理主義の普遍的理性に対抗して個々人の感性と想像力の優越を主張し、古典主義の表現形式の規制を打破して自我の自由な表現を追求しようとした文芸運動が展開され、伝統文化をよぶクラシックclassic(古典的)の対立語として定着するに至った。
ロマン主義は、その展開の中で、近代個人主義を根本におき、それまで古典主義において軽視されてきたエキゾチスム“exoticism”・オリエンタリズム“orientalism”・神秘主義“mysticism”・夢“dream”などといった題材が好まれた。またそれまで教条主義によって抑圧されてきた個人の感情、「憂鬱」・「不安」・「動揺」・「苦悩」・「個人的な愛情」などを大きく扱った。
文学ではルソー・ゲーテ・ワーズワースを先駆とし、絵画ではジェリコ・ドラクロア・ゴヤ、音楽ではシューベルト・シューマン・ショパン・ベルリオーズらに代表される。
日本でのロマン主義文学の先駆けは、明治中期(1890年前後)以降、西欧のロマン主義文学の影響を受けた森鴎外の『舞姫』(1890年)によって始まり、『文学界』(1893年〜1898年)同人の島崎藤村の詩や北村透谷の評論などによって推進された(※4参照)。彼らは美と自由を主張し、人間性の解放と主情(理性や意志よりも、感情や情緒などを中心とすること)的真実を探り、自我の確立を目ざした。
本格的な浪漫主義は、明治30年代の詩歌全盛の時代とともに開花するが、その主流となったのは、与謝野鉄幹・晶子夫妻を中心とする雑誌『明星』(1900〜08)によった歌人らであり、好んで星やすみれ(菫)に託して、恋愛や甘い感傷を詩歌に歌ったことから彼らを指して、星菫(せいきん)派と称した。その本質は、奔放な情熱による自我の解放と恋愛至上と空想的唯美の世界への陶酔にあった。
この当時のロマン主義文学の代表作には、樋口一葉の短編小説『たけくらべ』(1895年)、島崎藤村の詩集『若菜集』(1897年)、国木田独歩の随筆的小説『武蔵野』(1898年。※3)、徳冨蘆花の社会的視野を持った家庭小説『不如帰』(1899年)、泉鏡花の幻想小説『高野聖』(1900年)があり、本格的な浪漫主義は、明治30年代の詩歌全盛の時代とともに開花し、与謝野晶子の歌集『みだれ髪』(1901年)、などがあるが、国木田独歩はやがてロマン主義から自然主義的な作風に変化してゆき、島崎藤村は『破戒』(1906年)により、ロマン主義から自然主義文学に完全に移行した。日本のロマン主義文学は、西欧のそれに比べて短命であった。
大正時代の雰囲気を伝える思潮や文化事象を指して呼ぶ言葉に「大正ロマン」があり、しばしば「大正浪漫」とも表記されるが、この「浪漫」という当て字は夏目漱石によって付けられたとされている。
「大正ロマン」は、新しい時代の萌芽(ほうが。草木の芽のもえ出ることから、新しい物事が起こりはじめること。また、物事の起こるきざし)を示す意味合いから、モダニズム“modernism”(近代化)から派生した「大正モダン」という言葉と同列に扱われることもある。
「大正モダン」と「大正ロマン」は同時代の表と裏を表象する対立の概念であろう。在位の短かった天皇の崩御により、震災(関東大震災)復興などによる経済の閉塞感とともに、この時代は終わり、世界的大恐慌で始まる昭和の時代に移るが、大衆化の勢いは衰えることなく昭和モダンの時代へと引き継がれ、昭和時代の初め1930年代に花開した。それは、和洋折衷の近代市民文化であった。
大衆ロマン主義を表現したり訴える手段としては、映画や歌謡曲は小説以上に効果がある。
1922(大正11)年の「枯れすすき」(作詞:野口雨情、作曲:中山晋平。後「船頭小唄」と改題映画化)などによって、映画が流行歌の強力な媒体となることが証明された。以下では、「船頭小唄」に主演した貴重な栗島すみ子他による粗筋の説明がある。
船頭小唄劇-上 栗島すみ子外 - YouTube
映画主題歌は昭和になるとともにいっそう多く製作され、「東京行進曲」(1929年。唄:佐藤千夜子、作詞:西條八十、作曲:中山晋平)や「女給の唄」(映画タイトルは「女給」(歌・羽衣歌子、 作詞・西條八十、 作曲・塩尻精八)が大きな話題となった。
「東京行進曲」では、モボ・モガが行き交う昭和初期の開放的な東京・銀座の風俗が唄われている。以下では、佐藤千夜子の歌とともに、関東大震災からまだ、復興して5年ほどの、昭和4年の東京銀座 浅草の賑やかな光景が見られる。
佐藤千夜子 東京行進曲 昭和4年の東京銀座 浅草 - YouTube
女給の唄 羽衣歌子 -YouTube
これらの歌のヒットの原動力としては、当時電気吹き込みで音色が一段と改良され、電気蓄音機(電蓄)が登場することになり、レコードが家庭内に浸透したことによる事が大きい。
そして、従来は庶民が愛好したので「流行歌」となったが、次第に、流行を予測し、最初から「流行歌」と銘打った曲が発売されるにいたり、その性格は一変し、映画産業とレコード企業が庶民の嗜好を左右する原動力となっていった。
又、作詞や作曲の専業者が現れ、歌手がスターの座につくようになり、庶民の憧れの存在となった。このようなさま変わりした流行歌の宣伝媒体として、ラジオや新聞そして、雑誌も参加してくることになった。
そして1937(昭和12)年小唄 勝太郎の歌う「島の娘」や「東京音頭」などの芸者唄にあこがれる者が現れる反面、それを拒否する声も大きくなった。その矢先に、1936(昭和11)年「忘れちゃいやヨ」が大ヒットした。
東京音頭-小唄 勝太郎 - YouTube
島の娘 小唄勝太郎- YouTube
忘れちゃいやヨ -渡辺はま子 - YouTube
また、映画では、川口松太郎の小説を映画化した「愛染かつら」の主題歌「旅の夜風」、作詞:西條八十、作曲:万城目正、唄:霧島 昇、ミス・コロムビア)は、同映画の挿入歌「悲しき子守唄」とのカップリングでコロムビアレコード(現コロムビアレコード)から発売80万枚という驚異的なレコード売り上げを記録したという。当時日本にあったプレーヤー(蓄音機)の台数を考えると、今日では2000万枚近いメガヒットにも相当するかもしれないという。
旅の夜 風霧島昇、コロムビア- YouTube
また、1940(昭和15)年発売の戦時歌謡曲「誰(たれ)か故郷(こきょう)を想わざる」(作詞:西條八十、作曲:古賀政男、歌:霧島昇))は、歌のヒットにより、新興キネマより同名で映画が公開されヒットた。
霧島 昇 誰か故郷を想わざる- YouTube
映画での主題歌の強さを見せ付けた。1930年代は、日本調が一つの頂点に達したときである。
1910年代になると、ポピュラー音楽の外国レコードも大量に入ってくるようになり、次第に外国楽曲の愛好者も増え、1930年代になると、ディック・ミネの「ダイナ」や「雨のブルース」(淡谷 のり子)などが歌われるようになる。
ダイナ ディック・ミネ (昭和九年) - YouTube
淡谷のり子 雨のブルース- YouTube
しかし、1930年代後半(1937年〜)頃には、日中戦争の激化と世界的な国際関係の緊張を受け国家総動員(国家総動員法参照)となり、これらの文化は「軟弱で贅沢」「反“新体制”的」として排斥され、昭和モダンは終わりを迎え、次第に軍歌や軍国調の国民歌謡が歌の主流を占めるようになったが、初期の頃は意外にロマンの香り豊かな歌謡曲が作られ歌われていたのだ。
このような、昭和モダンの歌の流れは第二次世界大戦後(1945年8月〜)になってますます顕著となる。
終戦直後は各レコード会社が戦災のために思うように新譜レコードを発売できず、戦前の歌謡曲が再発売されていたが、戦争という時代の制約から解放されたレコード業界は、早速、終戦翌年より活動を再開、この時、レコード会社は新人歌手の開拓に腐心した。この活動によりデビューしたのが、並木路子や美空ひばりなど、「第三世代」( Wikipedia-流行歌の3.6 戦後の躍進と第三世代参照)と呼ぶべき歌手である。
戦後の日本の歌謡史は並木路子が歌う「リンゴの唄 」(作詞:サトウハチロー。作曲は万城目正。)で始まった。焼け跡の廃墟のから聴こえて来た。
この歌は、終戦(1945年8月)2ヶ月後公開された戦後映画の第1号(GHQの検閲第一号映画でもある)『そよ風』(松竹映画、1945年10月公開。佐々木康監督)の主題歌であった。
リンゴの唄〜映画『そよかぜ』より - YouTube
映画『そよ風』は、もともと本土決戦に備え戦意高揚の目的(プロパガンダ)として企画されたものだったが、終戦を迎え内容もすっかり変わり、主演には撮影当時23歳の松竹少女歌劇団員である並木路子が抜擢され、並木扮するレビュー劇場の照明係で歌手志望の少女みちが、楽団員たちに励まされ、やがて歌手としてデビューするという、映画としては、レビューガールの恋と生活を描いた平凡な「スター誕生」の物語となった。
映画の中では、ヒロインの並木が、恋心を寄せていた佐野周二の何気ない言葉に傷ついて、りんご農家である実家に帰ってしまう。そして、りんご畑で一人寂しく「リンゴの唄」を歌うという設定になっているが、レコードは、映画にも出た霧島昇とのデュエットとなっている。「この曲は必ず当たる」と思った霧島が強引にデュエットを希望したらしく、スタッフは当時コロムビアの看板歌手だった霧島の要求を断れなかったようだ。しかし、霧島は並木を売り出したいコロムビア側の意向でステージでは歌わなかったという。
この、「リンゴの唄」は、映画が封切りされてからレコード吹き込みまでに再三ラジオで放送され、空前の大ヒットとなった。
私の父親も大好きで、毎日歌っていたので、子供心に私もいつの間にか覚えて、口ずさんでいた。
終戦直後の昭和20年の暮までは、軍歌や戦時歌謡が盛んであったが、その反面、戦時中禁じられていた歌謡曲が一斉に蘇(よみがえ)りつつある時でもあった。そして、「リンゴの唄」を耳にするまで、これといって新しい歌もなかった。
並木が健康的でさわやかに、可憐な少女の思いを赤いリンゴに託して歌ったこの歌詞が、戦後の焼け跡の風景や戦時の重圧からの解放感とうまく合って、敗戦の混乱のなか虚脱と退廃に包まれた人々の心を癒し、それ以上に、人々に生きる希望・夢(浪漫)を感じさせたのだろう。、
この歌のヒットのより、戦後は、古いイメージの昭和1ケタ台に活躍した歌手が引退し、昭和20年代は戦前派でも昭和10年以降の第二世代の歌手が活躍し、新しく出てきた第三世代と新旧相交ざった状態が昭和20年代中頃まで続いたが、「リンゴの唄」に続いて、岡晴夫が歌う「東京の花売娘」や憧れのハワイ航路」(昭和23年)が一世を風靡した。彼の底抜けに明るく歌う前曲では、ブギウギのリズムに乗せ、ジャズ・米兵と焼け跡の首都の風俗を叙情的な歌詞で表され、後曲では、戦争の火蓋が切られたハワイを、何の衒(てら)いも無く理想郷に置き換え、平和の到来と開放感に充ちた時代の到来を告げた。
東京の花賣娘 岡晴夫- YouTube
憧れのハワイ航路 岡 晴夫- YouTube
また、服部良一作曲で、笠置シヅ子が虚脱感を吹き飛ばすかのように歌った」、「東京ブギウギ」、古賀政男作曲の近江俊郎「湯の町エレジー」の大ヒット、藤山一郎と奈良光枝のデュエットで格調高く溌剌(はつらつ)と復興の息吹を呼ぶかのように歌った映画「青い山脈」の同名の主題歌「青い山脈」(作詞:西條八十 、作曲:服部良一)などもヒットするなど、戦後流行歌が数多く生まれたが、そんな戦前派の代表格である藤山も昭和29(1954)年には引退を決意し、次々戦前派歌手が撤退する中、レコード各社は新人歌手の開拓でしのぎを削っていた。これが、日本歌謡における多ジャンル化への契機ともなった。
笠置シヅ子 東京ブギウギ - YouTube
近江俊郎 湯の町エレジー - YouTube
青い山脈 藤山一郎さん 奈良光枝 さん 原曲- YouTube
そんななか美空ひばりが、1949(昭和24)年、1月、日劇のレヴュー「ラブ・パレード」(主役・灰田勝彦。参考※5:「昭和のレビュ-狂時代」の年代別:昭和24年を参照)で笠置シヅ子の「セコハン娘東京ブギウギ」を歌い踊る子供として面白がられ、同年3月には東横映画「喉自慢狂時代」(大映配給、※6)でブギウギを歌う少女として映画初出演。8月には松竹映画「踊る竜宮城」(※7)に出演し、主題歌「河童ブギウギ」で、コロムビアから歌手としてB面ではあるが11歳で正式にレコードデビュー(7月30日)を果たした。続いて12歳で、映画主演を果たした「悲しき口笛」(松竹)が大ヒット、同主題歌も45万枚売れ(当時の最高記録)国民的認知度を得た。この時の「シルクハットに燕尾服」で歌う映像は小さいときのひばりを代表するものとしてよく取り上げられている。
以下で当時の懐かしいひばりの歌が聞ける。さすが、天才少女と呼ばれ、昭和歌謡界の女王として君臨しただけあり、子どもとは言えない素晴らしい歌唱力である。
美空ひばりデビュー「踊る竜宮城」 - デイリーモーション動画
悲しき口笛−美空ひばり- YouTube
戦前派の撤退を横目に、ビクターからは、鶴田浩二、三浦洸一、テイチクからは三波春夫、コロムビアからは島倉千代子、村田英雄らの新人をデビューさせた。特にキングは昭和20年代末から30年代にかけて、春日八郎や三橋美智也をデビューさせて、戦前とは比べ物にならない勢いを誇っていた。また映画「太陽の季節」「狂った果実」で映画デビューした日活のスターである石原裕次郎や双子のデュオザ・ピーナッツなど、新しいタイプの歌手も次々登場させていた。
一方、日本の映画では戦後、GHQ により統治され、検閲を受けて、時代劇の大部分が製作できなくなっていたが、これはかえって、映画の民主化傾向の促進や映画労働運動の奨励などに貢献したといわれている。
初めのうちは民主主義的な映画を避けていた各映画会社もその厳しい検閲から、民主主義を標榜する映画作りを行うことになった。今では、当たり前のように映画に出てくるキスシーンも登場したのは 戦後第1作の映画「そよかぜ」に続いて佐々木監督が撮った1946(昭和21)年公開の「はたちの青春」(松竹。※8)からであるが、これも、GHQ による民主主義奨励の一環であったらしい。
又、1950 年代戦後復興期の日本全国で映画館の新設ラッシュが続くが、館内全体の「雰囲気」を重視し、「観客にロマンチックな気分をかもし出させる」ために必要な空間の創出も進められていた(※9)。
1951(昭和26)年に、サンフランシスコ講和条約が締結されると、翌年にGHQによる映画検閲が廃止となる。これにより上映禁止となっていた時代劇が復活するとともに、多数の映画が製作されるようになった。国際映画祭において黒澤明や溝口健二らの日本映画作品が次々と受賞し、日本の文化的矜持の回復に務めた。
東映は、『新諸国物語 笛吹童子』シリーズや『新諸国物語 紅孔雀』(1954年・五部作)に、若手の中村錦之助、東 千代之介を主演させ子供達に圧倒的人気を得、市川右太衛門、片岡千恵蔵、月形龍之介、大友柳太朗といったベテラン俳優主演の大人物にも中村錦之助や大川橋蔵等新しいスターを次々主演させ時代劇王国としての地位を築いた。
東宝は、森繁久弥出演の『三等重役』より、サラリーマンシリーズ、社長シリーズ、駅前シリーズが大ヒット。東宝の経営を支え、黒澤映画からは、スーパースター三船敏郎や、加山雄三を生み出し、加山は、「若大将シリーズ」の主演で1960年代の東宝の屋台骨を支えるようになる。また、円谷英二監督は、特撮による「ゴジラ」がドル箱シリーズとなった。
松竹は、木下惠介監督や小津安二郎監督による映画で女性ファンを集め、伴淳三郎出演『二等兵物語』など、松竹がお得意とする喜劇作品もヒットさせた。
大映も長谷川一夫を筆頭に三大女優京マチ子、山本富士子、若尾文子そして新し市川雷蔵といった日本映画史に残る大スターを排出した。
日活は、五社協定により有力なスターを他社から引き抜けないため、石原裕次郎、小林旭、浅丘ルリ子、赤木圭一郎、宍戸錠などの自前のスターを作り出し、若年向けの青春映画や無国籍アクション映画を製作•配給し人気を得た。
そうして、1958(昭和33)年には映画人口が11億人を突破するなど、映画は娯楽の殿堂として不動の存在となるとともに、映画産業における第二の黄金時代が到来することとなった。
ロマンスの日 2-2と参考のページへ
記念日の由来を見ると“大切なパートナーとの仲がいつまでも続くように、この日に非日常的な演出をしてふたりの関係にトキメキを甦らせてもらおうと日本ロマンチスト協会(※1)が制定し、「本当に大切な人と極上の一日を過ごす」ことを推奨しているそうだ。
ロマンチストの聖地、長崎県雲仙市愛野町で「ジャガチュー(ジャガイモ畑の中心でロマンスを叫ぶ)」などのイベントを行っているそうで、日付は6と19で「ロマンティック」の語呂合わせなどから。・・・としている。
ここに書いてある由緒だけを見ても、何故愛野町がロマンチストの聖地?で、何故ジャガイモ畑の中心でロマンスを叫ぶのか?などよく分からないので同協会HP(※1)を覗くと、
同協会は、その名の通りロマンチストが集まった団体であり、「ロマンチスト」とは、”恋人や家族など「大切な人を世界で1番幸せにできる人」と協会では定義しているようだ。
そして、同協会の会長波房氏は“ロマンチストというと、「空想癖」や「ナルシスト」(ナルシシズム参照)などちょっとネガティブ(negative)な人物像をイメージするかもしれないが、もっと、ポジティブ(⇔ネガティブ)に定義付け、“大切な人との良い関係作りのためにロマンチックに生きる人が増えれば、世の人の心が温かくなり、社会全体としてもハッピーな状態になるのでは・・・”と考えてこの運動をしているのだという。
そして、雲仙市の愛野町を通るローカル線「島原鉄道」の愛野駅から、吾妻(あづま)駅までの乗車キップは、「愛しの吾が妻(いとしのわがつま)」に通じる縁起物として知られていることから、ここを「聖地」として、同協会の本部をこの地に設置した。
同鉄道の愛野駅はメルヘンチックなかわいらしい駅であり、前方には見晴らしの良い海抜95メートルの断崖絶壁、背後には愛野のバレイショ(ジャガイモ)畑が広がっており、このジャガイモ畑を会場にして、「ジャガイモ畑の中心でロマンスを叫ぶ「ジャガチュー」と題した企画を実施しているのだという。この記念日の設置やこの運動は2008(平成20)年から行っているようだ。同協会ではロマンスの日に、「真実の愛」や「誠実な誓い」の意味を持つ青色の物を大切な人に贈ろう、という運動もしているそうだ。
今の若い人達と私たちの年代のものでは、ロマンの考え方もずいぶん違ってきているのだろうが、ここで言うところの、ロマンチストな若者がジャガイモ畑に集まって、谷に向かって大声で愛の告白などしたりして、それで愛が通じたりするものであるなら、それはそれで、結構なことであり、おおいに、楽しんでやられるとよいだろう。興味のある方は、同協会HPを覗かれると良い。
このブログでは、協会の運動とは関係なく、これ以降は、記念日にあるところの「ロマンス」を題材として書くことにする。
日本では、「ロマンチックな人」のことをロマンチストなどと言っているが、そもそも、「ロマンチスト」は和製英語であり、英語での正しい綴り“romanticist” (ロマンティシスト)は、“ロマン主義”romanticism“を信奉する人。ロマン主義者、つまり、ロマン派文学者・芸術家を言うことが多いが、日本語のロマンチストの意味に近いのは"romantic"であり、“現実を離れた、甘美な空想などを好む人。夢想家。空想家”を言っている。特に、漢字で「浪漫」と書いた場合などは、男性また女性が追い求める夢と希望の事をいっていることが多いようだ。
ロマン主義(※2も参照)という語のもとをなす形容詞ロマンチック“romantic”(英語)、“romantique”(フランス語)は、もともと俗化したラテン語を、ついでその言語によって書かれたすべての作物(小説や物語など)をさしたフランス語のロマン“roman”に由来するが、時代が下るにしたがってロマンは初め韻文で、後には散文でも書かれた中世の騎士道物語に対して用いられ、とくにイギリスでは「ローマ的」という意味でロマンス“romance”とよばれるようになった。
ロマンチックの初出は17世紀中葉のイギリスであり、少し後れてほぼ同時期にドイツ、フランスに入り、主として小説的で幻想的な印象を与える風物や芸術作品の形容詞に用いられていたが、やがて18世紀末から19世紀初頭にかけてイギリス、ドイツ、フランスを中心にヨーロッパ各地で、文学・芸術・思想上の自由解放を信奉する革新的思潮の高まりの中から、合理主義の普遍的理性に対抗して個々人の感性と想像力の優越を主張し、古典主義の表現形式の規制を打破して自我の自由な表現を追求しようとした文芸運動が展開され、伝統文化をよぶクラシックclassic(古典的)の対立語として定着するに至った。
ロマン主義は、その展開の中で、近代個人主義を根本におき、それまで古典主義において軽視されてきたエキゾチスム“exoticism”・オリエンタリズム“orientalism”・神秘主義“mysticism”・夢“dream”などといった題材が好まれた。またそれまで教条主義によって抑圧されてきた個人の感情、「憂鬱」・「不安」・「動揺」・「苦悩」・「個人的な愛情」などを大きく扱った。
文学ではルソー・ゲーテ・ワーズワースを先駆とし、絵画ではジェリコ・ドラクロア・ゴヤ、音楽ではシューベルト・シューマン・ショパン・ベルリオーズらに代表される。
日本でのロマン主義文学の先駆けは、明治中期(1890年前後)以降、西欧のロマン主義文学の影響を受けた森鴎外の『舞姫』(1890年)によって始まり、『文学界』(1893年〜1898年)同人の島崎藤村の詩や北村透谷の評論などによって推進された(※4参照)。彼らは美と自由を主張し、人間性の解放と主情(理性や意志よりも、感情や情緒などを中心とすること)的真実を探り、自我の確立を目ざした。
本格的な浪漫主義は、明治30年代の詩歌全盛の時代とともに開花するが、その主流となったのは、与謝野鉄幹・晶子夫妻を中心とする雑誌『明星』(1900〜08)によった歌人らであり、好んで星やすみれ(菫)に託して、恋愛や甘い感傷を詩歌に歌ったことから彼らを指して、星菫(せいきん)派と称した。その本質は、奔放な情熱による自我の解放と恋愛至上と空想的唯美の世界への陶酔にあった。
この当時のロマン主義文学の代表作には、樋口一葉の短編小説『たけくらべ』(1895年)、島崎藤村の詩集『若菜集』(1897年)、国木田独歩の随筆的小説『武蔵野』(1898年。※3)、徳冨蘆花の社会的視野を持った家庭小説『不如帰』(1899年)、泉鏡花の幻想小説『高野聖』(1900年)があり、本格的な浪漫主義は、明治30年代の詩歌全盛の時代とともに開花し、与謝野晶子の歌集『みだれ髪』(1901年)、などがあるが、国木田独歩はやがてロマン主義から自然主義的な作風に変化してゆき、島崎藤村は『破戒』(1906年)により、ロマン主義から自然主義文学に完全に移行した。日本のロマン主義文学は、西欧のそれに比べて短命であった。
大正時代の雰囲気を伝える思潮や文化事象を指して呼ぶ言葉に「大正ロマン」があり、しばしば「大正浪漫」とも表記されるが、この「浪漫」という当て字は夏目漱石によって付けられたとされている。
「大正ロマン」は、新しい時代の萌芽(ほうが。草木の芽のもえ出ることから、新しい物事が起こりはじめること。また、物事の起こるきざし)を示す意味合いから、モダニズム“modernism”(近代化)から派生した「大正モダン」という言葉と同列に扱われることもある。
「大正モダン」と「大正ロマン」は同時代の表と裏を表象する対立の概念であろう。在位の短かった天皇の崩御により、震災(関東大震災)復興などによる経済の閉塞感とともに、この時代は終わり、世界的大恐慌で始まる昭和の時代に移るが、大衆化の勢いは衰えることなく昭和モダンの時代へと引き継がれ、昭和時代の初め1930年代に花開した。それは、和洋折衷の近代市民文化であった。
大衆ロマン主義を表現したり訴える手段としては、映画や歌謡曲は小説以上に効果がある。
1922(大正11)年の「枯れすすき」(作詞:野口雨情、作曲:中山晋平。後「船頭小唄」と改題映画化)などによって、映画が流行歌の強力な媒体となることが証明された。以下では、「船頭小唄」に主演した貴重な栗島すみ子他による粗筋の説明がある。
船頭小唄劇-上 栗島すみ子外 - YouTube
映画主題歌は昭和になるとともにいっそう多く製作され、「東京行進曲」(1929年。唄:佐藤千夜子、作詞:西條八十、作曲:中山晋平)や「女給の唄」(映画タイトルは「女給」(歌・羽衣歌子、 作詞・西條八十、 作曲・塩尻精八)が大きな話題となった。
「東京行進曲」では、モボ・モガが行き交う昭和初期の開放的な東京・銀座の風俗が唄われている。以下では、佐藤千夜子の歌とともに、関東大震災からまだ、復興して5年ほどの、昭和4年の東京銀座 浅草の賑やかな光景が見られる。
佐藤千夜子 東京行進曲 昭和4年の東京銀座 浅草 - YouTube
女給の唄 羽衣歌子 -YouTube
これらの歌のヒットの原動力としては、当時電気吹き込みで音色が一段と改良され、電気蓄音機(電蓄)が登場することになり、レコードが家庭内に浸透したことによる事が大きい。
そして、従来は庶民が愛好したので「流行歌」となったが、次第に、流行を予測し、最初から「流行歌」と銘打った曲が発売されるにいたり、その性格は一変し、映画産業とレコード企業が庶民の嗜好を左右する原動力となっていった。
又、作詞や作曲の専業者が現れ、歌手がスターの座につくようになり、庶民の憧れの存在となった。このようなさま変わりした流行歌の宣伝媒体として、ラジオや新聞そして、雑誌も参加してくることになった。
そして1937(昭和12)年小唄 勝太郎の歌う「島の娘」や「東京音頭」などの芸者唄にあこがれる者が現れる反面、それを拒否する声も大きくなった。その矢先に、1936(昭和11)年「忘れちゃいやヨ」が大ヒットした。
東京音頭-小唄 勝太郎 - YouTube
島の娘 小唄勝太郎- YouTube
忘れちゃいやヨ -渡辺はま子 - YouTube
また、映画では、川口松太郎の小説を映画化した「愛染かつら」の主題歌「旅の夜風」、作詞:西條八十、作曲:万城目正、唄:霧島 昇、ミス・コロムビア)は、同映画の挿入歌「悲しき子守唄」とのカップリングでコロムビアレコード(現コロムビアレコード)から発売80万枚という驚異的なレコード売り上げを記録したという。当時日本にあったプレーヤー(蓄音機)の台数を考えると、今日では2000万枚近いメガヒットにも相当するかもしれないという。
旅の夜 風霧島昇、コロムビア- YouTube
また、1940(昭和15)年発売の戦時歌謡曲「誰(たれ)か故郷(こきょう)を想わざる」(作詞:西條八十、作曲:古賀政男、歌:霧島昇))は、歌のヒットにより、新興キネマより同名で映画が公開されヒットた。
霧島 昇 誰か故郷を想わざる- YouTube
映画での主題歌の強さを見せ付けた。1930年代は、日本調が一つの頂点に達したときである。
1910年代になると、ポピュラー音楽の外国レコードも大量に入ってくるようになり、次第に外国楽曲の愛好者も増え、1930年代になると、ディック・ミネの「ダイナ」や「雨のブルース」(淡谷 のり子)などが歌われるようになる。
ダイナ ディック・ミネ (昭和九年) - YouTube
淡谷のり子 雨のブルース- YouTube
しかし、1930年代後半(1937年〜)頃には、日中戦争の激化と世界的な国際関係の緊張を受け国家総動員(国家総動員法参照)となり、これらの文化は「軟弱で贅沢」「反“新体制”的」として排斥され、昭和モダンは終わりを迎え、次第に軍歌や軍国調の国民歌謡が歌の主流を占めるようになったが、初期の頃は意外にロマンの香り豊かな歌謡曲が作られ歌われていたのだ。
このような、昭和モダンの歌の流れは第二次世界大戦後(1945年8月〜)になってますます顕著となる。
終戦直後は各レコード会社が戦災のために思うように新譜レコードを発売できず、戦前の歌謡曲が再発売されていたが、戦争という時代の制約から解放されたレコード業界は、早速、終戦翌年より活動を再開、この時、レコード会社は新人歌手の開拓に腐心した。この活動によりデビューしたのが、並木路子や美空ひばりなど、「第三世代」( Wikipedia-流行歌の3.6 戦後の躍進と第三世代参照)と呼ぶべき歌手である。
戦後の日本の歌謡史は並木路子が歌う「リンゴの唄 」(作詞:サトウハチロー。作曲は万城目正。)で始まった。焼け跡の廃墟のから聴こえて来た。
この歌は、終戦(1945年8月)2ヶ月後公開された戦後映画の第1号(GHQの検閲第一号映画でもある)『そよ風』(松竹映画、1945年10月公開。佐々木康監督)の主題歌であった。
リンゴの唄〜映画『そよかぜ』より - YouTube
映画『そよ風』は、もともと本土決戦に備え戦意高揚の目的(プロパガンダ)として企画されたものだったが、終戦を迎え内容もすっかり変わり、主演には撮影当時23歳の松竹少女歌劇団員である並木路子が抜擢され、並木扮するレビュー劇場の照明係で歌手志望の少女みちが、楽団員たちに励まされ、やがて歌手としてデビューするという、映画としては、レビューガールの恋と生活を描いた平凡な「スター誕生」の物語となった。
映画の中では、ヒロインの並木が、恋心を寄せていた佐野周二の何気ない言葉に傷ついて、りんご農家である実家に帰ってしまう。そして、りんご畑で一人寂しく「リンゴの唄」を歌うという設定になっているが、レコードは、映画にも出た霧島昇とのデュエットとなっている。「この曲は必ず当たる」と思った霧島が強引にデュエットを希望したらしく、スタッフは当時コロムビアの看板歌手だった霧島の要求を断れなかったようだ。しかし、霧島は並木を売り出したいコロムビア側の意向でステージでは歌わなかったという。
この、「リンゴの唄」は、映画が封切りされてからレコード吹き込みまでに再三ラジオで放送され、空前の大ヒットとなった。
私の父親も大好きで、毎日歌っていたので、子供心に私もいつの間にか覚えて、口ずさんでいた。
終戦直後の昭和20年の暮までは、軍歌や戦時歌謡が盛んであったが、その反面、戦時中禁じられていた歌謡曲が一斉に蘇(よみがえ)りつつある時でもあった。そして、「リンゴの唄」を耳にするまで、これといって新しい歌もなかった。
並木が健康的でさわやかに、可憐な少女の思いを赤いリンゴに託して歌ったこの歌詞が、戦後の焼け跡の風景や戦時の重圧からの解放感とうまく合って、敗戦の混乱のなか虚脱と退廃に包まれた人々の心を癒し、それ以上に、人々に生きる希望・夢(浪漫)を感じさせたのだろう。、
この歌のヒットのより、戦後は、古いイメージの昭和1ケタ台に活躍した歌手が引退し、昭和20年代は戦前派でも昭和10年以降の第二世代の歌手が活躍し、新しく出てきた第三世代と新旧相交ざった状態が昭和20年代中頃まで続いたが、「リンゴの唄」に続いて、岡晴夫が歌う「東京の花売娘」や憧れのハワイ航路」(昭和23年)が一世を風靡した。彼の底抜けに明るく歌う前曲では、ブギウギのリズムに乗せ、ジャズ・米兵と焼け跡の首都の風俗を叙情的な歌詞で表され、後曲では、戦争の火蓋が切られたハワイを、何の衒(てら)いも無く理想郷に置き換え、平和の到来と開放感に充ちた時代の到来を告げた。
東京の花賣娘 岡晴夫- YouTube
憧れのハワイ航路 岡 晴夫- YouTube
また、服部良一作曲で、笠置シヅ子が虚脱感を吹き飛ばすかのように歌った」、「東京ブギウギ」、古賀政男作曲の近江俊郎「湯の町エレジー」の大ヒット、藤山一郎と奈良光枝のデュエットで格調高く溌剌(はつらつ)と復興の息吹を呼ぶかのように歌った映画「青い山脈」の同名の主題歌「青い山脈」(作詞:西條八十 、作曲:服部良一)などもヒットするなど、戦後流行歌が数多く生まれたが、そんな戦前派の代表格である藤山も昭和29(1954)年には引退を決意し、次々戦前派歌手が撤退する中、レコード各社は新人歌手の開拓でしのぎを削っていた。これが、日本歌謡における多ジャンル化への契機ともなった。
笠置シヅ子 東京ブギウギ - YouTube
近江俊郎 湯の町エレジー - YouTube
青い山脈 藤山一郎さん 奈良光枝 さん 原曲- YouTube
そんななか美空ひばりが、1949(昭和24)年、1月、日劇のレヴュー「ラブ・パレード」(主役・灰田勝彦。参考※5:「昭和のレビュ-狂時代」の年代別:昭和24年を参照)で笠置シヅ子の「セコハン娘東京ブギウギ」を歌い踊る子供として面白がられ、同年3月には東横映画「喉自慢狂時代」(大映配給、※6)でブギウギを歌う少女として映画初出演。8月には松竹映画「踊る竜宮城」(※7)に出演し、主題歌「河童ブギウギ」で、コロムビアから歌手としてB面ではあるが11歳で正式にレコードデビュー(7月30日)を果たした。続いて12歳で、映画主演を果たした「悲しき口笛」(松竹)が大ヒット、同主題歌も45万枚売れ(当時の最高記録)国民的認知度を得た。この時の「シルクハットに燕尾服」で歌う映像は小さいときのひばりを代表するものとしてよく取り上げられている。
以下で当時の懐かしいひばりの歌が聞ける。さすが、天才少女と呼ばれ、昭和歌謡界の女王として君臨しただけあり、子どもとは言えない素晴らしい歌唱力である。
美空ひばりデビュー「踊る竜宮城」 - デイリーモーション動画
悲しき口笛−美空ひばり- YouTube
戦前派の撤退を横目に、ビクターからは、鶴田浩二、三浦洸一、テイチクからは三波春夫、コロムビアからは島倉千代子、村田英雄らの新人をデビューさせた。特にキングは昭和20年代末から30年代にかけて、春日八郎や三橋美智也をデビューさせて、戦前とは比べ物にならない勢いを誇っていた。また映画「太陽の季節」「狂った果実」で映画デビューした日活のスターである石原裕次郎や双子のデュオザ・ピーナッツなど、新しいタイプの歌手も次々登場させていた。
一方、日本の映画では戦後、GHQ により統治され、検閲を受けて、時代劇の大部分が製作できなくなっていたが、これはかえって、映画の民主化傾向の促進や映画労働運動の奨励などに貢献したといわれている。
初めのうちは民主主義的な映画を避けていた各映画会社もその厳しい検閲から、民主主義を標榜する映画作りを行うことになった。今では、当たり前のように映画に出てくるキスシーンも登場したのは 戦後第1作の映画「そよかぜ」に続いて佐々木監督が撮った1946(昭和21)年公開の「はたちの青春」(松竹。※8)からであるが、これも、GHQ による民主主義奨励の一環であったらしい。
又、1950 年代戦後復興期の日本全国で映画館の新設ラッシュが続くが、館内全体の「雰囲気」を重視し、「観客にロマンチックな気分をかもし出させる」ために必要な空間の創出も進められていた(※9)。
1951(昭和26)年に、サンフランシスコ講和条約が締結されると、翌年にGHQによる映画検閲が廃止となる。これにより上映禁止となっていた時代劇が復活するとともに、多数の映画が製作されるようになった。国際映画祭において黒澤明や溝口健二らの日本映画作品が次々と受賞し、日本の文化的矜持の回復に務めた。
東映は、『新諸国物語 笛吹童子』シリーズや『新諸国物語 紅孔雀』(1954年・五部作)に、若手の中村錦之助、東 千代之介を主演させ子供達に圧倒的人気を得、市川右太衛門、片岡千恵蔵、月形龍之介、大友柳太朗といったベテラン俳優主演の大人物にも中村錦之助や大川橋蔵等新しいスターを次々主演させ時代劇王国としての地位を築いた。
東宝は、森繁久弥出演の『三等重役』より、サラリーマンシリーズ、社長シリーズ、駅前シリーズが大ヒット。東宝の経営を支え、黒澤映画からは、スーパースター三船敏郎や、加山雄三を生み出し、加山は、「若大将シリーズ」の主演で1960年代の東宝の屋台骨を支えるようになる。また、円谷英二監督は、特撮による「ゴジラ」がドル箱シリーズとなった。
松竹は、木下惠介監督や小津安二郎監督による映画で女性ファンを集め、伴淳三郎出演『二等兵物語』など、松竹がお得意とする喜劇作品もヒットさせた。
大映も長谷川一夫を筆頭に三大女優京マチ子、山本富士子、若尾文子そして新し市川雷蔵といった日本映画史に残る大スターを排出した。
日活は、五社協定により有力なスターを他社から引き抜けないため、石原裕次郎、小林旭、浅丘ルリ子、赤木圭一郎、宍戸錠などの自前のスターを作り出し、若年向けの青春映画や無国籍アクション映画を製作•配給し人気を得た。
そうして、1958(昭和33)年には映画人口が11億人を突破するなど、映画は娯楽の殿堂として不動の存在となるとともに、映画産業における第二の黄金時代が到来することとなった。
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