今日・9月1日は境涯の俳人と呼ばれた
富田木歩(とみたもっぽ)の1923年の忌日である。
東京の下町、
墨田区の
向島2丁目の、
隅田川に沿った
墨堤(ぼくてい)通り(墨田区
吾妻橋から足立区千住桜木までの道路の呼び名)から少し入ったところに、
三囲神社(三囲稲荷社。※1:「Google Earthで街並散歩(江戸編)」の江戸北東エリアの
三囲神社も参照)がある。創建年は不詳であるがなかなか由緒ある神社で、三囲の名は社殿の下から掘り出された翁がまたがる白狐の神像から白狐が現れて、三遍回って姿を消したことに由来するとされる(国立国会図書館・近代デジタルライブラリー『
江戸名所図会』※2の7巻.-19の本文参照)。
新春行事の「隅田川七福神めぐり」(※1の江戸の巡礼の
隅田川七福神)の神社のひとつにもなっている。この三囲神社(三囲社)のことは、以前このブログ
「雨水」(うすい)で触れたが、元禄6年(1693年)、
旱魃(かんばつ)の時、
松尾芭蕉の一番弟子と言われる俳人
宝井其角が偶然、当地に来て、地元の者の哀願によって、この神に雨乞いする者に代わって、
「遊(ゆ)ふた地(=夕立のこと)や田を見めくり(三囲)の神ならは」
と、一句を神前に奉ったところ、翌日、降雨を見たという。このことからこの神社の名は広まり、京都の豪商
三井氏が江戸に進出すると、その守護神として崇め、
三越の本支店に分霊を奉祀したという。
国立国会図書館・近代デジタルライブラリー『江戸名所図会』(※2)の19巻-4「三囲稲荷社拡大図」
そのせいか、同社境内には、其角の句碑をはじめ、著名俳人の句碑がたくさんあり、その中に、富田木歩の句碑もある。
「夢に見れば死もなつかしや冬木風 木歩」
同句碑は、全国の俳人有志が浄財を出して、木歩の慰霊の為に建てたもので、同句碑の書は
臼田亞浪による。
句碑裏面には「大正拾参年九月一日震災の一周年に於て木歩富田一君慰霊乃為建之友人一同」と刻まれている(※3 参照)。
1989(平成元)年3月には、富田木歩終焉の地である枕橋(※1の江戸北東エリア・隅田川・向島の
源森橋参照)近くには、以下の句碑が墨田区によっても建立されている。
「かけそくも咽喉(のど)鳴る妹よ鳳仙花 木歩」
肺を患い死期の迫った妹を歌ったものである。木歩はすぐ年下の妹を看病をするが、妹もまた兄思いであった。その妹は大正7年7月になくなている。
富田木歩は多くの俳人の中でも特異な俳人である。木歩は、1897(明治30)年4月14日、東京市
本所区新小梅町(現在の東京都墨田区向島一丁目)、つまり、三囲神社のすぐ隣りに生まれた。木歩が生まれた明治30年頃は、まだ江戸時代のおもかげの残った下町であったという。
最初の俳号は吟波、後に木歩と号するようになる。誕生の翌年、高熱のため両足が麻痺し生涯歩行不能になった。加えて貧困のため、本人の強い希望にもかかわらず義務教育である小学校にも通えず、2人の姉・富子や久子に当時の「
いろはがるた」や「軍人
.めんこ」などを読んでもらって文字を覚え、それを頼りに、少年雑誌のルビ付きで難しい漢字をも会得したという。
俳号の木歩は、彼が歩きたい一心で自分で作った木の足に依る。
彼には4人の姉妹と兄、
聾唖の弟がいたが、姉妹は貧困のゆえにことごとく遊郭に身を落とし、一人の妹と弟も結核で亡くなっているが、彼の最期も無惨なものだった。
木歩自身も、1918(大正7)年21歳のころから、喀血するようになり、病臥の身となった。歩行不能、
肺結核、貧困、無学歴の四重苦に耐えて句作に励み、「大正俳壇の
啄木」と言われ将来を嘱望されていたが、1923(大正12)年9月1日、
関東大震災で焼死。26歳の短い生涯を終えた。
そもそも、富田家は旧家で代々、向島小梅村近辺の大百姓だったそうだ。向島には三業組合(三業とは 芸者
置屋、料理屋、
待合のことであり、三業組合の事務所として
見番[検番]がある)が今でもあり、
花街がある。また隅田川土手は
隅田公園と言われ、江戸時代に8代将軍・
徳川吉宗が桜を植えたのが始まりの桜の名所として有名。そして、同じく吉宗が大川端(現在の隅田川河畔)で催した、「川施餓鬼」(死者の霊を弔う法会=
施餓鬼)に遡る隅田川の花火(
ここ参照)は夏の風物詩であり、冬は雪見の名所でもあった(※4、※5参照)。
広義の向島、隅田川東岸には「牛島」「柳島」「寺島」などといった地が点在していた。対岸地域から見て、これらを「川向こうの島」という意味で単に「向島」と総称したとも言われている。「向島」の名前が正式な行政地名としてつかわれるようになったのは1891(明治24 )年に向島小梅町、向島須崎町、向島中ノ郷町、向島請地町、向島押上町などといった地名の誕生からのこと。墨田区が成立する前、1932(昭和7)年、向島区が成立した。
木歩の祖父は明治のはじめにそんな向島に初めて
芸妓屋を開いて花街の基礎を作った人で、
言問にあった「
竹屋の渡し」も所有していたそうだ。
隅田川には江戸時代を通じて渡し(
渡し船)は増え続け、最盛期の明治時代初頭には20以上の渡しの存在が確認できるという。
「竹家の渡し」はその一つで、「向島の渡し」とも称された。待乳山聖天(
本龍院)のふもとにあったことから「待乳(まつち)の渡し」とも称される。「竹屋」の名は付近にあった茶屋の名に由来するという。現在の
言問橋のやや上流にあり、
山谷堀から 向島三囲神社)を結んでいた。
先にも書いた通り、付近は桜の名所であり、花見の時期にはたいへん賑わったという。竹屋の渡しは、文政年間(1818年 - 1830年)頃には運行されており、1933(昭和8)年の言問橋架橋前後に廃された。近くの台東区スポーツセンター広場に渡し跡の碑がある(※1の
ここ参照)。
しかし、木歩の祖父の七男丑之助、すなわち、木歩の父親は、万事派手で博打好きで、分けてもらった財産のあらかたを無駄に使い尽くし、おまけに1889(明治22)年の大火で屋号「富久」の本家も資産の大方が灰に帰すと、1897(明治30)年ごろには丑之助一家は、小梅町の一角に鰻屋「大和田」をやっと開いているだけの貧乏所帯だったという。
そんな、父丑之助、母み禰(みや)の次男として生まれた木歩の本名は、一(はじめ)と言った。一が生まれた時、既に長男の金太郎、2人の姉(長女富子と次女久子)がいた。
木歩が次男なのに一と名付けられたのは、母の実兄、野口紋造に子供がないことと、貧乏だったので、口減らしの為、生まれてすぐ、養子になる約束を取り交わしていたからだが、木歩は、1歳の時に高熱を出して両足が麻痺してしまったが、長じるに従がって、膝から下は萎びた細い脛がだらりとぶら下がっているだけで、両足がきかなく歩けなくなっったため、養子の約束は伯父の方から破約されてしまった。そして、三男利助、更に2人の妹、三女まき子、四女静子と兄弟は7人となり所帯はますます苦しくなった。その上、無情にも弟利助は聾唖者だった。そのため世間からは鰻屋は「殺生をして商いをする家だから、二人も不具者が出たのだ」と陰口されていたという。
後に“我ら兄弟の不具を鰻賣るたゝりと世の人の云ひければ”…と題して木歩は以下の句を詠んでいる。
鰻ともならである身や五月雨(さつきあめ)
ここで彼はいっそ鰻にでもなりたい、鰻にさえなれぬ、と
諧謔(かいぎゃく)の背後に悲痛な哀感を滲ませて呟いている(※6:「やぶちゃんの電子テクスト集:俳句篇」のやぶちゃん版新版富田木歩句集参照)。
生まれながらにして不運な木歩。なんともやりきれなかったことだろう。
父丑之助の鰻かばやきの店は、もともとあまり繁昌しない小店であったが、その上に、1907(明治40)年全国的な大水害で、隅田川が決壊する大洪水があり、店は水没して、大きな被害を受けた。そのため、二人の姉富子と久子は店の再興資金のために上州
高崎の遊郭へと売られて行き、足萎えの木歩にも玩具造りの内職をさせて、苦しい家計を助けさせるに至った。さらに、3年後の1910(明治43)年、一が13歳の8月にも、関東一円から宮城県下まで大洪水で、東京府内では隅田川ほとりの町が最も惨状だった(明治43年の水害については※7参照)という。富田家は、この大洪水によって大打撃を受け、いよいよ貧困に陥り、1912(大正元)年には、父親も不遇のうちに世を去ってしまった。
家業は兄が継いだが、一向に暮らしは立たず、小梅町の店をたたみ、母と弟妹を連れて本所仲之郷(詳しくは判らないが現在の住居表示で向島三丁目あたりか?)の小店に引越し、そこで再び鰻屋「大和田」の暖簾を掲げた。足萎えの一も口減らしのため翌年16才の時に、友禅型紙彫りの奉公に出された。しかし、奉公先では陰湿ないじめに会い、耐えられずその年の冬、家に戻る。半年の奉公だったが、そこで2つ年下の「兄弟子」土手米造と出会った。冷たい朋輩の中で、優しく親しんでくれた彼はのちに木歩の最初の句仲間となり、波王と号している。
友禅型彫りの仕事から戻った「大和田」に一の居場所はなかった。一が奉公に出ている半年の間に兄金太郎の嫁梅代は子を生み、「大和田」の店は兄夫婦中心の家になっていたからだ。不具者がいると店の客商売にも障りとなるのを知って、一と母、弟、妹らは裏の叔母、野口みよの小さな家に同居させて貰うことになった。叔母は鰌(どじょう)屋の板前の良人をもつ貧しい生活だったが、温かい善意の人で、その甥たちを迎え入れてくれたという。
大好きな少年雑誌を読むことと、そのころから見よう見まねで始めた俳句だけを心の支えとして一は吟波の俳号で俳句の試作を始めた。
俳句との出逢いは1913(大正年)年頃、少年雑誌の中にあった
巌谷小波の俳句のページに惹かれ、俳句を作るようになったという。はじめ『石楠(しゃくなげ)』主宰の臼田亞浪(先に挙げた「三囲稲荷社」の木歩句碑の書人)が選をする「
やまと新聞」俳壇に投句し入選をつづけ、1914(大正3)年「
ホトトギス」8月号の、投句資格が初めて句作する人に限られた「俳句の作りやう」欄に吟波の名で投句した、「朝顔や女俳人の垣穂より」の一句が「少年吟波」の名で初入選。
原石鼎は忙しい中を再三指導に来てくれたが、芸術家的であり、放浪型の天才肌タイプの吟波にはなじめず、原石鼎から遠ざかり「ホトトギス」からも離れたという。
そして、翌・1915(大正4)年、彼は臼田亞浪に師事し、「石楠」に投句するようになった。臼田亞浪の真実を重んじる句風なり、生き方なりに共鳴するものがあったからだったという。
この年、姉の富子と久子、兄金太郎の三人が金を出し合い、本所仲之郷曳舟通り(※1のここ→
曳舟川/古川の土手道また、※8参照)の
棟割長屋を借りてくれた。
一は、母み禰、弟利助、妹のまき子、静子らと一緒に叔母の家からそこへ移った。長姉の富子はその頃、須崎の芸妓屋「新松葉」の主人白井浪吉の妾となって、高崎から向島へ戻ってきており、次姉の久子は北海道の昆布商人の妾となって小樽に移り住んでいた。まき子は印刷工場に通い、利助は玩具店で働きはじめた。母み禰と木歩はその玩具店から人形の屑削り(鋳型の泥人形のふちの屑を削り取る作業)の内職を回してもらった。だが、その仕事は不定期で収入が安定せず、少しでも日銭を稼ごうと駄菓子屋も始めた。開店の費用は、富子と久子が都合してくれたようだ。
そんな棟割長屋の駄菓子屋の入口に一が「小梅吟社」の看板を掲げたのは1916(大正5)年、20歳の時である。一と出会った友禅型紙彫りの奉公先を辞め広島に帰っていた土手米造が再び上京し、旧交をあたため、木歩の俳句の熱心な弟子となった。木歩は米造の俳号を「波王」と名付けた。かつての型紙職人の朋輩を誘って、ほかに近くの向島医院の代診の亀井一仏など数人の弟子ができ、「小梅吟社」に近所の若い職工などもやって来るようになった。
また木歩は、父や兄が遊び人であったおかげで
藤八拳や
花札がめっぽう上手く、
百人一首にも長じていたため、小梅吟社は俳句団体というより少年少女の倶楽部であり、若者らの明るい声に包まれる社交場ともなっていたという。
女流作家で俳人でもある
吉屋信子は、1963(昭和38)年、生前の
新井声風に会い話を聞き、著書「底の抜けた柄杓-憂愁の俳人たち-『墨堤に消ゆ』」の中で、木歩の若い宗匠ぶりを次のように書いているという。
「……その狭い長屋の六畳からはみ出るほど人が集まったとは、若くして吟波には人間の魅力があったと思える。不具にありがちな陰気な暗さやひがみはまったく彼にはなく、じつに明朗でかつもの柔らかに謙譲だった……」(※9参照)・・・と。
「今宵は向嶋の姉に招かれて泊りがてら遊びに行くのである。
おさえ切れぬ嬉しさにそゝられて、日毎見馴れている玻璃窓外の躑躅でさえ、此の記念すべき日の喜びを句に纒めよと暗示するかのように見える。
母は良さんを連れて来た、良さんと云うのは此の旅を果させて呉れる――私にとっては汽車汽船よりも大切な車夫である。
俥は曳き出された。足でつッぱることの出来ぬ身体は揺られるがまゝに動く。
私の俥は充分に外景を貪り得るように、能う(あとう=できる)だけの徐行を続けているのだが、矢張り車夫として洗練されている良さんの足は後へ後へと行人を置きざりにして行くのである。
やがて見覚えのある交番の前を過ぎた。道は既に
紅燈紘歌の巷に近づいたのである。煙草屋の角や駄菓子屋の軒などに、江戸家とか松葉とか云うような粋な軒燈(けんとう)が点いている。それは煙草屋や、駄菓子屋の屋号ではなくて、それらの家々の路地奥にある待合や芸妓家の門標(もんぴょう。表札。門標に同じ)であることに気のついた頃はそうした軒燈を幾つとなく見て過ぎた。
旨そうな油の香を四辺に漂わしながらジウジウと音をさせている天ぷら屋の店頭に立っている
半玉(はんぎょく)のすんなりした姿はこの上もなく明るいものに見られた。
この町のこうした
情調(じょうちょう)に酔いつゝある間に俥は姉の家へ這入るべき路地口へついた。蝶のように袂をひらめかしながら飛んで来た小娘が「随分待ってたのよ」と云う、それは妹であった。
家に入ると、姉は私を待ちあぐんで、既に独酌の盃を重ねているのだった。私も早速盃を受けて何杯かを傾けた。
俳句などには何の理解も持たぬ姉ながら妹に命じて椽(縁。和風建築で,部屋の外側につけた板張りの細長い床の部分)の障子を開けさせたり、窓を開かせたりして私を喜ばしてくれるのは身にしみて嬉しかった。
三坪ほどしかない庭の僅か許りの立木ではあるが、昨年来た時の親しみを再び味わしてくれるのに充分である。昨日植木屋を入れて植えさせたと云う薪のような松が五六本隅の方に押し並んで居るのも何となく心を惹く。
手水桶,(ちょうずおけ)を吊り下げてある軒端の八ツ手(
ヤツデ)は去年来た時よりも伸び太って、そのつやつやしい葉表には美しい灯影が流れている。五勺ほどの酒でいゝ気持になった。
墓地越しに町の灯見ゆる遠蛙
行く春の蚊にほろ醉ひのさめにけり
こうした句作境涯に心ゆくばかり浸り得さしてくれた姉に感謝せざるを得ない。恰も如石が来たので妹などゝ椽先に語り合った。」
上掲は富田木歩が人力車で近くに住む姉の家を訪ねた際の記録を日記形式で纏めた随筆『小さな旅』(5月6日から5月8日3日間)の初日5月6日の部分を抜粋したものである。
初出は『俳句世界』1918(大正7)年6月号に掲載されたもの(※10青空文庫参照)である。
向島の木歩の家から姉富子の住む妾宅までは健常者であれば歩いてもさして時間がかからない距離なのだが、脚の不自由な木歩にとってはまさに「小さな旅」だったのだろう。
五月七日の記載のところに、「この家の裏に
淡島寒月さんの居宅があって・・」とあるが、淡島寒月は、作家、画家、古物収集家で父親は画家の
淡島椿岳。広範な知識を持った趣味人であり、日本文化の研究で、
山東京伝を読んで
井原西鶴のことを知り、
幸田露伴や
尾崎紅葉など文壇に紹介したことが明治における西鶴再評価に繋がったという。大正のこのころ向島
弘福禅寺に隣するところにあった梵雲庵で隠居生活をしていたようだ(※11参照)が、梵雲庵には3000あまりの玩具と江戸文化の貴重な資料があったという。
この随筆を書いた前年、一(木歩はこの頃吟波を名乗っている)20歳の時に棟割長屋の駄菓子屋の入口に「小梅吟社」の看板を掲げて本格的に俳句活動に入ったことは先に書いた。文中最後に出てくる如石とは、小梅吟社の人で、本名は武井宗次郎(職人)だそうだ(※6のやぶちゃん版新版富田木歩句集参照)。
また、その年の真夏の昼、波王は木歩の弟、聾唖者の利助を誘って隅田川に泳ぎにいったが、川の魔の淵といわれる隅田川小松島で遊泳中に溺死した。木歩の妹(三女)まき子は彼の恋人であったが、波王の変り果てた死体を見てまさに半狂乱になった。
その夏の末、末妹静子は長姉久子の養女として「新松葉」に行った。そして木歩の片恋の相手であった隣の縫箔屋(
縫箔を業とする人。また,その店)の娘小鈴(小鈴は木歩がつけた愛称で、本名はすゞというらしい)もまた、「新松葉」に身を売って去った。そして、ついに妹まき子も姉たちと同じ道をたどり「新松葉」の半玉となっている。前年(大正6年)の秋は木歩にとって友は失せ、ひそかに片恋(片思い)の想いを寄せる小鈴も、妹二人も家から去っていき、ただ寂寥(せきりょう。心が満ち足りず、もの寂しいこと)の秋であった。さらに、弟の利助が波王溺死の後、風邪をこじらせ寝付き、玩具店も馘首(くび)になった。実は風邪ではなく結核だったらしく、喀血し熱に喘いだ。利助の病状は次第に悪化し、起き上がれることも出来なくなり、木歩は病人と起居を共にしながら必死に看病したが、1918(大正7)年2月、利助は18歳で亡くなくなった。
また、富田木歩を語る上で、見過ごすことのできないのが新井声風の存在である。声風は木歩と同い年の慶応義塾大学の学生で父は浅草で映画館を経営していた。声風は悲惨な境遇にありながら、清新な句を詠む『石楠』同門の吟波を評価し、大正6年の初夏、「小梅吟社」の吟波(一)を訪紋してきた。その後、何不自由なく育った声風と何もかも不自由な吟波、この二人は尊敬し合って俳句のよき仲間、生涯の親友となっていく。声風は頻繁に吟波の長屋にやって来た。その度に『ホトトギス』、『
海紅(かいこう)」などの新刊の俳句雑誌や「
中央公論」『
新潮』 『
新小説』『
改造』などの総合雑誌も持って来て、吟波の読書用に呈したという。俳句だけでなくもっと広い知識も身につけさせようとの配慮だったようだ。
ある日、吟波は、そんな声風に「俳号を変えようかと思う」と相談を持ちかけたという。それは吟波と号する俳人がもう一人いたためだという。
河東碧梧桐系の『射手』に属する荒川吟波という俳人で、かなり名前が売れていた人であったらしい。声風は直ちに賛成しなかったが、彼の真意を解し賛成したという。
9月、声風は個人誌『茜』を3号(9月号)から同人誌とし、友人の木歩を同人に迎えた。この頃から彼は俳号を吟波から木歩にしたという。そして、1918(大正7)年、声風は『茜』1月号を「木歩句鈔」の特集号として出した。これは、臼田亞浪、
黒田忠次郎、浅井意外(「ホトトギス」の
村上鬼城の信奉者)、それに歌人の西村陽吉らに「境涯の詩人」と賞賛されたという。声風は『茜』2月号を休刊とし、3月号を「木歩句鈔」に対する評論特集を出した。若手評論家4人に執筆を依頼し、四人とも好意的な評を書いてくれた。なかでも歌人
西村陽吉は『木歩句鈔雑感』と題し「俳壇における石川啄木」であり「生活派」の俳人と評したという。
先に挙げた随筆『小さな旅』はそんな状況下で書かれたものであり、この随筆文中には、以下の俳句も掲載されている。
鶉來鳴く障子のもとの目覚めかな
杉の芽に蝶つきかねてめぐりけり
新聞に鳥影さす庭若葉かな
汽車音の若葉に籠る夕べかな
躑躅植ゑて夜冷えする庭を忘れけり
川蘆の蕭々として暮れぬ蚊食鳥
蝙蝠の家脚くゞる蘆の風
蘆の中に犬鳴き入りぬ遠蛙
行く春や蘆間の水の油色
青蘆に家の灯もるゝ宵の程
障害、貧困、病苦といった不幸に見舞われながら俳句創作を続けていた木歩、そこに、身内の不幸も多く重なった時期であるが、ここには、姉を始め家族の好意に支えられ、ささやかな幸福の時間を味わった様子、喜びが綴られている。
しかし、1918(大正7)年3月には、半玉になっていた妹のまき子も肺結核に罹患して家に戻って来ていた。木歩がつきっきりで看病するも、まき子の病状は日を追うごとに悪化しこの随筆投句後の7月末には、まき子も逝ってしまっている(享年十18歳)。この結核に冒されて逝った四つ下の愛妹まき子の、病床看護の合間に書いた日記風随筆『おけら焚きつゝ』(大正7年7月『山鳩』に掲載)と、その大正7年7月28日の臨終に至るまでを綴った木歩の哀傷随筆『臨終まで』(大正7年10月『山鳩』に掲載)の二篇が以下参考※6:「やぶちゃんの電子テクスト集:俳句篇」で読める。そこにも書かれているように、まき子の臨終の床の――「母ちゃん――暑いよ」・・・という言葉・・それはこの5年後、関東大震災の猛火によって向島枕橋橋畔の堤上にあって猛火に呑まれていった木歩自身の胸に去来したに違いない。
ここ →
富田木歩愛妹まき子哀傷小品二篇
随筆『小さな旅』投稿の1918(大正7)年の7月に、富山県の魚津で起こった
米騒動は全国に拡がり、物価が一段と高じた。まき子を芸者に売って作ったた貴重な金も、物価高の前にたちまち底をつき、木歩と母のみ禰は食うにも事欠く有様になった。しかも、結核に感染した木歩は、12月ついに喀血を繰り返し病臥したが、俳友の亀井一仏が主治医となってくれた。
翌1919(大正8)年1月、重症を脱するが、今度は、母み禰が脳卒中で倒れた。幸い軽度ですんだが再発が懸念され、3月のはじめに木歩は、長姉富子が囲われている、向島須崎町
弘福寺境内にある家に移った。妾宅で母と居候同様の保護を受けたという。なんとも屈辱的であったろう。
12月末、長姉の家が向島寺島町
玉の井に転居。木歩と母も同行する。木歩は喀血後の予後がまだ充分には癒えていない体だったが、毛布にくるまれ馴染みの良さん(随筆『小さな旅』に出てくる車引の良さん=田中良助)の俥にのせられ引っ越した。
末妹静子は「新松葉」に住み込みとなり、玉の井には来なかった。当時、玉の井は田畑や牧場のある農村で、水道も電気もなく夜はランプを灯した。やがて、建築ブームが起こり
私娼街が造成されていった。玉の井は、
永井荷風の小説『
ぼく東綺譚』、
滝田ゆうの漫画『
寺島町奇譚』の舞台として知られる。
玉の井の新居には二階があり、須崎の華やかさに浮つき(
浮つくの連用形)かけた木歩は一人の殆どの時間を二階で過ごし、また元の俳句三昧の生活に戻れたといい、木歩の生涯の中でこの玉の井の頃が最も多作の時代で、連日句作に励んだようだ。
木歩の句を売り出してくれた親友の新井声風は
高浜虚子などホトトギス系の俳人との付き合いが疎遠なため、『茜』の謹呈先にホトトギス系は少なく、それがため、木歩の名が全俳壇的に知られたというまでには至っていなかったが、声風の編んだ『木歩句集』が虚子門下の
渡辺水巴主宰の『曲水』に1920(大正9)年7月から4回に亘って連載されたことにより、木歩の身辺は一気に慌ただしくなり、かつての『茜』の比ではなくなった。
木歩の元には各地の俳誌から次々と句や文章の依頼がきたが、木歩はすべて快く引きうけ、木歩の名前、人となりと作品は一気に俳壇に知られることとなった。
1921(大正10)年夏に木歩は貸本屋「平和堂」を開業し、客の来ない時には、本を読み俳句を作る生活をしていたようだ。
1922(大正11)年の春、声風が『石楠』主宰の臼田亞浪との確執から、『石楠』同人を脱退。その半年後に木歩も「石楠」を退会するが、木歩の発表先に不自由はなかったようだ。三河の浅井意外の『山鳩』に木歩の頁を常に用意してくれていた。
長谷川春草の『俳諧雑誌』、村上鬼城門下の楠部南崖(
楠部 大吉郎の父)の俳誌『初蝉』などもこぞって木歩の句や文章を掲載してくれた。
そのため、平和堂主人・富田木歩は、俳句は勿論のこと俳論も随筆も書ける新進の俳人として、その特異な境涯と共に、全国的に知られる俳人となっていたが、9月半ば、再発を懸念されていた、母み禰が脳溢血で倒れ逝った。そして、木歩も大量の喀血をした。喀血した木歩のもとに俳友で医師の一仏が来てくれたが、木歩の体調はなかなか回復しなかった。
声風は「木歩短冊慰安会」と銘打って短冊頒布会を行い、木歩の療養資金を集めた。その療養資金のおかげで暮近くには、木歩の体力はかなり回復し、平和堂の店番を一日坐っていられる程になった。
明けて1923(大正12)年、長姉富子の旦那白井が浅草公園脇の一等地の料亭を買い取り、富子に天麩羅屋を開かせ、玉の井の家は元の娼家仕様に戻し、売りに出したが、白井は木歩のためにも、須崎に一軒屋を借り、平和堂を続けられるように改築してくれた。その上、木歩の面倒を見るための小おんなまで雇ってくれた。須崎を選んだのは、末妹静子がそこの「新松葉」で半玉になっており、様子を見に顔を出せるからであったという。
木歩の一人生活を案じて、声風や俳友達が足繁く通って来、また、妹の静子やその朋輩たちも顔をみせ、「平和堂」はかつての「小梅吟社」のように若い仲間の集まる賑やかな場ともなった。
木歩のもとへ毎月送られて来る作品も多くなり、今は中断している『茜』を俳壇の新しい運動の拠点として、華々しく再出発させる日への期待が生き生きと燃えてくる毎日だった。
妹につづく母の死、自らの病苦、こういう中で、声風はじめ俳句の友人は木歩を慰めようと7月、一夜の舟遊びを仕立ててくれた。ここしばらく、小康状態の木歩にとって唯一の豪勢な経験だったが声風と木歩にとって、最も苛酷な運命の日が、二人の上に襲いかかってくることになる。
1923(大正12)年9月1日、午前11時58分、激しい大地震が関東地方一帯を襲った。声風や姉の富子が動けない木歩の身の上を案じて吾妻橋を渡り須崎町の木歩の家に行ったときには人影は無かった。
声風は引返して、再び土手の上を探し求めた。そして、人混みの桜の木の下にゴザを敷いて木歩がいた。妹の静子や「新松葉」の半玉など三人ほどが囲んでいたが、女手ばかりでどうする手立てもなかった。木歩の帯を解いて声風は木歩の体を自分の背中にくくりつけて貰ったが、人混みの中を一緒に逃げることは出来ない。ひとまず浅草公園の富子の小料理屋「花勝」を目標に逃げたが、火の手は方々に上がり、それに追われて右往左往する人々で、土手の上の混雑は物凄く、痩せているとはいえ、50キロを越える体重の木歩を背負っている声風が、やっとの思いで、大川に注ぐ源森川(別名
北十間川)の川口近くまで来た時、枕橋はすでに燃え落ちていたという。
浅草への近道は断たれ、小梅町方向へ引き返そうとしたが行く手にはまた新たな火の手が上がり、川を除いて三方は全く火の海となって迫ってきた。川の淵に出るには鉄柵を越えなくてはならない。背負ったままでは越えられなかった。傍の人に頼んで木歩を降ろした。鉄柵を越えさせた木歩を、堤の芝の上に腰をおろさせて声風は屈みこんだ。
生きる道は泳ぐしかない。声風は自分一人でも泳ぎ切れるかどうか自信は無かった。まして、足の全然きかない木歩を連れてでは、半分も行かない内に、溺れてしまうだろう。
声風は「木歩君、許して下さい。もう此処まで来ては、どうにもなりません」と言い、木歩に手をさし伸べた。木歩は黙ったまま。声風の手を握り返したという。声風は大川に身を躍らせた。声風は奇跡的に助かったが、足の不自由な木歩は焼け死んでしまった。(花田春兆著「鬼気の人 俳人富田木歩の生涯」1975年10月、発行こずえ社。p.235-237。花田春兆については※12参照)。享年26才と言う、あまりにも若過ぎる死だった。
隅田川の亡骸は伝馬船に引き上げられて火葬された。生き残った木歩の兄や姉妹たちがその火葬の灰のひと握りを求めて、その十月に富田家父祖の菩提寺小松川
最勝寺の墓に埋めたられた。戒名「震外木歩信士」。
声風は親友である木歩をあの地獄の墨堤に残さなければならなかった瞬間から、自分の詩魂は衰えたと言い、自分は句作をやめて、木歩の詩魂を生かし世に伝えるために、後半生を木歩の句集や文集の編集に費やした。
冒頭に挙げた三囲神社の「夢に見れば死もなつかしや冬木風」の句碑。「冬木風」はそのまま「ふゆきかぜ」と読むようだ。ここで懐かしがっているのは、だれの死なのだろう。木歩の周りには悲しい出来事が多すぎる。夢に出てきたのは妹か弟か、隅田川で水死した俳友のことだろうか。普通なら人の死は想像するだけでも胸が苦しくなってくるのだが・・。
「死もなつかしや」の表現をどう解釈するか難しいが、もっと素直に、たとえ夢のなかでのこととはいえ、亡くなった家族や親しい人と再会できて懐かしかった・・・と、まっすぐに受け止めればよいのかもしれない。大切な家族を次々に失った木歩は、亡き人々のことを、ふと夢に見ることがあったのだろう。念の強さが、見たい夢を引き寄せたのかも知れない。冬の木立を吹き抜けていく冷たい風の音を聞きながら、木歩は昨夜の夢を静かに反芻しているのかもしれない。
「人間五十年 化天の内をくらぶれば 夢幻のごとくなり」
これは、
幸若舞『
敦盛』の一節である。
織田信長は、好んでこの一節を歌いつつ、舞ったという。人間の一生は、夢か幻のように、アッという間に過ぎ去る、というのが共通の感傷のようだ。だからこそ、人は何に向かって生きるのか。人生の目的が最も重要になる.。
そう考えれば、人間の死も、人の一生という夢の中の一部のできごとなのだから。
生まれてすぐに歩行不能になった木歩。『不具と病気と貧困とが、彼の精神に、抵抗素を植えつけた。』(
山本健吉『現代俳句』)とも言われるように、どんな過酷な運命を与えられたとしても、木歩は生きることを放棄しなかった。木歩の人生とは、ただひたすら運命を「受け容れる」人生だったのではないか。平明な言葉で、誰にでもわかる表現で、己の境涯を深々と見つめ、言葉に紡ぐ木歩。そのシンプルな言葉が、読む者の心を打つのだろう。この機会に、一度、木歩の句に触れでみられるのも良いだろう。参考※6:「やぶちゃんの電子テクスト集:俳句篇」などがお薦めである。
冒頭の画像:1918(大正7)年年7月、北海道の昆布商人で次姉久子の旦那の上野貢一郎が、眼病治療のため上京して
淀橋柏木に仮寓しているのを、母み禰と共に訪ね一週間滞在した。その時、母と並んで写真を撮った。冒頭の画像がそれらしく、これが、この年の初め声風が俳句雑誌「山鳩」に連載していた、木歩の句風と人を紹介する文章「俳人木歩」の完結号に掲載するため初めて撮って以降、二度目の写真撮影だった。後年、声風編「定本富田木歩全集」の扉に紹介されているこの写真は、震災後、障害者で俳人である川戸飛鴻[5]より貸与されたのを複写したものであり、木歩の写真として世に流布されておるのは、これがその原版であるという(花田春兆著「鬼気の人 俳人富田木歩の生涯」1975年10月、発行こずえ社。『木歩七〇句』p.241)。
参考:
※1:「Google Earthで街並散歩(江戸編)」
http://yasuda.iobb.net/wp-googleearth_e/
※2:国立国会図書館・近代デジタルライブラリー『江戸名所図会』
http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/ru04/ru04_05105/
※3:大江戸吟行記その28向島吟行①「三囲神社」|俳人二百面相
http://ameblo.jp/haikudaisuki/entry-10650516115.html
※4:すみだ区報2014年4月21日号 墨田区公式ウェブサイト
https://www.city.sumida.lg.jp/kuhou/backnum/140421/kuhou01.html
※5:第67話、和歌三神 - 落語の舞台を歩く
http://ginjo.fc2web.com/67wakasanjin/wakasanjin.htm
※6:やぶちゃんの電子テクスト集:俳句篇
http://homepage2.nifty.com/onibi/texthaiku.htm
※7:荒川の歴史 | 荒川上流河川事務所 | 国土交通省 関東地方整備局
http://www.ktr.mlit.go.jp/arajo/arajo_index010.html
※8:曳舟川
http://www.geocities.jp/ktyyn37/hikihunegawa.htm
※9:富田木歩の生涯 - 障害保健福祉研究情報システム(DINF)
http://www.dinf.ne.jp/doc/japanese/prdl/jsrd/norma/n218/n218_07-01.html
※10:富田木歩 小さな旅 - 青空文庫
http://www.aozora.gr.jp/cards/000677/files/42298_23806.html
※11:「淡島寒月の庵号「梵雲庵」について」 - クラシマ日乗
http://blogs.yahoo.co.jp/kurashima20062000/37619737.html
※12:arsvi・com障害者(の運動)史のための資料・人「花田 春兆」
http://www.arsvi.com/w/hs04.htm
富田木歩を偲んで(1) - 齋藤百鬼の俳句閑日
http://blog.goo.ne.jp/kojirou0814/e/17cef3a57e27601238c6701d5604ae18
落語「船徳」の舞台を歩く
http://ginjo.fc2web.com/022funatoku/funatoku.htm
富田木歩 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%8C%E7%94%B0%E6%9C%A8%E6%AD%A9