京都は東に比叡山を始めとした東山三十六峰が優美な姿をみせ、北には丹波高原に連なる愛宕山を始め北山があり、西の諸峰は保津川(桂川のうち、亀岡市保津町請田から京都市嵐山まで)を挟んで、嵐山、小倉山(右京区嵯峨にある山。保津川を隔てて嵐山と対する)が山渓をつくりだしているなど、風光明媚な自然環境に恵まれている。
794年(延暦13年)、桓武天皇がこうした東・北・西の三方を山に囲まれた地勢のもと、南に開いた内陸盆地に平安京を建設以来、武家政権が政治の中心を鎌倉 (鎌倉幕府)と江戸(江戸幕府)に移した時期以外、千有余年の間、政治・文化の中心として繁栄し、数多くの歴史上重要な文化的資産を現代に伝えているが、東山、北山、西山の山並みは、市街地の背景となっているばかりでなく、そこには史跡や歴史的建造物が集積し、恵まれた自然環境と見事にとけあっている。
しかし、平安京中央の平地部では、平安時代末期の皇位継承問題や摂関家の内紛などにより朝廷が後白河天皇方と崇徳上皇方に分裂し、双方の武力衝突に至った保元・平治の乱(1156年、1160年)以降、鎌倉時代の承久の乱(1221年)、元弘の変(1331年)、南北朝時代の、明徳の乱(1391年)と戦乱の舞台になった事も少なくなく、特に室町時代の応仁元年(1467年)に発生し、文明9年( 1477年)までの約10年間にわたって継続した「応仁・文明の乱」(単に応仁の乱といわれることが多い)においては、町のほとんどが灰燼に帰し、戦火を免れた建物は、三十三間堂、六波羅蜜寺、千本釈迦堂(正式名:大報恩寺)など数えるほどしかないという憂き目にあった。その為、洛中にはそれ以前にまで遡る建造物は極めて少なく、現存する建造物は桃山時代以降のものがほとんどである。
鎌倉幕府滅亡後の京都室町に置かれた室町幕府(足利将軍家)によって、統治されていた時代、つまり、室町時代(足利時代などとも言われる)の文化は、一般に二つの山をもって語られている。すなわち、室町前期・十四世紀後半を北山文化、後期十五世紀後半を東山文化と呼ばれてきた。
そして、前者は、南北朝の合一(南北朝時代参照)を果たし、有力守護大名の勢力を押さえて幕府権力を確立させた三代将軍足利義満(1358年〜1408年)が将軍職を退いた後に、建てた北山山荘の「金閣」を、後者は、5代後の八代将軍足利義政(1436年-1490年)が応仁の乱後に造営した東山山荘の「銀閣」(生前未完成)をその象徴としている。
両文化の特徴として、北山文化は、「それまで伝統的であった公家文化と、新興の武家文化の融合した華やかな文化」、「東山文化」は、「公家文化・武家文化に禅宗文化の影響を受け簡素で深みのある文化」であり、庭園・書院造り・華道・茶道・水墨画・能・連歌など各分野の発達が目覚ましく、近世文化の源流をなすものとされており、貴族的・華麗な義満の北山文化に対して、幽玄、わび・さびに通じる美意識に支えられている・・と評されている。
しかし、北山山荘に代表される北山文化と言う特別なものがあったわけではなく、室町時代の文化は、16世紀の後半東山殿義政が茶の湯(書院茶の湯)の大成者と言う点で注目されるようになり(『山上宗二記』等にて)、まず、東山文化の名の下に理解されるようになり、これに対応する形で北山文化が語られるようになった。
室町文化のピークをこのような義満と義政の二期に求めるこうした区分は、色々見直してみることも多いようだがそのことにはここでは触れない。ただ、この時代に高揚した武家中心の文化の特徴をよく現しているとはいるだろう。
中央の平地部(洛中)では、幾多の兵火に見舞われて火災が頻発し、多くの建物などが失われては再興されるという繰返しであったが、周辺の山麓部は災害を免れ、起伏に富んだ自然地形を利用して建てられた大寺院や山荘・庭園がいまでも多数残されている。
室町幕府三代将軍となった足利義満は、京都のど真ん中、邸宅としていた花の御所の隣接地に一大禅宗伽藍を建立することを発願し、至徳2年(1385年)相国寺を創建した。その翌年、 南禅寺を天下第一、五山の上とし、天龍寺・相国寺・建仁寺・東福寺・万寿寺を京都五山と定めた。(※義満の意向により応永8年相国寺を京都五山第一位、天龍寺を第二位とする順位変更が行われたが、義満没後の応永17年に元に戻されている)。
義満と対立し、後小松天皇に譲位(譲位時6歳)し、院政を行なっていた後円融上皇が明徳4年(1393年)に死去したことにより、自己の権力を確固たるものにした義満は応永元年(1394年)には将軍職を嫡男の義持に譲って隠居したが、政治上の実権は握り続けていた。同年、従一位太政大臣にまで昇進。翌年には出家して道義と号した。この義満の出家は、征夷大将軍として武家の太政大臣・准三后として公家のそれぞれの頂点に達した義満が、残る寺社勢力を支配する地位をも得ようとしたためであると考えられている。
又、准三宮宣下を受けて日本国准后の外交称号で遣明使を派遣し、日本国王の封号と朝貢貿易の許しを得ることに成功し、巨万の富を得る。
応永4年(1397年)、義満は、有力公卿西園寺公経の御願寺西園寺の堂舎(大小の建物、 特に社寺の建物をいう)群と山荘(別邸)北山第(きたやまてい) の地を西園寺家より譲り受け、西園寺以来の堂舎群を引き継ぐとともに、舎利殿(=金閣)を中心とする自身や夫人らの山荘(「北山第」または「北山殿」)へ造り替えられた。
邸宅とは言え、その規模は御所にも匹敵するこの地へ、翌・応永5年に移り、この地を政治・外交の中心とするとともに、後に北山文化と呼ばれるものをも花開させた。
応永15年(1408年)には後小松天皇を招いて宴を催したが、この年に義満は急死したらしい。・・・真実はわからないが、義満が皇位を簒奪し寵愛していた次男、義嗣を天皇にして自らは天皇の父親として天皇家を吸収しようとしていたとも言われ、その死は皇位簒奪を目論む朝廷側による暗殺だ・・とする説もあるようだ。
等持院で火葬された義満の遺骨は、相国寺塔頭鹿苑院に葬られた。以後相国寺は歴代将軍の位牌を祀る牌所になったが天明期に火災に遭うなどして衰微していた。
義満が没した後も、義満の室日野康子(北山院)はこの地に住み続けた。
義持は父と折り合いが悪く、また父・義満が二男の義嗣を溺愛したことなどから、根深い反発をもっていたようだ。将軍職に就いた義持は義満が行った諸政策を否定、明との勘合貿易も取りやめ、母・康子が応永26年 (1419年)11月に死去すると、翌月には、北山第も金閣を残して、解体され、南禅寺・建仁寺・等持院などに移築・寄進されたという。
義満の死後には朝廷から「鹿苑院太上法皇」の称号を贈られたが、四代将軍となった義持は,斯波義将らの反対もあり辞退しているらしい。その一方で、相国寺は受け入れたらしく、過去帳に「鹿苑院太上天皇」と記されており、夢窓国師を、名目上の開山(初代の住職)とし、法名から二字をとり、北山殿は、「鹿苑寺」と名づけら禅寺となったようだ。なにか、よく分からないが、非常に複雑な政治的理由がありそうだ。
通称「金閣寺」の由来となった「鹿苑寺」の「金閣」は、漆地に金箔を押した三層宝形造の建物「舎利殿」であり、寝殿造風の初層に、書院造風(武家造)の二層、禅宗様の仏殿風の三層とそれぞれに異なる様式を採用した特異な建築は、公家文化、武家文化、仏教文化が調和し、和様、天竺様、唐様と当時の全ての手法を駆使した室町時代楼閣建築の代表的なものであり、この時代の文化を表したものとして特に北山文化と言っている。
この金閣が有名になり、「鹿苑寺」は通称「金閣寺」と呼ばれるようになった。
(上掲の画像は画像鏡湖池と金閣。Wikipediaより)
衣笠山を借景とし舎利殿〔金閣〕を水面に映しだす中心の鏡湖池に希代の見物といわれた名石や奇岩を配して九山八海(須弥山参照)
を表現する池泉回遊式庭園が広がり、極楽浄土をこの世に現したものとも言われる。
その後、応仁の乱で、舎利殿(金閣)他一部を残し焼失したが、桃山時代に相国寺の西笑承兌が復興に努め、ほぼ、現在の姿になったという。
一方、京都市左京区にある通称「銀閣寺」も、正式には慈照寺のことであり、金閣寺同様、相国寺の境外塔頭である。
銀閣と金閣は同じ室町時代の将軍が造ったものではあるが、金ぴかの金閣のあった北山第は、先にも書いたように、幕府はおろか朝廷まですべての権力を独り占めにした義満が対明貿易で得た財力にものを言わせて天皇の御所をも凌駕する政治、宗教、芸術の中心となる建物群を北山に築い北山第であったのに対して、銀閣のあった慈照寺は、政治的には全く無気力で、将軍職も投げ出した義政が応仁の乱後の1482年(文明14)に、自らの隠遁の場として、浄土寺跡(浄土院参照)に、西芳寺をモデルとして、池を囲むように東山に、造営した東山第と呼ばれる山荘(東山殿)をさしている。
この東山殿は、当時、義政が日常生活を営んでいた常御所、来客を応対していた会所、二層楼閣の観音堂など少なくとも十の独立した建物からなり、義満の北山殿ほどではないが、ある程度政治的機能ももってはいたが、会所や御所もそれらは殆ど政治向きなことには使われず、専ら義政の芸術志向のために使われた。延徳2年(1490年)正月、義政自身はその完成を見ることなく生涯を閉じるが、その間、東山殿を中心として東山文化が開花した。
十三代将軍足利義輝と三好長慶が天文19年(1550)年と永禄元年(1558年)年に銀閣寺近辺で戦い、その戦火に巻き込まれて大半の建物が焼失し常御所、会所ともに現在は残っていないが、その中、奇跡的に残ったのが、今も見ることの出来る観音殿(=銀閣)と持仏堂(=東求堂)である。江戸初期に徳川家康より35石の寺領を与えられ、方丈・観音殿(銀閣)・東求堂・西指庵などの建設や修理を行い旧観を整えていき、荒廃していた庭園も修築された。
東山殿は、義政の死後相国寺派の禅寺として奉献され、義政の法号慈照院喜山道慶にちなんで慈照寺となった。特に、趣向を凝らしてつくった二層楼閣の観音殿が寺全体の象徴的な建物であったことから、「鹿苑寺」が金閣寺と呼ばれるのに対して、慈照寺が銀閣寺と通称されるようになったのは江戸時代になってからのことである。
応仁の乱で、西軍の陣となり建築物の多くが焼失した鹿苑寺も、江戸時代に主要な建物が再建され、舎利殿も慶安2年(1649年)に大修理された。金閣(舎利殿)も、古社寺保存法に基づき1897(明治30)年に「特別保護建造物」(文化財保護法における「重要 文化財」に相当)に指定され、1929(昭和4)年7月1日の国宝保存法施行に伴い(旧)国宝に指定された。また1904(明治37)年から1906(明治39)年には解体修理も行われている。
そして、第二次世界大戦でも幸いと京都では大規模な爆撃が行われず殆ど無傷だったため、現在でも多くの貴重な文化財が残っており、日本有数の観光地として栄えている。金閣寺は、そんな京都の観光スポットの代表格の1つでもある。
ところが、戦後5年目の1950(昭和25)年7月2日午前2時50分ごろ、鹿苑寺庭園内の舎利殿「金閣」から出火し、おりからの強風に煽られ、室町時代の代表建築であり、当時の国宝でもあった「金閣が骨組みを残して全焼、足利義満の木像など古美術品も焼失してしまった。
同寺の徒弟だった21歳の大学生が放火したものだが、折角の火災報知機も故障したままだった。前年に法隆寺金堂が焼失(※2)、1950(昭和25)年5月には文化財保護法が公布されたばかりのことで、貴重な文化財の保護のあり方が一層問題になった(※3参照)。
犯人は、服毒自殺を図ったが捕まり、同年12月懲役7年の判決を受け(判決文※4参照)、1955(昭和30)年に出所したが、すぐ病院に収容され、翌年26歳で死んだ(金閣寺放火事件参照)。冒頭掲載の画像が、7月2日、焼失後の金閣寺である(アサヒクロニクル週刊20世紀1950年号より)。
この放火事件があった頃は、私はまだ、中学生になる前だったので、難しいことはよく覚えていない。しかし、戦後復興をしている最中に国宝の金閣寺が放火により焼失したのだから、当時としては、大きな出来事であった。戦争中に敵国であったアメリカでさえ国宝・金閣寺を空爆しなかったのだから、それを放火した犯人の精神状態などが大いに議論され、その犯人を国賊と書きたてていた新聞もあったように聞いている。
しかし、なぜ貧乏寺とはいえ寺の住職の子として生まれ、幼少より父に小僧教育をされ大谷大学生としてと禅の勉強もし、金閣寺の価値も十分わかっていただろう青年僧が放火などしたのだろうか?新聞などが報じていたように、単に、精神異常者だったからだろうか・・・?
Wikipediaによれば、逮捕当初の取調べによる供述では、動機として「世間を騒がせたかった」や「社会への復讐のため」などとしていたが、実際には自身が病弱であること、重度の吃音であること、実家の母から過大な期待を寄せられていることのほか、同寺(金閣寺)が観光客の参観料で運営されており僧侶よりも事務方が幅を利かせていると見ていたこともあり、厭世感情からくる複雑な感情が入り乱れていたとされる・・・とある。
この事件を題材として、三島由紀夫が、『新潮』に小説『金閣寺』を連載し始めたのは、放火犯の青年が死亡した1956(昭和31)年 1 月からであった。それから6年後の1962(昭和37)年9月の「別冊文芸春秋」に水上 勉が 『五番町夕霧楼』を発表している。そして、相国寺塔頭、瑞春院や等持院で小僧の経験もあり、舞鶴市で教員をしていたころには、実際に犯人と会ったこともあるという水上は、事件に強い衝撃を受け、この事件に関して各方面への取材を重ね、「二十年越しの執念」で出版したというのが1979(昭和54)年のノンフィクション『金閣炎上』(新潮社)だそうでる。
正直、私は、このような暗い内容の小説などは好きではないので、この2冊の小説は読んでいないがWikipediaには、三島は「自分の吃音や不幸な生い立ちに対して金閣における美の憧れと反感を抱いて放火した」と分析し、水上は「寺のあり方、仏教のあり方に対する矛盾により美の象徴である金閣を放火した」と分析したと書いてある。
三島の小説『金閣寺』をもとに市川崑監督が『炎上』(1958年。大映)を映画化しているが、三島の小説は、主人公の内面に迫る、あまりにも完成度の高い作品だったため、市川は原作の脚色は無理と判断し、三島から創作ノートを借りて、これをもとに和田夏十にオリジナルの脚本『炎上』を新たに書き上げさせたため、映画と原作とでは登場人物の名やあらすじの一部が異なるものとなっているが、もともと、映画とはそういうものだろう。
市川雷蔵は、現代劇初出演となったこの作品で、ブルーリボン賞とキネマ旬報賞を受賞している。・・・でも、私は時代劇の市川雷蔵は好きだが、現代劇の、しかも暗い映画なのでやはり見ていない。
三島の『金閣寺』にしても、水上の『金閣炎上』にしても、事件から間もない内に、実在の放火犯である青年と、実在する関係者との関わりから調査し、事件を起こした青年の実像を解明しようとしているのだから、なかなか大変なことだったろうと察する。だから、ネットで読書感想を読んでいても、読んだ人それぞれな解釈があるようだ。
私は、ネットで色々解説らしきものを見せてもらった中で、参考の※5:「『金閣炎上』と『金閣寺』」を見て、両作家はともに、新聞報道が記事にしていない、つまり見落としていることを調査、分析して林養賢という青年を再生させようとした。そして、両作家ともに、事件を起こした青年と吃音との関係に注目しているのを読んで、このような、一見、何も症状のない我々から見れば、たいしたことではないようにみえる症状が実際には本人には非常に大きな影響及ぼし、このような大事件を引き起こすことにつながっているのか・・ということを思うと、現代で見られるとんでもない事件なども同じようなところに根源があるのだろうと色々考えさせられた。
現在の建物「金閣」は、放火事件より5年後の1955(昭和30)年に再建されたもので、1987(昭和62)年には金箔を全面厚いものに張り替える修復工事もなされている。さらに、2003(平成15)年には屋根の葺き替えも行われ、ぴかぴかのきらびやかな姿を蘇らせた。
この金ぴかの「金閣」を見ながら、室町時代の歴史とともに足利義満の北山殿など想像し、これを美しいと感じるか、何か変だと感じるか・・・、それも人それぞれなのだろうな〜。
参考:
※1:臨済宗相国寺派HP
http://www.shokoku-ji.jp/
※2:昭和毎日:法隆寺金堂壁画が焼失 - 毎日jp(毎日新聞)
http://showa.mainichi.jp/news/1949/01/post-f6e9.html
※3:文化財保護の発展と流れ
http://www.asahi-net.or.jp/~ab9t-ymh/syofukuji/bunkazai-nagare.html
※4:放火並に国宝保存法違反事件判決文
http://www.k4.dion.ne.jp/~yuko-k/adagio/hon14-kinkaku-2.htm
※5:『金閣炎上』と『金閣寺』(Adobe PDF)
http://dspace.lib.niigata-u.ac.jp:8080/dspace/bitstream/10191/8807/1/43...
事件録:金閣寺放火事件
http://yabusaka.moo.jp/kinkakuji.htm
文学にみる障害者像-水上勉著 『五番町夕霧楼』
http://www.dinf.ne.jp/doc/japanese/prdl/jsrd/norma/n270/n270010.html
水上勉著 『金閣炎上』
http://www.asahi-net.or.jp/~dr4i-snn/minakami-kinkakuenjyo.html
フィールド・ミュージアム京都
http://www.city.kyoto.jp/somu/rekishi/fm/index.html
日本国王・足利義満の生涯と皇位簒奪計画
http://www5f.biglobe.ne.jp/~mind/vision/history001/muromachi005.html
茶の湯の歴史:北山文化・東山文化
http://www17.ocn.ne.jp/~verdure/rekisi/rekisi_4.html
刑法
http://law.e-gov.go.jp/htmldata/M40/M40HO045.html
金閣寺放火事件- Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E9%96%A3%E5%AF%BA%E6%94%BE%E7%81%AB%E4%BA%8B%E4%BB%B6
炎上 - goo 映画
http://movie.goo.ne.jp/contents/movies/MOVCSTD18536/index.html
794年(延暦13年)、桓武天皇がこうした東・北・西の三方を山に囲まれた地勢のもと、南に開いた内陸盆地に平安京を建設以来、武家政権が政治の中心を鎌倉 (鎌倉幕府)と江戸(江戸幕府)に移した時期以外、千有余年の間、政治・文化の中心として繁栄し、数多くの歴史上重要な文化的資産を現代に伝えているが、東山、北山、西山の山並みは、市街地の背景となっているばかりでなく、そこには史跡や歴史的建造物が集積し、恵まれた自然環境と見事にとけあっている。
しかし、平安京中央の平地部では、平安時代末期の皇位継承問題や摂関家の内紛などにより朝廷が後白河天皇方と崇徳上皇方に分裂し、双方の武力衝突に至った保元・平治の乱(1156年、1160年)以降、鎌倉時代の承久の乱(1221年)、元弘の変(1331年)、南北朝時代の、明徳の乱(1391年)と戦乱の舞台になった事も少なくなく、特に室町時代の応仁元年(1467年)に発生し、文明9年( 1477年)までの約10年間にわたって継続した「応仁・文明の乱」(単に応仁の乱といわれることが多い)においては、町のほとんどが灰燼に帰し、戦火を免れた建物は、三十三間堂、六波羅蜜寺、千本釈迦堂(正式名:大報恩寺)など数えるほどしかないという憂き目にあった。その為、洛中にはそれ以前にまで遡る建造物は極めて少なく、現存する建造物は桃山時代以降のものがほとんどである。
鎌倉幕府滅亡後の京都室町に置かれた室町幕府(足利将軍家)によって、統治されていた時代、つまり、室町時代(足利時代などとも言われる)の文化は、一般に二つの山をもって語られている。すなわち、室町前期・十四世紀後半を北山文化、後期十五世紀後半を東山文化と呼ばれてきた。
そして、前者は、南北朝の合一(南北朝時代参照)を果たし、有力守護大名の勢力を押さえて幕府権力を確立させた三代将軍足利義満(1358年〜1408年)が将軍職を退いた後に、建てた北山山荘の「金閣」を、後者は、5代後の八代将軍足利義政(1436年-1490年)が応仁の乱後に造営した東山山荘の「銀閣」(生前未完成)をその象徴としている。
両文化の特徴として、北山文化は、「それまで伝統的であった公家文化と、新興の武家文化の融合した華やかな文化」、「東山文化」は、「公家文化・武家文化に禅宗文化の影響を受け簡素で深みのある文化」であり、庭園・書院造り・華道・茶道・水墨画・能・連歌など各分野の発達が目覚ましく、近世文化の源流をなすものとされており、貴族的・華麗な義満の北山文化に対して、幽玄、わび・さびに通じる美意識に支えられている・・と評されている。
しかし、北山山荘に代表される北山文化と言う特別なものがあったわけではなく、室町時代の文化は、16世紀の後半東山殿義政が茶の湯(書院茶の湯)の大成者と言う点で注目されるようになり(『山上宗二記』等にて)、まず、東山文化の名の下に理解されるようになり、これに対応する形で北山文化が語られるようになった。
室町文化のピークをこのような義満と義政の二期に求めるこうした区分は、色々見直してみることも多いようだがそのことにはここでは触れない。ただ、この時代に高揚した武家中心の文化の特徴をよく現しているとはいるだろう。
中央の平地部(洛中)では、幾多の兵火に見舞われて火災が頻発し、多くの建物などが失われては再興されるという繰返しであったが、周辺の山麓部は災害を免れ、起伏に富んだ自然地形を利用して建てられた大寺院や山荘・庭園がいまでも多数残されている。
室町幕府三代将軍となった足利義満は、京都のど真ん中、邸宅としていた花の御所の隣接地に一大禅宗伽藍を建立することを発願し、至徳2年(1385年)相国寺を創建した。その翌年、 南禅寺を天下第一、五山の上とし、天龍寺・相国寺・建仁寺・東福寺・万寿寺を京都五山と定めた。(※義満の意向により応永8年相国寺を京都五山第一位、天龍寺を第二位とする順位変更が行われたが、義満没後の応永17年に元に戻されている)。
義満と対立し、後小松天皇に譲位(譲位時6歳)し、院政を行なっていた後円融上皇が明徳4年(1393年)に死去したことにより、自己の権力を確固たるものにした義満は応永元年(1394年)には将軍職を嫡男の義持に譲って隠居したが、政治上の実権は握り続けていた。同年、従一位太政大臣にまで昇進。翌年には出家して道義と号した。この義満の出家は、征夷大将軍として武家の太政大臣・准三后として公家のそれぞれの頂点に達した義満が、残る寺社勢力を支配する地位をも得ようとしたためであると考えられている。
又、准三宮宣下を受けて日本国准后の外交称号で遣明使を派遣し、日本国王の封号と朝貢貿易の許しを得ることに成功し、巨万の富を得る。
応永4年(1397年)、義満は、有力公卿西園寺公経の御願寺西園寺の堂舎(大小の建物、 特に社寺の建物をいう)群と山荘(別邸)北山第(きたやまてい) の地を西園寺家より譲り受け、西園寺以来の堂舎群を引き継ぐとともに、舎利殿(=金閣)を中心とする自身や夫人らの山荘(「北山第」または「北山殿」)へ造り替えられた。
邸宅とは言え、その規模は御所にも匹敵するこの地へ、翌・応永5年に移り、この地を政治・外交の中心とするとともに、後に北山文化と呼ばれるものをも花開させた。
応永15年(1408年)には後小松天皇を招いて宴を催したが、この年に義満は急死したらしい。・・・真実はわからないが、義満が皇位を簒奪し寵愛していた次男、義嗣を天皇にして自らは天皇の父親として天皇家を吸収しようとしていたとも言われ、その死は皇位簒奪を目論む朝廷側による暗殺だ・・とする説もあるようだ。
等持院で火葬された義満の遺骨は、相国寺塔頭鹿苑院に葬られた。以後相国寺は歴代将軍の位牌を祀る牌所になったが天明期に火災に遭うなどして衰微していた。
義満が没した後も、義満の室日野康子(北山院)はこの地に住み続けた。
義持は父と折り合いが悪く、また父・義満が二男の義嗣を溺愛したことなどから、根深い反発をもっていたようだ。将軍職に就いた義持は義満が行った諸政策を否定、明との勘合貿易も取りやめ、母・康子が応永26年 (1419年)11月に死去すると、翌月には、北山第も金閣を残して、解体され、南禅寺・建仁寺・等持院などに移築・寄進されたという。
義満の死後には朝廷から「鹿苑院太上法皇」の称号を贈られたが、四代将軍となった義持は,斯波義将らの反対もあり辞退しているらしい。その一方で、相国寺は受け入れたらしく、過去帳に「鹿苑院太上天皇」と記されており、夢窓国師を、名目上の開山(初代の住職)とし、法名から二字をとり、北山殿は、「鹿苑寺」と名づけら禅寺となったようだ。なにか、よく分からないが、非常に複雑な政治的理由がありそうだ。
通称「金閣寺」の由来となった「鹿苑寺」の「金閣」は、漆地に金箔を押した三層宝形造の建物「舎利殿」であり、寝殿造風の初層に、書院造風(武家造)の二層、禅宗様の仏殿風の三層とそれぞれに異なる様式を採用した特異な建築は、公家文化、武家文化、仏教文化が調和し、和様、天竺様、唐様と当時の全ての手法を駆使した室町時代楼閣建築の代表的なものであり、この時代の文化を表したものとして特に北山文化と言っている。
この金閣が有名になり、「鹿苑寺」は通称「金閣寺」と呼ばれるようになった。
(上掲の画像は画像鏡湖池と金閣。Wikipediaより)
衣笠山を借景とし舎利殿〔金閣〕を水面に映しだす中心の鏡湖池に希代の見物といわれた名石や奇岩を配して九山八海(須弥山参照)
を表現する池泉回遊式庭園が広がり、極楽浄土をこの世に現したものとも言われる。
その後、応仁の乱で、舎利殿(金閣)他一部を残し焼失したが、桃山時代に相国寺の西笑承兌が復興に努め、ほぼ、現在の姿になったという。
一方、京都市左京区にある通称「銀閣寺」も、正式には慈照寺のことであり、金閣寺同様、相国寺の境外塔頭である。
銀閣と金閣は同じ室町時代の将軍が造ったものではあるが、金ぴかの金閣のあった北山第は、先にも書いたように、幕府はおろか朝廷まですべての権力を独り占めにした義満が対明貿易で得た財力にものを言わせて天皇の御所をも凌駕する政治、宗教、芸術の中心となる建物群を北山に築い北山第であったのに対して、銀閣のあった慈照寺は、政治的には全く無気力で、将軍職も投げ出した義政が応仁の乱後の1482年(文明14)に、自らの隠遁の場として、浄土寺跡(浄土院参照)に、西芳寺をモデルとして、池を囲むように東山に、造営した東山第と呼ばれる山荘(東山殿)をさしている。
この東山殿は、当時、義政が日常生活を営んでいた常御所、来客を応対していた会所、二層楼閣の観音堂など少なくとも十の独立した建物からなり、義満の北山殿ほどではないが、ある程度政治的機能ももってはいたが、会所や御所もそれらは殆ど政治向きなことには使われず、専ら義政の芸術志向のために使われた。延徳2年(1490年)正月、義政自身はその完成を見ることなく生涯を閉じるが、その間、東山殿を中心として東山文化が開花した。
十三代将軍足利義輝と三好長慶が天文19年(1550)年と永禄元年(1558年)年に銀閣寺近辺で戦い、その戦火に巻き込まれて大半の建物が焼失し常御所、会所ともに現在は残っていないが、その中、奇跡的に残ったのが、今も見ることの出来る観音殿(=銀閣)と持仏堂(=東求堂)である。江戸初期に徳川家康より35石の寺領を与えられ、方丈・観音殿(銀閣)・東求堂・西指庵などの建設や修理を行い旧観を整えていき、荒廃していた庭園も修築された。
東山殿は、義政の死後相国寺派の禅寺として奉献され、義政の法号慈照院喜山道慶にちなんで慈照寺となった。特に、趣向を凝らしてつくった二層楼閣の観音殿が寺全体の象徴的な建物であったことから、「鹿苑寺」が金閣寺と呼ばれるのに対して、慈照寺が銀閣寺と通称されるようになったのは江戸時代になってからのことである。
応仁の乱で、西軍の陣となり建築物の多くが焼失した鹿苑寺も、江戸時代に主要な建物が再建され、舎利殿も慶安2年(1649年)に大修理された。金閣(舎利殿)も、古社寺保存法に基づき1897(明治30)年に「特別保護建造物」(文化財保護法における「重要 文化財」に相当)に指定され、1929(昭和4)年7月1日の国宝保存法施行に伴い(旧)国宝に指定された。また1904(明治37)年から1906(明治39)年には解体修理も行われている。
そして、第二次世界大戦でも幸いと京都では大規模な爆撃が行われず殆ど無傷だったため、現在でも多くの貴重な文化財が残っており、日本有数の観光地として栄えている。金閣寺は、そんな京都の観光スポットの代表格の1つでもある。
ところが、戦後5年目の1950(昭和25)年7月2日午前2時50分ごろ、鹿苑寺庭園内の舎利殿「金閣」から出火し、おりからの強風に煽られ、室町時代の代表建築であり、当時の国宝でもあった「金閣が骨組みを残して全焼、足利義満の木像など古美術品も焼失してしまった。
同寺の徒弟だった21歳の大学生が放火したものだが、折角の火災報知機も故障したままだった。前年に法隆寺金堂が焼失(※2)、1950(昭和25)年5月には文化財保護法が公布されたばかりのことで、貴重な文化財の保護のあり方が一層問題になった(※3参照)。
犯人は、服毒自殺を図ったが捕まり、同年12月懲役7年の判決を受け(判決文※4参照)、1955(昭和30)年に出所したが、すぐ病院に収容され、翌年26歳で死んだ(金閣寺放火事件参照)。冒頭掲載の画像が、7月2日、焼失後の金閣寺である(アサヒクロニクル週刊20世紀1950年号より)。
この放火事件があった頃は、私はまだ、中学生になる前だったので、難しいことはよく覚えていない。しかし、戦後復興をしている最中に国宝の金閣寺が放火により焼失したのだから、当時としては、大きな出来事であった。戦争中に敵国であったアメリカでさえ国宝・金閣寺を空爆しなかったのだから、それを放火した犯人の精神状態などが大いに議論され、その犯人を国賊と書きたてていた新聞もあったように聞いている。
しかし、なぜ貧乏寺とはいえ寺の住職の子として生まれ、幼少より父に小僧教育をされ大谷大学生としてと禅の勉強もし、金閣寺の価値も十分わかっていただろう青年僧が放火などしたのだろうか?新聞などが報じていたように、単に、精神異常者だったからだろうか・・・?
Wikipediaによれば、逮捕当初の取調べによる供述では、動機として「世間を騒がせたかった」や「社会への復讐のため」などとしていたが、実際には自身が病弱であること、重度の吃音であること、実家の母から過大な期待を寄せられていることのほか、同寺(金閣寺)が観光客の参観料で運営されており僧侶よりも事務方が幅を利かせていると見ていたこともあり、厭世感情からくる複雑な感情が入り乱れていたとされる・・・とある。
この事件を題材として、三島由紀夫が、『新潮』に小説『金閣寺』を連載し始めたのは、放火犯の青年が死亡した1956(昭和31)年 1 月からであった。それから6年後の1962(昭和37)年9月の「別冊文芸春秋」に水上 勉が 『五番町夕霧楼』を発表している。そして、相国寺塔頭、瑞春院や等持院で小僧の経験もあり、舞鶴市で教員をしていたころには、実際に犯人と会ったこともあるという水上は、事件に強い衝撃を受け、この事件に関して各方面への取材を重ね、「二十年越しの執念」で出版したというのが1979(昭和54)年のノンフィクション『金閣炎上』(新潮社)だそうでる。
正直、私は、このような暗い内容の小説などは好きではないので、この2冊の小説は読んでいないがWikipediaには、三島は「自分の吃音や不幸な生い立ちに対して金閣における美の憧れと反感を抱いて放火した」と分析し、水上は「寺のあり方、仏教のあり方に対する矛盾により美の象徴である金閣を放火した」と分析したと書いてある。
三島の小説『金閣寺』をもとに市川崑監督が『炎上』(1958年。大映)を映画化しているが、三島の小説は、主人公の内面に迫る、あまりにも完成度の高い作品だったため、市川は原作の脚色は無理と判断し、三島から創作ノートを借りて、これをもとに和田夏十にオリジナルの脚本『炎上』を新たに書き上げさせたため、映画と原作とでは登場人物の名やあらすじの一部が異なるものとなっているが、もともと、映画とはそういうものだろう。
市川雷蔵は、現代劇初出演となったこの作品で、ブルーリボン賞とキネマ旬報賞を受賞している。・・・でも、私は時代劇の市川雷蔵は好きだが、現代劇の、しかも暗い映画なのでやはり見ていない。
三島の『金閣寺』にしても、水上の『金閣炎上』にしても、事件から間もない内に、実在の放火犯である青年と、実在する関係者との関わりから調査し、事件を起こした青年の実像を解明しようとしているのだから、なかなか大変なことだったろうと察する。だから、ネットで読書感想を読んでいても、読んだ人それぞれな解釈があるようだ。
私は、ネットで色々解説らしきものを見せてもらった中で、参考の※5:「『金閣炎上』と『金閣寺』」を見て、両作家はともに、新聞報道が記事にしていない、つまり見落としていることを調査、分析して林養賢という青年を再生させようとした。そして、両作家ともに、事件を起こした青年と吃音との関係に注目しているのを読んで、このような、一見、何も症状のない我々から見れば、たいしたことではないようにみえる症状が実際には本人には非常に大きな影響及ぼし、このような大事件を引き起こすことにつながっているのか・・ということを思うと、現代で見られるとんでもない事件なども同じようなところに根源があるのだろうと色々考えさせられた。
現在の建物「金閣」は、放火事件より5年後の1955(昭和30)年に再建されたもので、1987(昭和62)年には金箔を全面厚いものに張り替える修復工事もなされている。さらに、2003(平成15)年には屋根の葺き替えも行われ、ぴかぴかのきらびやかな姿を蘇らせた。
この金ぴかの「金閣」を見ながら、室町時代の歴史とともに足利義満の北山殿など想像し、これを美しいと感じるか、何か変だと感じるか・・・、それも人それぞれなのだろうな〜。
参考:
※1:臨済宗相国寺派HP
http://www.shokoku-ji.jp/
※2:昭和毎日:法隆寺金堂壁画が焼失 - 毎日jp(毎日新聞)
http://showa.mainichi.jp/news/1949/01/post-f6e9.html
※3:文化財保護の発展と流れ
http://www.asahi-net.or.jp/~ab9t-ymh/syofukuji/bunkazai-nagare.html
※4:放火並に国宝保存法違反事件判決文
http://www.k4.dion.ne.jp/~yuko-k/adagio/hon14-kinkaku-2.htm
※5:『金閣炎上』と『金閣寺』(Adobe PDF)
http://dspace.lib.niigata-u.ac.jp:8080/dspace/bitstream/10191/8807/1/43...
事件録:金閣寺放火事件
http://yabusaka.moo.jp/kinkakuji.htm
文学にみる障害者像-水上勉著 『五番町夕霧楼』
http://www.dinf.ne.jp/doc/japanese/prdl/jsrd/norma/n270/n270010.html
水上勉著 『金閣炎上』
http://www.asahi-net.or.jp/~dr4i-snn/minakami-kinkakuenjyo.html
フィールド・ミュージアム京都
http://www.city.kyoto.jp/somu/rekishi/fm/index.html
日本国王・足利義満の生涯と皇位簒奪計画
http://www5f.biglobe.ne.jp/~mind/vision/history001/muromachi005.html
茶の湯の歴史:北山文化・東山文化
http://www17.ocn.ne.jp/~verdure/rekisi/rekisi_4.html
刑法
http://law.e-gov.go.jp/htmldata/M40/M40HO045.html
金閣寺放火事件- Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E9%96%A3%E5%AF%BA%E6%94%BE%E7%81%AB%E4%BA%8B%E4%BB%B6
炎上 - goo 映画
http://movie.goo.ne.jp/contents/movies/MOVCSTD18536/index.html