今日・5月17日は「お茶漬けの日」だそうである。
お茶の製法を発明し、煎茶の普及に貢献した永谷宗七郎の子孫にあたる永谷嘉男が創業した株式会社永谷園が制定。永谷園は1952(昭和27)年に画期的なインスタントのお茶漬け商品「お茶づけ海苔」を発売し、お茶漬けをさらに身近な食べ物とした「味ひとすじ」の理念を持つ食品メーカー。「お茶づけ海苔」は2012(平成24)年に発売60周年を迎えた。日付は永谷宗七郎の偉業をたたえ、その命日(1778年5月17日)に由来する。
若いころ相当な呑兵衛であった私など、夜の食事にご飯を食べることはなかった。この習慣は飲み過ぎ肝臓を悪くしてしまった今でも変わらず、胃の休養のため週一の「飲マンデー」以外は、ご飯は食べず、晩酌のみである。ただし、酒が飲めなくなると困るので、今はお酒は最低限に控えている。
そんな私は、若いころは、しょっちゅう、大坂の会社の呑兵衛仲間とキタやミナミで、また、時には、深夜に、大坂から地元神戸・三宮の飲み屋街にまでタクシーを飛ばして行きつけの店を梯子していたが、さすが、深夜を過ぎて、おなかが減った時などには、よく「お茶漬け屋」に寄ったものだ。
夜食として食べるには、温かくて手軽に食べられ、消化もよさそうな物として、真っ先に思い付く食べ物の一つが「お茶漬け」ではないか。お茶漬けというと、その名の通り、ご飯に熱いお茶や白湯をかけた物や、また、冷めて固くなったご飯を食べやすくし、手早く食事を終える工夫と言った感じのものであるが、世代によってはお茶漬けに対するイメージも異なるだろう。
お茶漬けと言うと私など、すぐに思い出すのが小津安二郎監督映画の「お茶漬の味」(1952年松竹製作、白黒映画)である。同年の毎日映画コンクールで佐分利信が男優主演賞を受賞している。
●上掲の画像は映画「お茶漬の味」のポスターである。
映画は、地方出身の素朴な夫(佐分利)と夫にうんざりする上流階級出身の妻妙子(木暮実千代)。この生まれも育ちも価値観も異なる夫婦が、そのギャップに悩みつつ、和解するまでを描いたものである。ちょっとあらすじを書くと以下のようなものである。
妻の妙子が夫佐竹茂吉と結婚してからはもう7・8年になる。信州(長野県)の田舎出身の茂吉と上流階級の洗練された雰囲気で育った妙子は、初めから生活態度や趣味の点でぴったりしないまま今日に至り、そうした生活の所在なさがそろそろ耐えられなくなっていた。
妙子は、学校時代の友達や、長兄の娘節子などと、茂吉に内緒で修善寺などへ出かけて遊ぶことで、何となく鬱憤を晴らしていた。一方の茂吉はそんな妻の遊びにも一向に無関心な顔をして、相変わらず妙子の嫌いな「朝日」(タバコ)を吸い、三等車に乗り、ご飯にお汁をかけて食べるような習慣を改めようとはしなかった。
茂吉と妙子の溝は深まるばかり。妙子が同級生の住む神戸へ旅行している間に、茂吉の海外出張が決まり、妙子に連絡がつかないまま茂吉は日本を発ってしまう。その後、妙子は家に帰ってきたが、茂吉のいない家が彼女には初めて虚しく思われた。しかし,その夜更け、思いがけなく茂吉が帰ってきた。飛行機が故障で途中から引き返し、出発が翌朝に延びたのだとという。
腹が減ったから何か食べようと普段はお手伝いに任せている台所に行き、「お茶漬け」の用意をする二人。食事の準備などほとんどしたことのない妻が糠(ぬか)味噌に手をいれ香の物を取り出す。そして夜更けた台所でひっそりと食事をする二人。手にまだ残る糠の匂いが気になる妻、それを嗅いでみる夫、二人のささやかな会話。
最後に「夫婦とはお茶漬の味なのさ」・・・と、妙子を諭す茂吉。この気安い、体裁のない感じに、妙子は初めて夫婦というものの味をかみしめるのだった。その翌朝妙子一人が茂吉の出発を見送った。茂吉の顔も妙子の顔も、別れの淋しさよりも何かほのぼのとした明るさに輝いているようだった。
この映画、昭和20年代当時の風俗をふんだんに盛り込んでいるのも特徴。「お茶漬けの味」は現在の社会が忘れそうになっている大事な何か・・そう、「夫婦の絆.」について・・教えてくれているように思われるのだが・・・。ラストの「お茶漬」のシーンが、如何にも小津作品らしい。この前に、ご飯にみそ汁をかけて食べる茂吉に、妙子が腹を立てるシーンがある。「汁かけ飯」とでも言おうか、これは、私の祖父もよくしていた。祖父は徳島の出だが、よくご飯の上に味噌汁などをかけて食べていた。このような汁をかけた飯は、まるで猫の餌のようなので、それを蔑して「ねこまんまと」などと呼ぶ地方は、西日本には多くみられるようだ。爺さん子の私などがそれをしようものなら、躾に厳しい父親から「品がない」と怒られたものだ。かける汁は味噌汁が 多いが、すまし汁や豚汁など、味噌汁でない汁をかけてもねこまんまと呼ばれる。汁をかけるのは「欠ける」に通じるので、身内に不幸がある、というようなはなしも聞いた記憶がある。
我々のような一定以上の年代の者には、お茶づけと言えば、ご飯にお茶をかけただけの物や、佃煮や漬物などの具材をほんの少し乗せたご飯にお茶をかけた物というイメージが強いが、今時の若い世代でなどでは、永谷園など、市販の粉末のお茶漬けの素などをご飯にかけたものを思い出すのではないかと思われるほど、今は、色々な「お茶漬けの素」が発売されている。
「飯」(めし)は、イネ科の米、麦、あるいはキビ亜科の穀物に、水を加えて汁気が残らないように炊いた、あるいは蒸した食品であり、また、食事の別名でもある。この言葉は「召す」の連用形「召し(めし)」が名詞になった語で「召し上がる物」という意である。丁寧語で「御飯」(ごはん)と呼ばれるものは、現在では特に米を炊いた食品を指す言葉となっている。
人は生米等のβデンプン(デンプン参照)をほとんど消化できず、食べてもうまみを感じないが、炊飯の加水と加熱により、デンプンの状態に変化が生じ、糖がたくさん繋がった高分子 の固い状態から、単分子化して間に水分が入り込み、ふっくらとした柔らかい状態にする事で美味しいご飯として食べる事ができるようになるのだそうだ。
つまりβ化していたデンプンをαデンプンに変化(α化)した事によって、固い米から柔らかく消化吸収に適したご飯が炊き上がっていたのだが、その状態は永続的なものではなく、温度が下がる事で単分子間に入り込んでいた水分が抜け、α化していたデンプンはまたβ化していき、ご飯は固いパサパサした食感へと変化していってしまう。
そのため、β化したデンプンを再びα化させるには温度を上げる事も効果的で、水よりもお湯をかけた方がより冷ご飯は食べやすくなり、お湯をかけたご飯は「湯漬け」と呼ばれているが、古くから食べられていたのは、この白湯を掛けたもの、いわゆる湯漬けである。
日本への稲作、米食文化伝来とともに始まったであろうと考えられているが、当時の記録などは発見されておらず、実際、いつ頃から始まったのかは定かではないが、例えば、乙巳の変の折、最初に蘇我入鹿の暗殺を命じられた者(子麻呂等)が、宮中に赴く前、水をかけた飯を飲み込んだ、という逸話がある。
『日本書紀』巻廿四(※1参照。)皇極天皇四(六四五)年六月戊申の条に、
「子麻呂等。以水送飯。恐而反吐。」
訳:「子麻呂等、水を以(も)て送飯(いひす)く。恐(おそ)りて反吐(たまひいだ)す(※2参照)。
・・・とあることからも、相当古くから存在したであろうことは伺い知ることができる。
そして時代が下った平安時代には、『枕草子』(三巻本※3参照)の189 条「宮仕人のもとに来などする男の」には、以下の記載がある。
「宮仕人のもとに来などする男の、そこにて物食ふこそいとわろけれ。食はする人も、いとにくし。思はむ人の、「なほ」など心ざしありて言はむを、忌みたらむやうに口をふたぎ、顔をもてのくべきことにもあらねば、食ひをるにこそはあらめ。
いみじう酔(ゑ)ひて、わりなく夜ふけて泊まりたりとも、さらに湯漬をだに食はせじ。心もなかりけりとて来ずは、さてありなむ。
里などにて、北面より出だしては、いかがはせむ。それだになほぞある。」
意訳:「宮仕えしている女房の局を訪ねて来たりする男が、女の部屋で食事をするなんてのは、全くみっともない。食べさせる女房も、実に腹立たしい。愛する女が、「ぜひに」などと、心をこめてすすめるのを、忌み嫌うかのように、口をふさぎ、顔をそむけるわけにもゆかないので、やむを得ず食べているのでしょうがねぇ。男がひどく酔って、どうしようもなく夜が更けてしまって泊まったとしても、私は、決して湯漬さえ食べさせません。「気の利かない女だ」と思って、来なくなるなら、それはそれでいいのです。」
と、・・・、「湯漬け」が登場するが、恋愛感情で訪れた男が、食事をするのが清少納言には相当お気に召さなかったようだ(※4参照)。
また、『源氏物語』五十二条「蜻蛉」(かげろう)に、夕暮れの宮中で薄絹の着物をまとった女性たちが、氷室から取り出した氷をかち割って紙に包み、胸や額などに押し当てて涼をとっているくだりが描かれている(※5の第五章・第一段・第三段 「小宰相の君、氷を弄ぶ」参照)。
同じく源氏物語第26条「常夏」(とこなつ)には、光源氏の息子・夕霧が友達たちと水飯をかき込んでいるそばで光源氏がお酒を楽しんでいる場面がある(参考※5の第一章、第一段。1.1.3参照)。この様に、平安時代から、夏には氷水をご飯にかけて食べる(水飯=すいはん)、その他の季節には湯をかけて湯漬にする習慣が多くあったことを示している。
さらに、『今昔物語』(※6の「三条中納言、水飯を食う語」参照)や『宇治拾遺物語』(※7の巻第七ノ三 「三条中納言水飯の事」参照)には、肥満に悩んだ三条中納言(藤原 朝成)が医師に相談したところ、湯漬けや水飯でカロリーを制限するように薦められるが、しばらくして、朝成から少しもやせないので、食事を見てほしいとの連絡があり家に出かけた。
すると、中納言朝成の食事の様子はお椀にご飯を大盛りにし、水を少しかけ。水飯をかきこみ。鮎の熟れ鮨や、干瓜を数個ずつ頬ばり、何杯もお代わりするというものであり、医師はあきれて逃げ出してしまったという逸話が登場している。
この時医師は、ご飯の分量を水で増やし満腹感を得させる目的で「水漬け」や「湯漬け」をとるよう指導したものだが、1 杯のお椀のエネルギーが少なくても,何杯も食べれば効果はないのは当然のこと。医師があきれるのは当然であるが、結構こんな人多いのかもしれない。日本での文字となっている肥満治療の最古のもののひとつではないかといわれている。
私たちが子供の頃もそうであったが、湯漬けと水飯が広く食べられていた当時、炊いた飯は、お櫃に移してから食すのが一般的であった。現在のように炊き上がった飯を保温する技術は無く、炊き立ての飯も時間の経過とともに冷える一方であった。前段でも書いたように、温度の下がった冷や飯は、水分も減少し、何よりデンプンの老化が著しいために、炊き立ての食感は失われてしまう。この冷えてしまった飯を美味しく食べる手段としても、特に熱い湯を掛けて飯を暖めたり、水分を補う湯漬けは非常に有用であったことだろう。
湯漬けと水飯は、何も身分の低い者だけが食べたわけではなく、古事類苑の飮食部/?の段には足利幕府(室町幕府)時代ニハ、酒宴ノ後ニハ多ク湯漬ヲ用イルヲ例トシ・・・」(※8参照)・・との記載が見られるように、鎌倉時代から戦国時代末期まで、特に冬季において武士は湯漬けを常食としていたようだ。
例えば、足利義政は、昆布や椎茸で出汁を取った湯を、水で洗った飯にかける湯漬け(現在で言う出汁茶漬け)を特に好んだとされる(NHK教育『歴史に好奇心 あの人は何を食べてきたか(2)足利義政の湯漬け』)。
また、永禄3年(1560年)5月、桶狭間の戦い前夜、今川義元軍の尾張侵攻を聞き、清洲城の織田信長は、まず幸若舞『敦盛』の一節を謡い舞い、陣貝を吹かせた上で具足を着け、立ったまま、湯漬を食したあと甲冑を着けて出陣したという有名な伝記(『信長公記』)がある。当時、出陣前には、米飯に熱めの湯をかけた湯漬けを食べるのが武士の慣わしでもあった。何よりも、手早く食べられるところから武士が湯漬けを好んだのだろう。
このように、公家・武家を問わずに湯漬けが公式の場で食されることが多かったために有職故実の書でも湯漬けを食べるための礼儀作法について記されているものがある。鎌倉時代の永仁3年(1295年)前後に書かれたとされる有職故実的な料理書『厨事類記』(『群書類従』に収録されている。通し番号861、飲食部巻364)の中には「湯漬菜一種」とあり(p.0377 参照)、湯漬けには香の物や豆醤(まめびしお)、焼味噌などを1品合わせて出すべきことが記されている。また、江戸時代の文化9年(1812年)に書かれた『小笠原流諸礼大全』には湯漬は最初は香の物から食し、中の湯は御飯を食べている際にはすすらずに食後にお茶ばかりを受けて飲むことなどが記されている(Wikipedia)という。
近・現代では、作家・林芙美子が随筆『朝御飯』において「「飯」を食べる場合は、焚きたての熱いのに、梅干をのせて、冷水をかけて食べるのも好き。」と書いている(※9参照)。
こう見てくると、「お茶漬け」は、この湯漬けの白湯(さゆ)のかわりにお茶を使ったに違いないと思われるかもしれない。しかし、、現代の茶漬けに』見られるようないろんな物を飯の上にのせる茶漬けがあるということは、むしろ、もともとお茶に、さまざまな具やお米を混ぜて煮る、・・という食べ物があって、それのインスタント版としてお茶漬けが生まれたのではないかと、考えることもできるようだ。
室町時代末期頃には芳飯(ほうはん)という料理が出現したという。苞飯,法飯,餝飯などとも書き、江戸前期の食物本草書『本朝食鑑』(※10)は、これはもともと僧家の料理で、飯の上に、野菜や乾魚を細かく切って煮たものあるいは焼いたものをのせ、汁をかけて食う、としている(※8:古事類苑全文データベース飲食部五飯p415 参照)。
そして、江戸時代初期のレシピ集である『料理物語』には、「奈良茶飯」というものが出ているが、これなど、小豆や栗などを米と一緒にお茶で煮込んだもので、江戸時代に川崎宿にあった茶屋「万年屋」の名物となった。
●上掲の画象が奈良茶飯。『江戸名所図会』より。この図は、『東海道中膝栗毛』において弥次さん喜多さんが奈良茶飯を食べたと記されている川崎の亀屋万年堂で、ここの奈良茶飯は有名であった。江戸名所図会には、挿図のみが掲載され、記事がないが、当時は説明を要しないほど知名度の高い旅館兼茶屋であり、歌「お江戸日本橋」にも「(前略)六郷(ろくごう)わたれば 川崎の万年屋(後略)」とうたわれた。
お江戸日本橋 【童謡とわらべ歌】 - YouTube
奈良茶飯は、元来は奈良の興福寺や東大寺などの僧坊において寺領から納められる、当時としては貴重な茶を用いて食べていたのが始まりとされている。本来は再煎(二番煎じ以降)の茶で炊いた飯を濃く出した初煎(一番煎じ)に浸したもので、茶粥のようなものであった(※11参照)。
わが国のお茶は、遣唐使が往来していた奈良・平安時代に、留学僧が、唐よりお茶の種子を持ち帰ったのが始まりとされているが、平安初期(815年)の『日本後記』には、「嵯峨天皇に大僧都永忠が近江の梵釈寺において茶を煎じて奉った」と記述されているのが、わが国における日本茶の喫茶に関する最初の記述といわれている(※10:「お茶街道」・ お茶の書物と記録2 参照)。しかし、このころのお茶は非常に貴重で、僧侶や貴族階級などのごく限られた人々だけが口にすることができたものであった。
このお茶の栽培は鎌倉初期に栄西(えいさい)禅師が宋(南宋)から帰国する際、茶を持ち帰り、その種子を佐賀県脊振山に植えたのが始まりだといわれている。
その後、京都の明恵(みょうえ)上人が栄西より種子を譲り受け、京都栂尾(とがのお)に蒔き、宇治茶の基礎をつくるとともに、全国に広めたとされている。
南北朝時代の成立になるとされる『異制庭訓往来』(Wikipediaでは虎関師錬著とされるが疑問あり)には以下のように書かれている。
「我が朝の名山は梶尾を以て第一となすなり。仁和寺・醍醐・宇治・葉室・般若寺・神尾寺は是れ補佐たり。此の他、大和室尾・伊賀八鳥・伊勢河居・駿河清見・武蔵河越の茶、皆是れ天下指言するところなり。仁和寺及び大和・伊賀の名所を処々の国に比するは、瑪瑙を以て瓦礫に比するが如し・・・。」(※11:「お茶街道」お茶の歴史年表参照)とある。
また、「分類草人木」に宇治七名園の存在が記されており、宇治七園までの流れと当代の茶風を説き、茶道具の名が出てくることから、 この当時、既に、今日で言う抹茶を用いた喫茶法が行われていたことが判るという。
栄西は『喫茶養生記 』の中で茶の種類や抹茶の製法、身体を壮健にする喫茶の効用などを説いているが、その栄西が宋で身近に体験した抹茶法は、お茶の葉を蒸して乾燥させるという単純なものであり、これが日本国内に普及し、のちに茶の湯(茶道)となった。
しかしその一方で、新しいスタイルとして、庶民にも取り入れられたのが「振り茶」(※12参照)だという。「振り茶」とは、手製の茶筅(ササラ)で煎じ茶をかき混ぜ、泡立てて飲むお茶のこと。この泡立てたお茶に、色んな具を入れて食べたり、女性が集まってこのお茶を囲んで飲みながらワイワイ騒ぐなど、日本全国に普及していったそうだ。
この振り茶、現在でもその習慣が残っており、島根のぼてぼて茶や、香川のボテ茶、沖縄のぶくぶく茶などに見られる(※13:参照)。私は、香川のボテ茶、沖縄のぶくぶく茶は知らないが、松江へ行った折にぼてぼて茶はいただいたことがある。そして、記念にぼてぼて茶碗を一つ、買って帰り、家で真似事をして楽しんだのを思い出す。
●以下の画像が、その時買って帰った「ぼてぼて茶碗」である。
江戸時代前期にはまだ、今一般的に言われているところのお茶をかけて食べるお茶漬けは出てこない。「お茶」を使った、お茶漬けのはじまりは番茶や煎茶が庶民の嗜好品として普及する江戸時代中期以降を待つ事になる。
煎茶には旨味成分のグルタミン酸ナトリウムが含まれる事や、お茶特有の風味や色合いが加わる事で、白湯をかける湯漬けよりも数段美味しくなるが、このころ庶民においては、番茶をかけるのが一般的であった。
今日の茶漬けのはじまりは、当時商家の奉公人らが、忙しさから仕事の合間に食事を迅速に済ませる為にご飯にお茶をかけてかき込んだことからだと言われているようだ。奉公先での質素な食事の中で漬け物は、奉公人にとって自由に摂れるほぼ唯一の副菜(おかず)であり、これだけは、巨大な大鉢などに山のように盛られることが多かったという。そのことも茶漬けという食形態の定着に大いに関係したと推測される。
江戸では屋台と惣菜の移動販売の外食文化が進むが、江戸での固定の料理店の最初は、承応2年(1654年)の明暦の大火から元禄期のいずれかの頃、浅草金龍山(浅草寺)門前の「茶屋」とされているようだが、この茶屋は茶漬屋で奈良茶を提供していたものらしことが守貞謾稿に書かれている。(※8:「古事類苑」の四・飮食部/料理下守貞謾稿・五生業p332参照)。
しかし、「奈良茶」と言えば、奈良茶粥・奈良茶飯等が知られるが、ここで供された「奈良茶」は、それらとは異なり、ここで供された「奈良茶」は茶飯・豆腐汁・煮豆等でととのえた、今日で言う定食のようなものであったようだ(※14も参照)というから、川崎宿の万年屋と同じようなものだろう。
その後、元禄時代には、お茶漬けを専門的に食べさせる「茶漬屋」も登場し、庶民のファーストフードとして親しまれるようになり、一つの料理として成立したという事らしい。1952(昭和27)年には、具やお茶、出汁を粉末化したインスタントのお茶漬けの素・永谷園の「お茶づけ海苔」が考案され、今日のお茶漬け事情を迎える事となる。
これらは乾燥させた具(かやく)と茶(抹茶)や出し汁の粉末を混ぜたもので、小袋に入っており、袋の中身をご飯の上にかけて湯を注ぐとそのまま茶漬けになるという簡便な製品である。
お茶漬けはさまざまな地域で、その地の特性を活かした具材が使われ、非常に多くのバリエーションが存在する。不思議な事に日本と同じく米を主食とし、お茶を好む中国ではお茶漬けという食習慣は見られないそうだ。あっさりしていて、食欲のない時でもサラサラと流し込めるお茶漬け、これも、日本固有の食文化といえるようだ。
そんなお茶漬けを愛し、ひとつの「料理」として見ていた人がいる。芸術家にして料理家・美食家として有名な北大路魯山人(1883〜1959)である。そして、魯山人はお茶漬けについての随想を多く書き遺している。『お茶漬けの味』の中では以下のように言っている。
「さて、お茶漬けの話だが、これにしてもそれぞれ段階があって、ただ飯の上に塩と茶をかけて美味い場合もあるし、たい茶漬けが美味い場合もある。体の状態によって、時々の好みが変ってくる。たい茶漬けが今日美味かったからと言って、明日も明後日もつづけたらどうであろうか。要は、正直に自分の体と相談して、なにを要求しているかを知るべきである。うなぎがいいか、牛肉がいいか、あるいは沢庵の茶漬けか、その時々の状態によって、好むところのものを食しておれば、誠に自然で美味を感じる。が、これを自然にやらないで、「高いものは美味そうだ」「安いものは食いたくない」と言って選択しているのを見聞きするが、こんな考え方は、茶漬けであっても一考を要する。茶漬けを食いたいと要求する肉体が、自分の好きな茶漬けを食えたらこんな幸せはあるまい。これがすなわち栄養本位と言えよう。この理論は茶漬けにかぎらず、どんな場合にも成立する。」・・と。
他にも『京都のごりの茶漬け』『車蝦の茶漬け』 『塩昆布の茶漬け』『塩鮭・塩鱒の茶漬け』 『てんぷらの茶漬け』 『納豆の茶漬け』
『海苔の茶漬け』『鱧・穴子・鰻の茶漬け』『鮪の茶漬け』 など、以下参考の※16「青空文庫」で読めるので興味のある人はお読みになるとよい。
(冒頭の画像は茶漬け 『地口絵手本』NHKデーター情報部編『ヴィジュアル百科江戸事情』第一巻生活編より。)。
参考:
※1:日本書紀、全文検索
http://www.seisaku.bz/shoki_index.html
※2蘇我入鹿暗殺事件
http://www1.kcn.ne.jp/~uehiro08/contents/parts/27.htm
※3:枕草子(三巻本)
http://www.geocities.co.jp/hgonzaemon/makurasannkan.html
※4:宮仕へ人のもとに
http://blog.goo.ne.jp/miyabikohboh/e/b077068b8b57255c7316e5bbcf93c8d9
※5:源氏物語の世界:渋谷栄一著
http://www.sainet.or.jp/~eshibuya/
※6:かたかご ・今昔物語( 原文 / 現代語訳 )
http://yamanekoya.jp/konzyaku/index.html
※7:日本古典文学摘集 宇治拾遺物語
http://www.koten.net/uji/
※8:古事類苑全文データベース:国際日本文化研究センター
http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/
※9:林芙美子 朝御飯 - 青空文庫
http://www.aozora.gr.jp/cards/000291/files/45307_18535.html
※10:本朝食鑑 - 国立国会図書館
http://dl.ndl.go.jp/search/searchResult?searchWord=%E6%9C%AC%E6%9C%9D%E9%A3%9F%E9%91%91+
※11:料理物語-茶之部
http://marchhare.jimdo.com/%E8%8C%B6%E4%B9%8B%E9%83%A8/
※11:「お茶街道」
http://www.ochakaido.com/index.htm
※12:日本の喫茶文化:振り茶
http://www.o-cha.net/japan/dictionary/japan/culture/culture04.html
※13:『第2回世界茶文化学術研究会公開シンポジウム』〜喫茶養生記と宋代の茶文化
http://ameblo.jp/ochafestival2013/entry-11371934876.html
※14:浅草池波正太郎参り
http://tuesdayxx.exblog.jp/19840411/
※15:作家別作品リスト:No.1403北大路 魯山人
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person1403.html#sakuhin_list_1
※16:「青空文庫」:作家別作品リスト:No.1403北大路 魯山人
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person1403.html#sakuhin_list_1
茶の湯の歴史
http://wa.ctk23.ne.jp/~take14/History_of_tea_ceremony/rekisi_1.html
故実書年表
http://www.kariginu.jp/monjo-history.htm
永谷園HP
http://www.nagatanien.co.jp/
茶漬け - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8C%B6%E6%BC%AC%E3%81%91
お茶の製法を発明し、煎茶の普及に貢献した永谷宗七郎の子孫にあたる永谷嘉男が創業した株式会社永谷園が制定。永谷園は1952(昭和27)年に画期的なインスタントのお茶漬け商品「お茶づけ海苔」を発売し、お茶漬けをさらに身近な食べ物とした「味ひとすじ」の理念を持つ食品メーカー。「お茶づけ海苔」は2012(平成24)年に発売60周年を迎えた。日付は永谷宗七郎の偉業をたたえ、その命日(1778年5月17日)に由来する。
若いころ相当な呑兵衛であった私など、夜の食事にご飯を食べることはなかった。この習慣は飲み過ぎ肝臓を悪くしてしまった今でも変わらず、胃の休養のため週一の「飲マンデー」以外は、ご飯は食べず、晩酌のみである。ただし、酒が飲めなくなると困るので、今はお酒は最低限に控えている。
そんな私は、若いころは、しょっちゅう、大坂の会社の呑兵衛仲間とキタやミナミで、また、時には、深夜に、大坂から地元神戸・三宮の飲み屋街にまでタクシーを飛ばして行きつけの店を梯子していたが、さすが、深夜を過ぎて、おなかが減った時などには、よく「お茶漬け屋」に寄ったものだ。
夜食として食べるには、温かくて手軽に食べられ、消化もよさそうな物として、真っ先に思い付く食べ物の一つが「お茶漬け」ではないか。お茶漬けというと、その名の通り、ご飯に熱いお茶や白湯をかけた物や、また、冷めて固くなったご飯を食べやすくし、手早く食事を終える工夫と言った感じのものであるが、世代によってはお茶漬けに対するイメージも異なるだろう。
お茶漬けと言うと私など、すぐに思い出すのが小津安二郎監督映画の「お茶漬の味」(1952年松竹製作、白黒映画)である。同年の毎日映画コンクールで佐分利信が男優主演賞を受賞している。
●上掲の画像は映画「お茶漬の味」のポスターである。
映画は、地方出身の素朴な夫(佐分利)と夫にうんざりする上流階級出身の妻妙子(木暮実千代)。この生まれも育ちも価値観も異なる夫婦が、そのギャップに悩みつつ、和解するまでを描いたものである。ちょっとあらすじを書くと以下のようなものである。
妻の妙子が夫佐竹茂吉と結婚してからはもう7・8年になる。信州(長野県)の田舎出身の茂吉と上流階級の洗練された雰囲気で育った妙子は、初めから生活態度や趣味の点でぴったりしないまま今日に至り、そうした生活の所在なさがそろそろ耐えられなくなっていた。
妙子は、学校時代の友達や、長兄の娘節子などと、茂吉に内緒で修善寺などへ出かけて遊ぶことで、何となく鬱憤を晴らしていた。一方の茂吉はそんな妻の遊びにも一向に無関心な顔をして、相変わらず妙子の嫌いな「朝日」(タバコ)を吸い、三等車に乗り、ご飯にお汁をかけて食べるような習慣を改めようとはしなかった。
茂吉と妙子の溝は深まるばかり。妙子が同級生の住む神戸へ旅行している間に、茂吉の海外出張が決まり、妙子に連絡がつかないまま茂吉は日本を発ってしまう。その後、妙子は家に帰ってきたが、茂吉のいない家が彼女には初めて虚しく思われた。しかし,その夜更け、思いがけなく茂吉が帰ってきた。飛行機が故障で途中から引き返し、出発が翌朝に延びたのだとという。
腹が減ったから何か食べようと普段はお手伝いに任せている台所に行き、「お茶漬け」の用意をする二人。食事の準備などほとんどしたことのない妻が糠(ぬか)味噌に手をいれ香の物を取り出す。そして夜更けた台所でひっそりと食事をする二人。手にまだ残る糠の匂いが気になる妻、それを嗅いでみる夫、二人のささやかな会話。
最後に「夫婦とはお茶漬の味なのさ」・・・と、妙子を諭す茂吉。この気安い、体裁のない感じに、妙子は初めて夫婦というものの味をかみしめるのだった。その翌朝妙子一人が茂吉の出発を見送った。茂吉の顔も妙子の顔も、別れの淋しさよりも何かほのぼのとした明るさに輝いているようだった。
この映画、昭和20年代当時の風俗をふんだんに盛り込んでいるのも特徴。「お茶漬けの味」は現在の社会が忘れそうになっている大事な何か・・そう、「夫婦の絆.」について・・教えてくれているように思われるのだが・・・。ラストの「お茶漬」のシーンが、如何にも小津作品らしい。この前に、ご飯にみそ汁をかけて食べる茂吉に、妙子が腹を立てるシーンがある。「汁かけ飯」とでも言おうか、これは、私の祖父もよくしていた。祖父は徳島の出だが、よくご飯の上に味噌汁などをかけて食べていた。このような汁をかけた飯は、まるで猫の餌のようなので、それを蔑して「ねこまんまと」などと呼ぶ地方は、西日本には多くみられるようだ。爺さん子の私などがそれをしようものなら、躾に厳しい父親から「品がない」と怒られたものだ。かける汁は味噌汁が 多いが、すまし汁や豚汁など、味噌汁でない汁をかけてもねこまんまと呼ばれる。汁をかけるのは「欠ける」に通じるので、身内に不幸がある、というようなはなしも聞いた記憶がある。
我々のような一定以上の年代の者には、お茶づけと言えば、ご飯にお茶をかけただけの物や、佃煮や漬物などの具材をほんの少し乗せたご飯にお茶をかけた物というイメージが強いが、今時の若い世代でなどでは、永谷園など、市販の粉末のお茶漬けの素などをご飯にかけたものを思い出すのではないかと思われるほど、今は、色々な「お茶漬けの素」が発売されている。
「飯」(めし)は、イネ科の米、麦、あるいはキビ亜科の穀物に、水を加えて汁気が残らないように炊いた、あるいは蒸した食品であり、また、食事の別名でもある。この言葉は「召す」の連用形「召し(めし)」が名詞になった語で「召し上がる物」という意である。丁寧語で「御飯」(ごはん)と呼ばれるものは、現在では特に米を炊いた食品を指す言葉となっている。
人は生米等のβデンプン(デンプン参照)をほとんど消化できず、食べてもうまみを感じないが、炊飯の加水と加熱により、デンプンの状態に変化が生じ、糖がたくさん繋がった高分子 の固い状態から、単分子化して間に水分が入り込み、ふっくらとした柔らかい状態にする事で美味しいご飯として食べる事ができるようになるのだそうだ。
つまりβ化していたデンプンをαデンプンに変化(α化)した事によって、固い米から柔らかく消化吸収に適したご飯が炊き上がっていたのだが、その状態は永続的なものではなく、温度が下がる事で単分子間に入り込んでいた水分が抜け、α化していたデンプンはまたβ化していき、ご飯は固いパサパサした食感へと変化していってしまう。
そのため、β化したデンプンを再びα化させるには温度を上げる事も効果的で、水よりもお湯をかけた方がより冷ご飯は食べやすくなり、お湯をかけたご飯は「湯漬け」と呼ばれているが、古くから食べられていたのは、この白湯を掛けたもの、いわゆる湯漬けである。
日本への稲作、米食文化伝来とともに始まったであろうと考えられているが、当時の記録などは発見されておらず、実際、いつ頃から始まったのかは定かではないが、例えば、乙巳の変の折、最初に蘇我入鹿の暗殺を命じられた者(子麻呂等)が、宮中に赴く前、水をかけた飯を飲み込んだ、という逸話がある。
『日本書紀』巻廿四(※1参照。)皇極天皇四(六四五)年六月戊申の条に、
「子麻呂等。以水送飯。恐而反吐。」
訳:「子麻呂等、水を以(も)て送飯(いひす)く。恐(おそ)りて反吐(たまひいだ)す(※2参照)。
・・・とあることからも、相当古くから存在したであろうことは伺い知ることができる。
そして時代が下った平安時代には、『枕草子』(三巻本※3参照)の189 条「宮仕人のもとに来などする男の」には、以下の記載がある。
「宮仕人のもとに来などする男の、そこにて物食ふこそいとわろけれ。食はする人も、いとにくし。思はむ人の、「なほ」など心ざしありて言はむを、忌みたらむやうに口をふたぎ、顔をもてのくべきことにもあらねば、食ひをるにこそはあらめ。
いみじう酔(ゑ)ひて、わりなく夜ふけて泊まりたりとも、さらに湯漬をだに食はせじ。心もなかりけりとて来ずは、さてありなむ。
里などにて、北面より出だしては、いかがはせむ。それだになほぞある。」
意訳:「宮仕えしている女房の局を訪ねて来たりする男が、女の部屋で食事をするなんてのは、全くみっともない。食べさせる女房も、実に腹立たしい。愛する女が、「ぜひに」などと、心をこめてすすめるのを、忌み嫌うかのように、口をふさぎ、顔をそむけるわけにもゆかないので、やむを得ず食べているのでしょうがねぇ。男がひどく酔って、どうしようもなく夜が更けてしまって泊まったとしても、私は、決して湯漬さえ食べさせません。「気の利かない女だ」と思って、来なくなるなら、それはそれでいいのです。」
と、・・・、「湯漬け」が登場するが、恋愛感情で訪れた男が、食事をするのが清少納言には相当お気に召さなかったようだ(※4参照)。
また、『源氏物語』五十二条「蜻蛉」(かげろう)に、夕暮れの宮中で薄絹の着物をまとった女性たちが、氷室から取り出した氷をかち割って紙に包み、胸や額などに押し当てて涼をとっているくだりが描かれている(※5の第五章・第一段・第三段 「小宰相の君、氷を弄ぶ」参照)。
同じく源氏物語第26条「常夏」(とこなつ)には、光源氏の息子・夕霧が友達たちと水飯をかき込んでいるそばで光源氏がお酒を楽しんでいる場面がある(参考※5の第一章、第一段。1.1.3参照)。この様に、平安時代から、夏には氷水をご飯にかけて食べる(水飯=すいはん)、その他の季節には湯をかけて湯漬にする習慣が多くあったことを示している。
さらに、『今昔物語』(※6の「三条中納言、水飯を食う語」参照)や『宇治拾遺物語』(※7の巻第七ノ三 「三条中納言水飯の事」参照)には、肥満に悩んだ三条中納言(藤原 朝成)が医師に相談したところ、湯漬けや水飯でカロリーを制限するように薦められるが、しばらくして、朝成から少しもやせないので、食事を見てほしいとの連絡があり家に出かけた。
すると、中納言朝成の食事の様子はお椀にご飯を大盛りにし、水を少しかけ。水飯をかきこみ。鮎の熟れ鮨や、干瓜を数個ずつ頬ばり、何杯もお代わりするというものであり、医師はあきれて逃げ出してしまったという逸話が登場している。
この時医師は、ご飯の分量を水で増やし満腹感を得させる目的で「水漬け」や「湯漬け」をとるよう指導したものだが、1 杯のお椀のエネルギーが少なくても,何杯も食べれば効果はないのは当然のこと。医師があきれるのは当然であるが、結構こんな人多いのかもしれない。日本での文字となっている肥満治療の最古のもののひとつではないかといわれている。
私たちが子供の頃もそうであったが、湯漬けと水飯が広く食べられていた当時、炊いた飯は、お櫃に移してから食すのが一般的であった。現在のように炊き上がった飯を保温する技術は無く、炊き立ての飯も時間の経過とともに冷える一方であった。前段でも書いたように、温度の下がった冷や飯は、水分も減少し、何よりデンプンの老化が著しいために、炊き立ての食感は失われてしまう。この冷えてしまった飯を美味しく食べる手段としても、特に熱い湯を掛けて飯を暖めたり、水分を補う湯漬けは非常に有用であったことだろう。
湯漬けと水飯は、何も身分の低い者だけが食べたわけではなく、古事類苑の飮食部/?の段には足利幕府(室町幕府)時代ニハ、酒宴ノ後ニハ多ク湯漬ヲ用イルヲ例トシ・・・」(※8参照)・・との記載が見られるように、鎌倉時代から戦国時代末期まで、特に冬季において武士は湯漬けを常食としていたようだ。
例えば、足利義政は、昆布や椎茸で出汁を取った湯を、水で洗った飯にかける湯漬け(現在で言う出汁茶漬け)を特に好んだとされる(NHK教育『歴史に好奇心 あの人は何を食べてきたか(2)足利義政の湯漬け』)。
また、永禄3年(1560年)5月、桶狭間の戦い前夜、今川義元軍の尾張侵攻を聞き、清洲城の織田信長は、まず幸若舞『敦盛』の一節を謡い舞い、陣貝を吹かせた上で具足を着け、立ったまま、湯漬を食したあと甲冑を着けて出陣したという有名な伝記(『信長公記』)がある。当時、出陣前には、米飯に熱めの湯をかけた湯漬けを食べるのが武士の慣わしでもあった。何よりも、手早く食べられるところから武士が湯漬けを好んだのだろう。
このように、公家・武家を問わずに湯漬けが公式の場で食されることが多かったために有職故実の書でも湯漬けを食べるための礼儀作法について記されているものがある。鎌倉時代の永仁3年(1295年)前後に書かれたとされる有職故実的な料理書『厨事類記』(『群書類従』に収録されている。通し番号861、飲食部巻364)の中には「湯漬菜一種」とあり(p.0377 参照)、湯漬けには香の物や豆醤(まめびしお)、焼味噌などを1品合わせて出すべきことが記されている。また、江戸時代の文化9年(1812年)に書かれた『小笠原流諸礼大全』には湯漬は最初は香の物から食し、中の湯は御飯を食べている際にはすすらずに食後にお茶ばかりを受けて飲むことなどが記されている(Wikipedia)という。
近・現代では、作家・林芙美子が随筆『朝御飯』において「「飯」を食べる場合は、焚きたての熱いのに、梅干をのせて、冷水をかけて食べるのも好き。」と書いている(※9参照)。
こう見てくると、「お茶漬け」は、この湯漬けの白湯(さゆ)のかわりにお茶を使ったに違いないと思われるかもしれない。しかし、、現代の茶漬けに』見られるようないろんな物を飯の上にのせる茶漬けがあるということは、むしろ、もともとお茶に、さまざまな具やお米を混ぜて煮る、・・という食べ物があって、それのインスタント版としてお茶漬けが生まれたのではないかと、考えることもできるようだ。
室町時代末期頃には芳飯(ほうはん)という料理が出現したという。苞飯,法飯,餝飯などとも書き、江戸前期の食物本草書『本朝食鑑』(※10)は、これはもともと僧家の料理で、飯の上に、野菜や乾魚を細かく切って煮たものあるいは焼いたものをのせ、汁をかけて食う、としている(※8:古事類苑全文データベース飲食部五飯p415 参照)。
そして、江戸時代初期のレシピ集である『料理物語』には、「奈良茶飯」というものが出ているが、これなど、小豆や栗などを米と一緒にお茶で煮込んだもので、江戸時代に川崎宿にあった茶屋「万年屋」の名物となった。
●上掲の画象が奈良茶飯。『江戸名所図会』より。この図は、『東海道中膝栗毛』において弥次さん喜多さんが奈良茶飯を食べたと記されている川崎の亀屋万年堂で、ここの奈良茶飯は有名であった。江戸名所図会には、挿図のみが掲載され、記事がないが、当時は説明を要しないほど知名度の高い旅館兼茶屋であり、歌「お江戸日本橋」にも「(前略)六郷(ろくごう)わたれば 川崎の万年屋(後略)」とうたわれた。
お江戸日本橋 【童謡とわらべ歌】 - YouTube
奈良茶飯は、元来は奈良の興福寺や東大寺などの僧坊において寺領から納められる、当時としては貴重な茶を用いて食べていたのが始まりとされている。本来は再煎(二番煎じ以降)の茶で炊いた飯を濃く出した初煎(一番煎じ)に浸したもので、茶粥のようなものであった(※11参照)。
わが国のお茶は、遣唐使が往来していた奈良・平安時代に、留学僧が、唐よりお茶の種子を持ち帰ったのが始まりとされているが、平安初期(815年)の『日本後記』には、「嵯峨天皇に大僧都永忠が近江の梵釈寺において茶を煎じて奉った」と記述されているのが、わが国における日本茶の喫茶に関する最初の記述といわれている(※10:「お茶街道」・ お茶の書物と記録2 参照)。しかし、このころのお茶は非常に貴重で、僧侶や貴族階級などのごく限られた人々だけが口にすることができたものであった。
このお茶の栽培は鎌倉初期に栄西(えいさい)禅師が宋(南宋)から帰国する際、茶を持ち帰り、その種子を佐賀県脊振山に植えたのが始まりだといわれている。
その後、京都の明恵(みょうえ)上人が栄西より種子を譲り受け、京都栂尾(とがのお)に蒔き、宇治茶の基礎をつくるとともに、全国に広めたとされている。
南北朝時代の成立になるとされる『異制庭訓往来』(Wikipediaでは虎関師錬著とされるが疑問あり)には以下のように書かれている。
「我が朝の名山は梶尾を以て第一となすなり。仁和寺・醍醐・宇治・葉室・般若寺・神尾寺は是れ補佐たり。此の他、大和室尾・伊賀八鳥・伊勢河居・駿河清見・武蔵河越の茶、皆是れ天下指言するところなり。仁和寺及び大和・伊賀の名所を処々の国に比するは、瑪瑙を以て瓦礫に比するが如し・・・。」(※11:「お茶街道」お茶の歴史年表参照)とある。
また、「分類草人木」に宇治七名園の存在が記されており、宇治七園までの流れと当代の茶風を説き、茶道具の名が出てくることから、 この当時、既に、今日で言う抹茶を用いた喫茶法が行われていたことが判るという。
栄西は『喫茶養生記 』の中で茶の種類や抹茶の製法、身体を壮健にする喫茶の効用などを説いているが、その栄西が宋で身近に体験した抹茶法は、お茶の葉を蒸して乾燥させるという単純なものであり、これが日本国内に普及し、のちに茶の湯(茶道)となった。
しかしその一方で、新しいスタイルとして、庶民にも取り入れられたのが「振り茶」(※12参照)だという。「振り茶」とは、手製の茶筅(ササラ)で煎じ茶をかき混ぜ、泡立てて飲むお茶のこと。この泡立てたお茶に、色んな具を入れて食べたり、女性が集まってこのお茶を囲んで飲みながらワイワイ騒ぐなど、日本全国に普及していったそうだ。
この振り茶、現在でもその習慣が残っており、島根のぼてぼて茶や、香川のボテ茶、沖縄のぶくぶく茶などに見られる(※13:参照)。私は、香川のボテ茶、沖縄のぶくぶく茶は知らないが、松江へ行った折にぼてぼて茶はいただいたことがある。そして、記念にぼてぼて茶碗を一つ、買って帰り、家で真似事をして楽しんだのを思い出す。
●以下の画像が、その時買って帰った「ぼてぼて茶碗」である。
江戸時代前期にはまだ、今一般的に言われているところのお茶をかけて食べるお茶漬けは出てこない。「お茶」を使った、お茶漬けのはじまりは番茶や煎茶が庶民の嗜好品として普及する江戸時代中期以降を待つ事になる。
煎茶には旨味成分のグルタミン酸ナトリウムが含まれる事や、お茶特有の風味や色合いが加わる事で、白湯をかける湯漬けよりも数段美味しくなるが、このころ庶民においては、番茶をかけるのが一般的であった。
今日の茶漬けのはじまりは、当時商家の奉公人らが、忙しさから仕事の合間に食事を迅速に済ませる為にご飯にお茶をかけてかき込んだことからだと言われているようだ。奉公先での質素な食事の中で漬け物は、奉公人にとって自由に摂れるほぼ唯一の副菜(おかず)であり、これだけは、巨大な大鉢などに山のように盛られることが多かったという。そのことも茶漬けという食形態の定着に大いに関係したと推測される。
江戸では屋台と惣菜の移動販売の外食文化が進むが、江戸での固定の料理店の最初は、承応2年(1654年)の明暦の大火から元禄期のいずれかの頃、浅草金龍山(浅草寺)門前の「茶屋」とされているようだが、この茶屋は茶漬屋で奈良茶を提供していたものらしことが守貞謾稿に書かれている。(※8:「古事類苑」の四・飮食部/料理下守貞謾稿・五生業p332参照)。
しかし、「奈良茶」と言えば、奈良茶粥・奈良茶飯等が知られるが、ここで供された「奈良茶」は、それらとは異なり、ここで供された「奈良茶」は茶飯・豆腐汁・煮豆等でととのえた、今日で言う定食のようなものであったようだ(※14も参照)というから、川崎宿の万年屋と同じようなものだろう。
その後、元禄時代には、お茶漬けを専門的に食べさせる「茶漬屋」も登場し、庶民のファーストフードとして親しまれるようになり、一つの料理として成立したという事らしい。1952(昭和27)年には、具やお茶、出汁を粉末化したインスタントのお茶漬けの素・永谷園の「お茶づけ海苔」が考案され、今日のお茶漬け事情を迎える事となる。
これらは乾燥させた具(かやく)と茶(抹茶)や出し汁の粉末を混ぜたもので、小袋に入っており、袋の中身をご飯の上にかけて湯を注ぐとそのまま茶漬けになるという簡便な製品である。
お茶漬けはさまざまな地域で、その地の特性を活かした具材が使われ、非常に多くのバリエーションが存在する。不思議な事に日本と同じく米を主食とし、お茶を好む中国ではお茶漬けという食習慣は見られないそうだ。あっさりしていて、食欲のない時でもサラサラと流し込めるお茶漬け、これも、日本固有の食文化といえるようだ。
そんなお茶漬けを愛し、ひとつの「料理」として見ていた人がいる。芸術家にして料理家・美食家として有名な北大路魯山人(1883〜1959)である。そして、魯山人はお茶漬けについての随想を多く書き遺している。『お茶漬けの味』の中では以下のように言っている。
「さて、お茶漬けの話だが、これにしてもそれぞれ段階があって、ただ飯の上に塩と茶をかけて美味い場合もあるし、たい茶漬けが美味い場合もある。体の状態によって、時々の好みが変ってくる。たい茶漬けが今日美味かったからと言って、明日も明後日もつづけたらどうであろうか。要は、正直に自分の体と相談して、なにを要求しているかを知るべきである。うなぎがいいか、牛肉がいいか、あるいは沢庵の茶漬けか、その時々の状態によって、好むところのものを食しておれば、誠に自然で美味を感じる。が、これを自然にやらないで、「高いものは美味そうだ」「安いものは食いたくない」と言って選択しているのを見聞きするが、こんな考え方は、茶漬けであっても一考を要する。茶漬けを食いたいと要求する肉体が、自分の好きな茶漬けを食えたらこんな幸せはあるまい。これがすなわち栄養本位と言えよう。この理論は茶漬けにかぎらず、どんな場合にも成立する。」・・と。
他にも『京都のごりの茶漬け』『車蝦の茶漬け』 『塩昆布の茶漬け』『塩鮭・塩鱒の茶漬け』 『てんぷらの茶漬け』 『納豆の茶漬け』
『海苔の茶漬け』『鱧・穴子・鰻の茶漬け』『鮪の茶漬け』 など、以下参考の※16「青空文庫」で読めるので興味のある人はお読みになるとよい。
(冒頭の画像は茶漬け 『地口絵手本』NHKデーター情報部編『ヴィジュアル百科江戸事情』第一巻生活編より。)。
参考:
※1:日本書紀、全文検索
http://www.seisaku.bz/shoki_index.html
※2蘇我入鹿暗殺事件
http://www1.kcn.ne.jp/~uehiro08/contents/parts/27.htm
※3:枕草子(三巻本)
http://www.geocities.co.jp/hgonzaemon/makurasannkan.html
※4:宮仕へ人のもとに
http://blog.goo.ne.jp/miyabikohboh/e/b077068b8b57255c7316e5bbcf93c8d9
※5:源氏物語の世界:渋谷栄一著
http://www.sainet.or.jp/~eshibuya/
※6:かたかご ・今昔物語( 原文 / 現代語訳 )
http://yamanekoya.jp/konzyaku/index.html
※7:日本古典文学摘集 宇治拾遺物語
http://www.koten.net/uji/
※8:古事類苑全文データベース:国際日本文化研究センター
http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/
※9:林芙美子 朝御飯 - 青空文庫
http://www.aozora.gr.jp/cards/000291/files/45307_18535.html
※10:本朝食鑑 - 国立国会図書館
http://dl.ndl.go.jp/search/searchResult?searchWord=%E6%9C%AC%E6%9C%9D%E9%A3%9F%E9%91%91+
※11:料理物語-茶之部
http://marchhare.jimdo.com/%E8%8C%B6%E4%B9%8B%E9%83%A8/
※11:「お茶街道」
http://www.ochakaido.com/index.htm
※12:日本の喫茶文化:振り茶
http://www.o-cha.net/japan/dictionary/japan/culture/culture04.html
※13:『第2回世界茶文化学術研究会公開シンポジウム』〜喫茶養生記と宋代の茶文化
http://ameblo.jp/ochafestival2013/entry-11371934876.html
※14:浅草池波正太郎参り
http://tuesdayxx.exblog.jp/19840411/
※15:作家別作品リスト:No.1403北大路 魯山人
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person1403.html#sakuhin_list_1
※16:「青空文庫」:作家別作品リスト:No.1403北大路 魯山人
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person1403.html#sakuhin_list_1
茶の湯の歴史
http://wa.ctk23.ne.jp/~take14/History_of_tea_ceremony/rekisi_1.html
故実書年表
http://www.kariginu.jp/monjo-history.htm
永谷園HP
http://www.nagatanien.co.jp/
茶漬け - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8C%B6%E6%BC%AC%E3%81%91