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憲法記念日(参考)

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参考:
※1:参議院会議録情報 第002回国会 文化委員会 第4号「祝祭日の改正に關する件」
http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/sangiin/002/1344/00202261344004c.html
※2:日本国憲法誕生- 国立国会図書館
http://www.ndl.go.jp/constitution/index.html
※3:参議院憲法審査会
http://www.kenpoushinsa.sangiin.go.jp/index.html
※4:占領改革
http://note.masm.jp/%C0%EA%CE%CE%B2%FE%B3%D7/
※5:たむたむホームページ
http://tamutamu2014.web.fc2.com/IRIGUTI.htm
※6:日本国憲法の基礎知識
http://kenpou-jp.norio-de.com/kenpou-imi/
※7:幣原喜重郎元首相が語った、日本国憲法 - 戦争放棄 - ちょっと便利帳
http://www.benricho.org/kenpou/shidehara-9jyou.html
※8:現行憲法および自民党改憲案比較表
http://www.dan.co.jp/~dankogai/blog/constitution-jimin.html
※9:日本の安全保障政策 | 外務省
http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/page22_000407.html
※10:集団的自衛権の行使を認めた閣議決定(全文):朝日新聞デジタル
http://www.asahi.com/articles/ASG713DQGG71UTFK00J.html
※11:時事ドットコム:後方支援対象は米「中核」=重要影響事態法に明記
http://www.jiji.com/jc/zc?k=201504/2015041600808
※12:CNN.co.jp : 安倍首相訪米、TPP合意は期待出来ず ホワイトハウス
http://www.cnn.co.jp/world/35063743.html
※13:官邸ドローン、"オモチャ"相手に騒ぎすぎ | トレンド | 東洋経済オンライン
http://toyokeizai.net/articles/-/67870
※14:電通によるメディア支配の秘密 - NAVER まとめ
http://matome.naver.jp/odai/2139392061521772101
※15:電通の正体とマスコミ支配の実態 - ニュースの真相
http://d.hatena.ne.jp/rebel00/20120201/1328055834
※16:池上彰氏「テレ朝とNHKを聴取する自民こそ法律違反」 コラムで疑問視
http://www.huffingtonpost.jp/2015/04/23/akira-ikegami_n_7132704.html
※17:放送法 | BPO | 放送倫理・番組向上機構 |
http://www.bpo.gr.jp/?page_id=1293
※18:自民党:BPOに政府関与検討 「放送局から独立を」(毎日新聞)
http://mainichi.jp/select/news/20150418k0000m010105000c.html

積極的平和主義」とは「軍国主義」(6)
tp://www.data-max.co.jp/politics_and_society/2014/10/19773/1017_knk_06/
SWNCC228 とマッカーサー・ノート - KENBUNDEN(Adobe PDF)
http://kenbunden.net/constitution/files/shiryou_ver002/15_071129_a.pdf#search='%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E7%B5%B1%E6%B2%BB%E4%BD%93%E5%88%B6%E3%81%AE%E6%94%B9%E9%9D%A9%E3%80%8D%EF%BC%88SWNCC228%EF%BC%89'

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憲法記念日2-2

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しかし、今、憲法改正問題が喧(かまびす)しい中で、最大の問題点となっているのが憲法第9条の問題でああろう。
当条は、憲法前文とともに三大原則の1つである平和主義を規定しており、この条文だけで憲法の第2章(章名「戦争の放棄」)を構成しており、第1項の内容である「戦争の放棄」、第2項前段の内容である「戦力の不保持」、第2項後段の内容である「交戦権の否認」の3つの規範的要素から構成されている。
1928(昭和3)年に締結された戦争放棄二関スル条約、いわゆるパリ不戦条約の第1条と、日本国憲法第9条第1項は文言が類似しているが、これをどのように捉えるかが本条の解釈において問題とされることが多い。

日本国憲法は、学問上は「立憲的意味の憲法」と呼ばれている(※6 参照)。
「立憲的意味の憲法」とは、「国家権力の濫用を防ぎ、国民の権利自由を守る」役割を担っている憲法のことを指している。つまり、日本国憲法は、国家が国民に何かを押し付けるものではなく、むしろ国民を国家権力の濫用から守ってくれているものと言ってよいだろう。
従って、平和であれば、憲法のことなどほとんど考えなくてもあまり問題もなく過ごせるだろうが、もし、他国から侵略を受けたとき、又、その危険性があるときに「戦争の放棄」を憲法で宣言しているからと言って、自衛のための戦いもせずにいられるのか?
国家である以上「個別的自衛権」は認められるはずなのだが・・・。このような条文を憲法に盛り込んだのはいったい誰の発案であったのだろうか?
マッカーサーは、憲法草案に盛り込むべき必須の要件として3項目を憲法草案起草の責任者ホイットニー民政局長に示したことは先にも書いた。いわゆるマッカーサー3原則である。その3原則のうちの一つが、第9条の淵源(えんげん)となった「戦争放棄」に関する原則であったが、「マッカーサーノート」には確かに「自己の安全を保持するための」手段としての戦争をも放棄することが明記されていたようだ(※2の3-10 マッカーサー3原則及び、再度マッカーサー草案を参照)。
そのことから、日本国憲法制定の際に戦争放棄条項が盛り込まれたのは、GHQに押しつけによるものと云う説があるが、この件に関していろいろ調べていると、「幣原先生から聴取した戦争放棄条項等の生まれた事情について」という平野三郎の手記、いわゆる「平野文書」(国会図書館内にある憲法調査会資料)があるらしく、日本国憲法制定の際に戦争放棄条項が盛り込まれたのは、GHQに押しつけられたというより、当時の日本の総理大臣幣原喜重郎が、天皇制維持とセットでマッカーサー元帥に進言し、盛り込まれたものであるという事情を知った(内容の詳細は※7を参照)。
手記(「平野文書」)によると、マッカーサーメモが出される前の1月24日、幣原・マッカーサー会談が行われ、戦争放棄条項が幣原氏より提案されたとのことである。
ポツダム宣言では、降伏の条件として軍国主義の一掃、軍隊の武装解除・解体等はうたっているが、戦争放棄とまでは言っていない。9月2日の降伏文書も又しかり。マッカーサーも、どのように日本の軍国主義を押さえ込むかと思いあぐねていたには違いないが、先にも述べたように、日本軍国主義を上手く押さえ込まなければ、天皇の戦争責任が追及されるのは必至な情勢が迫っていた。しかし、敗戦から6ヶ月、日本の戦後を決める憲法はなかなか決まらない。マッカーサーと言えども軍人であり、敗戦国に対し、武力不保持・戦争放棄までなかなか要求しにくかったに違いない。そんな中で、これを言い出したのが、敗戦国の総理大臣なのだから、驚くと同時に、渡りに舟とばかりにこの提案に乗ったのであろう。
幣原は、『口外無用』として平野に語ったとされるが、平野は、「昨今の憲法制定の経緯に関する論議の状況に鑑みてあえて公にすることにした」として、この文書は、1964(昭和39)年2月に憲法調査会事務局によって印刷に付され調査会の参考資料として正式に採択されたものだという。
しかし、私は、この文書の真贋はよく判らないので更に調べてみると、以下参考の※3:「参議院憲法審査会」の平成16 年11 月10 日「第161回国会 参議院憲法調査会 第3号」(ここ.参照)での田英夫の発言の中でも,この文書を例に出して発言しているので、この文書が有ること自体は間違いないことなのだろう。
又、もう少し、調べてみると、マッカーサー・ノートにおいては、「自己の安全を保障するための手段としてさえも」戦争が放棄されるように条文化するむね指示されていたが、その後、総司令部案として作成されるに際して、その部分がケーディス大佐(GHQ草案作成の中心的役割を担っていた)によって削除されたようだ。ケーディス大佐の証言によれば,その削除に「非現実的」なものから「現実的」なものにするという十分な意味が込められていたということである。その結果,この時点で,全面的な戦争放棄から,限定的な戦争放棄になった。
衆議院帝国憲法改正小委員会の憲法改正草案の審議において委員長であった芦田 均日本自由党)の試案などが重要なたたき台となっての修正いわゆる「芦田修正」の意味について、芦田自身がいかに考えていたのか?その真意はいまでも明確でない部分があるようだが、当該修正によって,自衛のためならば,陸海空軍その他の戦力は保持し得るという解釈が可能になったようだ。
事実,極東委員会ではそのように解釈し、軍人の出現を想定したうえで、現役の武官を大臣職につけないようにするために、文民条項の導入が強く要求され,実現した(※2のここ参照。
それゆえ,芦田修正と文民条項は密接不可分の関係にあり,両者を切り離して解釈することは,すくなくとも憲法の成立経緯の観点からは、間違いである。
そして、政府は、自衛権については、概略、以下のように解釈している。
1)憲法は、自衛権を否定していない。
自衛権は、国が独立国である以上,その国が当然に保有する権利である。憲法はこれを否定していない。したがって,現行憲法のもとで,わが国が,自衛権をもっていることは,きわめて明白である。
2)憲法は、戦争を放棄したが、自衛のための抗争を放棄していない。
○戦争と武力の威嚇、武力の行使が放棄されるのは,国際紛争を解決する手段としてはということである。
○他国から武力攻撃があった場合に、武力攻撃そのものを阻止することは,自己防衛そのものであって,国際紛争を解決することとは本質が違う。したがって、自国に対して武力攻撃が加えられた場合に国土を防衛する手段として武力を行使することは,憲法に違反しない。・・・と。

これは、当然な解釈であろう。しかし、自国に対する侵害を排除するための行為を行う権利である国連憲章第51条)にいうところの「個別的自衛権」と自国を含む他国に対する侵害を排除するため共同で防衛を行う国際法上の権利である集団的自衛権とは、区別される。
集団的自衛権が攻撃を受けていない第三国の権利である以上、実際に集団的自衛権を行使するかどうかは各国の自由であり、通常第三国は武力攻撃を受けた国に対して援助をする義務を負うわけではない。そのため米州相互援助条約北大西洋条約日米安全保障条約などのように、締約国の間で集団的自衛を権利から義務に転換する条約が結ばれることもあるが、自衛権の概念については、様々な見解も存在するようだ。
日本の場合は、日米安全保障条約第5条に、より、
「両国の日本における、(日米)いずれか一方に対する攻撃が自国の平和及び安全を危うくするものであるという位置づけを確認し、憲法や手続きに従い共通の危険に対処するように行動する」ことを宣言している。
ただ、憲法第9条で「戦争の放棄」を掲げている日本などでは集団的自衛権の行使については極めて厳格な基準を設けており、集団的自衛権は憲法の定める自衛権の範囲を逸脱するため行使できない、・・・・というのが一般的な見解となっている。
現在の日米安全保障条約は米国のみが集団的自衛権を行使すると定めていた。2006(平成18)年に首相に就任した安倍氏はこれを「片務的」であるとして、対等な日米関係構築のために日本も集団的自衛権の行使を行えるようにすべきと提起。
そして第一次安倍内閣(2006年9月26日-2007年8月27日)は首相の私的諮問機関として「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会」を設置し本格的に検討を開始。
2012(平成24)12月総選挙(第46回衆議院議員総選挙,)では、安倍政権の経済政策「アベノミクス」を最大の争点として掲げた自民党の勝利が確定し「1強多弱」の構図が続くことになった。
12月24日の衆議院本会議で首相に指名された安倍氏は、その後の記者会見で、なすべきことは明確だとし、デフレ脱却、社会保障改革、外交安全保障の立て直しと同時に、また、憲法改正は自民党結党(1955年)以来の大きな目標だとして、憲法改正に必要な国民投票で過半数の支持を得なければならない。として、そのための課題となる憲法改正の発議要件を定めた憲法96条の改正に取り組む意向をも表明していた(改正案※8参照)。 
安倍首相は2013年の首相就任以後、「積極的平和主義」(ここも参照)の語を度々用いて、その実現を推進している。
積極的平和主義とは、自国のみならず、地域および国際社会の平和の実現のために、能動的・積極的に行動を起こすことに価値を求める思想であり。2013(平成25)年12月に閣議決定された「国家安全保障戦略」において、日本の安全保障戦略(※9参照)の基本理念として掲げられた。
そして、2014(平成26)年1月の所信表明演説でも積極的平和主義に触れ、「わが国が背負うべき21世紀の看板」という表現を用いた。
安倍首相は、積極的平和主義の実現のためには、集団的自衛権と集団的安全保障に関する憲法解釈の変更が必要だとしている。また、武器輸出三原則非核三原則についても、安全保障環境の変化に合わせるための再検討が必要だとし、2014(平成26)年4月1日に、武器輸出三原則に代わる新たな政府方針として「防衛装備移転三原則」が閣議決定され名称も変わった。
積極的平和主義に対しては、憲法の三大原則(国民主権、基本的人権の尊重、平和主義)の一つである平和主義に反するものであるという意見があるほか、憲法で認められた自衛権の逸脱に向かうのではないかとする懸念もある。
そんな中、同年7月1日「集団的自衛権の行使を認める」という閣議決定がなされた.( 閣議決定全文※10参照)。
そして、次に、今年2015(平成27)年に入って4月13日には、新たな安全保障法制をめぐり、自衛隊に戦争している他国の軍隊を後方支援させることの恒久法(一般法)について、名称を「国際平和支援法」とする方針を固め、14日から再開した自民、公明両党の与党協議に提示された。


上掲は4月23日付東京新聞。画像クリックで拡大します。
「国際平和支援法」とは、これまで「国際連合平和維持活動等に対する協力に関する法律」(略称(PKO法)に基づき国連を中心とした国際平和のための努力(①「国連平和維持活動(PKO)」、②「人道的な国際救援活動」及び③「国際的な選挙監視活動」)に対する我が国の協力として、いわゆるPKO参加5原則に従って「国際平和協力業務」を実施するとともに「物資協力」を実施しようとするものである。
これについては、民・公明両党は、「例外なく、国会の事前承認が必要だ」と明記したうえで、首相が国会に承認を求めた場合、7日以内に議決するとの努力規定を設ける方向で調整。一方、自衛隊の海外派遣の期間を延長する場合は、事後承認を認める方向のようである。
こうした案は、21日に開かれた与党協議で、自民党の高村正彦副総裁が示し、日米防衛協力のための指針(ガイドライン)を再改定する27日までに実質合意を図り、GW明けの5月15日に関連法案を今国会に提出する方針のようだ。
政府が周辺事態法の地理的制約があると解釈される「周辺」という言葉を削除して重要影響事態法とするのは、自衛隊による活動の地理的制約を外したことを明確化する狙いがある(※11参照)。
新法によって「日本に重要な影響を与える事態」と日本政府が判断しさえすれば、 米軍など外国軍を支援するため自衛隊を世界のいかなる場所にも派遣できるようになる。
4月22日、放射性の物質を搭載した無人航空機ドローン(英:Drone)が首相官邸屋上に墜落していたニュース(※13参照)で、マスメディア、中でもテレビなど模型まで作って面白おかしくワ~ワ~騒いでいる間に、安倍首相は 昭恵夫人を伴って、4月26日から5月3日まで米国を公式訪問している。
米ホワイトハウス当局者は26日までに、TPP交渉に関する正式な合意発表などは期待出来ないとの認識を示した一方、米国家安全保障会議(NSC)のメデイロス・アジア上級部長は日米の防衛協力問題では「大きな進展に関する合意」が打ち出されるとの見通しを明らかにしていた。メデイロス氏は合意事項の詳細には触れなかったが、日本が米軍活動をより広い範囲で支援する「メカニズム」が盛り込まれることに言及していた。・・という(※12参照)。
先の選挙では大勝し、1党多弱、自民党に対抗する野党もない中で、安倍氏は念願である憲法改正が行われる前に、実質的な改正ともいえることを着々と進めている感じ・・・。その間この様なことに対して、マスコミがどれだけの情報を国民に正しく知らせ、そして、国民が承知しているのだろうか・・・。GWに遊び疲れて帰ってきたときには、もう・・・・。

マスメディアが電通に支配されているという話、政府寄りの偏った意見が報道されているなどということは、良く聞くところであり、又、実際に報道を聞いていてもそう感じることはよくある。以下参考の※14や※15の話が本当なら、受けて手側がよほど用心していないと完全に洗脳されてしまうことになるだろう。
その上に最近は、政府のマスコミへの介入まで見られるようになった。自民党が、4月17日に情報通信戦略調査会において行った、NHKとテレビ朝日の聴取が、波紋を読んでいる。意見聴取の対象となったのは、やらせ疑惑が浮上しているNHK「クローズアップ現代」と、コメンテーターの古賀茂明氏が生放送中にニュースから逸脱した発言を行ったテレビ朝日「報道ステーション」の2番組。
この件に関しては、ジャーナリストの池上彰氏が、4月24日付の朝日新聞朝刊に掲載された自身のコラム「新聞ななめ読み」で、「自民こそ放送法違反では」と疑問を呈していた(※16参照)。
この問題では、政治からメディアへの圧力や萎縮効果の有無、あるいは違法性に対する懸念が議論の中心となっているが、真の問題は、もっと別のところにあるように思われる。
政治からメディアへ、逆にメディアから政治への圧力など、政治とメディア両者間には、いつの時代にも一定の緊張関係があり、その力学は常時存在している。
今回の問題の出来事を批判的に捉えるひとつの論拠は、放送法上の問題であろう。放送法第3条には以下のように書かれている(放送法条文は※17参照)。
第3条「放送番組は、法律に定める権限に基づく場合でなければ、何人からも干渉され、又は規律されることがない。」(国内放送等の放送番組の編集等)
つまり、放送法が原則として定めているのは、「法律違反しない範囲であれば、自由に報道していい」ということである。しかし、「自由」には同時に「責任」も伴うのは当たり前のこと。その「責任」について定義しているのが第4条であり、そこには次の各号の定めがある。
(1) 公安及び善良な風俗を害しないこと。
(2) 政治的に公平であること。
(3) 報道は事実をまげないですること。
(4) 意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること。
全て常識的で当たり前のことばかりであるが、この中で、特に難しいのは、4項目目だろう。メディアが「法律違反しない範囲であれば、自由に報道していい」とはいえ、色々対立している問題について、どれだけ多くの観点から論点を明らかにしているか・・・といったことについては、私なども日ごろから疑問に思うことは多くある。従って、そのようなことについて、政治家が意見を聞きたいと言ったからと言って、それ自体が問題とも言えないのではないだろうか。・・ただ、その「問題解決」の方法が適切か否かの問題はある。
今回のNHKとテレビ朝日の報道番組で「やらせ」や政治的圧力があったとされる問題に関連しては、番組の内容などの問題点を検証する放送事業者の自主規制機関であるBPO(放送倫理・番組向上機構。※17参照)への政府の関与が問題視されるべきことなのである(※18参照)。
自民党の事情聴取に抗議することもなく、ノコノコと、“ご説明”に出向くこと自体に、多くの識者が、テレビジャーナリズムの存亡の危機を覚えたことだが、この問題の本質は、放送局の「許認可権」を総務大臣が握っていることにある。
放送局は電波法に基づき、5年ごとに国から放送免許の更新を受ける必要がある。つまり免許不交付なら放送ができなくなる。さらにNHKは国会の予算承認も必要。そのため、日本の主要なテレビ局は政府の管理下に置かれている。
欧米などでは放送事業者の監督は、政府から独立した機関が行うのが主流の様であるが、日本は直接、総務省が監督しており、政府が気に入らないことがあれば、今回のように「放送法」を盾にして、暗に、更新拒否や免許取り消しをチラつかせることができてしまう。
従って、この制度を変えない限り、政府による放送局のコントロールはなくならないだろうといわれている。

1950(昭和25)年4月、放送法などの電波三法が成立した。三法の施行とともに、戦前の無線電信法は廃止され、新しく特殊法人日本放送協会電波監理委員会が生まれた。「放送法」が制定されて、NHKは新しい組織に改組されるとともに、技術研究がNHKの業務として明確に位置づけられることとなった。また、放送法によって民間放送の法的根拠も明らかとなり、1951年には初の民間放送局2局(愛知県の中部日本放送と大阪府の新日本放送=のちの毎日放送)が開局した。
放送法の趣旨は、放送の最大限の普及、放送による表現の自由の確保、放送が健全な民主主義の発達に資するという3大原則に従って、放送を公共の福祉に適合するように規律し、その健全な発達を図ることを目的とするというものである。
政府が直接、放送局を監督する制度は、戦後のGHQによる占領が終わった直後に作られた。
戦前はメディアが軍部にコントロールされていた。そのため、GHQは電波三法と呼ばれる電波法、放送法、電波監理委員会設置法を制定し、電波監理委員会設置法に基づくき、「電波監理委員会」を設置し、放送局の監督機関を政府から独立させ管理させていた。
この独立した電波監理委員会は米国のFCC(米国連邦通信委員会)に相当し、またGHQもそれを目指したようである。
ところが1952年4月、日本の主権が回復すると、当時の吉田内閣は3か月後の7月31日に待ってましたとばかりに、「郵政省設置法の一部改正に伴う関係法令の整理に関する法律(昭和27年法律第280号)」により電波監理委員会を廃止し、同委員会は郵政省に統合されて、再度国家管理される事になった。
政府のメディアコントロールへの、並々ならぬ執着が分かるというものだが、要するに「政府に弱い放送局」という力関係はいまだ戦前と変わらないということだろう。
放送法の本来の目的からみて、その大きな特徴は、法が「民主主義のためのもの」と定められていることである。つまり、いったんライセンスを受ければ、誰からも制約を受けず放送ができるように、つまり、国から介入されないで出来ることが重要なのである。
これは法が第二次世界大戦後、憲法で定められた「表現の自由」を電波の分野でも体現するため制定されたことと関係している。
免許を与えるのが国であり、放っておけば放送内容への介入が起きやすくなる。その防止を保障するための法と機関がなくなってしまった。これは、憲法上の「表現の自由」が保障されていないことになるのだが、放送局側も、免許自体が『既得権益』となっているので、その分、政治からの介入に甘んじているところがあるようで、そのことが一番の問題なのではないだろうか。
今回のことを契機に、制度改革に取り組まなければならないはずなのだが、どれだけ、メディア側にそうした問題意識、いや、改善意欲があるのだろうか?
第2次安倍政権以降、安倍首相は力の源泉でもある世論の支持に、大きな影響を与える報道に神経をとがらせせているようである。野党や識者は「政治圧力だ」と批判を強めるが、安全保障関連法案の審議や憲法改正議論もにらみ、さらに関与を強める可能性もあるのではないかな~・・・・。


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憲法記念日(参考)


憲法記念日2-1

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今日5月3日は、国民の祝日に関する法律(祝日法。昭和23年法律第178号)により指定された国民の祝日の一つ「憲法記念日」であり、祝日法では、「日本国憲法の施行を記念し、国の成長を期する。」・・・ことを趣旨としている。

日本国憲法は、敗戦後2年目の1947(昭和22)年5月3日に施行され、翌・1948(昭和23)年に公布・施行された祝日法によって制定された。しかし、憲法が実際に公布されたのは、施行日前年の1946昭和21)年11月3日であったが施行が半年後の1947(昭和22)年5月3日となったもの。
日本国憲法の公布日および施行日については、その日をいつにするか議論があったようだが、結局、様々な思惑から、日本国憲法が『平和と文化』を重視していることから、この日は「文化の日」として残された。当時法制局長官であった入江俊郎がこの間の経緯については、後に記している文面等があるがこれについては→ 新憲法の公布日をめぐる議論を参照。
祝日法では、この日は、「自由と平和を愛し、文化をすすめる」ことを趣旨としている。
実際に文化の日には「日本の文化の大きな発展に貢献した人」を選出して、皇居で文化勲章の親授式が行われている.のは、御存じの通りである。
いわば「文化の日」と「憲法記念日」は兄弟のような間柄である。
「文化の日」は、日本国憲法が公布された日に由来するもの。「憲法記念日」は、日本国憲法が施行されたに日に由来するもの…ということである。
公布と施行の違いであるが、法律の公布とは、すでに成立した新しい法令を広く一般人が知ることができる状態におく行為であり、日本国憲法は、それを、天皇国事行為としている (7条1号)。又、法律の施行は、法令が現実に効力を発し、実施される状態にすることである。
もともと、この11月3日「文化の日」は制定以前から祝祭日(休日)になっていたものである。
1873(明治6)年に公布された年中祭日祝日ノ休暇日ヲ定ム(明治6年太政官布告第344号)以降1911(明治44)年までは天長節、1927(昭和2)年に改正された休日ニ関スル件(昭和2年3月4日勅令第25号)以降1947(昭和22)年までは明治節として、明治天皇の誕生日による祝祭日(休日)となっていた。名前は違うが、今で言う「昭和の日」(昭和天皇の誕生日)と同じことだ。
文化の日は上記の経緯と関係なく定められたということになっているが、当時の国会答弁や憲法制定スケジュールの変遷をみると、明治節に憲法公布の日をあわせたとも考えられる(※1参照)。
本当は日本としてはせっかくだから11月3日を「憲法記念日」にしたかったのだろうが、当時、戦後の日本を管轄していたGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)から11月3日を、憲法記念日という名にすることだけは絶対にだめだと言われて、「文化の日」という名前でそのまま祝日に改めて制定したものであったようだ。

しかし、この「新しい日本の出発」となる日本国憲法を実際に制定するに当たり、その基本概念となったもの、ならびにその制約となったものとしてまず、真っ先に挙げなければならないのが、ポツダム宣言である。
ポツダム宣言は、1945(昭和20)年7月26日にアメリカ合衆国大統領、イギリス首相、中華民国主席の名において大日本帝国(日本)に対して発せられた、「全日本軍の無条件降伏」等を求めた全13か条から成る宣言である(13条の日本語条文は※2のここ参照)。
ポツダム宣言には国体護持の条項他がなかったため、当初はその受諾に際して政府内では議論が巻き起こったようだ。
しかし、その後のソ連側の日ソ中立条約の一方的破棄、広島・長崎の原爆投下によって「国体護持」一点を条件に降伏文書に調印する旨、連合国側に通告し、これに対する回答を待ったが、連合国側の回答は微妙なものであり、取りようによってはどちらとも取れる曖昧な内容であったようだが、同年8月14日、日本政府は御前会議により協議を続けた結果、ポツダム宣言の受諾を決定し連合国側に通告した。翌15日、昭和天皇が「玉音放送」によって、ポツダム宣言の受諾(=日本の降伏表明)を連合国側に通告したことを、帝国臣民に公表した。
つまり、日本は、ポツダム宣言を受諾することで第二次世界大戦(太平洋戦争/大東亜戦争)の降伏を認め、ならびに、そこに書かれた条文に従うことを約束したことで、事実上憲法改正の法的義務を負うことになったわけである。
ポツダム宣言では、日本を占領する組織はoccupying forces of the Allies(「聯合国ノ占領軍」、ポツダム宣言12条)と表現されている。続いて、同年9月2日に締結された降伏文書の中では、日本政府はSupreme Commander for the Allied Powers(「聯合国最高司令官総司令部」、 日本では、G HQ=General Headquarters)と呼称)の指示に従うこととされ、同時に出された降伏文書調印に関する詔書も、「聯合国最高司令官」の指示に従うべきことを表明している。

上掲の画像は、1945(昭和20)年9月2日、アメリカ戦艦ミズーリ前方甲板上においてリチャード・サザランド中将が見守る中、日本の降伏文書に署名する重光葵臣外務大臣である。
そこで連合国軍占領中に、G HQの監督の下で「憲法改正草案要綱」を作成(※2のここ参照)し、その後の紆余曲折を経て起草された新憲法案は、大日本帝国憲法73条の憲法改正手続に従い、1946(昭和21)年5月16日の第90回帝国議会の審議(※3のここ参照)を経て若干の修正を受けた後、11月3日に日本国憲法として公布され、その6か月後に施行されたというわけである。

日本を占領したGHQのダグラス・マッカーサーに対し、アメリカ政府が示した占領の主要目的は「日本の武装解除ならびに非軍国主義化」であり、非軍国主義化には、軍国主義体制の解体と民主主義制度(基本的人権の尊重)の確立の2つの側面があった。
このためマッカーサーは、「征服者」と「改革者」の2つの顔をもって占領下の日本に君臨した。1946(昭和21)年初めには、GHQの機構やスタッフも整備され、民生局(GS)を中心に、日本側の想定を上回る急進的改革が矢継ぎ早に打ち出された。
軍国主義の解体については前年秋からの、特高警察の廃止、戦犯容疑者の逮捕、神道指令による政教分離などが進んでいたが、1946(昭和21)年1月4日には広い範囲で戦争関係者の公職追放が司令された。更に財閥解体や中途半端な農地改革も実施された。
民主主義制度確立の面では、前年中に、女性に参政権が与えられ、労働組合法が制定されたあと、1946(昭和21)年11月3日に日本国憲法が公布されたのであるが・・・。

新憲法は「法的革命とも言うべき占領改革(※4参照)」の頂点であったとも言われるが、占領軍による、様々な改革は、民主主義を実現するために非民主主義的な手段で強制するという矛盾がなくはなかった。
特に新憲法の制定については不十分な日本政府の改正案に対して、GHQが力で原案(マッカーサー草案)を押し付けた実態があるにはあるが、アメリカ側は「日本国民の意思に支持されない政治形態を強要しない」という建前にはこだわっていたため、制定経過は極めて複雑でねじれたプロセスをたどった。
マッカーサーは1945(昭和20)年10月に幣原喜重郎首相と会見した時、憲法の自由化を口にしたが、具体的な改革要求は示さなかった。
日本側の自発的な取り組みに期待したのだが、日本政府は改正を急ぐ必要はないと受け止め、松本蒸治国務相の下に憲法問題調査委員会(松本委員会とも呼ばれる。※5のここ参照)を設けることでしのごうとした(日本政府および日本国民の憲法改正動向参照)。

そうした中で、1946(昭和21)年2月1日付の毎日新聞が「憲法問題調査委員会試案」をスクープした(※2のここ参照)。
その内容は天皇の統治権を認めるなど、明治憲法とろくに変わらぬ超保守的なものだった(松本試案参照)。
報告を受けたマッカーサーは、2月3日、ホイットニー民政局長に天皇制存続、戦争の放棄など3項目の原則を示して、早急にGHQ案を起草し日本側に提示するよう命じた。

当時、米英ソ3国外相会議で日本管理のため、新たに極東委員会を設置することが決まったことから、マッカーサーは天皇制存続について他の連合国の介入を招くことを恐れ、憲法の改定を急がざるを得なくなっていた。
極東委員会とは、GHQよりも上位に位置する組織である。日本を直接占領したのはアメリカ軍であったが、立場的には、アメリカ軍は連合国軍の一員として占領をしていたのである。このことは、特に憲法改正問題については、アメリカ政府は、極東委員会の合意なくしてGHQに対して指令を発することができなくなることを意味していた。
そのような中、日本の憲法改正に関しては、米国政府の指針を示す文書(SWNCC228)がある。この文書は、極東委員会のこともあり、あくまで、アメリカ政府がマッカーサーに対して、どのような日本を目指すべきかを、「指令」ではなく「情報」の形で示したものであり、文書には、マッカーサーが日本政府に対し、選挙民に責任を負う政府の樹立、基本的人権の保障、国民の自由意思が表明される方法による憲法の改正といった目的を達成すべく、統治体制の改革を示唆すべきである・・・と、したものであった(※2のここ及び 2013年3月4日時点のページ参照)。
毎日新聞に掲載された「松本委員会案」の内容が日本の民主化のために不十分であり、国内世論も代表していないと判断したマッカーサーは、もう、「日本政府と協議して草案を作っている暇はない」と判断したのだろう。
マッカーサーの指示により、GHQ案は極秘で進められ、たった9日間で作業を終わった。
ホイットニー等は2月13日、吉田茂外相と松本国務相に会いGHQ案の受け入れを迫った。その際GHQ側は、マッカーサーは天皇を戦犯として取り調べるべきだとの他国からの圧力を受けていると強調し、「新しい憲法の諸法規が受け入れられるならば、実際問題として天皇は安泰になる」と説得したという。
GHQの動きを全く知らなかった日本側は愕然として受け入れに抵抗したものの、字句が修正された程度で、3月6日に政府案要綱として発表せざるを得なかった(※2のここ参照)。もちろんGHQの動きは隠されたままだった。
日本側が先に改革に手をつけた唯一の例外が農地改革だった。しかし、1945(昭和20)年末の国会で承認された第1次農地改革は、地上に平均5町歩(山林・田畑の面積をを単位として数えるとき用いる語)の農地保有を認める不徹底な内容だったため、マッカーサーは本国から農業専門家を呼び寄せ、不在地主の所有地を全て開放し、在村地主の保有地は1町歩とする、より厳しい改革案をつくり、1946(昭和21)年10月の国会で成立させた。
翌年3月に始まった第2次農地改革は、1950(昭和20)年7月の完了までに全国の小作地(小作人が地主から借りて、耕作している農地)の約80%を開放する成果を上げ、軍国主義の温床となった日本の農村の貧しさを解消する土台となった。
占領軍の民主主義改革は1941(昭和21)年の2・1スト中止命令で終わりを告げるが、短期間で軍国日本を全面的に改造した実績は、絶対的権力に加え共産党まで、アメリカ軍を開放軍と歓迎するほど日本国民の支持があったのは、マッカーサーが単なる軍人ではなかったことの証明でもあるだろう。

憲法記念日2-2

憲法記念日(参考)

※冒頭の画像は、新憲法公布の日、皇居前広場で午後2時から10万人が集まって「日本国憲法公布記念祝賀都民大会」が開かれ天皇・皇后も臨席した。戦争放棄をうたう新憲法がスタートした(『朝日クロニクル週刊20世紀』1946年号より)。



ご当地キャラの日

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冒頭の画像は「ご当地キャラ大集合inさんだ(第5回2014年)」ポスター(ここ参照。画像クリックで拡大する。
今日は「ご当地キャラの日」だそうだ。
記念日に制定したのは、滋賀県彦根市に本部を置く一般社団法人日本ご当地キャラクター協会(※1)で、地域の活性化を目指し、街を元気にするご当地キャラクター(キャラ)同士の連携を深め、それぞれのローカルキャラクターを全国に発信するのが目的だそうだ。日付は5と11で「ご(5)当(10)地(1)」と読む語呂合わせからだそうだ。

人間や動物のような生物や、生物を模したロボットに限らず、さまざまな道具、時には生物の器官、星や元素、さらには感情や自然、国家など、ありとあらゆる概念擬人化デフォルメを介することでキャラクター化されうる。略してキャラとも言われる。
「キャラクター」の語源である英語の「character」という語の本来の意味は、「特徴」「性質」だそうであり、元の語源はギリシャ語で「刻まれた印、記号」(※2)だそうだ。その意味での用例として、似た性質を持つ人物が社会集団に複数いる状態を『キャラがかぶる』と表現することがある。また、人物を意味する場合も本来は架空の登場人物とは限らず、日本語でも、CMキャラクターなどは実在の人物をさす用例も多い。


上掲の画像は、「元気ハツラツ!」のキャッチフレーズで知られる大塚製薬オロナミンCのCMタレント、こんちゃんこと大村 崑ホーロー看板)。以下の動画は、「ひと味ちがいます。」のキャッチフレーズで、1968(昭和43)年 以降一時中断はあったものの40年間も「タケヤみその顔」として親しまれていた日本のお母さんこと、女優森 光子のCMである。




日本語において、架空の登場人物を指す「キャラクター」という言葉は、1950年代にディズニーアニメーション映画の契約書にあった「fanciful character」を「空想的キャラクター」と訳した際に誕生したとされている(Wikipedia)。
日本では大正期にかけて外国から輸入されたアニメーション映画の人気を受けて、天活(天然色活動写真株式会社)で下川凹天が、小林商会幸内純一が、日活北山清太郎が独自にアニメーション制作を開始した。
1917(大正6)年1月、下川が手がけた短篇アニメーション映画『芋川椋三玄関番の巻』が公開され国産アニメーション映画の第1号となったが、現存するものは2007(平成19)年に玩具版が発見された幸内純一の同年6月30日公開『塙凹内名刀之巻』(『なまくら刀』とも。)のみであり、これが、現存する日本最古のアニメーション作品として知られている。
諸外国と同じく当初作られていたアニメは数分程度の短編映画が多かった。作り手も個人もしくは少人数の工房での家庭内手工業に準ずる製作体制で、生産本数も少なく、生産の効率化を可能とするセル画の導入も遅れていた。1930(昭和5)年前後にセル画が使われ始まるまでは、日本では、フランスなどと同様、切り絵によるアニメが主流であったという。
当映画で、劇中のキャラクターは、既に漫画調のデフォルメが為された頭身であり、試し切りをしようとした武士が蹴られて回転をしたり、星マークなどの漫符の活用が見受けられるなど、この時代にして、これくらいのアニメが作られていたとはすごいことである。以下でそのワンカットが見られる。

日本現存最古のアニメ「なまくら刀」発見 - YouTube

アニメ映画も太平洋戦争を迎えると、戦意高揚を目的とする作品が制作され瀬尾光世監督による日本初の長編アニメーション『桃太郎の海鷲』(1942年)が藝術映画社より製作され、1945(昭和20)年には松竹動画研究所より『桃太郎の海鷲』の姉妹編『桃太郎 海の神兵』も産み出された。
『桃太郎 海の神兵』は、南方戦線のインドネシア中部にあるセレベス島メナドへの日本海軍の奇襲作戦を題材に海軍陸戦隊落下傘部隊の活躍を描き、当時の日本政府の大義であった「八紘一宇」と「アジア解放」(※3)を主題にした大作(74分)である。当時の日本政府、海軍より270,000円という巨費と100名近い人員を投じて制作されたという(参考:当時の東京の物価:銀行員給与80円、米10キロ6円、総理府統計局、「週刊朝日」編値段の風俗史などから)。
落下傘部隊のシーンは、1週間の体験入隊を行うなどして実際の動きを細かく分析、マルチプレーン撮影や透過光[※4参照]などの特殊効果も用いた大掛かりな制作であった(特に透過光の使用は世界初であるとも言われている)。
そして、ミュージカル仕立ての場面があり、これは監督である瀬尾が、1940(昭和15)年にアメリカで公開されたディズニーの長編カラーアニメ『ファンタジア』(日本軍が戦地で没収したフィルムを、海軍省を通じて見る機会を得たそうで、日本での公開は戦後になってから)を参考としたとはいえ戦意高揚が目的であっても『ファンタジア』のように子供たちに夢や希望を与えるような作品にしようとしたことや、姉妹編である『桃太郎の海鷲』と同様に平和への願いを作品中に暗示させたことが作品に大きく影響している。
そして、松竹動画研究所の制作スタジオは東京・銀座の歌舞伎座隣のビルに設けられ、ひとつのキャラクターに一人のアニメーターが専従するという、今日では考えられないような贅沢な作画体制がとられたという。
戦後日本においてストーリー漫画の第一人者として、漫画の草分け的存在として活躍した手塚治虫は1961(昭和36)年に「手塚治虫プロダクション動画部」を設立しているが、その動機となったのがこの映画で、手塚は、封切り初日に大阪松竹座でこの作品を観て、当時、海軍の意図した戦意高揚の演出中に隠された希望や平和への願いを解し、甚く感動し涙を流したと後に語っているそうだ。そうしていつかアニメを自分の手で作りたいという決意を持ったとされている。瀬尾は、手塚も愛読したノラ(野良犬・孤児)の黒犬を主人公にした『のらくろ』を動画化(『のらくろ一等兵』『のらくろ二等兵』ともに1935年制作)するなど、当時、有名なアニメ作家であった。

以下では、その動画と解説、それに、ディズニーの長編カラーアニメ『ファンタジア』の動画の一部参考に掲載されている。その下は「のらくろ」の動画である。

桃太郎 海の神兵 - NAVER まとめ

のらくろ二等兵

一方、1953(昭和28)年にテレビ放送が始まると、単発で数分程度のアニメが番組内の1コーナーとして、また、CMにも用いられるようになるが、当時、アニメ制作には長い期間と制作費がかかるため、NHK、民放を問わず、本格的なアニメ番組を制作するテレビ局は現れず、『ポパイ』・『恐妻天国』(後に『原始家族』として再放映)・『宇宙家族』など海外アニメーションが盛んに放送されていたが、日本の本格的なアニメは1963(昭和38)年の『鉄腕アトム』を待たなければならなかった。

この後、日本のアニメは、世界に誇る産業へと成長するが、その原点にあるのは、日本のマンガ文化であろう。日本には、少年向け、少女向け、サラリーマン向け、OL向け、主婦向け・・・と、多種多様な、凄い数のジャンルのマンガがある。
この漫画が原作となり、アニメ化、映画化され、ゲーム化され、そして、キャラクター関連グッズなどが製品化される。この循環が相乗効果を発揮し、今日のようなマンガやアニメ、キャラクターブームを生み出す。その相乗効果は2倍にも3倍にもなるだろう、
このようなマンガやアニメ、キャラクターを生み出した背景には、一神教の西洋などとは違って八百万神(欧米の辞書にはShintoとして紹介されているそうだ)を崇拝する民族的、宗教的な伝統によって育まれた日本のアニミズム的な感性が日本独特のマンガ文化を生み出しているのだろうという説がある(※5参照)。
この説が正しいかどうかは知らないが、確かに、私たちの日常生活を見渡すと、ペットや魚など生き物の供養だけでなく、人形供養、針供養、箸供養、包丁供養など、無生物さえ供養する多くの風習が残っているのは、アニミズム的な自然信仰に根差すと思われる習俗や 風習が残っているからなのだろう。
それが、ビキニ環礁核実験に着想を得て製作された、水爆大怪獣映画『ゴジラ』(1954年)を生み出したり、鉄腕アトム(雑誌連載1956年、1963年よりTVアニメ化)やドラえもん(1969年より雑誌連載、1073年よりTVアニメ化)のようなロボットにも生命を与えたり、ゲゲゲの鬼太郎 (1954年の紙芝居から始まり1965年からマンガ本化、1968年からアニメ化)の妖怪さえも生み出してゆくことになる。

そんなマンガ文化が今のキャラクターブームを生み出したのだろう。
このようなマンガ、アニメーション、小説などに登場する実在また架空の人物や動物などをかたどったものが多いが、これら優れたキャラクターは、高い人気を持ち、ぬいぐるみやフィギュアなどの玩具や置物、キャラクターの印刷された衣類や日用品、文房具などの商品によって、キャラクターの出自である作品以上の売上がもたらされることも稀ではない。
1970年代以前は、キャラクターを使った商品展開の対象は主に子供たちであったが、東京ディズニーランドのオープン以降は大人達へも広がっていき、1980年代にはロボットアニメブームにより大人も対象とした商品展開が増え始めた。 近年ではアニメなどの流行により、その対象は広い世代に拡大している。
これらのキャラクターを商品に印刷したり、企業のイメージアップに、あるいは、テレビCMに使うなどすると、ライセンス料を払わねばならないためコストは上がるが、企業のイメージアップや販促に有効な手段であるため、最近はマスコットキャラクターの作成に力を入れている企業、団体も多い。

例えば、1956(昭和31)年には経済白書の「もはや戦後ではない」が流行語となり、日本経済は高度成長期への弾みをつけていた。
1950年代後半から、個人預金を獲得するために様々なサービスを展開し、新規顧客開拓に力を入れていた金融機関は、既存キャラクターを統一的に使用し、預金者に対しグッズをプレゼントしたりキャッシュカードや通帳に描くことでそのキャラクターのファンに顧客になってもらおうとする方法が広く取られている(例えば、三菱東京UFJ銀行におけるディズニーキャラクターなど)。
また、近年ではアニメファンなどを対象とした、キャラクターを用いた商品展開も挙げられる。(例えば萌え系美少女のイラスト[イラストレーター:西又葵]をパッケージに使った秋田県羽後町産「あきたこまち」など)。

よーさんの我楽多部屋Corection-Room1貯 金 箱

上記は私の本館「よーさんの我楽多部屋」のCorection Room:貯金箱のページである。又、この下の画像は、萌え系美少女のイラストが描かれたJAうごから発売されている「あきたこまち」である。


そのほか、公共交通機関を運営する会社に於いても、会社の所有する乗り物でキャラクターを作ったり、擬人化された動物等に会社の制服を着せる等して、それを、関係施設や切符などにプリントしたりして、イメージアップを進めていたりしている。

上掲の画像は、警視庁マスコットキャラクターピーポくん。名前の由来は、人々の「ピープル」と、警察の「ポリス」の頭文字からだそうだ。
通常アニメによる二次元のキャラクターは幼稚で大人には向かないとの印象が強く感じられるのだが、日本では今やその二次元キャラクターが企業の広告塔になりつつある。
Facebookページで人気を誇るキャラクターとしてしられる伊藤ハムのハム係長などもその一つである。

ハム係長 第1話 初めの一歩 - YouTube

そして、今どんな人気タレントよりも、テレビやイベントなどで引っぱりダコになっている「ゆるキャラ」と呼ばれているものもその一つ。例えば、今日の記念日を制定している一般社団法人日本ご当地キャラクター協会が本部を置く、滋賀県彦根市のマスコットキャラクターひこにゃんや熊本県のくまモン、千葉県船橋市のふなっしーなどがよく知られている。

上掲の画像向かって左から、ひこにゃん、くまモン、ふなっしー。画像クリックで拡大する。

ゆるキャラは「ひこにゃん」あたりからブームになったように記憶しているのだが・・・。「ひこにゃん」は、江戸時代に同地にあった彦根藩の2代目藩主・井伊直孝に縁(ゆかり)ある1匹の白猫をモデルとしているそうだが、デザインしたのは大阪府出身のイラストレーターであるもへろんだという。なにか、登場した当初から、非常に人気があり、原案者(もへろん)と彦根市の間で、キャラクターの著作権問題で、争っていたことだけは記憶に強く残っている。今では、千葉県船橋市の「ふなっしー」が超人気の様である。
私の地元兵庫県の「ゆるきゃら」には「はばタン」がいるが、このキャラクターは、のじぎく兵庫国体・のじぎく兵庫大会(2003年1月17日~ )の大会マスコットとしてつくられたものであり、「ゆるきゃら」ブームに便乗してか、大会終了後の,2007年4月より、兵庫県のマスコットとなったものである。
フェニックスをモチーフにしたキャラクターで、スポーツ万能な男の子という設定でつくられたようだ。現在は、「ひょうご観光大使」第1号として、又「ひょうご農(みのり)大使」など多様な分野で県政をアピールしているようだ(ここ参照)。

この「ゆるキャラ」とは、「ゆるいマスコットキャラクター」を略したものだそうで、イベント、各種キャンペーン、地域おこし、名産品の紹介などのような地域全般の情報PR、企業・団体のコーポレートアイデンティティなどに使用するマスコットキャラクターのことであるが、そういったかわいらしいイラスト全般を指す場合もある。
狭義では、対象が国や地方公共団体、その他の公共機関等のマスコットキャラクターで着ぐるみ化されているもの(後述の「ゆるキャラ三か条」も参照)に限られるが、広義では大企業のプロモーション(宣伝用)キャラクター等も含まれる。
「ゆるキャラ」という名称は「マイブーム」(1997年流行語大賞)で知られる漫画家、エッセイストであるみうらじゅんが考案したとされ、2004(平成16)年11月26日には「ゆるキャラ」という言葉が、扶桑社とみうらじゅんによって商標登録されている(第4821202号)。
「ゆるキャラ」の提唱者であるみうらじゅんは、あるキャラクターが「ゆるキャラ」として認められるための条件として、以下の三条件を挙げているようだ。
1.郷土愛に満ち溢れた強いメッセージ性があること。
2.立ち居振る舞いが不安定かつユニークであること。
3.愛すべき、ゆるさ、を持ち合わせていること。

みうらは「ひこにゃん」がブームになった2006(平成18)年を境とした「ひこにゃんビフォーアフター」(before after=使用前/使用後)でゆるキャラという言葉の使われ方が変化してきていると指摘している。「ひこにゃん」以前は自分たちのキャラクターを「ゆるキャラ」と呼ばれることにマイナスイメージを持っていた自治体側が、ひこにゃん以降は、自分たちから「ゆるキャラ」を名乗るようになり、広告会社等のプロが自治体からの依頼を受けデザインや運用を行う「素人ならではのゆるさ」というみうらの定義から外れた「ご当地キャラクター」も数多く登場するようになった。
つまり、本来は、かわいいキャラクターと区別するために「ゆるキャラ」とカテゴライズしたものが、いつの間にかちゃんとしたキャラクターに向かっていった。しかし、「ひこにゃん」以降でも『ゆるキャラグランプリ2012』(※6参照)で最下位グループを形成した「ポピアン」(※6のここ参照)、「浜寺ローズちゃん」(※6のここ参照)、「フルル」(※6のここと※7参照)のような「ゆるさ」を持つキャラクターは依然として存在しており、「ゆるキャラ」という呼称の定義が広がり、「ご当地キャラクター」全般を指すようになってきているという(※8参照)。
業界でも大手のイベントの一つだった『ゆるキャラまつりin彦根』は2013(平成25)年より「ゆるキャラ」という言葉を使用せず、「ゆるくない世界で地道に地元を一生懸命PRしている」キャラクターの祭典として『ご当地キャラ博in彦根』へと改名。昨・2014(平成26)年には同様の大手イベントだった『ゆるキャラサミットin羽生』も、「企業キャラクターやご当地ヒーロー等に間口を広げるため」という理由で『世界キャラクターさみっとin羽生』(※9参照)に改称しているという(Wikipedia)。
なにかよく判らないが、「ゆるキャラ」という名前が商標登録されていることに関係しているのではないだろうか。人気が出れば出るほど、それぞれの団体が自身の権利を保護したいものね~。

しかし、なぜ日本にはこんなにも「ゆるキャラ」が溢れたのだろうか。何がここまで人の心を掴むのだろうか。
青木貞茂著『キャラクター・パワー ゆるキャラから国家ブランディングまで』(NHK出版。※10)では、キャラクターに溢れた日本文化の分析を試みており、青木は、「ゆるキャラ」ブームがおきた要因として、東日本大震災と地方経済の苦境を挙げており、以下のように言っているという。
“東日本大震災発生後、人々が感情的・精神的な絆を欲するようになった一方で、地方自治体の経済は困窮した。このような時代情勢の中で、合理性や機能性を超えたエモーショナル([emotional]感情に動かされやすいさま。感情的、情緒的なさま。)な温かさを持つ戦略を考えた時、最も有効だったのが、「ゆるキャラ」という存在だった。地方の名産品の売り込みのためには、元長野県知事の田中康夫や宮崎県知事だった東国原英夫のように自治体に「顔」がないと知名度をあげることができないと気づいたのだ。
そして、(中簡略) 人間関係が稀薄な現代、人は人間でないものにまで感情的な潤いを求め、感情移入する。本来、友人や人間との関係において充足されるはずだった安らぎは稀薄化する人間関係によってなかなか満たされない。そのため友人や家族の代替物としてキャラクターが求められるようになったという。
強いストレス社会が人々がキャラクターを愛でる時代背景となった。「ゆるキャラ」についていえば、その魅力は名の通りの「ゆるさ」だろう。たとえば、人気の「ゆるキャラ」には、「きもかわいい」と表現されるキャラクターが多い。その代表例としては、仏様に鹿の角をつけたことで物議をかもした奈良の「せんとくん」のように。何か不完全で劣っている存在を見ることで、人は、特別な心地よさや心理的な親密さを感じるのだ。“・・と。
一部抜粋しただけなのでわかりにくい点は参考※10:「なぜ日本人は「ゆるキャラ」が好きなのか」を読まれるとよい。
確かに、最近の若い人達は私たちにはちょっと気持ちの悪いものを「きもかわいい」と感じるらしい。田中や東国原も私などには、少々気持ち悪い存在だが、結構人気はあったね~。
もともとマスコットという言葉は身近に置いたり身につけていれば幸運をもたらすと信じられているものを指すそうだ。そういった意味においては七福神ヱビス様を使ったヱビスビールや、幸福を招くとされる福助人形からヒントを得た福助足袋(現:福助)の福助マークなどは最も正統的なマスコット・キャラクターだったといえるだろう。
しかし、今のような時代に、このようなマスコットキャラクターなどは堅苦しく、古くさくって、親近感がわかないのだろう。
、「ゆるキャラ」の一覧は「官公庁のマスコットキャラクター一覧」や、※1:(社)日本ご当地キャラクター協会又、※6:ゆるキャラグランプリ オフィシャルウェブサイトをご覧になるとよい。


参考:
※1:(社)日本ご当地キャラクター協会
http://kigurumisummit.org/
※2:キャラクター - 語源由来辞典
http://gogen-allguide.com/ki/character.html
※3:戦争に負けてアジアから去った日本への賛美の声 - NAVER まとめ
http://matome.naver.jp/odai/2134615487596995101
※4:デジタル TB
http://msc-jp.biz/material_html/terms_T.html
※5:アニメとアニミズム:世界に広がるマンガ・アニメ02
http://blog.goo.ne.jp/cooljapan/e/6ef2f1ca95960606323033cc2cb4210b
※6:ゆるキャラグランプリ オフィシャルウェブサイト
http://www.yurugp.jp/
※7:【最下位】ゆるキャラグランプリ2012【ポピアン】とは!? - NAVER まとめ
http://matome.naver.jp/odai/2135400412723718401
※8:みうらじゅん氏 2006年の「ひこにゃんビフォーアフター」指摘 – SNN
http://snn.getnews.jp/archives/162294
※9:世界キャラクターさみっとin羽生
http://gotouchi-chara.jp/hanyu2014/index.html
※10:なぜ日本人は「ゆるキャラ」が好きなのか
http://news.ameba.jp/20140508-118/
日本を評価するアジアの指導者の証言
http://www1.ocn.ne.jp/~terakoya/ajia.html
第61回国民体育大会
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC61%E5%9B%9E%E5%9B%BD%E6%B0%91%E4%BD%93%E8%82%B2%E5%A4%A7%E4%BC%9A
企業とキャラクター
http://www.disaster-info.jp/seminar2008/kurahashi.pdf#search='%E6%9C%80%E3%82%82%E5%8F%A4%E3%81%84+%E4%BC%81%E6%A5%AD+%E3%82%AD%E3%83%A3%E3%83%A9++%E7%A6%8F%E5%8A%A9+%E8%B6%B3%E8%A2%8B'
ゆるキャラ - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%86%E3%82%8B%E3%82%AD%E3%83%A3%E3%83%A9






ファイティング原田が、プロボクシング世界バンタム級チャンピオンになった日

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今まで格闘技の中でも特に荒々しく、男臭いプロレスやプロボクシングなどの世界は男性のファンで支えられていたものだったが、そんな荒々しい格闘技に女性ファンが急増していると聞く。それも若いファンが多いという。その詳しい理由を私は良く知らないが、恐らく、若くて鍛えられた肉体美を誇る、しかもイケメンがこれらの世界へも進出してきたからではないだろうか。
昔は男らしい男性を女性は好んだものだが、戦後の平和な時代が続くと、近年、女性は男臭い男性よりも優男を好む傾向があり、そのような影響もあってだろう、最近は、女性か男性かわからない中世的な男性が増えてきた。TVの世界はそんな男性であふれかえっている。
最近、錦織圭がTVCMに顔を出すようになったが、いまだに松岡修造などがにTVCMを独占しているのも、格好良く逞しく明るい男性スポーツ選手などがなかなか現れないからであろう。今の女性は、男性同様厳しい社会の中で自立しており、ストレスが溜まった時などには、鍛えられた逞しい、しかもイケメンが活躍する格闘技を見て、ストレスを発散させたいと思う女性が増えているのではないだろうか。ただの優男より、逞しい男性が持てるようになったとすれば、これからの男性像も少しづつ変化してゆくだろう。
終戦の私が子供の頃は、太平洋戦争に負け、男どもは自身喪失していた。戦後日本はGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)により武道の禁止指令により柔道も禁止されていたが、そんな中、1951(昭和26)年に相撲界から力道山がデビューした。これが、日本におけるプロレス元年とされている。
プロレス興行が根付いたのは力道山が1953(昭和28)年に日本プロレスを旗揚げしてからのことである。戦後間もない頃で多くの日本人が反米感情を募らせていた背景から、力道山が外国人レスラーを空手チョップで痛快になぎ倒す姿は街頭テレビを見る群集の心を大いに掴み、プロ野球、大相撲と並び国民的な人気を獲得したものだ。
日本の本格的ボクシングは1921(大正10)年、アメリカ帰りの渡辺勇次郎が東京下目黒にオープンした日本検討クラブに始まる。渡辺が栃木県で凱旋興行したとき、母校の真岡中学で発掘したのが堀口恒男。ラッシュ(rush=突進すること。猛然と攻撃すること)戦法(彼の場合「ピストン戦法」と呼ばれた)の“ピストン堀口”である。
中学卒業と共に日倶に入門。早大専門部に通う堀口が一躍脚光を浴びたのは1933(昭和8)年、前世界チャンピオンのエミール・ブラドネル(仏)と引き分けたときである。1930年代後半のボクシング界はこの堀口を軸に展開した。渡辺勇次郎の夢見た「世界選手権を日本人に」を実現したのは、戦後のヒーロー白井義男だった。
1952(昭和27)年5月19日、東京・後楽園球場特設リンクで、フィリピン系ハワイ人の世界フライ級王者ダド・マリノ(米国)に挑戦し、15回判定勝ちで、日本人初の世界タイトル保持者となった。渡辺のジム開設から31年後のことであった。
白井は、以後4度の防衛を果たしたが、敗戦に打ちひしがれた日本人にとって、白井の王者獲得とその後の防衛での活躍は"希望の光"となった。因みに、この5月19日は、2010(平成22)年に、日本プロボクシング協会によって「ボクシングの日」に指定されており、毎年この日には「ファン感謝イベント」が開催されているようだ。

上掲の画像は、5月19日後楽園特設リンクでエミール・ブラドネルと戦う白井。『アサヒクロニクルス 週刊20世紀』スポーツの100年より。
その白井のあとを追うように、1950年代後半ファイティング原田(本名は原田 政彦)、海老原博幸青木勝利の“軽量級三羽烏時代”が現れ、ボクシング黄金期を迎えることになる。特に、原田はフライ級に続いて“黄金のバンタム” エデル・ジョフレ(ブラジル)を破って世界王座の2階級制覇を成し遂げた。多くの専門誌が「歴代最も偉大な日本人ボクサー」として原田の名前を挙げている。日本のボクシング世界王者のことについては、Wikipedia のここ 又、その戦績などは※1:「ボクシングのページ」の日本のジム所属の歴代世界チャンピオンを参照されるとよい。
冒頭の画像は1955年5月18日、バンタム級の不敗の王者、エデル・ジョフレに挑戦し、ラッシュ戦法が効を奏し2対1で判定勝ちし、慣習にこたえている原田。『アサヒクロニクル週刊20世紀』1965年号より。

今日はこの原田の栄光の時代と試合のことについて触れてみたい。なお、このブログを書くに当たり、原田の経歴試合内容等については、Wikipediaだけでは詳細な記録が見られないので、以下参考の※2:「究極の格闘技ボクシングの歴史」のボクシング黄金時代最強のトリオや、※3:「キングオブスポーツ ボクシング」の名ボクサー名鑑よりファイティング原田を参考にさせてもらった。

白井のあと、彗星のごとく現れた原田は終戦の2年前、1943(昭和18)年4月5日、東京の世田谷に生まれた。植木職人であった父親が、中学2年の時、仕事中の怪我により働けなくなったため、彼は高校進学をあきらめ、当時、白井義男の活躍によりボクシング人気が高まっていたこともあり、友人に誘われ、近所にあった精米店で働きながら猛練習で知られる笹崎ボクシングホール(現:笹崎ボクシングジム。目黒区)に入門した。この笹崎ジムの初代会長笹崎僙(たけし)も、渡辺の門下生で、戦後に元同門のピストン堀口のライバルとして活躍した昭和初期における日本を代表するボクサーの一人であり、その鋭いストレートから「槍の笹崎」の異名で呼ばれた人物である。
笹崎ジムに通っていた原田は、初めてのスパーリングで激しい連打を披露し、笹崎会長を驚かせたという。原田が将来の名選手になることを確信した笹崎会長は、徹底的に原田少年を鍛え抜いた。
そして、1960(昭和35)年、わずか16歳10ヶ月で彼はデビュー戦にのぞみ、見事4ラウンドKO勝ちをおさめた。これを機に、彼は、3ヵ月後には精米店を辞め、ジムの合宿生となり、ボクシングに専念するようになった。
そして、同年秋、彼は東日本新人王戦(全日本新人王決定戦参照)に出場し順当に勝ち進み、準決勝で彼が対戦することになったのは、同じジムの親友でもあった斉藤清作であったが、斉藤は、「負傷」と言うことで出場を辞退している。実力的には五分五分であったといわれていただけに、ジムの会長が両者の接戦を予測し、共倒れを恐れ斉藤に辞退させたのだろうと推測されている。後に、「タコ八郎」の名で、コメディアンとして人気者になった斎藤とは、その後も長く交友が続き、死の直前にも電話を受けたといわれている。
決勝に進んだ原田は、やはりKOパンチャーとして売出し中で、後にフライ級世界チャンピオンにもなった海老原博幸に判定勝ちしている。この試合は6回戦とは思えない名勝負となり、序盤は原田がラッシュし、途中二度のダウンを奪って大きくリードするが、終盤には、海老原が後に“カミソリ・パンチ”と言われた左を再三ヒットして反撃、原田は何とか耐え抜き判定に持ち込み、ダウンポイントが利き、原田がこの試合をものにした(この後、海老原が試合中にダウンを喫することは、引退まで二度となかった。そして日本人相手に敗れることも)。この対戦は、後の世界王者同士の対決として、新人王戦史上に残る名勝負と言われている。
1962(昭和37)年5月3日、ノンタイトル10回戦に判定勝ち。デビュー以来25連勝を達成し、海老原、青木とともに次代のホープとして「フライ級三羽烏」と称されるようになった。しかし、成長盛りの年代でもあり、次第にフライ級での体重維持が困難になり、バンタム級への転向を考え始めていた彼は、同年6月同級へのテストマッチとして臨んだ世界バンタム級7位のエドモンド・エスパルサ(メキシコ)戦で10R(ラウンド)判定で敗れてしまい、バンタム級転向を発表できずにいた。
童顔の風貌とは裏腹に、原田のボクシングスタイルは力強い連打で打って打って打ちまくるラッシュ戦法であった。後に「狂った風車」とも呼ばれた激しいファイトスタイルも、このバンタム級へのテストマッチ戦では、パンチ力を生かすことができずに敗戦を喫し、たとえ、階級をあげてもパンチ力だけでは勝てないことを知った。そして、この戦いの後、まもなく、世界フライ級王者ポーン・キングピッチ(タイ)に挑戦が内定していたのは、同級1位の矢尾板貞雄であったが矢尾板が突然引退したため、同じ日本人のホープ原田に突然挑戦のチャンスが回ってくるという運の強さも持っていた。
世界タイトルマッチを目前にしての突然の引退であり、日本での試合はすでに準備されており、チャンピオンのポーン・キングピッチは急遽対戦相手に原田を指名したのだが、この時、原田はまだ世界ランキングにも登場していない無名の存在であったが、彼は海老原に次ぐ日本ランキングの2位のボクサーであった。順当なら対戦相手には海老原が選ばれるべきであったが、海老原の強さの方が海外には知られており、原田がバンタム級7位の相手に敗れていることも知られていたことから、海老原より原田の方がポーンにとってはやりやすかったのだろう。そのようなことから、原田の挑戦についてはいろいろ議論もあったたようだが、結局、ポーンが勝てば防衛にはならない、原田が勝てば王座獲得という変則的な条件で、1962(昭和37)年10月10日に無事に世界タイトルマッチにこぎつけた(ただ、挑戦時には原田に世界10位のランクがつき、正式な世界タイトルマッチとなるが、これは、タイトル戦への権威づけなのであろう)。
蔵前国技館で行われた試合は、原田が左ジャブとフットワークでポーンをコントロールし、11R、相手コーナーに追い詰め、80数発もの左右連打を浴びせポーンはコーナーロープに腰を落としてカウントアウトされKO負けとなった。勝って当たり前のチャンピオン、あきらかに油断があったのだろう。一方、駄目でもともとの原田はラッシュ戦法で一方的に攻めまくり、見事世界の頂点を極めたのである。白井義男に次いで2人目、10年ぶりの世界王者誕生にファンは大熱狂。無数の祝福の座布団が会場に舞ったのは当然だろう。10代での世界王者誕生に日本中も大いに湧いた。
しかし、華々しく奪った世界タイトルだったが、成長盛りの彼にとって普段の体重の維持はもう限界になっていた。3ヵ月後の1963(昭和38)年1月、敵地でのリターンマッチ戦では、元チャンピオンも今度は十分な準備をして待ち受けていた。しかも、敵地での対戦はKOしなければ勝てないことは十分にわかってはいても、原田の方は、減量のためだけの練習になっていた。結局、体調不良が響き微妙な判定負けでタイトルを失った。

この試合後、彼はフライ級からバンタム級に転じ、バンタム級へ転向後は連勝を続け、半年で世界ランクの4位となり、同級3位のジョー・メデル(メキシコ)と、1963(昭和38)年9月26日、世界タイトルへの挑戦権を賭けて対戦することとなった。メデルは、クロス・カウンターを得意とするアウトボクサーで、「ロープ際の魔術師」の異名を持つ強豪であった。
仕合では、5Rまでは、原田のラッシュが勝り一方的な展開であったが、6R、原田の単調な動きを見切ったメデルに、得意のカウンターをヒットされ3度のダウンの末にKO負けしてしまった。この敗戦により原田は、今までの戦法では通じないことを悟り、単調なラッシュ戦法にフェイントを加え、さらに体力アップによるラッシュ時間を増やすことを目指し猛練習。すぐに再起し、翌・1964(昭和39)年10月29日、”メガトン・パンチ”と称された強打を誇る東洋王者・青木勝利に新戦法で闘い、3RKO勝ちし、バンタム級世界王座への挑戦権を掴んだ。
当時の世界チャンピオン、エデル・ジョフレ(ブラジル)は「ガロ・デ・オーロ(黄金のバンタム)」の異名通り、世界王座を獲得した試合、8度の防衛戦にいずれもKO勝ちしていた。その中には、青木や、原田にKO勝ちしたジョー・メデルも含まれていた。強打者であり、パンチを的確にヒットさせ、ディフェンスも堅い実力王者だった。原田の猛練習は、取材していた新聞記者が、疲労で床にへたり込む程の激しさだったと言う。しかし、試合前の予想は、ジョフレの一方的有利、原田が何ラウンドまで持つか、という悲観的な見方がほとんどだった。

その試合は、奇(く)しくも、今から、ちょうど50年前の今日・1965(昭和40)年5月18日に名古屋・愛知県体育館で行われたのであった。この時、ジョフレは29歳、原田はまだ22歳であった。
試合開始のゴングを聞いた原田は、当初今までのボクシングスタイルを捨て、アウトボクシングに出た。かなりの大博打を打ったと言えるが、果たして原田はこの博打に勝った。原田のラッシュを予想した作戦を組み立てていたであろうジョフレに、明らかに戸惑いが見られ、その端正なボクシングに狂いが出始めたのである。そして、4R、ジョフレはリング中央で原田との打ち合いに応じたが、パンチにいつもの的確性がなく、原田のパンチが勝っていた。そして遂に、ジョフレ唯一の弱点である細いアゴを、原田の右アッパーが打ち抜いた。これでロープまで吹っ飛ばされたジョフレに、原田はラッシュを仕掛ける。だが、ジョフレもよく追撃打をブロックでしのぎ、次の5Rには、強烈な右をヒットし、原田はコーナーを間違えるほどのダメージを負った。だが、練習量豊富な原田は、次の回から立ち直り、終盤は一進一退の展開を迎える。そして遂に15Rの終了ゴングが鳴った。ボクシング史に残る死闘となったこの試合、どちらが勝ってもおかしくない内容だったが、手数で上回った原田が僅差で制した。勝敗の判定は、日本の高田(ジャッジ)が72-70で原田、アメリカのエドソン(ジャッジ)が72-71でジョフレ、そして、アメリカ人バーニー・ロス(レフェリー)が71-69で原田、2-1の判定勝ちで原田は世界王座奪取した。
レフェリーのロスは、現役時代、原田同様のラッシャーであり、それが原田に有利に作用したのでは、という噂もあったようだが、いずれにしても、原田のファイトが圧倒的不利の予想を覆し2階級制覇に成功したのであった。人格者でもあったジョフレは、。上述の通りクロス・ゲーム原田にタイトルを奪われた試合後には笑顔で原田を担ぎ上げていた。
そして、1965(昭和40)年11月30日、初防衛戦では、リヴァプール出身のアラン・ラドキン(イギリス)を15回判定で破り、翌・1966(昭和41)年5月31日、2度目の防衛戦では、前王者ジョフレを15回判定で下し防衛に成功。
1967(昭和42)年1月3日、3度目の防衛戦。では、かつてKO負けしたジョー・メデルとの再戦となる。この試合、前回メデルのカウンター攻撃に倒された原田は、足を使って、メデルのカウンターの射程圏外に出て、攻勢時には、身体を密着させてラッシュし、カウンターを封じた。原田の一方的なポイントリードで迎えた最終15回、メデルの左フックのカウンターが遂に命中し、一瞬ふらりとしたが、クリンチで何とか逃げ切り王座を防衛した。
同年7月4日、4度目の防衛戦。ベルナルド・カラバロ(コロンビア)を15回判定で下し王座防衛。4度の防衛を果たしたが、1968(昭和43)年2月27日、5度目の防衛戦で、当時19歳の無名挑戦者ライオネル・ローズ(オーストラリア)に15回判定負けしタイトルを失った。

この頃バンタム級でも原田の減量苦は限界を超し始めていたため、以降フェザー級に転向した。この当時、世界のボクシング界はボクシング団体がWBCWBAに分裂し始めていた。日本のボクシング団体であるJBCは、まだWBAの存在しか認めていなかったため、原田はWBA認定のフェザー級チャンピオンとなっていたラウル・ロハス(米)に挑戦することしかできなかったが、当時、日本ではほとんど無名の存在であった、西城正三が、たまたま武者修行先のアメリカで、ロハスとの練習試合を行いまさかの勝利を収めたことから、タイトル戦への挑戦機会を得て、またまたロハスに勝利してチャンピオンになっていた。
このまさかの日本人世界チャンピオンの誕生で、日本のボクシング界で初めての日本人対決の可能性が浮上してきたため、西城への挑戦準備が進む中、原田は同級の格下相手と調整試合を行ったが、調整の遅れもあり、原田もまさかの敗戦を喫してしまった。この敗戦により、彼は世界ランキングを落としてしまい、タイトルへの挑戦権を失うという大誤算となった。WBAでのタイトル挑戦が厳しくなったことから、彼はしかたなくWBCタイトルへの挑戦を目指した。相手は、オーストラリア人のジェームス・ファメションであった。

1969(昭和44)年7月28日、WBCフェザー級王座に敵地シドニーで挑戦。敵地での試合ということで原田はKOでの勝利を目指して、果敢に攻め、ファメションをKOギリギリまで追い込み3度ダウンを奪ったにもかかわらずレフェリーがダウンしたファメションを助け起こすという事件が起きる。そのうえ、内容的に原田が圧倒していたにも関わらず、15回判定負け。判定はチャンピオンの勝利となってしまった。この試合の判定は英国式ルールにより、判定がレフェリー一人にまかされていたことも問題なようで、露骨なホームタウンディシジョンでの防衛であることは明らかで、リングサイドで観戦していたライオネル・ローズもそれを認めており、当時の地元スポーツ新聞にはリング上で失神している王者の写真がデカデカと掲載されていたというから、いかに地元オーストラリアにとっても不名誉な勝利であったかが伺える。だが、結果として、地元判定に泣いた「幻の三階級制覇」となってしまった。
当然、ここまで問題が大きくなったことでWBCは再戦を要求。翌1970(昭和45)年1月6日、ファメションは王者の意地と誇りを賭けて今度は原田の地元東京・東京体育館にて再戦(日本で行われた初のWBC世界タイトルマッチ)を行ったが、原田はいい所が無いまま14RでKO負けしてしまった。もともと太りやすい体質の原田。無理な減量による10年間の戦いに肉体は思っている以上に衰えていたのかもしれない。この敗戦から3週間後の、同年1月27日、彼は引退を発表した。
原田の時代までは世界タイトル統括団体は世界ボクシング協会(WBA)たったひとつ。階級も8クラスしかなかった。つまり、世界王者はたった8人しかいなかった。しかし、現在はメジャーな統括団体が4つ、階級は17クラス、しかもスーパーだの暫定だの休養だのが乱発されている。今と違って原田が戦った1960年代当時、2階級制覇した、いや、ローズ戦の不当な試合結果がなければ三階級制覇もなっていた・・・というのは凄いことなのである。
ファイティング原田の名前が示すように原田は連打で打って打って打ちまくるラッシュ戦法を得意としていた。もともと太りやすい体質の原田が成長期に減量苦に耐え、そして類まれな闘志、根性から生みだしたものである。そのスタイルから努力、根性といった当時の日本人が好む匂いに溢れた選手だった。世界での評価も高く、米国にある世界ボクシング殿堂入りを果たした唯一の日本人ボクサーである。
そして、バンタム級歴代最強論争にも必ず登場する原田。1950年代後半から1960年代初めにかけて最強の名をほしいままにしたジョフレの戦績は78戦72勝(50KO)2敗4分・・と、たった2敗しかしていない。しかし、この2敗はいずれもがファイティング原田に喫したものである。すなわち‘「黄金のバンタム」を破った男はファイティング原田しかいないのである。
とにかく、彼のタイトルマッチは、高視聴率をマークする試合が多かったが、この1戦がやはり、ボクシング放送での1番の高視聴率となった歴史的な試合であった。以下は、ビデオリサーチによる、全局高世帯視聴率番組50(※4参照)の順位である。この視聴率を見れば、彼がどれくらい当時の人から愛されていたかがわかるだろう。
タイトル戦テレビ視聴率
第1 位第14回NHK紅白歌合戦 1963年12月31日(火)NHK総合 81.4 %。
第2 東京オリンピック大会(女子バレー・日本×ソ連 ほか) 1964年10月23日(金) NHK総合 66.8%
第3位 2002FIFAワールドカップHグループリーグ・日本×ロシア 2002年6月9日(日) フジテレビ 66.1%
第4位 プロレス(WWA 世界選手権・デストロイヤー×力道山) 1963年5月24日(金) 日本テレビ 64.0 %
上記に続いて、以下の通り、歴代視聴率ベスト10に2試合、30位までに6試合もランクされているのである。
第5位、世界バンタム級タイトルマッチ(ファイティング原田×エデル・ジョフレ) 1966年5月31日(火)フジテレビ 63.7%
第8位、世界バンタム級タイトルマッチ(ファイティング原田×アラン・ラドキン) 1965年11月30日(火) フジテレビ 60.4 %
第13位、世界バンタム級タイトルマッチ(ファイティング原田×ベルナルド・カラバロ) 1967年7月4日(火)フジテレビ 57.0 %
第22位 世界バンタム級タイトルマッチ(ファイティング原田×エデル・ジョフレ) 1965年5月18日(火) フジテレビ 54.9%
第23位 世界バンタム級タイトルマッチ(ファイティング原田×ジョー・メデル) 1967年1月3日(火)フジテレビ 53.9 %
第25位 世界バンタム級タイトルマッチ(ファイティング原田×ローズ) 1968年2月27日(火) フジテレビ 53.4%
この視聴率を見れば、彼がどれくらい当時の人から愛されていたかがわかるだろう。
「幻の三階級制覇」の後、ローズ戦再選に負け、引退後は、解説者として活躍する一方、トーアファイティングジム(現・ファイティング原田ボクシングジム)にて後進の指導にあたっていた。現在は、同ジム会長。2010年3月、第10代日本プロボクシング協会(JPBA)会長退任後、同顧問。プロボクシング・世界チャンピオン会最高顧問に就いている。

今日はそんな原田の懐かしい試合を思い起こしながら後のブログを閉めよう。とりあえず見つかったものだけをいかに添付しておく。





上掲はファイティング原田 VS ポーン・キング(1962年)勝利し世界フライ級王者となったた時のもの。



原田 VS ポーン・キングピッチ(1963年) 14・15ラウンド。微妙な判定負けでタイトルを失った時のもの。





上掲は1964年10月29日、原田とライバル青木との世界挑戦権を賭けた戦い。




上掲は1965年5月18日愛知県体育館でのバンタム級チャンピオンエデル・ジョフレとの試合で圧倒的不利の予想を覆し2階級制覇に成功した時のもの。

参考:
※1:ボクシングのページ
http://www.geocities.jp/takawo2222/box.html
※2:究極の格闘技ボクシングの歴史
http://zip2000.server-shared.com/onboxing.htm
※3:キングオブスポーツ ボクシング
http://hands-of-stone.seesaa.net/
ファイティング原田|スポーツの名言
http://meigenatsumemashita.web.fc2.com/sports/fighting-harada.html
※4:全局高世帯視聴率番組50 | ビデオリサーチ
http://www.videor.co.jp/data/ratedata/all50.htm
百田尚樹 『「黄金のバンタム」を破った男』 PHP文芸文庫 -
http://blog.livedoor.jp/hattoridou/archives/51901514.html
■日本人の平均身長・平均体重の推移(1950年~)
http://dearbooks.cafe.coocan.jp/rekishi05.html
ファイティング原田 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%82%B0%E5%8E%9F%E7%94%B0

有無(ありなし)の日

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陰暦5月25日を、「有無(ありなし)の日」というそうだ。
「有り無し」とは、
1)[名]あることとないこと。あるかないか。有無(うむ)。
2)[形動]①あるかないかわからないほどに、かすかなさま。②いるかいないかわからないほどに、軽視するさま。・・をいう。
この日は村上天皇の967年(康保4年)の忌日であるが、「村上天皇は、急な事件のほかは政治を行わなかったことから」・・・だと大辞林 第三版には書かれている。(ここ参照)

村上天皇は、平安時代中期の第62代天皇(在位:天慶9年4月28日[946年5月31日] - 康保4年5月25日[967年7月5日])であり、は成明(なりあきら)。
延長4年6月2日(926年7月14日)、醍醐天皇の第14皇子として生まれる。保明親王(醍醐天皇の第二皇子)、朱雀天皇(醍醐天皇の第11皇子)、の同母弟であり、母は太政大臣藤原基経の娘中宮穏子である。
保明親王は伯父の左大臣藤原時平(藤原基経の長男)の後ろ盾により、わずか2歳で立太子し、東宮となるが、延喜9年(909年)、親王の即位を見ることなく時平が没する(この時親王6歳)。その後、親王は即位することなく、父・醍醐天皇に先立ち薨御(享年21)。
保明親王薨去後、その第一王子・慶頼王(時平の外孫)が皇太子に立てられるが、2年後僅か5歳で薨御し、代わりに保明親王の同母弟、寛明親王(後の朱雀天皇)が皇太子となった。
保明親王・慶頼王ともに藤原時平と繋がりが深かったことから、両者の相次ぐ薨去は時平が追い落とした菅原道真祟りによるものとの風評が立った。これを受けて醍醐天皇は道真を右大臣に戻し正二位を追贈するを発し、道真追放の詔を破棄する。・・・が、なおも、台風・洪水・疫病と災厄は収まらず、延長8年(930年)6月には内裏清涼殿に落雷が発生し(→清涼殿落雷事件)、公卿を含む複数の死者が出た。醍醐天皇はこれを見て病に臥し、3ヵ月後寛明親王に譲位、7日後崩御した。
成明(後の村上天皇)の兄である朱雀帝は、醍醐天皇の崩御を受け8歳で即位したが、政治は、伯父忠平(基経の四男)が摂関として取り仕切っていた。
朱雀帝治世中の承平5年(935年)2月には、平将門が関東で反乱を起こし、次いで翌年には瀬戸内海で藤原純友が乱を起こした(承平天慶の乱)。懐柔策を試みたがうまくいかず、天慶3年(940年)、藤原忠文征東大将軍に任命して将門征伐軍を送り、藤原秀郷の手により将門は討たれた。翌年には橘遠保により藤原純友が討たれ、乱はようやく収束している。
又、朱雀帝の治世中にはこのほかにも富士山の噴火(※1参照)や地震・洪水などの災害・変異が多く、その心労からか、また、皇子女に恵まれなかったこともあってか、天慶9年(946年)早々と3歳年下の弟成明(村上天皇)に譲位し、仁和寺に入ってしまった。そのため、成明(村上天皇)が、21才で践祚した。
年齢からいっても、摂政や関白を置く必要がなかったが、村上天皇の時代になっても、先代に続いて、天皇の外舅藤原忠平関白を務めたが、忠平は穏和な性格で、よく村上天皇を補佐し良き治世を行ったとされており、3年後の天暦3年(949年)に忠平が死去すると、それ以後は摂関(摂政と関白)を置かず、天皇自ら政治を行い、文治面では、天暦5年(951年)には、梨壺(庭に梨の木が植えられていたところから。平安御所七殿五舎の一つである昭陽舎の異称)に撰和歌所を設け、『後撰集』(『後撰和歌集』)の編纂を下命したり、天徳4年(960年)3月に内裏歌合を催行し、歌人としても歌壇の庇護者としても後世に評価されている(村上天皇の歌は※2:「やまとうた」千人万首のここ参照、)。
また『清涼記』の著者と伝えられ、琴や琵琶などの楽器にも精通し、平安文化を開花させた天皇といえることから、父である醍醐天皇と同じく天皇親政が行われたとされている。この両治世は「天皇政治の理想」と言われ、その時の年号を取って「延喜・天暦の治」とも呼ばれている。
半世紀後に作成された『枕草子』も、村上朝に、理想的な親政国家の姿をみていることが窺がえる.。
『枕草子』は、梨壺の五人の一にして著名歌人であった清原元輔(908年 - 990年)の娘で、中宮定子に仕えていた女房清少納言が書いたとされる日本最古の女流随筆文学である。(『枕草子』原文全文は※3を参照、また、以下に書く各段の解説文は※4のここを参照されるとよい)。
『枕草子』180段「村上の前帝の御時に」に描かれた兵衛(兵衛府四等官以外の武官)の蔵人・181段に描かれる御形の宣旨のエピソードは村上朝に仕えた才気ある女房の話を打開的に記したもので女房にとっての理想像として登場する。
作者が実際に見たわけではない、このようなエピソードが枕草子に描かれる背景には、一条朝において、聖帝の御代として理想化された村上朝の位置がある。さらにそれは、宮廷サロン・後宮においては、模範とすべき「昔」として語り伝えられる時代でもあったようである。
107段「雨のうちはへ降るころ」に同じく村上朝の話として語られる犬抱き(皇后安子の下仕女)と藤原時柄(蔵人)のエピソードもそのような形で伝えられていたものだろう。「清涼殿の丑寅のすみ」の段(20段)に描かれる定子サロンはいわば宮廷説話として語り伝えられているエピソードを再現しようとする姿勢を示しているが、このことは理想的なあり方として賛美される過去を自己のサロンの中に取り込んでゆこうとする点で単に「昔」を語る以上に積極的な方向性を持っていると言えるだろう。
この段で定子が女房たちに古歌を一種づつ書かせたのが、円融朝において天皇から殿上人に与えられた課題の再現であったように、女房達に『古今集』(『古今和歌集』)のテストを行うのは村上帝と宣燿殿女御のエピソードを再現することでもあったようである。この段の末尾は、「昔はえせものも皆をかしうこそありけれ。このごろかやうなる事やは聞ゆる」など、御前に侍ふ人々、うへの女房のこなたゆるされたるなど參りて、口々いひ出でなどしたる程は、誠に思ふ事なくこそ覺ゆれ。という形で結ばれていて、ここでも過去と現在とが対比的にとらえられている。そして定子サロンの現在は、村上朝後宮の栄光と重ね合わせることによって、二重に「めでたき」ものとして位置づけられるのである。
ここで、作者の視点を考えるとき注目されるのは理想とするサロンのあり方が天皇主導型であるということである。
180段の場合も、村上先帝の御時に雪のいと高う降りたりけるを、楊器(様器。規定どおりに作られた儀式用の食器)にもらせ給ひて、梅の花をさして、月いと明きに、「これに歌よめ、いかがいふべき」と兵衞の藏人に賜びたりければ、雪月花の時と奏したりけるこそ、いみじうめでさせ給ひけれ。「歌などよまんには世の常なり、かく折にあひたる事なん、言ひ難き」とこそ仰せられけれ。・・・とある。
白氏文集をふまえた兵衛の蔵人(女蔵人)の秀句は、村上天皇によって演出され意図的に引き出されたものとして描かれており、宮廷サロンの華やかさ「めでたさ」も天皇の権威と指導力の下に実現されるという作者の視点を読み取ることができるという。
このような点から、村上朝を考える時、思いおこされるのは、清少納言の父・清原元輔のことである。元輔は、歌人としての名声とは対照的に、官吏としては不遇に終わった人であったが、彼の生涯の中で最も輝かしい時代をあげるならば、やはり、選和歌所の寄人に選任され、「梨壺の五人」の一人として、歌人的名声を高めた時期だろう。それが正に村上朝においてなのであった。
元輔の晩年の子として生まれ、「叙目に司(官)得ぬ人の家」(22段・すさまじきもの)に描かれるようなみじめな現実を見ていたであろう作者にとって、その時期は、父親にとっての最も華やかなりし時代として、思い描かれたことであろう。梨壺(昭陽舎)における元輔は天皇周辺の世界に身を置く者として六位蔵人とも響きあう存在であり、又、女房として中宮に仕える作者(清少納言)自身の存在とも対をなしている。作者にとって、村上朝とは、父・元輔の記憶と深く関わる過去であり、特殊な位相を持つ時代だったようだ(※5参照)。


村上天皇を支えたのは、関白太政大臣藤原忠平、左大臣に実頼(忠平の長男)、右大臣に師輔(忠平の次男)、権中納言に源高明(醍醐天皇の第10皇子。藤原師輔、その娘の中宮安子の後援を得て朝廷で重んじられていた)、参議に藤原師尹(忠平の五男)、小野好古などがいた。
これらを見ていてもわかるように、当時は摂関家が政治の上層を独占する摂関政治が展開し、中流・下流貴族は特定の官職を世襲してそれ以上の昇進が望めない、といった家職の固定化が進んでいた。そうした中で、中流貴族も上層へある程度昇進していた延喜・天暦期を理想の治世とする考えが中下流貴族の間に広まっていたようである。
しかしながら、天暦3年(949)に忠平が没した後も、天皇が摂関を置かず親政を行ったとされるが、それはおそらく形式上に過ぎず、政治の実権は実際には右大臣藤原師輔が握っていたのではないかという説もある。
実際、延喜・天暦期は律令国家体制から王朝国家体制へ移行する過渡期に当たっており、様々な改革が展開した時期であり、それらの改革は天皇親政というよりも、徐々に形成しつつあった摂関政治によって支えられていた。しかし、後世の人々によって、延喜・天暦期の聖代視は意識的に喧伝されていき、平安後期には理想の政治像として定着したようだ。従って、村上天皇の実態は、おそらくは、「有り無し」でも、②の「いるかいないかわからないほどに、軽視するさま。」・・・に相当する存在だったということだろう。
藤原師輔は、娘安子の産んだ第2子憲平親王を生後間もなく皇太子とし、康保4年(967年)5月25日、村上天皇は在位のまま42歳で崩御すると憲平親王が即位して冷泉天皇となるが、この帝は病弱で神経の病を得、やがて藤原兼通兼家の台頭を許して、政治の実権は藤原北家に移ることとなる。

ところで、我が地元である兵庫県神戸市須磨区に「村上帝社」という名の神社がある。JR須磨駅から国道2号線を渡って東に歩いていくと、道沿いに小さな赤鳥居が建っており、その奥に広がるこじんまりとした境内にある小さな社殿がそうだ(※6:「須磨観光協会」のここ参照)。

上掲の画像は、村上帝社。
祀られているのは、村上天皇であり、謡曲「絃上」ゆかりの地である。そのため村上帝社と呼ばれている。村上帝は、琵琶に造詣が深い人物であったといわれるが、ここの本当の主役は、村上天皇ではなく当時の執政である左大臣・藤原頼長の長男で、当代随一と呼ばれた琵琶の名手・藤原師長である。
雅楽の歴史においては、源博雅(醍醐天皇の孫)と並ぶ平安時代を代表する音楽家として名を残している。特にや琵琶の名手として知られ、更に神楽声明朗詠今様催馬楽など当時の音楽のあらゆる分野に精通していたと言われている。琵琶の流派を一つにまとめ、次世代に秘曲を伝授していく基礎を確立した。
この神社の創建については案内板には以下のように記されている。
琵琶の名手太政大臣・藤原師長は唐(中国)に渡りなおも奥義を極めたいと願い、都を出立して須磨の汐汲み(塩をつくるために海水を汲むこと。また,その人)の老夫婦の塩屋に宿る。夫婦の奏でる秘曲「越天楽」の「感涙もこぼれ嬰児も躍るばかり」の神技に感じ入った師長は渡唐を思い留まった。この老夫婦は、名器「絃上」の所持者村上天皇の梨壷の女御が渡唐を止めさせる為に師長の前に現れた精霊であった。やがて村上天皇が本体を現し、竜神を呼んで今ひとつの名器獅子丸の琵琶を持参せしめて師長に授け、喜びの舞をなし給うという国威宣揚を意図して描かれた曲である。村上帝社は摂関政治を抑え、文化の向上や倹約を旨とされて「天略の治」として名高い社である。師長の名器獅子丸を埋めた琵琶塚は、もと境内にあったが、今は線路で二分されている。(謡曲史跡保存会)

上掲画像村上帝社案内板。
つまり、ここは、謡曲『絃上』ゆかりの地であり、この伝承を題材として能の「絃上」(玄象)が作られたことに基づき、土地の人が村上天皇を祀ったのが当社であると伝えられるが、創建時期は不明である。
神社後方には山陽電車が走っており,線路の向こうに琵琶塚がある。そして、.近くには須磨の関があったとされる場所に史跡関守稲荷神社※6参照)と紫式部の作とされる『源氏物語』の主人公・光源氏がわび住まいしたところと伝えられている現光寺(「源氏寺とも呼ばれる」がある(※6 参照)。
現光寺の源氏寺碑の裏側には、『源氏物語』第12帖「須磨」の一部分が記されている。

おはすべき所は行平中納言の藻潮(もしほ)たれつつわびける家居(いえい)近きわたりなりけり 海面(うみづら)はやや入りてあはれにすごげなる山なかなり(※7:源氏物語の世界 再編集版の第十二帖第二章 第一段 須磨の住居2.1.1参照)。

歌の行平中納言とは、桓武天皇の第1皇子平城天皇の第一皇子阿保親王の次男(または三男)在原 行平のことである。やんごとなき皇統の血筋であったが、薬子の変によって平城天皇が剃髪出家し、阿保親王も太宰権帥に左遷されたため、親王の子息は、弟・業平らとともに在原朝臣姓を賜与され臣籍降下された。
小倉百人一首の歌「立ち別れ いなばの山の みねにおふる まつとし聞かば 今帰り来む」(第16番)で知られるが、『古今集』(『古今和歌集』)によれば、理由は明らかでないが文徳天皇のとき須磨に蟄居を余儀なくされたといい、須磨滞在時に寂しさを紛らわすために浜辺に流れ着いた木片から一弦琴「須磨琴」を製作したと伝えられている。なお、謡曲の『松風』は百人一首の行平の和歌や、須磨漂流などを題材としている。山陽電鉄須磨駅より1つ東の駅「須磨寺駅」から北へ歩いてすぐにある上野山福祥寺、通称須磨寺において須磨琴保存会が1965年に発足している。
「月々に月みる月は多 けれど、月みる月はこの月の月」
月は毎月見れるけれども、やっぱり中秋の名月が最高!ということだろうが、この歌の作者は、不明である。しかし、神戸では、私が子どもの頃から、在原行平の歌ではないかなどとと言われている。そして、須磨離宮公園の東の一角に「月見台」がある。千年以上も昔から、月を愛でる場所として親しまれてきた。平安の貴族であり歌人の在原行平がこの地で月見をし、後に「月見山」となる(山陽電鉄月見山駅より徒歩10分。須磨寺駅よりも同程度)。京の都を想い、遠く須磨までやってきた心を慰めたことだろう。
以前にこのブログ「『笈の小文』の旅に出た松尾芭蕉が、大坂から舟で神戸に着いた」(ここ)でも書いたのだが、『源氏物語』のおこりなどについてのいくつかの古注のなかでは、最高の水準にあるとされている四辻善成の『河海抄』には、村上天皇の第10皇女選子内親王から新しい物語を所望され石山寺(滋賀県大津市)にこもって構想を練っていた紫式部は、8月15日夜、琵琶湖の湖面に映った月を見て『源氏物語』の構想を思いつき、須磨の巻の「こよいは十五夜なりと思し出で」と書き綴ったのがきっかけだとしているそうだ(※7:「源氏物語の世界 再編集版」の第十二帖 須磨・第三章 光る源氏の物語 須磨の秋の物語の3.2.1また、※8参照)。・・・ただ否定説もあるようだが・・。
朧月夜との仲が発覚し、追いつめられた光源氏は後見する東宮(後の朱雀帝)に累が及ばないよう、自ら須磨へ退去した。 そして、須磨で行平が侘び住まいした付近に住み、都の人々と便りを交わしたり絵を描いたりしつつ、憂愁の日々を送る源氏を癒してくれたのが、須磨の月であった。『源氏物語』「須磨」は、行平が須磨に流されたあとの松風・村雨との恋物語なども当然、題材としたと思われる。

上掲の画像は、中納言行平朝臣、須磨の浦に左遷され村雨・松風二(ふたり)の蜑(あま)に逢ひ、戯れるの図」。月岡芳年画。
この在原行平の弟業平の歌も『古今和歌集』(卷第九 羈旅歌)の中に掲載されている。
『古今和歌集』は、醍醐天皇の勅命により『万葉集』に撰ばれなかった古い時代の歌から紀貫之等が選者となり編纂されたものがであるが、業平は、『日本三代実録』の卒伝(元慶4年5月28日条)に「体貌閑麗、放縦不拘」と記され、昔から美男の代名詞のようにいわれており、この後に「略無才学 善作倭歌」と続くそうだ。基礎的学力が乏しいが、和歌はすばらしい、という意味だろうと解されている。そして、『古今和歌集』の仮名序においては、平安時代初期の和歌の名手「六歌仙」の一人にあげられている。
『古今集』卷第九巻目の羇旅歌(きりょか)は、旅に関する思いを詠んだ歌だが・・・。遣唐使として派遣されながら帰国が叶わなかった安倍仲麻呂の歌、遣唐使副大使として選ばれながら事情により出立しなかった小野篁の歌、今では怨霊として恐れられている菅原道真が、行幸にて詠んだ歌などと共に、罪を受け、東国(あづまのくに)への旅の途中で詠んだ業平の歌二首が掲載されている。以下がそれである(※9参照)。

(9-410)唐衣きつつなれにしつましあればはるばるきぬる旅をしぞ思ふ 

(9-411)名にし負はばいざ言(こと)問はむ都鳥わが思ふ人はありやなしやと

この二首には詞書があるがそれをここでは省略しているが
9-410は、「東国へと友人数人を伴って行った時、途中、三河国の八橋(愛知県知立市)というところで、その川のほとりにカキツバタが美しく咲いているのを見て、木陰で馬を降りて、カキツバタいう五文字を句の頭に置いて旅の心を詠む」として詠んだ歌である。
【通釈】衣を長く着ていると褄(つま)が熟(な)れてしまうが・・・、そんなふうに馴れ親しんで来た妻が都にいるので、遥々とやって来たこの旅をしみじみと哀れに思うことである。
この歌では 『伊勢物語』と元を同じくする詞書の助けもあり、歌の中に散らされたカ・キ・ツ・ハ・タ(カ:からころも、キ:きつつなれにし、ツ:つましあれば、ハ:はるばるきぬる、タ:たびをしぞおもふ)は、内容を表す言葉の外にありながら、歌の背景によくなじんでいる。

9-411の詞書は長いが、これも詞書は『伊勢物語』の本文(第九段)とほとんど変わらない(※10の大九段東下り参照)。要は詞書の最後の 「これなむみやこ鳥」という言葉に反応して出た歌と考えられている。
この詞書にも9-410の「八橋」同様、「隅田川」という地名が出てくるが、それらの地名には反応せず、旅の途中で足を止める度に都への思いが湧き、ここではカキツバタではなく、都鳥をきっかけとして都への思いを歌ったものである。
「名にしおはば」(名にし負はば)は、そのような名前を持っているならばという意味であり、ここでの「ありやなしや」は、村上天皇のときの②いるかいないかわからないほどに、軽視するさま。と言った意味ではなく、「元気で生きているかいないか」といった意味に使っているのだろうから。
【通釈】「都」というその名を持つのに相応しければ、さあ尋ねよう、都鳥よ。私が恋しく思う人は無事でいるかどうかと。・・・といった意味になるのだろう。(この二首の歌の解説等は※10また、※5 :「やまとうた」千人万首のここ参照)

上掲の画像は、「風流錦絵伊勢物語」 勝川春章画。第9段の東下り隅田川の景を描く。
なにか、女々しい感じのする歌でもあるが、今とは違って、当時東北地方南部から新潟県の中越・下越地方及び九州南部は未だ完全に掌握できていない辺境の地である。何等かの罪に問われ東下りする業平たちから見れば、自身は、都の圏外にはじき出されたかつての都人、つまり失格者である。そこに 「京には見えぬ」名ばかりの「みやこ鳥」がからむことで、彼らの身の置き所のなさが増幅されている。
全125 段からなる『伊勢物語』は、在原業平の物語であると古くからみなされてきた。
日本の民俗学者、国文学、国語学者でもある折口信夫が日本の物語文学の特徴を分析するときに、しばしば「貴種流離譚」という概念に言及している。
「高貴に生まれた主人公が、力のない若い時に運命のいたずらで遠い地をさすらう苦難を経験する。その際、身分の賎しい人々に助けられるが、やがてその貴い血筋が認知され、最高の栄誉を受ける」というストーリーを原型にして、多くの物語がそこから派生しているという。例えば、『源氏物語』の須磨の帖では光源氏が都から遠ざけられ須磨に配流となる。また、『伊勢物語』東下りの段(第九段)では昔男(業平)が都を去り東国に下る。
そのような都から遠いところへ旅するのだから、旅も楽しいはずがない。都鳥は、当時ユリカモメを言っていたらしいが、そんな「都」の付く鳥を見ただけで、都に残してきた恋しい人が思い出されるのも仕方がないだろう。
ここで業平が都鳥に「私が恋しく思う人は無事でいるかどうか」と、問うている恋しく思う人は清和天皇の女御でのち皇太后となった二条后(藤原高子)であろう。彼は高子と駆け落ちをしている。
ちょっと回り道をしたようだが、今日は、村上天皇の「有無(ありなし)の日」なので、在原行平の「ありやなしや」の和歌で締めた。これ以上書くと長くなりすぎるので、『伊勢物語』については、以下参考の※10 、※11 を参考にされるとよい。

冒頭の画像は、村上天皇像(永平寺蔵)Wikipediaより。

参考:
※1:富士山の歴史噴火総覧 - 山梨県富士山科学研究所(Adobe PDF)
http://www.mfri.pref.yamanashi.jp/fujikazan/web/P119-136.pdf#search='%E6%97%A5%E6%9C%AC%E7%B4%80%E7%95%A5+%E5%A3%AB%E5%B1%B1+%E5%99%B4%E7%81%AB'
※2:やまとうた
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/index.html
hosi 3 :原文『枕草子』全文(「伝能因所持本」の段落に合わせている)
http://www.geocities.jp/rikwhi/nyumon/az/makuranosou ※3:教育の職人:授業の足跡
http://www.pat.hi-ho.ne.jp/nobu-nisi/koten.htm
※4 :教育の職人:授業の足跡
http://www.pat.hi-ho.ne.jp/nobu-nisi/koten.htm
※5 :枕草子における 「昔」 「今」 の意識(Adobe PDF)
https://dspace.wul.waseda.ac.jp/dspace/bitstream/2065/43021/1/KokubungakuKenkyu_75_Tabata.pdf#search='%E3%80%8E%E6%9E%95%E8%8D%89%E5%AD%90%E3%80%8F+%E6%9D%91%E4%B8%8A%E5%A4%A9%E7%9A%87+%E7%90%86%E6%83%B3%E7%9A%84%E3%81%AA%E8%A6%AA%E6%94%BF%E5%9B%BD%E5%AE%B6'
※6 :須磨観光協会須磨浦周辺
http://www.suma-kankokyokai.gr.jp/modules/gnavi/index.php?page=category&cid=2
※7 :源氏物語の世界 再編集版
http://www.genji-monogatari.net/
※8 :滋賀県石山観光協会 紫式部ゆかりの花の寺 石山寺
http://www.ishiyamadera.or.jp/ishiyamadera/genjistory.html
※9 :古今和歌集の部屋:巻別一覧
http://www.milord-club.com/Kokin/kan/kan01.htm
※10:伊勢物語現代語訳 - 楽古文
http://www.raku-kobun.com/isemonogatari.html
※11:伊勢物語を語る
http://homepage2.nifty.com/toka3aki/ise/isemono.html
『枕草子』章段対照表
http://www.sap.hokkyodai.ac.jp/nakajima/waka/data/makura1.html
村上天皇- Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%91%E4%B8%8A%E5%A4%A9%E7%9A%87

おむつの日

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日本記念日協会(※1)に登録されている今日・6月2日の記念日に、「おむつの日」がある。
あむつを通じてすべての赤ちゃんの幸せで健やかな成長について考えてもらおうと、赤ちゃん用の紙おむつ「GOO.N(グ~ン)」を製造するエリエール大王製紙株式会社(HP)が制定したもの。日付は6月2日で「062」を「おむつ」と読む語呂合わせから.
冒頭の画像は、エリエール大王製紙のベビー用紙おむつテープタイプ「グーン はじめての肌着 BIGサイズ 52枚」である(ここ参照)。

大王製紙は、Wikipediaでは、紙・板紙の生産量は約245万トン(2009年[平成21年])であり、生産量基準で日本国内では日本製紙王子製紙王子板紙に次ぐ国内第4位の規模を持つ(※2ここ参照)。紙パルプ関連の連結売上高(その企業グループの売上高)を基準とすると世界で第20位、国内では王子製紙・日本製紙グループ本社丸紅レンゴーに次ぐ第5位(※3のここ参照)。洋紙では新聞用紙・印刷情報用紙・包装用紙・衛生用紙(※4も参照)、板紙では段ボール原紙などと、製品は多岐にわたる。このうち衛生用紙は生産量基準の国内市場占有率(シェア)が約15%で首位(『日経市場占有率』2011年版、日本経済新聞社、2010年)となる。・・・そうだ。
ティッシュペーパーやトイレットペーパーのほか、ベビー用紙おむつ、大人用紙おむつ、生理用品、ペット用品など幅広い家庭用生活用品(衛生用紙)のブランドとしての「エリエール」のことは、スーパーの店頭などでも良く商品を見かけるので知っていたが、それが大王製紙という会社の製品であることは知らなかった。
大王製紙は、「製紙工業企業整備要綱」(1942年9月4日付商工省通牒)に基づき、四国紙業など14の企業が合同して1943(昭和18)年に和紙の製造販売を目的として設立された。当初は和紙の製造・販売に従事していたが、戦後の1947(昭和22)年から洋紙の製造も開始したという。
残念ながら紙の業界のことなどについてはあまり良く知らない私が同社の名前を知ったのは、2011(平成23)年の大王製紙事件が、マスコミで大々的に報道されてからである。当時色々と企業のコーポレート・ガバナンスが問題にされたが、この企業の場合それ以前に上場企業には珍しい複雑な連結会社の状況、(グループの資本構造)にあったようだ(※5参照)。いずれにしても、同社にとっては、大きなマイナスイメージが広がってしまったよね~。ただ、そんなことは今回のテーマではないので本題に戻ることにしよう。

「あんたは若い人にしちゃ世話のかからない人だね。いつも家の中はきちんとしているし、よごれ物一つ溜ためてないね」
「そりゃそうさ。母親が早く亡くなっちゃったから、あかんぼのうちから襁褓(おむつ)を自分で洗濯して、自分で当てがった」

岡本かの子の 『老妓抄』(※6青空文庫参照)より柚木(ゆき)という青年と老妓の会話を引用したものである。
現在使われている「おむつ」は、「おしめ」とも呼ばれるが、排泄物(尿や便)を捕捉するため下腹部に着用する布や紙のことであり、特殊な使用例は別として、通常は、主として、赤ちゃん(乳幼児)や一部の高齢者障害者・入院患者など、排尿排便を自己の意思で制御できない者や、体の自由が利かないためにトイレに行くことが困難な者が使用する。また、普段はトイレで用を足せるが、失禁過敏性腸症候群夜尿症などを患っている人の対策としても使われる。
この「おむつ」の漢字は「襁褓」と難しい字を書くのだが、これは古来よりの言葉「むつき(襁褓)」の語頭に「お」を附けて、語尾を省略して作られた女房言葉だという説がある。
「襁褓」の漢字「襁」は「衣+強」で「丈夫な」「強く締める」の意味があり、音読みはキョウ(漢音)、訓読みは、おびひも(帯紐)、おう。意味は、おくるみ、子を背負うときの帯紐、子を背負う、という意味がある。〔説文解字・巻八〕には「兒を負ふ衣なり」とあり、子を背負うための帯紐のことをいうそうだ。
また、「褓」は、「衣+保」で、「包む衣」「くるむ衣」の意味があり、〔説文解字〕の本字は緥(糸+保)で、説文解字・巻十三に「小兒の衣なり」とあるから、赤子をくるむ衣、おむつ、かいまき、という意味があるようだ(※6参照)。

源氏物語』の作者とされる紫式部が書いた『紫式部日記』は、彼女が仕える藤原道長の娘で一条天皇の中宮彰子の出産が迫った寛弘5年(1008年)秋から始まるが、この『紫式部日記』を元に制作された絵巻物『紫式部日記絵巻』というものがある。
その中の、現在残っている旧森川家本第三段(現在:東京国立博物館蔵。重要文化財)に、敦成親王(後の後一条天皇)の五十日の祝儀(誕生50日の祝)の場面が絵詞(えことば)と共に描かれている。

上掲の画像がそれであり、寛弘5年11月1日(1008年12月1日)夜、親王の外祖父道長が五十日の餅を差し上げる場面であり、若宮(敦成親王)を抱くのは道長の北の方(鷹司殿 倫子)、手前は道長、後向きの女性が中宮(彰子)である。e国宝に画像と解説があり絵も拡大画像で見れる。ここクリック。
この絵の北の方が抱く若宮(敦成親王)が着ているものを見てどう思われますか。現在でいうおむつなどではなく細長い着物(産着)を来ていますね~。それにしてもずいぶんと丈が長い。平安時代の貴族の間で使われていた「産着細長(うぶぎのほそなが)」という装束だそうで、細長いので「細長の袍(ほう)」と呼ばれる長い衣の下に、白い単衣を重ねたものだそうだ。世の中には、色々と調べている人がいて、当時の産着を調べている人もいる。以下参考※8:「やえむぐら草子」のホームページを見るとよい。そこでは実際にその衣類を作って実験している写真も掲載されている。
このように「むつき(襁褓)」は、当時の貴族社会などでは乳幼児の産着を指していたようであるが、「むつき」は、「大」「小」の2つの部分に分かれており、「大きいむつき」で赤子の体全体をくるみ、「小さいむつき」を股間にあてて利用していたようだが、やがて赤子の身体全をむつきで覆う習慣がなくなり、股間を覆う布だけが排泄を処理する目的で残り、その股間にあてる布のことを、「お湿し」とも呼ぶようになった。そして、この「お湿し」の女房言葉が、「お湿(おしめ)」であり、その後「おしめ」と混同されて使われるようになったようだ。現在でも「襁褓」と書いて、「むつき」「おむつ」「おしめ」などと読んでいる。「むつき」の語源は他にも、「身(む)」助詞「つ」「着(き)」とする説や、1(段とも書く)の晒(さらし)から6枚分のおしめが取れることから「お六(おむつ)」と呼ぶようになったとする説などもあるが確かなことは不詳なようである。
貴族などとは違って、一般の平民にとっては大人になっても衣服すら足りていない状態で、乳幼児の排泄物処理に布きれをつかうようになったのは、江戸時代からだといわれるが、それまではなにも着用はしていなかったのだろう。洩らせば、汚れたところをふくぐらいのことであったろうと推察する。
江戸時代になって、赤ちゃんには小便布団という一尺(約303.030 mm)四方の布団を敷いてもちいたようだという話を聞いたことがある。布団と言っても布きれであったかもしれない。 この時に排泄物を受けるための布から、現在の布おむつに発展したとすれば、私など庶民の間では、このような排泄物で濡れ、湿った布を「おしめ」と呼ぶようになったという方が本当かもしれないという気がする。
ただこれも、豊かになった江戸時代も末期ぐらいから、それも、経済的に恵まれた階層で使われ始めたのではないだろうか。なんといっても、江戸時代は、まだまだ「布」はとても貴重な品であった。おむつには、使い古された衣類や浴衣などをほどいて作っていたようだ。特に浴衣は吸汗性に優れた素材でできているため、使い古された浴衣の生地は赤ちゃんのおむつとして最適だっただろう。
そして、一般的な家庭でも布おむつが使われるようになってきたのは明治末から大正時代になってからだと聞いている。当時は使い捨ての紙をおむつとして利用するより、洗って何度でも使える布おむつの方がずっと経済的であった。実際、昭和になっても戦後しばらくまでは、各家庭で綿の古着やさらし綿で作られた輪形・長方形の布おむつが主に利用され、小さな子供多くがいる家庭の庭では沢山の布おむつが干されている・・・、というのが定番の光景だった。1958(昭和33)年〜1959(昭和34)年頃 乳幼児の布おむつレンタル事業が開始されたという(※9参照)。

今では、主流となっているのが「紙おむつ」。世界で最初の紙おむつは、1940年代の半ばにスウェーデンで誕生した。当時、ドイツによる経済封鎖を受けていたスウェーデンでは、綿が不足し、赤ちゃんの布おむつが間に合わない状況に陥っていた。そんな中で、貴重な綿布ではなく紙を使った紙おむつが開発された。
初の紙おむつは、何枚も重ねたティッシュペーパーのような紙を、伸縮性のあるメリヤスの袋でくるんだ簡易なもの。必要に迫られて登場した紙おむつであったが、布おむつに比べ吸水性で遜色がなく、洗う手間と干す手間がかからない便利さから多くの人に受け入れられた。
日本では昭和20年代後半に初めて紙おむつが発売された。しかしこれは紙綿を重ね布で包んだだけの物で、おむつカバーがなければ使用できなかった。そのため、紙おむつは外出時や、雨で洗濯できない時などに限って使用される程度であったようだ。
1962(昭和37)年、紙おむつより一足早く乳幼児用ライナーが発売された。当時は電機洗濯機が普及しつつある時期であったが、おむつは下洗いをして便を取り除いてから洗濯機に入れるという手間が必要であった。そこで重宝だったのが布おむつの内側に敷く紙綿製のライナー(ここ参照)だった。当時は、まだ、ほとんどの家庭が汲み取り式便所だったからトイレに汚物も捨てやすかったのだろう。その後も紙おむの改良はされていったたが、高価なことや使い捨ての習慣がない時代だったせいもあり、広く普及することはなかった。
日本で紙おむつが普及し始めたのは昭和50年代からである。1977(昭和52)にアメリカから乳幼児用のテープ型紙おむつ「パンパース」(P&G社 )が輸入され、福岡県・佐賀県でテスト販売がはじまった。立体裁断された紙おむつは、腰の部分2ヵ所をテープで止めるだけで、おむつカバーとおむつの両方を兼ねてしまう、テープ型という新しい形で,最大の特長はおむつカバーがいらないことであった。
おむつの洗濯という重労働から世界の母親を解放した革命的商品は、日本でも大ヒット。特に、病院(産院)ではこぞってパンパースを導入。一時は9割以上の寡占的なシェアを占めていた。
日本でも1981(昭和 56 )年に、ユニ・チャーム㈱が初めて純国産の.テープ型紙おむつ「 ムーニー」を発売。それ以降乳幼児用.紙おむつ市場には多くのメーカーが参入し、本格的な普及がはじまった。
国民生活白書(※10参照)を見てもわかるように、同じ頃、働く女性の数が急上昇していた。1970年代半ば以降の労働力率(ここ参照)は,男性が引き続き低下する一方で女性は上昇に転じた。その特徴として,女性が労働力としてとどまる期間が長期化したことに加え,男性の賃金が従来ほど伸びない中で,短時間の雇用者,いわゆるパートタイマーを中心とする既婚女性の雇用者が増加したことである。女性の雇用者に占める短時間雇用者の割合は1970(昭和45)年には12.2%であったのが,1985(昭和50)年には,22.0%となり,その後も上昇している。
そこには、経済成長率が低下して賃金が従来ほど上昇しなくなったなかで,子供の教育の重要性に対する認識や住生活の向上への欲求が高まり,そのための費用を女性が働いて賄おうとするようになったことがある。サラリーマン世帯の収入に占める妻の収入の割合を見ると、,平均で1970(昭和45)年の4.5%から1985年には8.0%に上昇している。
また,電子レンジや全自動洗濯機などの新たな家庭電化製品の普及と共に、紙おむつやベビーフードなどの普及,外食産業や惣菜産業などの発達による食事づくりの簡便化などにより,家事の負担が一層軽減されて,働くための時間的な余裕も生まれたことも小さくないようだ。
それに1975年の国際婦人年とそれに続く国連婦人の10年を経て世界的にもフェミニズムが広がり,女性が働くことに対する社会の風潮も変化した。また,女性の高学歴化の進展などを背景に社会において自己実現を求める女性が増え,ていったことなどもある。
そのようなことが相まって、日本で紙おむつの消費量が急激に増えたのは、1980年代半ばのようだ。ちょうどその頃、高分子吸収体を使った紙おむつが登場した。それまでの紙おむつよりも吸水性が格段にアップし、取り替える頻度も減った。
1990年代に入るとそれまでのテープ方式やフラット型に、新しくパンツ型が登場した。下着のパンツのように一体成形した形で、立ったままはかせることができ、テープ型のようにかさばらないのが特長である。そのほかにもパンツ型の紙おむつは、おむつ離れの時期を迎えた幼児用のおむつ離れを促すものや、排尿告知ができるようになった幼児が、おねしょ防止のため寝るときだけに使用するものなど、異なる目的の製品も作られている。
ライナーやフラット型からスタートしたわが国の乳幼児用は、今日に至ってテープ型にパンツ型を加え、使用する乳幼児の成長過程、それぞれのニーズに合わせて、最適のものが選択できるようになった。そして、1985(昭和60)年頃から急速に普及した乳幼児用紙おむつへの転換率は現在では90%以上いや99%近くに達しているとも聞く。※11:「日本衛生材料工業連合会」の以下の紙おむつ・ライナー生産統計参照。
紙おむつ・ライナー生産統計(年度別推移)

一方で大人用は高齢化社会により需要が急増し、2000年頃からドラッグストアなど販売店での大人用紙おむつ・吸収パッド・吸収パンツの売り場スペースが拡大される傾向にあり、数年以内に大人用紙おむつの生産量が乳幼児用の生産量を追い越すかもしれないといわれている。
「紙おむつ」といえば赤ちゃん用」・・と思っていたが、そんな常識が近年覆りつつあるようだ。少子高齢化の状況は、以下参考の※12:「総務省統計局人口推計の結果概要」のV.長期時系列データを参照。
「紙おむつ」の種類は大きく分けて、乳幼児用は主にテープ止めタイプとパンツタイプが使用されるが大人用は、テープ止めタイプ、パンツタイプ、フラットタイプ、パッドタイプと4つあり、すべての種類が使用されている。
この大人用紙おむつのタイプ別の生産枚数は、パンツタイプ紙おむつ(テープで腰部分を止めるテープ型と、下着のようにはくパンツ型が含まれる)が着実な伸びを見せている。また、それと併用して使用するパッド類は、交換の手軽さや、1枚あたりのコストが安いことなどから、急速に普及し、1997年から2008年の10年間で約3倍になっている。これらに対し、おむつカバーと併用するフラットタイプ紙おむつは横ばいである。 データーは先に乳幼児用で示した紙おむつ・ライナー生産統計(年度別推移)を見てください。
因みに、日本衛生材料工業連合会(※11)の調べによる直近のデーター、紙おむつの2014年度の生産数量を2013年対比でみると以下のようになっている。
2014( 平成26)年の乳児用紙おむつの生産量(枚数ベース)はテープ型60億96,134千枚(昨年51億38,587千枚)で前年比119%の伸び、パンツ型は、59億30,274千枚(昨年55億81,992千枚)で前年比106%の伸び、合計120億26,4085千枚(昨年107億20,579千枚)で前年比112%と上向きである。
大人用の生産量はパンツ型(テープ型+パンツ型の計)で14億05,804 千枚(昨年13億44,015 千枚)で105%の伸び(テープ型101%、パンツ型106%)、フラット型は1億69,933 千枚(昨年2億00,882 千枚)で85%と減少しているが、パッド型は、(尿とりパッド+軽失禁ライナー+軽失禁パッドの計)52億18,245千枚(昨年49億45,326千枚)で計106%の伸び(尿とりパッド102%、軽失禁ライナー、軽失禁パッド114%)で、総合計では67億93,982千枚で 105%の伸びとなっている。データーは以下参照。
2013(平成25)年:2014( 平成26)年紙おむつ・ライナー生産数量(日衛連調べ)
乳幼児用は、少子化で国内の需要が減退している中、この伸びは海外輸出が旺盛なようである。2001年から2011年の紙おむつの輸出状況は以下参考の※13:「紙おむつの輸出」についてを参照。
中国における衛生用品(生理処理用品、乳幼児用紙おむつ、大人用紙おむつ)市場については、2013(平成25)年の販売総額594.5億(5月 24日為替レート1元=19.61円)であり、成長率で前年比12.7%増と伸び続けている。その内訳は生理処理用品が前年比13.5%増の324億元、乳幼児用紙おむつが前年比9.3%増の240.4億元、大人用紙おむつが前年比36.2%増の30.1億元。
市場がスタートしたばかりの大人用紙おむつの成長率が特に高い結果に。また2013(平成25)年の市場浸透率は生理処理用品が91.1%、乳幼児用紙おむつが47%となっている生理処理用品、乳幼児用紙おむつは共に高級品への需要が増加。薄くて軽く表面材をよりソフトにした肌触りのよいものに人気が集まっている。
一方、大人用紙おむつは基本的な機能が備わっていればよいとの考え方が主流で価格に対して敏感だといえるそうだ。生理処理用品に対して、これからまだまだ伸びてゆくだろう紙おむつ市場。人口の多い中国は日本にとって重要な輸出国である(※11:「日本衛生材料工業連合会」の日衛連news No.79「第二回『中日衛生用品企業交流会』参照)。
また、以下※14:「産業ニュース:マーケットウィークリー・783号(2014.6.13)」には以下のように書かれている。
紙おむつ市場の中長期的な成長余地は高い。経験則では乳幼児用紙おむつは、1人当たりの年間GDPが3,000ドルを超えると浸透し始め、4,000ドルを超えると普及率が加速する。中国やタイに続いて、2億人超の人口を抱えるインドネシアが12年に3,000ドルを超えた。インドネシアは普及初期段階で使用頻度にも大きな差がある。日本では1日5枚以上使用するのに対し、インドネシアは約0.3枚。外出時のみに使用するため、日本に比べ少ない。ただし外出時以外にも使用する段階に入りつつあるため、頻度が高まるだろう。
日本の紙おむつメーカーのグローバル(世界的な)シェアは10%以下と決して高くないが、ポテンシャル(潜在的な能力、可能性として持つ力)の高いアジア地域のシェアが高い。中国やインドネシアに続いてフィリピンやインド、ミャンマーなどの需要が伸びそうだという。長期的にはアフリカ市場の参入も見込め、見通しは明るい。
大人用は1人当たりのGDPが1万ドルを超えてから普及期に入ると言われている。先進国でも成長の見込める分野である。
紙おむつは参入壁が高く、寡占化している製品である。背景には多額の初期投資や原材料の調達力、ブランド認知度を向上させるために多額の広告宣伝費が必要だからである。国内の乳幼児用紙おむつのシェア1位がユニ・チャーム(マミー・ポコ)、2位が花王(メリーズ やリリーフ)、3位が米国・P&G(パンパース)、4位が大王製紙(グーン)、5位が王子製紙(ネピア)。この5社で90%超のシェアを占めている。大人用紙おむつ1位がユニ・チャーム、2位が大王製紙、3位が花王。3社で70%強。成長市場である大人用紙おむつでは価格競争はほとんどないが、乳幼児用紙おむつはP&Gがシェアアップを狙い、単価は一時的に下落。足元ではほぼ横ばいしているようだ。一方でグローバルベースの乳幼児用紙おむつのシェアは1位がP&G、2位が米国・キンバリー・クラーク(乳幼児紙おむつブランド「HUGGIES(ハギーズ)」で知られる)、3位がユニ・チャーム。ただ3位にランクインしているがユニ・チャームのシェアは8.6%で、1位と2位グループとは大きな差がある。しかしタイやインドネシアではトップシェアでアジア地域のシェアは27.2%と存在感は高い。北米や南米市場についてはP&Gなどの米国メーカーの認知度やシェアが高いため、日本メーカーの参入は難しいが、P&Gがやや出遅れている大人用紙おむつでは可能性があろう。・・・と。P&Gは、日本でも。P&G・ジャパンを展開している。
いま世界的に日本の商品の品質が評価されている。衛生用品などは特に評価されるだろうから、この産業の成長は期待できる。日本のメーカーに頑張って欲しいものだ。
ただ、その一方で、紙おむつは、資源の問題やごみ問題が指摘されている。使用済みの紙おむつは、衛生上の問題があるため、燃えるゴミとして焼却処分している。そのため、繰り返し洗って使う布おむつに比べてごみを増やすことになる。また、使い捨てのおむつは資源を多く使用するという問題もある。 そこで、各紙おむつメーカーでは、製品の薄型化や軽量化を進め、原料には安全規格に合格した,古紙を使用するなどの対策も行っているようだ。
今や「人生90年の時代」と言われている。誰もが何時介護人の世話にならなくなるかもしれないが、中でも人の世話にだけはなりたくないのが下の世話だろう。人には尊厳がある、しかし、排泄は待ったなしに訪れる現象。自分で処理できるなら自分でしたい。世話になるなら介護人には極力いやな目をさせたり、負担をかけたくない。誰も同じ気持ちだろう。だから、おむつが本人にも家族など周りの人にも「安心」を与え、「明るく前向きな毎日をもたらしてくれるもの」として、さらに進化した安くて扱いやすく快適ななものへと改良していって欲しいものだ・・・・。
このことについては今日は触れない。以下産参考の「※15:乳幼児のおむつ使用の実態と今日的課題」など参照されるとよい。
冒頭の画像はある食品スーパーの幼児用紙おむつ売り場。
参考:
※1:日本記念日協会
http://www.kinenbi.gr.jp/
※2:紙の知識とデーター集
http://www.kamipa.co.jp/info/
※3:、日本製紙連合会
http://www.jpa.gr.jp/
※4:衛生用紙等について - MiLCA User Forum
http://milca-milca.net/forum/viewtopic.php?t=114
※5:大王製紙事件と日本企業の問題点 - みんかぶマガジン
http://money.minkabu.jp/30156
※6:青空文庫-作家別作品リスト:No.76岡本かの子
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person76.html#sakuhin_list_1
※7:ニコニコ大百科「」
http://dic.nicovideo.jp/a/%E8%A5%81
※8:やえむぐら草子
http://homepage3.nifty.com/yaemugura/index.html
※9:布おむつの歴史
https://www.kobe-baby.co.jp/3-2_nunoomutsu_02.html
※10:平成9年 国民生活白書 働く女性 新しい社会システムを求めて 第I部 女性が働く社会
http://www5.cao.go.jp/seikatsu/whitepaper/h9/wp-pl97-01102.html
※11:日本衛生材料工業連合会(JHPIA)
http://www.jhpia.or.jp/index.html
※12:総務省統計局人口推計の結果
http://www.stat.go.jp/data/jinsui/2.htm
※13:「紙おむつの輸出」について - 税関(Adobe PDF)
http://www.customs.go.jp/kobe/boueki/topix/h23/omutsu.pdf#search='%E7%B5%B1%E8%A8%88+%E6%97%A5%E6%9C%AC+%E7%B4%99%E3%81%8A%E3%82%80%E3%81%A4+%E8%BC%B8%E5%87%BA'
※14:産業ニュース:マーケットウィークリー・783号(2014.6.13)
https://www.chibagin-sec.co.jp/pdf/analyst/783sangyo.pdf#search='%E6%97%A5%E6%9C%AC+%E3%81%8A%E3%82%80%E3%81%A4+%E3%83%A1%E3%83%BC%E3%82%AB%E3%83%BC%E5%88%A5+%E5%9B%BD%E5%86%85%E5%8D%A0%E6%9C%89%E7%8E%87'
※15:乳幼児のおむつ使用の実態と今日的課題 - 佐賀大学機関リポジトリ(Adobe PDF)
http://portal.dl.saga-u.ac.jp/bitstream/123456789/118152/1/takeshita_201101.pdf#search='%E3%81%8A%E3%82%80%E3%81%A4+%E7%B5%B1%E8%A8%88'
おむつ – Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8A%E3%82%80%E3%81%A4

夢の日(参考)

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参考:
※1:日本記念日協会
http://www.kinenbi.gr.jp/
※2:東京書籍
http://kids.tokyo-shoseki.co.jp/kidsap/downloadfr1/htm/jsd38797.htm
※3:ART SETOUCHI
http://setouchi-artfest.jp/about
※4:伊予歴史文化探訪 よもだ堂日記 シーボルト、瀬戸内海の美を嘆賞する
http://yomodado.blog46.fc2.com/blog-entry-844.html
※5:アートの島 - 宮浦/直島
http://wasatyu.cocolog-nifty.com/blog/2010/12/--001d.html
※6:三菱マテリアル直島製錬所
http://www.mmc.co.jp/naoshima/
※7:鉄塔巡視路を行く(荒神島 前編): シーカヤック・メモランダム
http://tukara.way-nifty.com/blog/2012/04/post-7971.html
※8:新瀬戸内海論:島びと20世紀:第3部豊島と直島3
http://www.shikoku-np.co.jp/feature/shimabito/3/3/
※9:朝日新聞社 :AJWフォーラム :アジア人記者の目
http://www.asahi.com/shimbun/aan/kisha/
※10:金刀比羅宮 - 本地垂迹資料便覧
http://www.lares.dti.ne.jp/hisadome/honji/files/KOMPIRA.html
※11: 白峰寺縁起
http://www.shiromineji.com/engi/
※12:『梁塵秘抄』後白河法皇撰
http://homepage2.nifty.com/zaco/text/ko/ryojin.txt
※13:今様ラプソディ
http://homepage3.nifty.com/false/garden/kuden/index.html
※14:梁塵秘抄、今様の朗読と朗詠
http://reservata.s123.coreserver.jp/poem-ryouzin.htm
※15:祇園精舎
http://greenleaflat.web.fc2.com/mailmagazine.html
※15:視点・論点 「日本列島で"まれびと"と出会う」
http://www.nhk.or.jp/kaisetsu-blog/400/174782.html
※16:折口信夫 「とこよ」と「まれびと」と - 青空文庫
http://www.aozora.gr.jp/cards/000933/files/47176_37072.html
※17:為せば成る、為さねば成らぬ何事も - 故事ことわざ辞典
http://kotowaza-allguide.com/na/nasebanaru.html
※18:夢・志の名言・格言集。夢を追うとき支えとなる言葉
http://iyashitour.com/meigen/theme/dream
詞華集鑑賞『梁塵秘抄 愛欲と信仰の歌謡』 - 作家 秦 恒平の文学と生活
http://umi-no-hon.officeblue.jp/emag/data/koten12.html
朝ドラ まれ ネタバレ,あらすじ,感想 最終回まで掲載続行中 | 朝ドラPLUS
http://hublog.net/11872.html
金毘羅参詣名所図会 - 古典籍総合データベース - 早稲田大学
http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/search.php?cndbn=%8B%E0%94%F9%97%85%8EQ%8Cw%96%BC%8F%8A%90%7D%89%EF
: 夢 – Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A2

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夢の日

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日本記念日協会(※1)には、今日・6月10日の記念日として「夢の日 」が登録されている。
由緒書きを見ると、夢をかなえてくれた人(夢の実現に力を貸してくれた人)に感謝し、自分の夢について考え、語り合う日をと,香川県直島の女性が制定したものだそうだ。日付は6と10で「夢中」(むちゅう=むじゅう)と読む語呂合わせと、「夢は叶う」(む=6+10の字の形)などに由来する。・・・・からだそうである。
この記念日を設定したという香川県直島の女性がどんなを持っていて、その夢の実現に力を貸してくれた人が誰のことかは、何も書かれていないのでよく判らないのだが、私には、少し思い当るところがある。まずは香川県の直島という島のことから紹介していくと、皆さんも私と同じようなことを考えるようになるのではないだろうか。
香川県は、瀬戸内海に面し、四国の北東に位置する県であり、令制国讃岐国に当たる。
県庁所在地は高松市。県名は、讃岐のほぼ中央に存在し、かつて高松が属していた古代以来の郡「香川郡」から取られた。全国一小さい県(※2参照)だが、北部に広がる瀬戸内海には、小豆島など多くの島々が点在している。
本州の岡山県とは島々を伝う形で架けられた瀬戸大橋により、道路・鉄路で結ばれている。瀬戸内海を越えた岡山県や、鳴門海峡を越えた近畿地方との繋がりが深い。
直島町(なおしまちょう)は、そんな香川県香川郡に属する町であり、高松市の北に約13km、岡山県玉野市の南に約3kmの瀬戸内海上に浮かぶ直島本島を中心とした直島諸島の大小27の島々で構成されている。
余段だが、そのような地理的な位置の関係から、1988(昭和63)年10月1日に国土地理院が全47都道府県の面積算定法を見直し、岡山県玉野市との間に境界未定部分がある香川郡直島町の面積(14.2km²)を県全体の面積に算入しないことになったため、面積が減少し、それまで全国一小さい大阪府と逆転し香川県の面積が最下位となった経緯がある。
湖のように静かな海面、点在する多くの島々、白砂青松の浜、段々畑などの親しみ深い景観と豊かな自然が息づいている瀬戸内海。この『瀬戸内海』という言葉や観念は、明治初頭に至るまでは日本人が持っていなかったもののようであり、現代のような『瀬戸内海』(The Seto Inland Sea)の美しい風景を感動的に描写し始めたのは、ドイツ人医師シーボルトら、幕末から明治にかけて来日した欧米人であったようだ(※3:「ART SETOUCHI」のコラム世界第一ノ景 瀬戸内海の再発見また※4参照)。
日本では、1934(昭和9)年には、雲仙国立公園(現・雲仙天草国立公園)、霧島国立公園(現・霧島錦江湾国立公園)とともに、『瀬戸内海国立公園』として、日本初の国立公園に指定された。
その当時の指定区域は東から小豆島の寒霞渓、香川県の屋島、岡山県の鷲羽山広島県鞆の浦沼隈町周辺の備讃瀬戸を中心とした一帯のみであった。その後、過去数回にわたり、区域の拡張がなされ,、現在は、西は北九州市、東は和歌山市にまで及ぶ広大な公園となっている。
また、瀬戸内海は、海上交通路としても重要な役割を果たしてきた。古代から大陸文化が伝わるルートとして、近世には北前船が往来する航路として、人や物資が行き交う大動脈であった。島々や沿岸では、人・もの・情報を柔軟に受け入れながら、それぞれの文化や伝統を形成してきた。瀬戸内海の魅力は、こうした自然と人々の営みとの両方により形作られている。
一方、1960年代以降、この美しい風景地の一部では、高度経済成長とともに、大規模な工業開発が進められ、経済発展と引き換えに深刻な環境汚染を引き起こす・・・と、いった負の側面もあった。
例えば、香川県の直島町の直島本島の面積は7.81平方km、人口が約3,400人。島内にはフェリーの発着港を擁する宮ノ浦(※5参照)、日本戦国時代の海城村を原型とした本村(ほんむら・高原家の城下町。※5 のここ参照)、古くからの漁港である積浦(※5のここ参照)という3つの集落がある。
本島北部では、大正時代から三菱マテリアル直島製錬所(※6)が操業。銅の製錬が行われており、周辺の関連企業と合わせて大規模な工業地帯となっている。その為、直島町のいくつかの島は煙害で禿山となっていたが、戦後まもなくから植林の努力が続いている。特に荒神島の緑は近年見事なまでに復活しており、北側一帯の木が枯れたように見えるのは2004(平成16)年1月の山林火災のためであり、現在は、煙害は無いに等しいようだ。(※7参照)。
中部は直島小学校、直島中学校のある文京地域。南部は、緑豊かな海岸となっており、同島南部は、隣の同じ直島諸島の豊島( 1990年代に産業廃棄物の不法投棄問題があった[豊島問題参照])と、男木島女木島などと共に瀬戸内海国立公園に指定されている景観の地となっている。

失われた20年と云われる長い経済の沈滞の中で、地方自治体が苦労を重ねるなか、地方改革に取り組んでいる自治体があった。
直島町は、島の南端の風光明媚な地区を秩序だった文化的な観光地にしようと藤田観光を誘致し、キャンプ場を1960年代後半の観光ブームの時期にオープンさせたが、瀬戸内海国立公園内のため大規模レジャー施設にするには制約があり、石油ショック後は業績が低迷し撤退した。
その後に島を文化的な場所にしたいという意向で当時の町長・三宅親連(ここ参照)と福武書店(現:ベネッセコーポレーション)創業者の福武哲彦との間で意見が一致。急逝した福武哲彦の跡を継いだ息子で、2代目社長の福武總一郎が1987(昭和62)年に一帯の土地を購入し、1989(昭和64)年に研修所・キャンプ場を安藤忠雄のマスタープランでオープンした。
福武總一郎は「直島南部を人と文化を育てるエリアとして創生」するための「直島文化村構想」を発表し、1992(平成4)年に安藤忠雄が全体設計した直島文化村プロジェクト「ベネッセアートサイト直島」の中核施設となるホテル・美術館の「ベネッセハウス」(英名:Benesse House)建設などへと拡大した。尚、直島南部、通称・琴弾地と呼ばれる地区の丘の上の本館・ミュージアム棟(旧称直島コンテンポラリーアートミュージアム)は1992(平成4)年、宿泊専用棟「オーバル」は1995(平成7)年、海辺の宿泊専用棟「パーク」「ビーチ」は2006(平成18)年に開館した。
●(冒頭の画像は、ベネッセハウス・ミュージアム棟屋上庭園から瀬戸内海を望む光景)。
当初美術館は浮き気味で町民の関心も薄かったが、島全体を使った現代美術展(スタンダード展)、本村の無人の古民家を買い上げて保存・再生し現代美術のインスタレーションの恒久展示場とする家プロジェクトなどを重ねることで、徐々に活動が町内の理解を得られるようになったという。
現在は、ベネッセハウスは町民の宴会や結婚式場の二次会場ともなっている(家プロジェクト第1弾の本村で一番大きい家屋「角屋(かどや)」)を創る時、アーティストの宮島達男は町民125人を公募して、作品を構成する125個のデジタルカウンターの点滅速度を一人一人にセッティングしてもらい、地域住民参加という手法を取ることで現代アートという異質なものが保守的な土地に入って来ることに対する町民の反感、抵抗を払拭したという。
その後、2004(平成16)年にはクロード・モネウォルター・デ・マリアジェームズ・タレルの3名の作品を収めた地中美術館が建設されるにいたっている。

●上掲の画像は、角屋(山本忠司&宮島達男)1998年。
このプロジェクトを通して日本の多様な建物・生活・伝統・美意識を再現。つまり、自然と建築と芸術を共生させた文化産業が直島を観光の名所として発展させ、今やいくつもの雑誌で特集が組まれるアートの聖地となった「直島」は、アメリカの旅行雑誌『コンデ・ナスト・トラベルラー』で「生きているうちに行ってみたい世界7大旅行地の一つ」として紹介されるなど、海外からの注目も集まるようになった。
1969(昭和44)年には直島製錬所が近代化することに決まりに同新製錬所が稼動。この頃を境に金属製錬事業の高度化と平行して合理化が進み、以来従業員数や島の人口は減少し続けていた。そんなかつての過疎化と産業廃棄物(豊島からの受け入れ)に悩まされていた直島(※8参照)が、アートの聖地としての今の姿になるまでには、元町長・三宅親連、福武書店(現 ベネッセ・コーポレーション)、そして地域住民によって築き上げられた20年の歳月があった(※9:「朝日新聞社 :AJWフォーラム :アジア人記者の目」の地域社会の生存戦略(3)参照)という。
恐らく、今日の記念日を制定した直島の女性の「夢をかなえてくれた人(夢の実現に力を貸してくれた人)」というのは、今の直島を築くのに努力した先に挙げた人たちのことを言っているのではないだろうか。

古来より人々が行き交い、文化交流の舞台となった瀬戸内海で、アートの島として、多くの人々が訪れるようになった「直島」。
この「直島」という名は昔、崇徳上皇がこの島を訪れた際、島民の素直さ・素朴さを賞賛されたことに由来しているのだとか。
小倉百人一首の中でも、もっとも有名な恋の歌「瀬をはやみ岩にせかるる滝川のわれても末にあはむとぞ思ふ」。
これを詠んだのが崇徳上皇である。

●上掲が小倉百人一首77番「崇徳院」
【歌意】滝の水は岩にぶつかると二つに割れるが、すぐにまた一つになるので、現世では障害があって結ばれなかった恋人たちも、来世では結ばれましょう。・・といったところ。ロマンチックなこの歌とは裏腹に崇徳上皇は悲運な運命を辿る。
崇徳天皇は、歴史の教科書では保元の乱を扱う際に登場するため、崇徳上皇と記載されることが多く、退位後は崇徳院・讃岐院などとも呼ばれる。
<ahref=http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B3%A5%E7%BE%BD%E5%A4%A9%E7%9A%87>鳥羽天皇と中宮藤原璋子(待賢門院)の第一皇子として生まれるが、『古事談』には、白河法皇と璋子が密通して生まれた子であり、鳥羽は崇徳を「叔父子」と呼んで忌み嫌っていたという逸話が記されている。
崇徳上皇は鳥羽天皇の譲位を受けて5歳にして即位し第75代天皇となる。幼少で曾祖父の白河法皇が実権を握っていたが、大治4年(1129年)白河法皇が崩じ鳥羽上皇が実権を握ると情勢は一変し、鳥羽上皇が院政を開始した。
院政開始後の鳥羽上皇は藤原得子(美福門院)を寵愛し、保延5年(1139年)得子が体仁親王(後の近衛天皇皇)を出産すると、即、崇徳天皇の皇太子とし、2年後の永治元年(1141年)には鳥羽上皇は崇徳天皇に譲位を迫り、わずか2歳の体仁親王を即位させた(近衛天皇)。これなど、鳥羽上皇が崇徳天皇を実子ではなく、白河法皇のご落胤だと信じていたためだろうが、崇徳院にとって、この譲位は大きな遺恨となった。この時から崇徳天皇は鳥羽上皇(本院)に対し新院と呼ばれたりした。
久寿2年(1155年)近衛天皇が17歳で崩じると、崇徳上皇は皇子重仁親王を即位させようと画策したが、鳥羽上皇によって、美福門院のもう一人の養子である守仁親王(後の二条天皇)が即位するまでの中継ぎとして、その父の雅仁親王(崇徳の同母弟)が、立太子しないまま29歳で後白河天皇として即位した。
鳥羽法皇や美福門院は、崇徳院に近い藤原頼長の呪詛により近衛天皇が死んだと信じていたといい(『台記』)、背景には崇徳院政によって自身が掣肘されることを危惧する美福門院、父・藤原忠実と弟・頼長との対立で苦境に陥り、崇徳院の寵愛が聖子から兵衛佐局に移ったことを恨む藤原忠通、雅仁親王の乳母の夫で権力の掌握を目指す信西らの策謀があったと推測されている。
夢破れた崇徳は、保元元年(1156年)に鳥羽法皇が崩御すると摂関家の藤原頼長、源為義平忠正(平忠盛の弟、平清盛の叔父)らと語らい後白河天皇から皇位を取り返すべく蜂起した。しかし、備えをしていた後白河天皇側に源義朝や平清盛らが参集し、源義朝の献策により素早く夜襲をかけた(これが「保元の乱」である)。
崇徳上皇は、平清盛と同じ乳母に息子を預けたほど縁が深かっただけに、清盛の支援を待ち望んでいたが、清盛は後白河天皇に味方してしまった.。これが最大の誤算であった。
敗れた崇徳上皇は捕らえられ、武士数十人が囲んだ網代車(牛舎の一。車の屋形に竹または檜の網代を張ったもの。)に乗せられ、讃岐国に配流された。
天皇もしくは上皇の配流は、藤原仲麻呂の乱における淳仁天皇淡路国配流以来、およそ400年ぶりの出来事だった。同行したのは寵妃の兵衛佐局と僅かな女房だけだったという。崇徳上皇は都に帰りたいと切望しながらもその後、二度と京の地を踏むことはなく、8年後の長寛2年(1164年)8月26日、46歳で崩御した。
遺体は白峯御陵(坂出市。.白峯寺白峰宮、参照)に葬られた。帰京を許されなかった崇徳上皇への後ろめたい思いが、のちに「怨霊」という形で、後白河天皇と清盛を悩ませることになったと言われている。
怨霊として定着した崇徳院のイメージは、近世の文学作品である『雨月物語』(「白峯」)、『椿説弓張月』などにおいても怨霊として描かれ、現代においても様々な作品において怨霊のモチーフとして使われることも多い。

●上掲は、讃岐に流された崇徳上皇.歌川国芳画。
その一方で後世には、四国全体の守り神であるという伝説も現われるようになる。承久の乱土佐国に流された土御門上皇(後白河院の曾孫)が途中で崇徳天皇の御陵の近くを通った際にその霊を慰めるために琵琶を弾いたところ、夢に崇徳天皇が現われて上皇と都に残してきた家族の守護を約束した。その後、上皇の遺児であった後嵯峨天皇が鎌倉幕府の推挙により皇位に就いたとされている。また、室町幕府の管領であった細川頼之が四国の守護となった際に崇徳天皇の菩提を弔ってから四国平定に乗り出して成功して以後、細川氏代々の守護神として崇敬されたと言われている(ともに『金毘羅参詣名所図会』・『白峰寺縁起』、※10、※11又金毘羅権現参照)。
保元の乱は、兄・崇徳と弟・後白河との権力の座を賭けた争いに、貴族の藤原一門と、源氏・平家の武士たちが参戦したいわば、政治的パワーゲームだった。この後、勝った後白河天皇は清盛とともに力を伸ばしてゆくが崇徳上皇は讃岐に廃瑠され当時は、配流先の地名をとり「讃岐院」と称されていたのであり、崇徳院とは、崩御後、怨霊鎮魂のために与えられた諡号である。
漢風の諡号(帝号)は平安期の光孝天皇まで続いたが、その後、律令政治の崩壊と共に途絶えていた。これ以降の天皇では、平安末期から鎌倉初期における75代崇徳院(讃岐院から改める)、81代安徳天皇、82代顕徳院(隠岐院から改め、後に後鳥羽院に改める)、84代順徳院(佐渡院から改める)の4例を見るのみである。
崇徳天皇は応仁の乱で敗れ、讃岐の地で悲惨な死に方をしたが、安徳天皇は平清盛の外孫で、8歳にして壇の浦に沈んだ。順徳天皇は承久の乱に敗れ、北条義時によって佐渡に流されたまま亡くなった。この3人は平安後期から江戸中期までの諡号が絶えた時代にあって、わざわざ例外的に諡号を贈られた天皇である。彼らに贈られた「徳」諡号は、霊を慰め、怨霊化を防ぐために贈られた諡号であり、「徳」をもってを張るな、民を安んじてくれ、という願いが込められていたのではないだろうか。
明治天皇は慶応4年(1868年)8月18日に自らの即位の礼を執り行うに際して勅使を讃岐に遣わし、崇徳天皇の御霊を京都へ帰還させて白峯神宮(京都市上京区)を創建した。
後白河法皇は、朝廷の威信保持のために政治的計略を巡らし、源頼朝からは「日本一の大天狗」と評される一方で、仏教を深く信仰し、熊野詣は34度にわたったという。また今様を熱愛し、『梁塵秘抄』(※12参照)を編纂するとともに、その解説書ともいうべき『梁塵秘抄口伝集』を著しているが、その歌詞集である『梁塵秘抄』の中には以下の歌が掲載されている。
(406)侍藤五君、召(め)しし弓矯はなど問(と)はぬ、
弓矯(ゆだめ)も箆矯(のだめ)も待ちながら、
讃岐の松山へ入りにしは。
(431:)讃岐の松山に、松の一本歪みたる、
捩(もじ)りさの捩(よじ)りさに、嫉(そね)うたるかとや、
直島の、さばかんの松をだにも直さざるらん。
侍五藤君とは、従者(おもに武士系)の藤原氏の五男坊。弓矯とは、弓の調整具。曲がりを直す。箆矯(のだめ)とは矢の調整具。同じく、曲がりを直す。・・・ことで、歌意は、以下のようになるようだ(以下現代役等は※13:「今様ラプソディ」梁塵秘抄ものづくし篇(その五)参照)。

(406)従者藤原の五郎君 お持ちの弓矯をどうして確かめないの
    弓を直す弓矯も 矢を直す矢矯も持ってたのに
    あんな戦にあっさり負けて 讃岐の松山へ行っちゃったの
(431:)讃岐の松山に 性根の歪んだ松が一本
    ねじまがって身もだえして 妬んでるんだってさ
    直しま(直島)しょうとか 天の裁きを待つ(松)とかいうのに
    歪んだ生え方は何で直さないんだろう

406番の讃岐(現・香川県)の松山は、崇徳院の流刑地のことであり、保元の乱で負けて流され、生き残りの重臣たちもそれぞれ土佐などに配流された。この歌は崇徳院方についた摂関家の一系統をはじめとする藤原氏を揶揄したものだろう。なお、実際の戦闘はわずか数時間で決している。
431番も、同じく、崇徳院にまつわる諷刺歌。「性根の曲がった松」は、都に向けて恨みをつのらせると讃岐配流中の崇徳院を皮肉ったもの。
直島は、松山に近い瀬戸内の小島で、崇徳院が立ち寄った際、出迎えた島民の素直さ素朴さに感動して「直島」と命名した。しかし、ひそかに「世直し」の意味を込めたのではないかと言われていた。これに対してこの歌は、「直したいのなら、まずはアンタの性根から」と、痛烈なツッコミを入れている。もし後白河の作詞だったらけっこう恐い。・・というが、そうかもしれない。
そう考えると、以下の歌も意味深であろう。

(405 )鷲(わし)の本白(もとじろ)を、
    くわうたいくわうの箆(の)に矧(は)ぎて
    宮の御前を押し開き、
    ふとう射させんとぞ思ふ。

「箆」は「矢の竹で出来た枝の部分」。「矧ぐ」は「竹と羽根を合わせて弓矢を作る」の意味で、「くわうたいくわう」はよく判らない(※14参照)そうだが、これは、「皇太后」と読めて、それなら崇徳天皇が父の鳥羽天皇に嫌われ、ひいては保元の乱の遠因ともなった、崇徳・後白河両天皇の生母の待賢門院璋子ではないかという推測も成り立つ。そうすると、この歌(405)の歌意は以下のようになる。

鷲の羽根の元白の矢羽根を
皇大神宮の竹でもって
箆(の)に矧いで
宮のとびらを押し開いて
道理をわきまえない無道者を
射させようとこそ思う

崇徳院は、後白河院と母を同じくする実の兄であるが、この兄を、弟は保元の乱で打ち敗かして、断乎島流しにして生涯都へ帰さなかった。また、崇徳天皇は、鳥羽院の祖父白河法皇が、養女であり自身で鳥羽天皇の中宮にした待賢門院璋子その人 に産ませた「子」であったらしいという噂もあった。それで鳥羽院は息子である崇徳天皇を「叔父御」「祖父子」とかげで言っていたという。嫌われる道理であるが、そうすると、「宮のとびらを押し開いて道理をわきまえない無道者を射させようとこそ思う」・・とは、如何にも意味深な歌ではある。

なにか回りくどい話になってしまったが、最後は、「夢」の話で締めくくろう。
保元の乱その後の平治の乱勝利後の平家の栄華と没落を描いた『平家物語』は、巻第一冒頭の「祇園精舎の鐘の声……」の超有名な文で始まるが、それに続く最初の物語(6祇王)には、以下のような言葉が出てくる。
「つくづく物を案ずるに、娑婆(しゃば)の栄華は夢の夢、楽しみ栄えて何かせん。」
妓王とは、平清盛に寵愛されていた白拍子であるが、ある日、名を仏と名乗る年16の舞の上手な遊女が飛び込みで清盛の前に現れ、芸を売り込もうとしたが清盛の逆鱗に触れ門前払いをくらうところを祇王に取りなしてもらったのだが、それが裏目となり、以降、清盛の寵愛は仏御前に移り、妓王を寄せ付けづ、ついには追い出してしまった。そんな祇王は、清盛からの経済的援助も打ち切られ困窮の果て自殺を図ろうとしていたが母に説得され母と妹とともに出家し嵯峨往生院(現・祇王寺)へ仏門に入った。当時21歳だったとされている。
そんな哀れな祇王の前に現れた仏御前の言葉である。『平家物語』に出てくる文としては長めなのでここでは詳しく書けないので以下参考の※15:「祇園精舎」の妓王9のところを参照するとよい。
上記の訳文は、「つくづく物思いにふけってみると、俗世の栄華は夢の夢で(人間世界の栄華はきわめてはかないもので)、裕福になり栄えても何になろう、いや、何もなりはしない。」・・・といったところで、『平家物語』の祇園精舎と同じく仏教(『仁王経』)にある人生観で、この世の無常を表している言葉「盛者必衰の理(ことわり)」を表しているのだろう。
古来、日本では、数え切れぬ人々が、幸福を求め、悩み、苦闘し、生きてきた。 しかし、生涯を振り返り、夢や幻のごとし、と述懐する人が、あまりにも多い。それは、家康と同様、「生きがい」を「人生の目的」と誤認した悲哀にほかならない(家康公遺訓)。
貧しい農民のせがれから、一躍、天下人に上りつめた男、豊臣秀吉。世界史をひもといても、彼ほどの成功者は少ない。
 しかし、秀吉は、最期に意外な言葉を残している。
「露とおち 露と消えにし わが身かな 難波のことも 夢のまた夢」(秀吉辞世句)
「露」とは、早朝、葉の上につく水滴である。太陽が昇ると、瞬く間に蒸発し、どこに露があったのか、跡形も残らない。 「難波」とは、自分が威勢を張った大坂のことである。天下を統一し、関白になった、大坂城を造り、聚楽第を築いた。そして、金と女にたわむれて遊んだ……。
それは、夢の中で夢を見ているような、はかない一生だった、とのこの告白。彼の辞世は、一体何を意味しているのだろうか。武士を目指し、家出した貧農の子が、一国一城の主となり、時流に乗って天下の主へと上りつめた。それでも満足せず、次には、唐、天竺へと、野望は尽きず、事実、2度も朝鮮半島へ大軍を送り、非道な殺戮を繰り返している。彼は求めても、求めても満足しない心、一時の満足は、さらに大きな欲望を生む。人は、を得たら、いつまでも離したくない、と願う。しかし、現実には長続きしない。いや、頂上まで上れば、あとは落ちるしか道のないことを、知っているがゆえに、不安、苦悩(苦しみ悩むこと)はつのるのである。
秀吉は、人間の本性を赤裸々に見せている。五欲も参照)に追い回され、あくせくしている我々の姿と、重なるところがないだろうか。求めても、求めても満足しない心、一時の満足は、さらに大きな欲望を生む。秀吉の辞世は、「人生の目的」は、これら「生きがい」のほかにあることの明証であるのだが・・・・。あなたはどこにその生きがいを求めますか・・・。

今NHKの朝の連続テレビ小説「まれ」が始まっている。東京で生まれ育った10歳の津村希は夢を追う父・徹に振り回される苦労のため、子供ながらすっかり「夢」を持つことが大嫌いになり、幼児期に抱いていたケーキ職人への夢を封印。そして津村一家は父の事業失敗に伴い、夜逃げ同然で能登半島の外浦村(架空の漁村)にやってくる。地名は能登半島の日本海に面した海岸を指す「外浦」に由来しており、外部から来た人々を「まれびと」として歓迎し優しく接する文化のある土地柄であるとして設定されている。
稀に来る人と言ふ意義から、珍客をまれびと、マレビト(稀人・その転化からまらうど=客人)は、時を定めて他界から来訪する霊的もしくは神の本質的存在を定義する折口学の用語。民俗学者折口信夫の思想体系を考える上でもっとも重要な概念の一つであり、日本人の信仰他界観念を探るための手がかりとして民俗学上重視されている。
陸の交通網は発達しており、幹線道路から外れた「半島や島」というと、行き止まりという感覚が強いが、だからこそ昔ながらのものがたくさん残っているとも言える。それは目に見えるものばかりでなく、むしろ目には見えない精神的な土壌が人々の身ぶりや遠い記憶の中に残されているともいえる。秋田の男鹿半島や日本海側の村々や、九州や沖縄の島、そして、瀬戸内の香川県直島他の島々もそうである。陸地から見ると辺境であるが、海から見るとそこは入り口としてネットワークの基点になっている。日本列島に暮らす人たちは、海の彼方からやってくる見知らぬ他者を拒絶したり排除したりするのではなく、恐れながらも言葉を交わし、時に受け入れてきた。そうした身ぶりが、日本列島に伝わる、数多の来訪神を迎える儀礼に表れている。香川県地方に守護神として崇敬された崇徳院信仰もその一つであろう(※15、※16参照)。

朝ドラの津村希は外浦村へきて夢に向かっている若い人たち人たちと接しているうちに、また封印してきたケーキ職人への夢を求めて苦労して横浜のケーキ店に務めることができた。しかも稀のアイデアが採用されて何とかクリスマスケーキを作ることができたのだが、稀は自分は作ってはいけないといわれていたので友人のアイデアとしてケーキを作った。それを聞いた大悟社長からは不合格を宣告された。日本一のケーキ屋を目指している稀にたいして「何かを得るためには、何かを捨てろ」と言われたのだ。家族や友だちを大事にしてきた希にとって、「何かを捨てろ」というのは理解できなかった。そして、店を首になり意気消沈してまた輪島の親の家に帰ってくる。稀の母親藍子は、家族生活のために、自分の夢も捨てだらしなく不本意な仕事をしている、夫徹に離婚を要求する。家族から離れて思う存分自分の求める夢に向かって仕事をして欲しいとの愛情からであった。そんな姿や高校生の弟が高校を出たら大学にはゆかず結婚して自分のしたい仕事をやろうとする姿など見て、ケーキ屋の大悟社長が言いたかったのは、「今やらなければいけないことに覚悟をもって集中しろ」ということではないかと気づいてまた、横浜のケーキ屋へとでいったのだが・・・・。
さて、どういう展開になってゆくのか・・・。

もし、人生に夢や目的がなかったら、どうなるか。 生きる意味も、頑張る力も消滅してしまうだろう。1度きりしかない人生、後悔しないためにも、まず、どう生きるかを考えることは大切だ。
」とは、睡眠中にみる一連の観念や心像、幻覚などは別として、人の将来実現させたいと思っていることや願望。願いをいうが、夢には、はかないこと、たよりないこと、という意味もある。そして、その内容があまりに現実から遠く、はかないことを形容するためにしばしば用いられている。
稀の父親・徹も駄目人間の代表で、実体のない大きな夢ばかり見ては失敗を繰り返し、ちっとも地道にコツコツできない性分であった。女房から離縁され、東京へ出て本当に「夢」を実現できるだろうか。このドラマ、私にはあまり面白くないドラマだが、これからの展開は気になるところである。

「為せば成る為さねばならぬ何事も、成らぬは人の為さぬなりけり」。
どんなことでも強い意志を持ってやれば必ず成就するというこの言葉、米沢藩主の上杉鷹山が言った言葉である(※17参照)。幕末の長州藩士、思想家、教育者、明治維新の精神的指導者でもある、吉田松陰
「夢なき者に理想なし、理想なき者に計画なし、計画なき者に実行なし、実行なき者に成功なし。故に、夢なき者に成功なし。」・・と言っている。
他にも世界の有名人の名言格言がある(※18参照)が、その中で、一番わかりやすく好きなのが米国のエンターテイナー、実業家ウオルト・ディズニーの以下の言葉である。

・夢見ることができれば、それは実現できる。
・夢をかなえる秘訣は、4つの「C」に集約される。それは、「Curiosity ? 好奇心」「Confidence ? 自信」「Courage ? 勇気」そして「Constancy ? 継続」である。
・成功する秘訣を教えてほしい、どうすれば夢を実現することができますかとよく人から尋ねられる。自分でやってみることだと私は答えている。
・若者の多くは、自分たちに未来はない、やることなど残っていないと思っている。しかし、探検すべき道はまだたくさん残っている。

どうか良い「夢」を見つけて行動してください。

夢の日(参考)

「酒豆忌」。「怪談映画の巨匠」中川信夫(映画監督)忌日(参考)

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「酒豆忌」。「怪談映画の巨匠」中川信夫(映画監督)忌日 本文へ戻る

参考:
※1:休業中の老舗旅館「嵐峡館」、星野リゾートが再生-12月開業へ(烏丸経済新聞)
http://karasuma.keizai.biz/headline/792/
※2:中川信夫公式ホームページ - NIPPONEIGA.COM
http://www.nipponeiga.com/nakagawa/
※3:しじみ川旧跡(大阪市北区)
http://www12.plala.or.jp/HOUJI/shiseki/newpage989.htm
※4:OLD PHOTOS of JAPAN: 相生橋からの眺め 1900年代の神戸
http://www.oldphotosjapan.com/ja/photos/507/aioibashi-jp
※5:三宮及び周辺の店の特集(第4回) - 神戸・兵庫の郷土史Web研究館
http://kdskenkyu.saloon.jp/ml27san.htm
※6:加賀見山 槍持街道 - Toy Film Project 玩具映画プロジェクト
http://toyfilm.jp/2009/09/post-69.html
※7:資料庫(新聞)-日本上海史料究会
http://shanghai-yanjiu1.sakura.ne.jp/mysite2/archives-newspaper.html
※8:神戸新聞NEXT|社会|布く新憲法 ゆくては明かるし…幻の兵庫県民歌
https://www.kobe-np.co.jp/news/shakai/201501/0007625977.shtml
※9:馬車物語とは - 映画情報 Weblio辞書
http://www.weblio.jp/content/%E9%A6%AC%E8%BB%8A%E7%89%A9%E8%AA%9E
※10:幻想館:映画評
http://www.ne.jp/asahi/gensou/kan/index.html
※11:「表現規制とのたたかい」について - 日本映画監督協会
http://www.dgj.or.jp/freedom_expression_g/index_4.html
※12:青空文庫-石川啄木 雲は天才である
http://www.aozora.gr.jp/cards/000153/files/4097_9491.html
※13:おねえちゃんは悪魔憑き
http://www5b.biglobe.ne.jp/madison/worst/occult/kenpei1.html
中川信夫 - 日本映画データベース
http://www.jmdb.ne.jp/person/p0272830.htm
資料室>MOVIE DATABASE>|東宝WEB SITE
http://toho.co.jp/library/system/
中川信夫 詩集『業(ごう)』 - 荻野洋一 映画等覚書ブログ
http://blog.goo.ne.jp/oginoyoichi/e/80cd4f1994762f225c22ea5b76aefa84
中川信夫- Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%B7%9D%E4%BF%A1%E5%A4%AB


「酒豆忌」。「怪談映画の巨匠」中川信夫(映画監督)忌日 本文へ戻る

酒豆忌」「怪談映画の巨匠」中川信夫(映画監督)忌日

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今日6月17日は、『東海道四谷怪談』(1959年公開新東宝映画)など「怪談映画の巨匠」として知られる映画監督中川信夫の1984(昭和59)年の忌日である享年79歳。
日本酒の肴にはもってこいの食材豆腐。豆腐を肴に日本酒を飲むことを終生愛したといわれる中川信夫監督の忌日は、そんな生前の好物に因んで「酒豆忌」と呼ばれている。監督が亡くなって後、関係者たちが監督を偲ぶ集いとして行ってきたものだが、1987(昭和62)年以降は忌名を「酒豆忌」として現在に至っている。

中川信夫は、1905(明治38)年4月18日、京都洛西'(京都市右京区)の嵯峨二尊院門前町に,父・中川竹次郎(嵐山の料理旅館「嵐峡館(※1参照)」のシン=板前の主任)と、母・ソノ(同旅館の仲居頭)の長男として生まれる(※2参照)。
4歳の頃、一家は大阪へ出て父親が考案した煮豆の店を開いていたようだが、1909(明治42)年キタの大火で店を消失し、翌年には神戸市兵庫区の荒田町に移って、煮豆屋を開く。1911(明治44)年6歳の時、新開地の横丁に店を移し、後に鰻屋にかえたのが大当たりし、翌年には福原遊郭に近い新開地の一角に料亭を出すまでになったという。信夫少年は1919(大正8)年私立育英商業学校(現育英高等学校)に入学し、1924(大正13)年卒業(19歳).。この間父は布引の滝へ移り、大料亭「巌水」を開いていたが、この年には、元町相生橋(日本最初の跨線橋。※4参照)畔の木造三階建の家を惜り「巌水鰻食堂」をはじめたという。我が地元神戸のことであった為、幼少時の中川信夫の父親のことを少し詳しく書いてしまったが悪しからず。

中川は、父に「映画監督になりたい」と言うと、「好きな道へ行け」と言われて、1925(大正14)年20歳の時、大阪の帝国キネマ小阪撮影所に入社したという。私のブログ「映画の日」でも書いたが、神戸は映画発祥の地なので影響を受けたかな・・・・。しかし、まずカメラ助手をし、現像の仕事をするが、2週間ぐらいでやめたらしい。
翌1926(大正15・昭和元)年21歳の時、父が、喘息発作に因る心臓麻痒で死去し、母に家業を手伝わされ、家業の手伝いをしながら、文学者になることを目指し、1928(昭和3)年23歳の時、同人誌『幻魚』に小説を執筆するが、文学者になるには大学を出ていなければ駄目だとその道をあきらめ、再度映画の道に進むことにしたという。
そして、キネマ旬報読者寄書欄の素人映画評論家を経て1929(昭和4)年24歳の時マキノ・プロダクションに入社し、助監督となる。この時代には山上伊太郎伊丹万作小津安二郎らに強い影響を受けたという。
1930(昭和5)年8月、世界大恐慌による不景気によりマキノ撮影所が給料遅配になり争議に突入すると、従業員(組合)側の記録係をつとめた。同年12月にマキノが製作を一時中断した後は無職で1年間過ごし、その時間をシナリオ執筆に費やした他、1931(昭和6)年には神戸の三宮神社裏の生田筋に喫茶店「カラス」を開業している。私は神戸っ子なので、当時の喫茶店「カラス」のマッチがあるのを見つけたよ(※5参照)。
1932(昭和7)年27歳の時、マキノ時代から親しかった稲葉蛟児監督(すでに市川右太衛門プロダクションで仕事をしていた)から誘いを受け市川右太衛門プロダクション、(奈良市の「あやめ池遊園地」内)へ助監督の身分で移籍し、1934(昭和9)年の時代劇弓矢八幡剣』(主演:田村邦男)で監督に昇進した。本作を製作した同プロダクション第二部は、市川右太衛門主演作以外の作品を製作する部門であり、この作品は昇進試験として監督したものであるが、社内的に好評をえて監督の道が開ける。
そして、本格的な監督デビュー作は翌・1935(昭和10)年の右太衛門主演による若き日の清水次郎長物語『東海の顔役』である。この作品はサイレント映画サウンド版で、その主題歌「旅笠遣中」(作詞:藤田まさと、作曲:大村能章、唄:東海林太郎)が大ヒットして股旅物の歌謡の先駆けとなる。股旅物特有のテンポの良い曲ですよ。以下で聞ける。

旅笠道中: 二木紘三のうた物語

しかし、中川はデビュー作は自作シナリオ『鉄の昼夜帯』(のちに『悪太郎獅子』に改題して実現)の映画化)を望んだが認められず、陣出達朗脚本による本作品のシナリオだった。あてがわれた陣出のシナリオが気に食わない中川は、親友でのちに映画評論家となる滝沢一を借家に招いて、2人でシナリオを改変したそうだ。
滝沢の回想によれば、中川はこの頃すでに伊丹万作の影響で「映画の出来栄えは、一にも二にもシナリオ(脚本)の段階で決まる」という信念を持っていたという。しかし、シナリオ段階でこの作品を構成段階からまったく作り変えようとしたが、若き日の次郎長の姿をスピード感あふれる演出で見せるように軌道修正するのがやっとだったと滝沢は回想しているという。
中川は後に脚本家・桂千穂を聞き手としたインタビューにおいて、本作品についての感想を聞かれて「それが僕は気に入らないんだな。僕の人生が裏街道へ行く初めだから」と答えているそうだ。滝沢は、この頃の不満が中川を酒びたりにしたと語ってもいるという。
東海の顔役は、本作品において市川の演技を抑制することに専念し、滝沢の回想によれば、それは見事に成功したという。
中川念願の『悪太郎獅子』は右太衛門主演で1936(昭和11年)1月に完成したが、ようやく実現した矢先、今度は右太プロが松竹に吸収合併されることになったために、中川は「意気消沈した作品である」と語っている。作品は同年2月7日、松竹キネマ配給により大阪劇場で公開されているが、同日右太プロは撮影所を閉鎖。右太プロのメンバーは、右太衛門をはじめとして多数の人材が松竹に移ったが、中川は解雇されたそうだ(『自分史 わが心の自叙伝』、p.23)。
中川はいったんマキノ正博が設立したマキノ・トーキーに移り(監督としては『槍持街道』を製作している。※6参照)、1938(昭和13)年33歳の時に東宝に移籍した。
時代劇やエノケン(榎本健一)主演作を主に監督(監督映画作品参照)したが、戦時期の映画製作本数の減少で、1941(昭和16)年に東宝を契約解除となる。


上掲は、中川信夫監督『エノケンの森の石松柳家金語楼とのかけあい場面が懐かしい。

同年松竹京都撮影所製作部長の渾大坊五郎に招かれて同撮影所に移籍するが、間もなく松竹京都撮影所は製作体制を縮小して松竹大船撮影所に合併されることとなる。生活のために助監督をする覚悟で上京して大船に赴くが、不調に終わり、松竹京都撮影所に籍を置いたまま、次の企画を待つている間に、太平洋戦争がはじまる。
翌1942(昭和17)年37歳の時、中国上海にあった国策映画会社中華電影に監督として採用され、日中戦争の記録映画『浙漢鉄道建設』を監督した。途中結婚のための帰国を挟んで2年間撮影が続けられるが、映画は完成することなく終戦を迎えて『浙漢鉄道建設』のフィルムは焼却されたという(浙贛線(せっかんせん)とは - コトバンク参照)。
1946年(昭和21年)、上海から帰国。同年、池田富保が設立した大同映画に入社するが、仕事はほとんどなく生活に困窮する。中川は戦後、映画界に復帰する前から、詩の同人誌に参加していた。1945(昭和20)年上海にいるとき、日本人向け新聞「大陸新報」(※7参照)に投稿した長篇詩「しらゆき」が特別賞を受賞している。
上海で終戦を迎えた中川は、1946 (昭和21) 年日本へ引揚げてきて、妹・千代の嫁ぎ先の小笠原家(兵庫県西宮市)に落着き、3カ月後には、隣の質屋の二階を借り、千代の夫が戻るまで一年問住んでいたそうだ。
そして、神港夕刊新聞社公募「新憲法公布記念文芸」の詩部門)で、「地ならし」(※2の中川信夫詩集・業 目次参照)が第一 席(知事賞)に入選(12月1日)。翌、1947(昭和22)年兵庫県が新憲法公布を記念して公募した「県民歌」に投稿し、佳作に入選して、2百円を貰っていたという(※2の中川信夫・人間として映画監督としての79年参照)。選ばれた歌詞は、有馬郡生瀬国民学校(現西宮市立生瀬小学校。明治6年創立)教員の故野口猛さんが作詞したものだそうだが、同じ兵庫県民の私もこんな兵庫県歌があるのは今まで知らなかった(兵庫県下のことは※8を参照)。
中川は同年、中華電影時代に親交を持った筈見恒夫と京都で偶然再会し、当時新東宝のプロデューサーだった筈見の勧めで新東宝に移籍して(一家で東京に上京)、1948(昭和2)年『馬車物語』(石坂洋次郎原作の文藝春秋所載『馬事物語』を館岡謙之助が脚色したものを中川が演出。※9参照)で映画監督に復帰した。
そして、翌1949(昭和24)年9月榎本健一 主演で『エノケンのとび助冒険旅行』を公開しているが、この作品は、冒頭に徳川夢声の、「怖くて、ためになって、面白いお話をしましょう」という意味の語りが入ったファンタジー映画であり、中川自身は後に子供向けの作品として製作したことを明かしている。また、冒頭で徳川夢声のナレーションは本作品が目指す物語の特徴を、コメディと泣ける話とホラーの混ざり合った冒険物語と語っており、主人公の旅の途中に現れる目が光るクモの精や美女に姿を変える人食い鬼、森に潜む数々の化け物などのホラー描写も数多く見受けられ、中川怪奇映画に焦点を絞った『地獄でヨーイ・ハイ! 中川信夫怪談・恐怖映画の業華』を編著した鈴木健介は、同書で本作品を中川怪奇映画8本の中の一つに加えているようだ(物語など詳しくは※10のここ参照)。
続いて同年12月公開の、『私刑』で時代劇の大物嵐寛寿郎と初めて仕事をしている。この映画は、戦前から終戦直後にかけての、一人のやくざの半生を描いたもので、『地獄』(1960年)までつづく、中川と嵐寛のコンビ第1作でもあるが、GHQによる俗に言われる「チャンバラ禁止令」(正式には、「十三カ条の映画製作禁止条項」。※11参照)の影響下で製作されたもので、本作品に出演した池部良のインタビュー本を著作した志村三代子と弓桁あやは、本作品の嵐演じるやくざを「『網走番外地』シリーズをはじめとして、晩年に多数出演したやくざ映画の原点」であると指摘しているそうだ。
また、1953(昭和28)年11月公開の『思春の泉』は、新東宝と俳優座の製作提携作品であり、当時、俳優座に所属していた宇津井健の映画デビュー作品でもあり、提携していた俳優座が、千田是也岸輝子など俳優座のメンバーも多く出演している。公開当時の朝日新聞夕刊(日時不詳)で高評価を受け、日本以外にソ連でも一般公開されるなど、中川が監督した文芸映画の中では評価が高い作品の一つである。気をよくしてか、続いて、翌年、題名を啄木の代表小説(※12:青空文庫)にとった石川啄木の映画化『若き日の啄木 雲は天才である』、石坂洋次郎の東北を舞台にした明るくユーモラスな青春ドラマの映画『石中先生行状記 青春無銭旅行』(※10のここ参照)などを公開している。
新東宝が大蔵貢のワンマン体制に移行した後も、中川は同社で大蔵プロデュースの作品を量産し、1957(昭和32)年の『怪談かさねが渕』以降は同社の夏興業の定番である怪談ものを一手に引き受けるようになった。中川も映画のプロとしていろいろと実験を試みたのだろう。
1961(昭和3)年に新東宝が倒産した後は、東映京都撮影所国際放映と専属契約した後、1966(昭和41)年にフリーとなる。東映東京撮影所製作の『妖艶毒婦伝 お勝兇状旅』(1969年10月公開)を最後に映画から離れ、テレビドラマの監督を経て1979(昭和54)年に第一線から離れる。

1973年(昭和48年)68歳の時、東京世田谷の借家から神奈川県大和市に家を建て、3月に移っているが、1977(昭和52)年から1982(昭和57)年まで神奈川県芸術祭演劇脚本コンクールに自作脚本6本を応募、いずれも入賞している。1982(昭和57)年、磯田事務所(東京都渋谷区元代々木町にあった映画制作会社))とATGの提携作品『怪異談 生きてゐる小平次』(原作は鈴木泉三郎の同名戯曲)で、13年ぶりに映画監督に復帰(製作は1981年)。1984年(昭和59年)にはイタリアのペサロ映画祭で代表作『東海道四谷怪談』(1959年公開)などが上映されることになり招待状を受け取るが、同年1月10日風邪から脊髄炎、更に3月には脳梗塞を発症し意識不明に陥ったため、映画祭への出席はかなわなかった。1984(昭和59)年6月17日、心不全のため死去。満79歳没。

怪談怪奇映画の巨匠といわれている中川信夫。しかし,、全作品中、怪談怪奇映画は『地獄』など8本程しかない。時代劇、喜劇、シリアスな社会劇、文芸作、恋愛物、歌謡ドラマなど仕事のジャンルの幅は広い。この中に、中川信夫が貫いたものがある。弱者の視点から、理不尽な者たちをうつ「心」である。
彼は、生活に困窮した若き日のことや、家族のこと、友のこと、人が生きることなどに思いを馳せた詩を書き綴り、1981(昭和56)年にそれらをまとめて『業』というタイトルをつけた詩集を出版した(※2のここ参照)。生前の中川と親しく接した脚本家の桂千穂は、欲望などおのれの””の深さから逃れ得ない人間の悲喜劇こそ、中川映画のテーマであると語り、「生活の辛酸を嘗めつくし人生修羅の深淵を見極めた末に、一種の諦めに到達した」とその姿勢を表現している。
中川は自作について「(他の監督が断る)変なもんはすぐ僕のところへ来る」(インタビュー『全自作を語る』p.207)作品をこなし続けた「裏街道人生」(『全作品を語る』、p.197)と表現しているようだが、新東宝時代にはカメラマンの西本正や美術監督の黒澤治安など優秀なスタッフの協力を得て、次々と実験的な演出に挑戦した。
「怪談映画の巨匠」と呼ばれるようになる彼が初めての怪談映画『怪談累が渕』を発表したのは、先にも書いたように1947(昭和22)年に新東宝へ移籍して10年目の1957年(昭和32年)52歳の時、新東宝の夏興業の定番である怪談ものを一手に引き受けるようになってからである。
『怪談累が渕』の原作は三遊亭圓朝の『真景累ヶ淵』で、川内康範の脚本は発端部の『宗悦殺し』から『豊志賀の死』までをまとめて一本の作品にしている。
冒頭をワンシーン・ワンカットで描いて観客を物語に引き込む手法、若杉嘉津子の顔の崩れた幽霊役、沼に沈んでいく死体と浮かび上がってくるその亡霊、邦楽を基調としながら時折ジャズの旋律をはさみこむ渡辺宙明の音楽、そして人間の“業”の深さが呼び寄せる亡霊と因果応報(因果応報についてはここ 参照)の悲劇など、後の中川信夫怪談映画と共通するテーマや手法がこの作品ではじめて描かれている。

上掲は、中川信夫監督『怪談かさねが渕 』のDVD。女優は豊志賀(お累)役の若杉嘉津子。

1958(昭和33)年には怪談物『亡霊怪猫屋敷』を発表した。橘外男の小説及びそれを原作とした、この作品も大蔵貢ワンマン体制のもとで、夏定番の怪談・怪奇映画興行の1本として製作されたものである。
化け猫”もののジャンルに属する作品だが、幽霊屋敷のアイディアも盛り込まれ、江戸時代の呪いが現代まで受け継がれるという現代篇と時代篇の2部作構成になっているのは原作同様であり、登場人物もほぼ共通である。
現代篇を白黒映画、時代篇をカラー映画と、物語に応じてフィルムが分けられたパートカラーの手法が使用されている。当時各社で画面の大型化(シネスコ)、カラー化がはじまっていた時に、シネスコであるが、パートカラーの手法を選択した理由について、晩年の中川信夫作品で助監督をつとめた鈴木健介は、「オールカラーが予算的に無理な時代(新東宝にとって)に許されたパートカラーの条件を逆手にとった、実験精神に富んだ中川流演出」と解説しているという(ストーリーは※10のここ参照)。


上掲は映画「亡霊怪猫屋敷 」予告編

同年公開の『憲兵と幽霊』(※10のここ参照)は、『憲兵とバラバラ死美人』(新東宝 1957年、並木鏡太郎監督。※13参照)のヒットを受けて同傾向の作品を作ってほしいと大蔵貢から依頼を受けた中川信夫が「売国奴と愛国者」というテーマを出して、石川義寛が脚本化した作品である。『憲兵とバラバラ死美人』同様、天知茂中山昭二が主演している。怪談の味つけをされた憲兵隊の内幕ものというキワモノながら、軍隊という強者とそれに翻弄される一兵士とその家族という弱者、そして軍隊やそれに支配されたマスコミの流す情報に翻弄されて弱者を苛める無責任な大衆という多様な視点から戦時中の世相を描いている。元々は硬派な軍事サスペンスであったが、大蔵が強引に怪談要素を盛り込ませたという。

1959(昭和34)年3月公開の『女吸血鬼』(おんなきゅうけつき)は、新東宝が企画委員会を設けて発表した怪奇映画第1弾だそうで、元々は「裸女吸血鬼」の題名で公開される予定だったという。映画のモチーフが実在の人物であるため、グロテスクな印象をなるべく避け、照明やメイク、美術等で怪しげな雰囲気づくりをした。舞台となった水晶の城塞は江戸川乱歩の『パノラマ島奇談』のイメージを参考にしたという。
本作は日本初の本格吸血鬼映画であり、迫力ある吸血鬼を演じた天知茂も日本で初めての吸血鬼俳優となる。しかし、一方でタイトルロールである女性の吸血鬼は登場せず、題名と内容が合致しない作品となっている。そして、公開当時、新東宝では以下のような「宣伝ポイント」が興行館に通達されたという。
「従来の怪奇映画には見られなかった新型式の異色怪奇映画である点、つまり躍進目覚ましい新東宝がこの種の映画として“邦画界最初の企画”による傑作であるという点を売っていただきます」・・・と。同映画の予告編と動画は以下で見られる。

 新東宝 映画「女吸血鬼」(1958)動画 

1959年(昭和34年)7月54歳の時発表した『東海道四谷怪談』は、怪談映画の最高傑作として知られている。
四世鶴屋南北の原作21回目の映画化であり、新東宝としても毛利正樹監督『四谷怪談』(1956年)につづいて2度目の映画化となるが、本作は四谷怪談ものとしては初のカラー映画である。
大蔵の発案によりオープニングには歌舞伎の様式美を採り入れ、また監督の中川がこだわっていた「人間の業の深さ」をテーマとしており、関連作品のの中でも際立って評判が高い、「戸板返し」や、お岩が醜く腫れ上がった顔の髪を梳く場面、など、原作の見せ場も忠実に映像化された。中川信夫と彼にインタビューした桂千穂は、「戸板返し」について、本作がおそらく初の映像化であろうと語っているという。
また、キネマ旬報1974年10月下旬号に中川自らが寄稿した『怪奇映画問答』では、新東宝時代に製作した怪奇映画について「まァまァという出来だと思いましたら、フタを開けてみますと世評が割に良く、(中略)オーバーに申せば伝説的にまで持ち上げる人もあり、今日に至った」と、怪談映画の巨匠と持ち上げられることに戸惑いを覚えたと書いているそうであり、少なくともこのころには怪談映画の巨匠と言われるきっかけを作った作品と言えるだろう。



上掲は映画『東海道四谷怪談』(1959年)

そして、1960(昭和35)年7月には『地獄』を発表した。この作品は、日本古来の地獄絵や人間の罪の意識をリアルに描写した怪奇傑作。
定番となっていた怪談ものに「地獄の責め苦の映像化」を持ってきた作品で、企画や原案も中川信夫によるものである。
仏教の八大地獄の映像化がテーマとなっているが、ゲーテの『ファウスト』やダンテの『神曲』など、西洋思想における悪魔や地獄(ここ参照)のイメージも盛り込まれている。新東宝の看板俳優だった嵐寛寿郎が、閻魔大王役でカメオ出演(ゲスト出演して端役を演じること)している。
この映画は、前半で業が深い現世の人間ドラマ(現世の地獄)を描き、後半は、彼らが墜ちたあの世での地獄を、シュールな映像で表現している。娯楽映画というより、全体が「動く地獄絵図」になっているかのような、独特の美意識に貫かれた観念的な映像であるが、いかにも「大蔵的」、見世物小屋的エログロの世界は,馴染めるか否かによって、作品の評価も違ってくるだろう。



上掲は映画『地獄』(1960)特撮ダイジェスト版

本作が封切られた同年の12月に大蔵貢が新東宝社長を解任されたため、本作は結果的に中川が手掛けた最後の新東宝怪奇映画となり、同時に大蔵貢プロデュースによる中川作品の最後を飾るものともなった。
良し悪しはともかく、中川も映画のプロとして実験精神を失わず、作品に才能を傾けた結果が、これら新東宝倒産寸前の佳品誕生に繋がったのであろう。

1961(昭和36)年3月、中川は、前年(1960年)の『地獄』で描こうとしたテーマをより突きつめた『神曲』地獄篇のシナリオを書きながら、一方でそうした怪奇映画とは180度趣きの異なる『「粘土のお面」より かあちゃん』を監督している。白ら代表作の一つとするこの作品は、豊田正子の原作『粘土のお面』を、前年の12月に大蔵貢が新東宝社長を解任され、圧倒的な支配力を誇る大蔵のようなプロデューサーが不在の中で製作された作品であり、どん底の生活ながらも明るく生きぬく庶民の姿を描いたものであり、反面、大蔵カラーが薄められたことによって初期の新東宝映画を思わせる文芸映画の色彩が強くなっている。脚本を執筆した館岡謙之助は『思春の泉』(1953年)や『若き日の啄木 雲は天才である』(1954年)など主に中川の文芸作品を担当した脚本家であり、本作は『青ヶ島の子供たち 女教師の記録』(1955年)以来6年ぶりの中川作品への参加である。


上掲は映画は、中川信夫監督『粘土のお面」より・かあちゃん』.予告編

1961(昭和36)年東宝が倒産した後フリーになった中川は、1968(昭和43) 年、東映(東京撮影所)に招かれ、久々に劇映画『怪談蛇女』(1968年※10のここ参照))を監督している(翌年宮園純子主演『妖艶毒婦伝』シリーズの2作品『妖艶毒婦伝人斬りお勝』(1969年妖艶毒婦伝お勝兇状旅』(1969年※10のも監督している)。
また、中川信夫が77歳の喜寿を迎えた年である1982(昭和57)年9月公開の『怪異談 生きてゐる小平次』は、日本アート・シアター・ギルド(ATG)の「1千万円映画」の1本として製作されたもの。
原作は鈴木泉三郎の同名戯曲である。この原作は、幽霊役で名を馳せた役者が殺されて幽霊となる小幡小平次の怪談話をアレンジし、「殺したと思ったのに何度でも生きて舞い戻ってくる」というシュールな味わいを持っている。歌舞伎では今もたびたび公演される定番の芝居のひとつであり、第二次世界大戦後の1957(昭和32)年には、青柳信雄監督、二代目中村扇雀芥川比呂志八千草薫主演による『生きている小平次』がすでに東宝で映画化されており、本作は、2度目の映画化である。
二代目中村扇雀が演じていた小幡小平次(役者)役は、:藤間文彦藤間勘十郎夫妻の長男)が、太九郎(囃子方)役は、石橋正次が、おちか(太九郎の女房)役は宮下順子が演じている。
中川はこの作品を遺作として、2年後の1984(昭和59)年に死去した。
中川の監督した怪奇・怪談映画は新東宝時代の6作品と当作品で計7本しか見当たらないが・・・。本人が8本というのなら、鈴木健介が言っているように1949(昭和24)年9月公開の『エノケンのとび助冒険旅行』を加えるのか、また、東宝へ来る前の東宝時代の1956(昭和31)年公開の『吸血蛾』・・・かな?
『吸血蛾』は、横溝正史原作(小国英雄+西島大脚本)の金田一(耕助) ものの一つで、本作での金田一役は二枚目俳優池部良が演じており、コートや背広姿で、金田一というよりも、ハンフリー・ボガード演ずるハードボイルド探偵のようなイメージの主人公が狼男と対決するという、中川信夫監督のエログロ満載映画で、東宝というより、何だか新東宝みたいな雰囲気の映画だというから・・・(※10のここ参照)。当時の東宝らしく出演者は非常に多彩で、金田一耕助 役の池部良など下の方に列挙されている(Movie Walker 参照)。


上掲は、『吸血蛾』ポスター。
それとも、新東宝時代のヤコペッティ監督による1962年公開のイタリア映画『世界残酷物語』をヒントにした小森白、高橋典と共同監督したドキュメンタリー映画『日本残酷物語』(1963年公開)かな・・・。内容は日本の風俗、自然現象、社会問題、食生活、性風俗といった当時の日本の残酷世界を見せてくれるモンド映画らしい・・・が。
他にフリーになってからは、「怪談映画の巨匠」として名が売れていたからであろう、多くの怪談物を手掛けている。(テレビドラマ参照)。

酒豪として知られる中川の詩集『業』所載の詩『死酒(しにざけ)』には、以下のように記されている。

おれが
「死んだら
おれの 死顔(しにがお)の上に
一升の酒を
ぶっかけろ
けちけちせずに
一升ぶっかけろ
一級酒がいい
特級酒はいやだよ
二級酒もごめんだ

中川信夫生誕102(トーフ)記念番組(1905年生まれなので+102で2007年の番組)のドキュメンタリー『映画と酒と豆腐と ~中川信夫、監督として 人間として』(国際放映製作),では、この詩を「特級酒のような高級世界は窮屈だし、二級酒のような苦しい生活も実体験から拒否をした。ごく普通の世界で生きたいという願望」と解釈している。中川信夫の長男の中川信吉は毎年、正月か命日が近くなると父の墓参に訪れ、酒と豆腐ともうひとつの好物だったというアンパンを中川の墓前に供えることもあるという。また、この詩を読んだと思われる墓参者が、たびたび墓を訪れては、一級酒を供えたり墓石にかけたりしているという。

(冒頭の画像は、中川信夫監督映画、「東海道 四谷怪談」(1959年公開、新東宝映画、主演:天地茂)画像はWikipediaより。)



「酒豆忌」「怪談映画の巨匠」中川信夫(映画監督)忌日(参考)へ

五月雨忌(村下孝蔵の忌日)、ヒット曲「初恋」に因み『恋』について

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今日6月24日は『五月雨忌』。歌手・村下孝蔵の1999(平成11)年の忌日。
Wikipedia によれば、村下孝蔵は、1953(昭和28)年2月28日、熊本県水俣市の生まれ。子供の頃、ロカビリーに夢中になっていた。ベンチャーズに憧れ、12歳の時映画『エレキの若大将』(1965年公開)で加山雄三の『夜空の星』を聴いたことをきっかけに「ボクも作曲する。歌う。エレキギターも持つ」と言うようになったという。
当時東宝の若手看板スターとして大活躍していた加山の娯楽映画『若大将シリーズ』の一つ『エレキの若大将』では、加山の代表曲である『君といつまでも』(歌詞J-Lyric.netのここ参照)と『夜空の星』(歌詞J-Lyric.netのここ参照)の2曲が挿入歌として歌われていた。いずれも、作詞は岩谷時子で、作曲は弾厚作(加山自身の作曲家としてのペンネーム)である。
いずれも『恋』の歌であり、映画では、『君といつまでも』は戦場ヶ原で若大将の雄一(加山)と恋人役の澄子(星由里子)がデュエットするシーンで歌われ、『夜空の星』は、エレキ合戦のシーンと日光でのシーンに使用されていた。
どちらの曲も大ヒットしたが、当時としては、ちょっと恰好良すぎてキザにも感じられたが加山のような良い男が照れながら言っているから良いのだろうが、「幸せだなァ・・・」の有名なセリフで知られる、『君といつまでも』は350万枚の大ヒットになり、1966(昭和41)年の第8回日本レコード大賞の大本命とされていたのだが、結局大賞は同曲に比べ売り上げ面で劣る橋幸夫の『霧氷』が受賞することとなり、「君といつまでも」は特別賞に留まった。当時それまで、格好良い男性としては石原裕次郎などがいたが、タフガイの石原などとは全くタイプの違う清々しい感じの若大将・加山だからこそ似合う恋の歌という感じである。当時としてはモダンすぎた。まだまだ、橋幸夫や舟木一夫の歌が大もての時代であった。

高校を卒業した村下は得意の水泳で実業団・新日本製鐵八幡製鐵所入社するが9月には、退職し、当時父親が東洋工業に転職して広島市に転居したのを機に、自身も広島へ移り、1972(昭和47)年、日本デザイナー学院広島校インテリアデザイン科へ入学。友達がいなかった村下は、平和公園で一人でギターを弾くことが多かったという。
『エレキの若大将』に憧れ、ベンチャーズに心酔していた村下が、広島でエレキ・ギターフォークギターに持ち替え、曲作りを始めた理由は、当時の広島は吉田拓郎のコピーをやる人が多く、フォークギターを持たなければ仲間が作れなかったためであったという。
日本デザイナー学院卒業後ヤマハ広島店に就職し、2年間、ピアノ購入契約で実績を挙げ、1975(昭和50)年からはピアノ調律師として勤務する傍ら、ホテルのラウンジで弾き語りのアルバイト等で地道に音楽活動を継続.1979(昭和54)年、26歳の時、ヤマハを退社し自主制作レコード『それぞれの風』を発表。これが地元テレビのディレクターに認められたのがプロとしてデビューするきっかけとなったようだ。
同じ頃、知人のライブハウス店主から勧められ、当時のCBSソニー(現在のソニー・ミュージックエンタテインメント)の全国オーディション(第1回CBS・ソニーオーディション)に応募し、グランプリを獲得。これがきっかけとなって27歳にしてシングル『月あかり』でプロ歌手としてデビューすることになったという。
その後、『春雨』(1981年)、『ゆうこ』(1982年)を発売、そして、1983(昭和58)年、30歳にして発表した5枚目のシングル『初恋』が、オリコンチャートで最高3位を記録する大ヒットとなった(※1参照)。
『初恋』は村下がバラードとして作ったものを編曲家の水谷公生がテンポを上げてポップ系に編曲し、村下がそれを受け入れたことで完成をみた楽曲であったという。
『初恋』発売の前後に村下は肝炎を患い、『初恋 』がヒットしてもテレビ番組にはほとんど出演できなかった。また、肝炎が原因で広島と東京の往復が出来なくなり、1984(昭和59)年末には生活の拠点を東京に移し、同年秋から全国ツアーを開始したが、翌1985(昭和60)年に再び体調が悪化し、入退院を繰り返していたようだ。
その後、1989(昭和64.平成元)年、『陽だまり』、アルバム『野菊よ 僕は…』を、1992(平成4)年シングル『ロマンスカー』を発売するが芳しくはなく、この時期の村下は試行錯誤の末、「自分には"初恋"を越える曲はできんかもしれん」「時代は追いかけるものではなく、巡りくるもの。向こうからやってくるのよ」という境地に至っていたという。
1999(平成11)年6月20日、駒込のスタジオでコンサートのリハーサル中に突然体調不良を訴え、入院。診察で「高血圧性脳内出血」と判明した直後、意識不明の昏睡状態に陥り、僅か4日後の6月24日に死去したという。<享年46歳>。
命日である6月24日は、ヒット曲『初恋』のワンフレーズより、五月雨 (さみだれ。梅雨)の時期であることから「五月雨忌」と呼ばれ、10年以上経過した今でもメモリアルイベントが開催されているそうだ。また、村下の死去から14年を経た2013(平成25)年、故郷水俣市の商店街『ふれあい一番街』に「初恋」の歌碑が建立され、商店街ストリートの名称もこれにちなみ『初恋通り』と改名されたという。
ただ、正直私は村下のことは余り良く知らないのでこれ以上彼自身のことを書く材料がない。従って、今日の「五月雨忌」が彼の最大のヒット曲『初恋』から名付けられたものと言うので巨はそのことに因み、『恋』をテーに書くことにする。まずはそのヒット曲を聞くことから始めよう。


上掲は、村下孝蔵のヒット曲 『初恋』。歌詞は、以下を参照されるとよい。
村下孝蔵 初恋 歌詞- J=Lyric.net

五月雨は緑色
悲しくさせたよ一人の午後は
恋をして寂しくて
届かぬ想いを暖めていた
好きだよと言えずに初恋は

・・・と続く『初恋』の歌の冒頭の歌詞「五月雨は緑色」。どんよりとした梅雨時の景色から、この時期の色としては、はなんとなく薄いグレーを思い浮かばせたりするかもしれないが・・・・。
卯の花月(卯の花の咲く月の意。旧暦4月の 異称)に取って代わる五月雨(旧暦5月に降る雨)は、「卯の花腐(くだ)し」とも呼ばれる。そんな露雨(つゆあめ=梅雨)によってこそ「新鮮な若葉」が映えて来るのだとすると、「五月雨」にふさわしい色は「緑色」と言えるのかも知れない。
そんな梅雨時に一人でいると何となく悲しくて、そして、特に恋をしていると淋(さび)しくもなるものだろう。
【淋】という字にはもともとは「さびしい」という意味はない。元来は水が注いだり、したたるさま、さらに転じて長雨のことを指すようになった(ニコニコ大百科参照)。【淋】を「さびしい」意味に用いるのは日本独特の用法で、おそらくは淋雨(梅雨などの長雨)に降り込まれて行き場のない侘(わび)しさから連想したものだろうといわれている。
「好きだよと言えずに初恋は…」と、青春の甘酸っぱさが曲全体に広がるこの『、初恋』の歌。「30にもなって何を青臭い歌を歌っているんだと思うかもしれないが、今だからこそ歌える歌でもある。中学生の頃の感覚を残しておきたいんです」・・・と村下は言っているそうだ。
歌詞は村下の実体験に基づいたもので、熊本の中学時代、テニス部の女の子を好きになった。放課後の校庭をラケットを握りながら、走り回る可憐な少女。それを校舎の窓から見る孝蔵少年。「好きだよ」のひと言が言えないまま、彼女は転校してしまった。その面影がいつまでたっても忘れられない…。・・・のだと。
この曲、梅雨時の6月に有線放送やラジオのヒットチャート上位に入り、レコード売り上げもアップしたが、切ないフォーク調の歌は、レコードを普段あまり買わない中高年にも支持されたという(※1参照)。
叶わなかった初恋の苦い経験は私にもあるが、それは誰にでもあるのではないか。梅雨時に、バーで独り侘しく飲んでいる時などに有線でこのような歌を聞いていると、いい年したおっさんも若い時のことを思い出して、ちよっとおせんち(sentimental)になったりするものだ。

“初恋”といえば前にも、このブログ10月30日「初恋の日」でも書いたのだが、島崎藤村が『文学界』(1896年)に発表した『初恋』というタイトルの詩を思い出した。この詩を収めた処女詩集『若菜集』(※2「青空文庫」の藤村詩抄参照)は翌1897(明治30)年8月に刊行されている。藤村のこの詩は日本の近代詩を代表する傑作と言われており、多くの人が一度は、中学か高校生の頃に読んでいるのではないだろうか。

まだあげ初めし 前髪の 林檎のもとに 見えしとき
前にさしたる 花櫛の 花ある君と 思いけり

やさしく白き 手をのべて 林檎をわれに あたへしは
薄紅の 秋の実に 人こひ初めし はじめなり

わがこころなき ためいきの その髪の毛に かゝるとき
たのしき恋の 盃を 君が情に 酌みしかな

林檎畑の 樹の下に おのづからなる 細道は
誰がふみそめし かたみぞと 問いたまふこそ こひしけれ

藤村の「初恋」の詩に、若松 甲が曲をつけ、歌手・舟木一夫により歌われた同名の歌『初恋』がある。NHK紅白歌合戦(1969=昭和44年第20回)でも歌われていた。「初恋」は七五調のリズムで書かれていて日本人には馴染みやすい歌だ。「初恋」の詩は4番まであるが、歌では4番は歌われていない。


上掲は、舟木一夫 初恋(昭和46年)
「まだあげそめし前髪」は、「髪をあげてまだ日がたたない少女の前髪」のことであり、髪をあげるとは明治時代では、少女が12、3歳頃になると、肉体的な成熟を迎えたとして、大人になった印に、それまでの振り分け髪(今で云う「おかっぱ」)から(まげ)を結い髪形を変えた。
藤村の『初恋』は、単に初々しい恋を詠った作品というよりは、そんな成人を迎え、大人の仲間入りをした女性に、あこがれと淡いエロスを感じている少年の姿を描いた、つまり、この初恋は「禁断の恋」であったようだ(詳しくは、上記の私のブログ「初恋の日」また※3参照)。

「恋をしましょう 恋をして
浮いた浮いたで 暮らしましょ
熱い涙も 流しましょ
昔の人は 言いました
恋はするほど 艶がでる(繰り返し)

・・・と詠ったのは、演歌歌手畠山みどりの『恋は神代の昔から』(作詞:星野哲郎 作曲:市川昭介)。


上掲は、恋は神代の昔から 畠山みどり (1978)
1960(昭和35)年、素人のど自慢番組『トップライトショウ』(ニッポン放送)で優勝したことでレコード会社の関係者の目に入り、日本コロムビアに入社。入社後1年4ヶ月間、船村徹の下でレッスンに通う傍ら、島倉千代子などコロムビアの看板歌手の前座を努めた後、1962(昭和37)年にこの曲でデビューした。扇片手に袴姿という奇抜さもあいまって、畠山の名は一躍、全国に知れ渡ることとなった。
村下が、加山の『夜空の星』を聞いた3年前のこと。歌のタイトルじゃないけれど、“恋は神代の昔から”・・・とはよく言ったもの。
【恋】とは、一般には、特定の異性に強く惹(ひ)かれ,会いたい,ひとりじめにしたい,一緒になりたいと思う気持ち(大辞林 第三版)。また、切ないまでに深く思いを寄せること。恋愛(デジタル大辞泉)。…と解説されている。
「恋に上下の隔てなし」と云うことわざもある。つまり、恋をするのに、家柄(家系や地位)や、貧しさ、豊かさなどの、区別はなく、 お互いの心に、思い抱く気持ちしだいであるということ(「恋に上下の差別なし」とも)。老若男女を問わず昔から誰もが“恋をし、心をときめかせ、また、それが実らず悩んだりしてきたものだ。
現存する日本最古の歌集『万葉集』には、数々の恋の歌がある。その恋・愛の形はさまざまで、その時代を生きた 人たちの心を知る事ができるとともに、今の私たちの気持ちと何ら変わることのない恋の 喜びや苦しみを共有することができる。日本語の中にまだ仮名と呼ばれるものができる前に書かれたもので、 原文は全部漢字で書かれているが、ここでは現代語訳文で大伴坂上郎女の歌を2~3紹介しておこう。訳文等は、※4:「やまとうた」の千人万首:大伴坂上郎女を参照)、
坂上郎女は、大伴安麻呂石川内命婦の間の子。稲公の姉。大伴旅人の異母妹。家持の叔母、姑でもある。
額田王以後最大の女性歌人であり、『万葉集』には、長歌・短歌合わせて84首が収録されており、女性歌人としては最多入集であり、全体でも家持・人麻呂に次ぐ第三位の数にあたる。

我あれのみぞ君には恋ふる我が背子が恋ふと言ふことは言ことのなぐさぞ(万4-656)
【通釈】私の方が一方的にあなたに恋しているのです。あなたが恋していると言うのは、口先だけの慰めなのですよ。

思へどもしるしも無しと知るものを何かここだく我あが恋ひ渡る(万4-658)
【通釈】いくら恋しく思っても、何の甲斐もないと知っているのに、どうしてこれ程私はずっと恋し続けているのだろう。
やるせないね~、片思いの苦しさがよく伝わってくる歌だ。

黒髪に白髪しろかみ交じり老ゆるまでかかる恋にはいまだ逢はなくに(万4-563)
【通釈】黒髪に白髪が混じって、これほど年寄るまで、こんな恋にはまだ出逢ったことはありませんことよ。
【補記】この歌は、天平元年から二年頃の作と推測され、郎女は30歳前後。この時代の結婚年齢は、 一般的に男性が17~8歳前後で、女性は13歳くらいで結婚していたと言うから、30歳と云えば、おばあちゃん扱いされる年代。
例え女性でも、おばあちゃんと云われる年代になっても、色恋だけは、なくならないもの。いや、相手にされないと思うと余計に恋しさはつのるのかもしれない。これは、男性であっても同じことだろう。
『万葉集』の多くはじつは恋愛の歌である。以下参考※5「たのしい万葉集」では、そんな“恋の歌”を分類し、まとめている。どんな歌があるか興味のある人は覗いてみるとよい。今の私たちの気持ちと何ら変わることのない恋の喜びや苦しみを共有することができるだろう。

たのしい万葉集:恋の歌

○ある一人の人間のそばにいると、他の人間の存在などまったく問題でなくなることがある。それが恋というものである。
ツルゲーネフ(ロシアの小説家 / 1818~1883)

○誠の恋をするものは、みな一目で恋をする。
シェイクスピア(英国の劇作家、詩人 / 1564~1616)

○わたし、おりこうな女になんてなりたくないわ。だって、恋に落ちたんですもの。
リリアン・ヘルマン(米国の脚本家 / 1905~1984)

○恋をして、しかも賢くあることは不可能だ。
フランシス・べーコン(英国の哲学者、神学者、法学者 / 1561~1626)

○我々は恋をすると、現在はっきりと信じているものまでも、疑うようになるということが、しばしばあるものである。
ラ・ロシュフコー(フランスの貴族、モラリスト文学者 / 1613~1680)

○真の恋の兆候は、男においては臆病さに、女は大胆さにある。
ヴィクトル・ユーゴー(フランスのロマン主義の詩人、小説家 / 1802~1885)

○恋は全て初恋です。相手が違うからです。
中谷彰宏(日本の作家、俳優 / 1959~)

昔から、恋にまつわる名言は無数に存在する。先に挙げた名言は、以下参考の※6:「e恋愛名言集」にあるものを引用させてもらった。
日本では、
「恋は盲目」(恋は常識や理性を失わせてしまう,の意。)
『恋は思案の外』(恋は常識や理性では割り切れないものだ。)
『恋は闇』(恋は人の理性を失わせるということのたとえ。また、恋の逢瀬(おうせ)には暗闇が好都合の意にも用いる。)
なんて言葉があるように胸を焦がすような恋に落ちると、人は冷静ではいられなくなる。恋は昔から、人の心を掻き乱し、周りを見えなくさせて、常識や理性を失わせて判断力を狂わせてしまう・・・。これは、誰でも一度は経験があるのではないですか?
最新の科学研究では、どうやらこれらのことが本当あることが明らかになっているのだという。
人は恋に落ちると脳内麻薬といわれる脳の中で分泌されるホルモン”ドーパミン”(快楽ホルモン)が放出され、脳が快感を感じ、これが、→全身に興奮が伝わり、鼓動が早まって胸がドキドキする→恋愛特有の症状が起こる。・・・ことにつながっているのだと言う。つまり、このようなのメカニズムが関係しているのだそうだ(※7、※8参照)。
そして、男女の結び付きに重要となるドーパミンを意図的に増やことは可能なのだという。ええ・・・!ドーパミンを増やすことができるの?・・・ちょっと気になりませんか。そんな人は、参考※8を参照されるとよい。
ただ, 脳科学的な側面からは、恋がもたらす人体の影響についてわかり始めているが、恋愛に関する心理学の専門家は「恋の感情が雪だるま式に暴走した結果、ストーカー行為を生じることもあるが、残念ながらその原因を突き止めるにはいたっていないらしい(※7参照)。
ストーカー行為にまで行くのは別として、恋に燃えてしまうほど、相手しか見えなくなり、それ以外が見えなくなってしまうことはよくある。好きであるほど、相手一点に集中しすぎてしまうために、脳内バランスが悪くなってしまうのだが、恋に燃えている本人には、「それがなぜ悪い」と分からなくなってしまう。そのため気づかないうちに、友人関係、家族関係、勉強や仕事に集中ができなくなり、学業にも専念できなくなってしまったりする。このようなことは結婚前のまだ若いときであれば、「若気の至り」で許されもするが、結婚後では痛みが大きい。そのため、「恋は盲目」という恥ずかしい経験は、できれば早いうちに経験しておいた方が良いのだろう。
人生80年の時代、健康で長生きするのには、老いても恋心はなくしたくないが、えてして、「老いらくの恋」は行き着くところまで行ってしまうこともある。なかなかうまくゆかないものだが、恋をしたい人は、恋愛にかんする心理学的なものをまとめたブログもあるので、興味があれば、以下参考の※9や10など参照されるとよいだろう。

冒頭の画像は村下孝蔵の CD『初恋~浅き夢みし』ジャケット。絵は村上保の切り紙絵。

参考:
※1:365日 あの頃ヒット曲ランキング 【1983年6月】初恋/村下孝蔵
http://www.sponichi.co.jp/entertainment/yomimono/music/anokoro/06/kiji/K20110624001067080.html
※2:青空文庫/作家別作品リスト:島崎 藤村
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person158.html
※3:誤解される初恋・・
http://poemculture.main.jp/touson01.html
※4:やまとうた
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/index.html
※5たのしい万葉集
http://www6.airnet.ne.jp/manyo/main/index.html
※6:e恋愛名言集
http://rennai-meigen.com/koi/
※7:「恋は盲目」「恋は麻薬」は本当だった! 最新研究で恋がおよぼす影響が明らかに
http://rocketnews24.com/2012/11/19/266596/
※8:蓮香先生の「恋愛」クリニック
http://www.sunmarie.com/msn_renka/index18.html
※9:心理学:恋愛心理(ガールズ)- NAVER まとめ
http://matome.naver.jp/topic/1M63K
※10:恋愛初心者のための30の基本基本 | HappyLifeStyle 
https://happylifestyle.com/2865
村下孝蔵-Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%91%E4%B8%8B%E5%AD%9D%E8%94%B5

国民安全の日

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無病息災を祈る「夏越の祓」の翌日が7月1日。
日本の民間行事としての大祓の一つである。
もっとも、「夏越の祓」は夏越節供,水無月(みなづき)祓とも呼ばれ、旧暦6月晦日(みそか)をいい、この日は一年の前半の最後の日、一年の折り返しとなる日であり、「なごし」という言葉は神意を和らげる、「和す(なごす)」が由来だと考えられており、大晦日の「年越の祓」とともに新しい季節に入る物忌(ものいみ)の日とされていた。『拾遺和歌集』に「題しらず」「よみ人知らず」として、「水無月のなごしの祓する人はちとせの命のぶというふなり」という歌にも見える。
夏に挙行される意味として、衣服を毎日洗濯する習慣や自由に使える水が少なかった時代、半年に一度、雑菌の繁殖し易い夏を前に新しい物に替える事で、残りの半年を疫病を予防して健康に過ごすようにする意味があったのではと考えられている。またこの時期は多くの地域で梅雨の時期にあたり、祭礼が終わると梅雨明けから猛暑と旱(ひでり)を迎えることになるが、この過酷な時期を乗り越えるための戒めでもあった。
6月の晦日は、大阪市住吉大社の夏越祭(※1参照)が有名で、今は7月31日に行われている。「夏越の祓」のことは以前このブログでも書いたのでここを見てください。

前口上が長くなったが、旧暦ではなく新暦の7月1日は「国民安全の日」である。
産業災害(労働災害)、交通事故火災等に対する国民の安全意識の高揚等の国民運動展開のために、1960(昭和35)年5月の閣議で制定され、総理府(現在の内閣府)が実施している(※2参照)。実施日は毎年7月1日。これは産業災害防止対策審議会(1959年(昭和34年)設置 - 1967年(昭和42年)廃止)の答申が概ね毎年7月1日となる ことから設定された模様(※3参照)。
制定の趣旨は、国民の一人一人がその生活のあらゆる面において、施設や行動の安全について反省を加え、その安全確保に留意し、これを習慣化する気運を高め、産業災害、交通事故、火災等国民の日常生活の安全をおびやかす災害の発生の防止をはかるために創設されたものである。
内閣府では、産業安全、交通安全、火災予防、学校安全等の安全運動の総合的見地から一段と推進し、国民の安全に関する認識の向上と各種安全運動の連けいの強化をはかるものとして、次に掲げる事項を実施するものとしている。
1) 関係行政機関及び関係団体においては、相互に連絡協調し、職域、学校、家庭及び地域社会を中心に、その環境に即した安全思想の普及徹底に有効な広報活動を行うこと。
2) 安全思想の普及徹底、安全水準の向上に顕著な功績のあった個人又は団体を内閣総理大臣又は関係各大臣が表彰すること。
3) 国民のすべてが安全な生活環境の醸成のため、生活環境の自主的な安全点検その他「国民安全の日」にふさわしい活動をするよう勧奨すること。
なお、地方公共団体においても、「国民安全の日」の趣旨にかんがみて、適切な措置が行われるようその協力を求めるものとする。

さて創設など過去の歴史を探ってみよう。
日本が今日直面している産業安全問題は、18世紀半ばから19世紀にかけて英国で始まった産業革命によってもたらされた。
当時の産業活動に伴う危険に対峙したのは、綿紡績(綿糸紡績,綿紡ともいう)工場で機械を操作する女工や機械のエネルギー源である石炭・鉄鋼石を採掘する鉱山での坑夫たちであった。つまり、工場や鉱山などの産業革命を担う生産現場での危険源に直接係わった人々が災害の対象であり、今日でも続いている労働災害の皮切りとなったものである。その後、産業の拡大とともに大規模爆発災害や水質汚濁,大気汚染など、産業活動に付随する影響がたんに工場などの生産現場内に留まらず、工場外での住民や環境にも影響を及ぼすいわゆる「公害」が出現し、その対応に追われてきたところであるが、今日では、地球温暖化による地球規模での環境問題や各種の環境ホルモン(内分泌攪乱物質)による次々世代の生物への影響問題などが出現し、産業活動に伴う影響は空間的拡大と時間的深化をみせている。
我が国で本格的な産業革命(日本の産業革命)が導入されたのは、明治開国(明治2年=1869年)後に富国強兵殖産興業が国家政策として採用されて以降のことであるが、欧米に比べ100 年近く遅れて始まったこの日本の産業革命は、産業部門ごとの発展が不均等であり、部門の間のつながりも不十分であった。
農業部門では大規模農場へ発展するものがまったくなく、商品貨幣経済に巻き込まれて競争に敗れ土地を失った農民たちは、高い現物小作料を払って地主から土地を借り、小規模生産を続けた。小作農家の生活は苦しかったため、娘たちの多くは繊維工場へ出かけて安い賃金で働かなければならなかった。小作農からさらに転落した者は、近くの都市などで仕事にありつけない限り、炭鉱や金属鉱山へ流れ込んで地底での重労働に従事した。
産業革命が終了したころの資本主義的生産の状態は、繊維工業と鉱山業に500人以上の大規模作業場が数多くみられ、賃金労働者(職工・鉱夫)も両分野に集中していた(表1)。
日本産業革命を代表する繊維工業部門は綿糸紡績業であった。渋沢栄一らが設立した大阪紡績(後の東洋紡績の前身。現:東洋紡)が、最新式の輸入機械と安い輸入綿花(綿の種子についた実綿 [みわた],または,それから生産された繊維 [ リント])を使い、女工を昼夜二交替で働かせて高利益をあげたのに刺激されて、1880年代後半に大阪、東京、名古屋などの大都市商人が出資する大規模紡績が続々と設立された。
1897(明治30)年に国産の機械制綿糸の輸出量が輸入量を上回り、輸入インド綿糸を国内市場から駆逐しただけではなく、中国・朝鮮へと輸出され、1913(大正2)年には中国市場においてインド糸輸入量を超えるまでになる。しかし、昼夜二交替制労働は女工の体重を減少させ結核患者を多発させたため、1911(明治44)年制定の工場法(施行は、1916年)において、女工の夜業禁止が定められた(ただし同法施行から15年間の適用猶予付き)。
また、養蚕農家がつくったを原料として生糸()を製造する製糸業は、最大の輸出産業として多額の外貨を稼いだ。昨・2014(平成26)年世界遺産に登録された富岡製糸場のフランス式鉄製繰糸機(※4参照)などをモデルに軽便かつ安価な木製繰糸機がつくられ、1870年代後半から長野・山梨・岐阜などの農村にたくさんの器械製糸場が設立された。
製糸家は輸出港横浜の生糸売込問屋や地方銀行から借金して原料繭を仕入れ、出稼ぎ女工を長時間働かせて生糸を生産した。女工の賃金は、工場内の全女工の賃金総額を固定したまま彼女らの繰糸成績によって分配されるという等級賃金制であったため、女工は長時間にわたって緊張した仕事を続けねばならず、しかも能率上昇の成果は全体として製糸家のものとなったようだ。製糸業の中心地長野県諏訪では、製糸家が同盟して女工の登録制度をつくり工場間の移動を禁止したので、彼女らは厳しい労働条件を耐えなければならなかった。
一方鉱山業の石炭と銅は当時の重要な輸出品であった。1890年代から諸鉱山の主要坑道に巻揚機械が導入されたが、切羽(きりは)での採掘と主要坑道までの運搬は手労働であり、地底での労働はたいへん厳しかった。筑豊の炭鉱では夫婦が仕事の単位となり、夫が狭い切羽で掘り出した石炭を妻が竹籠に入れて炭車まで引きずってゆく姿がみられた(労働基準法 第64条の2の女子坑内労働禁止は1933年)ようだ。こうした危険な重労働に従事する労働者を集め、彼らの生活を会社にかわって管理したのが、納屋頭(なやがしら。納屋制度参照)とか飯場頭(はんばがしら。飯場制度参照)とよばれる人々である。金属鉱山では鉱毒水や亜硫酸ガス(二酸化硫黄)による鉱害がかならずといってよいほど発生し、周辺住民との間にトラブルを生んだ。
鉱夫の酷使に支えられ、周辺住民へ鉱害を及ぼしながら、鉱山経営は大きな利益をもたらしたため、三井三菱住友古河(ふるかわ)などの大財閥の最大の蓄積基盤となった。
このように、明治初期に産業の近代化を担った繊維産業や石炭・鉄鋼石などを採掘する鉱業は、やがて日清 (1904年=明治37年2月8日 - 1905年=明治38年9月5日)・日露戦争(1904年=明治37年2月8日 - 1905年=明治38年9月5日)を経て重工業化が進むが、急速な近代化の下で、産業安全運動が展開されるまでにはかなりの時間を要した。
細井和喜蔵著『女工哀史』(※5参照)は、当時の紡績工場で働く女性労働者の生活を克明に記録したルポルタージュであり、自身の機械工としての経験と、妻としをの紡績工場での労働経験をもとに書かれたものである。また、『虞美人草』についで夏目漱石が職業作家として書いた二作目の作品(長編小説)『坑夫』(※6:「青空文庫」参照)があるが、これは、ある日突然、漱石のもとにあらわれた一人の青年(工夫)の悲惨な経験を素材とした、やはりルポルタージュ的な作品である。当時の女工や工夫の過酷な労働環境を窺い知ることができる。

我が国で産業安全運動が導入されたのは,明治末に古河鉱業会社(現:古河機械金属)足尾鉱業所、通称足尾銅山(現:栃木県日光市)と呼ばれる事業所で展開された「安全専一」運動が始まりだそうである。
足尾銅山は、当時の明治政府の>富国強兵政策を背景に20世紀初頭には日本の銅産出量の40%ほどの生産を上げる大銅山に成長した。しかしこの鉱山開発と製錬事業の発展は、足尾山地の樹木が、坑木・燃料のために伐採され、掘り出した鉱石を製錬工場から排出される大気汚染による環境汚染を引き起こした。荒廃した山地を水源とする渡良瀬川は洪水を頻発し、製錬による廃棄物を流し、足尾山地を流れくだった流域の平地に流れ込み、水質・土壌汚染をもたらし、広範囲な環境汚染を引き起こした。いわゆる、足尾鉱毒事件である。田中正造による国会(帝国議会)での発言で大きな政治問題となったのはよく知られている。1890年代より鉱毒予防工事や渡良瀬川の改修工事は行われたものの、鉱害よりも銅の生産を優先し、技術的に未熟なこともあって、鉱毒被害は収まらなかった。

●上掲は1895年頃の足尾鉱山

そんな足尾鉱毒事件が問題になったころ、「安全専一」運動を導入するに当たって指導的な役割を果たしたのが、当時足尾銅山所長であった小田川全之(おだがわ・まさゆき。)であったという。
小田川は、1883(明治16)年工部大学校土木工学科(現東京大学工学部)を卒業後、群馬県,東京府の土木工事や民間鉄道工事等に従事したのち、1890(明治23)年に古河家に入っている。当時の古河家は後年古賀財閥を創設する古河市兵衛が、東京に古河本店を開設し、渋沢栄一らの資金援助で、足尾銅山を中心とする多くの鉱山経営に取り組んでいた。
小田川が古河家に入社した1890(明治23)年は、先に書いた栃木県の名主の家に生まれたという田中正造(当時栃木県会議長)が、第1回衆議院議員総選挙に栃木3区から出馬し、初当選した年であり、この年には栃木県の渡良瀬川で大洪水を起しし同家の主力鉱山である、足尾銅山から流れ出した鉱毒によって稲が立ち枯れる現象が流域各地で確認され騒ぎとなっていた年である。
そして、田中は、翌・1891(明治24)年には、鉱毒の害を視察し、第2回衆議院議会で鉱毒問題に関する質問を行っている。その後彼は、10年間、帝国議会に質問書を出し続けるが明治政府はこれを無視し続けた。
そのような中、古河家に入社した小田川は、足尾銅山での土木工事や鉱毒対策に取り組む。鉱毒対策では最新技術の導入を図るとともに,1897(明治30)年には農商務省から同銅山への第三回鉱毒予防工事命令に対して、180 日間の期限内に排水濾過池・沈殿池や採鉱堆積場の築造、煙突への脱硫(有害作用を持つ硫黄分を除去する)装置の設置等の難工事を成し遂げ、鉱毒の河川流入や拡散防止対策の中心的役割を担ったという。いわば、現在では常識的で、創業前には当然完備させている公害防止設備を足尾銅山では、小田川によって初めてなされたということである。
翌1898(明治31)年、その功績が認められ、銅鉱山の工作課長に就任。1903(明治36)年には古河本店理事に就任。
そして、翌1904(明治37)年には古河家3代目当主となる寅之助のアメリカ留学に随行し、1907(明治40) 年まで米国に滞在し、その間に、採鉱・精錬技術の調査を進め、これら最新技術とともに持ち帰ったのが当時米国で「Safety First」と呼ばれ広がりをみせていた安全の理念とその実践思想であった。
「Safety First」とは、米国最大の鉄鋼会社であったUS スティール社が1906(明治39)年にゲーリ工場を建設し操業を開始する際に「安全第一、品質第二、生産第三」をスローガンとして掲げ、工場設計,建設施工、設備搬入、レイアウト、据え付け・運転に至るまでの過程を安全第一主義の下に実施したところ、災害が激減するとともに生産効率も大幅に改善されたことが評判となり多方面に影響を与えた実践運動であった。
小田川は1911(明治44) 年に足尾銅山所長を兼務し、翌年から「Safety First」を「安全専一」と翻訳し、同文の琺瑯(ほうろう)製の標識を坑内作業所に掲げ、1913(大正2)年から同事業所所内報である『鑛夫之友』を刊行し,同誌に作業安全を喚起するための講話を掲載するとともに、1915(大正4) 年には安全心得読本を作成し作業員全員に持たせるなど、文字通り事業場での安全確保のための先駆的活動を展開したという。
ただ、「安全専一」活動は、鉱山の外部に普及したり、この運動に社会運動として取り組んだわけではなく、足尾銅山内に限定されたものであったが、”産業安全”という普遍的な価値を実現するための先駆けとなった運動ではあった。
足尾銅山は、日本の公害問題の原点と呼ばれ、産業近代化技術によってもたらされた負の遺産の象徴的な場所となっているが、同時に産業安全運動の出発点ともなった地でもあったようだ(※8参照)。

小田川によって掲げられた産業安全運動の灯火は大正時代に入り次の世代に引き継がれた。産業安全運動に関する次世代の代表格の一人が蒲生俊文(がもう・としぶみ。1883=明治16年生まれ)であった。
蒲生は、二高、東京帝国大学で学んだのち東京電気(現:東芝前身)の工場内に我が国で初めての事業所内安全委員会を組織し活動を展開するとともに「Safety First」を安全第一と訳し、広く同思想の啓蒙普及を図るために、逓信官僚の内田嘉吉らとともに「安全第一協会」を1917(大正6)年に設立(内田を会長、蒲生を理事として)。同協会の事業として、機関誌「安全第一」を通して広範な安全情報を提供するかたわら、2年後の1919(大正8)年には当時の、東京市で開催された安全週間の輪が年々広がり、1927(昭和2)年10月2日から一週間1道3府21県連合工場安全週間が開催されるようになった(※10参照)。
この連合安全週間は、この種の運動を広域的実施しようとする機運を盛り上げ11月には九州一円と山口県の連合安全デー、福島鉱山監督局管内での鉱山安全デー、12月には、海軍所属の全鉱山、専売局所属の全事業所での安全週間などが開催された。そして、翌年には、全国的に足並みを揃え実施されることになり。ここに、全国統一の「全国安全週間」が昭和3年10月2日~7日(昭和6年の第4回からは7月1日から7日)の間「一致協力して、けがや病気を追い拂ひませう」の標語(労働衛生を含めた運動であった様である)のもとに繰り広げられ、今日に至っているようだ。その際、産業安全のシンボルマーク・緑十字を定めるなど、産業安全運動を、足尾銅山の小田川のように、たんに事業所内での活動に留めず社会運動へと発展させた功績は大きい。


●上掲画像説明:1919(大正8)年、6月15日から1週間、東京市で初の「安全週間」が催され、運動本部や警視庁などが災害予防を呼びかけた。1928(昭和3)年からは、「全国安全週間」となり、全国的な活動になった。上段の写真は安全徽章の製作に追われる運動本部の夫人たち。下段は当時の安全週間のマーク。写真は雑誌『歴史写真』からのもの。画像は『朝日クロニクル週刊20世紀』1918-19年号23P掲載写真を借用した。

それまでの事業所における安全問題では、工場で災害が発生した場合など、被災者が一方的に解雇されたり、見舞金による示談で済まされたりするなど、事業所での安全責任は事業者と労働者との片務的な私的関係によって処理されていた。「安全第一協会」による活動の意義は、そのような状況下にあった安全責任の枠組みを、同協会の安全第一思想に基づく運動を通して、事業所での安全対策の必要性や災害補償制度の有用性を社会的に認知させることによって工場法により法制化された労働災害に対する予防措置や災害補償を、事業者責任(※9参照)として履行させることを促進したことにあるという。すなわち,生産活動に伴う安全の確保が国家・社会的管理の枠組みの下に取り組まれるための産業界の基盤整備を行った訳であるというのだが・・・。
又、東の足尾銅山の小田川全之、東京電気の蒲生俊文に対して、西で活躍したのが住友伸銅所(現:住友金属工業)の三村起一(1887=明治20年生まれ)である。一高,東京帝国大学で学んだのちに住友総本店に入社し,住友伸銅所にて安全運動を開始した。我が国での最初の労働立法である工場法が1916(大正5)年に施行された折から、工場内での安全活動を周囲の無理解と闘いながら率先垂範して展開していたという。1919(大正8)年には米国へ労務管理研修のために出かけ,帰国後は住友各社の重役を務めたのち、1941 (昭和16)年住友鉱業(現:住友金属鉱山)社長、同年住友本社理事を歴任し、戦後は経団連理事や産業災害防止対策審議会会長,さらに初代中央労働災害防止協会会長など枢要(物事の最も大切な所)なポストを務めたという。
三村と蒲生とが出会ったのは1917(大正6)年に三村が蒲生の工場を訪れたときだそうだが、その出会いは三村の一高以来の恩師新渡戸稲造の勧め、紹介によるものであったという。また小田川と蒲生との接触については,蒲生が「安全第一協会」を設立し安全第一運動を展開した折、小田川は同協会の賛助会員として参画するとともに、同協会設立総会での記念講演や機関誌へ投稿を行うなど、その活動に対して積極的な支援をしているという。
このように産業安全運動は、小田川や新渡戸らの明治期の近代化を担った世代と、蒲生や三村らの次の世代とが密接な関係を有しながら引き継がれていったようだ。
昭和に入り、1929(昭和4)年には工場法に基づく「工場危害予防及び衛生規則」(※11参照)が定められ,作業安全のための環境整備は進展するが、やがて戦時統制が強化される中で、産業安全運動も停滞を余儀なくされていった。そのような状況下にあった産業安全運動の中で忘れてはならない人物に。伊藤一郎(1888年=明治21年生まれ。※12の伊藤一郎先生のことl参照)がいると言う。
1911(明治44)年東京高等工業学校卒業後に同校助教授、東京工業大学講師を経て伊藤染工場の経営に参画し、1939(昭和14)年同工場を東洋紡績(現:東洋紡)に譲渡し、翌年その売却金50 万円を国に寄付し、「安全第一協会」を設立以来、多くの産業安全関係者の宿願であった産業安全研究所(※12)と産業安全参考館開設(1943=昭和18年。1954 =昭和29年には「産業安全博物館」と改称)の設立を願い出た人物だそうである(※12のここ参照)。

戦後、1947(昭和22)年に労働省(現:厚生労働省)が設立され、安全衛生行政が同省所管の下に執行されるとともに、労働基準法(昭和22年4月7日法律第49号)や労働者災害補償保険法(昭和22年4月7日法律第50号)、労働組合法(昭和24年6月1日法律第174号)などが成立し、労働条件を取り巻く環境と執行体制は大きく変わった。
そして戦後の復興を経て、1958(昭和33)年には、国としての「産業災害防止総合五カ年計画」が策定され。以降5年ごとに改訂され実施されている。また1972(昭和47) 年には労働安全衛生に関する基本法とも言うべき「労働安全衛生法」も成立している。この間産業安全運動もさまざまな変遷を経て、現在は中央労働災害防止協会、建設業労働災害防止協会(※13)を始め多くの団体・組織による活動に引き継がれている。尚、2013 (平成25)年4月から始まっている、第12次労働災害防止計画の計画本文、概要などは参考の※14を参照されるとよい。
これからの産業安全は、経済のグローバル化(グローバル資本主義)が進行する中で、世界的枠組みの下に展開することが求められている。
ILO(国際労働機関)は1999(平成11)年の 総会において21世紀のILOの目標として「すべての人へのディーセント・ワーク(働きがいのある人間らしい仕事)の実現」を掲げた。そして、2003(平成15)年から4月28日を労働安全衛生世界デーと定め、労働災害と職業病における予防の重要性に注意を喚起する日としている。しかし、今でもなお毎年世界全体で230万人を超える人々が業務上の災害や疾病によって命を落としているという(※17参照)。

以前このブログ「世界社会正義の日 」で、ILの批准条項中、日本の未批准条約が多くあること、そして、連合調べによる『ディーセント・ワークに関する調査』(※15:「人事ネットワーク/日本の人事部」のここ)など見ると、ディーセント・ワークの認知度も非常に低く、ILPの批准条項中、特に、労働時間関連(※16参照)が批准できていないことを書いたが、事業場での安全衛生確保のためには、先ず、適正な労働時間管理が出来ていないといけないはずだなのだが、今はどうなっているのだろうか・・・。

それはさておき、日本の安全運動に取り組んだ人物のうち、小田川の足尾銅山での安全運動は社内運動に留まり。社会運動へ発展するに至らなかった。それを、たんに事業所内での活動に留めず全国的な社会運動へと発展させ、これが三村などによって広がりを見せていったのであり、その意味、蒲生の功績は非常に大きいのだが、他の安全運動の先覚者などと比して、蒲生の生い立ちやどのような考えで安全運動をしたのかについてもう少し詳しく記録が残っていても良いと思うのだがあまり出てこないかった。・・・一体どうしてなのだろうか?
戦時下の最中におこなわれた安全運動であったせいだろうか。蒲生は、敗戦直後の公職追放対象者の一人にも数えられていたというからそのせいだろうか。いろいろ調べていたら、以下のページを見つけた。詳しく書くと長くなるので省略する。知りたい人は以下を参照されるとよい。

蒲生俊文の「神国」観と戦時下安全運動

どうも、上掲に書かれているところを読む限り、戦時下において、産業犠牲者の絶滅を期するこそ生産増強の第一に着手すべき課題であり、安全運動は国防の第一線である・・・といった「生産増強・安全報国」と言った思想のもとでなされていたもののようである。そうだとすれば、今となっても、日本ではILOの条項の批准条項がなかなか批准されない理由の一つには労働者の思惑とは違った意味での労働災害防止が考えられているからだろうか・・・などと勘繰りたくもなるのだが・・・。


(冒頭の画像は全国安全週間のシンボル(2014年)。
参考:
※1:住吉祭(夏祭り) | 住吉大社
http://www.sumiyoshitaisha.net/calender/natu.html
※2:国民安全の日について - 内閣府
http://www.cao.go.jp/others/soumu/kokuminanzen/kokuminanzen.html
※3:新産業災害防止5カ年計画について | 政治・法律・行政 | 国立国会図書館
https://rnavi.ndl.go.jp/politics/entry/bib01470.php
※4:製糸場支えた豊富な水 繰糸や動力源に利用 : 地域 : 読売新聞
http://www.yomiuri.co.jp/local/gunma/feature/CO004089/20131107-OYT8T00122.html
※5:『女工哀史』 細井 和喜蔵 | 考えるための書評集
http://ueshin.blog60.fc2.com/blog-entry-880.html
※6:夏目漱石 坑夫 - 青空文庫
http://www.aozora.gr.jp/cards/000148/files/774_14943.html
※7:代戯館
http://daigikan.daa.jp/
※8:小田川全之、足尾鉱業所でわが国最初の産業安全運動 ... - 防災情報新聞
http://www.bosaijoho.jp/reading/years/item_6497.html
※9:事業者の責任と義務 of 労働安全衛生法のポイント
http://aneihou-point.com/pg87.html
※10:全国一斉に愈よ明日から工場安全週間に入る - 神戸大学 電子図書館システム
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=10070028&TYPE=HTML_FILE&POS=1
※11:労働災害発生状況|厚生労働省
http://www.mhlw.go.jp/bunya/roudoukijun/anzeneisei11/rousai-hassei/
※12:独立行政法人 労働安全衛生総合研究所
http://www.jniosh.go.jp/
※13:建設業労働災害防止協会
http://www.kensaibou.or.jp/
※14:第12次労働災害防止計画について |厚生労働省
http://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/koyou_roudou/roudoukijun/anzen/anzeneisei21/index.html
※15:人事ネットワーク/「日本の人事部」
http://jinjibu.jp/
※16:なぜ日本政府はILO第1号条約(8時間労働制)を批准できないのか
http://www.jitan-after5.jp/essay/es020511.htm
:※17:2015年労働安全衛生世界デー - ILO
http://www.ilo.org/tokyo/events-and-meetings/WCMS_361936/lang--ja/index.htm
国民安全の日 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E6%B0%91%E5%AE%89%E5%85%A8%E3%81%AE%E6%97%A5


イラクのバスラで世界最高気温58.8℃が記録されたといわれていた日

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1921年の今日。7月8日は、イラクバスラで58.8℃が観測されたとされていた日である。
日本でも近年夏の猛暑日には30℃を超え, 40℃にもなる地域があるようだが日本でバスラのような気温になったら、もう「今日は暑いね」を通り越して死んじゃう人も多いだろうね~。しかし、もしこのまま地球温暖化が進んだら、日本でどれくらいの最高気温を示すところが出てくるのだろう・・。

バスラ(アル=バスラ、al-Baṣrah)は、サウジアラビアイランに続き、世界で3番目の原油産出量(=埋蔵国、2010年実績※1参照)であるイラク南東のシャットゥルアラブ川の右岸にある同国第2の都市で、イラク国内で唯一、海(ペルシャ湾)に面する県であるバスラ県の県都である。
東にイラン、南にクウェートと国境を接している。石油パイプラインの終点で、石油製品や、メソポタミア南部で生産された穀物やナツメヤシなどの輸出港(港湾都市)でもある。
 
上掲はバスラの「地図での位置」画像画像クリックでYahoo!検索画像ページへ。
古代には、人類最初の王権が成立した都市とされているエリドゥがあった。
バスラは、現在のイラク南部に、第2代正統カリフウマル1世(ウマル・イブン・アル=ハッターブ)が、638年に派遣したウトバ・イブン=ガズワーンによって、イスラム史上最初の軍営都市(ミスル)として建設された.もので、もともとの市街はシャトル・アラブ川から離れた場所にあり、現在ズバイルと呼ばれている町の位置であったようだ。
旧バスラは、当初はイラン(サーサーン朝領)征服・統治の拠点として活用され、まず政治都市として発展したが、運河と川を通じてペルシャ湾に接続され、ペルシャ岸最大の貿易港として、ムスリム商人のインド洋交易圏に進出する際の拠点の一つとして栄えた、また、肥沃なチグリスユーフラテス川下流域で生産された穀物の集積地として繁栄をきわめた.。
アッバース朝イスラム帝国という呼称は特にこの王朝を指すことが多いそうだ)時代には人口が30万人を超え、『千夜一夜物語』(アラビアンナイト)の「シンドバットの冒険」の舞台ともなり、ダウ船が行き来していたところである。
しかし、839年にイラク南部で興ったザンジュの乱モンゴル帝国チンギス・カン)の侵入による被害から衰え、13世紀にアッバース朝が滅亡した後16 世紀にはサファヴィー朝の領土となり、さらにオスマン帝国領となった。オスマン帝国の統治下にあった時は、この地域はバスラ州(Basra Vilayet)と呼ばれており現在のイラク南部とともにクウェートの一帯をも管轄していた(※1、※2参照)。
そして、第一次世界大戦(1914年~1918年)でイギリスに占領されて補給基地として整備され、原油積出港として栄えた。
イラク独立後は南部における最重要拠点となり、隣国イランとの国境をめぐってのイラン・イラク戦争(1980年9月~1988年8月)や湾岸戦争(1991年1月17日.。イラク・クウェート戦争とも呼ばれる))では爆撃を受けた。
イラン・イラク戦争は、国連安保理事会の決議を受け入れる形で停戦をしたが、この両国の石油輸出にとっての要所であるシャトル・アラブ川の使用権をめぐる対立から生じた紛争は、戦争以前にも長年の間、衝突の原因だった。
湾岸戦争は、先にも述べたイラク建国の歴史を口実に、1990年サッダーム・フセイン元大統領が、ブルガン油田ルマイラ油田を擁するクウェートを併合したが、翌1991年のアメリカを中心とした多国籍軍による空中戦及び地上戦によってなす術もなく敗北、クウェートを手放して停戦していた。
その後、2003年には、アメリカのジョージ・W・ブッシュ大統領の「イラク国内に大量破壊兵器が存在する」という発言がもとで、米国を中心とする有志連合によって、イラク武装解除問題の進展義務違反を理由とする『イラクの自由作戦』の名の下にイラク戦争が起こされた。このイラク攻撃にはフランス、ドイツ、ロシア、中国などが強硬に反対を表明する中、アメリカが強引にこれを主張して攻撃したものであるが結果的に大量破壊兵器は発見されなかった.。強引に攻撃しようとするアメリカ、反対していた国にもそれぞれの思惑がらみの戦争であったが、いずれにしても、フセイン政権との関係やイラクの石油利権に絡んでいるとする見方が多い。イラク戦争の経緯や結果はイラク戦争を参照)
戦後は2003年5月から米英の暫定占領当局(CPA)が統治し、同年7月イラク人によるイラク統治評議会が発足、翌2004年6月末イラクに主権が移譲された。治安は相変わらず悪く、当初多国籍軍や外国・国際機関などの民間人が人質やテロの標的となっていたが、治安維持の主体がイラク政府になるにつれて、スンニ派シーア派の対立が激化し、内戦を指摘する者もいる。
そして、2008年には、新政権下組織された新イラク軍とマフディー軍との間で戦闘が行われた。
これらの戦争で製油所やパイプラインなど、イラクの石油関連施設は、大変大きなダメージを受け、製油所だけでなく、輸出には欠かせない港湾設備も破壊された。シャット・アル・アラブ川やバスラの港には、今も湾岸戦争時代に沈められた船の残骸があり、航行の妨げになっているという。潜在的にはうなるほどのオイルダラーを手に入れられるはずのイラクは今、産油国としてのメリットを享受できないまま、経済的に瀕しているが、石油エネルギーをこの地域に依存している日本にとっては重要な地域でもある(※3参照)。
また、今、イラクはイスラム過激派組織イスラム国」にも脅かされているが、その「イスラム国生みの親は、前ブッシュ大統領ではないか・・」とアメリカで、共和党の大統領候補ジェブ・ブッシュ元フロリダ州知事と、兄でイラク戦争を主導したジョージ・W・ブッシュ前大統領が批判にさらされているようだ(※4参照)。

バスラはバグダードから545キロの位置にあり、都市内には、運河が整備されており、1970年代頃までは中東のベニスとも呼ばれていたようである。運河を取り入れた街並みは西洋と異なり、また東洋とも趣が異なる異国情緒溢れる港湾都市で、クェートやサウジなどの周辺国から観光客が沢山押し寄せてきたようである(※5参照)が、イランとの戦争や最近の湾岸戦争などの戦乱で街は荒廃し、イスラム国にも脅かされている状況下では、観光も難しいだろうね。
サッダーム・フセインはイラク戦争後米軍に逮捕され処刑されてしまった。何かと野蛮に見えたサダムだが、イラク戦争そして進行中の中東地域の混乱を見れば物事は単純じゃ~ない。あのような民族的、宗教的、歴史的にも複雑な地域て、ハネ上がり者もフセインのような独裁者の前ではネコのように大人しくしていたようで、何とか国も収まっていたようだが、今では、収支の付かない状況になっている。うまくゆかないものだ。

シャットゥルアラブ川に沿いに位置するイラク最大の都市バスラは砂漠気候だが海に近い分だけ冬季は内陸より降雨がある。通常でも6-8月は最高気温が38℃以上あるが、12-2月は21℃以下になるそうだ。降水量は5-10月がほぼゼロ、11-4月は月間30mm前後だそうである。以下で、平均気温と、現時点の10日間の天気予報が見られる。

Basraの気候

バスラの天気予報 - 世界各地の10日間の天気予報

気温とは気象を構成する要素の1つで、通常は地上の大気空気)の温度のことを指す。
気温は温度計により測定するが、構造や測定値の特性が異なるいくつかの種類の温度計が存在するため、測定値を利用する際に留意する必要がある。地上の気温の測定方法は世界気象機関(WMO)は、地上から1.25〜2.0mの高さの間を推奨しており、温度計を直接外気に当てないようにして測定することと定められている。なお日本では、気象庁(※6)が測定高さを1.5mと定めており、ふつう、上記の測定方法を満たすため、温度計や同じような測定環境が求められる湿度計は、ファン付きの通風筒や百葉箱に入れられるようだ。(気象庁『気象観測の手引き (PDF) 』平成10年(1998年)9月の版参照)。気温は日変化、年変化をし、その変化は日射量の変化と密接な関係にある(→気温の日較差、気温の年較差日射量)。

世界最高気温の記録は、NOAANASAなどの記録によれば「リビア/アジージーヤの58.0°C (1922年9月13日)」とされていたが、2012年にWMO(世界気象機関)はアジージーヤの記録が観測ミスによる誤りで、実際は「アメリカ合衆国・カリフォルニア州デスヴァレー(Death Valley)の56.7°C (1913年7月10日)」であったと発表されているそうだ。
一方、日本の気象庁の記録では長らく「イラク・バスラの58.8°C (1921年7月8日)」とされてきたようだが、この記録は、2013(平成25)年に気象庁気象研究所の藤部文昭が「イギリスの気象学会誌で1922年に報告された『セ氏(摂氏)53.8°C、カ氏(華氏)128.9°Fが1934年に日本で出版された『気象学』(改稿版)に誤記載され、その後広まった可能性が高いことが分かった。また、この最高気温を記録した日付も同学会誌のグラフでは7月15日と17日であった(8日は最低気温が最も高かった日)」とする調査結果を発表しているという(※7:「日本気象学会:機関誌「天気」記事年度別検索」の2013年N02「気温の世界最高記録とされる「バスラの58.8℃」について」参照)。
実際、欧米にはバスラの58.8℃ を世界記録として記載した文献は見当たらず、これを報じているのは日本の文献と日本の文献を基にしたと思われる中国や韓国のサイトくらいのものだった様である。そして、バスラの実際の観測値としては、Clemence (1922年) が1921年夏の中東の猛暑に関する報告の中で 7月にバスラで128.9°F (53.8℃ )が観測されたことを記述しているものが正しいようだが、当時バグダッドに住んでいたClemence (1922) は, その観測所の百葉箱が日干し煉瓦の屋根に置かれているのを見て、最高気温の観測値が真の外気温より高い可能性を指摘しており、バスラの128.9’F (53.8℃ ) という値にも、もしかすると同様の問題があるかも知れないという。このこととの関係は分からないが、近年の資料の中には上記の値より低い52.0℃ (2010年6 月) をバスラの(かつイラク全体の) 歴代最高記録としているものがある.・・・とも言っているのだが・・・。
それでは今わかっている範囲の世界最高気温がどうなっているのか・・・。上位5位までを見ると以下のようになっている。

1位 56.7℃:アメリカカリフォルニア州/デスバレー(Death Valley)。1913年7月10日観測。
気候・地勢:デスバレーは、カリフォルニア州中部、同州とネヴァダ州の境界に沿って伸びている.。モハーヴェ砂漠の北に位置する深く乾燥した盆地で、デスヴァレー国立公園の中核をなしている。

2位、55℃ :アフリカ・チュニジア共和国ケビリ(Kebili)。1931年7月7日観測。
気候・地勢:チュニジアの南西に位置し、アルジェリアと国境を接している。冬(夜は非常に寒い)と夏(高温)は暮らしにくい。この地域を訪れるのに適した時期は、春と秋の終わりごろ。ケビリ県は、シェリド湖(塩湖)として知られているチュニジアで一番大きな塩田の大部分を占めている。

3位、53,6C:中東・西アジアのクエート/スライビヤ(Sulaibiya)。2012年7月31日観測。
気候・地勢:スライビヤについてはよく判らないが、クエートは、北と西にイラク、南にサウジアラビア、東にペルシャ湾がある.。1961年にイギリス支配からの独立をし、現在世界第二位の油田であるブルガン油田は1946年より生産を開始しており、これ以降は石油産業が主要な産業となっている。

4位:53,4C:パキスタン南東部シンド州/ラルカナ( Larkana)。2010年5月26日観測。
気候・地勢:モンスーン地域であるが砂漠気候で雨量はごく少ない。冬は比較的温暖で夏は非常に暑い。東側にはタール砂漠があり、西側にはキルタル山脈があってバローチスターン高原に続く。その間のインダス川近くは平野になっている。南部にはインドのグジャラート州にまたがるカッチ湿地(カッチ大湿地およびカッチ小湿地)が広がる。

5位、52.0 °C:メキシコ ソノラ州 (Estado de Sonora)。1966年7月6日観測。
気候・地勢:メキシコ北西部に位置する州。東はチワワ州に接し、南はシナロア州、北西はバハ・カリフォルニア州,に接する。北はアメリカ合衆国のアリゾナ州に接し、西はカリフォルニア湾に面する。州の大半をソノラ砂漠が占める。5月が1年でもっとも乾燥する季節となり、真昼の気温は通常でも40℃に達するという。

さて、以上が世界最高温度上位5位までだが、もし、イラクのバスラの最高気温が58.8°Cでなくても、53.8℃いやそれより低い52.0℃(2010年6月観測)であったのなら、当然、この中に入ってるはずだが含まれていないのは、その観測方法やデーターそのものに疑問があるからなのだろう。
最高気温50,0C以上のところは、このほかに、アフリカ北西部アルジェリア(民主人民共和国)/タマンラセット県(Tamanrasset)で2002年7月12日に観測された50.6 °C、中東・西アジアカタール/ドーハ(Doha)の 2010年7月22日観察の50.4 °C、中国/アイディン湖(Ayding Lake)で2011年7月14日に観測された50.2 °C、南アフリカ共和国/東ケープ州(Eastern Cape)で1918年に観測された50.0 °が見られるが、40,0C以上は多くみられる(詳細は「:en:List of weather records」)を参照。

温暖化の影響で、近年、日本でも真夏日は40度に達するところも出て来ている。

気象庁の歴代全国ランキング(※6のここ参照)を見ると、日本の過去の最高気温の順位は以下のようになっている。

1位は、2013年8月12日に観測された高知県、江川崎 41.0°Cである。
高知県四万十市北部にある江川崎地域では、2013年8月10日、摂氏40.7°Cを記録、翌11日には40.4°C。更に12日には、日本最高記録である41.0°Cを記録し、13日にも40.0°Cを観測し、日本初の4日連続最高気温40°C以上を記録したという。その後も8月23日までの18日間、猛暑日が継続したそうだ。
2位は、2007年8月16日に観測された埼玉県 熊谷市 の40.9°C。
埼玉県北部の熊谷市は、夏場の高温・猛暑に関する多くの最高記録が観測されている。この日の記録は、同日14時20分に記録した岐阜県多治見市(3位)と並び、1933年7月25日に山形県山形市で観測された40.8°C(4位)を上回り、2013年8月12日高知県四万十市江川崎で41.0°Cが観測されるまで日本観測史上の最高気温となっていた。
2011年6月24日には、6月の最高気温39.8°Cを記録し、1991年6月に静岡市で観測された38.3℃を20年ぶりに更新。2000年9月2日には全国の9月最高気温では歴代最高である最高気温39.7°Cを観測している。他にも2010年に年間猛暑日日数が群馬県館林市(2007年8月15日には40.2°C、翌16日に40.3°Cを記録。この温度は上位10位である)と共に国内最多の41日で全国一位となった(2010年 猛暑日日数ランキング)。2012年にも群馬県館林市と同数の32日で全国一位を記録した(2012年 猛暑日日数ランキング)。
このように、熊谷が高温となるのは、海風に乗り北上してくる東京都心のヒートアイランド現象により暖められた熱風と、フェーン現象によって暖められた秩父山地からの熱風が、一般的に日中の最高気温となる午後2時過ぎに同市の上空付近で交差するためだと考えられており、「熱風の交差点」と呼ばれることもあるそうだ。
上位3位は、先にも挙げた、岐阜県多治見市の2007年8月16日観測の40.9°Cであるが、 盆地に位置するため、夏・冬で気温差が激しく、特に夏は最高気温の平年値が日本のアメダス観測地点の中で一番高いらしい。また、盆地の狭い範囲に住宅が密集していること、北からのフェーン現象による熱風、冷たい海風が入りにくいこと、緑地や水辺が少ないことという複合的な要因が交差して起こったものとの仮説(筑波大学計算科学研究センター講師である日下博幸の研究チーム)もある。但し、盆地であるため、熱帯夜となる日は少ないそうだ。
上位4位の1933年7月25日に40.8°Cを記録した山形市も盆地の中に位置するため、盆地特有の内陸型気候で寒暖の差が激しく、夏は暑く冬は寒い。夏は東北の中でも暑さが厳しく、35℃を超える猛暑日となることも珍しくないようだ。
上位5位は、2013年8月10日に記録した山梨県甲府市の40.7°Cである。やはり盆地の中に位置しており、夏季には日本有数の酷暑となり、たびたび猛暑日に見舞われる。
その他「観測史上の順位」表には、399°C以上が19か所観測されている。

上記山梨県の記載の中で、夏季には日本有数の「酷暑」となり、たびたび「猛暑日」に見舞われると書いた。酷暑=酷い暑さも、猛暑=猛烈な暑さも同じような意味ではあるが、気象庁の予報用語=解説用語には、「酷暑」はあるが、「猛暑」という表現はなく、「猛暑日」はあるが、「酷暑日」はない。しかし、これ以下、「酷暑」もあえて「猛暑」として書いている。
猛暑」(もうしょ)とは平常の気温と比べて著しく暑いときのことである。主に夏の天候について用いられる。世界気象機関が推奨する定義は「最高気温の平年値を、連続5日間以上、5℃以上上回ること」としているが、各国はそれぞれの気候傾向によって様々な定義で運用しており、日本国内においては2007年以降、1日の最高気温が35℃以上の日のことを「猛暑日」と言っている。
一般に夏季において背の高い(上空の高い所から地表まで鉛直に長い構造)の高気圧に覆われて全層に渡って風が弱く、周囲の比較的冷たい空気(寒気)や湿気の流入が弱く快晴状態の場合や、南(南半球の場合は北)から継続的に暖気(あたたかい空気)が入った時に起こりやすい。内陸の盆地や山間部では周囲の山岳により外部の大気との混合が妨げられ、熱い空気がその場にとどまりやすい(熱気湖)ことや、どの方向から風が吹いても、フェーン現象(風炎現象)が起こりやすいので、他の地域よりも暑くなりやすい。主な観測地点は山形県山形市、山梨県甲府市、京都市、大分県日田市などがある。
フェーン現象が発生すると、山脈の風下部では山から吹き降りてきた乾燥した高温の風によって盛夏でなくても猛暑となりやすい。主な観測地点は東日本や東北の日本海側、夏季の関東平野(特に北部)などがある。
一方、西日本には2000m以上の山が存在しない(西日本最高峰は愛媛県の石鎚山で1982m、中国地方では鳥取県の大山で1729m、九州本土では大分県の九重山中岳で1791m)のため、水分の放出が充分に行われず吹き下ろしの風に水分が含まれているので、気化熱が昇温を緩和するので、フェーン現象による気温の上昇は東日本ほど激しくないらしい。
又近年ラニーニャダイポールモード現象エルニーニョもどきが発生している夏は猛暑になりやすいといわれているが、夏の期間にこれらの現象が起こっていなかったにも拘らず猛暑になっている年もある。
1994 年~2013年の20年間のうち猛暑年は18年に達し(2003年と2009年を除く全ての年が当てはまる)、猛暑が恒常化している。これに関しては地球温暖化も影響していると考えられるが、それだけが全ての原因とは考えにくく、他にも猛暑になりやすい要因がいろいろと重なっているようだ。
今年の5月は、異常な暑さが続いたが気象庁の予報では、全国的には、ほぼ「平年並みの暑さ」だという。ただ、「集中豪雨による大災害が起こりやすい」という予想もされていたので、注意が必要だね。
最近中東ではイスラム過激派によるテロが相次いでいることから、世界一の最高気温を記録したと言われていたイラクのバスラに絡めて、イラクのことを少しダラダラ書きすぎて、肝心の猛暑については尻切れトンボになってしまった。申し訳ないm(_ _)m。

参考:
※1:バスラ - 世界史の窓
http://www.y-history.net/appendix/wh0501-025_0_1.html
※2:イスラーム帝国の成立
http://manapedia.jp/list?subject_subcategory_id=318
※3:石油産業 - 最大の産業「石油」ビジネスを復興する | 池上彰と歩く日本画できイラク復興」
http://special.nikkeibp.co.jp/as/iraq/vol3/
※4:ダーイシュ(イスラム国)の"生みの親"は、ブッシュ前大統領なのか?
http://www.huffingtonpost.jp/2015/05/21/jeb-bush-isis_n_7418502.html
※5:西方見聞録 6 バスラの街 ~ 建物と街並
http://www.pcfactor.org/travel_book_6_basrah_town3.html
※6:気象庁(国土交通省)
http://www.jma.go.jp/jma/index.html
※7:日本気象学会:機関誌「天気」記事年度別検索
http://www.metsoc.jp/tenki/index_tenki.php
世界一のところに住んでいる人たち
http://www.festivalgoma.com/
気温 -Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%97%E6%B8%A9
世界一の一覧とは - Weblio辞書
http://www.weblio.jp/content/%E4%B8%96%E7%95%8C%E4%B8%80%E3%81%AE%E4%B8%80%E8%A6%A7



世界ありがとうの日

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日本記念日協会(※1)に登録されている今日・7月15 日の記念日に「世界ありがとうの日」があった。
制定したのは、Q&Aサイト「OKWave」をはじめとして、FAQソリューションや各種のQ&Aサービスで知られる株式会社オウケイウェイヴ(※2)。同社の企業理念である「世界中の人と人を信頼と満足でつないで、ありがとうを生み出していく」を実践し、世界中を感謝の気持ちでつないでいくのが目的・・・だとか。日付は同社の創業日である1999年(平成11年)7月15日からだそうだ。

「ありがとう」は、日本語で感謝を表す時に用いられる挨拶語である。
今時の日本の人は、素直に「ありがとう」という感謝の言葉を口に出して云えない人が多く、「ありがとう」のかわりに、「どうも」とか、「サンキュウ」「すみ(済み)ません」とか言ったりする人が多いように思う。
この「すみません」の「済む」は、仕事が済む、終了などとともに、「気持ちがおさまる」「気持ちがはれる」といった意味もあり、感謝の意を表すときにも使われる言葉だが、心からの感謝の気持ちは伝わってこない。
英語の「Thank you」 の「Thank」も「感謝する 」の意だが、「Thank you for that ball! =すいませーん!ボールを拾ってください」といった使い方がされるが同じ様な使い方だろう。同じ「感謝」を表す言葉でも、「サンキュウ」や「すみません」よりは、「ありがとう」の方が、感謝の気持ちがこもっている。照れがあるのかもしれないが、誰もが、素直に「ありがとう」という言葉を、日常の挨拶言葉として使えるようになれたら、本当によい人間関係が出来るだろうと思うのだが・・・。
偉そうなことを書いている私だって、あまり自信はないのだが、我が女房殿は、何かあると必ず「ありがとう」と言う。もう習慣的になっているが、そういわれて悪い気はしない。産めよ増やせよと云われていた戦前に、12人もの兄弟の末っ子として生まれ、一番上の姉とは20歳位い歳が違うと云い、甘やかされて育っているかと思うのだが、さすが明治人の子供、。こういった面のだけはきっちりとされている・・・といつも感心させられている。

日本記念日協会には、3月9日の記念日にNPO法人のHAPPY&THANKSが設けた「3.9デイ(ありがとうを届ける日)」 があったので、以前このブログで「ありがとう」について書いた(ここ参照)が、それ以前にも、同じ日に「ありがとうの日」のことを書いていた(ここ参照)。3度も同じことをテーマーに書くのをやめようかと思ったのだが、最近のように、都市部など特にそうなのだが、お隣さんの事情も知らないという状況が急速に増えていて、人間関係が冷め切っている。私の家の隣の娘なども朝、顔を合わせても軽く会釈をする程度で「お早う」の挨拶すらできない・・・。そういう若者が非常に多くなった。
そんな人と人の繋がりが薄いと言うより、無くなってしまったとも云える現代の日本。1995(平成7)年の阪神・淡路大震災以来、特に、2011(平成23)年3月11日の東日本大震災以来、人と人の「」が云われだし、2011年の世相を表す漢字(今年の漢字)にも選ばれたものだが、なにか「絆」「絆」と言っているのは、このような震災や、台風、洪水などの被害に直接遭遇した人達の「傷のなめ合い」や「合言葉」のようにさえ聞こえて仕方がない。
最近は、年老いた老人の一人暮らしも多くなり、そんな老人の孤独死や、認知症を患った老人たちの徘徊、核家族化の進行による老老介護問題などの増加も社会問題となっており、また、乳幼児など小さな子供への親の児童虐待、あるいは、小さな子供や女性の誘拐やストーカー被害などが起きる度に、地域社会のコミュニティーの重要性や、人と人の「絆」が云われているが、普段は「隣の人への関心」も薄く、「挨拶」ひとつ交わせない者が、どうして、友好的な地域のコミュニティーを築くことができるのだろうか・・。町内会にしろ会社にしろ、又、友達関係にしろ、お付き合いには、良いことばかりではなく、結構、煩わしいことも付きものだ。
良い関係だけを望んでも、その煩わしさには関わりたくない・・・。そんな身勝手な自我中心的な人間が戦後は非常に多くなっっている。
例えば、介護をしなければならない親(義理も含めて)がいる。又、手の焼ける小さな子供がいる。しかし、介護の必要な人の入れる老人ホームは足りないし、小さな子を預ってくれる保育園も足りない。
そういう要介護者や子供をもった女性は、戦前なら、好むと好まざるとにかかわらず家の嫁として、親や子供の面倒を見ていた(男は仕事、女は家庭の考えから。家制度の中で)。
今の時代、家制度は崩壊し、女性も男女同権のもと、男性同様社会へ進出するようになった。核家族化した中、子供や親の世話などしていると、自分のしたい仕事が出来ないから、介護を必要とする老人を見てくれる老人ホームや子供の面倒を見てくれる保育園などの施設がいると言う。しかし、そのような施設は足りない。もしハード面だけの施設を増やしても、そのような世話の焼ける仕事を喜んでしてくれる人はどれだけいるのだろうか。不足しているハード面の施設や仕事をしてくれる人に対する金銭や処遇面の改善をすれば解決する問題なのか・・・。難しい問題である。
正直言って、誰もが、「3K」(きつい、危険、きたない)職場を忌避するのは、貴族化・清潔化という消費文化と無関係ではないという。3K以外の、例えばウエートレス不足も、身体・人格による他者へのサービスが嫌われるから。他者のサービスはいくらでも受け入れるが、自分からのサービスはいやというのは貴族固有の発想であり、3Kはさらに「給料が安い、休暇が少ない、カッコ悪い」が加わって「6K」。がはびこっているのが今の世の中、ではないか・・・・。それで悩んでいる人が多いのではないか・・・。
誰でも自分のしたい仕事をしたい。出来れば、快適な環境で、綺麗な服を着て、人に気を使わず、楽して、報酬の期待できる仕事をしたい。誰もがそのような思い(自我・我欲=自己中心的な欲望)をもっていることだろう。しかし、世の中、誰もがそんな結構な仕事に就けているわけではない。そして、そのような職場ほど、どこも人手不足で困っているのである。債務不履行問題を起こしているギリシャの国の人などはそんな人達ばかりのようだ。

少し、余談になるが、現代の民主主義・民主制・民主政は、古代ギリシアにその起源を見ることができ、都市国家(ポリス)では民会による民主政が行われた。特にアテナイ直接民主制が確立したと言われている。
ただし、古代アテネ(Athēnai)などの民主政は、各ポリスに限定された「自由市民」にのみ参政権を認め、ポリスのため戦う従軍の義務と表裏一体のものであった。女性や奴隷は自由市民とは認められず、ギリシア人の男性でも他のポリスからの移住者やその子孫には市民権が与えられることはほとんど無かった。
後に扇動的な政治家の議論に大衆が流され、政治が混乱し、ギリシャの哲学者プラトンの師・ソクラテスが国家の名において処刑されてしまった。
それを契機としてプラトンは、師が説きつづけた正義の徳(『ヒッピアス (小)』参照)の実現には人間の魂の在り方だけではなく国家そのものを原理的に問わねばならぬと考えるに至った。そして、この課題の追求の末に提示されたのが、中期対話篇『国家、』である。
民主制を古代ギリシャでは「デモクラテイア(democracy)」と言う。デモス(demos=古代ギリシアのポリスを構成する組織・人民)がクラティア(kratia、権力・支配).を持つ体制=「民権」ないし「民衆支配」の体制を指すが、プラトンは対話篇『国家』の中で、民主制は自分勝手で個性のないバカな人間を生み出す「衆愚政治」だと批判している。衆愚政治は、有権者が各々の自我(エゴ)の中から生まれたエゴイズムを追求して意思決定する政治状況を指す。エゴイズムは自己の積極的利益の追及とは限らず、恐怖からの逃避、困難や不快さの回避や意図的な無視、他人まかせの機会主義、課題の先延ばしなどをも含む(※3.※4参照)。
「衆愚政治」は民主主義の最大の欠点を表しているといえるが、世界で最初に民主主義をなした国家ギリシャが皮肉にも衆愚政治に堕し、その後衰えてゆくのは如何にも皮肉であるが、今のギリシャ問題を見ていると、ギリシャ人にはいまだに古代ギリシャ時代の悪しき思想が抜け切れていないように思われる。しかし、今の日本も何か少しづつそのような状況に近づいているような気がしてならないのだが・・・。
世の中には、好むと好まざるにかかわらず、「6K」と云われる職場で一生懸命頑張っている人も大勢いるからこそ、この世の中なんとか回っている。恵まれぬ環境の中で努力している多くの人たちに、私たちは、どれほど感謝の気持ちを持っているのだろうか。せめて、誰にでも「ありがとう」と言う感謝の言葉を素直に口に出して云えるようになれば、少しは良い関係(絆)も出来てゆくのではないか。言葉ぐらいで・・と思う人がいるかもしれないが、以前このブログ、「ことばの日」(5月18日)でも書いたのだが、イスラム教の教の中に、以下のような言葉があると聞いている。

「自分が変れば 相手が変る。心が変れば 態度が変る。態度が変れば 行動が変る。 行動が変れば 習慣が変る。習慣が変れば 人格が変る。人格が変れば 運命が変る。運命が変れば 人生が変る。」

その根拠はよく判らないが、人生訓などとしても、よく語られるものであるが、そんなこと・・・と言われるかもしれないが、人間、常日頃から、「いい言葉」を聞き自らも使っていると、やがてその人の、行動や人格までも変化し、ひいては、家庭や、社会の安定にも通じるものと信じている。
アメリカの心理学者マズローの名言「自分自身に対する認識を変えれば、人間は変わる。」(自己実現理論)も、同様の考え方のものだろう。
言葉・・・されど言葉である。日ごろから「いい言葉」に接したいものである・・・・、そう思って、また同じテーマーで書いてしまった。

この日本語の「ありがとう」と言う言葉の語源は、形容詞「有り難い」の連用形「有り難く」のウ音便化し、感謝の気持ちを表す言葉「ありがとう」となったもの。
「有り難い」は、文字通り、「有る(ある)こと」が「難い(かたい)」つまり、「有ることがむつかしい」と云う意味で、ここから、本来は、ありそうにない。ほとんど例がない。めったにない。珍しい。・・・と言う意味を表していた。
清少納言の『枕草子』"ありがたきもの"の段には以下のように書かれている(現代語訳。原文、解説等は※5を参照。ただし、『枕草子』には、多くの異本があり、伝本によってかなり内容に違いがあるようで段数も異なる。※6又ここなど参照)。

(枕草子 「ありがたきもの」)
めったにないもの。舅にほめられる婿。また、姑に大切にされるお嫁さん。毛がよく抜ける銀の毛抜き。主人をけなさない従者。ほんの少しも癖のないこと。容姿、情、様子が秀でていて、世を渡る中で、ほんの少しの欠点もない人。
同じところに奉公して住んでいる人で、お互いに気がねして、少しのすきもなく、心遣いしていると思われる人が、最後まで欠点を見せないというのはめったにない。物語や歌集などを書き写すときに、(その物語や歌集)原本に墨をつけないこともめったにない。価値のある本(草子)などの場合は、非常に注意を払って書くが、必ず汚してしまうようだ。
男と女(の仲について)は言うまい、女どうしも、深い約束ごとがあって交際している人で、最後までずっと仲が良い人はめったにいない。
(男女についてはいうまでもなく将来まで仲が良いことは難しい)・・・・と。

「めったにないもの」・・・・、いつの時代になっても変わらないものだね~。その中にある、「毛抜き」は、当時の女性は眉を抜く習慣があったので、必需品で、抜いたあとは眉墨で描いた。今でも女性にとって、めったに手に入らない化粧品など女性にとっては”有難い”ものだろう。「めったにない」が現代語の「感謝をする」の意味で用いられるようになったのは、近世になってからの様だ。

「有難い」は、中世になり、仏の慈悲など“貴重で得難いものを自分は得ている”・・・と言うところから、宗教的な感謝の気持ちで云うようになり、近世以降、感謝の意味として一般にも広がったとも言われている。
「有難い」は仏教語で、『法句経』にある生命(生まれてから死ぬまでの時間=命)の驚きと感動を伝える言葉が、時代と共に感謝を表す言葉となったとも言われている。
この『法句経』は パーリ語の経典『ダンマパダ( Dhammapada)』:の漢訳で、原始仏典ブッダの仏教)の一つで、語義は「法(真理)についての句(言葉)」といった意味であり、原始仏典の中では最もポピュラーな経典の一つである。
スッタニパータ』と共に原始仏典の、最古層の部類とされるが、『スッタニパータ』はかなり高度な内容を含んでいるため、必ずしも一般向けではないが、『ダンマパダ』は、たくさんある経典の中でも、一番釈迦の説法の原形が残っているとも言われており、初学者が学ぶ入門用テキスト向きだと言われている。
内容は、仏教の立脚地より日常道徳の規準を教へたものであり、形式は、全部頌文(ジュモン)より成り、古代仏教の聖典たるの中に散在する金玉の名句(四百二十三の名句)からなる教訓句集のようなものである。
その中の第十四章 “佛陀の部”の、百八十二番の句に、いわゆる「ありがたい」に関することが四つ出てくる。
以下の文は、浄土宗の僧侶、仏教学者・サンスクリット学者でもある荻原雲来(明治2年~ 昭和12年)の訳註『法句經』(※5青空文庫)より引用したもの。

(佛陀の部、百八十二番の句) 
 
人身を得ること難し、
生れて壽あること難し、
妙法を聞くこと難し、
諸佛世に出ること難し。

ここでの「難し」は、当然「有り」「難し」のこと。「」とは、「寿命」(生命=命。生きていること)のこと、また、「妙法」とは、「正法」つまり、ブッダ(悟りを開いた釈迦)の説いた正しい法(教え)のことを言っているのだろう。3段目と4段目は入れ替えた方が分かりやすいだろうから入れ替えて、もう少し判り易くすれば以下のようになるのだろう。

人がこの世に人身を得る(生まれてくる)ことは難しい(「有り」「難い」ありがたい)ことで、
今こうしてこの世に生命(命=生きていること)のあることもありがたいことだ。
この世に諸々の仏が現れることはありがたいことであり、
その仏から正しい法(教え)を聞くことはなお、ありがいことだ。・・・といったことになるのではないか。

日本の諺には、「袖振り合うも多生の縁」がある。
見知らぬ人とたまたま道で袖をすり合わせるというのも、前世からの深い因縁によるものであるということ。人と人との関係は単なる偶然によって生ずるわけではないので、大切にしなくてはならないという仏教的な考え方からきている。「多生」は何度も生まれ変わる意味。
他生」と書く場合は、この世以外の意味で、「前世」と「来世」のこと。そのものの力ではなく、他の原因によってあるものを生じること。・・・を言う。
「多生の縁」を「他生の縁」とも書く(成語林=故事ことわざ慣用句の大辞典)ようで、こう書いても間違いではないようだ。
「多生」は現世の前に積み重ねた数多くの前世。その数多くの前世の因縁が積み重なった結果が現世で袖を振り合うという出会いになっている。さらに、そうした現世の因縁も来世の縁(縁起参照)に繋がってゆく・・・と考えられている。
このような輪廻転生の思想は、仏教(釈迦の仏教)以前からインドにおいて存在していた(★「輪廻転生」の考えは、ヒンドゥー教や仏教などインド哲学東洋思想において顕著だが、古代のエジプトやギリシャ[オルペウス教ピタゴラス教団プラトンイデア)]など世界の各地に見られるという。輪廻転生のところ参照)。

仏教の世界観は、人の一生はであり永遠に続く輪廻の中で終わりなく苦しむことになる。その苦しみから抜け出すことが解脱であり、修行により解脱を目指すことが初期仏教の目的であった。初期仏教は、釈迦入滅から約100年くらいまでの、部派に分裂する前の仏教をいう。
仏教においては、私たち人間を含めたすべての生きもの(衆生は迷いの世界から解脱しない限り、無限に存在する前世と、生前の業、および臨終の心の状態などによって次の転生先、(部派では「畜生餓鬼地獄」の五道、大乗仏教ではこれに修羅を加えた六道の転生)先に生まれ変わるとされている。
では六道のどの世界に生まれ変わるかは、何によってきまるのか?
仏教では、生前での生き方、為してきたことの結果によって生まれ変わる世界が決まると説いている。それは「自分の為したことが返る」というカルマ(karman.。業)の法則に基づいている。日本においては「因縁因果」という言葉で知られている。
そして、六道を輪廻する衆生の中で、人間として生まれるのは誠に得難い(有難い)ことであると考えられている。
それが、先に挙げた『法句經』の「人身を得ること難し」である。しかも、人間が住む世界(人間界)は、四苦八苦に悩まされる苦しみの大きい世界である。だが、苦しみが続くばかりではなく楽しみもある。また、唯一自力で仏教に出会える世界であり、解脱しになりうるという救いもある世界でもある。
折角、そんな、有難い人間世界に生まれてきたのだから、それを有難いことと感謝をし、私たちは色々なことに惑わされずに、釈迦の説いた正しい教えを素直に聞き,善導を歩み功徳を重ねることが善き境遇(善趣)に生まれ変わり、逆に、悪業を積めば苦しい境遇(悪趣)に生まれ変わるということになるのだろう。
ところで、釈迦の仏教では輪廻において主体となるべき、永遠不変のは想定しておらず、無我を知ることが悟りの道に含まれるようだ(以下参考の※8参照)。この点で、輪廻における主体として、永遠不滅の我(アートマン)を想定する他のインドの宗教と異なっているようだ。
無我でなければそもそも輪廻転生は成り立たないというのが、仏教の立場であり、仏教における輪廻とは、「心がどのように機能するか」を説明する概念であり、単なる死後を説く教えの一つではない。しかし、後代になり大乗仏教が成立すると、輪廻思想はより一層発展し、自らの意のままにならない六道輪廻の衆生と違い、自らの意思で転生先を支配できる縁覚声聞菩薩如来としての境遇を想定し、六道と併せて十界を立てるようになった。

3段目、と4段目についてであるが、「諸佛世に出ること難し」の諸仏とは、釈迦を含む7人の仏(過去七仏)のことであり、仏教で釈迦以前に存在したとされる6人の仏と、釈迦を含む7人の仏が共通して説いた教えを一つにまとめたとされている偈「七仏通誡偈」が『発句教』182番に続く183番だという。
(『発句教』183番)

諸の惡を作さず、善を奉行し、自心を淨む、是れ諸佛の教なり。

判り易く書くと、「すべて悪しきことをなさず、善きことを行い、自己の心を浄めること、これが諸の仏の教えである。」となるのだろう。
これに似たが「感興のことば」第28章「悪」にある。
それは「みずから悪をなすならば、つねに自分が汚れる。みずから悪をなさないならば自分が浄まる。」という言葉である。
これを参考にすると七仏通誡偈の意味は「すべて悪いことをしてはいけない。諸の善いことを行うことによって自己の心を浄めなさい。」
これが諸の仏の教え( 正しい教え)である、ということになるのだろう。
この「感興のことば」とは、サンスクリット経典として継承されている『ウダーナヴァルガ』(Udānavarga)のことで、ブッダが感興をおぼえた時,ふと口にした言葉集の意味で、『法句経』(ダンマパダ)と『自説経』(Ud?na)を足したもの。日本では、中村元訳(『ブッダの真理のことば・感興のことば』)がある(「ブッダの真理のことばがダンマパダ。「感興のことば」がウダーナヴァルガの翻訳である)。
この「感興のことば」は以下で聞ける。以下で、第28章 悪を聞いてみてください。

ブッダの感興の言葉 – YouTube

この七仏通誡偈の精神は善いことを行うことは自己の心(自我)を浄めるためである。 自己心浄化に重点が置かれている。
ブッダの説く教えは単に苦しみの消滅だけではなく清らかさと聖なるものを追求していることが分かる。
これは八正(聖)道のめざすものである(※7の第十四章 “佛陀の部”の一九〇、一九一参照)。
七仏通誡偈の言っていることは実行は難しいかも知れないが単純で分かりやすい。
このような単純明解さがブッダの原始仏教の特徴と言える。
『発句教』(ダンマパダ)第十一章老耄(ろうもう=おいぼれること。また、その人。老い)の部の一五三、一五四(※7参照)は、釈迦が悟りブッダとなった時の歓喜(よろこび)の偈だと伝えられているものである。
そこでは、「私は、苦しみの基盤である家(自分の肉体)の作り手を探し求めて、幾度も。生死を繰り返す輪廻の中を得るものもないままさまよい続けた。 何度も何度も繰り返される生は苦しみである。
だが家(自分の肉体)の作り手よ、お前は見たのだ。 もう二度と家を作るな。桷(すみき。ここでは煩悩を言っているようだ)は折れ、棟梁(ここでは無明を言っているようだ)は毀れてしまった。心(ここでは人間が持つ根本的な欲望「渇愛」をいっているようだ)を形成するはたらきは心から離れ、渇愛を滅ぼし尽した(解釈等は、※9のダンマパダ153、154 「家」を作る大工さん|釈尊(後編)参照)
釈迦は輪廻転生が生きているときの行いによって決まるのであり、死後は何をしようがもはや手遅れと考えていたようだ。釈迦の考えた仏教はあくまでも生きている人間のためのものであり、今仏事で行われているような葬式や法事も釈迦の考えた仏教とは無関係なもので 後に考えられたものである。
仏教(特に原始仏典)の云っていることは全ての現象無常、変化性のものである(諸行無常)という客観的真理を述べているだけで悲哀などの感情的情緒的なものは入っていないようだ。
人は有難いこの世に生を得た。「二度とない人生」・・・だからこそ、「ブッダが究明・実践した清浄(自我のまじらぬこと、執着のないこと)の行を体現して生活する必要」があるのだろう。つまり、「有意義な人生」を送る必要がある、ことに気づく。これは現代の科学的真理と一致する不変の真理であると、云えるかもしれない。ブッダは、「死後の生」を全否定し、そこから、ギリシャの哲学者・ソクラテスの提起した『人間いかに生きるべきか?!』(※10、※11参照)の回答を導き出したともいえる。

何か私の説明ではわかりにくかったかもしれない。『法句経』については、以下参考に記載の※12:「こころの時代」の以下のページで分かりやすく解説しているのでそこを見られるとよい。

101 聖典を読む 法句経
『法句経』に学ぶ②生命あるはありがたし

「こころの時代」?・・、何か聞いたことのある名前だと思ったら、最後のところに、「これはNHK教育テレビの「こころの時代」で 放映されたものである」…とあった。
こころの時代」は、NHK教育テレビ、並びにラジオ第1放送FM放送で同時間に同一内容を放送するサイマル放送による放送番組である。
NHK教育テレビでは1982(昭和57)年4月11日より、NHKラジオ第1放送では1990(平成2)年4月28日未明よりそれぞれ放送開始されている。ほぼ毎日放送されるようになるとテレビ版の再放送だけでは間に合わず、ラジオ版も製作されるようになり、1993年から現在の番組名に改題したもの。
この番組の原点は、1962(昭和37)年から1982(昭和57)年にかけて放送された『宗教の時間』という教育テレビの番組で、宗教の話題を中心に、人生の苦境を克服した人物、あるいは人生経験や各種研究の第一人者に対し、番組ディレクターや番組アンカーのアナウンサーがインタビュアーとなり番組が進行する。現在は「こころの時代」と改題し、宗教にとどまらない内容で放送中の長寿番組である(※13参照)。
同局HPに「どうにもならない壁にぶつかったとき、絶望の淵に立たされたとき… どう生きる道を見いだすのか。先人たちの知恵や体験に、じっくりと耳を傾ける番組です。』・・・とあるように、さすがNHKならではの、なかなかいい番組である。
参考※12の 「こころの時代」は、そのNHKの「こころの時代」で 放映されたバックナンバー的なもののようだ。
このNHKの「こころの時代」の放映で、使われていたテーマー音楽がまた良い。我が神戸市出身のピアノ奏者、作曲家。ウォン・ウィンツァン(※14参照)作のテーマ曲だが、特に題名はなく、「こころの時代」テーマ曲とされているようだ。冒頭の動画で聞けるので聞いてみるとよい。

参考:
※1:日本記念日協会
http://www.kinenbi.gr.jp/
※2:OKWave HP
http://www.okwave.co.jp/
※3:プラトン『国家』岩波文庫(下巻):第七巻~第九巻[B.C.375?]
http://www.econ.hokudai.ac.jp/~hasimoto/Resume%20On%20Plato%20Politeia.htm
※4:民主主義国家の末路 | 実存の部屋
http://blog.philosophia-style.com/65284191.html
※5:楽古文:枕草子
http://www.raku-kobun.com/makuranosoushi.html
※6:原文『枕草子』全巻
http://www.geocities.jp/rikwhi/nyumon/az/makuranosousi_zen.html
※7:荻原雲來訳註 法句經 - 青空文庫
http://www.aozora.gr.jp/cards/001529/files/45958_30545.html
※8:マニカナ・ホームページ:エッセー
http://homepage1.nifty.com/manikana/essay/essay.idx.html
※9:瞑想してみる:説法めも【目次】
http://thierrybuddhist.hatenablog.com/entry/2014/11/09/200000
※10:ソクラテスの生涯 - ギリシア哲学への招待状
http://philos.fc2web.com/socrates/soccar.html
※11:人はいかに生きるべきか
http://t3ikio.exblog.jp/13530704
※12:こころの時代
http://h-kishi.sakura.ne.jp/kokoro-mokuji.htm
※13:こころの時代~宗教・人生~/宗教の時間 - NHK
http://www4.nhk.or.jp/kokoro/
※14:ウォン ウィンツァン Wong Wing Tsan ブログ
http://www.satowa-music.com/
禅と悟り
http://www.sets.ne.jp/~zenhomepage/index.html
語源由来辞典:ありがとう
http://gogen-allguide.com/a/arigatou.html

カシスの日

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「念力のゆるめば死ぬる大暑かな」 (村上鬼城)
出典は、大正6年版鬼城句集(※1)より。  
句意は「言語道断の今年の暑さである。常人といえども、もし肝心の念力のゆるむ者がいたら、その者は直ちに病んで死んでしまうに創意ない。」(中村草田男)となるそうだ(.※2参照) 
「肝心」は最も大事なことで、「きもごころ」とも読み、兼好法師の『徒然草』八九段(※3)に「肝心(きもごころ)も失(う)せて、防がんとするに力もなく」と出てくるが、この「肝心も失せて」は「びっくり仰天して」と訳されている。暑さに耐える気力のないものなら死んでしまうほどのびっくり仰天するほどのむちゃくちゃ暑い夏の日であることが伝わってくる。
村上鬼城(本名:村上荘太郎)の句は、人生の悲惨事をなめつくして初めて得られるところに特徴があり、これを「境涯の句」と呼んで評価したのは、大須賀乙字という俳句評論家であり、『鬼城句集』の序文で、「明治大正の御代に出でて、能く芭蕉に追随し一茶よりも句品の優った作者がある。実にわが村上鬼城である」と述べている。実際、鬼城の俳句には人生について深く考えさせられる作品が多くある。参考※1で読めるので読まれるとよい。
夏の季語の「大暑(たいしょ)」。この文字、見ているだけで汗が噴出してきそうな名前であり、1年のうちで、最も暑い頃という意味があるのだが、実際の暑さのピークはもう少し後になる。
元来、太陰太陽暦の6月中 (6月後半) のことで,太陽の黄経(黄道座標における経度)が 120°に達した日 (太陽暦の7月 23日か 24日) に始り,立秋 (8月7日か8日) の前日までの約 15日間であるが,現行暦ではこの期間の第1日目をさす。
今年・2015年7月23日はまさにこの日に当たる。神戸など例年このころに梅雨も明け、暑さもいよいよこれからが本番・・・・となるのだが、今年は台風9・10・11号の影響で中旬から連日猛暑が続き、蝉もにぎやかに鳴いていた。そして、台風(11号)一過梅雨も明けた。今年もこれから蒸し暑さで悩まされることになりそうだが、またまた、台風12号接近中とかで連日雨が降り続いている。まるで梅雨のように・・・。可笑しな天候だ。
世間一般で言われる夏の『土用丑の日』も今年は、明日の24日と8月5日と2回ある。今まで夏バテ防止で食べていたウナギも、最近は高くなって、今までの様には食べれない。他の方法で夏バテ対策しなくてはしようがないな~。

ところで、日本記念日協会(※4)に登録されている今日・7月23日の記念日に「カシスの日」がった。
由緒を見ると、「人々の健康に寄与するカシスへの関心を高めてもらおうと、日本カシス協会(※5)が制定。大暑の頃に収穫される果実のカシスは、その成分であるカシスポリフェノールに末梢血流の改善作用がある。日付は大暑となることが多い7月23日に」…とあった。
カシス?・・・・。私は、よく知らない名前なので,女房殿に聞くと名前だけは知っているが、どんなものかはよく知らないというので、Wikipediaや日本カシス協会(※5)その他にアクセスして、調べてみた。
まず、カシスって何か?
「カシス」(Cassis)、はフランス語であり、日本では、クロスグリ(黒酸塊、別名:クロフサスグ学名 Ribes nigrum)と呼ばれているもののことでスグリ科フサスグリに属するするものであり、英語ではフサスグリ全般を「カラント(currant)」と呼ぶが、カシスは果実の色が濃い紫色でほとんど黒に見えることからブラックカラント (Blackcurrant)と呼ばれている(冒頭の画像がクロスグリ)。果実の色が赤色の系統をアカスグリ(赤すぐり、レッドカーラント)、白色の系統をシロスグリ(白すぐり)と呼ぶが、黒色のクロスグリ(カシス)とは別種だそうである。
カシスは古代からヨーロッパの山奥などに生育していたそうだが、食用に利用されたという古い記録はなく、カシスが食用できることを初めて紹介したのは、ルネッサンス時代の植物学者ガスパール・ポアンといわれているそうだ。さらに1712年にはフランスのバーイ・ド・モンタラン神父がカシスに関する本「'Les Proprietes Admirables du Cassis' (カシスの驚異)」を出版し、"カシスの絞り汁は万病に効く秘薬であり、若返り(不老不死)にも効果がある"と紹介しているという。
このような時期を経て少しずつカシスは一般的になり、18世紀半ば、フランス・ブルゴーニュ地方のワイン畑の一画などで、主に薬用として栽培されるようになり、フランスでは葉を乾燥させたものがリウマチによいとされ、今でも生薬を販売する店で売られているという。
カシスは、ヨーロッパやアジアが原産とされているが、現在カシスの世界最大の産地はポーランドで、毎年10万トンから14万5千トンの収穫高があり、これは世界全体の収穫高の約半分を占めるそうだ(Wikipedia)。また、日本国内では青森県が主な産地で、国産カシスの約90%、年間5.9トンのカシスが生産されているようだ。青森では「クロスグリ」ではなく「黒房スグリ」と呼ぶようだ。以下参照。
青森=りんごじゃない!?実はカシスの生産も盛んな青森県 | 青森でくらす
クロスグリの実はかすかな苦味をもち、ゼリー、ジャム、アイスクリーム、コーディアルリキュールなどに利用される。また、イギリス、ヨーロッパ、イギリス連邦諸国では、クロスグリの風味を加えたり、干した果実を加えたクッキーなどの菓子が多数存在するそうだが、青森では、「カシスのちらしずし」や「カシスジャムとリンゴの春巻きパイ」などといった、ちょっとおもしろいカシス料理もあるようだ。上掲のページで、レシピを動画で見られるので、興味のある人は覗かれるとよい。
青森市ではカシスの特産品化が進められており、カシス協会主催の「カシスサミット」なるものも開催されているようだ。カシス協会は、カシスの生産者、カシスの研究を進める研究者を中心に構成され、カシスを積極的に食すことによる眼病予防の啓発、また、カシスの香りや美しい色で生活を豊かに彩ることの提案で、健康とキレイの両方を手に入れられるように、カシス産業、カシス文化の確立を目指してるそうで、「カシスの日」を7月23日(大暑)として設けたのは、2006年2月14日に青森で開催された「第一回カシスサミット」だったようだ(※5の活動報告参照)。

カシスはビタミンC、ビタミンEだけでなく、マグネシウム、鉄分などのミネラル類も豊富に含んでおり(栄養成分の説明については※6参照)、 さらにカシスが注目されているのは、これらに加えて抗酸化成分として知られる「ポリフェノール」を多く含み、なかでも、ポリフェノールの1種である、「アントシアニン」の含有量が多いことだという。
「ポリフェノール」の中でも有色野菜や果物の赤紫色を構成する色素成分で、カシスに含まれるアントシアニンは、抗酸化に優れている4種類(※7のアントシアニンって?参照)を含み、特に「D3R」と「C3R」はカシス特有の成分で、ブルーベリービルベリーなどには含まれていないものだという。そのため、同業界では、「カシスアントシアニン」と呼んで区別しているようだ。
カシスには目の疾患をはじめに筋肉疲労や動脈硬化など多くの症状に効果が期待できるが、それらの効果の根本を成すのが次の4つの効能だそうだ。
1.活性酸素を除去する効能
2.末梢血管(毛細血管)の血流を改善する効能
3.毛様体筋を弛緩する効能
4.ロドプシンの再合成促進作用
カシスには上記の4つの効能を軸に、視力回復効果や目の疲れ(眼精疲労、※8参照)の緩和効果など他にも目に対する効果を中心に14の効果が期待できるという(※7のカシスが持つ18の効能と効果を参照)。
近年、パソコンやゲーム機、携帯電話やスマホなどの普及に伴い、視力の低下した小中学生が増加しているが、小中学生のような子供だけでなく、若者でも、携帯電話やスマホを片時も.手放せずに使用している者が多い。
あのような小さな画面を長時間、高頻度で「近くを見る作業」を続けていると眼軸長(下図参照)が延長し(眼球がラグビーボールのような形になる)、それが慢性化することで軸性近視(近視は焦点が網膜の手前にある状態.。※8参照)となるが、ヒヨコをモデルに用いた実験でカシスアントシアニンの近視化抑制効果があると発表されているようだ(※5のここ参照)。
カシスは世界中に広く分布しているが特にニュージーランド産のカシスが有名だそうだ。カシスは紫外線量に比例してアントシアニンが増えるので、日本の約7倍も紫外線量があるというニュージーランドはカシス栽培に非常に適した場所であり、アントシアニンをたっぷりと含んだ良質のカシスが育つのだそうだ(※9参照)。
歳ののせいもあるが、私もこのブログを書いたりするのに、結構長い時間パソコンの前にいることが多いせいで、ここのところものが少し見にくくなってきている。カシスには目に良いポリフェノール以外にもビタミンC他豊富な栄養素が多く含まれているようなので、適当なものが安く買えれば良いな~と思うのだが、参考※9の商品紹介のページなど見ていると、「本品は特定保健食品と異なり、消費者庁長官による個別審査を受けたものではありません。」…とあった。ここのところはちょっと気になるところだな~。

参考:
※1:近代デジタルライブラリー - 鬼城句集
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/905666
※2:村上鬼城の俳句 | 季語と俳句鑑賞ノート
http://anketopia.com/haiku_kigo/node/638
※3:徒然草(吉田兼好著・吾妻利秋訳)
http://www.tsurezuregusa.com/index.php?title=Category:%E5%BE%92%E7%84%B6%E8%8D%89
※4:日本記念日協会
http://www.kinenbi.gr.jp/
※5:日本カシス協会
http://j-cassis.jp/index.html
※6:栄養成分百科 |江崎グリコ
http://www.glico.co.jp/navi/dic/index.html
※7:カシスの効果・効能まとめ
http://cassis.wgjp.net/
※8:目と健康シリーズ-三和化学研究所
http://www.skk-health.net/
※9:カシスの秘密―明治
http://www.meiji.co.jp/health/cassis-i/secret/knowledge.html
クロスグリー.Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%AD%E3%82%B9%E3%82%B0%E3%83%AA

世界初のカラー映画(短編アニメ) 『花と木』が公開

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暑い中、訪問ありがとうございます。
1932年の今日・7月30日は、ウォルト・ディズニーの短編アニメーション花と木』が公開された日です。
『花と木』(原題:Flowers and Trees)は,ウォルト・ディズニー・プロダクション(現:ウォルト・ディズニー・カンパニー)製作によるアニメーション短編映画、シリー・シンフォニーシリーズ(※1:「ディズニー データベース」短編映画参照)の一作品で、1929年 8月22日公開の第1作『骸骨の踊り』( The Skeleton Dance)から数えて、29本目の作品である。また、本作品は、3色式テクニカラー(Technicolor)方式による世界初のカラー映画であり、第1回アカデミー短編アニメ賞(Academy Award for Animated Short Film)を受賞している。
アカデミー短編アニメ賞はアカデミー賞の部門の一つで、その年アメリカで上映されたもっとも優れた短編アニメーション映画に与えられるものであり、1932年の第5回アカデミー賞から始まリ、1931年から1932年の作品を対象として選ばれた。



森の中にボーイツリー とガールツリー の若い木のカップルがいた。年老いた嫌われ者の木は火を起こしてボーイツリーを焼こうとするが、・・・・(『花と木』)。
『骸骨の踊り』に始まったディズニーの”シリー・シンフォニーシリーズ”は、ミュージカルの取り込みを基本に、新しい脚本の方向性や製作技術など斬新的な試みが積極的に導入されていた。
1932年7月30日公開されたバート・ジレット監督の『花と木』は、当初はコストがかかりすぎるとの理由で、モノクロで製作されていたが、ディズニーがカラーアニメーションに踏み切れば世界のアニメーションが向上するという主張が通り、カラーとなったものだという。

世界最初の実写部分を含まない純粋な短編アニメーション映画は、フランスの風刺画家エミール・コールによる『ファンタスマゴリ(英語版)』(1908年、原題:Fantasmagorie)だそうである。

ファンタスマゴリー - YouTube

以後、数年間でアメリカおよび映画発明国フランスで線画アニメ映画の製作が盛んになった。そして、アメリカン・アニメーションの黄金時代は、1928年の音声付きカートゥーン(cartoon)映画の登場に始まり、劇場用短編アニメーションがテレビ用アニメーションに緩やかに敗退を始めた1960年代まで続いた。
1927年のトーキー導入は映画産業を震撼させ、アニメーション産業もまた2年後に同様の改革期を迎えた。
ミズーリ―州カンザスシティーで、アニメ制作会社(Laugh O'Gram Studio社)を設立し、漫画家からアニメーターとして活躍していたウォルト・ディズニーはアニメでは成功していたものの制作に没頭する余りに資金のやり繰りが乱雑になりスタジオを倒産させてしまった。
彼は、経営面のサポート役を立てる事の必要性を痛感し、倒産後の整理を終え再起を図って、1923年7月映画産業の本場ハリウッドへと移住した。ハリウッドでは兄のロイ・ディズニーと共に同年10月、カンザス時代に一本だけ制作した「アリスの不思議の国」シリーズの続編商品を販売する会社ディズニー・ブラザーズ・スタジオ(現・ウォルト・ディズニー・カンパニー)を設立し、少女子役の実写にアニメーションを織り交ぜた「アリスコメディ(Alice Comedy)シリーズ」(これらの物語はキャロルのアリスとはほとんど関係ない。不思議の国のアリスの映像作品参照。)で人気を博し、その後1927年に、興行師チャールズ・B・ミンツ(Charles・ B・ Mintz)の紹介でユニバーサル・ピクチャーズ(Universal Pictures)と繋がりを得たウォルトは自社キャラクター「オズワルド・ザ・ラッキー・ラビット」を考案、うさぎのオズワルドを主人公にしたアニメをユニバーサル配給で制作し子供の間で大ヒットを飛ばし、一躍ディズニー社躍進の切掛けを作った。.

AC1 アリスコメディー Alice's Wonderland (1923) ディズニー - YouTube

.オズワルド・ザ・ラッキー・ラビット 紹介映像 - YouTube

しかし,配給業者チャールズ・ミンツとユニバーサル・ピクチャーズの謀略(法外な配給手数料の要求)により、ディズニー社は配給元と自社キャラクター、そして若いころからの無二の親友アブ・アイワークス(Ub lwerks)を除く殆どのスタッフを失って倒産寸前に追い込まれたが、進取の精神に富んだ彼はアイワークス, 兄ロイ、妻(Lillian)らに支えられ、社運を賭けた博打に打って出て“ミッキー・マウスシリーズ”を誕生させた。
当シリーズの第3作(ミッキーマウスを登場させた短編映画シリーズとして最初に公開された作品)『蒸気船ウィリー』(原題:『Steamboat Willie』)は、音声と映像を完全に一致させた世界最初のアニメーション映画であり,1928年11月にニューヨークのコロニー・シアター(現:ブロードウェイ・シアター)で上演されたとき、このカートゥーン映画は記録的な売り上げを達成し、大衆を魅惑し、批評家と観客の絶賛を浴びた。
これらミッキーマウス・シリーズの初期作品において、秀逸な動きの描写はアイワークスが書き出す一方で、ウォルトは演出面で高い才能を発揮した。対照的にウォルトの演出とアイワークスの作画を失ったオズワルドは次第に人気を失い、1930年代には完全にミッキーに取って代わられる事になる。ミッキーはオズワルドを凌ぐ人気キャラクターとなり、世界的な知名度を得てディズニー社の再建に大きな力を発揮。彼の経歴の中で成し遂げた幾つもの偉業の口火を切ることにもなった。
1930年代前半を通して、アニメーション業界は、二つの派閥に分割されているように見えた。つまり、ウォルト・ディズニーと「それ以外」である。
ロサンゼルスの一零細スタジオで創造したミッキーマウスはその驚異的な人気により、アニメーションのスターというより、チャーリー・チャップリンと並ぶ世界で最も有名な銀幕のスター達の一人として迎え入れられるようになり、ディズニー作品に基づく関連商品は、多くの企業を世界大恐慌による財政的な窮地から救い出した。
また、当時、アメリカ経済が不況のどん底にあったため、優れた才能を持つアニメイターをスタジオに集めることができたディズニーは、この人気に乗じ、アニメーションに更なる改革を加えた。映画においてテクニカラー社の三色処理方式の開発でディズニーの果たした役割は大きい。
「像に色をつける」という試みはサイレント映画時代の初期から試みられており、当時は1コマ1コマ手作業で着色されていた。その後カラーフィルム自体はイギリスで開発されたキネマカラーに次ぐカラー映画彩色技術として、アメリカで1916年に2原色式テクニカラーが開発されるが、青や黄色が表現できないなど、色彩再現力が不完全であった。
その後改良も進み、二本のフォルム画像を新しいフィルムに転写する「ダイ・トランスファー方式」(染料転写方式)が採用されたことで上映技術も向上し多くの映画が制作されたが、1930年以降大恐慌の影響や、カラー作品が興業成績の向上につながらず、テクニカラー社は財政面で苦戦していた。
しかしフルカラー映画技術の開発も進み、テクニカラー社は三色法による技術を開発した。特別なカメラを使用し被写体をプリズムで分解し、赤青緑それぞれのフィルターを通した画像を三本のモノクロフィルムに別々に同時に記録し、その後「ダイ・トランスファー方式」で一本の映写用フィルムを作成すると言う方式(3原色式の改良版テクニカラー)であった。
この方式を使った総天然色で上映された最初のアニメーション作品が、1932年公開のディズニーの短編映画『花と木』(原題:Flowers and Trees)であった。
この映画で、第1回アカデミー短編アニメ賞を受賞したディズニーは、興行的成功を収め、その後、1935年まで三色式テクニカラーの独占使用契約をテクニカラー社と結んだため、その間他の映画スタジオは2原色テクニカラーか、あるいは、シネカラーなどの不完全なカラー・システムの使用を余儀なくされた。

ところで、第5回アカデミー賞における、第1回アカデミー短編アニメ賞には、1931年12月9日公開のデイヴィッド・ハンド)監督作品『ミッキーの子沢山』 (原題:Mickey's Orphans。※1参照)もノミネートされていた。
同作品の内容は、吹雪の晩。クリスマスを過ごすミッキーマウス、ミニーマウス、プルートの家にマントを身につけた謎の人物が訪れる。その人は玄関の呼び鈴を鳴らすと、バスケットを玄関に置き、一目散に逃げ出してしまう。 そのバスケットの中には子猫が入っていた。そして、その子猫が起こすてんやわんや・・・。といったもので、先にも書いた“ミッキーマウスの短編映画シリーズ『蒸気船ウィリー』から数えて36作目の作品である。

36 ミッキーの子沢山 Mickey's Orphans 19311209 - YouTube

この時、ディズニープロの2作品以外に、もう1作、第1回アカデミー短編アニメ賞にノミネートされていた作品がある。ワーナー・ブラザーズ・ピクチャーズで、レオン・シュレジンジャー・プロダクションズ(Leon Schlesinger Productions)により製作されたメリー・メロディーズ(Merrie Melodies) シリーズの『It's Got Me Again!』(1932年3月公開)、 監督はルドルフ・アイジングの白黒作品である。

It's Got Me Again! (1932) A Merrie Melodies Cartoon - YouTube

同作品の内容は、深夜、とある空き家にて、時計の鐘を合図にネズミたちが穴からぞろぞろ出てきて、歌え踊れやの大騒ぎを始める。そこへ凶悪な顔の猫が現れ、ネズミを食べようとするが、ネズミたちは団結して猫に立ち向かうというもの。ネズミの撃つ豆鉄砲を食らって猫が「It's Got Me Again」.(また俺かよ)というのがタイトル名となっている.。何か、この映画に登場する白黒のネズミたちは、ミッキーとよく似た感じだが・・・。
メリー・メロディーズ(Merrie Melodies)は、ワーナー・ブラザーズ・ピクチャーズが1931年 ~ 1969年 の間製作していたアニメーション作品である。同社には、主に1930年から1969年まで製作された「ルーニー・テューンズ」(英語:Looney Tunes)というアニメシリーズがあり、「メリー・メロディーズ」(Merrie Melodies)はその派生作品であるが、便宜上合わせてルーニー・テューンズと呼ばれる事が多いようだ。
バッグス・バニーダフィー・ダックトゥイーティーなど世界的に有名なキャラクターを多数有する本作は、1947年から1969年までの間、ディズニーなどのライバルを抜き、最も人気のあるアニメーション短編映画シリーズであったと言われている。
最も輝かしかった1940年代から1950年代の作品の中にはアカデミー短編アニメ賞の受賞(ここ参照)やアメリカ国立フィルム登録簿へ登録されたもの(『カモにされたカモ』[英題:『Duck Amuck 』1953公開。バッグス・バニーがカメオ出演)なども多数存在する。

1923年に設立されたワーナー・ブラザース・ピクチャーズは、1927年10月6日、『ジャズ・シンガー』(アラン・クロスランド監督)を公開している。この映画はヴァイタフォン方式を採用した世界初のトーキー映画と言われている。
なんでも、「You ain't heard nothin' yet! (「お楽しみはこれからだ!」 直訳では「君はまだ何も聴いてないんだぜ」)」というセリフが、映画史上初めてのセリフとして有名だそうである。映画全編を通してのトーキーではなく、部分的なトーキーだったが、驚異的な興行収入を記録し、トーキー時代の幕開きとなった映画で、第1回アカデミー賞で脚色賞部門でノミネートされている。
1928年、ワーナー・ブラザースは初の全編音声付きトーキー『Lights of New York』を製作し成功を収めた。これ以後、映画業界はトーキー製作になだれ込む事になる。

At Dawning (Lights of New York) - YouTube

さらに1929年6月13日にはテクニカラーの「On with the Show」(邦題:『エロ大行進曲』※2参照)を世に問うている。それまで二色式カラー映画や無声テクニカラー映画は発表されていたが、全編音声付・全編カラー映画はこれが最初だった。ただ、テクニカラーというが、まだ、2原色式テクニカラー時代のものだっただろう。
同年、同様のカラー映画『ブロードウェイの黄金時代(Gold Diggers of Broadway)』(※3参照)を製作しこの年一番の人気を博し、1939年まで各地の劇場で続映され続けるほどのヒットになった。
これ以後、ワーナーは1931年までの間に数多くのカラー映画を製作する。これらの映画はいずれもミュージカルであったが、1931年に各地の観客がミュージカル映画に飽きてしまい、ワーナーは多くのミュージカルの製作を中止し、すでに製作した映画をコメディとして宣伝するはめとなった。
観客はカラー映画をミュージカルと同一視してしまったため、ワーナーほか各社はカラー映画の製作を行わないようになった。しかし、ワーナーはテクニカラー社とあと2本カラー映画を製作する契約が残ってしまっていたため、ミステリー映画初のカラー作品『ドクターX(Doctor X)』(1932年)と『肉の蝋人形(Mystery of the Wax Museum)』(1933年)が製作されたという。

ワーナー・ブラザーズは自社音楽を促進するためのアニメーション短編映画に興味を持っていた。
ワーナーのアニメーション(カートゥーン)映画製作は1930年より、レオン・シュレジンガー(Leon Schlesinger。ワーナー兄弟とは遠縁の親戚だったらしい)所有の独立スタジオの下で開始された。
シュレジンガーのパシフィック・アート・アンド・タイトル社はワーナーの映画のタイトルやサイレント映画の字幕などを製作していたが、ヒュー・ハーマン(Hugh Harman)とルドルフ・アイジング(Rudolf Ising)というディズニー出身の有能なアニメーターを社外から招き、カートゥーン製作に乗り出した。そして、かれらによってルーニー・テューンズは製作される事となった。
ルドルフ・アイジングは、初期はヒュー・ハーマンとともにウォルト・ディズニーの元で『アリス・コメディーズ』や『オズワルド・ザ・ラッキー・ラビット』の制作に参加し、ディズニーやアブ・アイワークスにミッキーマウス誕生のきっかけとなるネズミのスケッチを提供していたという(ミッキーマウスの映画としては最初に制作された作品、『プレーン・クレイジー』原題:Plane Crazy。邦題:『飛行機狂』の、作画を担当)。
そのようなこともあって、この頃の作品はディズニーの短編アニメーション映画の模倣にすぎなかったようだ。道理で、前にも紹介したワーナー・ブラザーズが1932年に公開した『It's Got Me Again!』のネズミがミッキーと似ているのも頷けるよ。
彼らはジャズを使って過激なギャグ(この後のヘイズ・コード適用後は不可能になった)を交え、ミッキーに良く似たキャラクター、黒人少年ボスコ(Bosko)を主役にした『Sinkin' in the Bathtub』(1930年)を皮切りにルーニー・テューンズは一躍ヒットシリーズとなり、より音楽を重視した派生作品『メリー・メロディーズ』なども製作されるようになった。

3 プレーンクレイジー Plane Crazy 19290317 19280515 - YouTube

LT001 Sinkin' In The Bathtub (May,1930)-YouTube

しかし、ワーナーと彼らの蜜月期間も長くは続かなかった。1933年にハーマンと、アイジングは作品の質を上げるためにより大きな設備を要求し、これが原因でシュレジンガーと衝突。おりしもMGMが二人にもっと有利な契約を持ちかけていた(※4の第8章参照)ようで、二人はボスコを引き連れて去っていったため、ワーナーはボスコなど過去の作品の権利も失う事となった。
スターを失ったルーニー・テューンズはその後、ジャック・キングやフリッツ・フリーレング(Friz Freleng)らにより新たなキャラクター白人少年バディ( Buddy (黒人のボスコの白人版に過ぎないもの)などを主役とした作品が製作されることになるが、どれも短命に終わった。
ボスコの権利を失って以降、スターの不在が続いたルーニー・テューンズだが、フリッツ・フレリングが監督したメリー・メロディーズ作品『楽しい母親参観』(1935年、原題:I Haven't Got a Hat)に吃音の豚ポーキー・ピッグが初登場し、『Gold Diggers of '49』(1936年)を経て、一躍ルーニー・テューンズの花形スターとなり、作品的にも、後にアメリカ国立フィルム登録簿に登録された、『Porky in Wackyland』(1938年公開 [後に『幻のドードーを探せ』(1949年、原題:Dough for the Do-Do)としてカラーリメイク化] ※5の2000年登録参照)などの傑作が生まれた。
しかし彼(これらキャラクター)の栄光も長くは続かなかった。新たなスターダフィー・ダックが登場した。『Porky's Duck Hunt』(1937年)にて初登場した彼は、今までにない狂ったキャラクターで観客を虜にした。以後、ポーキーが主役を張る事は少なくなったものの、ダフィーのパートナーとしてキャラクターを発展させていく事になる。

Beans the Cat Porky Pig - Gold Diggers of '49 -1935- Looney Tunes - Tex Avery

Porky in Wackyland X Dough for the DoDo-YouTube

1940年にはルーニー・テューンズの顔であるバッグス・バニーが『野生のバニー』(原題:A Wild Hare)にて初登場(これが、バッグス・バニーの第一作とされるが、原型となったキャラクターを含めると『Porky's Hare Hunt』(1938年)まで遡れる)し、レオン・シュレジンジャー・スタジオ制作のこの作品(監督 テックス・アヴェリー)が久しぶりにアカデミー短編アニメ賞にノミネーとされ、以後も記憶に残るルーニー・テューンズスターのデビューが続いた。
なお、この時同時にノミネートされたのはMGMの『上には上がある』(原題:Puss Gets the Boot)、つまりトムとジェリー第一作であり、オスカーを手にしたのは、同じくMGMの『あこがれの銀河』(原題:The Milky Way)、つまり、初めてディズニー以外の社がオスカーを受賞した。この年ディズニーは短編部門にノミネートされていない。但し『ピノキオ』で劇中歌『星に願いを』(原題: When You Wish Upon a Star)が歌曲賞を獲得している。
そして、1940年代には、ワーナーのアニメーション短編映画に初のアカデミー賞をもたらす事となるカナリアのトゥイーティーが登場した。ボブ・クランペット(Bob Clampett)による作品『A Tale of Two Kitties』(1942年)にて誕生したのだが、真価を発揮したのはフリッツ・フレリング(Friz Freleng)の『『ピーチク小鳥』(原題:Tweetie Pie。1947年)以降の事である。本作は同年のアカデミー・短編アニメ賞を受賞した他、以後定番となるシルベスター・キャットとの黄金タッグを確立した記念碑的作品となった。
この新キャラは基本的にMGMが作ったトムとジェリーのネコ対ネズミの繰り返しだが、素材の新鮮さとしては新しいシリーズに十分だった。トウィーティと猫のシルヴェスター(シルベスター・キャット)はハンナ&バーバラの二匹より豊かな性格を見せた。トウィーティは赤ちゃんカナリアで子供らしい外見と大きな青い瞳をしている。しかしその天使のような風貌の下にはずる賢く、しばしば残忍な性格を隠している。当然、幸運と巧みに呼び込んだ味方によって彼はシルヴェスターから自分の身を守る。シルヴェスターの方はといえば、彼は無垢な存在どころではなく、裏切り者で限りなく卑劣に振る舞う存在である。だが、運命は彼に冷たい。彼は弱者(に見える者)が有利になる判官びいきの犠牲になる。
以後トゥイーティーはフレリング専用のキャラクターとなった。

【旧吹替】ルーニー・テューンズ/楽しい母親参観 - HOC0

Porky in Wackyland X Dough for the DoDo-YouTube

Porky's Duck Hunt(1937年) - Video Dailymotion

バッグス・バニー 「野性のバニー」 (THE WILD HARE) - nicozon

A Tale of Two Kitties - YouTube

Tweetie Pie - 1947 - with original recreated tirles

この頃になるとチャック・ジョーンズも頭角を現す様になってくる。チャックの初期の作品は子鼠のスニッフルズ(Sniffles)など、ワーナーの作品にしては可愛く、毒の無いものが大半だったが、1940年代には笑いのセンスを徐々に洗練していき、1950年代には後年にも評価される作品を多数製作した。
特に有名なものとしては現在のダフィーのキャラクター性を決定づけた狩人3部作[『標的は誰だ』(1951年、原題:Rabbit Fire)、『ちゃっかりウサギ狩り』(1952年、原題:Rabbit Seasoning)、『何のシーズン?』(1953年、原題:Duck! Rabbit, Duck!)]やアカデミー賞を受賞したペペ・ル・ピュー(Pepe_Le_Pew_ )作品『For Scent-imental Reasons』(1949年)、アメリカ国立フィルム登録簿により永久保存が決まった『オペラ座の狩人』(1957年、原題:What's Opera, Doc?)や、先にも挙げた第四の壁を巧みに利用した『カモにされたカモ』(1952年、原題:Duck Amuck)他、一定のルールを作りカートゥーンの法則を突き詰めていったロード・ランナー&ワイリー・コヨーテの作品群(※6参照)などである。

バッグス・バニー&ダフィー・ダック/標的は誰だ ‐ ニコニコ動画:GINZA

バッグス・バニー「いたずらなうさぎ」.- nicozon

バッグス・バニー&ダフィー・ダック/『何のシーズン?』( Duck! Rabbit, Duck!)

For Scent-imental Reasons (Commentary by Michael Barrier)

24.For.Scent-imental.Reasons.1949.LATiNO

バッグス・バニー/『標的は誰だ』 - nicolife (落書き多いが)

バッグス・バニー/オペラ座の狩人-nicozon

Looney Tunes 1(ロードランナーvsワイリーコヨーテ - YouTube

1960年代に入るとスタッフの引退、死去などによって作品の質が徐々に低下していった。1963年にはアニメーションスタジオが閉鎖されたが、新スタジオDePatie-Freleng Enterprises(後にピンク・パンサーを製作。)への交代によりアニメーションの製作自体は続行された。この頃の作品の特徴としては、ワーナーロゴの変更。リミテッド・アニメーション化。新しいキャラクター「クールキャット」(Cool Cat)の登場。バッグス、トゥイーティーの欠如などがあげられる。オリジナルのアニメーション短編映画はメリー・メロディーズ作品『Injun Trouble』(1969年)にて製作が終了したが、その後ファミリー向け映画の同時上映作品として再開し、今日まで散発的に製作され続けている。

Injun Trouble (1969) - Video Dailymotion

今日は、世界初の3色式テクニカラー映画であるディズニーの短編アニメ『花と木』に絡めて、1940年代にはディズニーの短編アニメにとって代わる短編アニメを育て上げたワーナー・ブラザーズのレオン・シュレジンジャー・プロダクションズの“ルーニー・テューンズ”のスターたちのことを書いてみた。
難しいことを云うより、その作品を見て楽しんでもらった方が良いと思うのでネット上で見れるものをできるだけ多くリンクしておいた。
暑い夏、熱中症には気を付けて元気でお過ごしください。
私も、暑さで集中力もなくなっているので、明日から8月一杯は夏休みといたします。又,涼しくなったら、来てください。

◎冒頭に掲載の画像は、マイコレクション旧三菱銀行貯金箱より(Corection Room参照)。英語:「Wishing you healthy summer」は、日本語では「あなたのために健全な夏を祈る」となります。

参考:
※1: ディズニー データベース
http://www29.atwiki.jp/wrtb/
※2:エロ大行進 | Movie Walker
http://movie.walkerplus.com/mv1187/
※3:ブロードウェイ黄金時代 | Movie Walker
http://movie.walkerplus.com/mv7979/
※4::カートゥーン:アニメーション100年史
http://homepage1.nifty.com/gon2/cartoon/index.html#chap8
※5:アメリカ国立フィルム登録簿 2000年 - allcinema
http://www.allcinema.net/prog/awardmain.php?num_a=1313
※6:ルーニー・テューンズ・全キャラクター/ワーナー・ブラザース
https://warnerbros.co.jp/characters/looneytunes/character.html
WaltDisneyと大恐慌(Adobe PDF)
http://www.i-repository.net/contents/asia-u/0000000003434.pdf#search='%E4%B8%96%E7%95%8C%E5%A4%A7%E6%81%90%E6%85%8C+%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%BA%E3%83%8B%E3%83%BC%E4%BD%9C%E5%93%81'

木歩忌

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今日・9月1日は境涯の俳人と呼ばれた富田木歩(とみたもっぽ)の1923年の忌日である。
東京の下町、墨田区向島2丁目の、隅田川に沿った墨堤(ぼくてい)通り(墨田区吾妻橋から足立区千住桜木までの道路の呼び名)から少し入ったところに、三囲神社(三囲稲荷社。※1:「Google Earthで街並散歩(江戸編)」の江戸北東エリアの三囲神社も参照)がある。創建年は不詳であるがなかなか由緒ある神社で、三囲の名は社殿の下から掘り出された翁がまたがる白狐の神像から白狐が現れて、三遍回って姿を消したことに由来するとされる(国立国会図書館・近代デジタルライブラリー『江戸名所図会』※2の7巻.-19の本文参照)。
新春行事の「隅田川七福神めぐり」(※1の江戸の巡礼の隅田川七福神)の神社のひとつにもなっている。この三囲神社(三囲社)のことは、以前このブログ「雨水」(うすい)で触れたが、元禄6年(1693年)、旱魃(かんばつ)の時、松尾芭蕉の一番弟子と言われる俳人宝井其角が偶然、当地に来て、地元の者の哀願によって、この神に雨乞いする者に代わって、

「遊(ゆ)ふた地(=夕立のこと)や田を見めくり(三囲)の神ならは」

と、一句を神前に奉ったところ、翌日、降雨を見たという。このことからこの神社の名は広まり、京都の豪商三井氏が江戸に進出すると、その守護神として崇め、三越の本支店に分霊を奉祀したという。

国立国会図書館・近代デジタルライブラリー『江戸名所図会』(※2)の19巻-4「三囲稲荷社拡大図」

そのせいか、同社境内には、其角の句碑をはじめ、著名俳人の句碑がたくさんあり、その中に、富田木歩の句碑もある。

「夢に見れば死もなつかしや冬木風 木歩」

同句碑は、全国の俳人有志が浄財を出して、木歩の慰霊の為に建てたもので、同句碑の書は臼田亞浪による。
句碑裏面には「大正拾参年九月一日震災の一周年に於て木歩富田一君慰霊乃為建之友人一同」と刻まれている(※3 参照)。
1989(平成元)年3月には、富田木歩終焉の地である枕橋(※1の江戸北東エリア・隅田川・向島の源森橋参照)近くには、以下の句碑が墨田区によっても建立されている。

「かけそくも咽喉(のど)鳴る妹よ鳳仙花 木歩」

肺を患い死期の迫った妹を歌ったものである。木歩はすぐ年下の妹を看病をするが、妹もまた兄思いであった。その妹は大正7年7月になくなている。
富田木歩は多くの俳人の中でも特異な俳人である。木歩は、1897(明治30)年4月14日、東京市本所区新小梅町(現在の東京都墨田区向島一丁目)、つまり、三囲神社のすぐ隣りに生まれた。木歩が生まれた明治30年頃は、まだ江戸時代のおもかげの残った下町であったという。
最初の俳号は吟波、後に木歩と号するようになる。誕生の翌年、高熱のため両足が麻痺し生涯歩行不能になった。加えて貧困のため、本人の強い希望にもかかわらず義務教育である小学校にも通えず、2人の姉・富子や久子に当時の「いろはがるた」や「軍人.めんこ」などを読んでもらって文字を覚え、それを頼りに、少年雑誌のルビ付きで難しい漢字をも会得したという。
俳号の木歩は、彼が歩きたい一心で自分で作った木の足に依る。
彼には4人の姉妹と兄、聾唖の弟がいたが、姉妹は貧困のゆえにことごとく遊郭に身を落とし、一人の妹と弟も結核で亡くなっているが、彼の最期も無惨なものだった。
木歩自身も、1918(大正7)年21歳のころから、喀血するようになり、病臥の身となった。歩行不能、肺結核、貧困、無学歴の四重苦に耐えて句作に励み、「大正俳壇の啄木」と言われ将来を嘱望されていたが、1923(大正12)年9月1日、関東大震災で焼死。26歳の短い生涯を終えた。

そもそも、富田家は旧家で代々、向島小梅村近辺の大百姓だったそうだ。向島には三業組合(三業とは 芸者置屋、料理屋、待合のことであり、三業組合の事務所として見番[検番]がある)が今でもあり、花街がある。また隅田川土手は隅田公園と言われ、江戸時代に8代将軍・徳川吉宗が桜を植えたのが始まりの桜の名所として有名。そして、同じく吉宗が大川端(現在の隅田川河畔)で催した、「川施餓鬼」(死者の霊を弔う法会=施餓鬼)に遡る隅田川の花火(ここ参照)は夏の風物詩であり、冬は雪見の名所でもあった(※4、※5参照)。
広義の向島、隅田川東岸には「牛島」「柳島」「寺島」などといった地が点在していた。対岸地域から見て、これらを「川向こうの島」という意味で単に「向島」と総称したとも言われている。「向島」の名前が正式な行政地名としてつかわれるようになったのは1891(明治24 )年に向島小梅町、向島須崎町、向島中ノ郷町、向島請地町、向島押上町などといった地名の誕生からのこと。墨田区が成立する前、1932(昭和7)年、向島区が成立した。
木歩の祖父は明治のはじめにそんな向島に初めて芸妓屋を開いて花街の基礎を作った人で、言問にあった「竹屋の渡し」も所有していたそうだ。
隅田川には江戸時代を通じて渡し(渡し船)は増え続け、最盛期の明治時代初頭には20以上の渡しの存在が確認できるという。
「竹家の渡し」はその一つで、「向島の渡し」とも称された。待乳山聖天(本龍院)のふもとにあったことから「待乳(まつち)の渡し」とも称される。「竹屋」の名は付近にあった茶屋の名に由来するという。現在の言問橋のやや上流にあり、山谷堀から 向島三囲神社)を結んでいた。
先にも書いた通り、付近は桜の名所であり、花見の時期にはたいへん賑わったという。竹屋の渡しは、文政年間(1818年 - 1830年)頃には運行されており、1933(昭和8)年の言問橋架橋前後に廃された。近くの台東区スポーツセンター広場に渡し跡の碑がある(※1のここ参照)。
しかし、木歩の祖父の七男丑之助、すなわち、木歩の父親は、万事派手で博打好きで、分けてもらった財産のあらかたを無駄に使い尽くし、おまけに1889(明治22)年の大火で屋号「富久」の本家も資産の大方が灰に帰すと、1897(明治30)年ごろには丑之助一家は、小梅町の一角に鰻屋「大和田」をやっと開いているだけの貧乏所帯だったという。
そんな、父丑之助、母み禰(みや)の次男として生まれた木歩の本名は、一(はじめ)と言った。一が生まれた時、既に長男の金太郎、2人の姉(長女富子と次女久子)がいた。
木歩が次男なのに一と名付けられたのは、母の実兄、野口紋造に子供がないことと、貧乏だったので、口減らしの為、生まれてすぐ、養子になる約束を取り交わしていたからだが、木歩は、1歳の時に高熱を出して両足が麻痺してしまったが、長じるに従がって、膝から下は萎びた細い脛がだらりとぶら下がっているだけで、両足がきかなく歩けなくなっったため、養子の約束は伯父の方から破約されてしまった。そして、三男利助、更に2人の妹、三女まき子、四女静子と兄弟は7人となり所帯はますます苦しくなった。その上、無情にも弟利助は聾唖者だった。そのため世間からは鰻屋は「殺生をして商いをする家だから、二人も不具者が出たのだ」と陰口されていたという。
後に“我ら兄弟の不具を鰻賣るたゝりと世の人の云ひければ”…と題して木歩は以下の句を詠んでいる。

鰻ともならである身や五月雨(さつきあめ)

ここで彼はいっそ鰻にでもなりたい、鰻にさえなれぬ、と諧謔(かいぎゃく)の背後に悲痛な哀感を滲ませて呟いている(※6:「やぶちゃんの電子テクスト集:俳句篇」のやぶちゃん版新版富田木歩句集参照)。

生まれながらにして不運な木歩。なんともやりきれなかったことだろう。
父丑之助の鰻かばやきの店は、もともとあまり繁昌しない小店であったが、その上に、1907(明治40)年全国的な大水害で、隅田川が決壊する大洪水があり、店は水没して、大きな被害を受けた。そのため、二人の姉富子と久子は店の再興資金のために上州高崎の遊郭へと売られて行き、足萎えの木歩にも玩具造りの内職をさせて、苦しい家計を助けさせるに至った。さらに、3年後の1910(明治43)年、一が13歳の8月にも、関東一円から宮城県下まで大洪水で、東京府内では隅田川ほとりの町が最も惨状だった(明治43年の水害については※7参照)という。富田家は、この大洪水によって大打撃を受け、いよいよ貧困に陥り、1912(大正元)年には、父親も不遇のうちに世を去ってしまった。
家業は兄が継いだが、一向に暮らしは立たず、小梅町の店をたたみ、母と弟妹を連れて本所仲之郷(詳しくは判らないが現在の住居表示で向島三丁目あたりか?)の小店に引越し、そこで再び鰻屋「大和田」の暖簾を掲げた。足萎えの一も口減らしのため翌年16才の時に、友禅型紙彫りの奉公に出された。しかし、奉公先では陰湿ないじめに会い、耐えられずその年の冬、家に戻る。半年の奉公だったが、そこで2つ年下の「兄弟子」土手米造と出会った。冷たい朋輩の中で、優しく親しんでくれた彼はのちに木歩の最初の句仲間となり、波王と号している。

友禅型彫りの仕事から戻った「大和田」に一の居場所はなかった。一が奉公に出ている半年の間に兄金太郎の嫁梅代は子を生み、「大和田」の店は兄夫婦中心の家になっていたからだ。不具者がいると店の客商売にも障りとなるのを知って、一と母、弟、妹らは裏の叔母、野口みよの小さな家に同居させて貰うことになった。叔母は鰌(どじょう)屋の板前の良人をもつ貧しい生活だったが、温かい善意の人で、その甥たちを迎え入れてくれたという。
大好きな少年雑誌を読むことと、そのころから見よう見まねで始めた俳句だけを心の支えとして一は吟波の俳号で俳句の試作を始めた。
俳句との出逢いは1913(大正年)年頃、少年雑誌の中にあった巌谷小波の俳句のページに惹かれ、俳句を作るようになったという。はじめ『石楠(しゃくなげ)』主宰の臼田亞浪(先に挙げた「三囲稲荷社」の木歩句碑の書人)が選をする「やまと新聞」俳壇に投句し入選をつづけ、1914(大正3)年「ホトトギス」8月号の、投句資格が初めて句作する人に限られた「俳句の作りやう」欄に吟波の名で投句した、「朝顔や女俳人の垣穂より」の一句が「少年吟波」の名で初入選。原石鼎は忙しい中を再三指導に来てくれたが、芸術家的であり、放浪型の天才肌タイプの吟波にはなじめず、原石鼎から遠ざかり「ホトトギス」からも離れたという。
そして、翌・1915(大正4)年、彼は臼田亞浪に師事し、「石楠」に投句するようになった。臼田亞浪の真実を重んじる句風なり、生き方なりに共鳴するものがあったからだったという。
この年、姉の富子と久子、兄金太郎の三人が金を出し合い、本所仲之郷曳舟通り(※1のここ→曳舟川/古川の土手道また、※8参照)の棟割長屋を借りてくれた。
一は、母み禰、弟利助、妹のまき子、静子らと一緒に叔母の家からそこへ移った。長姉の富子はその頃、須崎の芸妓屋「新松葉」の主人白井浪吉の妾となって、高崎から向島へ戻ってきており、次姉の久子は北海道の昆布商人の妾となって小樽に移り住んでいた。まき子は印刷工場に通い、利助は玩具店で働きはじめた。母み禰と木歩はその玩具店から人形の屑削り(鋳型の泥人形のふちの屑を削り取る作業)の内職を回してもらった。だが、その仕事は不定期で収入が安定せず、少しでも日銭を稼ごうと駄菓子屋も始めた。開店の費用は、富子と久子が都合してくれたようだ。
そんな棟割長屋の駄菓子屋の入口に一が「小梅吟社」の看板を掲げたのは1916(大正5)年、20歳の時である。一と出会った友禅型紙彫りの奉公先を辞め広島に帰っていた土手米造が再び上京し、旧交をあたため、木歩の俳句の熱心な弟子となった。木歩は米造の俳号を「波王」と名付けた。かつての型紙職人の朋輩を誘って、ほかに近くの向島医院の代診の亀井一仏など数人の弟子ができ、「小梅吟社」に近所の若い職工などもやって来るようになった。
また木歩は、父や兄が遊び人であったおかげで藤八拳花札がめっぽう上手く、百人一首にも長じていたため、小梅吟社は俳句団体というより少年少女の倶楽部であり、若者らの明るい声に包まれる社交場ともなっていたという。
女流作家で俳人でもある吉屋信子は、1963(昭和38)年、生前の新井声風に会い話を聞き、著書「底の抜けた柄杓-憂愁の俳人たち-『墨堤に消ゆ』」の中で、木歩の若い宗匠ぶりを次のように書いているという。
「……その狭い長屋の六畳からはみ出るほど人が集まったとは、若くして吟波には人間の魅力があったと思える。不具にありがちな陰気な暗さやひがみはまったく彼にはなく、じつに明朗でかつもの柔らかに謙譲だった……」(※9参照)・・・と。

「今宵は向嶋の姉に招かれて泊りがてら遊びに行くのである。
おさえ切れぬ嬉しさにそゝられて、日毎見馴れている玻璃窓外の躑躅でさえ、此の記念すべき日の喜びを句に纒めよと暗示するかのように見える。
母は良さんを連れて来た、良さんと云うのは此の旅を果させて呉れる――私にとっては汽車汽船よりも大切な車夫である。
俥は曳き出された。足でつッぱることの出来ぬ身体は揺られるがまゝに動く。
私の俥は充分に外景を貪り得るように、能う(あとう=できる)だけの徐行を続けているのだが、矢張り車夫として洗練されている良さんの足は後へ後へと行人を置きざりにして行くのである。
やがて見覚えのある交番の前を過ぎた。道は既に紅燈紘歌の巷に近づいたのである。煙草屋の角や駄菓子屋の軒などに、江戸家とか松葉とか云うような粋な軒燈(けんとう)が点いている。それは煙草屋や、駄菓子屋の屋号ではなくて、それらの家々の路地奥にある待合や芸妓家の門標(もんぴょう。表札。門標に同じ)であることに気のついた頃はそうした軒燈を幾つとなく見て過ぎた。
旨そうな油の香を四辺に漂わしながらジウジウと音をさせている天ぷら屋の店頭に立っている半玉(はんぎょく)のすんなりした姿はこの上もなく明るいものに見られた。
この町のこうした情調(じょうちょう)に酔いつゝある間に俥は姉の家へ這入るべき路地口へついた。蝶のように袂をひらめかしながら飛んで来た小娘が「随分待ってたのよ」と云う、それは妹であった。
家に入ると、姉は私を待ちあぐんで、既に独酌の盃を重ねているのだった。私も早速盃を受けて何杯かを傾けた。
俳句などには何の理解も持たぬ姉ながら妹に命じて椽(縁。和風建築で,部屋の外側につけた板張りの細長い床の部分)の障子を開けさせたり、窓を開かせたりして私を喜ばしてくれるのは身にしみて嬉しかった。
三坪ほどしかない庭の僅か許りの立木ではあるが、昨年来た時の親しみを再び味わしてくれるのに充分である。昨日植木屋を入れて植えさせたと云う薪のような松が五六本隅の方に押し並んで居るのも何となく心を惹く。手水桶,(ちょうずおけ)を吊り下げてある軒端の八ツ手(ヤツデ)は去年来た時よりも伸び太って、そのつやつやしい葉表には美しい灯影が流れている。五勺ほどの酒でいゝ気持になった。

墓地越しに町の灯見ゆる遠蛙

行く春の蚊にほろ醉ひのさめにけり

こうした句作境涯に心ゆくばかり浸り得さしてくれた姉に感謝せざるを得ない。恰も如石が来たので妹などゝ椽先に語り合った。」

上掲は富田木歩が人力車で近くに住む姉の家を訪ねた際の記録を日記形式で纏めた随筆『小さな旅』(5月6日から5月8日3日間)の初日5月6日の部分を抜粋したものである。
初出は『俳句世界』1918(大正7)年6月号に掲載されたもの(※10青空文庫参照)である。
向島の木歩の家から姉富子の住む妾宅までは健常者であれば歩いてもさして時間がかからない距離なのだが、脚の不自由な木歩にとってはまさに「小さな旅」だったのだろう。
五月七日の記載のところに、「この家の裏に淡島寒月さんの居宅があって・・」とあるが、淡島寒月は、作家、画家、古物収集家で父親は画家の淡島椿岳。広範な知識を持った趣味人であり、日本文化の研究で、山東京伝を読んで井原西鶴のことを知り、幸田露伴尾崎紅葉など文壇に紹介したことが明治における西鶴再評価に繋がったという。大正のこのころ向島弘福禅寺に隣するところにあった梵雲庵で隠居生活をしていたようだ(※11参照)が、梵雲庵には3000あまりの玩具と江戸文化の貴重な資料があったという。
この随筆を書いた前年、一(木歩はこの頃吟波を名乗っている)20歳の時に棟割長屋の駄菓子屋の入口に「小梅吟社」の看板を掲げて本格的に俳句活動に入ったことは先に書いた。文中最後に出てくる如石とは、小梅吟社の人で、本名は武井宗次郎(職人)だそうだ(※6のやぶちゃん版新版富田木歩句集参照)。
また、その年の真夏の昼、波王は木歩の弟、聾唖者の利助を誘って隅田川に泳ぎにいったが、川の魔の淵といわれる隅田川小松島で遊泳中に溺死した。木歩の妹(三女)まき子は彼の恋人であったが、波王の変り果てた死体を見てまさに半狂乱になった。
その夏の末、末妹静子は長姉久子の養女として「新松葉」に行った。そして木歩の片恋の相手であった隣の縫箔屋(縫箔を業とする人。また,その店)の娘小鈴(小鈴は木歩がつけた愛称で、本名はすゞというらしい)もまた、「新松葉」に身を売って去った。そして、ついに妹まき子も姉たちと同じ道をたどり「新松葉」の半玉となっている。前年(大正6年)の秋は木歩にとって友は失せ、ひそかに片恋(片思い)の想いを寄せる小鈴も、妹二人も家から去っていき、ただ寂寥(せきりょう。心が満ち足りず、もの寂しいこと)の秋であった。さらに、弟の利助が波王溺死の後、風邪をこじらせ寝付き、玩具店も馘首(くび)になった。実は風邪ではなく結核だったらしく、喀血し熱に喘いだ。利助の病状は次第に悪化し、起き上がれることも出来なくなり、木歩は病人と起居を共にしながら必死に看病したが、1918(大正7)年2月、利助は18歳で亡くなくなった。

また、富田木歩を語る上で、見過ごすことのできないのが新井声風の存在である。声風は木歩と同い年の慶応義塾大学の学生で父は浅草で映画館を経営していた。声風は悲惨な境遇にありながら、清新な句を詠む『石楠』同門の吟波を評価し、大正6年の初夏、「小梅吟社」の吟波(一)を訪紋してきた。その後、何不自由なく育った声風と何もかも不自由な吟波、この二人は尊敬し合って俳句のよき仲間、生涯の親友となっていく。声風は頻繁に吟波の長屋にやって来た。その度に『ホトトギス』、『海紅(かいこう)」などの新刊の俳句雑誌や「中央公論」『新潮』 『新小説』『改造』などの総合雑誌も持って来て、吟波の読書用に呈したという。俳句だけでなくもっと広い知識も身につけさせようとの配慮だったようだ。
ある日、吟波は、そんな声風に「俳号を変えようかと思う」と相談を持ちかけたという。それは吟波と号する俳人がもう一人いたためだという。
河東碧梧桐系の『射手』に属する荒川吟波という俳人で、かなり名前が売れていた人であったらしい。声風は直ちに賛成しなかったが、彼の真意を解し賛成したという。
9月、声風は個人誌『茜』を3号(9月号)から同人誌とし、友人の木歩を同人に迎えた。この頃から彼は俳号を吟波から木歩にしたという。そして、1918(大正7)年、声風は『茜』1月号を「木歩句鈔」の特集号として出した。これは、臼田亞浪、黒田忠次郎、浅井意外(「ホトトギス」の村上鬼城の信奉者)、それに歌人の西村陽吉らに「境涯の詩人」と賞賛されたという。声風は『茜』2月号を休刊とし、3月号を「木歩句鈔」に対する評論特集を出した。若手評論家4人に執筆を依頼し、四人とも好意的な評を書いてくれた。なかでも歌人西村陽吉は『木歩句鈔雑感』と題し「俳壇における石川啄木」であり「生活派」の俳人と評したという。
先に挙げた随筆『小さな旅』はそんな状況下で書かれたものであり、この随筆文中には、以下の俳句も掲載されている。

鶉來鳴く障子のもとの目覚めかな
杉の芽に蝶つきかねてめぐりけり
新聞に鳥影さす庭若葉かな
汽車音の若葉に籠る夕べかな
躑躅植ゑて夜冷えする庭を忘れけり
川蘆の蕭々として暮れぬ蚊食鳥
蝙蝠の家脚くゞる蘆の風
蘆の中に犬鳴き入りぬ遠蛙
行く春や蘆間の水の油色
青蘆に家の灯もるゝ宵の程

障害、貧困、病苦といった不幸に見舞われながら俳句創作を続けていた木歩、そこに、身内の不幸も多く重なった時期であるが、ここには、姉を始め家族の好意に支えられ、ささやかな幸福の時間を味わった様子、喜びが綴られている。

しかし、1918(大正7)年3月には、半玉になっていた妹のまき子も肺結核に罹患して家に戻って来ていた。木歩がつきっきりで看病するも、まき子の病状は日を追うごとに悪化しこの随筆投句後の7月末には、まき子も逝ってしまっている(享年十18歳)。この結核に冒されて逝った四つ下の愛妹まき子の、病床看護の合間に書いた日記風随筆『おけら焚きつゝ』(大正7年7月『山鳩』に掲載)と、その大正7年7月28日の臨終に至るまでを綴った木歩の哀傷随筆『臨終まで』(大正7年10月『山鳩』に掲載)の二篇が以下参考※6:「やぶちゃんの電子テクスト集:俳句篇」で読める。そこにも書かれているように、まき子の臨終の床の――「母ちゃん――暑いよ」・・・という言葉・・それはこの5年後、関東大震災の猛火によって向島枕橋橋畔の堤上にあって猛火に呑まれていった木歩自身の胸に去来したに違いない。

ここ →富田木歩愛妹まき子哀傷小品二篇

随筆『小さな旅』投稿の1918(大正7)年の7月に、富山県の魚津で起こった米騒動は全国に拡がり、物価が一段と高じた。まき子を芸者に売って作ったた貴重な金も、物価高の前にたちまち底をつき、木歩と母のみ禰は食うにも事欠く有様になった。しかも、結核に感染した木歩は、12月ついに喀血を繰り返し病臥したが、俳友の亀井一仏が主治医となってくれた。
翌1919(大正8)年1月、重症を脱するが、今度は、母み禰が脳卒中で倒れた。幸い軽度ですんだが再発が懸念され、3月のはじめに木歩は、長姉富子が囲われている、向島須崎町弘福寺境内にある家に移った。妾宅で母と居候同様の保護を受けたという。なんとも屈辱的であったろう。
12月末、長姉の家が向島寺島町玉の井に転居。木歩と母も同行する。木歩は喀血後の予後がまだ充分には癒えていない体だったが、毛布にくるまれ馴染みの良さん(随筆『小さな旅』に出てくる車引の良さん=田中良助)の俥にのせられ引っ越した。
末妹静子は「新松葉」に住み込みとなり、玉の井には来なかった。当時、玉の井は田畑や牧場のある農村で、水道も電気もなく夜はランプを灯した。やがて、建築ブームが起こり私娼街が造成されていった。玉の井は、永井荷風の小説『ぼく東綺譚』、滝田ゆうの漫画『寺島町奇譚』の舞台として知られる。
玉の井の新居には二階があり、須崎の華やかさに浮つき(浮つくの連用形)かけた木歩は一人の殆どの時間を二階で過ごし、また元の俳句三昧の生活に戻れたといい、木歩の生涯の中でこの玉の井の頃が最も多作の時代で、連日句作に励んだようだ。
木歩の句を売り出してくれた親友の新井声風は高浜虚子などホトトギス系の俳人との付き合いが疎遠なため、『茜』の謹呈先にホトトギス系は少なく、それがため、木歩の名が全俳壇的に知られたというまでには至っていなかったが、声風の編んだ『木歩句集』が虚子門下の渡辺水巴主宰の『曲水』に1920(大正9)年7月から4回に亘って連載されたことにより、木歩の身辺は一気に慌ただしくなり、かつての『茜』の比ではなくなった。
木歩の元には各地の俳誌から次々と句や文章の依頼がきたが、木歩はすべて快く引きうけ、木歩の名前、人となりと作品は一気に俳壇に知られることとなった。
1921(大正10)年夏に木歩は貸本屋「平和堂」を開業し、客の来ない時には、本を読み俳句を作る生活をしていたようだ。
1922(大正11)年の春、声風が『石楠』主宰の臼田亞浪との確執から、『石楠』同人を脱退。その半年後に木歩も「石楠」を退会するが、木歩の発表先に不自由はなかったようだ。三河の浅井意外の『山鳩』に木歩の頁を常に用意してくれていた。長谷川春草の『俳諧雑誌』、村上鬼城門下の楠部南崖(楠部 大吉郎の父)の俳誌『初蝉』などもこぞって木歩の句や文章を掲載してくれた。
そのため、平和堂主人・富田木歩は、俳句は勿論のこと俳論も随筆も書ける新進の俳人として、その特異な境涯と共に、全国的に知られる俳人となっていたが、9月半ば、再発を懸念されていた、母み禰が脳溢血で倒れ逝った。そして、木歩も大量の喀血をした。喀血した木歩のもとに俳友で医師の一仏が来てくれたが、木歩の体調はなかなか回復しなかった。
声風は「木歩短冊慰安会」と銘打って短冊頒布会を行い、木歩の療養資金を集めた。その療養資金のおかげで暮近くには、木歩の体力はかなり回復し、平和堂の店番を一日坐っていられる程になった。
明けて1923(大正12)年、長姉富子の旦那白井が浅草公園脇の一等地の料亭を買い取り、富子に天麩羅屋を開かせ、玉の井の家は元の娼家仕様に戻し、売りに出したが、白井は木歩のためにも、須崎に一軒屋を借り、平和堂を続けられるように改築してくれた。その上、木歩の面倒を見るための小おんなまで雇ってくれた。須崎を選んだのは、末妹静子がそこの「新松葉」で半玉になっており、様子を見に顔を出せるからであったという。
木歩の一人生活を案じて、声風や俳友達が足繁く通って来、また、妹の静子やその朋輩たちも顔をみせ、「平和堂」はかつての「小梅吟社」のように若い仲間の集まる賑やかな場ともなった。
木歩のもとへ毎月送られて来る作品も多くなり、今は中断している『茜』を俳壇の新しい運動の拠点として、華々しく再出発させる日への期待が生き生きと燃えてくる毎日だった。
妹につづく母の死、自らの病苦、こういう中で、声風はじめ俳句の友人は木歩を慰めようと7月、一夜の舟遊びを仕立ててくれた。ここしばらく、小康状態の木歩にとって唯一の豪勢な経験だったが声風と木歩にとって、最も苛酷な運命の日が、二人の上に襲いかかってくることになる。
1923(大正12)年9月1日、午前11時58分、激しい大地震が関東地方一帯を襲った。声風や姉の富子が動けない木歩の身の上を案じて吾妻橋を渡り須崎町の木歩の家に行ったときには人影は無かった。
声風は引返して、再び土手の上を探し求めた。そして、人混みの桜の木の下にゴザを敷いて木歩がいた。妹の静子や「新松葉」の半玉など三人ほどが囲んでいたが、女手ばかりでどうする手立てもなかった。木歩の帯を解いて声風は木歩の体を自分の背中にくくりつけて貰ったが、人混みの中を一緒に逃げることは出来ない。ひとまず浅草公園の富子の小料理屋「花勝」を目標に逃げたが、火の手は方々に上がり、それに追われて右往左往する人々で、土手の上の混雑は物凄く、痩せているとはいえ、50キロを越える体重の木歩を背負っている声風が、やっとの思いで、大川に注ぐ源森川(別名北十間川)の川口近くまで来た時、枕橋はすでに燃え落ちていたという。
浅草への近道は断たれ、小梅町方向へ引き返そうとしたが行く手にはまた新たな火の手が上がり、川を除いて三方は全く火の海となって迫ってきた。川の淵に出るには鉄柵を越えなくてはならない。背負ったままでは越えられなかった。傍の人に頼んで木歩を降ろした。鉄柵を越えさせた木歩を、堤の芝の上に腰をおろさせて声風は屈みこんだ。
生きる道は泳ぐしかない。声風は自分一人でも泳ぎ切れるかどうか自信は無かった。まして、足の全然きかない木歩を連れてでは、半分も行かない内に、溺れてしまうだろう。
声風は「木歩君、許して下さい。もう此処まで来ては、どうにもなりません」と言い、木歩に手をさし伸べた。木歩は黙ったまま。声風の手を握り返したという。声風は大川に身を躍らせた。声風は奇跡的に助かったが、足の不自由な木歩は焼け死んでしまった。(花田春兆著「鬼気の人 俳人富田木歩の生涯」1975年10月、発行こずえ社。p.235-237。花田春兆については※12参照)。享年26才と言う、あまりにも若過ぎる死だった。
隅田川の亡骸は伝馬船に引き上げられて火葬された。生き残った木歩の兄や姉妹たちがその火葬の灰のひと握りを求めて、その十月に富田家父祖の菩提寺小松川最勝寺の墓に埋めたられた。戒名「震外木歩信士」。
声風は親友である木歩をあの地獄の墨堤に残さなければならなかった瞬間から、自分の詩魂は衰えたと言い、自分は句作をやめて、木歩の詩魂を生かし世に伝えるために、後半生を木歩の句集や文集の編集に費やした。
冒頭に挙げた三囲神社の「夢に見れば死もなつかしや冬木風」の句碑。「冬木風」はそのまま「ふゆきかぜ」と読むようだ。ここで懐かしがっているのは、だれの死なのだろう。木歩の周りには悲しい出来事が多すぎる。夢に出てきたのは妹か弟か、隅田川で水死した俳友のことだろうか。普通なら人の死は想像するだけでも胸が苦しくなってくるのだが・・。
「死もなつかしや」の表現をどう解釈するか難しいが、もっと素直に、たとえ夢のなかでのこととはいえ、亡くなった家族や親しい人と再会できて懐かしかった・・・と、まっすぐに受け止めればよいのかもしれない。大切な家族を次々に失った木歩は、亡き人々のことを、ふと夢に見ることがあったのだろう。念の強さが、見たい夢を引き寄せたのかも知れない。冬の木立を吹き抜けていく冷たい風の音を聞きながら、木歩は昨夜の夢を静かに反芻しているのかもしれない。
「人間五十年 化天の内をくらぶれば 夢幻のごとくなり」 
これは、幸若舞敦盛』の一節である。
織田信長は、好んでこの一節を歌いつつ、舞ったという。人間の一生は、夢か幻のように、アッという間に過ぎ去る、というのが共通の感傷のようだ。だからこそ、人は何に向かって生きるのか。人生の目的が最も重要になる.。
そう考えれば、人間の死も、人の一生という夢の中の一部のできごとなのだから。
生まれてすぐに歩行不能になった木歩。『不具と病気と貧困とが、彼の精神に、抵抗素を植えつけた。』(山本健吉『現代俳句』)とも言われるように、どんな過酷な運命を与えられたとしても、木歩は生きることを放棄しなかった。木歩の人生とは、ただひたすら運命を「受け容れる」人生だったのではないか。平明な言葉で、誰にでもわかる表現で、己の境涯を深々と見つめ、言葉に紡ぐ木歩。そのシンプルな言葉が、読む者の心を打つのだろう。この機会に、一度、木歩の句に触れでみられるのも良いだろう。参考※6:「やぶちゃんの電子テクスト集:俳句篇」などがお薦めである。

冒頭の画像:1918(大正7)年年7月、北海道の昆布商人で次姉久子の旦那の上野貢一郎が、眼病治療のため上京して淀橋柏木に仮寓しているのを、母み禰と共に訪ね一週間滞在した。その時、母と並んで写真を撮った。冒頭の画像がそれらしく、これが、この年の初め声風が俳句雑誌「山鳩」に連載していた、木歩の句風と人を紹介する文章「俳人木歩」の完結号に掲載するため初めて撮って以降、二度目の写真撮影だった。後年、声風編「定本富田木歩全集」の扉に紹介されているこの写真は、震災後、障害者で俳人である川戸飛鴻[5]より貸与されたのを複写したものであり、木歩の写真として世に流布されておるのは、これがその原版であるという(花田春兆著「鬼気の人 俳人富田木歩の生涯」1975年10月、発行こずえ社。『木歩七〇句』p.241)。

参考:
※1:「Google Earthで街並散歩(江戸編)」
http://yasuda.iobb.net/wp-googleearth_e/
※2:国立国会図書館・近代デジタルライブラリー『江戸名所図会』
http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/ru04/ru04_05105/
※3:大江戸吟行記その28向島吟行①「三囲神社」|俳人二百面相
http://ameblo.jp/haikudaisuki/entry-10650516115.html
※4:すみだ区報2014年4月21日号 墨田区公式ウェブサイト
https://www.city.sumida.lg.jp/kuhou/backnum/140421/kuhou01.html
※5:第67話、和歌三神 - 落語の舞台を歩く
http://ginjo.fc2web.com/67wakasanjin/wakasanjin.htm
※6:やぶちゃんの電子テクスト集:俳句篇
http://homepage2.nifty.com/onibi/texthaiku.htm
※7:荒川の歴史 | 荒川上流河川事務所 | 国土交通省 関東地方整備局
http://www.ktr.mlit.go.jp/arajo/arajo_index010.html
※8:曳舟川
http://www.geocities.jp/ktyyn37/hikihunegawa.htm
※9:富田木歩の生涯 - 障害保健福祉研究情報システム(DINF)
http://www.dinf.ne.jp/doc/japanese/prdl/jsrd/norma/n218/n218_07-01.html
※10:富田木歩 小さな旅 - 青空文庫
http://www.aozora.gr.jp/cards/000677/files/42298_23806.html
※11:「淡島寒月の庵号「梵雲庵」について」 - クラシマ日乗
http://blogs.yahoo.co.jp/kurashima20062000/37619737.html
※12:arsvi・com障害者(の運動)史のための資料・人「花田 春兆」
http://www.arsvi.com/w/hs04.htm
富田木歩を偲んで(1) - 齋藤百鬼の俳句閑日
http://blog.goo.ne.jp/kojirou0814/e/17cef3a57e27601238c6701d5604ae18
落語「船徳」の舞台を歩く
http://ginjo.fc2web.com/022funatoku/funatoku.htm
富田木歩 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%8C%E7%94%B0%E6%9C%A8%E6%AD%A9

知恵の輪」の日

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日本記念日協会に登録の今日・9月9日の記念日に「知恵の輪」の日があった。
由緒を見ると、知恵の輪を知らない人が知恵の輪と出会い、知恵の輪を楽しんだことのある人が知恵の輪の思い出を蘇らせるなど、知恵の輪の魅力を知るきっかけの日にと、岐阜県在住でオリジナルな知恵の輪を手作り販売する愛好家が制定(*1)。日付は最も易しい知恵の輪のひとつに9の形の二つを組み合わせた知恵の輪があることと、難しいことで知られている知恵の輪に「九連環」というのがあることから。・・・とあった。
知恵の輪は、英語では、 puzzle ringと言われるそうだが、パズルの一種で、基本的には、簡単に外すことができない一組(2つ以上)の部品を、繋げたり外したりする遊びである。私などが子供のころに流行っていたものは、このタイプで、部品には金属が使用され、大抵のものは、特定の外し方によって簡単に外すことができるが、手順が複雑なために外し方を知っていても、外すまでに時間が掛かるものも存在する。
私も子供頃ずいぶんやったものだが以来長い間したことがないが、最近また流行っているのだろうか?
日本で「九連環」と呼ばれているものは、その名が表す通り中国で生まれた知恵の輪で、「チャイニーズリング」(Chinese ring)と言われるもので、一つながりになった輪から別の一本の輪を外すのが目的。解答の動きは規則的だ。
「九連環」という名前が通用していることから、輪が9個のものが最も多いが、5個のものや、11個や13個のもの、さらにもっと多いものも存在するそうだ。
チャイニーズリングは、もっとも古い種類の知恵の輪と考えられており、前漢の時代に編纂された『戦国策』には、以下のように、「昭王斉国に玉連環を贈った」という記述が出てくる(*2、また、*3:「斉の歴史」の“王建、秦に降伏す”を参照)。
『戦国策』
秦始皇嘗使使者遺君王后玉連環,曰:「齊多知,而解此環不?」
君王后以示群臣,群臣不知解。
君王后引椎椎破之,謝秦使,曰:「謹以解矣。」

確証はないがここに出てくる「玉連環」が、「九連環」と同種のものであるといわれているよ.うだ。一方では九連環は、「諸葛亮(字:孔明)が、妻の無聊を慰めるために考案した」という伝説もある(Wikipedia)・・・そうだが、どうもこちらの方のは、文献にはなく単なる民間伝承のような気がする。また、昭王が斉国に送った玉連環は字のごとく、玉製の知恵の輪で、斉国には誰も解くことのできる者がおらず、斉王建の母である君王后はこれを打ち砕いたという。 このときの玉連環はこんなものではないか・・と思われるものが故宮博物院に保管されているようだ(*2で写真参照)。
また、文学的には、中国の清朝中期乾隆帝の時代(18世紀中頃)に書かれた長篇白話小説の『紅楼夢』(中国四大名著の一つ)に、ヒ、ロインの林黛玉が九連環を解く記述があるらしい(*2、*4参照)が、中国の連続テレビ劇には、林黛玉が「九連環」をしている場面が登場している。
以下その動画を参照。
紅楼夢03刘姥姥一进荣国府- YouTube
西洋では、イタリアの数学者カルダーノ( Gerolamo Cardano)が1550年に書いた本の中でチャイニーズリングを論じているというから、相当古くからあったことは確かだろう。なお、イタリアではチャイニーズリングを「カルダノの輪」と呼んでいるそうだが、「カルダノの輪」と中国のものとの関係性はよくわからない。
チャイニーズリングは、錠前の一種として、財布の留め金に用いられたという。
杉田玄白が、文化12年(1815年)に著した『蘭学事始』(上下2編)の一文に、平賀源内らがカピタン(オランダ商館長)に会ったとき、知恵の輪付の金袋を出され、他の者らは皆てこずるが、源内は解いてみせたという話が載っている(*5:「蘭学事始」の上の巻参照)。

*5:『蘭学事始』上の巻(原文)より
何れの年なりしか、右にいふカランスといへるカピタン≪商館長≫参向の時なりしが、ある日、かの客屋に人集まり酒宴ありし時、源内もその座に列なりありしに、カランス戯れに一つの金袋を出し、この口試みに明け給ふべし。あけたる人に参らすべしといへり。その口は知恵の輪にしたるものなり。座客次第に伝へさまざま工夫すれども、誰も開き兼ねたり。遂に末座の源内に至れり。源内これを手に取り暫く考へ居しが、たちまち口を開き出せり。座客はいふに及ばず、カランスもその才の敏捷なるに感じ、ただちにその袋を源内に与へたり。

知恵の輪には、この他、アメリカのパズル作家サム・ロイド(Sam Loyd)の作品で、「ボタンホール」というものがあり、これは、先端に輪になった紐がついた棒で、この紐の部分を相手の衣服のボタンの穴につけて外させるものらしい。英語の“buttonhole”という単語に「他人の興味を引く」という意味があるのは、このパズルが由来とされているそうだ。
また、「キャストパズル」といわれるものは、鋳造によって作られた金属製の知恵の輪で、元々は19世紀にイギリスで作られた物だだそうだが、現在、多くの復刻版や新作が日本のパズル作家芦ヶ原伸之監修の元ハナヤマ(*6参照)より発売されている。従来の知恵の輪がおもちゃ屋でしか販売されなかったのに対し、書店やコンビニエンスストアなどでも販売された。
知恵の輪が今、若い人の間でどれほど流行っているのかは知らないが、ネットで見ると老人ホームグループホームなどでも利用され人気らしい。
知恵の輪には種類も多く、外すのではなく、部品同士を特定の形にもってゆくことを目的とするもの、また、大抵のものは、特定の外し方によって簡単に外すことができるが、手順が複雑なために外し方を知っていても、外すまでに時間が掛かるものも存在する。
外す方法を探すために試行錯誤する過程を楽しむ。また、外した後には元の形に戻すことも楽しみの一つとなるなど、楽しみ方はいろいろあるようだ。長いことしていないが、高いものでもないので、また、簡単なセット物でも買ってボケ防止の一環として楽しもうかな~。
大人気知恵の輪 | toys-games.mechakaitai.com

日本では少子高齢化の中、総人口が減少するなかで、高齢化率は上昇し、いわゆる「団塊の世代」(昭和22(1947)~24(1949)年に生まれた人)が65歳以上となる2015(平成27)年、つまり、今年には国民の4人に1人が65歳以上という高齢化社会に突入した。その中で65歳から74歳までの前期高齢者の比率と、75歳以上の後期高齢者(後期高齢者医療制度対象者)の絶対数がまもなく(2020年頃)入れ替わる更なる「超高齢社会」に入るが、一方、日本の総人口は、2050(平成62)年には1億人を、2060(平成72)年には9,000万人を割り込むことが予想されている。そして、このとき(2060年)には、、高齢化率は39.9%に達し、2.5人に1 人が65歳以上。内、75歳以上人口が総人口の26.9%となり、4 人に1 人が75歳以上の社会となる(以下参照)。
第1節 高齢化の状況(PDF形式:367KB)
このような高齢化率の増加に伴い、介護を必要とする「要介護高齢者」の数も増加し、国としては、そういった人たちのケアを今後いかに担っていくかが社会問題になっている。。
また、そのような中、高齢者当人にとっては、これからの余生を如何に健康で送れるかその生活のあり方が課題であり、中でも多くの老人にとっては、何時ボケる(痴呆。認知症)かも知れない・・・のが、一番の心配ごととなっているのではないだろうか。
は常に衰えていく器官なのだそうだが、その速度はストレスや生活習慣(生活習慣病.参照)などで大きく変化するのだとか・・・。
高齢になるとボケが起こりやすくなるのもこのためだと考えられ、そのため、脳を鍛え活性化させ、衰えを予防することが大切だという。参考✻7には、その予防法がいろいろと書かれている。
後期高齢者の仲間入りをした私の場合、健康管理については、特別にたいそうなことはしていないが、食生活面では、一応かかりつけの医師より注意されていることには注意しているが、余り、栄養的なことより、おいしく食べることを優先しているので、あとは家人任せで、食べ過ぎ、飲みすぎだけは注意をしている。
身体的な面では早朝のウオーキング(約一時間)やラジオ体操(また、テレビ体操)、それに血圧の管理くらいしかしていないが、ボケ防止に、旧式のテレビゲームで、パズルゲーム(簡単なアクションパズル含む)をよくしている。
これらゲーム機やソフトの購入は、現役の最後に5年間ほど九州の関係会社へ出向したが、その際家人が同伴したので、知らない土地で出張の多い私がいないときなどさみしかろうと、簡単なパソコンのゲームソフトを買ってやったのが始まりである。そのうち 骨とう品などに興味のある私は神社などの市へ出かけると任天堂のファミコンやゲームボーイ、セガのゲーム機や使用して厭いたゲーム機やソフトをまるでただのような安い値段で子供たちが親の横で処分していた。まだ、中古ソフトの専門店などがやっとでき始めた時だったので、これらの専門店もまだ少なかったことから、このような市で処分していたのだ。
ソフトなど100円や200円といったただみたいな値段で処分していたので、これでいいのと聞くと親ももう必要ないからいくらでもいいのですというのでそれらを買い漁っておいた。だから、初期の、任天堂や、セガ、プレステなどの各種ソフト、それもパズル系のものは息子があきれ返るほどの数を持っている。
孫が小さいときなどは孫が家に来ると一緒にしていたが、今では、家人と対戦をしたりして楽しんでいる。しかし、買った当初は若かったのだとつくづく感じさせられる。当時はクリアーできたものも、今では、クリアーできないものが多くなった。目に見えての衰えは感じなくても、いつの間にか判断力も反射神経も知らないうちにすごく衰えていることを痛感させられる。
それと、現役を退いたときから始めたホームページの作成、それに続いて始めたこのブログの更新。もう長い年数が経つので、このブログも何をテーマーに書くか。テーマー探しに苦労している。私が、なんでも知っているわけではないので、家にある蔵書や図書館の本、また、ネットのWikipedia他を参考にしながら書いているのだだが・・・。老化した脳で書くには結構大変だ。今は、少々負担になりかけているので、そろそろ止めようかと思ったりもするのだが、息子からはボケ防止で続けるように言われているので、今しばらくはそういった意味でやってみようと続けているが・・・。それと、最近はわずかばかりのお金で、株価の安い株式への少額投資をしている。昨年のまだ株式が比較的安いころに勝っているのでその後の値上がりで結構儲かっている。今中国経済の不透明さが影響し、株価は急落しているが、昨年大きく設けているのでそんな依存をすることはないだろう。しかし、わずかな金額の投資でも、経済の動向や毎日の株価の変動は気になるもので、これも結構脳を刺激してくれている。
ネット検索していると以下のようなサイトがあった。
ボケ防止 記憶力の低下にはこれが効く! - NAVER まとめ
とにかく、なんでもよいから、いろいろと脳を刺激しておかないと・・・。

ところで、知恵の輪の「知恵」だが・・・?
今のような高学歴化した時代、昔に比べれは知識をもった人は多い。
「知識」とは簡単に言えば、ある事柄について知っていること。また、その内容をいうが、「知恵」があるかどうかは別の問題だろう。
「知恵(慧)」は、物事をありのままに把握し、真理を見極める認識力。言い換えれば、ものごとの理を悟り、適切に処理する能力をいう。
孟子は書物としての『孟子』公孫丑上6(*8:黙 斎を語るー朱子学の基本となる書の孟子公孫丑章上―6参照)に、「性善説」の根本思想を含めた四っの心(四端の心)についての記述がある。
「惻隱の心は、仁の端なり。羞惡の心は、義の端なり。辭讓の心は、禮の端なり。是非の心は、智の端なり。」
ちなみに「端」とは、兆し、はしり、あるいは萌芽を意味する。心の作用には「四端」といって、以下の4つの要因があるとしている。
1,惻隠…他者の苦境を見過ごせない「忍びざる心」(憐れみの心)
2.羞悪…不正を羞恥する心
3.辞譲…謙譲の心
4.是非…善悪を分別する心
修養することによってこれらを拡充し、1、が、「」の「仁」につながり、2が「義」に、3が「礼」に、4が、「智」につながるとしている。つまり、このように自然の心の延長線上にのすべてがあり、決して無理に押しつけられたり、後から教育されたものではないと主張している。
ここで、他のことは別として、知は上記に記した通り、「是非の心」 としており、この「是非の心」というのは、よい悪いを正しく見分けることのできる心、のことを言っている。
知恵と知識の関係については、様々な考え方があるが、知識を沢山持っていても、知恵を著しく欠いている人もいる、また、知識はさほど多くなくても、立派に知恵を持っている人もいる、などとも言われる。
ビジネスにおいて、専門知識は不可欠である。その「知識」は、書物やテキストから、また、企業のマニュアルなどからも得られる。またいろいろな講座を受けたり、他の人との情報交換、あるいはネットで検索して、そこから取得できる情報も「知識」と言えるだろう。このような知識を蓄えることも大切だが、それはあくまでデータベースでしかありえない。知識を売り物にしているクイズ芸人などはいざ知らず、普通では、「知識」をいくら豊富に持っていても、それだけで役に立つとは言い切れず、大事なのはそれをいかに生かすかということになる。
「知識」を生かすにはどうすれば良いか? 「百聞は一見に如かず」(*9)のことわざもあるように、それは、あくまで「知識」に過ぎず、一度でも実際に自分の目で見て体験することには及ばない。知っていることと、実際に経験したこととでは大きな違いがある。つまり、「知識」はその人の経験を通して初めて「知恵」に変わり、自分の能力として身に付けることができるのである。
「知恵」とは、経験を通し「知識」を応用して自分自身で考え、新たなアイデアや価値を付け加えて実践に役立てる能力だともいえる。最近はいろいろとノウハウものが増えている。
安易にノウハウものに頼っていては、「知恵」はつかないだろう。
『知恵の輪』の解き方などのノウハウものもYouTubeその多いろいろと出てはいるが、できれば、そのようなものに頼らず、自分で解くことを楽しみ、どうしてもできないときに、そのようなノウハウものを参考にするとよいだろう。
先に紹介したキャストパズルのホームページを見ると、販売した商品パッケージの中に解答図を入れてないそうだ。パズルを解く"楽しみ"と"苦しみ"を充分に味わってもらうため。ぜひ、自力で解答を見つけていただき、本当の"感動"を味わってください。。。。とある。
もし、それでも「どうしても解き方がわからない」という方のために解答図を用意しているので申し込めば解答図を送ってもらえるそうっだ。これはいいやり方だと思う。(ここ参照)
偉そうに、こんなことを書いている私なども、YouTubeなどでその解き方などをもう見てしまった。でも、年だな~。見ているだけではよくわからない。早速買って、やってみよう。

【知恵の輪】解き方≪動画) - YouTube

参考:
*1:知恵の輪の日
http://www.geocities.jp/kumikugi/
*2:九連環| 中國古代益智遊戲 - Classical Chinese Puzzles
http://chinesepuzzles.org/hk/nine-linked-rings/
*3:斉の歴史
http://www.sun-inet.or.jp/~satoshin/chunqiu/sei/seilist.htm
*4:紅楼夢に九連環 - Yahoo!ブログ
http://blogs.yahoo.co.jp/kumikugi/34813765.html
*5:蘭学事始現代語訳+原文
http://book.geocities.jp/kunio_suwa/rangaku.pdf#search='%E3%82%AB%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B9+%E6%BA%90%E5%86%85+%E8%98%AD%E5%AD%A6%E4%BA%8B%E5%A7%8B'
*6:キャストパズル | 株式会社ハナヤマ
http://www.hanayamatoys.co.jp/product/category/puzzle/cast.html
*7:認知症予防・ボケ防止サイト 老年若脳
http://magald.com/
*8:黙 斎を語るー朱子学の基本となる書
http://mokusai-web.com/shushigakukihonsho/shushigakukihonsho.html
*9:百聞は一見にしかず - 故事ことわざ辞典
http://kotowaza-allguide.com/hi/hyakubunwaikken.html
古今名言集~座右の銘にすべき言葉~
http://www.kokin.rr-livelife.net/
故事百選
http://www.iec.co.jp/kojijyukugo/index.php

誕生花 「りんどう」

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今日・9月16日に該当する、記念日や歴史、行事等に、今までに書いていない適当なものがみあたらなかったので、今日は、9月16日の「誕生花」について書いてみることにする。
例によって、何時も利用しているインターネット百科事典「ウィキペディア」(英: Wikipedia)を見ると、9月16日の「誕生花」として、リンドウ(*1やコトバンクも参照)とオリヅルランがあった。
リンドウは、リンドウ科リンドウ属多年生植物であるが、オリヅルランは、キジカクシ科・オリヅルラン属に属する常緑で、ある程度成長すると細長い花茎を高くのばし、白い花がまばらに咲くが、あくまで花を観賞するというよりも観葉植物としてよく栽培されている。
この他、ネットでいろいろ調べていると、アキノタムラソウ(秋の田村草)アマランサス((別名: 紐鶏頭。*3のここ参照)、ベロニカ(別名:瑠璃虎の尾。*3のここ参照)、ハゲイトウ(葉鶏頭)ホトトギス(杜鵑草)ヨウシュヤマゴボウ(洋種山牛蒡)などたくさんある(*2参照)。
誕生花は、生まれた月日にちなんだ花のことで、相手に気持ちを伝えるときに,その花のもつ特徴や香などから象徴的な意味をもたせたもの。花言葉には人それぞれのイメージの違いから様々な花言葉が付けられてきた。したがって、誕生花そのものの概念・起源や、誰が決定しているのか等その由来は国や地域によって諸説分かれているようであり、日本国内においても、誕生花 と その日にちの定義はまちまちのようである。
数ある誕生花の中でも、日本では特に、9月16日の誕生花として人気があるのは、何といっても「リンドウ」であろう。
以前、このブログで、誕生花「ジギタリス」 について書いたことがある(ここ参照)のだが、リンドウも私の好きの花の一つでもあることから、今日は、誕生花「リンドウ」について書くことにした。
私の場合、リンドウといえば、私も大ファンだった歌手島倉 千代子が歌っていた『りんどう峠』(作詞:西條八十、作詞:古賀政男)を思い出す。

りんりんりんどうの 花咲くころサ
姉サは馬コで お嫁に行った
りんりんりんどうは 濃むらさき
姉サの小袖も 濃むらさき
濃むらさき
ハイノハイノハイ
(「りんどう峠」歌詞1番)

1954(昭和29)年、コロムビア全国歌謡コンクールで優勝し、同社と専属契約した島倉千代子は翌1955(昭和30)年3月、16歳の時、本名島倉千代子で歌手デビューした。
この時のデビュー曲『この世の花』(同名の映画三部作の主題歌)は半年後に200万枚達成し人気歌手となった。『この世の花』に続いて、同年初の古賀メロディー『りんどう峠』(作詞は西條 八十による)を発表し大ヒット。130万枚を売り上げるなど、この年23曲、1956年34曲、1957年37曲、1958年33曲と驚異的な速さで新曲を次々と発表して、1957年NHK紅白歌合戦(第8回)に初出場以来紅白の常連となり、2004年(第55回)まで35回も出場している。
そういえば、『りんどう峠』は、1957(昭和32)年1月15日公開の松竹カラー色彩で描く娯楽股旅映画『りんどう鴉』(*4)の挿入歌として使われていた。
この映画の主役は歌う映画スターとして人気のあった高田 浩吉で、3人の美女が出ていた。高峰三枝子瑳峨三智子雪代敬子
島倉千代子は、馬子お千代役でのゲスト出演であり、馬を曳く娘っ子の端役であった。ただ馬をひきながら『りんどう峠』を歌うだけで、台詞(セリフ)はなし。高田浩吉が、歌って女に惚れられチャンバラする娯楽時代劇で、チャンバラ映画が大好であった私などは、こんな映画でも見に行ったものだが、チャンバラ映画ファン向けというより、どちらかというと松竹得意の女性ファン向け映画ではあった。

りんどう峠 - 島倉千代子 - 歌詞&動画視聴 : 歌ネット動画プラス

この歌は今の時代からは想像できない、牧歌的な光景が描かれている。ゆったりとしたのどかなテンポの古賀メロディーの中に、馬に乗って隣町へ嫁いでゆく姉はあとを振り返り/\しながら峠の向こうへ消えてゆく。それを見送る妹との別れを淡々と織り込んでいる。
それは、りんどうの花が咲くころであり、リンリンと鳴る馬の鈴も次第に遠ざかり、濃むらさき(濃い紫)のリンドウの花だけがあとに残る。小雨と涙に濡れながら・・・
ちょっと、センチな内容の歌ではあるが、島倉のハイトーンの明るい歌声と合いの手の「ハイの ハイの ハイ」がそれを明るいものにしてくれている。
この歌、非常に音域も広く、特に高温のきれいな声が出ないと歌えない曲なので、結構歌うには、難しい曲だが、それを見事に歌いこなしている、歌詞も良いが島倉の歌唱力も、素晴らしい。当時の良い歌謡曲は、作詞家、作曲家、歌手の三者による総合芸術作品と言えるだろう。今は、このような良い歌謡曲が衰退し、聞けないのが、私たちの年代のものには寂しい。
この歌が発表されたのは、終戦からちょうど10年後のこと。高度経済成長期に入った(1954年から)とは言え、まだ、まだ、戦争の傷跡が、当時の町や、村、そして、人々の心にも残り、古い習慣や文化も残っていたが、その後、日本は急成長し、農村の風景・生活も、また都市も含め、国の全体が、大きく変貌を遂げていく。
この歌のリンドウの花咲く峠は一体どこなのだろう。馬子が出てくるので私など、東北地方の山村の光景が目に浮かぶのだが・・・。
映画『りんどう鴉』は、いかさま師高崎の仁蔵を斬って草蛙(わらじ)をはいたりんどうの政こと高田浩吉が道中、信州の伊那富長野県上伊那郡辰野町にある地名)にやって来ての物語だったが・・・。

「山の秋は旧盆のころからはじまる。(中間略)
秋風は急に吹いてきて、一朝にして季節の感じを変えてしまう。ばさりとススキをゆする風が西山から来ると、もう昨日のような日中の暑さは拭い去られ、すっかりさわやかな日和(ひより)となって、清涼限りなく、まったく宝玉のような東北の秋の日が毎日つづく。空は緑がかった青にすみきり、鳥がわたり、モズが鳴き、赤トンボが群をなして低く飛ぶ。いちめんのススキ原の白い穂は海の波のように風になびき、その大きな動きを見ると、わたくしは妙にワグネルの「リエンチ序曲」のあの大きな動きを連想する。ススキ原の中の小路をゆくと路ばたにはアスター(キク科エゾギク属の草花)系の白や紫の花が一ぱいに咲きそろい、オミナエシ(女郎花)、オトコエシ(男郎花*3のここ参照)が高く群をぬいて咲き、やがてキキョウが紫にぱっちりとひらき、最後にリンドウがずんぐりと低く蕾(つぼみ)を出す。リンドウはの降りる頃でもまだ残って咲く強い草だ。」

上掲の文は、『智恵子抄』等の詩集で知られる詩人・彫刻家高村光太郎の随筆『 山の秋』 (*5の「青空文庫」参照)からの抜粋だが、「昌歓寺」(*6)という曹洞宗 のお寺の名前が出て来るから岩手県の光景だ。高村光太郎は、1945(昭和20)年4月の空襲により東京のアトリエとともに多くの彫刻やデッサンを焼失後、花巻郊外の稗貫郡太田村山口(現在は花巻市)に粗末な小屋を建てて移り住み、ここで7年間独居自炊の生活を送っているから、そのころのことを書いたものだろう。
タイトル『山の秋』の光景がよく表現されている。ちなみに「ワグネル」とはリヒャルト・ワーグナー>の「リエンチ序曲のことであり、以下で聴ける。

ワーグナー:歌劇「リエンツィ」序曲

リンドウ(和名:龍膽=竜胆)は、本州から四国・九州の湿った野山に自生する(近縁種も含めるとほぼ日本全域に分布しているようだ)。花期は秋・9~11月。秋空に映える濃い青紫色の花は野趣・美しさ・かわいらしさなどを兼ね備えた日本人の心に響く古くから親しまれてきた野草ともいえる。
かつては水田周辺の草地やため池の堤防などにアキノキリンソウなどの草花とともに、たくさん自生しているのがみられたが、それは農業との関係で定期的に草刈りがなされ、草丈が低い状態に保たれていたためだったが、近年、そのような手入れのはいる場所が少なくなったため、リンドウをはじめこれらの植物は見る機会が少なくなってしまったようである。高村光太郎が花巻市に小屋を建てて住んでいたころは、リンドウなどどこでも見られたのだろう。

「日本の植物学の父」といわれ、多数の新種を発見し命名も行った近代植物分類学の権威である植物学者牧野 富太郎は、『植物知識』(*7青空文庫参照)の冒頭序文に、以下のように書いている。
は、率直にいえば生殖器である。」「この花は、種子(たね)を生ずるために存在している器官である。もし種子を生ずる必要がなかったならば、花はまったく無用の長物で、植物の上には現(あらわ)れなかったであろう。そしてその花形(かけい)、花色(かしょく)、雌雄(しゆうずい)の機能は種子を作る花の構(かまえ)であり、花の天から受け得た役目である。ゆえに植物には花のないものはなく、もしも花がなければ、花に代わるべき器官があって生殖を司(つかさど)っている。」・・・と。そして、最後に、
「われらが花を見るのは、植物学者以外は、この花の真目的を嘆美(たんび)するのではなくて、多くは、ただその表面に現れている美を賞観(しょうかん)して楽しんでいるにすぎない。花に言わすれば、誠(まこと)に迷惑至極と歎(かこつ)であろう。花のために、一掬(いっきく)の涙があってもよいではないか。」・・・と。

牧野 富太郎のような植物学者でもない、私なども、花の真目的を嘆美することなく、ただ見た目を楽しんでいるだけなので、何と言ってよいかわからないが、彼は、この序文の中間では、今独身貴族を謳歌している人たちにはちょっと頭の痛いことをも書いている。ここではそんなことには触れないこととする。ただ、今のままでは日本の総人口は、2060年には9000万人を割り込み、8,674万人になると推計されている(*8参照)ことだけを記しておこう。これだけ人口が減少すれば、当然、日本の経済力も落ちることは間違いないだろうね。
牧野 富太郎は序文に続いていろいろ花の解説をしているが、リンドウの花については以下のように解説している。

「リンドウというのは漢名、「龍胆」の唐音の音転(おんてん)であって、今これが日本で、この草の通称となっている。中国の書物によれば、その葉は、龍葵(りゅうき)のようで味が(きも)のように苦(にが)いからそれで龍胆(りんどう)というのだと解釈してあるが、しかし葉が苦いというよりは根の方がもっと苦い、すなわちこの根からいわゆるゲンチアナチンキが製せられ、健胃剤(けんいざい)に使われている。
 リンドウは昔ニガナ(*9も参照)といった。すなわち、その草の味が苦いからであろう。また播州〔兵庫県南部〕ではオコリオトシというそうだが、これもその草を煎じて飲めば味が苦いから、病気のオコリがオチル、すなわち癒(なお)るというのであろう。また葉が笹のようであるから、ササリンドウの名もある。
 リンドウは向陽(こうよう)の山地、もしくは原野の草間(そうかん)に多く生ずる宿根草(しゅっこんそう)で、茎(くき)は三〇~六〇センチメートルばかり、葉は狭(せま)くて尖(とが)り無柄(むへい。=葉柄を欠いた)で茎を抱いて対生(たいせい)し、全辺で葉中(ようちゅう)に三縦脈(じゅうみゃく)があり、元来緑色なれど、日を受けて往々紫色に染(そ)んでいる。秋更(ふけ)ての候(こう=季候。時候)、その花は茎頂(けいちょう。=植物の茎の先端部分で細胞分裂が行われる部分)に集合して咲き、また梢葉腋(しょうようえき)にも咲く。花下(かか)に緑(りょくがく)があって、尖がった五つの狭長片(きょうちょうへん。狭長=細長い)に分かれ、花冠(かかん)は大きな筒をなし、口は五裂(れつ)して副片(ふくへん)がある。この花冠は非常に日光に敏感であるから、日が当たると開き、日がかげると閉じる。
 ゆえに雨天の日は終日開かなく、また夜中もむろん閉じている。閉じるとその形が筆の頴(ほ=ほさき)の形をしていて捩(ねじ)れたたんでいる。色は藍紫色(らんししょく)で外は往々褐紫色(かっししょく)を呈(てい)しているが、まれに白花のものがある。筒中(とうちゅう)に五雄蕊(ゆうずい)と一雌蕊(しずい)とが見られる。花後(かご)には、宿存花冠(しゅくそんかかん)の中で長莢(ちょうきょう=ながさや)状の果実が熟し、二つに裂て細かい種子が出る。このように果実が熟した後茎(くき)は枯(かれ)行き、根は残るのである。
 花は形が大きく且(かつ)はなはだ風情があり、ことにもろもろの花のなくなった晩秋に咲くので、このうえもなく懐かしく感じ、これを愛する気が油然(ゆうぜん)と湧(わき)出るのを禁じ得ない。されども、人々が野や山より移して庭に栽植しないのはどうしたものか、やはり、野に置けれんげそうの類かとも思えども、しかしそう野でこれを楽しむ人もないようだ。
 リンドウはリンドウ科( Gentianaceae )に属し、わが邦(くに)では本科中の代表者といってよい。そしてその学名は Gentiana scabra Bunge var. Buergeri Maxim. である。この学名中にある var. はラテン語 varietas(英語の variety)の略字で、変種ということである。
このリンドウ属(Gentiana)には、わが邦(くに)に三十種以上の種類があるが、その中でアサマリンドウ(*10のここ参照)、トウヤクリンドウ(*1のここ参照)、オヤマリンドウハルリンドウフデリンドウ、コケリンドウ(*11参照)などは著名な種類である。右のアサマリンドウは、伊勢〔三重県〕の朝熊山(あさまやま)にあるから名づけたものだが、また土佐〔高知県〕の横倉山にも産する。
 根の味が最も苦く、能(よ)く振ふり出して健胃(けんい)のために飲用するセンブリは、一(いつ)にトウヤク(当薬)ともいい、やはりこのリンドウ科に属すれど、これはリンドウ属のものではなく、まったく別属のもので、その学名を Swertia japonica Makino といい、効力ある薬用植物として『日本薬局方』に登録せられている。秋に原野に行けば、採集ができる。」・・と。

リンドウの花の説明の中でも、牧野が言いたい花の真目的のことはきっちりと述べられている。彼が如何に草木を重要なものと考え愛していたかは最後の“あとがき”のところを読めばわかる。時間があればぜひ読まれたい。

補足すると。りんどう(竜胆)の属名のGentiana(ゲンティアナ)は紀元前180年~167年に存在したイリュリア王国(現バルカン半島西部)の最後の王ゲンティウスに由来したものだそうだ。、古代ローマの博物学者大プリニウスが著した百科全書的な書『博物誌』に彼がリンドウの薬効を発見したということが書かれているそうだ(*1また、*12参照)。
上記牧野 富太郎の『植物知識』に出てくる「オヤマリンドウ」(学名:Gentiana makinoi)、「センブリ」(千振、学名:Swertia japonica (Schult.) Makino)の学名にある、makinoi や、Makino
は、牧野富太郎の名に因んだものである。彼が命名したものは2500種以上(新種1000、新変種1500)とされ、自らの新種発見も600種余りとされている。

日本では平安時代中期に作られた源順の『和名類聚抄』((『和名抄』とも)は龍膽(竜胆)の和名として、「衣也美久佐」(えやみくさ)や「爾(尓)加奈」(にかな)」」と名づけた。全草は苦く、それを中国では竜の胆に例え、日本では万葉仮名を読み替え「笑止草(えやみぐさ)」、や「苦菜(にがな)」と名づけたようである(*1参照)。しかし、エヤミとは『疫病』を意味する古語であり、「笑止草(えやみぐさ)」は「疫(えやみ)草(ぐさ)」かと思うが、エヤミ「瘧」とも書くことから「瘧草」(わらわやみぐさ)ともなるのかもしれない。そうすれば「瘧草」(わらわやみぐさ)から「笑止草(えやみぐさ)」への転嫁も考えられる。
竜胆は天平5年(733年)に完成した『出雲国風土記』の神門郡(*13の〔凡諸山野所在草木〕のところ参照)に初見するが、『万葉集』では歌われていないそうだ。リンドウは竜胆の音読みで、『枕草子』に、以下のように読まれている。

竜胆(り敬老の日」のプレゼントとして人気の高い花のようだ。
理由は、ちょうど最盛期の花ということに加えて、リンドウの色(紫)が、聖徳太子のはじめた冠位十二階制度の中で、当時一番高位の色とされていた。そのことから、リンドウの色の紫色が古来より位の高い人、尊敬に値する人に身にまとってもらう色として大切にされてきたこと、リンドウの落ち着いた日本情緒あふれる雰囲気が、「シルバー世代」の好みに合うといったイメージが出来上がっているからではないかな?
それに、9月16日頃が、ちょうど「敬老の日」の時期に当たる。「敬老の日」は、9月の第3月曜日。今年・2015年の場合は、9月21日がその日になる。プレゼントにはまだ日がある。プレゼントには、リンドウの花など添えられてはどうだろう。

参考:
*1:跡見群芳譜巻五 野草譜- 跡見学園
http://www2.mmc.atomi.ac.jp/web01/Flower%20Information%20by%20Vps/Flower%20Albumn/chap5.htm
*2: 9月生まれの人の誕生花 ・花言葉| チルの工房【无域屋】花札庵
http://chills-lab.com/lofday/month-09/#16
*3:季節の花300
http://www.hana300.com/aatanjyo09.html
*4:りんどう鴉 | Movie Walker
http://movie.walkerplus.com/mv24950/
*5:高村光太郎 山の秋 (青空文庫)
http://www.aozora.gr.jp/cards/001168/files/43782_25641.html
*6:曹洞宗 法音山 昌歓寺
http://ww5.et.tiki.ne.jp/~jin-s/
*7:牧野 富太郎『植物知識』(青空文庫)
http://www.aozora.gr.jp/cards/001266/files/46821_29301.html
*8:(2)将来推計人口でみる50年後の日本|平成24年版高齢社会白書
http://www8.cao.go.jp/kourei/whitepaper/w-2012/zenbun/s1_1_1_02.html
*9:野の花散歩・ニガナいろいろ
http://www.geocities.jp/mc7045/sub74.htm
*10:四季の山野草図鑑
http://www.sanyasou.com/index/idx_flame.htm
*11:コケリンドウ/みんなの花図鑑 - 総合花サイトみんなの花図鑑
https://minhana.net/wiki/%E3%82%B3%E3%82%B1%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%83%89%E3%82%A6
*12:Fringed Gentian | Satchanから自然便り
http://plaza.rakuten.co.jp/washingtonbird/diary/200610050000/
*13:出雲国風土記(原文) - Synapse
http://www3.synapse.ne.jp/kintaro/c400files.htm
*14枕草子(堺本)
http://www.geocities.jp/hgonzaemon/makurasakai.html
<7>青雲の志7林虎彦その3 学名に「マキノ」鼻高々 : 地域 : 読売新聞
http://www.yomiuri.co.jp/local/kochi/feature/CO003998/20130405-OYT8T01405.html
国立国会図書館デジタルコレクション - 和名類聚抄 20巻
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2606770
366日・誕生花の辞典
http://www.366flower.net/
誕生花 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AA%95%E7%94%9F%E8%8A%B1
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