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お墓参りの日

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日本記念日協会に登録されている今日・9月23日の記念日に「お墓参りの日」があった。
由緒を見ると、全国の石材店石材関連業者で組織される一般社団法人日本石材産業協会(*1)が制定したもので、お盆(おぼん)や春と秋の彼岸などにお参りをすることで、先祖代々に手を合わせる日本らしい文化を絶やすことなく未来へとつなげていきたいとの思いが込められているそうだ。日付は「祖先をうやまい、なくなった人々をしのぶ」ことが趣旨とされ、国民の祝日に定められている「秋分の日」としたようだ。

一般に「盆」、また、「お盆」と呼ばれているのは、仏教用語の「盂蘭盆」の省略形で、太陰太陽暦である和暦天保暦など旧暦という)の7月15日を中心に日本で行なわれる、祖先の霊を祀る一連の行事であり、 日本古来の祖霊信仰と仏教が融合した行事である。
盂蘭盆はサンスクリット”avalambana”の転訛した”ullambana”の音写(ウランバナ)とされ、倒懸(とうけん)とも言われ、それは、頭を下にして足を吊られた、「逆さ吊りの苦しみ」を意味していて、『盂蘭盆経』によると、釈迦十大弟子で神通力第一といわれる目連(摩訶目犍連)が餓鬼道に落ちた母の倒懸の苦しみを救おうとして、釈迦の教えに従って祭儀を設けて三宝に供養したことが起源であると説かれてきた。
しかし、最近ではこれを否定して,盂蘭盆の原語はイラン語系の死者の霊魂を意味する“urvan”であり,霊魂の祭祀(さいし。神々や祖先などをまつること。祭典。祭儀。まつり。)と同時に収穫祭でもあったウルバンという祭祀が,イラン系ソグド人の中国進出とともに中国に伝えられ,畑作農業地帯の収穫祭として中元と結合したもので、仏教徒が自恣(じし)の日を中元に結びつけたことによって、今日に伝わる盂蘭盆会の原型が成立したとする説が出ているようだ(ここ参照)。
中元(ちゅうげん)は、道教に由来する年中行事で、三元の1つで、もともと旧暦の7月15日に行われていたが、現代の日本では新暦の7月15日または8月15日に行われている。
日本では、盂蘭盆会は神道と習合し、お盆の行事となった(日本の仏教参照)。江戸時代には、盆供(先祖への供物)と共に、商い先や世話になった人に贈り物をするようになり、この習慣を特に中元と呼ぶようになった。
お盆は、伝統的には旧暦7月15日にあたる中元節の日に祝われたが、日本では明治6年(1873年)1月1日のグレゴリオ暦(新暦)採用以降、以下のいずれかにお盆を行うことが多いようだ。
1.旧暦7月15日(旧盆) - 沖縄・奄美地方など
2.新暦7月15日(もしくは前後の土日) - 東京・横浜・静岡旧市街地、函館、金沢旧市街地など。
3.新暦8月15日(月遅れの盆。2.の地方では旧盆とも) - ほぼ全国的.
現在では1 や2 など一部の地域を除いて、3.の月遅れ開催が殆どのようである。私が住んでいる神戸(関西)も「月遅れ」の盆で、盆期間は8月13~16日である。
現代では、一般的に「お盆とは、年に一度祖先の霊が私たちのもとに帰ってくる期間」とされ、13日には、<ahref=https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%8E%E3%81%88%E7%81%AB<b>迎え火を焚いて祖先が迷わず家に来られるようにしてお迎えし、戻ってきた祖先の霊の供養をする。やがてお盆の期間が過ぎると16日には送り火を焚いてお送りをする。この風習がお盆の風習として定着している。私たちの宗派では、盆期間中、お寺(菩提寺)で作ってもらった先祖供養のため卒塔婆を盆期間は家の仏壇に祀り、15日にはお寺へ持って行き、追善供養をしてもらったのち、お寺の玄関先で燃やしている。地域、宗派によっていろいろあるだろうがこのような盆期間の一般的な行事は全国的な風習を参照されるとよい。
日本の文化や歴史に残るお盆・先祖の供養や神事は、イギリス海兵隊の艦隊に随行して来日したJ.M.W. Silverが、1867年イギリスで発行した、『Sketches of Japanese manners and customs』(『日本の礼儀と習慣のスケッチ』)という本に幕末期のお盆として掲載されている。冒頭の画像がそれである。この画の拡大図は同志社大学 貴重書デジタルアーカイブで見れる。以下で45番目のページを見られるとよい。

同志社大学 貴重書デジタルアーカイブ Sketches of Japanese manners and customs

暑さ寒さも彼岸まで」とは良く聞く慣用句であるが、彼岸は昼と夜の長さが同じになる季節の区切りであり、平均気温に例えると、3月の春の彼岸は概ね11月下旬から12月初めの気温、9月の秋の彼岸は概ね5月末から6月上旬の気温とほぼ同じであり、それぞれ秋から冬への過渡期の晩秋、春から夏への過渡期の初夏の平均気温と等しくなる。つまり、厳しい冬の寒さも、厳しい夏の残暑も、春分の日や秋分の日を境に目処がついてくるということからこう呼ばれるようになったようだ。
お彼岸は雑節の一つで、春分・秋分を中日とし、前後各3日を合わせた各7日間(1年で計14日間)であり、この期間に行う仏事を彼岸会と呼んでいる。最初の日を「彼岸の入り」、最後の日を「彼岸明け」(あるいは地方によっては「はしりくち」)と呼ぶらしい。なぜ走りというのかは以下参考の*3の「秋の彼岸について」を参照)。
こちらの岸「此岸(しがん)」は、「煩悩(迷い)」の世界であり、かなたの岸の「彼岸(ひがん)」は「悟りの境地」、「お彼岸」の行事の本来の意味は、「悟りの境地」=「極楽浄土」へ到達することを願って行われるものである。
俗に、中日に先祖に感謝し、残る6日は、悟り,の境地に達するのに必要な6つの徳目「六波羅蜜」を1日に1つずつ修める日とされている。
この彼岸という行事も、元々浄土思想に由来し、西方浄土を希求する中国の念仏行事であったものが、日本仏教において、先祖崇拝の行事になった。
彼岸会の「彼岸」は、「日願(ひがん)」から来ているとも言える。日本に限らず古来から、太陽や祖霊信仰は原始宗教,の頃からつきもののようである。
農耕民族の日本人は、この春分一週間を古来よりとても大切な日とし、春は豊穣を祈り、秋は収穫を感謝。作物を育てる太陽に、自分たちを守る先祖に、自然界すべてに感謝してお供え物をお供えしていた。このような経緯からこの彼岸会もお盆同様に日本における祖霊信仰という土壌を考えることができる。
日本ではこの彼岸会について、『日本後記』の中に次の如くのべている。
「大同元年(八〇六)三月辛巳に、崇道天皇光仁天皇の子早良(さわら)親王のために諸国国分寺の僧をして春秋二仲月別七日、金剛般若経を読ましむ」・・・と。
大同元年は五月十八日改元しているから延暦二十五年(八〇六年)となる。早良親王光仁天皇桓武天皇の弟である。七八五年崇道天皇と追号されている。お彼岸の行事はこれより前から行われたと思われるが、文献上ではこの日本後記の説を始めとしているようだ。、この時の彼岸会の目的は、無実の罪によって亡くなった崇道天皇を供養するというものであった。つまり、この当時からお彼岸には死者を供養する習慣があったといえる。崇道天皇のこの辺の事情は、以下参考*3:「彼岸の起源・由来~ひとりの怨霊を鎮めるために」を見られるとよい。
俳句の 季語などでは、単に彼岸といえば「春の彼岸」を指し、「秋の彼岸」は特に「秋彼岸」とか、「後(のち)の彼岸」といっている。これは農作業の始まる季節の「春の彼岸」の方が、特に重要だったからだったからだろう。「秋の彼岸」を過ぎると、季節は「短夜」(みじかよ。4のここ参照)から「夜長」(* ここ参照)へと移っていく。

どんな人間にも必ず先祖はいる。しかもさかのぼれば無数の先祖がいて、その血がどんなに薄くなっても子孫の一人である自分に流れていることは否定できまないだろう。
お墓は、大切だった亡き人やご先祖さまを供養するところである。祈りの象徴であると同時に、お参りする人にとっては精神的な拠りどころであり、連綿と受け継がれてきた命のつながりを身近に感じさせてくれるところでもある。つまり、お墓参りをして先祖供養をすることは、自分をこの世にあらしめてくれた(生かさせて頂いた)全ての人に感謝するということにもなるのであるが・・・。
かつてお墓は、集落の近くの山あいや、一族の屋敷のすぐ隣などにあったことから、人々にとってお墓参りは日常の生活の一部であった。それが時代とともに生活から切り離され、仕事が忙しいとか、お墓が遠いのでそうそう行けないとか、年に数回行くお墓参りに変わってきた。現在、お墓参りの時期として一般に行われるのは、お盆や春秋のお彼岸、故人の命日、正月、年忌法要などくらいであろう。

ところで、人が亡くなった時の葬儀あり方が最近はずいぶんと変わってきたようだ。ここ数年、参列者が少ない規模の小さなお葬式が増えていると聞く。
第一生命経済研究所が2012年に実施した調査では、「身内と親しい友人だけでお葬式をしてほしい」と回答した人が30.3%、「家族だけでお葬式をしてほしい」と考える人が33.1%おり、合わせて6割以上が、家族を中心としたお葬式を希望していた。一方で、「従来通りのお葬式をしてほしい」と考える人はわずか9.0%にとどまったとう。以下の第一生命経済研究所のデーター参照。

「葬儀の参列者を日本とアジア諸国で比較する」 - 第一生命保険

バブル景気の時代には一般的な葬儀でも参列者は優に100人を超えたといわれる。しかし、そのほとんどは遺族の仕事関係の人たちで個人とは直接面識もない人たちであった。そのため、そのころの葬式は、慣習やしきたりに従った社会的な儀式にならざるを得なかった。遺族は仕事関係など義理で参列する人たちの世話に忙しく、個人とゆっくりお別れするゆとりがなかったとといった経験を持つ人は少なくないだろう。
調査の結果は、そんな従来の葬式のあり方へのアンチテーゼでもあるのだろう。
しかし、費用面では、決して、身内だけでの少人数の家族葬の方が費用負担が少ないとは限らないようだ。香典が入らないので、葬儀費用のほぼ全額が遺族の自己負担となるからだ。
それでも、義理や世間体を重視するのではなく、故人と親しい人だけで送りたいと、家族葬を選ぶ人がふえているようだ。私なども同様の考え方であり、自分の葬儀は、身内だけのこじんまりとした家族葬をしてもらおうと思っているが、家人も同意見であり、これはすでに子供たちにも話してある。

また、お墓の事情も多様化しているようだ。
土。日の新聞チラシなど見ていると、その中に霊園の案内チラシも必ずと言うほど見受けられる。特にお彼岸近くの日には数枚折り込まれているこの頃である。
これは霊園に関する需要があるのか、需要を創造しているのか不明であるが、都市を中心として霊園開発が相次いでいるようである。
霊園産業、墓石産業界の売り込みの激しい売り込み競争が見られる。
前にこのブログ9月9日の記念日「知恵の輪」の日でも書いたところだが、日本では少子化・高齢化の中、総人口が減少するなかで、高齢化率は上昇し、いわゆる「団塊の世代」(昭和22(1947)~24(1949)年に生まれた人)が65歳以上となる2015(平成27)年、つまり、今年には国民の4人に1人が65歳以上という高齢化社会に突入した。その中で65歳から74歳までの前期高齢者の比率と、75歳以上の後期高齢者(後期高齢者医療制度対象者)の絶対数がまもなく(2020年頃)入れ替わる更なる「超高齢社会」に入るが、一方、日本の総人口は、2050(平成62)年には1億人を、2060(平成72)年には9,000万人を割り込むことが予想されている。そして、このとき(2060年)には、高齢化率は39.9%に達し、2.5人に1 人が65歳以上。内、75歳以上人口が総人口の26.9%となり、4 人に1 人が75歳以上の社会となるのである(以下参照)。

第1章 高齢化の状況(PDF形式:501KB) - 内閣府

このことは、団塊の世代がこの世を去るまでの今後30 年間ほどまでは死亡数は増加の一図をたどるということになるのである。言い換えれば、お墓の需要が増えるということが予測され、今の霊園・墓石産業界等の競争激化を生んでいるのだろう。
同時に、全体的には人口の減少傾向の中、都市への人口集中度は増加している。これは過疎地域等での無縁仏の増加、寺院の檀信徒の減少による墓苑・寺院の衰退にもつながっている。一方都会では墓苑土地の確保が困難になる。そのことは墓地への認識の変化と経済のグローバル化による自由市場経済の拡大と共に新しい墓地・墓石の形態が出てくる一因ともなっているようだ。
○寺院の地下や、屋上を利用する墓地○納骨堂(ロッカー式)形式墓地○壁墓地・プレート型墓地○両家、夫婦墓○永代供養墓、有期限の墓、それに○散骨など・・・。
人は生まれたからには必ず死を迎える。死んだ後「自分がどのように処置されるか」、墓地墓苑を訪れたときなど「自分の死後の空間は・・・拠り所は・・?」と考えるのであろうか。
お墓を持たない世帯は生前に自分のお墓を建てたいという気運が最近高まっているようだ。生前のお墓の建立は寿陵といって縁起がいいと旧来よりいわれていた。最近では単に縁起がよいということだけでなく「子供に負担をかけたくない」「子供はあてにならない」「終の安住地は自分らしく」等の理由でお墓を購入している人が増えているという。そして、今年から相続税の節税対策にもなると、墓石業者などが触れ込んだことが背景の1つとしてあるのかもしれない。

第一生命保険が家庭内祭祀の実態を2012年に 20歳以上84歳以下の全国男女765人を調査調査対象調査した結果、「戦後、核家族化や少子化で死者祭祀の担い手である「家」が変容したことに加え、生まれた土地で一生を終えるライフスタイルが主流でなくなったこと、地域共同体が変質したことから、葬送儀礼や祭祀財産としての墓のかたちが多様化している。
しかし一方で、「年に1,2回墓参りをしている」「先祖や亡くなった肉親の霊を祭る」惑い霊的行動の実施率は高く、遺された人が大切な死者を追慕する行為は衰退していないといえる。また、初詣やお札・お守りを持つなど、多くの日本人は、特定の宗派の信仰とは別の次元で宗教的な行動を行っている。」・・・という。以下参照。

NOTES 「宗教的心情としきたりの関連」 - 第一生命保険

このような結果を見ても、これまでのやり方のお葬式では、義理で参列する弔問客の応対に追われ、故人とゆっくりお別れできないという不満や、お仕着せのお葬式のあり方に疑問を抱く遺族も増え、こうした不満が「家族だけで葬儀をしたい」という意識にもつながっているようだ。
しかし、日本のお墓は、子々孫々での継承を前提としているところに特徴があるが、昨今の、少子化、非婚化、核家族化が進み家制度も崩壊したなか、継承者のいない家庭が増えている。たとえ、子孫がいても遠く離れて暮らしていれば、頻繁にお墓参りするのは不可能であり、実際に、墓や祭祀 の継承が困難になった無縁墓の増加が全国各地で問題となりつつある。
事実、私の住んでいる神戸市の市営の鵯越墓園(同市北区。*5また、ここ参照)は、東洋一の規模を誇るといわれているが、私の墓の横に並んである墓も長らく墓参者がなく荒れ放題となっており、今年の盆には市の連絡先を求める札が置かれていた。また、同墓園でも少子高齢化による後継者の不在などで、墓を撤去し、寺などに遺骨の管理を任せる永代供養に切り替える動きが広がっているという(*6参照)。
このような状況の中で、将来的には人口が確実に減少していくことによる無縁仏の増加が一番に気にかかることではある。

死の迎え方や葬送の選択肢が増えた背景には「終活という言葉が流行し、人生の締めくくり方を元気なうちに考え、準備しておこうという気運が中高年の間で高まっている。しかし死は当人だけの問題ではなく、死者を取り巻く家族や友人、ひいては誰もが死にゆくという意味では、社会全体の問題なのである。ところが終活は、「私の死」という視点が大きくクローズアップされ、「大切な人の死」を体験する遺族への配慮が二の次になっている。
地域の人たちが総出で葬儀を手伝い、亡くなった順番に集落の墓地に土葬されるのが当たり前だった時代には、家族の有無にかかわらず、自分の死後に不安を持つ人は少なかったはず。しかし、今では、死の迎え方や葬送の選択肢が増え、さまざまな情報が飛び交う反面、「どんな葬送がいいのか」「誰がやってくれるのか」という不安が増大してきたのは、持ちつ持たれつの互助関係が消滅し、社会の無縁化が進んできたからに他ならないだろう
歳を取り体が弱り、介護が必要になったり、死を迎えたりすれば、どんなに事前準備をしていても、自分で実行することができない以上、自分の思いを理解してくれる人に代行してもらうしかない。人生の終焉(しゅうえん)を考えることは、家族やまわりの人との関係を見直すきっかけにもなるという意味で、終活は、自分が自立できなくなったときに誰かに任せられる関係を築く「結縁」活動だともいえるようだ。私も後期高齢者となり、今は、そのようなことに考えを巡らせながら、その準備をしているところである。少なくとも、死ぬ間際になって、あれをしていなかった・・などといった悔いは残らないようにだけはしておきたい。

私のお墓の前で 泣かないでください
そこには私はいません 眠ってなんかいません
千の風に
千の風になって
あの大きな空を
吹きわたっています

NHK2006 年紅白歌合戦で秋川雅史が歌った「千の風になって」。
この詩は「私は死んだのだけれど、いまは風になって元気に大空を吹きわたっている。だから安心してほしい、そんなに嘆かないでほしい、といった詩なのだが、私もそのようにありたい。

千の風になって 秋川雅史 - YouTube

参考
*1:日本石材産業協会
http://www.japan-stone.org/
*2:石屋さんの豆知識 目次 - 原産業
http://www.harasangyo.co.jp/reader/reader.html
*3:彼岸の起源・由来~ひとりの怨霊を鎮めるために・・・: 今日は何の日
http://indoor-mama.cocolog-nifty.com/turedure/2007/09/post_7bf3.html
*4:「きごさい」歳時記
http://kigosai.sub.jp/
*5:神戸市:神戸市墓園管理センター
http://www.city.kobe.lg.jp/life/ceremony/memorial/cemetery/
*6:「墓じまい」自分の代で 少子高齢で維持困難、無縁墓も増加 - 神戸新聞
http://www.kobe-np.co.jp/news/kurashi/201505/0007984859.shtml


お彼岸について教えてください。 - 法華宗(陣門流)
http://www.hokkeshu.com/event/dic_o_higan2.html
墓参りの仕方とマナー - 冠婚葬祭マナー
http://www.jp-guide.net/manner/ha/hakamairi.html
お墓の辞典
http://5go.biz/ohaka/
お盆 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8A%E7%9B%86


デザインの日

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今日10月1日は「デザインの日」である。
1959(昭和34)年のこの日、通商産業省(現在の経済産業省)に、デザイン奨励審議会(※1参照)が設置され、デザイン振興政策が行われるようになったことを記念して、同省等により1990(平成2)年に制定されたもの。
つまり、今日は「デザインに対する理解を深める日」と云うことになるのだろう。
最近、デザイナー(英:designer)の佐野研二郎氏が制作した2020年東京五輪パラリンピックエンブレム(英::emblem)について、ベルギーのリエージュ劇場ロゴ(ロゴタイプ。英; logotype)が酷似していると指摘され、デザイン(英:design)を手がけた佐野氏の盗作疑惑が問題となった。当の佐野氏は盗作について事実無根としているが、別の案件でも次々と疑惑が発覚。ついに、大会組織委員会は、使用を中止することを決めた(2015年9月1日。※2参照)。

デザインの盗作問題以前に、先ず、「デザインとは何か」、「デザインの創造性とは何か?」といったことがこのようなことの専門ではない私にはよくわからないのだが、これを機に、少し、デザインのことについて調べ。勉強して、そのことを書いてみる気になった。
「デザインは、ある対象について、良い構成を工夫すること。」(wikipedia)とあるように、デザインは日本語ではある特定のものに対する「設計」にもあたり、「形態」や「意匠」(※3の制度 > 知的財産権制度の概要>意匠とは参照)と訳されてきたが、それだけに限らず、人間の行為(その多くは目的を持つ)をより良いかたちで適えるための「計画」も意味していて、その多くは目的を果たすために使われている。
「意匠(英語:デザイン[design])」の語源はデッサン(dessin)と同じく、“計画を記号に表す”という意味のラテン語designareであることから、デザインとは、ある問題を解決するために思考・概念の組み立てを行い、それを様々な媒体に応じて表現することと解さている。つまり、創意工夫という意味合いが強いようだ。
従って、デザインは芸術の分野だけにとどまらず、建築や服飾、あらゆる製品など多岐にわたって使われていることから普段の生活にとても身近な存在であり、また、それらを取り扱う産業界にとっても非常に重要なものである。
特にマスメディアの発達した現代において、デザインの重要性は年々大きくなり、そのデザインの良否があらゆる産業の営業活動に大きな影響を及ぼすようになった。
オリンピックのエンブレムに使われたロゴもオリンピック協賛企業にとっては、多額の協賛金の見返りとして、自社製品販売等の営業面に大きな影響を与えるものであろう。言い換えれば、そのロゴを利用したいがために協賛しているといえる企業も多いことだろうから、今回のような問題は本当に困った問題であろう(※4、※5参照)。

かって工芸と呼ばれたものは、実用品に芸術的な意匠を施し、機能性と美術的な美しさを融合させた工作物のこと。多くは、緻密な手作業によって製作される手工業品である。あくまでも実用性を重視しており、鑑賞目的の芸術作品とは異なる。ただし両者の境界は曖昧であり、人によっても解釈は異なる。
そのような、工芸と呼ばれた職人の技術をデザインという新しい基準に応用し、産業の発展へ、さらには世界レベルの水準向上へと推し進めてきたのは、先人のたゆまない努力があってのことだろう。
現在では、「工芸」は美術工芸を指す用語となっているが、これはごく近年になってからのこと。現在の国立研究開発法人産業技術総合研究所(略称:産総研)の前身となった機関のひとつでもある「工芸指導所」の名称からも、当時の認識が読み取れるという(※1のデザイン振興活動のあゆみ参照)。

嘉永6 年(1853年)、ペリー浦賀に来航し,日本の長い鎖国時代は幕をとじた。この時,欧米先進国ではすでに産業革命が終了し,工場制工業も軌道にのり,資本主義社会の基盤となる諸法制もほぼ整備された段階であった。反面,我が国では,家内工業を中心とした封建的産業経済様式をとっており,商業制度を支えるべき商工業者の特権的集団である株仲間も,江戸時代末期からの商品流通構造の変化,多様化により経済発展の阻害要因となるなど商業ルールまでもが混乱状況を呈しつつあった。
このような状況において,我が国が欧米先進国に伍してゆくためには,欧米諸国のように一定の発展過程を経て近代化を成しとげてゆくのを待つ訳にはゆかず、短期間に欧米の諸法制及び技術の移植を行うことによって近代化を図らなくてはならなかった。
西欧諸国からの技術・機械の導入にあたって、その資金を得るため外貨を獲得すること、すなわち輸出品の増大は明治政府にとって最重要課題のひとつであった。当時の我が国の輸出品は,産業の発達段階からみても、生糸、茶、銅等の原材料が主要品であったが、加工品として陶磁器などの工芸品が挙げられる。
輸出品としての工芸品は我が国政府として1873(明治6)年初めて出品したオーストリアのウィーンで開かれた万国博覧会での,日本独特の風趣を備えた美術工芸品について大好評を得て、東洋の小島にすぎなかった我が国の名を、欧米に知らしめる効果があった(6年前のパリ博覧会には,徳川幕府をはじめ2,3 の藩が出品したが,国を代表していた訳ではなかった)。
この後、海外博覧会への出品は、ウィーンを皮切りに明治26 年まで20 数回にわたっておこなったが、逆に、ウイーンの機械館を見て、産業の近代化を一足早く成し逐げていた欧米の優秀な技術を見るに及んで、日本の拙劣さが目立ち、多くの課題を抱え込むこととなったのである。
このように、日本の近代化の中で150年ほど前から始まったザイン振興活動は、当時の主な輸出商品である工芸品の形状や色彩を改良する活動からスタートしていった。

日本では、1888(明治21)年の意匠条例が意匠の登録制度の始まりであり、その後、約10 年毎に3 回の法改正がなされ,大正10 年法へと引継がれているが、その後同法の時代が第二次世界大戦をはさんで約39 年間続き、その後昭和34 年法が29 年間施行されてきた。
最初の意匠法は「工業上ノ物品ニ應用スヘキ考案即チ各種ノ形狀模様等ニシテ工業ト相須テ離ルヘカラサルモノ」(農商務省案に付された理由書)であると認識され、その内容について意匠とは「専ラ工業上ノ物品ニ應用スヘキ風韻上ノ考案」(農商務省案に付された逐条説明)と説明されていた(※3の制度>知的財産権制度の概要>意匠制度120年の歩み参照) 
このようにこれらは外観デザインの改良にすぎないが、大正10 年法施行後約10 年を経た、意匠制度史上の中間地点にあたる1928(昭和3)年に法改正作業が行われており、法改正は未完に終ったが、そこでは、デザイン活動の革命的変化、つまり、当時の情報化社会が生み出したソフト産業、サービス産業の発展とそれに伴い、そこに生じる知的資産・独創性についての保護を求めて、「知的所有権」の新たな位置づけと役割を要請されていた。
そして、1928(昭和3)年には、小規模ながらも商工省(1949年通商産業省に改組後、現:経済産業省に改組)が国策事業として仙台市にある仙台陸軍幼年学校の跡地に国井喜太郎(*4の国井喜太郎産業工芸賞参照)を所長とする「工芸指導所」(後に工業技術院産業工芸試験所→統合再編により現:産総研)を設立したのが、日本の産業工芸とデザインの研究・振興施策の歴史の始まりといえる(※6参照)。
これは当時の世界的な不況(世界恐慌)の中、各国の、輸入制限や保護関税政策を引き起こさせ、我が国の輸出にも大きな影響を与えたことから、この難局に直面した日本政府は国産品愛用と海外販路開拓の政策を執るがその効果は思わしくなく、昭和2年、産業合理化運動を展開している中、帝国工芸会会長で男爵でもある阪谷芳郎が各国の輸入抑制の中輸出を活発化する為に、商工大臣中橋徳五郎にあて、「工芸振興ニ関スル建議」を行い、この後、工芸的手工業に最新の科学技術の応用を図り、内外デザイン思想の紹介普及と人材育成の中心機関として、設置されたものであった。(※3:「経済産業省 “特許庁」の”意匠制度120年の歩み“参照)。
当時、工芸指導所では、世界の最新動向を把握しながら実験的な試作を行い、勃興しつつあったモダンデザインを取り入れて改良を図ろうとしていた。そのために、世界的なブルーノ・タウトシャルロット・ペリアンなどの著名なデザイナーが招聘された(※7参照)。
1940(昭和15)年12月、工芸指導所は東京に移転したが、この頃から戦火が激しくなり、本来の目的は、十分に遂行はできなかったようだが、終戦をむかえると、経済復興を支える重要な政策として、再びデザイン振興がスポットを浴びるようになった。
第二次世界大戦の敗戦によって産業・経済に大きな打撃を受けた我が国は、早急に経済を回復することによって国民生活を安定させ、産業の基礎を固める必要があった。そのためには国内の資源を開発して各種の産業を活発化するとともに貿易の振興によって海外市場を獲得するなど、民間資本の蓄積,増大を図らなければならなかった。
戦後、我が国の生産技術及び産業意匠への啓発の契機となったのは、欧米文化の直接的な流入であった。1946(昭和 21) 年には進駐軍から住宅及び家具什器類など大量発注が行われ、設計と試作には工芸指導所が当たり、その生産には全国の有力工場が加わるという、我が国工業界にとって画期的な事業となり、量産方式の各種技術が修得された。
一方、1950 年代は「I.D栄光の時代」といわれ,戦後のデザインを代表する作品が欧米に次々に登場し、我が国にも紹介された。戦後の我が国の産業界はこのような国際的なデザインをかつてないほど急激に吸収しながら進行した(※3の財産権制度の概要>意匠制度120年の歩み>第8章 昭和34年意匠法の改正参照)。
だが、戦後の産業復興とともにデザイン活動が活発に展開するなかで、欧米デザインの模倣・盗用問題が発生した。1950年代まで、ほとんどの日本企業(とくに製造業)には、専門のデザイン部門はなく、当時、産業工芸試験所は、東芝やソニーからもデザインの委託を受けていたという。
日本経済にとって貿易輸出の伸長は極めて重要な課題であり、戦後の通商政策は貿易の障害となるこの種の問題に早急に対処する必要があった。
このような反省に基づき、1946(昭和 21 )年に早くも産業意匠権の確立運動がみられた。
この年、政府は、生活必需品の優良化と適正商品の量産化を図るため、当時の商工省の外局であった特許標準局(現:特許庁)内に商品標準化委員会を設け、商品の標準化による原料資材の有効利用及び生活能率の向上を期すると同時に,国民生活の文化的合理的再建を目指し、工芸学会もまたこの問題に関し世論の喚起に努め、図案家及び図案の保護を提唱した。そして1947(昭和 22) 年 4 月には,勅令第 5 号発明奨励委員会官制に基づいて設置された発明奨励委員会第 6 部会に対して,商工大臣から「輸出貿易の促進を図るための優秀意匠の奨励及活用方策如何」という諮問がなされ、その答申において意匠の創作権保護に関し、現行意匠法の改正及び民間団体による意匠権保護に関する運動と実践を提案。この提案における意匠法改正には意匠法の保護対象につき,その内容を「近代的産業意匠」とすることを要望しているが、急には実効を上げるに至らなかったようだ。
1952(昭和27)年4 月に、工芸指導所は産業工芸試験所(英:Industrial Art Institute。略称:IAI)と改称し、インダストリアル・デザイン(英:industrial design)の指導・研究が主要な業務となった。
産業工芸試験所では、G. ネルソンE. ソットサスといった著名なデザイナーを海外より招聘し、企業のデザイン部門をはじめとするデザイン関係者を実地に指導する場を積極的に設けた。
昭和30 年代に入ると高度経済成長が始まり,産業が発展し、その構造も変わり、製品デザインの対象産業領域も広がったが、日本では、1955(昭和30 )年頃、まだまだ国内メーカーが欧米のプロダクトデザイン(英: product design。製品のデザインのこと)を模倣し、海外から非難されていた。
デザイン制作の主たる目的は輸出政策としてデザインの盗用及び模倣を防止することにあったことから、1957(昭和32)年には、優れたプロダクトデザインを選定するGマーク選定制度を開始(Gマークの「G」はgood designの略。公益財団法人日本デザイン振興会〔※1〕が主催するグッドデザイン賞を受賞した商品・サービス・活動などに表示されるマーク)。また、「輸出検査法」(昭和 32年法律 97号. ※8参照)を制定し、輸出検査制度の強化をした。これは、輸出品の声価の維持および向上をはかり,輸出貿易の健全な発達に寄与することを目的としている(第1条)
 
上掲の画像はGマーク

経済産業省(当時、通商産業省)は1958(昭和33))年にデザイン課を設置して以来、時代の変遷に沿って組織や業務を変革しながらデザイン政策を続けてきた。
1959(昭和34)年には、「輸出品デザイン法」(昭和34年法律第129号。※9参照)を制定して、盗用模倣防止の法的体制の整備をし、デザイン奨励審議会 を設置し、本格的なデザイン政策を開始している。
さらにJETRO(ジェトロ。日本貿易振興機構の略)等と共同して国際見本市等での対外宣伝に努め、世界市場に向けて個性が発揮できるよう指導するとともに、製品管理や包装の合理化、色彩研究などといった関連分野まで、その業務範囲を広げて指導に努めた。
ここから、秋岡芳夫剣持勇豊口克平ら日本を代表するデザイナーが輩出していった(※7参照)。
またこの時期に、日本インダストリアルデザイン協会(※10)や日本デザインコミッティーなどのデザイナー団体も設立され、デザイナーの活動も活発化していった。
1960年代に入ると、デザイン活動の中心は企業へと移っていった。大きな役割を終えた産業工芸試験所は、1969(昭和44)年に製品科学研究所(産総研の前身である工業技術院に属した研究所のひとつ)として組織再編を受け新たな役割を果たしていった。

デザインと言う、このような専門分野のことを、私のような専門知識を持たないものが書くことは難しい。ネットで調べたことなどを基に書いたが、色々と謝ったことを書いているかもさ入れない。デザイン制度のその後の歩みなど、その概略は、参考※3:「経済産業省 特許庁>制度・手続 > 意匠」のところで、詳しく書かれているが、その概略なら、同HPの“第3部 意匠制度120 年史年表”を見られるとよい。

今問題となっていることは、特に「デザイン」創造性についてだろう。
日本語の「学(まな)ぶ」は「学(まね)ぶ」に同義で、「真似(まね)る」に同義だとも言われている(ここ参照)。
人は、それぞれ特技や長所を持っており、自分にはない他人のそんな良い点、スキルを手本として、先ずはその人に劣らないように学(まね)ぶことから始めるのが、学びの基本・・・とされている。
最近はよく個性の時代と言われる。テレビなど、吉本のタレントや女性の恰好?をしただけの人などが多く出ている。以前。朝日新聞の「天声人語」にこんなことが書いてあったのを覚えている。
「芸能人能がついて芸がなし」
昔は芸を磨き優れた芸を売るのが芸能人だった。しかし、何時のころか余り芸のない人たちが芸能人と呼ばれだした。今のテレビはコマーシャルの合間に、あまり売れていない金のかからないタレントと呼ばれる人、私流の定義でいえば、タレントとは「芸のない芸人、昔はスポーツ選手や歌手その他の職業で少しは名の売れてはいたが、今はそれでは食えなくなった人達のこと」と解釈している。
たとえ芸にしても、先ず基本をしっかり身に着けてそれから自分の特色を芸に生かすべきだろうが、それでは年数がかかりすぎ、今はJ時間をかけてそのような基本を身につけていない若い未熟な人や昔売った名前や顔を利用しているだけの人ばかりがテレビには出演している。まず、今の、テレビそのものが、芸を見せる場所ではなくなってしまったからそれでよいのかもしれないが・・・。、
しかし、まともなビジネスの世界ではそのようなものは通用しない。
私なども職業柄、商社、メーカー、チェーンストアーなどのサービス業などいろいろな流通業界の仕事を経験し、そして、非常に多くの会社を見てきたが、例えば、日本では後発のスーパー業界などでも、その先進国であるアメリカなど本場のスーパーの多様な業態を視察し、それをまずは徹底的に学(まね)び、それをやってみて、その中から、アメリカではなく、日本の風土に合う独自の業態開発に力を入れてきたところだけが今生き残っている。ただ、単に、真似ごとをしているだけのところは、倒産あるいは吸収されている。
日本は日本の独特の風土がある、それをわからないままに攻めてきた、アメリカやフランスなど流通業の先進国もほとんどが失敗をしている。それに引き換え、スーパーではないが、コンビニエンスストアーセブンイレブンなど、本家アメリカのセブン-イレブンを飲み込んでいる。また、日本でチェーンストアーが始まった時には、四日市の片田舎の呉服屋上がりのスーパーであった岡田屋は、新業態を開発し、今では当時日本一であったダイエーをも飲み込み、イオンとして世界市場を制覇しようとしている。
これら成功している企業は単に、真似事をしただけではなく、徹底的に学(まね)び、それを消化したうえで、じっくりと時間をかけて独自のノウハウを付加して完全に自分のものとしたからこそ強いのである。私達消費者などが、店舗など表面的なものを見ても、わからない、管理・運営上のノウハウ創造しているのである。
さて、デザインの世界はどうなのだろう。
デザインを勉強している人も最初から思いついたデザインを次々と書ける人はいないだろう。多くの人は、優秀な先人デザイナーの書いたものを見て、学んできたことだろう。
どんな分野であれ、それまでに先人が残してきたものを学び、知識なり秘術を習得せずして一流の専門家になるのは不可能だろう。数字や英字などを使ったロゴに関しても、今までどんなものが創られきているか。そして、それが何を表現しようとして、そのような、「形態」「意匠」ができあがったのか等々。
デザインの語源がデッサン(dessin)と同じく、“計画を記号に表す”という意味のラテン語designareであるとすれば、言い換えれば、「デザインは、思考というプロセスを経た結果としての表現」であると言えるのだろう。
新しいデザインを想像するには、いろいろ過去にあるものを見た上で、それらで使われていたロゴとよく似たものを一部使ったとしても、全体としてそこにその人の思考や計画を表すための明確な根拠があれば良いのではないかと考えられる。ただし、意匠登録されているものは使えないが・・・。
しかし、佐野市氏は、盗作とされているもののデザインを「見たこともない」し、「私はアートディレクター・デザイナーとして、ものをパクるということをしたことは一切ありません」と、盗作疑惑を記者会見で一蹴していた。
私はこの時の会見を不思議に思った。私は、若い時、東京で5年間ほど住んでいた(昭和30年代末〜昭和40年代初め)。、当時、東京タワーへは、東京テレビ(1960年に東京放送[TBS)に改称)で 『アイデア買います』 という番組の公開放送を見るために何度も行った事がある。素人発明家のアイデアを審査して、良いものがあれば、業者がそのアイデアを買うといった番組で、当時人気番組であった。それに刺戟されて、新宿近辺にあった発明協会へ加入し、会社の私と同じ面白い事大好き人間同士で、つまらぬものをいろいろ考え出し、それでも、3つぐらい実用新案の申請をしたが、中途半端で特許もとれなかった。それでも、そのお遊びのお蔭で、特許の仕方や、当時品川にあった特許庁へ提出済みの特許などを調べに行って、特許に係るいろいろな知識を身につけたのは、無駄にはならなかった.。しかし、その時、まだ製品化はされていないが今後使用するかもわからない製品の名称やデザインなどすごい数の意匠登録数がされているのに驚かされた。
それなのに、佐野氏のようなプロが似ているとされているものについて見たこともない。パクリはしていない・・などの発言を聞いて、実際にどうだったのかは知らないが、この男は信用できないな・・・と思った。
其の後、佐野氏のエンブレムの原案については、組織委員会が国際商標登録(※12)を行うためにIOC(国際オリンピック委員会)と共同で行った国内外の商標調査の中で、複数の似たデザインが見つかったことなどから、2回にわたって佐野氏自身によって修正が加えられて、最終的なデザインが決まったという(※13参照)。つまり、2度も修正したものがまた問題となっていたのである。
アメリカの建築家フランク・ロイド・ライトの以下の名言があるという(※14参照)。
「全体は部分の為にあり、部分は全体の為にある。そしてそれら全てが全体に奉仕する。」
では、佐野氏の原案は、2度修正されているが、その部分も全体も一体どのような理由づけで何を表現するために修正されたのかか。「パクリ」ではないというなら、デザイナーとして、きっちりとその理由づけを説明すべきではないのだろうか。その真実は知らないが、それをしない限り、不信感はぬぐえないだろう。しかも、修正が2回もあったことやどのようなデザインになったのかなど完成まで、組織委員会が、審査委員に伝えていなかった…などと聞くと、組織委員会と佐野氏間に何があったのか・・そんなことまで疑問が感じられる。
このデザイン疑惑だけでなく、2020年東京オリンピックのメイン会場となる新国立競技場(東京都新宿区)建設問題(※15参照)や、東芝の不正会計処理(粉飾決算)問題(※16参照)等、外国から見れば、日本の国はちょっと何かがおかしいと思い始めているのではないだろうか。国にしても大企業にしても内部統制が全く機能していないな~。

参考:
※1:日本デザイン振興会
http://www.jidp.or.jp/
※2:東京五輪のエンブレムを組織委員会が使用中止とする方針 - GIGAZINE
http://gigazine.net/news/20150901-tokyo-2020-emblem/
※3:経済産業省 特許庁>制度・手続 > 意匠
https://www.jpo.go.jp/seido/isho/index.html
※4:[6]2020年大会のスポンサーが決定! : TVステーション
http://tvstation.jp/sport/olympic-verification/6758/2/
※5:東京五輪スポンサー一覧 佐野研二郎エンブレムを使っている企業への不買運動も・・・
http://mera.red/%E4%BA%94%E8%BC%AA%E3%82%B9%E3%83%9D%E3%83%B3%E3%82%B5%E3%83%BC%E4%B8%80%E8%A6%A7
※6:財団法人 工芸財団
http://www.k5.dion.ne.jp/~kougei/index.htm
※7:「工芸」から 「デザイン」へ - AIST: 産業技術総合研究所(Adobe PDF)
http://www.aist.go.jp/Portals/0/resource_images/aist_j/aistinfo/aist_today/vol05_06/vol05_06_p40_41.pdf#search='%E7%94%A3%E6%A5%AD%E5%B7%A5%E8%8A%B8%E8%A9%A6%E9%A8%93%E6%89%80++G.+%E3%83%8D%E3%83%AB%E3%82%BD%E3%83%B3'
※8:輸出検査法(廃)
http://www.houko.com/00/01/S32/097.HTM
※9:輸出品デザイン法 新旧対照表 1
<ahref= http://nomenclator.la.coocan.jp/ip/suprev/rev/exportd/r001.htm > http://nomenclator.la.coocan.jp/ip/suprev/rev/exportd/r001.htm
※10:日本インダストリアルデザイン協会
http://www.jida.or.jp/
※11:日本デザインコミッティー
http://designcommittee.jp/
※12:国際商標登録とは - 商標権取得応援サイト
http://www.trademark-jp.net/intlreg.html
※13:エンブレム問題 修正内容を完成まで伝えず NHKニュース - NHKオンライン
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20150903/k10010215341000.html
※14:デザイン 名言集・ 格言 ~最大級~ - 心に残る名言集・格言
https://mobile.twitter.com/design_bot
※15:総工費は1550億円…新国立・新計画決まる :-まとめ
http://www.yomiuri.co.jp/matome/20150605-OYT8T50063.html
※16 :東芝の粉飾決算は何故刑事事件にしないのか 東芝に限らず粉飾決算は上場企業で...
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q14149768779
デザイン ー Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%82%B6%E3%82%A4%E3%83%B3

コンビニATMの日(新)

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日本記念日協会の今日・10月8日の記念日に「コンビニATMの日」がある。
由緒を見ると、コンビニATMのパイオニアである株式会社イーネット(同社HP*1参照)が制定。日付は1999年10月8日コンビニエンスストアに銀行で初めて銀行の共同ATMが設置されたことから。身近で便利な銀行窓口のコンビニATMのさらなるPRが目的。・・・とあった。
はじめに、
長いことブログを書いていると、ネタ切れになり、良くあるチョンボだがこのブログも書きあげてから1999(平成11)年の今日、同じタイトルで書いていたのに気が付いた。取り消そうと思ったが、前には、主として、コンビニエンスそのものに焦点を合わせて書いていたが、今回は、ATMに焦点を合わせて書いたので、重複は多いが、そのままコンビニATMの日(新)としてアップしたものであることを お断り申しあげておきます。そのつもりで読んでください。
以前のものは以下を参照してください。
コンビニATMの日(旧)→ ここ参照。

コンビニATMとは、コンビニエンスストアなどに設置されている現金自動預け払い機(ATM=automatic teller machine「オートマチック・テラー・マシン」の略)のことである。“テラー”という単語は(銀行の)金銭出納係,窓口(係).のことをいい、つまり、その窓口業務の代わりをする機械がATMというわけである。
日本のATMでは、ATMの機器利用者の本人認証のために、磁気情報が記録された専用のキャッシュカード(Cash card)または通帳と、通常4桁の暗証番号を用いる。
ATMでは利用者が自分自身で、専用のカードを差し込んだ後、暗証番号を入力し、設置されている専用端末(パネル)を操作して各種サービスを受けるという仕組みになっている。その形態や機能は、提供する金融機関の種類によって異なるが、一般に銀行・信用金庫・信用組合・労働金庫・農協などの場合、端末に紙幣(及び硬貨)、通帳、カードなどの受入口や支払口を備えており、簡単な操作で現金の入出金や残高照会、振り替えや振り込み、通帳記帳、ローンの返済、暗証番号の変更などができるようになっているが、その前身は、現金の払い出しの機能しかなかったCD(「Cash Dispenser。キャッシュ・ディスペンサーの略)で、「現金自動支払い機」と訳されるものであった。

銀行のオンラインシステムとは、銀行に構築されているネットワークオンラインシステムのことであるが、預金や貸出など、銀行の勘定系の事務は、かつて人手で労働集約的に行われていた。預金の口座元帳への記帳などこれら大量の事務作業を、情報処理技術・コンピュータシステムによって自動化・機械化していったのが始まりである。
一般に企業の情報システムは、本来の業務を支援するものと言える。一方銀行のシステムは、システムの機能自体が銀行の商品やサービスを具現化している。また、銀行のシステムが扱うデータは顧客の金融資産のデータであり、そのデータにCDやATMで顧客が直接アクセスする点が特徴である。従って、一般の企業の情報システムに比較して、信頼性や可用性、操作性などの面で一段上のレベルが求められてきた。
日本の銀行システムは、アメリカと比較して、リアルタイム指向のシステムとしての発展が早かったが、それには、以下のような理由があるようだ。
1、かって、アメリカでは小切手が主流であり、リアルタイム性はあまり求められなかった。一方、日本では現金が主流であり、リアルタイム性が必須であった。
2、.アメリカの銀行は州境(と州の境)を越えた営業が禁止されていて、市場によって銀行が分かれていたため、銀行の規模があまり大きくなかった。
3、日本の銀行は競争が制限された規制下でのビジネス展開であったため、金利などで差別化が図れないことから、効率性や信頼性が重要視された。
高度経済成長下において、ピープルズバンク(大衆の銀行。〔リテールバンキング〕を基本理念とした経営基本戦略を積極的に推進していた三和銀行(現:三菱東京UFJ銀行)が、1959(昭和34)年、真空管を使用したIBM 650を導入したのが、日本初の銀行へのコンピュータ導入である。
そして、コンビニエンスストア内のATMは、1998(平成10)年11月に、三和銀行がローソン内に設置されていたダイエーOMC(現:セディナ)が運営するクレジットカードのCDにおいて、三和銀行のキャッシュカード( Cash card)で残高照会や現金引出しが可能なサービスを開始したことから始まった。
翌1999(平成11)年3月にはさくら銀行(現:三井住友銀行)が単独でam/pmにさくら銀行の「コンビニブランチ」(無人出張所)として初めてアットバンクATM(@BΛNK)を設置したが、同年10月8日には,複数の金融機関が提携して全国初の共同のコンビニATM・イーネットを東京・神奈川・静岡の各都県に設置した。これを根拠に日本記念日協会認定の「コンビニATMの日」は制定されている。

ATMの設置主体は基本的には各金融機関により、営業店に併設される。現在では相互接続により、提携金融機関の取引もできるようになっている。一つの管理行のもと、数個の金融機関が共同で運営し、各預金者が無料で利用できる共同出張所の形態もある。なお、提携金融機関の取引には原則、手数料が徴収される。
過去には、銀行界が運営会社(日本キャッシュサービス/NCS)を作り、共同ATMを駅などに設置していたが、金融機関の業態間におけるオンラインの相互接続が進んだことにより、事業を終了し解散(1996年)した経緯がある。
コンビニATMの個々のATMの管理は、コンビニATM運営会社と提携する都市銀行や地方銀行が地域ごとに行っている。
イーネットは、コンビニエンスストアにおけるATMの保守管理、ATMに関する事務受託業務等を主たる業務として設立された会社であり、コンビニだけでなく、従来の店舗外共同ATMについてもアウトソースを請け負っており、全国の都市銀行信託銀行地方銀行第二地方銀行やコンビニエンスストア、リース会社などの共同出資により設立されている。
銀行をはじめとするATM管理を主たる業務とするが、あくまでも金融機関のアウトソースを請け負うのみであり、セブン銀行イオン銀行のようにイーネット自身が預金や融資などの金融業務を行うわけではないため、業種としては金融業ではなくサービス業に位置づけられる。これは、同業他社のローソン・エイティエム・ネットワークスゼロネットワークスと同様である。
コンビニATMを利用するメリットとして、コンビニATMは24時間稼働しているためいつでも利用できることや、コンビニに併設しているため買い物したついでに利用できることなどがあげられる。現在では、コンビニだけではなく、スーパーマーケットや鉄道の駅、空港、それにパチンコ屋などにも設置されている。

一般に、金融機関の店舗にあるATMの営業時間と比べて、コンビニATMは24時間稼働など大幅に営業時間が長く、取引金融機関の定める時間帯で利用することができる。時間外や提携金融機関の取引においては有料となる場合があるが、金融機関によっては無料で利用できる設定をしているほか、手数料無料の特典がついた普通預金も発売されている(「みずほマイレージクラブ」など)。
時間の利便性と場所の利便性に、銀行店舗の統廃合が進んだ影響に加えて無料入出金提携先が増加したことなどにより、金融機関の新しい拠点として利用は増加している。利用者の傾向としては、若い世代や単身者世帯の利用率が高い(*2参照)。
社団法人日本フランチャイズチェーン協会(*3)の、2015(平成27)年7月度の統計調査月報によると、全国のコンビニエンスストアの店舗総数は、52,872店(昨年同月50,863店)で昨年より、2009店(3.9%)増えている。その利用者数つまり、来店客数は、2015年7月1,534,572千人(昨年同月1,473,099千人)で、昨年より61473千人(4.2%)増となっている。
参考*2は日本郵政公社郵政総合研究所が行った「金融機関利用に関する意識調査」であるが、その中で、「インターネットバンキングの利用率」も調査をしている。
今はインターネットの時代であるが、同調査によると、インターネットの利用率は、全体で35%、2人以上世帯では36.4%、単身世帯では29.7%となっている。
それでは、インターネットは利用するがインターネットバンキングの利用はどんなものだろう。
調査によると、「インターネット利用世帯におけるインターネットバンキングの利用率」は、全体で17.0%、2人以上世帯では15.7%、単身世帯では23.0%とまだまだ低いが、世帯主の年齢別にみると、2人以上/単身に関わらず、30代の利用率が突出して高い結果となっている(2人以上20.7%、単身32.1%)。
「インターネットは利用するがインターネットバンキングを利用したことがない」世帯では、「セキュリティ(防犯対策)上不安がある」(40.5%)、「ネット上のやりとりだけで決済されるのは不安である」(43.9%)等マイナスの評価の割合が高かったから とするものが多かったようである。
インターネットバンキングで今後利用したいサービスについては、利用経験による差が大きいようだ。
「インターネットバンキングを利用したことがある」世帯では、「振込・振替・送金」(69.0%)が7割近くを占め、「残高・明細等の照会」(66.3%)が続いており、「利用したいサービスはない」(7.5%)は少ない。「インターネットは利用するがインターネットバンキングを利用したことがない」世帯では、「残高・明細等の照会」(37.3%)が最も多く、一方、「利用したいサービスはない」(49.0%)も約半数を占めているという。
しかし、これからは、セキュリティーの面も強化されるだろうし、インターネットに慣れた若い世代が成長してくると次第にネットバンキング利用者も増えてゆくだろう。
今では、多くのコンビニで、公共料金・税金の払込、郵便関連(ポスト・切手・葉書・収入印紙)、宅配便・ゆうパック受付、チケット予約・販売、プリペイドサービス、写真プリント、コピー・FAX・データ出力、銀行ATM、通販商品受取、ギフト、•おせち料理の注文、年賀状印刷•市区町村の証明書などの発行など多くのサービスを行っている。これらは、だいたいどこのコンビニでも持っている機能のようだが、このほかにも個々のコンビニでは独特の機能を持っているところもあるようだ(*4参照)。

それに、最近のコンビニは今の少子高齢化社会に対応して、都市部に高齢者が増えていることから、それら高齢者向け惣菜等食品の販売に力を入れており、それまでの若者だけでなく高齢者の購買客も増加してきている。そのようなコンビニが普及し、生活は非常に便利になったが、そんなコンビニやスーパーの多くにATMが設置されているのが普通になってきた現在、わざわざ銀行に出向かなくても、ネット銀行口座を設けて、コンビニやスーパーのATMで現金の引き出し・預け入れだけではなく「振込・振替・送金」などもできると非常に便利である。
主なコンビニATMとしては以下のように分類される。
○「金融機関の免許を持たない、コンビニATM運営専業会社のATM」としては、イーネット(ファミリーマート、一部のサークルKサンクス、一部のデイリーヤマザキポプラスリーエフココストアグループ、セーブオン、一部のドン・キホーテなど。)や、ローソンATM(ローソン・エイティエム・ネットワークス-日本国内のローソン店舗〔一部の店舗を除く〕)、BankTimeゼロネットワークス-サークルKサンクス。32都道府県で展開)、ゼロバンク(ゼロネットワークス。岐阜県・愛知県内のサークルKサンクス、ピアゴで展開。)など。
○商業施設との連携を主体にする銀行(新たな形態の銀行)が展開するコンビニATMには、セブン銀行セブン&アイ・ホールディングスグループ内〔セブン-イレブンイトーヨーカドーなど〕、野村證券、大和証券、新生銀行、新銀行東京などと連携)と、イオン銀行 -(イオングループ内〔ミニストップイオンマックスバリュザ・ビッグ、イオンのないイオンモールなど)がある。
○その他既存金融機関の展開するコンビニATMには、アットバンク(三井住友銀行・西日本シティ銀行 - 旧am/pmから転換されたファミリーマート、SMBC日興証券など)や、タウンネットワークサービススルガ銀行と提携 - ヤオコークリエイトSDなど。)がある。
「どのコンビニATMが最も普及しているか?」についてまとめものがあった(*5参照)。どのようなところが、何時、どのような調べ方をしたものか明示されていないので、どこまで信用できるかわからないが、設置台数は以下のように書かれている。
1位:セブン銀行ATM - 21,433台
おもにコンビニの「セブンイレブン」に設置されているセブン銀行ATMは、イオン銀行を除くすべてのネット銀行が利用できる特徴がある。
セブンATMの最新情報はこちら
2位:E-net(イーネット) - 13,275台
セブン銀行ATMがセブン銀行単体で運営されているのに対し、E-net(イーネット)は、さまざまな会社からの支援を受けているので、コンビニだけでなく、スーパーマーケットやホームセンターにも多く設置されているのが特徴。E-net(イーネット)は、「セブン銀行」を除くすべてのネット銀行のキャッシュカードが使える。
E-net ATMの最新情報はこちら
3位:ローソンATM - 10,916台
ローソンATMは、「イオン銀行」、「セブン銀行」を除くすべてのネット銀行のキャッシュカードに対応している。
ローソンATM の最新情報はこちら
4位:イオン銀行ATM - 5,594台
イオングループには昨2014年に、連結子会社のダイエーを完全子会社化したので、これも含まれる。そのほか、イオングループにはイオンと名のつかない会社が多くあるので、外部では、その実態はよくつかめないのではないか?表面上から見ているより相当に規模は大きいはず。イオンのショッピングセンターは地域一番店を目指した大規模店が多い。イオン銀行には、「利用できるATMが少ない」というデメリットがあると書かれているが、イオン銀行加入者数はすごく多いだろう。「利用できるATMが少ない」ことについても、最近ではみずほ銀行ATMやE-netと提携したり、ATM設置数の拡大を図っているようなので、今後急速に設置台数は拡大していくだろう。
イオン銀行の最新情報は こちら

5位:ゼロバンク・バンクタイム - 設置数不明とのこと。

上掲はイオン銀行のATM
商業施設との連携を主体にするセブン銀行やイオン銀行はグループ企業での買い物割引やクレジット利用についてポイント還元などの利点もあり人気である。イオンなど株主優待制度(*6)が優れており、消費者にとってメリットは大きい。またこれらの銀行への預金の利率も都市銀行などより高いので、これらの銀行へ預金をして、買い物代金などはクレジットで支払うなどして、ポイントを貯めてゆくと良いのじゃないかな~。

(b能等の画像はイーネットのATM)
参考:
*1:株式会社イーネット
http://www.enetcom.co.jp/
*2:「第8回 金融機関利用に関する意識調査(平成15年度)」 結果概要(日本郵政公社)
http://www.yu-cho-f.jp/research/old/research/kinyu/kikan-press/houdousiryou.pdf
*3:社団法人日本フランチャイズチェーン協会
http://www.jfa-fc.or.jp/
*4:コンビニ(CVS)徹底比較
http://convini.xyz/
*5:最新版!コンビニATMの設置台数ランキング | ネット銀行100の活用術
http://ginkou.jp/katsuyou/convenience-atm-ranking.html
*6:野村證券 | 株主優待
https://www.nomura.co.jp/retail/stock/yutai/
【コンビニ利用法】もっと便利に! サービス比較 - NAVER まとめ
http://matome.naver.jp/odai/2133004271189865501
銀行ATMの歴史 - マイナビニュース
http://news.mynavi.jp/articles/2012/09/26/bankatm/
コンビニATM - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%83%93%E3%83%8BATM






昭和天皇・皇后が戦後初めて靖国神社に行幸した日

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1952(昭和27)年の今日10月16日は、 昭和天皇香淳皇后が戦後初めて靖国神社行幸された日である。
靖国神社は、東京都千代田区にある神社であり、同神社は、以前に、このブログ「東京招魂社が靖國神社と改称され、別格官幣社となった日(Ⅰ,Ⅱ)」(*1参照)でも書いたように、その前身は、1869(明治2)年に戊辰戦争での朝廷方の戦死者を慰霊するため、大村益次郎の献策により創建された「東京招魂社」が始まりであり、本殿に祀られている「祭神」は「天皇・朝廷・政府側の立場で命を捧げた」戦没者、英霊であり、よくみられる神社などのように日本神話に登場する神や天皇などではない。
その後の事変戦争、ひいては大東亜戦争殉死した日本の軍人などが祀られることになるが、明治期の軍人でも、あの乃木希典や、東郷平八郎などは戦時の死没者でないため靖国神社には祀られていない。
國神社は、勅祭社旧別格官幣社であったが、戦後の1946(昭和21)年に、日本国政府の管理を離れて東京都知事の認証により、宗教法人法宗教法人となった。
昭和天皇は、終戦直後から1975(昭和50)年まで、10回靖國神社の行幸をしていたが、1975(昭和50)年11月21日の大東亜戦争終結三十周年(昭和天皇、香淳皇后行幸)を最後に行わなくなった。ただし例大祭(春と秋の年に2回)に際しては、勅使の発遣は行っている。
昭和天皇が親拝を行わなくなった理由については、左翼過激派の活動の激化、「宮中祭祀憲法違反である」・・・とする一部野党議員の攻撃など様々に推測されてきたが、近年『富田メモ』(日本経済新聞、2006年)・『卜部亮吾侍従日記』(朝日新聞、2007年4月26日)などの史料の記述から、1978(昭和53)年に極東国際軍事裁判(東京裁判とも呼ばれる)でのA級戦犯14名(靖国神社では昭和殉難者と呼ぶ)が合祀されたことに対して不満であったことを原因とする見方が、歴史学界では有力となっている(A級戦犯合祀問題参照)。ただし、合祀後も勅使の発遣は継続されている。
この問題(靖国神社問題)に対する論争は今日まで続いているが、今日ここで意見を述べるつもりはない。関心のある方は、日本国との平和条約第11条の解釈や、参考*3、*4等を参照し自分で判断されるとよい)。
冒頭で、「1952年昭和天皇・皇后が戦後初めて靖国神社に行幸した日」と書いたが、正確に書けば、終戦直後の.1945(昭和20)年8月20日、同年11月・臨時大招魂祭にも昭和天皇は行幸されており、(1952(昭和27)年の行幸は、第二次世界大戦におけるアメリカ合衆国をはじめとする連合国諸国と日本との間の戦争状態を終結させるために締結された平和条約日本国との平和条約」(「サンフランシスコ講和条約」ともいう)締結以降初めての行幸と書くべきだろう。
冒頭掲載の画像は、天皇皇后両陛下が10月16日、7年ぶりに靖国神社に参拝したときのもの。東京の近県からも駆け付けた遺族らは、黄色いリボンの遺族章を付け、拝殿前のうすべりに座って両陛下を送迎した。「両陛下のご参拝で心のしこりがとれた」と遺族に一人は語ったという。

第二次大戦中、1945(昭和20)年5月7日、この時日本とともに戦っていた、唯一の同盟国ドイツが連合国に降伏した。ついに日本はたった一国で連合国と戦う事になった。内閣は鈴木貫太郎首相の下で、連合国との和平工作を始めたが、このような状況に陥ったにもかかわらず、敗北の責任を回避し続ける大本営の議論は迷走を繰り返す。
一方、「神洲不敗」(8月15日の玉音放送で使用された「大東亜戦争終結ノ詔書」にも「神州ノ不滅ヲ信シ・・・」と出てくる)を信奉する軍の強硬派はなおも本土決戦を掲げ、「日本国民が全滅するまで一人残らず抵抗を続けるべきだ」と一億玉砕を唱えた。
連合軍は沖縄での膨大な被害(沖縄戦参照)を苦慮し、それを超える被害を受けるのを猛烈に嫌がり、この言葉は連合軍の日本本土上陸作戦(ダウンフォール作戦)を中止に追い込む一因となった(中止理由は作戦中止参照)。
すでに2月、ヤルタ会談の密約、ヤルタ協約で、ソ連軍は満州、朝鮮半島、樺太千島列島へ北方から侵攻する予定でいた。
そして、7月17日からドイツのベルリン郊外のポツダムで、米英ソによる首脳会談が行われ、同26日には、全日本軍の無条件降伏と、戦後処理に関するポツダム宣言が発表された。
しかし、鈴木内閣は、中立条約を結んでいたソ連による和平仲介に期待し、同宣言を黙殺する態度に出た。
このような降伏の遅れは、その後の本土空襲原子爆弾投下、日本軍や連合軍の兵士だけでなく、日本やその支配下の国々の一般市民にも更なる惨禍をもたらすことにもなった。
散々な被害を受けた後、日本政府がポツダム宣言受諾の意思を連合国へ直接通告したのは同年8月14日であり、翌15日の正午、昭和天皇による玉音放送によってポツダム宣言受諾を国民へ表明し戦闘行為は停止された(日本の降伏)。
翌日、連合軍は中立国スイスを通じ、占領軍の日本本土受け入れや、各地の日本軍の武装解除を進めるための停戦連絡機の派遣を依頼。19日には日本側の停戦全権委員が一式陸上攻撃機でフィリピンのマニラへと向かう等、イギリス軍やアメリカ軍に対する停戦と武装解除は順調に遂行された。
しかし、少しでも多くの日本領土略奪を画策していたスターリンの命令で、ソ連軍は日本の降伏後も南樺太千島への攻撃を継続し、8月22日には樺太からの引き揚げ船3隻がソ連潜水艦の攻撃を受ける三船殉難事件が発生した。ソ連軍による北方領土択捉島国後島占領は8月末、歯舞諸島占領は9月上旬になってからのことであった。このソ連からの北方領土返還問題はいまだに解決していない(北方領土問題参照)。
8月28日には、連合国軍による日本占領部隊の第一弾としてアメリカ軍の先遣部隊が厚木飛行場に到着。8月30日、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の総司令官として連合国の日本占領の指揮に当たるアメリカ陸軍のダグラス・マッカーサー大将も同基地に到着、続いてイギリス軍やオーストラリア軍、中華民国軍、ソ連軍などの日本占領部隊も到着した。
その後9月2日、東京湾内停泊のアメリカ海軍戦艦ミズーリ艦上において、米・英・中・豪・加・仏・蘭など連合諸国17カ国の代表団臨席の元、日本政府全権重光葵,外務大臣、大本営全権梅津美治郎参謀総長による対連合国降伏文書(*5:「王立図書館」第二次世界大戦資料館→文書・音声保管庫参照)への調印がなされ、ここに1939年9月1日より、足かけ7年にわたって続いた第二次世界大戦(太平洋戦争・大東亜戦争)はついに終結したが, この大戦では、わが国に310万人余りという未曾有の人的被害のつめ跡を残した。また、終戦後においても、旧ソ連軍による強制抑留(シベリア抑留参照)等により亡くなられた方々も多くを数えている。
しかし、降伏文書調印後の日本本土は、サンフランシスコ講和条約締結までの間、アメリカを中心とする連合国軍(GHQ)による占領統治下に置かれた.(連合国軍占領下の日本参照)。
占領地の行政権(日本本土除く)は剥奪され、日本の外交権も停止され、日本人の海外渡航を制限し貿易、交通をも管理した。漁業活動のための航海も、マッカーサーラインを暫定的に引き、講和後に廃止されるまで制限下に置かれるなど、何をするにも日本の自由にはならなかった。
輸出用日本で製造された製品品には、Made in Japan(メイド・イン・ジャパン、日本製)と表記される。しかし、戦後占領期の日本では、1947(昭和22)年2月の連合国軍最高司令官指令として、輸出向け製品には「 Made in Occupied Japan 」(占領下日本製)と表示することが義務付けられた(1949年(昭和24年)12月解除)。
以下の画像は私のコレクションの一つ「オキュパイドもの」と言われるものである。一輪挿しだろうか?酒好きの私は、これをタンブラーとして利用しているが・・。底の部分には「 Made in Occupied Japan 」と刻印されている。

今の国会の最大の焦点である、集団的自衛権の行使を可能にすることなどを盛り込んだ安全保障関連法は、19日未明の参議院本会議で採決が行われ可決・成立した(*6、*7参照)。野党がこれに反対し徹底抗戦していた最大の理由はこれら法案の違憲性の問題であったように思う。
その憲法は、占領下の中にあって、1945(昭和20)年10月4日、マッカーサーの示唆により憲法改正の作業が開始され、連合国軍総司令部によって作成された草案を基に日本側による修正が一部加えられ、翌・1946(昭和21)年11月3日に新憲法として公布されたものであるが、設立過程、解釈と体制を巡って、現在もなお日本国内で論争が続いているのは、主として平和主義戦争放棄)についてであろう。
かねてから憲法第9条を主とする憲法改正論議がされながら、戦後70年経った今でもまだ改正されないのは、憲法を改正する為には、衆議院、参議院で憲法改正案2/3以上で可決し、その後、国民投票で1/2以上で可決しなければならないが、まず、国会で議席数を単独で2/3以上を取れる政党がないことである。このような厳しい縛りがあるから、諸外国ではその時代の状況に応じて改正されている憲法が日本では改正できない実情がある。
しかし、現実に日本を取り巻く安全保障環境が変化し厳しい状況にある中、憲法を守って国がつぶれてしまってはダジャレもならない。政府批判をするのはたやすいが、国防を司るものにとっては、有事に備えて必要な防衛体制だけは整備しておかなければならないだろうし、憲法改正が不可能であれば、憲法解釈論で対応せざる面もあることも理解しておかなければならないのではないだろうか。
1951(昭和26)年9月の、サンフランシスコ講和条約には「日本国が主権国(主権を完全に行使できる国家)として国際連合憲章第五十一条(*8参照)に掲げる個別的又は集団的自衛の固有の権利を有すること及び日本国が集団的安全保障取極(とりきめ)を自発的に締結することができることを承認する。」と明記される(*9、参照)。この問題について、違憲性や、憲法解釈論の是非をここでこれ以上触れるつもりはない。この問題を考えるのであればまずは、以下ページなどとよいのではないだろうか・・・。
安保法案とは?
再軍備の政治的展開と国民世論の動向(上)
再軍備の政治的展開と国民世論の動向(下)

1951年9月8日(日本時間9日)、第二次世界大戦に敗れてアメリカなど占領下にあった日本が6年ぶりに国際社会への復帰を認められた。
この日午前10時過ぎ、アメリカサンフランシスコのオペラハウスで対日講和条約の調印式が行われアメリカをはじめ48か国との講和条約が締結され、日本側は吉田茂首相をはじめ池田勇人蔵相ら計6人の日本全権が署名した。

上掲の画像は、日本全権の署名シーン。署名しているのは吉田首相。写真はアメリカ公文書館蔵。
続いて、同日夕方、オペラハウスから車で10分ほど離れたサンフランシスコ湾口の金門橋(ゴールデンゲートブリッジ)近くにある米軍基地プレシデオ(Presidio)で、駐留米軍に日本国内の基地を提供することを取り決めた日米安全保障条約(旧日米安保条約と呼ばれるもの条文*10参照)が調印された。米軍は講和条約の全権4人が署名したが、日本側は、首相が単独で調印。他の全権は署名をしていない。吉田は反対の空気の強い安保の署名の責任を一人で負う方を取ったようだが、秘密条約を除き世界の外交史上まれな異常そのものの調印プロセスをたどって作成された条約ではある(1960年に新日米安保条約が発効したことに伴い、失効した。旧安保と新安保の相違点はここ参照)。

上掲の画像は外務省外交資料館蔵「旧)日米安保条約」

講和が予想より早く実現したのは激化する冷戦のお陰であった。講和と安保によって、戦後日本の方向は決まった。「全面講和」「永世中立」論から離れて、日本は西側陣営の一員としてアメリカ依存を強めていくことになる。
敗戦国日本は、1952(昭和27)年4月28日、6年8か月ぶりに主権を回復するとともに国際社会へ復帰した。前年9月のサンフランシスコ講和会議で調印された対日平和条約が、最大の交戦国だったアメリカの批准書寄託を待って発効し、イギリス、フランスなど手続きを済ませていた29か国と国交を回復したからである。
現代でも残る沖縄基地問題等を残した条約ではあったが、敗戦国日本にとっては、講和条約の締結により、絶対的な存在であった占領軍権力の消滅は、国内政治では、吉田派鳩山派の抗争(*11:「資料に見る日本の近代」の第6章 55年体制の形成 > a. 吉田内閣から鳩山内閣へ参照> 吉田対鳩山参照)、再軍備をめぐる保守・革新の論争、日本共産党の武力闘争(武装闘争、*12など参照)などの激動を生み出したが、経済やスポーツ面の国際交流の復活は日本国民に大きな希望をもたらした。
日本の国際社会復帰を国民が肌で実感したのは、同年7月にフィンランドのヘルシンキで開かれた第15回オリンピック大会だったのではないか。
もともと日本は1936(昭和11)年のベルリンオリンピックに続き1940(昭和15)年に東京で夏季、札幌で冬季両大会(東京オリンピック 参照)を開催することがIOC総会(国際オリンピック委員会)で決まっていた。ところが日中戦争の激化で、返上した経緯がある。第2次大戦後初の1948 (昭和23)年ロンドン大会には、ドイツとともに招待されなかった。
世界を戦火に巻き込んだ元凶として国際社会から白眼視されていたからである。それだけにベルリン大会以来16年ぶりの参加となったヘルシンキ大会は、スポーツ関係者ばかりでなく一般国民にとっても「待ちに待った大会」であり、選手団派遣費用の大半を一般市民や企業からの募金と記念バッジの売り上げで賄うなど、国民的な支援活動が展開された。
ただ、当時まだ保有外貨が乏しかった(日本の外貨準備高の変遷参照)政府は、派遣選手団の人数を厳しく制限した(*13参照)。そのためオリンピック出場の実績がなかった重量挙げ、フェンシング、射撃の三種目では、選手一人にコーチなしの参加となった。
この大会では、レスリングフリースタイルバンタム級の石井庄八が優勝し、日本に唯一の金メダルをもたらし、フライ級では北野祐秀が銀メダルを獲得し、レスリング日本の幕開きとなった。そのほかの競技では、競泳や体操などで、銀5個、銅2個、を獲得している(「ヘルシンキオリンピックでの国・地域別メダル受賞数一覧」を参照)。

上掲の画像は、ヘルシンキ五輪のレスリング、フリースタイル・バンタム級で日本に唯一の金メダルをもたらした石井庄八。

経済面で国際社会復帰の具体的なあかしとなったのは、1952(昭和27 )年5月29日に国際通貨基金(IMF)と国際復興開発銀行(世界銀行)が日本の加盟を承認したことである。
IMFは国際貿易を活発化するために為替相場の安定を図る機関であり、世界銀行は戦災復興や開発途上国の資源開発のための資金を融資する機関である。
この二つの組織に加盟を許可されたことは、第二次世界大戦後の国際経済運営の枠組みとしてアメリカ主導で組織された「ブレトン・ウッズ体制」(1944年のIMF設立から1971年8月のニクソンショックまでの間、世界経済を支えてきた国際通貨体制。ブレトンウッズ協定による。*14も参照)に、日本もようやく迎え入れられたことを意味していた。
日本に割り当てられたIMF出資金は2億5000万ドルで、これはオランダに次ぐ9番目の金額だったが、当時の池田勇人蔵総は3億ドルの負担を申し出る。この強気を支えたのは、朝鮮戦争がもたらした戦時の特殊な米軍特需(朝鮮特需)による日本経済の急激な復興だった。
日銀『貿易及び貿易外便覧』(1959年12月)によると、特需収入は1950(昭和25)年では1.5億ドル。朝鮮戦争特需のピークは1952(昭和27)年の8.2億ドルで、輸出総額の2/3、外国為替受取高の4割近くとなった。1950年からの4ヵ年累計では24億ドルに上ったという(*15:「情報史年表」1950年代参照)。
これは当時の国際収支赤字を補填したうえに大量の外貨蓄積を可能にし、開戦前のドッジラインによる不況を一挙に解消して、高度経済成長への足場をかためたのである(*16参照)。
国際社会に乗り出すためには航空や海運の整備も欠かせない。1952(昭和27)年7月1日には羽田空港の地上施設の一部がアメリカ軍から返還され、同日に現名称の「 東京国際空港」に改名して開港した。当初は、国際線33往復、国内線4往復のささやかな「空の玄関」だったようだ。
海運関係では、前年には、横浜ーニューヨーク航路が再開され、1952年6月24日には日本郵船がスエズ運河経由の欧州航路を復活させた。サンフランシスコ講和条約発効を受けて、戦後初めて日の丸を掲げてニューヨークに入港したのは、日本郵船の赤城丸(Ⅱ)だった(*17、*18参照)。

上掲の画像は、戦後初めて「日の丸」を形容してニューヨークに入港する日本郵船の赤城丸。
また、この年、東京銀行(旧: 横浜正金銀行。現:三菱東京UFJ銀行)が,外国為替銀行として、初めて海外支店をロンドンに設け、国際電信電話株式会社法(昭和27年法律第301号)が公布され、翌年4月1日に開業の運びとなった。
このように、様々な分野で日本が国際社会復帰の第一歩をふみだしたのが、1952(昭和27)年であり、昭和天皇の終戦直後の1945年8月20日及び、同年11月の臨時大招魂祭の2度の行幸以来、7年目となる1952年10月16日の靖国神社行幸は、あの戦争での多くの戦死者を慰霊すると同時に、何とかこ日本がここまで来られた現状を報告したかったからではないだろうか。私はそのように思っているのだが・・・。


(上掲の画像中、Wikipediaより借用の、外務省外交資料館蔵「旧)日米安保条約」のほかは、『朝日クロニクル週刊20世紀』1951年号、1952年号より借用、また、ブログを書くにあたり、以下参考に記載のHP以外同書も参考にさせてもらっている。)
参考:
*1:靖国神社公式HP
http://www.yasukuni.or.jp/index.html?mode=skip
*2:東京招魂社が靖國神社と改称され、別格官幣社となった日(Ⅰ,Ⅱ)-今日のことあれこれと・・・
http://blog.goo.ne.jp/yousan02/d/20090604
*3:日本に戦犯は存在しない?:-YAHOO!知恵袋
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q12119141127
*4:サンフランシスコ平和条約第11条に関する資料
http://1st.geocities.jp/nmwgip/SF11.html
*5:王立図書館
http://royallibrary.sakura.ne.jp/index.html
*6:安全保障関連法 参院本会議で可決・成立 NHKニュース - NHKオンライン
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20150919/k10010241451000.html
*7:和安全法制等の整備について - 内閣官房
http://www.cas.go.jp/jp/gaiyou/jimu/housei_seibi.html
*8:国連憲章テキスト | 国連広報センター
http://www.unic.or.jp/info/un/charter/text_japanese/
*9:防衛省・自衛隊:日本国とアメリカ合衆国との間の相互防衛援助協定
http://www.mod.go.jp/j/presiding/treaty/sougo/sougo.html
*10:日米安全保障条約原文(旧)(東京大学東洋文化研究所 田中明彦研究室)、
http://www.ioc.u-tokyo.ac.jp/~worldjpn/documents/texts/docs/19510908.T2J.html
*11:史料に見る日本の近代
http://www.ndl.go.jp/modern/index.html
*12:内側からみた日共'50年代武装闘争 (長谷川浩・由井誓の対談)
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/650.html
*13:歴代夏季五輪の参加国や競技種目、日本選手の参加数など
http://ouenbu.com/olympic/natsu-sanka.html
*14:ブレトン・ウッズ体制
http://www.findai.com/yogo/0307.htm
*15:情報史年表
http://www.digistats.net/x/index.php?%BE%F0%CA%F3%BB%CB%C7%AF%C9%BD
*16:独り21‐経常収支
http://www.geocities.jp/yamamrhr/ProIKE0911-21.html
*17:戦後占領期海事年表
http://homepage3.nifty.com/jpnships/showa3/showa03_nenpyo.htm
*18:日本郵船の歴史 | 日本郵船
http://homepage3.nifty.com/jpnships/showa3/showa03_nenpyo.htm
外国為替銀行の成立
http://d-arch.ide.go.jp/je_archive/society/wp_unu_jpn86.html
日本オリンピック委員会公式HP
http://www.joc.or.jp/
日本の再軍備 - 世界史の窓
http://www.y-history.net/appendix/wh1602-010.html
【安保法案閣議決定】よく分かる新しい安保法制Q&A(1/4ページ) - 産経ニュース ...
http://www.sankei.com/politics/news/150514/plt1505140045-n1.html
靖国神社―Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%96%E5%9B%BD%E7%A5%9E%E7%A4%BE

文鳥の日

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日本記念日協会で今日10月24日の記念日を見ると、「文鳥の日」があった。
由緒を見ると、文鳥にくわしいライターの伊藤美代子氏が制定。日付は10と24で「手に(10=テンと2)幸せ(4)」と読む語呂合わせと、この時期に手乗り文鳥のヒナが出回ること。それに「1024」の数字で、文鳥の姿をあらわせることなどから。江戸時代から愛されてきた文鳥について考える日。・・とあった。
伊藤美代子と言うライターのことを私はよく知らないが、文鳥に特化した本を書いたり、文鳥グッズなどを販売しているらしい。プロフィールは参考の*1を参照されるとよい。由緒の「1024」の数字で、文鳥の姿をあらわせる・・・とあるが、よくわからないのでネットで調べてみると見つかったここ参照)を参照されるとよい。
私にはよくわからないが、今のペットブームの時代、だけでなくいろんな鳥獣がペットとして飼われており、そんな中の文鳥ファンが寄り集まっていろいろブログで交流しているようだ。
ペット(英語:Pet)とは、一般的には愛玩を目的として飼育される動物のことであるが、人間は、基本的に、人の心を和ませたり楽しませてくれるペットが好きであり、人間が太古からペットを飼っていた証拠は、いずれの大陸からも発見されているが、それらは、ペットして手当たり次第に飼い始めた野生動物の中から、家畜として有用なものが見いだされたと考えられているようだ。
家畜とペットの境界は曖昧であるが、オオカミ(イヌ)の家畜化が3万年 - 1万5千年前から行われ、狩猟の際の助けとして用いられた。以下、トナカイ、ヒツジ、イノシシ(ブタ)、ヤギ、ウシ、ニワトリ、ハト、ウマ、ラクダなどが、家畜として飼育されるようになった。また農耕のはじまりとともに、害獣となるネズミなどを駆除してくれるネコやイタチのような小型肉食獣が珍重されるようになったという。
上述の通りペットの歴史は家畜に先行していると考えられているようだが、明確に愛玩動物として飼育された最初の例として史料が残っているのは、5,000年前の古代エジプトピューマ(ネコ科)だそうである。南米のインディオではインコサルを飼っていたようだ。
奈良時代に成立(養老4年=720年)した『日本書紀安寧天皇11年(西暦不明)の条には「猪使連(イノツカイノムラジ)」という職が記述(*2の卷第四:安寧天皇参照)されており、古くは猪(イノシシ)が飼育されていた。イヌ、ウマ、ウシ、ネコなどの動物は、先史時代にユーラシア大陸で家畜化されたものが、列島に入ってきたと推定されている。
一般社団法人ペットフード協会調べによる2014(平成26)年の、「日本のペットの飼育率状況」を見ると、犬:14,4%(15,8%)、猫*9,8%(10,1%)、金魚:4,9%(5,2%)、熱帯魚*2,3%(2,5%)、小鳥*1,8%(1,2%)となっており〔()内は昨年〕、犬・猫の飼育率が圧倒的に飼育率は高いが、ただ、飼育率は前年より若干減ってはいるが、金魚と、小鳥の飼育率が高くなっている。
また、今後、ペットの飼育を希望する飼育意向率は、現在の飼育率の犬は1,92倍.猫は1,86倍、小鳥2,1倍に対して、金魚は0,91倍と減少、その中で、小鳥は、2,1倍と他のものより、増加率が高い。近年、小鳥の飼育希望者が増えてきているということか。いずれにしても、多くの人が今後何らかのペットを飼育したいと考えているようである*3;「ペットフード協会」の全国犬猫飼育実態調査参照)。
今日ペットは、家族として、パートナーとして、仲間として人の暮らしに密接に関わり、心を癒してくれたり、あるいは愛玩されたり、共生するなど、様々な面を持った存在である(「<ahref=https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%83%91%E3%83%8B%E3%82%AA%E3%83%B3%E3%82%A2%E3%83%8B%E3%83%9E%E3%83%AB>コンパニオンアニマル(人生の伴侶としての動物)」参照)。この中で、鳥類の飼育率が年々減少傾向にあり業者も今後を心配していたようだ(*4参照)がそれが昨年ごろから若干増加傾向になってきたのは朗報だろう。。
日常生活で飼育する鳥類のことを愛玩鳥というが、愛玩鳥は、主に姿形や鳴き声、さえずりを観賞する目的で飼われるもので、それ以外にでは猛々しさ(ワシタカのような猛禽)や、面白いしぐさ(ヤマガラインコオウムなど)を観賞するためにも飼われる。猛禽の場合は権威の象徴としてや、狩猟目的ではなくスポーツとしての鷹狩りのために飼われる場合もある。
食用や採卵用の家畜として飼われる鳥は家禽と呼ばれ、愛玩鳥とは区別されるが、これらの中にもチャボオナガドリのように、観賞用に品種改良された種がありこれらは愛玩鳥とされる。またかつて通信手段(伝書鳩用のカワラバト)や、狩猟用(鵜飼い鷹狩りに用いられる鷹やハヤブサなど)など、有用目的をもって飼養されたが、現在はその有用性を失い、現在はかつてあったその技術を継承するためだけに飼われている鳥も愛玩鳥とは呼ばれない。もっとも、こういった技術継承の目的とは関係なく、それらに用いられる種を飼う場合もあり、その場合は愛玩鳥とされている。
愛玩鳥として飼われる鳥類は小鳥が多い。もともと寿命(*5の種類別の小鳥寿命表参照)が人間よりはるかに短く、環境の変化に敏感でちょっとした管理の不手際で飼育途中に死なせてしまうことも多々あるので、例外的に長命で人懐こいインコ、オウムを除くと犬や猫のようなコンパニオンアニマル扱いされることは希である。
私の妻の義兄(姉の夫)は船乗りだったので留守が多く、若いころは妻の実家で一緒に住んでいた。そして、航海先でオウムを買って帰り家で飼っていた。オウムは50年も生きるそうだが私が妻と結婚して初めて妻の実家へ行った時には、何歳になっていたのか知らないが、非常に人になつき特に 妻にはよくなつき、妻の顔を見るとすぐに近づいてきて手の上に乗り顔を摺り寄せてくるほどであった。そして、生まれて間なしのころから飼っているからであろう物覚えがよくていろんなことを本当に多くよくしゃべり、家の前が丁度バス停でその前の軒先近辺にかごに入れて飼っていたので、妻がバスで帰ってくるとそれがわかるらしく、「お帰り、お帰り」としゃべりだすので、近所でも有名になっていた。
長い年月をかけて、人間に順応してきたペットであるが、時代時代により流行がある。
今やペットの代名詞的存在である犬は日本でも、旧石器時代から(縄文犬参照)から、また、猫も平安時代から飼われていたようであり、宇多天皇の日記『寛平御記』には自らが飼っていた黒い猫の記述がにみられ、これが「家猫」に関する、日本の史料における最古の記述とされている。
「朕閑時述猫消息曰。驪猫一隻。太宰少貳源精秩滿來朝所献於先帝(光孝天皇のこと)。
愛其毛色之不類。餘猫猫皆淺色也。此獨深如墨。」(*6参照)
訳すとこうなるのだろう。
「今日は暇だから、私の猫の消息について述べてみよう。この驪猫一隻は、大宰大弐を務めたた源 精(みなもと の くわし)が秩満ちて来朝し(任を終えて朝廷に戻ったとき)、先帝(光孝天皇)に献上したものだ」。
「その毛色 は類い希で、他の猫がみなどこかぼやけた淺色色なのに比べ、この猫だけは墨のように 真っ黒で、まことに愛おしい。」。
『寛平御記』は当時10巻が伝存していたようだが、現在は1巻も残存していないそうだが、『源氏物語』の注釈書である『河海抄』などで引用され残っているようだ。
ここでの引用文には、「猫」と書かれているが、平安時代、「猫」は「」と表記されていたので、『寛平御記』でも、実際には「狸」と書かれていたようである(*6のここ。*7参照)
また、ここで、黒猫のことを「驪猫」(りびょう)と書かれているが、「黒」には「汚れた」「腹黒い」といった意味もあることから、「」の字は本来は黒馬という意味の字で、猫に使われた前例は無いようだが、「」という字を含む好字であるので、自分の愛する黒い猫に『驪猫』という表現を使ったのではないかという(*8参照)。
そして、犬猫以外のペットでは、江戸時代に、金魚が大流行した。
金魚のことについては依然このブログ3月3日「金魚の日」(*9参照)でも書いたが、日本でも鎌倉時代にはその存在が知られていたようだが、金魚そのものは、約500年ぐらい前の室町時代末期に当時貿易港として栄えていた堺 (大阪府堺市)に持ち込まれたのが最初だとする説がもっとも有力とのこと。この当時持ち込まれたのは、今ワキン(和金)とよばれている種であるが、当時は高価なものであり、又、日本は戦乱の時代でもあったことから、金魚は普及しなかった。
江戸時代前期になると世の中も平穏になり、再び中国から金魚が持ち込まれたが、未だ養殖技術もなく池などで飼われていたが、それは、非常に高価で、本当に限られた上流階級だけに許される贅沢品であったが、寛延元年(1748年)に出版された安達喜之の金魚の飼育書「金魚養玩草」(*10参照)をきっかけに、金魚が大流行した。しかし、当時はまだ希少だったため、値段が高く、庶民にとっては高嶺の花だったが、江戸中期から後期にかけ、大量生産が可能になったため、庶民にも金魚を飼う風習が広がっていった。縁日でお馴染みの金魚すくいもこの時期に誕生したようだ。
そして、明治維新直後、日本には外国から多くのものが輸入されるようになったが、中でもウサギは簡単に飼育ができる上に食用にもなると大人気に。庶民間でウサギの売買が止まらず、一羽につき月一円のウサギ税が課せられ、無届で飼育したものには一羽につき二円の過怠税を申し付けられたほどであったという(*11参照)。
また、熱帯地域に生息している熱帯魚が日本に伝わったのは19世紀の後半のことで、一般に飼育されれるように広がったのは第二次大戦後の昭和30年代からで、当時は温度調整の設備もあまりなかったので大変苦労したようだが1960年~1970年代頃から熱帯魚ブーム(*12参照)があったのを覚えているが、今でも、根強い人気を誇っているようだ。そのころ私も、水槽で、グッピーを飼っていたが飼い方が悪かったからだろう、子を産んで増えたと思っていたらいつの間にか数が減っている。どうやら共食いしていたようだ。

さて、「文鳥の日」に他のペットのこと長々と書いてしまったが、文鳥のことを書こう。
ペットとして日本でもポピュラーな存在の文鳥は、英語名がJava Sparrow(ジャワ雀)というくらいで、もともとインドネシア(カンゲアン島、ジャワ島、バリ島)の固有種で.スズメ目カエデチョウ科,)の小鳥で、学名をPadda oryzivora、「パダ・オリジヴォラ」というが、この学名は米食い鳥(Rice bird)の意味で、実際にインドネシアの稲作地帯に大量に生息し日本のスズメと同じように人間の作るお米などを食していたようだ。
形態は、全長17cm。体重約24-25g。頭部の羽衣は黒く、頬は白い。体上面や胸部の羽衣は青灰色、腹部や体側面の羽衣は薄いピンク色。尾羽は黒い。冒頭の画像参照.。
熱帯の米食い鳥が、日本にやって来たのは何時の頃からだろうか?
その名からも、17世紀の初頭くらいに。おそらく、南蛮貿易などのために東南アジアに広く進出していた日本人たちが、現地で文鳥と接するようになり、日本にも持ち込んだのではないかと推測される。ただ、文献的には、江戸時代に著された本草書『本朝食鑑』(1697年刊)の中に外国から輸入され、姿かたちが美しいので文鳥と呼ばれるようになった(原文「・・・近時自外国来、以形麗号文鳥、・・・」)とあることから、元禄期にはすでに我が国で飼われ、「文鳥」と呼ばれていたのは確かなのだろう。
それでは、文鳥の名前の由来はどこから来たのだろう?
正確なことはわからないが、「」の字源は、「模様。古くは入れ墨(文身)も表した」ようであり、『漢和辞典』でも。「模様や彩り(いろどり)」とあるのことから、彩色の有る鳥なのでそれを文鳥と呼ぶようになったようである(文鳥については、以下参考の*14:「文鳥団地の生活」の文鳥の歴史が詳しい)。
しかし、中国で柄模様(文様【もんよう】)のある鳥すべてを指す言葉「文鳥」が、日本では原種のジャワ雀だけを指す言葉となったのは、それだけ、その飼育が他の小鳥よりも早く盛んになっていたことの証拠とも言えるようだ。
18世紀にはすでに文鳥の日本国内での繁殖が始まっており、次第に盛んになっていったようで、例えば、水戸藩の本草学者佐藤成裕(中陵)が、19世紀初期に著わした『飼篭鳥』(*14)には、「先年は長崎にて殖し諸方へ出し、近年ハ備前の児嶋郡の林村の佐藤九郎治なる者盡く巧者にて、数百羽を籠にして大坂及江戸に出す。」・・とあることから、庶民文化が花開く文化・文成年間(1804〜30)になって、ようやく文鳥の需要も拡大し、繁殖も所々で一般化し、大規模化されていったようである。
また、19世紀半ばの『百品考』(山本亡羊著。*16)という書物には、人々が好んで文鳥を飼育繁殖したため、逃げ出したのか、京都市中を普通に飛びまわっている文鳥の様子が、筆者の実体験として記されているほどだったという(*13参照)。
そして、初期の広重の花鳥画などの浮世絵にも文鳥が描かれる(など、異国風でありながら日本画にも自然に溶け合う姿が、画題としても好まれていたようであり、江戸時代を通じて日本人に最も親しまれてきた外来の小鳥であったようだ。
広重の花鳥画ここ参照→ 歌川広重《梅に文鳥》とハクバイ(白梅) - 海の見える杜美術館
こうした文鳥の普及化を背景として、文鳥には、白文鳥、桜文鳥、をはじめ、さまざまな品種が作り出されていく。
江戸時代の文鳥たちは、原種のジャワ雀と同じ姿をしていたが、明治時代の初め頃、現在の愛知県弥富市又八新田地帯の文鳥を繁殖する農家で、全身純白の文鳥が突然変異により誕生したそうだ。白文鳥の創出者について、愛知県弥富町の神社に建てられている「白文鳥発祥の地」の碑には、幕末当地に嫁いできた女性が持ってきたつがいの桜文鳥に起源する旨が記されているようだ。
ここ参照→ 文鳥・弥富市特産
その白い文鳥の系統は人気となって数を増やし、明治から大正時代にかけて夏目漱石の小説『文鳥』にも描かれるほど国内で一般化したようだ。
「十月早稲田に移る。伽藍のような書斎にただ一人、片づけた顔を頬杖で支えていると、三重吉が来て、鳥を御飼なさいと云う。飼ってもいいと答えた。しかし念のためだから、何を飼うのかねと聞いたら、文鳥ですと云う返事であった。文鳥は三重吉の小説に出て来るくらいだから奇麗な鳥に違なかろうと思って、じゃ買ってくれたまえと頼んだ」

これは、夏目漱石『文鳥』(*17参照)の出だしの文を抜粋したものである。
三重吉とは、日本の児童文学を語る上で欠くことのできない、童話雑誌『赤い鳥』を創刊した鈴木三重吉のことである。三重吉は、1901(明治34)年、第三高等学校を経て、東京帝国大学文科大学英文学科に入学。夏目漱石の講義を受ける。1905(明治38)年23歳の時、神経衰弱を煩い、静養のため大学を休学し、広島県佐伯郡能美島(現・広島県江田島市)で過ごす。この間に『千鳥』の題材を得る。1906年(明治39年)3月に『千鳥』(*18参照)を完成させ、夏目漱石に原稿を送ったところ、推薦を得高浜虚子に原稿が送られ、雑誌『ホトトギス』5月号に掲載された。以降、漱石門下の一員として中心的な活動をおこなうようになった。
1908(明治41)年の大阪朝日新聞に掲載された漱石の『文鳥』には、友人(三重吉)に薦められ文鳥を飼うこととなった主人公のささやかな生活が綴られており、作中、主人公が連想で語る『美しい女』と文鳥の姿とを重ねて語る場面があり、美しいものの死を描いた作品と評されている。ただ、文鳥を飼うこととなった主人公は最初は世話をし、文鳥の姿に様々な感慨を抱くが、小説を書くのに忙しくなって、世話を怠るようになると、「家人(うちのもの)」がかわりに世話をするようになった。主人公が気のすすまない用事で2日ほど文鳥をかまわなかった時、文鳥は死んでしまう。
この綺麗な文章の随筆は結末が悲惨なので、文鳥愛好者にはどうも不評らしい。
一方の鈴木三重吉が書いた『文鳥』 は1909(明治42)年11月3日の『国民新聞』 に掲載されたもので、三重吉(当時28歳)が成田中学校(現:成田高等学校)勤務時代、当時国民新聞社の社員となっていた高浜虚子の依頼で、俄拵へ(にわかごしらえ)に、短時日のうちに書き上げたものだそうだ(*19参照)。
内容は、少年時代に従姉の千代と隠れるようにして飼った文鳥を、千代が他へ嫁いでいった後に逃がしたという思い出と、その後も忘れられなかったその白い鳥を飼って、漱石先生にも薦めて飼わせたという随想的作品である。参考*9には、「文鳥」の掲載文がある、興味のある人は読まれるとよい。いずれにしても、この時期文鳥を飼うのが流行っていたことはよく理解できる。
このころ、白文鳥は日本生まれであることから、「Japanese rice bird」として海外にも輸出されるようになったようだ。
そして、この白文鳥が数を増し、江戸時代以来の原種色の文鳥(並文鳥)と交配することで、原種色の文鳥も所々に白い差し毛の斑(はん)が入る桜文鳥に変質していったと考えられているようだ。
近年、世の中は空前のペットブームであるが、何故かマイナーな存在に甘んじていた小鳥も、最近、また、東京や大阪などに鳥カフェが相次いでオープンしたり、鳥をモチーフにした文房具や小物を置いてある店が増えるなどしており、じわりじわりと鳥ブームが広がっていると聞く。
確かに、言葉を話すオウムやインコ、手乗り文鳥などは可愛いよね。私なんかもペットを飼いたいとは思うのだが、余り長生きしないものは死ぬとかわいそうだし、もう私たちも年を取っているので、逆に、長生きするものは、何時までも飼い続ける自信もないので結局何も飼うことはあきらめている。
幸い、私の家は山の登り口にあり、庭に少しばかり木を植えているので、シーズンになると毎朝同じ時間にウグイスメジロが番で来てくれる。ここを自分たちの縄張りにしているようだ。それをヒヨドリが近くの高い大きな木の上などで見ていて、小鳥を見つけるとそれを追っ払い、花の蜜や実を横取りしようとする。小鳥は、ヒヨドリが来るとさっと近くの木の中に逃げ込み、ヒヨドリがいなくなるとまた出てきて餌をつついている。家人がヒヨドリが来たのを見つけると必死に追っ払っているのが滑稽である。毎度おなじみの光景である。見ていて厭かない。だから、無理に小鳥をペットとして飼わなくても楽しめている。
かわいい子鳥と言えば、私がまだ子供のころなど、神社の縁日に行くとよく見かけた「小鳥の占い」を思い出す。もう見なくなって久しいな~。
お賽銭を渡すとおじさんがかごを開け、小鳥にお賽銭を渡す。すると小鳥が小さな参道をちょんちょんと進んでいき、賽銭箱に小銭を落としてから鈴をガラガラと鳴らす。さらに階段を上ってお宮の扉を開き、中からおみくじを取りだして持ち帰る。そしておみくじの封を開けておじさんに渡し、麻の実をもらってからかごに戻る……。
これがヤマガラ(山雀)を使った「小鳥の占い」である。
ヤマガラは、スズメ目シジュウカラ科シジュウカラ属に分類される小鳥で、ウグイスやメジロ同様、和鳥として古くから飼育されてきた歴史がある。飼育は、ウグイスやメジロ、オオルリヒバリといった、鳴き声を競わせて楽しむ和鳥とは違って、芸を仕込んで覚えさせることを楽しむもので、ヤマガラを飼育するための専用の「ヤマガラかご」なる鳥かごまで使い平安時代には飼育されていた文献が遺されているという(Wikipedia)。
学習能力が高いため芸を仕込む事もでき、覚えさせた芸は江戸時代に盛んに披露されたそうで、特におみくじを引かせる芸が多く、日本最古の遊園地とされる浅草「花やしき」でも、明治初年から「ヤマガラの芸」が評判を呼んだという。以下参照.。
二〇世紀ひみつ基地小鳥のおみくじ芸・伝統の見世物

このようなヤマガラ芸は1980(昭和55)年ごろまでは神社の境内などで日本各地に見られたことから、我々年輩の者には本種はおみくじを引く小鳥のイメージが強いが、おみくじ芸自体は戦後になってから流行し発展してきたもので、曲芸は時代の変化とともに変遷してきた事が記録から読み取れるという。
このような野鳥をペットとして飼うことは、戦前は広く行われていたが、戦後鳥獣保護法制定による捕獲の禁止、自然保護運動の高まり、別の愛玩鳥の流通などにより、これらの芸は次第に姿を消してゆき、1990年頃には完全に姿を消した。このような芸をさせるために種が特定され飼育されてきた歴史は日本のヤマガラ以外、世界に類例を見ないそうだ。
野鳥が手乗り文鳥のように飼い主の手に乗るくらいに親しくなれば、この上なくかわいいが、野鳥で、真っ先に、人間の手に乗るのは、このヤマガラだと考えられているそうだ。というのは、ヤマガラは子飼い( 子供の時から 引き取って養育すること)をしなくても人馴れしやすく、しかも好奇心旺盛だからだというが、いくら可愛くても日本の野鳥は飼えないので幼鳥のインコや手乗り文鳥が手頃ということだろう。
ストレスフルな現代社会において、「癒し」としてのペットの役割は今後もますます高まっていくことだろうが、ペットブームの影で、ペットを飼いきれなくなってペットを捨てる飼い主も非常に多くなってきているようだ。
犬や猫の殺処分数の増加が話題になっているが、それ以外にも問題はある。鳥や亀などペット由来の外来種が、捨てられたり、逃げ出したりして、日本の生態系等に悪影響を及ぼすこともあるからである。生き物を飼う以上は最後まで責任をもって飼ってほしいものですね。
動物の愛護及び管理に関する法律のあらまし - 環境省
捨てず 増やさず 飼うなら一生 - 環境省

参考:
*1:伊藤 美代子のプロフィール
http://profile.ameba.jp/mou2006/
*2:古代史獺祭・列島編/メニュー/日本書紀
http://www004.upp.so-net.ne.jp/dassai1/shoki/frame/m00.htm
*3:一般社団法人ペットフード協会
http://www.petfood.or.jp/
*4:小鳥たちが消えていく国、日本:日経ビジネスオンライン
http://business.nikkeibp.co.jp/article/person/20070724/130533/
*5:日本ペットフード
http://www.npf.co.jp/index.html
*6:猫の日本史:日本最古の飼い猫記録、宇多天皇の「うちの御ねこ」
http://www.huffingtonpost.jp/nekojournal/cats-history_b_5904530.html
*7:『猫の古典文学誌 鈴の音が聞こえる』(田中貴子)
http://babahide.blog.so-net.ne.jp/2015-06-16
*8:『ねこ』の語源を考える15
http://tatage21.hatenadiary.jp/entry/2015/02/28/124840
*9:金魚の日 - 今日のことあれこれと・・・
http://blog.goo.ne.jp/yousan02/e/3713241f8bdb539308bf033ab73375ab
*10:国立国会図書館デジタルコレクション - 金魚養玩草
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2540518
*11:明治初期の兎投機―「開化物」とメディアから見えてくるもの(Adobe PDF)
http://repository.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/dspace/bitstream/2261/51353/1/edu_51_30.pdf#search='%E6%98%8E%E6%B2%BB+%E3%82%A6%E3%82%B5%E3%82%AE%E3%83%96%E3%83%BC%E3%83%A0'
*12:熱帯魚の歴史 | 熱帯魚の森
http://aquamori.jp/knowledge/history.html
*13:文鳥団地の生活
http://www.cam.hi-ho.ne.jp/bun2/
*14:国立国会図書館デジタルコレクション - 飼籠鳥 20巻. [1]
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2554941
*15:『飼籠鳥』における「文鳥」:
http://rara-avis.sblo.jp/article/52826680.html
*16:百品考―国文学研究資料館
http://base1.nijl.ac.jp/iview/Frame.jsp?DB_ID=G0003917KTM&C_CODE=0257-019906
*17:夏目漱石『文鳥』-青空文庫
http://www.aozora.gr.jp/cards/000148/files/753_42587.html
*18:鈴木 三重吉:作家別作品リスト - 青空文庫
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person107.html
*19:鈴木珊吉氏寄贈の鈴木三重吉資料 7|成田市立図書館
http://www.library.city.narita.lg.jp/digitalcontents/yukari/miekichi/sankichi007.html
ペットとの共生推進協議会
http://www.pet-kyousei.jp/
ペットブームの影に... - BOWEYES
http://www.boweyes.com/magaginetantei.html
日本野鳥の会
http://www.wbsj.org/鳴き声
日本の鳥百科 サントリーの愛鳥活動 サントリー
http://www.suntory.co.jp/eco/birds/encyclopedia/nakigoe.html
ブンチョウ - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%B3%E3%83%81%E3%83%A7%E3%82%A6



出雲ぜんざいの日

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本格ぜんざい(レシピ)日本記念日協会で10月31日の記念日を見ると、「出雲ぜんざいの日」があった。
由緒を見ると、「出雲地方では旧暦の10月を神在月と呼び、その神在祭に振る舞われたのが「神在もち(じんざいもち)」。これが「ぜんざい」の語源となったと言われていることから、島根県出雲市の出雲観光協会が制定した日。日付は神在月(出雲以外の地では神無月)の10月のなかでも、10と31で「せんざい」語呂合わせで読める10月31日を選んだもの。」・・・とあった(*1参照)。
日本記念日協会に登録されたのは2007年だそうだ。いわゆる最近多くなった、観光客誘致のための市の特産品PRのためのもののようである。同市では、記念日の申請にあたって、同年に「日本ぜんざい学会」を立ち上げ、「日本ぜんざい学会新聞」(2007.7.1創刊号発行。*2参照)まで発行してPRに努めている。各自治体が町おこし(地域おこしまちづくりを参照)は、それなりに意義のあることではあるだろう。
例年猛暑の夏が終わると、食欲の秋が来る。その秋も深まり、気温がぐっと冷え込んでくると、温かい食べ物が恋しくなるが、甘党の人にとっては「ぜんざい(善哉)」もその一つであろう。
「ぜんざい」は、小豆を砂糖で甘く煮てや白玉団子(白玉粉と呼ばれる米の粉で作った団子)、などを入れた汁物である。これに対して、関東ではこれを「おしるこ(お汁粉」と呼び、汁気のない餡を用いたものを「ぜんざい」と呼ぶようだ。つまり、漉(こ)し餅を用いたものも粒餅を用いたものも汁のあるものは汁粉と呼ばれ、汁のないものが「ぜんざい」となるようだ。
関西地方では、粒餡を用いたものが「ぜんざい」で、漉(こ)し餡を用いたものは「しるこ」と呼んで区別しており、汁気のない餡を用いたものは、「亀山」や「小倉(小倉餡)」と呼んでいる。
「亀山」は、かつて岐阜県武儀郡にあった小金田村の旧村名・小屋名村のトップ級の大地主であっ亀山善兵衛かまた、その娘婿かは定かでないようだが、明治時代に大阪の天満に出てきて「亀山屋」という屋号で餅屋を開店し、目玉商品に亀山屋のぜんざいを「かめやま」という名で売っていたという。食道楽の大阪のド真申で、大阪の善哉とは違う田舎丸出しの小屋名風のぜんざい(田舎善哉)を大阪では「亀山」と呼ぶようになったようだ。(*3:「武儀郡小金田村」HPのいなかぜんざいの話(亀山異聞)を参照)。なお、これがそうかどうかはよくわからないが、ネットで検索すると、亀山氏の系譜について書かれているものがあった。この中に善兵衛の名も出てくる(*4を参照)。
また、京都市右京区の嵯峨二尊院門前長神町の二尊院内に「小倉餡発祥の地」と刻まれた石碑が建っている(建立者は、井筒八ツ橋本舗の六代津田佐兵衛)。
日本で初めて小豆と砂糖で餡が炊かれたのは平安京が出来て間のない820年頃の ことで、京のこのあたり 小倉の里(京都・嵯峨野-小倉山麓。小倉百人一首が撰ばれた地と伝わる)に亀の甲せんべいを作っていた和三郎という菓子職人がいて 809年に空海が中国から持ち帰った小豆の種子を栽培しそれに御所から下賜された砂糖を加え煮つめて餡を作り これを毎年御所に献上した。 その後、この和三郎の努力で洛西を中心に小豆が広く栽培され、江戸時代には茶道の 菓子にも用いられ、ハレの料理にも加えられるようになったといわれている(*5参照 )。
ただ、日本の製縄文時代から始まり、調味、防腐、保存に使用していたが、砂糖は日本には奈良時代鑑真によって伝えられたとされており、当時は、糖蜜の形で使用され、医薬品として扱われていたが、ある程度製糖の知識も普及し菓子や贈答品の一種として扱われるようになったのは平安時代後期のことと言われているが、ここで毎年御所に献上されたとされる餡も、当初のものは薬として献上されていたものだろうが、京都では平安時代の早い時期から薬じゃなく砂糖で小豆の餡が嗜好品として作られていたということだろう。
関西人の私など、「善哉」というと、まず第一に頭に浮かぶのは、豊田四郎監督の映画、『夫婦善哉』である。

この映画のことはこのブログ、「11月13日豊田四郎の忌日」でも簡単に触れた(ここ参照)が、同映画は、大阪を代表する作家織田作之助小説『夫婦善哉』(*6の『夫婦善哉』参照)を原作に、大正から昭和にかけての大阪を舞台に、大店のドラ息子(主演:森繁久彌)としっかり者の芸者(淡島千景)の愛情をなにわ情緒豊かにユーモラスに描かれたものである。
作品のタイトルとなっている「夫婦善哉」という言葉は、法善寺横丁にあるぜんざいの店「夫婦善哉(めをとぜんざい)」の名前から採られたたものである。
法善寺を「大阪の顔」だと言い、大阪を知らない人から、最も大阪的なところを案内してくれといわれたら、法善寺へ連れて行くと言う織田は、「めをとぜんざい」について次のように語っている。
「俗に法善寺横丁とよばれる路地は、まさに食道である。三人も並んで歩けないほどの細い路地の両側は、殆んど軒並みに飲食店だ。
「めをとぜんざい」はそれらの飲食店のなかで、最も有名である。道頓堀からの路地と、千日前――難波新地(補足:ここも参照)の路地の角に当る角店である。店の入口にガラス張りの陳列窓があり、そこに古びた阿多福人形が坐っている。恐らく徳川時代からそこに座っているのであろう。不気味に燻んでちょこんと窮屈そうに坐っている。そして、休む暇もなく愛嬌を振りまいている。その横に「めをとぜんざい」と書いた大きな提灯がぶら下っている。
はいって、ぜんざいを注文すると、薄っぺらな茶碗に盛って、二杯ずつ運んで来る。二杯で一組になっている。それを夫婦(めおと)と名づけたところに、大阪の下町的な味がある。そしてまた、入口に大きな阿多福人形を据えたところに、大阪のユーモアがある。ややこしい顔をした阿多福人形は単に「めをとぜんざい」の看板であるばかりでなく、法善寺のぬしであり、そしてまた大阪のユーモアの象徴でもあろう。」・・・と(*6の『大阪発見』の第二段 のところ参照)。
そして、また、豊田監督の映画「夫婦善哉」の中でも柳吉と蝶子が、夫婦善哉のいわれを語るシーンがある。
柳吉「こ、こ、ここの善哉(ぜんざい)はなんで、二、二、二杯ずつ持って来よるか知ってるか、知らんやろ。こら昔何とか大夫(だゆう)ちう浄瑠璃のお師匠はんがひらいた店でな、一杯山盛にするより、ちょっとずつ二杯にする方が沢山(ぎょうさん)はいってるように見えるやろ、そこをうまいこと考えよったのや」、
蝶子「一人より女夫(めおと)の方がええいうことでっしゃろ」
放蕩で甲斐性のない柳吉が知ったかぶりで話し、喧嘩は絶えないが惚れた弱みで別れられないが、しっかりものの蝶子がすぐさま切り返す。
この店の、店名と同じ看板メニューは1人前のぜんざいを2つの器に分けたもので、いかにも得をした感じにさせるところが大阪らしい発想である.。因みに、柳吉の話に「昔何とか大夫ちう浄瑠璃のお師匠はんがひらいた店でな・・・」とあるが、これは、明治16年頃、文楽浄瑠璃語りの竹本琴太夫(5代目竹本政太夫の門弟。 7代竹本咲太夫)が「お福」というお店を開業したのが始まりという(*7参照)。
ただ面白いことに、*7には、「杯のぜんざいを2杯に分けて出すことにします。少しでも多く見えるように、分厚いがお皿のように浅い容器二つに分け、備前焼の湯呑、赤塗りの箸、これを朱塗りの盆にのせて出す。片方はあんをこした汁粉、もうひとつは小豆粒のぜんざいと決め、これを熱くしてふうふう吹きかけながら食べる趣向です。」・・・と、書かれている。
え・・・?夫婦善哉って、明治の開業当初は、あんをこした汁粉と小豆粒のぜんざいの2種類を出していたの・・?今はどうなのだろう?
私は神戸っ子だが、若いころから大阪で勤務していたし、飲兵衛だったので、法善寺横丁にはしょっちゅう行き、あちこちの店で飲んでいたし、最後には、夜食にお結び屋などへも行ったのは覚えているが、残念ながら、善哉を食べるために「夫婦善哉」の店などには行ったことがない。私は酒飲みだが甘いものも大好きの甘辛党で、家では善哉もよく食べるのだが、その時は、関西人らしく粒あんのものと決まっており、「夫婦善哉」では、粒あんのぜんざいが二杯出てくるものと思っていたのだが・・・。実際はどうなのだろう?

大阪には、もともと潰し餡の善哉しかなかったのだが、明治後半、三越呉服店(現:三越百貨店)内に食堂が開店、そこで漉し餡の東京風汁粉が売り出された。これが汁粉の本格的な大阪デビューだという説がある。前後して大阪には、或る食の遊びがあり、浪速橋筋の瓦町辺りの或る汁粉屋さんの店では「汁粉十二月」と言い、一月=若菜 二月=むめ 三月=さくら 四月=卯の花 五月=皐月 六月=水無月 七月=天の川 八月=名月 九月=翁草 十月=小春 十一月=神参 十二月=飛雲の12種類の汁粉があったという。これらの汁粉は一月の若菜から次第に甘みが加えられ十二月の飛雲に至っては極めて甘いものであったそうで、これらを一月から十二月まで無事に食べれば代金は無料。しかし、客は概ね五~六月で降参。大阪らしい酒落のキツイ遊びであったようだ(*8:「御座候HP」の“Azukiこぼればなし” ●寒露No.133を参照)。
いずれにしても、大阪でも、明治後半には小豆の粒あん以外のものも食べられてはいたようだ。
開店当初、また現在の夫婦善哉の「ぜんざい」が実際にはどのようなものかは別として、「ぜんざい」について、一般に言われている関西と関東での認識の違いはなぜおきているのだろうか?
それは、どうも、うどんの“きつね・たぬき論争”(*9参照)でみられるように、すでに、江戸時代からその認識の違いはあったようだ。

江戸時代後期の三都(江戸・京都・大阪)の風俗、事物を説明した一種の類書(百科事典のようなもの)である『守貞謾稿』(1853年)の巻六 生業には、「善哉」が登場し、また、「汁粉」についても言及している。そこには以下のように書かれている。(*10:『古事類苑>』飲食部/餅<団子・餡・併入>の善哉。の『守貞漫稿』 六生業巻についての記載部分559 頁560 頁〔ここ〕を参照。)。

守貞漫稿  六 生業
善哉賣
京坂ニテハ、專ラ赤小豆ノ皮ヲ去ズ、糖ヲ加ヘ、丸餅ヲ煮ル、號テ善哉ト云、
汁粉賣
江戸ハ赤小豆ノ皮ヲ去リ、白糖ノ下品或ハ糖ヲ加ヘ、切餅ヲ煮ル、號テ汁粉ト云、京坂ニテモ皮ヲ去リタルハ汁粉、又ハ漉饀ノ善哉ト云、又江戸ニテ善哉ニ似タルヲツブシアント云、又マシ粉アンノ別ニ全體ノ赤小豆ヲ交ヘタルヲ鄙(イナカ)汁粉ト云、或ハ八重成アリ、八重成ハ小豆ニ似テ碧色也、・・・・」

つまり、意訳すれば、京坂では専ら赤小豆(=小豆.アズキのこと)の皮を取らないで黒砂糖で煮、これに丸餅を入れたものを善哉と云い、これに対して、江戸では赤小豆の皮を取って、白砂糖の上等でないものか黒砂糖を入れて煮、切り餅をいれたものを汁粉と云っている。ただ、京坂にも、皮を取った汁粉はあり、漉し餡の善哉という言い方をしたと『守貞謾稿』には書かれており、また、江戸では、善哉に似たものをつぶし餡と云い、又、こしあんの別に「つぶあん」を使った汁粉は、「鄙(田舎)しるこ」といわれたようだ。また、八重成(やえなり)という小豆に似た碧色(青緑色)した豆を使った汁粉も商っていたようだ。そして、掲載文では省略したが、これら善哉や汁粉、雑煮などを夜商いする人のことを、三都ともに「正月屋」と呼んでいたようだ。その理由はよくわからないが、雑煮は正月を祝うもの、鏡餅を割って雑煮や汁粉・ぜんざいにして食べる鏡開きも正月の行事だったことなどが理由にあるのかもしれない。
そもそも、「ぜんざい」と「おしるこ」の語源は何なのだろう。「おしるこ」は「お汁粉」と表記することから、見た感じをそのままネーミングにしたのであろうことはすぐに察せられるが、関西では「ぜんざい」を「善哉」と表記するが、この善哉は元々仏教語であり、「よきかな」」を意味するサンスクリット語「sadhu」の漢訳である。
仏典では、仏が弟子の言葉に賛成・賞賛の意を表すときに、「それはすばらしい」「実に良い」といった意味で用いられている。
江戸期関西の文化が多く江戸に伝わっているのでぜんざいも関西から江戸に広がった食べ物であるとも考えられるが、江戸でいつ「おしるこ」と呼ばれるようになったかなどその経緯はよくわからないようで、関西のぜんざい・おしるこの違いが正しく伝わらなかったとの説もあるようだ。
江戸時代後期の全国的規模の方言辞書『物類稱呼』(越谷吾山 著)には以下のように出ている(*10:の汁粉>『物類稱呼』  四 衣食 558P参照)
〔物類稱呼  四 衣食 558P 〕
ぜんざいもち、京江戸共に云、上總にてじざいもち、出雲にてじんざいもちと云、〈在餅と書よし也〉土佐にてじんざい煮といふ、土州(土佐国の別称)にては小豆に餅を入て醬油にて煮、砂糖をかけて喰ふ、在煮又善在煮などゝ稱すとなり、(以下略)

このように、地域で呼び方が違うのは、現代よりも地域色(方言)が豊かであった江戸時代なら当然のことであろうが、京大阪で云う「ぜんざいもち」(善哉餅)を上總や土佐など出雲地方に古くから伝わる「じんざいもち」〈在餅〉と同じような表現をしているところがある。
出雲地方では、旧暦の10月に八百万の神が全国から出雲の国に集まり、この時、出雲では「神在祭(かみありさい)」と呼ばれる神事が執り行わ、そのお祭りの時に振る舞われた「神在(じんざい)餅」の「じんざい」が、出雲弁(ずーずー弁)で訛って、「ずんざい」、さらに「ぜんざい」となって、京都に伝わったと言うのだが・・・(*1)。
この「じんざいもち」(在餅)に触れた文献としては、江戸時代後期の喜多村信節 の随筆『嬉遊笑覧』(天保1 念=1830年 刊)には,
「【祇園物語】又云、出雲國に在もちひと申事あり、京にてぜんざいもちひと申は、是申あやまるにや、十月には日本國の、みな出雲に集り給ふ故に、在と申なり、その祭に赤小 豆を煮て、汁をおほくしすこし餅を入て、節々まつり候を、在もちひと申よし云々いへり、此事【懷橘談大社のことをかける條にも云ず、されど、【犬筑波集】に、出雲への留主もれ宿のふくのとあれば、古きいひ習はしと見ゆ、また在餅は善哉餅の訛りにて、やがて無月の説に附會したるにや、【尺素往來】に、新年の善哉は、是修正之祝著也とあり、年の初めに餅を祝ふことゝ聞ゆ、善哉は佛語にてよろこぶ意あるより取たるべし、」(*10:古事類縁の汁粉>〔嬉遊笑覽〕〈十上飮食〉また、詳しくは『嬉遊笑覽』下 巻十 上 飲食 四三六〔神在餅〕の コマ番号239を参照)・・・とあり、「ぜんざい」の出雲起源説はこれによっているようである(✳11参照。ここに、意訳分あり)。
ただ、この文には、ここへの引用文には書かれていないが、仏教語の「善哉」がお汁粉を意味するようになった由来は、これを食べたとんちで有名な室町時代の禅僧(一休禅師)が餅入りの小豆汁を食べ、おいしさに感動してあまりのおいしさに「善哉々々」と賞賛したのが、始まりとするとの説もあるとも書かれており、また、「今は赤小豆(あずき)の粉をゆるく汁にしたるを汁粉といえども昔はさにあらず。すべてこといふは汁の実なり、・・・とある。
そのことから、私はよく知らない本だが、『和菓子の系譜』には、「本来は餡の汁の中に子(実)として餅を入れるので餡汁子餅であり、略して汁子、転じて汁粉になった」としているよう(✳12参照)で、どうやら汁粉は、江戸で発祥したもののようだ(餅などを入れだしたのは、特に江戸時代末の模様)。
そして、善哉餅から神在餅が始まったという説もあるが、善哉の語源は汎語の善哉で、仏様が弟子たちの意見に賛成する時に「sadhu sadhu(善哉、善哉)」と言ったという。やがて大乗仏教の教典にこの「善哉」という言葉がしばしば現われるので庶民に親しまれるようになり、善哉は喜びを表す言葉になった。そして美味しい餅入り小豆汁を上方(関西)で善哉と呼ぶようになった。出雲地方ではこの「ぜんざい」が訛って「じんざい」になり、神在餅の名が生まれたというのだが・・・。
江戸中期の百科事典山岡浚明の著『類聚名物考』(成立年未詳。明治36~38年(1903~05)7冊の活版本として刊行.)の飲食の中に、ぜんざい(善哉)のことについて書かれているところがあり、ようやくすると、以下のようになる。
比叡山から京都へ出る道に長谷越(な がたにごえ)というのがあり、俗にシルタニゴエと言う。渓谷の間なので道が悪く、水が流れているのでこの名がある。この善哉餅も、赤小豆の粉が煮られて粘るのが谷道のぬかっているようなので、そこから転じたもので、長谷餅とも言う。もともとは渋谷(しぶたに)越だったが、江戸時代にはシルタニゴエと訛って「滑谷越」などと書くようになっていた。それでシルタニゴエからシルコになったというのだが、こじつけもいいことだろう(原文は*10の汁粉〔類聚名物考〕〈飮食〉参照)。
結局何が真実か・・?はわからないままである。


参考:
*1:毎月19日は「食育の日」~「出雲ぜんざいの日」ご存知ですか?~ | 出雲市
http://www.city.izumo.shimane.jp/www/contents/1318842254728/
*2:ぜんざいの日ー出雲ぜんざい学会
http://www.1031-zenzai.com/
*3 :武儀郡小金田村HP
http://www.sudadenki.com/koganedamura/
*4:亀山氏の系譜の研究 その⑤
http://ameblo.jp/tengetu-akindo/entry-11391692395.html
*5:発祥の地コレクション/小倉餡発祥の地
http://hamadayori.com/hass-col/food/OguraAn.htm
*6:作家別作品リスト:織田 作之助
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person40.html
*7:みなとQ人気連載>わが町人物史:木文字 かめ 
http://minato-q.jp/blog/?cat=16
*8:御座候HP
http://www.gozasoro.co.jp/index.html
*9:『きつねうどん』と『たぬきそば』の謎
http://www.geocities.co.jp/Playtown-Dice/9450/kitsune.html
*10:古事類縁 飲食部/餅<団子・餡・併入>
http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/index.php?%E9%A3%AE%E9%A3%9F%E9%83%A8%2F%E9%A4%85%E3%80%88%E5%9C%98%E5%AD%90%E3%80%80%E9%A4%A1%E3%80%80%E4%BD%B5%E5%85%A5%E3%80%89
✳11:神在餅についての記述【嬉遊笑覧】 佐太神社公式ホームページ
http://sadajinjya.jp/?m=wp&WID=5613
ぜんざい - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%9C%E3%82%93%E3%81%96%E3%81%84


緒方洪庵 大坂に除痘所を開設(参考)

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参考:
*1:熱帯病とは何ですか? - News Medical
http://www.news-medical.net/health/What-are-Tropical-Diseases-(Japanese).aspx
*2:日本人のノーベル賞受賞続くも…5~10年後には激減の可能性も
http://news.livedoor.com/article/detail/10703278/
*3:日本代表 日程・結果 - ラグビーワールドカップ2015:朝日新聞デジタル
http://www.asahi.com/sports/rugby/worldcup/2015/team/japan/
*4:「NTDsの撲滅には、日本の力が必要です」 | オリジナル | 東洋経済 ...
http://toyokeizai.net/articles/-/73215
*5:こんにちは中山のホームページへ
http://www.ne.jp/asahi/ca2/kirsch/
*6:扶氏経験遺訓|医学図書館デジタル史料室 - 東京大学医学図書館
http://www.lib.m.u-tokyo.ac.jp/digital/HR105/index.html
*7:独立行政法人 国立病院機構大坂医療センターの沿革
http://www.onh.go.jp/enkaku/index.html
*8:豊後佐伯氏
http://www.geocities.jp/keizujp2011/saeki.html
*9:弥栄の杜から
http://www.saiki.tv/~miro45/midasi.html
*10第 2 回「天然痘の根絶−人類初の勝利」(Adobe PDF)
http://www.eiken.co.jp/modern_media/backnumber/pdf/MM0911_02.pdf#search='%E3%83%A9%E3%83%A0%E3%82%BB%E3%82%B95%E4%B8%96+%E3%83%9F%E3%82%A4%E3%83%A9'
*11:日本書紀、
http://www.seisaku.bz/shoki_index.html
*12:続日本紀(朝日新聞社本)
http://www.j-texts.com/sheet/shoku.html
*13:コラム:天然痘対策に習う時 | 日本BD - 日本ベクトン・ディッキンソン
http://www.bdj.co.jp/safety/articles/ignazzo/hkdqj200000u17oe.html
*14:日本医事史抄- 大阪市南医師会
http://www.osaka-minami-med.or.jp/ijisi/ijishi01.html
*15:面白きこともなき世を面白く【探訪】天然痘と戦った緒方洪庵
http://blog.livedoor.jp/shihobe505/archives/34737899.html
*16:第1回 足守藩医 緒方洪庵 - 岡山医療ガイド
http://iryo.sanyo.oni.co.jp/rensai/d/c2010031614211365
除痘館記念資料室|緒方洪庵記念財団 緒方ビルクリニックセンター
http://www.klinik-ogata.or.jp/ogata_building/floor/4f-01html.html
悲運の天平8年の遣新羅使がもたらしたもの
http://www.bell.jp/pancho/k_diary-15/2015_03_09.htm
緒方洪庵 – Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B7%92%E6%96%B9%E6%B4%AA%E5%BA%B5

緒方洪庵 大坂に除痘所を開設

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緒方洪庵
嘉永2年の11月7日(西暦では1849年12月21日)は、幕末の蘭学者・蘭医・教育者でもある緒方洪庵天然痘の病魔から多くの庶民を救うため、大坂古手町(現・大阪市中央区道修町)に種痘を行う為の種痘所(後に除痘館と改称)を設立した日である。

除痘館跡
2015(平成27)年の今年も相次ぐ日本人のノーベル賞受賞で沸いた。微生物の力を使った熱帯病(*1参照)治療薬の開発に寄与した大村智北里大学特別栄誉教授が「生理学・医学賞」、素粒子ニュートリノ質量があることを初めて実証した梶田隆章東京大学宇宙線研究所所長が「物理学賞」の栄冠に輝いた。2人受賞の快挙は、昨2014年の赤崎勇ら物理学賞の3人受賞(ここ参照)に続くもの。特に、物理学、化学、生理学・医学の自然科学分野での日本人のノーベル賞受賞者数は21人に上り、このうち2000年以降の受賞者数は16人(米国籍を取得した南部陽一郎中村修二の両氏を含む)となり、自然科学分野の3賞(物理学 ・化 学 ・医学・生理学)に限れば、1901年の同賞創設からの累計でも、米、英、独、仏に次ぐ世界5位に躍り出た(以下参照)
図録 ノーベル賞(自然科学分野)の国別ランキング
こうした最近の状況を受け、自然科学分野で「受賞常連国ニッポン」として胸を張りたいところだが、5~10年後に受賞者激減の兆候があり、そう手放しで喜べる状況ではないと指摘する声もある。その背景には、日本の経済力の低下があるようだ(*2参照)。このような成果が出るのには長い長い年月の努力の積み重ねがあってのもの、国も将来のことを考えてしっかりと研究者の支援をしてほしいものだ。
このような受賞者の功績を称えるのは良いが、TVなどでは何か受賞者の私的なことの報道ばかりが多い。どういったことで受賞したのか、その学問的な内容について誰にでもわかりやすく報道をしてくれる時間が少ない。何か興味本位の報道ばかりのように感じて仕方がない。
それに、日本人が受賞できなかった時の「受賞ならず」の報道では、ただ、残念だったという内容だけ。惜しくも受賞はできなくても、日本には多くの研究者が、陰では地道な努力をしながら、このようなことについて研究している。そういったことはほとんど報道されない。幸いにも受賞をし、脚光を浴びた人に群がって報道している・・といった感じである。
それはオリンピックなどスポーツの分野などでも同じである。かって、私などが学生時代には、サッカーなどより人気のあったスポーツにラグビーがあったが、サッカーJリーグ人気に押されてなりをひそめていた。そのラグビーが、9月19日の「ラグビーワールドカップEngland2015」(*3)の南アフリカ戦で、身体の小さな日本代表チームが 32-34でよもやの劇的勝利をしてからというものは、もう、連日ラグビーの報道で沸いている。しかも、は五郎丸歩選手がキックを蹴る際に印を結ぶ忍者のようなポーズをとる「五郎丸ポーズ」(ここ参照)ばかりが話題になっている。私も学生時代よりラグビーのファンであり、ラグビーが脚光を浴びるのはうれしいが、日本のこのような報道の在り方には前々から疑問を持っている。なにか前置きが長くなったが、元に戻る。
「ノーベル生理学・医学賞を受賞した大村智氏の研究が生み出したのは、イベルメクチンという薬だそうだが、これは、失明に繋がる「オンコセルカ感染症」(フィラリア参照)と、足が象のように大きく腫れる身体障害(象皮病)を引き起こす「リンパ系フィラリア症」(ここ参照)という2つのNTDs (Neglected Tropical Diseases=顧みられない熱帯病、*4参照)の特効薬として普及し、何億人もの人々を救った。
病気の予防として思い浮かべるのはワクチン接種であるが、ほとんどのワクチンは完全な予防効果を得るために複数回の投与が必要であり、病院に行かなくてはならない。しかし、イベルメクチンは予防薬として「年に1回だけ飲めばよい」というもので、しかも極めて安全で、医師や看護師なしで服用できるため「奇跡の薬」と呼ばれているものだそうだ。医療専門家のいないアフリカの奥地でも使用されており、NTDsに苦しむ地域の人々の生活を大きく変えることができた。しかも、その素晴らしい薬を無償で提供しているというから大村氏の偉大さが知れる。まさに人類のために最大の貢献をした人だといえるだろう。
しかしその大村さんは以下のように言っている。
「私の仕事は微生物の力を借りているだけで、私自身がえらいものを考えたり難しいことやったりしたわけではなく、すべて微生物がやってくれたことを勉強させていただいたりしながら、今日まで来ている。
そういう意味で私がこのような賞をいただいていいのかなと思います。みなさん、周りの人たちは、そういう仕事、成果を上げたと評価してくれてましたが、私自身は正直いってなんといいましょうか、微生物がやってくれた仕事を私はそれを整理したくらいのものだから。それにしてもこうやって、いつも数十人のグループで共同研究をやっているが、皆さん本当に心を一つにして大きな目的に向かって、それが私は非常に幸せなことという風におもっています」(2015年10月5日夜の記者会見(北里大学)より)。以下参照。
大村智さんのことば(記者会見や取材から) - ファイル
いかにも大村さんらしい謙虚で、誠実な言葉である。
また、物理学賞受賞の梶田さんも、「きちんと(研究を)やっていけば、何かに結びつくんじゃないかと思ってきちんとやった。自分の進んでいる道が正しいと思って頑張った」などとコツコツ研究を続けたことを明かし、「研究の成果は決して自分だけのものではないと述べ、「ニュートリノ研究というのは、一人でできるようなものではなく、スーパーカミオカンデですと100人を超えるチームが一つの目標に向かって共同で研究をして、成果を出していくというようなプロジェクト。ノーベル賞には、私の名前を出してはいただきましたが、スーパーカミオカンデ、そしてカミオカンデの研究グループが認められたということだと思う」として、グループ全体の栄誉だとの考えを示した。以下参照。
ノーベル賞、梶田隆章さん「認められるまで、自分の道が正しいと思って頑張った」
梶田さんも大村さん同様に謙虚な人であるが、偉大な功績を挙げた多くの人はそのほとんどが謙虚である。
梶田さんは埼玉大学を卒業後に東大大学院に進み、そこで出会った小柴昌俊・名誉教授(2002年ノーベル物理学賞)や戸塚洋二・東京大特別栄誉教授(故人)のもとで宇宙線研究に従事。物質を構成する基本粒子の一つである「ニュートリノ」に質量があることを裏付ける「ニュートリノ振動」という現象を世界で初めて捉えたという。
このように、物理学、医学・医療に限らず、すべての人々の仕事や功績は、先人の業績の上に成り立ってなされたものともいえる。
西洋医学を日本では近代医学ともいうが、日本の医学史(年表参照)の中では、「日本の細菌学の父」として知られる北里柴三郎赤痢菌の発見者として知られる志賀潔、あるいは黄熱病や梅毒等の研究で知られ、ノーベル生理学・医学賞の候補に三度も名前が挙がったが、黄熱病の研究中に自身も罹患し亡くなった野口英世などの名はよく知られているが、自分で何かを発見したというわけではないが、人のため世のために尽くし貢献をした偉大な人の一人として、今日のテーマーで採り上げた日本の近代医学の祖ともいわれる緒方洪庵を挙げてもよいのではないだろうか。
『対訳 21世紀に生きる君たちへ』(司馬遼太郎/著、ドナルド・キーン/監訳、ロバート・ミンツァー/訳、朝日出版社/刊.。ここ参照)は、大阪の作家・司馬遼太郎が小学校用教科書のために書き下ろした「人間の荘厳さ」「21世紀に生きる君たちへ」「洪庵のたいまつ」の3つから構成されるエッセイ集であるが、その中の『洪庵のたいまつ』では江戸時代末期、医者そして教師として多くの塾生を教育した緒方洪庵の一生をつづっているが、その冒頭の部分を一部以下に引用する(全文は*5の通信No.19参照)。

世のために尽くした人の一生ほど、美しいものはない。
ここでは、特に美しい生涯を送った人について語りたい。
緒方洪庵のことである。
この人は、江戸末期に生まれた。
医者であった。
かれは、名を求めず、利を求めなかった。
あふれるほどの実力がありながら、しかも他人のために生き続けた。そういう生涯は、はるかな山河のように、実に美しく思えるのである。
といって、洪庵は変人ではなかった。どの村やどの町内にもいそうな、ごく普通のおだやかな人がらの人だった。
病人には親切で、その心はいつも愛に満ちていた。
かれの医学は、当時ふつうの医学だった漢方ではなく、世間でもめずらしいとされていたオランダ医学(蘭方)だった。そのころ、洪庵のような医者は、蘭方医とよばれていた。
(中間略)
洪庵は、自分自身と弟子たちへのいましめとして、十二か条よりなる訓かいを書いた。その第一条の意味は次のようで、まことにきびしい。
医者がこの世で生活しているのは、人のためであって自分のためではない。決して有名になろうと思うな。また利益を追おうとするな。ただただ自分をすてよ。そして人を救うことだけを考えよ。

幕末の蘭方医としてまた蘭学の第一人者と仰がれた洪庵は、最新の医療の知識を紹介するため多くの蘭書を翻訳する一方、自らも多くの著書を残しているが、そんな中で洪庵にとっての終生の出版の大事業が『扶氏経験遺訓』(30巻。)の翻訳であった(原本*6参照)。扶氏とはドイツベルリン大学の医師フーフェランドのことで、彼の半世紀にわたる医療経験をまとめた内科学の著書(『医学必携』)のオランダ訳書『Enchiridion Medicum』を洪庵が訳したもの(1857年=安政4年出版)で、 江戸時代の刊本西洋内科書として最も完備したものとされており、日本の内科学の発展に大きな貢献を果たしたという。特に巻末の「医戒の大要」は12カ条の訳文として整理され「扶氏医戒之略」として有名であり、前掲文の“十二か条よりなる訓かいと”は、この「医戒の大要」のことである(十二か条全文は*7のここ→適塾「扶氏医戒之略」を参照されるとよい。
江戸時代から今日に至るまで、大阪は町人の町、商人の町であり、自由闊達な雰囲気がみなぎっていた。
船場北浜御堂筋のすぐ裏手に近代的なビルに囲まれて今も残る町家風のたたずまい、緒方洪庵の適塾は昭和20年の大空襲にも奇跡的に消失を免れ往時の姿をとどめており、昭和39年(1964)に国の重要文化財としても指定されている。
緒方洪庵、幼名は章(あきら)、は公裁、通称は三平、別を洪庵の他に適々斎等。別号の適々斎は、「己の心に敵(かな)うところを楽しむ」心境を意味するらしいが、これは、『荘子 (書物)』の内篇第六大宗師篇から取られたという(Yahoo!知恵袋参照)。ここから洪庵の塾を「適々斎塾」あるいは、略して「適塾」と呼ぶようになった。
緒方洪庵は豊後佐伯氏の佐伯惟寛(惟定の弟)の末裔とされている(*8参照)。
文化7年(1810年)、備中足守(現:岡山市足守)で、足守藩の三十三俵四人扶持のあまり豊かではない武士佐伯瀬左衛門惟因(これより)の三男として生まれた。洪庵(幼名章)は元服したとき田上●之助(たのかみせいのすけ。●は馬偏に辛。音で「セイ」訓では「あか うま」と読むが、くりげ〔馬〕とも読)惟彰を名乗っていたようであるが、田上の姓は佐伯家の別名にあたる(*9の緒 方 洪 庵参照 )。
父は小身ながらも藩の会計方を務め、のち大坂や江戸の留守居になっているから几帳面で律儀な人柄であったようだ。
文政8年(1825年)父が、足守藩大坂蔵屋敷留守居役となったとき、父と共に大坂に出て洪庵も本来なら武士として文武の修行に励むところだが、生来の病弱で武士よりも医学の道に進む決心をしたという。後庵の若いころの主流は何といっても漢方であったが、もちろん蘭方医の興隆も目覚ましかったが社会的にはまだ漢方が主流であった。洪庵は、蘭方の道を選び、翌文政9年(1826年)、大坂の蘭学医中天游に師事し天游の私塾「思々斎塾」で4年間、蘭学、特に医学を学んだ。この時から先祖にゆかりのある「緒方」の姓に改名し、緒方三平を名乗るようになったという。
さらに、天保2年(1831年)、江戸へ出て坪井信道宇田川玄真にも学ぶ。そして、天保7年(1836年)には、長崎へ遊学し、オランダ人医師のもとで医学を学ぶ。この時洪庵27歳。この頃から緒方洪庵と名乗った模様。
2年後の天保9年(1838年) 春、大坂に帰り、瓦町(現・大阪市中央区瓦町)で医業を開業、同時に私塾(蘭学塾)「適々斎塾(適塾)」を開き、医業の傍ら蘭学を教えた。
開塾の前年には大坂で大塩の乱が起こり市街の主要部が灰燼に帰し、また翌年の適塾を開いた年には蛮社の獄(「蛮社」とは、南蛮の学を学ぶ集団を呼ぶ)により蘭学者への迫害が起こるなど、社会は動乱・転換期(徳川封建社会の崩壊期)にあった。この年、洪 庵は天游門下の先輩・億川百記の娘・八重と結婚している(のち6男7女をもうけている)。
適塾は洪庵29歳の開設時からその後、53歳に至るまで、24年間にわたって、続いた。当時日本一栄えた蘭学塾とはいうものの、敵塾は普通の民家で、下が診療所と洪庵の住まい、二階が教室と生徒たちの寄宿舎になっていた。手狭な塾は若者たちの熱気でむんむんとしていたことだろう。
7年後の弘化2年(1845年)、過書町(現・大阪市中央区北浜三丁目)の商家を購入し適塾を移転しているが、移転の理由は洪庵の名声がすこぶる高くなり、門下生も日々増え瓦町の塾では手狭となった為である。
幕末より明治期の日本を主導した人材を多く輩出したことで知られる吉田松陰松下村塾を思想教育の塾とすれば、洪庵の適塾はいわば語学教育・実技教育の塾であった。
緒方洪庵の本業は蘭学の医者であり、本来適塾は医学塾であったが、洪庵の特色は何よりもその語学力にあった。医者としての名声もあったが、数多くの翻訳によって、その名が広く知られていた。そのため、弟子からは「メース」(オランダ語の「meester」=先生の意味から)と呼ばれ敬愛されていという。彼は、原語をわかりやすく的確に翻訳したり新しい造語を作る能力に長けていたという。洪庵はそのためには漢学の習得が不可欠と考え、息子たちにはまず漢学を学ばせたという。
そういえば、私の叔父は、5か国語をこなせる語学力を生かして、小さな貿易会社を経営していたが年を取り事業をやめ、引退してからは、家でもできることをと翻訳の仕事をしていた。ある時叔父に会ったとき、「最近は若い人で英吾のできる人も多くなったので翻訳の仕事も減っているのではないですか」と聞くと、「いや、違う、英語を話る人は増えていても、正しい日本語を習得できていない人が増え、逆に、翻訳をできない人が増えており、かえって休む暇もないほど忙しくて困っている」と言っていた。官公庁関係などへ翻訳したものを持って行っても、「これは日本語ではない」・・・と突っ返されるそうだ。
洪庵の開いた適塾は医学塾にとどまらず、いつしか、オランダ語を介して西洋思想や兵学などを知ろうとする者が全国から集まるようになった、つまり、語学なり、医学をやっていく過程で、次第に西洋人のものの考え方を身に着けていったというわけである。
そうして、適塾生のなかから、明治を代表する思想家福沢諭吉や、安政の大獄に処刑された橋本佐内日本赤十字社の創始者佐野 常民維新十傑の一人に数えられ, 事実上の日本陸軍の創始者、あるいは陸軍建設の祖と見なされることもある村田良庵こと大村益次郎(蘭学,医学を修め適塾の,塾長も務めた)、外交官として活躍した大鳥圭介衛生学の秦斗(たいと=その道で最も権威のある人)・長与専斉(福澤諭吉の後任として塾頭を務める)ら幕末から明治維新にかけて活躍した多くの人材が巣立っていった。
適塾出身者の活躍分野は非常に広い。その出身地は全国に及んでいる。その点、長州出身のみに限られた松下村塾とは対照的である。広く九州から北海道に至る各地から適塾に集まった弟子の数は洪庵が塾を開いて24年の間に3千人を超したという。
松下村塾が、政治運動家を養成した政治塾に対して、適塾からは、学者や政治家、医者と幅の広い分野の人材が育っている。後庵の塾にはイデオロギーがなく、自由な雰囲気の中でそれぞれが目指す道を学んだ。適塾の自由な雰囲気は、庶民の町大坂の土地柄によるところが大きいのだろう。
洪庵の功績としてもっとも有名なのは、適塾での人材の育成であるが、蘭方医としては、最新の医療の知識を紹介するため多くの蘭書を翻訳する一方、自らも多くの著書を残している。そんな中での集大成が先にあげた「扶氏経験遺訓」(30巻)の翻訳であるが、そのほか、洪庵の業績のひとつとして数えられているのが除痘館の設立である。
天然痘(smallpox)は、天然痘ウイルス(Variola virus)を病原体とする感染症の一つであり、「疱瘡(ほうそう)」とも呼ばれて、種痘前までは、死亡率が高い病気として当時最も恐れられていた病の一つであった。その特徴は、非常に強い感染力を持ち、全身に膿疱を生じ、仮に治癒しても瘢痕(一般的にあばたと呼ぶ)を残すことである。そんな天然痘の予防法の一つである種痘を本格的に広めた一人が洪庵である。
天然痘が全世界から撲滅されたのはほんの35年前、1980(昭和55)年のことである。この年5月8日、初めて、世界保健機構(WHO)が「天然痘撲滅宣言」を行った。
天然痘の正確な起源は不明であるが、最も古い天然痘の記録は紀元前1350年頃であり、また天然痘で死亡したと確認されている最古の例は紀元前1100年代に没したエジプト王朝のラムセス5世(エジプト第20王朝参照)であり、彼のミイラには天然痘の痘痕が認められたという(*10参照)。
中国では、南北朝時代が495年に北魏と交戦して流入し、流行したとするのが最初の記録で、頭や顔に発疹ができて全身に広がり、多くの者が死亡し、生き残った者は瘢痕を残すというもので、明らかに天然痘だという。その後短期間に中国全土で流行し、6世紀前半には朝鮮半島でも流行を見たという(Wikipedia)。
島国である日本には天然痘は元々存在せず、中国・朝鮮半島からの渡来人の移動が活発になった6世紀半ば、仏教伝来の頃に最初のエピデミック(英 epidemic)が見られるが、文献としては、『日本書紀』敏達天皇(572-585年)の条には以下のように記されている(*11:『日本書紀』巻廿(20)/敏達天皇参照)。

敏達天皇14年(西暦585年)春2月
是時国行疫疾、民死者衆。
意訳:是時国に疫疾(伝染病)が行(お)こって、民(国民)に死ぬ者が衆(多)かった。
同じく春3月
又發瘡死者充盈於國、其患瘡者言「身、如被燒被打被摧」啼泣而死。
意訳:又(また)瘡(かさ=瘡蓋のこと)を発(お)こして、死ぬ者は、国に充盈(じゅうえい=充〔満〕ち溢れること)している。其(その)瘡を患(わずらう)う者が言うには、「身如被焼被打摧(身焼かれ打たれ摧〔砕〕かれるが如し)」である。《彼らは》啼泣(泣き叫び)而(ながら)死ぬ。

上記のように、瘡を発(お)こして、激しい苦痛と高熱を伴うとあることから、天然痘の初めての記録とも考えられており、585年の敏達天皇の崩御も天然痘の可能性が指摘されている。ただ、これが天然痘との確証はなく麻疹などの説もあるようだが・・・。
さらに、『続日本紀』の天平7年(735年)の条にも以下のように書かれている(*12 :『続日本紀』巻第十二参照)。

天平7(735年)8月12日
比日、大宰府疫死者多。
意訳:此日(最近)太宰府では,疫(疫病。特に、悪性の伝染病)で死ぬ者が多い。
同年8月23日
大宰府言。管内諸国疫瘡大発。百姓悉臥。
意訳: 大宰府が言う。管内の諸国に疫瘡(えきそう=天然痘)が大発生した。百姓(国民・人民)は、悉(尽=ことごと)く、倒れ臥(伏)している。

・・・と、あるのを始めとして、同年最後の条には「是歳。年頗不稔。自夏至冬。天下患豌豆瘡〈俗曰裳瘡。〉夭死者多。」とあり、閏11月戊戌の条には「詔。以災変数見。疫癘不已。大赦天下。」とあり(*12参照)、その後夏から冬にかけて全国で「豌豆瘡(わんずかさ)」(俗に「裳瘡(もかさ)」)と呼ばれる疫病が流行し、京都にまで広まって、大赦する必要が生じるほどの大流行となったことが書かれている。ちなみに「豌豆瘡」とは疱瘡のことであり、天然痘特有の豆のような発疹から名付けられたもののようで、少なくともこのころには天然痘の大流行があったのは確かだろう。
天平9年(737年)の流行も、やはり九州から始まり、『続日本紀』の同年4月癸亥の条にも「疫瘡」と呼ばれる疫病の流行が記されており、平城京では、当時の朝廷を牛耳っていた藤原四兄弟がこの年の天然痘流行により相次いで病死し、藤原四子による政権は終焉を迎えている。
奈良の大仏造営のきっかけのひとつとなったのもこの天然痘の流行であったようであるが、原因不明の疫病が猛威を振るい、政治的にも混乱した当時の人々が、大仏に助けを求めたとしても不思議ではない。
その後も数度の大流行を重ね、天皇や将軍さえも感染からは逃れられなかった。東山天皇(1675~1710年)崩御の原因となり、江戸時代には徳川家光を始め、15名中6名の将軍が感染したという(*13参照)。致死率の高い天然痘であるが、運よく助かったとしても痘痕(あばた)は残る。伊達政宗は幼少時に感染して右目を失明、顔にも痘痕が残った。いわゆる「独眼竜」の異名は天然痘が原因である。幕末期では「松下村塾」を起こした吉田松陰(寅次郎)や米百俵の逸話で知られる小林虎三郎などがいるという。
開国か攘夷か、勤皇か佐幕かで国をあげての騒乱の時代、慶応2年(1866年)12月25日、在位21年にして突然公武合体の推進者であり、勤皇派をおさえていた孝明天皇が崩御した(満35歳没)。死因は天然痘と診断されたが、天然痘を理由とした他殺説も存在し議論となっている(崩御に至るまでの経緯参照)。
天皇の急死により政局は大転換して、一挙に討幕派が力を得るにいたった。その後の歴史は、一気に翌慶応3年(1867 年)の大政奉還王政復古に到った。もし、孝明天皇の急死が無かったら、公武合体派はしばらく余命を保ったであろうし、新政府での徳川慶喜の立場も違っていたであろう。つまり、明治維新の姿も違ったものになっていたかもしれない・・・。
このように幕末期は、相次ぐ大地震 (安政の大地震)、火山噴火(ここ参照)などの自然災害とともに、天然痘の病魔が社会的危機をより深刻なものにしていた。

天然痘が強い免疫性を持つことは、近代医学の成立以前から経験的に古くから知られ、紀元前1000年頃には、インドで人痘法が実践され、天然痘患者の膿を健康人に接種し、軽度の発症を起こさせて免疫を得る方法が行なわれ、18世紀前半にはイギリス、次いでアメリカにももたらされ、天然痘の予防に大いに役だっていたが、軽度とはいえ実際に天然痘に感染させるため、時には治らずに命を落とす例もあり安全性に問題があった。
18世紀半ば以降、ウシの病気である牛痘にかかった者は天然痘に罹患しないことがわかってきた。その事実に注目し、天然痘を未然に予防する牛痘接種法を、1796年、イギリスのジェンナーによって開発され、これが世界中に広まり、天然痘の流行の抑制に効果が大きかった。しかし、冷蔵庫・冷凍庫のない当時にあっては、種痘によって出来た痘内の液体(痘漿)やかさぶたを次から次へと人間に植え継いで伝えて行くしか保存方法が無かった。つまり、人間の体内で増殖保存し、かさぶたなどで移植していたのであるが、その痘苗(種痘の接種材料で、痘瘡 〔天然痘〕 ワクチンのこと)を日本へ新鮮な形で持ち込むことはなかなかできなかった。
牛痘接種を行うための痘苗が初めてわが国へもたらされた嘉永2年(1849年)には佐賀藩の医師・楢林宗健と長崎のオランダ人医師オットー・モーニッケが種痘を実施し、ようやく日本全国に種痘が普及し始めることとなるのだが、日本における天然痘対策、つまり種痘の普及に尽力したのが緒方洪庵(1810 ~ 1863 年)をはじめとした蘭方医らである。
長崎で痘瘡牛の痂皮を用いて成功した楢林宗建から、シーボルト鳴滝塾で同門であった京都の日野鼎哉(ていさい)のもとに種痘成功の報せと、8粒の痘痂が届いた。
鼎哉は、7人の孫や弟子に植えつけやっと腕からにじみ出るように出てきた、膿を自分の3才の孫や弟子の16歳の姪などに移植し、この二人の子供の腕からすくいとった液を、16才になる鼎哉の娘の腕にすりつけて種つぎをし、やっと、この娘の腕に種痘の花を咲かせることに成功した。当時の医術では痘苗の保存は一週間が限界で、種痘を施した子供の腕に発痘がみられると、滲み出る膿を採って新たな痘苗とし、一週間以内に他の子供に植え付けるという作業を繰り返さなければならなかったのだ。
鼎哉と彼の弟子である笠原良策は役所の許可を得て、京都新町三条北に種痘所を構え、種痘をひろめる態勢を整えた。
長崎から京都の鼎哉のもとへ痘痂が届いた報せは国内に届いていた。大阪の緒方洪庵 もそのことを知り、自宅に近い道修町4丁目で開業している日野葛民(鼎哉の弟)に同行を願って鼎哉を訪れ、分苗を懇請したのが、嘉永2年(1849年)11月1日のことであった。鼎哉と良策は、11月6日、分苗のために一人の種痘をおえた子供を連れて大阪に赴いた。良策は大阪に於ける「分苗の儀式」を『白神記』に克明に記しているという。大阪での種痘事業の中心メンバーは緒方洪庵・日野葛民・そして大和屋喜兵衛(道修町の脇薬種問屋)の三人だそうである。この辺の事情は、参考*9:「弥栄の杜から」の日野鼎哉と葛民を参照、また、*14:「日本医事史抄」の江戸時代Ⅲに詳しく書かれている。また、「伝苗式」の様子を記録した書状:写真などは、*15で見ることができる。
この「分苗の儀式」の行われた翌日の嘉永2年11月7日(1849年12月21日)、自らも幼少時代に発症している洪庵は、大阪の「適塾」創設に続いて、痘苗を導入した「除痘館」を開設、西日本を中心に牛痘種痘法の普及に心血を注いだ。
嘉永3年(1850年)、郷里の足守藩より要請があり「足守除痘館」を開き切痘を施した。ここでは、備中、美作の医師を集め、さらに適塾で学ぶ新進気鋭の若き蘭方医を動員し大病院並み。医師十四人を擁していたという(*16参照)。
牛痘種痘法を実施当初は、牛になる等の迷信や風評被害により苦しんだが、治療費を取らず患者に実験台になってもらい、かつワクチンを関東から九州までの186箇所の分苗所で維持しながら治療を続ける。その一方でもぐりの牛痘種痘法者が現れ、除痘館のみを国家公認の唯一の牛痘種痘法治療所として認められるよう奔走したという。
安政5年4月24日(1858年6月5日)、洪庵の天然痘予防の活動とその効果が幕府から認められ、牛痘種痘は免許制となった。
適塾が異色の蘭学塾として発展する一方、医者後庵の評判もとみに高まって、文久2年(1862年)、幕府の度重なる要請により、ついに、奥医師兼西洋医学所頭取として江戸に出仕することになった。
この西洋医学所は、当初、洪庵の「除痘館」開設からやや遅れて安政5年(1858年)に江戸の伊東玄朴を中心とした蘭方医ら83名の資金拠出により、神田松枝町(現・東京都千代田区神田岩本町2丁目)の川路聖謨の屋敷内に開設した民間の種痘所「お玉ケ池種痘所」であったが、翌々年、幕府直轄の種痘所となり、其の翌年に西洋医学所となり、その後幾多の変遷を経て東京大学医学部(1877年改編)に至っている。
文久の改革の一環として、文久2年(1862年)「兵賦令」による兵制改革が行われ、幕府の洋式軍制が導入され、歩兵・騎兵・砲兵の三兵編制が導入された。そして、歩兵隊の兵賦は江戸城西の丸下、大手前、小川町、三番町に設けられた屯所に入営した(幕府陸軍参照)。
その歩兵屯所付医師を選出するよう幕府より指示を受けた洪庵は、手塚良仙ら7名を推薦したという。
しかし、医者として最高の名誉ともいえる奥医師についた洪庵であるが、江戸の務めは彼の肌には合わなかったようであり、「病弱の体質、老後の務め、なかなか苦労の至り、殊に久々住み慣れたる土地を離れ候事、経済においても甚だ不勝手、実に世に謂う有難迷惑なるものに これあり候・・・」と在長崎子息平三・城次郎あてに文を送っている。格式張った江戸勤めは、経済的な出費も重なり負担であったようであり、「とても蓄えの金子(きんす)にては相足不申(あいたりもうさず) 身分こそ高く相成り、有難きことには相成り候へども 是より大貧乏人と相成・・・」と在長崎嗣子洪哉あての書状にもある(『日本史探訪』16国学と洋学.角川文庫より)。 
江戸へきて、10か月、洪庵は過労が重なって、翌文久3年6月11日(1863年7月25日)、江戸の医学所頭取役宅で突然喀血し死去している。時に洪庵54歳。明治維新の5年前のことである。大坂の一介の町住まい医師が、将軍の医師になるのは一大奇跡ではあるが、それが嫌で嫌でたまらなかったが、嫌と言えない律義さがまた洪庵だからともいえそうだ。終生大坂を離れたくなかった洪庵の最後はちょっと悲劇的でかわいそうな感じではある。
1980年に天然痘との戦いはついに終結し、今日では天然痘のことも洪庵の功績のことも人々の記憶から消え去ろうとしている。


 


濱口雄幸首相が東京駅で右翼青年に狙撃され重傷を負った日

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1930(昭和5)年という年は、暗い年だった。
この頃は、古き良き日本がまだあった時代であるが、同時に軍国主義が台頭し、国際社会からの孤立を深めていった時代でもある。
1920年代、第一次世界大戦後から続く慢性的不況はバブル崩壊後の日本の状況にも似ているといわれる。
1929年10月、アメリカニューヨーク(ウォール街)で起こった株価の大暴落(「暗黒の木曜日(Black Thursday)」)に始まった世界恐慌の影響は、日本にもおよび、関東大震災や「金融恐慌」の痛手から十分回復していない我が国経済を直撃し不況のどん底に落ち込んでいた(昭和恐慌)。
物価と株価の下落によって中小企業の倒産や操業短縮が相次ぎ、賃下げ、解雇の嵐が吹き荒れ、失業者が増大、これに抵抗する労働者によるストライキなどの労働争議鐘紡争議など、*1も参照)や、小作争議、自殺者の増大(自殺者数|年次統計参照)と灰色の日々が続いていたが、この難局をなんとか乗り越えようと努力していた政治家がいた。第27代内閣総理大臣濱口雄幸立憲民政党総裁)である。
その濱口首相が、1930(昭和5)年11 月14日午前9 時ごろ、東京駅右翼青年に至近距離から狙撃され、重傷を負った。
岡山での陸軍大演習に向かうために、運航を開始して間もない神戸行きの超特急「燕(つばめ) 」号に乗り込む直前だった。この状況下、途切れがちな息の下で呟いたという「男子の本懐」が流行語にもなった。
一命はとりとめたものの翌1931(昭和6)年3月、野党の要求を受けて弾丸を抱えたまま登院したが、激しい論戦に病状が悪化し4月13日には内閣総辞職、8月26日に死去した(享年61)。
浜口死去の翌月(9月)、関東軍満州事変を起こし、十五年戦争に突入。翌々年の5.15事件では犬養毅首相が軍人によって射殺されている。濱口首相襲撃は、日本を破滅に向かわせる奔流が次第に勢いを増してゆくのを知らせる前兆でもあった。
浜口首相とその盟友で日本銀行総裁を務めたことのある大蔵大臣井上準之助は内閣発足当時から、死を覚悟していたらしい。                                          
痩せ馬に山又山や春がすみ

浜口首相が、1930(昭和5)年の正月に詠んだ句である(アサヒクロニクル『週刊20世紀』1930年号より)。痩せ馬どころか「ライオン宰相」と呼ばれた浜口首相。金解禁(第一次大戦時に停止した「金本位制」への復帰)、予算削減(軍縮)、対外協調路線を決行するには野党や、軍強硬派からの凄まじい反発がある・・・と二人は予測していた。折りしもロンドン海軍軍縮会議が海軍の軍縮を迫り、この受諾をめぐって統帥権干犯問題が起った。そして、やがて、締結に対する反対論は同条約に不満を持っていた海軍軍令部や右翼団体を巻き込むことになり、軍縮に反発する右翼青年に浜口が銃撃される事件が起ったのだが・・。
「軍部に媚びるな」「軍部が国際関係を無視して計画を進めれば国家は滅亡に瀕すべし」と論じた信念の政治家井上準之助も浜口が亡くなった2年後の1932(昭和 7)年、民政党の筆頭総務として選挙戦中、右翼に暗殺されている(血盟団事件参照)。
この事件以降日本の政党政治は弱体化。また、軍部が政府決定や方針を無視して暴走を始め、非難に対してはこの権利(統帥権)を行使され政府はそれを止める手段を失うことになった。

「男子の本懐」(「男としての本望」といった意味)・・・。なんと懐かしく感じられる言葉だろうか。この時代、浜口などの政治家には良かれ悪しかれ、まだ、武士道精神の残っている者もいた。
戦後、商売に失敗して貧乏のどん底にあったときの、私の親父の口癖も「武士は食わねど高楊枝痩せても枯れても武士は武士。」であった。昭和の時代に生きた父も、もとを辿れば紀州藩の武士の出であることに誇りを持っていたようだ。あだ名は石部金吉。商才はあったが商人としては、あまりにも生真面目すぎ、融通の利かないところが、戦中・戦後の混乱した世の中での商売には不向きであったようだ。ともあれ、私達がまだ若かった頃には、男子として生まれた者の生き甲斐としてよく使われたこの言葉も、万事「金々々」の今の世の中では、政治家の口からも聞かれることはなくなり、「死語」となっている。
城山三郎の『男子の本懐』(1980年、新潮社/1983年、新潮文庫)をもとに浜口雄幸(首相)と、井上準之助(蔵相)の二人を描いた同名のNHK長時間ドラマ(1981年)があった。北大路欣也(井上首相):近藤正臣(井上蔵相)が演じていた。
そのNHKアーカイブス(番組)はここで見れる。
また、NHKの歴史情報番組『その時歴史が動いた』(2002年9月11日 “昭和を揺るがした銃弾 〜ライオン宰相・浜口雄幸狙撃の時〜”)でも扱われていた。これを見ると浜口首相の簡単な経歴から暗殺に至るまでの経過が、わかりやすく要約されている。以下を見られるとよい。1 /5~5/5まである。

Historical test ( Lion prime minister ) -1 /5

上記を見てわかるように、深刻な不況の中、1928(昭和3)年、それまでの納税額による制限選挙が撤廃され、25歳以上の成年男性による初の普通選挙(第16回衆議院議員総選挙)が行われた。
この選挙では事実上2党の戦いとなった。つまり、対外強硬路線・公共投資の積極的拡大を政策に掲げた軍人出身の田中 義一率いる与党・立憲政友会と、憲政会政友本党が、旧憲政会幹部であった濱口雄幸を総裁として結成して出来たばかりの野党第1党立憲民政党協調外交緊縮財政で不況を乗り越えることを政策に掲げての戦いであった。
選挙結果は、立憲民政党が惜しくも与党政友会にわずか1票差で敗北したが、どちらも過半数を得られない「ハング・パーラメント」(宙ぶらりん議会)となり、残る32議席がキャスティングボートを握る情勢となった。
しかし、政友会はこの選挙での露骨な選挙妨害や、金権選挙で国民の反感を買い、その後のスキャンダルもあり、田中儀一内閣は、1929(昭和4)年7月2日総辞職に追い込まれた。
代わって政権についたのが謹厳実直な濱口雄幸であった。濱口内閣では、外務大臣に外務省から幣原喜重郎を起用し、その協調外交は幣原外交と呼ばれた。日本の国力、実力を知る濱口は、英米との対決は不可能であることを理解していた。このことは国民生活の負担の軽減と見事にリンクする。戦後不況、社会不安が増大する中で、軍拡から軍縮に転換し、その軍縮余剰金を財源に、国民負担を軽減する施策を提示したのである。
また財界から信任のある井上準之助蔵相を起用して金解禁、緊縮政策、産業合理化を断行した。また政友会の反対を排除してロンドン海軍軍縮条約を結んだことが右翼からの反感を買い、濱口首相が東京駅構内にて右翼青年に銃撃される結果になったことは先に書いた通りである。

さて、それでは、浜口雄幸内閣は経済面での目的を達成することができたのだろうか?結果的には、「緊縮財政での経済立て直し」は失敗に終わっている。
明治以来、軍備拡張が当たり前の空気がある中で、第一次大戦後、戦争から平和へ、軍拡より軍縮へ、積極財政から緊縮財政へという政治家の信念を貫き通す浜口の姿勢は高く評価する声がある一方で、反面デフレ不況を悪化させ、国民生活を圧迫し社会不安を増大させるなど、経済政策においては酷評されることもある。

濱口内閣(井上蔵相)の財政・経済政策の中心は金解禁(金輸出解禁策)であった。
日本は1897(明治30)年に金本位制を確立させ、金の輸出が行われていたが、第一次世界大戦中に欧米諸国が相次いで金の輸出を禁止したため、日本でも1917(大正6)年になって禁止していた。
ところが、欧米諸国は大戦後相次いで金本位制に復帰、日本もこれらに続こうとしたが、関東大震災や金融恐慌といった混乱のためかなわなかった。金解禁の主な目的は為替相場(為替レート)の安定と、輸出の拡大による国内産業の活性化である。
ただ、金輸出を解禁して円為替相場を安定させるとしても、どの水準で安定させるのかが問題であった。
第一次世界大戦前の日本では、金2分(1/5匁・0.75g)を1円相当(、1ドル=2.005円)としていた。しかし、金輸出が禁じられてから10年以上を経て、内外の経済状況は大きく変化しており、実際の為替相場は、関東大震災時1923年(大正12年)の100円=38ドル前後(1ドル=2.630円前後)を最安値として、1928年(昭和3年)当時には100円=44ドル前後(1ドル=2.300円前後)となっていた( Wikipedia)。このため、金解禁時の平価価の価値基準を禁止前の平価(旧平価、1ドル=2.005円)のまま解禁するのか、それとも実体経済に合わせた平価にするために通貨価値を落とす(平価切下げ)のか・・・その選択が問題となっていた。
旧平価は日本が不況に陥る前の平価であり、これによる金解禁は円高なり、円高は輸出には不利であり、せっかくの輸出活性策も相殺されてしまうことになる。そのため、東洋経済新報社高橋亀吉石橋湛山らはグスタフ・カッセルの提唱している購買力平価説に基づき、大戦や関東大震災後の日本経済の実力に合わせて、平価切下げを行った上で金解禁を行うべきであると、「新平価解禁論」(円安)を主張した(*2参照)が、濱口政権は「旧平価による金解禁」を実施した(1930年1月)。
しかし、なぜ、濱口政権が、円高になれば、輸出が減退し、輸入が増進し、貿易収支の悪化を招きかねない「旧平価による金解禁」を実施したのか?
本当のところはよくわからないが、当時、日本国内が長い不況に喘いでいる一方で、軍拡の動きも活発であった。そのような中、濱口政権は軍部の動きを抑え、同時に日本を不況から脱するためには、金解禁が不可欠であると考えていたようである。つまり、金解禁により、事実上の円切上げ(円高)にともなう貿易収支の悪化という効果が、
金流出の拡大=金保有高の減少→紙幣流通高の抑制→デフレ 
へとつながることを生かして、産業合理化,経済界の整理を促進したかったようだ。
濱口首相と井上蔵相は、その準備として、金解禁に見合った為替相場を維持するために、その前から緊縮財政を実施の上で財政支出を抑えたいわゆるデフレ政策(いわゆる「井上財政」)を取っていた。
そのため、金解禁から半年で日本の国内卸売物価は7%下落。また、対米為替相場は11.1%の円高、アメリカの国内卸売物価は2.3%下落していた。その結果、日本の国内市場は縮小し、輸出産業は円高によって国際競争力を失って不振に陥り、日本経済は二重の打撃を受けることとなった(Wikipedia)。
濱口や井上は、アメリカが恐慌に陥っても世界経済の中心であるイギリス・ロンドンのシティ,が安定していれば、恐慌はじきに収まるものと判断して、翌昭和6年度予算ではさらに大幅な歳出削減をした。これに対して政友会や産業界、一般国民からは、金輸出の再停止か平価切下げ、さらに景気対策を求める声が噴出していた。
しかも、アメリカは金ドル交換を停止していたことから、金解禁直前より投機筋の思惑買いによる円買いドル売りが行われ、解禁後の恐慌の深刻化に伴って貿易の決済資金確保のための需要が加わり、さらに金への兌換と正貨の海外移送が行われるようになった。このため、わずか半年間で2億3千万円もの金と正貨が国外に流れ、元から日本国外に保有していたものの流出分を加えると、2億8千5百万円もの金と正貨が失われてしまった(ドル買事件と金解禁の挫折参照)。
金解禁措置が国際的に円滑に機能すれば、金本位制本来の調節機能から見て、輸出が増え、輸入が減ってバランスが保たれるはずのものであり、大衆も歓迎した。が、それを旧平価により、世界恐慌の中で実施したことによって、いずれもが減少、逆に正価(金、金貨)が海外に流出することになった(為替レート変動と輸出の状況は*3参照)。そして、日本の大不況とその後の社会不安を生み出した原因ともなったのである。
実際には第一次世界大戦後に再建された新たな金本位制は、諸外国においても正貨不足から軒並みデフレの原因となっていたため不況から脱するどころか、むしろ各国を不況に追い込んでいた。FRB議長のベン・バーナンキも、のちにFRBが世界大恐慌への対応に失敗したのは、金本位制を維持しようとしたことが理由のひとつだと語っており、金本位制から早く離脱した国ほど経済パフォーマンスがいいことを証明している(*4参照)。
濱口亡き後、1931(昭和6)年末、政友会総裁・犬養毅が組閣した蔵相に就任した高橋是清は、直ちに、一般に「.高橋財政」と呼ばれる金輸出再禁止.・日銀引受による国債発行と財政支出(軍事予算)等の拡大を実施し、1932(昭和7)年以降は、こうした諸政策の効果もあって、景気は回復に向かった(リフレーション政策。*3も参照)。
当時、リフレーション政策はほぼ所期の目的を達していたが、これに伴い高率のインフレーションの発生が予見されたため、これを抑えるべく(出口戦略参照)軍事予算の縮小を図ったところ軍部の恨みを買い、二・二六事件( 1936〔昭和11〕年2月26日から2月29日)において、赤坂の自宅二階で反乱軍の青年将校らに暗殺された(*5参照)。五・一五事件 (1932〔昭和7〕年5月15日)で犬養が暗殺された日から4年後のことである。高橋在任中は主に積極財政政策をとり、井上準之助が行った緊縮財政としばしば対比されることが多い(*6「日本史のお話」の井上財政と高橋財政)。

まだまだ、政党政治の試験的時代と言わざるを得ない状況の中で、政治は最高の道徳と述べて、断固たる姿勢で軍縮を乗り切った濱口の姿勢スタイルは戦前の首相の中でも稀有な存在ではあるが、宮中からの援護や側近の根回しで中央突破を成功させたわけだが、これは、短期的に見て「平和」実現の成果にはなったが長期的に見ると強硬派内に宮中グループへの不満を増幅させることにもなり、後の二・二六事件へとつながった面もある。また、その経済面で失策が、後に禍根を残した。
今となっては果たして浜口が行ったデフレ政策や金解禁が正しかったか否かは歴史の検証が必要なところこであろうが、政治や経済を自分が正しいと思っって決めたことは命を懸けてでもやりぬくという政治家が日本の歴史の中にいたことを思い起こし、救われるような気がする。特に今の時代の政治家を見ていて・・・。


冒頭の画像は、浜口首相が東京駅で右翼青年に撃たれ、重傷を負い運ばれているところ。翌朝の東京朝日新聞。

参考:
*1:1930年籠城闘争・ストライキが先行した鐘紡争議
http://blogs.yahoo.co.jp/cyoosan1218/51970408.html
*2:連載/石橋湛山を語る - 東洋経済新報社 創立115周年
http://www.toyokeizai.net/115-anniversary/series/kosai2-1.html
*3:戦間期日本の為替レート変動と輸出 ―1930年代前半の為替レート急落
http://www.imes.boj.or.jp/research/papers/japanese/kk21-2-5.pdf#search='%E8%B2%BF%E6%98%93%E5%8F%8E%E6%94%AF+1930%E5%B9%B4'
*4:バーナンキFRB議長、米国の金本位制離脱を擁護
http://jp.wsj.com/public/page/0_0_WJPP_7000-412469.html
*5:【二・二六事件】犠牲となった高橋是清蔵相と日銀の国債引受政策
http://www.mag2.com/p/news/8118
*6:日本史のお話
http://www.ab.auone-net.jp/~tsuka21/theme.html
加藤久仁明Blogテーマ:城山三郎
http://ameblo.jp/3291038150/theme-10069472916.html
佐々木常夫 オフィシャルWEBサイト 20. 浜口雄幸 男子の本懐
http://sasakitsuneo.jp/leader/20.html
金解禁と井上準之助の評価―専門家すら騙した城山三郎の嘘―
https://www.kurayama.jp/modules/wordpress/index.php?p=126
デジタルアーカイブ - 新聞記事文庫 編年体一覧:1930年11月(昭和5)
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/directory/sinbun/ymlist/193011.html
0.25%の軍縮で狙撃された浜口雄幸首相
http://ktymtskz.my.coocan.jp/cabinet/hamaguti.htm   
:デジタルアーカイブ - 新聞記事文庫 編年体一覧:1930年11月(昭和5)
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/directory/sinbun/ymlist/193011.html
濱口雄幸 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BF%B1%E5%8F%A3%E9%9B%84%E5%B9%B8

三原山の噴火に伴い全島民が一時島を脱出した日(参考)

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参考:
*1:“全島避難”の後で~検証・口永良部島噴火
http://www.nhk.or.jp/fukuoka/frontier/back/back_150605.html
*2:次々噴火する火山-DIAMOND onlin
http://diamond.jp/articles/-/73271
*3:気象庁 |火山
http://www.data.jma.go.jp/svd/vois/data/tokyo/STOCK/kaisetsu/vol_know.html
*4:東京都の火山|東京都防災ホームページ
http://www.bousai.metro.tokyo.jp/taisaku/1000064/1001579/index.html
5:伊豆大島- 国土地理院(Adobe PDF)
http://www1.gsi.go.jp/geowww/Volcano/map/condition-map/report/pdf/houkoku_izuoshima.pdf#search='%E5%9B%BD%E5%9C%9F%E5%9C%B0%E7%90%86%E9%99%A2+%E4%BC%8A%E8%B1%86%E5%A4%A7%E5%B3%B6+%E5%B2%A1%E7%94%B0%E7%81%AB%E5%B1%B1%E3%80%81%E8%A1%8C%E8%80%85%E7%AA%9F%E7%81%AB%E5%B1%B1%E3%80%81%E7%AD%86%E5%B3%B6%E7%81%AB%E5%B1%B1'
*6:伊豆大島ジオパーク・データ ミュージアム..
. http://oshima-gdm.jp/Front_Page
*7:続日本紀(朝日新聞社本)
http://www.j-texts.com/sheet/shoku.html
*8:役行者霊蹟札所会 * 開祖 役行者
http://www.ubasoku.jp/introduction/ennogyoja.htm
*9:静岡大学小山研究室ホームページ
http://sk01.ed.shizuoka.ac.jp/koyama/public_html/Welcome.html
*10:海底に眠る石の階段 熱海市沖で発見、鎌倉時代に水没か [朝日新聞〕ー阿修羅 昼休み2
http://www.asyura2.com/0311/lunchbreak2/msg/713.html
*11:近代デジタルライブラリー - 国史大系. 第14巻 百錬抄 愚管抄 元亨釈書
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991104/181?tocOpened=1
*12:吾妻鏡入門目次
http://www5a.biglobe.ne.jp/~micro-8/toshio/azuma.html
*13:熱海市:あたみ昔ばなし
http://www.city.atami.shizuoka.jp/category.php?c_id=137
*14:熱海の海底遺跡
http://protecs.waterblue.ws/kaitei-iseki1.html
*15:聚史苑:天変地異年表 目次
http://www.nagai-bunko.com/shuushien/tenpen/ihen00.htm
*16:木村政昭ホームページ
http://kimuramasaaki.sakura.ne.jp/Site2/Home.html
熱海温泉図彙 - 西尾市
http://www.city.nishio.aichi.jp/nishio/kaforuda/40iwase/collection/2209atamionsen/atamionsenzui.html


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三原山の噴火に伴い全島民が一時島を脱出した日(2-2完)

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こう書いていて、ふと、現在の伊豆大島の下になっているという、行者窟火山の名前が気になって調べてみた。
この行者というのは、飛鳥時代から奈良時代の呪術者であり山伏(修験道)の開祖とされている役小角(えんのおづぬ)のことのようである。
日本書紀』に続く六国史の第二にあたる『続日本紀』(794年成立)の巻第一文武天皇三年五月丁丑の条には、役小角について以下のように記されている(*7参照)。
《文武三年(六九九)五月丁丑(廿四)》○丁丑。役君小角流于伊豆嶋。初小角住於葛木山。以呪術称。外従五位下韓国連広足師焉。後害其能。讒以妖惑。故
大意:文武天皇3年5月24日、役君小角を伊豆大島に配流した。そもそも、小角は葛城山に住み、呪術で称賛されていた。のちに外従五位下の韓国連広足が師と仰いでいたほどであったが, 後にその才能をねたんである人が彼の能力を妬み、妖惑のかどで讒言した((讒言者はこれを広足だとする説等解釈はいろいろあり)。それゆえ、彼を遠方に配流したのである。世間は相伝えて、「小角は鬼神を使役することができ、水を汲ませたり、薪を採らせたりした。もし鬼神が彼の命令に従わなければ、彼らを呪縛した」という。

上掲は、葛飾北斎北斎漫画』より、前鬼・後鬼を従えた役小角。
正史からわかるのはこれだけであるが、言い伝えでは、役行者は流刑先の伊豆大島で昼は行者窟(ぎょうじゃのいわや)に住んで修行し、夜になると富士山へ飛んで修行し赦免を願ったという。富士山麓の御殿場市にある青龍寺は役行者の建立といわれているようだ。
平安時代初期の説話集『日本霊異記』(日本現報善悪霊異記)には、佐渡に流されてから、昼だけ伊豆におり、夜には富士山に行って修行したとあるそうなのでそれに基づいているのだろう。「大島公園海岸遊歩道」の終点近くに、「役の行者」ゆかりの「行者窟」という聖なる場所がある(*8参照)。



日本の火山の分布(*3:気象庁HPの活火山分布図参照)は、千島、北海道、東北日本を経て伊豆諸島からマリアナ諸島に至る東日本火山帯と、山陰から九州を経て南西諸島に至る西日本火山帯に分けられる(火山帯参照)が東日本火山帯の火山フロント(火山前線。*3の火山噴火の仕組みも参照)は千島海溝日本海溝伊豆・小笠原海溝,に平行に走っており、西日本火山帯のうち九州から南西諸島に至る火山フロントは琉球海溝に平行に走っている。
そして、伊豆・小笠原島弧北部の火山フロントは、八ヶ岳から富士山・箱根火山を経て、日本列島の中央部の伊豆半島から伊豆大島、三宅島、御蔵島、八丈島とほぼ南北方向に連なっているが、伊豆・小笠原弧の北端部にある伊豆半島とその周辺陸域・海域は,プレート境界の近傍に位置する活発な地殻活動・火山活動の場として知られている。
1974(昭和49)年の伊豆半島沖地震以後、伊豆半島付近の地震活動が活発になり、1976(昭和51)年に河津地震(M5.4)、1978(昭和53)年に伊豆大島近海の地震(M7.0)などが発生し、1989(平成元)年7月13日には、静岡県伊東市の沖合3 kmで海底噴火が起こり、手石海丘という海底火山が誕生した(伊豆東部火山群)。
これは,伊豆東部火山群としては有史以来初の噴火と言われているが、伊豆半島の噴火の歴史を地質学的に調べると、1989((平成元)年の手石海丘の噴火と似た事件が伊豆半島の陸上で過去15万年間繰り返してきたことがわかるという。以下参照。
伊豆東部火山群の火山活動解説資料(平成 23 年9月)気象庁地震火山部火山監視・情報センター(Adobe PDF)
伊豆半島は、現在ある場所に最初からあったわけでも,本州につながる半島の形をしていたわけでもなく、約2千万年前は,本州から南に1500kmほどへだたった熱帯海域の海底火山であったと考えられているようだ。
その後フィリピン海プレートに載った伊豆の地殻は火山噴出部を積み増しながら北上を続けて約100万年前には本州沖に達し、海面上に火山島として出現し、本州に衝突して合体する時がきた。
本州と陸続きになったのは約60万年前で、伊豆火山島は本州から突き出た半島の形になり、現在見られる伊豆半島の原形ができあがった。陸地となった後の伊豆半島では、あちらこちらで噴火がはじまり、たくさんの大きな火山体ができたが、天城山(天城火山)や達磨山(達磨火山)は,この時さかんに噴火していた火山なのだという。(*9の伊豆半島の火山とテクトニクス、 伊豆半島の火山  参照)。
伊豆半島の南東部にある下田市爪木崎西側の海岸にある、「俵磯」と呼ばれる「柱状節理」(画像)は、伊豆地域が海底火山だった頃の火山活動で、地下のマグマが地層の隙間に入り込んで冷え固まったものであり、この柱状節理は静岡県の指定文化財ともなっている。
伊豆半島の東海岸沿いの陸地と海底では、現在も火山活動や地殻変動が続いているが、伊豆半島の東側付け根に位置する熱海市の熱海港から高速船で25分ほどの、相模灘に浮かぶ初島の平らな地形は、そこにあった浅瀬が隆起して島になったことを物語っている。
また、熱海市沖の海底には参道状の石畳や階段のような石積み、船着き場と思われる桟橋が眠っているという。2004(平成16)年にはマスコミ(朝日新聞)でも”謎の海底遺跡”と話題になっていた(*10参照)。そうだとすれば、ここがかつては陸地であったことを証明していることになる。
詳細の記録はないが、鎌倉時代後期の13世紀末頃に成立したとみられる『百錬抄』巻第十六 の後深草天皇の条には以下の通り記されている(*11の・第十六のコマ番号153参照)。
〔百練抄  十六 後深草〕
寶治元年正月十二日丙寅、此間風聞云、伊豆國長十二町、弘八町自十餘町行去、其跡如二湖水一云々
意訳:宝治元年(1247年) 1月12日 噂によれば、伊豆国で長さ1308m・巾872m (1町は60≒109m)程が沖に向かって1㎞程滑って沈んだのか失われて、その跡は湖水のようになった。・・・ということだが、『吾妻鏡』(*12参照)の寛元四年(1246年)11月27日に、「寅の刻、大地震」とあるので、これが百練抄の記事に該当するのだろう。
鎌倉時代中期に海底火山の噴火に伴って大規模な地殻変動が起こり伊豆山沖が陥没したのではないだろうか。
熱海は、古くからの湯治の地であり、平安、鎌倉時代には阿多美郷(あたみごう)といわれていたらしいが、海中から熱湯が噴き出し、「あつうみが崎」と呼ばれ、それが変じて「熱い海」であることから、熱海と名付けられたらしい。そのことは、熱海市のホームページ”あたみ昔ばなし”のページ(*13)の「熱海の由来」で、1枚の面白い画(「,万巻上人薬師の化現と逢図」)とともに書かれている。.
まずはそのページを見てください。→熱海の由来
スキューバダイビングのインストラクターで、熱海の海底遺跡第一発見者見者だといわれている國次秀紀氏は、熱海の海底遺跡保存会を設立し、独自・独創的な発想によって阿多美(熱海)の有様を調査し発表している(*14参照)。以下参照。YOUTUBE動画サイトへアップしている熱海の海底遺跡動画も見られる。
熱海の海底遺跡保存会
その中であつうみケ崎「万巻上人薬師の化現と逢図」の検証をしている(上記熱海の海底遺跡保存会参照)が、熱海の海底に眠る遺跡は熱海市の錦ヶ浦や熱海サンビーチ沖1キロの海底にあり、参道状の石畳や階段のような石積み、船着き場と思われる桟橋が眠っているという。そして、江戸時代以前、鎌倉中期、1247年頃に火山噴火と大地震で沈んだと見ている。つまり、『百練抄』『吾妻鏡』に出てくる時期ということのようだ。
鎌倉時代には『吾妻鏡』をはじめ鎌倉を中心とした地震の記録が多く現れる(*15のここ参照)が、政治の中心が鎌倉にあったためで、鎌倉だけに地震が多かったわけではない。この年代の11月26日にも鎌倉で大地震があるが、この地震の約50年後の、1293年5月20日(5月27日)(正応6年4月13日)に起こった鎌倉大地震(永仁の関東地震ともいう)では23,024人もの死者が発生したとされている。朝廷では、永仁への改元までしている。
しかし、熱海海底遺跡は、一体何の跡だったのだろうか?
『吾妻鏡』には壇ノ浦の戦いについて
寿永4年3月24日(1185年4 月24日)長 門の国赤間関の海上に於いて、八百四十余艘の兵船を浮かぶ。平氏また五百余艘を漕 ぎ向かい合戦す。午の刻逆党敗北す(**12参照)。
・・・とあるように、長門国彦島(山口県下関市)の平氏水軍を撃滅すべく、義経は摂津国の渡辺水軍、伊予国の河野水軍、紀伊国の熊野水軍などを味方につけて840艘(『吾妻鏡』)の水軍を編成している。
海底考古学会のすぺッシャリスト 茂在寅男東京海洋大学名誉教授は、
源頼朝は水軍族の頭領であり、当時の熱海は「鎌倉幕府の軍港」だった可能性があるという。それが鎌倉時代のある日突然、大地震か火山の噴火で沈んだという説を立てている。それが、この熱海の海底遺跡だろうとするのだが・・・。以下参照。
歴史ミステリー 熱海海底遺跡は鎌倉幕府の軍港だった?1
歴史ミステリー 熱海海底遺跡は鎌倉幕府の軍港だった?2

いずれにしても、伊豆半島の東海岸沿いの陸地と海底は、活発な火山活動を続けてきたし、「伊豆大島から一直線に伊豆大島にかけて火山列島は要監視地域でもあり、火山噴火後には必ず大地震が起きている」・・・という木村 政昭琉球大学名誉教授(*16参照)等の話は、気になるところではある。これを否定する学者もいるのだが、興味のある人は、一度以下のページを読んでみては・・・。

三原山噴火→富士山噴火へ着々 連続する小笠原深発地震の不気味
伊豆大島三原山の噴火の後には必ず大地震が起きている


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三原山の噴火に伴い全島民が一時島を脱出した日(参考)へ

三原山の噴火に伴い全島民が一時島を脱出した日(2-1)

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今から29年前の1986(昭和61)年11月15日、伊豆大島の中心にある三原山が、1974(昭和49)年以来12年ぶりに噴火した。山頂火口での噴火から割れ目噴火に移るなど、態様を変えながら3回の噴火を繰り返した。割れ目火口から流れ出た溶岩が人口密集地に向かい、1万300人の全島民は観光客と船で脱出し、1か月間の避難生活を余儀なくされた。
三原山は過去1500年の間に、約150年の周期で大規模噴火を起こし、その間に、中規模噴火を繰り返して来た。
11月15日の最初の噴火は山頂火口で起きた。オレンジ色のマグマのしぶきを激しく噴き上げる、珍しい「ファイアファウンテン」(英:fire fountain。火の噴水また溶岩噴泉とも。)と呼ばれる現象が見られた。このタイプの噴火はハワイ島キラウエア火山などにみられるものである。
19日火口にたまった溶岩はカルデラ内輪山(内輪山=中央火口丘のこと。外輪山の内側にあるのでいう。)の縁を超え溶岩流となって流れ出した。この時の溶岩流は外輪山を超えることはなく火山活動の脅威の景観に見物人が列をなしたという。
21日夕方小康状態にあった三原山は再び大噴火した。今度は1421(応永28)年以来の「割れ目噴火」であった。カルデラ内の内側と外輪山の北側で突然次々と地面に亀裂が走り、そこからマグマが火のカーテンのように噴出したのである。
●冒頭の画像は、11月21日の「割れ目噴火」とそれを見ている人たち。
割れ目の長さはカルデラの内外でいずれも1㎞にわたった。外輪山の新しい火口列から流れ出る溶岩流は、午後にはカルデラ外の噴火口から、人口が密集しているふもとの、元町市街地区に溶岩が向かったため、同日深夜になって、全島民1万3千人と観光客2000人に避難命令が出た。溶岩流は最終的に民家から300m付近にまで達したところがある。
●上掲の画像は、11月22日午前5時東京竹芝桟橋(ここ参照)に着いた避難民たち。大島を出た船は静岡県伊東港、東伊豆の稲取港へも向かい、家族が離散したケースもあったという。戸締りもせず、簡単な手荷物、あるいは着のみ着のままで非難した人たちもいた。島民が島に帰ったのは12月19日以降のことである。この時は、その後一カ月も避難生活が続くとは思いもよらなかっただろう。
この3回の噴火について、火山噴火予知連絡会は、正確な直前予知情報を出すことに失敗したようだ。
火山性微動(マグマや水蒸気が火山の地下を移動したり、沸騰して気泡が発生することなどによって起こる地表の微弱な振動。)は7月下旬からあった。しかし、予知連は10月30日、「将来の噴火の可能性が否定されたわけではない」「大規模噴火が切迫している兆候は認められない」とのあいまいなコメントを出して、まず1回目の空振り。
噴火直後には、下鶴大輔・予知連会長が「大規模な噴火はない。溶岩が外輪山の外へ流れることはないだろう」とコメントしたが、割れ目噴火でこれも覆された。12月12日には、「火山活動は短期的に見れば休止に向かいつつある」との統一見解をまとめ、こうした判断に基づいて同日、東京都の災害対策本部(ここ参照)が全員帰島を決定した。ところが帰島開始の前日の18日になってまたしても噴火が起きた。同日夜、下鶴会長は「いいわけはしません。」「この程度の噴火の余地は難しい」と、敗北を認めざるを得なかったという。
溶岩流が山を下るという危機感の中で、全島民の避難は整然と行われた。しかし、それをいつ、どういう状況で、解除するのかが当時問題となった。
避難した島民は東京都内の小中学校、スポーツセンター、福祉会館などに分散して収容された。急な脱出行だっただけに、着の身着のままの人も多く、日がたつにつれて体の不調を訴える人が増えていった。火山はその後小康状態を続けたが、科学には「もう大丈夫」と断言できるほどの予知能力はない。結局帰島は、中曽根康弘首相ら政治の強いリーダーシップで判断された。「解除」には政治が関与せざるを得ないことを印象付けたのだが・・・・(画像、文等『アサヒクロニクル週刊20世紀』1986年号参照)。

火山活動と地震活動の間には, 密接な関係があることが古くから知られているようだが、ここのところ日本列島で火山の噴火が相次いでいる。
最近では、2013年に小笠原諸島西之島が噴火以降、現在も活発な火山活動が続いている。西之島は海底火山の活動により生じた火山島(無人島)であるが、現在も活発な噴火活動が見られ、大量の溶岩流や噴出物が海面上まで堆積して西之島(旧島)付近に新しい陸地を形成しており、この陸地は「西之島新島」と命名され、「新島ブーム」とマスコミにも報道され、大きな話題となった。これなど、人的被害がなく島が大きくなるのだから日本にとっては結構な話ではあるが、昨2014年9月には御嶽山(長野、岐阜県)が噴火し、戦後最悪となる噴火による犠牲者63人(死者。内行方不明者5人)を出した。
今年2015(平成27)年に入ってから5月には、屋久島の西方約12kmに位置する口永良部島新岳で爆発的噴火を起こし、火砕流が海岸まで到達した。噴火による避難は日頃からの訓練のおかげで、1人の被害者も出さず見事にできたが、今も噴火警戒レベル5が続き、屋久島に避難している避難民の方は未だに帰島のめどが立たずに困っておられると聞く(*1参照)。この後何年避難生活をしなくてはならないのか・・・。三原山の噴火の時以上に避難生活が長引いており、帰島の時期についてはやはり政治家がしなくてはならないのだろう。
そのほか、頻繁に噴火を繰り返している鹿児島県の桜島諏訪之瀬島を除いて6月には長野県と群馬県堺にある浅間山、8月には、小笠原諸島南端近くの硫黄島、9月には、神奈川県と静岡県にまたがる箱根山、熊本の阿蘇山、10月には 北海道の雌阿寒岳霧島山えびの高原〔硫黄山〕周辺での火山性地震頻発)など火山活動が活発化したり、噴火に至るケースが相次いでおり、2011年3月11日の東日本大震災以降、火山噴火が多いと感じている人は少なくないだろう。
20世紀以降に世界で起きたマグニチュード(M)9級の巨大地震後には、周辺で例外なく噴火が発生しているようだが、東北地方太平洋沖地震だけが、これまで噴火が起きておらず、例外的だと思われていたのだが、昨年9月に、御嶽山が噴火して以降、日本の火山も今後、活動期に入る可能性があると指摘している専門家もいるようだ。
ただ詳しいデーターがないが、「長い目で見ると実は、この100年のあいだ、日本列島は異常なほど静かだっただけと言える。
火山の噴火はさまざまなタイプと規模があるが、火山学者は東京ドーム約250杯分以上の噴出物があったものを「大噴火」と定義している。この「大噴火」は日本の場合、100年間に4~6回ほどは必ず起きていた。それが20世紀に入って以降、1914年の桜島と、1929年の北海道駒ヶ岳で「大噴火」があっただけで、ずっと静かな状態が続いている。そう考えれば、3.11以降、むしろ普段に戻っただけとも言えるわけで、今世紀に4~6回の「大噴火」が起きても、何の不思議もない。」・・という(*2参照)。
日本が誇る富士山は、2013(平成25)年6月には関連する文化財群とともに「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」の名で世界文化遺産にも登録され、近年アベノミクスの円安政策なども引き金となり、日本を訪れる外国人観光客も激増し、富士登山客もこれにより、激増している(ただ昨年は天候不順で少し減少 ここ参照)。これは結構なことなのだが、その富士山がいつ噴火してもおかしくないとも言われている。
もし実際に富士山で噴火が起こったら、・・・、首都東京はどうなる・・・? 日本は大変なことになってしまうだろう。心配はないのだろうか?
【最悪のシナリオ】富士山が噴火したら東京はどうなる?? - NAVER まとめ
こんなことには何の知識のない私などがいくら考えても仕方がないことなのでこれ以上詮索しないようにしよう。
ところで、三原山は、伊豆大島の大半を占める複式活火山(複式火山参照)であり、その最高点は三原新山(764m)である。富士火山帯に属し、玄武岩安山岩(火成岩の種)。ここ参照)からなり、40あまりの寄生火山(側火山参照)がある。
狭義の三原山は外輪山に囲まれた直径 3~4kmのカルデラ内にある円錐状の中央火口丘をいっている。1777年に始まった安永噴火で誕生(*3の伊豆大島 有史以降の火山活動参照)し、頂部に直径300 m、深さ200 m以上の切り立 った竪坑状の火口が口を開けている。
日本の活火山の中でも玄武岩質マグマの活発なこと で知られており、およそ35年以内に一度は比較的大きな噴火を行い、少しずつ姿を変えている。
その間に起こる小噴火も含めて、吹き上がる火柱や火映は古来御神火とあがめられてきた。


●1951年の噴火。

●1957年噴火。

三原山の噴火は、戦後では、1950(昭和25)年7月15日に突如活動を開始し、その後しばらくなりを潜めていたが、1951(昭和26)年2月4日再び噴火を始め溶岩流がラクダに乗って歩く砂漠地帯の大半をうめたという。いずれも中規模噴ではあったが、これに、続き1957(昭和32)年10月13日にも1950以来の大規模な噴火をし、この時の爆発で火口付近の観光客のうち1名が、火山弾によって死亡し、53人が重軽傷者を負ったという(*3の伊豆大島 有史以降の火山活動参照)。そして、この1986(昭和61)年11月15日の大噴火では全島民が避難する騒ぎになったのだがこの噴火以来静けさを保ち、まじかに火口周辺の絶景を見ることができ、振り向けばカルデラ内外に四季折々のすばらしい景観がひろがり、さらに海原を越えて伊豆の島々から伊豆半島・富士山までグルリと見渡すことも出来る。1998(平成10)年5月には三原山噴火口を一周する『おはち巡りコース』が開通し三原山の雄大さを間近に見る事が出来る様になった。特にここから見る噴火口は、まさに圧巻である。
この三原山が自殺の名所になったのは1933(昭和8)年のことである。三原山の自然に引かれて火口に身を投じた文学好きの女子学生、東京の実践高等女子学校専門部の学生らが投身、2月にも同行の国文科2年の学生が投身これらがマスコミで大々的に報じられて以降、三原山は自殺の名所になった。これらの事件のあと自殺志願者が相次ぎ、大島署では挙動不審なものを保護したり、自殺防止に努めたが一時は留置場の扉も閉まらないほどに満員状態になってしまったという。島民も自殺防止に必死で、郵便局員が「動く看板」を背負い、志願者に思いとどまるようにした。しかし、流行は衰えず、『明治・大正・昭和世相史』(社会思想社刊)によるとこの年は4月までに三原山での自殺者は60人、未遂者は160人にも上ったという(『アサヒクロニクル週刊20世紀』1933-34年号、参照、)。島民の方にとっては迷惑な話でしたね~。
●自殺防止のため「動く看板」を背負って歩く郵便局員。

その三原山のある伊豆大島の。面積は91.06平方キロm。行政区域は、東京都の町大島町であり、都はるみの歌「アンコ椿は恋の花」で知られる。
東京都の区域内には気象庁が、火山災害軽減のため、監視し、噴火警報・予報を発表している全国110の活火山(*3参照)のうち、21の火山が存在している。これらの火山は全て島嶼(とうしょ)地域に存在し、住民が居住している火山島は8つある(大島、利島、新島、神津島、三宅島、御蔵島、八丈島、青ヶ島)。このうち特に活発に活動しているのが大島と三宅島で、この100年間で大島が3回(36~38年間隔)、三宅島が4回(17~22年間隔)噴火しており、噴石、火山灰、溶岩流及び火山ガスによる直接・間接の被害や住民の避難が発生しているいう(*4参照)。
大島と名のつく島は日本各地にあるが、国土地理院では伊豆大島と表記する。
伊豆大島は、本州で最も近い伊豆半島からは南東方約25kmに位置する。
現在の伊豆大島の下には、岡田火山、行者窟火山、筆島火山の三つの古い火山が隠れている。乳ヶ崎~岡田~筆島にかけての海岸に急な崖があるのは、古い火山が露出しているからだそうだ。三つの火山が活動していたのは遥か昔、数十万年も前のこと。
伊豆大島火山は今から数万年前、次第に活動を終え、海水に侵食されていったこれら三つの火山の近くに海底火山として誕生した。誕生まもない伊豆大島火山の火口は海面近くにあり、地下から上がってきたマグマは水と接触して、激しい噴火を繰り返した。噴出物が火口のまわりに積もり、火口が海面から顔を出し、現在の大島の形がほぼ出来上がったのは約2万年前の事であった。つまり、伊豆大島はその噴き出たマグマによって三つの古い島(火山体)を覆って、形成された島…ということになる(*3のここまた* 5 参照)。三つの古い火山体は、大島北端の乳が崎から大島南東部の筆島まで続く海食崖において露出している。
このような歴史もあり、大島の水中は噴火により流れ出たマグマが形成したダイナミックな地形で溢れ、他にはない“生きている火山”を海からも堪能できる。
伊豆大島は地質学的にみた日本の貴重な自然資源として2007年には、日本の地質百選に選定され、2010年には日本ジオパークにも認定されている(その見事な地層は*6のここ参照)。

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米国のテレビドラマ『ローハイド』(西部劇)が日本で放送開始された日

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ローハイド』(Rawhide)は、1959年1月9日~1965年12月7日までアメリカCBSで制作・放送されたドラマ(テレビ映画西部劇)である。
日本では、10ヶ月後の1959(昭和34)年の11月28日~1965(昭和40)年10月14日まで、NET(現:テレビ朝日)系で放送された。その後、数度再放送が行われ、最近では2006(平成18)年にNHK-BS1でも放送された。


「INCIDENT OF THE CALICO GUN(おとりの女)」は、『ローハイド』第1シーズン[1-15]、1959年4月24日(日本放映日1960/3/5)のものである(*2参照)。

西部劇(Westernの訳語)は、アメリカの映画とともに歴史を歩んできた。そして西部劇はハリウッドが築き上げた独自のジャンルであり、西部開拓の歴史を持つアメリカだからこそ生まれたとも言える。
19世紀後半の特に1860年代から1890年代にかけてアメリカの西部開拓時代に、フロンティアと呼ばれた未開拓地であったアメリカ西部を舞台にした西部劇は、開拓者魂を持つ白人の主人公が西部の荒野で、逆境にも立ち向かい、無法者や先住民と対決するというプロット(物語)が、アメリカ人の開拓者精神と合致し、大きな人気を得て、20世紀前半のアメリカ映画の興隆とともに映画の1つのジャンルとして形成されたもので、第二次世界大戦が終わる頃まで、アメリカ映画の中でも確固とした地位を築いていた。
そして、戦後はテレビの登場とともに数多くのテレビ西部劇が製作され、それらは1960年代初頭まで隆盛を誇っていた。
テレビの実験放送が日本で開始されたのは1939(昭和14)年3月のことであるが、日本放送協会(NHK)のテレビ放送開始(日本での地上波テレビ放送の開始)は、戦後の1953(昭和28)年2月1日のこと。そして同年8月28日に、日本テレビが、放送を開始、これが、民放での、初めてのテレビ放送開始である。
続いて、1955(昭和30)年4月1日 、 ラジオ東京(KRT・KRテレビ、現:TBSテレビ)がテレビ放送を開始以降、次々と、特に 1958(昭和33)年から1959(昭和34)年にかけて多くの局が開設された。
当時の主な番組は大相撲、プロレス、プロ野球などのスポーツ中継や、記録映画など。まだ放送が開始された当初のテレビは高価なものであり、一般人には買えないため、多くの大衆は繁華街や主要駅などに設置された街頭テレビや、喫茶店、そば屋などが客寄せに設置したテレビ、また、一部の富裕世帯宅で見ていたが1959(昭和34)年4月10日の皇太子明仁親王今上天皇)御成婚の中継をきっかけにテレビ受像機が一般に普及し始めた(ミッチーブームが起こる)。これは、1950年代の映画黄金期(第二黄金時代)以降年々縮小傾向にあった、日本の映画業界には大きな打撃を与えた。
そのため、この頃より、東映を除く映画会社が、テレビへの作品販売や所属俳優の出演を拒否したため、代替として、アメリカ製のホームドラマや当時アメリカで隆盛を誇っていた西部劇などが多く輸入され、当時のテレビ番組の主力として高い人気を博していた。このような、傾向は1970年頃まで続いたが、これが、アメリカ的生活様式を日本の家庭に浸透させる要因にもなったといえる(アメリカ合衆国のテレビドラマ一覧〔年代順〕参照)。
1959(昭和34)年2月1日に教育テレビ局としてスタートしたばかりのNET(現:テレビ朝日)が、当時、単発番組を除いてテレビ映画としては初の一時間枠の西部劇『ローハイド』『ララミー牧場』をゴールデンタイムにぶつけて、他局に対抗した(当時の西部劇は30分ものばかり)。
ブラウン管白黒テレビが、やっと日本の家庭に普及し始めたころ、茶の間に人気を博したのが、先行した「ローハイド」であった。それに続き放送された「ララミー牧場」も1959年から1963年にかけてアメリカのNBCで放送されたものであり、60年代前半のテレビ西部劇の黄金期にローハイドと並んでもっとも視聴率が高かった番組であった(「ララミー牧場」の日本での放送は、1960年6月30日から)。

勇壮なメロディーとフランキー・レーンの力強い唄いっぷり。ネッド・ワシントン(ここ参照)作詞、ディミトリー・ティオムキン作曲によるテーマ曲「Rawhide」は、ポピュラー音楽としても大ヒットした。

ローレン、ローレン、ロレーン・・・・ローハイド! ♪

歌の冒頭部分は確かに、ローレンローレンローレン・・・と、聞こえるが英語の歌詞を見るとRollin' Rollin' Rollinとなっている。日本語読みではローレンではなくローリングなのだが、の意味がよく分からなかったが、これは、どうも、牛をあやつる掛け声のようで、進め!とか 行け! という感じらしい(ここ参照)。
この歌の合間には牛を追う掛け声やピシッ! ピシッ!と鳴り響く鞭の音も入っている。
英語の"Rawhide"(ローハイド) は、直訳すれば「ロウ(raw、生の)」+「ハイド(hide、皮)」、つまり「生皮(きかわ)」「生皮の鞭」「生皮の鞭で打つ」などを意味するが、そこから派生してカウボーイ達のズボンの上から着用する革製のズボンカバー(チャップス)のことを指す言葉でもあり、更にはそこから、カウボーイ達そのものを指す言葉ともなっているようだ。
したがって、タイトルの『ローハイド』の意味するところには、荒野の中を牛の大群を追うカウボーイといったところでもあるようだ。CBSで制作開始時の仮タイトルは「アウトライダー」(牛の群れの外側から牛を追い立てるカウボーイの意味)だったらしいが、CBSのウィリアム・S・ペイリー会長が反対し、「生皮」を意味する「ローハイド」と名付けたのだという(*2参照)。
『ローハイド』、は、南北戦争後の1870年代のアメリカ西部を舞台に、テキサス州サンアントニオからミズーリ州のセデリア(ローハイドの中ではセデリアと言っているが地名は“SEDALIA”と書き、カタカナ書きではセダリアだが?)まで、約3000頭の牛を運ぶカウボーイ達の牛を狙うインディアンや強盗、あるいは、日照りや雷雨・砂嵐といった自然との戦い、また、仲間同士のトラブルなどの克服といった長い道中ロングドライブで起こる,様々な出来事や事件を描いた物語である。
この物語の魅力は、運ばれる牛の大群が画面いっぱいに咆哮する迫力ある映像もさることながら、汗と誇りにまみれた衣服のカウボーイたちの生活をリアルに描いたところにあったのではないか。
テキサス州は今でも家畜生産量では合衆国内で最大級であり、牛が最も収益を上げる生産物となっている。当時、南北戦争後に、牛が不足し、東部での食肉価格が高騰していたため、高く売れる牛を、東部への運送拠点である鉄道のターミナル駅のあるセダリアまで牛を運んだのである。最寄りの駅といっても、テキサスからは約1300Km離れたところであり、途中で牛に草を食べさせ、太らせながらの旅だったようだから、3~4ヶ月かかるのが普通だったようだ。  

こんなロングドライブを描いた映画にハワード・ホークス監督、ジョン・ウェイン主演による『赤い河( Red River。)』があった。
『ローハイド』よりちょうど10年ほど前の1948年に、ニュース雑誌『サタディ・イヴニング・ポスト』に掲載されたボーデン・チェイスの史実に基づいて執筆した小説"Blazing Guns on the Chisholm Trail"(『チザム・トレイル(英語版)』)を映画化したもので、アカデミー賞2部門(アカデミー原案賞:ボーデン・チェイス、アカデミー編集賞:クリスチャン・ナイビー)にノミネートされた、西部劇映画の傑作の一つであるが、この映画はハワード・ホークスにとっての初めての西部劇映画でもあった。
チザム・トレイルとは、1877年にジェシー・チゾルム(Jesse Chisholm)が開発した、テキサスからオクラホマ州を北へ縦断しカンザス鉄道へと向かう連絡路(cattle drive=キャトルドライブ=集めた牛を他の場所に移動させる。)のことで、映画では牧場主のトーマス・ダンソン(架空の人物。ジョン・ウェイが演じている)とカウボーイたちが1万頭の牛を率いて、1000マイル/100日をドライヴ(旅)する過程が描かれる。
赤い河(Red River)とは、テキサス州北西部よりルイジアナ州へと流れミシシッピー河に合流する延長1200マイルの大河のことである。当時新人のモンゴメリー・クリフトは、本作に出演した事によりスターの仲間入りを果たした。
『ローハイド』は『赤い河』をテレビドラマ化したのではないかとも思えるところがある。もし、時間があれば映画評論家町山智浩の『赤い河』の解説をしているものがあり、これを見ると当時の「チザム・トレイル」(キャトルドライブ)のことや当時のカーボーイなどのことがよく分かり、『ローハイド』を見るうえでも参考になるので、見られるとよい(少し長いので、後で見てもよい)。

町山智浩の映画塾!#74『赤い河』<予習編>
町山智浩の映画塾!#74『赤い河』<復讐編>
『ローハイド』の主演は隊長ギル・フェイバー役のエリック・フレミングである。
彼の俳優としてのキャリアは1950年代前半にテレビ映画の単発での出演が多く、映画はB級映画の「宇宙征服」((1955年米国。*4、*5参照)などに準主役として出演しているが、彼をスターにしたのは、まさにこの「ローハイド」であり、日本でもこの番組の主演で一気に俳優として知られた存在になった。
『ローハイ』では1966年までの全8シーズン217話のうち、7シーズン203話まで、3000頭の牛を運ぶ長旅の隊長ギル・フェイバーを演じている。
当時は助演格でレギュラー出演して、まだ若く好奇心旺盛で女に甘い相棒の副隊長ロディ・イェーツ役を演じていたのが、今では大ス ターのクリント・イーストウッドであり、ローハイド撮影時は、エリック・フレミングの方が格が上であった。
これに堅実な仕事ぶりの斥候(せっこう patrol)役ピート・ノーランをシェブ・ウーリー、メンバ最年長の頑固だが料理自慢のコックであるウィッシュボン役のポール・ブラインガーらが絡んで一話完結方式で毎回展開された。
主演のエリック・フレミングは隊長であることから他のメンバーは日本語版では「フェイバーさん」と尊敬を込めて呼び、それがそのまま彼のイメージとなった。そしてドラマの中ではイーストウッドに助言したり諭したりする人生の先輩としての役割を果たしていた。

上掲の画像:前列髭の男性がポール・ブラインガー、後列左より、エリック・フレミング、グ、クリント・イーストウッド、シェブ・ウーリー
1959(昭和34)年11月からNETテレビ(現在のテレビ朝日)の土曜日夜10時から放送を開始し、その後月曜日そして木曜日に移って1965(昭和40)年10月まで同局で放送された。エリック・フレミングが最後の第8シーズンを降板したので、最後のシーズンは相棒であったクリント・イーストウッドが主演し、隊長格になったが、このシーズン限りで製作を中止している(各シーズンの詳細等は※:2を参照)。そして日本ではこの最後のシーズンの作品は放送されていないが、のちにDVD化されている。このころにはさすがに成長し、初期の副隊長役時からは随分と貫禄が出ている。上掲の画像と以下を比較してみるとよい。
ローハイド | クリント・イーストウッド初主演作が初DVD化!
クリント・イーストウッドは、1950年代初めにユニバーサル映画と契約を結ぶが、当初は『半魚人の逆襲』(*5 参照)『世紀の怪物/タランチュラの襲撃』(*5参照)といったB級映画の端役しか与えられないという、不遇の時代を過ごしたが1959年からCBSで放映されたテレビ西部劇『ローハイド』が約7年間に亘り220話近く製作された人気シリーズとなったおかげでイーストウッドの知名度と人気も世界的に高まった。
1964年にはセルジオ・レオーネ監督にイタリアに招かれ、マカロニ・ウェスタンの嚆矢でありかつそれを代表する作品となった『荒野の用心棒』に出演。その後も『ローハイド』の撮影の合間を縫って『夕陽のガンマン』、『続・夕陽のガンマン/地獄の決斗』と都合3作のレオーネ作品に出演した。これらの映画の人気により、イーストウッドの映画俳優としての評価はヨーロッパが先行し、アメリカに逆輸入された形となった。
『ローハイド』は初期には冒頭で隊長ギル・フェイバーの独白で始まっている。隊長の任務、西部を旅する者の心得、カウボーイの生きがい、頭にかぶるテンガロンハットの使い方などを語り、最後は「私の名はギル・フェイバー。この隊の隊長である」で終わって、ストーリーが始まる(フェイバーの「オープニング語り」は*2のここを参照)。
そして毎回ラストでは3000頭の牛を出発させる合図となる掛け声「さあ~行くぞ~。しゅっぱ~つ(出発)」の掛け声とともにフランキー・レーンの主題歌が流れるが、日本語版でのフェイバー役小林修の渋い声がぴったりで、その後のフランキー・レーンのローハイドの唄とともにいつまでも私たちの記憶に残っている。とにかく、日本の時代劇とともにアメリカの時代劇ともいえる西部劇が大好きであった私には忘れられない作品である。
歌を歌っているフランキー・レイン(Frankie Laine)はアメリカ・イリノイ州出身の歌手・俳優で、本名はフランチェスコ・パオロ・ロヴェッキオ(Francesco Paolo LoVecchio)。イタリアシシリー島の移民の子で、1952年のフレッド・ジンネマン監督の西部劇映画で「真昼の決闘」(主演:ゲイリー・クーパー)のテーマ曲「ハイ・ヌーン」(音楽を担当したディミトリ・ティオムキンアカデミー歌曲賞を受賞)や「ローハイド」のテーマ曲のほか、1957年ジョン・スタージェス監督の西部劇映画『OK牧場の決斗( Gunfight at the O.K. Corral)』(主演:バート・ランカスター」のテーマ曲(作曲は「ローハイド」同様ディミトリ・ティオムキン)もヒットさせている。
「ハイ・ヌーン」は映画「真昼の決闘」のサウンド・トラックでは、テックス・リッターの歌で流れ、テックス・リッターのレコードも発売されたが、全米では12位止まりだったが、フランキー・レインのカヴァー盤が全米5位のミリオン・セラー・ヒットを出し本命盤を上回ったそうだ(*6参照)。
また、「ローハイド」や「OK牧場の決斗」のテーマ曲はアメリカではヒットではなかったそうだが、日本ではヒット(*5参照)。どちらも私自身は大好きな曲である。
ところで、「ハイ・ヌーン」。テックス・リッターの歌とフランキー・レインの歌どちらが好きですか。



上掲のものテックス・リッターの、「ハイ・ヌーン」、下がフランキー・レインのものです。


この下はフランキー・レインの「OK牧場の決闘」です。



どうでした。この映画『真昼の決闘』の最大の特徴は、それまでの西部劇では悪漢に立ち向かう主役の保安官は無敵のヒーローとして描くのが普通であったが、そのイメージに反して、暴力を恐れる普通の人間として描かれている事にある。主演が>ゲイリー・クーパーで、歳を重ねて渋味のある中年男の孤独と苦悩を演じてアカデミー賞の主演男優賞を獲得し、後にモナコ王妃となったグレイス・ケリーが妻役を演じていた。きれいな人だったな~。
そういえば、『ローハイド』で乗馬が颯爽としていた斥候ピート・ノーラン役のシェブ・ウーリ-は、この『真昼の決闘』で悪役の一人として出演し、親玉と並んでゲーリー・クーパーと対峙した際、4人の悪党の中では真っ先に撃たれ、声もなく死んでいたが、彼は、非常に多芸でカントリー歌手でもあった。彼の歌っているものを探していたら、一つ見つかった。以下参照。
One Eyed one Horned Flying Purple People Eater - YouTube
『OK牧場の決斗』は史実として名高い1881年10月26日、ワイアット・アープらを始めとする市保安官たちと、クラントン兄弟をはじめとするカウボーイズと呼ばれる土着の牧童達とがアリゾナ州トゥームストーンの町で撃ち合い銃撃戦となったこと(『OK牧場の決斗』)を題材にした西部劇映画である。しかし、これは正式な意味での決闘ではなく、表面的には市保安官が銃所持者を武装解除しようとした際に発生した銃撃戦と言える。そして実際にはアープ組とカウボーイズ組とのさまざまな確執の結果であるというのが今日の見方だそうである。ここでのカーボーイなど、先に紹介した映画評論家町山智浩の『赤い河』の解説を見ていない人は、それを見れば、当時のカーボーイが私たちが今想像しているようなカーボーイではないことがよくわかるだろう。史実では決闘後、アープ組は殺人罪で起訴されたが、全員無罪となったもののその後、アープ組はカウボーイズの追及を受け、いろいろ事件を起こしているようだ。映画では恰好いい保安官とされているアープも実際には元は無頼のギャンブラー(賭博師)だったのだ。
また、アープに味方してクラントン一家と撃ち合ったドク・ホリデイも歯学博士の称号を持っていたため、"ドク"と呼ばれていたが、アメリカ開拓時代のガンマンであり、ギャンブラーだったのである。
私は主演のアープ役のバート・ランカスターのファンだったがドク・ホリデイを演じていたカーク・ダグラス)も好きであった。

ところで、『ローハイド』がNETテレビで放送された当時、このテレビ番組のスポンサーは”トリスウィスキー”の「洋酒の寿屋」(今の)だったのを覚えていますか。
まだ安酒のトリスが販売の主軸であった時代、サントリーはこのマスコットキャラクターのアンクルトリスで成功を収めたといってもいいくらい。
洋酒天国というサントリーの発刊する雑誌や、トリスバーというウィスキーバーにもアンクルトリスを起用した。 洋酒天国にはアンクルトリスのイラストが表紙に起用され、トリスバーの看板や壁にもアンクルトリスのポスターが張られていたのを覚えている。
柳原良平がデザインしたイメージキャラクター「アンクルトリス」は、中年の男性をユーモラスに表現したキャラクターで、1960年代の酒類の広告キャラクターの中でも認知度が一番高い。なつかしいな~このCM。以下でどうぞ。


最近は、ソフトバンクの西部劇のCMテレビ映画「ローハイド」の主題歌が使われている。以下参照。、
上戸彩の影武者か ソフトバンク新CM白戸家「西部劇」篇が話題いろいろ話題の多いテレビ映画「ローハイドであったが、私にとっては、今でも忘れられないとても懐かしいテレビ番組であった。それにしても、最近はこのような西部劇が普通のテレビでは見られなくなっってしまったのが寂しいな~。

「みかんの日」のひとりごと 

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12月3日は「みかんの日」。「いいみっか(3日)ん」の語呂合せで、全国果実生産出荷安定協議会と農林水産省が制定し、11月3日と12月3日の年2回実施しているらしい。この日に、各地のみかん関係の業者がいろいろイベント等を行っているのかもしれないが、私はどのようなイベントをしているのかはよく知らない。
ただ、この「みかんの日」については、以前にこのブログで書いたことがある(自給率70%台の野菜と果物 TPPでどうなる | FOOCOM.NET
なにか陰でこそこそ行われているTPP。私達にはよくわからないが、生産者保護もよいが、消費者である国民のこともよくよく考えてどうするかを決めてくださいよね・・・。
2000年に、文部省(現文部科学省)、厚生省(現厚生労働省)、農林水産省が示した食生活指針(*8参照)において、果物は野菜と同様に毎日の食生活にとって必需品であると位置づけられた。国の指針上、私たちの食生活における果物は「あってもなくてもいいもの」から「なくてはならないもの」へと立場が変わったのである。
総務省「家計調査」をもとに作成した「1人あたりの生鮮果実年間購入量」(単位はキログラム。2人以上の世帯) を見ると以下のようになっている。
1993年1位温州ミカン6,9   2位オレンジ5,3  3位バナナ4,4
2011年1位バナナ6,4     2位オレンジ4,0  3位温州ミカン3,8
2013年1位バナナ5,0     2位オレンジ4,4  3位温州ミカン4,0
食生活の必需品になったにもかかわらず、果物の消費量はなおも減っている。最も消費が落ち込んでいるのが、冬の食卓に欠かせないみかんだ。総務省の「家計調査」によると、みかんの消費量はピークの1980年から30年で3分の1まで減少した。一方、バナナの消費は2倍以上に増えている。果物消費量ランキングでは、長年みかんがトップを維持してきたが、2004年からはバナナにトップを奪われてしまったようだ(*7参照)。
何か前にも書いた「みかんの日」に、炬燵に入って大好きなおいしいみかんが毎日食べれるように・・・。ささやかな願いごとのボヤキとなってしまったが、「食べよ食べよ」という前に、誰でもが食べれるように安くして欲しいよね~。
12月に入るとあっという間に正月が来る。師走とはよく言ったもので、例年、この忙しい月は人並みに私も忙しく、ブログもお休みしている。今年も、明日から正月の松の内(私の場合15日まで)が明けるまではお休みしますのでよろしくお願いします。
今年はご訪問有難うございました。皆さまも良い年お迎えてください。ブログ再開時には、またよろしくm(._.)mお願いします。
参考
*1:NHK連続テレビ小説「あさが来た」
http://www.nhk.or.jp/asagakita/
*2:【広岡浅子の生涯】NHK朝ドラ「あさが来た」原案は小説・土佐堀川(古川智映子)
http://matome.naver.jp/odai/2142122482143657901
*3:三井家発祥の地・松阪:江戸期|三井の歴史|三井広報委員会
http://mitsuipr.com/history/edo/index.html
*4:平成25年都道府県別蜜柑(みかん)収穫量ランキング 
http://jp1.com/ranking/%e9%83%bd%e9%81%93%e5%ba%9c%e7%9c%8c%e5%88%a5%e8%9c%9c%e6%9f%91%e3%81%bf%e3%81%8b%e3%82%93%e5%8f%8e%e7%a9%ab%e9%87%8f%e3%83%a9%e3%83%b3%e3%82%ad%e3%83%b3%e3%82%b0/
*5:和歌山県産ミカン、11年連続日本一 収穫量で「表年」の前年を上回る ...
http://www.sankei.com/west/news/150526/wst1505260029-n1.html
*6:カットフルーツ | カット野菜大事典
http://cut.i-yasai.com/fruit/
*7:果物を食べなくなった日本人|食の安全|JBpress - isMedia
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/41648
*8:農林水産省/食生活指針について
http://www.maff.go.jp/j/syokuiku/shishinn.html
大河ドラマ特集:あさが来た
http://tvtaiga.com/category/asa/asa2/
12月3日 みかんの日|なるほど統計学園 - 総務省統計局
http://www.stat.go.jp/naruhodo/c3d1203.htm
TPPについて分り易く解説
http://yokohama-web.net/archives/461
TPP問題における論点と諸問題
,http://mark-t3963.com/category/tpp/
JATAFF:読み物コーナー:農作物の話:みかんとその仲間たち
https://www.jataff.jp/reading/index.html

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明けましておめでとうございます
本年も昨年同様よろしくお願いします。

フードドライブの日

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新しい年に変わっての初めてのブログとなります。
みなさん良いお正月過ごされましたでしょうか。
昨年12月中旬以降暫くこのブログ休止していましたが、今日からまた始めます。昨年同様よろしくお願いします。
今年・2016年の干支(かんし、えと)は十二支の9番目の「申(さる)」。
干支で年を表すのは日本独特の風習ではなく、もともとは古代中国(起源は商=代と言われる)で作られたものが伝わっったもの。ちなみに正確にいえば、十干十二支(じっかんじゅうにし)とも言われ、全部で組み合わせが60種類あるので、60年で一周。今年はその60年に一度の丙申(ひのえさる)という年となる。
12年前「赤い下着ブーム」があった。年配の人はよくご存知だろうが、俗説に申年の「サル」にかけて「病が去る(サル)」など語呂が良いことや、また還暦祝いに赤を使ったりするように「赤」(風水では火)は病気を防ぐ厄除けの言い伝えがあるので、赤い肌着が良いとされているからである。「丙申」の「申」が赤を意味し、「」が火を意味するのだとしたら、「丙申」は60年のうちでも「一番燃える赤」の年とも言えるだろう。
しかし、「申」は猿と同義ではない。「申」は「呻」(しん:「うめく」の意味)で、もともとは、稲妻を表す象形文字であり、の初形ともされているようだ。そして、光が斜めに走る事から申は伸に通じ、まっすぐに伸びきる意を含み、果実が成熟して固まって行く状態を表してもいるようだ。後に、覚え易くするために動物のが割り当てられた。
その中でも60年に一度の「丙申」は、易などでは、一般に「物事が大きく進歩発展し、成熟する年」・・・と言われているのだが・・・。今年は一体どんな年になるのだろうか?
前回の丙申は1956(昭和31)年。同年7月に発表された経済白書(副題日本経済の成長と近代化)の結語には、太平洋戦争後の日本の復興が終了したことを指して『もはや「戦後」ではない』と記述され流行語にもなった(参考の*1参照)。
ここで比較されている「戦前」とは、1934年~36年平均を言っており、故に、日本経済は、戦争のために20年間も足踏みしていたが、焼跡の廃墟に住み飢餓に苦しんだ人々が、敗戦後10年で立ち直ったのは早かったが、この時の「もはや」という言葉は「物事の形がやっと明らかになり、固まっていく」……、そんな年だったのかもしれない・・・。
それでは、2016年の今年はいったい何が起こるのか、「未年」に完結できなかった何かがかたまっていくのだろうか・・・。

今年、新年早々の株式市場は、「世界同時株安」で始まった。以下参照。
株式 :マーケット :日本経済新聞
中国の人民元安が止まらず、上海株式相場が急落したことや、中東での地政学リスク(*2、*3参照)の高まり、北朝鮮水爆実験などに敏感に反応したものなのだが・・・。安倍政権の舵取りはどうなることやら・・(*4など参照)

新年早々、グダグダと書いてしまったが、こんな経済の見通しの話など専門家でもない私が書くことでもないので本題に移ろう。
ところで、「フードドライブ」って、知っていますか?
日本記念日協会(*5)の今日・1月15日の記念日に 「フードドライブの日 」があった。
由緒書を見ると、“缶詰や調味料、レトルト食品など、消費期限までの日数があり保存可能で未開封の食品を、経済的理由などで食べ物に困っている家庭などに届ける奉仕活動の「フードドライブ」。この活動を広めようと女性だけの30分フィットネスを全国展開する株式会社カーブスジャパン(*2)が制定。当初は自社が初めて日本縦断でフードドライブを開始した日にちなみ11月1日だったが、より多くの個人、企業に参加して欲しいとの願いから1と15で「いいごはん」の語呂合わせとなるこの日を記念日とした。”…とあった。
「フードドライブ」…、最近何かの番組(テレビ)でこのような話を聞いたことがあるのだが、私は余りよく知らないのでネットで調べてみると、これは、アメリカ生まれのボランティアのひとつらしい。
フードドライブは、企業・教会・学校などが主催、地域社会に缶詰やレトルト食品などの保存食品の寄付を募るシステムで、集められた食料は、地元のNPO食料援助団体・フードバンク(*7も参照)の配送センターに運ばれ、そこから低所得家庭に配られるようだ
日本ではまだ余り知られていないようだが、その活動の輪は少しずつ広がっているようで、女性だけの30分フィットネスチェーン「カーブス」を展開する株式会社カーブスジャパンでは、2007(平成19)年から全国でフードドライブを実施し、年に一度、全国に約800店舗(2009年12月現在)あるカーブス店舗にて会員および一般の人たちから食品を募り、児童養護施設や女性シェルター介護施設等の施設・団体に寄付しているようだ(*8 )..。
フードバンク発祥の地米国では1960年代、アリゾナ州フェニックスのスープキッチン(soup kitchen。炊き出し参照)でボランティア活動をしていたジョン・ヴァンヘンゲル ( John van Hengel ) は、ボランティア先のシングルマザーから、まだ食べられる食品がスーパーで大量に廃棄されていることを聞いた。
ヴァンヘンゲルはスーパーにこうした食品を寄附してもらうよう交渉するとともに、地元の教会に食品を備蓄する倉庫を貸してくれるよう頼んだ。こうして1967年、倉庫を提供した教会の名を採り、「セントメアリーズフードバンク」が誕生した。その後、農家から収穫し残した農作物の寄附を受け、1976年に「セカンドハーベスト」を設立。セカンドハーベストは後にフィーディングアメリカ ( Feeding America ) に名を変え、全米の約200のフードバンク団体を統轄する組織となっているそうだ。

●上掲の画像は、アル・カポネが行った失業者向けのスープキッチンに列をなす人々。1931年、アメリカシカゴ市内。店頭の看板には「失業者のための、無料のスープ、コーヒー、および、ドーナツ」と書いてある(画像.Wikipediaより)
このように米国では、1960年代から盛んに行われており、すでに55年もの歴史があるそうだが、日本では、2000(平成12)年1月に炊き出しのために食材を集める連帯活動から始まり、以降フードバンクが設立されはじめたところであり,まだ歴史は浅い。
元アメリカ海軍の軍人で、上智大学の留学生のチャールズ・E・マクジルトンが2002(平成14)年3月に日本初のフードバンク団体を設立、同年7月に東京都から特定非営利活動法人(NPO法人)の認証を受けた。そして2004(平成16)年からは、団体名をセカンドハーベスト・ジャパン(2HJ.。同HPは*9参照)と改めた。
これとは別に、2003(平成15 )年4月にはアメリカ人のブライアン・ローレンスにより関西地方を地盤とするフードバンク関西(*10参照)が発足。翌年1月には兵庫県より特定非営利活動法人の認証を、2007(平成19)年には国税庁より認定NPO法人の認証を受けているそうだ。
いずれも当初はハインツ日本コストコなど外資系企業からの寄附が中心だったが、ニチレイなど日本の企業からの寄附も始まり、「もったいない」の観点からも注目されつつあるようだ。2007年以降は沖縄県や広島県、愛知県、北海道でも動きが始まっている。という(法人格を持つフードバンク活動実施団体参照)。
日本は食料自給率が低く、カロリーベースで39%(*11参照)と言われている(2014年度)。その多くを輸入に頼る一方、1788万トンの食料を廃棄している。うち可食部分と考えられる量(いわゆる「食品ロス」)500~800万トン(うち、家庭から出る食品ロスが200〜400万トン、事業者=企業などから出る食品ロスが300〜400万トン)もあるという(*12参照)。
日本はかって1億総中流社会と言われていたが 、それはひと昔もふた昔も前に終わっていたようだ。
統計上、貧困層の割合を把握するために使用される指標に貧困線(ひんこんせん、英: poverty line、poverty threshold)というものがある(ここも参照)。それ以下の収入では、一家の生活が支えられないことを意味している。
この貧困線(ライン)には必要最低限の生活水準を維持するために必要な収入を示す絶対的貧困ライン、所得または消費の分布で下位一定割合の水準を示す相対的貧困ライン、世界銀行が設定する国際貧困ラインなどがある。
絶対的貧困率の基準は国や機関、時代によって異なるが、2008(平成20)年、世界銀行は、貧困線を「2005年の購買力平価(PPP)が1.25$以下の層」と設定しているようだ。
また、相対的貧困率は、OECD(経済協力開発機構)では、等価可処分所得(世帯の可処分所得を世帯人数の平方根で割って算出)が全人口の中央値の半分未満の世帯員を相対的貧困者としている。相対的貧困率は、単純な購買力よりも国内の所得格差に注目する指標であるため、日本など比較的豊かな先進国でも高い割合が示される(国の所得格差順リストも参照)。
日本が他国より率が高いのは相対的な貧困率の方であり、「平成25年国民生活基礎調査結果」(*13)による平成24(2012)年の日本の貧困線は122万円、相対的貧困率は16.1%にもなっている。1985(昭和60)年の相対的貧困率は12.0%であったので、この間に34,2%も貧困率が悪化しているのである。

また、今、いじめ児童虐待不登校、中途退学非行学級崩壊など、教育が困難な問題に直面しているようだが、特に最近は、子どもの貧困問題が深刻であり。同統計による子どもの貧困率」(17 歳以下)は1985(昭和60)年が10.9%であったものが、49,5%増の16.3%と過去最悪となっている。
そして、「子どもがいる現役世帯」(世帯主が18 歳以上65 歳未満で子どもがいる世帯)の世帯員についてみると、1985(昭和60)年が10.3であったものが46,6%増の 15.1%となっており、中でも深刻なのはそのうちの母子家庭や父子家庭などの「ひとり親世帯」の貧困率は、1985(昭和60)年(54.5%)より、若干の増のとはいえ、今でも貧困率は54.6%にも達しており、2人に1人を超えているのである。
「大人が二人以上」の世帯員も9.6%から12.4%へと29,2%増となっているが、これに対してひとり親世帯の貧困率は、4,4倍の子が相対的貧困状態にあるのである。(*13の「平成25年国民生活基礎調査」のⅡ 各種世帯の所得等の状況7 貧困率の状況参照)。
このように、ひとり親家庭等大人1人で子どもを養育している家庭において、特に、経済的に困窮しているという実態がうかがえることから、ひとり親家庭の経済的な自立を可能とする就業支援策などの充実・強化や、経済的支援の拡充が課題となっているようだ。(*14:「平成24年版厚生労働白書 -社会保障を考える」の第5章 国際比較からみた日本社会の特徴を参照)。
また、男女別・年齢別の相対的貧困率をみると、男女とも高齢期に上昇する傾向があるが、総じて男性よりも女性の貧困率は高く、その差は高齢期になるとさらに拡大している(*15:「平成24年版 高齢社会白書」の(8)相対的貧困率は高齢期に上昇する傾向参照)。
このような所得再分配前の相対的貧困率について、1990年代中頃以降の大まかな推移を見ると、2000年代中頃まではアメリカが最も高く、それ以降はイタリアが最も高い。
日本は、一貫して上昇傾向を示し、2000年代中頃からOECD平均を大きく上回っている。一方、社会保障による所得再分配後の相対的貧困率について、1990年代中頃以降の大まかな推移を見ると、一貫してアメリカが最も高く、デンマークが最も低く、日本は、継続的にアメリカに次いで高い値を示しているという。
OECD では、2000 年代半ばまでのOECD 加盟国の相対的貧困率を公表しており、これによると、相対的貧困率の小さい順に並べた場合、日本は、OECD加盟国30か国中27位となっているという。
先進国にも関わらず日本では、約2000万人の人が、貧困線)以下で暮らしているといわれ、これは、日本全体でみると、6人に1人の割合にもなるのだが、どうしてこう高くなっているのか、この事実をどう受け止めていけば良いのかはよく考えないといけないだろう。
いま、先進国で所得格差が広がっていることが、大きな話題になっている。
一国の所得分配の行方に係る最大の関心事は、分配の公平性に対する評価とともに、その結果が経済成長にもたらす影響である。わが国を含む多くの先進諸国では、累進的な所得税や社会保障による所得の再分配(富の再分配)政策がとられており、その結果、市場を通じた所得分配の格差が是正されてきた。
近年は、所得格差の大きさと経済成長率との関係が取りざたされ、分配の公平性と効率性が、一方を重視すればもう一方が犠牲になるといういわゆるトレードオフの関係にある。これをどのようにしてゆくかについて活発に議論されているようであるが、どうも表面上にみられる所得格差についても、いろいろ、みかけ上の格差拡大や減少をもたらしているところも多いようである。その為に真実の所得格差の拡大要因が何かを正しく把握した上で、日本も、どのような政策目標を国民との合意形成の上で実施してゆく必要があるようだ(*16、*17参照)。
所得格差・貧困・再分配政策 について政府は以下のような見解を示している。
所得格差・貧困・再分配政策 (PDF形式:1026KB) - 内閣府
このような難しい問題は横においておいて、貧富の格差問題同様、食べ物の世界でも、様々な理由によって、膨大な食べ物が捨てられる一方で、食べるものに困っている人が大勢いる。まだ食べられる物であっても、多くの食べ物が捨てられてしまう理由は多くある(*9のここ参照。)
冒頭で述べたフードバンクでは、一方に余っている食べ物があり、他方で食べ物に困っている人がいて、それをつなぐ活動(食べ物の仲人役)を果たしている。できるだけ協力をしてあげたいものですね~。
米国では、フードバンクに対する寄付のみならず、公益非営利法人への寄付を助長するため、寄付金の損金算入(寄附金控除)を行うことができる税制優遇制度があり、また、予算・行政機関等による支援策として、米国では・年間5,100 万ドル(フードバンク予算、2014 年度)・助成金制度・農務省が生産者より買い上げた余剰農産物の提供等もあるようだ(*18参照)が日本にはない。日本でもこれらの支援が必要ではないだろうか。
ただ、フードバンク先駆者米国でも、近年では、以前まで寄附の対象となっていた食品が「わけあり商品」として寄附にまわらずに通販などで流通したり、食料価格の変動で政府からの寄附が減るなどの問題に直面しているという。
日本では、大幅な財政赤字(ここ参照)が続いており、政府債務残高のGDP(国内総生産)比は財政破綻に追い込まれたギリシャをも上回る水準にある(*19参照)。財政赤字削減のため、福祉関連の助成も制約を受けて、これら福祉団体の経営においても苦しい状況となっているようであるともきくが、これからどうなることやら心配だ・・・。


参考:
*1:1956年 「もはや戦後ではない」/「国連加盟」 - 法学館憲法研究所
http://www.jicl.jp/now/jiji/backnumber/1956.html
*2:地政学リスクとは|金融経済用語集 – iFinance
http://www.ifinance.ne.jp/glossary/investment/inv016.html
*3:サウジとイランの対立激化がシリア紛争に与える影響
http://bylines.news.yahoo.co.jp/takaokayutaka/20160107-00053182/
*4:年明け早々株価急落。やっぱり「申(さる)年騒ぐ」の格言は本当だった!(現代ビジネス)
http://www.asyura2.com/15/hasan104/msg/230.html
*5:日本記念日協会
http://www.kinenbi.gr.jp/
*6:株式会社カーブスジャパンHP
http://www.curves.co.jp/
*7:農林水産省/フードバンク
http://www.maff.go.jp/j/shokusan/recycle/syoku_loss/foodbank/
*8 気軽なボランティア、「フードドライブ」とは? - Excite Bit コネタ(1/2)
http://www.excite.co.jp/News/bit/E1260452948260.html?_p=2
*9:セカンドハーベスト・ジャパンHP
https://2hj.org/about/history.html
*10:フードバンク関西
http://foodbankkansai.org/
*11:農林水産省/日本の食料自給率
http://www.maff.go.jp/j/zyukyu/zikyu_ritu/012.html
*12:食品ロス削減の取組(農林水産省)
http://www.jora.jp/news_release/pdf/1003siryo_003.pdf#search="1788%E4%B8%87%E3%83%88%E3%83%B3%E3%81%AE%E9%A3%9F%E6%96%99%E3%82%92%E5%BB%83%E6%A3%84"
*13:国民生活基礎調査|厚生労働省
http://www.mhlw.go.jp/toukei/list/20-21.html
*14:平成24年版厚生労働白書 -社会保障を考える- (本文)|厚生労働省
http://www.mhlw.go.jp/wp/hakusyo/kousei/12/
*15:平成24年版 高齢社会白書(全体版) - 内閣府
http://www8.cao.go.jp/kourei/whitepaper/w-2012/zenbun/
*16:所得格差が先進国で拡大している理由(東洋経済)
http://toyokeizai.net/articles/-/39531
*17:日本の所得格差をどうみるか - 労働政策研究・研修機構
http://www.jil.go.jp/institute/rodo/documents/report3.pdf#search='%E6%89%80%E5%BE%97%E6%A0%BC%E5%B7%AE'
*18: 213 1.8 諸外国のフードバンク活動の推進のための施策 ... - 農林水産省
http://www.maff.go.jp/j/budget/yosan_kansi/sikkou/tokutei_keihi/seika_h25/shokusan_ippan/pdf/h25_ippan_213_03.pdf#search='%E3%83%95%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%90%E3%83%B3%E3%82%AF+%E7%8F%BE%E7%89%A9%E5%AF%84%E9%99%84+%E7%A8%8E%E5%88%B6'
世界の財政収支(対GDP比)ランキング - 世界経済のネタ帳
http://ecodb.net/ranking/imf_ggxcnl_ngdp.html
*19:日本の財政、残された時間的余裕は少ない | 読んでナットク経済学
http://toyokeizai.net/articles/-/24043
視点・論点 「財政赤字はなぜ膨らんだのか」 | NHK 解説委員
http://www.nhk.or.jp/kaisetsu-blog/400/183891.html
3 税・社会保障による所得再分配 - 内閣府
http://www5.cao.go.jp/j-j/wp/wp-je09/pdf/09p03023.pdf#search='%E6%89%80%E5%BE%97%E5%86%8D%E5%88%86%E9%85%8D%E5%89%8D%E3%81%AE%E7%9B%B8%E5%AF%BE%E7%9A%84%E8%B2%A7%E5%9B%B0%E7%8E%87'
所得格差・貧困・再分配政策 (PDF形式:1026KB) - 内閣府
http://www.cao.go.jp/zei-cho/gijiroku/zeicho/2015/__icsFiles/afieldfile/2015/07/16/27zen14kai5.pdf#search='%E6%89%80%E5%BE%97%E5%86%8D%E5%88%86%E9%85%8D%E5%89%8D%E3%81%AE%E7%9B%B8%E5%AF%BE%E7%9A%84%E8%B2%A7%E5%9B%B0%E7%8E%87'
NPO法人セカンドハーベスト ジャパン様|インタビュー|RibbonMagnet ...
http://www.ribbonmagnet.jp/interview/file015/
フードバンク - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%90%E3%83%B3%E3%82%AF

六次産業の日

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日本記念日協会(*1)の今日・1月23日の記念日に、「六次産業の日」があった。
由緒書には以下のようにある。
酒屋「芋んちゅ」などの飲食店経営、食を通じた郷土活性化事業、フランチャイズのコンサルタント業務などを行う、愛知県名古屋市に本社を置く株式会社グロース・フード(*2)が制定したもので、日本の六次産業を盛り上げるのが目的。
六次産業とは農業や水産業などの一次産業、それらを加工する二次産業、そして販売、流通を手掛ける三次産業を統括して実施する産業のこと。日付は1と2と3で、一次産業×二次産業×三次産業で六次産業を意味している。・・・とあった。

人々が生活するうえで必要とされるものを生み出したり、提供したりする経済活動産業と呼ぶが、現代の日本で、経済の中核をなしているのは、古典的産業分類でいうところの第三次産業と呼ばれるものであろうが、この「第三次産業」という用語は、イギリスの経済学者コーリン・クラークがその著『経済的進歩の諸条件』(1941年)において使い始めたといわれている。
これより先、英国の経済学者ウィリアム・ペティは,17世紀に一国の産業が農業(英:agriculture)から製造業(英:manufacturing industry),商業(英: commerce)へと発展するにつれて富裕になることを『政治算術』(1690年.)で指摘(ここ参照)。
コーリン・クラークは、これにヒントを得て一国の産業構造を、農業などの第一次産業、製造業などの第二次産業,商業・運輸などの第三次産業の三分類に大別し、経済(英: economy)の発展に伴い、国民経済に占める第一次産業の比重は次第に低下し、第二次産業、次いで第三次産業の比重が高まるということを示した。これは、両者にちなんで「ペティ=クラークの法則」と呼ばれている(ペティの法則)。
産業を第一次、第二次、第三次産業の三つに大別したコーリン・クラークの分類では、
第一次産業は、自然に直接、働きかける産業を指し、農業・林業・漁業(水産業の一種)、狩猟鉱業などを言い、水産業の一種である水産加工のように天然資源(自然資源)を元に加工して食品を製造する業種は製造業に分類され、第一次産業には含まれない。
第二次産業は、第一次産業が採取・生産した原材料を加工して富を作り出す産業が分類され、製造業、建設業、電気、ガス業がこれに該当。
第三次産業は、第一次産業にも第二次産業にも分類されない産業が分類され、小売業やサービス業などの無形財がこれに該当。これらの産業は商品やサービスを分配することで富を創造することに特色がある。
ただ、クラークの産業分類に関しては、第三次産業に単純労働が含まれ、後進的な産業が先進的な産業と同じ扱いになっているという批判があるようだ。さらに、“マネジメントの父”と称されるピーター・ドラッカーもその著『イノベーションと企業家精神』の中で 構造変化がイノベーションの機会だと言っている(*3参照)が、経済発展につれて産業内部で生じている構造変化をとらえきれないという弱点がある。
ちなみに、産業構造に変化を及ぼす要因としては、次のことが挙げられている(*4:「経済指標のかんどころ」の第3章産業構造参照)。
(1)産業間の所得格差 … 技術革新によって生産性が高まると産業間に所得格差が生まれ、より高い所得を求めて産業間の労働力移動が起きる。第1次産業は第2次産業と比べて、技術革新によって生産が飛躍的に拡大する要素が少ない。
(2)需要構造の変化 … 所得水準が上昇すると消費構造が変化し、モノよりもサービスへの需要が増大する(*5の厚生労働省の『労働経済白書』の平成22年版 労働経済の分析-産業社会の変化と雇用・賃金の動向-の第2章 産業社会の変化と勤労者生活他それ以降の白書参照。)。
(3)国際関係 … 自国で生産するよりも外国で生産するものが安い商品は、輸入品が選択されることになり、その産業の国内でのウエイトは低下する。
(4)国の政策:日本の農業政策のように、政府による特定産業の保護育成政策が行われる場合がある。

また、第三次産業は、公益事業のような資本集約的な産業も、飲食業のような労働集約的な産業も、教育のような知識集約的な産業も含むという雑多な産業の集合体であり、中でも最近のサービス化はIT分野(*6参照)の比重が増しており、それが産業全体の生産性を高めるもの、と期待されているが、このような雑多な産業を単一のくくりで単純化することについても批判があるようだ。なお、近年この点に関しては、情報通信業などの情報や知識を取り扱う産業を第四次産業あるいは第五次産業として捉えなおす考え方も提唱されている。
逆に言えば、過去の古い「産業」や「分業」のイメージでは適用領域が狭い範囲に限られていたことを意味し、あるいはさらなる作業(特に知識や情報の生産流通のあり方)の細分化を知らずして社会学や経済学などが進められていたこと意味していたともいえるのかもしれない。
現在、日本で、産業を分類する基準として代表的なものに、「日本標準産業分類」(*7)がある。
日本標準産業分類は、統計調査の結果を産業別に表示する場合の統計基準として、事業所において社会的な分業として行われる財貨及びサービスの生産又は提供に係るすべての経済活動を分類するものである。つまり、日本標準産業分類の目的は、統計調査の結果を産業別に表示する際の基準を設定することにある。
この日本標準産業分類における産業の定義は、事業所において社会的な分業として行われる財貨及びサービスの生産又は提供に係るすべての経済活動をいう(総務省)。これには,営利的・非営利的活動を問わず,農業,建設業,製造業,卸売業,小売業,金融業,医療,福祉,教育,宗教,公務などが含まれる。なお,家庭内においてその構成員が家族を対象として行う生産・サービス活動は,ここでいう産業には含めない。
この分類の基準は、第一に、 生産される財貨又は提供されるサービスの種類(用途,機能など)。第二に、財貨生産又はサービス提供の方法(設備,技術など)。第三に、原材料の種類及び性質,サービスの対象及び取り扱われるもの(商品など)の種類である。
日本標準産業分類では、大分類、中分類、小分類、細分類の四段階構成となっている。直近では、平成25年(2013年)10月に改定(昭和24年=1949年10月の設定以後13回)がなされ平成26年4月1日より施行されている。その中で情報通信業は大分類Gに属している(その分類等は*7のここ参照)。
日本における分類では、慣例として、クラークが一次産業に分類している鉱業を二次産業に分類しており、第二次産業に分類している電気・ガス業が第三次産業に分類される点で異なっている。
第三次産業は現代の日本では経済の中核をなしているが、その複雑さ多様さゆえに経済統計の整備が最も遅れている産業である。工業統計調査(*8)のような全事業所を対象とするような調査は行われておらず、業界団体が出す資料しかない産業もある。そのため、複数の統計を加工して推測するしかないようだ。
第三次産業の活動を把握できる統計としては
国民経済計算(内閣府、*9参照)
第3次産業活動指数(経済産業省。*10参照)- なお、上記のような国際的な定義との違いに配慮し、電気・ガス・熱供給・水道業を除く指数を参考系列として公表している。
特定サービス産業実態調査(経済産業省。*11参照)
法人企業統計調査(財務省。*12参照) - ただし、金融を除く ・・・などがある。

さて、今日の記念日に登録されている六次産業のことであるが、六次産業とは、農業や水産業などの第一次産業が食品加工・流通販売にも業務展開している経営形態を表す、農業経済学者の今村奈良臣が提唱した造語である。
流通とは商品やサービスが生産者からそれを使用する消費者へ流れていく過程であり、流通の役割には以下の3点がある。
1) 生産者と消費者を結び付ける(商取引)
2) 生産地と消費地の場所の違いを補う(輸送)
3)生産時と消費時の時間の違いを補う(保管)
流通部門は,消費者が生産者からを直接購入しない限り,必ずそのサービスが必要な部門であり,その対価は流通マージンとして生産者価格とともに消費者によって支払われる。これは,消費者が消費財を購入する場合に限らず,産業が中間投入財や資本財を購入する場合も同様であり,流通部門は国内のあらゆる取引に介在する。
農業、水産業は、産業分類では第一次産業に分類され、農畜産物、水産物の生産を行うものとされている。だが、六次産業は、農畜産物、水産物の生産だけでなく、食品加工(第二次産業)、流通、販売(第三次産業)にも農業者が主体的かつ総合的に関わることによって、加工賃や流通マージンなどの今まで第二次・第三次産業の事業者が得ていた付加価値を、農業者自身が得ることによって農業を活性化させようというものである。また、このような経営の多角化を六次産業化と呼んでいる。
六次産業という名称は、もともとは、農業本来の第一次産業だけでなく、他の第二次・第三次産業を取り込むことから、第一次産業の1と第二次産業の2、第三次産業の3を足し算すると「6」になることをもじった造語であったらしいが、現在は、第一次産業である農業が衰退しては成り立たないこと、各産業の単なる寄せ集め(足し算)ではなく、有機的・総合的結合を図るとして掛け算であると今村氏が再提唱しているようだ(Wikipedia)。

農山漁村には、有形無形の豊富な様々な資源地域資源」(農林水産物、バイオマス、自然エネルギー、風景・伝統文化など)が溢れている。
近年、ご当地ブーム、町おこし地域ブランドに代表される地域活性化の試みにおいて特徴・素材となるものを地域資源として定義し、活用する考え方が広まっており、安倍内閣の新成長戦略(*14参照)に伴う経済成長戦略大綱関連3法案(ここ参照)のひとつ「地域産業資源を活用した事業活動の促進に関する法律」(略称:中小企業地域資源活用促進法、 *15参照)が2007(平成19)年6月施行され、地域資源を活用した中小企業の事業計画を認定し、支援によって地域ブランド等の育成を計っている。
そのような中、農林水産業の六次産業化の推進が叫ばれた背景には、加工食品(*13)や外食の浸透に伴って消費者が食料品に支払う金額は増えてきたものの、それは原材料の加工や調理などによって原料価格に上乗せされた付加価値分が増えただけで、農林水産物の市場規模はほとんど変わらなかったことがあるようだ。付加価値を生み出す食品製造業や流通業外食産業の多くが都市に立地し農山漁村が衰退していく中、農家などが加工や販売・サービスまで行って農林水産物の付加価値を高めることで、所得向上や雇用創出につなげることが目指された。
このような考えは、各地で実践を伴いながら広まりつつあり、農業経営などが多角化するだけでなく、商工業の事業者と連携する動きもある。こうした「農商工連携」に取り組もうとする動きを後押ししようと、2008(平成20)年に「中小企業者と農林漁業者との連携による事業活動の促進に関する法律(農商工等連携促進法)」(*16。*17参照)が制定されたのに加え、日本再生戦略の一環として六次産業化を推進するため2010(平成22 )年には六次産業化・地産地消法 (正式名称:「地域資源を活用した農林漁業者等による新事業の創出等及び地域の農林水産物の利用促進に関する法律」(*18のここ参照)を成立させ、農林水産省が六次産業化する事業を認定し、補助金や情報提供などで支援ている。
なお、先に紹介の農商工等連携促進法と六次産業化法の主な相違点としては、
◎支援要件として、前者が中小企業者(*17のここ参照)と農林漁業者等が共同して事業計画を作成することを要する一方、後者は農林漁業者等だけで作成することが可能な点。
◎その他、支援措置について、前者の支援が主に金融支援であるのに対し、後者は、金融支援とともに、農地法、野菜生産出荷安定法(*18参照)や種苗法の特例等、幅広い支援を規定しているようだ。
そして、2012(平成24)年8月には、加工分野や販売分野への進出を金融面で支援する六次化ファンド法(株式会社農林漁業成長産業化支援機構法。平成24年法律第83号)が成立(*19の農林漁業成長産業化ファンド参照)。国と民間企業が共同出資でファンドをつくり、農林漁業者と食品会社などが共同でつくる企業に出融資する制度も創設された。
そのような努力もあって、六次産業化では、「自家生産米からどぶろく製造・販売」(北海道)「農産物の生産・加工と観光農園等による地域活性化と豊かな郷土づくり」(東北)「牧場でのジェラート製造・販売(関東)など、今年・2016(平成28)年1月14日現在での総合化事業計画の認定件数合計(累計)は、2,130件に上っている。内訳は、うち農畜産物関係が1,871件、林産物関係96件、水産物関係163件である。なお、総合化事業計画の認定件数の多い都道府県の上位5県は、1位は北海道120件、兵庫県100件、長野県91、件宮崎県82件、熊本県76件となっており、わが地元兵庫県が2位と健闘していた。以下参照。
農林水産省/フォトレポート:6次産業化取組事例100選

六次産業化の形態別の現状を見ると、農産物の輸出といったものもあるが、農産物の加工、農産物直売所、観光農園、農家民宿、農家レストラン、・・といったものがほとんどの様だ。
一次産業に携わる農業者が、二次産業の加工や三次産業の流通にも関わる「六次産業」化が今大きな流れになっている。目的は、農家の経営を多角化し収益率を高めることにある。
昨・2015(平成27)年に農林水産省や経済産業省などがTPP(環太平洋戦略的経済連携協定)の大筋合意内容結果の概要を公開してる(*20、*21参照)。
六次産業化は、TPPに屈しない日本の強い農業をつくるためにも必須だと言われている。
日本政策金融公庫が公表した「平成23年度 農業の6次産業化に関する調査」によると、六次産業化を行ったことで農業経営の7割強が所得向上を実感しているという。そのため、今後の経営展開についても、回答者の76.2%が規模を「拡大」すると回答しており、六次産業化への取り組みが定着したことを伺わせる。・・・という。以下参照。
6次産業化で農業経営の7割強が所得向上を実感 ... - 日本政策金融公庫
これを見ると良いことずくめのように見える六次産業化のようだが、六次産業化への課題はないのか。また、成功させる秘訣とは何か・・・等々は以下を参照。
平成24年度6次産業化等に関する調査 (詳細版) - 日本政策金融公庫
6次産業化の展開方向と課題 - 農林水産省

都会に住み、六次産業化の現実とはあまり接することのない私であるが、全国の主要な市場から新鮮な水産物を調達し、その調達力を活かした鮮魚専門店経営、寿司・魚惣菜の販売や、回転ずし・レストランの経営をしている会社の株を昨年買い最低単位で持っている。同社からは年に一度、株主優待として同社扱いの数の子が年末に貰えるが今年の正月食べたら質の良い美味しい品だったので満足いる。同社からは歳暮用の良品を株主割引価格で販売してもらえるのもメリットである。今年、新年早々より世界同時株安となっているが、幸いここの株は安い時に買ったし、業績も良いのだろう株価も結構高くなっており儲けさせてもらっている。今このような上場会社が多くみられるが、中には、経営が上手くいっていないのか、今までの株主優待を廃止してい閉まっているところがある。そんなところは去年売却しているので助かった。
世界同時株安に関するニュース-Yahoo!ニュース
地方色豊かな日本。その地方資源を活用して、良いものを安く(是非このことを忘れないように)私たち消費者に届けて欲しいものですね。

冒頭の画像は、農林水産省の「六次産業化支援策活用ガイド」平成27年9月版(PDF:7,586KB)です。
*1:日本記念日協会
http://www.kinenbi.gr.jp/
*2:Growth Food co,ltd
http://growthfood.c-saiyo.com/
*3: [ドラッカー]イノベーションのための7つの機会 | 石山経営戦略室
http://ishiyama-room.com/theory/druckers_7chances_for_innovation/
*4:経済指標のかんどころ
http://www.cap.or.jp/~toukei/kandokoro/top/top1.html
*5:統計情報・白書―厚生労働省
http://www.mhlw.go.jp/toukei_hakusho/hakusho/index.html
*6:IT業界がわかる、仕事入門 - 立命館大学
http://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/ise/jobplayer/it/
*7:総務省|統計基準・統計分類|日本標準産業分類
http://www.soumu.go.jp/toukei_toukatsu/index/seido/sangyo/
*8:工業統計調査|経済産業省
http://www.meti.go.jp/statistics/tyo/kougyo/
*9:国民経済計算(GDP統計) - 内閣府
http://www.esri.cao.go.jp/jp/sna/menu.html
*10:第3次産業活動指数(経済産業省)
http://www.meti.go.jp/statistics/tyo/sanzi/index.html
*11:特定サービス産業実態調査|経済産業省
http://www.meti.go.jp/statistics/tyo/tokusabizi/
*12:法人企業統計 : 財務省
https://www.mof.go.jp/pri/reference/ssc/
*13:加工食品 | e-ヘルスネット〔情報提供〕
http://www.e-healthnet.mhlw.go.jp/information/food/e-03-017.html
*14:政府 新成長戦略の要旨 :日本経済新聞
http://www.nikkei.com/article/DGXDZO09482380Y0A610C1M10400/
*15 :中小企業による地域産業資源を活用した事業活動の促進に関する法律
http://law.e-gov.go.jp/htmldata/H19/H19HO039.html
*16 :中小企業者と農林漁業者との連携による事業活動の促進に関する法律
http://law.e-gov.go.jp/htmldata/H20/H20HO038.html
*17:J-Net21農商工連携パーク
http://j-net21.smrj.go.jp/expand/noshoko/
*18:農林水産省/野菜生産出荷安定法
http://www.maff.go.jp/j/seisan/ryutu/yasai/y_law/
*19:第6チャネル(6次産業化ポータルサイト)
http://6-ch.jp/index.html
*20:TPP大筋合意について-農林水産省
http://www.maff.go.jp/j/kokusai/tpp/
*21:TPP(環太平洋パートナーシップ)(METI/経済産業省)
http://www.meti.go.jp/policy/external_economy/trade/tpp.html
第六次産業 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC%E5%85%AD%E6%AC%A1%E7%94%A3%E6%A5%AD

日本初の自主開発油田(「カフジ油田」)を発掘した日

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1960(昭和35)年の今日・01月29日、日本のアラビア石油クウェート沖カフジ油田(*1のカフジ油田も参照)を堀り当てた。
カフジ油田は、サウジアラビアとクウェートの旧中立地帯(現在の分割地帯。ここ参照)であるカフジ(英語:Khafji。 アラビア語:ラスアル・カフジ=カフジ岬の意)の沖合約40kmにある、アラビア湾(別名ペルシャ湾陸棚(水深 30m )にある海底油田であり、これは、石油メジャーに拠らない日本初の自主開発油田であり、「日の丸油田」として知られている。

上掲画像赤塗りの所がKhafji(カフジ)。

戦後の1957(昭和32)年、日本輸出石油(株)(アラビア石油株式会社の前身)の社長山下太郎)が、サウジアラビア政府と石油採掘利権獲得のため交渉を重ね、サウジアラビアおよびクウェートの中立地帯沖合地域の石油開発利権協定を締結し、サウジアラビアと採掘権を獲得。
翌1958((昭和33)年2月、山下は、石坂泰三ら財界の協力のもと、電力、鉄鋼、商社など日本の代表的企業40社の参加を得て、アラビア石油(株)を設立、日本輸出石油からサウジアラビアの利権を継承。翌年クウェートでの採掘協定も締結。
サウジアラビア政府、クウェート石油公団もそれぞれ10%ずつ株式を所有し、東京電力関西電力等を上回る最大の株主となる。1960(昭和35)年1月に 大規模海底油田を発見し、これをカフジ油田と命名し、1961((昭和36)年2月より生産が開始された。
カフジ油田の産油量は、1979(昭和54) 年の 40 万バレル/日台をピークとして減退に転じ、2002(平成14) 年の産油量は 25.4 万バレル/日、同年末における累計生産量は 39 億 9,700 万バレルと公表されているそうだ。
アラビア石油は、サウジアラビア・クウェート両国から得た利権に基づき操業を行っていたが、サウジとの採掘利権協定は 2000 (平成12)年 2 月、クウェートとの協定は 2003(平成15) 年 1 月にそれぞれ失効し、現在は、サウジ側がアラムコの子会社 AGOC (Aramco Gulf Operations Company=アラムコ・ガルフ・オペレーションズ社)、クウェート側は KOC(クウェイト石油会社) の子会社 KGOC (Kuwait Gulf Oil Company)が権益を継承している。
ただし、クウェートとは、2023(平成35)年までの原油売買契約が結ばれており、以降はクウェートを中心にオペレーターを務める企業などに技術者を派遣する形で事業の継続を行ってきたが、2008(平成20)年にクウェートとの技術サービス契約が終了し、事業規模が縮小。
2012(平成24)年12月に持株会社のAOCホールディングスは、石油・天然ガスの開発・生産事業(石油上流事業=原油の開発・生産部門)からの事実上の撤退を発表。2013年(平成25年)4月1日に会社分割によりJX日鉱日石開発テクニカルサービス株式会社を設立し、石油上流事業関連の人員を承継した上で、その全株式をJX日鉱日石開発株式会社に譲渡した。
JX石油開発株式会社は、2010(平成22)年4月に日本の石油元売最大手(第1位)の新日本石油(現・JXエネルギー)と同6位新日鉱ホールディングス(現・JX金属)が経営統合により設立したJXホールディングスを中心とする「JXグループ」の内、石油や天然ガス等の開発に関連する事業を再編し同年7月1日に発足したものである。JXの名称は、ジャパンの「J」と未知を示す「X」から・・・とか。

国内石油卸1位の新日本石油と同6位の新日鉱ホールディングスとの経営統合は、業界内では1999(平成11)年に日本石油三菱石油とが合併して以来約10年ぶりの大型再編であった。
このような大型の経営統合の背景には、石油危機(オイルショック)後の金融危機による景気後退や環境問題に端を発する石油製品の需要減といった当時の状況(*2:の第2編 第4章第2節 石油製品需要の動向を参照)があり、規模拡大による生産力・販売力の強化が不可欠と判断されたためといわれているが・・・。。
太平洋戦争への突入が、石油資源の獲得を大きな要因としていたように、エネルギー資源の乏しい日本は、戦前からその確保に苦慮してきた。
戦後、燃料や製品の原料として、石炭から石油へシフトする中で、日本は独自の石油資源獲得に動き始めた。日本が独自にこだわったのは、かつてアメリカに石油輸出を禁止(ABCD包囲網参照)されて苦境に陥り、戦争へ発展した苦い経験があった。
そんな中で、日本輸出石油株式会社がサウジアラビアで採掘権を獲得し、クウェート沖の海底で大規模な油田を掘り当てた。これがカフジ油田であり、石油メジャーと呼ばれた欧米の巨大石油企業に頼らない日本初の自主開発油田、いわゆる「日の丸油田」と称されるものの第1号であり、この海外油田獲得の意味するところは非常に大きく、その採掘に努力した、山下太郎は、後年アラビア太郎と呼ばれるようになった。
確かにカフジ油田の存在感は大きく、それに関わった人々の情熱や先見性は素晴らしいが、日本の石油開発の歴史(*2の「石油産業年表」を参照)を遡ってみると、カフジ油田の34年前、1926(大正15)年に北樺太石油会社が、旧ソ連サハリン(日本ではこれを「樺太」と呼ぶ)州北部のオハにおいて、日本初の石油の海外自主開発に成功していた(オハ油田参照)。
当油田は、北樺太のオホーツク海側で最初に開発された油田であり、日本が占領中の1926(昭和元)年に、北樺太石油会社設立以降1944(昭和19)年、北樺太における日本側の採掘権が消滅するまで生産されていたが、ソ連側が人員や物資の出入りを制限するなどの操業妨害(*3参照)をしばしば行ったことから、1941(昭和16)年に松岡洋右外相が日ソ中立条約締結の引き換えにその利権を放棄したという歴史がある。

日露戦争(1904年2月8日 - 1905年9月5日)後のポーツマス条約(日露講和条約ともいう)において,サハリン島(日本では樺太〔からふと〕、樺太島などと称する)は北緯50 度線を境界として南は日本領に,北はロシア領に分割されていた。
ここでいう北樺太とは,そのロシア領であったサハリン島の北半分を指しているが、なぜ、この期間に日本が北樺太で軍政のもと石油開発を行っていたのか・・・。

それは、1917(大正 6) 年に勃発したロシア革命の翌1918(大正 7)年、同革命によるロシア内戦の武力干渉目的で、フランス,イギリス,アメリカと共同して日本も、シベリアへ出兵して干渉戦争を続けていたことに始まる。
我が国の石油政策は、戦前戦時を通して軍事的目的と密接に関連しながら展開されてきたようで、特に、海軍の要請を反映しながら実行され、必ず政策の裏には軍事的目的が読み取れるという。
北樺太油田が最初に発見されたのは、1880(明治13)年であり、ロシアの毛皮商人によってオハ川上流に石油の大露頭が発見され、その後、ロシア人による試掘・調査が行われ有望な油田であることが判明。1903(明治36)年には、イギリス調査隊も北樺太に入り調査を行い、イギリスは、1910(明治43)年にはロンドンでセカンド・サガレン・シンジケートという新会社をも設立していたようだ。
わが国において北樺太の油田が注目され始めたのは、日露戦争中に日本軍が北樺太を占領し、1906(明治39)年から1907(明治40)年にかけて日露間の南北樺太境界画定の交渉が行われて以降のこと。
天津にあった支那石油会社の代理店である松昌洋行が、1911(明治44)年に北樺太に技師を派遣し現地の調査を行い、油田開発の有望なることを海軍省および日本石油に報告したことから、イギリスの北樺太油田利権獲得の活動も日本人の知るところとなり、大隈重信をはじめとする識者の問でも海外石油資源の獲得の必要性が説かれ始めたようだ。
大隈はこれを好機として捉え、1918(大正 7)年、ロシア有数の炭坑経営を行っているスタヘーエフ商会と久原鉱業(久原財閥)との間に合弁事業に関する覚え書が交換され、調査隊が北樺太に派遣され数カ月の調査をした後帰国。
従来より油田事業の監督督励をしていた海軍省は、この活動経緯に着目し、久原鉱業一社だけではなく広く民間有力企業を集め、組合を組織して事業を促進する方針を打ちだした。
こうした海軍省の呼びかけにより1919(大正8)年、久原鉱業、三菱商事(当時の三菱財閥の一つ)、大倉商事(日本石油と宝田石油に次ぐ石油会社、大倉財閥、当時)、日本石油(現:新日本石油)、宝田石油(当時日本石油とともに二大石油会社であった。1921年両社合併。)の五社が提携して北辰会という組合を組織。北辰会は、「久原・スタヘーエフ契約」の権利・義務一切を継承し、従業員二百仁余りを現地に派遣し採掘活動に着手したが、現地における治安は、極めて悪く、そのうえ1920(大正9)年には、尼港事件が発生。日本から救援部隊が出動し、事件は鎮圧され、同年4月混乱は一応治まった。
日本政府は、その責任と賠償を求め,革命中のロシアにその責任をとりうる政権が樹立されるまでの保障として,この事件以降5年間尼港対岸のロシア領北樺太を保障占領すると同時に、油田地域に守備隊を派遣した。
この間の北樺太は,日本帝国に新たに加わった「新領土」と見なされ,日本軍政下の同地には多数の日本人が来住し経済活動を行っていた。その頃の同地での日本人の活動の様子は、参考*4の「保障占領下北樺太における日本人の活動」を見ればよくわかる。
北辰会では、この事件発生のため活動を一時中止していたが、治安が回復すると採掘作業を再開。1923(大正12)年、オハで油田が発見され、同年中に最初の油井が生産を開始した。この間、1922(大正11)年には、北辰会は新たに三井鉱山(現:日本コークス工業株式会社)および鈴木商店(かつて存在した日本の財閥)を加えて株式会社北辰会に改組し、橋本圭三郎が会長に就任している。
そして、1924(大正13)年日ソ間の国交が修復され、北樺太の石油利権に関する問題が国家間レベルで交渉されることとなり、1925(大正14)年1月20日、北京で日ソ国交修復条約(日ソ基本条約)が成立し、さらに同年12月14日モスクワにおいてソ連下北樺太油田の開発に関する利権契約の調印が実現。
利権契約が国家間において正式に成立したので、北辰会は、その利権一切を新たに設立される北サガレン石油企業組合に譲渡することとした。 
北サガレン石油企業組合とは,ソビエト政府との問に締結された利権契約中の規定による北樺太油田を開発するための「日本政府の推薦する日本国企業」として設立された組合であり、北辰会の利権を受け継ぎ利権契約成立後は勅令によって「北樺太石油株式会社」に改組された。そして、海軍中将中里重次が、利権契約交渉の日本代表者および北樺太石油利権会社社長となった。 
1926(大正15)年3月5日、勅令第9号により同社は商法適用外の優遇措置をとることとなり、北樺太石油株式会社として改組されている(*5参照)。

石油は、このように海軍省主導のもと、民間企業連合体で開発に参加して、1944(昭和19)年に北樺太における日本側の採掘権が消滅するまで生産されていたが、最後は松岡外相が日ソ中立条約締結の引き換えに放棄した背景には何があったのか・・・。

1920年代に入り、大戦中の好景気から一転して、深刻な戦後不況に見舞われているところを関東大震災に見舞われ、経済に大きな打撃を受けていた。加えてアメリカが日本の中国進出を警戒して、1924(大正13)年には排日移民法を成立させ、日本人移民の制限などをした。
そこで日本政府は、ソ連との国交を樹立し、経済関係を結ぶことに方向を転じ「日ソ基本条約」を締結して、オハ油田などの北樺太石油地帯の経済的利権を手にした日本は事業化に一応の成功したようにも見えたのだが、1936(昭和11)年の日独防共協定(ここ参照)が成立すると、日ソ間の国際関係は悪化し始め、試掘期限の延長申請は認められなくなり、ソ連側の要求は厳しくなる一方で、人員や物資の出入りを制限するなどの操業妨害(*3参照)もしばしば行われ、日本政府は、1937(昭和12)年以降5年間に12,847,000円にのぼる莫大な石油試掘交付金を支給して援助を行ったが、日中戦争の拡大、事実上の日ソ問の戦闘状態を示したノモンハン事件(1938年)、その後に続く太平洋戦争(1941年)勃発の大きな流れには抗し得ず、1941(昭和16)年に松岡外相が日ソ中立条約締結の引き換えにその利権を放棄し1942(昭和17)以降、採油活動は中止されたのであるが、多くの人はこんな油田が存在したことすら知らないのではないだろうか・・。

アラビア石油はカフジ油田の生産を開始し、長い間、日の丸原油として日本の石油産業に貢献して来たが、2000年および2002年にサウジおよびクウェィトとの利権協定がそれぞれ失効、ついに2013年、事実上消滅してしまった。利権協定の更新交渉が実を結ばなかったことについては、色々言われている(*6も参照)が、その裏には、米系石油メジャーの動きもあったりして、企業単独による自主開発が、難しいことを示しているように思われるのだが・・・。。
カフジ油田の主油層(*1のここ参照)は白亜紀のブルガン層の砂岩とラタウィ層の石灰岩で、深さは前者が約 1,800m 、後者が約 2,300m で、隣接するサファニヤ油田(1951年に、アラビアン・アメリカン・オイル・カンパニー〔通称:ARAMCO=アラムコ〕によって発見された。*1 でサファニア油田参照)の開発が進むにつれて、本油田とサファニヤ油田とは一連のものであることが判明したため、両者を合わせて「サファニヤ・カフジ油田」と呼ぶことがあるそうだ。
アラビア石油のカフジ油田の利権喪失後、現在は、サウジ側がアラムコの子会社 AGOC (Aramco Gulf Operations Company)、クウェート側は KOC の子会社 KGOC (Kuwait Gulf Oil Company)が権益を継承し、共同オペレーターとなっている。
日本の原油輸入先は、2012年度実績で、83.2%を中東地域に依存(経済産業省「資源エネルギー統計年報」*7)しており、地域的にきわめて偏った状況となっている。
原油の中東地域への依存度は、第一次石油危機(オイルショック)が発生した1973年においても78%であったが、石油危機以降、輸入先の多様化を図り、中国、インドネシア、メキシコなどからの輸入を拡大した結果、1985年には68%まで低下したが、1990年代を迎えると、中東以外の産油国は、自国内の経済成長による需要増から輸出余力が徐々に低下したことから、再び中東依存度が高まり、近年は80%以上のレベルで推移しているようだ。
自然エネルギーの中でも石油のウエイトがいまだに高い以上、中東依存比率の大幅な低減は難しいものの、極力輸入先の分散化を図るとともに、新たな鉱区権益獲得と新規油田の自主開発促進や石油備蓄の拡充等を推進することが必要だろう。
アメリカでの「シェールオイル」の開発などが注目を浴びていたが、今、石油価格の急落で、アメリカのシェールガス関連業界がダメージを受けているようだが、同業界を積極的に後押ししたウォールストリートが、大ダメージを受けており(*8参照)、それが今世界の株価下落に大きく影響しているとも聞く。
こん後の日本の行方は・・・・。気になるところである。




参考:
*1:JOGMEC:石油・天然ガス資源情報
http://oilgas-info.jogmec.go.jp/index.html
*2:JXエネルギー:石油便覧トップ
http://www.noe.jx-group.co.jp/binran/index.html
*3:神戸大学 電子図書館 - 新聞記事文庫 外交(147-006) 2015年6月10日閲覧
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=10169437&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1
*4:保障占領下北樺太における日本人の活動 (1920-1925)(
http://eprints.lib.hokudai.ac.jp/dspace/bitstream/2115/52284/1/ES_62(3)_031.pdf#search='%E5%8C%97%E6%A8%BA%E5%A4%AA+%E4%BF%9D%E9%9A%9C%E5%8D%A0%E9%A0%98'
*5:北樺太石油株式会社と帝国石油株式会社
http://ci.nii.ac.jp/naid/110006263413
*6:アラビア石油破綻事件の深層
http://fujiwaraha01.web.fc2.com/fujiwara/article/zaikai0104.htm
*7:総合エネルギー統計 - 資源エネルギー庁 - 経済産業省
http://www.enecho.meti.go.jp/statistics/total_energy/
*8:第37話 石油価格急落、危ないのはロシアよりウォールストリート
http://jmcasemi.jp/column/article.php?article=1585
2008-01-1 - 化学業界の話題(データベース)
http://www.knak.jp/blog/2008-01-1.htm
5分でわかるエネルギー問題 - 地球村
http://www.chikyumura.org/environmental/earth_problem/energy_crisis.html
それゆけ!石油探検隊
http://www.sekiyuexpedition.com/
日露関係史 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E9%9C%B2%E9%96%A2%E4%BF%82%E5%8F%B2

森有礼が日本で初めて、夫婦同権などを交わした契約結婚をした日

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1875(明治八)年の今日・2月6日は、外交官・森有礼(もり ありのり)が日本で初めて、夫婦同権などの契約書を交わす西洋式の結婚式を挙行した日である。

ハイカラ風俗のそこから下って来た山の高嶺――欧化(思想や風習などがの西欧風化)の絶頂――が「鹿鳴館」にあることは衆知のところだが、そこに有名な仮装舞踏会のあったのが明治二十年(1887年)四月(*1参照)で、それから二年経つと、明治二十二年(1889年)二月十一日を期して憲法(大日本帝国憲法)が発布された。
 その朝のことだった。雪が降っていたが――この雪はやがて晴れて、道は冷たく、数万の人出に、往来は夜になると至るところコチコチに踏みかためられたという――文部大臣の森有礼がまだ降りやまない雪の中を、参賀に出ようとすると、あっという間に刺客の手にかかって、やられてしまった。
 森は欧化論(欧化主義)の急進であったが、かねがねそれから来る言動が刺客を招くことになったので、とうに明治八年(1875年)の古きに、斬新無類の結婚式をやってのけて、世人の意表に出ている人。それは結婚式と云おうより結婚宣誓式ともいうべきもので、「紀元二千五百三十五年二月六日、即今東京府知事職ニ在ル大久保一翁ノ面前ニ於テ」という誓文の書出しで、別に「証人」として福沢諭吉を立て、当日は自宅の門前に「俗ニ西洋飾リノ門松ト詠フル如ク緑葉ヲ以テ柱ヲ飾リ」、つまりアーチをこしらえて、国旗を立て、提灯を列ね、「……今晩ノいるみねえしよんノ支度ト見エタリ」
 ここに引用している「」の中の文章は、明治八年二月七日の日日新聞の記事であるが、明治八年にして新聞紙上にイルミネーションと綴らせたのも桁外れならば、いわんやそれを「自宅」に点じたに至って、――ハイカラの張本人ここにありと云わなければならない。
 面白いのはこの日の「月下氷人」(*2参照)格の府知事大久保一翁で、この人はかねて大の刀剣通の、その蒐集する刀の蔵い場に頭を悩めたあげく、束にして四斗樽に刀身を何本も差して、そのぎっしり日本刀のささった樽が、又、橡(つるばみ=クヌギの古名。和名抄、橡の例文ここ参照)の下に家中一杯だったという人である。「ハイカラ」とは一応対蹠的(たいしょてき。二つの物事が正反対の関係にあるさま。)な、江戸藩の名士である。――その古武士然たる人が、スコッチの猟銃服いかめしく身をかためて、森の結婚宣誓式へ乗り込み、中央に座を構えた。
 その時の模様を新聞は云う、「……此ノ盛式ハ東京知事ノ面前ニテ行フト有ル故ニ、大久保公ハ何処ニ御座ルカト見レドモ我輩ハ其顔ヲ知ラネバ何分ニモ見当ラズ、唯怪シムベキハ此正座ニ髭ガ生エタ猟師ヲ見タルノミ。」いずれも礼服揃いの満座の中にこの髭翁だけが「短カキ胴〆ノ附タル服ヲ着シ」とあって「早ク申サバ日本の股引(ももひき)半天(はんてん)ノ拵(そろ)ヘユヱ、連座ノ西洋人ハ勿論、日本人モ扨々(さてさて)失礼ヲ知ラヌぢぢい哉ト横目ニテじろりと睨メタリ。」ところがそれが知事様だと隣席のものに教えられて「我輩ガ考ヘニハ此失敬老人ガヨモヤ大久保公デハ有ルマイ。」公はやはり今席にはいないのであろう。もし万一にもこの猟服の髭翁が公なりとすれば、公は公儀お目附大目附の役も勤めた人であるから、これには余程の深い所存あっての服装だろう、――と大いにヒヤかしてある。
・・・、上記は、木村荘八の随筆『 ハイカラ考』(青空文庫掲載*3参照)からの抜粋であり、()内の注釈は私が付したものである。

一般的に、森 有礼(正字体:森有禮)は福澤諭吉らとともに明治維新期の蒙的思想家にして、政治家として知られている。近代国家・日本を作り上げるため、日本語廃止案をはじめ急激な国家改造に驀進した、初の文部大臣である。そんな、森 有礼が、木村荘八の随筆『ハイカラ考』にもあるように、当時としては奇抜ともいえる妻との契約結婚をし、また、憲法(<ahref= https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%B8%9D%E5%9B%BD%E6%86%B2%E6%B3%95 >大日本帝国憲法)発布の日になぜ刺殺されなければならなかったのか・・・。以下、そんな、森有礼と、当時の日本の状況を見てみゆきたい。

日本は、幕末の安政5年(1858年)に江戸幕府が米・英・仏・露・蘭の5ヵ国それぞれと結んだ条約「安政五カ国条約」(安政の仮条約とも)など欧米列強と締結していた不平等条約条約改正の実現のために、憲法などの法典編纂と並行して、日本の文化をヨーロッパ風にすることで彼らが国際法の適用対象として見なす文明国の一員であることを認めさせようとした。
その代表的な存在が1883(明治16)年に完成した洋風建築の鹿鳴館であり、煉瓦造2階建てで1階に大食堂、談話室、書籍室など、2階が舞踏室で3室開け放つと100坪ほどの広間になった。そこにはバーやビリヤードも設備されていた。
当時の外務卿(後の外務大臣)井上馨自らが鹿鳴館の主人役を務め、華族・政府高官・外交団を集めて夜会などの行事を日夜開いていた。

上掲の画像は鹿鳴館での舞踏会のようすを描いた錦絵「貴顕舞踏の略図」(楊洲周延画)
このような欧化政策のもと鹿鳴館を設置した背景には、井上は度々ヨーロッパを視察して、現地では日本人が「見た目」によって半未開の人種として実は「珍獣扱い」されているという事実に気づいていた。井上と伊藤博文らは日本人がこうした扱いから免れるようになるためには、欧米と同じ文化水準である事を海外に示さない限りはまともな外交交渉の相手としても認められないという事実に気づいたからのようだ。
しかし、一方、欧化政策を批判する国粋主義者は「嬌奢(きょうしゃ=おごり高ぶり)を競い淫逸(いんいつ)にいたる退廃的行事」として非難の声を挙げていた。また当時にあっては、日本の政府高官やその夫人でも欧米への留学や在外公館での勤務・在住経験のある日本人は、ごく一部(井上馨・武子夫妻や鍋島直大榮子夫妻、大山捨松など)にとどまり、その大部分は西欧式舞踏会におけるマナーやエチケットなどを知るす べもなく、物の食べ方、服の着方、舞踏の仕方などは、西欧人の目からは様にならないものだった。本人たちは真剣勝負だったが、試行するも錯誤ばかりが目立ち。西欧諸国の外交官もうわべでは連夜の舞踏会を楽しみながら、その書面や日記などにはこうした日本人を「滑稽」などと記して嘲笑していたようだ。また、ダンスを踊れる日本人女性が少なかったため、ダンスの訓練を受けた芸妓が舞踏会の「員数」として動員されていたことがジョルジュ・ビゴーの風刺画に描かれ(以下の画参照)、さらに高等女学校の生徒も動員されていたという(近藤富枝『鹿鳴館貴婦人考』講談社)。いずれも画像出展は以下参考の*4より。


鏡に映っているのは猿顔の紳士淑女、いくらうわべを繕っても猿真似と言いたいのだろう。

右:鹿鳴館の舞踏会・コントルダンスの合間.。しゃがんだり背をもたれるポーズでキセルをふかす「淑女」(実は芸者)の醜悪さを描いている。ビゴーは「お里が知れる」と批判しているそうだ。風刺画にある「名摩行」は「なまいき」のこと。
(いずれも、清水勲『ビゴーが見た日本人』講談社学術文庫。風刺雑誌『トバエ』』に掲載されたもの)、
下の画は、 撞球(ビリヤード)をしているところを描いたもの。これも女性は芸者だろう。ソファーには、丸に十のマークが見られるが、寝そべっている行儀の悪い人は、初代文部大臣森有礼を描いているといわれているそうだが・・・。


井上の鹿鳴館外交への風当たりは次第に厳しいものとなり、さらに条約改正案の内容(外国人判事の任用など)が世間に知られると、大反対が起こった(*5参照)。面目を失した井上は1887(明治20)年9月に外務大臣を辞任。欧化政策としての鹿鳴館時代はこうして井上とともにその歴史に一応の幕を下ろすことになった。

さて、肝心の森 有礼(正字体:森有禮)であるが、森は、弘化4年(1847年)、薩摩国鹿児島城下春日小路町(現在の鹿児島県鹿児島市春日町)で薩摩藩士の五男として生まれ、安政7年(1860年)頃より薩摩藩が設立した藩校である造士館で漢学を学び、元治元年(1864年)には、薩英戦争後の藩の近代化政策の一環として島津久光
が西洋式軍学や技術を専門に学ぶ洋学校として設けた「開成所」(1863年に江戸幕府が洋学教育研究機関として設けた同名の開成所とは異なる)に入学し、英学講義を受講する。
慶応元年(1865年)、薩摩藩の命による五代友厚ら3名の使節団・薩摩藩遣英使節団使節団とともに15名の秘密留学生(薩摩藩第一次英国留学生)の一人としてイギリスに密出国(このとき沢井鉄馬と変名している*6参照)し、すでに、長州藩から清国経由でヨーロッパに派遣されていた伊藤俊輔(博文)らの長州五傑とロンドンで会う。


画像は、幕末の薩摩英国留学生、前列左から2人目が森有礼(尚古集成館蔵、週刊朝日百貨日本の歴史96より)
その後、ロシアを旅行し、さらに親日派のローレンス・オリファントの誘いでアメリカにも渡り、オリファントの信奉する新興宗教家トマス・レイク・ハリスの教団と生活をともにし、キリスト教に深い関心を示した。また、アメリカの教科書を集める。明治維新後に帰国した森有礼は、富国強兵のためにはまずは人材育成が急務であり、「国民一人一人が知的に向上せねばならない」と考えていた。そして欧米で見聞してきた「学会」なるものを日本で初めて創立しようと考えた。
そして、「帝都(帝国の首都=帝都東京)下の名家」を召集するために西村茂樹に相談し、同士への呼びかけを始め、当時、27歳であった福澤諭吉を会長に推すも固辞され、森自身が初代社長に就任し、最初の定員は森、西村、福澤他西周西村茂樹中村正直加藤弘之津田真道箕作麟祥杉亨二箕作麟祥の10名で啓蒙活動(*7)を目的とした学社明六社を結成した。
名称の由来は明治6年(1873年)結成からきている。この学社は、機関誌『明六雑誌』を発刊して、当時の青年たちに大きな影響を与えた。
この明治6年という時期は近代日本の最初の大きなターニング・ポイント(転換期)であり、この年は「西郷隆盛征韓論に端を発した明治初期の一大政変(「明治6年の政変」。征韓論政変ともいう)がおこった年でもあった。
この年、当時岩倉使節団が欧米を巡回したその留守の初期明治政府をつくった留守政府の首脳であった西郷隆盛・板垣退助江藤新平後藤象二郎副島種臣rの5人の参議が、征韓論を主張。
これらの人は征韓論では「外征派」ともよばれていたが、この征韓論に対して、50名をこえる岩倉使節団には、その後の政界を牛耳る岩倉具視木戸孝允大久保利通・伊藤博文らを含めた「洋行派」(征韓論では「内治派」ともよばれた)がおり、この「洋行派」との激突が始まったが、森有礼は、これら洋行派をアメリカにいて“繋ぎ”の役割を担った人物でもあった(*8参照)。
結局、この留守派が欧米視察から帰国した洋行派の岩倉具視ら国際関係を配慮した慎重論に敗れ、新政府は分裂し、西郷らは下野した。これにより、明治政界は真ッ二つに割れた。
それが明治6年の政変であり、それがそのまま明治10年(1877年)の西南戦争にまで進む。西郷が死に(同年9月24日)、翌明治11年(1878年)5月14日、その西郷を死に追いやった大久保も暗殺されて死んだ(紀尾井坂の変)。明治維新とはこの二人の死までをさしている。そして、西南戦争以後、不平士族の反対運動は国会開設(ここ参照)や憲法(大日本帝国憲法)制定を要求する自由民権運動(第二段階)に移行してゆくのである。
この流れの中で見ると、明六社首謀者が森有礼であったのは、のちに伊藤博文によって森が最初の外務大輔(文部大臣)に任命(1878)されたことを勘定に入れると、はなはだ皮肉なことでもあったという(*8参照)。
福沢諭吉がつねに明六社と一定の距離をおこうとしていたようだが、それは、明治6年の政変で西郷は鹿児島に帰って私学校をつくって青年たちの指導にあたり、ちょっとした独立国づくりをめざしたのに対して、おなじく下野して土佐に帰った板垣が、立志社をつくってこれを民撰議院設立の建白をへて自由民権運動にもっていった対比に似て、森有礼のやり方と福沢のやり方には、どこか決定的な相違というものがあり、それは、福沢と森の教育の方法論を巡っての論争にも見られる。
福沢の論旨は『学問のすすめ』にも書かれている。森有礼は教育は国家の興廃に関わる一大事として「教育の官立為業」を説き、福沢諭吉はそれに異議を唱えて, 「国民一人ひとりが独立し繁栄して、はじめて国家も独立し繁栄する」という考えを示し「教育の私立為業」の大切さを説いている(*9参照)。
「明六社」の目標は、日本の文明化と西欧化にあったが、とりわけ森有礼の西欧化への姿勢は際立っていた。森は、国語を日本語ではなく、簡易英語に変えよという提案すら行った(*10参照)が米の言語学者、米人の文部省顧問、伊藤博文等の反対を受けあきらめたともいわれるが、なかでも『明六雑誌』に掲載された「妻妾論」(*11:「日本史史料集」の近代編7:戸籍~文明開化1062「森有礼の妻妾論」参照)は、日本で初めて男女の平等と夫婦の対等を主張したものとして有名であり、この論説は明治の言論界に衝撃を与え、男女同権をめぐる論争を引き起こし、しかも、森はこの考えを実践に移した。
森は、洋学教育を受けた開拓使女学校(札幌農学校を経、現:の北海道大学)出身の19歳の聡明な女性で、広瀬阿常(常)と婚約を取り交わした。常は幕臣広瀬秀雄の娘であったと言われている。
世間を驚かせたのは、明治8年(1875年)2月6日、京橋区木挽町の新築の洋館での洋風の結婚式で、以下参考の*12によると、当日は200名を超す参会者の前で、大久保一翁を立会人とし、夫婦対等の婚姻契約書が読み上げられ、証人に福沢諭吉がなり、両人と証人の署名で式は終わり、その後、別室で立食式のパーティーが催されたという。その契約書は以下の3条からなっている(*13より)。
第一条自分以後森有礼は広瀬阿常を其妻とし、広瀬阿常は森有礼を其夫となすこと
第二条為約の双方存命して、此約定を廃棄せざる間は共に余念なく相敬し相愛して、夫婦の道を守ること
第三条有礼阿常夫妻の共有し又共有すべき品に就ては相方合意の上ならでは、他人の貸借或は売買の役を為さざること
右に掲ぐる所の約定を為し、一方犯すに於ては、他の一方是を官に訴へて相当の公裁を願うふことを得べし/明治八年二月六日

まだを囲うことが、上流武士社会や富裕な町人層では普通に行われていた、いわゆる蓄妾制が続いていた時代に妻となるものとの契約結婚など革新的ではあったが、如何にも西洋かぶれ、西洋通を鼻にかけたような行為は、世間に賛否両論の話題をまいたが、余り好意的には受け入れらなかったようで、翌日、東京日日新聞が、「森有礼のハイカラ結婚式」という見出しで、このありさまを皮肉交じりに伝えたことは先に書いた通りである。      
そして、この森有礼と広瀬常の婚約結婚を知り唖然とした女性がいた。鹿児島の森有礼の私塾(当時森有礼は鹿児島で英語を教えていた)で兄事し、慕って上京していた、森をてっきり婚約者と信じ込んでいた古市静子(*14の教育活動に生きた女性たち参照)である。これを知り、後の女医第1号で、親友の萩野吟子が義憤を感じ、森を訪ねて「これが女性尊重論者のなさり方ですか」と何詰。そして静子の女子師範卒までの学費を承諾させたという(アサヒクロニクル週刊20世紀004号)。
森有礼が現一橋大学の前身である私塾・商法講習所を銀座尾張町(現在の松坂屋のあたり)に開設したのも、同じ年(明治8年、1875年)の9月であった。
そして、政局も安定した明治18年(1885年)、第1次伊藤内閣の下で初代文部大臣に就任し、東京高等師範学校東京教育大学を経た、現在の筑波大学)を「教育の総本山」と称して改革を行うなど、日本における教育政策に携わるなど、学制改革を実施した。また、「良妻賢母教育」こそ国是とすべきであると声明。翌年それに基づく「生徒教導方要項」を全国の女学校高等女学校に配っている。
明治19年(1886年)には、学位令を発令し、日本における学位として大博士と博士の二等を定めたほか、教育令に代わる一連の「学校令」の公布に関与し様々な学校制度の整備に奔走 。
この年、妻の常と双方合意し「婚姻契約」を解除して離婚しているが、常夫人は「開明的すぎる森有礼についていけず、性格が弱くて不倫に走った」というような話があるようだが、『秋霖譜―森有礼とその妻』森本 貞子著に、実際には、離婚の理由は、広瀬夫人の実家に養子に入って義兄弟となった広瀬重雄(旧姓:藪重雄)が、自由党激派に属し、政府要人暗殺を企てた静岡事件 ( Category:自由民権運動の事件参照)に関与して罪人になったためである」・・・と書かれているようだ。詳しいことは参考*15:「森有礼夫人・広瀬常の謎」を読まれるとよい。
森は、常子と離婚した翌年に岩倉具視の五女寛子と再婚している。また、古市静子は、森と常子の「契約結婚」解消を遠く聞き、本郷東片町に駒込幼稚園(現:洗足うさぎ幼稚園)を創設した(*16参照)。
明治21年(1888年)森は、、伊藤博文の後任黒田清隆内閣でも留任し、文部大臣として学制改革を実施し、明治六大教育家に数えられているが、そんな森の人生は、意外なところで結末を迎える。
明治22年(1889年)2月11日、大日本帝国憲法が発布(公布)された(施行:明治23年=1890年11月29日)。アジアで近代憲法が制定されたのは日本が初めてであり、まさに国中がお祭り騒ぎとなった日のことである。
森も初代文部大臣として天皇臨席のもと宮中で催される「大日本帝国憲法発布式典」に参加するため官邸を出た所で、国粋主義者西野文太郎に短刀で脇腹を刺され、応急手当を受けるも傷が深く、翌日午前5時に死去した。まだ43歳だった。
殺人犯西野の犯行は、1887(明治20)年、森が各地で学事巡視するが三重県では伊勢神宮を参拝,この時、参拝時に不敬な態度をとったいわゆる「不敬事件」が引き金になったと見られている。

森文相が特に重視した教育政策の一つに地方視学政策がある。森文相は地方の教育を自ら視察して、しばしば講演や訓示を行ない、地方の教育を激励するとともにその指導監督に努めた。森文相の時代から教育の国家管理が強化されたが、政府が単に法令を定めてこれを実施するにとどまらず、地方の教育を直接に視察監督することの必要を認めていたためである。この観点から、文部省に視学部を設けて視学官を置き、(視学制度の強化拡充を図った(*17の森文相と諸学校令の公布参照)。
森は明治17年(1884年)ヨーロッパから帰国し、同年5月に参事院議官、文部省御用掛兼勤となった時から文部大臣時代の5年足らずの間に、10 日以上に及ぶ長期学事巡視を6 回実施している。そして、巡視の途次各地で知事・郡区長・学務委員・戸長・校長・教員等を集めて演説を行っている。
1887(明治20)年第4回目の「北陸・近畿地方(第3 地方部)」視学の際、11月26日津に到着し、翌27日市街の各学校を巡察し、三重県会議事堂で演説。28日松阪を経て午後山田へ着し、高等小学校巡視後、伊勢神宮を参拝して所謂「伊勢神宮不敬事件」が起こった(*18参照)。
このとき、
森文部大臣は、一般拝所で外套を着けたまま、つかつかと御幌(みとばり:白い幕)をステツキでかかげて内に入ろうとしたので、尾寺禰宜が 「これから内は皇族のほか入られません」と制止したところ「さうか」といつて退出した。また亀田主典(さかん)に「内宮(皇大神宮,のこと)と外宮(豊受大神宮のこと )はどう違ふか」と尋ねられ「御建物は同じです」 といった。内宮へも参拝する予定になっていたので、拝みに内院に入ろうとして制止せられて、 むつとしたのと二見の会合(二見浦で県下の教育者の集会があり講演することになっていた)の時刻は迫るし、御建物が同じなら内宮は止さうといった調子でそのまま二見へ行って一場の講演をした・・・
との文部省の事実調査に対して、地元宇治山田市在住の 大物議員の証言があるそうだ(19 参照)。
この証言通りであれば確かに非常識なことだとは思うが、これは、“捏造された事件”で、西野の懐中に所持していた斬奸状にはこのことが暗殺の理由として記されており、西野は、この無礼は神を冒涜し、皇室を蔑視したもので、立国の基礎を破り、国家を亡滅させるものである。よって斬殺する・・・とあるようだが、この不敬事件は後で、伊勢神宮の神官たちによるでっち上げ事件だったことが判明した。
その様なことをした理由の一つが、森が西洋かぶれのキリスト教徒であることのほか、伊勢神宮の発行する暦(神宮暦参照)の問題がある。森は、あれは学問上、大学が発行すべきものだと主張していたが神官たちにしてみれば、暦の発行権が無くなると、その売上を皆で分配するわけにもいかなくなる。経済的な大打撃である。・・といった理由からだというのである(*20参照)が・・・、その真実はよくわからない。
米国から帰って公議所議事取調べ係りになった森は帰国の翌年(明治2年)に廃刀令を出して武士の魂である刀を禁止した。 小武を捨てて、国防という視点から武を据える理論であるが、大反対に会う。士族の怒りは甚だしく暗殺の危険さえあったという。
彼は留学中にロシアに渡っている。当時、日本はロシアの脅威も感じていた。そして、帝国主義の時代の中にあって、日本の存立と発展を願い、西欧に倣い、西欧と競争することを求め続けた。
近代国家・日本を作り上げるため、日本語廃止案をはじめ急激な国家改造に驀進した初の文部大臣の姿勢が単なる欧化主義、欧米追随と誤って理解され、当時伊勢神宮造営掛であった西野も当時流れていた噂などを信じ、森を許せないと考え犯行に及んだのだろう。
西野のとった行動は世論を二分し、世間では西野に対しての同情も多く集まり、上野にある彼の墓は参拝者が絶えなかったという。 
今日の教育制度は森有礼がつくったものであり森は、明治六大教育家に数えられているが、彼の教育論は富国強兵の国家のための教育であって、国民のための教育ではなかった。それが今日でも引き継がれているのでは・・・との、疑問を呈す人もいるのだが・・・。さ~どうなんだろうか?


参考:
*1:首相官邸で伊藤博文主催による仮面舞踏会が開催された日 -今日のことあれこれと
http://blog.goo.ne.jp/yousan02/e/9cca45f07a3d69be1c90bec5094a70d5
*2:月下氷人―中国故事物語
http://homepage1.nifty.com/kjf/China-koji/P-105.htm
*3:木村荘八 ハイカラ考 - 青空文庫
http://www.aozora.gr.jp/cards/001312/files/49301_33996.html
*4:フランスの風刺画家、ジョルジュ・ビゴーが見た日本人【明治時代】
http://matome.naver.jp/odai/2137904355726810601
*5:NHK高校講座 | 日本史 | 第29回 第4章 近代国家の形成と国民文化の発展
http://www.nhk.or.jp/kokokoza/tv/nihonshi/archive/resume029.html
*6:『初代文相 森有礼』 ? 鹿児島県立図書館(本館)
https://www.library.pref.kagoshima.jp/honkan/?p=526
*7:明治啓蒙思想
http://homepage3.nifty.com/tanemura/re3_index/7M/me_meiji_keimo.html
*8:592夜『明六社の人びと』戸沢行夫|松岡正剛の千夜千冊 
https://1000ya.isis.ne.jp/0592.html    
*9:「明六社」 啓蒙思想について(Adobe PDF)
https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/dspace/bitstream/10291/8430/1/shakaikyouikushujika_1_1.pdf#search='%E6%95%99%E8%82%B2%E3%81%AE%E7%A7%81%E7%AB%8B%E7%82%BA%E6%A5%AD'
*10:国語外国語化論 - 一橋大学附属図書館
http://www.lib.hit-u.ac.jp/service/tenji/eu-lang/kokugo.html
*11:日本史史料集
http://chushingura.biz/p_nihonsi/siryo/ndx_box/ns_ndx.htm
*12:平成24年度学部卒業式における式辞「明六の有礼」(一橋大学 山内進)
http://www.hit-u.ac.jp/guide/message/130322.html
*13:日本史人物 迷言・毒舌集成:125 共に夫婦の道を守ること
http://hanasakesake.seesaa.net/article/421925271.html
*14:日本キリスト教女性史
http://www5e.biglobe.ne.jp/~BCM27946/index.html
*15;森有礼夫人・広瀬常の謎 後編上
http://blog.goo.ne.jp/onaraonara/e/b13ae36f0d94ee47d98431d90300cc1f
*16:現存する日本最古の私立幼稚園
http://stmnr.exblog.jp/24725358
*17:学制百年史―文部科学省
http://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/html/others/detail/1317609.htm
*18:森有礼の学事巡視―その行程をめぐって―鎌田 佳子
http://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/lt/rb/618/618PDF/kamada.pdf#search='1887%E5%B9%B4+%E6%A3%AE%E6%9C%89%E7%A4%BC+%E4%B8%89%E9%87%8D%E7%9C%8C+%E4%BC%8A%E5%8B%A2%E7%A5%9E%E5%AE%AE%E5%8F%82%E6%8B%9D++%E4%B8%8D%E6%95%AC%E4%BA%8B%E4%BB%B6'
*19:森有礼文相不敬・暗殺事件を考える・(警察思潮/昭和9年8月5日発行を読む)
http://senzenyomu.blog82.fc2.com/blog-entry-4.html
*20:非常の人――森有礼の生涯 第九章 凶刃に倒れる - 吉村書院
http://yoshimurashoin.blog.fc2.com/blog-entry-251.html
憲法関連ページの日本国憲法と大日本帝国憲法条文比較(たむたむホームページ)
http://tamutamu2011.kuronowish.com/kennpoujyoubunnhikaku.htm
森有礼【もりありのり】-日本史の雑学事典
http://www.jlogos.com/d013/14625051.html
たむたむホームページ
http://tamutamu2011.kuronowish.com/IRIGUTI.htm
良妻賢母と女性教育について
http://www.ulrich.moehwald.jp/Uni-Pictures/Semi/Lin.pdf#search='%E8%89%AF%E5%A6%BB%E8%B3%A2%E6%AF%8D%E6%95%99%E8%82%B2'


レトルトカレーの日

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今日2月12日は、「レトルトカレーの日」
袋をあけて取り出した乾燥麺をどんぶりなどの食器に入れ、熱湯をかけて蓋をする。「お湯をかけて2分間」待てば食べられる・・・の謳い文句で、日清食品が袋入りのインスタントラーメンを「チキンラーメン」の名で売り出したのが、1958(昭和33)年8月25日のこと。この商品は当時「魔法のラーメン」と言われ、人気を博した。価格は35円。当時、中華そばやうどんを店で食べるのと変わらない値段であり、うどんなら1玉6円の時代であった(*1参照)。
今度は3分間待てば“国民食カレーが食べられるようになった。
1968(昭和33)年のこの日(2月12日)、大塚食品工業(現:大塚食品)が、袋ごと3分間熱湯に温めるだけで食べられる日本初のレトルト食品「ボンカレー」を発売した。今日の記念日はその大塚食品が制定したもの。今も多くのカレーファンに愛され続けている。

レトルト(英語:Retort)の原語はオランダ語で、をかけて短時間で滅菌処理する釜(加圧加熱殺菌釜)をいう(ここ、参照)が広義では缶詰も含まれようだが、レトルト食品,という場合、一般には「レトルトパウチ(Retort pouch)食品」の略称として広く定着している。
パウチはポーチ、小袋のことである。日本では「レトルトパウチ食品品質表示基準」(平成12年12月19日農林水産省告示第1680号)によって以下のように、定義されている。
「レトルトパウチ食品」について
「プラスチックフィルム若しくは金属箔又はこれらを多層に合わせたものを袋状その他の形に成形した容器(気密性及び遮光性を有するものに限る。)に調製した食品を詰め、熱溶融により密封し、加圧加熱殺菌したもの」・・・と。

保存食の歴史は戦争の歴史でもある。外国遠征で東奔西走し戦闘に明け暮れたナポレオンは、軍用食保存技術の公募をし、これに応じたニコラ・アペールによって発明された瓶詰を採用、またこの原理を応用して1810年には、イギリスのピーター・デュラントにより金属缶に詰めて密封した缶詰が作られた。
しかし、この缶詰はハンマーと(のみ)、戦場では銃剣によって開封されていた不便なものであった(缶切りによって開けられるようになるのは、1858年、アメリカのエズラ・J・ワーナーの缶切り開発まで待たねばならなかった。*2も参照)。
その後、1950年代に、アメリカ陸軍補給部隊研究開発局が缶詰にかわる軍用携帯食として開発したのがレトルト食品である。缶詰の重さや、空缶処理の問題を改善するのが狙いであった。その後、アポロ計画宇宙食に採用されたことで多くの食品メーカーに注目されるようになった。
しかし、アメリカでは、当時既に一般家庭に冷凍冷蔵庫が普及しており、各種の冷凍食品が発売されていたことからまったく普及しなかった(パッケージの貼り合わせに接着剤を用いているため、アメリカ食品医薬品局より認可が下りなかったのも原因の一つである)ようである。
逆に日本では、当時は冷凍冷蔵庫の普及が遅れていたため、常温で流通、保存できる缶詰にかわる新しい加工食品として期待がかけられていた。

大塚食品(工業)は1964(昭和39)年、関西でカレー粉や即席固形カレーを製造販売していた会社を、大塚グループが引き継いでスタートしたが、当時はすでにカレー粉や缶詰での販売で、メーカー間の競争が激しく、大塚食品は「他社と同じものを作っても勝ち目はない、何か違ったものを作りたい」と考えていた。
そんなときに、米国のパッケージ専門誌『モダン・パッケージ』に掲載された「US Army Natick Lab」の記事に缶詰に代わる軍用の携帯食としてソーセージ真空パックにしたものが紹介されているのを目にし、「この技術をカレーと組み合わせたら、お湯で温めるだけで食べられるカレーが出来るかもしれない」と考え、この新しい技術との出会いをきっかけに、「一人前入りで、お湯で温めるだけで食べられるカレー、誰でも失敗しないカレー」のコンセプトで開発をスタートしたという。

レトルト食品には、高温処理しても食品そのものの品質を落とさない独自の調理技術と、長期保存を可能にする殺菌技術、そして高温殺菌に耐えられる包装技術の3つが必要である。
しかし、大塚食品には当時はパウチ(レトルト食品を封入している袋)にする包材もなければ、レトルト釜もなかったが、幸い大塚グループで持っていた点滴液の殺菌技術を応用して、レトルト釜を自分たちで作ったという(*3参照)。
そして試行錯誤の末、世界初の市販用レトルトカレーとして発売された最初の「ボンカレー」は、透明な合成樹脂(ポリエチレンとポリエステル)のみによる2層の積層加工で光、酸素を透過する透明フイルム制の袋に入っていたことから、密封が完全ではなく、レトルト最大の特徴である保存性が低く(賞味期限も冬場:3ヶ月、夏場:2ヶ月)、また、輸送中に穴が空くなど強度の問題もあり、常温流通に耐えられず、阪神地区限定品どまりであった。
ただ、当時は牛肉がまだ高価であったが「ボンカレー」は牛肉100%にこだわり、とっておきのごちそうメニューとして食卓に提供された。「ボンカレー」のネーミングはフランス語BON(良い、おいしい)と英語のCURRY(カレー)を組み合わせ、まさにおいしいカレーという意味が込められている。
このレトルトパウチ問題の解決をするため、内側のポリプロピレンと外側のポリエステル間に東洋製罐が開発したアルミ箔を挟んだ3層遮光性パウチ(袋)を使って強度を増した改良版パウチで化粧直しをし、翌1969(昭和34)年4月再デビューした。
賞味期限は一気に2年に延び、これが、大評判をとった。また、流通過程での破損も解決でき、大量陳列により消費者にアピールすることもできるようになって、同年5月に「ボンカレー」はついに全国発売に至った。それは、松山容子パッケージのもので味は野菜ベースであった。
テレビCMにはパッケージのモデルである女優の松山容子と俳優の品川隆二が夫婦役でやっていた記憶がある。
しかし、今は一般的となったレトルトカレーではあるが、レトルトの特徴などがはじめはなかなか消費者に受け入れられず、ボンカレー発売当時の宣伝は「3分温めるだけですぐ食べられる」という内容のもので、その宣伝からも分かるように、保存性よりも簡便性を前面に打ち出した、いわば、インスタント食品の一種として普及していった。
しかし、この当時、外食の素うどん50~60円の時代(うどん・そばの価格推移は*4参照)に、ボンカレーは1個80円。「高すぎる」というのが当時の反応であったため、当時、営業マンが全国各地に、ホーロー看板を自ら貼りにまわって普及に努めた。


上掲の画像は、当時駅や街角で見かけたホーロー看板。
ホーロー看板は、全国で9万5千枚も取り付けられたという。そうした営業マンの努力の甲斐もあり、ボンカレーはしだいに浸透し、売上を伸ばし、1973(昭和53)年には年間販売数量1億食を達成したという。そして、この年に放送されたテレビコマーシャルの「3分間待つのだぞ」という落語家笑福亭仁鶴によるセリフは流行語にもなった。



上掲は、1972年CM大塚のボンカレー・子連れ狼編- YouTube

日本の高度経済成長は1962(昭和37)年1月から1965(昭和40)年10月まで、高度成長第二期(輸出・財政主導型)が1965(昭和40)年11月から1973(昭和48)年11月までとされるが、1970年代以降も、経済成長は続き(*5参照)、都市を中心とした核家族化が進んだことによって、食事の個食化も進み、一人でおいしく手軽に食べられる一食完結型の食品の需要が高まった(ここでいう個食は、食育に関する言葉6つ「こ食」(*6、*7参照)の中の「孤食」に当たる。)。
そんな中、1971(昭和46)年にはハウス食品が『ククレカレー』を大ヒットさせるなど、他の大手食品メーカーもつぎつぎにレトルトカレー市場に参入。
市場に競合商品も増えたため、1978(昭和53)年には、大塚食品は日本人の嗜好の変化に合わせて香辛料やフルーツを贅沢に使った新商品『ボンカレーゴールド』(ここ参照)を発売。
ボンカレーと食材の構成を替えたこの商品は、以後、ボンカレーに取って代わり主力製品とななっている。テレビCMには巨人軍の王選手(後に郷ひろみ田村正和所ジョージ松坂慶子池谷幸雄ともさかりえ)を起用した。
レトルト食品は、カレーのほか、ハヤシ、パスタソース、どんぶり物や、麻婆料理の素、シチュー、スープ、ハンバーグ類、ぜんざいと、現在では多くのレトルト食品が出回っている。
1972(昭和47)年に、冷凍米飯(調理加工した米飯をマイナス40度以下で急冷凍したもの)、1973(昭和48)年のレトルト赤飯、に続いて、1975(昭和50) 年にやっとレトルト白飯が開発され、その他にも昔からの缶詰米飯や
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