御堂筋(みどうすじ)は、大阪府大阪市の中心部を南北に縦断する国道であり、現代の大阪市における南北幹線の基軸である。
大阪市は大阪府のほぼ中央に位置する市で、同府の府庁所在地であり、政令指定都市に指定されている。
1889(明治22)年4月1日の市町村制開始の際に市制施行した日本の最初の市である。そして、日本を代表する商業地であるが、観光地としても栄えている歴史ある都市である。
大阪市は24区にわかれており、区の数は日本最多である。
エリアは、梅田、天満・福島など、JR大阪駅(梅田駅)を中心とした大阪市街地北部を総称した「キタ」と呼ばれるエリア、心斎橋、難波、阿倍野周辺など大阪市街地の南部を総称して「ミナミ」と呼ばれるエリア、そして港区のユニバーサルスタジオから安治川(大阪府大阪市西区にある地名)を隔てて南に位置するエリア天保山の3つのエリアに分類される。
御堂筋は、大阪市の中心部である「キタ」のJR大阪駅前から淀屋橋・本町・心斎橋を経て「ミナミ」の南海難波駅前間を貫く目抜き通りにあり、全長は約4km、幅員44m、片側6車線の道路であり、大阪駅に近い梅田新道交差点より北側は国道176号線、南側は国道25号線に指定されている。
尚、梅新南交差点より南側は南行きの一方通行である。地下には大阪市営地下鉄御堂筋線が敷設されている。
街路樹のイチョウでも有名な、大阪を代表する道路である。
大阪が位置する上町台地は、古代には「難波潟」(難波江に同じ、難波津のあるところ)と呼ばれる湿地に突き出した半島状の陸地で、「浪速(なみはや、なにわ)」、「難波(なにわ)」、「浪花(なにわ)」、「浪華(なにわ)」などと称されてきた。
縄文時代のころにあたる約7000年前、現在の上町台地は、海の中にある半島のかたちで存在していたことがわかっており、その範囲は、天満橋あたりを北端として、南にある四天王寺(天王寺区)、そこからさらに南西にある住吉のあたりまで、大阪市内をざくっと縦断していた台地であった。
そのように海に囲まれたところだったがゆえに、上町台地は外敵も侵入し難くく、水資源も豊富で、植物や動物、そして人間にとっても比較的生活しやすい環境だったのではないかといわれており、そのため、最初に日本列島あたりへ人々がやってくるとすぐにここで生活する人々が現れたみたいである。
その後、農耕文化が広まって一帯に集落もできてきたりするが、7世紀以降、国際交易が盛んになるなかで、海に囲まれたこの上町台地が重要な位置を占めるようになる。
難波津や住吉津(津は港のこと)を通じて物資や技術、文化が入ってくるようになり、時の天皇がここを拠点に中国大陸や朝鮮半島との交流を行ったり、聖徳太子が中国からやってきた仏教の興隆を願って日本で初めてのお寺・四天王寺を建立したりした。
そして645 (大化元) 年には難波京(難波宮)が営まれることにもなった。
都としての難波宮の存在は長くはなかったが、国際交易港・国内の物流の要所としての上町台地の役目は時代を経ても変わらず、織田 信長の死後その領土を継承した豊臣秀吉は、1583 (天正11)年、この上町台地の北端に位置する、石山本願寺の跡地を 直ちに、総石垣づくりにした大阪城を構えることとなった。
その一方、城の南、上町台地に続く玉造には大名邸や武士住宅を集中させて防御を固め、城の西側、既成市街地には町人を呼び寄せて多くの町屋を造り、北の天満は本願寺を寺内町とした後、寺町に変えた。
1598(慶長3)年、秀吉は、死に臨んで、惣構(そうがまえ)の}普請を指示、台地の南側に、空堀(惣構)を儲け、惣構内の町屋を東横堀(惣構)外の船場に出し、人質を住まわせる大名邸を造っている。
秀吉の没後は、筆頭の大老徳川家康が西の丸に入って政務をみ、そこにも天守を建てた。また、関ヶ原の戦いの際には西軍の主将となった毛利輝元が西の丸に入った。
上掲の画象は、その頃の大坂の景観であり、北から南を願望したものである。画像・文などは、私の蔵書『週刊朝日百科 日本の歴史』27号から借用した。字が小さく見難いので、赤で四角く囲っているものがあるが、大阪城に近いところの南北の筋が谷町筋である。それに並行して、右の方の南北に走っているのが御堂筋、その右上下に南御堂、北御堂が見られるだろう。詳しくは、拡大画像を見られるとよくわかる。
以下の画像、向かって左部分をクリックするとその部分の拡大画像が、右部分をクリックすると右部分の拡大画像を見ることができる。
このように大阪は、大阪城築城とほぼ同時期に、船場地区を中心に御堂筋周辺の開発も始まり、街区は基本的に42 間の正方形で、街路は碁盤目状に直交している。船場の街並みは、大坂城の西に位置することから東西方向が竪(たて)となり、東西方向の街路を通(とおり)と称し、計23本。当初の幅員は4.3間に設定されていた。一方、南北方向は横(よこ)となり、南北方向の街路を筋(すじ)と称し、計13本。当初は補助的な街路とされたために幅員は3.3間と通に対して狭く設定されていた(参考※1参照)。
町割りは基本的に通に沿った両側町で、東から丁目数にして5程度の町が多かった。ただし、西横堀筋は全て南北方向の横町割りで、渡辺筋や御霊筋にも横町割りが見られた。明治以降に通と筋の主従関係が逆転したが、東西方向の竪(縦、たて)町割りは依然健在で、平成以降は竪町割りに統一されているようだ。
筋と通のことについては、大阪市内の筋・通一覧および、参考※2:「大阪市立図書館」の調べる・相談する>おおさか資料室>よくある質問>“通り”と“筋”を参照されるとよい。
御堂筋の名は、上掲の図、また、※1の宝暦大阪図(1759年=宝暦9年)にも見られるように、道路脇にある通称北御堂(正式名称本願寺津村別院)と通称南御堂(正式名称:真宗大谷派難波別院)を繋ぐ道であることに由来するといわれている。
浄土真宗本願寺派と大坂との関係は古く、本願寺の蓮如が1496(明応5)年に石山御坊(後の石山本願寺)を現在の大阪城の地に建設したのが始まりとされる。
織田信長との「石山合戦」のあと焼失し、1951 (天正19 )年には豊臣秀吉の寄進により京都に本山が移転する。津村別院は当初、「津村御坊」の名で1597(慶長2)年に造られた。
難波別院は浄土真宗の真宗大谷派と呼ばれる宗派であり、1596 (文禄5 )年、真宗大谷派の開祖である教如が、現在の北区の天満橋と天神橋の間に位置する「渡辺の地」に大谷本願寺を開創したことに始まる。
しかし、1583 (天正11 )年、豊臣秀吉が石山本願寺跡に大阪城を築城。城下町を整備していくにあたり、石山本願寺に隣接して建っていた大谷本願寺は、秀吉の命により1598(慶長3 )年現在地に移転した。
江戸時代は、これら南北の御堂を併せて「御堂さん」として親しまれていたそうだ。そして、大阪を南北に貫く現代の御堂筋の名づけ親は関一(せき はじめ)元大阪市長だそうである。この御堂筋とは切っても切れない関係にある関一市長のしたことはこの後でまた記すことにする。
Wikipediaによれば、文献上に、御堂筋の名が初めて現れるのは、1615(元和元)年、大坂夏の陣の落人狩りなどを記録した徳島藩の「大坂濫妨人落人改之帳」の中で、捕らえられた男女のうち、男1人の居場所として「大坂御堂筋」と記されているのが最初だそうである。
ここに珍しい名前「濫妨人」が出てくるがこれは「らんぼうにん」のことである。
現代使われている言葉「らんぼう」を国語辞書で引くと「乱暴/濫妨」の字が出てくるが、「乱暴」と「濫妨」では、発音は同じでも意味は相当違ったものである。
戦国時代の戦場は「濫妨狼藉」と「苅田狼藉」の世界でもあった。
ここで言う「濫妨」とは、村や町を襲って家々に火をつけたり家財や人や牛馬を奪う事をさしている。戦闘の最中や直後にはこれがかならず行われていたようであった。
この濫妨狼藉の人を奪い取る目的には2つあったようだ。
一つは身代金目当てであり、村や町に多くの親族をもっている有力者やその家族であった場合は、親族が身代金と引き換えに奪い取られた人を請戻した。
そして、身代金があてにできないような人々の場合は、「人取り」(人捕り)を行ったものが自家の下人として働かせるか、もしくは「奴隷商人」などに売り渡して金に替えるかであった。
戦国期から江戸初期まで、そもそも戦場で人をさらう=略奪することがことさら“悪事”であるとは思われていなかった。人をさらって売り飛ばし、それを利益、手柄としてきた主役は、主として敵方の所謂「雑兵」(ぞうひょう)たちであった。
戦国大名の軍隊で騎乗の武士は大体1割程度であり、そのほかは、「身分の低い兵卒」・・・雑兵であった。戦国時代の戦争では、城を攻める時にはまず雑兵が敵国の村に押し入り、放火、略奪、田畑の破壊をするのが常道であったのだ。
領内が敵に濫妨されるのを防ぎ、配下の兵士に敵地で濫妨させてやることが、領主の器量の見せどころでもあったようだ。
敗戦の落人をまっていたのはこのような敵による残党狩りばかりではなかった。力尽きた彼らからめぼしいものを奪おうと落ち行く先々で土豪や庶民までもが待ち受けていた。
良く知られている山崎の合戦で敗れた明智光秀も土民の槍にかかっている。
落人の中でも、特に力のない女子や子供は悲劇であった。主人の庇護を失った子女が安寿と厨子王のような境遇に落とされたことも十分にうなずけることである。
上掲の画象1枚目は、『大坂夏の陣図屏風』(部分)に描かれている戦乱に逃げ惑う女達の姿である(週刊朝日百科日本の歴史27号より)、また、2枚目も、同じく、同屏風絵(部分)に描かれている若い娘を拐かそうとする雑兵の姿を描いている(同2729号より)。
『大坂夏の陣図屏風」(大阪城天守閣蔵。重要文化財)は六曲一双の屏風画である。これは黒田長政が徳川方の武将として大坂夏の陣(1615)に参戦したあと、その戦勝を記念して作らせたもので、現存する黒田家文書によると、長政自身が存命中に自ら作成を指示したとされているという。
黒田長政は播磨国姫路城で豊臣秀吉の軍師である黒田孝高(官兵衛・如水)の長男として生まれ、秀吉に仕えた戦国武将であった。
秀吉の死後、関ヶ原の合戦(1600年)では東軍として戦い、東軍勝利の立役者の一人となる。その功績で筑前・福岡藩50万石の藩主になった人物である。
「大坂夏の陣図屏風」の右隻の六曲には、徳川軍と豊臣軍の戦闘場面が描かれている。そして左隻には大坂城から淀川方面へ逃げる敗残兵や民衆、それを追いかけたり待ち受けたりする徳川方の武士・雑兵が描かれている。この左隻の中に、上記のような「濫妨狼藉の現場」が描かれているのである。
戦国時代における「奴隷狩り」や「奴隷売買」を詳述した本として、藤本久志・立教大学名誉教授の『新版 雑兵たちの戦場 - 中世の傭兵と奴隷狩り - 』(朝日選書)があり、この本の表紙に「大坂夏の陣図屏風」の画が使われており、この「大坂夏の陣図屏風」の画と共に、この本の内容から奴隷狩り・奴隷売買の部分を詳しく紹介しているのが、以下参考の※3、※4、である。興味のある人は見られるとよい。
また、『雑兵たちの戦場』の中には、以下のような興味深いことが書かれているそうだ。
“幕府は戦争が終わった後の「落人改あらため令」の中で、大坂より外で略奪した人を解放し返せ、との命令を出している。この幕令をうけた蜂須賀軍は、ただちに自軍の奴隷狩りの実状を調査し、その結果を「大坂濫妨人ならびに落人改之帳」という文書にして幕府に提出した。
この文書によると、略奪された人の数は、奉公人男 17人女33人計50人。町人男 29人女47人計76人、子ども男 35人 女16人計51人、合計男81人女96人計177人(奉公人は「武家の奉公人」の意味)と徳川幕府に報告している。
これを見ると、成年男子は全体の4分の1に過ぎず、明らかに女と子供が多数を占めている。
蜂須賀軍は「自軍の人取りはすべて戦場の行為であり、合法だ」と主張していて、それを証明するのが「濫妨人改之帳」を提出した狙いであったという。
合戦で捕獲される人間の多くが女と子供であったという傾向は、蜂須賀軍に限らず、またどの合戦かに拘わらず、大体共通していたことのようだという。男より女・子供の方が捕獲し易いことは、説明するまでもないだろう。
江戸期に入ると、住友・鴻池・淀屋などの豪商が活躍した。
住友・鴻池と並んで淀屋が出てくるが、淀屋は、江戸時代の大坂で繁栄を極めた豪商である(淀屋のこと詳しくは※5参照)。
大阪夏の陣で荒廃した町を復興させようという徳川幕府の政策のもと、材木商であった「淀屋」初代・淀屋常安が、中之島の開拓を行い、そこに大名の蔵屋敷が次々と建てられ、諸藩が自国の産品を商うことで、大阪の町が栄え、「天下の台所」と呼ばれるようになった。
常安が残した最も大きなものは、先物取引のシステムであった。徳川幕府は米経済を基盤としていたから、諸藩は米を蔵屋敷に蓄え、必要に応じて換金し、藩経済を運営していた。
しかし、取引が米問屋の間で個々に行われていたために品質や価格がまちまちであった。
常安は、これに目を付け、幕府に米市場の設置を願い出て米の取引所を開設。諸大名は、その水運の便利さと、蔵屋敷に近いこともあって、こぞって米市場へ米を持ち込むようになり、やがて米相場が立ち、米の価格の安定と品質の向上に寄与することになった。
現在の地名「淀屋橋」は、米市に集う人々のために、二代目が架けた橋に由来するそうだ。豪商淀屋が天下の台所としての大阪の基礎を築き、淀屋橋は商都大阪の中心となっていく。
淀屋は4代目淀屋重当の頃、最も繁昌したが、彼の死後米市場は堂島へ移った。
そして1730(享保15)年に幕府により先物取引が正式に承認された。堂島米会所(※6参照)は世界初の公設先物取引市場だといわれている。
そして、金融の今橋、薬の道修町などが形成され、懐徳堂、適塾といった学問所ができ、活気ある街になった。
江戸時代以来御堂筋と呼ばれていた区間は、もともと本線中の北御堂と、南御堂の門前の東側を通る在来の道(船場の淡路町 - 博労町間)においてのみで、同区間以北では淀屋橋(土佐堀川)を渡って中之島へ出る道であることから「淀屋橋筋」と呼ばれていた。
現在のように一本道ではないが大江橋(堂島川)と蜆(しじみ)橋(曾根崎川)を渡って曾根崎新地へ出ることもできた。
しかし、同区間以南では順慶町(現在の町名は南船場)通など東西方向の通が主体となり、名称らしい名称すらなく、長堀川には架橋されず末吉橋通で完結していた。
また、淡路町通との交差点では屈折も見られ、道幅は3間(約5.4m)ほどしかなく、堺筋・難波橋筋・心斎橋筋などと比べて見劣りのする、人通りの少ない道であった。
明治期においても東西軸である「通り」が交通の中心であったが、梅田と難波に駅ができると、南北軸の必要性が高まった。
大正時代に入ると、大阪市助役から、第7代大阪市長となった關一(せき はじめ)により、大規模な都市計画事業が打ち出された。
御堂筋は、大阪の交通の根幹としてだけではなく、近代都市大阪のシンボルとして計画された。
既に大正8年から調査研究が開始されていたが、大正10年内閣で認可され、1924(大正13)年に更生第一次都市計画事業として決定した。それまで幅54mほどであった道を、幅44m、延長4370mの道路にし、しかもその下に地下鉄を建設するという大事業であった。
1926(大正15)年から地下鉄御堂筋線建設と合わせて拡幅工事が行われた。財政難と用地確保に時間がかかったこと、また技術上の困難が多かったことなどから、翌・1937(昭和12)年5月11日に完成し、ほぼ現在の姿となった。
新橋(長堀川)、道頓堀橋(道頓堀川)が架橋されたのはこの時である。また、この工事の影響で北御堂が移動し、南御堂とともに沿道に並ぶ形になったため、このときから「御堂筋」がそのまま本線の名前として採用され、使われるようになった。
また、地下鉄は、1933(昭和8)年5月20日、梅田駅(仮) - 心斎橋駅間 (3.1 km) が開業。1935(昭和10)年10月6日には、梅田駅本駅が開業。 10月30日に心斎橋駅 - 難波駅間 (0.9 km) が開業し、来たから南までつながった。
コンクリートとアスファルト全面舗装の御堂筋は、路面を、高速車道、植樹帯、緩速車道、歩道に分けられ、完成当初の車道は中央部分が「高速車道」、いわゆる側道部分が「緩速車道」として設計されており、緩速車道は牛馬車や荷車、自転車、そして人力車などの軽車両の通行に供されていた。車社会となった現代においてはその役割は変化したが、戦前の穏やかな都市の雰囲気が偲ばれる。
また、歩道と植樹帯には市内において初の街路灯が設置された。街路灯とともに美しい景観を添えるイチョウ並木は、建設当時からのもの。
1934(昭和9)年から緩速車道の分離帯に2列、歩道に2列の植樹が始まり、計928本が植えられた(御堂筋の歴史など詳しくは、参考※1:また、※7の御堂筋資料館など参照)。
『奥の細道』で著名な江戸時の俳諧師松尾芭蕉。
その芭蕉の終焉の地は、1694(元禄7)年10月12日、場所は大坂 南久太郎町御堂ノ前 (現大阪市北久宝寺町三丁目)花屋仁右衛門貸座敷であったという(花屋仁右衛門での臨終の様子は、参考※8のここ参照)。
また、この場所は、御堂筋拡幅により現在は御堂筋の車線上にある。そのため、南御堂の御堂筋を挟んで向かい側、車線の分離帯に「このふきん芭蕉終焉ノ地」と刻まれた碑が建てられている。以下がそれである。
また、南御堂の境内には、芭蕉生前の最後の句の1つ『旅に病で 夢は枯野を 駆けまはる』(ここ参照)の句碑がある。
上掲の図は、拡幅完成後の横断構成図。参考※1の国土交通省近畿地方整備局のものを借用。
昭和初期、大阪市長関一の計画のもと、旧来の狭い道を一気に現在の幅にまで拡張したこの工事では同時に地下鉄の建設までもが行われた。まだ、自動車時代の到来する前に、これほど巨大な道路を作ることには当初批判も大きかったようだが、関の先見性は後に高く評価されることになった。
当初より電線を全て地下に配し、イチョウ並木をつくり、周辺ビルのスカイライン(風景)も100尺規制により、高さは約30m以内に制限した美しい景観をもつメインストリートとして注目を集めてきた。
現在は、ビルのスカイラインは50mに緩和され、商業施設や、オフィスビルが立ち並んでいる。また、完成時は2車線+1緩速車線の対面交通であったが、大阪万博開催を機に梅田新道以南が南行き一方通行となっている。
御堂筋のとくにミナミ近辺では、すぐ東側に心斎橋筋・戎橋筋といった繁華街が南北に平行に走り、東西には碁盤の目のようにオフィス街や、南船場・アメリカ村などのファッション街が交差し活気に溢れている。
また、近年では御堂筋沿道に、ヘンリー・ムーアや「考える人」で有名なオーギュスト・ロダン、高村光太郎など内外の有名作家による彫刻27体が飾られ、通り行く人々を楽しませている(※7の御堂筋の彫刻参照)。
毎年10月には、新たな大阪のビッグイベント「御堂筋Kappo」(みどうすじカッポ=闊歩)が開催され、歩行者に開放された御堂筋(御堂筋が歩行者天国となる)では、様々な体験型イベントも開催されている。
色づいた銀杏が御堂筋を黄金色に染める11月下旬〜12月上旬は、このストリートの最も美しい季節である。
大阪のシンボルである御堂筋のイチョウをイルミネーションで装飾することにより、世界に類を見ない景観を創出し、美しい光のまちとして、人々をひきつける賑わいをつくり、大阪全体の活性化を図ろうと行われてきたイベントOSAKA光のルネサンスも、2003年初開催から年々規模が拡大するに伴い来場者も増え、2010(平成22)年度開催は約286万人もの来場者があり、大阪冬の風物詩として府の内外から多くの人が来場したという。
昨・2012(平成24)年に10年目を迎えた同イベントは、2013年度より、 2015年を目途に世界的な光の祭典・フランス・リヨンのリュミエール祭(Fetes des Lumieres、フェット・デ・リュミエール。街中がイリュミネーションで彩られる。「光の祭典」参照)をめざして、中之島と御堂筋をコアプログラムとして大阪市中心部各エリアの光プログラムが一体となる『大阪・光の饗宴』として新たに発信するという(実行委員会も「大阪・光の饗宴実行委員会」に改める・以下参考の※9:「光のルネッサンス」参照)。
大阪再生のためには自治体とし出来ることの限界があり、政治を変えなくてはいけないと政治集団大阪維新の会まで立ち上げた橋下 徹 市長。
最近は、なにかと批判する人も多くなってきたようだが、私は、今の政治家の中で、身を犠牲にしてまで自分の住んでいる町のために尽くそうとする人などおそらく皆無と思われる中で、本当によくやっていると思う。よいと思うことは、どんどんやればよい。この光の祭典も是非成功させてもらいたいと願っている。
この事業の費用の半分は寄附金で賄うそうだが、世界に誇れるイベントをするため皆さんも協力してあげてください。
それを応援しようとしてのものかどうか知らないが、謎の歌が今ネット上で話題になっている。
曲のタイトルは「御堂筋を歩こう」。
元々は、昨年の1月中旬頃に何の告知も無く突如としてYouTube上にアップされていた曲だそうだ。
単に堂島から心斎橋までの地名を羅列しているだけのようにみえて、歌詞を良く聴くと人名等の隠れたキーワードが見えてくる不思議な歌だ。
歌詞、一番と二番があるが一番を引用してみよう。
(歌詞一番)
堂島川の橋もと 通る【橋下徹】船
新しい蝶【新市長】が飛ぶ
貴女が待つ1時【松井知事】に
心斎橋まで ゆっくりと歩いて行こう
幸せへの鍵は期待しないことだと
誰かが言っていたよね
淀屋橋から 土佐掘へ
北浜 今橋 高麗橋へ
二人よく歩いたね
伏見町 道修町
昔ながらの
街が変わっても
変わらないで 貴女だけは
御堂筋を歩こう
【】内の名前が読み込まれている。続いて二番もあるが、その「締め括りのメッセージ」は「街も自分も変わらないとね 御堂筋を歩こう」・・・である。
PV(プロモーションビデオ 。promotion video)も、「御堂筋イルミネーション」であり、メッセージ性も強く、また、社会風刺ともとれる意味深な曲であるが、なかなかしっくりとした味わい深い曲ではある。謎のアーティストは“ssllee”(スリー)。Wikipediaには、大阪府出身のシンガーソングライター花沢 耕太(はなざわ こうた)ではないかとあるのだが・・・その真実はよくわからない。下のYouTubeで曲が聞けるので、聞いてみるとよい。
御堂筋を歩こう / ssllee (スリー) - YouTube
御堂筋を歩こうと言えば、私などの年代の者は、先ず坂本スミ子の「 たそがれの御堂筋 」 を思い浮かべる。一番の歌詞だけを、下に書いてみる。
御堂筋の たそがれは
若い二人の 夢の道
お茶を飲もうか 心斎橋で
踊り明かそう 宗右衛門町
送りましょうか 送られましょか
せめて難波の 駅までも ウーウ
今日の僕等の 思い出を
テールランプが 見つめてる
「 たそがれの御堂筋 」(作詞:古川益雄,作曲:加藤ヒロシ)
全歌詞はここを参照⇒ 坂本スミ子/歌詞:たそがれの御堂筋/うたまっぷ
1966(昭和41)年に、フィリップス・レコード(Philips Records)より発売されたシングルである。
歌手は、「ラテンの女王」の異名も持つ坂本スミ子のゆったりとした時の流れを感じさせる曲である。
昭和40年代、若者がまだ純粋な恋に生きる時代の恋人同士が、たそがれ時の御堂筋を、ゆっくりと歩いている雰囲気、また当時の風景が蘇ってくるような曲であり、私の大好きな曲である。以下で曲を聞ける。
「 たそがれの御堂筋 」 坂本スミ子 - YouTube
私は、学校を卒業し、始めて就職をしたのが船場の中心地本町に本社を構える商社であった。
酒が大好きなので会社の呑兵衛仲間と南の宗右衛門町や法善寺横丁、また、北の新地などでよく飲み明かしたものだが、時には、恋心を抱いている会社の若い女性と二人で心斎橋でお茶を飲み、夕食をし、ダンスホールなどで楽しい時を過ごしたあと、南海沿線に住む彼女が家に帰るのに南海電車の難波駅まで送ってもいったものだ。この歌を聞くと、そんな自分の青春時代を思い出す。
初めて御堂筋のイチョウ並木の景観を見たときには感動し、季節になると梅田まで歩いたことも何度かある。その時、街路樹を歩きながら銀杏の実を拾い集めたりもしたものだが、足で踏み潰された銀杏の実は、独特の匂いがし、これにはいささか閉口したものだが、近年この実の臭いを嫌う人が多いものだから、植え替え時には、実をつけない雄株が植えられるようになっているようだ。
だから御堂筋のイチョウ並木での銀杏拾いは、近々出来なくなくなるかもしれないな〜。これはこれでちょっとさびしい気もする。
この銀杏並木は、大阪府民投票の結果により、1989(平成元)年4月に大阪みどりの百選に選定されている。また、2000年(平成12年)には、大阪市指定文化財になっているようだ(※10参照)。
大坂の御堂筋は、このような銀杏並木の景観だけでなく、すばらしい歴史遺産や近代建築物群も多く残っている。
しかし、私など、若いころは、酒を飲むことしか興味がなかったので、好きな子とデートする以外は、同じ会社の呑兵衛仲間と年中キタや南の夜の街はうろつき歩いたが、昼間に、このような、歴史や文化・芸術にかかわるようなものをじっくりと見て回ったことはない。
だから、一度ゆっくりとそのようなものを見ながら、家人とでも散策をしてみたいものだと思っている。そのためには、以下参考の※7にある御堂筋ウオーキング,や※10など利用すると便利なのではないか。
皆さんも歴史ある大阪の街をゆっくりとウオーキングされてはいかがですか。
参考:
※1:3 御堂筋について(PDF:5.58MB) - 国土交通省近畿地方整備局
http://www.kkr.mlit.go.jp/osaka/commu/mido/pdf/3mido-nitsuite.pdf#search='%E5%BE%A1%E5%A0%82%E7%AD%8B%E3%81%AE%E5%A4%89%E9%81%B7'
※2:大阪市立図書館
http://www.oml.city.osaka.jp/index.html
※3:No.33 - 日本史と奴隷狩り
http://hypertree.blog.so-net.ne.jp/2011-07-28
※4:No.34 - 大坂夏の陣図屏風 [歴史]
http://hypertree.blog.so-net.ne.jp/2011-08-11
※5:淀屋常安
http://www.asahi-net.or.jp/~uw8y-kym/yodoya-joan00.html
※6:大江戸経済学 大坂堂島米会所
http://www.h6.dion.ne.jp/~tanaka42/doujima.html
※7:「ひと・みち・くらし」 >御堂筋情報室
http://www.kkr.mlit.go.jp/osaka/commu/mido/index.html
※8:芭蕉DB:芭 蕉 年 表
http://www2.yamanashi-ken.ac.jp/~itoyo/basho/index.htm
※9:光のルネッサンス
http://www.hikari-renaissance.com/outline/outline.html
※10:大阪市指定文化財分類一覧表
http://www.city.osaka.lg.jp/kyoiku/page/0000111912.html
大阪市HPサイトマップ
http://www.city.osaka.lg.jp/main/sitemap.html
御堂筋の歴史 - 混沌写真
http://chaos08.blog17.fc2.com/blog-entry-32.html
藤木久志『雑兵たちの戦場』読後雑感
http://www5a.biglobe.ne.jp/~hampton/read007.htm
御堂筋-Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A1%E5%A0%82%E7%AD%8B
大阪市は大阪府のほぼ中央に位置する市で、同府の府庁所在地であり、政令指定都市に指定されている。
1889(明治22)年4月1日の市町村制開始の際に市制施行した日本の最初の市である。そして、日本を代表する商業地であるが、観光地としても栄えている歴史ある都市である。
大阪市は24区にわかれており、区の数は日本最多である。
エリアは、梅田、天満・福島など、JR大阪駅(梅田駅)を中心とした大阪市街地北部を総称した「キタ」と呼ばれるエリア、心斎橋、難波、阿倍野周辺など大阪市街地の南部を総称して「ミナミ」と呼ばれるエリア、そして港区のユニバーサルスタジオから安治川(大阪府大阪市西区にある地名)を隔てて南に位置するエリア天保山の3つのエリアに分類される。
御堂筋は、大阪市の中心部である「キタ」のJR大阪駅前から淀屋橋・本町・心斎橋を経て「ミナミ」の南海難波駅前間を貫く目抜き通りにあり、全長は約4km、幅員44m、片側6車線の道路であり、大阪駅に近い梅田新道交差点より北側は国道176号線、南側は国道25号線に指定されている。
尚、梅新南交差点より南側は南行きの一方通行である。地下には大阪市営地下鉄御堂筋線が敷設されている。
街路樹のイチョウでも有名な、大阪を代表する道路である。
大阪が位置する上町台地は、古代には「難波潟」(難波江に同じ、難波津のあるところ)と呼ばれる湿地に突き出した半島状の陸地で、「浪速(なみはや、なにわ)」、「難波(なにわ)」、「浪花(なにわ)」、「浪華(なにわ)」などと称されてきた。
縄文時代のころにあたる約7000年前、現在の上町台地は、海の中にある半島のかたちで存在していたことがわかっており、その範囲は、天満橋あたりを北端として、南にある四天王寺(天王寺区)、そこからさらに南西にある住吉のあたりまで、大阪市内をざくっと縦断していた台地であった。
そのように海に囲まれたところだったがゆえに、上町台地は外敵も侵入し難くく、水資源も豊富で、植物や動物、そして人間にとっても比較的生活しやすい環境だったのではないかといわれており、そのため、最初に日本列島あたりへ人々がやってくるとすぐにここで生活する人々が現れたみたいである。
その後、農耕文化が広まって一帯に集落もできてきたりするが、7世紀以降、国際交易が盛んになるなかで、海に囲まれたこの上町台地が重要な位置を占めるようになる。
難波津や住吉津(津は港のこと)を通じて物資や技術、文化が入ってくるようになり、時の天皇がここを拠点に中国大陸や朝鮮半島との交流を行ったり、聖徳太子が中国からやってきた仏教の興隆を願って日本で初めてのお寺・四天王寺を建立したりした。
そして645 (大化元) 年には難波京(難波宮)が営まれることにもなった。
都としての難波宮の存在は長くはなかったが、国際交易港・国内の物流の要所としての上町台地の役目は時代を経ても変わらず、織田 信長の死後その領土を継承した豊臣秀吉は、1583 (天正11)年、この上町台地の北端に位置する、石山本願寺の跡地を 直ちに、総石垣づくりにした大阪城を構えることとなった。
その一方、城の南、上町台地に続く玉造には大名邸や武士住宅を集中させて防御を固め、城の西側、既成市街地には町人を呼び寄せて多くの町屋を造り、北の天満は本願寺を寺内町とした後、寺町に変えた。
1598(慶長3)年、秀吉は、死に臨んで、惣構(そうがまえ)の}普請を指示、台地の南側に、空堀(惣構)を儲け、惣構内の町屋を東横堀(惣構)外の船場に出し、人質を住まわせる大名邸を造っている。
秀吉の没後は、筆頭の大老徳川家康が西の丸に入って政務をみ、そこにも天守を建てた。また、関ヶ原の戦いの際には西軍の主将となった毛利輝元が西の丸に入った。
上掲の画象は、その頃の大坂の景観であり、北から南を願望したものである。画像・文などは、私の蔵書『週刊朝日百科 日本の歴史』27号から借用した。字が小さく見難いので、赤で四角く囲っているものがあるが、大阪城に近いところの南北の筋が谷町筋である。それに並行して、右の方の南北に走っているのが御堂筋、その右上下に南御堂、北御堂が見られるだろう。詳しくは、拡大画像を見られるとよくわかる。
以下の画像、向かって左部分をクリックするとその部分の拡大画像が、右部分をクリックすると右部分の拡大画像を見ることができる。
このように大阪は、大阪城築城とほぼ同時期に、船場地区を中心に御堂筋周辺の開発も始まり、街区は基本的に42 間の正方形で、街路は碁盤目状に直交している。船場の街並みは、大坂城の西に位置することから東西方向が竪(たて)となり、東西方向の街路を通(とおり)と称し、計23本。当初の幅員は4.3間に設定されていた。一方、南北方向は横(よこ)となり、南北方向の街路を筋(すじ)と称し、計13本。当初は補助的な街路とされたために幅員は3.3間と通に対して狭く設定されていた(参考※1参照)。
町割りは基本的に通に沿った両側町で、東から丁目数にして5程度の町が多かった。ただし、西横堀筋は全て南北方向の横町割りで、渡辺筋や御霊筋にも横町割りが見られた。明治以降に通と筋の主従関係が逆転したが、東西方向の竪(縦、たて)町割りは依然健在で、平成以降は竪町割りに統一されているようだ。
筋と通のことについては、大阪市内の筋・通一覧および、参考※2:「大阪市立図書館」の調べる・相談する>おおさか資料室>よくある質問>“通り”と“筋”を参照されるとよい。
御堂筋の名は、上掲の図、また、※1の宝暦大阪図(1759年=宝暦9年)にも見られるように、道路脇にある通称北御堂(正式名称本願寺津村別院)と通称南御堂(正式名称:真宗大谷派難波別院)を繋ぐ道であることに由来するといわれている。
浄土真宗本願寺派と大坂との関係は古く、本願寺の蓮如が1496(明応5)年に石山御坊(後の石山本願寺)を現在の大阪城の地に建設したのが始まりとされる。
織田信長との「石山合戦」のあと焼失し、1951 (天正19 )年には豊臣秀吉の寄進により京都に本山が移転する。津村別院は当初、「津村御坊」の名で1597(慶長2)年に造られた。
難波別院は浄土真宗の真宗大谷派と呼ばれる宗派であり、1596 (文禄5 )年、真宗大谷派の開祖である教如が、現在の北区の天満橋と天神橋の間に位置する「渡辺の地」に大谷本願寺を開創したことに始まる。
しかし、1583 (天正11 )年、豊臣秀吉が石山本願寺跡に大阪城を築城。城下町を整備していくにあたり、石山本願寺に隣接して建っていた大谷本願寺は、秀吉の命により1598(慶長3 )年現在地に移転した。
江戸時代は、これら南北の御堂を併せて「御堂さん」として親しまれていたそうだ。そして、大阪を南北に貫く現代の御堂筋の名づけ親は関一(せき はじめ)元大阪市長だそうである。この御堂筋とは切っても切れない関係にある関一市長のしたことはこの後でまた記すことにする。
Wikipediaによれば、文献上に、御堂筋の名が初めて現れるのは、1615(元和元)年、大坂夏の陣の落人狩りなどを記録した徳島藩の「大坂濫妨人落人改之帳」の中で、捕らえられた男女のうち、男1人の居場所として「大坂御堂筋」と記されているのが最初だそうである。
ここに珍しい名前「濫妨人」が出てくるがこれは「らんぼうにん」のことである。
現代使われている言葉「らんぼう」を国語辞書で引くと「乱暴/濫妨」の字が出てくるが、「乱暴」と「濫妨」では、発音は同じでも意味は相当違ったものである。
戦国時代の戦場は「濫妨狼藉」と「苅田狼藉」の世界でもあった。
ここで言う「濫妨」とは、村や町を襲って家々に火をつけたり家財や人や牛馬を奪う事をさしている。戦闘の最中や直後にはこれがかならず行われていたようであった。
この濫妨狼藉の人を奪い取る目的には2つあったようだ。
一つは身代金目当てであり、村や町に多くの親族をもっている有力者やその家族であった場合は、親族が身代金と引き換えに奪い取られた人を請戻した。
そして、身代金があてにできないような人々の場合は、「人取り」(人捕り)を行ったものが自家の下人として働かせるか、もしくは「奴隷商人」などに売り渡して金に替えるかであった。
戦国期から江戸初期まで、そもそも戦場で人をさらう=略奪することがことさら“悪事”であるとは思われていなかった。人をさらって売り飛ばし、それを利益、手柄としてきた主役は、主として敵方の所謂「雑兵」(ぞうひょう)たちであった。
戦国大名の軍隊で騎乗の武士は大体1割程度であり、そのほかは、「身分の低い兵卒」・・・雑兵であった。戦国時代の戦争では、城を攻める時にはまず雑兵が敵国の村に押し入り、放火、略奪、田畑の破壊をするのが常道であったのだ。
領内が敵に濫妨されるのを防ぎ、配下の兵士に敵地で濫妨させてやることが、領主の器量の見せどころでもあったようだ。
敗戦の落人をまっていたのはこのような敵による残党狩りばかりではなかった。力尽きた彼らからめぼしいものを奪おうと落ち行く先々で土豪や庶民までもが待ち受けていた。
良く知られている山崎の合戦で敗れた明智光秀も土民の槍にかかっている。
落人の中でも、特に力のない女子や子供は悲劇であった。主人の庇護を失った子女が安寿と厨子王のような境遇に落とされたことも十分にうなずけることである。
上掲の画象1枚目は、『大坂夏の陣図屏風』(部分)に描かれている戦乱に逃げ惑う女達の姿である(週刊朝日百科日本の歴史27号より)、また、2枚目も、同じく、同屏風絵(部分)に描かれている若い娘を拐かそうとする雑兵の姿を描いている(同2729号より)。
『大坂夏の陣図屏風」(大阪城天守閣蔵。重要文化財)は六曲一双の屏風画である。これは黒田長政が徳川方の武将として大坂夏の陣(1615)に参戦したあと、その戦勝を記念して作らせたもので、現存する黒田家文書によると、長政自身が存命中に自ら作成を指示したとされているという。
黒田長政は播磨国姫路城で豊臣秀吉の軍師である黒田孝高(官兵衛・如水)の長男として生まれ、秀吉に仕えた戦国武将であった。
秀吉の死後、関ヶ原の合戦(1600年)では東軍として戦い、東軍勝利の立役者の一人となる。その功績で筑前・福岡藩50万石の藩主になった人物である。
「大坂夏の陣図屏風」の右隻の六曲には、徳川軍と豊臣軍の戦闘場面が描かれている。そして左隻には大坂城から淀川方面へ逃げる敗残兵や民衆、それを追いかけたり待ち受けたりする徳川方の武士・雑兵が描かれている。この左隻の中に、上記のような「濫妨狼藉の現場」が描かれているのである。
戦国時代における「奴隷狩り」や「奴隷売買」を詳述した本として、藤本久志・立教大学名誉教授の『新版 雑兵たちの戦場 - 中世の傭兵と奴隷狩り - 』(朝日選書)があり、この本の表紙に「大坂夏の陣図屏風」の画が使われており、この「大坂夏の陣図屏風」の画と共に、この本の内容から奴隷狩り・奴隷売買の部分を詳しく紹介しているのが、以下参考の※3、※4、である。興味のある人は見られるとよい。
また、『雑兵たちの戦場』の中には、以下のような興味深いことが書かれているそうだ。
“幕府は戦争が終わった後の「落人改あらため令」の中で、大坂より外で略奪した人を解放し返せ、との命令を出している。この幕令をうけた蜂須賀軍は、ただちに自軍の奴隷狩りの実状を調査し、その結果を「大坂濫妨人ならびに落人改之帳」という文書にして幕府に提出した。
この文書によると、略奪された人の数は、奉公人男 17人女33人計50人。町人男 29人女47人計76人、子ども男 35人 女16人計51人、合計男81人女96人計177人(奉公人は「武家の奉公人」の意味)と徳川幕府に報告している。
これを見ると、成年男子は全体の4分の1に過ぎず、明らかに女と子供が多数を占めている。
蜂須賀軍は「自軍の人取りはすべて戦場の行為であり、合法だ」と主張していて、それを証明するのが「濫妨人改之帳」を提出した狙いであったという。
合戦で捕獲される人間の多くが女と子供であったという傾向は、蜂須賀軍に限らず、またどの合戦かに拘わらず、大体共通していたことのようだという。男より女・子供の方が捕獲し易いことは、説明するまでもないだろう。
江戸期に入ると、住友・鴻池・淀屋などの豪商が活躍した。
住友・鴻池と並んで淀屋が出てくるが、淀屋は、江戸時代の大坂で繁栄を極めた豪商である(淀屋のこと詳しくは※5参照)。
大阪夏の陣で荒廃した町を復興させようという徳川幕府の政策のもと、材木商であった「淀屋」初代・淀屋常安が、中之島の開拓を行い、そこに大名の蔵屋敷が次々と建てられ、諸藩が自国の産品を商うことで、大阪の町が栄え、「天下の台所」と呼ばれるようになった。
常安が残した最も大きなものは、先物取引のシステムであった。徳川幕府は米経済を基盤としていたから、諸藩は米を蔵屋敷に蓄え、必要に応じて換金し、藩経済を運営していた。
しかし、取引が米問屋の間で個々に行われていたために品質や価格がまちまちであった。
常安は、これに目を付け、幕府に米市場の設置を願い出て米の取引所を開設。諸大名は、その水運の便利さと、蔵屋敷に近いこともあって、こぞって米市場へ米を持ち込むようになり、やがて米相場が立ち、米の価格の安定と品質の向上に寄与することになった。
現在の地名「淀屋橋」は、米市に集う人々のために、二代目が架けた橋に由来するそうだ。豪商淀屋が天下の台所としての大阪の基礎を築き、淀屋橋は商都大阪の中心となっていく。
淀屋は4代目淀屋重当の頃、最も繁昌したが、彼の死後米市場は堂島へ移った。
そして1730(享保15)年に幕府により先物取引が正式に承認された。堂島米会所(※6参照)は世界初の公設先物取引市場だといわれている。
そして、金融の今橋、薬の道修町などが形成され、懐徳堂、適塾といった学問所ができ、活気ある街になった。
江戸時代以来御堂筋と呼ばれていた区間は、もともと本線中の北御堂と、南御堂の門前の東側を通る在来の道(船場の淡路町 - 博労町間)においてのみで、同区間以北では淀屋橋(土佐堀川)を渡って中之島へ出る道であることから「淀屋橋筋」と呼ばれていた。
現在のように一本道ではないが大江橋(堂島川)と蜆(しじみ)橋(曾根崎川)を渡って曾根崎新地へ出ることもできた。
しかし、同区間以南では順慶町(現在の町名は南船場)通など東西方向の通が主体となり、名称らしい名称すらなく、長堀川には架橋されず末吉橋通で完結していた。
また、淡路町通との交差点では屈折も見られ、道幅は3間(約5.4m)ほどしかなく、堺筋・難波橋筋・心斎橋筋などと比べて見劣りのする、人通りの少ない道であった。
明治期においても東西軸である「通り」が交通の中心であったが、梅田と難波に駅ができると、南北軸の必要性が高まった。
大正時代に入ると、大阪市助役から、第7代大阪市長となった關一(せき はじめ)により、大規模な都市計画事業が打ち出された。
御堂筋は、大阪の交通の根幹としてだけではなく、近代都市大阪のシンボルとして計画された。
既に大正8年から調査研究が開始されていたが、大正10年内閣で認可され、1924(大正13)年に更生第一次都市計画事業として決定した。それまで幅54mほどであった道を、幅44m、延長4370mの道路にし、しかもその下に地下鉄を建設するという大事業であった。
1926(大正15)年から地下鉄御堂筋線建設と合わせて拡幅工事が行われた。財政難と用地確保に時間がかかったこと、また技術上の困難が多かったことなどから、翌・1937(昭和12)年5月11日に完成し、ほぼ現在の姿となった。
新橋(長堀川)、道頓堀橋(道頓堀川)が架橋されたのはこの時である。また、この工事の影響で北御堂が移動し、南御堂とともに沿道に並ぶ形になったため、このときから「御堂筋」がそのまま本線の名前として採用され、使われるようになった。
また、地下鉄は、1933(昭和8)年5月20日、梅田駅(仮) - 心斎橋駅間 (3.1 km) が開業。1935(昭和10)年10月6日には、梅田駅本駅が開業。 10月30日に心斎橋駅 - 難波駅間 (0.9 km) が開業し、来たから南までつながった。
コンクリートとアスファルト全面舗装の御堂筋は、路面を、高速車道、植樹帯、緩速車道、歩道に分けられ、完成当初の車道は中央部分が「高速車道」、いわゆる側道部分が「緩速車道」として設計されており、緩速車道は牛馬車や荷車、自転車、そして人力車などの軽車両の通行に供されていた。車社会となった現代においてはその役割は変化したが、戦前の穏やかな都市の雰囲気が偲ばれる。
また、歩道と植樹帯には市内において初の街路灯が設置された。街路灯とともに美しい景観を添えるイチョウ並木は、建設当時からのもの。
1934(昭和9)年から緩速車道の分離帯に2列、歩道に2列の植樹が始まり、計928本が植えられた(御堂筋の歴史など詳しくは、参考※1:また、※7の御堂筋資料館など参照)。
『奥の細道』で著名な江戸時の俳諧師松尾芭蕉。
その芭蕉の終焉の地は、1694(元禄7)年10月12日、場所は大坂 南久太郎町御堂ノ前 (現大阪市北久宝寺町三丁目)花屋仁右衛門貸座敷であったという(花屋仁右衛門での臨終の様子は、参考※8のここ参照)。
また、この場所は、御堂筋拡幅により現在は御堂筋の車線上にある。そのため、南御堂の御堂筋を挟んで向かい側、車線の分離帯に「このふきん芭蕉終焉ノ地」と刻まれた碑が建てられている。以下がそれである。
また、南御堂の境内には、芭蕉生前の最後の句の1つ『旅に病で 夢は枯野を 駆けまはる』(ここ参照)の句碑がある。
上掲の図は、拡幅完成後の横断構成図。参考※1の国土交通省近畿地方整備局のものを借用。
昭和初期、大阪市長関一の計画のもと、旧来の狭い道を一気に現在の幅にまで拡張したこの工事では同時に地下鉄の建設までもが行われた。まだ、自動車時代の到来する前に、これほど巨大な道路を作ることには当初批判も大きかったようだが、関の先見性は後に高く評価されることになった。
当初より電線を全て地下に配し、イチョウ並木をつくり、周辺ビルのスカイライン(風景)も100尺規制により、高さは約30m以内に制限した美しい景観をもつメインストリートとして注目を集めてきた。
現在は、ビルのスカイラインは50mに緩和され、商業施設や、オフィスビルが立ち並んでいる。また、完成時は2車線+1緩速車線の対面交通であったが、大阪万博開催を機に梅田新道以南が南行き一方通行となっている。
御堂筋のとくにミナミ近辺では、すぐ東側に心斎橋筋・戎橋筋といった繁華街が南北に平行に走り、東西には碁盤の目のようにオフィス街や、南船場・アメリカ村などのファッション街が交差し活気に溢れている。
また、近年では御堂筋沿道に、ヘンリー・ムーアや「考える人」で有名なオーギュスト・ロダン、高村光太郎など内外の有名作家による彫刻27体が飾られ、通り行く人々を楽しませている(※7の御堂筋の彫刻参照)。
毎年10月には、新たな大阪のビッグイベント「御堂筋Kappo」(みどうすじカッポ=闊歩)が開催され、歩行者に開放された御堂筋(御堂筋が歩行者天国となる)では、様々な体験型イベントも開催されている。
色づいた銀杏が御堂筋を黄金色に染める11月下旬〜12月上旬は、このストリートの最も美しい季節である。
大阪のシンボルである御堂筋のイチョウをイルミネーションで装飾することにより、世界に類を見ない景観を創出し、美しい光のまちとして、人々をひきつける賑わいをつくり、大阪全体の活性化を図ろうと行われてきたイベントOSAKA光のルネサンスも、2003年初開催から年々規模が拡大するに伴い来場者も増え、2010(平成22)年度開催は約286万人もの来場者があり、大阪冬の風物詩として府の内外から多くの人が来場したという。
昨・2012(平成24)年に10年目を迎えた同イベントは、2013年度より、 2015年を目途に世界的な光の祭典・フランス・リヨンのリュミエール祭(Fetes des Lumieres、フェット・デ・リュミエール。街中がイリュミネーションで彩られる。「光の祭典」参照)をめざして、中之島と御堂筋をコアプログラムとして大阪市中心部各エリアの光プログラムが一体となる『大阪・光の饗宴』として新たに発信するという(実行委員会も「大阪・光の饗宴実行委員会」に改める・以下参考の※9:「光のルネッサンス」参照)。
大阪再生のためには自治体とし出来ることの限界があり、政治を変えなくてはいけないと政治集団大阪維新の会まで立ち上げた橋下 徹 市長。
最近は、なにかと批判する人も多くなってきたようだが、私は、今の政治家の中で、身を犠牲にしてまで自分の住んでいる町のために尽くそうとする人などおそらく皆無と思われる中で、本当によくやっていると思う。よいと思うことは、どんどんやればよい。この光の祭典も是非成功させてもらいたいと願っている。
この事業の費用の半分は寄附金で賄うそうだが、世界に誇れるイベントをするため皆さんも協力してあげてください。
それを応援しようとしてのものかどうか知らないが、謎の歌が今ネット上で話題になっている。
曲のタイトルは「御堂筋を歩こう」。
元々は、昨年の1月中旬頃に何の告知も無く突如としてYouTube上にアップされていた曲だそうだ。
単に堂島から心斎橋までの地名を羅列しているだけのようにみえて、歌詞を良く聴くと人名等の隠れたキーワードが見えてくる不思議な歌だ。
歌詞、一番と二番があるが一番を引用してみよう。
(歌詞一番)
堂島川の橋もと 通る【橋下徹】船
新しい蝶【新市長】が飛ぶ
貴女が待つ1時【松井知事】に
心斎橋まで ゆっくりと歩いて行こう
幸せへの鍵は期待しないことだと
誰かが言っていたよね
淀屋橋から 土佐掘へ
北浜 今橋 高麗橋へ
二人よく歩いたね
伏見町 道修町
昔ながらの
街が変わっても
変わらないで 貴女だけは
御堂筋を歩こう
【】内の名前が読み込まれている。続いて二番もあるが、その「締め括りのメッセージ」は「街も自分も変わらないとね 御堂筋を歩こう」・・・である。
PV(プロモーションビデオ 。promotion video)も、「御堂筋イルミネーション」であり、メッセージ性も強く、また、社会風刺ともとれる意味深な曲であるが、なかなかしっくりとした味わい深い曲ではある。謎のアーティストは“ssllee”(スリー)。Wikipediaには、大阪府出身のシンガーソングライター花沢 耕太(はなざわ こうた)ではないかとあるのだが・・・その真実はよくわからない。下のYouTubeで曲が聞けるので、聞いてみるとよい。
御堂筋を歩こう / ssllee (スリー) - YouTube
御堂筋を歩こうと言えば、私などの年代の者は、先ず坂本スミ子の「 たそがれの御堂筋 」 を思い浮かべる。一番の歌詞だけを、下に書いてみる。
御堂筋の たそがれは
若い二人の 夢の道
お茶を飲もうか 心斎橋で
踊り明かそう 宗右衛門町
送りましょうか 送られましょか
せめて難波の 駅までも ウーウ
今日の僕等の 思い出を
テールランプが 見つめてる
「 たそがれの御堂筋 」(作詞:古川益雄,作曲:加藤ヒロシ)
全歌詞はここを参照⇒ 坂本スミ子/歌詞:たそがれの御堂筋/うたまっぷ
1966(昭和41)年に、フィリップス・レコード(Philips Records)より発売されたシングルである。
歌手は、「ラテンの女王」の異名も持つ坂本スミ子のゆったりとした時の流れを感じさせる曲である。
昭和40年代、若者がまだ純粋な恋に生きる時代の恋人同士が、たそがれ時の御堂筋を、ゆっくりと歩いている雰囲気、また当時の風景が蘇ってくるような曲であり、私の大好きな曲である。以下で曲を聞ける。
「 たそがれの御堂筋 」 坂本スミ子 - YouTube
私は、学校を卒業し、始めて就職をしたのが船場の中心地本町に本社を構える商社であった。
酒が大好きなので会社の呑兵衛仲間と南の宗右衛門町や法善寺横丁、また、北の新地などでよく飲み明かしたものだが、時には、恋心を抱いている会社の若い女性と二人で心斎橋でお茶を飲み、夕食をし、ダンスホールなどで楽しい時を過ごしたあと、南海沿線に住む彼女が家に帰るのに南海電車の難波駅まで送ってもいったものだ。この歌を聞くと、そんな自分の青春時代を思い出す。
初めて御堂筋のイチョウ並木の景観を見たときには感動し、季節になると梅田まで歩いたことも何度かある。その時、街路樹を歩きながら銀杏の実を拾い集めたりもしたものだが、足で踏み潰された銀杏の実は、独特の匂いがし、これにはいささか閉口したものだが、近年この実の臭いを嫌う人が多いものだから、植え替え時には、実をつけない雄株が植えられるようになっているようだ。
だから御堂筋のイチョウ並木での銀杏拾いは、近々出来なくなくなるかもしれないな〜。これはこれでちょっとさびしい気もする。
この銀杏並木は、大阪府民投票の結果により、1989(平成元)年4月に大阪みどりの百選に選定されている。また、2000年(平成12年)には、大阪市指定文化財になっているようだ(※10参照)。
大坂の御堂筋は、このような銀杏並木の景観だけでなく、すばらしい歴史遺産や近代建築物群も多く残っている。
しかし、私など、若いころは、酒を飲むことしか興味がなかったので、好きな子とデートする以外は、同じ会社の呑兵衛仲間と年中キタや南の夜の街はうろつき歩いたが、昼間に、このような、歴史や文化・芸術にかかわるようなものをじっくりと見て回ったことはない。
だから、一度ゆっくりとそのようなものを見ながら、家人とでも散策をしてみたいものだと思っている。そのためには、以下参考の※7にある御堂筋ウオーキング,や※10など利用すると便利なのではないか。
皆さんも歴史ある大阪の街をゆっくりとウオーキングされてはいかがですか。
参考:
※1:3 御堂筋について(PDF:5.58MB) - 国土交通省近畿地方整備局
http://www.kkr.mlit.go.jp/osaka/commu/mido/pdf/3mido-nitsuite.pdf#search='%E5%BE%A1%E5%A0%82%E7%AD%8B%E3%81%AE%E5%A4%89%E9%81%B7'
※2:大阪市立図書館
http://www.oml.city.osaka.jp/index.html
※3:No.33 - 日本史と奴隷狩り
http://hypertree.blog.so-net.ne.jp/2011-07-28
※4:No.34 - 大坂夏の陣図屏風 [歴史]
http://hypertree.blog.so-net.ne.jp/2011-08-11
※5:淀屋常安
http://www.asahi-net.or.jp/~uw8y-kym/yodoya-joan00.html
※6:大江戸経済学 大坂堂島米会所
http://www.h6.dion.ne.jp/~tanaka42/doujima.html
※7:「ひと・みち・くらし」 >御堂筋情報室
http://www.kkr.mlit.go.jp/osaka/commu/mido/index.html
※8:芭蕉DB:芭 蕉 年 表
http://www2.yamanashi-ken.ac.jp/~itoyo/basho/index.htm
※9:光のルネッサンス
http://www.hikari-renaissance.com/outline/outline.html
※10:大阪市指定文化財分類一覧表
http://www.city.osaka.lg.jp/kyoiku/page/0000111912.html
大阪市HPサイトマップ
http://www.city.osaka.lg.jp/main/sitemap.html
御堂筋の歴史 - 混沌写真
http://chaos08.blog17.fc2.com/blog-entry-32.html
藤木久志『雑兵たちの戦場』読後雑感
http://www5a.biglobe.ne.jp/~hampton/read007.htm
御堂筋-Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A1%E5%A0%82%E7%AD%8B