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 俳人池西言水(木枯しの言水)の忌日

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今日、このブログで何を書こうかといつも参考にしている「今日は何の日〜毎日が記念日〜」(※1)をみると、旧暦9月24日は、俳人・池西言水の1722(享保7)年の忌日・・・とあった。
池西言水(いけにしごんすい。※2参照)は、江戸時代に松尾芭蕉と同時代に活躍した俳人の一人だそうであるが、私はこの人のことをよく知らないのだが、前に、京都観光をした時に、言水の句碑を見た記憶があったので書くことにした。
句碑の場所は、京都市中京区新京極通りにある寅薬師と称した薬師如来を安置する西光寺(蛸薬師上る中筋町495−1)の北隣に、華嶽山東北寺(かがくざんとうぼくじ)、誠心院(せいしんいん)と号する通称和泉式部の名で知られている真言宗泉涌寺派の寺である(西光寺、誠心院の位置関係など※3参照)。
寺伝によれば、関白藤原道長が、娘の上東門院(藤原彰子)に仕えていた和泉式部のために、法成寺東北院内に一庵(小御堂)を与えたのが寺の起こりだとか。
当初、御所の東側にあったが、その後一条小川に再建され、さらに天正年間(1573〜91年)にこの地に移されたといわれている。
誠心院本堂に安置される本尊阿弥陀如来像の傍らに和泉式部法体(ほったい。僧侶の姿)の像があるほか境内墓地には、和泉式部塔と称する石造宝篋印塔(ほうきょういんとう)がある(※3又※4:誠心院HP参)。また、傍らの梅の木は、和泉式部が生前愛木した「軒端(のきば)の梅」(※5参照)に因んで、後に植えられたものだそうである。
このほか、誠心院HPには何も記されていないのだが、同境内墓地の和泉式部塔の近くに池西言水の小さな石碑がひっそりとあった。
冒頭の画像向かって左がそれである。その右側にも副碑のようなものがあり、副碑上部には「池永言水句碑」と書かれているが、その下に、書かれている刻字はかなり損傷が激しくよく読めないが、どうやら「此度爰に地を占し○○を加へ永○に○保存所や」と刻まれているようなのだが解読できない。どうやら句碑ではなく、此の地に言水の句碑を建て永世に保存所しようと言うようなことではないかと推測している。
その句碑というのは左側にある墓標らしく、よく見ると石碑の上端に縦書きではなく、横へ流れる形で「木枯の果てはありけり海の音」の句が刻まれている。
この池西言水のことについては、参考2:コトバンク-「池西言水」や、特に※6:「龍谷大学学術機関リポジトリ」のコミュニティ> 10学位論文 >■博士(文学)>宇城, 由文著:芭蕉と言水 ―近世前期俳諧の位相― などに詳しく書かれており、興味のある人はそこを見られると良い。ここでは、その経歴等を簡単に書くと以下のようになる。
言水は、慶安3年(1650年)奈良にて出生。祖祖父千貫屋久兵衛は奈良大年寄を勤め、祖父良以は 和歌に通じ、実父柳以も誹詰(俳諧)を、たしなむなど比較的めぐまれた環境のもとで育ったようだ。
16歳に法体(僧体)して俳諧に専念したと、言水の死後発行された追悼集(俳諧集『海音集』。作者:方設)にある。
名は則好。通称八郎兵衛といい、兼志、紫藤軒、洛下童、鳳下堂とも号したようだ。
同『海音集』には、「木がらしを辞世にし自筆をうつして彫りて和泉式部軒端しの梅の下影に石のかた代築く」とあるので、それが、先に書いた誠心院にある墓碑にあたるのではないのだろうか。
石碑の句の下に刻まれている銘は別号の「紫藤軒言水」が用いられており、又、墓碑に刻まれている命日の日付「享保七年九月廿四日」も一致する。
俳諧は、はじめ京都の松江重頼の門人であったといわれるが、重頼の選集に名はみえないようだ。
言水の句の初見は寛文12年(1672年)刊『続大和順礼』(岡村正辰編。岡村正辰=郡山に住んでいた俳人で、池田正式の門人といわれる)で、23歳の時であった。このとき42句入集しているそうだが、発想においても技巧においても貞門風の俳諧だという。
延宝4年(1676年)刊の『到来集』(胡兮編)に、江戸小石川にて「小日向の雪やとけ来て小石川 」(南都 池西兼志)と、言水の句が見られるところから、このころ江戸へ出てきたようだ。
寛文13年(1673年)から延宝4年(1676年)までの間の言水の足取りは定かではないという。
江戸では、談林派の俳人として活躍するが、言水の江戸での本格的な活躍(デビュー)は風虎サロン(※6、※7参照)に始まる。
それは延宝5年(1677年)内藤風虎の催した『六百番誹詰(俳諧)発句合』の入集である。
入賞の句は当時流行の句作りを示しており、言葉の巧みな使用、機知に富んだ句作り、聴覚的なイメージの利用などには、既に言水の句作りの特性が発揮されつつあり、『続大和巡礼』の作品と比較すると著しい進展が見られるという。
松尾芭蕉、椎本才麿と交友を重ね、江戸俳壇に確固たる地位を築く。当時の彼は時代の新風を追い求める先鋭的な俳人であったようだ。
しかし、天和2(1682)年の春、33歳で京都に移住したのち、北越、奥羽、九州などに行脚し、京都、新町通り六角下るに落ち着き、定住後は京都俳壇を代表する俳人の一人として活躍。伊藤信徳と交友を重ねた。
能書家(書家の中でも特に書における高度な技術と教養を持った人のこと。書の名人)でもあり、また、絵画、茶道、書画骨董の目利きにも優れていたようだ。
江戸在住中に『江戸新道(しんみち)』(1678年)、『江戸蛇之鮓(じゃのすし)』(1679年)、『江戸弁慶』(1680年)、『東日記』(1681年)、『後様姿』(1682年)などを著した。京都へ帰ってきてからは地方への勢力を拡大しつつ、『京日記』(1687年)、『前後園』(1689年)、『都曲(みやこぶり)』(1690年)などを刊行し京での地歩を固めていった。
言水の代表句「凩(こがらし)の果はありけり海の音」の句は、元禄3年(1690年)『都曲』への所収が初めてであり、この句が評判になる。又、元禄15年(1702年)刊『花見車』(轍士〔てっし〕著)には、「木がらしの果はありけり、とたちあがりたる風俗に一たびは京も田舎もなづみたり」とあり、「木枯の言水」と評判されたという。
『海音集』で、「我木枯の発句は人生のあらまし二つの海の心も述べたり。此句辞世とすべし。」と方設 が言水の遺言を伝えているところから、言水自身にとっても生涯で最も自信のある句であったと考えられる。
「凩」は風の略形と木とをあわせたもので日本製の漢字「和語」であり、木を吹き枯らす意から、「木枯」とも書く。秋から初冬にかけて山から海へ吹く、強く冷たい風。冬の訪れを告げる風でもあるため、冬の季語となっている。
この句は「湖上眺望」の前書きがあり、ここでの「海」は琵琶湖なので、「木枯」は比叡颪(おろし)のことである。
冬になって野山の木々の葉を吹き散らす木枯しは、どこまでも絶え間なく吹き続けているようだが、やがて冬の荒れた海に出ると、激しい波の音の中に消えていく。この海こそが、木枯しの行き着く果てであった。そして冬は、一年の終末であり死を喚起させる季節でもある。
冬の荒々しい自然を、木枯しと海の音の照応でとらえた句である。いまはもう吹き枯らすものもなく、役割を終えた木枯らの風に、言水自身の最期の姿を思い浮かべていたのだろうか。この世のはかなさを詠んだもので、談林派の知的観念的作風とは一線を画する名作といわれている。
山口誓子の「海に出て木枯帰るところなし」や、大場寥和の「木を枯らす風の相手や海の音」なども、言水の句の意を踏まえて詠んだものだろう。多くの俳人が木枯しを詠んでいる(※8)参照。
京・大坂・江戸の点者を遊女に見立て、廓詞(くるわことば)で品評し評判をえた俳人評判記『花見車』は、言水を太夫の位にランクし、「目はしのきいた君也」と評しているが、この評の通り、時流には敏感で、元禄年間(1688〜1704)に流行し始めた前句付,笠付などの雑俳にも手を染めている。
ただその前段で、言水の京移住後の生活については、「身上がりに大分借銭があり(略)お子がひたと出来てとまらんす。それゆえ神ほとけをふかふいのらんす頬もすいていかふ古う見えます。」とあり、よく解釈できない言葉もあるが、言水の京での生活は楽ではなかったようである。金になる雑俳に力を注いだのもこのような生活に窮してのことだったかもしれない。そのような俳諧への姿勢から大阪などでは、必ずしも言水への評判は良いものではなかったようだ。
「木枯し」の句が作られた元禄3年(1690年)頃、ほぼ同時期に芭蕉の蕉風開眼の一句とされる「古池や蛙飛び込む水の音」(貞享3年=1686年)がある。
言水の「木枯し」の句は芭蕉の「古池」に匹敵する名句といえるかもしれない。しかし、文学史的な視点からみると、同時代に活躍した2人でありながら、後世への影響力、また、その評価には雲泥の差がある。
元禄期において芭蕉とあい並ぶ有名な俳人には池西言水と椎本才丸がいた。この3人が永宝の末の数年間江戸俳諧を舞台に何らかの交渉を持ち、新風起立をめざして活躍した。
3人の年齢は延宝6年(1768年)に、芭蕉35歳。言水29歳、才丸23歳であった。
この永宝6年芭蕉が意欲的な活躍をするが、同じ年に言水も第一撰集『江戸新道』を出版している。才丸の第一撰集『坂東太郎』はその翌延宝7年の出版である。このように3人はほぼ時を同じくして活躍している。
この3人の関りは密接であり、特にとし若い言水、才丸らが薫風樹立の前段階にあって、芭蕉の先駆者ないし、同伴者としての役割を果たしたといわれている。ただ、言水は『東日記』を出版した翌年(天和2年)に突然江戸を去り京都に移っている。
延宝6年(1768年)から4年間、年ごとに新しい撰集を出版し、『東日記』の序で才丸が「これより先三度句帖を顕はし、三度風躰をかへて三度古し」と言水自信の言葉を伝えている通り、あれほど意欲的な活躍を続けてきた言水が何故江戸を去らねばならなかったのかという疑問が残る。後に残った才丸も6年後の元禄2年に江戸を去って大阪に移っている。
結果的に見て、言水や才丸が江戸の俳壇という活躍の舞台を、芭蕉一派に譲った形になっている。
特に言水は延宝6年に『江戸新道』を出版して以来、延宝7年『江戸蛇之鮓』、延宝8年『江戸弁慶』延砲年『東日記』と年毎に撰集を出版し、延宝期の俳壇でもっとも注目すべき活躍をした人物の1人であったのだが・・・。
このことについては、以下参考※9「延宝・天和の江戸俳壇-言水 ・才丸 ・芭蕉とそれらの周辺-」で詳しく考察されているので、見られると良い。
考察は、言水の発行した撰集にあらわれる人物を検討することからはじめられている。
そこから見られるのは、内藤露沾幽山一派と密接な交渉を持つことによって、江戸俳壇の中で、安定した立場を得、幽山の地盤を受け継ぎ、次第に調和一派との交渉を深め(同7年)、ついで才丸との緊密な協力体制を固め(同8年)、ついに新興勢力である芭蕉(桃青)一派に接近する(同9年)。
このように1年ごとにかなりはっきりとした特徴をみせながら、言水の撰集活動は進んでいくわけであるが、その反面、幽山を中心とする『江戸八百韻』の連衆(連句では、集った人たちをいう)が不振となり、そのことが言水の活躍をかなり制限したようにも見える。
江戸俳壇における言水の表面的な活躍が余りに急速かつ花々しかったことにより、言水はいきおい多くの俳人達との交渉を生じたが、彼にとって最も重要な基盤であるはずの幽山一派の勢力を伸ばすことに、はたしてどれだけの努力をしたか疑問がある。
そして、言水は幽山一派の連衆から次第に浮きあがった姿勢で、自己の撰集活動を勧めていったようである。或いは逆に考えれば、幽山一派というものが、言水にとって、(最初の踏み台としては適していたはずだが)次第に物足りなさを感じさせるようになったのかも知れない。
なにしろ、幽山一派は調和派などに比べれば、まだ弱小グループの観をまぬがれない存在だったから。
こうした不安定な立場にあった言水に、さらに大きな打撃を与えたのが内当家の内紛事件(内藤露沾退身の事件)だろうという。
俳壇のパトロン内藤風虎・露沾父子が不和を生じ、加うるに露沾が逆臣松賀紫塵の陰謀事件に巻き込まれたために、ついに露沾の退身となった。
このため風虎の文学サロンは活動を停止し、幽山一派とりわけ言水の受けた打撃は大きかったと想像されるという。
必ずしもこれだけが京都移住の原因だとはいえないまでも、内当家の事件が天和2年2月であり、言水の京都移住が同年3月であってみれば、この2つの事件は全く無関係とは言い切れないだろう。
こうして江戸を去ってからから、京都俳壇において言水の占める位置は、後年高いものではあったろうが、江戸での活躍に比べればやはりさびしさの影が付きまとていたようだ。
江戸俳壇という活躍の場を捨てた言水の俳人としての限界を、杉浦正一郎の論文では以下のように書いているようだ。
「彼(言水)は珍しい程詩人的センス豊かに恵まれた人であったので、いち早く談林の只中から薫風的新風に移りゆくべき運命を感じとったのであったが、のち、京、南都に帰り住んで上方俳人となってからは、若き日の情熱も失せたものか、洗練された技巧をもって都会人らしいデリケートな感覚描写に腕の冴えを見せただけで終わってしまった。」・・・と。
芭蕉一派の結束が固まるにつれて、元来よそものであった才丸も芭蕉一派から締め出されてしまったようである。元禄2年芭蕉が『奥の細道』の旅に出発したその年に、才丸も江戸を出発して、伊勢路向かう。その年の冬大阪に帰りついた才丸は以後およそ50年間この地に住み着いて生涯句を終わっているという。

参考:
※1:今日は何の日〜毎日が記念日〜
http://www.nnh.to/
※2:コトバンク-池西言水とは
http://kotobank.jp/word/%E6%B1%A0%E8%A5%BF%E8%A8%80%E6%B0%B4
※3;京都観光Navi:誠心院
http://kanko.city.kyoto.lg.jp/detail.php?InforKindCode=10&ManageCode=180
※4:和泉式部-誠心院
http://www.seishinin.or.jp/
※5:能・演目事典:東北
http://www.the-noh.com/jp/plays/data/program_050.html
※6:龍谷大学学術機関リポジトリ:コミュニティ
http://repo.lib.ryukoku.ac.jp/jspui/
※7:内藤風虎の元禄サロン
http://ir.lib.hiroshima-u.ac.jp/metadb/up/kiyo/AN00090146/kokubungakukou_43_120.pdf#search='風虎%20露活'
※8:勝手に俳句歳時記「木枯」
http://www.ab.auone-net.jp/~koboku/huyu/saijiki/kogarasi.pdf
※9:延宝・天和の江戸俳壇-言水 ・才丸 ・芭蕉とそれらの周辺-(Adobe PDF)




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