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洗濯の日

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日本記念日協会登録の記念日に「洗濯の日 」(12月第3土曜日)があった。
記念日の由来を見ると、”年末の大掃除のように、家にある布団カバー、毛布、カーテンなどの大きな物を洗い、すっきりとした気持ちで新しい年を迎えることを勧めようと、家庭用の洗剤などの洗濯用品を手がけるライオン株式会社(※1)が制定。日付は年末の掃除や洗濯の準備を始めるのが12月の3週目が多く、しっかり取り組みやすい日としてその土曜日としたそうだ。
お爺さんは山へ柴刈りに、お婆さんは川へ洗濯に行きました。
よく知られている桃太郎伝説の冒頭の一文であるが、こ物語の原型が出来たのは室町時代以前と考えられている。
洗濯とは、衣類などについた汚れを洗い落とすことであり、古くは、水辺での足踏みやたたき洗いが行われた。中世に入るとたらいでのもみ洗いが普及し、井戸端でしゃがんで選択をする光景が一般化した。上図参照。
昭和初期までよく見られた家族のものに小ざっぱりとしたものを着せるための洗濯にかかわる一連の作業は家庭を預かる妻女のつとめであった。川の流れを利用した洗濯では大きなものは足踏み洗いをした。そして、井戸端でのたらい洗いは語らいの場でもあった。
石鹸は、安土桃山時代南蛮貿易で伝えられたが、江戸時代には医薬用に使用されたぐらいであった。また、戦後の昭和初期までよく見られた洗濯板は明治以降に使われだしたものである。
汚れ落としのための当時の洗剤としては、灰汁(あく)や、無患子(むくろじ)(※2も参照)、皁莢(さいかち)の実を煎じたものなどが用いられ、また、糠(ぬか)や米のとき汁などもつかわれた。
一方、着物を一度解いて生地にして洗う解き洗いという方法もあった。これは解いた生地を洗い張りの板に張って干す方法と、伸子(しんし)という竹ひごで布を広げて干す方法がある。
中世より、一部には洗濯女のような職業もあり、安土桃山時代になると、紺屋から分離、独立した洗濯士という職人が生まれている。
江戸時代に入ると、紺屋から独立した洗張りの仕事は、京都で洗い物屋、江戸で洗濁屋(せんだくや)と呼ばれる本格的専門業者に移ったようだ。
また、コトバンクよれば、日本初のクリーニング屋は、1859(安政6)年横浜本町に開業した青木屋忠七を初めとするそうで、本業は横浜に入港した船舶の荷役配送業務であったが、同時に船員の衣類の補修から洗濯までを副業としたそうだ。
しかし、横浜市中区山手町に「クリーニング発祥の地の碑」があり、その碑文には「安政6年神奈川宿の人、青木屋忠七西洋洗濯を横浜に・・・・・」と記されているが、青木が外国奉行に営業申請したのは3月であり、横浜港開港はその後の安政6年6月2日(太陽暦で1859年7月1日)のことであり、この碑分の文面の信憑性は薄いとされているようだ。外国人相手の洗濯屋は開港時から存在はしたが、本格的な洗濯業としては、文久年間に開業した、渡辺善兵衛が最初とされており、店の前を流れる小川のなかに大きい丸い石があり、外国人の衣類をその石に叩きつけて、洗濯していたという。
小島庄助、脇沢金次郎らが、これに次ぐが、近代企業としてのクリーニング業は、フランス人ドンバルの技術指導により、脇沢金次郎が始めたと言われているようだ(※3、※4参照)。
当時近隣には、フランス駐屯軍やイギリス駐屯軍が駐留していたこともあり、これらの士官や兵士たちの洗濯を請け負っていたようだ。
一方、ドライ・クリーニングは、1906(明治39)年3月、東京・日本橋にて洗濯店「白洋舎」を創業した五十嵐健治がその翌年に初めて成功したようだ。

汚れには水に溶ける「水溶性」と、水に溶けない「脂溶性・不水溶性」がある。たとえば、身体から出るなどは水溶性だが皮脂は脂溶性であり、襟など直接皮膚にあたるとこは特に脂溶性の汚れ(油汚れ)が多い。
このような汚れを取るための洗濯の方法には湿式洗濯と乾式洗濯がある。
湿式洗濯とは、水を使用した洗浄法のことをいう。現代の家庭で洗濯機に水と洗剤を入れて行っている洗濯は湿式洗濯である。
湿式洗濯(クリーニング)の長所は、水溶性の汚れがよく落ちる(水の温度を上げるとなお、よく落ち)。短所は、型崩れしやすい点である。
したがって、この湿式洗濯は、羊毛製品や絹製品などは、型くずれ、変形、色落ちしやすくなる。しかし、湿式洗濯は、水溶性の汚れをよく落とすという特徴がある。
この湿式洗濯に対して、洗濯する際に水を使用せず、油脂類に起因する汚れや垢を、溶解する揮発性(液体の蒸発しやすい性質.)の 有機溶剤を使用した洗浄法のことを「乾式洗濯(ドライクリーニング)」という。
乾式洗濯(ドライクリーニング)の長所は、油汚れがよく落ちる。衣類の型崩れや収縮がしにくい。短所は、汗やしみ(水溶性のもの)が残るのが特徴である。
このように2種類の洗濯方法には長所と短所があり、洗濯する服の繊維や汚れを考えて洗濯しないときちんと洗えない(詳しくは、※6参照)。
明治、大正の頃より、ドライクリーニング(乾式洗濯)は揮発油ベンジン等いわゆる石油系溶剤が主流であったが、これらの溶剤は揮発性が高く、引火性もあるため、コンパクトな機械でも、できうる限り密閉式につくられていた。
一般に町の洗濯屋さんでは、地下槽を設備したり、防爆式にしたりする関係上、機械を設置するには、それなりのスペースと防火設備が必要であることから、ワイシャツ等の水洗物とは違い、ドライは外注に頼っていた。
数カ所、あるいは数十カ所の洗濯屋さんから集められたドライ物は、ホールセールで素洗い、乾燥処理されてから、それぞれの洗濯屋さんに返却され手アイロン等で仕上げられていた。この工程を踏んだものは当時「純ドライ」「洋式洗濯」「乾式洗濯」などの名称で看板を出していたようだ。
石油系溶剤は、現在あるような、臭わないものではなく、独特の臭いを強くもっていた。素洗いをした被洗物を手アイロン等で仕上げ成型しても、揮発性の高い臭いが残り、その臭いで本式だという認め方もあったくらいだという。

上掲の画像は、MYコレクションの絵葉書より、「洋服を揮発油にてあらふキハツ クリーニング場 」の光景である。絵葉書表差出人欄には神戸市阪神電車神戸終點前、 陣野染洗店・・とある。呉服の染物や洗い張り、しみ抜きなどをしていたところが、洋装の広がりから、その技術を生かして、クリーニング業へ転身していったところが多かったということだろう。
この絵葉書はクリーニングの広告用の絵葉書だろうが、表書きの阪神電車神戸終點前とある、神戸とは、かつて兵庫県神戸市に存在した阪神電気鉄道本線の駅で、通称滝道駅のことだろう。
阪神電車は、1905(明治38)年4月12日 大阪の出入橋駅 - 神戸駅(初期は神戸雲井通とも案内。のちの三宮駅)間で開業。
1912(大正元)年11月1日 神戸側終点を雲井通(三宮)から加納町(滝道)まで延伸。加納町(滝道)に新たな神戸駅設置、従来の神戸駅(神戸雲井通)を三宮駅に改称。神戸駅は市電の電停名に倣い滝道駅と呼ばれることも多かった。
1933(昭和8)年6月17日 神戸側の地下新線(岩屋駅 - 神戸駅間)開業。岩屋以西を地下線として岩屋駅 - 三宮駅 - 神戸(滝道)駅間地上線の営業廃止。省線三ノ宮駅近くの地下へ新たな神戸側終点となる神戸駅を設置する。
したがって、ここにある絵葉書の年代は、神戸(滝道)駅のあった、1912(大正元)年11月1日〜1933(昭和8)年6月17日の間のものと思われる。余談だが、この駅ができる3年前の1908(明治41)年、当線を歌った「阪神電車唱歌」が作曲されている。阪神電鉄が宣伝のために製作したもので、22節に当時の駅名を織りこみ、当時の沿線の名所や­名物などを紹介している。面白い歌なので、後で一度聞いてみてください。以下です。
阪神電車唱歌を歌おう - ZAQ
http://www.hi-net.zaq.ne.jp/buaro005/hs_syouka.htm

東京など、関東大震災後、郊外に続々と建てられた洋風のモダン住宅は「文化住宅」と呼ばれ、サラリーマン層の夢を誘った。これらの住宅の特徴は、玄関わきの応接間、そして、居間と食堂、さらに水道やガスの引かれた板張りの台所である。そこには、炊事や暖房用の目新しいガス器具や電気器具が並んでいた。
ガスや電気は最初は照明として使われていたが、やがて燃料としても使われるようになり、ガスの竈(かまど)(日本における最初のガス器具特許品)が発売されたのは、1902 (明治35)年のこと(東京ガスより※7参照)。
大正中期には熱源をめぐってガスと電気の競争が始まり、大正末にはガスの七輪に対して電気の七輪が、ガスのかまどに対して、電気釜が登場したという(『朝日クロニクル週刊20世紀)』1926年063号)。
そして、東京電機(現在の東芝)が、電気アイロン(1915年※8)、電気冷蔵庫(1930年※8)、そして、同年に日本初の電気洗濯機(※8)の国産化も進めた。
しかし、これらの電気製品やガス器具をそろえることができたのは一部の高給取りに限られていた。多くの庶民は、鍋や釜、包丁、はてはたわしまで「文化」の名前を付け流行の文化生活の一端に触れようとした。しかし、家庭での電気利用はせいぜい電燈ぐらいで、洗濯には洗濯板を使い、料理は薪や炭でするという生活がほとんどだった。
やがて1927(昭和2)年の金融恐慌をきっかけに慢性的な不況に突入。満州事変を契機にナショナリズムが台頭してくると都市型の文化生活は目の敵にされるようになる。
そして、第二次世界大戦が終わるまで、ぜいたくは敵であり、ただただ耐久生活が続いた。

以下参考の※5:「共栄産業ホームページ:業界今昔物語」によると、クリーニング業界は比較的歴史は若く、急速に加速したのは、1959(昭和34)年の環境衛生法(正称は環境衛生関係営業の運営の適正化に関する法律)の施行により大きな転換を迫られた頃からだという。
機械洗濯(洗濯機参照)の歴史は明治、大正時代から「湿式洗濯」と「乾式洗濯」の名称のもとに、繊維の発達と洗剤・助剤の発達とともに時々刻々緩やかな道のりを辿りながら、需要を満たしてきた。
昭和の初期までは、タライや洗濯板を使って手で洗濯し、天日で乾かしたものであった。このころでも、一部では洗濯機械もあるにはあったが、ごく限られたところでしか使われていなかった。
終戦後、米軍の進駐にともない、その後方機関としてQMランドリーというものがあったそうだ。これは米軍の部隊、病院などからでる洗濯ものを処理する工場で、当時としては目を見張る設備を備えたクリーニング工場で、これが、クリーニング業者はもちろん、機械メーカーにも大きな参考になった。米国払い下げの中古機械を買い漁った時代もあったという。
そして、国民生活が終戦後の混乱期を脱した頃より、その需要は様変わりして、環境衛生法の実現をみた。
昭和34年の環境衛生法が施行される前は、ランドリークリーニング(ドラム式。水を使用しての洗い)においても、ドライクリーニング(有機溶剤を使用して洗い)においても、最もつらい労働であった「絞り」を解決するために、手回し脱水機がまず工場に備えつけられた。これはやがて直結電動型となっていった。
環境衛生法施行とともに洗濯する機械、乾燥する機械を含め、仕上げる機械を「業務型洗濯機」という名称で機械メーカーが生産。
米軍の設備が手本となったため、業者は米国のクリーニング工場を参考とし、需要を満たすため、進んで米国業界を手本とし、発達する道のりを歩んでいったという。
一方、家電メーカーも「家庭用洗濯機」を発売して、一層の発展への拍車がかけられ、経済発展に伴う庶民の生活の向上とともに、洗濯に対する必要性がますます認識され、便利さと快適さを求められて今に及んでいる。
女性の仕事として長い間家事労働の大きな部分を占めてきた洗濯だが、家庭電化による電気洗濯機の普及、新しい化学繊維や新洗剤の出現などにより、洗濯に費やす時間と労力は著しく合理化されてきたため、今の女性は昔の女性に比べずいぶんと家事労働が減り、自由に行動ができるようになったといえるだろう。

ところで、今の時期になるとなかなか1日では出来ない大掃除をしなくていけないと、これがずいぶん負担になっている人も多いのではないか。俳句では、年末の大掃除に『すす払い(煤払)』という季語を用いる。どうせするなら、あまり忙しくないほかの季節にすればよいものを日本では、年末の大掃除は、単に掃除をするということより、『すす払い(煤払)』をして、建物や身体や気持ちを清めて新年を迎えるという正月行事の一つとなっている。
しかし、正月の準備は本来、正月事始の12月13日に行うもので、正月飾り、門松、鏡餅を供える。大掃除(すす払い)をするのも、歳神様(歳徳神)を招きいれるための準備である。しかし、現代では元日間際になって行うというのが一般的になっているのではないか?。
普段からの計画的な手入れ次第で、そんなに、年末だからと言って、たいそうな掃除をする必要はないはず。
私の家など息子たちが自立しマンションを買って出て行ったため、年を取った私と女房の二人では、少し広すぎる家になったし、我々二人だけでは、年末の大掃除も大変なので、大掃除ですべきことなど、正月前にしなくて良いものなどすべて、1年の計画の中で組み込んで、一つづつこなしている。だから、これから後にすることはあまりない。
掃除で手間のかかるのは、戦後の急成長期以降、なんだかだと言って買った物が多くありすぎるからだろう。何もないすっきりした部屋なら掃除に時間はかからない。
戦後の焼け野原の後には、どんなに狭くても「我が家」の存在自体がすばらしいものであった。……いわゆる「団地のDK(ダイニングキッチン)」の台頭。そこに備えたい台所用品や家電の多くは、それまでの主婦らは見たことも、想像すらできないものばかりだった。新しいモノを知ったが最後、周囲の家と競い合うように買い求め、それが当たり前になっていった時代があった。そして、家も広くなり、その分どんどんと品物が増えていったのだ。
「戦後 」のもののなかった時代を考えてみれば、今のように「モノが多過ぎる」状況に至るのは別段不思議ではなかったようにもみえるが、この際、不要なものは思い切って、すべて、バッサリと大掃除することが大切かもしれない。
私も、今までに買いだめした衣類などでも、まだ手も通したことのない背広ほか多くのものがあり、これらのうち、もう長く来ていないものや、これからもいつ着るかわからに様なものは、すべて、この際処分しようと思っている。そうすると、気まぐれにあれを着たり、これを着たりしてできてしまった洗濯ものの数も減るし、一挙両得だものね。
それと、今度の衆議院選挙では、国会議員さんも慎重に見極め、戦後日本の「腐りきった行政の大掃除」を断行してくれそうな人を選びたいものだね。政治、行政の洗濯をしないと、日本は何時ギリシャになるかわからないところに来ているから・・・。
さて最後になったが、今日のテーマー「洗濯」など、特に、年末だからというのではなく、普段からやっておきたいのだが、まだの人は、今日の記念日「洗濯の日」を設定したライオンでは、クイズに答えて当たる!旅行券10万円分を10名様、買って当たる! 神戸牛すき焼き肉等を合計1,205名様にプレゼント!・・・といった、「年末大洗濯始めよう!キャンペーン! 」をしているので、時間のある人はちょっと覗いてみては・・・。以下です。
年末大洗濯始めよう!キャンペーン!
http://o-sentaku.jp/


それと、私は明日から、正月の松の内が明ける1月15日まで、このブログを休止しようと思っていますのでよろしくお願いします。また、来年もよろしく訪問お願いします。
皆様、良いお正月をお迎えください。


(冒頭に画像は、洗濯『倭国百女』。NHKデーター情報部編ヴィジュアル百科『江戸事情』第1巻生活編より借用)
参考:
ライオン株式会社
http://www.lion.co.jp/index2.htm
※2:無患子(ムクロジ)
http://www.hana300.com/mukuro.html
※3:発祥の地コレクション/クリーニング業発祥の地
http://hamadayori.com/hass-col/commerce/cleaning.htm
※4:タイムスリップよこはま - 元町周辺/クリーニング業
http://www.timeslip-y.jp/motomachi/clean.html
※5:共栄産業ホームページ:業界今昔物語
http://www.kyoeinet.com/konjaku/index.html
※6:洗濯屋さんのホームページ
http://members.jcom.home.ne.jp/wex/index.html
※7:東京ガス : GAS MUSEUM ガスミュージアム / 収蔵品検索 調理器具
http://www.gasmuseum.jp/search/gas_kigu001.html
※8:東芝科学館 - 東芝一号機ものがたり
http://kagakukan.toshiba.co.jp/manabu/history/1goki_j.html
汚れの分類
http://liv.ed.ynu.ac.jp/kaisetsu2/01basic/02soil.html
大掃除のコツ ホーム - サイトマップ
http://www.3615soul.com/
日本記念日協会:今日の記念日
http://www.kinenbi.gr.jp/
洗濯 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%97%E6%BF%AF

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