「みその日」(毎月30日)は、全国味噌工業協同組合連合会(※1)が1982(昭和57)年9月に制定したものであり、推進はみそ健康づくり委員会(※2)が実施している。記念日の日付は「みそ(三十)」の語呂合せから。
味噌(みそ)は、穀物を発酵させて作られた発酵食品であり、古くから使用されてきた日本の基本的な調味料の一つでもあり、今では、日本の味(MISO)として日本国外にも広く知られている。
副食素材が豊富になった今日では、味噌は、単に調味料とみなされる事もあるが、古くから日本の食生活(※3の日本型食生活参照)における主要な蛋白源であり、特に江戸時代中盤以前は「おかず」的な扱いをされていた。もっとも、現在でも「おかず」としての「おかずみそ」は多数は存在しているが(※4参照)・・・。
しかし、日本の食生活の洋風化と外食による味噌(みそ)の消費減少のなか、”すぐれた健康食品でもある味噌を健康増進に役立ててもらおう”と設立された組織が、みそ健康づくり委員会のようである。
この「みその日」については、以前に、このブログでも書いた(ここ参照)のだが、先日(1月23日)も「アーモンドの日」で食べ物と健康に関することなど書いて以来、ここのところ、このような食べ物のことに興味を持つようになり、今回も、「みその日Part2」として、 前回触れていないことなどを中心に、もう少し「みそ」のことについて書いてみようと思った。
江戸時代前期の俳諧師で、後世俳聖とも称されるに至った松尾芭蕉は、伊賀国(現在の三重県伊賀市)で生まれ、若いころ藤堂藩伊賀付侍大将家の嫡子藤堂良忠(俳号は蝉吟)の近習として仕え、その感化で俳諧を学ぶが、良忠に仕えた時の仕事は陪膳役か厨房役また料理人のようなものだったのではないかといわれているが、芭蕉は料理には関心があったようで、食べ物の句を多く詠んでいるし、また、酒も好きであったらしく、酒の句もたくさんある(※5:「芭蕉db」の芭蕉補遺>芭蕉の嗜好参照)。
「あら何ともなや昨日は過ぎて河豚汁」(桃青)・・・という句がある(※5の芭蕉句集参照)。
芭蕉は、伊賀で良忠の病没後、京都で北村季吟に師事。のち、1672 (寛文12)年29歳の時に江戸に下り、1677(延宝5)年からから1680(延宝8)年までの4年間、神田上水(小石川上水)の修理工事に携わった。
このころ、俳壇内に地盤を形成。上掲の句は『江戸三吟』の巻頭句。1677(延宝5)年、芭蕉34歳の時の作(このときの号は桃青)。この年に俳諧宗匠として立机(プロの俳諧師になること)したらしい。
その後、隅田川のほとりの深川の草庵、いわゆる今日の深川芭蕉庵に移った頃(1680[延宝8]芭蕉37歳頃)から独自の蕉風を開拓したといわれる。
『ここに出てくる河豚汁は、今の人ならふぐ鍋を思い出すかもしれないがこれは文字通り河豚(ふぐ)の汁、つまり、河豚の味噌汁のことである。
日本で、現在の穀物を発酵させて造られた液体調味料としての醤油に近いものが生産されるようになったのは、室町時代末期頃だといわれる.。その製法は秘伝口承であり、関西方面(湯浅、龍野、境)で生まれた醤油は、やがて関東(銚子、野田)へ、そして全国に広まっていった。
江戸時代、醤油が普及するまでは膾(なます)や、刺身(さしみ)に欠かせない調味料としては「煎り酒」が使用されていた。この醤油が広く庶民に普及したのは、関西では江戸時代初期、関東では江戸時代中期以降からだといわれている。
室町時代に日本料理の正式な膳立てといわれる「本膳料理」が出来、一の膳(本膳)、二の膳、三の膳から成り、それぞれの膳に「一の汁」(味噌汁)、「二の汁」(すまし汁)、「三の汁」(潮汁)がつけられていた。
江戸時代になると醤油が味噌と並んで重要な調味料となるが、芭蕉が江戸で活躍した時代には、まだまだ関東での醤油醸造は盛況ではなく、醤油自体が高価であったと推定されることから、庶民生活の中の汁物には依然として味噌仕立て(味噌汁など)のものが主流であった。
汁物の具には野菜のほか魚、鶏肉なども含まれており、鍋物らしい様相を備えていく。しかし現代の味噌汁と同様、主食の飯に添えられたもので、人々はこれを独立した料理とはみなしていなかった。
味噌汁の上澄みを用いた「おすまし(すまし汁)」 は、当時、今とは違って、食事をした後の酒の肴として添えられるものであった。
当時は、現在とは違って「汁」とともに飯を食べてから、あらためて酒の宴を張るというのが当時の食事の作法であった。このため「汁」と「吸い物」に区別を付けるのもそれなりの合理性があった。すなわち「汁」は飯に添える物であるため、飯の味が引き立つように濃いめに、「吸い物」は酒が進むように淡白にというのが約束事だった。
しかし、汁物ほど多種多様なものはない。魚、肉、野菜だけではなく世の中のほとんどの食品は、味噌汁の具になり得る。そのため、地域によって家庭によって、独自の具沢山な汁物が作られたのだろう。この汁物を入れた鍋を卓上に置き、各人が自分勝手に好きなように食べれば、現代の鍋物となるではないか。
江戸時代にどんな汁物が食されていたかその実態はよくわからないが、その汁は今の味噌汁と同じようなものだから、あまりにも普通過ぎて、記録したりするに値しなかったのだろうが、その例外的なものの第一が、先にも挙げた芭蕉の句にもある河豚(ふぐ)汁であろう。
なにしろ食べ方を一つ間違えると死んでしまう。しかも特別に美味しいし、冬に獲れる魚だから、鍋物に最適である。しかも、食べれるチャンスは1年にさほど多くない。
それに、豊臣秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)の際に「ふく」を食べて多くの兵士が亡くなったことから禁止令が出され、江戸時代には多くの藩でも禁止令が出されたそうだ。だから、大げさに言えば、死を覚悟して口にしなければならないし、本当に死んでしまうこともある。
江戸後期の浮世絵師、喜多川歌麿が絵を描き、それに宿屋飯盛(石川 雅望)撰で二十五首の狂歌を添えた絵双紙『絵本詞の花』(以下参考の※6)には以下の二人の狂歌が絵と共に掲載されている。
「きこしめせ あたる ふしき あたらぬも ふしぎなりけり 易と 河豚汁 」(紀定丸。きのさだまる)
「鉄砲の こんや あたりの やくそくを はづすハ 君が 玉に きずあり」(千枝鼻元。ちえのはなもと)
前者は、あたる、と、易・ふぐを、後者は鉄砲と当たる・玉をひっかけたものである。
後者の、豚汁は鉄砲、あるいは鉄砲女郎のことらしい。「鉄砲見世」は最下級の遊女を置く店。 鉄砲店の玉という意味で、鉄砲店の遊女。玉に瑕(きず)の玉女・芸娼妓・陰間・道具の意味でもあるらしい。鉄砲店の遊女。鉄砲女郎 は梅毒感染の危険性が高く、「毒にあたる」ことからだという。
○河豚食う無分別、河豚食わぬ無分別 ○河豚は食いたし命は惜しし・・・などの諺もある。
上掲の芭蕉の「あら何ともなや昨日は過ぎて河豚汁」の句の「あら何ともなや・・・」は、謡曲の言葉「あらなんともなや候」の文句どりもじり(捩り)を用いたもの。謡曲では「何だ、つまらない」とか「おや、ばかばかしい」といった意味だという。
句意は、「河豚を食うからには、命に別状のあることも覚悟の上でなくてはならない。しかし、翌朝目覚めて昨日と同じ気分であれば、ほっとすると同時に、昨夜の多少の思いつめはばかばかしくもなるものである。」といったところ。
その中にはびくびくしながら死をかけて食べ、どうなることかと心配しながら寝たのに、翌日の目覚めは何事もなく、あんなに心配しなくてよかった・・・なんとばからしいことだといった気持が含まれている。
この笑いは謡曲の言葉を生かして、死の危険の覚悟を河豚汁と対比させているところに面白さがある。
芭蕉の句はこのように古典文学、謡曲を入れながら言葉の可笑しさを介在させ、河豚汁をすする人の心の機微をつくような詠み方をする。
貞門との違いは、連歌への向上を意識せず、しかも、生活感覚を生かしながら異なった次元ににある言葉を突き合わせて俳諧のもつ滑稽と通俗性をもとうとしたところにあるといわれている(※7参照)が、それだけに、短い語句で非常に深い意味を持っていて面白い。
関西でよく使われている「てっちり」(河豚ちり)「てっさ」(ふぐ刺し)は、この「鉄砲」から派生したものである。
私は神戸の生まれであり、昭和30年代初めに大阪の会社へ勤務するまでは、ふぐ鍋を食べたことがなかったが、当時は、まだ、河豚を食べるのは怖いものと思っている人が多く、河豚鍋がそんなにメジャーな食べ物とはなっていなかったように記憶をしている。
大阪へ勤務後、先輩に初めて安くておいしいと評判の店へ「てっぽう」を食べに連れて行ってもらい、ドキドキしながら食べたが、余りにも美味しかったので、追加して、ちりを2人前食べたら、その後しばらく舌が少ししびれて、もつれた状態になり、大丈夫だろうかと非常に心配をしていたことも覚えている。
安さで有名な店だったので、ひょっとしたら危険な状態であったのかもしれないが、それでも、おいしいので、何度かこわごわ食べていたが、その後、東京で仕事をするようになったのだが、東京では、そのような、舌がしびれるようなものはどこを探してもなかった。安全性を考えてのものだろうが、何か頼りなく感じた。
その後、東京から大阪へ帰ってきて仕事をするようになったときには、もう、大阪でも舌のしびれを感じるようなものは食べられなくなっていたが、あの時の舌のしびれた感覚は無性に懐かしい。私など、最初は、そんな河豚こそ本物だ・・なんて思っていたが、今思えばぞっとする。
江戸時代など、そんな少々危険な河豚汁を食べていたのではないだろうか・・・?ちょっと、横道が過ぎたので、本題の方へ戻ることにしよう。
色付くや豆腐に落ちて薄紅葉(真蹟短冊)
順序が逆になったが、この句も、先の「あら何ともなや・・・」で河豚汁を詠んだ1677(延宝5)年、芭蕉34歳の時の作であるが、「あら何ともなや・・・」の句が冬に詠まれたのに対し、紅葉だから秋の句であり、芭蕉東上後の経済的庇護者として知られる杉山杉風と両吟で百韻を興行した時の発句である。
この句意を、※5:「芭蕉db」(ここ)では「真っ白な豆腐に色付けのための葉が一枚添えられると、豆腐の白さでなお一層色付けられて薄紅葉になり、それが紅葉豆腐となる。」としている。
江戸時代、和泉国(大阪府)堺に「紅葉豆腐」と呼ばれる名物の豆腐があったようである(※9)。上にもみじの形を印したもので、のちに江戸でも売られたようだ。
江戸時代の風俗、事物を説明した一種の類書(百科事典)である『守貞漫稿』(喜田川守貞著。※8)の豆腐売には、「豆腐昔は豆腐に紅葉の形を印す今も江戸にては印レ之、京坂は菱形を印せり、是は豆腐製筥に其形を彫たる也。」とある(※10)。
紅葉豆腐がどんな豆腐であったかであるが、豆腐の中に蕃椒粉(とうがらし)を擂(す)りまぜて蒸して製したものだそうだ(※11参照)。
この句は、唐辛子を混ぜて紅葉豆腐を作るのを秋の紅葉に見立てたもので、あえて、句面から肝心の「唐辛子」を抜き、読者の機知でそれに気づかせる「抜け」の手法とかいうものがつかわれているのだそうだが、芭蕉の俳句を理解するのはなかなか大変だな〜。
豆腐は、大豆の搾り汁(豆乳)を凝固剤(にがり、その他)によって固めたものであるが、日本へは奈良時代に中国から伝えられ、日本に伝来した豆腐は白く柔らかい食感を持つ「日本独特の食品」として発達した。
鎌倉時代末期ごろには精進料理とともに民間へと伝わり、室町時代にはかなり普及していたが、江戸時代初期には、豆腐はまだまだぜいたく品であり、農民は特別な日にしか食べられることができず、製造も禁止されていたほどであったが、江戸時代の中ごろからは、落語の題材になったり、『豆腐百珍』(17828[天明2]年)のような料理本まで出るほど、広く庶民の食べ物となっていた。
上掲の画は、豆腐の料理 『地口絵手本』個人蔵。画像は、NHKデーター情報部編ヴィジュアル百科『江戸事情』第一巻産業編208pより。
豆腐は煮物、焼き物、揚げ物、和え物など様々に料理された。それらはおよそ100種の豆腐料理を集めた『豆腐百珍』のなかに見ることができる。
『豆腐百珍』に紹介されているさまざまな豆腐料理の中で、特に流行したのが、田楽であった。
江戸では先割れしていない串を1本使い赤味噌をつけ、上方では先割れの串2本に白味噌を使って焼いた。
上掲の画像は、田楽屋、『百人女郎品定』(※12参照)。画像は、NHKデーター情報部編ヴィジュアル百科『江戸事情』第一巻生活編244pより。
東海道筋目川村(滋賀県栗東町)の街道茶屋で、菜飯とともに出す田楽は名物であった。『東海道名所図会』(※13 )には、目川で菜飯と田楽豆腐が名物であった伊勢屋が紹介されており(※14参照)、広重はそれをそのまま描写し、その背景に山河を添えて書いている。
上掲の画像は広重画「東海道五拾三次之内 52 石部」《目川ノ里》である。この広重の絵と(※13:「東海道名所図会 絵引データベース」の目川の茶店とを比較されるとよくわかる。
名物の「豆腐田楽」は、硬めの豆腐を串にさして味噌をつけて焼いたもの。蕪や大根の葉を細かく刻んで薄い塩味で炊いたご飯に混ぜた菜飯(なめし)とともに、『目川田楽』の名でセット販売されていた。
江戸時代では食材の旬の期間しか食べられない物が多い中、豆腐と納豆は季節を問わないため人気があり、これらは、身分の上下に関わらず好まれた。
江戸時代も、明和年間(1764年から1761年)に入ると人々に経済的な余裕が生まれ、屋台や道端の店が増えた。
江戸時代にはその場で調理する屋台だけでなく、調理済みの物売りが売り歩いていた。ぼてふりまた、ふり売りと呼ばれてい商人であり、豆腐売りや納豆売りなどもそうである。
上掲の画像は、豆腐売りの様子である。『露休置土産(ろきゅうおきみやげ)』(初代露の五郎兵衛作の噺本)。東京大学文学部図書室蔵。NHKデーター情報部編ヴィジュアル百科『江戸事情』第二巻産業編178pより。
幕末の風俗史書守貞漫稿に、当時の状況が記述されているそうだ。
「納豆売り」は、納豆汁の食材を売り歩いた。
納豆汁とは、納豆を加えた味噌汁の一種であり、叩き潰した納豆に豆腐や「細かく切った葱また青菜をなどを添えて、すぐに味噌汁の具に使えるようにした「叩き納豆」がセットになったもので、今でいうインスタント味噌汁のようなものであったようだ。
なお、江戸で食事を売ることを専門とする固定の料理店の最初は、明暦の大火(1657年)以後に、江戸浅草金竜山(浅草寺)門前に出来た「奈良茶飯屋」とされる。ここの奈良茶飯は、茶飯に一汁二菜(豆腐汁に煮染・煮豆等)が付いていたらしい。
江戸前期に存在したのはこうした手軽な飲食店だけであり、本格的な料理茶店が出現するのは江戸後期の明和、安永期ごろになってからだという。
侘びて澄め月侘斎が奈良茶歌 芭蕉
(わびてすめ つきわびさいが ならちゃうた)
芭蕉が青雲の志を持って江戸に下り、ついに3年前、念願の俳諧師匠として立机したものの、その 文芸の世界も金と名誉欲の渦巻く俗世界そのもの。
絶望した芭蕉は、9年の江戸市中の生活を捨てて深川の草庵(後に芭蕉を植えて芭蕉庵となる)に隠棲してしまう。そしてそこに、暮らし始めてまだ1 年を経ない1680(延宝8)年芭蕉38 歳の秋の作.で、翌1681(天和2)年3月に刊行となる千春撰『武蔵曲』に収められている、はじめて芭蕉の号で詠んだ発句の一つである。
芭蕉の門人支考の『俳諧十論』によれば、芭蕉は、「奈良茶三石喰ふて後、はじめて俳諧の意味を知るべし」と弟子に語ったとある。
句意は、奈良茶とは、上記で述べた奈良の東大寺などで食する奈良茶飯のこと。
奈良茶歌とは、奈良茶飯を食いながらわび住まいの中で詠まれた歌という程度の意味で、月侘斎は侘び住まいの隠士で、芭蕉自らを指しているそうだ(※5:「芭蕉db」参照)。
月を見ながら奈良茶歌でも口ずさみ、わびしくも独りで住めよと、自身に問いつつ自覚を促しているのであろうか。枯淡(こたん)なわびの生活へ向おうとする芭蕉の心境がよく解る。
この時代は質素と淡白を尚ぶ(たっとぶ=重んじる)風が行われて、一串の豆腐田楽で花見をしたり、湯豆腐で雪のあしたを楽しむ風雅なところがあったが、この室町時代に出現したといわれる田楽、もともと、種を串刺しにして焼いた「焼き田楽」のほか、種を茹でた「煮込み田楽」があった。つまり、コンニャクなど串に刺さないで、ゆでて味噌をつけたものも「お田」であった。
この「煮込み田楽」が今の「おでん」のルーツである。
江戸の町で醤油が大量生産され始めたことに関係しているのだろう、江戸の末期のころには、鰹出汁(かつおだし)に醤油や砂糖、みりんを入れた甘辛く色の濃い汁で鳥・獣肉などと共に一つ鍋で煮込まれたおでんに、そのお株を奪われるようになった。
上方では種を昆布だしの中で温めて甘味噌をつけて食べる「焼かない田楽」しか存在しておらず、田楽が江戸で発達し汁で煮込むようになったおでん」(煮込み田楽)が上方にも伝わった際に、それと区別するために「関東だき煮屋」の名で商い繁盛したとか。その名残か、関西地方では今もおでんを「関東炊き」と呼んでいる。
あらかじめ煮込んでおけば提供できるおでんは、外食産業が盛んであった江戸では、「おでん かんざけ」と書いたのれんを掲げたおでんの振売が流行したようだが、今では全国各地の屋台や店で安上がりに飲んで楽しめる食材として人気である。
繰り返すが、江戸時代もっとも用いられた調理法は煮物で、魚介、鶏肉、野菜類などを材料に塩、味噌、醤油酒などを用いて味付けされた。
冬の俳句の季語にもなっているちり鍋は、新鮮な白身魚が決め手。新しい魚の切り身は煮るとちりちりと縮まることからこの名がついたといわれる。
「魚を豆腐や野菜と共に水煮する」料理は中心となる魚の種類によって様々なバリエーションがあり、魚種名を添えて「○○ちり」という名で呼ばれることが一般的である。また魚だけでなく、豚ちり(毎晩食べても飽きないことから"常夜鍋"とも呼ばれる)、鶏ちりなども広まっている。
砂糖・醤油などの甘味料の使用は江戸後期以降のことであり、それまでは味噌が主であり、また、それ以降でも味噌が多くの料理で使われている。
上掲は牛鍋。『安愚楽鍋』東京家政学院大学図書館蔵。NHKデーター情報部編ヴィジュアル百科『江戸事情』第一巻生活編209p。
江戸時代日常の食事から除外されていた獣肉は「ももんじ屋」(いのしし料理店)と名を変えた料理屋で食べられていたが、江戸末期になると、横浜、京都などで牛鍋屋が開業した。牛肉にはネギを入れ、味噌で調理した牛鍋は、明治期に爆発的に流行した。
日本では幕末になるまで、牛肉を食べることは一般には行われていなかったが、別に「すきやき」と称された料理は存在していたそうだ。
古くは1643(寛永20)年刊行の料理書『料理物語』に「杉やき」が登場しており、これは鯛などの魚介類と野菜を杉材の箱に入れて味噌煮にする料理であったそうだ。
また、使い古した鋤を火にかざして鴨などの鶏肉や鯨肉、魚類などを加熱する一種の焼き料理「鋤やき」の名が享和・文化・文政の書物に見られるらしく、この二種類の料理が、「すき焼き」のルーツとして挙げられているという。
味噌汁を考えてみればよくわかるが、魚、肉、野菜、世の中のほとんどの食品は、味噌汁の具になり得る。そして、味噌は魚・肉の臭いを消してくれる。これを発展させて、鍋で煮て、その鍋を囲んで皆で食べられれば、現代の鍋物になるだろう。
味噌汁も鍋物も、その土地、土地、また、家庭でのアイデア次第で、お好みのものを創造してゆくことができる。それに、この「ちり」タイプの鍋物は、何と言っても各人がお皿の上で、自由に味付けを加減して食べることのできるのが魅力でもある。
そして、酒を酌み交わしながら食べた後の鍋に、麺類を入れて食べたり、残り物のご飯を入れて雑炊にして食べると、これが、また、格別に美味しいだけでなく、具から染み出た汁から栄養を十分に摂ることもできる。
日本が今のように豊かではなく、まだ貧しかった頃、質素な食事でありながらも、人々が健康でいられたのは、ご飯とみそ汁のおかげだともいわれている。
それは、ただ美味しいだけでなく、味噌そのものに栄養があり、具を煮た煮汁ごと食べるため、その具の栄養も一緒に摂れるすぐれた健康食品だからである。鍋物は具沢山のため、尚、一層の栄養を摂ることができる。
食品には、大きく分けて3つの機能があり, 1次機能とは栄養、2次機能とは味、3次機能とは体調を整えたり病気を予防する働きのことだそうだ。3次機能をもつ食品を、とくに「機能性食品」と呼ぶそうだ。
みその機能性については、科学的に究明され、多くの効用が解明されつつあるようだが、このような機能性は、継続的に食べることによって威力を発揮するものだという(※15、※16参照)。
そして、このみそ汁のうま味は、味噌、だし、具のそれぞれが持つうま味が一体となって生まれるものであり、したがって、美味しいみそ汁を作るには 出汁(だし)をしっかりとる事、味噌の種類、具の組み合わせ方が決め手となるようだ。
今年のような寒い冬などには、味噌汁は体も温まるし、是非、食べたい食べ物ではある。
(冒頭の画像は、豆腐の田楽を長方形の焼き火鉢で一人で焼きながら食べている。『地口絵手本』個人蔵。NHKデーター情報部編ヴィジュアル百科『江戸事情』第一巻生活編209pより。木の芽味噌、辛子味噌などいろいろな味噌をつけた。・・とある。)
参考:
※1:全国味噌工業協同組合連合会
http://zenmi.jp/
※2:みそ健康づくり委員会
http://miso.or.jp/
※3:食育・食生活の指針の情報センター
http://www.e-shokuiku.com/outline/
※4:メチャ買いたい.com:おかずみそ |
http://food.mechakaitai.com/seasoning-miso/%E3%81%8A%E3%81%8B%E3%81%9A%E5%91%B3%E5%99%8C.html
※5:芭蕉DB
http://www2.yamanashi-ken.ac.jp/~itoyo/basho/basho.htm
※6:絵本詞の花(えほんことばのはな) 二巻 一冊
このサイトはリンクできないので、上記で検索してください。
※7:芭蕉、蕪村、子規の俳句と能Adobe PDF)
http://atlantic.gssc.nihon-u.ac.jp/~ISHCC/bulletin/01/104.pdf#search='%E3%81%82%E3%82%89%E4%BD%95%E3%81%A8%E3%82%82%E3%81%AA%E3%82%84+%E8%AC%A1%E6%9B%B2'
※8:国立国会図書館デジタル化資料 - 守貞謾稿. 巻1,3-16,18-30,後集巻1-4
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2610250
※9:紅葉豆腐の謎 | お豆腐ランド
http://www.toyoshinpo.jp/tofu/3298
※10:林春隆『新撰豆腐百珍』「豆腐の今昔」
http://plaza.rakuten.co.jp/amizako/diary/200510060002/
※11:林春隆『新撰豆腐百珍』「ひ之部」「も之部」「せ之部」「す之部」
http://plaza.rakuten.co.jp/amizako/diary/200509300002/
※12:百人女郎品定 - 古典籍総合データベース
http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/search.php?cndbn=%95S%90l%8F%97%98Y%95i%92%E8
※13:東海道名所図会 絵引データベース
http://www.himoji.jp/database/db07/tokaido/
※14:栗東の名物−目川田楽と菜飯 - 広報りっとう
http://www.city.ritto.shiga.jp/koho/1107/071_4.html
※15:みそは医者要らず!
http://www.koujiya.com/site/shinobu/study/function.html
※16:宮城県味噌醤油工業協同組合 - みその機能性
http://www.omiso.or.jp/modules/tinyd3/index.php?id=6
日本鍋物研究会
http://www.nabe-ken.com/index.html
古典籍総合データベース:地口絵手本 / 梅亭樵父 筆
http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/he09/he09_03605/index.html
浮世絵事典・ふ☆ ふく 河豚
http://www.ne.jp/asahi/kato/yoshio/ukiyoeyougo/hu-yougo/yougo-hugu.html
堺と醤油 堺市立図書館
http://www.lib-sakai.jp/kyoudo/kyo_digi/monodukurisakai/monodukuri_syoyu.htm
鍋物大学
http://www.nabe-ken.com/column/gallery.cgi?mode=view&id=1202232048
味噌- Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%B3%E5%99%8C
味噌(みそ)は、穀物を発酵させて作られた発酵食品であり、古くから使用されてきた日本の基本的な調味料の一つでもあり、今では、日本の味(MISO)として日本国外にも広く知られている。
副食素材が豊富になった今日では、味噌は、単に調味料とみなされる事もあるが、古くから日本の食生活(※3の日本型食生活参照)における主要な蛋白源であり、特に江戸時代中盤以前は「おかず」的な扱いをされていた。もっとも、現在でも「おかず」としての「おかずみそ」は多数は存在しているが(※4参照)・・・。
しかし、日本の食生活の洋風化と外食による味噌(みそ)の消費減少のなか、”すぐれた健康食品でもある味噌を健康増進に役立ててもらおう”と設立された組織が、みそ健康づくり委員会のようである。
この「みその日」については、以前に、このブログでも書いた(ここ参照)のだが、先日(1月23日)も「アーモンドの日」で食べ物と健康に関することなど書いて以来、ここのところ、このような食べ物のことに興味を持つようになり、今回も、「みその日Part2」として、 前回触れていないことなどを中心に、もう少し「みそ」のことについて書いてみようと思った。
江戸時代前期の俳諧師で、後世俳聖とも称されるに至った松尾芭蕉は、伊賀国(現在の三重県伊賀市)で生まれ、若いころ藤堂藩伊賀付侍大将家の嫡子藤堂良忠(俳号は蝉吟)の近習として仕え、その感化で俳諧を学ぶが、良忠に仕えた時の仕事は陪膳役か厨房役また料理人のようなものだったのではないかといわれているが、芭蕉は料理には関心があったようで、食べ物の句を多く詠んでいるし、また、酒も好きであったらしく、酒の句もたくさんある(※5:「芭蕉db」の芭蕉補遺>芭蕉の嗜好参照)。
「あら何ともなや昨日は過ぎて河豚汁」(桃青)・・・という句がある(※5の芭蕉句集参照)。
芭蕉は、伊賀で良忠の病没後、京都で北村季吟に師事。のち、1672 (寛文12)年29歳の時に江戸に下り、1677(延宝5)年からから1680(延宝8)年までの4年間、神田上水(小石川上水)の修理工事に携わった。
このころ、俳壇内に地盤を形成。上掲の句は『江戸三吟』の巻頭句。1677(延宝5)年、芭蕉34歳の時の作(このときの号は桃青)。この年に俳諧宗匠として立机(プロの俳諧師になること)したらしい。
その後、隅田川のほとりの深川の草庵、いわゆる今日の深川芭蕉庵に移った頃(1680[延宝8]芭蕉37歳頃)から独自の蕉風を開拓したといわれる。
『ここに出てくる河豚汁は、今の人ならふぐ鍋を思い出すかもしれないがこれは文字通り河豚(ふぐ)の汁、つまり、河豚の味噌汁のことである。
日本で、現在の穀物を発酵させて造られた液体調味料としての醤油に近いものが生産されるようになったのは、室町時代末期頃だといわれる.。その製法は秘伝口承であり、関西方面(湯浅、龍野、境)で生まれた醤油は、やがて関東(銚子、野田)へ、そして全国に広まっていった。
江戸時代、醤油が普及するまでは膾(なます)や、刺身(さしみ)に欠かせない調味料としては「煎り酒」が使用されていた。この醤油が広く庶民に普及したのは、関西では江戸時代初期、関東では江戸時代中期以降からだといわれている。
室町時代に日本料理の正式な膳立てといわれる「本膳料理」が出来、一の膳(本膳)、二の膳、三の膳から成り、それぞれの膳に「一の汁」(味噌汁)、「二の汁」(すまし汁)、「三の汁」(潮汁)がつけられていた。
江戸時代になると醤油が味噌と並んで重要な調味料となるが、芭蕉が江戸で活躍した時代には、まだまだ関東での醤油醸造は盛況ではなく、醤油自体が高価であったと推定されることから、庶民生活の中の汁物には依然として味噌仕立て(味噌汁など)のものが主流であった。
汁物の具には野菜のほか魚、鶏肉なども含まれており、鍋物らしい様相を備えていく。しかし現代の味噌汁と同様、主食の飯に添えられたもので、人々はこれを独立した料理とはみなしていなかった。
味噌汁の上澄みを用いた「おすまし(すまし汁)」 は、当時、今とは違って、食事をした後の酒の肴として添えられるものであった。
当時は、現在とは違って「汁」とともに飯を食べてから、あらためて酒の宴を張るというのが当時の食事の作法であった。このため「汁」と「吸い物」に区別を付けるのもそれなりの合理性があった。すなわち「汁」は飯に添える物であるため、飯の味が引き立つように濃いめに、「吸い物」は酒が進むように淡白にというのが約束事だった。
しかし、汁物ほど多種多様なものはない。魚、肉、野菜だけではなく世の中のほとんどの食品は、味噌汁の具になり得る。そのため、地域によって家庭によって、独自の具沢山な汁物が作られたのだろう。この汁物を入れた鍋を卓上に置き、各人が自分勝手に好きなように食べれば、現代の鍋物となるではないか。
江戸時代にどんな汁物が食されていたかその実態はよくわからないが、その汁は今の味噌汁と同じようなものだから、あまりにも普通過ぎて、記録したりするに値しなかったのだろうが、その例外的なものの第一が、先にも挙げた芭蕉の句にもある河豚(ふぐ)汁であろう。
なにしろ食べ方を一つ間違えると死んでしまう。しかも特別に美味しいし、冬に獲れる魚だから、鍋物に最適である。しかも、食べれるチャンスは1年にさほど多くない。
それに、豊臣秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)の際に「ふく」を食べて多くの兵士が亡くなったことから禁止令が出され、江戸時代には多くの藩でも禁止令が出されたそうだ。だから、大げさに言えば、死を覚悟して口にしなければならないし、本当に死んでしまうこともある。
江戸後期の浮世絵師、喜多川歌麿が絵を描き、それに宿屋飯盛(石川 雅望)撰で二十五首の狂歌を添えた絵双紙『絵本詞の花』(以下参考の※6)には以下の二人の狂歌が絵と共に掲載されている。
「きこしめせ あたる ふしき あたらぬも ふしぎなりけり 易と 河豚汁 」(紀定丸。きのさだまる)
「鉄砲の こんや あたりの やくそくを はづすハ 君が 玉に きずあり」(千枝鼻元。ちえのはなもと)
前者は、あたる、と、易・ふぐを、後者は鉄砲と当たる・玉をひっかけたものである。
後者の、豚汁は鉄砲、あるいは鉄砲女郎のことらしい。「鉄砲見世」は最下級の遊女を置く店。 鉄砲店の玉という意味で、鉄砲店の遊女。玉に瑕(きず)の玉女・芸娼妓・陰間・道具の意味でもあるらしい。鉄砲店の遊女。鉄砲女郎 は梅毒感染の危険性が高く、「毒にあたる」ことからだという。
○河豚食う無分別、河豚食わぬ無分別 ○河豚は食いたし命は惜しし・・・などの諺もある。
上掲の芭蕉の「あら何ともなや昨日は過ぎて河豚汁」の句の「あら何ともなや・・・」は、謡曲の言葉「あらなんともなや候」の文句どりもじり(捩り)を用いたもの。謡曲では「何だ、つまらない」とか「おや、ばかばかしい」といった意味だという。
句意は、「河豚を食うからには、命に別状のあることも覚悟の上でなくてはならない。しかし、翌朝目覚めて昨日と同じ気分であれば、ほっとすると同時に、昨夜の多少の思いつめはばかばかしくもなるものである。」といったところ。
その中にはびくびくしながら死をかけて食べ、どうなることかと心配しながら寝たのに、翌日の目覚めは何事もなく、あんなに心配しなくてよかった・・・なんとばからしいことだといった気持が含まれている。
この笑いは謡曲の言葉を生かして、死の危険の覚悟を河豚汁と対比させているところに面白さがある。
芭蕉の句はこのように古典文学、謡曲を入れながら言葉の可笑しさを介在させ、河豚汁をすする人の心の機微をつくような詠み方をする。
貞門との違いは、連歌への向上を意識せず、しかも、生活感覚を生かしながら異なった次元ににある言葉を突き合わせて俳諧のもつ滑稽と通俗性をもとうとしたところにあるといわれている(※7参照)が、それだけに、短い語句で非常に深い意味を持っていて面白い。
関西でよく使われている「てっちり」(河豚ちり)「てっさ」(ふぐ刺し)は、この「鉄砲」から派生したものである。
私は神戸の生まれであり、昭和30年代初めに大阪の会社へ勤務するまでは、ふぐ鍋を食べたことがなかったが、当時は、まだ、河豚を食べるのは怖いものと思っている人が多く、河豚鍋がそんなにメジャーな食べ物とはなっていなかったように記憶をしている。
大阪へ勤務後、先輩に初めて安くておいしいと評判の店へ「てっぽう」を食べに連れて行ってもらい、ドキドキしながら食べたが、余りにも美味しかったので、追加して、ちりを2人前食べたら、その後しばらく舌が少ししびれて、もつれた状態になり、大丈夫だろうかと非常に心配をしていたことも覚えている。
安さで有名な店だったので、ひょっとしたら危険な状態であったのかもしれないが、それでも、おいしいので、何度かこわごわ食べていたが、その後、東京で仕事をするようになったのだが、東京では、そのような、舌がしびれるようなものはどこを探してもなかった。安全性を考えてのものだろうが、何か頼りなく感じた。
その後、東京から大阪へ帰ってきて仕事をするようになったときには、もう、大阪でも舌のしびれを感じるようなものは食べられなくなっていたが、あの時の舌のしびれた感覚は無性に懐かしい。私など、最初は、そんな河豚こそ本物だ・・なんて思っていたが、今思えばぞっとする。
江戸時代など、そんな少々危険な河豚汁を食べていたのではないだろうか・・・?ちょっと、横道が過ぎたので、本題の方へ戻ることにしよう。
色付くや豆腐に落ちて薄紅葉(真蹟短冊)
順序が逆になったが、この句も、先の「あら何ともなや・・・」で河豚汁を詠んだ1677(延宝5)年、芭蕉34歳の時の作であるが、「あら何ともなや・・・」の句が冬に詠まれたのに対し、紅葉だから秋の句であり、芭蕉東上後の経済的庇護者として知られる杉山杉風と両吟で百韻を興行した時の発句である。
この句意を、※5:「芭蕉db」(ここ)では「真っ白な豆腐に色付けのための葉が一枚添えられると、豆腐の白さでなお一層色付けられて薄紅葉になり、それが紅葉豆腐となる。」としている。
江戸時代、和泉国(大阪府)堺に「紅葉豆腐」と呼ばれる名物の豆腐があったようである(※9)。上にもみじの形を印したもので、のちに江戸でも売られたようだ。
江戸時代の風俗、事物を説明した一種の類書(百科事典)である『守貞漫稿』(喜田川守貞著。※8)の豆腐売には、「豆腐昔は豆腐に紅葉の形を印す今も江戸にては印レ之、京坂は菱形を印せり、是は豆腐製筥に其形を彫たる也。」とある(※10)。
紅葉豆腐がどんな豆腐であったかであるが、豆腐の中に蕃椒粉(とうがらし)を擂(す)りまぜて蒸して製したものだそうだ(※11参照)。
この句は、唐辛子を混ぜて紅葉豆腐を作るのを秋の紅葉に見立てたもので、あえて、句面から肝心の「唐辛子」を抜き、読者の機知でそれに気づかせる「抜け」の手法とかいうものがつかわれているのだそうだが、芭蕉の俳句を理解するのはなかなか大変だな〜。
豆腐は、大豆の搾り汁(豆乳)を凝固剤(にがり、その他)によって固めたものであるが、日本へは奈良時代に中国から伝えられ、日本に伝来した豆腐は白く柔らかい食感を持つ「日本独特の食品」として発達した。
鎌倉時代末期ごろには精進料理とともに民間へと伝わり、室町時代にはかなり普及していたが、江戸時代初期には、豆腐はまだまだぜいたく品であり、農民は特別な日にしか食べられることができず、製造も禁止されていたほどであったが、江戸時代の中ごろからは、落語の題材になったり、『豆腐百珍』(17828[天明2]年)のような料理本まで出るほど、広く庶民の食べ物となっていた。
上掲の画は、豆腐の料理 『地口絵手本』個人蔵。画像は、NHKデーター情報部編ヴィジュアル百科『江戸事情』第一巻産業編208pより。
豆腐は煮物、焼き物、揚げ物、和え物など様々に料理された。それらはおよそ100種の豆腐料理を集めた『豆腐百珍』のなかに見ることができる。
『豆腐百珍』に紹介されているさまざまな豆腐料理の中で、特に流行したのが、田楽であった。
江戸では先割れしていない串を1本使い赤味噌をつけ、上方では先割れの串2本に白味噌を使って焼いた。
上掲の画像は、田楽屋、『百人女郎品定』(※12参照)。画像は、NHKデーター情報部編ヴィジュアル百科『江戸事情』第一巻生活編244pより。
東海道筋目川村(滋賀県栗東町)の街道茶屋で、菜飯とともに出す田楽は名物であった。『東海道名所図会』(※13 )には、目川で菜飯と田楽豆腐が名物であった伊勢屋が紹介されており(※14参照)、広重はそれをそのまま描写し、その背景に山河を添えて書いている。
上掲の画像は広重画「東海道五拾三次之内 52 石部」《目川ノ里》である。この広重の絵と(※13:「東海道名所図会 絵引データベース」の目川の茶店とを比較されるとよくわかる。
名物の「豆腐田楽」は、硬めの豆腐を串にさして味噌をつけて焼いたもの。蕪や大根の葉を細かく刻んで薄い塩味で炊いたご飯に混ぜた菜飯(なめし)とともに、『目川田楽』の名でセット販売されていた。
江戸時代では食材の旬の期間しか食べられない物が多い中、豆腐と納豆は季節を問わないため人気があり、これらは、身分の上下に関わらず好まれた。
江戸時代も、明和年間(1764年から1761年)に入ると人々に経済的な余裕が生まれ、屋台や道端の店が増えた。
江戸時代にはその場で調理する屋台だけでなく、調理済みの物売りが売り歩いていた。ぼてふりまた、ふり売りと呼ばれてい商人であり、豆腐売りや納豆売りなどもそうである。
上掲の画像は、豆腐売りの様子である。『露休置土産(ろきゅうおきみやげ)』(初代露の五郎兵衛作の噺本)。東京大学文学部図書室蔵。NHKデーター情報部編ヴィジュアル百科『江戸事情』第二巻産業編178pより。
幕末の風俗史書守貞漫稿に、当時の状況が記述されているそうだ。
「納豆売り」は、納豆汁の食材を売り歩いた。
納豆汁とは、納豆を加えた味噌汁の一種であり、叩き潰した納豆に豆腐や「細かく切った葱また青菜をなどを添えて、すぐに味噌汁の具に使えるようにした「叩き納豆」がセットになったもので、今でいうインスタント味噌汁のようなものであったようだ。
なお、江戸で食事を売ることを専門とする固定の料理店の最初は、明暦の大火(1657年)以後に、江戸浅草金竜山(浅草寺)門前に出来た「奈良茶飯屋」とされる。ここの奈良茶飯は、茶飯に一汁二菜(豆腐汁に煮染・煮豆等)が付いていたらしい。
江戸前期に存在したのはこうした手軽な飲食店だけであり、本格的な料理茶店が出現するのは江戸後期の明和、安永期ごろになってからだという。
侘びて澄め月侘斎が奈良茶歌 芭蕉
(わびてすめ つきわびさいが ならちゃうた)
芭蕉が青雲の志を持って江戸に下り、ついに3年前、念願の俳諧師匠として立机したものの、その 文芸の世界も金と名誉欲の渦巻く俗世界そのもの。
絶望した芭蕉は、9年の江戸市中の生活を捨てて深川の草庵(後に芭蕉を植えて芭蕉庵となる)に隠棲してしまう。そしてそこに、暮らし始めてまだ1 年を経ない1680(延宝8)年芭蕉38 歳の秋の作.で、翌1681(天和2)年3月に刊行となる千春撰『武蔵曲』に収められている、はじめて芭蕉の号で詠んだ発句の一つである。
芭蕉の門人支考の『俳諧十論』によれば、芭蕉は、「奈良茶三石喰ふて後、はじめて俳諧の意味を知るべし」と弟子に語ったとある。
句意は、奈良茶とは、上記で述べた奈良の東大寺などで食する奈良茶飯のこと。
奈良茶歌とは、奈良茶飯を食いながらわび住まいの中で詠まれた歌という程度の意味で、月侘斎は侘び住まいの隠士で、芭蕉自らを指しているそうだ(※5:「芭蕉db」参照)。
月を見ながら奈良茶歌でも口ずさみ、わびしくも独りで住めよと、自身に問いつつ自覚を促しているのであろうか。枯淡(こたん)なわびの生活へ向おうとする芭蕉の心境がよく解る。
この時代は質素と淡白を尚ぶ(たっとぶ=重んじる)風が行われて、一串の豆腐田楽で花見をしたり、湯豆腐で雪のあしたを楽しむ風雅なところがあったが、この室町時代に出現したといわれる田楽、もともと、種を串刺しにして焼いた「焼き田楽」のほか、種を茹でた「煮込み田楽」があった。つまり、コンニャクなど串に刺さないで、ゆでて味噌をつけたものも「お田」であった。
この「煮込み田楽」が今の「おでん」のルーツである。
江戸の町で醤油が大量生産され始めたことに関係しているのだろう、江戸の末期のころには、鰹出汁(かつおだし)に醤油や砂糖、みりんを入れた甘辛く色の濃い汁で鳥・獣肉などと共に一つ鍋で煮込まれたおでんに、そのお株を奪われるようになった。
上方では種を昆布だしの中で温めて甘味噌をつけて食べる「焼かない田楽」しか存在しておらず、田楽が江戸で発達し汁で煮込むようになったおでん」(煮込み田楽)が上方にも伝わった際に、それと区別するために「関東だき煮屋」の名で商い繁盛したとか。その名残か、関西地方では今もおでんを「関東炊き」と呼んでいる。
あらかじめ煮込んでおけば提供できるおでんは、外食産業が盛んであった江戸では、「おでん かんざけ」と書いたのれんを掲げたおでんの振売が流行したようだが、今では全国各地の屋台や店で安上がりに飲んで楽しめる食材として人気である。
繰り返すが、江戸時代もっとも用いられた調理法は煮物で、魚介、鶏肉、野菜類などを材料に塩、味噌、醤油酒などを用いて味付けされた。
冬の俳句の季語にもなっているちり鍋は、新鮮な白身魚が決め手。新しい魚の切り身は煮るとちりちりと縮まることからこの名がついたといわれる。
「魚を豆腐や野菜と共に水煮する」料理は中心となる魚の種類によって様々なバリエーションがあり、魚種名を添えて「○○ちり」という名で呼ばれることが一般的である。また魚だけでなく、豚ちり(毎晩食べても飽きないことから"常夜鍋"とも呼ばれる)、鶏ちりなども広まっている。
砂糖・醤油などの甘味料の使用は江戸後期以降のことであり、それまでは味噌が主であり、また、それ以降でも味噌が多くの料理で使われている。
上掲は牛鍋。『安愚楽鍋』東京家政学院大学図書館蔵。NHKデーター情報部編ヴィジュアル百科『江戸事情』第一巻生活編209p。
江戸時代日常の食事から除外されていた獣肉は「ももんじ屋」(いのしし料理店)と名を変えた料理屋で食べられていたが、江戸末期になると、横浜、京都などで牛鍋屋が開業した。牛肉にはネギを入れ、味噌で調理した牛鍋は、明治期に爆発的に流行した。
日本では幕末になるまで、牛肉を食べることは一般には行われていなかったが、別に「すきやき」と称された料理は存在していたそうだ。
古くは1643(寛永20)年刊行の料理書『料理物語』に「杉やき」が登場しており、これは鯛などの魚介類と野菜を杉材の箱に入れて味噌煮にする料理であったそうだ。
また、使い古した鋤を火にかざして鴨などの鶏肉や鯨肉、魚類などを加熱する一種の焼き料理「鋤やき」の名が享和・文化・文政の書物に見られるらしく、この二種類の料理が、「すき焼き」のルーツとして挙げられているという。
味噌汁を考えてみればよくわかるが、魚、肉、野菜、世の中のほとんどの食品は、味噌汁の具になり得る。そして、味噌は魚・肉の臭いを消してくれる。これを発展させて、鍋で煮て、その鍋を囲んで皆で食べられれば、現代の鍋物になるだろう。
味噌汁も鍋物も、その土地、土地、また、家庭でのアイデア次第で、お好みのものを創造してゆくことができる。それに、この「ちり」タイプの鍋物は、何と言っても各人がお皿の上で、自由に味付けを加減して食べることのできるのが魅力でもある。
そして、酒を酌み交わしながら食べた後の鍋に、麺類を入れて食べたり、残り物のご飯を入れて雑炊にして食べると、これが、また、格別に美味しいだけでなく、具から染み出た汁から栄養を十分に摂ることもできる。
日本が今のように豊かではなく、まだ貧しかった頃、質素な食事でありながらも、人々が健康でいられたのは、ご飯とみそ汁のおかげだともいわれている。
それは、ただ美味しいだけでなく、味噌そのものに栄養があり、具を煮た煮汁ごと食べるため、その具の栄養も一緒に摂れるすぐれた健康食品だからである。鍋物は具沢山のため、尚、一層の栄養を摂ることができる。
食品には、大きく分けて3つの機能があり, 1次機能とは栄養、2次機能とは味、3次機能とは体調を整えたり病気を予防する働きのことだそうだ。3次機能をもつ食品を、とくに「機能性食品」と呼ぶそうだ。
みその機能性については、科学的に究明され、多くの効用が解明されつつあるようだが、このような機能性は、継続的に食べることによって威力を発揮するものだという(※15、※16参照)。
そして、このみそ汁のうま味は、味噌、だし、具のそれぞれが持つうま味が一体となって生まれるものであり、したがって、美味しいみそ汁を作るには 出汁(だし)をしっかりとる事、味噌の種類、具の組み合わせ方が決め手となるようだ。
今年のような寒い冬などには、味噌汁は体も温まるし、是非、食べたい食べ物ではある。
(冒頭の画像は、豆腐の田楽を長方形の焼き火鉢で一人で焼きながら食べている。『地口絵手本』個人蔵。NHKデーター情報部編ヴィジュアル百科『江戸事情』第一巻生活編209pより。木の芽味噌、辛子味噌などいろいろな味噌をつけた。・・とある。)
参考:
※1:全国味噌工業協同組合連合会
http://zenmi.jp/
※2:みそ健康づくり委員会
http://miso.or.jp/
※3:食育・食生活の指針の情報センター
http://www.e-shokuiku.com/outline/
※4:メチャ買いたい.com:おかずみそ |
http://food.mechakaitai.com/seasoning-miso/%E3%81%8A%E3%81%8B%E3%81%9A%E5%91%B3%E5%99%8C.html
※5:芭蕉DB
http://www2.yamanashi-ken.ac.jp/~itoyo/basho/basho.htm
※6:絵本詞の花(えほんことばのはな) 二巻 一冊
このサイトはリンクできないので、上記で検索してください。
※7:芭蕉、蕪村、子規の俳句と能Adobe PDF)
http://atlantic.gssc.nihon-u.ac.jp/~ISHCC/bulletin/01/104.pdf#search='%E3%81%82%E3%82%89%E4%BD%95%E3%81%A8%E3%82%82%E3%81%AA%E3%82%84+%E8%AC%A1%E6%9B%B2'
※8:国立国会図書館デジタル化資料 - 守貞謾稿. 巻1,3-16,18-30,後集巻1-4
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2610250
※9:紅葉豆腐の謎 | お豆腐ランド
http://www.toyoshinpo.jp/tofu/3298
※10:林春隆『新撰豆腐百珍』「豆腐の今昔」
http://plaza.rakuten.co.jp/amizako/diary/200510060002/
※11:林春隆『新撰豆腐百珍』「ひ之部」「も之部」「せ之部」「す之部」
http://plaza.rakuten.co.jp/amizako/diary/200509300002/
※12:百人女郎品定 - 古典籍総合データベース
http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/search.php?cndbn=%95S%90l%8F%97%98Y%95i%92%E8
※13:東海道名所図会 絵引データベース
http://www.himoji.jp/database/db07/tokaido/
※14:栗東の名物−目川田楽と菜飯 - 広報りっとう
http://www.city.ritto.shiga.jp/koho/1107/071_4.html
※15:みそは医者要らず!
http://www.koujiya.com/site/shinobu/study/function.html
※16:宮城県味噌醤油工業協同組合 - みその機能性
http://www.omiso.or.jp/modules/tinyd3/index.php?id=6
日本鍋物研究会
http://www.nabe-ken.com/index.html
古典籍総合データベース:地口絵手本 / 梅亭樵父 筆
http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/he09/he09_03605/index.html
浮世絵事典・ふ☆ ふく 河豚
http://www.ne.jp/asahi/kato/yoshio/ukiyoeyougo/hu-yougo/yougo-hugu.html
堺と醤油 堺市立図書館
http://www.lib-sakai.jp/kyoudo/kyo_digi/monodukurisakai/monodukuri_syoyu.htm
鍋物大学
http://www.nabe-ken.com/column/gallery.cgi?mode=view&id=1202232048
味噌- Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%B3%E5%99%8C