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明太子の日

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何時も参考にしている「今日は何の日~毎日が記念日~」(※1)を見ると、今日・1月10日の記念日に「明太子の日」があった。
福岡県福岡市博多区に本社を置く辛子明太子のメーカーふくや(※2)が制定したそうである。
1949(昭和24)年のこの日(十日恵比須の日)、前年のふくや創業以来研究を重ねてきた「明太子」を初めて製造し、店頭に並べ販売を開始。福岡名産「からし明太子」が誕生した。
「明太子」は助宗鱈(すけそうだら。介党鱈とも書く)の卵(鱈子[たらこ])の塩辛で、元々は朝鮮半島に伝わる家庭の惣菜だった。これを日本人の口に合うように味附けして、からし明太子が作り上げられた。…とある。

「十日恵比須」(十日戎)は、正月10日に行われる初恵比須(はつえびす)の祭礼である。わが地元・兵庫県西宮市の西宮神社・大阪の浪速区にある今宮戎・京都東山区建仁寺門前の蛭子(えびす)神社などの祭りが名高い。西宮神社は、えびす神社の総本社(名称:「えびす宮総本社」)とされている。
えびす神社は、えびす或いはヒルコ或いは事代主を祭神とする神社であり、全国に点在し、夷神社、戎神社、胡神社、蛭子神社、恵比須神社、恵比寿神社、恵美須神社、恵毘須神社などと表記する。また正式名では「えびす」の語を含まない神社であっても、祭神がえびすである場合「○○えびす神社」と通称されることもある。またおもに関西地域では、親しみを込めて、「えべっさん」などと呼称されている。
神社では、いろいろな宝物を枝先につけた縁起物の笹を売るが、この始まりは、京都の蛭子神社だと聞いている。「商売繁盛でササもってこい」。京都では「酒」のことを「ササ」という。お酒を飲んで千鳥足で来る参拝客が多く、この「ササ」から「笹」とし、青々として真っすぐ伸びることから縁起が良く、ゑびす様の持ち物である釣り竿でもあることから笹の授与が始まったという。それを、門前に店を構えていた露天商たちが全国の「ゑびす神社」で笹を縁起物として販売し、えべっさんと笹は切っても切れないものになったようだ。
ふくやが「明太子」を製造・販売を開始したのが十日恵比須の日とあるが、これは、ふくやの本社と同じ場所・博多区にある十日恵比須神社の祭礼の日であろう。
同神社では、毎年1月8日から1月11日まで正月大祭が執り行われ、8日が「初えびす」、9日が「宵えびす」、10日が「正大祭」、11日が「残りえびす」と呼ばれている。正月三が日を過ぎて福岡博多の街で最初に行われるお祭りであり、正月大祭期間中は福引きや芸妓かち(徒歩)詣り(1月9日)などが有名。今年一年間の商売繁昌、家内安全、交通安全、漁業繁栄などを願う人々で大変賑わっているようだ。
同社正月大祭については、同社HP(※3)の以下のページが詳しい。
http://www.tooka-ebisu.or.jp/newyear.html

ふくやが制定した1月10日の「明太子の日」は、日本記念日協会には登録されていないが、同協会には、これとは別に、12月12日の「明太子の日」が記念日登録されている。その由来については以下のように書かれている。
「韓国伝来の辛子明太子が初めて日本に到来した発祥の地の山口県下関。その下関市で明太子専門業として、辛子明太子を全国に普及させてきた前田海産株式会社(※4)が制定したもの。
日付は日本で初めて「明太子」という名称が新聞(関門日日新聞)に登場した1914(大正3)年12月12日に由来する(「明太子開発史」成山堂刊に記載)。・・・と。そして、「当時の新聞などの客観的な資料を中心に制作している」という以下参考の※5:「明太子.JP」のホームページがリンクされていた。
このように、明太子については、韓国から輸入したという話(下関)と明太子を独自に開発した(博多)という説があるようだ。
Wikipediaによると、朝鮮王朝 (李朝) の太祖(李 成桂)から第 25代哲宗までの 471年間の歴史を編年体で記録した書『李朝実録』(正式には『朝鮮王朝実録』) のなかの1424年に編纂されたという『世宗実録』には、「1424年、監司(ここ参照)がタラの卵の塩辛を献上した」との記述が残っているが、タラコはどこにでもあるもので、学術的に辛子明太子と結びつけることはできない。スケトウダラを加工して食べる食文化は江戸時代の日本でも広まっていた。・・・とある。

スケトウダラ (介党鱈、鯳、Theragra chalcogramma、英: Alaska pollock)は、タラ目タラ科に属する魚類で、体長約70cm、最大で全長91 cm、体重1,400 gに達するが寿命は不明だそうである。3歳以上で性成熟し、産卵期は海域によって異なり12月から翌年3月、分離沈性卵(沈性卵=周りの水より重く沈む卵。⇔浮性卵)を産卵する。稚魚は春先の藍藻類の大増殖期の頃に孵化し、成長すると沖合の深い海域に移動する。
マダラよりは小さく、背側の体色は褐色で、まだら模様が繋がった2本の縦帯模様がある。腹側は白色。タラ類に共通の特徴である。3基の背鰭(せびれ)と2基の臀鰭(しりびれ)をもつ。外見はマダラやコマイに似るが、スケトウダラは目が大きく、下顎が上顎より前に出ており、口ひげはほとんど目立たない。


上掲の画像はスケトウダラ、下段がマダラである。
単一種としての漁獲対象資源の大きさとしては世界の漁業資源の中でも、最も大きなものの一つだそうである。本種は北太平洋およびその付属海に広く分布し、太平洋東岸のオレゴン沖から、アラスカ湾ベーリング海カムチャッカ半島東岸・西岸、オホーツク海、日本周辺東北沖以北の太平洋および日本海に分布がみられる.。
広い範囲を回遊せず比較的狭い範囲の群れを形成していると考えられており、これらの海域にはそれぞれ産卵場が形成され、漁業が広く展開されている(※6)。
我が国のスケトウダラを対象とする漁業は、北海道周辺海域とともに200海里体制(排他的経済水域)が確立される以前はベーリング海を主要な漁場として利用していた。ベーリング海東部では1930 年代にすでにスケトウダラを漁獲してフィッシュミール(魚粉)としていた記録があるそうだ。
1960 年代に北海道立水産試験場(※7のここ参照)により冷凍スリミ製法が開発されたことにより、スケトウダラの需要が高まり、これにより漁場もベーリング海から沿海州、オホーツク海へと北洋全域に広がり、漁獲量は増大し始めた。
FAO(国際連合食糧農業機関)統計によると、我が国沿岸を含む北太平洋全域のスケトウダラ漁獲量は1976年にはピークの500万トンに達し、その後一時減少するものの、1978 年から再び増加の傾向を示し、1986年には歴史上最大の680万トンの漁獲が得られているが、1990 年代以降になると、米国の漁獲が堅調な推移を示す中で、日本とロシアの漁獲量は減少し、近年の総漁獲量は300万トンを下回り、最盛期の半分以下となっているようだ(※8参照)。
又、我が国周辺では、北海道および本州北部の太平洋岸および日本海側にスケトウダラの産卵場が形成され、沖合底曳き網および刺し網漁業等の沿岸漁業により漁獲されている。北海道南部の噴火湾(内浦湾)は太平洋系群を支える産卵場として、また北海道西部の桧山沖(江差町)は日本海北部系群の産卵場として知られている。北海道では 1900 年代からスケトウダラ漁業が開発され、1910 年ころから、すでに漁獲統計上にスケトウダラが現れていたとされている。
1970~80 年代における国内総漁獲量は年間最大50 万トンを超えていたが、1990 年代に入ると、根室海峡、日本海北部系群、およびオホーツク海南部の漁獲量は減少を続け、近年の資源水準は低位となっている。1980 年代後半にはこれら3系群(海域)で年間30万トン前後であった漁獲量は1998年以降10万トン未満となっている。このような中で、唯一、太平洋系群のみは比較的安定した漁獲が続いてきた。
太平洋系群の資源量は1990年代には106~156万トンの範囲で変動していると推定されており、年間20万トン前後の漁獲が得られていた。しかし、この群れに関しては、近年、加入量が安定せず、不連続に発生する卓越年級の有無に資源量が大きく影響される状況にあり、資源状況は楽観できないとされている。2006年度の資源量は77万トンと推定され、ここから年間およそ14万トンの漁獲が得られているという(※8参照)。

このようなスケトウダラは、漁獲しても古くは冷凍できないために、ほとんどが干ものなどに加工されていたが、それでも利用しきれないものは、飼料になったり破棄されることもあったようだ。これを船上ですり身にし、冷凍する技術が確立されてから、一躍脚光を浴びることになり、以来、現在でも多くの竹輪や蒲鉾、薩摩揚げなどが本種のすり身で作られている。又、鮮魚としてはあまり馴染みがないが、安い鍋材料、煮つけなどに使われてもいるようだ。
本体よりも、万人に好かれているのが真子(食用とされる魚類の卵巣⇒魚介類の卵参照)であり、名称は「鱈子(タラコ)」であるが、正しくは「スケトウダラコ」である。タラ類でもっとも卵巣の味が良いという。
白子 (精巣)の味わいもよいのだが、こちらはマダラよりも落ちるそうだ(※9参照)。
1903年頃から北海道においてスケトウダラ漁が本格化して、スケトウダラの卵の塩漬け(たらこ)が盛んに食べられるようになり、1910年から1921年にかけてスケトウダラの卵巣に食塩と食紅を添加した「紅葉子(もみじこ)」が開発され、樽詰めにして北海道各地、山形、新潟、東京、名古屋、大阪、下関等に出荷されたという。
昭和初期までは塩漬け、生のものを「すけこ」、「すけそうこ」と呼ばれていたようで、これは「すけそうだら子(すけそうだらこ)」の略で、製品名としては正しく表記していた。それがいつの間にか「すけそう」が消費者の側で略されて「たらこ」になったという。これとゆでたジャガイモで作るタラモサラダも美味しいそうだ(※10参照)。

冒頭に述べたように、辛子明太子の歴史は、現在、諸説が複数存在しているようだが、※5:「明太子.JP」では歴史的資料に基づいた、今西一・中谷三男共著『明太子開発史』(成山堂刊)を基に、辛子明太子の一節が述べられている。
スケトウダラを加工して食べる食文化は、17世紀ごろには朝鮮半島で広まっていたとされており、赤唐辛子ニンニクでまぶした「キムチ」や「コチョジャン」等と同じように辛子めんたいこは古くから辛子を使用した朝鮮半島の伝統的食品の1つとなっていた。
日露戦争直後の1905(明治38)年、から、鉄道省(後の日本国有鉄道→現・JRグループ)は下関と当時日本領であった朝鮮釜山との間に関釜連絡船を運航していた。また、太平洋戦争中1943(昭和18)年には下関港の容量不足と輸送力の増強の目的から、博多~釜山間にも「博釜連絡船も新設されていた。昭和の初期から、韓国側の連絡船では釜山を経由して、赤唐辛子やニンニクでまぶした辛子明太子(「明卵漬[ミョンナッジョ]」)が日本へ輸入され、下関、福岡、北九州、などの朝鮮半島との交流が盛んな地域では、日常の惣菜として魚屋の店頭などに並んでいた。
これが「博多の辛子明太子」として博多の名物食品になったのは、第二次世界大戦後、朝鮮(現在の韓国のソウルの地)で育った川原俊夫氏(㈱ふくやの創業者)が博多に引き揚げてきて、朝鮮で食べた美味しい辛子明太子の味を日本人に伝えたいとの想いで、1949(昭和24)年頃から北海道産のタラコを使って唐辛子を用いた調味液等で味付けする独自の加工方法で製品化し、博多中洲で販売したのがきっかけとされている。
辛子明太子は、当初は、食卓に並ぶ惣菜の一つという存在であったが、この博多の辛子明太子は朝鮮半島の原形のものより、漬け込みで味を染みこませるだけではなく、乳酸発酵をともなうという効果もあり、日本人の味覚に合うように工夫されていることから、徐々にその美味しさが広く浸透することとなる。
ふくやの後を追って、福岡市内を中心にメーカーも増え、競争による製品開発も活発化し、特に、1975(昭和50)年に山陽新幹線が博多駅まで繋がり、東京博多開全通後に設立された福さ屋(※12)が新幹線駅や東京の三越百貨店等へ販路を築き、「博多名物辛子めんたいこ」として全国的に知れ渡るようになり、土産品、贈答品としても高い評価を得るようになった。
博多名産・辛子明太子の方が全国へ波及したために最初に入ってきた下関のまぶし製法よりも博多で盛んであった漬け込み製法が主流となり(※11のQ&A参照)、近年では料亭や老舗醤油メーカーなども明太子を扱うようになり、良質の原材料を贅沢に使用した高級品の研究も進んでいるが、現在でも、まぶし製法も少数ながら生産されており、市場向けの高級品として流通している。
そんな辛子明太子。土産用以外に、全国でおにぎり・パスタの具としても広く利用・販売されており、2007年には、おにぎりなどの加工用辛子明太子の出荷量が、ついに土産用の辛子明太子の出荷量を逆転したという。
辛子明太子は日本全国に広がり、その普及の裏で誰が辛子明太子の元祖かを調べ主張する者がいる。これはかつて各業者がそれぞれ自分だと名乗っていたから混乱が起きたのであり、日本統治時代の朝鮮で現地の辛子漬け明太子を初めて販売した樋口商店(※13)の樋口伊都羽、戦後のパイオニアを育てた油政商店(下関/海産物関連業)の山根考三、従来の紅葉子に唐辛子や酒粕を散布したまぶし型明太子の始祖・高井商店(下関。現在のイリイチ食品の前身)の高井英一郎、現在の辛子明太子の直系を造ったふくや(博多)の川原俊夫の労があって今日に至っているという説がある。このように多くのプロセスを経て今日の辛子明太子が日本に普及したのである。

先日(2015年1月5日)朝日新聞朝刊第一面トップ記事に「明太子 国境を溶かす」のタイトルで、冒頭以下のように書かれていた。
昨年暮れ、ソウル。百貨店の食品売り場で辛子明太子店に人だかりが出来ていた。
店員が呼びかける。
「日本の家庭の味です」・・・・と。
そして、明太子の起源の一つは、1948年、博多にある。としてふくやの紹介がされていた。朝鮮半島から伝わったメンタイが日本の家庭の味として本国に逆に進出している。日本には、明太子の他キムチやチジミ、焼肉など今では朝鮮半島から伝わった食文化が多く根付いている。
日本の国土、風土の中で独自に発達した料理「日本料理」(日本食。和食とも呼ぶ)が世界の注目を集めている。
2013年11月、「和食」の無形文化遺産への登録が、ユネスコの事前審査で勧告され、同年12月に登録されたからだ。
米(穀類)・野菜・魚が多くの場合料理の基本素材とされており、寿司および刺身、天ぷら、蕎麦などは日本国内外でもよく知られると共に料理店はミシュランにおける評価も高い。
オムライスやカレーライスなど洋食の一部でも、日本に定着し一般的に食され日本で独自の発達を遂げている料理は日本国外において日本の料理として扱われることもある。ラーメンなど中国料理をルーツとする(和式)中華料理や、イタリア料理をルーツとするスパゲッティ・ナポリタンなどについても同様である。ここの所日本には外国人観光客が大勢訪れるようになり、日本文化の多様さに驚いていることだろう。
日本は昔から外国の文化を受け入れられるものはすべて受け入れ、それを日本ナイズ化してきた。朝鮮半島の食文化も同様である。
同じ素材を使っても、調味料やソースを使て日本独自の料理に変えてゆく。戦後しばらくの間薄味好みの日本人、特に関西などは、焼肉屋やキムチなど一部の人を除いては嫌って食べなかった。それが、日本人の好みに合わせた味付けに変えてゆき今では、大勢の人が之を食べるようになった。あらゆるものを日本のものに変えてゆく…これは日本の一番大きなとくしょくかもしれない。今や日本人にとって明太子も日本の食べ物となっている。
韓国への進出では明太子のライバル社「やまやコミュニケーションズ」(福岡市。※14参照)が先行しているが、「ふくや」も里帰りを果たすべく計画を練っているようだ。

上掲の画像はソウルに進出した「やまや」の料理店で、明太子が食べ放題のランチをとる人達(2015年1月5日付朝日新聞より)

辛子明太子は、その形状によって販売価格・流通経路が大きく異なる。
卵巣の形を保ったままのものは「真子(まこ)」といい、比較的高値で取引される。主に贈答や接待に用いられる。皮が切れたものを「切れ子(きれこ)」と称し、比較的安価で家庭用として好まれる。さらにまったく形がなく粒のみのものを「ばら子(ばらこ)」という。ばら子はパック詰めにして業務用に使用されたり、チューブに入れたりして販売されている。切れ子には少し切れただけのものから、ほとんどばら子に近いようなものまで多種が存在する。なお、真子・切れ子・ばら子の品質には特に違いはない。
私は神戸在住だが、私の家では、三宮に出たときなどはそごう神戸店に入店している鮮魚店「漁舟」で明太子を買っている。切れ子だがちょっと切れただけの立派なものであり、非常においしい。この正月用に年末に買いに行った時も常連客がすごく大勢列を作って買ってっていた。
冒頭に掲載のものは、私達大人が食べるための明太子である。あまり辛くはなく、生のままで食べる。ただ孫用には別には明太子ではなく普通のたらこを買っている。明太子同様立派なものでこれも生で食べるとおいしい。
明太子に対してどのようなイメージを持っているのかは人それぞれだが、本当においしい明太子のことを知らないのは不幸なことだ。
明太子を食べくらべてみると、ものすごく辛いものもあれば、辛さが控えめなものもある。そして本当においしい明太子は、辛らさの中にもしっかりとした味が感じられる。そういう明太子は値段も高いが、一度は食べてみて欲しいものだ。「漁舟」で明太子はほんの少し切れただけの切れ子のものをグラム買いするので、非常にお買い得だ。
人によって、明太子にどういうものを求めるかも違うだろうが、一度本当においしい明太子を体験したら、スーパーなどで売っている普通のものではもの足りなくなるだろう。明太子されど明太子・・・・と言ったところである。

お土産用や贈答用として販売されている良質な明太子も、実は食べくらべてみると全然味が違う。私は現役時代仕事柄出張が多く、福岡や下関へ出張することが多かったし、サラリーマン人生後半には福岡にも5~6年転勤で住んでいたこともある。
福岡ではやまややふくやのものを良く買っていたし、下関へ行くとかば田食品(※14参照)の「,昆布漬の辛子明太子」を土産によく買ってきたものだ。辛さも昆布味でまろやかになっており、私たち関西人の口にはよく合い、だれからも好まれ評判が良かった。
スケトウダラの卵巣は2本が一対(いっつい)の状態で繋がっており、対単位で一腹(ひとはら)ニ腹(ふたはら)と数える。
1尾の卵巣には約20万~150万粒の魚卵が詰まっている。 一般に魚卵は栄養豊富とされているが、スケトウダラの卵巣も例外ではなく、ビタミンB1・B2・Eが豊富に含まれている。また、エネルギーは100g当たり126キロカロリー(※15:「五訂増補日本食品標準成分表」参照)あるという。
私は酒が好きなのでの明太子やたらこでも質の良いものは,生でそのまま食べるのが好きだが、普通のものなら これを加熱して少し焼いたり、おにぎりの具材やお茶漬けの具、あるいはイカと和えて酒の肴としたりなど・・・好物なので良く食べる。
しかし、私の場合、痛風ではないが数値的にその直前にあり、明太子などの魚卵は痛風には良くないプリン体が多いともいわれるので余り量をとらず適量を食べる事に心がけている。大体、病気と云うのは、嫌なもので、好きなものが食べられなくなるのが辛いよ。

参考:
※1:今日は何の日~毎日が記念日~
http://www.nnh.to/
※2:ふくや
http://www.fukuya.com
※3:十日恵比須神社 公式ホームページ
http://www.tooka-ebisu.or.jp/
※4:前田海産公式ホームページ
http://www.maeda.ne.jp/indexj.html
※5:明太子.JP
http://gpi.sakura.ne.jp/rekishi/
※6:水産庁/「平成25年度 我が国周辺水域の資源評価」の公表 ... - 農林水産省
http://www.jfa.maff.go.jp/j/press/sigen/131031.html
※7:独立行政法人 水産総合研究センター
http://www.fra.affrc.go.jp/
※8:スケトウダラ(総説) - 国際漁業資源の現況(Adobe PDF)
http://kokushi.job.affrc.go.jp/H19/H19/H19_59.pdf#search='%E3%82%B9%E3%82%B1%E3%83%88%E3%82%A6%E3%83%80%E3%83%A9+%E6%BC%81%E7%8D%B2+%E6%AD%B4%E5%8F%B2'
※9:市場魚貝類図鑑
http://www.zukan-bouz.com/
※10:タラモサラダのレシピ 469品 [クックパッド]
http://cookpad.com/search/%E3%82%BF%E3%83%A9%E3%83%A2%E3%82%B5%E3%83%A9%E3%83%80
※11:全国辛子めんたいこ食品公正取引協議会
http://www.mentaiko-ftc.org/index.html
※12:福さ屋公式ホームページ
http://www.fukusaya.info/
※13:株式会社樋口商店 ホームページ
http://www.higuchisyoten.co.jp/webpage/
※14:明太子(めんたいこ)のやまやコミュニケーションズ
http://www.yamaya.com/
※15:かば田食品ホームページ
http://www.kabata.com/
※15:五訂増補日本食品標準成分表-文部科学省
http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/gijyutu/gijyutu3/toushin/05031802.htm
朝鮮王朝実録 - 文化財庁
http://jpn.cha.go.kr/japanese/html/sub3/sub2.jsp
東京大学総合図書館旧蔵 朝鮮王朝実録 画像データベース
http://rarebook.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/jitsuroku/
辛子明太子 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BE%9B%E5%AD%90%E6%98%8E%E5%A4%AA%E5%AD%90

阪神淡路大震災から20年 1.17のつどい

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地の底から響く「ゴーツ」という音と共に、「ドドドドド・・・」と、まるでSF映画に出てくるような巨大怪獣が地底を走り向けたのか・・・と思うような激しく突き上げるような揺れに襲われ驚いて目を覚ましたとき、ツインベッドで寝ていた女房が隣のベッドからジャンプするような形で私のベッドの上に飛びこんできた。
兵庫県南部地震」(阪神・淡路大震災)が阪神・淡路地域を襲ったのは、1995(平成7)年1月17日午前5時46分のことであった。
震災が起こったのは、私の母が、癌で前年末に亡くなり、四十九日の法要(中陰参照)を済ませて、私の家に泊まっていた兄弟たちがそれぞれ帰って行った翌早朝のことであった。中陰法要の中でももっとも重要な法要とされる四十九日の法要を何事もなく終えることが出来たのは、母の日ごろからの信仰のお蔭であったかもしれない。
私の家は山の麓の固い地盤にある為、幸いなことに私の家を含めご近所の家も壁の亀裂など小さな被害はあったものの家の倒壊等は免れ、死者も出なかったが、ご近所の年老いた人達の中には、怖い思いをした心労からか、地震発生後2~3ヶ月ぐらい経って、知っているだけで3人ぐらい亡くなった。そして、ご近所の親しい人達からは良く言われた。「あなたのお母さんは怖い思いをしなくて良かったですね」・・・と。人が亡くなっているのによかったですね・・はおかしいとは思うのだが、確かに、私の母は非常に怖がりだったので、同じ亡くなるなら、あんな怖い思いをしなくて良かったと思うし、御近所の方も同じ思いだったのだろう。神戸では、震災で直接亡くなった人以外に、生き残った多くのお年寄りが震災後なってから次々と亡くなられたと聞いているが、そのような人がどれだけの人数いたかは定かではない。

2015(平成27)年1月17の今日、あの震災から、20年を迎えた。
日本で初めての近代的な大都市における直下型地震(内陸地震)は、大きな破壊力をもって、家・建物を倒壊させ人命を奪っただけではなく、道路・鉄道・電気・水道・ガス・電話などライフラインが寸断され広範囲で全く機能しなくなり、肝心の救援要請さえ出来ない状態となった。(内陸地震のことについて詳しくは※1の内陸地震、※2のコラム第5回内陸の地震、※3の地震の型参照)。
この震災では家屋の倒壊だけではなく、火災の被害が甚大であった。神戸市長田区では、地震直後の火災に伴う火災旋風が確認されたが、消火活動が間に合わず、被害をより大きくする結果となった。地震発生直後に長田区で数10件発生した火災は火災旋風により近隣住宅に次々と飛び火し、最終的に須磨区東部から兵庫区にかけての広範囲、6000棟が焼失した。
火災の起こった南の方角から私たちの住んでいる北の方角へと向かってきた火は、幸い途中の東西に走っている山陽電鉄の軌道のある広い通りを境にして、そこから北側にまでは及ばなかったが、山陽電鉄の駅は倒壊、全焼していた。
長田と須磨の三角点の頂点のような所に位置するところの高台にある私の家からは、火災の全貌が、目撃されたが、余りの凄まじさを目の当りにし、涙が止まらなかった。


上掲の上段長田区JR新長田駅若松町付近。下段:須磨区常盤町周辺 JR鷹取駅付近。いずれも1995年1月18日撮影のもの。まだブスブスと燃えている。画像は※4:「神戸市安全・安心のページ」の「震災資料室-阪神・淡路大震災の記録」にリンクされている震災写真オープンデータサイト「阪神・淡路大震災『1.17の記録』」より借用したもの。
震災は、多くの命を奪うとともに、都市基盤や建築物に甚大な被害を与え、私たち市民に直接的な大被害を与え、大切なものを数多く奪っていった。また、復旧の長期化に伴い、産業、都市機能、生活などに様々な影響を及ぼし、20年経った今日でも未解決事項を多く残している。
神戸市の被災状況及び復興への取り組み状況ここを参照してください。
阪神・淡路大震災では、政府や行政の対応の遅れが批判された一方で、学生を中心としたボランティア活動が活発化し、「日本のボランティア元年」と言われた。
これをきっかけに、ボランティア活動への認識を深め、災害への備えの充実強化を図る目的で、1995(平成7)年12月の閣議では1月17日「防災とボランティアの日」が制定され、翌1996(平成8)年から実施されている。
この日のことは以前にこのブログでも書いた。→防災とボランティアの日
阪神・淡路大震災の後の地震や水害などにおいても、大勢のボランティアが活躍しているが、一方で、震災等に駆けつけたボランティアが逆に現地の「迷惑」となっていた面などあり、ボランティアとして被災者に何をしてあげることが一番望ましいことなのか・・・。ボランティアの在り方が問われる面も多々あった。
被災者の気持ちは複雑なものである。多くのボランティアが被災地に応援に駆け付け勇気づけの為に「頑張って」・・・と声をかけてくれる。それが被災者にはかえって傷つくこともある。被災者の多くが身内や友人・知人を亡くし、家を無くし、生きてゆく希望さえ・・・、何もかも無くして、それでもただただ必死に生きていかざるをえないから「気張って」生きているだけなのに・・。「頑張って」・・・と云われても誰の為に・・・、何の為に・・・これ以上頑張るのか?・・・。こんな励ましのつもりの言葉でさえも傷つくものなのである。
震災の後、被災者が語っている中で、傷心している人の多くは深刻顔をして励ましてくれるよりも「笑顔」が見たかったと言っていた。ただ「笑顔で話しかけ、その人の話を黙って聞いてくれる人」・・・。そんな人との出会が一番嬉しかったと・・・。又、「歌」というものが非常に被災者を勇気づけてくれたようである。「歌」には特別な力があるようだ。
阪神・淡路大震災からひと月近く過ぎた2月14日の夜。震災被災者を励ますため、神戸市長田区の南駒栄公園(ここ参照)に、関西に活動拠点を置く中川敬率いる人気ロックバンド「ソウル・フラワー・ユニオン」(※5。実際にはソウル・フラワー・モノノケ・サミットという名義の別動隊バンド)が出前ライブにやってきた。
たき火にあたっていた被災者が「兄ちゃん、待っとったで」と迎えてくれた。粉雪が舞うなか、被災地特有の諸般の理由からアコースティックな楽器で民謡や昔の歌謡曲を奏でていた。その時の光景をもとに、次の日にかねてより親交が深かったヒートウェイヴの山口洋と作った主旋律の一部に乗せて一気に曲を書き上げ、詞も仕上げたものが「満月の夕」だったという(※6 参照)。
その日の神戸の空には、震災から丸一か月の満月(※7参照)が浮かんでおり、最大余震の到来が噂される中、ライブを観る被災者たちが口々に「満月を見るの、怖いわ」と言っていたのを中川が耳にしたことから、この唄は産まれたそうだ(Wikipedia)。

風が吹く 港の方から 焼けあとを包むようにおどす風
悲しくて すべてを笑う 乾く冬の夕

時を超え国境線から 幾千里のがれきの町に立つ
この胸の振り子は鳴らす “今”を刻むため

飼い主をなくした柴が 同胞とじゃれながら車道 (みち)をゆく
解き放たれ すべてを笑う 乾く冬の夕

 ヤサホーヤ 唄がきこえる 眠らずに朝まで踊る
 ヤサホーヤ 焚火を囲む 吐く息の白さが踊る
 解き放て いのちで笑え 満月の夕
(以下略)
「満月の夕(ゆうべ) 」(作詞 : 中川敬/作曲 : 中川敬 & 山口洋)
「満月の夕」では、被災地の惨状や、復興への厳しい現実、そして、それらに向き合う人々のひたむきな姿が歌い込まれている。歌は、しだいに広がり、大きな反響を得た。この曲は今ではガガガSP沢知恵、平安隆、酒井俊、J-Min大竹しのぶアン・サリーなど、多くのアーティストによりカバーされている。
被災地神戸の人にとっては、満月を見ると、この歌を思い出し、もう、忘れられない歌になっている。以下で視聴できる。良い歌なので聞いて見ては・・・。
満月の夕/ソウル・フラワー・ユニオン - YouTube
満月の夕 (ゆうべ) / 中川敬 (with 伊丹英子) 

神戸市の中心中央区より西側、兵庫区、長田区、須磨区は地震と同時に起こった火災が大惨事を起こしたが、中央区より東側では考えられないようなビルや鉄道、高速道路の倒壊などが起こったが、阪神大震災直後の1月18日には神戸入りし、それまでの環境活動などのネットワークを通じて支援を呼びかけ、1月19日には東灘区御影公会堂での炊きだし、また、1月23日には松山ユースホステルへ、高齢の被災者を一時避難させるプロジェクトをはじめ、その後、隣接する灘区の石屋川公園( YAHOO!地図参照)をボランティアの拠点として「神戸元気村」(※8参照)を立ち上げ、民間ボランティアセンターの先駆けとして活動を行っていた山田和尚。通称バウさんとも呼ばれる人(本名:山田成雲)がいた。
同氏のことを私は余りよく知らないが同氏が代表を務める「神戸元気村」は、はじめの2週間ほどで、被災者支援の20余りのプロジェクトを立ち上げるなど活躍し、その行動力は大したものだったようだが、経歴もよく判らず、運営面で色々トラブルもあったようで良くない評判も耳にするのは残念なことである。同氏は、今年(2015年)1月5日に お亡くなりになったと聞く(享年63歳)。
震災後7年たった2002年に「神戸元気村」は解散しているが、.同年1月17日付朝日新聞「天声人語」には、以下のように書かれていたという。
“行政ができないことをやってきたという自負はあるだろうが、山田氏にはなお気がかりな点がある。「自立するのを助ける」。この意識が行政側にもボランティアにもあって「単に困っているだけの」被災者との摩擦を招いたことだ。お互いに自立した人間として接するべきだ。
山田氏は17日早朝、六甲山頂から神戸の街に頭を下げて「お礼」をし、区切りにすると語っていた。“・・・と(※9参照)。
どうも、ここに書いている事だけでは、よく判らないが、被災者にも困っている事や悩んでいる事などその事情は人によって様々だろう。一律にこうだと決めつけても、それが被災者の助けになっているとは限らない。
2011年に発生した東日本大震災で被災した人たちで、大津波で家をそして身内を失った人たちも、今後、又、同じような大地震による大津波が何時あるかもしれない危険性も心配されるなかで、馴れ親しんでいた今まで住んでいたところへ一日も早く戻り、そこに住みたい人、危険だから高台へ引越したい人・・・、年齢やその人の置かれた状況などにより色々と考え方も違うだろう。そのような人たちにはどのような援助が必要なのか・・・。いろいろと権利関係も絡み、被災した人たちでないと解決できない問題も多い。難しい問題だ。
震災で亡くなられた方を追悼するとともに、震災で培われた「きずな・支えあう心」「やさしさ・思いやり」の大切さなどを次世代へ語り継いでいくため、神戸市では、阪神・淡路大震災から20 年となる今日午前5時~午後21時に神戸市中央区の東遊園地神戸市役所南側)で「阪神淡路大震災1.17のつどい」が行われる。
震災の歌と言えば先に書いた「満月の夕」以外にも感動的な曲「しあわせ運べるように」がある。
神戸市立西灘小学校で音楽専科教諭を務める臼井真氏が、阪神・淡路大震災で自宅が崩壊。震災から約2週間後、身を寄せていた親戚宅で、生まれ育った神戸の街の変わり果てた姿をニュースで見て衝撃を受け、わずか10分で作詞・作曲した楽曲だという。

亡くなった方々のぶんも 毎日を 大切に 生きてゆこう
傷ついた神戸を もとの姿にもどそう
やさしい春の光のような 未来を夢み
響きわたれ ぼくたちの歌
生まれ変わる 神戸のまちに
届けたい わたしたちの歌 しあわせ 運べるように
届けたい わたしたちの歌 しあわせ 運べるように

「しあわせ運べるように」(神戸オリジナルバージョン)の一番。
神戸復興を願い作られた当初の歌詞は二番までだったが、2005年に3番が作詞されたようだ。同楽曲は原曲の「神戸オリジナルバージョン」のほか、2011年に発生した東日本大震災後に制作された、歌詞中の「神戸」を「ふるさと」に置き換えた「ふるさとバージョン」がある(※10参照)。
追悼式典などで歌われるようになり、新潟県やイランなど国内外の大地震被災地にも広まった。東日本大震災の被災地でも歌われている。
今日「1.17のつどい」では、慰霊と復興のモニュメント(※4のここ参照)前にて、17時46 分の黙祷後、神戸市立西灘小学校の臼井先生と児童により、この「しあわせ運べるように」と、「笑顔の向こうに」(作詞:たかいちづ 作曲:臼井真。※10のここ参照)を含む数曲が合唱される。

この笑顔の向こうに
たくさんの悲しみがあるの
どんなに笑顔を作ってみても
悲しみは癒されない
(以下略)
「笑顔の向こうに」は、阪神・淡路大震災で1歳半の息子を亡くした女性(たかいちづ)が書いた歌詞に、臼井真教諭が曲をつけたものである。歌詞はここ参照、歌は以下参照。

笑顔の向こうにー YouTube

神戸市だけでなく、兵庫県でも、「ひょうご安全の日を定める条例」(平成17年4月1日施行)に基づき、阪神・淡路大震災の経験と教訓を継承するとともに、いつまでも忘れることなく、安全で安心な社会づくりを期する日として、1月17日を「ひょうご安全の日」と定め、県民の参画のもと、「ひょうご安全の日」にふさわしいさまざまな事業に取り組んでいる(※11参照)
南海トラフ巨大地震異常気象等による自然災害への危惧が高まる中、政府の地震調査委員会(地震調査研究推進本部内に設置)が昨2014年12月19日に発表した2014年版「全国地震動予測地図(※12のここ)は、関東地方の多くの地点で30年以内に震度6弱以上の揺れが起こる確率が上昇した・・・としている(※13参照)。
地震大国日本(ここ参照)に住む以上、もう、地震からは逃げられないと覚悟しなければいけないだろう。あとは、他人事と考えずに十分な備えをして置くしかないのろう。

最後に、一言。
阪神大震災から20年目を迎えた神戸。表面的には復興したように見えるが、「復興」によって失われたものはないのだろうか?
東日本大震災から間もなく5年目を迎える東北地方の人たちも、神戸の表面的な目に見える復興だけを見ずにその実態などよく観察して後で後悔しない復興を成し遂げられることを祈っています。例えば、かっては神戸の西の新開地と呼ばれていた繁華街長田区大正筋商店街。震災でその80%以上を焼失したが今では大きなビルが多く建ち、外観的には完全に復興したように見える。以下参照。
新長田・六間道

・・・が、その実態はどうなのか・・。以下を一読されてみるのも良いのでは・・・。

震災から19年、神戸市がもたらした“復興災害”~市民の資産毀損させ他県企業優先




参考
※1:J-SHIS地震ハザードステーション
http://www.j-shis.bosai.go.jp/
※2:NHKそなえる防災
http://www.nhk.or.jp/sonae/
※3:地震・防災:あなたとあなたの家族を守るために
http://www5d.biglobe.ne.jp/~kabataf/index.htm
※4:神戸市安全・安心のページ
http://www.city.kobe.lg.jp/safety/index.html
※5:SOuL FLOWER OFFiCiAL CiTE
http://www.breast.co.jp/soulflower/index.html
※6:神戸で生まれ東北に響く 「満月の夕」の歌:朝日新聞デジタル
http://www.asahi.com/articles/CMTW1412020400002.html
※7:月齢カレンダー - こよみのページ:1995年2月
http://koyomi8.com/moonage.htm?cmd=19550209110
※8:神戸元気村
http://www.geocities.jp/anomotoyuki/koube/genkimura.html
※9:神戸元気村、解散。震災7年に思う。
http://www.jca.apc.org/water-w/2002KOBE.html
※10:「しあわせ運べるように」公式サイト
http://www.shiawasehakoberuyouni.jp/profile.html
※11:1.17は忘れない ひょうご安全の日公式サイト
http://19950117hyogo.jp/
※12:地震調査研究推進本部
http://www.jishin.go.jp/main/index.html
※13:今後30年、大地震の確率上昇 相模トラフの想定盛り込む :日本経済新聞
http://www.nikkei.com/article/DGXLASDG19HA7_Z11C14A2CR8000/
1995年、被災地神戸からの元気
http://www.geocities.jp/poppo1954/index.htm
震災発 | 2015年-阪神・淡路大震災20年メモリアルイベント一覧・リンク集
http://www.shinsaihatsu.com/news/past_news15event.html
神戸新聞/阪神・淡路大震災20年特集
http://www.kobe-np.co.jp/rentoku/sinsai/chronicle/
阪神・淡路大震災 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%AA%E7%A5%9E%E3%83%BB%E6%B7%A1%E8%B7%AF%E5%A4%A7%E9%9C%87%E7%81%BD

美濃部東京都知事が都の公営ギャンブル全廃を発表した日

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日本で最初の国際博覧会である大阪万博が開催された1970(昭和45)年に「走れコウタロー」という、競馬を題材にしたコミックソングが大ヒットトした。
同年7月5日に発売後、口コミでチャートの順位を伸ばし、最終的に100万枚近いヒッ トとなり、この歌を歌ったソルティー・シュガーは同年の第12回日本レコード大賞新人賞を受賞している。
初めてこの曲を聞いたときは、何という脳天気な曲!と思ったりしたものだが、メロディーは明らかにアメリカのカントリー・ミュージックであり、歌を歌っているソルティー・シュガーというグループは、カレッジ・フォーク(※1参照)に属するフォークシンガーグループなのである。
しかし、この「走れコウタロー」。楽曲としては徹底的なパロディ精神で貫かれており、ダービーの風景(出走前・観 客席・出走後ゴール直前まで)を描写しているものの、出走している馬名が他の博打に関連する言 葉であったり、当時の人気ギャグであったりとメチャクチャであり、更には競馬とは全く関係ない「引 っこ抜け」という応援が入ったりしている。
また曲中には、当時、東京都知事として公営ギャンブルの廃止に取り組んでいた美濃部 亮吉の声色をまねた以下のようなナレーション(語り)や、早口の実況中継が含まれている。

(美濃部 亮吉の口調でのナレーション)
エーこのたび、公営ギャンブルを、どのように廃止するかと、いう問題につきまして、慎重に検討を重ねてまいりました結果、本日の第4レース、本命はホタルノヒカリ。穴馬はアッと驚く大三元という結論に達したのであります。

(競馬実況中継)
各馬ゲートインからいっせいにスタート。
第2コーナーをまわったところで先頭は予想どおりホタルノヒカリ。
さらに各馬一団となってタメゴロー、ヒカルゲンジ、リンシャンカイホー(嶺上開花)、メンタンピンドライチ(※2のここ参照)、コイコイ、ソルティーシュガー、オッペケペ、コウタローとつづいております。
第3コーナーをまわって、第4コーナーにかかったところで、先頭は予想どおりホタルノヒカリ、期待のコウタローは大きくぐっとあいて。さあ、最後の直線コースに入った。
あっ、コウタローがぐんぐん出て来た。コウタロー速い。コウタロー速い。トップのホタルノヒカリけんめいの疾走。これをコウタローが必死に追いかける。
コウタローが追いつくか、ホタルノヒカリが逃げ切るか、コウタローかホタルノヒカリ、ホタルノヒカリかマドノユキ、あけてぞけさは別れゆく。

この曲のナレーションに関して、もともと美濃部都知事は、公営ギャンブル廃止派なのでナレーションをしていること自体がギャ グではあり、麻雀の役の馬名に釣られて他の麻雀の役を言ってしまうというミスやらかせ、「(公営)ギ ャンブル廃止とか言ってるけど、実際影では麻雀やってんだろ」という強烈な風刺を含んでいる。また実況中継に関しては、(出走している馬名がメチャクチャである事自体がギャグであるものの)実況の末に興奮しすぎて、馬名からの連想ゲームになり、蛍の光の歌詞の一節を実況してし まうという展開になるなど、二重三重のパロディが織り込まれている。



東京オリンピックが開催されるおよそ4ヶ月前の1964(昭和39)年、当時池田勇人首相が掲げた「所得倍増計画」によって、日本は高度経済成長への道を一直線に進んだ。
思い起こせば、私が若い頃、大阪の商社から東京の商社へ転職したのがちょうどこの頃であり、5年ほど東京にいたが、その後、結婚をするのを機に大阪へ転勤させてもらい戻ってきたのでよく覚えている。
戦後、およそ20年が過ぎ、所得倍増や高度成長政策の結果、その日その日の生活にも追われなくても済むようになるなど経済的にも、ある程度の余裕が出てくると、社会の動きは物質至上主義が全面をおおい、レジャー、バカンス、その日暮らしの無責任、無気力が国民の間に充満し、元禄調の世相が日本を支配するようになてゆく。
そんな高度成長の繁栄に国民が酔っている天下太平の風潮を厳しく戒めた言葉に福田赳夫の「昭和元禄」がある。
大蔵省を退職し、1952(昭和27)年の第25回衆議院議員総選挙で群馬三区から無所属で立候補し当選。国会議員となり、岸信介に仕え、野田卯一池田勇人と共に「大蔵省の3田」と呼ばれていた。
1960(昭和35)年12月、大蔵省の先輩である池田勇人の政権下で、政調会長に就任するが、「高度経済成長政策は両3年内に破綻を来す」と池田の政策を批判、岸派の分裂を受ける形で坊秀男田中龍夫一万田尚登倉石忠雄ら福田シンパを糾合し、「党風刷新連盟」を結成し、派閥解消を提唱するなど反主流の立場で池田に対抗。「資源有限時代」の到来をいち早く予見、時代に警鐘を鳴らした。
だが、1967(昭和42 )年になっても、依然高度経済成長は続いていた。“60年代は年率10%台を維持し、”68年には自由世界でアメリカに次ぐ第2位の国民総生産を挙げるに至り、国民生活も向上。
高度経済成長の始った1955(昭和30)年(55年体制の始期でもある)から1967(昭和42 )年までの12年間に国民可処分所得は、5.、2倍に伸び、こんなに急速に豊かになったのは日本の歴史始まって以来の珍事であった(『朝日クロニクス週刊20世紀』1967年号)。
都心のビルは高くなり、主要道路は車で埋まった。一番の変化は町が明るくなったことである。
カー・クーラー・カラーテレビの3Cが言われだしたが、服飾の華やかさも目立ってきた。街を歩く女性の健康一杯の足がミニスカートからのぞくようになったと思うといつのまにか、街から大学生の角帽が姿を消し黒い詰襟もなくなった。
1967(昭和42 )年1月.、経企庁が発表した独身勤労者動向調査によれば、服装に収入の22、5%が割かれ(一般家庭は7,8%)、男の半数がドライヤーを持っている. (『朝日クロニクス週刊20世紀』1967年号)。
1967(昭和42 )年10月18歳のイギリスのファッションモデルツイッギーが羽田空港に降り立つと、翌“68年には中高年女性も巻き込んでミニスカートが流行するが、”67年には町の風俗としてすでに定着していた。
江戸時代、元和偃武から60年ほど経ち、将軍徳川綱吉の時代に入って女も男も衣服が華美になったが、昭和戦後も平和が続いて経済が繁栄すれば同様に奢侈(しゃし) 安逸な傾向となり、人々が、食べ物やファッション、音楽や美術などに、お金や時間を使うようになるのも当然といえば当然と言えるかもしれない。それにしても、長年、太平の世が続き、次第に風俗が華美になっていった元禄時代に、昭和40年代前半の昭和を重ねるという福田氏の発想なかなかのものではある。
このようになったのには、もちろん、欧米の影響もある。ロンドンを発信とするファッション革命の波が先進諸国の女も男も巻き込んで、頂点に達したのがビートルズとツイッギーのスターであった。
ビートルズのロックと形式打破の服装、それは大人の権威と伝統への若者の反逆でもあった。日本では敗戦後のベビーブームの時期に生まれた人々が成人を迎えようとしていた。
長髪とひげ、トンボ眼鏡。女性のミニとブーツ。ダークスーツとミンクのコートへのアンチテーゼであり、紳士淑女神話から脱して、ジーンズやTシャツ、男女差のないスタイルへと流れ込んでいった。
昭和元禄の時代に流行った音楽と言えば何といっても、グループサウンズ(略称GS)であろう。
ブームをもたらした代表的存在は1960(昭和35)年に登場したベンチャーズである。デビュー曲『ウォーク・ドント・ラン』は全米2位の大ヒットとなり、その人気はすぐにわが国にも飛び火し、”62年(昭和37)に寺内タケシとブルー・ジーンズが結成されたころからGSの出現する“65年ごろまで、空前のエレキ・ブームが訪れた。「テケテケテケテケ」というあの特徴的な音にしびれた(※4の>音楽>ここ参照)。



本格的なGSとも言うべき存在、ザ・スパイダースの1966(昭和41)年2月リリースのシングル、「ノー・ノー・ボーイ」や、ベンチャーズのエレキブームで下地が作られたところに、同年6月のビートルズ来日公演以降、エレクトリックギター等の楽器を自ら演奏しながら歌うグループが日本で次々とデビューし、グループサウンズの大ブームが巻き起こった。
エレキ音楽は、その前のロカビリーなどと違い、たんに聞くための鑑賞音楽というだけではなく、若者たちがみずから楽器を取って音楽をやりはじめようとした点で、現在にいたるバンド・ブームの源流である。
このような時代に、人口の1割が住む首都東京に社会・共産両党が推す革新知事が誕生した。マスコミは、「東京燃う」と書きたて、政府自民党は大きな衝撃を受けた。
"60年代から政府が推進した経済の高度成長政策の歪(ひずみ)は徐々に広がり、大都市圏では公害、交通住宅などに深刻な影響を与えていた。有効な政策を打ち出せない政府に対する都市住民の不満が爆発し、住民運動の激化、革新首長の誕生が目立つようになっていた。
1967(昭和42)年4月の第6回統一地方選挙で、マルクス経済学者美濃部亮吉候補が、社会党共産党推薦で立候補し、「東京に青空を」というキャッチフレーズを掲げ、保守知事の長期化で倦怠した都政からの刷新を訴え、初めて革新候補として,東京都知事選に当選したのもこの流れに乗ったものだった。

上掲の画像は、「東京にも青空を」スモッグに覆われた当時の東京都心部。建設中の超高層霞が関ビルもテレビ塔も”霞”の中。画像は、『朝日クロニクル週刊20世紀』1967年号より)。
当時、都議会では汚職が相次ぎ、現職議員が逮捕されて解散、出直し選挙が行われるなど、都庁がグチャグチャだったことも、革新都知事の誕生に大きく手を貸した。
そして、テレビ出演などで得た知名度を生かし、マスコミからも「美濃部スマイル」の名で好意的に報道された結果、多くの女性票を獲得したことも大きな勝因の一つだろうが、この選挙では同時に、それまで対立することの多かった、社会・共産両党が提携し「ストップ・ザ・サトウ(当時の佐藤栄作首相)」を合言葉に地方選挙を国の政治レベルで争った。又、学者・文化人をかつぎ、社・共両党を基盤にしながらも、「明るい革新都政をつくる会」(ここ参照)という市民組織を形成して選挙を戦うなど、新しい選挙戦術が打ち出されたことが大きい。この美濃部亮吉・都知事も昭和元禄の時代を語る上で、欠かすことのできない人物の一人であろう。
1971年秦野章(自民党推薦・警視総監)、1975年石原慎太郎(自民党推薦・代議士・作家)、松下正寿(民社党推薦)を破り、以後、1979(昭和54)年までの12年間(3期)に渡り東京都知事(第6・7・8代)を務めた。
東京都知事選挙で行われた「革新統一方式」は、以後、一挙に全国に拡がり、一時は日本の総人口の半数近くが革新自治体施政下になった。
革新市長は住民との対話を重視した。杉並区・高井戸のごみ処理場建設問題(東京ゴミ戦争参照)で、「反対者が一人でもいたら着工しない」という美濃部知事の姿勢はその象徴。また、社会福祉に力を入れ環境保全、公害防止に努力した。
老人医療費無料化(※5参照)、高齢住民の都営交通無料化、公害対策で企業に厳しい条件を課すなど、福祉、環境政策において様々な施策を次々打ち出した。その他主な施策には、歩行者天国の実施、荒川線を除く都電の撤去などと共に、東京都主催の公営競技廃止がある。
公営ギャンブル廃止を政治公約として前面に押し出して闘った美濃部は都知事就任後に公約実行という形で、1969(昭和44)年1月24日に公営競技廃止の通達を出し、それまで行っていた競輪・競馬・競艇・オートレースの全ての事業から撤退している。「走れコウタロー」の歌が発売された(1970年)の1年前のことであった。
これにより、東京都の単独主催場であった大井オートレース場と「競輪のメッカ」とも呼ばれた後楽園競輪場は興行そのものが廃止され、江戸川競艇場大井競馬京王閣競輪などの開催権は東京都とは別に主催権を特別区や市町村に引き渡された。
これに対しファンからの苦情が相次ぎ、東京都の収益も激減。都営ギャンブル収益は、当時、年間百余億円あったという(Wikipedia.)。また、これらについてはパチンコ産業の拡大を政治面から後方支援する目的があったのではなかったかとの疑念を示す意見もある(※6参照)が、そのようなこと私にはよく判らないが、ちょっと言い過ぎではないだろうか。

東京でだめなら 名古屋があるさ
  名古屋がだめなら 大阪があるさ

という歌(「東京でだめなら」(作詞:星野哲郎,作曲:首藤正毅)が、高度成長期がまだ続いていて「何とでもなる」という時代にヒットしていたのを思い出した。
●以下は、渥美清バージョンである。

東京でだめなら - 渥美清 - 歌詞・動画 : 歌ネット

たしかにギャンブルは一日でも早くこの世からなくなってほしいものだが、東京都で公営ギャンブルを廃止しても、競輪、競馬狂は隣の大宮(埼玉県)や川崎(神奈川県)に移動するだけのことだろう。しかし、今、全国の公営競技の現状は非常に厳しい問題となっているようだ・・・(※7参照)。
その反面、パチンコ業界は大盛況な様だが、このパチンコ、戦後に私たちがお遊びでしていたようなものとは違って、今では、あっという間に3~4万円も、負けるという。もう昔のようなお遊びという域を超えてしまっており、ギャンブルに近いものになっていると思うのだが・・・。
これらが取り締まられないのはどうしてだろう? むしろ、カジノ解禁に合わせて合法明文化の動きさえあるようだ。カジノを誘致しようとしている都市には、東京都も入っている。人は、賭博の魅力から抜けられないのだろうか・・・。(パチンコの問題点、※8参照)。

「革新都政」を旗印に勇ましく突き進んだ美濃部も、東京都の赤字を増やすだけで、財政を逼迫(ひっぱく)させ、結局、次期(1979年東京都知事選挙)の鈴木俊一都知事に尻拭いをさせる結果になってしまった。

美濃部都政の下での公害防止条例の制定、老人医療の無料化などは全国に波及していった。こうして、革新首長の政策は都市住民の支持を集める一方、国の政策転換をも促す契機となったことは評価されるべきである。
しかし、革新自治体は、さまざまな限界を持っていた。ひとつは「3割自治」という言葉に象徴されるように、日本の地方自治制度はさまざまな規制や補助金行政によって中央政府の統制下にあった。国政を保守に握られている為、革新自治体がこの壁を破るのは容易ではなかった。
このため革新自治体の勢いを”67年1月(第31回衆議院議員総選挙)と”69年12月(第32回衆議院議員総選挙)の総選挙に反映できなかった。
社会・共産両党が主導権争いをはじめたことも革新自治体の退潮につながった。共産党が革新自治体をテコに勢力を伸ばしたことが社会党の警戒心を呼び、自治体選挙での社共共闘がじっくりいかなくなったのである。”70年なかばには、革新自治体の運動は沈滞と分裂の季節に入ることになる.。.

さて、1979年東京都知事選挙で、美濃部の後継者として立候補した、元総評議長の太田薫等を破り都知事となった鈴木は、老人医療費の無料化を廃止するなど、美濃部革新都政の目玉政策だった福祉の大幅な削減や都職員の給与引き下げにより、2期目には都の財政の黒字化を成し遂げた。
しかし、3期目以降、都庁舎の丸ノ内から新宿への移転をはじめ、東京国際フォーラム江戸東京博物館東京臨海副都心の開発に代表される箱物行政の推進で多額の起債を発行した結果、都の財政は再び赤字に転じ、美濃部革新都政下の水準にまで悪化した。
鈴木、4戦目となる1991年東京都知事選挙では総勢16人の激戦で争われた為、反鈴木票が分散したこともあり、辛うじて4選を果たし、選挙後の、東京都議会では社会党が知事与党に加わり、4期目は事実上のオール与党体制で都政運営を行った。
バブル崩壊の影響もあり、鈴木都政4期目で財政はさらに悪化。
鈴木が5選不出馬を表明した1995年東京都知事選挙では、長らく内閣官房副長官を務めた石原信雄が鈴木都政の継承を訴え出馬したが、当選挙には有力候補が次々に立候補。最終的に、反権力、リベラルなイメージの強い作家で前参議院議員の青島幸男が圧勝した。石原の落選は、「国民の政党に対する不信感の表れ」のまさしく象徴的な出来事であった。
鈴木が4期目に開催を計画していた世界都市博覧会はこの都知事選で争点化していた。青島知事就任後、東京都議会は臨海副都心開発を見直した上、都市博の開催を求める決議を賛成多数で可決したが、青島は「中止補償は金で購いが着く。青島は約束を守れる男かそうでないのか、信義の問題なんだ!」と反対し、公約通り中止を決定。バブル景気崩壊と失われた20年が始まった時期で体力の無かった建設業界などに影響を及ぼした。

1996(平成8)年に、競馬アニメ「みどりのマキバオー」のテーマ曲としてソルティー・シュガーの「走れコウタロー」の歌詞が若干改変され、F・MAP(フジテレビのアナウンサー3名[福井謙二、三宅正治、青嶋達也]によるユニット)により「走れマキバオー」というタイトルでカバーされた。このカバー版では「コウタロー」を「マキバオー」に差し替えたり、また美濃部都知事をアニメ放送時の青島幸男都知事に変更したりするなどのアレンジが行われた.。作詞:池田謙吉/替え歌:大田一水/作曲:池田謙吉、前田伸夫/編曲:石川鷹彦メインボーカルは福井が担当。間奏の競馬実況は青嶋、青島幸男東京都知事の物まねは福井だそうだ。
青島幸男東京都知事の物まねのところは以下の様になる。
(セリフ)
「エー このたび、公営ギャンブルを、どのように
中止するかと、いう問題につきまして、
慎重に検討を重ねてまいりました結果・・・
知事、そう何でも中止、中止と申しましても・・・
エー、ですから都市博も中止にしたことですし・・・
知事、競馬にはマキバオーには夢があるんですよ。ロマンがあるんですよ。
知事!レースの実況はアオシマですよ、青島アナウンサー!!
えっ!アオシマ名前が好きだなぁ。やっぱり開催するかぁ~!
開きましょう!開きましょう!そうしましょう!!!」

「走れコウタロー」で始まったので、「走れマキバオー」で、〆た。最後に以下で、聞いてみてください。
みどりのマキバオー OP「走れ!マキバオー」 YouTube



冒頭の画像は、東京都知事当選後も各方面から励ましを受けた美濃部氏。写真は、右から俳優の花沢徳衛、神田隆、田村高廣、加藤剛。1967年7月15日東京般若苑にて。『朝日クロニクル週刊20世紀」 1967年号より。
参考:
※1:カレッジ・フォーク(フォークとミュージックの時代)
http://www.aki-f.com/folk/cat.php?id=2
※2:初心者のための麻雀講座
http://www2.odn.ne.jp/~cbm15900/html/info2.html
※3:ソルティー・シュガー/歌詞:走れコウタロー/うたまっぷ歌詞
http://www.utamap.com/showkasi.php?surl=35731
※4:種村剛◆「社会情報学」基本資料目次
http://homepage3.nifty.com/tanemura/socio_info.html
※5:その昔、老人医療費(自己負担)は無料でした-厚生年金・国民年金情報通
http://www.office-onoduka.com/nenkinblog/2008/03/post_130.html
※6:左翼は何故公営ギャンブルを廃止したのか?
http://blog.livedoor.jp/the_radical_right/archives/52860061.html
※7:特集/競馬・ボート・競輪・オートレース 公営ギャンブルの窮地
http://d.hatena.ne.jp/furuta01/20111004/1318118890
※8:パチンコの換金、法的になぜ罰せられない?カジノ解禁ムードで強まる 合法明文化の動き
http://biz-journal.jp/2013/11/post_3344.html
「革新自治体」時代終り
http://homepage2.nifty.com/tanimurasakaei/kakusinnzititai.htm
走れコウタロー - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B5%B0%E3%82%8C%E3%82%B3%E3%82%A6%E3%82%BF%E3%83%AD%E3%83%BC











EPAの日

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記念日協会に登録されている今日・1月30日の記念日に「EPAの日」があった。
「EPA」というと、わたしなど、「Economic Partnership Agreement」(経済連携協定)のことを思い出すのだが、記念日協会に登録されている「EPAの日」の「EPA」は、に多く含まれるエイコ サペンタエン酸(eicosapentaenoic acid=EPA)の略称で、記念日を設けたのは、水産事業や食品事業などを手がける日本水産株式会社
EPAには、中性脂肪を減らしたり、動脈硬化などの予防をする働きがある。日付は 中心の生活を送る現代人に肉(29)を食べた次の日(30)には魚を食べ、EPAを摂取してバラン スよい食生活を一年中送って欲しいという思いを込めて毎月30日を「EPAの日」として記念日登録したそうだ(※1参照)。

魚肉は最も古くから食べられていた食材のひとつであり、漁業は人類が初めて魚類甲殻類を川や海から捕獲し始めた中石器時代だろうとされている。
四方を海に囲まれた日本は厖大な数の河川にも恵まれたということもあって古くから魚食文化が根付いており、縄文時代の遺跡からは釣針や銛(もり)、漁網の錘(おもり)として用いられた土器片錘や丸木舟などの漁具が出土しており、漁や採集によって魚介類を収獲していたと考えられている。
鎌倉時代には、漁を専門とする漁村があらわれ、魚・海藻・塩・貝などを年貢として納めるようになった。
室町時代にはさらに漁業の専門化がすすみ、沖合漁業がおこなわれるようになり、の発達や交通網の整備、貨幣の流通など商業全般の発達に漁業も組み込まれていった。
江戸時代には遠洋漁業がおこなわれ、また、上方で発達した地曳網による大規模な漁法が全国に広まるなど、漁場が広がった。
江戸時代には、多くの商業都市も発達したが、大阪湾という天然の良港にも恵まれた大坂(大阪)は、全国の流通の中心となっていた。大阪湾沿岸域の都市周辺には既に多くの漁村が形成されていたが、これらの漁村から供給される魚介類により「雑魚場(ざこば)魚市場」と呼ばれる水産物市場が形成されていたようだ。

●上掲の画像は雑魚場魚市場。

雑魚場魚市場は、大阪商人や職人の生活を支えるのみならず、廻船によって、最大の消費地である江戸をはじめ、瀬戸内海を経由して日本海沿岸の各地まで水産物を供給していたようだから、まさに、大阪は「天下の台所」であった。
江戸においても、水産物の消費が拡大するにつれて流通業(商品を消費者まで届けるまでの各産業)が発達していった。当初は、幕府に魚を納めた残りを漁師たちが日本橋で売っていたが、鮮度を魚の目の色で判断するなど独特の技術(目利(めき)きの技)を持つ「仲買人」という職業が発達し、水産業の中でも分業化が進んだ(※2:「農林水産省-水産庁HP」の平成21年度水産白書ここ参照)。

●上掲の画像は、歌川広重の描いた『六十余州名所図会』の「上総 矢さしか浦 通名九十九里」・・・の図である。
砂浜が60キロも続き日本の白砂青松100選日本の渚百選に選定されている千葉県の九十九里浜
室町時代に、紀州の漁師が地引き網によるイワシ漁を伝えたとされ、江戸時代には「千両万両 引き上げる」と唄われるほど、イワシの地曳網漁の地として全国に知られていたそうだ。画面手前には揚がってくる魚を待つ魚屋や商人たちであろう姿も描かれている。図の地名となっている「矢さしか浦」 「九十九里」の謂れなどは以下参考の※3 を参照されるとよい。賑わっていた房州の江戸時代、明治初期の風景を描いた浮世絵が以下で展示されている。
浮世絵にみる江戸時代、明治初期の漁業 - 日本財団 図書館


●上掲の画像は、同じく広重のあの有名な『東海道五十三次』の「日本橋」の図である。
江戸から京へ向かう東海道(近世東海道)の起点であった日本橋の図には、参勤交代大名行列が朝早くから江戸を発つ様子が描かれているが、その手前には、魚を天秤棒で担いだ一団が、向こう岸にあった魚河岸から仕入れを終え、行商(物売り参照)に出かける様子も描かれており、江戸で一番賑わっていた早朝の日本橋の活気が伝わってくる。
同じく広重の日本橋の絵では、広重が一立斎の落款をもつ初期(天保3年=1832年頃)の傑作「東都名所 日本橋真景并ニ魚市全図」(3枚組)がある。当作品では、日本橋とその周辺地域を、俯瞰構図で広々と描いており、題名にもあるように、とりわけ日本橋の下流北側に広がる魚市の賑わいのようすが詳しく描かれてお、富士山を望む橋の袂には、日本橋川を行き交う多くの舟と、店を開く者や、天秤棒に魚を満載にして売り歩く者など、大勢の人々の姿が描かれ、魚河岸があった日本橋界隈の賑わい振りが伝わってくる。以下にアクセスし、画面向かって右1の図を拡大して見られるとよい。。
国立国会図書館デジタルコレクション - 東都名所 日本橋真景并ニ魚市全図

徳川家康の関東入国後、摂津から漁民が佃島に移り住み、幕府の膳所(食膳を整える所。台所)に供するために漁業を営んだ。のちに、日々上納する残りの鮮魚を舟板の上で並べて一般に販売するようになった。これが日本橋魚河岸の始まり。1923(大正12)年の関東大震災で壊滅し、その後、築地市場が出来るまでは、江戸および東京の台所として活況を呈していた。
戦後の1948(昭和23)年に出版された GHQ (連合国軍総司令部)天然資源局の報告書には、日本及び日本人にとって魚介類が如何に密接に結びついているかについて以下のように書かれているという。
例えば、「日本は世界に冠たる漁業国であり、漁業者にとって世界の7つの海(注1)のうち6つの海を航海するなど朝飯前」、「日本の漁業者にとって興味の湧かない海洋生物などなく、魚であれ、海藻であれ、余すところなく、無駄なく、利用している。」。また、日本においてこれほどまで漁業が発達した最大の理由として、日本周辺に魚介類の高い生産性を有する好漁場があり、特にアジサバイワシといった変動の激しい浮魚を上手に利用していると分析しています。この他、魚屋で楽しげに魚介類を買い求める主婦の様子、漁に勤しむ活気ある漁業者、山奥の農村においても5月になると鯉のぼりを掲げるなど日本人の日常生活や行事の中にいかに魚が溶け込んでいるかについて言及されています。・・・と(※2:「農林水産省-水産庁HP」の水産政策審議会 企画部会>第21回[平成20年1月25日]:“第Ⅰ章特集伝えよう魚食文化、見つめ直そう豊かな海”参照)。

戦後の日本経済の成長とともに魚介類の水揚げ量は増加したが、その増加を牽引した遠洋漁業・沖合漁業が1973(昭和48)年の石油ショックによって漁船のコスト高の影響を受け、また1970年代後半から世界の漁業国が200海里規制(排他的経済水域参照)を取るようなると、遠洋漁業・沖合漁業の水揚げ量が減少した。
それでも、日本の排他的経済水域(EEZ)の面積は世界第6位で、国土面積の約12倍もあり、我が国周辺水域が含まれる太平洋北西海域は世界の漁業生産量の2割を占める世界有数の好漁場である。
特に、我が国周辺海域では栄養塩や魚を運んでくる親潮黒潮などの海流がぶつかることで、豊かな漁場が形成されていることから、日本の海面漁業生産量は今なお世界第6位にあり、世界中で約25,000種程あるうち、、日本とその周辺海域からは約3,900種もの魚類の生息が報告されているという。(※2:水産庁の水産白書(平成24年度)や産政策審議会 第38回 企画部会資料2_4等参照)。
しかし、1985(昭和60)年のプラザ合意以降、円高が進んだために水産物の輸入が増加。1980年代半ば以降、遠洋漁業・沖合漁業・沿岸漁業などの海面漁業は漁獲量の下落傾向が続き、我が国の食用魚介類の自給率は、かつては100%を超えていた(ピークは昭和39年の113%)が、平成12年には53%となった。その後、国内生産量に下げ止まりの傾向が見られたことや水産物輸入量の減少により、近年、食用魚介類の自給率は微増傾向で推移しており、平成22年には60%までに回復はしているようだが、輸入に頼っている現状は続いている。

古くから豊かな海の恩恵を受けて、多彩な魚食文化が発展してきた日本では、魚は焼いたり煮たり、あるいは揚げたりと様々に料理されるが、刺身のように生でも食べるのは世界の中の少数派である。魚には傷みやすいものが多く、保存のために塩漬けや干物、燻製、あるいは油漬けなどに処理される例も多い。直接的な食品でない例としては鰹節や魚醤がある。
そんな『魚』(サカナ)の漢字の読みは、本来「ギョ」「うお」しかなく、昭和48年に当用漢字が改正されてから「さかな」の読み方が認められるようになった・・ということはご存知でしたか?
そもそも「うお」と「さかな」はまったく別のものを指していた。「とびうお」「魚市場(うおいちば)」「魚河岸(うおがし)」というように、水の中で泳いでいる生き物を「うお」と呼んでいた。「さかな」は漢字で書くと『』であった。「さか」は“酒”、「な」は“副食・おかず”を意味することばで、【酒を飲むときに添えて食べるもの】を「さかな」と呼んでいた。それがなぜ、魚を「さかな」というようになったのか。昭和初期の辞書には〔魚肉ハ、肴ニシテ、最モ美味ナレバ、其名ヲ専ラニスルナリ〕とあるそうだ。つまり、魚(うお)は肴(さかな)の中で一番おいしかったので、魚を「さかな」と呼ぶようになったという(※4参照)。・・・それほど魚は日本人に好かれていた食べ物であったわけだ。
しかし、生活水準の向上等により、魚介類の1人当たり消費量は世界の各地域で増加しているのだが、日本では減少しており、2008(平成20)年にはポルトガル、韓国に追い抜かれ、人口100万人以上の国の中では3位に転落しているという。
日本の国民1人1日当たりの摂取量は魚介類が減少傾向にある一方、肉類は増加から横ばい。2006(平成18)年には、初めて肉類が魚介類を上回った。2011(平成23)年の魚介類摂取量は前年より若干増加したが、肉類と魚介類の差は拡大している。以下は※5:「厚生労働省:国民健康・栄養調査(平成25年)」の結果の概要(3.食品群別摂取量の表9などより抜き書きしたもの。
※魚介類一日摂取量:2001(平成13)年94,0g(肉類76,3g)→2011(平成23)年72,7g(肉類83,6g)、
この傾向は、若い世代だけでなく、魚を多く食べていると思われる50代、60代にも魚離れが進んでいる。
        2001(平成13)年   2011(平成23)年  2014(平成25)年
50代魚介類120,8g(肉類73,2g)  81.6g(肉類87.5g) 81.2g(肉類91.0g)
60代魚介類123,0g(肉類56,8g)  97.7g(肉類68.8g) 94.6g(肉類76.9g)
このような状態が続けば、世代交代が進むにつれて、国民全体の魚介類の摂取量が急速に減少していく可能性は高い。

魚介類には、ビタミンやカルシウムなどの人の健康に必要な栄養成分や機能成分が豊富に含まれている。
・魚介類に含まれる栄養成分
・魚介類に含まれる主な機能成分
中でも、極寒の海の中でも活発に泳ぎ回るマグロやイワシ類・サバ類・サンマなどの、青魚、常温でも固まりにくい魚のサラサラした脂=必須脂肪酸には、ヒトの健康をサポートする秘密がある・・・と、今、注目されている。
健康な体を維持するためにはタンパク質を摂取する必要がある。タンパク質は肉や魚から摂ることができるが、肉だけでは脂肪の摂りすぎやコレステロールの増加が心配。一方、魚は余計な脂肪分が少なく良質なタンパク質が特長であり、健康維持のためには、肉よりも魚で良質なタンパク質を摂ることがオススメだというのである。
魚介類の中でも、青魚には、人の健康に有益な機能成分であるエイコサペンタエン酸(EPA)やドコサヘキサエン酸(DHA)などのオメガ3系脂肪酸(ω-3脂肪酸)である高度不飽和脂肪酸が多く含まれているそうだ。
EPAは、マイワシ、クロマグロ脂身、サバ、ブリなどに多く含まれており、血栓予防、抗炎症作用(炎症を抑える作用)、高血圧予防の効果が期待されており、
DHAは、クロマグロ脂身、スジコ、ブリ、サバなどに多く含まれており、脳の発達促進、痴呆予防、視力低下の予防などの効果が期待されているという。
日本人の食生活が豊かになり、魚介類中心の食生活から肉中心の食生活に変化してきたため、脂肪の摂取は多くなる一方で、EPAの摂取量は年々減ってきている。
また、1日の食生活におけるEPA・DHA量の調査によると、年齢によって異なるものの、全般的にEPA・DHA摂取量は必要量に足りていない。
ただ、以下参考の※1:「ニッスイHP」に、“いわし・さば・あじなどの青魚に多く含まれるEPAが脚光を浴びるようになったのは、1960年代にデンマークのダイアベルグ博士らが行った、デンマーク自治領であるグリーンランドのイヌイットの人々を対象に行った疫学調査がきっかけです。この調査では、n-3系脂肪酸の摂取量が多いイヌイットには、心疾患がほとんど認められませんでした。このことからEPAなどのn-3系脂肪酸が動脈硬化を予防すると考えられています。”・・・との記載があるが、このダイアベルグ博士らの研究を根拠として、魚油のサプリメントや魚を食べることを推奨する場面でよく引用される基本文献のひとつになっているが彼らの使用している統計が不完であり、その研究成果が信頼できないとする意見もあるのが気になるところではある(※6参照)。
しかし、青魚から採られる必須脂肪酸は、体内では他の脂肪酸から合成できないためにどうしても摂取する必要がある脂肪酸で、健康維持には欠かせない成分であり、食べ物から摂取する必要がある。
一時期、「おさかな天国」と呼ばれる歌が、全国のスーパー、百貨店などの鮮魚店コーナーのキャンペーンBGM用として流れていたのを思い出した。

サカナを食べると アタマが良くなる
サカナを食べると カラダにいいのさ
さあさ みんなでサカナを食べよう


正確な歌詞はここを参照→柴矢裕美/歌詞:おさかな天国/うたまっぷ
1991(平成3)年に水産庁の魚食普及事業の一環として全国漁業協同組合連合会(JF全漁連)中央シーフードセンターのキャンペーンソングとして制作された楽曲あるが、健康への影響を考えるとあながち無根拠とも言えないところがある(魚介類100g中の主な脂肪酸については魚介類の脂肪酸を参照。又、2012(平成24)年消費者庁より出されている「食品の機能性評価モデル事業」の結果は以下参考※「7:DHA・EPA協議会HP」のn-3系脂肪酸の機能性の評価結果を参照)。
したがって、近年「調理や片付けに手間がかかる」「価格が肉より高い」「青魚が嫌い」などの理由で日本人の魚離れが進み、このまま魚を食べなくなったら、日本人の健康はいったいどうなってしまうのだろうか?高齢化の進んでいる日本。元気で長生きするためには、青魚を食べるよう努力はした方がよさそうだ。
だがどれくらい摂取したらよいのだろう?
厚生労働省はDHA・EPAを摂取量の50パーセンタイル値(中央値)より作成し、1日1000㎎(1g)以上のEPA・DHA摂取を推奨している。1日1000㎎は魚に換算すると、1日約90 g以上。クロマグロの刺身なら約8,5人前以上(1人前80gとして)マアジなら約150g以上摂取する必要があるそうだ。
また、DHAとEPAを魚で摂取しようとすると、魚の種類によってDHAやEPAの含有量が異なるので、効率良く摂取するには魚の種類を選ぶことが重要になるようだ(※※7のQ&A参照)。
私の場合、同じサバ科でもマグロや、白身魚は好きなのだが、青魚はあまり好きではない。鮮度の良いものなら寿司や刺身では食べるが、煮物や焼き物は弱い。今の生活スタイルでは、厚生労働省推奨の摂取量を毎日とるのはとなかなか大変だ。そうなると、サプリメントで捕捉するしかないということなのだろうか・・・・。家人にいろいろ工夫をしてもらわないといけないな~。

参考:
注1: 7つの海:時代によって指す場所は変化するが、現在は「北極海、南極海、インド洋、北大西洋、北太平洋、南大西洋、南太平洋」を指す。

※1:ニッスイHP:サラサラ生活向上委員会
http://sara2.jp/
※2:農林水産省-水産庁HP
http://www.jfa.maff.go.jp/index.html
※3:九十九里浜(くじゅうくりはま)あれこれ - 千葉県山武市公式ホームページ
http://www.city.sammu.lg.jp/site/kids/99.html
※4:「魚」と「さかな」は別のもの? - トクする日本語 - NHK アナウンスルーム
http://www.nhk.or.jp/kininaru-blog/103903.html
※5:厚生労働省:国民健康・栄養調査
http://www.mhlw.go.jp/bunya/kenkou/kenkou_eiyou_chousa.html
※6:※6:エスキモーの死亡統計は不完全だった リンクDEダイエット 栄養のひろば
http://www.nutritio.net/linkdediet_kyu/FMPro?-db=NEWS.fp5&-format=news_detail.htm&-lay=lay&KibanID=44394&-find
※7:DHA・EPA協議会HP
http://www.dhaepa.org/index.html
かがわのお魚便利帳
http://www.pref.kagawa.jp/suisan/html/suisan/osakana/index.htm
魚肉の歴史
http://homepage3.nifty.com/onion/labo/fish.htm
やずやHP
http://www.yazuya.com/items/dhaepa/aozakana/index.html

エイコサペンタエン酸 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%82%A4%E3%82%B3%E3%82%B5%E3%83%9A%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%82%A8%E3%83%B3%E9%85%B8









チャップリンの映画『街の灯』がアメリカで封切りされた日

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1931年の今日・2月6日は、チャップリン(チャールズ・スペンサー・チャップリン"チャーリー")の映画『街の灯』(まちのひ、City Lights)がアメリカで封切られた日である。
チャップリンの映画についてはこのブログで、「チャップリンの映画『モダン・タイムス』がアメリカで公開された日」「チャップリンの誕生日」でも書いたので、どうしようかと思ったが、チャップリンは私の大好きな俳優でもあり、少々重複することもあるが、また、違った観点から書いてみることにした。

「そびえ立つ摩天楼、明るく輝く電燈の光、活気にあふれた広告の照明。そうしたものがたちまち希望と冒険心をかきたててくれた。『これだ!』わたしはひとり思った。『これこそ僕が住む街だ!』」
1910年9月半ば「フレッド・カルノー一座」(イギリス・ブロードウエーで、チャップリンはそう思ったという。
20世紀という時代を象徴するこの街で彼を待っていたのは、20世紀の新しい娯楽、映画の世界だった。
チャップリの両親は、ともに19世紀後半のイギリスで大衆娯楽の王座にあったミュージックホール(寄席のようなももだったらしい)の芸人だった。
彼が生まれて1年後に父親(チャールズ・チャップリン・シニア)は母親と別居、そして離婚。以後、舞台芸人の母親(ハンナ・チャップリン)に育てられ、5歳の時、喉頭炎(のどの病気)で、声が出なくなった時、母親の代役で舞台に出たのが、彼の初舞台であった。母親譲りのパントマイムの才能は後に映画で十分に発揮されることになる。
彼の初舞台の後、、母親は二度と舞台に立つことができず、彼は貧窮生活に陥った。しかし、失職した母のもとに父から養育費が届くはずもない。極貧生活の中で母は発狂し、施設に収容されてしまい、4歳違いの異父兄シドニーとともに、救貧院孤児院を往復する少年時代を送っている。
生きるために床屋、印刷工、ガラス職人、新聞やマーケットの売り子とあらゆる職を転々としながらも、俳優斡旋所に通い、劇団を転々としながら芸を磨き、17歳になると兄の薦めでイギリスの劇団フレッド・カルノーの一座(この劇団には後にローレル&ハーディとして有名になるスタン・ローレルも在籍していた)に入団し、両親と同じミュージックホールの世界でコメディアンとして才能を磨くのだが、やがて、自分の将来に不安を感じるようになる。自伝には、以下のように記されているという。
「私は、寄席向けのコメディアンではない。彼らに必要なあのなれなれしさ、すぐに客の懐に飛び込んでいくあの才能を欠いていることが分かったからである。・・・ほとんど教育を受けていない私としては、もし、ミュージックホールの役者として失敗すれば、残された道は、召使になるぐらいしかなかった。その意味で、アメリカなら、未来が大きく開けている」・・・と(『朝日クロニクス週刊20世紀』1915-16年号)。

カーノー劇団の2度目のアメリカ巡業後の1913年、映画の都としての体裁を整え始めたハリウッドで、彼は人気の喜劇映画監督マック・セネットの目にとまり、週給150ドルの契約でキーストン・コップス(コメディアングループ)で有名なキーストン社に入社。翌1914年、『成功争ひ』で映画デビュー。
2作目『ヴェニスのこども自動車競走』の撮影中、「なにか扮装してこい」というぜネットの言葉に、彼がとっさに思いついた服装こそ、あのスタイルー大きなどた靴に、だぶだぶズボン、山高帽にステッキ、ちょび髭の放浪紳士チャーリー。
小柄で細身、二枚目で若く見られがちという、コメディアンに不向きな素顔を逆手にとった・・。逆転の発想であった。ステッキを振りながらぜネットの前を歩いて見せるわずかな間に、彼の頭の中はすでにギャグとアイデアでいっぱいになったという。以降『独裁者』(1940年)までこの扮装が彼のトレードマークとなった。

1914年、25歳の時からアメリカのドタバタ喜劇に出演したが、12本目から早くも監督と主演を兼ね活躍を始めたという。その頃の映画はその場その場の思いつきで撮影していたが、チャップリンはシナリオを書き、演技を何回もリハーサルしたという。この年だけで撮影された短編映画は35本、『醜女の深情』というマック・セネット監督の長編にも出演している。
ストーリー重視の映画制作を目指すチャップリンは、翌1915年には、キーストンを離れてシカゴのエッサネイ社に週給1250ドルの契約で移籍。自身で監督・脚本・主演した作品を14本作り、チャップリン演じる浮浪者が繰り広げるドタバタコメディは人気が博した。
そして、1916年、彼は、ミューチュアル社と週給1万ドル、ボーナス15万ドルで契約。この破格の待遇がサイレント時代におけるチャップリンのすさまじいまでの成功を物語っている。彼は、ここでは製作の自由を与えられ、よりよい環境とスタッフの下12本の傑作を世に送った。
その後、チャップリンは、初期短編作品に続く『犬の生活』(1918年)でそれまでのドタバタから抜け出す。
食にあぶれ腹を空かした浮浪者チャーリーはホットドック売りからつい1本失敬してしまう。口に入れかけたところへ痩せた犬がやってくる。可愛そうに思い犬にやろうとすると、ブルドックが来てかっさらっていく。人犬一体の笑いと涙の名作である。
この、『犬の生活』・・・て、どんな映画か気になるところだが、以下は、少々いたずら書きが多いが、見ることはできる。貴重な映像なので時間があれば見られるとよい。

犬の生活
タイトルの原題「A Dog's Life」は、「惨めな生活」を意味する英語の慣用句でもあるそうだ。一連のチャップリン映画の中でターニングポイント(重大な転換期)に位置する作品であり、チャップリンの「放浪者」、いわゆる「チャーリー(英語版)」のキャラクターが完全に確立された作品とみなされている。
浮浪者チャーリーのキャラクターについて、チャップリン自身は、「この男は実に複雑なのだ。浮浪者であるかと思えば紳士でもある。詩人にして夢想家、そして、孤独で寂しい男。そのくせ彼のやれることと言ったら煙草の吸殻を拾ったり、子供の飴玉をちょろまかすくらいなもの。事と次第によっては、御婦人の尻を蹴飛ばすかもしれないね」といってる(『朝日クロニクス週刊20世紀』1915-16年号)。

チャップリンは、この『犬の生活』(1918年)、『キッド』(1921年)、『黄金狂時代』(1925年)、『街の灯』(1931年)などで喜劇王の名を不動のものにしていった。
犬と共演している映画は、『犬の生活』の他に、キーストン期の『チャップリンの総理大臣』(1914年)と『チャップリンの拳闘』(1915年)、ユナイテッド・アーティスツ時代に入ってからの『黄金狂時代』(1925年)、そして、『街の灯』(1931年)であり、このほか、戦後の作品『モダン・タイムス』(1936年)にも登場している。

さて最後になってしまったが、肝心の『街の灯』は前作の『サーカス』(1928年公開。同年度の第1回アカデミー賞で特別賞を受賞している)に引き続きユナイテッド・アーティスツで製作・配給した作品で、製作に3年余りの時間を要した。冒頭には「コメディ・ロマンス・イン・パントマイム」というタイトルを掲げている。
本作は、“映画は見れば分かるものだから音は不要”と、ずっとパントマイムと、サイレントにこだわってきた彼があえて、トーキー隆盛の時代にサイレントで、音楽のみサウンド版となっていて、その音楽には並々ならぬ意欲が感じられる。
『街の灯』は、目が見えない花売り娘と浮浪者の恋を描いたロマンティック・コメディであるが・・・・。
チャップリン映画の特徴は、喜劇であっても悲劇的な要素を持っているし、また悲劇であっても喜劇的な部分を必ず見出すことができる。
ここに登場するチャップリンは浮浪者だがスタイルは紳士、つまり「放浪紳士」なのだが、街頭で花を売る少女の美しさに魅せられ、ポケットに残る小銭で一輪の花を買う。だが少女には金持ちの紳士と誤解され、ついその気になって、少女の前では富豪の紳士を演じようとし、彼女の目の治療費を稼ぐため、悪戦苦闘を繰り広げる……。
ここではチャーリーの「放浪紳士」という二重性を帯びた性格が見られる。チャーリーの扮装は貧乏な人が上流の紳士に憧れる姿でもあり、紳士たちの実態を痛烈に皮肉ったものとも言える。そして、チャップリンは先ず、冒頭の場面でもたっぷりと社会風刺をきかせている。
ある街の広場で、「平和と繁栄の像」の除幕式をやっている。記念碑を覆う幕の下には、第1次世界大戦後のアメリカが享受していた永遠に栄える社会の象徴があるはずであったのだが、いざ除幕すると、そこには職を失った浮浪者チャーリーが寝ていた……。
1920年代の繁栄の裏側を歩いてきたチャップリン演ずるひとりの浮浪者の存在が“20年代の繁栄をくつがえしている。この除幕式の場面が撮影された半年後の1929年10月24日にはニューヨーク証券取引所で株価が大暴落ししたことを端緒として、世界大恐慌が始まった。その意味でも「街の灯」は予言的な作品であるが、”31年の公開時、この冒頭場面は、大恐慌発生後の世界に強烈にアピールした。
名士達にどやしつけられながら逃げ出し、街中まで来ると、盲目の美しい娘が花を売っていて、チャーリーに声をかける。そこで、一輪の花を買ったことからその少女に金持ちの紳士と誤解され、このドラマは始まる。
娘が手術代さえあれば目が見えるようになると知ったチャーリーは、たまたま富豪の酔っ払いが自殺しようとしたのを助けてお礼を貰ったので娘に。
次はボクシングの八百長試合に出場するも失敗。失意のまま歩いているとまた、泥酔した例の富豪に出会う。この富豪、泥酔している時にはやたらと気前が良くて、チャーリーを親友扱いするが、しらふになると記憶を失い自分でお金を渡しておきながらチャーリーを泥棒と勘違いする。ここに登場する大富豪にも二重性がある。
やってきた警官からも逃げだして、娘のところに。「これで目の治療をうけなさい」と大金を渡して、街に戻ったところを昨夜の警官に逮捕されてしまう。  
月日は流れチャーリーは刑期を終えて出所する。街の新聞売りの少年にからかわれながらも、ふと花屋をのぞくと、そこにはあの花売り娘が笑っていた。彼はガラス越しに彼女を見つめるが、娘は彼が恩人であることを知らない。娘の目に見えているのはボロをまとった浮浪者であった。悲しい断絶をにおわせながら、心優しい娘は彼に花を一輪とお金を手渡そうとする。困ったような表情のチャーリーにお金を握らせた時、娘の表情が変わる。そして、二人が交わす言葉。
「You?」(あなたでしたの?)
「You can see now?」(もう見えるようになったんだね?)
「Yes, I can see now」(ええ、今は見えます.)
盲目だった彼女は恩人の手を覚えていたのだった。
ラストシーンは、この3枚の字幕に挟まれながら、クローズアップでチャップリンが最高の演技をみせて映画は終わる。クロース・アップの何と効果的なことか。
見えない目を覆っていた瞼の向こうに思い描いていた少女の “白馬の騎士”は、実は“小汚い浮浪者”だったわけである。
もし、ここで映画が終わらなければ・・・・。映画はハッピー・エンドで終わらなかったかもしれない。二人が再会し、複雑な笑いを浮かべるラストシーンは、見る者の脳裏にさまざまなことを去来させる。
完璧主義者のチャップリンは、ヴァージニア・チェリル演じる花売り娘との出会いのシーン(正味3分ほど)に342回のNGを出し、1年以上かけて撮り直しをしたという。
トーキーの時代を迎えた映画界で、チャップリンがサイレント映画に対する愛情と自信から、パントマイムとわずかな字幕だけを用いて、鋭い人間観察に裏打ちされた人間の残酷さと無償の愛を描き、世界中で大ヒットしたこの名作。
ラストシーンで流れているフィナーレの曲はチャップリン自身の作曲によるものであり、オーケストラに編曲しているのは映画音楽の巨匠アルフレッド・ニューマン。壮大な美しい音楽が、この感動的なラストシーンを大いに盛り上げている。
見た人が多いだろうが、まずは、そのラストシーンを素敵な音楽を聴きながら再度見てほしい。


この映画に流れているテーマ曲「花売り娘」は、スペインの作曲家ホセ・バディラが作曲し、ラケル・メレエ(RaquelMeller)が唄っていた古い歌曲『LA VIOLETERA』(ラ・ヴィオレテラ。菫の花売り)で、チャップリンが好んでいた曲といわれ、これをアーサー・ジョンストンが編曲したものが使われている。聞いてみると、なるほどと納得することだろう。



上掲は、チャップリンの『街の灯』のサウンド・トラックによる「花売り娘」。以下が、ホセ・バディラ作曲。ラケル・メレエ(RaquelMeller)唄の「LA VIOLETERA」


『街の灯』は、1931(昭和6)年にアメリカ(ユナイト社)で製作公開された。日本でも前評判が高くて、翌1932(昭和7)年6月と7月に早くも和製主題歌が登場した。
ひとつは、矢追婦美子の唄う「花売娘の唄」(作詞:岸 練三郎 、曲は外来曲によるもの)ポリドールより7年6月発売。
もう一つは淡谷のり子の唄う「街の灯」(作詞:浜田広介・作曲:古賀政男)で、コロンビアより、7年7月発売。
しかし淡谷のり子が唄う『街の灯』の主題歌が出たのに、どういうわけか映画の方は日本国内の公開が遅れて、2年後の1934(昭和9)年1月にやっと公開となった。日本で公開もしてないのに、なぜ2社で映画主題歌を出してしまったのかは謎だか、チャップリンは、この映画完成後、1年4ヶ月間にわたる世界一周の旅に出、この1932(昭和7)年5 に初来日しているので、その来朝記念に国内公開の機運が高まっていたのかもしれない。
早まって出したコロムビアは、淡谷のり子に同じ歌詞だが作曲だけ変えて、1934(昭和9)年2月に「街の灯」を改めて出すことになった。


上掲は、浜田広介作詞・古賀政男作曲により淡谷のり子が唄う「街の灯」
以下は、同じく浜田広介作詞であるが杉田良造が作曲したものを淡谷が唄う「街の灯」。聞き比べると面白い。


 一方のポリドールの方は渡辺光子を起用して、「街の灯の唄」(作曲:服部竜太郎、曲は外来曲)、「花売娘の唄」(作曲:服部竜太郎、曲は外来曲)の2曲の主題歌を改めて1934(昭和9)年3月に出したというが、こちらはどんなものか聞けないのでよく判らない。とにかく2年遅れの日本での公開は、相当な期待を持って待ち望んでいたらしく、「街の灯」の主題歌は、コロンビア、ポリドールだけでなくビクターとテイチクでも競作で出していたそうだ。
ニューヨークの場末の貧民街の街角で、ふっと出会った浮浪者と盲目の花売り娘の物語『街の灯』は、そのバックミュージックとともに多くの日本人の共感を呼んだようだ。

参考:
昭和初期の映画主題歌あれこれ
http://blog.livedoor.jp/oke1609/archives/2006-06-21.html
週刊シネママガジン:チャールズ・チャップリン
http://static.cinema-magazine.com/new_kantoku/chaplin.htm
チ ャ ッ プ リ ン 映 画 を 語 る
http://homepage1.nifty.com/Kinemount-P/CHAPLIN-TOP.htm
チャールズ・チャップリン - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%82%BA%E3%83%BB%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%83%E3%83%97%E3%83%AA%E3%83%B3











NISAの日

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日本記念日協会に登録されている今日・2月13日の記念日に「NISAの日」がある。
NISA (=ニーサ)とは、2014(平成26)年1月から始まった株式投資信託への投資(新規購入分)によって利益が生じた場合。その値上がり益(キャピタルゲイン。(※1参照)や、分配金または配当金(=インカムゲイン※1参照)は、年間100万円(2016年から120万円)を上限に,最長5年間、非課税にする制度,、「少額投資非課税制度 」の通称である。
記念日登録は、年金加入者が自分の責任で資産形成のための賢い選択を行えるように、その効果的な教育を中立の立場で支援する特定非営利活動法人「確定拠出年金教育協会」(※2参照)が制定したものだそうだ。2014年から新しく、NISAが始まることを記念し、その内容を広めるのが目的だそうで、日付は2と13で「ニーサ」と読む語呂合わせから。

「NISA」が始まって1年経った今、もう、殆どの人が「NISA」のことはご存知ですよね。
この制度を利用するには,銀行や証券会社等の金融機関にて、NISAが適用される専用口座(非課税口座)を、通常の取引口座とは別に開設する必要がある。
利用できる上限の年間100万円(2016年から120万円)という金額は、その1年間で行うことのできる新規投資の上限額であり、年の途中で売却しても、空いた枠は再利用できないが、投資可能期間は2014年から2023年までの10年間続き、毎年新規に年間の投資上限(2016年から120万円)の非課税枠を使うことができる。ただし、NISAを利用できるのは、NISA向け口座を開設する年の1月1日において20歳以上の日本の居住者である。・・・等、様々な条件はあるものの、現在キャピタルゲインやインカムゲインに対する20%(2014年度からは、新たに復興増税も加わってくるため、税率は20.315%)もの課税が非課税になるというメリットは大きいので利用しない手はないのだが、皆さんは利用されていますか。
昨・2014年1月から開始されたNISAの口座獲得競争はすごかったですよね~。金融業界にすればかってあった「マル優制度」に匹敵する程、対象者数が多い制度なので、勢い口座獲得に力が入るのはわかるのだ、その口座獲得競争は、既に投資を行っている人を囲い込む、または飴をちらつかせることで他の金融機関から顧客を奪い取る陣取り合戦のようにも見え、非常に違和感を感じたものだった。
事実、現在はどうなっているのかよく知らないが、金融庁が昨年9月に発表したNISAの最新統計「NISA口座の利用状況等について」(※3:金融庁HPの“ここ 参照)によると、2014年6月30日現在で、「NISA総口座数は、727万3667口座となった。」・・・とあるが、その58,4%は60歳代以上の高齢者で占められている。
近年、非課税などのインセンティブが与えられてきた制度は、確定拠出年金制度(「日本版401k」とも言われる)のような勤労者(公務員は除く)を対象としているものばかりであり、専業主婦やリタイア世代を対象としていなかったが、NISAは、満20歳以上で住民票が取れる人は誰もが対象となるのだから、先に述べたようにマル優制度並みのインパクトはある。
同制度導入では、本来は、広く、今まで投資を行ってこなかった人をいかに投資に振り向かせるのかが大事なはずなのだが、実際には、対象者の数は膨大ではあっても、利用者の多くは相変わらずこの制度を利用して投資を行っている人のようであり、違和感はそのような「既投資家」という限られたパイの中での陣取り合戦を行っている風に見えた。
「貯蓄から投資へ」と言う言葉が何年も語られ続けているが、日本の場合、一向に個人のお金が投資に回らず、預貯金や国債などの成長が期待できないセクター(証券業界の用語で「業種」を指す)に滞留し続けているのが特徴である。

日本の財政収支GDP比)は近年改善してきたとはいうものの、2008(平成20)年秋以降の世界同時不況の影響により、主要先進国と同様に赤字幅が拡大しており、日本の総債務残高(GDP比)は主要先進国の中で最悪の水準にあり、純債務残高(政府の総債務残高から政府が保有する金融資産を差し引いたもの)で見ても、主要先進国で最悪の水準となっている。
また、この20年間(失われた20年と呼ばれる)で、日本の政府総支出(対GDP比)は増加している一方租税負担率の水準は大幅に低下したことに伴い、財政収支は大幅に悪化している(※4:「財務省:わが国の財政状況」の4. 財政事情を諸外国と比較してみると?参照)。そのため、その改善策の一環として、2014年4月から消費税も引き上げられた(※5:厚生労働省HP社会保障・税一体改革参照)。
そのようななか、投資や資産運用で得られる利益を非課税とするNISAについては、〝金持ち優遇政策ではないか〟・・・といった印象が拭えないところがある(※6参照)。
もともと、NISAは、低迷していた株式市場を活性化しようという、一種の景気対策として、キャピタルゲインやインカムゲインに対する税率を20%から10%に引き下げていた株式や投資信託に対する「軽減税率」を2014年1月から撤廃し、元通りの20%に戻すことが正式に決まった際、その影響で株式市場が下落しないよう、株式市場へのダメージを和らげる予防措置的な制度として策定されたという経緯がある(※7参照)。
もう一つ重要な導入の背景には、日本銀行が事務局を務める金融広報中央委員会が、毎年11月に公表している「家計の金融行動に関する世論調査」の2014年版の「単身世帯、2人以上世帯の調査結果」に見られる通り、金融資産の平均保有額は1182万円と2013年と比較して81万円増加し、金融資産を保有していない世帯も2014年は、30.4%とやや減少(2013年は31%)したとはいえ、金融資産保有ゼロ世帯が3割を超えている現状。つまり、預・貯金がまったくない世帯が増加しており、資産格差がなかなか縮まらないことが窺えることである(※8の調査結果の一括ファイル参照)。
こうした状況を踏まえて「金融資産ゼロ世帯を始めとした家計の資産形成をサポートする必要性が生じてきた。」ことは、金融庁の「金融商品取引業者等向けの総合的な監督指針」Ⅳ-3-1-2 勧誘・説明態勢」にも明示されている通りである。
そもそも、NISAは、1999(平成11)年からスタートした、イギリスの「ISA」(Individual Savings Account= 個人貯蓄口座。愛称アイサ)という制度を参考にして作られた制度であり、Nは日本(Nippon)を意味している。
しかし、イギリス発祥の「ISA」と日本版「NISA」には、相違点が多い。共通点としては、株式や投資信託が購入対象であることや、配当・分配金・譲渡益が非課税であることなどであるが、一方、ISAでは預貯金や公社債も購入出来るがNISAではできない。また、ISAには運用期限が無いこともNISAとは異なる。そして、ISAはイギリス国内に居住している人であれば国籍に関係なく誰でも口座が開けるため、利用者も多く、イギリスの金融市場では20兆円以上を動かしていると言われているそうだ。
またISAの利用層も広く、利用者の半数以上は年収2万ポンド未満(約300万円未満)と言われており、少ない資産でも運用できるという利点が既に広く支持されているという。
ただ、日本のNISAは、先に書いた目的や背景を基に、イギリスのISAをアレンジして導入したものだが、イギリスのISAに比べ、使い勝手の悪いものである。
NISAは、「金融資産を保有していない世帯の自助努力による家計の安定的な資産形成を支援するとともに、経済成長に必要な成長資金の供給を拡大する」目的で導入したものだが、私など、穿(うが)った見方をすると、「国民が長年コツコツとため込んだ莫大な預貯金やタンス預金を、低迷している株式や投資信託などのリスクアセット(=リスク資産。※1参照)市場に投入させ、市場経済の活性化と、それによる企業活動の活性化を期待する」ことを目的として導入したもの。つまり、国民の資産形成の支援の為と云うよりも、あくまでも、市場経済・企業活動の活性化を目的として導入したもの・・といった印象が拭えないのである。
私自身は、「NISA」が導入される以前より、金融資産は、預・貯金だけでなく、株式や投資信託等へもバランスよく配分していたこともあり、証券会社からも勧められ、「NISA口座」の開設は、家人名義も含めて早々にしてはおいたものの、結局、今でもNISAでの購入はせず今まで道りに普通口座を利用している。
理由は、私自身高齢であり、手持ちのものを何時売却・処分しなければならないかわからないし、損失が発生した場合、NISA口座と、普通口座のものとで利益と損失の相殺ができない不便さがあるからである。証券会社の人に聞くと、私の様に口座を開設しても利用していない人は結構多いという。
日本版NISAの問題点などは以下参考の※9:「イギリスISAとの比較から学ぶNISAの制度の問題点」に詳しく書かれているので参考にされると良い。また、以下では、NISAについての特徴や、銀行か証券会社に作るか?証­券会社は店舗かネット証券か?などの比較、投資信託等の口座開設する前にメリット・デ­メリットをわかりやすく説明しているので、時間のある人は見られるとよい。


世界の中でも類を見ない預・貯金好きの日本人。あまりリスクを大きくしたくないという人にとっては、イギリスで人気の高い「預金型ISA」に関心が深いだろうが、現状では「預金型」を導入してもあまり意味がないと言えるかもしれない。理由は、あまりにも低い日本の預金金利にある。毎年いくらかの年利が振り込まれたとしても、よほど高額な場合はともかく、大抵の場合、ATM手数料で差し引きされてしまうくらいの額であり、家で現金を保管する危険性が回避できると言った程度のメリットしかない。これを非課税にしたところで、これによって、預金を増やそうというほどの気持ちにはなれないだろう。
しかも、先に述べたように、政府のNISA導入の動機は、日本人が貯めこんだ預・貯金等をリスク市場へ投入させ、史上を活性化させたい・・・という気持ちの方が強いので、日本で「預金型NISA」が導入されるのは、まず当面期待できないだろうし、金利が上昇するまでは、導入されてもあまりメリットはない。
ただ、イギリスのISAも1999年に導入されて以降、長い年月をかけて進化してきた制度であるが、日本のNISAは導入されたばかり、今のところ2023年までの限定措置なので、これが、イギリスのように経済の活性化につながり、利用する人が多くなってくれば、日本でも年間の限度額改定や 期限も延長もしくは恒久化されるなどの可能性はあるだろう。

日本では、昨・2014年4月の消費税増税に続き、今年1月には相続税率も引き上げられた。
それに、アベノミクスにより、デフレから脱却のためのインフレ政策が掲げられ、日銀はインフレターゲットを2%と定め通貨流通量(マネーサプライ)を増やし、円安を誘導していることから、輸入物価が上昇、電気ガス等公共料金をはじめ低所得者にはつらい食料品をはじめとする諸物価がどんどんと上昇している。
このようなインフレが続くと、表向き、生活は苦しくなるが、かつては基本的には物価上昇と並行して金利水準も上がっていたため、預貯金をしておけば、利息収入も増えて、ある程度は物価上昇分を相殺できた。
ところが、今私たちが直面しているのは、物価が上昇しているにもかかわらず、政策金利は抑えられ、現在ではほぼゼロ%といった状況である。つまり、インフレ率と預貯金金利等の差がマイナス金利となっている。言い換えれば、私たちが長年コツコツため込んできた預貯金=貨幣価値がどんどん下がっているのである。
しかし、このような状況が継続的に続くインフレ下では、借金をしても実質負担が減る。つまり、土地や建物などの不動産を持っているが、借金などマイナス資産を抱えている人たちにとっては逆にプラス要因となる。
例えば、銀行やゼネコンが抱えている不良債権の名目債権額は変わらなくても、実質債券額は目減りするだろうし、利益を目的に、多額の借金をして、株式や不動産・設備などへ投資している一流企業、金融機関、それに個人でも、余裕資金を多く持っている一部の金持ちなどは、その借金の元本の目減り分が非常に大きく、投資資産はインフレで上昇するので大きく儲けることが出来るだろう。
そして、先にも述べたように、債務危機に直面したイタリア(GDPの1,5倍)よりも財政状況が悪化し、国内総生産(GDP)の2.3倍もの債務残高を抱えている日本政府(※10を参照)にとっても目先的には、都合の良いことなのだろう。
このように、インフレの進行によって、貨幣の価値が下落する一方で、金利を意図的に低く抑える政策、つまり実質的に民間から政府への所得移転が起ることを「インフレ税」と呼んでいるが、こんな言葉知っていますか。実際に税金が課税されるのではなく、インフレーションによって財政赤字を解消させることである。
税金と言っても、所得税や消費税の様に税率をいくら上げるかを国会で審議する必要もなく、政府は貨幣の発行特権(シニョレッジ)を持っているので、財政赤字を埋めるために通貨を大量発行すればインフレとなり、民間が保有する貨幣価値が実質的に下がり、その分、政府や債務者の債務は実質的に目減りするという仕組み。民間から政府への所得移転が起こる。
日本政府の債務残高が経済規模の2倍を超える水準にまで積み上がった経験は、過去にも存在する。第二次大戦末期の1944(昭和19)年末には、政府債務のGNP比率は204%に達していた。これは、巨額の戦費を税収だけでは賄うことが出来ず、国債発行で財政赤字をカバーしていたからである。このときには、戦中戦後に発生した高率のインフレより、数年間で政府債務の大半が帳消しにされてしまった苦い経験がある(※11や、日本の財政問題参照)。
国家が最終的に莫大な財政赤字を解消するには、戦争で債務をチャラにする以外、通常は、以下の3つの方法しかないだろう。
1)デフォルト(債務不履行)に陥る。
2)財政再建を断行し債務を減少させる。
3)激しいインフレによって債務を目減りさせる。
このなかで、欧州が今、真剣に取り組んでいるのが、2)の財政再建という、最もポピュラーな方法である。借金をしてしまったものは、支出を減らしつつ、一生懸命働いて返済するしかないのであるが、歴史的には、莫大な財政赤字を抱えた国家は、結局、1)のデフォルトに陥る(1998年ロシアや、2001年アルゼンチンなど)か、もしくは3)の激しいインフレによって莫大な財政赤字を解消させてしまうパターンがよくとられる。
世界に類を見ない財政赤字を抱える日本の財政改革は待ったなしの状態にあり、そこで選ばれたのが、2%の物価目標を設定し、政府・日銀が連携を強化しての、場合によっては、政府や日銀、民間が出資するファンドによる外債購入も視野に入れた「無制限の金融緩和」策による円安誘導政策である(※12参照)。
ただ、安倍政権では、これらの複合策を行えば、一定の成果を出すことが期待出来ると考えているようだが、日本が量的な金融緩和政策だけでは景気回復ができるかどうかは賛否分かれるところである。
確かに、米国では量的金融緩和政策が終了し、利上げへの移行が具体的に考察される局面を迎えており、米ドル、株価が堅調に推移してきたが、ギリシャ総選挙で緊縮財政反対の最大野党が勝利して後、リスク資産への投資が敬遠され、一進一退を繰り返しており、まだまだ先行きは不透明である。
それに、インフレを目指してきた米国では、一部のアナリストによれば、米国の富が上位1%の富裕層に集中していると指摘しているが、2014年 09月米国FTB調査の報告によれと、実際には上位3%の富裕層に集中していることが分かった・・という。そして、2010━2013年の期間に、米国の家計所得(インフレ調整後)は平均でおよそ4%増加したものの、所得の伸びは富裕層に集中し、上位3%の富裕層が所得全体に占める割合は30,5%だった。また家計純資産の保有状況ではさらに格差が拡大。上位3%の富裕層が全体に占める割合は、1989年の44,8%、2007年の51、8%から2013年には54、4%にも上昇しているという(※13参照)。一方で、飲食業界などの勤労者は低賃金。医療サービスや大学の授業料は値上がりし、貧富の格差を示すジニ係数は日本よりかなり高い。
インフレ政策による財政赤字の軽減が、上手くいけばそれに越したことはないのだが、それには安倍首相が言っているように、いくつか条件がある。まず景気回復が伴わなければならない。株高や円安によって日本を代表する国際優良企業が業績を回復してくれば、サラリーマンの賃金のベースアップが行われ、それによって、個人消費が上向く。そして、日本経済低迷の元凶である「需要不足」を解消できるかもしれない。
しかし、2015(平成27)年1月30日に発表された家計調査(ここ参照)でも、景気のカギを握る個人消費は深刻な減少を続けているし、勤労者世帯の実収入も名目増加しても、実質は0.8%の減少となっているなど、インフレになっても大企業は別として特に中小企業ではなかなか賃金アップは追いつかない(※14参照)。インフレが成功して、国家の財政赤字は解消させたとしても、勤労者の所得が比例して増加するわけではなく、生活自体は苦しくなっていく人が多くなるのだ。それに、もし、景気回復が実現できなくなったときには、円安、インフレ、債券安(金利高)だけが残ることになってしまう。
そんななか、少子・高齢化社会が世界に類例のないスピードで進む日本では仕事が出来、収入のある若いうちは何とかなっても、定年後の生活に必要な老後資金が確保できていないと大変なことになる。
インフレは借金しながら投資のできる恵まれた人には良いが、ただコツコツと預貯金で貯めるだけのふつうの庶民にはちっとも恩恵が及ばず、多くの国民が泣きを見ることになるが、特に蓄えのない低所得者や年金受給者などの生活は破綻しかねない。いずれにしても、インフレが続き、物価水準が上昇する一方で、このような超低金利が続くようだと、日本国内における格差問題は、今まで以上に広がっていく恐れがある。持てる者と持たざる者、そして、このような社会に対応できる者と出来ない者との格差が深刻になってゆくだろう。
しかも、日本人の平均寿命は、これからも伸びてゆくだろうし、そうすれば、医療費や介護・年金など社会保障費はますます増加するが、国も地方も社会保障費を今まで通り負担はしてゆけなくなるのは明らかである。医療や介護費の国民の負担率はますますアップし、年金の受給開始年齢も60歳から65歳へと段階的な引き上げが始まっているが、まだその先、支給開始年齢が引き上げられるかもしれなし、又、支給額も減額されるかもしれない。
そうなれば、これから60代を迎える人は、借家であれば住居費はもっとかかるようになるし、住宅ローンで持ち家のある人でも退職時に、退職金を全額貯蓄に回せる人は少なくなってゆくだろう。
総務省統計局が2013年2月に公表した『家計調査報告(家計収支編)2012年平均速報結果の概況』(※15のここ参照)資料を見ると、2012年の「総世帯」の消費支出(日常生活に必要な商品やサービスを買うために払った金額)は、1世帯あたり24万7,651円(月平均)で、2011年に比べて0.2%増えている。このうち、「2人以上の世帯」は平均28万6,169円で11%増加し、「単身世帯」は平均15万6,450円で28%減少と報告されている。
『高齢社会白書』(内閣府※16参照)や『厚生労働白書』(厚生労働省※5参照)では、65歳以上の高齢者のいる世帯を「高齢世帯」と呼んでいるが、総務省の『家計調査』は60歳以上としている。総務省の家計収支速報の「II.世帯属性別の家計収支」(※15のここ参照)では、年代、世帯人数、職業、年収などさまざまな項目ごとに家計の状況を報告しており、これを見ると、60歳以上の「家計」実収入(年金給付など)と実支出(消費支出と非消費支出の合計)を差し引きした「不足分」は以下のように赤字となっている。
高齢世帯の家計(月平均額)。
「高齢無職総世帯」(60歳以上)の場合、
実収入18万1,028円。実支出22万8,819円。不足額 4万7,791円
「単身無職世帯」(60歳以上)の場合 
実収入12万1,542円。実支出15万3,830円。不足額 3万2,288円
「高齢夫婦無職世帯」(夫65歳以上妻60歳以上)の場合 
実収入21万8,722円。実支出27万0,395円。不足額 5万1,674円
この不足分は金融資産の取崩しなどで賄われているが、今後、年金の支給額は減りこそすれ、増えることはまずありえないが、、実支出の方は増えこそすれ、減ることはないだろうから、毎月の家計の不足はもっと増えていくことを覚悟しなくてはいけないだろう。
昨年の4月1日、多くの国民の反対を押し切って消費税が5%から8%に引き上げられた消費税の増税も「税と社会保障の一体改革」だったはずなのだが税収アップ分は公共事業法人税減税などに消えてしまい、社会保障の拡充にはほとんど結びついていないのが現実のようだ(※17参照)。
そのようなことをしながら、安倍政権は政策的に、インフレで目減りする「金融資産」を取り崩して、「NISA」を利用して株や投資信託などのリスク資産を購入し、自助努力で収入を増し、老後資金を準備せよと仰っているのである。・・・本当に親切?なことだ。
今、政府・金融機関・そして年金機構までが莫大な年金積立金を使って株式や外国投信などを購入している。そして今、株も上昇はしているが・・・。この株高いつまで、どれだけ上がるのか・・・。上がった後はどうなるのか・・・?…考えるだけで恐ろしい。
しかし、老後資金の貯蓄の重要性は、今まで以上に高まっていることは確かだ。実質的にマイナス金利である預・貯金に頼っていては、老後の生活はやってゆけない。何とかしなくてならないのだが・・・。
せめて、「NISA」も無力な庶民の為にイギリスの「ISA」並みには改めてほしいものだが・・・。

参考:
※1:マネー百科:金融用語辞典
http://money.infobank.co.jp/index.htm
※2:NPO401K教育協会
http://www.npo401k.org/
※3:金融庁HP
http://www.fsa.go.jp/
※4:財務省:わが国の財政状況
http://www.mof.go.jp/budget/fiscal_condition/index.html
※5:厚生労働省HP
http://www.mhlw.go.jp/
※6:金持ち優遇 - PRESIDENT Online
http://president.jp/articles/-/14349
※7:軽減税率終了 - 楽天証券
https://www.rakuten-sec.co.jp/web/info/info20131025-02.html
※8:知るぽると:金融広報中央委員会
.http://www.shiruporuto.jp/
※9:イギリスISAとの比較から学ぶNISAの制度の問題点 | ZUU online
http://zuuonline.com/archives/15169
※10:時事ドットコム:【図解・行政】基礎的財政収支の対GDP比(2014年11月)
http://www.jiji.com/jc/graphics?p=ve_pol_yosanzaisei20141117j-03-w330
※11:日本の財政赤字の維持可能性
http://www.rieti.go.jp/jp/publications/dp/12j018.pdf#search='%E6%97%A5%E6%9C%AC+%E8%B2%A1%E6%94%BF%E8%B5%A4%E5%AD%97+%E5%A4%96%E5%9B%BD%E5%82%B5%E5%88%B8'
※12:自民経済再生案:日銀法改正含め連携、外債購入ファンド創設も (2)
http://www.bloomberg.co.jp/news/123-MDKAA66KLVRL01.html
※13:米国の所得格差が金融危機で拡大、富は上位3%に集中=FRB
http://jp.reuters.com/article/topNews/idJPKBN0GZ2O420140904
※14:日本の平均
http://jpnaverage.com/%E3%82%B5%E3%83%A9%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%83%B3/post-114/
※15:総務省:統計局
http://www.stat.go.jp/index.htm
※16:高齢社会白書について - 内閣府
http://www8.cao.go.jp/kourei/whitepaper/index-w.html
※17:政策解説 消費税増税分〝すべて社会保障に〟のウソ 政策部 - 兵庫保険医協会
http://www.hhk.jp/hyogo-hokeni-shinbun/backnumber/2014/0425/070003.php
危険水域にある日本の財政事情 - モルガン・スタンレー
http://www.morganstanley.co.jp/im/research/fr/121218.html
財政赤字の「ネズミ講」はいつまで続けられるか - ニューズウィーク日本語版
http://www.newsweekjapan.jp/column/ikeda/2014/11/post-891.php
少額投資非課税制度 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%91%E9%A1%8D%E6%8A%95%E8%B3%87%E9%9D%9E%E8%AA%B2%E7%A8%8E%E5%88%B6%E5%BA%A6

世界社会正義の日 参考

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参考:
※:1:ILO駐日事務所
http://www.ilo.org/tokyo/ilo-japan/history/lang--ja/index.htm
※2:ILO広報誌:歴史の中のILO
http://www.ilo.org/wcmsp5/groups/public/---asia/---ro-bangkok/---ilo-tokyo/documents/article/wcms_249577.pdf#search='%EF%BC%A9%E2%85%AC%EF%BC%AF+%E4%B8%96%E7%95%8C%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E6%AD%A3%E7%BE%A9%E3%81%AE%E6%97%A5'
※3:世界社会開発サミット - 国連広報センター
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※5:人事ネットワーク/日本の人事部
http://jinjibu.jp/
※6:なぜ日本政府はILO第1号条約(8時間労働制)を批准できないのか
http://www.jitan-after5.jp/essay/es020511.htm
:※7:暴露 派遣業界
http://bakurohakengyoukai.blog.fc2.com/
※8:学生を潰す「ブラックバイト」の厳しく過酷な実態 - NAVER まとめ
http://matome.naver.jp/odai/2137601988394393401
※9:善悪の彼岸/ウィンストン・チャーチル
http://inochi.jpn.org/hitoiki/H05.htm
※10:TEL QUEL JAPON The Coventry Blitz: Churchill 悪玉論(3)
http://goodlucktimes.blog50.fc2.com/blog-entry-143.html
※11:常に現場に… 後藤健二さんの思い - NHK 特集まるごと - NHKオンライン
http://www9.nhk.or.jp/nw9/marugoto/2015/02/0202.html
※12;後藤健二さん:世耕氏「外務省が計3回、渡航中止を要請」 - 毎日新聞
http://mainichi.jp/select/news/20150203k0000m010110000c.html
※13:後藤健二さんの美談化に違和感..シリアに行った理由は何だったのだろう
http://critic20.exblog.jp/23360557/
※14:ブッシュ米大統領が戦闘終結宣言 国民 - 日本財団 図書館
https://nippon.zaidan.info/seikabutsu/2002/00484/contents/060.htm
※15:内戦状態に陥りつつあるイラク - IPS Japan
http://www.ips-japan.net/index.php/news/politics-confict-peace/1891-iraq-glides-towards-civil-war
※16:イラク戦争の真の目的とは? 民主主義? 石油? - NAVER まとめ
http://matome.naver.jp/odai/2140223124680275001
※17:画像 : 対イスラム国空爆!! 有志連合軍地上戦突入か!?世界に広がるISの脅威!
http://matome.naver.jp/odai/2141165356858495801/2142409847574749703
※18:テロの立役者は先進国の武器メーカーである
http://blogs.yahoo.co.jp/yrtrb512/17260919.html
※19:「イスラム国」:リビアでエジプト人21人殺害映像 - 毎日新聞 - 毎日jp
http://mainichi.jp/select/news/20150216k0000e030144000c.html
世界の現状|NGOを支援するNGO 国際協力NGOセンター(JANIC)
http://www.janic.org/world/
ポーランド - 共同通信 記事データベース-スマホ版- 47NEWS
http://www.47news.jp/smp/blog/OUT/200305/OUT_GEO/%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89.html
中東問題がどうしてこうなったか歴史的経緯がよく分かるまとめ - NAVER
http://matome.naver.jp/odai/2138032922997955501
世界の現状|NGOを支援するNGO 国際協力NGOセンター(JANIC)
http://www.janic.org/world/
ILO「労働は商品ではない」 原則の意味するもの - 早稲田大学(Adobe PDF)
http://www.waseda.jp/w-com/quotient/publications/pdf/wcom428_06.pdf#search='%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%A9%E3%83%87%E3%83%AB%E3%83%95%E3%82%A3%E3%82%A2%E5%AE%A3%E8%A8%80'
BPエネルギー統計レポート2014年版解説シリーズ
http://members3.jcom.home.ne.jp/3632asdm/0325BpOilGas2014.pdf#search='bp%E7%B5%B1%E8%A8%88%E3%81%A8%E3%81%AF'
社会正義 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E6%AD%A3%E7%BE%A9

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世界社会正義の日 2-2完

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かって「中東」一帯には テュルク系(後のトルコ人)のオスマン家出身の君主(皇帝)を戴く多民族国家の「オスマン帝国」(オスマントルコともいう) という名の超どでかい帝国があった。15世紀には東ローマ帝国を滅ぼしてその首都であったコンスタンティノポリスを征服、この都市を自らの首都とした(オスマン帝国の首都となったこの都市は、やがてイスタンブルと通称されるようになる)。
同じ頃(1500年前後)に、ヨーロッパでは「大航海時代」が訪れ、「ポルトガル」 「スペイン(日本などではスベイン語の発音でイスパニアと呼称)」 「イギリス」 「オランダ」 などの国々が、まだ見ぬ世界を探求するために船を出し、貿易船と、それを襲う海賊、そして海賊を倒す艦隊が入り乱れていた。
1600 年頃になると、大航海時代は 探検航海によって世界の姿が解って来ると、その新しい世界を支配しようと、列強国が互いに争いを始める 支配の時代へと移っていき、列強間での争いを始めた。ヨーロッパの軍隊は最新の武器で武装し、世界の国々をどんどんと占領してゆき、地域住民の事などおかまいなしに領土の奪い合い合戦が起こるようになる。このヨーロッパの強国が世界中の国々を 「植民地支配」 していった事が、その後の世界の歴史に大きな影響を及ぼすことになった。

オスマン帝国の17世紀の最大版図は、東西はアゼルバイジャンからモロッコに至り、南北はイエメンからウクライナハンガリーチェコスロヴァキアに至る広大な領域に及んでいた。

●上掲の画像はオスマン帝国の領土(Wikipedia)。ここクリックで拡大図が見れる。
しかし、1700 年頃 から、オスマン帝国 はヨーロッパの国々との戦争に押され気味となり、徐々にアラビア半島の方に押し込まれ、1800年頃、フランス・ナポレオンの遠征によってエジプトが制圧され、北アフリカの覇権をなくし、その後も敗退を続け、1900年ごろには 「中東地域」 であるアラビア半島のみを支配する国となった。
そして、1900年ごろ中東地域で「石油が発見され、ただの砂漠だった中東地域が 「油田の宝庫」である事が判明すると、各国は一斉にこの地域の利権を求め始めた。ちょうどこの頃は、ガソリンを使ったエンジンや、灯油を使ったストーブ、街灯などが登場し、石油が求められていた頃である。
1914 年、小国同士の争いに大国が介入し、ヨーロッパを中心に起こった戦乱 「第一次世界大戦」で、オスマン・トルコ帝国 は 「ドイツ」 側として参戦するが、先にも書いたようにドイツが敗れてしまった。「石油の油田を持っている国が戦争に負けた」 ということは、戦勝国であった イギリス や フランス にとっては大きなチャンスであった。すかさず イギリス と フランス は極秘に協定を結び、中東の多くの土地を分割して支配し、これらの領土を植民地化した。この時、イギリス や フランス は、自分達の都合の良いように適当に領土分けを行ったり、互いに矛盾する外交を展開したことが、現在のパレスチナ問題クルド人問題、イスラム国問題といった、いわゆる中東問題へと繋がっていったのである。
中でも、中東問題の諸悪の根源となったのが、イギリスが第一次世界大戦の中でとった三枚舌外交と呼ばれる不誠実な外交施策であり、これがのちの中東を混沌とさせる最大の要因となった。
イギリスは第一次世界大戦中に戦後の中東問題に対して、以下の三つの協定を結んでいた。それぞれ、アラブ・フランス・ユダヤに配慮した内容であった。
1)- フサイン=マクマホン協定
1915年10月にメッカの太守であるフサイン・イブン・アリーとイギリスの駐エジプト高等弁務官ヘンリー・マクマホンとの間でやりとりされた書簡の中で、イギリスはオスマン帝国打倒(対トルコ戦)への協力(アラブ反乱)の見返りにオスマン帝国からのアラブ人独立とアラブ全域をまたぐ大きなアラブ人居住地・統一国家の独立支持を約束した。しかし、これが、遂に守られることはなかった。
2)サイクス ・ピコ協定
第一次世界大戦中の1916年5月16日にイギリス、フランス、ロシアの間で結ばれた大戦後のオスマン帝国領(中東)の分割を約した秘密協定でイギリスの中東専門家マーク・サイクス(Mark Sykes) とフランスの外交官フランソワ・ジョルジュ=ピコによって原案が作成され、この名がついた。主に植民地支配権と、資源利権の分配を意図したもので、フサインの蜂起(アラブ反乱)直前のことであり、内容は以下のようなもの。
シリアアナトリア南部、イラクモスル地区をフランスの勢力範囲とする。
・シリア南部と南メソポタミア(現在のイラクの大半)をイギリスの勢力範囲とする。
黒海東南沿岸、ボスポラス海峡ダーダネルス海峡両岸地域をロシア帝国の勢力範囲とする。
この協定は、先に書いたフサイン・マクマホン協定や次にあげるイギリスがパレスチナにおけるユダヤ人居住地を明記したバルフォア宣言 (1917年11月)とイギリスが相矛盾する三枚舌外交をしたとして批判された。
3)バルフォア宣言
第一次世界大戦中の1917年11月に、イギリスの外務大臣アーサー・バルフォアが、イギリスのユダヤ人コミュニティーのリーダーである第2代ロスチャイルド男爵(ライオネル・ウォルター・ロスチャイルド)に対して送った書簡で表明された。バルフォア宣言では、イギリス政府の公式方針として、パレスチナにおけるユダヤ人の居住地(ナショナルホーム)の建設に賛意を示し、その支援を約束している。

1921年3月21日エジプトのカイロでイギリスの当時陸相であったチャーチルの主宰により、イラクの今後の統治について検討する会議がもたれた。この会議ではベルはフランスによってシリア・ダマスカスを追放されていたファイサル一世をイラクの国王に据え、高等弁務官以下イギリス人で構成される国家評議会を廃止、アラブ人の手になる仮政府を樹立させ民政に移管するという案を持ち出した。
第一次大戦中、ファイサルの父でマッカ(メッカ)の太守ハーシム家(預言者ムハンマドの後裔と称していた)のフサインはパレスチナにおいて英仏軍とともに戦い、大戦後は論功行賞としてシリア・パレスチナ・ヒジャーズの王となる事が英仏により保証されていた。いわゆる「フセイン・マクマホン協定」だが、戦後のアラブにおける英仏の勢力圏を画定した前出の「サイクス・ピコ協定」の内容と明らかに矛盾しており、この英仏の二枚舌外交は現在に至るまで尾をひいている。サイクス・ピコ協定の内容を知らないまま、ファイサルは勇躍シリア国王に即位したもののフランスはこれを認めず、追放の憂き目をみていた。チャーチルもベルの案に賛同、本国にベルの案を打電した。
統治形態についてはまとまったものの、イラクの領土画定問題に議題が移った途端に紛糾した。クルド人(スンナ派)の北部、アラブ人(スンナ派)の中部、アラブ人(シーア派)の南部、それにペルシャ人、ユダヤ人、キリスト教徒などの地域が複雑に入り組んでいる地域の国境をどう画定するか?
ベルは上記の3つの地域で一国を構成されるべきという持論を曲げなかった。この会議に同席していたトーマス・エドワード・ロレンス(映画『アラビアのロレンス』の主人公のモデルとして知られる)は、「クルド人地域のみトルコへのバッファーゾーン(緩衝帯)としてイギリスが直接統治を続けるべき」という意見を出したが、ベルはこれに耳を貸さず、ここにイラクの領土は画定された。しかし結果的にはロレンスが抱いた危惧は正しかった。そしてハーシム家の次男でファイサルの兄にあたるアブドゥッラーはヨルダン国王に配され、現在のヨルダン王室へと続く事になる。
以上のようなイラク建国の経緯から、イラクは列強の利害とベルの地政学的見解がリンクした結果、建国された人工国家であるという評価が定着する事になる。この年の6月、ファイサルはイラクに入り、そのわずか2ヶ月後にイラク国王として即位した。
ベルの意見が採用されて不自然な国境線となったことにより、クルド人はトルコ・イラク・イラン・シリア・アルメニアなどに分断され、世界最大の国を持たない3000万人の民族集団となった。また、シリア東部からイラク西部にかけて勢力を拡大している過激派組織「イスラム国」(IS)も、サイクス・ピコ協定に怒りを抱いており、武装闘争を続ける動機の一つとされているという。
パレスチナについてはイギリスの三枚目の舌「バルフォア宣言」とのからみで結論は先送りされたが、結果的に、中東に存在しなかったユダヤ人国家イスラエルの建国を認めた宣言となり、この土地からパレスチナ人を追い出して、イスラエルが建国されることになった。
しかも、それは「国際連合」の決議に基づいておこなわれた。第二次大戦後、処理できなくなったイギリスは国連に問題を丸投げし、1947年に国連でパレスチナをユダヤ国家、アラブ国家、国連関連管理地区の3つに分ける分割案が採択された。本来、その土地の人々が自ら判断する権利を持つべき(民族自決の原理)という考え方は全く無視されてしまったわけである。
このようなことを見ていると、国連の目的達成の一翼を担う専門機関だといわれるILOが唱えている「社会正義」などという言葉もなんともむなしく聞こえてくる。
これに対して、不満を持ったアラブの国々は同盟してイスラエルを攻撃するが、イスラエルは強く、アラブ連合軍は負けてしまう。そしてイスラエルはヨルダン川の西側の地区を完全に支配してしまい、元々パレスチナに住んでいた人々が難民化した結果、現在でも解決しないパレスチナ問題の原因となった。
一方、負けてしまったアラブの国々では、「いまの政府はダメだ」 という声が上がり始めた。そもそも、アラブの多くの国がイギリスとフランス(特にイギリス)の植民地政治を受けていたことから、これへの反発もあって独立しようという動きが一気に高まり、アラビア半島の多くの国が、次々と独立していったのだが・・・

サイクス・ピコ協定により、イラクはオスマン帝国から分割され、フランスとイギリスの勢力下に治められた。 1920年11月11日、イラクは国連からイギリスに委任統治され、イギリス委任統治領イラクと呼ばれることになり、イラクの政体はハーシム家の君主制となった。このとき、クウェートは切り離された。
ハーシム王家はイギリスの支援のもとで中央集権化を進め、スンナ派を中心とする国家運営を始め、1932年にはイラク王国として独立を達成した。その後、1958年共和国革命(7月14日革命)により、ハーシム君主制は終焉。
新政府はアブドルカリーム・カーシムが首相・国防大臣・最高司令官を兼任し、副首相兼内務大臣にアブドッサラーム・アーリフが就任した。
1968年アフマド・ハサン・アル=バクル将軍によるバアス党政権樹立を経て、1979年のイラン革命を切っ掛けに中央条約機構(CENTO/旧中東条約機構)が崩壊すると、中東全体が全く新しい軍事バランスに向かって動き出した。
1979年サッダーム・フセインが大統領に就任。フセイン政権の下、イランとイラクとの国境をめぐり、イラン・イラク戦争(1980年9月ー1988年8月)が勃発。続いて、クウェート侵攻湾岸戦争(1991年1月ー2月)等が行われた。
湾岸戦争の後にイラクが受諾した停戦決議(決議687)において、イラクは大量破壊兵器の不保持が義務づけられていた。これを確認するため、国連査察団が送られたが、イラクは査察に非協力的とされ、大量破壊兵器を保有しているとの疑いが持たれた。
その後、2001年9月11日、アメリカで同時多発テロ事件が発生した。 これをきっかけに、アメリカ政府は対テロ戦争を宣言し、まずはイスラム原理主義ターリバーンを排除するためにアフガニスタンに侵攻した(不朽の自由作戦)。
続いて、2003年3月19日、国連決議に反して大量破壊兵器を保有しているとの疑いで、アメリカとイギリスの連合軍はイラクに対しての開戦を宣言(イラク戦争)。4月にはバグダッドが事実上陥落,フセイン政権は崩壊した(イラク戦争の年表参照)。

●上掲の画像は、倒されるサッダーム・フセイン大統領銅像である(Wikipedia)。
重いロープを首に巻きつけてイラク市民の歓声の中へと引き摺り下ろされる。この映像は世界中に流され、メディアは、4月9日を"VI(Victory in Iraq)Day"と呼び始めていた。

2004年6月、イラク暫定政権が発足し、2005年1月に選挙を行い、 2005年4月、イラク移行政府が発足した。
ブッシュ大統領は2005年5月1日、イラク戦争から帰還中の空母エーブラハム・リンカーンの艦上からテレビ演説し、「大規模戦闘の終結宣言」を行い、「国民解放」を強調している。
■大統領演説の骨子は以下の通り(※14参照)。
一、 イラクでの主な戦闘作戦は終結し、米国と連合軍は敵を圧倒した。我々は自由の大義と世界の平和のために戦った。
一、 我々はイラクの危険な地域に秩序をもたらす。政権の指導者を追跡している。
一、 隠された化学・生物兵器の捜索を始めた。調査すべき数百カ所を把握している。
一、 独裁から民主主義への移行には時間がかかる。任務が完了するまでイラクにとどまる。
一、 イラク解放はテロとの戦いにおける決定的に重要な前進だ。
一、 我々はアフガニスタン、イラク、パレスチナに自由をもたらす決意がある。 ・・・と。

しかし、その後もテロなどによる死傷者は後を絶たず、同年9月にすでに戦闘中の死者数を上回り、06年8月23日現在、その数は2839人、負傷者は1万9609人に上る(CNN電子版)。イラク民間人の死傷者はその10倍以上とみられている。
戦後は2003年5月から米英の暫定占領当局(CPA)が統治し、同年7月イラク人によるイラク統治評議会が発足、2004年6月末イラクに主権が移譲されたが、治安は相変わらず悪く、当初多国籍軍や外国・国際機関などの民間人が人質やテロの標的となっていたが、治安維持の主体がイラク正式政府になるにつれて、スンニ派とシーア派の対立が激化しており、有志連合軍がイラクに侵攻してから10年が経った今日、イラク国内では内戦に陥りつつあり非常に多くの多くの死傷者が出ていることが指摘されている(※15参照)。
その原因は、国防総省から統治を引き継いだCPA当局代表ジェイ・ガーナーは、イラク国家運営にはフセイン政権下で要職にあった旧バアス党員やスンナ派勢力の協力が不可欠と考え、戦犯をサッダーム・フセイン一族と側近にとどめて、しばらくはフセイン体制を維持したまま、ゆっくりと改革していこうと考えていたそうだが、性急な体制変革を望むブッシュ政権や国防総省、イラク国内のシーア派やクルド人勢力はガーナーの方針に反発、彼は1か月で解任され、後任のポール・ブレマーは就任すると、本国や国内勢力の意を受け、元バアス党員すべてを公職追放した。
官公庁職員・警察官・消防士・軍人など、フセイン時代からの公務員は概ねバアス党に登録していた為、国家機能は失われてしまった上、これらの人材が今勢力を拡大しとるイスラム国(IS)など武装勢力に加わる結果となった。
また、公職や高級な職種についていたのはサッダームに厚遇されたスンナ派に限られていた為、これらを追放すると、失業したスンナ派住民と、それまでの抑圧の恨みを持ったシーア派・クルド人の軋轢が増し、過度な衝突を招いた。
国家運営は、連合軍や連合国の人材が当初から少なすぎたことが災いし、各地で武装勢力や宗教勢力が自治組織を運営して勢力を拡大。当局はクルド人の自治権を大幅に拡大したが、クルド自治区はイラク軍とは別の武装組織が治安維持を行い始め、治安は良いものの、半独立国の様相であり、クルド人組織も独立を望んでいるが、大量のクルド人を抱える周辺諸国は逆に危機感を募らせている。
「内戦状態」といわれるイラクの主要因を生み出したのは、このCPAのおこなったフセイン体制の一掃でもあるが、それを支持したブッシュ政権の失敗でもある。

2001年1月に発足したブッシュ政権は、2001年9月11日の同時テロを、先代(父)のジョージ・H・W・ブッシュ政権時から懸案だったイラクを叩く好機と捉え、素早く動いた。つまり、始めにイラク攻撃ありきといったきらいがある。
イラク戦争でアメリカの勝利をイラクの「解放」とよび、「イラクに自由が訪れた」と誰よりも喜んでいるのはブッシュ政権中枢に食い込んでいるネオコン(「ネオ・コンサーバティヴ」のことで、「新保守主義」と略される)とよばれる人たちだろう。ネオコンは自分達とは違った文化(異文化)を認めない人たちであるが、これをを支えているのは共和党の親イスラエル(シオニズム)政策を支持するアメリカ国内在住のユダヤ(イスラエル)・ロビーである。
かれらには軍産複合体と利害が近い人も多い。ブッシュの父親。ジョージ・H・W・ブッシュ政権の時代から中東の民主化構想が考えられ、ブッシュ政権のイラク戦争もそれに基いているとされている。
「9.11」同時多発テロ後の渾沌とする世界の中で、アメリカ防衛のためには、先制攻撃も辞さずとネオコンが強力に仕向けたものだろう。先にあげたブッシュ大統領の、「大規模戦闘の終結宣言」演説の骨子にある最後の言葉など、ネオコンのユダヤ・ロビーストなどが泣いて喜んだろうね~。
ブッシュ政権は、開戦の理由はイラクが無条件査察を認めないことであって、イラク国内に大量破壊兵器が存在するという理由ではないと主張しているが、開戦前にブッシュ大統領やチェイニー副大統領が「イラクは大量破壊兵器を保有している」とメディアを通して繰り返し広言していたが、開戦後に大量破壊兵器が発見されなかったことでこの戦争の『大義』が失われたという批判も多い。
イラク攻撃にはフランス、ドイツ、ロシア、中国などが強硬に反対を表明し、国連の武器査察団による査察を継続すべきとする声もあったが、それを押し切った形での開戦となった。これら国々の反対の裏には人道的な反対というより、フセイン政権との関係やイラクの石油利権に絡んでいるとする意見もあるが、アメリカ事態が、イラクでの石油利権を確保するとともに、2000年ユーロ の誕生を機にイラクのサダム・フセインが石油の取引代金としてドルの代わりにユーロを用いると宣言したことに対して、米国の基軸通貨であるドル防衛のためにこれを阻止する意向もあったという説がある(※16参照)。、
アメリカ国内の世論は武力介入には高い支持を与えたものの、国連の支持なしの攻撃には必ずしも国論は一致していなかったし、戦争での死傷者が多く出たことに批判も多い。また、アメリカに合わせて武力行使を積極支持したイギリス・ブレア政権では、閣僚が相次いで辞任を表明し、政府の方針に反対した。
イラク戦争後、イラク国内の内乱のほか、さらにイスラエル対ヒズボラ(レバノンのシーア派イスラム主義の政治組織、武装組織)の武力衝突も発生し、アラブとイスラエルの対立、イランの核開発疑惑など、中東をめぐる情勢は混沌としている。
そして、今、米国主導で、有志連合軍は過激派集団・イスラム国壊滅を目指し空爆から地上戦に入ろうとしている(※17)。
この動きに抵抗してのことだろうか、イスラム国(IS)は2015年2月15日に、リビアで誘拐したエジプトのキリスト教の一派コプト教徒(コプト正教会参照)21人を一斉に殺害したとする映像をインターネット上で公開した(※19参照)。ISが、シリアやイラクの支配地域以外で、誘拐した多数の外国人を一斉に殺害したのは初めてのこと。ISは、2010 年にエジプトでイスラム教への改宗を妨害され、コプト教会で拷問を受けた中部ミニヤ県の女性の報復だと主張している。リビアでは2011 年にカダフィ独裁政権が崩壊した後、反カダフィ派が世俗派やイスラム主義者に分裂し、武力闘争を続けている。ISはその混乱に乗じて、東部デルナや中部シルトに進出し、訓練キャンプも設置。豊富な石油資源を狙っているとの見方もある。
これに対して、エジプトは16日朝早くにリビア国内の過激派組織「イスラム国」の拠点を空爆したと発表した。今まで、中東屈指の軍事力を誇るエジプトは、米国主導の対ISの空爆などの作戦には参加していなかったが、この事件を契機に国外で軍事行動に踏みきる可能性もある。
イラクやシリア以外の地域でもISの活動が活発化しそう。ますます混沌としそうだ。あの「アラブの春」はなんだったのだろうか・・・・?

ブッシュはイラク戦争に勝ち「我々は自由の大義と世界の平和のために戦った。 」などと、勝利宣言をしているが、そこには、どんな正義があるのか?
正義」の裏には「価値」の絶対性を主張する論理があり、その論理の後ろには、必ず「利権」がある。アメリカは「大量破壊兵器を保有するテロ国家をやっつける」という「正義」を掲げてイラクに侵攻したが、大量破壊兵器は出てこなかった。イラク戦争の背景が結局は、「お金」と「石油」だったことは、今では誰でも知っている。西洋のほかの国も同様である。
弱いものを犠牲にすることで先進国ビジネスが成り立っているのなら、永遠に世界の平和などつくれるわけはないだろう。
ILO憲章でも「労働は商品ではない」と高らかに歌い上げているが、今、イスラム過激派のなかには、自らの体にダイナマイトを巻きつけて自爆する女性までいる。この悲しい現実はいつなくなるのであろうか。このようなテロ行為が起こる根本原因には貧困が大きいだっろうが、そのような貧困者を生み出しているのは人間の持って生まれた性「貪欲さ」ではないだろうか。・・・これが少しでも抑え、貧しい人の方に回るようにしてあげれば、その分幸せな人が増えるはずなのだがが・・・。欲には限りがないのだろう。

最後に、チャップリンのトーキー映画『独裁者』のラストを飾る壮絶な演説を思い出した。この映画、タイトルの通り、アドルフ・ヒトラーとナチズムの風刺が主なテーマである。
ヨーロッパの大国トメニアの独裁者ヒンケル(チャップリン)は、世界征服とユダヤ人排斥を旗印に、世界に君臨しようとしていた。一方、ユダヤ人のゲットーの床屋であるチャーリー(チャップリン)は、ヒンケルと容貌が似ていた。そして、ふとしたことからチャーリーがヒンケルに間違われてしまうのである。そして、最後に、チャップリンがこの映画を通じて全世界の人々へ最も伝えたかったことが語られる。それは私の言いたいことでもあり、これを聞いて、このブログの締めとして下さい。




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世界社会正義の日 2-1

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今日・2月20日は「世界社会正義の日」(World Day of Social Justice)である。
国際連合は.貧困排除失業といった問題に取り組む努力を促進する必要を認識し、2007年、第62回総会で、毎年2月20日を国際デーの「世界社会正義の日」(World Day of Social Justice)に制定。この国際デーは2009年から実施されている。
国連の目的達成の一翼を担う専門機関に、国際労働機関(ILO)がある。
第一次世界大戦後、悲惨な戦禍への反省として、当時、貿易競争の公平性の維持や中でも特に、労働問題が大きな政治問題となっていたため、国際的に協調して労働者の権利を保護するべきと考えられていた。
そして、1919年、第一次世界大戦の戦後処理をするためのパリ講和会議において 労働問題を解決することが世界の平和につながっていく、という強い信念から、ベルサイユ条約第13編(後のILO憲章.。※1のここ参照)の採択によって、国際連盟 (第二次世界大戦勃発後は事実上活動を停止していたが、1946年4月に解散し、その資産は国際連合により承継された) の姉妹機関として国際労働機関(以後IOLという)が設立され、1946年に、国際連合との協力に関する協定に基づいて、IOLが国際労働に関する最初の専門機関となった(※1の歴史参照)。
各国は、この特別の日を、1995年3月、我が国の村山富市首相(当時)を含めた全国118ヵ国首脳が参加したコペンハーゲンにて開催された「世界社会開発サミット」で採択された目的(※3参照)に沿った国内活動の推進にあてることが求められている。
「世界社会正義の日」は、貧困撲滅、完全雇用とディーセント・ワーク( Decent work、働き甲斐のある人間らしい仕事。 ※1のここ参照)の促進、男女平等(男女同権も参照)、すべての人に開かれた社会福祉と社会正義に向けた国際社会の取組に寄与することが期待されている(※2参照)。
日本は戦勝国(連合国参照)の一員として、ILO設立当初(1919年)から加盟しており、1920年11月には、ILOとの連絡を行う日本政府代表事務所がジュネーブに開設された。また、1922年の第4回総会では8大産業国の一員として常任理事国に就任している。1940年にILOを脱退したが、1951年に再加盟(1954年には常任理事国に復帰)し、以降、ILOの活動に積極的に参画してきた。そして、ILOの分担金のうち、日本は12.535%(2012年)を占め、加盟国中第2位であるという(※4参照)
それでは日本の「社会正義」に対する現状はどうなっているだろうか?
ちなみに、世界経済フォーラムが2006年より公表している世界各国の男女間の不均衡を示す「世界男女格差指数」(Gender Gap Index)の2012年の順位など見ると、日本は調査対象142カ国中で101位と下位にあり、連合調べによる『ディーセント・ワークに関する調査』(※5:「人事ネットワーク/日本の人事部」のここ参照)など見ると、・ディーセント・ワークの認知率 11.7%、「内容を知っていた」のはわずか1.7%と、これらに対する認知度も非常に低い。
日本は、1975年から政府、労働者、使用者の三者すべてがILO常任理事となっており、理事会における議席を占めているものの、国内では、派遣業界がILO勧告を守らないなどといった例も数多く見られるようだ(“人材派遣市場の現状”などは※5:「日本の人事部」のよくわかる「人材派遣」講座“ 2、 人材派遣市場の現状”など参照)。
Wikipedia.によれば、ILOが採択した184条約(失効5条約を除く)のうち、日本が批准しているのは48条約で、わずか四分の一に過ぎず、以下は日本の主な未批准条約である。
1号条約(一日8時間・週48時間制)、47号(週40時間制)、132号(年次有給休暇)、140号(有給教育休暇)などの労働時間・休暇関係の条約。
1998年のILO新宣言(「労働における基本的原則及び権利に関するILO宣言」で「最優先条約」とされた8条約のうち、105号(強制労働の廃止)、111号(雇用及び職業における差別待遇禁止)の二条約。その他、3号(母性保護)、 94号(公契約における労働条項)、97号(移民労働者)、103号(母性保護、改正)、148号(作業環境)、151号(公務労働者)、 155号(労働安全衛生)、157号(社会保障の権利維持)、158号(使用者の発意による雇用の終了)、171号(夜業)、173号(労働者債権の保護)、175号(パートタイム労働)、177号(在宅形態の労働)、183号(母性保護)など。
日本では特に、労働時間関連(※6参照)、母性保護関係(3本の母性保護に関する条約、第3号、第103号、第183号の母性休業の最低期間についても規定する)を一本も批准していない。雇用形態についての条約批准に消極的である傾向がうかがえると言う。
連合、全労連など、日本の労働団体はこれら未批准の条約の早期批准を求めているようだ。「いずれかの国が人道的な労働条件を採用しないことは、自国における労働条件の改善を希望する他の国の障害となる」とILO憲章に書かれているとおり、日本もILOから早期批准を求められている。
ILOの言うところの「社会正義」は、理想であり、これを完全に実行するには難しい面もあるだろうが、先に書いたような内容や以下参考※7:「暴露 派遣業界」や※8:「学生を潰す「ブラックバイト」の厳しく過酷な実態」など見ていると、何か自分の国では都合の悪いことは野放しにして、ほかの国には、支援支援と言って金だけは出している国?・・・といった感じがしなくもなく、ちょっと嫌な感じもするが、現役から離れた私など、実情について余り詳しくは知らないのでこの問題はこれくらいにして「,社会正義」について少し考えてみよう。

Wikipediaによると、「社会正義」(英語:Social justice)とは、正義を社会において応用した概念であり、社会的公正とも呼ばれる。…とあるが、じゃ~、その「正義」とは何だろう?
「正義」という言葉を聞いて、最初に浮かんだのが、テレビで人気の杉下右京(水谷豊)が係長を務める警視庁内の窓際部署「特命係」を舞台にした刑事ドラマ『相棒』の2作目の映画『相棒 -劇場版II- 警視庁占拠! 特命係の一番長い夜』である。
本作は警視庁が舞台となり、そこで各部の部長・警視総監以下12人の幹部たちが人質となる人質篭城事件が発生することからストーリーを展開、ラストには『相棒』シリーズを揺るがす衝撃の結末が描かれる。杉下はあくまでも真実と正義に固執する。そして、劇中で小野田官房長(岸部一徳)と右京、神戸(及川光博)が最後に交わした会話が次のようなものである。
●以下の動画の最初の部分に出てくる(小野田の2回目の言葉から)。時間があればちょっと覗かれるとよい。

相棒 劇場版2 警視庁占拠!特命係の一番長い夜7

小野田:「この国の警察をよくするために、個人がどうのと言っているヒマはもはやないんだから」
右京 :「大局的見地というわけですか?」
小野田:「そうだ。そんな目で見る。わかってますよ。多少やり方が強引ってことは。当然、自覚はあるんだから。自分が全面的に正しいなんて思っていない。そもそも全面的に正しい人間なんてこの世にいない。つまりお前だって間違っている。なのにそれを自覚していない分、質が悪い」
神戸 :「それが官房長の正義ですか?」
小野田:「正義の定義なんて立ち位置で変わるものでしょう。まさか絶対的な正義がこの世にあるなんて思ってる?」

上記のように小野田が 右京を酷評しているが、右京の言動は間違いなく正義だろう。法律や道徳など、人間が守るべき規範に照らせば、右京は常に正しい。しかし、警視庁を警察省へと格上げをしようと画策している小野田がやろうとした人事一新による警察の全面改革も、大きな歴史の流れで見たら正解なのかもしれない。もし、右京が真相解明をすることによって、警察の改革が頓挫したら、警察はますます腐敗し、官僚的になり、機能しなくなるかもしれない。
大きな改革のためには、小さなものを切り捨てでもしよとする小野田。それに対して、一警察官として、真相解明をするにあたり、どんな小さなものでも犠牲にしてはいけないと考え行動する右京の行為。結局、この作中では『不慮の事態』の勃発で二人の正義のどちらを是とするべきなのか、結論が出ないうちに終わることになったが・・・。
この映画には「あなたの正義を問う」という主題が掲げられているが、作品を見た人はどちらの正義に共感しただろうか。何が善で、何が正義か?それはその立ち位置によって変わってくる難しい問題だろう。
この作品に登場する妖怪じみた小野田を葬ったのは、彼の理想実現の生贄にされた(表向きは体裁を整えた免職処分)三宅貞夫という生活安全部長であった。明哲な論理でも高邁な正義でもない、矮小な私噴に基く暴力だけが小野田公顕という妖怪を仕留めることができた。個人が巨大な組織に対抗する手段が、テロリズムに近い暴力しかないとしたら・・・・、それは、あまりに切ない話なのだが・・・。
思い起こせば、歴史上にはこんなこともあった。

6か月にわたるパリ講和会議の結果として締結されたヴェルサイユ条約によって、第一次世界大戦は公式に終了した。そもそもこのヴェルサイユ条約は、その制定に際してアジア・アフリカの解放という大義名分が掲げられ、民族自決と軍縮は、次の大戦を回避するための最低限の条件を整えるという考えの上に成り立っていたのだが、実際には、第一次世界大戦が過去に類を見ないほど多大な損害を生み出した戦争となったため、戦勝国の敗戦国への報復的とも言える賠償条件を含んだ賠償規定ともいえるものになっていた。その結果ドイツとその同盟国は戦争を引き起こした責任として、莫大な賠償金を課せられた。
結果、この講和条約はその後のドイツ民族の住む地域のドイツ周辺国への割譲ということを含め、ドイツ国民の民族意識を傷をつけることとなり、このことがドイツ民族というものをひとつにするというアドルフ・ヒトラーを中心とする国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)に政権を握らせる一因となった。そしてこれが、第二次世界大戦の要因となった(第二次世界大戦の背景参照)。

1939年ナチス・ドイツがポーランドに侵攻した(ポーランド侵攻)。これにたいして、ただちにイギリス、フランスはドイツに宣戦布告し、第2次世界大戦が勃発した。1940 年6月、フランスがドイツに降伏し、フランス軍はドーバー海峡を渡ってイギリスに逃れた。ヨーロッパ西部をほぽ制圧したドイツは、イギリスに降伏を迫るがイギリスは断固拒否。同年7月、ドイツはイギリス本土へ本格的な空襲を開始。.
1940年11月14日には、ナチス・ドイツによる爆撃「Coventry Blitz」の標的となり、コヴェントリー大聖堂 (Coventry Cathedral) を含む市の中心の大部分が破壊された。
英国首相・チャーチルは、事前にドイツ軍のエニグマ暗号を解読し察知しながら、その後の迎撃戦を有利に運ぶため、コベントリー市の爆撃隊を見逃したとする話がある(※9参照)。
暗号の解読の事実は最重要機密として扱われ、その存在が明らかになったのは、戦後30年も経ってからのことだそうだが、真相は、イギリスはエニグマ暗号自体の解読には成功したが、電文中で標的は「Korn」とコードネームで書かれていたので、それがすなわちコヴェントリーであるとまではわからなかったとする説もあるようだ。その真実はわからないが、「戦争屋」といわれるチャーチル。、その後の迎撃戦を有利に運ぶため、コベントリー市の爆撃隊を見逃したとする話があっても不思議ではないと思っている。
チャーチルは、2002年、BBCが行った「偉大な英国人」投票で第1位(ここ参照)となっており、イギリス人からは英雄視されている。
米国のルーズベルト大統領も、日本海軍の暗号解読と無線傍受でミッドウェー作戦を事前に把握して迎撃準備を整えていたとされている(真珠湾攻撃陰謀説、※10参照)。
アメリカは当時中立の立場を取っていたが、米国の対独参戦がなければ、英国は敗北・滅亡して、欧州大陸は、ナチス・ドイツが支配することになる」と、心底から信じていたルーズベルトはこの日本の奇襲攻撃により、死傷者が出ることも、予想したうえで、日本軍が米国民を多数殺傷したことをきっかけに自衛のために戦争をせざるを得ないとの立場で、アメリカが連合国に加わって第二次世界大戦に参戦したといわれている。

二十世紀に起きた二つの大戦の戦死者数と傷病者数、破壊された文化遺産など、余りにも多くの犠牲があった。
第一次大戦は、ホーエンツォレルン家ハプスブルク家ロマノフ王朝を滅ぼし、代わりに、ヒトラー(ナチズム)や、ムッソリーニ(ファシズム)とスターリン(スターリニズム)という三つの全体主義を生んだ。
第二次大戦は、「ドイツ第三帝國」を壊滅させ、その代わり、「スターリンの支配する東欧世界」を生んだ。アジアでは、「大日本帝国」を崩壊させ、代わりに「毛沢東の中国」を生んだ。
二つの大戦で主導的役割を果たし、特に、第二次大戦では「大英帝国」の威信を賭けて、戦いを「欧州動乱」(1939年のドイツ第三帝國のポーランドへ侵攻に始まる欧州での動乱)から「世界大戦」に発展させたチャーチルは、アメリカの援助による勝利と引き替えに、世界の四分の三を支配していたといわれる「大英帝国」を第二次世界大戦後は、国力の衰退が決定的になり、また民族自決運動や独立運動もさかんとなって、「ユナイテッド・キングダム(英:United Kingdom)」(通称;イギリスまたは英国)と称される北海上の一島嶼に落としやった。

イギリスは、1940年代から50年代にかけてはアジアで、インドやパキスタンをはじめとする諸国の独立を認めた。1956年7月26日、エジプトナーセル大統領がスエズ運河の国有化を宣言すると、これに反発したイギリスはフランスおよびイスラエルと共同で第二次中東戦争を起こしたものの、アメリカの介入によってスエズからの撤退を余儀なくされ、地中海紅海を結ぶスエズ運河の利権を喪失、政治的に大敗北を喫した。これによってイギリスの凋落は決定的となり、1957年のガーナ独立を皮切りに1950年代から1960年代にかけてはアフリカで植民地が次々と独立し、1970年代に入るとペルシャ湾沿岸諸国やオセアニア諸国、カリブ海諸国も独立していった。2010年代にはイギリスの植民地はわずかな数しか残っておらず、ほとんどは「コモンウェルス(the Commonwealth)=イギリス連邦)へと移行した。
また、「偽りの戦勝国・フランス」も、ドゴールが失われたプライドを粉飾したが、やがて失意のうちにベトナムとアルジェリアから撤退せざるを得なくなった。





中東イラクや、シリアなどでは今も日々、戦闘が続いているが、ついに、「イスラム国」(IS)を名乗る過激派組織により日本人が殺害される事態まで発生した。
イスラム国(IS)を名乗る過激派組織に、拘束されていた、フリージャーナリスト後藤健二さんが、それより先に同じく拘束され殺害されたと思われる湯川遥菜さんに引き続いて、殺害される様子の動画が、インターネットに公開されるという最悪の結果を迎えた。




映像では、ナイフを持った黒ずくめの男が立っており、男が英語で、日本が「イスラム国」と戦う連合に参加したことを理由に後藤さんを殺害するなどと語り、最後に「日本にとっての悪夢を始めよう」と言って、後藤さんの首にナイフを突きつける場面で映像が暗転。その後、男性の遺体が映し出された。この様な残虐な行為には日本のみならずアメリカオバマ大統領・イギリスキャメロン首相・フランスオランド大統領など各国首脳もその行為を野蛮、卑劣と熱烈批判をし、キャメロン首相などは、その行為を「悪の権化」と批判している。又、フランス・オランド大統領は「中東和平、テロ撲滅の為に日本と行動を共にする」といっているが、日本の安倍晋三首相は首相官邸で「テロリストたちを決して許さない。罪を償わせるために国際社会と連携していく」と語った。確かに、イスラム国の行為は野蛮、卑劣であり、同じアラブ諸国の人達でさえ、その残酷さに驚き、批判をしており、日本としても、そのような集団のこのような行為を許すわけにはゆかないだろう。
しかし、安倍首相のこのような発言内容は憲法で戦争を禁じている日本の主将の言葉としてどうだろうか。これでは、まるで、米国や英国と一緒になって、イスラム国壊滅に乗り出すような表現にとられないだろうか。その本心がどうであれ、イスラム国にとっては、日本からも宣戦布告されたような気になるだろう。日本政府は2億の援助の基本は人道支援ということでイスラム国への敵意が無いことを訴えているが、はたしてそれは整合性があるのだろうか?紛争地帯において憎しみの連鎖とも負の連鎖といえる環境下で対立している2者もしくは複数間の関係である一方に金だけ援助することは力のバランスを失うことかもしれない。日本の援助は建前上は、避難者だけに限定しているが、避難者はその支援で再度シリア、イラクに戻りイスラム国と戦う兵士や戦闘員になるかもしれない。難民にイスラム国と戦い逃れてきた兵士もいるとなれば、簡単な話ではないだろう。その兵士は幾人かを殺して逃げ延びてきたのかもしれない。安倍首相の発言は一国の首相としては、いささか感情的にすぎるのではないか。
湯川遥菜さんと云う人は何をしている人なのかあまりよく判らない人であるが、後藤健二さんはフリージャーナリストとして紛争地域の子供を取材し、“その悲惨な現実がどんなものであるかを伝えたい”一心で危険な地域での取材活動をしていた・・・と、報道番組などでは伝えられており(※11)、そのこと自体非常に立派ことだと思っている。しかし、今回は、湯川さんを助けるためにシリアに向かっていて人質となったようである。後藤さんのシリア行きについて、日本の外務省は計3回も、渡航中止を要請していたことも伝えられている。しかも、ネット上では、湯川さんと後藤さんとの間にはもっとなにか深いつながりがあるようなことも書かれているものもある(※13参照)が、その真実は、よく判らない。
いずれにしても、湯川さんは過去に、自由シリア軍に拘束され尋問を受けるが、英語も話せず、後藤さんが通訳として交渉し解放されたことがあるようで、これが、後藤さんと湯川さんとの初めての接触であるとマスコミでは報道されていたように記憶している。この時に、湯川さんは後藤健二さんに帰国を勧められたようだが帰国せずシリアに残り、その後、自由シリア軍と行動しているところを今度は、イスラム国に拘束されてしまい、それを知った後藤さんが救出に向かって、逆に拘束される羽目になってしまったようである。
今のシリアは、アサド大統領下のシリア政府軍であるアサド軍と、シリア政府軍から離脱した将校達が結成した反乱軍である自由シリア軍とイスラム国(IS)を名乗る過激派組織のグループが三すくみ状態というか、それに、クルド人の勢力もあり、事実上は四すくみ状態での争いが起こっている(シリア騒乱)。
欧米が支持する「シリア反政府勢力」というのは基本的には、自由シリア軍を指しているようであり、他にも欧米が支持する武装組織は幾つかあるものの、自由シリア軍が中核的な組織となっているようだ。もし、湯川さんが欧米が支援している自由シリア軍と行動していたとしたら、イスラム国の側からすると、対立しているグループと行動していることになり、いわば、敵方になるわけで、その敵方の湯川さんの味方後藤さんも敵方の人間と云うことになるのだろう。
上記組織の中で最も弱体なのは自由シリア軍のようで、アサド政権軍の猛反撃にあってシリア西部の主要都市を次々と失っている。一方ISはシリア東部や北部を中心に急速に勢力を広げ、アサド政権さえも苦戦を余儀なくされている。
現在でも紛争が続いている中東地域。そもそも、このような中東問題はなぜ生じたのだろう?
そもそもこれらの問題の原因も、イギリス、アメリカ、そしてそれを支えた資本の動きにあったのではないだろうか?

世界社会正義の日 2-2 へ続く

世界社会正義の日 参考 へ

包むの日

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日本記念日協会で今日・2月26日の記念日(※1)を探すと「包むの日 」があった。
神奈川県川崎市に本拠を置く、プラスチック包装フィルムのメーカーである東興資材工業株式会社(※2)が、包装材を広くPRするのが目的で制定したものだそうで、日付は2と26を「包む」と読む語呂合わせからだそうだ。

包装(ほうそう、packaging.)とは、ものを包む行為や包む素材、包まれた状態などのことを言う。
包装は2つに大別される。ひとつは工業包装、もうひとつは商業包装である。両者とも、目的は商品の保護と輸送を容易にすることなどである。
日本工業規格 (JIS) では、包装とは「物品の輸送、保管、取引、使用などに当たって、その価値及び状態を維持するために、適切な材料、容器などに物品を収納すること及びそれらを施す技術、又は施した状態。これを個装、内装及び外装の3種類に大別する。パッケージングともいう」と定義づけられている。
包装は、また古くから梱包(こんぽう)ともいわれているが、この場合は販売促進機能をもたない、輸送包装のことである。アメリカではPackaging is marketing.(包装は販売促進そのものである)という表現があるように、販売促進機能が重視されているという。
キャラメルを例にとれば、1粒ずつを包んでいるワックス紙が個装であり、これを10粒包んでいる板紙箱が内装にあたり、輸送するための段ボール箱が外装(輸送包装)である。樽(たる)詰の酒は材料である木(杉やオークなど)の香りが酒に移行し、酒の味わいをよくするものであり、このような包装が理想的なものである。
店頭に置かれて消費者の目に触れる商業包装は、それ自体が有力な宣伝媒体になることから、消費者の目をひき購買意欲を刺激するように、デザインや色彩・構造など十分工夫する必要がある。
このような包装の主要な機能と目的を要約すると以下の3つになるだろう。
・保護性(Protection):衝撃、温湿度、酸素、光、臭気、汚れ、傷など内容物の価値を損なう様々な要因から、内容物を保護する。
・利便性(handling convenience):物流時においては識別や分別を容易にして輸送と保管に適した運び易さ・置き易さがある。
・快適性(sals promotion):情報表示、顕示・美麗・清潔、未使用であることなどを伝える。
包装に用いられる主要な材料つまり「包装資材」とよばれるものとしては、現在では一般的に、段ボールの他、木材,プラスチックガラス金属などの類がある。
冒頭の記念日のところにある「プラスチック包装フィルム」とは、ラッピングフィルム(包装)、つまり、何か物をくるむため(包装)に用いる、プラスチックフィルム・・・のことだろう。
私は、このような製品については良く知らないので、記念日を制定した東興資材工業のHPを覗いてみると、以下のように書かれていた。
「当社は、書籍・DVD・化粧品等をパッケージするシュリンク(shrink)包装フィルムと、コンピューター等の精密部品の静電気障害を防ぐ帯電防止袋・導電袋(※3参照)を製造している、創業36年のインフレチューブのフィルムメーカーです。
特にシュリンク包装フィルム「ハイチューブシリーズ」は、熱収縮によって、商品にピッタリとフィットするため「保護」「改ざん防止」「美観」を実現し、お客様の多様な用途に柔軟にお応えすることの出来る包装フィルムです。」・・・と。
シュリンクフィルム 「ハイチューブ」のことについて詳しくは、ここのページを覗かれるとよい。
このような専門的なことについて知らない私としては、このようなことは別にして、今日は「包むの日 」だから、「包む」をテーマーに書くことにした。


万葉集 巻第十八には以下の歌が詠まれている。
「沖つ島い行き渡りて潜(かづ)くちふ鰒玉(あわびたま)もが包みて遣(や)らむ 」(4103)
【通釈】沖の島に渡って行って潜って取るという真珠が欲しいものだ。包んで届けてやりたい。
「鮑玉(あはびたま)」とは、アワビの内部に形成される「真珠(白玉)」「たま」と呼ばれ、珍重された。天平感宝5年(749年)5月、越中守として現地に滞在していた大伴家持が都の家に贈るために真珠を求める長歌(巻18ー4101)があり、その反歌4首のうちの1つとして詠まれたもの。“沖つ島”というのは石川県輪島市北方の七ツ島舳倉島とする説がある(※4、※5参照)。

今では色々な種類の包装資材があるが、この時、真珠を何で包んで持ち運んだかはよく判らないが、古代において包むのには植物の皮や実、獣皮、貝殻などが用いられた。

同じく万葉集巻二には有馬皇子の以下の歌がある。
「家にあれば笥(け)に盛る飯(いひ)を草枕旅にしあれば椎(しひ)の葉に盛る」(142)
【通釈】家にあったならば(食器)に盛る飯を、草を枕に寝る旅にあるので、椎(しひ)の葉に盛るのだ。
この歌のように、7世紀ごろ、旅先の食事では椎の葉が食器 として使用されていた。 有間皇子は中大兄皇子(後の天智天皇)と不仲で、謀反をたくらんでいたが、一緒に計画をしていたはずの蘇我赤兄に裏切られ、計画が露見し捕らえられ、藤白坂(和歌山県海南市藤白)で絞首刑に処せられた。この句に詠まれている「旅」とは、捕まったあと護送されているとき磐代の地で詠まれた2首の辞世歌のうちの一首だそうである(もう一句は※6を参照されるとよい)。
日本では古来から主に食品などの包装については、天然素材の性質を利用した包装が行われてきた。
椎(しひ)の葉の他にも、ホオ(朴),フキ(蕗、苳、款冬、菜蕗),カキ(柿),イモ(芋)カシワ(柏)の葉などが用いられ、特に神道では複数の柏の葉を竹ひごで閉じた葉椀(くぼて)が用いられた。
今でも和菓子や押し寿司では、植物の葉で包むことがある。「カシワの葉」や「サクラの葉」でを包むと香りがよくなる。
また、笹の葉で包んだお米は腐りにくいとされており、現在でも石川県では、サケ、マスなどを押し寿司にして笹で包んだ 「笹寿司」が有名である。又、笹寿司に使われる笹はクマザサ(隈笹)が一般的だが、このクマザサは古くから食品を包んだり、寿司や刺身の添え物としても利用されてきた。

上掲の画像は石川県白山麓地域の笹寿司。下のものは、柿の葉すし本舗 たなかの「柿の葉寿司


「つつ・む」の漢字には【包む】の他に【裹む】がある。
この字は以下の四字熟語に見られる。
「馬革裏屍」=馬革に屍(しかばね)を裹む(包む)
【通釈】古代中国では戦死すると馬の革で死体を包む風習があったとされている。転じて、戦場で死ぬこと。また、従軍した以上は生還を期さないという勇士の覚悟をいう.。
出典は、中国・後漢書巻24『馬援列傳』の中で、凱旋した馬援に賛辞が送られるなかでの以下のように述べたところから。
原語:『方今匈奴、烏桓尚擾北邊,欲自請擊之。男兒要當死於邊野,以馬革裹屍還葬耳,何能臥床上在兒女子手中邪!』
日本語訳:『今なお匈奴烏桓は北方の辺境を侵しています。私は自らこれを討つ事を願い出ようと思います。男児たる者は辺境の野に死なねばならず、馬革で屍を裹(包)まれ、帰って葬られるだけです。どうして床について女子供の介抱を受けていられましょうか。』と(※7参照)。
この字とよく似ている 「」(音読み:リ、うら、うち)の字は、「亠」の下は「里」。「衣」の中に「里」があるが、この「」(音読み:か、つつ[む]、つつ[み]、まと[う]、たから)の字は、なべぶたに続き「果」を書く(※8参照)。音読みでは包(つつ)むと同じで、私にはよく判らないが、裹_百度百科(和訳)を見ると、どうも、中国語では、人体を布で覆う、又、遮蔽して隠す意味があるようだ。
食品の保存や持ち運びにも様々な工夫がされ、ひょうたん(瓢箪)、竹の筒、笹や竹、椰子の皮などの植物をうまく利用したり、アワビなどの巻貝やハマグリなどの二枚貝の貝類なども現在の包装資材の原型といえるかもしれない。
そして、歴史を重ねる中で様々な包装資材が開発されてきた。
中国では2200年前の西周には簡単な織り機が生まれていたとされており、アサ(麻)の布地がその頃中国に存在したらしく、日本でも紀元前から栽培されており、この頃には 麻の布が包装用に使用されていた可能性がある。
稲作が始まった縄文時代の頃には、が包装資材とし使用されるようになり、奈良時代には藁を編んだ「筵(むしろ)」が使用されている。
そして、この頃に書かれた『日本書紀』の、弘計天皇の項に「取結縄葛者」とあり、「注連縄」の原型と見られる縄(かずらなわ)が大変重要な建築資材であったことが記されており、既に普通の包装資材として紐や縄が使用されていただろう。
木で作る円筒形容器の最古の形態は、木の幹をくりぬいた「刳桶(くりおけ)」で、古くは弥生時代の遺跡からも出土する。続いて「曲物桶(まげものおけ)」が発明され、平安時代には一般に「(おけ)」が広まった。桶と良く似た形で蓋の付いた「樽(たる)」は、ヨーロッパなどとは異なり日本では遅く、鎌倉時代末から室町時代初期ごろ出現した、結樽(ゆいだる)と云われるもので、たがは竹材を螺旋に捩ったものであった。

そして、日本では、物を包み持ち運んだり収納したりするための道具として非常に便利なものが利用されてきた。正方形の四角い布の「風呂敷(ふろしき)」である。その起源となるようなものは正倉院宝物の中に残っている舞楽の衣装包みとして用いられたものであるが、この専用包みには、現在の風呂敷にはない中身を固定するための紐が取り付けられていたそうだ。
平安時代には「平裹」・「平包」(ひらつつみ)と呼ばれていて衣類を包んで頭に載せて持ち運ぶという使われ方をしていたようだ。一方この時代、入浴することは心身を清めるための厳粛な行事であったため、裸ではなく白衣で入るのが作法であった。そのため入浴前後に、広げた布の上で服を更衣したが、この布を「風呂敷」と呼んだのが呼称の起源という説がある。江戸時代に「銭湯」が普及することにより、この「風呂敷」の名が広く流通するようになった。
そして、その後、「が包装資材として使われるようになるが、日本の「和紙」作りの時期に関しては諸説あり、早いものでは3~4世紀とするものからあるが、6世紀半ばごろ、540年(欽明天皇1年)に、渡来人である秦人・漢人に戸籍の編集をさせたという記録があり、この時に使われた紙は郷戸が作成したとされており、人が日本で紙を作ったと推測されているようだ。
製紙技術の伝来から100年程経過してから、本格的な紙の国産化が始まり、『正倉院文書』によれば、天平9年(737年)には、美作、出雲、播磨、美濃、越などで紙漉(かみすき)が始まったが、紙はまだまだ数が少ない高級品で、日常的に使用されることはなく、製紙技術の向上によって平安時代には和紙が大量生産されるようになり和紙文化が発達。この頃になると。貴族の懐紙にも使われるようになり、色々なものに使われるようになるので、包み紙としても使われるようになっただろう。
現在に見られるような洋紙(西洋紙)は、日本では1873(明治6)年に、欧米の機械を導入した初の洋紙工場が設立されたと言われている(※9、又パピール・ファブリック参照)。なお、木質紙が主流になる以前、洋紙の主原料は木綿のぼろや藁だったという。
日本のクラフト紙袋の歴史としては、1923(大正12)年にアメリカ・ベーツ社が作成した紙袋を見本に、林商会(現・王子製紙)が試作したものからスタートしたという。国内で最初に使用された用途は「セメント用」だったそうだ。
そして、現在では、一般的に「ビニール袋」と呼ばれて使用されいる様々な合成樹脂製の袋は、1970年代から使用されるようになったようだ。それまでは、紙袋に持ち手がついたものが汎用されていたが、安価で強度もあるため、紙袋に変わり広く使用されるようになった。
しかし、物を包み、持ち運んだり収納したりするための道具として、日本の歴史上古くから使われ、未だに便利なものとして利用され続けているものが、ただの正方形の四角い布の「風呂敷」だろう。
この「風呂敷」の”包む”というものに、日本独特の優れた文化が感じられる。風呂に入る道具としてみただけでも、1枚で、衣類の持ち運びに使われ、又、脱衣かご代わりや、バスマットをも兼ねた優れものであったが、「ふろしき」には、”収納”面や、”運搬”面でも、 物の量・大きさ・形に自由に対応できる、しかも、用が済めば、たためるのでかさが張らない、多用途性(多目的性) がある、そして、再利用・別利用ができる など非常に多くの特性がある。
「風呂敷」に用いられる文様には、それぞれの家の家紋や、花鳥風月等を題材とする日本独特の吉祥文様が用いられることが多い。戦前からほっかむりをした泥棒が唐草模様」の大風呂敷を背負っているというイメージが、漫画などで多用されていた。
そういえば、「夢もチボーもないね」「東京の田舎ッペ」「マァいろいろあらァな」など、栃木訛りを誇張したギャグで1963年頃からテレビなどで人気を博していた東京ぼん太のトレードマークは唐草模様の風呂敷だったね~。
緑や紺の地色に四方八方に伸びていくつるが絡み合う蔦(つた)の文様を描いたこの風呂敷の図柄も、長寿や延命を象徴した縁起が良い吉祥文様ひとつである。
この風呂敷については、前にこのブログ2月23日「ふろしきの日」でも簡単に書いたのでこれ以上は書かないが、私も重宝している便利なもの。使い方を覚えれば、本当に役にたつので、以下参考の※10:「ようこそふろしき研究会へ」など覗いて、いろいろ使ってみるとよい。
又、風呂敷の歴史などは:「風呂敷の歴史」が詳しいのでそこを参照されるとよい。

上掲の画像左:唐草模様。右:東京ぼん太のレコードジャジェット(コロンビア)

ところで、このブログを書いていて気付いたのだが、「包」という文字は「腹の中に胎児のいる姿」を表したものだったのですね~。
現在の字形で「包」は勹部「勹(ほう)」に「己(こ)」を合わせた文字だが、古代文字・篆文(篆書体)・旧字は、「巳(し)+勹(ほう)」 の会意形声文字である(※12参照)。新字体は勹の中が巳⇒己に変化した。
「勹(ほう)」は、横から見て、人が身をかがめている形の象形で、つつみこむ意がある。「巳」はここで胎児の形で、図形の上部は頭を表している。
従って、「包」は胎児を身ごもるさまから、「つつむ」の意味となったようだ。

上掲の画像は包むの字を絵にしてみたものである。

形声文字は、今まで作られた文字の「意味」をあらわす部分と「音」を示す部分を組み合わせて作られたものであることから、「包む」が妊娠すること、つまり「はらむ」意味から、この「包」をふくむ字の多くに妊娠と関係した意味がある。しかし、この「ほう」ということば(音)を表すのは、包の系列だけではなく、呆─保─宝などもこの同じグループに属する。要するにまずことばが先にあって、それを表す漢字があとに作られたのである(※13:「漢字家族」の形声文字:大切に包む参照)。
こう書いていて、ふと、思い出したことがある。ちょっと脱線するが、それは、新約聖書中の一書『ヨハネによる福音書』第1章の冒頭に出てくる以下の言葉である(※14 のここ参照)。
1.初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった。
2.この言は初めに神と共にあった。
3.すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。
4.この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。

ここでいう言(ことば)は、「ロゴス」を言っているようであり、キリスト教では、神のことば、世界を構成する論理としてのイエス・キリストを意味するそうだ(Wikipedia・※15参照)が、これを哲学的に否定し、ここでいう言(ことば)も普通に言われるところのことばだとしている人もいる(※16など参照)。
私は、キリスト教徒でもないし、このような難解な教えを理解する能力もなく、宗教とは関係なく、考えると、やはり、先ず、言葉はどうして生まれてきたか?…ということを考えると、そこにはやはり言葉には生まれる意味があったからだろう。そして、使い方になにかの意味がなければ、言葉は生まれない。
言葉があるということは、その言葉が意味する機能や動作に意味があるということ。人が何かをしたいと思った。何かを変えたかった。そしてそれを他の人と、共有したかった。言葉がなければ、人には考えていることやしたいことが「見えない」。だから言葉という手段を必要としたのだろう。
象形文字は物体の状況(形)を表現する方法というか、現象・事象を伝えるために作られた。そこから、人の歴史が始まり、化学も進化した。正に天地創造の始まりではないか・・・・などと、素人考えで思ったのだが・・・。
なにか、「包む」という言葉の誕生などを考えたりしていると、「包む」ということには、非常に優しさや、暖かさが関係しているように感じられる。そうすると、ラッピング(包装)は単に贈り物を保護するだけに包むということだけではなく、人の心を包むことのようにも考えられるようになってきた。
ラッピングは、贈り物を受けた人と贈った人の両者を笑顔でつなぐコミュニケーションツールとなるものともいえる。贈ったものを受け取る人を思い浮かべながら、ラッピングを考えると、心の豊かさ・思いやりの表現がラッピングに求められそうだ。

日本では、贈答品を渡す際は、直接手で持って渡すことは失礼にあたるとされ、風呂敷に包んで持参するのが礼儀とされている。その際、包んだまま渡すことを作法とする説と、包んだまま渡すと「この風呂敷にお返しを包んで戻せ」という催促の意となるため、厳に慎むべしとする説がある。
現在でもほとんどの場合、手渡す際に風呂敷を解き、贈答品のみを置いて風呂敷を持ち帰るのは、後者の作法に準じているためであるが、風呂敷での包み自体を新しい感覚のギフトラッピングと捉えて、そのまま贈ろうという提案も近年なされているという。
物を包むのに使う方形の布には他に「袱紗(ふくさ)」がある。贈り物の金品などを包んだり、覆うのに使用されるが、小さい物は、「帛紗(ふくさ)」と表記する。これは、主に茶道で、茶道具を拭い清めたり、茶碗その他の器物を扱うときに用いられる布である。
「袱紗」は、包装・覆いとしての実用性を超えて、熨斗袋(祝儀袋・不祝儀袋)の水引がくずれたり袋が皺になることを防ぐ心遣い、また先方の心中や祭礼を重んじ、喜びや悲しみを共にする気持ちを示す意味を持つ。熨斗袋で金封し、さらに袱紗で包むことで、礼節と肌理(きめ)細やかな心遣いを示す意味で使われる(※17参照)。
贈答などの際に用いられた、紙を折って物を包む日本の礼儀作法の1つに「折形(おりがた)」と言うものがある。折形の名称は、現在では折紙と呼ばれている紙を折ることや折ったものの江戸時代中期頃の呼称で、江戸時代初頭は折据(おりすえ)、明治時代には折り物と呼ばれていた。現在、折形と呼ばれるものは、折紙のうち儀礼折紙や実用折紙と呼ばれる範囲である。
平安時代より贈答をする際には進物を紙で包むようになり、室町時代の武家社会において発生し、江戸時代には数々の流派が興るほど発展したが、現在は、包装紙や市販の包みが多く使われ、結納以外で折形を見る機会が非常に少なくなった。
流派は多数あるようだが、包みの基本はどれも陰陽説に基づいており、折形では、「天(上)が先、地(下)が後」「左が先、右が後」が基本となる。このようなこと間違ったこと言えないので、興味のある人は、以下参考の※18、19など参照の上、日本の伝統的な贈答の包みを覚えて、日々の生活に取り入れられるものは取り入れてみても良いのでは・・・。。
そして、日常的に一番良く使われる普通のデパートなどでのラッピング(斜め包み)方法は以下を参照して、気持ちのこもった綺麗なラッピングで物を贈りたいものですね。

ラッピング方法:斜め包み


参考:
※1:日本記念日協会
http://www.kinenbi.gr.jp/
※2:東興資材工業株式会社HP
http://www.packtoko.co.jp/
※3:導電性袋と帯電防止袋の違いについて- YAHOO!知恵袋
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1133905146
※4:大伴家持と万葉集 - 高岡市万葉歴史館
http://www.manreki.com/arekore/yaka-manyou/yaka-manyou.htm
※5:不思議なことはあったほうがいい
http://ameblo.jp/seikuzi/archive-201006.html
※6:有間皇子 千人万首:
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/arima2.html
※7:馬援伝
http://www2u.biglobe.ne.jp/~dnak/sangoku/baen.htm
※8:漢字辞典オンライン
http://jiten.go-kanken.com/
※9:日本最古の洋紙製紙場跡 - 京都市
https://www.city.kyoto.jp/somu/rekishi/fm/ishibumi/html/uk091.html
※10:ようこそふろしき研究会へ:「ふろしきってなに?」
http://homepage3.nifty.com/furoshiki/mokuji/furoshikimokuji/furoshikimokuji.html?mokuji/furoshiki?mokuji.html
※11:風呂敷の歴史
http://www.miyai-net.co.jp/furoshiki/history04.html
※12:象形辞典
http://www.vividict.com/WordInfo.aspx?id=1591
※13:漢字家族:
http://1st.geocities.jp/ica7ea/kanji/mokuji.html
※14:新約聖書 (口語 1954年改訳版)/ 旧約聖書(文語)INDEX
http://web1.kcn.jp/tombo/v2/label.html
※15:初めに言があった
http://www.km-church.or.jp/preach/preach_021201.html
※16:ウソだ!8:ことだま 前編 <はじめに言葉ありき>
http://www.hasegawadai.com/logic/哲学的考察-ウソだ/ことだま-前編-はじめに言葉ありき/
※17:知らないと恥ずかしい のし袋・水引のマナー :日本経済新聞
http://www.nikkei.com/article/DGXDZO48237510Z01C12A1W05001/
※18:折形紙幣包みの折り方
http://nosi-mizuhiki.com/modules/tinyd0/index.php?id=1
※19:折方
http://deepbeigepigment.myartsonline.com/orikata.html
包装技術ネット:まめ知識
http://www.housougijutsu.net/knowledge/
47スクール:漢字物語
http://www.47news.jp/feature/47school/kanji/index.php
包み - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%85%E3%81%BF

ウィンストン・チャーチルの有名な演説「鉄のカーテン」が行われた日

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1935年総選挙後、イギリスはこの時の議会構成(国民政府内閣=保守党と労働党・自由党の国民政府派による連立政権)のまま第二次世界大戦に突入。以来、イギリスでは選挙が行われていなかった。ノルウェー作戦の失敗の責任が当時の首相チェンバレンに向けられ辞任した後、その後任の首相に就任していたウィンストン・チャーチルは1944年10月にドイツとの戦争が終結次第、解散総選挙を行うと宣言していた。
翌1945年5月ドイツが降伏したことで労働党から解散総選挙すべきとの声が強まった。
チャーチルは日本の降伏までは挙国一致内閣を続けるべきであると主張したが、労働党はそれを拒否。保守党内でもチャーチルが英雄視されている今のうちに総選挙に打って出た方が保守党に有利とする意見が多かった。
そして、第二次世界大戦が終わった(欧州戦線における終戦1945年7月総選挙が行われたが、労働党に不本意な大敗を喫したためチャーチルの地位は戦勝に導いた栄光あるイギリス首相から野党党首へと転落した。
この選挙、慢性的な保守党の人気凋落が原因と考えられるが、労働党の大勝は小選挙区制度の賜物でもあり、得票数で見れば実は労働党は過半数も獲得していなかったようだ。下野したチャーチルはこの時、70歳になっていたが、引退する気はなく、引き続き保守党党首に留まった。
労働党は公約通り、イングランド銀行や重要産業の国有化を行い、また「ゆりかごから墓場まで」という福祉社会制度の充実を目指し、国民保険法や国家扶助法、福祉施設建設、累進課税強化など社会改良主義政策を推し進めていった。
これに対してチャーチルは「困窮を均等化し、欠乏を組織化するこの政策が長く続けば、ブリテンの島々は死せる石と化す」「労働党政権は第二次世界大戦にも匹敵するイギリスの災厄」「イギリスは社会主義の悪夢に取りつかれている」「社会主義は必ず経済破綻と全体主義をもたらす」と強く批判。
老いて反共闘争意欲がますます盛んとなったチャーチルは、1946年3月5日、アメリカ合衆国大統領ハリー・S・トルーマンに招かれて訪米し、ミズーリ州フルトンのウェストミンスター大学で同月5日に講演を行った。
バルト海シュチェチンからアドリア海トリエステまで、ヨーロッパ大陸を横切る鉄のカーテンが降ろされた。」・・・と。.この時「鉄のカーテン」という言葉を使ったことから「鉄のカーテン」演説と呼ばれている。
冒頭の画像は訪米中のチャーチル前イギリス首相が3月5日ミズーリ州フルトンのウエストミンスター大学で「鉄のカーテン」の演説をしているところ。その時の演説(動画)及び演説文(英文)は以下参考の※1を参照されるとよい。又、演説の骨子(和訳)などは参考※2 :「世界史の窓」のここを参照されるとよい。

第二次世界大戦中、米国・英国はソ連(ソ連邦)と、連合を組み(連合国)、欧州でドイツやイタリアの枢軸陣営(枢軸国)と戦った。
ドイツが占領していた広範な欧州地域は、西側を米軍が、東側をソ連軍が占領した。ソ連軍が占領した地域では、ソ連寄りの共産党政権が次々に樹立され、ソ連(ソ連邦)がこれら東ヨーロッパ諸国(東欧諸国)の共産主義政権を統制し、その結果、これらの国々は、ソ連の指導に従い西側の資本主義陣営(西側諸国)とは秘密主義・閉鎖的態度で交渉を絶ち、まるで鎖国のような状態になっていった。つまり、鉄製のカーテンだから覗いてもその向こうは見ることもできないという比喩である。
歴史のある、かつては自分たちの仲間だった中欧・東欧が鉄のカーテンの陰に隠れ、その向こうでどのようなひどいことが行われているかわからなくなったという嘆きであると同時に、そのようなソ連の動向に注意を喚起するように米国に呼びかけたものである。この後、ソ連(=共産圏)の排他的な姿勢を非難する言葉として多用されるようになり、又、冷たい戦争(東西冷戦)の幕開けを示唆する出来事として捉えられている。

戦後野党時代のチャーチルには、この「鉄のカーテン」演説と共に二大演説の一つとされている1946年9月19日スイスのチューリッヒ大学で行なった「欧州合衆国」演説と呼ばれているものがある。
チャーチルは、この演説で「われわれは、ある種のヨーロッパ合衆国(United States of Europe、USE)を樹立しなければならない」と訴えている(※3)。
ヨーロッパをアメリカ合衆国のように、一つの国民国家、一つの連邦国家にしようというシナリオは、過去にも色々と多くの人から提唱されていたことであったが、チャーチルのこの演説にはオーストリアのリヒャルト・クーデンホーフ=カレルギーの協力があったという(※4)。
第二次世界大戦は、ヨーロッパに甚大な人的、経済的損失を残した。またホロコースト日本への原子爆弾投下などから、人びとは戦争、そして過激思想の恐怖を思い知らされた。このような恐怖、とくに戦争が世界に核兵器をもたらすようなことが2度とあってはならないと願っていた。しかしながら西ヨーロッパ諸国はイデオロギー的に相反する2つの超大国(米・ソ)が敵対するなかで列強としての地位を維持できなかった。
鉄のカーテンの向こうにはソビエトを中心とする巨大な社会主義陣営があり、大西洋の向こうには超大国に成長したアメリカが君臨している。ソ連の軍事的脅威やアメリカの経済力に対抗し、ヨーロッパに平和をもたらすには西ヨーロッパ諸国は統合し、一体化する必要がある・・・と考えていたのである。彼のヨーロッパ合衆国構想は反響を呼んだ。
スイスから帰国したチャーチルは 1946年末から自らの提案を実現するための組織作り活動を開始した。そして、1947年1月には欧州統合委員会を発足し、チャーチルが委員長に就任している。そして1949には「欧州評議会」が設立される。欧州評議会は、初めての汎ヨーロッパ機関ということになる。チャーチルは、「欧州合衆国」の演説で、自身はイギリスをヨーロッパ合衆国に含めていない考えを示していた(※3)ようだが、結局、イギリスは1973年に欧州連合(EU)に加盟し、欧州統合の流れの中に入っている。

「冷たい戦争Cold War(冷戦)」という語は、アメリカのジャーナリスト・政治評論家でもあるウォルター=リップマンが1947年に出版した著書の書名『冷戦―合衆国の外交政策研究』(The Cold War: A Study in U. S. Foreign Policy)に使用されたことから、その表現が世界的に広まった。
アメリカを盟主とする資本主義自由主義陣営と、ソビエト連邦を盟主とする共産主義・社会主義陣営との対立構造(「二つの世界」)は第二次大戦後の1945年から1989年までの44年間続き、米・ソが軍事力で直接戦う戦争は起こらなかったので、軍事力で直接戦う「熱い戦争(Hot War)」「熱戦」に対して、「冷たい戦争(Cold War)」「冷戦」と呼ばれたものである。
この米・ソ両陣営の対立は共にドイツ・日本の枢軸陣営(枢軸国)と戦っていた第二次大戦中に始まり、1945年のソ連のヤルタでの米・英・ソ首脳会談(ヤルタ会談)での米・ソの戦後世界のいわば分割協定(ヤルタ体制)から始まった。
ポーランド問題など大戦終結前から米・ソ両者の対立は抜き差しならぬものがあったが、戦後はヨーロッパでのドイツ問題ここも参照)と、アジアにおける朝鮮問題で深刻さの度合いを増していった(朝鮮半島は当面の間連合国の信託統治とすることとしていたが、米ソの対立が深刻になると、その代理戦争が朝鮮戦争となって勃発し、朝鮮半島は今に至るまで分断されている)。因みに、現在も続く日本の北方領土問題の端緒となったのもこの時のヤルタ秘密協定(極東密約、単にヤルタ協定とも)によっている。
本格的な東西冷戦は、ソ連・東欧圏の共産主義勢力がギリシア、トルコ方面に伸張することを恐れたアメリカのトルーマン大統領が、1947年3月12日、トルーマン=ドクトリンを発表(内容は、※2のここ参照)し、共産主義封じ込め政策(Containment)を採ったあたりから始まる。
アメリカは、第二次大戦中の陸軍参謀総長としてアメリカを勝利に導いたジョージ・マーシャルが、国務長官に就任した1947年の6月5日、ハーバード大学の卒業式で講演し、後に「マーシャルプラン(正式名称:欧州復興計画、European Recovery Program, ERP)」といわれるものによって、欧州の反共諸国に対する超巨額の軍事・経済的援助を行い、西洋諸国の囲い込みを始めた。
その受入をめぐり、ヨーロッパ諸国は対応が二分され、西側諸国は受け入れ、東欧諸国は拒否した。また、チェコスロヴァキアはいったん受入を表明したが、ソ連の圧力で撤回し、それをきっかけに共産党政権が成立した。
このような状況のままでは、欧州各国はアメリカかソ連に二分割されかねない。このような状況に危機感を持っていたのがイギリスやフランスなど西側の首脳である。彼らは"米・ソのどちらにも属さない第三陣営"としての欧州の生き残りをかけた外交活動を模索していた。この流れで進められたのが欧州統合構想である(欧州連合の歴史参照)。
アメリカのマーシャルプランを受け入れた西側16カ国は、1948年に、受入機関として欧州経済協力機構(OEEC)を組織した。
同機構はマーシャル・プランに連動する形でアメリカの要求による為替と貿易の自由化とヨーロッパ域内諸国間と欧米間の関税を引き下げることをその目的としている。現在の欧州統合に先立つ概念をもった機関である。
このOEECは、後(1961年)の経済協力開発機構(OECD)に発展する(※5)。この援助資金を得て、イギリス、フランス、西ドイツ、イタリアなどが大戦での経済基盤の破壊を克服して、復興を成し遂げることができた。
一方マーシャルプランの受入で動揺した東側諸国を引き締めるため、ソ連も1947年9月にはコミンフォルム(共産党情報局)が組織され、1949年にはコメコン(COMECON- Council for Mutual Economic Assistance の略.。経済相互援助会議の西側での通称)による各種の援助を始動、東ヨーロッパ諸国の囲い込みを始めた。こうして冷戦構造が本格化していった。

このマーシャルプランで提供された資金の多くは使途を指定され、生産に必要な機械類や生活に必要な農作物に限定されており、それらはアメリカ産のものを買うことになるので、結果として資金はアメリカに環流する仕組みになっていた。ヨーロッパ経済が復興しなければ、ヨーロッパ各国がドル(外貨)準備ができず、アメリカの輸出もできなくなることになる。ヨーロッパを復興させることはアメリカ経済にとっても不可欠だったのである(米ドルは第二次世界大戦後しばらくは主要通貨で唯一の金本位制を維持していた通貨であり、各国の通貨は米ドルとの固定レートにより間接的に金との兌換性を維持していた[ブレトン・ウッズ体制]。その当時に形成された米ドルを基軸通貨とする体制は、金本位制停止および変動相場制導入の後も継続されている。)。
戦後から1960年代までの時代を「パクス・アメリカーナ(アメリカの平和)」といい、アメリカは長らく資本主義世界の主導権を握っていた。

イギリスも19世紀半ばごろから20世紀初頭までは世界の覇権を握る国家(パクス・ブリタニカ)であった。しかし第二次大戦後は、充実した社会保障制度(所謂「大きな政府」)にあぐらをかき、国家レベルで堕落していき「英国病」と言われるほどの経済停滞を招いていた。そして1973年のオイルショックによる高インフレが追い打ちを掛け、経済成長率が低下、税収入が減少していき、財政赤字は増加.。1976年には、遂に財政破綻し、IMF(国際通貨基金)から融資を受ける羽目に陥った。。
この屈辱を経て、その後イギリス政治史上初の女性首相となったマーガレット・サッチャーは、「イギリス病」退治に取り組み、イギリス経済は活力を取り戻し、政治経済的威信を回復し、17世紀後半以降の歴代内閣で記録的な長期政権を築いた。「ゆりかごから墓場まで」の語に示された「大きな政府」による福祉国家を市場原理に基づく「小さな政府」に切り替える一連の政策は、「サッチャリズム」とよばれ、同時期の米国大統領ロナルド・レーガン政権によるレーガノミクスとともに新自由主義の代名詞となった。
彼女についた有名なあだ名「鉄の女」は、1975(昭和50)年2月の保守党党首選挙でエドワード・ヒースを破り党首に就任した。

上掲の画像は1975年2月11日の2度目の党首選で快勝し、夫のデニス、息子のマークとともに支援者の歓呼にこたえるサッチャー夫人。(「朝日クロニカル週刊20世紀』1975年号より)
党首に就任した同年、サッチャーは、イギリスを含む全35ヶ国で調印、採択されたヘルシンキ宣言(1975年7〜8月、フィンランドのヘルシンキにおいて開催された「全欧安全保障協力会議」で採択された最終の合意文書)を痛烈に批判した。ヘルシンキ宣言 とは、ヨーロッパの現状をそのまま固定しようというような内容で、ソ連主導の宣言 だったようだ。
これに対し、ソ連の赤軍機関紙『赤い星』が記事の中で、侮蔑的な意図をもってサッチャーを「鉄の女」と呼び、非難したものだった。しかし、党首選の翌日、『デーリー・エクスプレス』紙は「はっきり言えることは彼女が筋金入りの闘士だということだ」と褒めたという(『朝日クロニクル週刊20世紀』1975年号)。
チャーチルが「鉄のカーテンが存在する」という有名な演説をした。若い時これを聞いたというマーガレットはそれから30年「鉄の女」へと成長したのであった。




参考:
※1:チャーチルのミズーリ州フルトンのウエストミンスター大学での演説(動画)及び演説文(英文)
http://www.americanrhetoric.com/speeches/winstonchurchillsinewsofpeace.htm
※2:世界史の窓
http://www.y-history.net/index.html
※3:Winston Churchill, speech delivered at the University of Zurich, 19 September 1946 :欧州評議会
http://www.coe.int/t/dgal/dit/ilcd/Archives/selection/Churchill/ZurichSpeech_en.asp
※4:“Рихард Николас фон Куденхове-Калерги”. 汎ヨーロッパ連合 (PANEUROPA.ru).
http://www.paneuropa.ru/home.php?id=3&lang=
※5:欧州統合の歩み -金融用語辞典(金融大学)
http://www.findai.com/yogo001/0031y01.html
欧州統合運動とハーグ会議(469KB) - 東京経済大学(Adobe PDF)
http://www.tku.ac.jp/kiyou/contents/economics/262/262_kojima.pdf#search='1947%E5%B9%B4+%E6%AC%A7%E5%B7%9E%E7%B5%B1%E5%90%88%E5%A7%94%E5%93%A1%E4%BC%9A+%E7%99%BA%E8%B6%B3'
ヤルタ協定 - 国立国会図書館
http://www.ndl.go.jp/constitution/etc/j04.html
ヨーロッパの東西分断(鉄のカーテン、東西ドイツの成立など)
http://manapedia.jp/text/3577
池上彰の教養講座 .■「鉄のカーテン」が下ろされた
http://syukai.com/nikkei231.html
「チャーチルの欧州合衆国構想」(EJ第3310号)
http://electronic-journal.seesaa.net/article/272174239.html



切腹最中の日

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日本記念日協会(※1 )の今日・3月14日の記念日に「切腹最中の日」があった。由緒を見ると以下の様に書いてあった。
浅野内匠頭吉良上野介への刃傷事件から切腹をさされ、のちの「忠臣蔵」へと繋がるのが元禄十四年三月十四日のこと。「忠臣蔵」にまつわる数々の事柄を多くの人に語り継いでいただこうと、自社商品に「切腹最中」(せっぷくもなか)を持つ東京新橋の和菓子店「新正堂」(※1)が制定。
「新正堂」は浅野内匠頭が切腹さされた東京新橋の田村右京太夫屋敷に在する大正元年創業の老舗和菓子店で「仮名手本忠臣蔵味こよみ」「景気上昇最中」などの人気商品がある。・・とあった。

最中とは(もち)から作った皮で(あん)を包んだ和菓子の一種。
餅(もち)はもち米(糯米)を蒸し、(うす)でついて、さまざまな形にした食品のことで、広義には、粳米(うるちまい.米飯用として使われる普通の米)以外の穀類で作る食品もいう。
このもち米(糯米)は、性をもつの品種であり、組成としてアミロースを全くあるいはほとんど含まない作物の種類を指すが、アミロースを含むものを(うるち)という。アミロ ースが多いと、ぱさぱさの米、少ないと粘りのある米、アミロースが無くなるともち米になるというわけ。ただし、近年では餅米と表記されていることもある。
餅は昔から日本人にとってお祝い事や特別の日に食べる「ハレ」(ハレとケ参照)の食べ物であった。
餅をハレの日に食べる習慣は古く水稲耕作による稲作技術が伝来したとされる弥生時代にまで遡(さかのぼ)るといわれている。
この時代に稲作信仰がはじまり、イネ(稲)には「稲霊(いなだま)」「穀霊(こくれい)」が宿り、人々の生命力を強める霊力があると信じられ、神聖な食べ物として崇められるようになる(田の神参照)。さらにお米の霊力は、それを搗(つ)いて固める餅や醸して造る酒にした場合、倍増すると考えられていた。
考古学的には、古墳時代後半(6世紀頃)の土器の状況から、この頃に蒸し器の製作が社会的に普及していたと判断され、日常的に蒸す調理による食品の種類が増し、米を蒸す事も多くなり、特に餅を作る事も多くなったと考えられている。
日本における餅に関する文献上の記述としては、奈良時代初期に編纂された『豊後国風土記』(8世紀前半)に次のような内容の話が語られている。
富者が余った米で餅を作り、その餅を弓矢の的として用いて、米を粗末に扱った。的として使われた餅は白鳥(白色の鳥全般の意)となり、飛んで行ってしまった。その後、富者の田畑は荒廃し、家は没落してしまったとされる。
この話は、白鳥信仰と稲作信仰が密接に繋がっていた事として語られ、古来から、日本では白鳥を穀物の精霊として見る信仰があった事を物語っている(小碓命[ヤマトタケルの幼名]の物語[近江・美濃を中心とする穀霊伝説]参照)。
餅には搗き餅(つきもち)と練り餅(ねりもち)という製法も材料も違う2種類の餅が存在する。 粒状の米を蒸して杵で搗いたものはつき餅(搗き餅)といい、穀物の粉に湯を加えて練り、蒸しあげたものは、練り餅(ねりもち)というが、日本では餅といえば通常つき餅をさす場合が多い。
餅が季節・行事ごとに供えられ食されるようになったのは、三種の神器の一つとされていた鏡(八咫鏡)に見立てて蒸した餅米を丸く成形した「鏡餅」を供える習慣を生み出した平安時代からの事である。
大鏡』(11世紀末成立)では、醍醐天皇(9世紀末から10世紀初め)の皇子が誕生してから50日目のお祝いとして、「五十日(いか)のお祝いの餅」を出された事が記述されている。この頃から餅は祭事・仏事の供え物として慶事に欠かせない食べ物となった。こうして、米などの稲系のもので作った餅が簡便で作りやすく加工しやすいことと相俟って、多様なつき餅の食文化を形成してきた(「主な餅の種類」など参照)。

さて、少し回り道したようだが、Wikipediaには、「最中」の原型は、もち米の粉に水を入れてこねたものを蒸し、薄く延ばして円形に切りそろえたものを焼き、仕上げに砂糖をかけた、干菓子(ひがし)であるといわれている・・・とある。
その名の由来は、平安中期の『拾遺和歌集』(巻3・秋171)にある源順の以下の歌によると言われている。

「水のおもに照る月なみをかぞふれば今宵ぞ秋のも中なりける」

【通釈】水面に輝く月光の波――月次(つきなみ)をかぞえれば、今宵こそが仲秋の真ん中の夜であったよ。
【語釈】◇月なみ: 「波に映る月光」「月次(月の数。月齢)」の両義。◇秋のも中:八月十五日は陰暦では秋の真ん中にあたる。「も中」のモはマの母音交替形。
【補記】屏風絵に添えた歌。順集、初句は「池の面に」・・・・。以下参考の※4:「源順 千人万首」より。
中秋節の宮中で行われた月見の宴において、白くて丸い餅菓子が出されたのを見て、源順のこの歌を知っていた公家たちには、池に浮かぶ中秋の名月を思わせたので、丸い餅を” もなか(最中)の月”とも呼ぶようになったのがそのまま菓子の名前として定着したという。
「最中」の始まりは、風来山人他数多くの号を使い分けたことでも知られる平賀 源内が天竺浪人の名で著した『根南志具佐(根無草)』(前・後編4冊、※5参照)の《後編》(明和6年=1769年)には、“最中の月は竹村に仕出す”とあるように、江戸時代のことのようである。
江戸新吉原(吉原遊廓は、始めは日本橋近く[現在の日本橋人形町] にあり明暦の大火以降浅草寺裏の日本堤に移転、前者を元吉原、後者を新吉原と呼んだ)の菓子屋竹村伊勢(竹村伊勢大掾)が、丸い形から十五夜の月になぞらえて「最中の月(もなかのつき)」という煎餅のようなものを作り、それが省略されて「最中」となった。これが「最中」の始まりと一般的には言われているのだが・・・。当初のものの実態は必ずしも明らかでなく,あんころ餅だとする説もあるようだ。

以下参考の※6「隆慶一郎わーるど」の浅草志を見ると、新吉原関連・その他の記述のところに当所名産として、
「巻煎餅 江戸町弐丁目万屋太郎兵衛初、今竹村伊勢製也 。最中の月 松屋忠次郎、甘露梅 松屋庄兵衛手製初 山口屋四郎・・」と、当地の名産がいろいろ書かれており、もう少し調べてみると、醉郷散人(沢田 東江か?)著『吉原大全』(明和5年=1768年)巻之四の “吉原年中行事”の中で、吉原名産について記載されているところに、以下のようにある。
「巻せんべいは、此里第一名高き名物なり。江戸丁二丁め角、万や太郎兵衛工夫しはじむ。今の竹村伊勢方なり。近此、最中の月といふ菓子をも製し出す」・・・と。(※7の [2]のコマ番号 10のところを参照)。
また、喜多川守貞著『近世風俗志』(嘉永6 年[1848/1/24-12/14])第二十編娼家下(※8:「国立国会図書館デジタルコレクション)」にも、吉原名物の七品に、「巻せんべい 中の丁 竹村伊勢」の名があり、「巻煎餅 巻きたる煎餅也 折詰にして進物に専用す」とある(※8のコマ番号394参照)。
これを読むと、「吉原名物」の「巻煎餅」と、「最中の月」は、いずれも「吉原名物」の七品に入ってはいるものの別物のようである。
「最中の月」の製造元は竹村伊勢ではなく、松屋忠次郎であるが、近頃は、最中の月といふ菓子をも製し出した・・というから、 「巻煎餅」だけでなく「最中の月」も元の製造元に何かの事情があり、その権利を竹村伊勢が買い取るか何かして、製造販売をするようになったのだろうか。
当時の長唄『俄 獅 子』(天保5年=1834年10月 4代目 杵屋六三郎作曲)には以下のような一説がある。

「 ヤア秋の最中の 月は竹村 更けて逢ふのが間夫の客 ヨイヨイ」

歌意は、間夫は、遊女の情夫であり、吉原名物「最中の月」のようななまん丸いお月さんがぽっかり浮かぶ秋の夜、間夫の客には夜更けにこっそり逢うものですよ・・といった意味か。



●上掲は長唄 俄獅子。時間があれば見てください。。

吉原には、旧暦8月に1か月間、芸者・幇間(ほうかん)が、仮装をして凝った踊りの新曲を見せた年中行事があり、それを吉原俄と呼んでいた。
この歌は、先に成立していた長唄『相生獅子』(※9のここ参照)の歌詞を元に、吉原の秋の行事であるの様子を盛り込んで、吉原の悲喜こもごもを描いた曲だそうで、この「俄獅子」が唄うのは、遊女と客の乱痴気騒ぎや痴話げんかに、夜更けの間夫との忍び会い。吉原の行事や名物だけでなく、男女の思惑が交錯する廓のさまを生々しいまでに活写している(歌詞※9参照)

吉原の菓子屋竹村は、文政11(1828)年の香蝶楼國貞の浮世絵『新吉原京町一丁目 角海老屋内鴨緑 かのも、このも』(伊勢屋三次郎板)にも見られる。その画像は「国立国会図書館デジタルコレクション - 浮世姿吉原大全」で見られる。以下参照。



・ 新吉原京町壱丁目角海老屋内鴨緑 [1]
上掲の画像は、文政11(1828)年秋の新しい遊女を売り出すイベント吉原細見(よしわらさいけん)上の筆頭の位置に鴨緑(あいなれ)が再び登場した。この時の鴨緑の新造出し(突出し)を宣伝するために制作されたものと推定されている。
図の背景に、吉原にあった菓子屋「竹村伊勢」の積物が描き込まれている。これは、贔屓が鴨緑の新造出しを祝って贈ったものである。
鴨緑の着物の、さらには、羽の禿針打ちの部分にも木瓜紋が認められる。日本の社会では、紋は個人や家を識別する記号として用いられてきたが、遊女の場合も同様であり、この紋は、この時、細見(さいけん)上の筆頭・角海老屋の遊女・鴨緑のロゴマークとして特別に与えられた紋の様である。この後ランクが落ちたときには、この紋は使用されていない。同じく國貞によって天保5(1834)年秋に描かれた『新吉原京町一丁目角海老屋内 愛染 ひよく れんり、常磐津 やよい はなの、鴨緑 かのも このも』(伊勢屋三次郎板)では、同年春まで筆頭の位置にあった鴨緑が退楼し、ここでは細見では二枚目になった別人の鴨緑の定紋が桐紋なっており、1位となった新しい愛染の襲名披露として描かれている、それは愛染の右下に描かれた竹村伊勢の積物が、そのことを示している。
竹村伊勢の積物には、竹村伊勢の名前と共に「丸に隅立四つ目」の紋(目結紋参照)が描かれている。
※7:国立国会図書館デジタル化資料「吉原大全」の[1]には、“お菓子所 武村 伊勢の積物がみられるが、これは饅頭を蒸す木箱の蒸籠を積んだ上に縮緬緞子などを積み上げているらしい。家に出入りする者に祝儀として振舞ったようだ。蒸籠の横にはどこか他のスポンサーの積物の酒桶のようなものが見える。ここでコマ番号 8~10参照)。

そういえば2010 (平成22)年4月、東京歌舞伎座改修のための取り壊し前の最後の公演は歌舞伎十八番『助六由縁(ゆかりの)江戸桜』が、締め括(くく)った。
歌舞伎宗家市川團十郎家のお家芸である『助六』は、江戸ッ子の代表のような美男子花川戸の助六と、意気地と張りを特徴とした吉原の遊女揚巻。悪所(あくしょ=江戸時代における遊楽街のことで、遊郭や歌舞伎小屋)を背景にして展開する大衆の祝祭劇であり、その舞台は、新吉原の妓楼の中でも最高級の大見世(最上級クラスの見世。※11参照)である。
『助六所縁江戸桜』の舞台は、新吉原の妓楼の中でも最高級の大見世、三浦屋をかたどっている。



●上掲は助六の舞台最初の部分であるが、まずは全部見なくても幕開きから少しだけ見てみてください。以下カッコ内役者の名前は、この時の助六出演者名を書いている。
幕が開けば吉原とりわけ、三浦屋入口の暖簾と、吉原に出入りしていた菓子屋の竹村伊勢の文字が目に入る。三浦屋は新吉原の京町一丁目に元禄期に実在していた。
舞台の両脇には「丸に隅立四つ目」の紋を描いた四角形と、『新吉原竹村伊勢』の文字とを交互に組み合わせたデザインの道具が飾られている
これは、竹村伊勢から贈られた蒸籠の積物を様式化して表現しているのだそうだ。積物の起こりは元禄期をそう遡らない時期だったそうだが沢山の積物は、富裕の象徴でもあり、広告として、現代でも大きな神社の祭りなどでは、酒樽などが積みあげられている。
今でいうコマーシャル(CM)の走りが「助六」で見られる。助六は吉原が舞台。劇中では芝居全体が吉原の宣伝をする。特に花川戸助六(十二代目團十郎)の恋人の揚巻(:坂東玉三郎)は、実在の妓楼「三浦屋」の花魁(おいらん)という設定で三浦屋にとってはこれ以上ないCMである。吉原の宣伝であることは、竹村と言う菓子屋の蒸篭を袖の張り物に描くことからも分かる。
揚巻が花道で酔いを醒ます「袖の香」(松屋と言う茶屋で売っていた薬)を飲み、髭(ひげ)の意休(市川左團次)の子分・くわんぺら門兵衛(片岡仁左衛門)の弟分・朝顔仙平(中村歌六)が名乗りのところでせんべい尽くしを述べて「竹村の堅巻煎餅が俺の親分」と言ってCM 宣伝する。他にも白酒売の新兵衛(尾上菊五郎)が売る「山川白酒」や 福山かつぎ寿吉(坂東三津五郎)の「福山のうどん」は、当時の実在の商品であった。
以下の助六2の場面10:00ぐらいのところで、中村歌六演ずる朝顔仙平が出場し、せんべい尽くしを述べる場面がある。ご覧あれ。この舞台とにかく出演者がすごい。今では懐かしい人となってしまった、十二代目團十郎や坂東三津五郎、それに、通人里暁 (りぎょう)を演じる十八代目中村勘三郎の滑稽な科白(せりふ)と股(また)くぐりが後半のところで見られるよ。時間があればぜひ1,2を通してご覧になるとよい。


「丸に隅立四つ目」の紋は武家の流れを引く者の紋のはずだが・・・、竹村伊勢とはどんな人物だったのだろう?吉原の遊女売り出しのスポンサーとなるくらいだから、ただの菓子屋ではなく相当の財力があったのだろう。
西村貘庵著『花街漫録』(2巻本。※12参照)には、「竹村菓子箱絵」として、「もなかの月」と「まきせんべい」の図が掲載されており、そこには、竹村伊勢源尹澄の名がみえる花街漫録 2巻本 [2] のコマ番号 18参照)。
崩し文字なのでよく読めないが、参考※13:「日本随筆大成 第一期「あ」-浮世絵文献資料館」によると、“吉原江戸町二丁目、菓子屋竹村伊勢大掾の菓子箱絵の解説文に「此うつし絵をみかし入の箱折などにはりつけもて印とはなしけり。こは狩野氏の画けるにて、ひとひらは英一蝶のものせる也」とあるそうだ。菓子箱絵を人気浮世絵師一蝶に書いてもらうのだから大したものだ。しかし、箱絵の解説文のところには、竹村伊勢大掾 万屋伊兵衛(先祖を竹村鷺庵 茶人○○云うとして何か書いているがそれ以下がよく読めない。
伊勢大掾の大掾とは、律令制が崩壊した中世以降,職人,芸能人などが受ける名誉号となり、近世では多様な職人や芸能人に宮中や宮家から与えられたそうだ。近世中期(江戸時代前期~中期か?)以降,ことに浄瑠璃太夫にかぎられ,大掾,掾,少掾の3階級に分けられ,掾号を受領することは,最高の名誉とされたそうだ。いずれにしても大掾号を手に入れているのだからもともと財力のある人だったのだろうが、不思議なことに、『江戸買物独案内』(3巻本。文政7年=1824年。※14)に菓子の有名どころが掲載されている(※14の[1]の202から~225まで参照)のだが、なぜか竹村伊勢大掾の名は見られないのはどうしてだろう?気になるがこの詮索はこれまでにしよう。

竹村伊勢の「最中の月」は、丸い煎餅のような干菓子で現在の餡入りものと異なったもの。当時、四角いものは珍しがられて「窓の月」と呼ばれていたそうだが、『江戸買物独案内』には、「南佐木町 大和屋近江掾 藤原森房と、築地小田原町二丁目 柏屋伊勢大掾が、「窓の月」取扱いを掲載している。
『江戸買物独案内』に「最中饅頭」の名前で掲載しているのは、日本橋に林屋善助と吉川福安の名があるがこれがどんなものかはしらないが、「最中の月」といわれるものはこの「最中饅頭」の方だったかもしれないな~。
江戸中期以降に2枚の煎餅に餡を挟むようになったという。その後も餡を挟む方法に改良が加えられ、明治期以降に金型技術の進歩し複雑な模様や形をした様々な現代のような最中の皮が完成。皮の部分は、元が菓子だったことから特別に「皮種」と称されている。この皮種で餡を挟んだ最中が、やがて全国的に広められていき、現在では各地で色々な種類の最中が銘菓として売り出されている。
それにしても、今日の記念日和菓子店「新正堂」の「切腹最中」。形は、はちまき姿で閉まるはずの皮は餡子を収めきれずに開いたまんま。冒頭の写真(画像は、「新正堂」HPより借用。見た目にはおいしそうだが、よくこのような名前の最中を販売しようと思ったものだ。販売前は、ずいぶんと議論を呼んだようだ。

切腹」は、自分の腹部を短刀で切り裂いて死ぬ自殺の一方法。主に武士などが行った日本独特の習俗(目的を果たせなかった場合などの)であった。自身や臣下の責任をとり、自身の身を以て集団及び家の存続を保とうとする行為。近世からは、自死のみならず処刑の方法としても採用された。腹切り(はらきり)・割腹(かっぷく)・屠腹(とふく)ともいう。
切腹は、日本独特のものと思われているが、中国やローマ時代にも、まれではあるが記録が残っている。 日本では事例が多く、長期にわたって行なわれ、法的に制度化された点に特色があるにすぎないという。
また、切腹は武士のみのものと思われがちだが、公卿にもいくつかの事例がある。中国では、南西部の各地で疑いをかけられた男女が切腹して真意を示そうとした。
これは、人の精神が内臓に宿っていると考えられたからで、 日本でも『腹を割って話し合う』とか、『腹黒いヤツ』などという表現があり、実際に身体の内部を相手に示して疑いを晴らそうとする方式が、本来東洋にあったのではないかという(『週刊朝日百科日本の歴史』、7-79「切腹」)。
切腹は外国でも日本の風習としてよく知られ、「hara-kiri」や「seppuku」として英米の辞書に載っている。小林正樹監督映画『切腹』もHarakiri(1962年)として海外で紹介された。
日本における切腹は、平安時代末期の武士である源為朝(1139年(保延5年) - 1170年(嘉応2年))が最初に行ったと言われている。また藤原保輔が988年(永延2年)に事件を起こして逮捕された時に自分の腹を切り裂き自殺をはかり翌日になって獄中で死亡したという記録が残っているが、彼の場合は切腹の趣旨である、己の責任を取る意図だったのかは明確ではない。
武士の名誉刑としての切腹の作法がほぼ完成するのは戦国末期で、後ろにばしたときに介錯人が立ち首を討つようになる。それは戦乱が続いた南北朝期には、切腹は敗者にとって最後の勇気と名誉を遺す手段となり、その結果として死そのものが目的となってきたからだ。
江戸時代の有職故実家の伊勢貞丈は切腹の作法に関して、切り口から臓腑のはみ出るのを最も忌むべき「無念腹」としているようだ。その理由は、主命によって名誉ある死を賜ったにもかかわらず、内臓が露出すると、本人の“潔白”の主張と受け取られ、逆に刑を申し渡した主人は誤っていたということになるからであった。
江戸も中期になると、切腹は名誉刑から実質的に斬罪(斬首刑のこと)に等しい型となる。つまり、罪人に刀を渡した時に最後の反抗を試みられては困るので、三方に短刀を載せておし頂かせ、手に取ろうと体を伸ばしたときに介錯人が首を切り落としたのである。赤穂四十六士の切腹も実態はこの形をとったようだ。どうしても自分で腹を切りたい場合には、介錯人に合図をするまで太刀を振り下ろさないよう求めたようである(『日本の歴史』7-79 P「切腹)。※16参照)。
浅野内匠頭長矩は勅使の接待役を命ぜられていた。浅野が吉良義央に切りつけたのは白書院に通ずる松之廊下と呼ばれる場所で、それは、勅使が到着する直前の元禄14年=1701年3月14日のことであった。浅野は「折柄と申し殿中を憚(はばか)らず。理不尽に切付候段、重々不届き至極」であるとして、即日切腹・改易の厳罰に処せられた。
それから,1年9ヶ月を経た翌年12月14日に、大石吉雄以下の浅野遺臣が本所のあった吉良邸に乱入し、吉良を殺害してその首を泉岳寺の浅野長矩の墓に捧げるという事件が起こった。赤穂浪士は義士であるから助命すべきという意見も強かったが、法を曲げることは天下に乱を引き起こす元になるという意見を綱吉は採用し、武士としての体面を重んじた上での切腹を命じたのであった。
「切腹最中の日」を設定した「新正堂」は、記念日設定の理由として以下のように言っている。
「殿中での刃傷とあればや無を得ぬお裁きとはいえ、ここで問題なのは、浅野内匠頭がいかに青年の激情家であったにしろ、多くの家臣、家族を抱える大名であったのだから、今少し慎重な調査がなされても良かったのではなかろうかということでした。喧嘩両成敗の原則をも踏みにじった、公平を欠く短絡的なお裁きが、後の義挙仇討ち「忠臣蔵」へと発展したことは否めません。当店は、切腹された田村右京太夫屋敷に存する和菓子店として、この「忠臣蔵」にまつわる数々の語り草が和菓子を通じて、皆様の口の端に上ればという思いを込めて、最中にたっぷりの餡を込めて切腹させてみました。「風さそふ花よりもなほ我はまた春の名残をいかにとやせん」の辞世の句とともに、本品が話しの花をさかせるよすがともなればと心を込めておつくりしております。何卒、末永くご愛用の程伏してお願い申し上げます。」・・・と。
ここで言われているように、主君である浅野長矩だけが切腹となり、吉良義央に咎めがなかったのは「喧嘩両成敗」に反すると浅野家の家臣達が憤慨したと主張する説もあるが、幕府が喧嘩両成敗を殿中抜刀の被害者に適用した例はないそうだ。そもそも、松の廊下事件においては、浅野が背後から一方的に吉良に斬りつけ、吉良は気を失っているので「そもそも喧嘩として成立していない」「よって喧嘩両成敗は考慮できない」・・とも言われている。その他いろいろ言われているが、そもそも、『忠臣蔵』は仮名手本忠臣蔵の物語が史実として伝わったものであることを考慮して判断しなくてはいけないだろう。Wikipediaの元禄赤穂事件、また、それを要約したらしい※17:「忠臣蔵の謎と真実」など参照したうえでいろいろ考えて見るのも良いだろう。




・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
参考:
※1:日本記念日協会
http://www.kinenbi.gr.jp/
※2:新正堂HP
http://www.e-monaka.com/
※3:+月食と呼ばれる女性に優し古代米
http://www.maruza.net/SHOP/1123/list.html
※4:源順 千人万首
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/sitagou.html
※5:根南志具佐. [前],後編 / 天竺浪人 [著] ::古典籍総合データーベース:早稲田大学
http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/he13/he13_01731/index.html
※6::隆慶一郎わーるど
http://yoshiok26.p1.bindsite.jp/bunken/index.html
※7:国立国会図書館デジタル化資料「吉原大全」醉郷散人著
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2554391?tocOpened=1
※8:国立国会図書館デジタルコレクション - 類聚近世風俗志 : 原名守貞漫
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1899469
※9:TEAM TETUKURO NAGAUTA(長唄)
http://www.tetsukuro.net/nagauta.php
※10:おたくらしっく: 助六
http://ken-hongou2.cocolog-nifty.com/blog/cat23450715/index.html
※11:お江戸吉原ものしり帖 - 新潮社
http://www.shinchosha.co.jp/books/html/115332.html
※12:国立国会図書館デジタルコレクションー花街漫録 2巻本(以下で[2] コマ番号 18参照)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2563735?tocOpened=1
※13:日本随筆大成 第一期「あ」-浮世絵文献資料館
http://www.ne.jp/asahi/kato/yoshio/a7.html
※14:『江戸買物独案内』3巻本 画像データベース(早稲田大学)
http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/bunko10/bunko10_06650/
※15:最中種(もなかの皮)の専門店 もなかや.com
http://monaka-ya.com/
※16:切腹の話
http://homepage1.nifty.com/SEISYO/sepuku.htm
※17:忠臣蔵の謎と真実
http://ashigarutai.com/rekishikan_cyushingura.html
「 竹村伊勢は、当たり前だけどお金持ちだったんだ。 」
http://ameblo.jp/tanekame/entry-10574059198.html






日本初の運動会が開催されたとされる日

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運動会は、学校や、会社(企業)また、地域団体(地域社会)などの構成員あるいは関係者が一定のプログラムに従って行う体育的な行事であり、「体育祭」などと称されることもある。
運動会の起源はヨーロッパにあるとされるが、欧米では体育及びスポーツの分化により、一方では特定種目の競技会やそれを複合させたスポーツ競技会、一方で子供による伝統的な遊戯まつりやピクニック会などへとつながって今日に至っている。
そのため、日本の運動会のように参加者が一定のプログラムについて順次全体としてまとまりながら競技・演技を行う形式の体育的行事は「近代日本独特の体育行事」とも言われているようだ(日本体育協会監修 『最新スポーツ大事典』 p.96 大修館書店 1987年)。
そういえば、今年(2015年)2月24日、NHK夜のワイドショー「ニュースウォッチ9」で、「世界へ輸出・日本の“UNDOKAI”」と題して、日本式の運動会を紹介するイベントがタイの学校で行われ、地元の子どもたちが日本ではおなじみの競技に初めて挑戦している様子を報じていた。その内容は、参考※1;「 NHKオンライン」の2015年2月24日(火)付「 世界へ輸出 日本の“UNDOKAI(運動会)”」(以下の動画)。また、その抜粋(参考※2)を参照れるとよい。
世界へ輸出 日本の“UNDOKAI(運動会)NHKニュースウオッチ9 ピックアップ”
これは、2020年の東京オリンピック・パラリンピックに向けて、スポーツを通じた国際交流を進めようと、日本の政府やスポーツ関係団体が世界各地で始めたもので、今回の運動会を運営したのは、独立行政法人日本スポーツ振興センター( JSC。※3)から委託を受けたNPO法人である。
JSC は、2003(平成15)年、それまでの日本体育・学校健康センターの業務等を承継するかたちで設立された法人であり、設立の趣旨は国民の健康増進であり、業務は国立競技場の運営、スポーツ科学の調査研究、スポーツ振興くじ(toto)の実施などのスポーツ関連事業と、学校災害共済給付制度(※3の1ここ参照)の運営、学校における安全・健康保持の普及などの学校関連事業とに二分される。
同振興センターは文部科学省の外郭団体であり、役員には文部省(現文部科学省)、大蔵省(現財務省)といった中央省庁からの天下り官僚が就任している。そして、同センターには運営費交付金として毎年多額の補助金が交付されているが、Totoの計画・運営や新国立競技場建設問題など、その計画・運営・運用や、また、年に2回ある助成審査委員会の会議は全報道機関に公開されていたが、2007年4月5日の会議から運動記者クラブのみに限定されているなど、いろいろと批判されていることは多いようだ。
また、同振興センターから委託を受けたNPO法人というのは、 “企業や、学校関係の運動会・体育祭などの企画、運営から、会場の確保、設営、撤去、備品の貸出し、スタッフの派遣までを行っているという運動会屋(NPO法人ジャパンスポーツコミュニケーションズ。※:4)のこと。スポーツを盛んにするための一環かどうかは知らないが、このような事業までNPO法人が行っているのだね~。JSCには、スポーツ関連の企業や団体が多く関係しているから、このような運動会のイベント事業もいい商売になるようだ。もっとも、あくまで、非営利法人がやっていることなのだが・・・。
こんな運動会屋のやっていることがNHKの「ニュースウォッチ9」では、通常のニュースより優先し、トップニュースとして報道されていることに対しては、いろいろ話題が沸騰していたようだが、今回はそのようなことを問題として取り上げるのが趣旨ではないのでこのことはこれでおこう。

この「ニュースウォッチ9」の報道の中では、ナレーションで、
「空高く運動会の秋たけなわ、さわやかな大空に明るい歓声がこだまして。」
「日本の運動会は、必ずしも体力の優劣を競う場ではありません。」
「学校だけでなく、地域ぐるみで行われ、世代を超えた交流の場でもありました。」
・・とお父さんたちの参加している姿。そして、障害物競走の網くぐりや玉入れ綱引きの後、昭和30年代の女性のビール飲み競争や宝探しなどの映像が映し出される。
そして、「足の速い人が一番になるとは限らない。それが運動会です。」といって、日本の運動会と外国との違いを外国人にヒアリングしてまわる。
日本では幼稚園や学校の運動会から会社や町内会など、色々な団体で運動会が行われるが、その運動会の種目には、徒競走や、綱引き、網くぐりなどの障害物競走の他、騎馬戦や棒倒しなどとならんで、パン食い競走や玉入れ、、大玉ころがし、スプーン・レースやフォークダンスなどもある。会社の運動会となると、仮装行列がある場合もあるし、地域の運動会では、「ニュースウォッチ9」でも見られた女性のビール飲み競争や、宝探し迄ある。改めて考えてみると、日本で行われている運動会とは、じつに奇妙なイベントではある。
このような奇妙なスポーツ・イベントは、外国には存在しない、日本のオリジナルのものである。いったい誰が何のためにこのような運動会を考え出したのだろう?
定説によれば日本で最初に行われた運動会は1874(明治7)年3月21日、当時築地の海軍兵学寮(後の海軍兵学校)の英語教師として教壇に立っていたイギリ ス人教師(フレデリック・ウィリアム・ストレンジといわれている)の申し出によ り、行われた「競闘遊戯会」であるとされている.(日本体育協会監修 『最新スポーツ大事典』 p.95)。
しかしながら、運 動会の起源ということでは、1868年8月15日(慶応4年6月27日)、横須賀製鉄所で開催したものが指摘されている。岸野雄三他編『近代体育スポーツ史年表』では、これを「日本最初の洋式運動会」としているそうだ(※5)。
以下横須賀市のHP「横須賀製鉄所(造船所)特集ページ」(※6:)には、「横須賀製鉄所」(後の横須賀海軍工廠)は、フランス人技師フランソワ・レオンス・ヴェルニーの指導により建設されものだが、1868 年、フランス人技師らと日本人の職工が親睦を図るために様々な競技をする運動会を行っていたようで、同造船所建設の土木事業に現場責任者の一人として従事していた堤磯右衛門が『懐中覚』という日記にその様子を書き記しているところによると、綱渡り、帆柱のぼり、さらに袋に両足を入れてピョンピョンと跳んで走る競技、そして相撲などの競技が行われていた。また、このなかで、「走馬競(そうばけい」という、馬を走らせながら、つるされた輪に木製のくぎを通すという、日本の流鏑馬(やぶさめ)に似た競技も行われていたそう.だ。後にこの「走馬競」は、2003年ヴェルニー公園で再現されているという(同HPにリンクの小冊子「ヴェルニーと横須賀」参照)。
そのことは兎も角として、定説で日本初と言われているところの築地の海軍兵学寮での「競闘遊戯会」ではどのような競技が行われていたのだろう。
競闘遊戯会は、1 873(明治6)年12月、海軍兵学寮のイギリス海軍顧問団の団長ダグラス中佐(Archibald Lucius Douglas)から海軍省に兵学寮の馬場の中央に芝生のクリケット場の設置申請が行われ、これが認められ完成したことを記念して行われたもので、その要請は、クリケットという遊戯が健康と養育の価値を有するものだとする認識に基づいている。
1874(明治7)年1月の海軍省宛文書にも兵学寮にはクリケットなどのスポーツに関して,次のような認識のあったことが見られる。
(1)「凡精神ヲ労スル者ヲ啻ニ束縛致シ候而己ニシテ之ヲ慰楽スルノ事無之候テハ必ズ欝閉(うっぺい)ノ害ヲ免レ不申或ハ竊(ひそ)カニ犯則不善ノ遊戯二溺ルル二至リ可申」と,一般に人間は精神を疲れさせるだけで慰楽することがなければ,気のふさがることは間違いなく,法律を犯したり、よくない遊びに溺れたりする。
(2)兵学寮生徒の最近の状態は不道徳に流れ,このまま放置すると恥ずかしい状態になるかも知れない,
(3)兵学寮の会議で論議したところ、精神を疲労させるだけで気晴らしとなる方法がないからだということになった。
(4)欧米各国の海軍学校では,玉突き,クリケット・ボール,ボーリング・アレーなどの遊戯道具を備えて疲れを慰める方法があるので,よくない考えを抱いたり,不道徳な状態に陥らず,学業はますます進歩し,身体はいよいよ強健になっている,
(5)この考えをダグラス顧問団長に相談したところ,彼もまた同じように考えていたが、費用がかかるので提言出来ないできたと言っている。
(6)遊び道具を備えて娯楽を与えることは至急採用すべき良い方法なので,先ずは玉突き道具2台を備えたい。・・・・,と理由を添えて設置の申請をした。2台で約3,000円かかるこの申請は,兵学寮の定額金から支払うこととして2月10日付で決裁が下った。
この申請の基礎には、人間にとって慰楽(慰みと楽しみ)は本来的に重要不可欠のものであり、とくに学業のような精神を疲れさせる生徒に遊戯(スポーツがその大きな部分を占めている)を行わせることは,健康を保持増進するとともに、道徳的な健全さを養うことに役立つものであるとする考えである。.こうした立場から近代スポーツ(スポーツの歴史参照)の導入の必要は,まさにダグラスらイギリス海軍顧問団の教師たちに共通した意識であったろうし、また日本側教官たちが論議の結果欧米の海軍学校の例に倣うことにしたのも、そうした思想を容認したからであったと考えられるようだ。
1874(明治7)年1月に入学した沢鑑之丞は「英教師達が来着してから,兵学寮に於ける生徒の教育方法は、専らイギリス式に則り,ドーグラス(ダグラス)の進言に基いて追々規則を改正致しまして… 先づイギリス教師が第一に着眼いたしましたのは,体育上の不充分なることが原因で生徒の身体が余り強健でないから順次之を矯正しようということでありました。… 現在実施している馬術,剣道の修業等何れも結構であるが、もっと慰安、娯楽的のもの、例えばビリヤード(玉突き)フットボール(蹴球)クリケット等が適当であると注意いたしました。兵学寮幹部に於ても大いに賛成の上,直ちにビリヤードニ台を用意致しまして,北寮食堂に据付け,生徒に練習させたのであります」と回顧している。・・という。
こうして,海軍将校の養成に対してイギリス人教師によるイギリス式教育の適用の一環として近代スポーツの導入が図られた。それは,慰楽を基本的な欲求と認める人間観に基づくものであったが、同時に兵学寮において早くも近代スポーツが、生徒の規律・訓練の方法として把握されていることにも注意しなければならない.ようだ(※5)。
そして、競闘遊戯会には、兵学寮から海軍省に対して,軍楽隊の派遣他、水路寮測量生徒・ブリンクリー(砲術。後の海兵士官学校)生徒、そして軍医寮生徒の参加も要請し、まさに「海軍諸学校生徒」が参加して行われた。.
その時の競技内容としては、1874(明治7)年3月8日、当時の海軍卿勝安房(勝 海舟)から太政大臣三条実美宛てに提出された「兵学寮生徒等競闘興行之儀御届」が提出されているが、この届け出には「健康」増進に役立つという点からだけ説かれ、以前にダグラスが主張したような「慰楽」の必要という観点がここでは抜け落ちている。・・・という。
それは兎も角、同届けに添付されていた和文と英文各一通のプログラム(共闘競技表)が残っており、本文書の含まれる「公文録」は、平成10年に、国の重要文化財に指定されているそうだ。同プログラムは以下参照。
国立公文書館デジタルアーカイブ「競闘遊戯表」
この和文と英文のプログラムの番号には少々違いがあるが、和文プログラムは,第一場第一般から第九場第十八般まで競技種目を並べているが,各「般」の下に少し小さな活字で三,一,二,十三・・・と漢数字が並んでいる。これは、英文プログラムでの競技順序を示しているものであり、恐らくは,英文の案が先に出来,これを翻訳して和文プログラムを作るとき順序を変えたと考えられている。.主な変更は,徒競走を年少組から年長組へと順に並べたこと、観客(兵学寮関係者に限る)の飛び入りによる障害物競走を四番目と早くしたことである。
そして、競技種目名の翻訳において、 イギリス式の遊戯・スポーツが殆ど知られていなかった当時、英語の種目名を日本語に訳出するのには大変苦心したようで、沢は,これに関して「早速之(Athletic Sports-筆者)を実行せんと決定せられしも、是等遊戯は本邦に於ては未曾有の事柄なれば,海軍省の認可を得ざるべからず、依て其の訳名を要するにつき、時の英学教官錦織精之進、三輪光五郎(慶応義塾出身).服部章蔵の三氏,皇漢学教官松波直清、小林為文、山田養吉の三氏協議調査せられたるに… 競闘遊戯と訳名を決定せられ,各遊戯の名称に付ては直訳もおもしろからず、何とか優雅なるものとなすべしとて和漢両様の題目を撰ばれたり」と述べている・・・ことから、翻訳に際して英学教官の外,皇漢学教官も参加していたことが分かる。
この結果,和文プログラムで第一般 三「雀雛出巣」「すずめのすだち」のように和漢二つの名称があるのは国学・漢学の二学からつけられたからだと分かる.。また,和文のプログラムの下欄で競技法が解説されていても,理解しにくいものがあるが、英語名を見ると,それがいかなる競技であったかが判明する。.
第四般あけのからす「疾駆シ且ツ諸般ノ遊戯ヲ競闘・・」=13は、.障害物競走。第七般ふるだぬきのつぶてうち「毬ヲ投撃」=6は ,球投げ。第十一般かごのにげつる「其體ヲ毀ルコトナク・・急歩」=10は、.競歩。第十三般さぎのうをふみ「或ハ-脚ヲ塞シ或ハ大踏歩シ或ハ飛躍シ」=12は、.三段跳。第十五般うさぎのつきみ「躍ルコト三躍シテ以テ歩二代へ・・」=15は、 .立三段跳など。
上記の第七般Throwing the shotを『海軍兵学校沿革』に従って「球投げ」としているが、,これには疑問が残る。.和文の通りだとクリケットボール投げの可能性も考えられる・・という。
しかし、競技種目名はなかなか面白い和文表現だが、これだけでは、なかなか意味が分からないが、例えばプログラム  第一般 三「雀雛出巣」「すずめのすだち」の下段には、「十二歳以下ノ生徒ヲシテ百五十ヤードの距離ヲ疾駆セシム」と競技種目の説明があるので、これは、おおよそ、12歳以下の生徒の150ヤード走であることは理解できるだろう。
海軍学校『海軍兵学校沿革』第1巻大正8年にもとづく遊戯番付内容は、以下参考※7:「小学校の運動会に関する史的考察」にわかりやすく書かれているので、この方が種目の内容がわかりやすいので時間があれば目を通されるとよい。
1874(明治7)年3月8日勝安房(勝 海舟)から太政大臣三条実美に提出された「兵学寮生徒等競闘興行之儀御届」の届け内容では「健康」増進に役立つという点からだけが説かれており、以前にダグラスが主張したような「慰楽」の必要という観点が抜け落ちているようだが、プログラムの内容を見ると、一応「共闘」と「遊戯」を融合したイベントであったことはわかる。そして、この時の「競闘遊戯会」には、「景物表」が表示されており、競技により、商品が授与されていたようである。
この「競闘遊戯会」当初、3月11日に行われる予定であったが雨天のため16日へ順延する旨再届が出され許可されているが、定説では3月21日…となっているのが、よくわからない。どうしてだろう?よくわからないが、いずれにしても、実際には、この「競闘遊戯会」より、横須賀製鉄所で開催されたものの方が早いので、このことの詮索はやめよう。
いずれにしても、競闘遊戯会も横浜居留のイギリス人の初期の陸上競技会と同様に「共闘」と「遊戯」を融合した二重性の構造をもった競技として、近代陸上競技大会にもまた学校運動会にも分岐し,発達していく可能性を内包していたものであったとはいえる。この 「共闘遊戯」 を嚆矢と して, 類似の行事が各学校においても 次第に行われるよう になる。
例えば、 札幌農学校(現在の北海道大学の前身)は、アメリカより、外国人教師として来日したダビット・P・ペンハロー(David・Pearce・Penhallowの発案により1878(明治 11 ) 年に, 「遊戯会」 という行事を行っており, この 「遊戯会」 では, 石投げ, 玉投げ, 芋拾い競争, 幅跳び、 目隠し競争などが行われ, 数百人の見物人が集まったとされている(北海道大学、『北大百年史通説』 )。 その後, フレデリック・ウィリアム・ストレンジ(Frederick William Strange)の指導による、1882 (明治 15) 年の体操伝習所(東京府=現在の東京都千代田区に設立された体育教員・指導者の養成機関)による 「連合体操会」(※8参照)、そして、 翌1883(明治16)年には、神田一ツ橋.予備門校庭で開かれた予備門と東京大学三学部(法理文)合同の陸上競技会(後の東京大学運動会)の指導も行われた(ここ参照)。 なお,東京大学の陸上運動会では、 競争, 高飛び、 砲丸投げ、 棚飛び競争, 三脚競走、慰め競走(どのような競技かよくわからないが・・・)な どの種目が実施されたようだ。
このように明治7(1874 )年から10年代中ごろにかけて「運動会」の原型に当たる行事が行われるようになり、明治18年頃までは主として中等教育機関以上で運動会やそれに類する競技が行われていたようでそれには、体操伝習所が密接にかかわっていたようである。
今では、運動会では主力となっている小学校の運動会に目を向けると1884 (明治 17)
年には皆無であった小学校参加の運動会が, 1885(明治) 18年ごろからみられるようになり、 1886 (明治19)年には大幅に増加し、普及し始めたようである。
1885(明治18)年12月、内閣制度の創設と共に、伊藤内閣の初代文部大臣として森有礼が就任。国会の開設や憲法発布を間近かに控え、明治維新以来の政治変革が一段落を告げようとしている時、教育制度も一大改革が企てられ、新しい制度を完成させようとする段階にあった。
森有礼は、日本の発展・繁栄は、まず教育から築き上げなければならないとして、「諸学校を維持するもの畢竟国家の為なり」と述べている通り、彼の学校教育に関す方策はすべて国体主義の教育観によって貫かれていた。
そしてこれを実現するためには、1)文部省は簡単平易な教課書をつくり、人々の諷誦(ふうしょう)、又は講義に便ならしめる。2)陸軍省は体操練兵(【練兵】平時に、兵士に対して戦闘に必要な訓練をすること)の初歩を教える。3)これを戸長または毎所掌とし、区域内の人民を一月に一度或(あるい)は二度時間を限って学校に集め、聴講または運動に従事させるべきであるとしている。
森文相がこの軍隊式教育を師範学校において試みたことはよく知られている。このような軍隊式体育を実施しようとした精神は、次の「兵式体操に関する上奏文案」の中によく示されている。
「抑国家富強ハ忠君愛国ノ精神旺実スルヨリ来ル、故ニ文部ノ職ハ主トシテ此精神ヲ養成渙発スルノ責ニ当ラサルヘカラス、是ヲ以テ体育ノ切要ヲ認メ既ニ学科ニ加へサルナシト雖モ・・(中間略)・・以テ国家富強ノ長計ヲ固フセント欲セハ、第一中学校以上諸学校ノ教科時間ヲ割キ、乃チ休操ノ一科ハ文部ノ管理ヲ離レテ之ヲ陸軍省ノ施措ニ移シ、武官ヲ簡撰シ純然タル兵式体操ノ練習ヲ以テ之二任スルニ在リ、而シテ文部省ハ自ラ其事二染手スルコトナク単二陸軍ト妥議商籌スルニ止ムルトキハ、厳粛ナル規律ヲ励行シテ体育ノ発達ヲ致シ学生ヲシテ武毅順良ノ中二感化成長セシメ、以テ忠君愛国ノ精神ヲ涵養シ嘗艱忍難ノ気力ヲ換発セシメ、他日人ト成リ徴サレテ兵トナルニ於テハ其効果ノ著シキモノアラン」
森文相のこの考え方に基づき、師範学校の教育には全面的に軍隊式教育が取り入れられたが、また小学校、中学校にも「兵式体操」が採用されている。1886(明治19)年における諸学校令(「小学校令」「中学校令」など)が公布された。それによって我が国の全国の学校教育は厳格に統轄され、小・中学校等の制度の基礎も確立された(参考※9:「文部科学省HPの森文相と諸学校令の公布参照)。
学校行事のなかで、もっとも広く地域住民をまきこんで行われた小学校の運動会も、この翌・1887(明治20)年以降に各地で行われはじめた。初期の運動会は、「遠行運動」とも呼ばれ、分隊旗を立て二列に聯隊して、歩々足を整へて進み、目的地に向かい到着した場所で体操、 競争, 擬戦、,球なげなどさまざまな競技を行うものであった。当時は、このよ う な遠足と運動会の内容を併せ持った行事を運動会と称する場合も少なく なかったようである。学校儀式をとおして国家意識の形成をめざした森有礼は、身体活動を重視し、中学校・師範学校で兵式体操を推進したが、初期の運動会も軍隊の行軍や演習をモデルとして開始され、その娯楽性から小学校にも急速に広まり、多くの参観者を集めたようだ。当時の実施形態には 学校の単独開催や地域の各小学校の合同開催の他, 運動会の萌芽期にあっては、こう した小学校のみの合同という形態はそれほど多くなく、地域の県立学校と小学校が合同で実施したりするケースが多かったようである。

スポーツライター玉木正之氏の公式WEBサイト(※10)の、タマキの蔵出しコラム・音楽編日本人の遊び心には、以下のように書いてある。
森文部大臣は、横浜の外国人租界地で行われた陸上競技会を見物して体育教育に有効と判断し、全国の小中学校で運動会を催すよう訓令を発したのだった。
しかし、命令を出された方は、大いに困惑した。なにしろ教育制度が定まったばかりの時代だから、運動場なんていう施設はなかった。困った学校関係者は、いくつかの学校で話し合い、合同で神社や寺の境内を借りて運動会を開催することを考えた。ただし、場所を借りるためには、氏子や檀家という神社やお寺と関わりのある地域の人々の許可が必要になる。そのため、生徒がただ競走するだけでなく、氏子や檀家も一緒に参加してもらおうということで、彼らが参加できるような競技を考える必要が生じた。今でいうなら「住民参加」である。そして考え出されたのが、どんな人でも楽しめる娯楽性の高いパン食い競走や大玉転がし(中には、ブタ追い競走というのもあった)だった。
さらに、どうせ神社やお寺でイベントを行うなら、夏祭りや秋祭りも一緒にしてしまおう、ということになり、中央に櫓を組み、盆踊りや豊年満作踊りなども運動会でするようになった。これがフォークダンスのルーツである。つまり、運動会は、参加するすべての人々のためのお祭りだったのである。また、運動会の会場が家から離れている場合が多いということもあって、遠足という要素も混じった。そして、お弁当を作るという習慣ができたのである。
では、騎馬戦や棒倒しはどうして始まっただろうか?
それは、国会が無かった時代に国会を開くことや憲法を作ることを主張した政治運動=自由民権運動がルーツであった。当時は政府の力が強く、自由民権運動が激しく弾圧された時代で、政府に反対する自由民権の志士たちは、意見を堂々と言うことができず、街中で演説することもデモ行進をすることも集会を開くことも法律で禁止されていた。
そこで、自由民権運動の壮士たちは、自分たちの主張をどのようにして聞いてもらおうかと考え、運動会に目をつけた。「最近流行の運動会をするのなら、演説でもないし、デモでもないから弾圧されないだろう」と。そして、「壮士運動会」と称するイベントを開催し、そこで「政権争奪騎馬戦」「圧政棒倒し」「自由の旗奪い合い」といった競技を創り出した。騎馬戦は、だれが政治のリーダーになるかを競う姿をゲームにしたものであり、棒倒しは当時の政府を倒す意味をこめて棒を倒すものだった。つまり、すべては競技にまぎれて彼らの言い分を国民に聞いてもらうためのものだった。
さらに、その合間にデモを行い、「議会をつくれ」「政府反対」とか言いながら、民選議会(国会)の設立を訴えたり(民撰議院設立建白書参照)、薩長藩閥内閣の打倒を叫んだりした。そのデモンストレーションが、のちに仮装行列に変わったのである。
それら2種類の運動会が混ざり合い、現在の運動会に発展した。運動会は、日本人の豊かな遊び心が創りあげたものなのである。
ちなみに、「玉入れれ」はバスケットボールを、「障害物競走」はイギリス発祥の乗馬障害レースをアレンジしたものである。また、「綱引き」は、豊作や豊漁を祝うための地域行事が形を変えた種目だった。
それら二種類の運動会が混ざり合い、現在の運動会に発展したのだが、この運動会の歴史は、日本人の豊かな遊び心が創りあげたもの、といえるのである。」・・・と。
確かに日本の運動会は楽しい。しかし、私が中学校の時、中学校は有馬男爵邸跡地に建てられた木造校舎であったが自慢は校舎の周りの大庭園であった。庭園には小川が流れ四季の花々が咲き、春などは、桜の木のある小川の前で弁当を食べるのが本当に楽しかった。しかし、立派な庭園がある代わりに、運動場が狭すぎて、授業での体育ぐらいはできても運動会などできなくて、運動会は、市民球場を借り上げてしていたが、運動会の種目には一般でしているような楽しめる種目はなく、やり投げや円盤投げ、走り幅跳びといったまるで、国体か、オリンピックをしているようなスポーツ競技であった。当時、神戸の市立中学ではモデル校としていろいろ他校の先生たちがしょっちゅう参観に来ていた学校ではあるが、運動会が面白くなかったことだけはいまだによく覚えている。
この一般の楽しい運動会、企業でも、親睦を深めるために行っており、私が現役の若いころには、和気あいあいと楽しみ盛んであったが、年代を重ねて後半には、社員旅行と同様、に近ごろの若者には、「自分の時間を大切にしたい」と参加をしたがらないものが多くなり、自由参加の形にしていると、半数近くは不参加という感じであった。
先に述べた「ニュースウォッチ9」の報道の中では、ナレーションで
「日本の運動会は、必ずしも体力の優劣を競う場ではありません。」
「学校だけでなく、地域ぐるみで行われ、世代を超えた交流の場でもありました。」・・・と、過去形で話しているのが実にさみしい。阪神・淡路大震災や、東日本大震災、はたまた、幼児殺しの犯罪や、ストーカー事件などがあると、地域の絆が言われるが、基本的に、今の時代は自己中心主義が広まっており、人と人との接触を嫌っている。今の時代の犬や猫などの異常なほどのペットブームもそのようなところから生まれた孤独感から起こっているものだろう。
それとナレーションで「日本の運動会は、必ずしも体力の優劣を競う場ではありません。」・・と言っていることについては、小学校や、中学校・高等学校、および特別支援学校などの運動会は、学習指導要領における「特別活動」であるが、以下参考の※11:「「運動会」を通して育てる力 - 教育委員会」には、「学習指導要領では、運動会は、特別活動の学校行事「健康安全・体育的行事」に位置づけられています。その内容は「心身の健全な発達や健康の保持増進などについての関心を高め,安全な行動や規律ある集団行動の体得,運動に親しむ態度の育成,責任感や連帯感の涵養,体力の向上などに資するような活動を行うこと。」とあります。これをふまえて、「運動会」という行事を考えてみると、勝つために全力を尽くす。
全力でがんばる力、団結力・連帯感、体力の向上、フェアプレーの精神、勝敗への正しい態度等「集団で勝敗を競う体育的行事」であるのですから、ぜひ勝敗にこだわってほしいと思います。」・・・と書かれている。
2012年ロンドンオリンピックで、日本中が感動したのは、サッカーにしろ、バレーボールにしろ、勝利を目指してあきらめずに全力で戦う選手達の姿に対してである。勝負よりも参加することに意義があるという姿勢で選手がのぞんでいたらあれほどの感動は無いだろうと思う。運動会でも同様で、他色には絶対に勝つ、○組には絶対に負けない、という強い気持ちがあるからこそ、全力で走り、力を出し切ることができるし、運動会前の練習にも真剣に取り組むことができる。
フェアプレーの精神は大事だが、勝負をする以上勝つための努力をしない限り.成長はないだろう。その結果負けても、学ぶことは多いはずである。私もそう思うのだが・・・。

参考:
※1:NHKオンラインー.NW9-ニュースウオッチ9そのニュース、核心はどこだ。
http://www9.nhk.or.jp/nw9/
※2:世界へ輸出 日本の“UNDOKAI(運動会)” - NHK 特集まるごと
http://www9.nhk.or.jp/nw9/marugoto/2015/02/0224.html
※3:JAPAN SPORT COUNCIL 日本スポーツ振興センター
http://www.jpnsport.go.jp/
※4:運動会屋
http://www.udkya.com/
※5:海軍兵学寮の競闘遊戯会に関する一考察 - J-Stage(Adobe PDF)
https://www.jstage.jst.go.jp/article/kyoiku1932/63/2/63_2_129/_pdf
※6:横須賀製鉄所(造船所)特集ページ|横須賀市
https://www.city.yokosuka.kanagawa.jp/0130/seitetsuzyo/main.html
※7:小学校の運動会に関する史的考察(Adobe PDF) - htmlで見る
https://dspace.wul.waseda.ac.jp/dspace/bitstream/2065/5902/1/KJ00004251338.pdf#search='%E9%81%8B%E5%8B%95%E4%BC%9A+%E8%B5%B7%E6%BA%90'
※8:体操伝習所 - 筑波大学附属図書館(Adobe PDF)
https://www.tulips.tsukuba.ac.jp/exhibition/shintai-to-yugi/catalog.pdf#search='%E7%AD%91%E6%B3%A2%E5%A4%A7%E5%AD%A6+++%E3%81%93%E3%81%93%E3%81%A7%E3%81%AF%E3%80%81%E4%BD%93%E6%93%8D%E6%89%80%E3%81%AB%E6%9C%B1%E7%AD%86%E3%81%A7%E3%80%8C%E4%BC%9D%E7%BF%92%E3%80%8D%E3%81%AE%E4%BA%8C%E5%AD%97%E3%82%92%E6%9B%B8%E3%81%8D%E5%8A%A0%E3%81%88%E3%80%8C%E4%BD%93%E6%93%8D%E4%BC%9D%E7%BF%92%E6%89%80%E3%80%8D%E3%81%A8%E8%A8%82%E6%AD%A3%E3%81%97%E3%81%9F'
※9:文部科学省ホームページ
http://www.mext.go.jp/
※10:玉木正之公式WEBサイト
http://www.tamakimasayuki.com/index.htm
※11:「運動会」を通して育てる力 - 教育委員会(Adobe PDF)
http://www.sch.kawaguchi.saitama.jp/aokikita-e/tusinkoutyou/tusin14.pdf#search='%E5%AD%A6%E7%BF%92%E6%8C%87%E5%B0%8E%E8%A6%81%E9%A0%98++%E9%81%8B%E5%8B%95%E4%BC%9A'
運動会ー Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%8B%E5%8B%95%E4%BC%9A

最澄と空海が遣唐使として入唐

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奈良時代も終焉を迎えようとしていた延暦13年(794年)、都は奈良から京都(長岡京)へ移った。平安時代の始まりである。同時に仏教界にも新しい胎動が起る。
平安時代になって新しい仏教(平安仏教)のあり方を切り開いた人物として挙げられるのが、遷都10年後の、延暦23年3月28日(新暦804年5月11日)、桓武天皇の命を受けた遣唐大使藤原葛野麻呂の遣唐船に乗り、へ渡り、大陸の新知識を持ち帰った2人の僧最澄空海である。
最澄は、天台山へ赴き湛然の弟子の道邃等について天台教学を学び、さらにや、密教順暁から)をも相承し、翌・延暦24年(805年)5月、帰路の途中和田岬(神戸市)に上陸し、最初の密教教化霊場である能福護国密寺を開創している。翌・大同元年(806年)1月には、上表(君主に意見書を奉ること。)により日本に天台宗を開宗。
もう1人の、留学生(るがくしょう。留学期間20年の予定)空海は、大使の一行とともに長安に向かう。
しかし、空海の乗った第1船(最澄は第2船)は、途中で嵐にあい大きく航路を逸れて延暦23年(804年)8月10日、福州長渓県赤岸鎮(現在の福州市から北へ約250キロに位置する海岸)に漂着。海賊の嫌疑をかけられ、長安に入れたのは、12月23日のことだったという。
長安では、寄宿先の西明寺を訪れた後、空海が、まず最初に師事したのは、醴泉寺(れいせんじ).の印度僧般若三蔵(原名:プラジャニャー。般若は漢名。※4及び三蔵も参照)であった。ここでは、密教を学ぶために約43ヶ月近い時間を必須の梵語(サンスクリット)に磨きをかけたものと考えられている。空海はこの般若三蔵から梵語の経本や新訳経典を与えられている。
そして、5月になると空海は、密教の第七祖である青龍寺で、不空の弟子に当たる恵果を訪ね、以降約半年にわたって師事し、密教の奥旨(おうし。奥義)を受けると、大同元年(806年)10月、在唐2年余の短期で帰国し大宰府に滞在する。
空海は、10月22日付で朝廷に『請来目録』(唐から請来した典籍・物品の目録。※5参照))を提出。唐から空海が持ち帰ったものは『請来目録』によれば、多数の経典類(新訳の経論[〘仏〙 仏の教えを記したと、経の注釈書である]等216部461巻)、両部大曼荼羅、祖師図、密教法具、阿闍梨付属物等々膨大なものであったという。当然、この目録に載っていない私的なものも別に数多くあったと考えられている。ただ、空海は、帰国後2年ほどは大宰府・観世音寺に止住している。これを、20年の留学を2年で切り上げた「闕期(けっき)の罪」による謹慎蟄居とする説もあるようだが、この年3月、桓武天皇が崩御し、平城天皇が即位しているのをみると、実際は、桓武天皇の崩御にともなう京の政情不安や、先に帰国した最澄の動きを見極める。又、密教理論を整理し日本の風土に合ったものに再構築する作業などに時間を必要としたのではないかとする説もあるようだ。
最澄に期待をかけて派遣した桓武天皇だが、最澄の帰国後半年余りで亡くなったことから、天台を中心とした新しい仏教を日本に根付かせようとした最澄は、最も重要な保護者を失うこととなった。そのため、その後は、比叡山を天台宗の拠点にして延暦寺の充実に努めた。しかし、当時、国家の統制のもとで、僧の身分を認可する権限は朝廷と結びついた南都の寺院勢力が握っており、最澄が新しい仏教の権威を高めるための公的な僧としての身分を認可する施設としての戒壇を天台宗として新設することを望んでも、それは、仏教に対する政策の基本を揺るがすものであるため南都の大寺院の反対が激しく天台僧のたび重なる要求が認められたのは、最澄の没後のことであった。
桓武天皇の後、平安時代初頭の政治は不安定な状態が続いたが、治世が短期に終わった平城天皇の後を継いで即位した嵯峨天皇は、中国の文化に対する強い関心を抱き、唐風を重んじていたこともあり、空海は、儒学の修学から転じて仏教に入り多彩な知識を持っていたことから、密教ばかりでなく詩文や書などの面でも天皇に重んじられることとなる。
空海は、南都の仏教勢力とも協調的な立場をとり、東大寺に真言院(※6参照)を建てるなど大寺院に入り込む形で、密教を広めていった(薬子の変も参照)。空海は、はじめ和気氏の私寺であった高雄山寺(神護寺)を真言宗の拠点としたが、後、平安京羅城門の東に建てられた東寺(公称は「教王護国寺」)を委ねられ、ここを中心に、多彩な活動を繰り広げた。また、東大寺や大安寺の中心的立場に立ち、弘仁7年(816年)には、修禅(座禅観法を修めること。修禅定)の道場として高野山の下賜を請い同年、下賜する旨勅許を賜り、翌・弘仁8年(817年)、高野山の開創に着手。弘仁10年(819年)春には七里四方に結界を結び、伽藍建立に着手した。弘仁14年(823年)正月には、東寺を賜り、真言密教の道場とした。
後に天台宗の密教を台密、対して東寺の密教を東密と呼ぶようになり、その後、真言密教の根本道場として栄えた。
空海は、承和2年(835年)2月30日に高野山・金剛峯寺定額寺となった直後の、3月15日、高野山奥の院で弟子達に遺告(原文※7 、現代語訳は※8 参照)を与えた上、3月21日に入定したが、都から遠いこの山は、当時、人々の往来も少なく、真言宗の中心として大きな力を持っていた京都の東寺の支配下に属していた。
ところが、平安時代の中期に入る頃から、空海の入定に対する信仰が広まり、弘法大師信仰が広く受け入れられるようになると、高野詣でが盛んになり、藤原道長頼通白川鳥羽後白河三上皇をはじめ参詣者が跡を絶たないありさまとなった。
高野山には荘園が寄贈され、山上の平地ばかりではなく、谷々に僧坊や草庵が建てられ、別所もつくられるようになった。とはいえ、比叡山に比すべくも無いが、高野山も複雑な組織を持つ大寺院に発展し、中世に入るとさらに、庶民の信仰を集め、高野聖が諸国を巡るようになった。

最澄は、近江国(滋賀県)滋賀郡古市郷(現在の大津市)に住む、後漢の考献帝の末裔(真偽は不明)である三津首 百枝(みつのおびともえ)の子として、生まれ、幼名を「広野(ひろの)」といった。生年に関しては天平神護2年(766年)とする説があるようだから、年代等は以降これを基準とする。
宝亀9年(778年)、少年広野は12才のとき近江の国分寺に入って仏教を学び始め。行表を師として出家した。宝亀11年(780年)、14歳のとき国分寺僧補欠として11月12日に得度し、名を最澄と改め、延暦2年(783年)、17歳のとき正式な僧侶の証明である度縁の交付を受ける。
延暦4年(785年)、19 才のとき南都に赴いて、東大寺戒壇院具足戒を受け国家公認の僧となった。ところが、間もない同年7月、最長は、飄然と故郷に帰り比叡山に登って、思索と山林修行の生活に入ってしまった。
そして、延暦7年(788年)、22歳の時、南都仏教に見切りをつけ山上の倒木を切って薬師如来を刻みそれを本尊とする草庵、一乗止観院(現在の総本堂・根本中堂)を創建してそれを比叡山寺と名付けた。
以後十数年にわたる修行が続き、延暦21年(802年)36歳の時、高雄山寺(神護寺)で開かれた法華経を解く講和(法華会)で自説を発表した最長は、桓武天皇に知られるところとなり、新進の学僧として認められ、その年に決まった遣唐使の一行の還学生(げんがくしょう、短期留学生)に選ばれ、入することになったのであった。

平安仏教の開幕に主役として登場したもう一方の空海は、一般的には、現・香川県である讃岐国多度郡弘田郷(現在の善通寺市弘田町)でこの土地の郡司である、父佐伯直田公(さえきのあたいたぎみ)の子として宝亀5年(774年)に生まれた。母は氏族である阿刀氏出身の阿刀大足の娘(阿古屋)。幼名は真魚(まお)とされている。
しかし、この時代は妻問婚の時代であり、幼年期は母の里で過ごしたものと思われ、生誕地を阿刀氏(阿刀宿禰)の本貫地(一所懸命の土地)、河内國渋川郡跡部郷(阿刀郷)とする説がある(※1、※2のもうひとつの空海伝 まえがき 参照)。
真言宗の伝承では空海の誕生日を6月15日とするが、これは中国密教の大成者である不空三蔵の入滅の日であり、空海が不空の生まれ変わりとする伝承によるもので、正確な誕生日は不明だそうである。
延暦7年(788年)平城京に上り、母型の叔父である中央佐伯氏の佐伯今毛人が建てた氏寺の佐伯院(※3のここ参照)に滞在。延暦8年(789年)、15歳で桓武天皇の皇子伊予親王の家庭教師であった母方の舅である阿刀大足について儒学を学ぶなど、真魚は佐伯一族の期待を一身に受け、非常に高い教育を受けていたようだ。
そして、延暦11年(792年)、18歳で、大学寮(正式には「平城京式部省大学寮」という)に進んで、律令国家のしくみや法令を学ぶべく、律令官人の学問の中心の科目明経道を修めた。ここでは、中国の律令周易』『尚書』『三礼』『毛詩』(詩経の異称)、『春秋左氏伝』『孝経』『論語』などの注釈をひたすら暗記し、抜群の記憶力をもつ真魚はこの程度の内容に飽き足らず、『文選』などの詩文にも手を出し、浄村浄豊(阿刀大足とともに伊予親王の侍講師)らから唐語(からことば)会話を学び、臨書(手本とそっくりに書くこと。書道)にも親しんだという。
大学寮は、律令制で式部省に属する官吏養成機関であり、国家の経営に役立つ優秀な官僚を育成するのが役割だった。真魚は、そんな大学で明経道科に席をおいていた。明経科は特に上級官吏の養成機関と言えるもので、入学を許可された学生はほとんどが五位以上の高級官吏か貴族の子弟であった。
真魚の父佐伯直田公は、讃岐国多度郡の郡司で、無冠ではあったものの、佐伯氏は豪族の大伴氏と同族関係とされている。また、伯父の阿刀大足が従五位下だったのと、伊予親王の侍講だったので、その口ききで大学にも入学できたようだ。
そんな、真魚が大学在学中に、一人の沙門に会って以来、突然、将来を約束された高級官僚への道を断ち、わずか1年で大学を去り、乞食同然の私度僧(律令制下、定められた官許を受けることなく出家した僧尼。得度参照)となって“山林出家”の道に飛び込んでゆくのである。
ここで気づくのは、平安仏教を切り開いた二人の主役最澄・空海がいずれも、奈良の都や大和の平地に甍(いらか)を競う大寺院の僧坊に籠らず、それまでに築き上げたすべてを、投げうって山林出家をしたことである。つまり、ドロップアウトしているのである。
最澄は僧侶になって間もなく、法華経などの研究に没頭し、比叡山にこもってしまったが、空海も大学を離れ、すべてを投げ打ってに籠り、仏教の厳しい修行に入っている。そしてその間の体験によって797年、24歳のとき,『聾瞽指帰(ろうこしいき)』(後に『三教指帰(さんごうしいき)』として書き改められている。※9のここ参照)を著し、入唐(にっとう)直前31歳の時に東大寺戒壇院で得度受戒し、最澄らと共に遣唐使に従って留学するのだが・・・・・(得度時期は数節あるようだがもっとも一般的な事例に従っている)。
最澄はこの時期すでに天皇の護持僧である内供奉十禅師の一人に任命されており、当時の仏教界に確固たる地位を築いていたが、入唐直前までまったく無名の一私度僧であった空海(真魚)が突然留学僧として浮上する過程は、資料(史料)も少なく、断片的で不明な点が多く、今日なお謎を残しているようだ。それにしても、空海(真魚)に絶大な期待をよせていた両親や一族の落胆はいかばかりであったろうか。
若い時代の空海を知る上で信頼できる資料(史料)としては、後日『聾瞽指帰』を書き改めたと考えられる『三教指帰』に頼らざるを得ないだろう。『三教指帰』の内容は序と上,中,下に分かれる。草稿本の『聾瞽指帰』とは序文と巻末の部分が違うようで、この部分は、表題を変更した際、改編・加筆したもののようで、或いは真実ではないところがあるかもしれない。
序文では自伝を述べ、出家を宣言する。ある修行僧より虚空蔵求聞持法求聞持法を教示され、 阿波の大滝嶽(現在の太竜寺山付近)や土佐の室戸岬吉野金峰山伊予石鎚山などで山林修行を重ねて効験を得たとある。

“蛭牙公子(しつがこうし)という芳醇な青年貴族がいた。遊び暮らしている公子の保護者の兎角公(とかくこう)は、公子の将来を案じて儒客の亀毛先生(きぼう)先生を招き、公子の教導を乞うた。亀毛先生の教えはまことにもっともで、公子は先生の教えに従おうとする。ところがたまたまその席にいた虚亡隠士(きょぼういんし)が、先生の教えに反駁(はんぱく。他人の主張や批判に対して論じ返すこと。反論)し、老荘の道こそ心理であると説いたので、同席の者は皆隠士をほめ讃えた。するとそこに仮名乞児(かめいこつじ)があらわれ、仏教が究極の教えであることを述べたので、人々はその教えに心服し、公子はその言葉を信じて仏道に入る。”

これが上,中,下に分かれる『三教指帰』の粗筋である。蛭の牙や兎の角はありえないものであるから、登場人物はすべて架空であることはすぐわかるが、儒教の立身出世の道を説く儒教学者亀毛先生は、空海の叔父阿刀大足をモデルとしているようだ。また、仮名乞児は空海の自画像と思われる。
当時仏教は、先進的な外来文化として受け入れられたから、僧はひたすら仏典の解読に務め、儀礼(礼に関する儒教の経書のひとつ)の修得に励むべきものと考えられていた。専門的に仏教を学ぶ僧にとって、仏教は疑う余地のないものであって、仏教を儒教・老荘思想(老荘思想が最上の物とするのは「」であるが、道教とした時期もあった。道教の概要のところを参照)などと比較し、その目的とする所がどのように違っているのかを考えることはまれであった。しかし、空海は、儒教・道教・仏教の三教を比較検討して、仏教の教えが最善であるとして、仏教を選び取った。
仏教が日本に伝えられて2世紀(仏教伝来は、日本書紀によると552年。元興寺縁起などでは538年。仏教公伝参照)が過ぎて、仏教とはなにか、僧は如何にあるべきかといった問題が、日本の僧として考えなければならない問題として浮かびあがってきたのである。
しかし、平安時代初期における空海、嵯峨天皇、橘逸勢のいわゆる三筆時代(平安時代の能書のうちで最もすぐれた3人)には、まだあげて漢詩文旺盛の中国崇拝が基本的精神であったから、自然に流出する日本的なものは別として、三蹟時代のような和やかな和様は発達しておらず、日本語はまだ十分に確立されていなかった。
当時、仮名はまだなく、経の読み方も漢音か呉音か定まっていなかったのだ。その中で、空海は、既に、唐語と梵語をマスターするとともに、大学で習った中国の経書類の『注』の多くを占めていた後漢の儒者・鄭玄訓詁学(解釈学)も同時に飲み込んでいた。つまり、漢籍の思想の内容を研究するだけではなく、暗記し大意をつかんでいた。空海はひとつの武器「言語の力」を持っていたのだ。
そのような彼の思索力や構想力、 いわば「考える知」「まとめる知」の成果が、この時期大きく成長していたからこそ、その知がいかんなく発揮され、四六駢儷体(駢文参照)が華麗に飛び交うレーゼドラマ『三教指帰』が出来上がったのだろう。徹底的にカリカチュアした登場人物をユーモラスに動かしながら、儒教・道教・仏教を比較し、仏教の優位性を浮かび上がらせている。文中には故事が数限りなく引用され、膨大な漢詩漢文と仏教経典の集積のもとに作品は成り立っている本書は、若い空海が戯曲のような構成で書いた思想批判の書であり、わが国漢文学史上の白眉(はくび)とされている(※10参照)。
そもそも空海が奈良に来て注目したのは華厳経(『大方広仏華厳経』)であったという。しかし当時の華厳経は、東大寺(総国分寺=全国に置かれた国分寺を総轄した 寺)の中心経典のようなものであったが、その教理をあきらかにできる学僧を欠いていた。
空海が華厳の教理にめざめるのは長安で般若三蔵らに出会えてからである。けれども空海は、早くから華厳の世界観には注目していたようで、この予測こそ鋭かった。
ほかにも空海が注目したものが雑密(ぞうみつ)で、のちに純密と区別して中国から流れこんできた雑多な初期密教経典のことをいう(密教参照)。そもそも東大寺の別当となった良弁(ろうべん)がこの雑密の修行者だった。空海はそのことを知って、華厳と密教はどこかでつながりがあるにちがいないと察知したにちがいない。
そこへ持ってきて、このころの日本の仏教は、奈良末期の混乱のなかでひたすら威信にすがったり、いたずらに快楽や安寧を求めるだけのものになっていて、とうてい「意識の高次化」などを構想するべきプログラムもなく、また、そのような修行を体験させる場もなくなっていた。
それに、政治の舞台も平城京から長岡京に移り、さらに山城(山背)の平安京に移転しようとしていた。そこへもってきて、あの大伴家持が失脚した。大伴氏は佐伯氏とともにコトダマ(言霊)一族につらなる名家で、互いにトモ氏・サヘキ氏とよびあう仲であった(※8のここ照)。
そのトモの首領の家持が左遷させられた。これはおちおちなどしていられない。
一方、大学では、明経科の学生に呉音を禁じて漢音だけを使うようにという強い指示が出た。言葉に敏感な空海には、これは何かの大きな変化の前触れに見えた。さらに青年たちが奈良を離れて山林に修行しているという動きが目立ってきた。、なかでも、最澄という青年僧が山城の鬼門にあたる比叡の山中に一乗止観院(延暦寺の古称)という庵を組んだことは無視できない。
この様なことを考えると、何も窮屈で貧弱な大学や宮都にとどまっている必要はない。若き空海が山林修行に賭けたのは、こうした旧仏教との決別の方法だったようだ。
空海はめぼしい情報を集め、大安寺戒明三論宗勤操を訪ねて、時代の変化や仏教の行方を組み立てる。けれど、そういうことをしても埒はあきそうもない・・・ということで、ついに空海はドロップアウトを決意し、大学を捨て、山林に飛びこむことにしたようだ。
そんな中、堕落した奈良の都から、京都に都を遷した桓武天皇も、新しい宗教とスターが必要だと考えていた。そこで、比叡山にいた最澄の噂を聞きつけるや、朝廷の重要な役職に任命し、天台宗を開く事を認めた。一度、ドロップアウトした最澄が、再び主流に戻ってきたのであった。
そして、それぞれ厳しい仏教修行を重ねた最澄と空海の二人が、やがて共通の思いを抱き、唐に行くことを決意した。
当時の唐は様々な文化の最先端であり、日本は遣唐使を通じて、新しい仏教を学んでいた。日本にいただけでは仏教を極めるのに限界を感じた最澄と空海。これまで接点のなかった二人が、奇しくも同じ遣唐使の一員として唐へ向かうことになった。延暦23年(804年)、最澄38歳、空海31歳の時である。
この頃、桓武天皇に認められていた最澄は、旅費もすべて無料、しかも通訳付きの特別待遇の還学生(げんがくしょう=1年ほどで日本へ帰ってくることが出来る学生)であったが、一方、まだ無名だった空海は、長期滞在が義務づけられたその他大勢の留学僧(20年間は「日本へ帰ってくることが出来ない学生」だった。そんな空海が、長期間の留学費用をどのように調達したのかは、今だに謎に包まれているという。
しかし、その空海は、2年あまりの期間で、当時最先端の「密教」を最高権威の僧侶より教授できたのは、先にも書いた彼のたぐいまれなる語学力によるところであった。そして、密教の教典や曼荼羅などのお宝を持って帰ってくるという驚異的な活躍を見せた。
一方の最澄は視察目的の短期留学僧であったため、当時主流だった天台宗の奥義をマスターしたものの、当時流行の密教に関しては、不完全なまま1年足らずで返ってきた。
二人が帰国後、最澄を信任していた桓武天皇が亡くなり、嵯峨天皇が即位すると、嵯峨天皇は、当時流行していた密教をマスターした空海に、仏教で国家を護る役目を任せることにした。その名を天下に広めた空海は、エリート最澄に、ついに並んだのである。
このようにして、新しい課題に正面から取り組んだのが最澄と空海であった。最澄は平安時代の日本に最も必要な仏教はいかなる仏教であり、僧は如何にあるべきかを考え、高い理想を追い続けた。また空海は、当時の日本にあった学問・思想の中で、仏教こそあらゆるものを包み込むことのできるものであると考え、その教えとして密教を宣揚(専用。広く世の中にはっきりと示すこと)した。
外来の思想・宗教である仏教は平安時代に入って、宗教としての性格を強め、世俗の世界に対して、高い権威を主張するようになった。そしてこの仏教はその拠点を都とその周辺にではなく山に築くようになった。
山は神祇信仰の神域であったから、山に入った修行者は土着の雑多な信仰と接し、それを組み込むことによって日本における仏教の位置を考えようとした。こうして仏教は日本化してゆくための模索が始まった。
最澄や空海が山中に築いた仏の世界は、それが多くの堂塔(寺院参照)を持つ寺院として出現した時、当初の願いや構想から外れた道を歩み始めた。
山中の寺院は複雑な組織に発展しその維持と管理を巡る争いは寺院の内部を世俗化させて行った。又、貴族が仏教と多面的なつながりを持つようになると、都の周辺には、貴族の私寺が次々に建てられ、日本化した仏教と結びついた貴族文化が生まれることになった。
さて、寺院が複雑な組織を持つようになると、僧の間でも階層の文化が始まり、さらに学統や法流などによってさまざまな流派ができて、勢力争いが日常化した。また、寺院の中には武装した集団も現れて、寺内の争いは、俗世間の権力争いと結びつき、大臣の動向は政治の帰趨に係るようになった。世俗的な争いに明け暮れる僧が増える一方、そうした寺院の外では修業に務め、人々を救うために活動する僧が多くなっていった。
山と寺と、そこで活動する僧を支えていたのは貴族社会であったが、貴族たちが仏教に求めたのは、先ず第一に、国家の安泰と五穀の豊穣であった。また、仏教の呪的な力に期待して、大寺院の僧に、反乱の鎮定や怨霊の調伏、祈雨や止雨の祈祷を求め、更に個人的な病気の平癒や安産などの祈りを求めた。
貴族社会の停滞が明らかになり、貴族たちの間に現世に対する不安が強くなると、それに応じて浄土への往生を説く僧があらわれた。
現世的なものの考え方をしていた貴族の間に、來性への関心が生まれ、自己の救いを願う貴族は、内省的な個人意識を持つようになった。
そして、貴族社会で内省的な思想を生み出す力となった仏教は、民間で活躍するさまざまな宗教者の教えを引き付けながら鎌倉時代に入って新しい思想・宗教を生み出すことになる。

参考:
※1:国立会図書館貴重書展:展示No.9 〔新請来経等目録〕
http://www.ndl.go.jp/exhibit/50/html/catalog/c009-001-l.html
※2:重要文化財|弘法大師二十五箇条遺告|奈良国立博物館
http://www.narahaku.go.jp/collection/d-1122-0-1.html
※3:弘法大師空海 25箇条 御遺告
http://www1.plala.or.jp/eiji/GOYHUKOKU.htm
※4:密教伝承
http://www.h5.dion.ne.jp/~kame33/kame8.htm
※5:【空海に迫る(上)】空海「畿内生誕説」の根拠
http://www.sankei.com/west/news/140426/wst1404260082-n1.html
※6:奈良の寺社: 東大寺・真言院
http://narajisya.blog.eonet.jp/mahoroba/2007/04/post-5876.html
※7 ;吉野へようこそ
http://www.yasaka.org/
※8 :エンサイクロペディア:空海
http://www.mikkyo21f.gr.jp/
※9:高野山と弘法大師空海上人、真言密教
http://www.1-em.net/sampo/kukai/index_index.htm
※10:松岡正剛の千夜千冊『三教指帰・性霊集』
http://1000ya.isis.ne.jp/0750.html

KOBE JAZZ DAY 4/4 (参考)

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参考:
※1:神戸市民文化振興財団
http://www.kobe-bunka.jp/
※2:神戸ジャズストリート(公式サイト)
http://www.kobejazzstreet.gr.jp/
※3:ジャズににまつわる話
http://ozsons.jp/jindex.htm
※4:Jazzとは (ジャズとは) [単語記事] - ニコニコ大百科
http://dic.nicovideo.jp/a/jazz
※5:ハタノ・オーケストラの実態と功績 - お茶の水女子大学教育・研究成果 ...(Adobe PDF)
http://teapot.lib.ocha.ac.jp/ocha/bitstream/10083/4689/1/KJ00004858007.pdf#search='%E6%B3%A2%E5%A4%9A%E9%87%8E+%E6%97%A5%E9%9F%BF+%E3%82%AA%E3%83%BC%E3%82%B1%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%A9'
※6:井田一郎
http://www.geocities.jp/nipp17734/ida.htm
※7:日本ジャズ史-その黎明の時代
http://www5e.biglobe.ne.jp/~spkmas/sub10.html
※8:二木紘三のうた物語
http://duarbo.air-nifty.com/songs/
※9:エノケンさんに 会いにゆこう! - 国立音楽大学附属図書館(Adobe PDF)
https://www.lib.kunitachi.ac.jp/tenji/2004/tenji0411.pdf#search='%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%82%BA+%E3%82%A8%E3%83%8E%E3%82%B1%E3%83%B3'
※10:エノケンのレコード集 ポリドール時代の - WAKWAK
http://park6.wakwak.com/~polydor78/enoken.htm
※11:レコードコレクター誌・創刊号
http://www.asahi-net.or.jp/~mv5t-kmr/recocore.html
※12:YouTube 動画で覚えよう英語の歌 | 220
http://dogaeigo.blog118.fc2.com/
※13:むぎ茶の昭和懐メロ&CMソング大特集: マーガレット・ユキ オ人形ダイナ
http://cm-song-movie.blogspot.jp/2011/03/blog-post_29.html
※14:寺田寅彦 マーカス・ショーとレビュー式教育 - 青空文庫
http://www.aozora.gr.jp/cards/000042/files/43258_17198.html
※15:吉本興業HP
http://www.yoshimoto.co.jp/corp/
※16:詞先、曲先。|田中公平のブログ
http://ameblo.jp/kenokun/entry-10428596055.html
※17:シンコーQ&A-4発音/言葉(母音)
http://www.bvt.co.jp/qanda/q&a4.htm


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1904年東京生まれのエノケンは、浅草公園六区の「浅草オペラ」時代から6年(1917年 - 1923年)の年月が経ち、1923年(大正12年)9月1日の関東大震災後、麻布十番の芝居小屋や、京都・太秦に移り、サイレント映画の端役として潜伏していたが、東亜キネマ京都撮影所、前年の1928年(昭和3年)8月に解散した中根龍太郎喜劇プロダクションを経て浅草に帰還、石田守衛(俳優)に誘われて桜井源一郎が経営する東京浅草の水族館2階「余興場」に軽演劇の劇団「カジノ・フオーリー」(仏語由来Casino Folies、1929年7月10日 - 1933年3月)を創立した.。この時25歳。
因みに、アメリカの1920年代は先にも書いたように「狂騒の20年代」、「素晴らしいナンセンスの時代」などとも呼ばれたジャズが時代の流行の音楽となり、享楽的な都市文化が発達した時代であった。「ジャズ・エイジ(Jazz Age)」は、偉大なるギャッピー』(The Great Gatsby)によって1920年代を代表する作家のひとりとなった作家のF・スコット・フィッツジェラルドの命名による物である。
エノケンはこのカジノ.・フォーリーの舞台で、当時最新の流行ジャズソングを多く取り入れていた。「私の青空」「アラビヤの歌」「洒落男」などがそれで、エノケン以前に、当時の人気ジャズ歌手であった二村定一が唄ってヒットさせたアメリカ曲である(歌の説明は、※8を参照されるとよい。洒落男ここ)。


私の青空(My Blue Heaven) 二村と榎本それに、石川さゆりのカバーを聴き比べてください。


洒落男 藤山一郎とエノケンの歌を聴き比べてみてください。
現在でこそジャズソングと云う言葉は余り用いられないが、当時はこの言葉がフォックストロットのリズムで歌われるアメリカのポピュラーソングだけに限らず、シャンソンやタンゴ、ハワイアンに至るまで、舶来ソング全体をさす言葉として良く使われていたそうだ。
因みに、この時のジャズソングをはじめとする楽譜に関しては、桜井の親戚でフランス帰りの内海正性やその弟で画家の内海行貴が、横浜に着いた外国船の楽士に頼んで外国から新しい譜面をいち早く取り入れていたということが分かっている。
そのころのカジノ・フォーリーには、川端康成武田麟太郎など、当時の新進作家が出入りしていたようだ。
川端康成は小説(『浅草紅団』)の中でカジノ・フォーリーについて次のように書いている。

「和様ジャズ合奏レヴュウ」という乱調子な見世物が1929年型の浅草だとすると、東京にただ1つ舶来「モダアン」のレヴュウ専門に旗揚げしたカジノ・フォウりイは、地下鉄食堂の尖塔と共に、1930年型の浅草かもしれない。エロティシズムと、ナンセンスと、スピイドと、時事漫談風なユウモアとジャズソングと女の足と~。・・・と、フェティシズムの川端らしい表現だ。

第2次カジノ・フォーリー(1929年10月 - 1933年3月)は、むしろ水族館のメインにとってかわる人気となるが、自らが座長であった榎本が二村定一、武智豊子とともに脱退独立し、浅草観音劇場に旗揚げし、新しい劇場に進出する。それが「新カジノ・フォーリー」(1930年8月 - 10月)である。エノケンは当時詩人で元ベラゴロ(「浅草オペラ」の熱狂的なファンは「ペラゴロ」[オペラ+ゴロツキ]とも呼ばれた)であったサトウハチローを文芸部長に招き内容の充実にさらに力を入れ、その中には無名時代の菊田一夫もいたという。しかし、その後座員の不和と体調悪化により2ヶ月で解散している。
ここにおいて欧米喜劇映画にあるギャグやスピードだけでなく、震災前に根付いていた浅草オペラおよび当時の浅草レヴューにあった要素を取り入れつつ、新たな喜劇を創り上げていた。
その後、浅草の玉木座開場に伴い結成された「プペ・ダンサント」、浅草オペラ館が新規開場すると「ピエル・ブリヤント」結成等を経て、1938(昭和13)には、松竹を退社して東宝と専属契約を結び劇団名も「東宝榎本健一一座」と改めることになる。南無阿弥陀仏の念仏をジャズソングに載せて歌う同年公開の映画『エノケンの法界坊』は一座の東宝第一作品である。


上掲の動画は、オープニング - エノケンの法界坊 (1938)であるが、南無阿弥陀仏の念仏をジャズソングに載せて歌う歌は、永楽屋の店先で、ほんの少ししか歌われていないが、フィルムが紛失していて、もともとは5~6分ぐらい歌われていたと聞く。この動画の最後の方では、おくみ(宏川光子)と掛け合いで要助(小笠原章二郎)が歌っていた曲は、『モダン タイムズ』でチャップリンが歌っていた「ティティーナ」に日本語歌詞をつけた替え歌だが、『モダン タイムズ』の米国公開が1936年2月、日本での公開は1938年2月であるからそれを早速同じ年に取り入れているのだからちゃっかりしているね~。(チャップリンの歌はYouTubeでどうぞ→ここ)。
エノケンは、東宝入りして以降舞台に映画に大活躍するが、ジャズに対して暑い想いがあったエノケンは1939(昭和14)年、別個に自らのポケットマネーを出し「エノケン・ディキシーランダース」というバンドを編成している。トランペット・クラリネット・アルトサックス・テナーサックス・ピアノ。ベース・ドラム編成で一流のメンバーを集めたバンドも軍国主義化の圧力のもとでまもなく解散してしまう(※9参照)。
「エノケン・ディキシーランダース」は、毎週アメリカから新しい譜面をとりよせて、新曲をステージに発表していた。そして、舞台や映画のエノケンの芝居には、数々の外国曲の旋律が巧みに使用されていた。しかし、レコードとなると、1936(昭和11)年にポリドール専属になってから、戦前5年間に僅かに30数曲を吹込んだのみ(※10)。その中には、有名な「ダイナ」「月光価千金」「南京豆売り」から、「トカナントカ言っちゃて」など和製コミック・ソングまで色々ある。


上掲の動画は榎本健一の「エノケンのダイナ」~「月光価千金」~「私の青空」メドレー
1935(昭和10)年頃から、日本生れの歌手の中にも、優れたフィーリングをもった個性的シンガーが何人か育ち始めた。ディック・ミネ岸井明、エノケンの3人は、ある意味でアメリカの物真似でない独特のキャラクターを打ち立てた点で、戦後出も比肩し得ない偉大なパーソナリティであった。
「ミュージック・ゴーズ・ アラウンド」で、岸井明、ミネ、コロムビア(ナカノ)・リズム・ボーイズと四者競演になっているが、「歌は廻る」(原曲「The music goes 'round and around」) をエノケンは「エノケンの浮かれ音楽」というタイトルで発表している。。何れにしても、エノケンの唄は調子を外しているようだが、抜群のセンスで独特のアドリブをやっているわけで、まさに空前絶後の日本的ジャズ・シンガーと言える(※11)。

アメリカでは、ビング・クロスビーが1926年に当時の人気オーケストラであるポール・ホワイトマン楽団に入団し、翌年にはリズムボーイズの歌手としてデビュ。カウントベイシー楽団やデュークエリントン楽団で歌っていた。1928年,トーキー第1号の「ジャズシンガー」がアメリカで公開された。映画全編を通してのトーキーではなく、部分的なトーキー(パートトーキー)だったが、驚異的な興行収入を記録し、トーキー時代の幕開きとなった。
この時期は映画黄金期で若きクロスビーは1930年に「月世界征服」に本人役でカメオ出演し、映画に進出した。
一方、日本では1929(昭和4)年に佐藤千夜子が唄った主題歌第1号となる溝口健二監督映画「東京行進曲」が封切られた。西条八十作詞・中山晋平作曲によるこの曲はレコード歌謡曲の第1号でもあり、サウンド的にはジャズであろう。


上掲の動画は、佐藤千夜子 東京行進曲 昭和4年の東京銀座 浅草
クロスビーの歌手としての特徴であり、のちに多大な影響を及ぼしたのがクルーナー唱法(※3のジャズと雑学)と呼ばれる歌い方である。マイクの発達により、声を張り上げずに、優しく囁くような録音技術が生まれ、それがクルーナー唱法と呼ばれ、日本では藤山一郎が有名。古賀政男作曲・高橋掬太郎作詞「酒は涙か溜息か」は日本初のクルーナーと言われている。
日本ジャズの祖・服部良一ではなく、古賀政男が導入しというのが面白い。このころからアメリカでも日本でも映画と歌のタイアップが盛んとなり、主題歌と映画の抱き合わせで大ヒットを生む方法が多くとられるようになった。日本で大ヒットしたディック・ミネ(ジャズ・ブルース歌手)のデビュー曲「ダイナ」(1934年)は、クロスビー盤のカバーとして有名であるが、日本における「ダイナ」の創唱はディック・ミネではなく、1934(昭和9)年5月にコロムビアから発売された、中野忠晴とコロムビア・リズム・ボーイズによる「ダイナ」であり、他にも、先に書いた「エノケンのダイナ」それから、ビクターから川田義雄((後の川田晴久)の「浪曲ダイナ」と複数の歌手に唄われている。


上掲の動画は、浪曲ダイナ 吉本ショウ (川田義雄)2

以下参考※12:「YouTube 動画で覚えよう英語の歌 | 220」では、アメリカで非常に人気があったビングクロスビーや、エセル・ウォーターズ、ルイ・アームストロングなど外国人6名と、日本人では中野忠明、榎本健一、戦前のタップ童謡歌手・マーガレット・ユキ(※13参照)の歌とタップ「オ人形ダイナ」、あきれたボーイズの凄くゆかいな「新版ダイナ狂想曲」などがある。以下で聞き比べててみてください。特にあきれたボーイズのものは本当に面白いですよ。

YouTube 動画で覚えよう英語の歌 | 220. 【 ダイナ 】 ビング・クロスビー 他

寺田寅彦の随筆(昭和9年6月『中央公論』掲載。※14参照)に東宝傘下におさまる前の日劇、「日本劇場」で、アメリカのレビュー団・マーカス・ショウの公演が行われ大入り満員だったらしいことが書かれているが、これは、1934(昭和9)年に大阪の吉本興業が、招聘に関わっていたらしく、この大人気によりこのころから、“ショウ”という言葉が一般に浸透したことが同社の企業沿革のところに書かれている(※15参照)が、それから“ショー ”と名のつく物をやり始めたのだろう。
1937(昭和12)年の吉本ショウに川田義雄をリーダーとする4人組の「あきれたぼういず」が発足し、大好評を博したが、1939(昭和14)年に分裂して、川田義雄はミルクブラザースを結成、残り3人がメンバーを補強して「あきれたぼういず」の名を継承して活動を続け、何れも戦前芸能界の尖端的なコミック・バンドとして、傑出した存在だった。
戦後は、川田義雄(晴久)は「ダイナブラザース」を率い、「あきれたぼういず」は3人組で活動を再開したが両者共数年で解散した。しかし「あきれたぼういず」が同時代及び後生の芸能界に与えた影響は、測り知れぬ程大きく、戦後のクレイジー・キャッツからドリフターズを経て今日まで脈々と続くコミック・バンドの系譜は、全て川田義雄を筆頭とする「あきれたぼういず」の斬新な演芸センスとその技術に端を発しているといっても過言ではないだろう。

しかし、ま~、日本人はとにかく外国のものを何でも日本のものにしてしまう能力があったな~。その先鞭をつけた一人がエノケンと言えるのではないか。それに引き替え最近は、外国のものをそのまま真似ているようで、どうもいやだ。
音楽にしても、かっては、外国のものを日本流にアレンジして日本独特のものを作り直していた。ジャズなどでも日本語で歌い日本人には判り易く唄ってくれたものだ。
だが、最近の若い人の歌をきいていると、日本語のを、またその発音を極端に大事にしない、変な調子で、変な声の出し方をして、何か、歌詞も、曲の一部、単なる音のような感じのものが多く、私など歌詞のテロップでも流してもらわないと、目をつぶって歌だけを聞いていても何を歌っているのかよく判らない。何か乗りだけのリズムだけの曲になってしまっているような気がする。
それが、なぜか?気になって、いろいろ検索していると、※16:「詞先、曲先」に書いてあるように、現在主流の曲作りが「曲先」となり、曲が優先され、詩の方がおろそかになっていること、また、※17:[シンコーQ&A-4発音/言葉(母音)」にあるように、役者や、アナウンサー、その他の言葉を使う仕事についている全ての人々が行っている「言葉のトレーニング」を今のヴォーカリストが、ほとんどしていないことにあるようだ。音楽の専門でもない私には詳しいことは書けないので、参考の※16、※17など読んでみてください。
今日、ブログを書きながら、ついでに、ジャズ全盛時代の曲など聞いていると、昔の曲は本当に良かったとつくづく感じた。神戸ジャズストーリーでは、かっての全盛時代の本物のジャズが沢山聞けることだろう。楽しみに待っていよう。


KOBE JAZZ DAY 4/4 (参考)
KOBE JAZZ DAY 4/4 (2-1)へ戻る

KOBE JAZZ DAY 4/4 (2-1)

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ジャズの日」(1月22日 記念日)は、JAZZのJAがJanuary(1月)の先頭2文字で、ZZが22に似ていることから、。「1月22日を日本のジャズの日」として定着させようと、東京都内のジャズクラブオーナーらによる「JAZZ DAY 実行委員会」が2001年(平成13年)から実施しているが、今日4月4日は「KOBE JAZZ DAY4/4」(神戸ジャズの日)である。
制定したのは、 我が地元・兵庫県神戸市の豊かな文化の創造を目的として、さまざまな芸術文化事業を展開している公益財団法人神戸市民文化振興財団(※1)である。
1923(大正12) 年 の4 月、日本で初めてプロバンドによるジャズの演奏が行われた神戸市は、日本のジャズの発祥の地とされている。
その日付は定かではないが、 ジャズと言えば4ビート(4/4拍子)であることから4月4日としたもの。4/4はエイプリル・フォースと読む。


上掲の画像は「KOBE JAZZ DAY 2015」ポスターである。
毎年10月に行われている恒例の「神戸ジャズストリート」は、わが国最初のジャズバンド「井田一郎とラッフィング・スターズ」が神戸で結成されてから60年目にあたる1981(昭和56)年に第1回が開催された。
このバンドはやがて東京に活動の場を移し、デキ シーランドジャズを演奏した。神戸では関西学院の学生などを中心に、デキシーランドジャズ・バンドが多く生まれ、今でも、神戸はデキシーランド ジャズのメッカとされている。
神戸ジャズストリートは、第1回以降毎年秋に、国内外のアーティストを招いて、三宮北野坂トアロード周辺のパブ、教会、ホテル、会館等十数か所を会場に して行われている。
この催しでは、演奏者が次々と各会場を出張演奏して廻る、また、アマとプロが一体となって演奏し、街にジャズが溶け込んでいるのが特徴である。
今、日本では、夏になると全国各地で「ジャズフェスティバル」と称するものが開催されているが、神戸には古くから伝統のある「全日本ディキシ ーランド・ジャズ・フェスティバル」があるため、「フェスティバル」に替わるネーミングとして「ジャズストリート」の名が考え出されたという。
この発想は、1930年代半ば頃のニューヨークの52丁目界隈は、ジャズを聴かせるナイトスポットが軒を並べていたそうで、当時のニューヨークっ子は、夜な夜なジャズを聴くために、それも好きな者は、何軒かの店を「はしご」をしたという話しであり、このやり方を、取り入れたのが神戸のジャ ズストリートなのである。
年に一度の「神戸ジャズストリート」では、この日を待ちかねていたように、大勢のジャズファンが集まり、ステージでの演奏と、それを聴くファン が一体になって盛り上がっている
今年の「2015年(34回)神戸ジャズストリート」は、10月11日(土)~10月12日(日)北野町周辺で行われる。前夜祭は10月9日(金)。詳細は、※2:神戸ジャズストリート(公式サイト)を参照。


上掲は「2014神戸ジャズストリート 前夜祭」の様子。動画。

ジャズ(英:jazz)は、19世紀末から20世紀初頭にかけて米国ルイジアナ州ミシシッピ川最下流に位置する港町、ニューオリンズで誕生したとされているが、実際のところ、具体的にどう生まれたのかは現在でもはっきりしていないようだ。
ただいえることは、当時は、かつて欧州から移住した人々や欧州系白人と黒人の混血「クレオール」、奴隷制があった時代に、アフリカから労働力として強制的に連行された人々など、多種多様な人種が集まり、新たな文化が生まれやすい土地であったということである。
アフリカから連れてこられた彼らは先祖伝来の独特のリズム感を持っていて、アフリカにいた頃からリズムに乗って仕事や宗教的な行事を行なっていたのだろう。
アメリカ南部の農園などで、奴隷として過酷な労働を強いられた黒人労働者は、故郷を思い起こしながら、その怒りや苦悩、不満といった自らの感情を表現する手段としてトーキング・ドラムを叩いたり、労働の合間に歌ったワークソング (労働歌)などが、ジャズの源流にあるといわれている。その後、ジャズらしい形態が整えられていくのは1800年代後半頃からで、そのワークソング(労働歌)はブルースへ、 キリスト教への強制改宗後も、歌いながらのお祈りは、スピリチュアルズ(現在のゴスペルの基調となる音楽)へと発展した。これに加えて、ニューオリンズでは歓楽街「ストーリーヴィル」などのピアニストたちが軽快なタッチで演奏する「ラグタイム」で人気を集めた。
そして、アメリカに新しく住み着いたアフリカ人たちもヨーロッパ音楽と出会い、トランペット(tp)、トロンボーン(tb)、クラリネット(cl)といった西洋楽器を使った黒人ブラスバンド(ニューオリンズ・ブラスバンド)による街頭演奏を行うようになっていった。
そして、20世紀に入ると、アフリカ系アメリカ人のコルネット奏者バディ・ボールデンが1907年頃までニューオーリンズで人気を博していたとの伝承があり、今日では彼が「初代ジャズ王」と呼ばれているそうだが、本人による録音が残されておらず未詳である。
これが初期「ニューオリンズ・ジャズ」であり、後の多様なスタイルのジャズに分かれていった音楽の一つで、以後のジャズ音楽のおおもとになった形式である。
一方、白人も黒人のジャズをまねて、tp 、tb、clの3管編成を中心とするニューオリンズ・スタイルのジャズを始めた。これが「ディキシーランド・ジャズ」であり、ディキシーランドスタイルが定着してくる頃になると、黒人だけでなく白人のジャズミュージシャンも続々と登場した。
そして、1917年には、ニューオーリンズ出身のニック・ラロッカというイタリア人をリーダーとする白人5人組バンドであるオリジナル・ディキシーランド・ジャズ・バンドがジャズ界で、初の商業用レコードを、“Dixie Jass Band One Step”と“Livery Stable Blues”の2曲入りシングルをビクタートーキングマシンから発表したことが知られている。

三合の厄を避ける為、建久に改元

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文治6年4月11日(ユリウス暦1190年5月16日)、陰陽道陰陽五行説による「三合厄歳」(三合の厄)を避ける為、建久(けんきゅう)に改元
建久の元号は、『晋書』の「建久安於万歳、垂長世於元窮」および『呉書』の「安国和民、建久長之計」を出典として命名。勧進者は文章博士・藤原光輔。光輔は、平安時代中期の貴族、藤原式家の出身で能書家従五位下・加賀守藤原 文正の子とされている。
元号文治。. 建久10年4月27日(ユリウス暦1199年5月23日)土御門天皇即位による代始改元(君主の交代による改元)により正治と改められる(『百錬抄』)。

上掲の画像は、後鳥羽院像(伝藤原信実筆、水無瀬神宮蔵)Wikipediaより
元号の建久は、1190年から1198年まで。.太上天皇(後白河天皇)の院宣を受ける形で、「神器なき即位」をした後鳥羽天皇(高倉天皇の第四皇子。母は、坊門信隆の娘・殖子[七条院]。後白河天皇の孫で安徳天皇の異母弟)の代の元号。
同じく高倉天皇を父に持ち、母は平清盛の娘の徳子(後の建礼門院)の子である異母兄安徳天皇(第81代天皇)が、退位しないまま後鳥羽天皇が即位したため寿永2年(1183年)から平家滅亡の文治元年(1185年)まで在位期間が2年間重複している。
つまり、源氏平家が相争った治承・寿永の乱の時代。源頼朝の源氏方では寿永の元号を使用せず以前の治承を引き続き使用していたが、源氏方と朝廷の政治交渉が本格化し、朝廷から寿永2 年10月宣旨が与えられた寿永2年(1183年)以降、京都と同じ元号が鎌倉でも用いられるようになる。また、平家方では都落ちした後も次の元暦とその次の文治の元号を使用せず、この寿永をその滅亡まで引き続き使用した。
安徳天皇は、文治1年(1185年)3月の壇ノ浦の戦い源氏に敗れ、寿永4年3月24日(1185年4月25日)三種の神器である神璽宝剣を身につけた祖母・二位尼(平時子)に抱かれて壇ノ浦に身を投じ、8歳で崩御している。神器のうち宝剣だけは、いくら探しても海中に沈んだまま遂に回収されることが無かった。伝統が重視される宮廷社会において、皇位の象徴である三種の神器が揃わないまま治世を過ごした後鳥羽天皇にとって、このことは一種の「コンプレックス」であり続けた。
例えば、Wikipedia では、藤原定家は後鳥羽上皇と順徳天皇(後鳥羽天皇の第三皇子。母は、高倉範季の娘・重子[修明門院])の度を越した蹴鞠好きを批判した際に「百王八十余代、神剣没海、卅廻于茲。事理可然」(『明月記』建保元年4月29日条)と神器の不在に原因を求め、近代においても武士の台頭の原因として、後鳥羽天皇が「虚器」を擁していたことに求める意見があった(池田晃淵「承久の乱の起因に就て」『史学雑誌』第7巻第2号、1896年)と記している。
それがゆえに、後鳥羽天皇は、一連の「コンプレックス」を克服するために強力な王権の存在を内外に示す必要があり、それが内外に対する強硬的な政治姿勢、ひいては承久の乱の遠因になったとする見方もある・・・と。

この時代、平氏討滅後、鎌倉を本拠として関東を制圧し、弟たちを代官として源義仲や平氏を倒し、戦功のあった末弟・源義経を追放の後、諸国に守護地頭を配して力を強めた源 頼朝は、奥州合戦奥州藤原氏を滅ぼして全国を平定していた。
建久3年(1192年)3月までは、後白河法皇による院政が続いていた。後白河院の死後は関白九条兼実が朝廷を指導した。兼実は後白河法皇が忌避した源頼朝への征夷大将軍の授与を実現した。これにより、頼朝は、鎌倉幕府を開くことが出来た・・・・が、頼朝の娘(大姫)の入内問題(ここ参照)から関係が疎遠となった。これは土御門通親の策謀によるといわれている。
建久7年(1196年)、通親の養女・在子に皇子(為仁、後の土御門天皇)が産まれた事を機に政変(建久七年の政変)が起こり、兼実の勢力は朝廷から一掃され、兼実の娘・任子中宮の位を奪われ宮中から追われた。この政変には頼朝の同意があったとも言う。
建久9年 後鳥羽天皇が土御門天皇に譲位。しかし、土御門は父・後鳥羽天皇の譲位により3歳で践祚したため、立太子もしていなかった。土御門天皇即位後、事実上は、後鳥羽上皇による院政がしかれ, 以後、順徳天皇、仲恭天皇と、承久3年(1221年)まで、3代23年間に亘り上皇として院政を敷く。上皇になると土御門通親をも排し、殿上人を整理(旧来は天皇在位中の殿上人はそのまま院の殿上人となる慣例であった)して、院政機構の改革を行うなどの積極的な政策を採り、正治元年(1199年)の頼朝の死後も台頭する鎌倉幕府に対しても強硬な路線を採った。

元号は、歴史上の年を数えるために主権者が定めたものであり、一般には年号と呼ばれる。元は〈はじめ〉の意である。中国を中心とする東洋の漢字文化圏に広まった紀年法で、前漢の武帝のときに始まる。
日本に於ける正式の年号の初めは皇極天皇4年(645年)蘇我氏(蘇我蝦夷入鹿親子)の討滅を機(乙巳の変大化の改新)に天皇の禅(ゆず)りを受けて、皇弟・軽皇子が即位し、孝徳天皇となり、数日後、『日本書記』に「天豊財重日足姫天皇(皇極天皇)の4年を改めて、大化元年と為す」(※1:「古典館目次」の日本書紀巻第25-1参照)と記されているのがそれである。
大化以前において法隆寺金堂の釈迦三尊像の光背の銘や『伊予国風土記』逸文の道後温泉の碑文などによって法興という年号(※2:「聖徳太子」の伊予湯岡碑文の考察参照)のあったことが知られているが、これは以下に述べる「白鳳」「朱雀」などと共に、公式に定められたという徴証(ちょうしょう=あかしとなる証拠)がなく、逸年号もしくは広い意味で私年号というべきものとされている。
しかし、蘇我氏の氏寺で、奈良県明日香村にある日本最古の本格的寺院でもある法興寺(飛鳥寺の異称)は、「仏法が興隆する寺」の意であり、の文帝(楊堅)が「三宝興隆の詔」を出した591年を「法興元年」と称したこととの関連が指摘されている(※3参照)。
大化6年(650年)穴戸(長門国,の古称)国司より白雉(しろきぎす。はくち。=白色のキジ)を献上されたのを祥瑞(しょうずい。瑞祥【ずいしょう】と同じ。めでたいことが起こるという前兆。吉兆)として、白雉(はくち)と改元したが、同5年孝徳天皇崩御して以後改元は行われず、天武朝の末年、朱鳥(あかみとり)の年号が定められたが、その年天皇が崩御してこれも続かず、文武天皇5年(701年)に至って対馬から金が貢上されたのを機に大宝の年号が建てられた。
そして、大宝律令において初めて日本の国号が定められ(大化元年7月[645年8月]の条に、高句麗百済の使者に示したに「明神御宇日本天皇[あきつみかみとあめのしたしらすやまとのすめらみこと]の文言が出ている(※1の日本書記巻第25-1参照)。本格的な中央集権統治体制を成立したといえる。
この年施行された大宝令には、公文に年を記す時はすべて元号(年号)を用いることが規定されていたことから、律令制度と年号は切り離すことの出来ないものとなり、次第に国民の間に浸透。年号は、大宝以降絶えることなく現代に及んでいる。
尚、南北朝時代の朝廷は、南朝(大和国吉野行宮)と北朝(山城国平安京)に2つの朝廷が存在し、それぞれが正統性を主張し、南北朝合一まで、それぞれが元号を建てていた(元号一覧参照)。

改元行事もこのころから制度化したと考えられ、改元の理由にはおおよそ(1)君主の交代による代始改元(即位改元ともいう)、(2)吉事を理由とする祥瑞改元、(3)凶事に際してその影響を断ち切るための災異改元、(4)革命改元といわれる辛酉(しんゆう)と、甲子(きのえね)の年の改元があることは、以前このブログ文化(元号)でも書いたことあるが、そのほかに、建久の改元のように、「三合厄歳」(三合の厄)を避ける為の改元があることを知った。
三合とは、陰陽道(おんようどう)でいう厄年の一で、太歳太陰客気の三神が合することで、災害が多いのだという。

菅野真道らが延暦16年(797年)に完成したという『続日本紀』)には、災害が外から来るという記述と、疫病鬼が人民の家に入ろうとする記述が二つ見え、その一つ、『続日本紀』平宝字二(758)年八月十八日の天皇の勅 に”陰陽道でいう厄年の一つ。大歳・太陰・客気の三神が一年の中に合した、三合の年は洪水・日照り・疫病の災害が起こる、諸仏の母である『摩訶般若波羅密多経』のような四句の偈 (仏をたたえる詩)などを読誦すれば、福徳が集まってきて、その功徳は考えられない程であり、天子がこれを念ずる時は、兵乱や災害は国内に入らない。庶民が念じたならば、病気や疫病鬼は家の中に入らず、悪を断ち幸福を得るのでこれ以上のものはないと。
又、.『続日本紀』宝亀五(774)年夏四月十一日の天皇の勅にも、天下の諸国に悪性の流行病の者が多くて、医療をほどこしてもまだ回復しないと聞く。朕は宇宙に君臨して人民を子として育んでいる。このことを思って寝ても覚めても心を労している。『摩訶般若波羅蜜経』は諸仏の母である。天子が『摩訶般若波羅蜜経』を念ずる時は、兵乱や災害は国内に入らず、一般の人が念ずる時は流行病や流行病の神は家内に入らない。この慈悲によって短命を救わんと思う。・・と。
この二つの例から、八世紀後半以降、疫病が内から発生するのではなく、疫病鬼が外から家の中に入ろうとして起こるという意識があったのではないかと考えられる。「兵乱や災害は国内に入らず」という部分から考えると、「国内」つまり、天皇の非支配領域から疫病が来ているという考え方もあったと解釈できるという。
結局、支配者、すなわち朝廷の貴族やその官人などが一番望んでいたのは、収穫物が滞りなく徴収できることだったと考えられる。以上記述されている救済法(使いを遣わすこと及び薬を給すること)から考えると、人民が長生きできるように、しっかり活動できるようにするのは、まず収穫物を滞りなく収めさせるためで、また、人民が多く死亡したり、支配する人民が減ったりすることは、支配者としての権力が衰退することにつながるからだろう。だから、人民を救うことには政治的な意味があり、支配者の利益に関わる問題だと言えるようだ(※4参照)。
だから、そのような三合の年には、改元までして災難を逃れようとしたのだろう。

古い時代から、伝統社会においては、その社会で共有される宇宙論の中で、王はその中心を象徴するものとして神聖視される場合が多かったようだ。特に農耕社会にあっては、王は農作物の成長を促すエネルギーの源であり、森羅万象を統制する力を持つものとされた。ここにおいては、王は人間の身でありながら、同時に宇宙の秩序を司る存在として捉えられていたようである。
神話や宇宙論、宗教や伝統的な信仰に支えられた「神聖なる王」が制度化するために重要なのが王位継承の儀式であった。
王位継承は、多くの場合、単に統治者としての任務の継承ではなく人が神に変わる経過をたどり、秘儀(非公開で、ひそかに行う儀式。密儀)を含んだ儀礼として劇化される。それは人格の変換を意識される伝統的な通過儀礼といくつかの面で共通点を有している。
例えば、ヨーロッパの王権に見られる王冠・王笏(おうしゃく)宝珠、中国の歴代皇帝に伝えられてきた伝国璽、日本の天皇制における「三種の神器」などである。
紀年法の一種である元号は、皇帝や王など君主の即位に定められている(治世の途中に随意に行われる改元もある)が、君主が特定の時代に名前を付ける行為は、君主が空間と共に時間まで支配するという思想に基づいており、「正朔を奉ずる」(天子の定めた元号と暦法を用いる)ことがその王権への服従の要件となっていた。
元号が政治的支配の正統性を象徴するという観念は、元号を建てることにより、既存の王朝よりも自らの正統性が優越しているか、少なくとも対等であることを示すことができるという意識を生んだ。そのため、時の王朝に対する反乱勢力はしばしば独自の元号を建てた。また、時の政権に何らかの批判を持つ勢力が、密かに独自の元号を建てて使用することもあった。このように、後世から公認されなかった元号を「私年号」と呼ぶ。
中国王朝の政治制度を受容した周囲の王権は元号制度もともに取り入れているが、これも同様の発想に由来する。中国王朝から見れば、中国王朝を真似て、しかもこれと対等であることを示すために建てられた周辺諸国の元号は、やはり「私年号」であり、使用は許されないものであった。一方で周辺諸国の王権は中国王朝から冊封を受け、周囲の競争勢力に対する自らの正統性の保障としたが、冊封の条件の一つが「正朔を奉ずる」ことであったため、独自元号の使用と冊封は両立しない要素であった。

中国や日本では君主の称号として天子が用いられていた。天下を治める者。国王、皇帝、天皇などの別号として用いられる。
王は天帝)の子であり天命により天下を治めるとする古代中国の思想を起源としている。
周代、周公旦によって「天帝がその子として王を認め王位は家系によって継承されていく。王家がを失えば新たな家系が天命により定まる」という「天人相関説」が唱えられ、天と君主の関係を表す語として「天子」が用いられるようになったという。
秦の始皇帝により、天下を治める者の呼称が神格化された皇帝へと変わると、天子の称は用いられなくなったが、漢代にいたり儒教精神の復活をみると、再び天子の称が用いられるようになり、それは皇帝の別名となった。

上掲の画像は、中国前漢時代の儒学、『春秋』学者者董 仲舒(とう ちゅうじょ)。
儒家の思想を国家教学とすることを献策した人物。その思想の最大の特徴は「災異説」である。画像は、Wikipediaより。

皇帝の支配は、空間(領土)の支配と時間(年号)に及び、皇帝以外の者の支配は許されなかった。
前漢の武帝は、太陰暦太陽暦を合体した太初暦を制定。皇帝の下した暦を用いるのが、皇帝の主権を認めた証拠となり、これを「正朔を奉ずる」と言ったのである。
皇帝は天帝に対しては天の子=天子として天を祭る儀礼を司り、それは皇帝だけに許された神聖儀礼として多少の変化はしながらも清朝に至るまで連綿と引き継がれた(皇帝祭祀も参照)。皇帝祭祀はまた日本の天皇が執り行う宮中祭祀新嘗祭など)にも影響を与えた天皇の即位儀礼「大嘗祭」との関連性も指摘されている。

中国の影響を多く受けた日本神話天地開闢・国土創造については、『日本書紀』卷第一 代上(※5:「古代史獺祭」の日本書紀参照)の冒頭に「古(いにしえ)天地(あめつち)未だ剖(わか)れず、陰・陽、分かれざりしときに、渾沌たること鷄(とり)の子の如くして、溟(ほのか)に牙(きざし)を含めり。 其(そ)れ清く陽(あきらか)なるは、薄靡(たなび)きて天(あめ)と爲り、重く濁れるは、淹滞(つつ)いて地(つち)と爲るに及びて、精(くわ)しく妙(たえ)なるが合えるは摶(むらが)り易(やす)く、重く濁れるが凝(こ)るは竭(かたま)り難し。 故(かれ)、天(あめ)先(ま)ず成りて、地(つち)後に定まる。」・・とあるが、これも、中国思想の借用、つまり、中国前漢の武帝の頃に、淮南王(漢の高祖・劉邦の七男)が学者を集めて編纂させた思想書『准南子(えなんじ)』紀元前140)の天文訓に、記されている天地創造神話(※1の日本書紀-1-1冒頭部分参照)を基にしてできたものである。

陰陽道の「三合」がどんなものであるか専門外の私には詳しいことはよく判らない。以下参考の※6:「三合の理」、※7:「易・五行、讖緯思想」など参照されるとよい。

冒頭の画像は、陰と陽。太極図。Wikipediaより。


参考:
※1:古典館目次
http://www.kyoto.zaq.ne.jp/dkanp700/koten/koten.htm
※2:聖徳太子
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Desert/8918/sub1.html
※3:古代史の論点:大宝以前の逸年号-逸年号論序説-
http://www2.odn.ne.jp/~cbe66980/Main/NENGO.htm
※4:儺祭詞にみえる疫病鬼に対する呪的作用について(その@)
http://www.7key.jp/data/thought/shintou/norito/
※5:古代史獺祭;日本書紀 
http://www004.upp.so-net.ne.jp/dassai1/shoki/frame/01/01/fr.htm
※6:三合の理 - 人生の謎学
http://blog.goo.ne.jp/syncr/e/193410a361ebeff8c5cb8cbc8b222f29
※7:易・五行、讖緯思想
http://www17.plala.or.jp/urashimasetuwa/newpage1.html

葛飾北齋忌日

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人魂(ひとだま)で  
 行く気散じや 
 夏野原    (葛飾北斎)

江戸時代後期の化政文化を代表する浮世絵師の一人葛飾 北斎(かつしか ほくさい)は、.嘉永2年4月18日(1849年5月10日)、江戸・浅草聖天町(町名は町内に待乳山聖天宮があるのにちなんで付けられた。※1の待乳山聖天宮・今戸橋を参照)にある遍照院(浅草寺の子院)境内の仮宅で没した。享年90歳。上掲は、北斎辞世の句である。(冒頭の画像は北斎の自画像、向かって右は、年代不明『週刊朝日百科日本の歴史』より借用、左は、天保13年(1842年)、82歳(数え年83歳)頃の自画像(一部)という。Wikipediaより)
北斎の代表作『富嶽三十六景』シリーズの初版は文政6年(1823年)に制作が始まり、天保2年(1831年)に西村永寿堂より出版されたが、相当人気があったとみえて当初計画になかった、裏富士十図10枚を追加して、合計46図が同4年(1833年)に完結している。『冨嶽三十六景』は江戸市中から見た富士を13図、江戸近郊から4図、上総(現在の千葉県南部)から2図、常州(茨城県)から1図、東海道筋から18図、そして甲州(山梨県)方面から7図、その他1図である。
『富嶽三十六景』の「神奈川沖浪裏」や、「凱風快晴」など、今も世界に知られる作品の数々の誕生と同時に、北斎は72歳にして、ついに誰もが認める浮世絵師の頂点へと登りつめたのであった。
『富嶽三十六景』シリーズ(46枚)は、以下の作品一覧以下でも見られるが、その下の東京国立博物館所蔵の物の方がきれいな詳細画で見られるので、1枚づつ干渉されるならお勧めである。

Wikipedia-『富嶽三十六景』シリーズ作品一覧』

東京国立博物館検索画面『富嶽三十六景』

数え年で90歳というと、当時としてはすごく長命であった。「気散じ(きさんじ)」とは心の憂さをまぎらわすこと、気晴らしのことであるから、これからの俺は「やることはやったので、ひと魂(ひとだま)」となって、ふうわりふうわりと夏の原を気ままに漂(ただよ)ってみることにするか・・・」。とでもいったところだろうか。

同時代、版画独特の美を発展させ、「並ぶ方なし」と言われた美人画の巨人、喜多川歌麿とともに活躍した葛飾北斎は、浮世絵師のなかで最も長い70年余の作画期中森羅万象の真を描くことに執念を燃やし、画風を次々と変転させながら3万点を超える作品を発表し、各分野に一流を樹立し、9世紀末、ヨーロッパにジャポニスム旋風を起こし、世界に衝撃を与えた。
北斎は、1999年の、米ライフ誌が選んだ「この1000年で最も重要な功績を残した世界の人物100人」に唯一選ばれた日本人であり、近年で最も注目を集めている浮世絵師である。
しかし、同時期に活躍していた歌麿は北斎より早く名を挙げていたが、北斎は歌麿に比べれば相当遅咲きの桜であったとはいえる。

北斎は、宝暦10年9月23日?(1760年10月31日?)、武蔵国葛飾郡本所割下水(現:東京都墨田区の一角。「北斎通り」参照)の川村家に生まれたが、家が貧しかったのか、幼くして,幕府の御用鏡磨師中島伊勢の養子となる。幼名は時太郎と言い、のち、鉄蔵(てつぞう)と称した。通称は中島八右衛門、晩年には三浦屋八右衛門と名乗っていたようである(※2 参照)。
その後、貸本屋の丁稚、木版彫刻師の従弟となって労苦を重ねたのち、役者絵の名手とうたわれた浮世絵師・勝川春章に入門したとされる。安永7年(1778年)から勝川派を出る。寛政6(1794)年ごろまでは春朗を名乗っていた。
この頃は、狩野派唐絵、西洋画などあらゆる画法を学び勝川春朗の名で絵師として名所絵(浮世絵風景画)や特に、お家芸である役者絵を多く手がけ、安永8年(1779年) 役者絵「瀬川菊之丞 正宗娘おれん」でデビューするまでの習作期で多種多様な画作をしている。

瀬川菊之丞:正宗娘おれん  ここ参照→ 東京国立博物館 - 北斎展

寛政6年(1794年) 勝川派を破門されているらしいが、理由は、最古参の兄弟子である勝川春好との不仲とも、春章に隠れて狩野融川に出入りし、狩野派の画法を学んだからともいわれるが、真相は不明だそうである。ただ融川以外にも、堤等琳 についたり、『芥子園画伝』などから中国絵画をも習得していたようである。
寛政7年(1795年) 「北斎宗理」(1795~1798年頃),の号を使用し始める。以後、北斎(1796~1814年頃),戴斗(1811~1820年),為一(1820~1834年頃),卍(1834~1849年頃)の主要な画号のほか,画狂人(1800~1808年頃)など生涯に30 余の号を頻繁に改号していたが、葛飾北斎の号は、文化2年(1805年)頃から使用しており、出生地が葛飾郡であったことから名乗ったといわれている。
北斎が「宗理」の号を使用し始めたころは、歌麿が既に美人画で人気を博していた時代であり、老中・松平定信は質素倹約を奨励し、華美なものを禁じ、寛政の改革(天明7年[1787年]~寛政5年[1793年])に着手していた。その改革の標的の一つとなったのが、歌麿だった。当時の幕府による禁令を見ると、歌麿が対象としか思えない触書が矢継ぎ早に出されていることがわかる(※3:「浮世絵文献資料館」の浮世絵に関する御触書参照)。
当時の歌麿は蔦屋重三郎の店から浮世絵を出版していた。蔦屋は遊郭・吉原の評判記『吉原細見』を売り出して人気を得た板元である。出版する絵本や浮世絵は、豪華な色使いや、刺激的な世相風刺が話題となり次々とベストセラーを送り出していた。店には、山東京伝らの人気作家や若い日の滝沢馬琴(曲亭 馬琴)などが出入りし、当時の江戸文化人サロンの中心となっていたが、松平定信にとっては、蔦屋サロンこそ統制の対象となるべき存在であった。
寛政2年(1790年)、幕府は「絵本絵草紙類までも風俗の為に相成らず、猥(みだ)らがましき事など勿論無用に候」との禁令(※3の浮世絵に関する御触書の十月〔『御触書天保集成』下810(触書番号6418)〕参照)を出し、歌麿の豪華絵本などが出版停止処分となった。翌寛政3年(1790年)には、山東京伝の洒落本が禁令に触れ、京伝は「手鎖50日の刑」に処せられ、蔦谷は身代半減の処罰を受けた。
こうしたことに反発し、絵を描き続けた歌麿は、この頃から『婦女人相十品』(その1枚・ポッピンを吹く女[ここ参照]など)、『婦人相学十躰』(その1枚・浮気之相[ここ参照]など)といった美人大首絵を描き始めた。そして、それまで以上に人気を博するようになる。そんな歌麿がこの世を去った(文化3年[1806年])頃、北斎はようやくチャンスを掴むことになる。
北斎は浮世絵以外にも、いわゆる挿絵画家としても活躍していた。黄表紙洒落本読本など数多くの戯作の挿絵を手がけたが、作者の提示した下絵の通りに絵を描かなかったためにしばしば作者と衝突を繰り返していたという。
「葛飾北斎」の号を用いるのは文化2年(1805年)の頃からであるが、数ある号の一つ「葛飾北斎」を名乗っていたのは当時の人気戯作者・曲亭馬琴とコンビを組んだほんの一時期で、その間に『新編水滸画伝』(※4参照)『椿説弓張月』(※4参照)などの作品を発表し、馬琴とともにその名を一躍不動のものとした(これら他の読み本も、以下参考の※4で見ることが出来る)。
北斎は、それまで読み物のおまけ程度の扱いでしかなかった挿絵の評価を格段に引き上げた人物とも言われているそうだ。なお、北斎は一時期、馬琴宅に居候(いそうろう)していたことがあるようだ。 これ挿絵により、その名を広く知らしめた北斎は文化11年(1814年)54歳の時 画号・「戴斗(たいと)」の号で、もう一つの代表作『北斎漫画』初版を発刊(注:文政2年[1819年]頃に門人が二代目戴斗を襲名している)。そして、文政3年(1820年)から 「為一(いいつ)」の号を用い、文政6年(1823年)には『富嶽三十六景』の初版の制作を始め、天保2年(1831年)に開版、同4年(1833年)に完結することになるのである。
北斎は、読本の挿絵の仕事がひと段落した1812(文化9)年、関西へ旅立った。その帰り、尾張(名古屋)の後援者で門人の牧墨僊宅に半年ほど逗留し、人物や風物その他300余りのスケッチを描いていた。この下絵を見た名古屋の版元永楽屋東四郎(永楽堂)がその、デッサンの確かさ、生き生きとした動き、見ていて飽きのこないユーモラスなタッチを気に入り、これなら売れると即断、『北斎漫画』と題して翌年出版にこぎつけたのであった。この初編が好評であったことから、『北斎漫画』は、翌文化12年(1815年)に二編、三編を、文政2年(1819年)までに九編、十編まで出し、天保5年(1834年)まで十二編、北斎の亡くなる年の嘉永2年(1849年)に十三編が刊行されるが、全編(十五編)が完結するのは北斎没後の明治11年(1878)のことである(『北斎漫画』は※4で見ることが出来る)。 


上掲の画像『北斎漫画』の「相馬公家」は貴族に対する風刺画である。『週刊朝日百科日本の歴史』より。
全十五編には、人物、風俗、動植物、妖怪変化まで約4000図が描かれている。北斎はこの絵のことを「気の向くままに漫然と描いた画」と言っているようであるが、北尾政美(鍬形斎の名で知られる)の『諸職画鏡』(しょしょくえかがみ。※5参照)や『略画式』(※5参照)から着想を得て書かれているようだ。


上記2つの相撲図を比べると、恵斎の方があっさりとした描き方をしているのに対して、北斎は手足や体の動きがリアルに生き生きと描かれている。

また、1804(文化元)年から1806(文化3)年にかけて、恵斎が松平定信から要請を受けて描いたという肉筆図巻3軸「近世職人尽絵詞」(※6参照)にも強烈な刺激を受け、「なにくそ」という北斎の反骨心が「北斎漫画」を誕生させたのである。
この鍬形斎(1764-1824)という人物は、今日ではややマイナーな存在であるが、江戸時代には俗に、「北斎嫌いの斎好き」という言葉ができるほど評価された絵師であったようだ。
作風は、狩野派以外にも大和絵琳派などといった伝統画法も広く習得し、前述通り軽妙で洒落の効いた略画風の漫画を多数描いたことでも知られ、『増補浮世絵類考』(※3:「浮世絵文献資料館」のここ参照))では、「政美は近世の上手なり。狩野派の筆意をも学びて一家をなす。又光琳芳中が筆意を慕い略画式の工夫行われし事世に知る所なり」と高く評しているという。
こうした政美の「略画式」や鳥瞰的な一覧図は、同時代の北斎に『北斎漫画』や『東海道名所一覧』( ここ参照)『木曽名所一覧』といった形で真似された政美はこれを苦々しく思ったらしく、「北斎はとかく人の真似をなす。何でも己が始めたることなし」と非難したという逸話が残っている(斎藤月岑武江年表』の「寛政年間の記事」)ようだ。

ま、そのような絵画への執念が、『冨嶽三十六景』シリーズをも生み出したと言えるだろう。北斎は、大好評であった『富嶽三十六景』に飽き足らず、「為一」、「画狂老人」などの号で天保5年(1834年)、3巻からなる絵本『富嶽百景』をも出版している。3巻からなる絵本で、初編天保5年(1834年)刊行、二編は天保6年(1835年)、三編は刊行年不明(かなり遅れたらしい)。75歳のときが初版(為一筆)。富士山を画題に102図を描いたスケッチ集であるが、当時の風物や人々の営みを巧みに交えたもの。
以下の画像は、北斎の『富嶽百景』の1つ「浅草鶏越の図」で、中央の球は天体運行を観測するための渾天儀。国立国会図書館蔵。浅草天文台週刊朝日百科日本の歴史47より。
幕府は宝暦暦が宝暦13年(1763年)9月の日食予報を見落としたため改暦の作業に着手し、明和2年、(1765年)牛込に新暦調御用所(※7参照)を置いた。この役所は恒常的に天体観測を行っていたらしく、木が茂って空が見えにくくなったとして天明2年(1782年)浅草に移転したそうだ。

富岳百景の画像は他にみあたらないが、どんなものが描かれていたか、以下富岳百景図録で想像してください。

富岳百景図録–葛飾 北斎 著 (単行本/芸艸堂[うんそうどう])

しかし、広く世に知られているのはこの作品よりもむしろ、尋常ならざる図画への意欲を著した以下の跋文(後書き)のようである。
「己 六才より物の形状を写の癖ありて 半百の此より数々画図を顕すといえども 七十年前画く所は実に取るに足るものなし七十三才にして稍(やや)禽獣虫魚の骨格草木の出生を悟し得たり故に八十六才にしては益々進み 九十才にして猶(なお)其(その)奥意を極め 一百歳にして正に神妙ならんか 百有十歳にしては一点一格にして生るがごとくならん願わくは長寿の君子 予言の妄ならざるを見たまふべし」
つまり、「私は6歳より物の形状を写し取る癖があり、50歳の頃から数々の図画を表した。とは言え、70歳までに描いたものは本当に取るに足らぬものばかりである。(そのような私であるが、)73歳になってさまざまな生き物や草木の生まれと造りをいくらかは知ることができた。ゆえに、86歳になればますます腕は上達し、90歳ともなると奥義を極め、100歳に至っては正に神妙の域に達するであろうか。(そして、)100歳を超えて描く一点は一つの命を得たかのように生きたものとなろう。長寿の神には、このような私の言葉が世迷い言などではないことをご覧いただきたく願いたいものだ。」・・・と、100歳を超えてもなお絵師として、向上しようとする気概を語っている。
天保13年(1842年) 秋、83歳にして弟子の高井鴻山が住む信濃国高井郡小布施まで足を延ばし、亡くなる前年の嘉永元年(1848年)まで滞在。多くの作品を残している。当時の交通事情を考えると想像を絶する旅だった。
晩年期の天保5年(1834年)頃から肉筆画(肉筆浮世絵)を手がけるようになり、嘉永2年1月(嘉永二己酉年正月辰ノ日。1849年)、亡くなる3ヶ月ほど前に描かれた『富士越龍図』(絹本着色。落款:九十老人卍筆)が、北斎最晩年の作であり、これが絶筆、あるいはそれに極めて近いものと考えられている。幾何学的山容を見せる白い霊峰・富士の麓を巡り黒雲とともに昇天する龍に自らをなぞらえて、北斎は逝った。

北斎の代表作『富嶽三十六景』の「富嶽」とは富士山のことであり、各地から望む富士山の景観を描いているのである。江戸の人たちにとって富士山は常日頃仰ぎ見ることのできる山岳信仰のお山でもあった。
しかし、現代人と同じように素晴らしい景観の富士を見ることのできるところにいるからと言っても、当時は、各地に厳しい関所があり、人の移動は厳格に制限されていたし、道中の危険もあったので、一般に庶民の旅行は自由ではなかったが、公用・商用の旅、参詣湯治などの遊行、女性の場合には婚姻や奉公など様々な理由での旅はあったが、一般に庶民の旅行は自由ではなかった。
これらも含めて、庶民が自由に旅に出られるようになったのには、いくつかの理由がある。
先ずは江戸後期になって、江戸文化が花開き、娯楽が広がった。同時に街道が整備され,それに伴って、宿場も整い、旅の安全が確保されるようになった。
人々は通行手形を檀家である寺から発行してもらう事で、目的の場所に出掛けられ、特に信仰を目的にすれば、意外とどこにでも出かけられたが、あくまでも信仰だから、本音と建て前を区別しなければならない。遠くは四国の金毘羅権現や、伊勢参り。木曽の御嶽信仰。富士講等々。しかし、その目的地やそこにゆくまでの宿場には飯盛り女の居る宿も多く、当初から、参詣を理由とした観光や夜のお楽しみを目的とした旅も多かったようだ。
この頃に、有名な十辺舎一九が書いた弥次さん喜多さん旅物語『東海道中膝栗毛』は、名所・名物紹介に終始していた従来の紀行物と違い、旅先での失敗談や庶民の生活・文化を描き絶大な人気を博した。,又地図の代わりに観光名所の案内として、名所図会と云う画の案内書も売られる様になる。
そして、それまで、美人や役者を中心的な題材としていた浮世絵に、風景が主なジャンルとして本格的に加わってくるが、その立役者が、葛飾北斎と歌川広重である。
はじめに風景版画への扉を開いたのが、大ベテランの北斎で、富士を驚きの構図で、さまざまに描いた連作「冨嶽三十六景」が、当時の”お山信仰”“富士 山ブーム”、”旅行ブーム”と相まって空前の大ヒットし、それが元で広重 によって『東海道五十三次』が刊行された。
これは、天保3年(1832年)広重が東海道を初めて旅した後に作製したといわれている。北斎の『富嶽三十六景の』初版が西村永寿堂より出版された翌年のことである。広重は寛政9年(1797年)の生まれだから、『富嶽三十六景』初版が出たとき天保2年(1831年)は、まだ、34歳、『東海道五十三次』を出したときは35歳ということになる。
bw手ランと若い二人によって浮世絵における名所絵(風景画)が発達した。
二人はその後も、互いに意識しあい、新たな風景画シリーズの刊行、また、花鳥画のジャンルなどでも市場を競いあい、やがて北斎は版画の道を後進の広重に譲りつつも、肉筆画を中心に、亡くなる90歳まで現役を続行したのであった。そして、広重は、いっそう風景画の世界へと歩みをすすめ、ともに数多くの足跡をこの世に残してくれた。

以下目面しい画のみここにおいて置こう。


上掲の画像は、北斎の『江戸名所三十六景』本所の光景。東京国立博物館蔵。『週刊朝日百科日本の暦sぢ』24より。浮世絵師のとらえた近世の職人の働く姿はまことにダイナミックである。




上掲の画像は、「大小暦」 
現在私たちが使っているグレゴリウスでは、毎年、大の月と小の月の配列は変わらない、ところが、月の満ち欠けに基礎を置く太陰太陽暦では、毎年29日の小の月と30日の大の月の配列が異なり、更に閏月の挟み込まれることもあった。江戸時代の商慣習では掛け売りの清算は晦日となっていたから、庶民に月の大小を正確に知っておくことはとても大事なことだった。「大小暦」は、その年の大小の配列を工夫して1枚の刷り物に仕立てた略歴の一種で、貞享、元禄の頃から主に江戸を中心に流行した。機知にあふれ、多彩な摺り物の技法の盛り込まれた大小暦は現代のカレンダー文化の先駆けともいえる。
掲載の画像は、「謎解き」(寛政4年)。子の字を12並べ、文字の大小で、月の大小を示す。12字をどう読むか謎だったが、小野篁が「猫の子の子猫,ししの子の子獅子」と読み解いた伝えられるそうだ。勝川春朗(葛飾北斎)画。『週刊朝日百科日本の歴史』47より。

「余の美人画は、お栄に及ばざるなり お栄は巧妙に描きて、よく画法にかなえり」 (葛飾北斎)
(美人画にかけては応為には敵わない 応為は妙々と描き、よく画法に適っている) 
世界にその名が知れ渡っている伝説の浮世絵師である父の葛飾北斎にそう言わしめ、最も彼の才能と破天荒な性格を受け継いだと言われる北斎の三女お栄。彼女は画号を“葛飾応為(おうい)”とし 北斎の肉筆美人画の代作や春画の彩色を担当してきたという。 
世界に応為の作品は10点ほどしか現存していないそうだが その作品は、以下参考※8:「父北・斎の才能を受け継ぐ葛飾応為が描いた幻の作品「光の浮世絵」」で見ることができる。
また、葛飾北斎が描いた琉球(沖縄)の風景画が8点あるようだ。
しかし、北斎は実際に琉球を訪れた訳ではなく、1756年に来琉した冊封使・周煌が書いた琉球の見聞録『琉球国志略』に収録された絵図(「中山八景」)を元に描き、想像で着色したものだそうだ。これについては、以下参考の※9:「琉球八景(りゅうきゅうはっけい) - 沖縄事典 あじまぁ」で、絵お比較して展示しとぇいるので見てみるとよい。。

今日は、あえて、2013年(平成25年)6月22日に関連する文化財群とともに「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」の名で世界文化遺産に登録された富士山との関連でブログを書いた。
葛飾北斎の画業は主要画号の使用時期を基準に6期に区分するのが一般的なようである。
第1期「春朗期-習作の時代」 20歳頃~/安永8年(1779)頃~
第2期「宗理期-宗理様式の展開」 36歳頃~/寛政6年(1794)頃~
第3期「葛飾北斎期-読本挿絵への傾注」 46歳頃~/文化2年(1805)頃~
第4期「戴斗期-多彩な絵手本の時代」 51歳頃~/文化7年(1810)頃~
第5期「為一期-錦絵の時代」 61歳頃~/文政3年(1820)頃~
第6期「画狂老人卍期-最晩年」 75歳頃~90歳/天保5年(1834)頃~嘉永2年(1849)
詳しくは以下参参考の※10:「北斎展 作品リスト - 東京国立博物館」を参照。
ここには、各期ごとに、作品の名称、 版型・寸法 、 所蔵者 等が詳しく書かれているので、詳しく知りたい人は、これを頼りに、調べられるとよいだろう。
また、北斎のもう一つの代表作『北斎漫画』については、参考※11:「視点・論点 「漫画誌から見た『北斎漫画』」 | 視点・論点 | NHK 解説委員室」で、詳しく論いられているので参考にされるとよいだろう。、


参考:
※1:錦絵で楽しむ江戸の名所
http://www.ndl.go.jp/landmarks/
※2:葛飾北斎直筆の肖像画見つかる
http://www.ic.daito.ac.jp/~hama/news/s980902.html
※3:浮世絵文献資料館
http://www.ne.jp/asahi/kato/yoshio/index.html
※4:早稲田大学図書館:古典籍総合データベース:葛飾北斎
http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/search.php?cndbn=%8A%8B%8F%FC%96k%8D%D6
※5:早稲田大学図書館:古典籍総合データベース:北尾政美
http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/search.php?cndbn=%96%6b%94%f6+%90%ad%94%fc
※6:近世職人尽絵巻画像一覧 - 東京国立博物館
http://www.tnm.jp/modules/r_collection/index.php?controller=other&colid=A83
※7:東京都新宿区の歴史 新暦調御用所跡(天文屋敷跡)
http://tokyoshinjuku.blog.shinobi.jp/%E8%A2%8B%E7%94%BA/%E6%96%B0%E6%9A%A6%E8%AA%BF%E5%BE%A1%E7%94%A8%E6%89%80%E8%B7%A1%EF%BC%88%E5%A4%A9%E6%96%87%E5%B1%8B%E6%95%B7%E8%B7%A1%EF%BC%89
※8:父北・斎の才能を受け継ぐ葛飾応為が描いた幻の作品「光の浮世絵」
http://ameblo.jp/igatakeru/entry-11774514955.html
※9:琉球八景(りゅうきゅうはっけい) - 沖縄事典 あじまぁ
http://100.ajima.jp/history/term-history/e279.html
※10:北斎展 作品リスト - 東京国立博物館
http://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=24
※11:視点・論点 「漫画誌から見た『北斎漫画』」 | 視点・論点 | NHK 解説委員室
http://www.nhk.or.jp/kaisetsu-blog/400/197218.html
信州小布施 北斎館:サイトマップ
http://hokusai-kan.com/w/?page_id=1891
信州大学:付属図書館:近世日本山岳関係データーベース:
http://moaej.shinshu-u.ac.jp/?classification=%E7%B5%B5%E7%94%BB&paged=2
画狂老人卍的世界 INDEX
http://jam.velvet.jp/hokusai-0.html
「人物略画式」全頁画像(一覧)-福岡大学図書館
http://www.lib.fukuoka-u.ac.jp/e-library/tenji/wabi/wabi-html/ten/zen/jin/jin_itiran.html
国立国会図書館デジタルコレクション:江戸名所図会
http://dl.ndl.go.jp/search/searchResult?featureCode=all&searchWord=%E6%B1%9F%E6%88%B8%E5%90%8D%E6%89%80%E5%9B%B3%E4%BC%9A&viewRestricted=0
国枝史郎 北斎と幽霊 - 青空文庫
http://www.aozora.gr.jp/cards/000255/files/43563_17048.html
カオスを描いた北斎の謎
http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20070316/121233/
葛飾北斎 - GATAG|フリー絵画・版画素材集 - GATAG
http://free-artworks.gatag.net/tag/%E8%91%9B%E9%A3%BE%E5%8C%97%E6%96%8E
葛飾北斎 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%91%9B%E9%A3%BE%E5%8C%97%E6%96%8E

国際盲導犬の日

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国際盲導犬の日(International Guide Dog Day) 記念日
今日4月29日、は、国際盲導犬の日(International Guide Dog Day) 。
1989(平成元)年4月26日に国際盲導犬学校連盟(現、国際盲導犬連盟)が発足したことを記念して、1992(平成 4)年より国際盲導犬学校連盟が制定。
目の不自由な人にとって大切な盲導犬の普及と、盲導犬に対する人々の理解を高めるのが目的。
日本では公益財団法人日本盲導犬協会(※1)が一般社団法人日本記念日協会に登録。日付は国際盲導犬学校連盟の発足した日がその年の4月の最終水曜日だったことからだそうだ。

盲導犬は、視覚障害者を安全に快適に誘導する犬であり、身体障害者補助犬の中でもっとも広く知られた存在である。日本語名の由来は「盲人誘導犬」。
日本国内では道路交通法(※2参照)により、視覚障害者は公道を通行する際には、政令で定める杖(白杖)か、盲導犬を携帯しなければならないことになっている(※2、法第十四条第二項参照)。また、身体障害者補助犬法により、仕事中の盲導犬は胴輪式のハーネスを着用し、そのハーネスのハンドルにそれが盲導犬であることを明示し、その利用者はその盲導犬を使用するための使用者証や身体障害者補助犬健康手帳を携帯しなければならないことになっている。そして、盲導犬の訓練団体や利用者は盲導犬を清潔に保つ義務を持つている。これらを満たした盲導犬に対し、公に開かれた施設では正当な理由無く盲導犬の立ち入りを制限してはならないことになっている。従って、各施設などでは「犬だから」という理由で受け入れを拒否しないようにしなければならない。

盲導犬と言えば、私は、NHK総合テレビの月曜ドラマシリーズで放送された『盲導犬クイールの一生』(2003年全7話。※3参照)を思い出した。秋元良平(写真。※4参照)・石黒謙吾(文)による、視覚障害者と盲導犬、クイールの生涯を描いた写真集をドラマ化したものだが、1年後には崔洋一監督により『クイール』のタイトルで映画化もされた。
実話をもとに、多くの人々との出会いと別れを通して立派な盲導犬に成長をとげた、1匹のクイールの生涯を追う物語である。
映画のあらすじは、ラブラドール・レトリーバーの子犬(産まれたときの名は「ジョナサン」)が生ませの親の元から、盲導犬になるために訓練士を通じて、パピー(子犬)ウォーカー(※1のここ参照)と呼ばれるボランティアの夫妻に預けられ、ここで“クイール” (英語でquill「鳥の羽根」)と名づけられ、1年間愛情一杯に育てられながら社会や家庭の中で暮らすためのルールを学んでゆく。そして、盲導犬訓練センターでの本格的な訓練が始まるが、のんびり屋でマイペースなクイールはベテランの訓練士でさえ手を焼くほど。やがて立派な盲導犬へと成長したクイールは、視覚障害者とめぐり会い、初めこそ息の合わなかった障害者と、ハーネスを介して次第に心を開くようになり、互いにかけがえのない存在になっていくが、2年を過ぎた頃、飼い主である障害者は重度の糖尿病で入院。クイールは小学校などでのデモンストレーション犬として使われた後、それまでの飼い主である障碍者と3年後に3度目の別れをし、その後は、子犬の時のパピーウォーカーのもとに帰り、盲導犬として働くこともなくのんびりと余生を送り、静かに生涯を全うする。・・といったものである。
本当に感動の物語であった。なんといっても子犬の時代のクイールのかわいいこと。産まれて2ヶ月たつと、こんな可愛い子犬たちも一緒に育っていた母犬や兄妹犬のもとを離れ、1頭ずつパピーウォーカー宅に預けられ人間の家族の一員として生活を共にするのだが、1年たつと、パピーウォーカーにとってもせっかく育てた犬との別れの日が来る。人間の我が子同様、犬も社会へと巣立ってゆくのであるが、この辺は、犬にとっても、人にとっても悲しい別れですよね。
生まれたばかりの子犬が盲導犬になるのには、盲導犬ユーザー(視覚障碍者)をはじめ、繁殖犬飼育ボランティアやパピーウォーカーなど、じつに多くの人々の関わりがあってのこと。関係者の努力に頭が下がります。
●以下は映画の予告編である。


予告編でも見られる通り、こんなかわいい子犬が、生まれて後多くの人との出会い、別れ、また厳しい訓練などを繰り返し受けた後、長い期間ユーザーとの生活を共にするのだが、私など何もわからないものからすると、盲導犬のストレスは相当大きいだろうから、普通の犬と比較すると、長生きは出来ないのではないかと考えるのだが、実際には、それは誤解の様であり、盲導犬の寿命はだいたい13歳くらいで、ご主人といっしょにいることが好きな犬なので、常に盲導犬としてご主人(盲導犬ユーザー)のそばにいることからストレスが少ないこと、仕事を楽しめる犬が盲導犬になっていること、子犬の頃から健康管理には気をつけていることなどから、長生きする犬が多い様だという(※1のよくある質問参照)。
人のために一生を尽くした犬なのだから、そうでなければ可愛そうだものね~。“よくある質問”に書かれている通りであれば、救われた思いがする。盲導犬の一生については、この映画を見れば大体わかる。「関西盲導犬協会」(※5)の以下のページを見れば、盲導犬のことが詳しくわかるので、見て理解してください。
クイールと一緒に盲導犬を勉強しよう!
盲導犬を知る

世界の歴史上で、目の不自由な人の歩行補助に犬が使われていた様子は、最も古い例としては、古代ローマ時代ポンペイで発掘された壁画に見られ、13世紀に描かれた「黄河」というタイトルの中国の絵巻物にも同じような絵が発見されているそうだが、それらはどれもロープに繋がれた犬が、視覚障害者を引っ張っている、というものばかりであった。
確実な資料では、1819年、ヨハン・ウイルヘルム・クライン (Johann Wilhelm Klein) というウィーンの神父が、犬の首輪に細長い棒をつけ盲導犬として正式に訓練したのが最初だそうである。その後1916年に、ドイツ赤十字のシュターリンとドイツシェパード犬協会のシュテファニッツが、第一次世界大戦中、戦盲者(戦争によって失明した「失明戦傷病者」)のために盲導犬を育成しようとオルテブルグに学校を設立し、翌年に盲導犬が作出されて戦盲者の誘導に役立てたという。1923年にはポツダムに国立の盲導犬学校が設立され、多数の盲導犬が誕生し戦盲者の社会復帰を促したそうだ。
警察犬の実用化を研究するためヨーロッパに滞在中であったアメリカ人のドロシー・ハリソン・ユースティス夫人は盲導犬の活躍に関心を抱き、スイスのヴェヴェイにある盲導犬学校での研究の後、1929年にニュージャージー州モーリスタウン近くのホイッパニーに盲導犬育成の学校を設立した。これが現在、世界で最も歴史と実績のある協会“The Seeing Eye, Inc.”だそうである。
現在、アメリカ合衆国にはこの他にそれぞれが独立した組織として9つの育成施設があるが、その内容はまちまちで質的にもかなりの差があるようだ。また、イギリスでも、1930年に、“The Seeing Eye, Inc.”より1人の指導者を招聘し、1934年に英国盲導犬協会が設立された。このようにして、盲導犬育成事業は少しずつ、世界各国に広まってゆき、現在、国際盲導犬連盟(International Guide Dog Federation = IGDF)という国際組織が出来、日本を含め30カ国84団体が加盟しているようだ。(※1のここ参照)。本部はイギリスにあり、世界各国の盲導犬育成事業の発展をサポートすることを使命として、繁殖や盲導犬訓練に関する情報交換、スタンダード(標準、規格)づくりなどを行っているという。

日本では、1938(昭和13)年、アメリカ人の盲導犬ユーザー、ジョン=ゴードン氏が“The Seeing Eye, Inc.”卒の盲導犬と共に観光旅行で来日し、各地で講演会が開かれたことがきっかけとなり、その後1939年、浅田・磯部・荻田・相馬の四実業家が1頭ずつ、盲導犬としての科目を訓練した犬をドイツから輸入して陸軍に献納。日本シェパード犬協会(現: 日本シェパード犬登録協会)の蟻川定俊が、ドイツ語の命令語を日本語に教え直した後、戦盲軍人が使用したという。しかし、4頭の死亡後、盲導犬は絶えたまま敗戦を迎え、国中が生活に追われていたこともあって盲導犬の育成のことなどは全く忘れられていた。
国産の盲導犬が誕生したのは、第二次世界大戦後の塩屋賢一(後のアイメイト協会創設者)が試行錯誤の末、日本人として初めて盲導犬の訓練に取り組んだ。そして1957(昭和32)年、ジャーマン・シェパード犬(犬の名:チャンピィ)を盲導犬として訓練することに成功し、チャンピィの所有者であった河相洌氏(塩屋に盲導犬としての調教を依頼した人であり、河相達夫の子。当時、滋賀県立彦根盲学校教諭)が国産第一号の盲導犬のユーザーとなった。このことがきっかけで、日本においての盲導犬(ひいては聴導犬や、介助犬などの身体障害者補助犬)の拡大につなげていくことにもなった。
そういえば、この日本第一号の盲導犬導入の逸話も「盲導犬クイールの一生」が放映される1年前の2002(平成14)年2月12日に同じNHK『プロジェクトX〜挑戦者たち〜』で「ゆけチャンピイ 奇跡の犬~日本初の盲導犬・愛の物語~」というタイトルで取り上げられていた。以下でその動画の一部が見られる。
●動画挿入


また、2008(平成20)年9月13日には『ありがとう!チャンピイ』というタイトルでフジテレビの「土曜プレミアム」枠でテレビドラマ化もされていた(※6参照)。
一人の調教師(塩屋賢一役:高嶋政伸)とチャンピイの飼い主である一人の視覚障害者(河相洌役:伊藤 淳史)が、家族の応援を得ながら日本初となる盲導犬を誕生させるというドラマ(実話)には、「人間と犬の」だけではなく、「家族愛」、「人間愛」、そして「使命感」という要素がたくさん詰まっている。
現在、日本での現状は、ジャーマン・シェパード・ドッグよりも、ラブラドール・レトリバーや、ゴールデン・レトリバー、ラブとゴールデンの雑種 (F1レトリーバー) が多く活躍している。これは、シェパードのように精悍な顔つきよりもラブのようにおっとりして温和な顔つきの方が、街を歩く犬嫌いの人や子供にも受け入れられ易いことが大きな理由となっているようだが、このドラマ『ありがとう!チャンピイ』で、使用した盲導犬は、当時を正確に再現する為、今では使用されていないシェパード犬が起用されている。それにこの時代には盲導犬であっても、犬を連れて電車には乗れず犬は貨物扱いで運ばれたりもした。盲導犬チャンピーの、最後は河相が上京の際に預けた浜松の知り合いの獣医のもとで急死してしまうが、「クイール」の時とは状況も違ていてかわいそうな最後だったね。
このドラマ『ありがとう!チャンピイ』のテーマ曲には、私も大好きな中島みゆきの 「」が使われていた。以下はその動画リンク付き歌詞ブログである。
「ありがとう!チャンピイ~日本初の盲導犬誕生物語」テーマ曲 - 中島みゆき「糸」
野島伸司脚本の1998年TBS系の金曜ドラマ枠で放送されたテレビドラマ『聖者の行進』にて前半主題歌に使われ、その後バンクバンドにてカバーされた曲は、同じフジテレビの2 時間ドラマ、2007年3月、人と動物、愛のドラマスペシャル『太郎と次郎~反省ザルとボクの夢~』、同年4月金曜プレステージでの人と動物、愛のドラマスペシャル。難病に冒された14歳の少女が、介助犬との出会いによって笑顔を取り戻すまでの過程を描いた物語『介助犬ムサシ~学校へ行こう!~』の主題歌としても使われている。
2011(平成23)年3月の東日本大震災後、人と人との関わりあいから生まれる「絆」の重要性は人が、飼っている犬や猫など動物との間にもあることが再認識された。特に、身体障碍者と身体障害者補助犬との絆は、普通の人と人以上に太いものだろう。中島みゆきの歌は詩がとっても良いね~。



身体障害者補助犬には、ここに書いた盲導犬の他に聴導犬や、介助犬がいる。それぞれの仕事内容は異なるが、「身体障害者の自立と社会参加を促進する」という目的は同じである。
現在日本国内でのこれら身体障害者補助犬(3種類の補助犬)の育成・認定団体状況を見ると、これら3種類(盲導犬、介助犬 聞導犬)全ての補助犬を育成及び認定できる団体(法人)は、公益財団法人日本補助犬協会のみであり、この協会以外に、盲導犬の育成をしている団体が9団体、介助犬の育成団体が11団体、聞導犬の育成団体が8団体あるようだ(※7参照)。
3種類の補助犬関係団体には、其々の役割がある。 つまり育成と認定であるが、特に認定を行う団体は、盲導犬は国家公安委員会、介助犬・聴導犬は厚生労働省の指定法人となる必要があるようだが、盲導犬育成団体には、国家公安委員会の認定のない団体はないが、介助犬・聴導犬の育成団体の中には、厚生労働省の指定法人となっていないところもあるようだ。
「介助犬」は、肢体不自由者の日常の生活動作のサポートをしてくれるし、「聴導犬」は、聴覚障害者に音を聞き分けて教え、音源へ誘導してくれるが、これら、介助犬・聴導犬の育成に関しては、厚生労働省の定める訓練基準)や認定要領に基づいて行われている必要がある(※8:「厚生労働省:身体障害者補助犬」の3 身体障害者補助犬に関する情報参照)。
「盲導犬」は、視覚障害者の安全で快適な歩行をサポートするため、政令で定めるハーネス(胴輪)をつけて、使用者に「障害物・曲がり角・段差」を教えてくれる。・・・が、盲導犬による歩行は盲導犬とユーザー­との共同作業だといわれている。
目が不自由と言っても、全く目の見えない人、見えても見えにくい程度が人それぞれに違う。従って、その目の不自由さによって、日常生活では何が必要か、目の代わりとなる情報も違ってくる。盲導犬との歩行もその一つである。盲導犬は様々な目の変わりになる情報を伝えてくれるが、盲導犬がいても信号の判断をしてくれるわけでも、行きたいところへ連れて行ってくれるわけでもない。目の不自由な人は、自分が行きたいところまでの地図を頭に描き、盲導犬に指示を出しながら歩くわけで、信号の判断も目の不自由な人が、主に車の音などを聞いて青か赤かを判断しなければならない。何もしないでも盲導犬が判断して誘導してくれるわけではないので、そのため、ユーザーも盲導犬と一緒に訓練が必要なのである。だから、目が不自由だからと言って、誰にでも盲導犬が必要でもないし、逆に、盲導犬と一緒に行動できない人もいるわけである。
盲導犬の育成をしている9団体の中に、日本初の盲導犬を育てた塩屋賢一が創設したというアイメイト協会があるので、同協会のホームページ(※9参照)を覗いてみると、“私たちの協会は「盲導犬」ではなく「アイメイト」という呼称を使っているとして、その理由”を以下のように述べている。
日本ではひと口に「盲導犬」と呼ばれているが、米国では「Seeing Eye Dog」「guide dog」「leader dog」など、いくつかの呼び方があり、たとえば「Seeing Eye Dog」と呼べるのは、米国でもっとも優れた技術や歴史、哲学を誇る団体The Seeing Eye inc.が送り出した犬だけ。つまり米国では、出身団体や犬の能力などによって、それぞれ呼び方が異なる。日本においても、定義だけを見ても育成団体ごとに違いがある。・・・として、
アイメイト教会では、「アイメイト」(盲導犬の呼称)の定義を「全盲者が晴眼者の同行や白杖の併用なしで犬とだけで単独歩行できる。」・・・としているのに対して、その他の盲導犬育成団体では、その定義を・白杖との併用が前提。・原則として晴眼者が同行する。・限定した場所のみ歩行できる。・全盲者は対象としない。(※全盲者が単独歩行できる協会もある)。・・・と協会によってまちまちの様だという(ここ参照)。
また、盲導犬育成団体には、上部組織や代表組織はなく、各育成団体がそれぞれの基準に基づいて事業を行なっているそうだ。確かに、ややこしい話ではあるが、先にも書いたように、目が不自由と言っても、全く目の見えない人、見えても見えにくい程度が人それぞれに違うのであれば、その人の状況等に応じて必要とする盲導犬も違っていて当たり前かもしれないとは言えるのだが・・・。
全日本盲導犬使用者の会(※10)の盲導犬データ を見ると、2012年 3月末現在、全国の盲導犬実働数は、1043頭。2011年 3月末の盲導犬実働数は1067頭だったので、昨年に続き盲導犬実働数は減少しているという。世界各国の盲導犬実働数は、連盟に加盟していない国もあるので、正確にはわからないが、盲導犬の訓練は、約30数か国で訓練され、世界では、約25,000頭以上の盲導犬が活躍していると推定されており、全国盲導犬施設連合会発行機関誌「デュエット」第15号 (2006年4月発行)より、国別の実働数を見ると、1位、アメリカでは8000頭以上、2位、イギリス4656頭、3位、ドイツ1500~2000頭、4位、フランス1500頭に続いて、5位、日本957頭(2014年3月31日現在1,010頭)となっているようで、人口で見ると少々少ないように思われるのだが・・・。
※5:「関西盲導犬協会」のホームページの「日本と世界の盲導犬普及の違い」にも、 国内の視覚障害者数約38万人に対して、実際に活動している盲導犬ユーザーの数は1031人(2014年3月末現在)と明らかに少なく、これは、世界各国の導犬普及率見れば明らかになっているが、これは、盲導犬の数だけではなく、視覚障害者が盲導犬を申し込んでからお渡しするまでの待機期間も大きな開きがあるようだ。それには、歩行環境や住宅面、犬に対する意識、共同訓練のための社会的認識、優秀な繁殖犬の確保が難しい等々いろいろな要因があるようだ(ここ参照)。私たちは、もう少し、盲導犬のことについて協力してゆかなくてはいけないでしょうね。
しかし、盲導犬の育成も必要だが、これからの少子・高齢化社会においては、介助犬(身体障害者補助犬)を必要とする人も益々増えてくるのではないだろうか。
介助犬と言えば、我が地元・兵庫県宝塚市在住でコンピュータプログラマーの木村佳友に飼われていた。「シンシア」という名の介助犬がいたのを知っていますか。育成団体で訓練を受け、1996(平成8)年7月に介助犬となった。1998(平成10)年に、毎日新聞社が介助犬の法的認知を訴えるキャンペーンを行ったことから、その存在が広く知られるようになった。
毎日新聞の地域面(兵庫、大阪面)に掲載された連載「介助犬シンシア」は523回(1998年9月-2006年2月)を数えた。ちなみに、その後シンシアは206(平成18)年3月に死亡したことから、シンシアの献身的な働きぶりは全国の人々の共感を誘い、障害を持つ人のパートナーとして多くの人が認めるところとなった。そして、2000(平成12)年5月、宝塚市が「シンシアの街」を宣言するなど、介助犬受け入れの機運は盛り上がりを見せ、ついに、2002(平成14)年5月「身体障害者補助犬法」が成立し、同年10月に施行されることになった。こうした一連の補助犬認知運動の中で、シンシアは補助犬の象徴的存在として大きな役割を果たしたのである。
シンシアは人間なら60~70歳となった2005(平成17)年12月、介助犬を引退。木村家で余生を送っていたが、翌2006(平成18)年1月にひ臓に腫瘍が見つかり緊急手術。同年3月14日、に死去(12歳)している。今年・2015(平成27))年3月14日、JR宝塚駅構内に「シンシア像」(※11のここ参照)が設置された。
なお、木村さんの介助犬はシンシアからエルモへ、エルモ(11歳)も2014(平成26)年04月30日介助犬を引退、デイジーへとバトンタッチされているようだ(※11の介助犬『シンシア・エルモ・デイジー』関連の新聞記事参照)。
そして、飼い主の木村さんは現在「日本介助犬使用者の会」(※11のここ参照)の会長を務め、介助犬普及活動の中心的存在として活動している。
介助犬について“日本では1992(平成4 )年に育成が始まり、身体障害者補助犬法の成立により、社会福祉法人となった育成団体が数カ所あるが、ほとんどはNPO法人などのボランティア団体であり、トレーナーの数も充分とはいえない。育成費が実費だけでも1頭30~50万円、人件費・諸経費を含めれば300万円以上を要し、またトレーニングにも相当の時間がかかる。現在、行政による介助犬の育成助成制度も設けられたが、各都道府県によるメニュー事業のため、育成助成制度の無い都道府県もあるなど、育成経費の多くは、賛助会費・寄付金・バザーの売上等などからの収入でまかなわれており、従って、介助犬の育成頭数に限りがあり知名度も低いのが現状だ”・・という。“介助犬の都道府県別分布”状況も表示されているが、 “身体障害者補助犬法に基づいて、正式に認定され実働している介助犬は71頭(2015年02月01日現在)”(※11のここ参照)というから、確かに、2012年 3月末現在で、全国の盲導犬実働数が、1043頭もいるのに対して、これは余りにも少ない数だ。盲導犬同様に、もう少し、介助犬に対する理解が深まらなくてはいけないだろう。

そんな中、「言葉だけでは伝わらないことがある」「歌で補助犬への理解の輪を広げたい」と、身体障害者補助犬法が成立、施行した2002(平成14)年、補助犬の歌2曲を作った時の気持ちを忘れず、今もコンサートで人々の心に響かせているフォークデュオがいる。『冬が来る前に』などのヒット曲で知られる西宮市在住のフォークデュオ「紙ふうせん」(後藤悦治郎、平山泰代)である。
その歌とは、介助犬シンシアを歌った『あなたの風になりたい』と3種類の補助犬をテーマにした『補助犬トリオ』の2曲であり、コンサートやCDなどを通じて、補助犬の理解を深めてもらおうと努力している。
2012(平成24)年12月9日(日)宝塚市で開かれた「第21回障害者週間記念事業・第14回身体障害者補助犬シンポジウム」の記事に、紙ふうせんの、後藤悦治郎さん、平山泰代さんのこの歌の作成に関してのコメントが掲載されている。そこには、以下のように書かれている(※11のここ参照)。
毎日新聞で長期連載中の「介助犬シンシア」をずっと読んでいて、介助犬に関心を持っていた。そんな折、補助犬法が成立した時の新聞に、飼い主の障害者、木村佳友さん(当時42歳)の「法律ができても、受け入れ側の心のバリアフリーがないと、社会参加はできない」という内容のコメントが載っていた。
後藤さんが作詞・作曲したのは「あなたの風になりたい」。曲作りのため木村さん宅を訪ねた時のシンシアの印象は、「なんて透明感のある犬なんだ」であったという。
“ぼくら人間の心はいろいろなものが塗りたくられているけど、シンシアは純粋で惜しみない愛を木村さんに注いでいる。障害を乗り越えてきた木村さんも同じ愛で応えている。そのにごりのない関係を歌にしようと思った。シンシアはいつも木村さんのそばにいて、そっと後押しする「風」のような存在だと考え、「あなたの風になりたい」を作詞、作曲した。歌にはあえて「介助犬」という言葉は入れなかった。初めて聴いた人が、「シンシアって何だろう?」と、関心を広げて、介助犬のことを知ってほしいと願っています。”・・という。
平山さんは補助犬に親しんでもらおうと『補助犬トリオ』を作詞・作曲した。「制服着た時は そっと見ててね 声をかけないで」と補助犬に出会った時のマナーも織り込んだ。それは平山さんに苦い経験があったから。学生時代に西宮市から大阪市へ向かう電車で視覚障害がある男性と盲導犬のペアに出会った。「どう接したらいいんだろう」と戸惑うばかりで何もできなかった。平山さんは「犬ではなく人に『お手伝いすることはありませんか』と声をかければよいのです」と歌で呼び掛ける。
後藤さんは補助犬の役割は大きくなると信じる。「犬が1頭いれば心が和む。ロボットには愛やぬくもりはありません」と、高齢者福祉介護の現場での活躍に期待を寄せる。
平山さんは教育が大事だと考えている。「子どもの時に体験すれば記憶に残るもの。学校で保護者と一緒に学んだり、家で補助犬について会話してみては」と提案し、子どもに願いを託しているという。。
平山さんは、「歌手として、心のバリアフリーのために歌いたい」と心を動かされ、作詞、作曲した『補助犬トリオ』は、子どもたちでもすぐに歌えるような親しみやすい歌にしているので、口ずさむうちに自然に補助犬の役割や出合った時のマナーを理解してもらえたら、うれしいです。・・・といっているそうだ。

『あなたの風になりたい』
 いつも あなたが さがしてる
 希望の星が雲にかくれる時
 いつもあなたの 風になり
 悲しみ色の雲を 吹き飛ばそう
 きこえる あなたの声が
 シンシア シンシア
 グッドガール グッドガール
 あなたは 心のマストを上げて
 私はあなたの 風になりたい

『補助犬トリオ』
 僕らは イヌ科の 動物に生まれた
 人間が 大好き いつでも どこでも
 自慢の鼻と耳 走れば風のよう
 言葉覚えて レッスン重ねたら
 僕達 働く スリーナイスドッグ
 盲導犬 聴導犬
 介助犬 補助犬トリオ
(※歌詞はいずれも1番)
『補助犬トリオ』の全歌詞はわからないが、『あなたの風になりたい』の全歌詞は以下で、見られるし、また以下の動画で歌も聞ける。
あなたの風になりたい レインブック - 歌詞タイムhttp://www.kasi-time.com/item-41274.html

さ~、私達には、何ができるのか。人それぞれに協力できることは違うだろうが、せめて、補助犬と補助犬を必要としている人たちのことを十分に理解し気持ちよく接してあげたいものですね。

冒頭の画像盲導犬は厚生労働省HPより借用のもの。
参考:
※1:日本盲導犬協会
https://www.moudouken.net/
※2:道路交通法施行令
http://law.e-gov.go.jp/htmldata/S35/S35SE270.html
※3:【盲導犬クイールの一生】 NHK月曜ドラマシリーズ
http://www6.nhk.or.jp/drama/pastprog/detail.html?i=moudou
※4:犬 インタビュー 写真家 秋元良平 盲動犬クイール PETLINK
http://www.petlink.jp/topic_interview/data/interview/007/interview007.htm
※5関西盲導犬協会盲導-犬を知る
http://www.kansai-guidedog.jp/knowledge/history/index.html
※6:ありがとう!チャンピイ~日本初の盲導犬誕生物語~」|番組|2008年度 番組活動トピックス
http://www.fujitv.co.jp/csr/activities_report_2008/bangumi/report/0014.html
※7:公益財団法人日本補助犬協会
http://www.hojyoken.or.jp/
※8:厚生労働省:身体障害者補助犬
http://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/hukushi_kaigo/shougaishahukushi/hojoken/index.html
※9:アイメイト協会公式ブログ
http://www.eyemate.org/
※10:全日本盲導犬使用者の会
http://guidedog-jp.net/index.htm#menu2
※11:介助犬シンシア日記
http://homepage3.nifty.com/cynthia/index.htm
盲導犬 – Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%B2%E5%B0%8E%E7%8A%AC
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