日本の演歌は、明治時代の自由民権運動の産物であり、壮士演歌ともいって、藩閥政府に対する批判、政治宣伝のために歌われていた(オッペケペー節など)。
「歌」( Yahoo!辞書も参照)とは、詩の一形式であり、和歌。短歌、長歌、連歌、狂歌などや、能や狂言、歌舞伎などに用いられる歌、それから、現代の流行歌としての歌謡曲やポップスなど、いろいろあるが、日本の民俗学者、国文学者、国語学者であり、詩人・歌人でもあった折口信夫によれば「歌う」の語源は、「うった(訴)ふ」であり、歌うという行為には相手に伝えるべき内容(歌詞)の存在を前提としていることもまた確かであり、「うたは世につれ、世はうたにつれ」というように、世がうたに追随することは少ないものの「歌は世に連れる」と言うように、歌謡曲は常に世相の裏で大衆が感じたことを敏感に取り上げ、大衆の共感を得てヒットさせてきた。そういう意味でこの言葉は名言であるが、今の時代、映画やテレビドラマなども、「うた」のひとつに含まれるものといえるかもしれない。
時は流れ、平成の世になって24年。
だんだんと遠ざかっていく「昭和」の時代、私が青春期を過ごした時代、青少年が憧れた輝くばかりのスターが銀幕(映画)の世界にも歌謡界にも大勢いた。
昭和における大衆歌謡・流行歌は、生活の中の泣き、笑い、喜びをそのメロディと詞に織りこみ、それゆえに世代を越えて愛されてきた。田舎の祭ばやし、高原の白樺林、赤い夕陽の校舎、霧の波止場にマドロス、路地裏の酒場。列車に郵便船。人々は理屈ではなく、感性でそうした「うた」の世界に思いをはせ、想像力をかきたてていった。それを歌や映画で演じ、夢や憧れを一身に集めてくれたのがスターであったのだ。
歌の世界で最も幅広い層に広く認知されたのは、やはり美空ひばりからではないか。彼女は歌手としてだけではなく映画界でも大活躍。その演技力は俳優としても一流であった。
まだテレビは普及途中であり、ビジュアルの中心は映画であり、『平凡』(平凡出版,現マガジンハウス)、『明星』(集英社、現・Myojo)などの雑誌であり、また、プロマイドであった。情報の乏しい中、特に若い男女は、必死に憧れのスターを追いかけた。
若い男女に、そんな、憧れのスターを広めるのに大きな役割を果たしのが中でも雑誌『平凡』であろう。
平凡出版の発行による『平凡』は、戦後『明星』と共に映画・音楽で活躍する芸能人の情報を掲載した月刊誌として人気があったが、創業者の判断により1987年に休刊となっている。
上掲の画像は、『平凡 最後の最後の特別編集『ありがとう!美空ひばりさん』の永久保存版と名うった写真集(マガジンハウスムック第11号平成元年8月1日発行)である。私の雑誌コレクションの中の1つであるが、美空ひばりが亡くなった直後に刊行されたものでる。
マガジンハウスから発行されていた月刊娯楽雑誌『平凡』の前身の平凡出版は、1945(昭和20)年合資会社凡人社として誕生したが、1983(昭和58)年に社名をマガジンハウスと変更した。
平凡出版の発行による雑誌『平凡』は、岩堀喜之助が、同名の雑誌(1928年〜29年に数ヶ月間の発行らしい)を出していた平凡社の創業者下中 弥三郎から誌名を譲り受け、清水達夫と二人三脚で発展させるが、当初はA5版の冴えない文芸雑誌だったらしい。
それを、1948(昭和23)年に読む雑誌から見る雑誌へイメージチェンジを図り、先行する雑誌『ロマンス』に対抗して、「歌と映画の娯楽雑誌」と位置付けて、判型をA5判からB5判へ大判化し、高峰三枝子(歌う映画スター女性第1号)がマイクの前で歌うポーズ写真を表紙に取り入れたり、巻頭グラビアではヒット曲の歌詞と映画スチールを組み合わせるなど、ページを賑やかに飾るようにした。この転身に、平凡出版からマガジンハウスへと進むこの出版社の雑誌作りの手法が秘められていた。つまり、優れたデザイナーを起用し見る要素を誌面に溢れさせた。その究極に、当時のものまね歌手と見られていた美空ひばりの表紙への起用があったという。
岩堀は、その理由を「悲しき口笛」の試写会の折に見せた「見上げた芸能根性に惚れ、この人は本物だ、「平凡」と並行に行こうや、とひばりに力を入れるようになった」と語っているようだ(アサヒクロニクル「週間20世紀」1952年号より。掲の画像左も同誌掲載のものを借用。右は先に述べた『平凡 最後の最後の特別編集『ありがとう!美空ひばりさん』の永久保存版の裏表紙掲載のものである)。
『平凡 最後の最後の特別編集『ありがとう!美空ひばりさん』の永久保存版によると、国民栄誉賞に輝いたひばりが、最初に賞と名のつくものを手にしたのは1951(昭和26)年『平凡』の人気投票で第3位に選ばれたときであり、翌1952(昭和27)年からは女性歌手部門では13年連続第1位という快挙を成し遂げた。
美空ひばり、江利 チエミ、雪村いづみの「3人娘」は『平凡』のグラフ企画から誕生したそうで、人気、キャリアとも先行していたひばりを追うふたりだけに、3人の顔合わせは難しいと思われていたが、まず、ひばりとチエミが対談(昭和29年四月号)、そして、いずみが加わった。同年5月号にて、不可能といわれた夢の顔合わせがこのグラフ企画でついに実現いたという。
『平凡』で、3人娘の映画初共演のための原作『ジャンケン娘』を連載。同盟映画は大ヒットし、『ロマンス娘』『大当たり三色娘』と3人娘映画が次々と作られた。そして、7年後、娘から成長し『ひばり・チエミ・いづみ 三人よれば』が4本目の共演映画となったそうだ(冒頭掲載の画像は1956年公開、東宝映画『ロマンス娘』ポスター。Wikipediaより)。まさに、岩堀の言うとおり、ひばりと平凡は並行にやって来たのだろう。
上掲の画像は、私のHP「よーさんの我楽多部屋」のCorection Room。Poom2絵葉書の中の「広告物・付録等」5ー1懐かしい平凡社の付録絵葉書に掲載している昭和30年頃のものだろう雑誌「平凡」正月号の付録の絵葉書の中の1枚美空ひばりのブロマイドであるが、他に、高田浩吉、菅原謙次、佐田啓二、岸恵子、香川京子・若尾文子の6枚があり、それぞれのスターが自筆で、正月用の挨拶とサインを記入してある。私は、コレクションの一つである絵葉書として収集しただけであるが、当時若手俳優として活躍していたこれらスターのファンにとっては、胸をわくわくさせながら、正月号の発売を待ち侘びていたことだろうね。
「歌と映画の娯楽雑誌」に徹底して以後、若い読者層の爆発的人気をよび『平凡』は、1953(昭和28)年新年号で、ついにこの業界では戦後初めての発行部数100万部を突破したが、1970年代後半あたりから衰退が目立ち始め、1987(昭和62)年に休刊となっている。
以下参考に記載の※10:「「戦後空間」の中の『平凡』夏井 美奈子論文」では、雑誌『平凡』の魅力について、深く掘り下げ書かれている。一見、ただの大衆娯楽雑誌であり、まさに「歌と映画の雑誌」としか見られてこなかった『平凡』だが、1950 年代の 1 冊 1 冊を開き、読んでいくと、「歌と映画」だけではくくることのできない、さまざまな論点をもつ資料であることがわかる。『平凡』には「歌」「映画」「小説」「グラビア」「投稿」「座談会」などたくさんのジャンルがあり、その中でも今までは光があてられなかった「小説」「グラビア」「座談会」「投稿」などの中にあふれる、読者を惹きつけた力に、私も惹きつけられていった。・・・と。
そして、『平凡』を語るとき、「戦争」というキーワードを抜きにして語ることはできない。あの「戦争」があったからこそ、大衆娯楽雑誌『平凡』は生まれた。戦争の傷跡から這い上がるようにして創刊された『平凡』は、都市空間を表象し、誌上を通して新しいコミュニティを形成し、人々の欲望を抱え込みながらリードしていった。
なぜ『平凡』が人々をリードできたのか、それはまず、根本に『平凡』が「共通体験としての戦争」を抱えて創られていたからではないだろうか。1950 年代、多かれ少なかれ全員が戦争と敗戦を経験し、生きていた。いくら娯楽に人々が飢えていたとしても、もし『平凡』がひたすら「アメリカ文化」を流していただけの雑誌だったなら、そしてただ都会の流行を紹介するだけの雑誌だったなら、ここまで人々の心を掴むことができなかったのではないかと思う。その底流に「戦争の傷跡」を共有していたからこそ、『平凡』に人々は惹かれていったのだろう。自分たちと同じく戦争で傷を負った主人公が幸せになる物語や、スターの苦労話があったために、華やかなグラビアがさらに輝いて見えたのではないだろうか。
しかし一方で、人々はいつまでも敗戦の傷に浸ることを望んではいなかったのだった。時間の経過とともに新しい時代、輝かしい未来を自分たちのものにしようと、「敗戦」「戦後」を乗り越えようとしていく。それは「敗戦」から生まれた新たな「欲望」の誕生だった。
新しいスターの登場とともに、敗戦を感じさせる記事は減り、作られた映画も今、目の前にある自分たちの恋愛や結婚をテーマにしたものが多くなってゆく。読者参加型の座談会が増え、自由に恋愛や性が語られていく中に、表面上「敗戦」の入る隙はなくなっていった。そして人生の理想像として、1959 年という 50 年代最後の年に皇太子の結婚があった。「平民」との結婚は人々にとって「民主化」の象徴であり、まさに「戦後」を乗り越えた瞬間だったのではないだろうか・・・と。これ以上詳しくは、かけないので興味ある方は同論文を読まれるとよい。
そういえば、戦後最大のロマンスと言えば、 “『世紀のロマンス』皇太子妃が民間から誕生!”・・・のニュースだっただろう。
上掲の画像は、皇太子妃決定を伝える号外(1958年11月27日、朝日新聞東京本社発行、号外である。
1958(昭和33)年11月27日、皇太子明仁親王の妃に、日清製粉正田英三郎社長の長女美智子さんが決まった。この2人は現在の天皇、皇后である。
皇太子は軽井沢の親善テニスで対戦した美知子さんの人となりにひかれ、お妃候補にと自分から言われたそうだ。軽井沢でのテニスから生まれたロマンスがみのり、皇族や旧華族出身でない民間からの皇太子妃の誕生は、皇室の歴史上画期的な出来事であった。
多くの国民は、このご結婚を支持し、愛称の「ミッチ」からミッチーブームがわいた。正に、現代のシンデレラ物語といえるかもしれないが、正田家も美知子さんも、皇太子からの結婚の申し込みにも「家格が違いすぎる」「その任に堪えられない」と頑強に拒否されたらしいが、その心を動かしたのは、「柳こうり一つで来てください」という言葉だったという。しかし、国民の熱狂的な支持はあったものの皇室内では、かなりご苦労されたようである。立派な家柄のお嬢様であり、皇太子妃になっていなければもっともっといい人生を送られたことであろう。それをよーく理解しているから、今上天皇も美知子日妃を大切に大切になされているようである。
現皇太子妃は外務官僚の家からお出になったようだが、大分正田家とは違った育て方をされたようである。天皇・美知子妃さまも、将来のことについていろいろとお悩みになっていることだろうとお察しする。
とりとめもなまく長々と書いたがこれで止める。当ブログ作成にかんして、歌謡曲のことについては、以下参考の※11:「流行歌 演歌 歌謡曲 日本の歴史 雑学の世界」を参考にさせてもらった。
◎(冒頭掲載の画像は1956年公開、東宝映画『ロマンス娘』ポスター。Wikipediaより)
参考:
※ 1:日本ロマンチスト協会(NRA)
http://japan-romance.com/
※2:Yahoo百科事典-ロマン主義
http://100.yahoo.co.jp/detail/%E3%83%AD%E3%83%9E%E3%83%B3%E4%B8%BB%E7%BE%A9/
※3:青空文庫:国木田独歩 武蔵野
http://www.aozora.gr.jp/cards/000038/files/329_15886.html
※4:北村透谷「内部生命論」と明治浪漫主義(Adobe PDF)
http://www.ritsumei.ac.jp/acd/gr/gsce/ce/2007/ft01.pdf#search='『内部生命論』'
※5:昭和のレビュ-狂時代
http://yachan.sitemix.jp/s24nen.html
※6:のど自慢狂時代 - goo 映画
http://movie.goo.ne.jp/movies/p27136/index.html
※7:踊る龍宮城 - goo 映画
http://movie.goo.ne.jp/movies/p27527/index.html
※8:はたちの青春 - goo 映画
http://movie.goo.ne.jp/movies/p26798/index.html
※9:日本映画発達史 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%98%A0%E7%94%BB%E7%99%BA%E9%81%94%E5%8F%B2
※10:戦後空間」の中の『平凡』夏井 美奈子論文- html
http://cache.yahoofs.jp/search/cache?c=OerIv152rs4J&p=%E9%9B%91%E8%AA%8C+%E5%B9%B3%E5%87%A1&u=www.sal.tohoku.ac.jp%2F%7En-yoshi%2Fhestia%2Farchives%2Fno1%2Fnatsui.pdf#search='雑誌 平凡'
※11:流行歌 演歌 歌謡曲 日本の歴史 雑学の世界
http://www.geocities.jp/widetown/japan_den/japan_den016.htm
1958(昭和33)年11月27日 世紀のロマンス 皇太子妃が民間から誕生!(Adobe PDF)
http://www.yomiuri.co.jp/komachi/data/link/pdf/chronicle_0607.pdf#search='皇太子 美知子 ロマンス'
美空ひばり - goo 映画
http://movie.goo.ne.jp/cast/c100105/index.html
日本記念日協会
http://www.kinenbi.gr.jp/index2.html
ロマンス - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%9E%E3%83%B3%E3%82%B9
ロマンスの日2ー1へ戻る
「歌」( Yahoo!辞書も参照)とは、詩の一形式であり、和歌。短歌、長歌、連歌、狂歌などや、能や狂言、歌舞伎などに用いられる歌、それから、現代の流行歌としての歌謡曲やポップスなど、いろいろあるが、日本の民俗学者、国文学者、国語学者であり、詩人・歌人でもあった折口信夫によれば「歌う」の語源は、「うった(訴)ふ」であり、歌うという行為には相手に伝えるべき内容(歌詞)の存在を前提としていることもまた確かであり、「うたは世につれ、世はうたにつれ」というように、世がうたに追随することは少ないものの「歌は世に連れる」と言うように、歌謡曲は常に世相の裏で大衆が感じたことを敏感に取り上げ、大衆の共感を得てヒットさせてきた。そういう意味でこの言葉は名言であるが、今の時代、映画やテレビドラマなども、「うた」のひとつに含まれるものといえるかもしれない。
時は流れ、平成の世になって24年。
だんだんと遠ざかっていく「昭和」の時代、私が青春期を過ごした時代、青少年が憧れた輝くばかりのスターが銀幕(映画)の世界にも歌謡界にも大勢いた。
昭和における大衆歌謡・流行歌は、生活の中の泣き、笑い、喜びをそのメロディと詞に織りこみ、それゆえに世代を越えて愛されてきた。田舎の祭ばやし、高原の白樺林、赤い夕陽の校舎、霧の波止場にマドロス、路地裏の酒場。列車に郵便船。人々は理屈ではなく、感性でそうした「うた」の世界に思いをはせ、想像力をかきたてていった。それを歌や映画で演じ、夢や憧れを一身に集めてくれたのがスターであったのだ。
歌の世界で最も幅広い層に広く認知されたのは、やはり美空ひばりからではないか。彼女は歌手としてだけではなく映画界でも大活躍。その演技力は俳優としても一流であった。
まだテレビは普及途中であり、ビジュアルの中心は映画であり、『平凡』(平凡出版,現マガジンハウス)、『明星』(集英社、現・Myojo)などの雑誌であり、また、プロマイドであった。情報の乏しい中、特に若い男女は、必死に憧れのスターを追いかけた。
若い男女に、そんな、憧れのスターを広めるのに大きな役割を果たしのが中でも雑誌『平凡』であろう。
平凡出版の発行による『平凡』は、戦後『明星』と共に映画・音楽で活躍する芸能人の情報を掲載した月刊誌として人気があったが、創業者の判断により1987年に休刊となっている。
上掲の画像は、『平凡 最後の最後の特別編集『ありがとう!美空ひばりさん』の永久保存版と名うった写真集(マガジンハウスムック第11号平成元年8月1日発行)である。私の雑誌コレクションの中の1つであるが、美空ひばりが亡くなった直後に刊行されたものでる。
マガジンハウスから発行されていた月刊娯楽雑誌『平凡』の前身の平凡出版は、1945(昭和20)年合資会社凡人社として誕生したが、1983(昭和58)年に社名をマガジンハウスと変更した。
平凡出版の発行による雑誌『平凡』は、岩堀喜之助が、同名の雑誌(1928年〜29年に数ヶ月間の発行らしい)を出していた平凡社の創業者下中 弥三郎から誌名を譲り受け、清水達夫と二人三脚で発展させるが、当初はA5版の冴えない文芸雑誌だったらしい。
それを、1948(昭和23)年に読む雑誌から見る雑誌へイメージチェンジを図り、先行する雑誌『ロマンス』に対抗して、「歌と映画の娯楽雑誌」と位置付けて、判型をA5判からB5判へ大判化し、高峰三枝子(歌う映画スター女性第1号)がマイクの前で歌うポーズ写真を表紙に取り入れたり、巻頭グラビアではヒット曲の歌詞と映画スチールを組み合わせるなど、ページを賑やかに飾るようにした。この転身に、平凡出版からマガジンハウスへと進むこの出版社の雑誌作りの手法が秘められていた。つまり、優れたデザイナーを起用し見る要素を誌面に溢れさせた。その究極に、当時のものまね歌手と見られていた美空ひばりの表紙への起用があったという。
岩堀は、その理由を「悲しき口笛」の試写会の折に見せた「見上げた芸能根性に惚れ、この人は本物だ、「平凡」と並行に行こうや、とひばりに力を入れるようになった」と語っているようだ(アサヒクロニクル「週間20世紀」1952年号より。掲の画像左も同誌掲載のものを借用。右は先に述べた『平凡 最後の最後の特別編集『ありがとう!美空ひばりさん』の永久保存版の裏表紙掲載のものである)。
『平凡 最後の最後の特別編集『ありがとう!美空ひばりさん』の永久保存版によると、国民栄誉賞に輝いたひばりが、最初に賞と名のつくものを手にしたのは1951(昭和26)年『平凡』の人気投票で第3位に選ばれたときであり、翌1952(昭和27)年からは女性歌手部門では13年連続第1位という快挙を成し遂げた。
美空ひばり、江利 チエミ、雪村いづみの「3人娘」は『平凡』のグラフ企画から誕生したそうで、人気、キャリアとも先行していたひばりを追うふたりだけに、3人の顔合わせは難しいと思われていたが、まず、ひばりとチエミが対談(昭和29年四月号)、そして、いずみが加わった。同年5月号にて、不可能といわれた夢の顔合わせがこのグラフ企画でついに実現いたという。
『平凡』で、3人娘の映画初共演のための原作『ジャンケン娘』を連載。同盟映画は大ヒットし、『ロマンス娘』『大当たり三色娘』と3人娘映画が次々と作られた。そして、7年後、娘から成長し『ひばり・チエミ・いづみ 三人よれば』が4本目の共演映画となったそうだ(冒頭掲載の画像は1956年公開、東宝映画『ロマンス娘』ポスター。Wikipediaより)。まさに、岩堀の言うとおり、ひばりと平凡は並行にやって来たのだろう。
上掲の画像は、私のHP「よーさんの我楽多部屋」のCorection Room。Poom2絵葉書の中の「広告物・付録等」5ー1懐かしい平凡社の付録絵葉書に掲載している昭和30年頃のものだろう雑誌「平凡」正月号の付録の絵葉書の中の1枚美空ひばりのブロマイドであるが、他に、高田浩吉、菅原謙次、佐田啓二、岸恵子、香川京子・若尾文子の6枚があり、それぞれのスターが自筆で、正月用の挨拶とサインを記入してある。私は、コレクションの一つである絵葉書として収集しただけであるが、当時若手俳優として活躍していたこれらスターのファンにとっては、胸をわくわくさせながら、正月号の発売を待ち侘びていたことだろうね。
「歌と映画の娯楽雑誌」に徹底して以後、若い読者層の爆発的人気をよび『平凡』は、1953(昭和28)年新年号で、ついにこの業界では戦後初めての発行部数100万部を突破したが、1970年代後半あたりから衰退が目立ち始め、1987(昭和62)年に休刊となっている。
以下参考に記載の※10:「「戦後空間」の中の『平凡』夏井 美奈子論文」では、雑誌『平凡』の魅力について、深く掘り下げ書かれている。一見、ただの大衆娯楽雑誌であり、まさに「歌と映画の雑誌」としか見られてこなかった『平凡』だが、1950 年代の 1 冊 1 冊を開き、読んでいくと、「歌と映画」だけではくくることのできない、さまざまな論点をもつ資料であることがわかる。『平凡』には「歌」「映画」「小説」「グラビア」「投稿」「座談会」などたくさんのジャンルがあり、その中でも今までは光があてられなかった「小説」「グラビア」「座談会」「投稿」などの中にあふれる、読者を惹きつけた力に、私も惹きつけられていった。・・・と。
そして、『平凡』を語るとき、「戦争」というキーワードを抜きにして語ることはできない。あの「戦争」があったからこそ、大衆娯楽雑誌『平凡』は生まれた。戦争の傷跡から這い上がるようにして創刊された『平凡』は、都市空間を表象し、誌上を通して新しいコミュニティを形成し、人々の欲望を抱え込みながらリードしていった。
なぜ『平凡』が人々をリードできたのか、それはまず、根本に『平凡』が「共通体験としての戦争」を抱えて創られていたからではないだろうか。1950 年代、多かれ少なかれ全員が戦争と敗戦を経験し、生きていた。いくら娯楽に人々が飢えていたとしても、もし『平凡』がひたすら「アメリカ文化」を流していただけの雑誌だったなら、そしてただ都会の流行を紹介するだけの雑誌だったなら、ここまで人々の心を掴むことができなかったのではないかと思う。その底流に「戦争の傷跡」を共有していたからこそ、『平凡』に人々は惹かれていったのだろう。自分たちと同じく戦争で傷を負った主人公が幸せになる物語や、スターの苦労話があったために、華やかなグラビアがさらに輝いて見えたのではないだろうか。
しかし一方で、人々はいつまでも敗戦の傷に浸ることを望んではいなかったのだった。時間の経過とともに新しい時代、輝かしい未来を自分たちのものにしようと、「敗戦」「戦後」を乗り越えようとしていく。それは「敗戦」から生まれた新たな「欲望」の誕生だった。
新しいスターの登場とともに、敗戦を感じさせる記事は減り、作られた映画も今、目の前にある自分たちの恋愛や結婚をテーマにしたものが多くなってゆく。読者参加型の座談会が増え、自由に恋愛や性が語られていく中に、表面上「敗戦」の入る隙はなくなっていった。そして人生の理想像として、1959 年という 50 年代最後の年に皇太子の結婚があった。「平民」との結婚は人々にとって「民主化」の象徴であり、まさに「戦後」を乗り越えた瞬間だったのではないだろうか・・・と。これ以上詳しくは、かけないので興味ある方は同論文を読まれるとよい。
そういえば、戦後最大のロマンスと言えば、 “『世紀のロマンス』皇太子妃が民間から誕生!”・・・のニュースだっただろう。
上掲の画像は、皇太子妃決定を伝える号外(1958年11月27日、朝日新聞東京本社発行、号外である。
1958(昭和33)年11月27日、皇太子明仁親王の妃に、日清製粉正田英三郎社長の長女美智子さんが決まった。この2人は現在の天皇、皇后である。
皇太子は軽井沢の親善テニスで対戦した美知子さんの人となりにひかれ、お妃候補にと自分から言われたそうだ。軽井沢でのテニスから生まれたロマンスがみのり、皇族や旧華族出身でない民間からの皇太子妃の誕生は、皇室の歴史上画期的な出来事であった。
多くの国民は、このご結婚を支持し、愛称の「ミッチ」からミッチーブームがわいた。正に、現代のシンデレラ物語といえるかもしれないが、正田家も美知子さんも、皇太子からの結婚の申し込みにも「家格が違いすぎる」「その任に堪えられない」と頑強に拒否されたらしいが、その心を動かしたのは、「柳こうり一つで来てください」という言葉だったという。しかし、国民の熱狂的な支持はあったものの皇室内では、かなりご苦労されたようである。立派な家柄のお嬢様であり、皇太子妃になっていなければもっともっといい人生を送られたことであろう。それをよーく理解しているから、今上天皇も美知子日妃を大切に大切になされているようである。
現皇太子妃は外務官僚の家からお出になったようだが、大分正田家とは違った育て方をされたようである。天皇・美知子妃さまも、将来のことについていろいろとお悩みになっていることだろうとお察しする。
とりとめもなまく長々と書いたがこれで止める。当ブログ作成にかんして、歌謡曲のことについては、以下参考の※11:「流行歌 演歌 歌謡曲 日本の歴史 雑学の世界」を参考にさせてもらった。
◎(冒頭掲載の画像は1956年公開、東宝映画『ロマンス娘』ポスター。Wikipediaより)
参考:
※ 1:日本ロマンチスト協会(NRA)
http://japan-romance.com/
※2:Yahoo百科事典-ロマン主義
http://100.yahoo.co.jp/detail/%E3%83%AD%E3%83%9E%E3%83%B3%E4%B8%BB%E7%BE%A9/
※3:青空文庫:国木田独歩 武蔵野
http://www.aozora.gr.jp/cards/000038/files/329_15886.html
※4:北村透谷「内部生命論」と明治浪漫主義(Adobe PDF)
http://www.ritsumei.ac.jp/acd/gr/gsce/ce/2007/ft01.pdf#search='『内部生命論』'
※5:昭和のレビュ-狂時代
http://yachan.sitemix.jp/s24nen.html
※6:のど自慢狂時代 - goo 映画
http://movie.goo.ne.jp/movies/p27136/index.html
※7:踊る龍宮城 - goo 映画
http://movie.goo.ne.jp/movies/p27527/index.html
※8:はたちの青春 - goo 映画
http://movie.goo.ne.jp/movies/p26798/index.html
※9:日本映画発達史 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%98%A0%E7%94%BB%E7%99%BA%E9%81%94%E5%8F%B2
※10:戦後空間」の中の『平凡』夏井 美奈子論文- html
http://cache.yahoofs.jp/search/cache?c=OerIv152rs4J&p=%E9%9B%91%E8%AA%8C+%E5%B9%B3%E5%87%A1&u=www.sal.tohoku.ac.jp%2F%7En-yoshi%2Fhestia%2Farchives%2Fno1%2Fnatsui.pdf#search='雑誌 平凡'
※11:流行歌 演歌 歌謡曲 日本の歴史 雑学の世界
http://www.geocities.jp/widetown/japan_den/japan_den016.htm
1958(昭和33)年11月27日 世紀のロマンス 皇太子妃が民間から誕生!(Adobe PDF)
http://www.yomiuri.co.jp/komachi/data/link/pdf/chronicle_0607.pdf#search='皇太子 美知子 ロマンス'
美空ひばり - goo 映画
http://movie.goo.ne.jp/cast/c100105/index.html
日本記念日協会
http://www.kinenbi.gr.jp/index2.html
ロマンス - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%9E%E3%83%B3%E3%82%B9
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