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ロマンスの日 2ー1

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日本記念日協会の今日・6月19日の記念日に「ロマンスの日」があった。
記念日の由来を見ると“大切なパートナーとの仲がいつまでも続くように、この日に非日常的な演出をしてふたりの関係にトキメキを甦らせてもらおうと日本ロマンチスト協会(※1)が制定し、「本当に大切な人と極上の一日を過ごす」ことを推奨しているそうだ。
ロマンチストの聖地、長崎県雲仙市愛野町で「ジャガチュー(ジャガイモ畑の中心でロマンスを叫ぶ)」などのイベントを行っているそうで、日付は6と19で「ロマンティック」の語呂合わせなどから。・・・としている。
ここに書いてある由緒だけを見ても、何故愛野町がロマンチストの聖地?で、何故ジャガイモ畑の中心でロマンスを叫ぶのか?などよく分からないので同協会HP(※1)を覗くと、
同協会は、その名の通りロマンチストが集まった団体であり、「ロマンチスト」とは、”恋人や家族など「大切な人を世界で1番幸せにできる人」と協会では定義しているようだ。
そして、同協会の会長波房氏は“ロマンチストというと、「空想癖」や「ナルシスト」(ナルシシズム参照)などちょっとネガティブ(negative)な人物像をイメージするかもしれないが、もっと、ポジティブ(⇔ネガティブ)に定義付け、“大切な人との良い関係作りのためにロマンチックに生きる人が増えれば、世の人の心が温かくなり、社会全体としてもハッピーな状態になるのでは・・・”と考えてこの運動をしているのだという。
そして、雲仙市の愛野町を通るローカル線「島原鉄道」の愛野駅から、吾妻(あづま)駅までの乗車キップは、「愛しの吾が妻(いとしのわがつま)」に通じる縁起物として知られていることから、ここを「聖地」として、同協会の本部をこの地に設置した。
同鉄道の愛野駅はメルヘンチックなかわいらしい駅であり、前方には見晴らしの良い海抜95メートルの断崖絶壁、背後には愛野のバレイショ(ジャガイモ)畑が広がっており、このジャガイモ畑を会場にして、「ジャガイモ畑の中心でロマンスを叫ぶ「ジャガチュー」と題した企画を実施しているのだという。この記念日の設置やこの運動は2008(平成20)年から行っているようだ。同協会ではロマンスの日に、「真実の愛」や「誠実な誓い」の意味を持つ色の物を大切な人に贈ろう、という運動もしているそうだ。
今の若い人達と私たちの年代のものでは、ロマンの考え方もずいぶん違ってきているのだろうが、ここで言うところの、ロマンチストな若者がジャガイモ畑に集まって、谷に向かって大声で愛の告白などしたりして、それで愛が通じたりするものであるなら、それはそれで、結構なことであり、おおいに、楽しんでやられるとよいだろう。興味のある方は、同協会HPを覗かれると良い。

このブログでは、協会の運動とは関係なく、これ以降は、記念日にあるところの「ロマンス」を題材として書くことにする。
日本では、「ロマンチックな人」のことをロマンチストなどと言っているが、そもそも、「ロマンチスト」は和製英語であり、英語での正しい綴り“romanticist” (ロマンティシスト)は、“ロマン主義”romanticism“を信奉する人。ロマン主義者、つまり、ロマン派文学者・芸術家を言うことが多いが、日本語のロマンチストの意味に近いのは"romantic"であり、“現実を離れた、甘美な空想などを好む人。夢想家。空想家”を言っている。特に、漢字で「浪漫」と書いた場合などは、男性また女性が追い求める夢と希望の事をいっていることが多いようだ。
ロマン主義(※2も参照)という語のもとをなす形容詞ロマンチック“romantic”(英語)、“romantique”(フランス語)は、もともと俗化したラテン語を、ついでその言語によって書かれたすべての作物(小説や物語など)をさしたフランス語のロマン“roman”に由来するが、時代が下るにしたがってロマンは初め韻文で、後には散文でも書かれた中世の騎士道物語に対して用いられ、とくにイギリスでは「ローマ的」という意味でロマンス“romance”とよばれるようになった。
ロマンチックの初出は17世紀中葉のイギリスであり、少し後れてほぼ同時期にドイツ、フランスに入り、主として小説的で幻想的な印象を与える風物や芸術作品の形容詞に用いられていたが、やがて18世紀末から19世紀初頭にかけてイギリス、ドイツ、フランスを中心にヨーロッパ各地で、文学・芸術・思想上の自由解放を信奉する革新的思潮の高まりの中から、合理主義の普遍的理性に対抗して個々人の感性と想像力の優越を主張し、古典主義の表現形式の規制を打破して自我の自由な表現を追求しようとした文芸運動が展開され、伝統文化をよぶクラシックclassic(古典的)の対立語として定着するに至った。
ロマン主義は、その展開の中で、近代個人主義を根本におき、それまで古典主義において軽視されてきたエキゾチスム“exoticism”・オリエンタリズム“orientalism”・神秘主義“mysticism”・“dream”などといった題材が好まれた。またそれまで教条主義によって抑圧されてきた個人の感情、「憂鬱」・「不安」・「動揺」・「苦悩」・「個人的な愛情」などを大きく扱った。
文学ではルソーゲーテワーズワースを先駆とし、絵画ではジェリコドラクロアゴヤ、音楽ではシューベルトシューマンショパンベルリオーズらに代表される。

日本でのロマン主義文学の先駆けは、明治中期(1890年前後)以降、西欧のロマン主義文学の影響を受けた森鴎外の『舞姫』(1890年)によって始まり、『文学界』(1893年〜1898年)同人の島崎藤村の詩や北村透谷の評論などによって推進された(※4参照)。彼らは美と自由を主張し、人間性の解放と主情(理性や意志よりも、感情や情緒などを中心とすること)的真実を探り、自我の確立を目ざした。
本格的な浪漫主義は、明治30年代の詩歌全盛の時代とともに開花するが、その主流となったのは、与謝野鉄幹晶子夫妻を中心とする雑誌『明星』(1900〜08)によった歌人らであり、好んで星やすみれ(菫)に託して、恋愛や甘い感傷を詩歌に歌ったことから彼らを指して、星菫(せいきん)派と称した。その本質は、奔放な情熱による自我の解放と恋愛至上と空想的唯美の世界への陶酔にあった。
この当時のロマン主義文学の代表作には、樋口一葉の短編小説『たけくらべ』(1895年)、島崎藤村の詩集『若菜集』(1897年)、国木田独歩の随筆的小説『武蔵野』(1898年。※3)、徳冨蘆花の社会的視野を持った家庭小説『不如帰』(1899年)、泉鏡花の幻想小説『高野聖』(1900年)があり、本格的な浪漫主義は、明治30年代の詩歌全盛の時代とともに開花し、与謝野晶子の歌集『みだれ髪』(1901年)、などがあるが、国木田独歩はやがてロマン主義から自然主義的な作風に変化してゆき、島崎藤村は『破戒』(1906年)により、ロマン主義から自然主義文学に完全に移行した。日本のロマン主義文学は、西欧のそれに比べて短命であった。

大正時代の雰囲気を伝える思潮や文化事象を指して呼ぶ言葉に「大正ロマン」があり、しばしば「大正浪漫」とも表記されるが、この「浪漫」という当て字は夏目漱石によって付けられたとされている。
「大正ロマン」は、新しい時代の萌芽(ほうが。草木の芽のもえ出ることから、新しい物事が起こりはじめること。また、物事の起こるきざし)を示す意味合いから、モダニズム“modernism”(近代化)から派生した「大正モダン」という言葉と同列に扱われることもある。
「大正モダン」と「大正ロマン」は同時代の表と裏を表象する対立の概念であろう。在位の短かった天皇の崩御により、震災(関東大震災)復興などによる経済の閉塞感とともに、この時代は終わり、世界的大恐慌で始まる昭和の時代に移るが、大衆化の勢いは衰えることなく昭和モダンの時代へと引き継がれ、昭和時代の初め1930年代に花開した。それは、和洋折衷の近代市民文化であった。
大衆ロマン主義を表現したり訴える手段としては、映画や歌謡曲は小説以上に効果がある。
1922(大正11)年の「枯れすすき」(作詞:野口雨情、作曲:中山晋平。後「船頭小唄」と改題映画化)などによって、映画が流行歌の強力な媒体となることが証明された。以下では、「船頭小唄」に主演した貴重な栗島すみ子他による粗筋の説明がある。

船頭小唄劇-上 栗島すみ子外 - YouTube

映画主題歌は昭和になるとともにいっそう多く製作され、「東京行進曲」(1929年。唄:佐藤千夜子、作詞:西條八十、作曲:中山晋平)や「女給の唄」(映画タイトルは「女給」(歌・羽衣歌子、 作詞・西條八十、 作曲・塩尻精八)が大きな話題となった。
「東京行進曲」では、モボ・モガが行き交う昭和初期の開放的な東京・銀座の風俗が唄われている。以下では、佐藤千夜子の歌とともに、関東大震災からまだ、復興して5年ほどの、昭和4年の東京銀座 浅草の賑やかな光景が見られる。

佐藤千夜子 東京行進曲 昭和4年の東京銀座 浅草 - YouTube

女給の唄 羽衣歌子 -YouTube

これらの歌のヒットの原動力としては、当時電気吹き込みで音色が一段と改良され、電気蓄音機(電蓄)が登場することになり、レコードが家庭内に浸透したことによる事が大きい。
そして、従来は庶民が愛好したので「流行歌」となったが、次第に、流行を予測し、最初から「流行歌」と銘打った曲が発売されるにいたり、その性格は一変し、映画産業とレコード企業が庶民の嗜好を左右する原動力となっていった。
又、作詞や作曲の専業者が現れ、歌手がスターの座につくようになり、庶民の憧れの存在となった。このようなさま変わりした流行歌の宣伝媒体として、ラジオや新聞そして、雑誌も参加してくることになった。
そして1937(昭和12)年小唄 勝太郎の歌う「島の娘」や「東京音頭」などの芸者唄にあこがれる者が現れる反面、それを拒否する声も大きくなった。その矢先に、1936(昭和11)年「忘れちゃいやヨ」が大ヒットした。

東京音頭-小唄 勝太郎 - YouTube

島の娘 小唄勝太郎- YouTube

忘れちゃいやヨ -渡辺はま子 - YouTube

また、映画では、川口松太郎の小説を映画化した「愛染かつら」の主題歌「旅の夜風」、作詞:西條八十、作曲:万城目正、唄:霧島 昇ミス・コロムビア)は、同映画の挿入歌「悲しき子守唄」とのカップリングでコロムビアレコード(現コロムビアレコード)から発売80万枚という驚異的なレコード売り上げを記録したという。当時日本にあったプレーヤー(蓄音機)の台数を考えると、今日では2000万枚近いメガヒットにも相当するかもしれないという。

旅の夜 風霧島昇、コロムビア- YouTube

また、1940(昭和15)年発売の戦時歌謡曲「誰(たれ)か故郷(こきょう)を想わざる」(作詞:西條八十、作曲:古賀政男、歌:霧島昇))は、歌のヒットにより、新興キネマより同名で映画が公開されヒットた。

霧島 昇 誰か故郷を想わざる- YouTube

映画での主題歌の強さを見せ付けた。1930年代は、日本調が一つの頂点に達したときである。
1910年代になると、ポピュラー音楽の外国レコードも大量に入ってくるようになり、次第に外国楽曲の愛好者も増え、1930年代になると、ディック・ミネの「ダイナ」や「雨のブルース」(淡谷 のり子)などが歌われるようになる。

ダイナ ディック・ミネ (昭和九年) - YouTube

淡谷のり子 雨のブルース- YouTube

しかし、1930年代後半(1937年〜)頃には、日中戦争の激化と世界的な国際関係の緊張を受け国家総動員(国家総動員法参照)となり、これらの文化は「軟弱で贅沢」「反“新体制”的」として排斥され、昭和モダンは終わりを迎え、次第に軍歌や軍国調の国民歌謡が歌の主流を占めるようになったが、初期の頃は意外にロマンの香り豊かな歌謡曲が作られ歌われていたのだ。
このような、昭和モダンの歌の流れは第二次世界大戦後(1945年8月〜)になってますます顕著となる。
終戦直後は各レコード会社が戦災のために思うように新譜レコードを発売できず、戦前の歌謡曲が再発売されていたが、戦争という時代の制約から解放されたレコード業界は、早速、終戦翌年より活動を再開、この時、レコード会社は新人歌手の開拓に腐心した。この活動によりデビューしたのが、並木路子美空ひばりなど、「第三世代」( Wikipedia-流行歌の3.6 戦後の躍進と第三世代参照)と呼ぶべき歌手である。
戦後の日本の歌謡史は並木路子が歌う「リンゴの唄 」(作詞:サトウハチロー。作曲は万城目正。)で始まった。焼け跡の廃墟のから聴こえて来た。
この歌は、終戦(1945年8月)2ヶ月後公開された戦後映画の第1号(GHQ検閲第一号映画でもある)『そよ風』(松竹映画、1945年10月公開。佐々木康監督)の主題歌であった。

リンゴの唄〜映画『そよかぜ』より - YouTube

映画『そよ風』は、もともと本土決戦に備え戦意高揚の目的(プロパガンダ)として企画されたものだったが、終戦を迎え内容もすっかり変わり、主演には撮影当時23歳の松竹少女歌劇団員である並木路子が抜擢され、並木扮するレビュー劇場の照明係で歌手志望の少女みちが、楽団員たちに励まされ、やがて歌手としてデビューするという、映画としては、レビューガールの恋と生活を描いた平凡な「スター誕生」の物語となった。
映画の中では、ヒロインの並木が、恋心を寄せていた佐野周二の何気ない言葉に傷ついて、りんご農家である実家に帰ってしまう。そして、りんご畑で一人寂しく「リンゴの唄」を歌うという設定になっているが、レコードは、映画にも出た霧島昇とのデュエットとなっている。「この曲は必ず当たる」と思った霧島が強引にデュエットを希望したらしく、スタッフは当時コロムビアの看板歌手だった霧島の要求を断れなかったようだ。しかし、霧島は並木を売り出したいコロムビア側の意向でステージでは歌わなかったという。
この、「リンゴの唄」は、映画が封切りされてからレコード吹き込みまでに再三ラジオで放送され、空前の大ヒットとなった。
私の父親も大好きで、毎日歌っていたので、子供心に私もいつの間にか覚えて、口ずさんでいた。
終戦直後の昭和20年の暮までは、軍歌や戦時歌謡が盛んであったが、その反面、戦時中禁じられていた歌謡曲が一斉に蘇(よみがえ)りつつある時でもあった。そして、「リンゴの唄」を耳にするまで、これといって新しい歌もなかった。
並木が健康的でさわやかに、可憐な少女の思いを赤いリンゴに託して歌ったこの歌詞が、戦後の焼け跡の風景や戦時の重圧からの解放感とうまく合って、敗戦の混乱のなか虚脱と退廃に包まれた人々の心を癒し、それ以上に、人々に生きる希望・夢(浪漫)を感じさせたのだろう。、
この歌のヒットのより、戦後は、古いイメージの昭和1ケタ台に活躍した歌手が引退し、昭和20年代は戦前派でも昭和10年以降の第二世代の歌手が活躍し、新しく出てきた第三世代と新旧相交ざった状態が昭和20年代中頃まで続いたが、「リンゴの唄」に続いて、岡晴夫が歌う「東京の花売娘」や憧れのハワイ航路」(昭和23年)が一世を風靡した。彼の底抜けに明るく歌う前曲では、ブギウギのリズムに乗せ、ジャズ・米兵と焼け跡の首都の風俗を叙情的な歌詞で表され、後曲では、戦争の火蓋が切られたハワイを、何の衒(てら)いも無く理想郷に置き換え、平和の到来と開放感に充ちた時代の到来を告げた。

東京の花賣娘 岡晴夫- YouTube

憧れのハワイ航路  岡 晴夫- YouTube

また、服部良一作曲で、笠置シヅ子が虚脱感を吹き飛ばすかのように歌った」、「東京ブギウギ」、古賀政男作曲の近江俊郎湯の町エレジー」の大ヒット、藤山一郎奈良光枝のデュエットで格調高く溌剌(はつらつ)と復興の息吹を呼ぶかのように歌った映画「青い山脈」の同名の主題歌「青い山脈」(作詞:西條八十 、作曲:服部良一)などもヒットするなど、戦後流行歌が数多く生まれたが、そんな戦前派の代表格である藤山も昭和29(1954)年には引退を決意し、次々戦前派歌手が撤退する中、レコード各社は新人歌手の開拓でしのぎを削っていた。これが、日本歌謡における多ジャンル化への契機ともなった。

笠置シヅ子 東京ブギウギ - YouTube

近江俊郎 湯の町エレジー - YouTube

青い山脈 藤山一郎さん  奈良光枝 さん 原曲- YouTube

そんななか美空ひばりが、1949(昭和24)年、1月、日劇レヴュー「ラブ・パレード」(主役・灰田勝彦。参考※5:「昭和のレビュ-狂時代」の年代別:昭和24年を参照)で笠置シヅ子の「セコハン娘東京ブギウギ」を歌い踊る子供として面白がられ、同年3月には東横映画「喉自慢狂時代」(大映配給、※6)でブギウギを歌う少女として映画初出演。8月には松竹映画「踊る竜宮城」(※7)に出演し、主題歌「河童ブギウギ」で、コロムビアから歌手としてB面ではあるが11歳で正式にレコードデビュー(7月30日)を果たした。続いて12歳で、映画主演を果たした「悲しき口笛」(松竹)が大ヒット、同主題歌も45万枚売れ(当時の最高記録)国民的認知度を得た。この時の「シルクハットに燕尾服」で歌う映像は小さいときのひばりを代表するものとしてよく取り上げられている。
以下で当時の懐かしいひばりの歌が聞ける。さすが、天才少女と呼ばれ、昭和歌謡界の女王として君臨しただけあり、子どもとは言えない素晴らしい歌唱力である。

美空ひばりデビュー「踊る竜宮城」 - デイリーモーション動画

悲しき口笛−美空ひばり- YouTube

戦前派の撤退を横目に、ビクターからは、鶴田浩二、三浦洸一、テイチクからは三波春夫、コロムビアからは島倉千代子村田英雄らの新人をデビューさせた。特にキングは昭和20年代末から30年代にかけて、春日八郎三橋美智也をデビューさせて、戦前とは比べ物にならない勢いを誇っていた。また映画「太陽の季節」「狂った果実」で映画デビューした日活のスターである石原裕次郎や双子のデュオザ・ピーナッツなど、新しいタイプの歌手も次々登場させていた。

一方、日本の映画では戦後、GHQ により統治され、検閲を受けて、時代劇の大部分が製作できなくなっていたが、これはかえって、映画の民主化傾向の促進や映画労働運動の奨励などに貢献したといわれている。
初めのうちは民主主義的な映画を避けていた各映画会社もその厳しい検閲から、民主主義を標榜する映画作りを行うことになった。今では、当たり前のように映画に出てくるキスシーンも登場したのは 戦後第1作の映画「そよかぜ」に続いて佐々木監督が撮った1946(昭和21)年公開の「はたちの青春」(松竹。※8)からであるが、これも、GHQ による民主主義奨励の一環であったらしい。
又、1950 年代戦後復興期の日本全国で映画館の新設ラッシュが続くが、館内全体の「雰囲気」を重視し、「観客にロマンチックな気分をかもし出させる」ために必要な空間の創出も進められていた(※9)。
1951(昭和26)年に、サンフランシスコ講和条約が締結されると、翌年にGHQによる映画検閲が廃止となる。これにより上映禁止となっていた時代劇が復活するとともに、多数の映画が製作されるようになった。国際映画祭において黒澤明溝口健二らの日本映画作品が次々と受賞し、日本の文化的矜持の回復に務めた。

東映は、『新諸国物語 笛吹童子』シリーズや『新諸国物語 紅孔雀』(1954年・五部作)に、若手の中村錦之助東 千代之介を主演させ子供達に圧倒的人気を得、市川右太衛門片岡千恵蔵月形龍之介大友柳太朗といったベテラン俳優主演の大人物にも中村錦之助や大川橋蔵等新しいスターを次々主演させ時代劇王国としての地位を築いた。
東宝は、森繁久弥出演の『三等重役』より、サラリーマンシリーズ、社長シリーズ、駅前シリーズが大ヒット。東宝の経営を支え、黒澤映画からは、スーパースター三船敏郎や、加山雄三を生み出し、加山は、「若大将シリーズ」の主演で1960年代の東宝の屋台骨を支えるようになる。また、円谷英二監督は、特撮による「ゴジラ」がドル箱シリーズとなった。
松竹は、木下惠介監督や小津安二郎監督による映画で女性ファンを集め、伴淳三郎出演『二等兵物語』など、松竹がお得意とする喜劇作品もヒットさせた。
大映も長谷川一夫を筆頭に三大女優京マチ子山本富士子若尾文子そして新し市川雷蔵といった日本映画史に残る大スターを排出した。
日活は、五社協定により有力なスターを他社から引き抜けないため、石原裕次郎、小林旭浅丘ルリ子赤木圭一郎宍戸錠などの自前のスターを作り出し、若年向けの青春映画や無国籍アクション映画を製作•配給し人気を得た。
そうして、1958(昭和33)年には映画人口が11億人を突破するなど、映画は娯楽の殿堂として不動の存在となるとともに、映画産業における第二の黄金時代が到来することとなった。


ロマンスの日 2-2と参考のページへ

メルヘン

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1週間ほど前のブログで、日本記念日協会に登録されている6月19日の記念日「ロマンスの日」に、「ロマンス」をテーマとして、歌謡曲や映画のことをあれこれと書いた(※1参照)。
その時、日本では、「ロマンチックな人」のことをロマンチストなどと言っているが、そもそも「ロマンチスト」は和製英語であり、英語での正しい綴り“romanticist” (ロマンティシスト)は、“ロマン主義”romanticism“を信奉する人。ロマン主義者、つまり、ロマン派文学者・芸術家を言うことが多い。
ただ、日本語のロマンチストの意味に近いのは"romantic"であり、“現実を離れた、甘美な空想などを好む人。夢想家。空想家”を言っている・・・が、そういえば、日本語には、このような和製英語が多いがその中に、「ロマンチック」によく似た言葉、「メルヘンチック」があった。それが気になっていたので、今日は、「メルヘン」をテーマに書いてみることにした。
メルヘン」(ドイツ語:メルヒェン、Märchen)は、おとぎ話(説話)。昔話( Yahoo!百科事典も参照)。伝承民話のように民間に語り継がれた物・口承文芸(民間メルヘン。フォルクスメルヘン、〔Volksmärchen〕参照) また、それらを元に創作された創作童話(創作メルヘン、クンストメルヘン、〔Kunstmärchen〕参照)など、妖精小人魔法使いなどが活躍するドイツ発生の散文による空想的な物語である。
その文学形式は、英語ではフェアリーテール(Fairy tale、妖精物語)、フランスではコント(contes de fée)と呼ばれるものに相当するものである。
ドイツ語メルヘン“Märchen” の語源は、“Mär”="Maere"(知らせ、噂、面白い話)に、「小さい」を意味するドイツ語の指小形の“chen” が付けられたもの(※2.※3参照)で、メルヘンという言葉は「ちょっとした知らせ、噂話・情報」といった意味になるが、15世紀には、そのような、メーレ(Mär)と呼ばれるの文体の短い物語があったようである。
18世紀にフランスの妖精物語や、『千夜一夜物語』がドイツ語に訳され、これらをメルヘンと呼ぶようになったようだ。
ドイツではメルヘンの概念はグリム兄弟によって形作られたとされている。
「メルヘン」は、童話、あるいは童話的な素朴な空想を含む物語の意味で使われることが多く、童話の世界にでもありそうなさまを (ドイツ)Märchenに「ロマンチック」同様“語尾に英語の”tic“をつけた和製英語で「メルヘンチック」などといったりしている。

ところで、私たちが子供の頃の最もメルヘンチックな世界と言えばディズニーのアニメ映画(ディズニー作品参照)の世界ではなかっただろうか。
日本での公開が決まっていながら、太平洋戦争勃発によって国内上映が出来なくなった作品の中には、普通の大人用の映画だけではなく、子供向きの作品も含まれていた。
ウォルト・ディズニーが手掛けた世界初の長編アニメ「白雪姫」もその1本であり、作られたのは1937年、グリム童話のおとぎ話の1つをアニメ化したものだったが、日本公開は、戦後、5年を経った1950(昭和25)年9月のことであった。
戦後最初に上映されたアメリカ製長編アニメは、マックス・フライシャー兄弟(フライシャー・スタジオ)製作の「ガリバー旅行記」(映画の解説は、goo-映画参照)で、「白雪姫」より2年早い1948(昭和23)年の公開だった。
こちらは、「ベティ・ブープ」や「ポパイ」などのカートゥーン映画を制作し人気を誇っていた初期ディズニー・プロの最も重要な競争相手であったフライシャー・スタジオ及びパラマウント映画が、ディズニーの「白雪姫」の成功を受けて、1939年に製作したものである。その翌1949(昭和24)年には、ピョートル・エルショフのロシアの古いおとぎ話に取材した長編色彩民話「せむしの仔馬」を題材にしたソビエト初の長編 アニメ「せむしのこうま」(後に邦題は「イワンと仔馬」と改題。映画の解説は、goo-映画参照)も公開された。
このアニメ映画も、ディズニーの白雪姫に代表されるアメリカのアニメがモスクワでも人気を呼んだことをきっかけに設立されたソビエト連邦動画撮影所による作品である。
日本製アニメの製作が途絶えていた戦後のこの時期、輸入アニメは好成績を記録、なかでも「白雪姫」は、質、内容の点でも評価が高く、ディズニーアニメの時代はその後長い間続き現代に至っている。私も、初めてこの映画を見たときには本当に感動した。
アニメ映画『白雪姫』の原題「Snow White and the Seven Dwarfs」は、直訳すると「スノーホワイ(白雪姫)と7人の小人達」という意味になる。
アニメ映画『白雪姫』の内容は、ざっと以下のようなもの。
むかし、ある城に、雪のように白い肌に血のように赤い頬、そして黒檀のように黒い髪の白雪姫という姫が住んでいた。
母が亡くなって、新しい女王となった白雪姫の継母は、実は魔女で毎日魔法の鏡に向かって「この世で一番美しいのは誰?」と質問していた。
ところが、ある日、いつものように鏡に聞くと、鏡は「世界で一番美しいのは白雪姫」と答えた。
そこで女王は、ある家来(狩人?)に、白雪姫を森へ連れだし殺し、彼女の心臓を持ち帰るよう命令するが、家来は、可哀相で殺せず姫を森へ逃がした。
白雪姫は森で迷い、一軒の小さな家を見つけると、そこは七人の小人の住む家だった。
一方、女王は、鏡に聞いてみると、鏡は「一番美しいのは、白雪姫です」と答えたので、白雪姫が生きていることを知り、再び姫を殺そうと、魔法を使って毒リンゴを作り、老婆の姿に化けて、リンゴを持って森へ出かけ白雪姫に食べさせて殺してしまった。
7人の小人達が、嘆き悲しんでいるところへ、王子様が通りかかり、ガラスのお棺に入った白雪姫のあまりの美しさに、王子は、思わず口づけをすると奇跡が起こって姫が生き返り、そして王子様と一緒にお城へ行って結婚して幸せにくらしましたとさ・・・。めでたし、めでたし・・・といったところで終わっている。誰もが「白雪姫」というと、このアニメの内容を思い出すのではないか。
冒頭の画像は、グリム童話のガラスの棺に入れられた白雪姫。Wikipediaより。
このディズニーのアニメ「白雪姫」は以下参考の上のところに記載の◎YouTubeで見ることが出来る。このようなアニメは子どもだけでなく、大人が見ても十分に楽しめる。
ディズニー初の長編映画というだけでなく、アニメ史に残るファンタジーの傑作として知られるが、グリム兄弟の『グリム童話集』が初めて世に出たのは1812年のことだ。
今年は、丁度グリム童話誕生200周年に当たる。グリム童話の中でも幅広い世代に愛されてきたおとぎばなしの「白雪姫」の童話の物語に大胆なアレンジを加えてアクション・アドベンチャー作品として作られたユニバーサル映画「スノーホワイト」が6月1日から公開されている。

上掲の画像は映画「スノーホワイト」のチラシ。
スノーホワイトの元題はSnow White & the Huntsmanこれを直訳すると、「白雪姫とハンター(猟師)」。私は、この映画をまだ見ていないが、この映画ではディズニーのアニメとはことなり、王子様よりもハンターが重要な役割を果たしているようだ。そして、白雪姫もディズニーアニメ「白雪姫と7人の小人」に見られる優しくてきれいな白雪姫とは異なり、森の中へ逃亡したスノーホワイトを捕らえるために女王が放った刺客のハンターと手を組み、狩や剣のテクニックを身につけ戦うスノービューティーへと変貌してゆくそうだ。同映画予告編を見ていると、何か「ナルニア国物語や、「ハリーポッター」の映画に近い雰囲気を感じる・・・・。
又、今年は、インド出身の「ターセム・シン監督によるアメリカ映画「ミラー・ミラー(Mirror Mirror)」が邦題を白雪姫と鏡の女王」に改めて、9月に日本公開されるそうだ。 前者がシリアスなハード白雪姫ならこちらはコメディー・タッチなちょっと笑える白雪姫であり、その白雪姫が挑むのは史上最強のわがまま女王と言うことになっている。
「鏡よ鏡この世で一番美しいのは誰?」・・・。
ディズニーアニメとは違って、現代版の白雪姫は、どちらも、女王と白雪姫、女と女の戦いの映画といったようなものになっている。女性が強くなった現代の社会を反映した映画といえるのかも・・・。
以下でその予告編が見られる。

映画『スノーホワイト』公式サイト

映画『白雪姫と鏡の女王』公式サイト

グリム童話は、アレンジされて色々映画化されているが、今から、15年ほど前の1997(平成9)年10月に、グリム兄弟が1812年に発表した「白雪姫」の原典に忠実にその残酷さと狂気の世界を再現したといわれるアメリカ製のファンタジーホラー映画「グリム・ブラザーズ/スノーホワイト」(原題:Snow White:A Tale of Terror。直訳:白雪姫:恐怖の物語)が日本で公開されているが、大筋は一般によく知られた童話通りの流れであるが、グリム童話本来の残酷性を前面に出したストーリーになっている・・・という(映画の内容はgoo-映画を参照)。
グリム童話の『白雪姫』の菊池寛に依る邦訳ものが青空文庫(※4)で読めるが、菊池寛に依る邦訳ものにしても、ディズニー・アニメのような、めでたしめでたし・・・で終わるものではなく、白雪姫を城に連れて帰った王子は白雪姫と結婚し、その結婚披露宴で、王妃は真っ赤に焼けた鉄の靴を履かされ、死ぬまで踊らされる・・・という恐い結末で終わっている。しかし、初版グリムでの記述 では、白雪姫を殺そうとし、又最後に焼けた靴を履かされて殺されたのは、継母では無く実の母であったとされているなどもっともっと恐いものらしい。

現在一般に広く読まれ流布している『グリム童話』(正式には、ドイツ語でKinder und Hausmärchen 。略してKHM)。日本語では『子供たちと家庭の童話』)は、1875(明治8)年に出版された最後の版(第7版)であり、おもに童話200編、子供のための聖人伝説10編からなっており、「白雪姫」はKHM 53番目の作品である。
18世紀ごろまで、民話やおとぎ話は大人の娯楽の一部でしかなかったが、18世紀末から19世紀前半にかけて読み書きのできる子どもが増えてきたことから、子どもにも読めるやさしい昔話や童話が人気であった。
グリム兄弟が採集してきた民衆の間で口承されてきた民話などを子供向けにわかりやすく書き直して、童話集「子供と家庭のための昔話集」を出版した1812年出版の第1巻には、86話が収録されていたが、1815年には、70話からなる第2巻が出版され、さらに1819年には1、2巻を纏めて、161話を収めた第2版が出版された。
以後、最後の版(第7版)に至るまで、おもに弟のヴルヘルムによって、7回も加筆・修正されている。
グリム兄弟と言えば、日本では、『グリム童話』の編集者として知られているが、彼らは、実際には言語と歴史の専門家であり、童話集は彼らのメインの仕事ではなかった。彼らの主著は『ドイツ語辞典』であり、それ以外にも、兄弟で、40冊以上の専門書を発行しているという。
そんな兄弟が、何故、童話集を出したのか?
18世紀後半から19世紀にかけての時期は、ドイツ文化の一つの絶頂期であり、文学の世界では、ゲーテシラーが、哲学ではカント、音楽界ではモーツァルや、ハイドンベートーヴェンなどが活躍していた時代であるが、その少し前の時代まで、三十年戦争によって、ドイツ地方各地には諸侯が分立し、自由都市や小国が独立国としての権威を獲得し、300以上もの 領邦に分裂しており、(Wikipedia-ドイツの歴史又、ドイツのコトバンク-領邦国家も参照)、文化もヨーロッパの他の国と比べてはるかに貧弱だった。
つまり、グリム兄弟が生きた時代には、まだ、ドイツと言う国はなく、ドイツ語圏の統一国家を目指す社会的機運があり、ドイツ民族を統一するには先ず言語と文化からだということで、ヤーコプとヴィルヘルムの2人が、言語と文化の研究に強い関心を抱くようになり、そのことが、メルヘン集をつくった動機のひとつとなっているようだ。
また、1760年代末に「シュトゥルム・ウント・ドランク(日本語訳:疾風怒涛)」という革新的な文学運動が起こったことも、グリム兄弟がメルヘン集をつくる動機となったようだ。
この運動の中心人物にはゲーテがおり、史劇『ゲッツ・フォン・ベルリヒンゲン』(1773年)や、小説『若きウェルテルの悩み』(1774年)を残している。戯曲『群盗』(1784年)や『たくらみと恋』(1784年)の作者であるシラーや、音楽家であるハイドンも、この運動に参加していた。そのような動きのなかで、ドイツでは、自国の固有文学に対する見直しが叫ばれるようになり、昔から伝わるメルヒェンに注目が集まるようになっていった。そして、さまざまな民話集やメルヒェン集が発行されるようになった。
1770年代には、 ヘルダーが『民謡集』を、1782年には、ムゼーウスが『ドイツ人の民間メルヘン』を、1789年にはナウベルトが『ドイツ人の新しい民間童話』を出版。1806年から1808年にかけてアルニムブレンターノが共同で、民謡集『少年の魔法の角笛』(Des Knaben Wunderhorn) を出版,し、また、1808年には、A・L・グリム(グリム兄弟とは何の血縁関係もない)が『子どもの童話』を出版しているなど、グリム兄弟がメルヒェン集をつくる以前から、いくつものメルヘン集が出版されていた(以下参考の※5。※6の「ShosBar」のグリム「童話集」の真実は?参照)。
先に述べたブレンターノは、『少年の魔法の角笛』が評判がよかったので、その続編を出版するために、より多くのメルヘンが必要になり、グリム兄弟に蒐集活動の手助けを求め、ブレンターノは、図書館の中にある民謡の資料を写すことと、古い本や古い手稿類にある物語を記録することをグリム兄弟に依頼。グリム兄弟は、ブレンターノに協力することを決め、さまざまなメルヘンを集め出した。
1810年頃ブレンターノより、集めたメルヘンの草稿を送るよう頼まれ、グリム兄弟は、万が一のためにメルヘンの草稿を筆写した後、ブレンターノ宛に送ったが、何故だか、ブレンターノは、グリム兄弟から借りたメルヘンの草稿を公表しないばかりか、その草稿を紛失してしまい、返却することもしなかったそうだ。そのため、グリム兄弟は今まで蒐集してきた数多くのメルヘンを使って、自分たちでメルヘン集を出版する決心をし、1812年に出版した童話集が『子どもと家庭の童話』だというのだが・・・。
このグリム童話集は他の童話集とはちょっと違っていた。それは、他の童話集は、編者(著者)が大幅に加筆潤色していたため一つ一つが大変長かったが、グリム童話集は個々の話が非常に短い。これが売れ行きにも繋がり、3年後に第2版を出版することが出来たのだという。
初版は、口承のものをほぼそのままに、どちらかといえば大人向けのものであったため、話の内容や表現が子ども向きでなかったため、第2版以降は残酷な場面や性にまつわる表現などを書きあらため、会話体を増やしたり情景描写を詳しくしたりなどの文体上の改変が重ねられて、回を重ねるごとに収録童話の数も増えて言った。
よくアンデルセンの童話が「創作童話」であるのに対して、グリム童話は伝承童話であるといわれるが、グリム童話も初版のときの民間に語り継がれた口承民話(メルヘン)から離れてゆき、回を重ねるごとに、次第にグリム兄弟による創作童話(ファンタジー)的なものに変化していったようである。
童話集というと全国各地の村々をまわって、字の読めない老人、特にお婆さんを捜し出し、覚えている昔話を語ってもらいそれを記録するのが普通のやり方であり、グリム童話もそんな風にして集められたと思っている人も多いだろうが、実は、グリム兄弟は、遠くまで出かけず、主に知人や友人(あるいは友人の友人)から話を集めた。それらの協力者はみな、字の読めない老人などではなく、裕福な家庭で育った教養のある若い女性たちであり、主な語り手の中でももっとも多くのメルヘンを語ったのはハッセンプフルーク家の三姉妹等ユグノー系(ユグノー戦争参照)の人々であった。ハッセンプフルーク家は、カトリックに迫害されてドイツなどへ国外逃亡していた16世紀のフランスのプロテスタントの子孫であり、三十年戦争で疲弊したドイツ中部のヘッセン地方へ移住してきて繁栄していた。グリム兄弟は、同家とは親交があり、同家の息子の1人ハンスはグリム兄弟の妹と結婚している。
ハッセンプフルークは家庭では、主にフランス語が話されていたという。そのため、メルヘェンを書籍によって知っていたという可能性がある。特に、フランスのペローのメルヒェン集を読んでいるであろうことは、十分考えられる。そのため、ハッセンプフルーク家の三姉妹がグリム兄弟に語ったメルへンは、フランスやそのほかの地域の影響を受けている可能性を含んでいる。グリムは、昔話の出自を示すメモを残しており、三姉妹の一人マリーが語った話の中には「いばら姫」(KHM50。「眠れる森の美女」参照) や「白雪姫」(KHM53)などがあるという。後に、ハッセンプフルーク家等の若い女性からの入手情報は、グリム兄弟によって特に手が加えられているという(※7)。
このようなことから、『子どもと家庭の童話』に収録されたメルヘンは、純粋にドイツ独自のものであるとは言い切れず、グリムが昔話や民話の原型を改変したとの批判もあるようだが、グリム兄弟がメルヘンを改変したのは、フォルク(Volk)とドイツ語のためだった。・・・・と、同時に、当時グリム兄弟は生活が楽ではなかったらしいので、より期待される童話集にしてその売り上げの向上を期待しての面もあったかもしれない・・・とも思えるのだが・・・。
最後になったが、以下参考の※5「第1章」では、グリムの「白雪姫」の初版、第二版で、見られるストーリーの変化を、「白雪姫」の草稿時の史料と初版、第二版を比較し、変更点について細かく解説している。又、グリム兄弟によってつくりだされた「白雪姫」が、ディズニーによってどのように変身させられたか。それを、『グリム童話集』の第二版に収録された「白雪姫」と、ディズニーの長編アニメを比較し、ディズニーが新たに付け加えた場面と、グリム版から変更した場面を表に挙げを比較している。グリム兄弟や、ディズニーがそれぞれ、何を訴えたかったかもよく分かりますよ。


◎「白雪姫」(元題=Snow White and The Seven Dwarfs)日本語吹き替え版 
 ディズニー映画- YouTube part 1 part 2 part 3 part 4 part 5 part 6 part 7 part 8 part 9

参考:
※1:今日のことあれこれと・・・ロマンスの日
http://blog.goo.ne.jp/yousan02/d/20120619
※2:mpedia:メルヒェン
http://mpedia.jp/%E3%83%A1%E3%83%AB%E3%83%92%E3%82%A7%E3%83%B3
※3:げたにれの “日日是言語学”
http://ameblo.jp/nirenoya/day-20080122.html
※4:グリム 菊池寛訳 『白雪姫』(青空文庫)
http://www.aozora.gr.jp/cards/001091/files/42308_17916.html
※5:第1章(Microsoft Word)
http://lab.inf.shizuoka.ac.jp/nakao/thesis/06/natuki.doc
※6:ShosBar(鈴木晶のウエブサイト)
http://www.shosbar.com/
『ヘンゼルとグレーテル』ヤーコプ・グリム&ウィルヘルム・グリム 松岡正剛
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya1174.html
※7:第ー部 書きかえられた 『昔話集』(Adobe PDF)
http://repository.tufs.ac.jp/bitstream/10108/64057/5/dt-ko-0039004.pdf#search='ハッセンプフルーク家'
中世末期・近世初頭のドイツ鉱山業と領邦国家( PDF)
http://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/lt/rb/585pdf/sehara.pdf#search='中世末期・近世初頭のドイツ鉱山業と領邦国家( PDF)'
グリム兄弟とペロー童話 高 木 昌 史(Adobe PDF)
http://www.seijo.ac.jp/graduate/gslit/orig/journal/europe/pdf/seur-30-06.pdf#search='シャルル・ペロー 妖精物語'
グリム兄弟の「いばら姫」 テキストの類遷・類話[PDF]
http://repository.cc.sophia.ac.jp/dspace/bitstream/123456789/13908/2/200000052412_00000140_61.pdf福娘童話集:今日の世界昔話
http://hukumusume.com/douwa/index.html
補陀楽通信:第224回   時代はメルヘンチック  
http://www.potalaka.com/potalaka/potalaka224.html
メルヘン - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A1%E3%83%AB%E3%83%98%E3%83%B3

金閣寺炎上

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京都は東に比叡山を始めとした東山三十六峰が優美な姿をみせ、北には丹波高原に連なる愛宕山を始め北山があり、西の諸峰は保津川(桂川のうち、亀岡市保津町請田から京都市嵐山まで)を挟んで、嵐山、小倉山(右京区嵯峨にある山。保津川を隔てて嵐山と対する)が山渓をつくりだしているなど、風光明媚な自然環境に恵まれている。
794年(延暦13年)、桓武天皇がこうした東・北・西の三方を山に囲まれた地勢のもと、南に開いた内陸盆地に平安京を建設以来、武家政権が政治の中心を鎌倉 (鎌倉幕府)と江戸(江戸幕府)に移した時期以外、千有余年の間、政治・文化の中心として繁栄し、数多くの歴史上重要な文化的資産を現代に伝えているが、東山、北山、西山の山並みは、市街地の背景となっているばかりでなく、そこには史跡や歴史的建造物が集積し、恵まれた自然環境と見事にとけあっている。
しかし、平安京中央の平地部では、平安時代末期の皇位継承問題や摂関家の内紛などにより朝廷後白河天皇方と崇徳上皇方に分裂し、双方の武力衝突に至った保元平治の乱(1156年、1160年)以降、鎌倉時代承久の乱(1221年)、元弘の変(1331年)、南北朝時代の、明徳の乱(1391年)と戦乱の舞台になった事も少なくなく、特に室町時代の応仁元年(1467年)に発生し、文明9年( 1477年)までの約10年間にわたって継続した「応仁・文明の乱」(単に応仁の乱といわれることが多い)においては、町のほとんどが灰燼に帰し、戦火を免れた建物は、三十三間堂六波羅蜜寺、千本釈迦堂(正式名:大報恩寺)など数えるほどしかないという憂き目にあった。その為、洛中にはそれ以前にまで遡る建造物は極めて少なく、現存する建造物は桃山時代以降のものがほとんどである。
鎌倉幕府滅亡後の京都室町に置かれた室町幕府足利将軍家)によって、統治されていた時代、つまり、室町時代(足利時代などとも言われる)の文化は、一般に二つの山をもって語られている。すなわち、室町前期・十四世紀後半を北山文化、後期十五世紀後半を東山文化と呼ばれてきた。
そして、前者は、南北朝の合一(南北朝時代参照)を果たし、有力守護大名の勢力を押さえて幕府権力を確立させた三代将軍足利義満(1358年〜1408年)が将軍職を退いた後に、建てた北山山荘の「金閣」を、後者は、5代後の八代将軍足利義政(1436年-1490年)が応仁の乱後に造営した東山山荘の「銀閣」(生前未完成)をその象徴としている。
両文化の特徴として、北山文化は、「それまで伝統的であった公家文化と、新興の武家文化の融合した華やかな文化」、「東山文化」は、「公家文化・武家文化に禅宗文化の影響を受け簡素で深みのある文化」であり、庭園・書院造り・華道・茶道・水墨画・能・連歌など各分野の発達が目覚ましく、近世文化の源流をなすものとされており、貴族的・華麗な義満の北山文化に対して、幽玄わびさびに通じる美意識に支えられている・・と評されている。
しかし、北山山荘に代表される北山文化と言う特別なものがあったわけではなく、室町時代の文化は、16世紀の後半東山殿義政が茶の湯(書院茶の湯)の大成者と言う点で注目されるようになり(『山上宗二記』等にて)、まず、東山文化の名の下に理解されるようになり、これに対応する形で北山文化が語られるようになった。
室町文化のピークをこのような義満と義政の二期に求めるこうした区分は、色々見直してみることも多いようだがそのことにはここでは触れない。ただ、この時代に高揚した武家中心の文化の特徴をよく現しているとはいるだろう。
中央の平地部(洛中)では、幾多の兵火に見舞われて火災が頻発し、多くの建物などが失われては再興されるという繰返しであったが、周辺の山麓部は災害を免れ、起伏に富んだ自然地形を利用して建てられた大寺院や山荘・庭園がいまでも多数残されている。
室町幕府三代将軍となった足利義満は、京都のど真ん中、邸宅としていた花の御所の隣接地に一大禅宗伽藍を建立することを発願し、至徳2年(1385年)相国寺を創建した。その翌年、 南禅寺を天下第一、五山の上とし、天龍寺・相国寺・建仁寺東福寺万寿寺京都五山と定めた。(※義満の意向により応永8年相国寺を京都五山第一位、天龍寺を第二位とする順位変更が行われたが、義満没後の応永17年に元に戻されている)。
義満と対立し、後小松天皇に譲位(譲位時6歳)し、院政を行なっていた後円融上皇が明徳4年(1393年)に死去したことにより、自己の権力を確固たるものにした義満は応永元年(1394年)には将軍職を嫡男の義持に譲って隠居したが、政治上の実権は握り続けていた。同年、従一位太政大臣にまで昇進。翌年には出家して道義と号した。この義満の出家は、征夷大将軍として武家の太政大臣・准三后として公家のそれぞれの頂点に達した義満が、残る寺社勢力を支配する地位をも得ようとしたためであると考えられている。
又、准三宮宣下を受けて日本国准后の外交称号遣明使を派遣し、日本国王封号朝貢貿易の許しを得ることに成功し、巨万の富を得る。
応永4年(1397年)、義満は、有力公卿西園寺公経の御願寺西園寺の堂舎(大小の建物、 特に社寺の建物をいう)群と山荘(別邸)北山第(きたやまてい) の地を西園寺家より譲り受け、西園寺以来の堂舎群を引き継ぐとともに、舎利殿(=金閣)を中心とする自身や夫人らの山荘(「北山第」または「北山殿」)へ造り替えられた。
邸宅とは言え、その規模は御所にも匹敵するこの地へ、翌・応永5年に移り、この地を政治・外交の中心とするとともに、後に北山文化と呼ばれるものをも花開させた。
応永15年(1408年)には後小松天皇を招いて宴を催したが、この年に義満は急死したらしい。・・・真実はわからないが、義満が皇位を簒奪し寵愛していた次男、義嗣を天皇にして自らは天皇の父親として天皇家を吸収しようとしていたとも言われ、その死は皇位簒奪を目論む朝廷側による暗殺だ・・とする説もあるようだ。
等持院で火葬された義満の遺骨は、相国寺塔頭鹿苑院に葬られた。以後相国寺は歴代将軍の位牌を祀る牌所になったが天明期に火災に遭うなどして衰微していた。
義満が没した後も、義満の室日野康子(北山院)はこの地に住み続けた。
義持は父と折り合いが悪く、また父・義満が二男の義嗣を溺愛したことなどから、根深い反発をもっていたようだ。将軍職に就いた義持は義満が行った諸政策を否定、明との勘合貿易も取りやめ、母・康子が応永26年 (1419年)11月に死去すると、翌月には、北山第も金閣を残して、解体され、南禅寺・建仁寺・等持院などに移築・寄進されたという。
義満の死後には朝廷から「鹿苑院太上法皇」の称号を贈られたが、四代将軍となった義持は,斯波義将らの反対もあり辞退しているらしい。その一方で、相国寺は受け入れたらしく、過去帳に「鹿苑院太上天皇」と記されており、夢窓国師を、名目上の開山(初代の住職)とし、法名から二字をとり、北山殿は、「鹿苑寺」と名づけら禅寺となったようだ。なにか、よく分からないが、非常に複雑な政治的理由がありそうだ。
通称「金閣寺」の由来となった「鹿苑寺」の「金閣」は、漆地に金箔を押した三層宝形造の建物「舎利殿」であり、寝殿造風の初層に、書院造風(武家造)の二層、禅宗様仏殿風の三層とそれぞれに異なる様式を採用した特異な建築は、公家文化、武家文化、仏教文化が調和し、和様、天竺様、唐様と当時の全ての手法を駆使した室町時代楼閣建築の代表的なものであり、この時代の文化を表したものとして特に北山文化と言っている。
この金閣が有名になり、「鹿苑寺」は通称「金閣寺」と呼ばれるようになった。

(上掲の画像は画像鏡湖池と金閣。Wikipediaより)
衣笠山を借景とし舎利殿〔金閣〕を水面に映しだす中心の鏡湖池に希代の見物といわれた名石や奇岩を配して九山八海(須弥山参照)
を表現する池泉回遊式庭園が広がり、極楽浄土をこの世に現したものとも言われる。
その後、応仁の乱で、舎利殿(金閣)他一部を残し焼失したが、桃山時代に相国寺の西笑承兌が復興に努め、ほぼ、現在の姿になったという。
一方、京都市左京区にある通称「銀閣寺」も、正式には慈照寺のことであり、金閣寺同様、相国寺の境外塔頭である。
銀閣と金閣は同じ室町時代の将軍が造ったものではあるが、金ぴかの金閣のあった北山第は、先にも書いたように、幕府はおろか朝廷まですべての権力を独り占めにした義満が対明貿易で得た財力にものを言わせて天皇の御所をも凌駕する政治、宗教、芸術の中心となる建物群を北山に築い北山第であったのに対して、銀閣のあった慈照寺は、政治的には全く無気力で、将軍職も投げ出した義政が応仁の乱後の1482年(文明14)に、自らの隠遁の場として、浄土寺跡(浄土院参照)に、西芳寺をモデルとして、池を囲むように東山に、造営した東山第と呼ばれる山荘(東山殿)をさしている。
この東山殿は、当時、義政が日常生活を営んでいた常御所、来客を応対していた会所、二層楼閣の観音堂など少なくとも十の独立した建物からなり、義満の北山殿ほどではないが、ある程度政治的機能ももってはいたが、会所や御所もそれらは殆ど政治向きなことには使われず、専ら義政の芸術志向のために使われた。延徳2年(1490年)正月、義政自身はその完成を見ることなく生涯を閉じるが、その間、東山殿を中心として東山文化が開花した。
十三代将軍足利義輝三好長慶が天文19年(1550)年と永禄元年(1558年)年に銀閣寺近辺で戦い、その戦火に巻き込まれて大半の建物が焼失し常御所、会所ともに現在は残っていないが、その中、奇跡的に残ったのが、今も見ることの出来る観音殿(=銀閣)と持仏堂(=東求堂)である。江戸初期に徳川家康より35石の寺領を与えられ、方丈・観音殿(銀閣)・東求堂・西指庵などの建設や修理を行い旧観を整えていき、荒廃していた庭園も修築された。
東山殿は、義政の死後相国寺派の禅寺として奉献され、義政の法号慈照院喜山道慶にちなんで慈照寺となった。特に、趣向を凝らしてつくった二層楼閣の観音殿が寺全体の象徴的な建物であったことから、「鹿苑寺」が金閣寺と呼ばれるのに対して、慈照寺が銀閣寺と通称されるようになったのは江戸時代になってからのことである。
応仁の乱で、西軍の陣となり建築物の多くが焼失した鹿苑寺も、江戸時代に主要な建物が再建され、舎利殿も慶安2年(1649年)に大修理された。金閣(舎利殿)も、古社寺保存法に基づき1897(明治30)年に「特別保護建造物」(文化財保護法における「重要 文化財」に相当)に指定され、1929(昭和4)年7月1日の国宝保存法施行に伴い(旧)国宝に指定された。また1904(明治37)年から1906(明治39)年には解体修理も行われている。
そして、第二次世界大戦でも幸いと京都では大規模な爆撃が行われず殆ど無傷だったため、現在でも多くの貴重な文化財が残っており、日本有数の観光地として栄えている。金閣寺は、そんな京都の観光スポットの代表格の1つでもある。
ところが、戦後5年目の1950(昭和25)年7月2日午前2時50分ごろ、鹿苑寺庭園内の舎利殿「金閣」から出火し、おりからの強風に煽られ、室町時代の代表建築であり、当時の国宝でもあった「金閣が骨組みを残して全焼、足利義満の木像など古美術品も焼失してしまった。
同寺の徒弟だった21歳の大学生が放火したものだが、折角の火災報知機も故障したままだった。前年に法隆寺金堂が焼失(※2)、1950(昭和25)年5月には文化財保護法が公布されたばかりのことで、貴重な文化財の保護のあり方が一層問題になった(※3参照)。
犯人は、服毒自殺を図ったが捕まり、同年12月懲役7年の判決を受け(判決文※4参照)、1955(昭和30)年に出所したが、すぐ病院に収容され、翌年26歳で死んだ(金閣寺放火事件参照)。冒頭掲載の画像が、7月2日、焼失後の金閣寺である(アサヒクロニクル週刊20世紀1950年号より)。
この放火事件があった頃は、私はまだ、中学生になる前だったので、難しいことはよく覚えていない。しかし、戦後復興をしている最中に国宝の金閣寺が放火により焼失したのだから、当時としては、大きな出来事であった。戦争中に敵国であったアメリカでさえ国宝・金閣寺を空爆しなかったのだから、それを放火した犯人の精神状態などが大いに議論され、その犯人を国賊と書きたてていた新聞もあったように聞いている。
しかし、なぜ貧乏寺とはいえ寺の住職の子として生まれ、幼少より父に小僧教育をされ大谷大学生としてと禅の勉強もし、金閣寺の価値も十分わかっていただろう青年僧が放火などしたのだろうか?新聞などが報じていたように、単に、精神異常者だったからだろうか・・・?
Wikipediaによれば、逮捕当初の取調べによる供述では、動機として「世間を騒がせたかった」や「社会への復讐のため」などとしていたが、実際には自身が病弱であること、重度の吃音であること、実家の母から過大な期待を寄せられていることのほか、同寺(金閣寺)が観光客の参観料で運営されており僧侶よりも事務方が幅を利かせていると見ていたこともあり、厭世感情からくる複雑な感情が入り乱れていたとされる・・・とある。
この事件を題材として、三島由紀夫が、『新潮』に小説『金閣寺』を連載し始めたのは、放火犯の青年が死亡した1956(昭和31)年 1 月からであった。それから6年後の1962(昭和37)年9月の「別冊文芸春秋」に水上 勉が 『五番町夕霧楼』を発表している。そして、相国寺塔頭、瑞春院や等持院で小僧の経験もあり、舞鶴市で教員をしていたころには、実際に犯人と会ったこともあるという水上は、事件に強い衝撃を受け、この事件に関して各方面への取材を重ね、「二十年越しの執念」で出版したというのが1979(昭和54)年のノンフィクション『金閣炎上』(新潮社)だそうでる。
正直、私は、このような暗い内容の小説などは好きではないので、この2冊の小説は読んでいないがWikipediaには、三島は「自分の吃音や不幸な生い立ちに対して金閣における美の憧れと反感を抱いて放火した」と分析し、水上は「寺のあり方、仏教のあり方に対する矛盾により美の象徴である金閣を放火した」と分析したと書いてある。
三島の小説『金閣寺』をもとに市川崑監督が『炎上』(1958年。大映)を映画化しているが、三島の小説は、主人公の内面に迫る、あまりにも完成度の高い作品だったため、市川は原作の脚色は無理と判断し、三島から創作ノートを借りて、これをもとに和田夏十にオリジナルの脚本『炎上』を新たに書き上げさせたため、映画と原作とでは登場人物の名やあらすじの一部が異なるものとなっているが、もともと、映画とはそういうものだろう。
市川雷蔵は、現代劇初出演となったこの作品で、ブルーリボン賞とキネマ旬報賞を受賞している。・・・でも、私は時代劇の市川雷蔵は好きだが、現代劇の、しかも暗い映画なのでやはり見ていない。
三島の『金閣寺』にしても、水上の『金閣炎上』にしても、事件から間もない内に、実在の放火犯である青年と、実在する関係者との関わりから調査し、事件を起こした青年の実像を解明しようとしているのだから、なかなか大変なことだったろうと察する。だから、ネットで読書感想を読んでいても、読んだ人それぞれな解釈があるようだ。
私は、ネットで色々解説らしきものを見せてもらった中で、参考の※5:「『金閣炎上』と『金閣寺』」を見て、両作家はともに、新聞報道が記事にしていない、つまり見落としていることを調査、分析して林養賢という青年を再生させようとした。そして、両作家ともに、事件を起こした青年と吃音との関係に注目しているのを読んで、このような、一見、何も症状のない我々から見れば、たいしたことではないようにみえる症状が実際には本人には非常に大きな影響及ぼし、このような大事件を引き起こすことにつながっているのか・・ということを思うと、現代で見られるとんでもない事件なども同じようなところに根源があるのだろうと色々考えさせられた。
現在の建物「金閣」は、放火事件より5年後の1955(昭和30)年に再建されたもので、1987(昭和62)年には金箔を全面厚いものに張り替える修復工事もなされている。さらに、2003(平成15)年には屋根の葺き替えも行われ、ぴかぴかのきらびやかな姿を蘇らせた。
この金ぴかの「金閣」を見ながら、室町時代の歴史とともに足利義満の北山殿など想像し、これを美しいと感じるか、何か変だと感じるか・・・、それも人それぞれなのだろうな〜。

参考:
※1:臨済宗相国寺派HP
http://www.shokoku-ji.jp/
※2:昭和毎日:法隆寺金堂壁画が焼失 - 毎日jp(毎日新聞)
http://showa.mainichi.jp/news/1949/01/post-f6e9.html
※3:文化財保護の発展と流れ
http://www.asahi-net.or.jp/~ab9t-ymh/syofukuji/bunkazai-nagare.html
※4:放火並に国宝保存法違反事件判決文
http://www.k4.dion.ne.jp/~yuko-k/adagio/hon14-kinkaku-2.htm
※5:『金閣炎上』と『金閣寺』(Adobe PDF)
http://dspace.lib.niigata-u.ac.jp:8080/dspace/bitstream/10191/8807/1/43...
事件録:金閣寺放火事件
http://yabusaka.moo.jp/kinkakuji.htm
文学にみる障害者像-水上勉著 『五番町夕霧楼』
http://www.dinf.ne.jp/doc/japanese/prdl/jsrd/norma/n270/n270010.html
水上勉著 『金閣炎上』
http://www.asahi-net.or.jp/~dr4i-snn/minakami-kinkakuenjyo.html
フィールド・ミュージアム京都
http://www.city.kyoto.jp/somu/rekishi/fm/index.html
日本国王・足利義満の生涯と皇位簒奪計画
http://www5f.biglobe.ne.jp/~mind/vision/history001/muromachi005.html
茶の湯の歴史:北山文化・東山文化
http://www17.ocn.ne.jp/~verdure/rekisi/rekisi_4.html
刑法
http://law.e-gov.go.jp/htmldata/M40/M40HO045.html
金閣寺放火事件- Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E9%96%A3%E5%AF%BA%E6%94%BE%E7%81%AB%E4%BA%8B%E4%BB%B6
炎上 - goo 映画
http://movie.goo.ne.jp/contents/movies/MOVCSTD18536/index.html


潤滑油の日

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日本記念日協会の記念日に07 月10日「潤滑油の日」があった。
由来を見ると、“潤滑油は、産業活動から家庭生活まで広く使われている基礎資源。適切な使用によって省エネ、省資源効果も期待できることから、潤滑油についての知識の普及浸透を図ろうと全国石油工業協同組合(※1)が制定。日付は潤滑油の通称OIL(オイル)を半回転させると710=7(月)10(日)となることから。”・・・とあった。


潤滑とは、相対運動する二つの固体の接触面の間に、潤滑剤を供給して、摩擦力摩耗を低減させることをいう。
もしこの世の中に摩擦力というものが存在しなければ、折角、しっかり結わえたロープも、簡単にほどけてしまうし、また地面と足の裏にも摩擦力がないとなれば、人は歩くことすらできないこととなる。
このような摩擦は人間の生活に、必要不可欠なものであり、人類は、有史以前から火を起こすなど積極的に摩擦や摩耗を利用してきた。このような摩擦は人間の生活に、必要不可欠なものである一方、各種の機械や部品の側からすれば、「摩擦抵抗」によるエネルギーのロスや、部品の摩耗による「表面損傷」などが発生するため、面と面との間の直接接触を潤滑油によって防ぎ、摩擦の抵抗や摩耗などの軽減を図ることが重要となる。
しかし、産業革命が本格化する18世紀まで摩擦自体が学問として体系的に研究されることはほとんどなかったが、理論研究こそ最近まで行われなかったものの人類は経験則から油に潤滑効果があることを発見し、試行錯誤しながら潤滑油を作って来たようだ。

原油の歴史は古く、紀元前4000年のメソポタミアで彫刻の素材として使われていたという話もあれば、また、紀元前2500年の古代エジプトではミイラの腐敗防止用に用いられたという話もある・・・が、この辺のところは、正直、どこまで確信の持てる話かはよくわからないが、当時各地で黒い色をした燃える水があることは知られていたようで、これらが、建築物の詰め物のほか、一時的な灯火としても利用されたであろうことは推測できる。その際利用されたものは、いずれも、地表に染み出してきた暦世(瀝青、れきせい)油(アスファルト)などを採取してのものだったろう。


旧約聖書創世記ノアの方舟には、
「あなたは、いとすぎの木で箱舟を造り、箱舟の中に部屋を設け、アスファルトでそのうちそとを塗りなさい」(※2の創世記6-14参照)・・・・とある。
このように口語訳聖書では箱舟を造った木は、「いとすぎの木」としているが新改訳聖書新共同訳聖書ゴフェル(gopher)(またはゴフェルの木)と訳されているようだが実際どのような木であったかは、学者の間 でも異論があるようだ。それはさておき、口語訳聖書では上記のように防水にアスファルトの使用が記載されている。


上掲の画像向かって左:箱舟の建設を指揮するノア。右:150日の間洪水に耐えた箱舟はアララト山の上にとまっていた。洪水により地上の人間の大半が死に絶えたが、箱舟に避難したノアとその一族は無事だった(画像は、Wikipediaより)。
旧約聖書のノアの洪水の原型は、旧約聖書作成年代より1世紀ほど古い時代の『ギルガメッシュ叙事詩』に見られるが、この中で、神・ウトナピシュテムは「へマル」で舟を防水するよう命じている。
ここで、防水の該当部分ヘブライ語「へマル」は、日本語では「瀝青(れきせい)」「アスファルト」「タール」「ピッチ」「ヤニ」「樹脂」などと訳されているようで、「へマル」を「瀝青」の天然の「アスファルト」や「タール」などと解釈するか、「ヤニ」「樹脂」などと解釈するかはi意見の分かれるところであろうが、石油関係業界などでは、これを前者と解しているようであり、専門家でもない私は、一応この説をとることとしている。以下参考の※3:「ROOF-NET:防水図書館」の「聖書と防水」3部作や※4:「BeneDict地球博物館」の週刊スモールトーク(第144話)大洪水時代?〜ウトナピシュティムの洪水伝説〜など非常に興味深いことが書かれているので興味のある方は覗かれるとよい。
又、古代エジプトでは巨石を運ぶ際、摩擦の発生する面に“ころ”を入れたり“さらに潤滑油(オリーブオイル?)を使ったとされており、紀元前 1880年頃のエルベルシエの洞窟には、そりで固定された巨大像を多くの人々によって運ばれている画像が描かれているが、そこには、士官が台座の前方に立ってそりのすぐ前の地面に壷から直接に潤滑剤を注いでいるところが描かれている(※5:参照)。

そういえば、「旧約聖書」の「出エジプト記」を原作として、制作されたスペクタクル映画「十戒」(1956年公開、米国)では、ヘブライ人がエジプトの奴隷とされていた紀元前13世紀ごろ、救世主の誕生を恐れたファラオ(セティ1世)は、ヘブライ人の男の子の幼児をすべて殺すように命ずる。
ヨシャベルは、難を逃れるため子を籠に入れ、ナイル川に流したが、沐浴していたエジプトの王女ベシアに拾われ、彼女の子として、モーゼと名づけられ育てられる。
モーゼは、武運に優れ知恵のある立派な青年に育ち、ファラオからもその優秀さを認められ、新都市建設を任せられるが、その後、モーゼは新都市建設でヘブライ人奴隷が重労働させられているのを知る。
そこでは、多くの奴隷が巨大な石の運搬に従事し、鞭に打たれロープを引いていたが、石のすべりを良くする為に石材の先端下で油を塗っていた老婆(ヨシャベル=モーゼ生みの母)が石に腰の紐がはさまれ潰されそうになっていたのを助けようとして、取り押さえられた石工のヨシュアを老婆とともに解放し、奴隷側にたって穀物などを分け与えてしまうシーンがあったのを思い出した(映画の解説は※6参照)。

紀元前1400年頃になると、馬がひく二輪の戦車(チャリオット)が広く使われるようになるが、エジプト古墳の中にあった戦車の車軸(車輪の軸。心棒)に牛や羊の油などが用いられたことが分析の結果からも知られている(※7)といわれ、このころには牛車の軸受けにグリース状の潤滑剤などが用いられていたようだ。
チャリオットと言えば、、映画「十戒」で、モーゼの役を演じていたチャールトン・ヘストンが、映画「ベン・ハー」(1959年公開、米国)では、ローマ帝国支配時代のユダヤ人貴族の主人公ベン・ハー役を演じていたが、4頭立ての馬が引っ張る二輪の戦車(チャリオット)での迫力ある競争シーンは最高の見せ場でもあった。

上掲の画像は、そのシーンであるが、以下では、映画「ベン・ハー」での迫力あるチャリオットでの競争シーンを見ることが出来る。
Ben Hur 戦車レース - YouTube


W・ワイラー がメガホンを取り、11部門でアカデミー賞を受賞したこの映画で、チャールトン・ヘストンは主演男優賞をとっている。
現在主力である石油系潤滑油の殆どは、油田が発掘された19世紀後半以降に開発されたが、紀元前400年代のヘロドトスの『歴史』には、すでに石油の精製法とその利用方法が記載されているという。
一方、摩擦の理論解析の歴史はレオナルド・ダビンチ(1452〜1519)に始まるが、クーロンの摩擦法則(※8、※9参照)、あるいはアモントン=クーロンの摩擦法則(人物:アモントンについてはここを、クーロンについてはここを参照)といわれるものでさえ1760年代になってからであり、実験的証明や理論解明は遅れていた。

大きな変化は、1965(昭和40)年に、イギリスでまとめられた摩擦や摩耗による損害を推定した報告書(ジョスト報告)の中で、ピーター・ジョストが適正な潤滑を行なえば51,500万ポンドの節減が可能であると報告し、摩擦・摩耗・潤滑の技術の重要性が認識されるようになり、この分野がトライボロジー(Tribology)と命名され、以後、摩擦・摩耗・潤滑の技術分野はトライボロジーとよばれ、日本でも、日本潤滑学会が1992(平成4)年9月1日をもって日本トライボロジー学会(※10)と改称し活動しているようだ(トライボロジーについては、参考※11※12などを参照)。
この件について、参考※12:「Toshiba・機械システムの信頼性・性能向上に貢献するトライボロジー技術」の冒頭 [要旨]には、
 “機械には必ず"動く"部分がある。 二つの物体が相対運動することによって機械としての機能が生まれる。 この"動く"部分がひとたび、摩耗,焼付きを起こすと、 機械としての機能が失われるばかりでなく、 機械を部品として構成している機械システム自体の機能をも損なうことになる。 逆に、"動く"部分をうまく制御、利用することによって、今までにない新しい機械、 新しい機械システムの実現が可能となる。”・・・と書いてある。


この"動く"部分を制御、利用するための潤滑油の効率的な活用や利用を考える、又、新しい潤滑油の研究・開発などを行なうことによって、省エネ、省資源などの経済効果を期待しているのが「トライボロジー」の目的ということになるのであろうが、それではどうしたらよいかなど技術的なことは「トライボロジー」について、専門外の私などが論ずることでは出来ようはずもないので、そのようなことは参考の※12、※13ほかのHPを読まれるとよい。
ただ、「潤滑油」という言葉の意味には、機械の歯車などを、効率よく潤滑するための油などの意味とともに、 また、この化学的性質を例えとして、物事が円滑に運ばれるための仲立ちとなる物や人、ことなどを指す言葉としてもよく使われており、世の産業活動から個々の家庭生活に至るまで総ての活動分野において、潤滑油が、見落とすことの出来ない重要なものであることだけは良くわかる。
人と人とが摩擦や緊張感の多い、近頃において、夫婦間、恋人間、親子間の潤滑油として何が必要だろうか?
夫婦間の摩擦には子供が潤滑油となる事もあれば、共通の趣味を持つことが、年取ってからの夫婦の潤滑油になることもあるだろう。

阪神・淡路大震災東日本大震災などで、住む家も身内もなくし、生きる気力をなくしかけた人達に前向きに生きようとする力を与えてくれたのは、人と人の絆ではなかっただろうか。
その時の環境や時期、状況によって、どのようなものが潤滑油として必要かは違ってくるだろう。
例えば、今の日本のデフレ社会や経済状況下において、、マニフェスト(選挙公約)は、ほとんど実行しないままに、「社会保障と税の一体改革」(※14参照)を言いながら、社会保障は棚上げにしたままマニフェスト(選挙公約)ではしないとi言っていた消費税アップを自・公・民の三党合意(談合?)で強行することが、国民の不満を吸収 し、政権支持へと向かわせる上で、効果的な潤滑油の役割を果たしていると思っているのだろうか・・・。

「消費税増税前にやるべきことをやってから、消費税アップを国民に御願いすべきだ」と言って、民主党執行部を批判している小沢派を、まるで、造反者のように叩いているマスコミって、自分たちが言っていることが論理矛盾していることに気づかないのだろうか・・・?
自民党よりは頼りないだろうことは承知の上で、霞ヶ関のシロアリ(官僚)や経済団体とも癒着の少ないだろう民主党なら、自民党の出来なかったことをやってくれるかもしれないと淡い期待をもって、民主党へ投票もした私など、その裏切り行為に失望しているというより怒りを感じている。

今の政治は国民の思いとは違う方向へ歯車が空回りりしている。
又、先日(7月8日)、野田佳彦首相が突然に尖閣諸島の国有化に動き出した。
この野田首相の発言は、参考15:「goo ニュース(産経新聞)」にもあるように、国有化方針を表明した背景には、東京都が進めてきた尖閣諸島の購入計画に対する焦燥感があることは間違いなく、政権浮揚をにらんだ政治的思惑が透けてみえる。
尖閣諸島の領有を巡る1971年からの「尖閣諸島問題」は、2010年9月には中国漁船衝突事件が起き、日中関係が悪化している。

この問題に「弱腰」の政府に業を煮やした石原慎太郎都知事が、3ヶ月前に国が借り上げている3島の所有者から都が借り上げよることを発表したが、それを固有化して政府の管理下におこうが、いずれにしても、中国などが強く反発することは避けられないだろう。
ただ、都が所有し、有効活用しようとすることと、今の時期突然に、国が買い上げて管理下におこうとすることでは、政府がどのように説明しようとも、相手側の受け止め方は相当違ってくるだろうし、首相の思惑通りに事態は進まないだろう。
恐らく、中国の国内世論を抑えるためにも、強い対抗措置を取らざるを得なくなるだろうし、日本政府の尖閣国有化は、中国にとってはむしろ、口実をつけていろいろやりやすくなるのではないだろうか・・・。

私には、憲法違反である国会議員の定数是正(一票の格差参照)問題でさえ改めることの出来ない今の頼りない民主党政府に「政府による安定した管理」などできるとは到底考えられないし、中国漁船衝突事件ですらまともに処理できなかった民主党政権が、突然にこんなことを言い出して、中国を刺戟することが党の人気回復のための潤滑油になるなんて考えているとしたら、野田どじょう内閣は、国を潰してしまうことになるかもしれない。
消費税アップだけではなく、原発問題等、国民の前に何一つ信実を語らないまま、霞ヶ関の手先となりさがり、独断専行している野田内閣、は、今すぐに、内閣を解散し、国民の審判を受けるべきだろう。国民の思いとは違った方向へ進んでいる政治をまともな方向へ向かわせる潤滑油は、総選挙しかないだろう。

(冒頭の画像は、平歯車の動き。Wikipediaより)

参考:
※:1:全国石油工業協同組合
http://www.zensekiko.org/
※2:口語訳新約聖書(1954年版)
http://bible.salterrae.net/kougo/html/
※3:「ROOF-NET:防水図書館」
http://www.roof-net.jp/index.php?FrontPage
※4:「BeneDict地球博物館」
http://www.benedict.co.jp/index.htm
※5:すべり軸受の基礎[軸受の歴史的な背景] | 大同メタル工業
http://www.daidometal.com/technology/basic-02.html
※6:映画「The Ten Commandments(十戒)」解説
http://loyd-theater.com/movie-collect-3/favorite/ten-com/ten-commandments.html
※7:住鉱潤滑剤株式会社:潤滑剤のはなし:潤滑剤の歴史
http://www.sumico.co.jp/topic/history.html
※8:力学?の授業補助
http://physics.gep.kansai-u.ac.jp/~physics/jugyo/fujii/mechanics1/mechanics1.htm
※9:摩擦
http://www.crane-club.com/study/dynamics/friction.html
※10:一般社団法人 日本トライボロジー学会
http://www.tribology.jp/
※11:トライボメニュー
http://www.h7.dion.ne.jp/~kibus-2/index.htm
※12:Toshiba・機械システムの信頼性・性能向上に貢献するトライボロジー技術
http://www.toshiba.co.jp/tech/review/1998/09/b02/index_j.htm
※13: 「環境と潤滑油 →−省エネルギーとのかかわり2007−」PDF版(約4.9MB(Adobe PDF)
http://www.jalos.jp/jalos/paper/pdf/2007booklet02_all.pdf#search='潤滑油 省エネ 省資源効果'
※14:社会保障と税の一体改革の必要性と政府素案の問題点
http://www.yomiuri.co.jp/adv/chuo/opinion/20120123.htm
※ 15:goo ニュース(産経新聞)-尖閣国有化 都先行に焦り 上陸禁止継続狙う? http://news.goo.ne.jp/article/sankei/politics/snk20120708062.html
創造科学:宇宙と生命の起源
http://www.ne.jp/asahi/seven/angels/index.htm
第3章-5. プリニウス「博物誌」 | 科学/技術の総合化 ―小泉 健
http://seneca21st.eco.coocan.jp/working/koizumi/26_3_05.html
ニュース・トピックス 潤滑油業界
http://www.juntsu.co.jp/topics/topics_cate4.html
潤滑油- Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BD%A4%E6%BB%91%E6%B2%B9

蝉の初鳴きを聞いた

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今日は朝から蒸し暑い。
しかし、神戸の私の家は、少し小高いところにあるので、いつも少しは南風が吹いている。
又、ここのところその南風が冷たくて、家の中にいると以外に過ごしやすい。
今朝起きて、裏庭の木に水をやっていると地面に大きな穴がある。
ひょっとしたら蝉が孵化しているのではと思って、その辺の木を見ても見つからなかったのだが、私の家の庭の塀といった感じで建っている造成地で一段下の向かいの家の壁に蝉がしがみ付いていた。
その蝉は鳴きもしなかったが、食時後、整形へリハビリに行って11時半ごろ帰ってきたとき、家の直ぐ近くの児童公園でかすかな小さな蝉の鳴き声が聴こえた。
セミセミセミ・・と弱弱しい鳴き方だったが多分クマゼミではないかと思う。
急激に気温が上ったので慌てて出てきたもののまだ、地中から出てくるには少し早かったのだろうか・・・、数は少ない。
我が家の裏庭の先の家にしがみ付いていた蝉がどうしてるかと再度見たときにはもういなかった。
長い地中生活からやっと出てきた蝉の地上での命は短い。相手を見つけてくれるといいのだが・・・。
蝉の話は、少し、早すぎると思いながら、俳諧師松尾芭蕉が、山形市立石寺(山寺、正式には宝珠山阿所川院立石寺)に参詣した際に
「閑さや岩にしみ入る蝉の声」の句を詠んだとされる、日付にちなんで、5月27日に書いた。
この句また蝉の話に興味のある人は以下で読んでください。

松尾芭蕉が「閑さや岩にしみ入る蝉の声」の句を詠んだ日

なでしこジャパンがドイツW杯で米国を破り、初の世界一に

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2011(平成23)年、ドイツで開催された第6回 FIFA女子ワールドカップ最終日の7月18日(日本時間)、国際サッカー連盟(FIFA)ランキング4位の日本代表チームなでしこジャパン(※1)が、フランクフルトで、同ランキング1位の米国と決勝戦を戦った。

6度目の出場で初めて決勝に進んだ日本は、1点を追う後半36分に宮間あや岡山湯郷Belle所属)のゴールで追い付き、1 -2の延長後半12分にもCKから主将の沢穂希INAC神戸レオネッサ所属)が同点とした。日本は2―2からのPK戦ではGK海堀あゆみ(INAC)が1 、3 人目をセーブし、日本は米国を3―1で下して、初の世界一に輝いた。一方の米国は3大会ぶり3度目の世界一を逃した(詳細は「2011 FIFA女子ワールドカップ・決勝」を参照)。また、その時の感動は、以下でどうぞ。

[永久保存版] なでしこジャパン ドイツW杯ハイライト "Queen Yamato Nadeshiko" -YouTub

サッカーの国際大会で日本が優勝するのは男女を通じて初めての快挙であり、日本列島が歓喜に沸いたのは当然であった。

チームはフェアプレー賞、澤穂希が得点王とMVPを受賞。計6回開催されたFIFA女子ワールドカップのうち、アメリカ合衆国(1991, 1999)、ノルウェー(1995)、ドイツ(2003, 2007)に続いて、4ヶ国目の優勝国となった女子サッカー日本代表 の「なでしこジャパン」。

サッカー日本女子代表チームの愛称「なでしこジャパン」の由来は、2004年から。

アテネオリンピックアジア予選として行われた「AFC女子サッカー予選大会2004」の際、「やまとなでしこ」(大和撫子)」という言葉がよく使われていたためと、アテネ五輪出場を決め、注目度が高まっていた女子の人気定着を狙った日本サッカー協会が愛称を一般公募した中から選考し決定したもので、「世界に羽ばたき、世界に通用するように」との願いを込めて「なでしこ」と命名され、日本国の昔の呼び方「大和」が「ジャパン」となったものだそうであるが、2011年のドイツW杯ではそれが見事に実現したといえる。

「やまとなでしこ」は、日本女性の清楚な美しさをたたえていう言葉であるが、ほかに、秋の七草の一つナデシコ(撫子)の花に見立てて、可憐で繊細だが芯の強さや、ひたむきさといった日本女性にふさわしい思いが込められている。大柄な米国選手に立ち向かった小柄の日本選手は、「可憐」に走りつづけ「辛抱」強く戦って勝利をものにした。

ドイツW杯で世界一に輝いた「なでしこジャパン」を、世界が絶賛したのはその華麗な「パスサッカー」であったが、これは選手たち自身が議論を繰り返して作り上げてきた信頼関係に支えられてのものだったという。 日本女子サッカーリーグの加盟チームは、Jリーグ傘下のクラブチーム・実業団チーム・市民クラブ(NPO法人・株式会社等)・学校法人等様々な形態をとっている。また男子のトップリーグ(Jリーグ)が、ほぼプロ選手で構成されているのに対し、日本女子サッカーリーグは選手の多くがアマチュアである。1998年、第10回日本女子サッカーリーグ(L・リーグ)が開催されたが、このシーズンは相次ぐスポンサーの撤退などで、4チームが相次いで脱退を表明。

これによりL・リーグは存続の危機と直面するなど大変にショッキングな出来事が続いた(第11回日本女子サッカーリーグも参照)。さらに2000年シドニーオリンピックの出場を逃した後の人気低迷が続いた。 そして満を持して迎えた2008年北京オリンピックでのベストフォー進出…。この大会での健闘ぶりが世界に注目されるようになった。「結果を出さなければ、女子サッカーは忘れられる」という危機感を胸に成長してきたのが、なでしこジャパンであった。そんな危機感が、度重なるピンチに耐え、強豪アメリカとの激闘に競り勝ち優勝の栄冠を手にすることができたといえるだろう。

大会中、チームは試合後に同年3月11日に発生した東日本大震災に対する世界からの支援へ感謝を表す横断幕をかかげ、会場の大きな拍手を受けたが、各国メディアは復興への思いも勝利へのモチベーションとなっていると分析、なでしこジャパンの素早いパスサッカーとともに、その戦いぶりを賞賛した(※2、※3)。

2011年8月2日、日本政府から「国民に感動と勇気を与えた」として、団体では初となる国民栄誉賞受賞と女子サッカー支援充実の検討も発表された(※4)。又,同年9月、中国で行われたロンドンオリンピックアジア予選では4勝1分の1位でロンドンオリンピック出場権を獲得。11月3日、女子団体スポーツでは初の紫綬褒章が授与されている。

今年(2012年)1月、2011年度のFIFA年間表彰式において、澤穂希がFIFA女子最優秀選手賞を、監督の佐々木則夫がFIFA女子最優秀監督賞を受賞している。

W杯で世界一に輝いた「なでしこジャパン」。ロンドンオリンピックでは、追われる立場になった。各国チームが、日本の「パスサッカー」を徹底的に研究しているという。指揮官・佐々木監督も、ロンドンオりンピックで再び世界一になるためには更なるパスサッカーのレベルアップと、これまで以上に「攻撃」への意識付けを選手に徹底していると聞く。是非優勝し再び私たちに感動を与えて欲しいものだが、今大会では、米国とともに開催国イギリスが台風の目になるかも知れない。

オりンピック開催国イギリスのオリンピック委員会が、6月26日に、ロンドンオリンピックのサッカーイギリス女子代表18人を発表した。

近代フットボール/(サッカー)発祥の地でもあるイギリスは、国際サッカー連盟 (FIFA) から、ワールドカップなどの大会の際は、イギリス本土4協会(イングランドサッカー協会スコットランドサッカー協会北アイルランドサッカー協会ウェールズサッカー協会)のそれぞれが独立したチームとして参加することがみとめられていた。そのため、イギリス女子代表のFIFA主催の国際女子大会への出場はこれまでない。

夏季オリンピックのサッカー競技を主催する国際オリンピック委員会(IOC)は、オリンピックには、イギリとしての統一チームしか出場を認めていないが、イギリスでは、これまで、4地域の各協会の足並みがそろわず前回の2008年北京オリンピックを含め総て不参加であり、今回初めて、女子サッカーのイギリス統一チームを結成してのオリンピック初出場となる。このイギリス統一チームには、昨年ドイツでの第6回FIFA女子ワールドカップで、日本を唯一破ったイングランドから、FWのホワイトとヤンキー(いずれもアーセナルLFC)ら16人と、スコットランドから2人が入ったが、ウェールズと北アイルランドからは選出されなかった。

「近代サッカーの母国」イングランドでの最古の記録として1895年に北イングランドと南イングランドによる対抗試合が残っており、観客10,000人を集めたといわれるこの試合がきっかけとなり、サッカーは僅かな間に女性にも普及していったようだ。

この予想以上の盛り上がりに対し、イングランドサッカー協会(FA)は、1902年サッカーは「男のスポーツである」、「サッカーは女性の健康を損なう」として、傘下のクラブに対し女性チームとの試合を禁止。

こうした規制は1971年まで続くなど、英国では長い間、女子サッカーは超マイナースポーツだったこともあり、女子サッカーが盛んになった現在でも、英国民の間では、女子サッカーが不人気のようで、ロンドンオリンピックでの女子サッカーのチケットが売れ残り、「ガラガラのスタジアムで試合を行うより、いっそのこと無料で観客がたくさん入ったほうがいいじゃないか」といった意見が出るほどだという(※5、※6参照)。

男子サッカーと差別され、低く見られてきた女子サッカー選手の屈辱・・・それを晴らせるのが、ロンドンオリンピックだとしたら・・・。

そう思うと、昨年W盃で「なでしこジャパン」が初優勝したように、英国女子代表が決勝へ勝ち進み、もし、優勝を飾るると念願の「メジャー化」ひいては女子サッカーの「プロ化」への大きな起爆剤になるかもしれない・・・。以下は、「なでしこジャパン」が唯一負けたイングランドとの仕合風景である。

[FIFA女子ワールドカップグループリーグ 2011] イングランド女子代表 vs 日本女子代表(なでしこジャパン) 動画

今年(2012年)7月27日(サッカー競技は7/25)に開幕する「第30回オリンピック競技大会(2012/ロンドン)」に出場するサッカー日本女子代表(なでしこジャパン) のメンバー18名は7月2日に発表された。

金メダルを目指す「なでしこジャパン」は全員が、優勝した昨年のドイツW杯のメンバー。エースのMF沢穂希(33歳、所属:INAC神戸)は「年齢的にこれが最後かも」と自身4度目の大舞台に決意を燃やしていたが、これまで主将として、チームの先頭に立ってきた沢だが、今大会は宮間あや(岡山湯郷Belle)が主将としてチームを引っ張るなど世代交代が見られる。

なでしこジャパンが活躍し、世界の頂点に立ったことでにわかに注目を集めるようになった日本女子サッカー。

このなでしこジャパンのメンバー18名のうち、7名(沢穂希、海堀 あゆみ、近賀 ゆかり、川澄 奈穂美、田中 明日菜、大野 忍、高瀬 愛実)がINAC神戸レオネッサより選出された人達である(※1:なでしこジャパン公式サイト選手名鑑参照)。

INAC神戸レオネッサは、我が地元、兵庫県神戸市を本拠地とする女子サッカークラブである。

娯楽・飲食・スポーツ事業などを手掛ける「アスコホールディングス」(神戸市中央区。※7)が設立。アイナック(INAC)とはINternational Athletic Clubの略で、神戸市及び兵庫県におけるスポーツコミュニティの担い手を育成し、更には国際的な活動も展開していく総合スポーツクラブとして2001(平成13)年4月に設立され、女子サッカーチーム「レオネッサ」は同年11月に誕生た。チーム名の「レオネッサ」はイタリア語で雌ライオンを意味する。

神戸は日本サッカー発祥の地とされるなど、古くから日本サッカーの中心地であった。

1863年にイングランドでFA(フットボール・アソシエーション=イングランドサッカー協会)が設立され、ルールが統一されて世界に広まった“手を使わないフットボール”つまりサッカーは神戸にも明治開港(条約港)のころから持ち込まれと思われる。

明治3年、居留地住む外国人は早速KRAC(神戸 レガッタアンドアスレチッククラブ)を結成し、 フットボールなどの競技を楽しんでいたようだ。

1871(明治4)年の英字新聞『Hiogo Nwes』には「フットボールの試合が本日午後、居留地において開催される」との記事が見られるという。(※8:「神戸のサッカー」歴史参照)。

開放的だったKRACのグラウンド(現在の東遊園地)には、多くの市民が見物に訪れ、サッカーは神戸に根づいていったようだ。1888(明治21)年には、横浜外国人クラブ(YCAC)との間でのインターポートマッチ(港対抗戦)が開催されている。これが、日本最初の対抗試合だといわれている。

このサッカーが日本に伝えられた記録としてはっきりとしたものは、1873(明治6)年に、海軍兵学校の教官として、招かれた英国海軍教官団(※9参照)A.L.ダグラス少佐と海軍将兵により、日本の海軍軍人にサッカーを教えたというものがある(日本に初めて近代サッカーが伝わる)。

1870年代末になってようやく、富国強兵の一環として国民の健康な身体の維持、軍事教練の一環として「体育」、「体操」という概念の発芽が見られるようになると、1878(明治11)年、体操伝習所(のちの東京高等師範学校体操専修科)が創設され、教科の一つにサッカーが取り入れられた。

そして、1899(明治32)年には、神戸市の御影師範学で日本人だけのチームが結成されたのは、その後のサッカー界にとって重要なことであった。

近畿地方がサッカー先進地となり、師範学校の交流を通じて東京高等師範学校(以下、東京高師)をはじめ全国の師範学校もこれに追随する事に影響した。そして1917(大正6)年10月21日には、近畿の師範学校を中心として近畿蹴球大会が開催された。

この教員養成を行う師範学校で普及した事は、部員たちが卒業し各地で教員となることによって、波及的に全国の中等学校高等学校に広まって行くという事に影響した。大正から昭和初期にかけて、御影師範学校や神戸一中(現兵庫県立神戸高等学校の前身)など神戸勢が、日本のサッカー界の覇者として活躍していた。

以後、サッカーは野球と並んで人気スポーツとなった。しかし、長年サッカーは、男性だけのものというイメージが強かった。日本のサッカーにおける女子サッカーの歴史はそれほど長くなく、日本の女性がサッカーを始めた時期も、はっきりはしないが、日本で初めて女子サッカーチームが結成されたのは我が地元神戸であった。

”1966(昭和41)年12月23日の「朝日グラフ」特集に、同年11月に神戸市立福住小学校(※10)が全国で始めての女子サッカークラブを結成した・・ということを報じている。

上掲の画像は保存していた2011(平成23)年8月17日朝日新聞朝刊の「ますます勝手に関西遺産」の特集記事“キックオフは神戸から/なでしこの源流”で掲載されていた「福住小の女子サッカーチームを紹介した新聞記事。1967年3月29日付朝日新聞から」である。

同紙には今では、57〜58歳となった、当時のメンバーを探し当て、彼女達から聞いた話を掲載しているが、同女子サッカークラブ「福住女子サッカースポーツ少年団」の結成は当時の女子の反発心がきっかけだったという。そのころ、女子のクラブと言えば手芸や料理、演劇であり、サッカー部を作る男子から「女子は入られへんで」と言われたことが悔しかった。「何で男子だけ?おかしいやん」ということで、数人で校長室に直談判。「みんながやるっていうなら、やろう」と、御影師範の名サッカー選手だった故・大橋真平校長の一言で、「憧れの先生に教えてもらえる」「運動がしたい」「兄がやっていた」と次々と6年生の女子が手を挙げたという。

チーム結成直後に、偶然、神戸女学院中学部(西宮市)にもサッカー部が誕生した。「女性の体に悪影響があるのでは」と難色を示す周囲を説得して、両チームは1967(昭和42)年3月19日に対戦。翌日の朝日新聞は、「後半中頃、1点をあげた福住小が、姉さんチームをふりきった」と報じているそうだ。(この新聞記事は、朝日新聞デジタルでも見られる。詳しく知りたい人は、参考※11参照)。

この試合が行われたのは、1964(昭和39)年の東京オリンピックの影響で急激に女性のスポーツ参加者が増えた時期とも一致する。

第二次大戦後、女性の社会経済的条件の向上、余暇、所得の増大、進学率の向上、加えて1960年代から70年代にかけてのウーマン・リブなど女性解放運動が高揚し、男女平等を求めて様々な分野で女性の活動がなされ始めたころ、このころから女性のスポーツへの参加も増えてきて、サッカー競技を行う女性も少しずつ見られようになる。

 しかし、サッカーをしたい活発な女子は、兄弟や友達と遊びとしてサッカーを行なうか、少年団やクラブチームで男子と一緒に練習をさせてもらい、人数が増えた場合のみ女子チームが作られるといた状況であったと推測される。

1972(昭和47)年には東京で、日本の女子サッカー初のクラブチーム「FCジンナン」が誕生。その後関東地方において、望月三起也が設立したワイルド・イレブン・レディース(横浜)、三菱重工女子サッカー部(三菱重工社員を中心としたクラブ)、三菱養和レディース(※12参照)、実践女子大学(※13参照)サッカー同好会などが誕生している。京浜女子リーグ、チキンフットボールリーグ (東京都)、横浜女子サッカーリーグなどのリーグも設立された。

一方で、1976(昭和51)年に、兵庫県神戸市を本拠とするアマチュアサッカークラブで、サッカー関連団体としては日本で初めて( JFA より4年早い)法人格を取得した本格的市民サッカークラブである神戸FC (※14)の女子チーム (神戸FCレディース)が、三重県上野市で、伊賀上野くノ一が設立された他、1978(昭和53)年には、静岡市(旧・清水市)に、清水第八スポーツクラブが、また大阪府高槻市では高槻女子フットボールクラブ スペランツァFC大阪高槻の前身とは別のチーム) が設立され、関西地区においては、関西女子サッカーリーグが設立されて、神戸女学院 (中学部・高等学部)や高槻女子FC、大阪FCレディース (現バニーズ京都SC ) などが参加した。

こうして、1970年代には、首都圏と京阪地区でリーグが行なわれていたようであるが、1979(昭和54)年に FIFA (国際サッカー連盟)が各国のサッカー協会宛てに、女子サッカーを管轄下において普及と発展に努める旨の通達を出した事を受けて、日本女子サッカー連盟が設立され、この団体が日本サッカー協会加盟団体となり、女子サッカーは正式に同協会の管轄下に入った。

そして、全日本女子サッカー選手権大会が開催され、男子サッカーの天皇杯全日本サッカー選手権大会にあたる大会として日本全国のチームを対象とするトーナメントが行われるようになったのは1980(昭和55)年になってからのことであった。

1980年代後半より、FIFA女子ワールドカップの新設を前提とする国際親善大会の開催 (1988年) や、1990年度アジア競技大会における女子サッカーの正式種目への採用など、国際状況が変化する中で、所属クラブにおける試合経験を積むための場所がない事が問題とされ、1989(平成1)年、日本女子サッカー連盟は全国リーグの設立という結論に達し、日本女子サッカーリーグが設立され現在に至っている。

なお、参考※15:「女子サッカーの変遷」によると、1970年代の、東京にチキンフットボールリーグ、横浜に横浜女子サッカーリーグ、関西に関西女子サッカーリーグができ活動していた時代、関東と関西のNO1同士が”日本一”を争う女子王座決定戦というものがあったそうだ。

又、兵庫県出身の元サッカー日本代表選手で、スポーツライター賀川浩のブログ(※16:「賀川浩の片言隻句」)には、先に書いた福住女子サッカースポーツ少年団と神戸女学院が1967(昭和42)年3月19日に対戦した女子チーム同士の試合は、神戸フットボールクラブの前身である兵庫サッカー友の会が開催したものらしい。、従がって、多くの観客の前で行なわれたこの試合こそが、日本の女子サッカー「なでしこ」の源流であるといっても過言ではないだろう。

 (冒頭の画像は、2012年5月26日熊本市で開かれたなでしこリーグの仕合で競り合う沢穂希[右]と宮間あや。2011年7月11日朝日新聞朝刊より借用

参考:

※1:なでしこジャパン公式サイト

http://nadeshikojapan.jp/

※2:なでしこ優勝に歓喜と称賛の声が続々世界が伝えた日本の快挙-スポーツナビ

http://sportsnavi.yahoo.co.jp/soccer/japan/2011/text/201107180006-spnavi.html

※3:なでしこ快挙の陰に隠れたアメリカの負けっぷりの良さとフェアネスの精神〜日本称賛を続けた米メディア -ダイヤモンドオンライン

http://diamond.jp/articles/-/13194

※4:官房長官記者発表 平成23年8月2日(火)午前首相官邸サイト

http://www.kantei.go.jp/jp/tyoukanpress/201108/2_a.html

※5:【S・クーパー】ワールドカップ開幕直前〜女子サッカーがたどった数奇な歴史

http://sportiva.shueisha.co.jp/clm/wfootball/2011/06/20/article287/

※6: 意外に不人気…五輪サッカー、チケット売れ残りの理由

http://megalodon.jp/2012-0528-1706-20/www.nikkei.com/article/DGXZZO41779780U2A520C1000000/?df=2

※7:株式会社アスコホールディングス

http://www.asco-holdings.co.jp/

※8:神戸のサッカー

http://www.kobe-fa.gr.jp/profile/

※9:ダグラス教官団 ‐ 通信用語の基礎知識

http://www.wdic.org/w/MILI/%E3%83%80%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%82%B9%E6%95%99%E5%AE%98%E5%9B%A3

※10:神戸市立福住小学校

http://www2.kobe-c.ed.jp/fkz-es/index.php?page_id=0

※11:朝日新聞デジタル:キックオフは神戸から

http://digital.asahi.com/articles/OSK201108170082.html?id1=3&id2=cabbaicc

※12:公益財団法人 三菱養和会

http://www.yowakai.org/

※13:実践女子学園

http://www.jissen.ac.jp/jpn/top/01/index.php

※14:神戸フットボールクラブ(神戸FC)

http://www.kobe-fc.com/

※15:女子サッカーの変遷

http://www.geocities.co.jp/colosseum/3652/gara06.html

※16:賀川浩の片言隻句: 女子サッカー草創の頃のエピソード

http://kagawa.footballjapan.jp/2011/07/post-3da1.html

女子サッカーの日米比較研究(?)-日本女子サッカーの歴史と現状について- (PDF)

http://ir.lib.osaka-kyoiku.ac.jp/dspace/bitstream/123456789/1766/1/KJ512400433.pdf

朝日新聞デジタルロンドンオリンピック2012サッカー

http://www.asahi.com/olympics/news/football2012/

なでしこジャパンW杯優勝(ニュース特集)

http://www.kyodonews.jp/feature/nadeshiko/

日本女子サッカーリーグ オフィシャルサイト

http://www.nadeshikoleague.jp/

サッカー日本女子代表 - Wikipedia

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%83%E3%82%AB%E3%83%BC%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%A5%B3%E5%AD%90%E4%BB%A3%E8%A1%A8

 

 

夏休み

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四国から関東甲信越地方で梅雨が明けた17日、群馬県館林市で39,2度を記録したほか、京都市で36,4度、大阪府枚方市で35,6度などと西日本でも今年一番の暑さを迎えた。

気象庁によると、全国930の観測点のうち75地点で35度以上、516地点で30度以上を記録し、急激な厳しい暑さに慣れていない人達が、熱中症で病院に次々搬送されていた。18・19日も暑い日が続いた。

こんな暑い中、私がパソコンをセットし使っている2階の部屋は、南向きで風通しも良いが、我が家で一番日当たりが良く、冬などは非常に過ごしやすいのだが、これからの真夏日は、自然の風も熱風のようなもので、かえって暑く、冷房を入れないと、遮光用のシートを張って扇風機を使ったぐらいでは、パソコンからの放熱だけでも鬱陶しくて、パソコンを使用する気がしなくなる。

それで、毎年、夏場はブログの作成を中止しているのだが、今年も、このブログを書いた後、明日から、8月一杯は、ブログを休止しようと思っている。

そこで、今日は何をテーマーに書こうかと、簡単に短文で書けるいいネタはないかと、日本記念日協会の7月20日の記念日をみていると「夏割りの日」があった。

いよいよ、本格的な暑い暑い夏を迎えて、もう、日中に屋外へ出かけることを考えただけで憂鬱ななこの時期だけに、「夏割り」と聞けば、夏の暑い中をわざわざ家族で旅行したり、買物に出かけてくれるのなら値段を特別に安く割引いてあげよう・・・という、ちょっと、気の利いた夏限定の割引セールの一種かと思っていたのだが、それは大違い。

 記念日を制定したのは、キリンビール株式会社。和酒や洋酒などを炭酸や好きな飲み物などで割って、夏らしいドリンクを楽しむ「夏割り」のPR(※1参照)のためのものだった。日付は7と20で「夏割り」と読む語呂合わせから・・・。

ま〜、誰しも、暑い夏は食べ物も飲み物も冷たいものが欲しくなるし、冷たいビールなど最高だが、酒や洋酒なども好みの飲料で割って、夏らしいドリンクを楽しむ。それはそれでいいだろう。ただ、夏に余り冷たいものを摂りすぎると、内臓が急に冷やされ消化器官の機能が低下し、食欲が落ちたり、下痢、夏バテなどを引き起こす原因となってしまうのでご注意を・・・。

特に、甘み(糖)は冷たくすると感じにくくなり、糖質の含まれた冷たい食べ物や飲料を多く摂ると糖質過多にもなり易い。だから、冷たいといっても、キンキンに冷えているものではなく、「少し冷たい」と感じられる程度のものに抑え、糖質の余り含まれていないものがいいだろうね。

ところで、7月20日(金曜) の今日、神戸市の公立の小学校、中学校、高等学校などは、1学期の終業式が行なわれ、明日から第2学期の始業式のある9月3日まで、長い長い「夏休み」となる(※2)。

朝の登校時間の前ごろから神戸の私の家付近ではあいにくの大雨で、雷が近くでゴロゴロと鳴っている。折角の雨でずぶ濡れになっているのではないかな。しかし、子供達にとっては明日から嬉しい夏休み。だが、親にとっては、大変なのだろうな〜。

例えば、今年の西日本の場合、記録的猛暑だった昨夏ほどではないが、8月は平年より低い:20%、平年並み:40%、平年より高い:40%となっており、8月に高温傾向が特に現れており太平洋高気圧の張り出しが強まって、暑い夏となりそうだ(※3)。

昨年3月11日の東日本大震による被害で福島第一原子力発電所事故を起こして以来、日本国内の原子力発電所稼動問題などから、この夏季以降も電力の供給不足が懸念され、料金のアップだけでなく、政府、電力会社から節電を強く要請されている。許容量を超えると計画停電も止む無しなどと脅されると、厭でも節電しなければ仕方がない。

職場などでは、会社の節電対策で「エアコンの設定温度28度を厳守する」などといわれ、うだるような暑さに耐えながらの仕事をしている人も多いことだろう。事務所でのエアコンの設定温度などについては、事務所衛生基準規則 での定めもあり、それ以下の厳しい環境になっている場合は、健康上の問題もあり、参考※5:「節電と事務所衛生基準規則について」など一読し、改善すべき点などは会社に要望をしても良いだろう。

今年は、野田政権社会保障と税の一体改革を言いながら、社会保障は棚上げにしたまま、自・公・民三党合意(談合?)で消費税増税だけはあっさりと決めてしまった。(現在参院特別委員会で実質審議中、※4参照)。

所得の低い人は、先のことが心配で、せっかくの夏休みに家族旅行も中止し、費用のかからない近場のショッピングセンターなどでのイベントや海水浴などで過ごす人も増えているかも知れないし、家にいるとしても、節電でエアコンの使用もままならないないとなれば、今年は、本当に、暑い、辛い夏になりそうだ。

兎に角、この暑い夏は、ハードな運動はさけ、余り冷たいものは摂らないようにして、気温の低い朝の間などに、こまめに水分補給や休憩を行いながら適度な散歩や軽い運動をして、暑さに負けない体力づくりをすることが一番望ましいだろう。それと、熱中症の心配をしなければいけないほどの余り過度な節電はしないようにしよう(※6参照)。

熱中症は、自分で意識しないうちにかかるものだそうで、私も、朝急に足のこむら返りを起したりしてびっくりしたが、これも熱中症が原因だそうで、夜寝ている間に汗をかき水分不足になっているらしい。年をとると、喉の渇きも感じにくくなり、どうしても水分不足になるというので、私たち夫婦は家の中にいるときでもいつも水を入れたペットボトルをそれぞれが1本づつ手元においているのだが、ほっと気がつくと飲み忘れていると言うことが多い。相当意識をして飲むようにしないといけない。

上掲の画像は、私のコレクションである映画のチラシで、1994(平成6)年製作の金子修介監督の映画「毎日が夏休み」である。

この映画大島弓子の少女漫画が原作。昨年8月にNHKBSプレミアムでも放映されていた。“山田洋次監督が選んだ日本の映画家族編50作品”(※7)にも紹介されている名画である。

学校でのいじめが原因で登校拒否になっていた中学生のスギナ(佐伯日菜子)は、エリート会社員の義父成雪(佐野史郎)が時間をつぶすために行っていた公園でばったりと出会う。実は成雪も出社拒否(退職済)で、毎日が夏休みになっていたのだ。この出社拒否と登校拒否の親子が何でも屋をはじめるが、娘の成績優秀と夫のエリートぶりが自慢の種だったママ良子(風吹ジュン)は、ついにキレてクラブのホステスに……。

出社拒否と登校拒否の親子が、互いに協力して道を切り開いてゆき、実質上崩壊している家庭が、最後には見事に再生されてゆく。本来深刻な悩むべき問題を、コミックからの作品らしく、夢の有る明るく、前向きに描いたユニークな物語である。自分が思いがけなく必要とされていることのわくわく気分を演じた、13歳のヒロイン・スギナ役を佐伯が好演、佐野と風吹が佐伯を飄々とした味で支えている。映画をみた人達の感想はすこぶる良い(※7参照)。親子でこんな映画をDVDで見るというのも夏休みのいい過ごし方かも知れない。

今、大津市立中学2年の男子生徒(当時13)が昨年(2011年)10月に自殺した問題(いじめが原因であろうとされている)が連日マスコミで報道され話題となっている(※8)が、このような話を聞くと実に哀しくなる。

学校でのいじめや嫌がらせ、又、会社の職場や、地域社会など、集団の中では、昔から、多かれ少なかれ、いじめや嫌がらせはあったが、最近の学校などでのいじめの話を聞いていると昔のいじめとは大分違ってきたように感じる。

昔は、男の子の場合など、学校でも、住んでいる地域の中でも、何処にでもごんたくれ がいて、人をからかったり、仲間の者に使い走りをさせたりしているのを私なども多く見てきた。しかし、当時はかなりオープンに人前でも平気で堂々と単独で、威張ってやっていることが多く、今のように集団で影に隠れてこそこそ、しかも陰湿なことは余りしなかったと記憶をしている。女の子の場合は知らないが、・・逆に女のこの方が影で陰湿ないじめをしていたかもしれない。

私たち戦前産まれの年代の者だと、「男は男らしく」、「女は女らしく」というのが、躾や教育の基本であった。良くも悪くも、こういう決まりごとは世間の誰もが認知していたので、強いものが弱いものをいじめたり泣かせたりするのは男らしくないと回りから馬鹿にされるし、ましてや、陰に隠れて集団でいじめをするなんて男のすることとは考えられないことであった。だから、普通力の強い腕白なごんたくれたちが、たいたずらやからかい半分のいじめのようなことをしても、度が過ぎると回りの者が見ているので、大人の場合だと直接叱るし、学校などでも、見ている子どもたちが皆で注意し、それでもやめないと、「先生に言いつける」ぞと言うとやめるのが普通だった。それはどんなごんたくれにも、「わしも男だ」というプライドがあったからだろう。男が同じ男社会から認められないほど辛しことはないからね〜。

戦後の民主化とともに男女同権運動の一層の広がりは良いのだが、それまでの、行動規範ともいえる「男の子は男の子らしく」とか「女の子は女の子らしく」と言ったことを口にすると、それは、ジェンダーだと非難されてしまう。戦後シームレスと女性は強くなったと云われるように、女性はあらゆる分野での束縛から解放され社会へ進出し、強く逞しく生きている。その反面、敗戦に打ちひしがれ、自信喪失した男性は、男としての生き方が見つからないまま、卑屈で、ひ弱になってきているように思えて仕方がない。それは戦後生まれの男子の教育のあり方になどにも関連していると思うのだが・・・。

ああ!非常に大きな雷がすぐ近くで鳴り出した。パソコンがやばいので、この話はこれまでとしよう。いじめ問題を考えているうちに、ついこんなことをぐちってしまった。

もう現役を退き、ブログを書くことぐらいしか特にしなければならないことのない私ですが、兎に角、暑い夏の期間はブログの方も、小・中学生並みに、明日7月21日から9月の上旬まで、夏休みとさせていただきます。今までの訪問有り難うございます。

暑い夏!くれぐれも熱中症には気をつけて、乗り切ってください。

再開の節は又の訪問、宜しく御願いします。

(冒頭の画像は、7月18日朝日新聞朝刊より借用)

参考:

※1:KIRIN_夏を冷やそう!夏割り

http://www.kirin.co.jp/about/natsuwari/index.html

※2:神戸市:神戸市立学校園式典一覧

http://www.city.kobe.lg.jp/child/education/ceremony/index.html

※3:Tenk.jp近畿から沖縄、暑い夏に

http://tenki.jp/forecaster/diary/detail-4714.html

※4:中国新聞

http://www.chugoku-np.co.jp/Syasetu/Sh201207190097.html

※5:節電と事務所衛生基準規則について - 現代の臥竜窟

http://blogs.yahoo.co.jp/taka_007jp/52327788.html

※6:「節電で熱中症」ご注意 専門家、注意呼びかけ - 朝日新聞デジタル

http://www.asahi.com/special/10005/TKY201106090218.html

※7:山田洋次監督が選んだ日本の名作100本 家族編::毎日が夏休み

http://www.nhk.or.jp/yamada100/review/review_mainichi.html

※8:朝日新聞デジタル:大津・中2自殺 教職員への聴き取り、記録残さず

http://www.asahi.com/national/update/0719/OSK201207190039.html

 毎日が夏休み - goo 映画

http://movie.goo.ne.jp/movies/p28324/index.html

民主党政権、モ〜末期的!これが“離党予備軍”74人だ -

http://www.zakzak.co.jp/society/politics/news/20120718/plt1207181810007-n1.htm

一体改革法案 3党合意ベースに議論深めよ読売新聞‎

http://www.yomiuri.co.jp/editorial/news/20120719-OYT1T00027.htm

気象庁:サイトマップ

http://www.jma.go.jp/jma/kishou/sitemap.html

 夏休み - Wikipedia

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%8F%E4%BC%91%E3%81%BF

日本記念日協会

http://www.kinenbi.gr.jp/index2.html

 

 

 

書中お見舞い申し上げます

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梅雨明け後の暑さたまりませんね。

さすがに私も、ここのところ少々ヘ張り気味です。

 各地で、熱中症の人が続出とか・・・。

 節電しながら猛暑の夏を乗り越えるるのは大変ですね。

暑い夏乗り切るには、兎に角、水分補給と、散歩や体操など軽い運動で体力をつけ、 栄養のあるものを食べて体力をつけるのが第一。

 皆さんも、水分補給には気をつけて、暑い夏、乗り越えてくださいね。


秋・萩・月

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今日は9月1日。現在、用いられている太陽暦(グレゴリオ暦)では、年始から245日目(今年は閏年。平年では244日目、)にあたり、年末まではあと121日ある。1年を365日とすれば、丁度年始より、3分の2を経過し、残り3分の1を残す勘定となった。

日本の四季では、である。

秋とは、社会通念・気象学では9月・10月・11月を言うが、二十四節気に基づく節切りでは立秋から立冬の前日までをいう。

そのことから、立秋になると「今日は立秋。暦の上では秋に入りましたが、相変わらず暑いですね」などというコメントがあるが、二十四節気とは、分かりやすく言えば、昼と夜の長さが等しくなる春分と秋分を基準とした暦のこと。春分と秋分は、一年に2回地球の自転軸が太陽−地球と垂直になる瞬間であるが、後は、それを基に、特に重要な中気である夏至・冬至の二至を決め、一年を二四等分(約15日ごとに分け)し、立春や立秋など機械的に名付けもの。

夏至と秋分の中間で、昼夜の長短を基準に季節を区分する場合、立秋から立冬の前日までが秋となるが、暦の上での立秋(現在の暦では8月7日)は、暑さの頂点であり、徐々に暑さが緩むのはその翌日からなので、このコメントはおかしい。それは、立秋の次に控えているのが「処暑」(8月23日ごろ)であり、処暑は、暑さがやっと一段落し、過ごしやすくなるという意味なので、暦の上でもこのころまでは暑いぞ、ということを言っているのだから・・・。立秋の翌日から暑中見舞いではなく残暑見舞いを出すことになっているのもそのためである。

二十四節気をさらに約5日ずつに3分した七十二候略本暦)の「次候」(平年8月28〜9月1日)でやっと、「天地始粛=ようやく暑さが静まる」」となり、秋らしさを感じるようになるはずなのだが、今年の場合は、この時期でも日本列島に太平洋高気圧がいつまでも居座っていることから、残暑と言うより猛暑日が続いており、この暑さの治まるのは、「末候」(今年の場合9月3日以降)となってからのことのようだ。ただ、昨日夜遅くから、今朝まで降り続いた大雨が涼しくなるのを早めてくれば良いのだが・・・・。

昨・2011年3月に発生した東北地方太平洋沖地震とそれに伴って発生した津波及びその後の余震により、福島第一原子力発電所事故が引き起こされたことから、電力不足(東日本大震災による電力危機)が起こり、電力料金は値上げされ、その上、企業だけでなく我々庶民にも節電が求められた。

そして、長く続く猛暑の中、熱中症と闘いながら、今日まで、必死に耐えてきたが、この暑い夏、結果的には、停電など何処にも起こらなかった。

閏年の今年は、先日7月27日から8月12日までイギリスのロンドンで開催された第30回夏季オリンピックには、204の国と地域から約11,000人が参加し、実質19日間(開会式に先立ち男女サッカーの一部試合が行われた2日間を含む)に26競技302種目が行われ、日本は金7(男子3、女子4)、銀14(男子8、女子4)、銅17(男子10、女子7)計38個(男子21個、女子17個)と過去最高のメダルを獲得し、メダルの獲得数では、アメリカ、中国、ロシア、イギリス、ドイツに次いで第6位と健闘した。ただ、最初から日本の特技・柔道の軽量級などでつまずき、金メダル数では、豪州、カザフスタンと並び10位タイと残念ではあったが、今大会は最高に盛り上がったのではないだろうか。

ただ、時差の関係で夜から未明にかけてのテレビ中継に、節電のことも忘れて応援に熱中し、日中は「時差ぼけ」に悩まされた人も多かったことだろう。

それでも、この夏停電が起こらなかったのは、結果的には企業や庶民の節電努力と言うことになるのだろうが、私なども、節電は心がけてきたものの、この夏の猛暑には耐え切れず、クーラーなどの稼働時間数も昨年よりは増えている・・・。そんなことを考えると、政府や電力会社の言っていたこの夏の電力不足問題には、今後も原子力発電所を稼動しなくては、電力が不足し、困るぞという企業や国民への脅し的なものもあったような気がしないでもない。

いずれにしても、今後、日本のエネルギー政策上、原発稼動問題は大きな政治テーマーとなることだけは間違いない。

二十四節気・五節句などの暦日のほかに、季節の移り変りをより適確に掴むために設けられた、特別な暦日雑節のひとつに二百十日がある。

この日は、立春を起算日(第1日目)として210日目、つまり、立春の209日後の日であり、21世紀初頭の現在では平年なら9月1日(閏年の今年は8月31日)。

台風襲来の特異日とされており、八朔旧暦8月1日)や二百二十日とともに、農家の三大厄日とされている。

しかし、210日頃の台風はむしろ少なく、統計的には二百十日よりも二百二十日(平年なら9月11日、閏年なら9月10日)の方を警戒する必要がある。

ただ、1923(大正12)年、偶然この年の二百十日にあたる9月1日に関東大震災が発生したため、在来の二百十日と併せて災害についての認識と心構えの準備を喚起する日として、1960(昭和35)年、防災の日 」に制定されている。

1995(平成7)年1月17日(火)に発生した阪神・淡路大震災以来、日本各地で大きな地震が頻発しているが、今、日本列島は断層の活動期に入ったといわれている。

先日(8月29日)、国の二つの有識者会議によって発表された東海、東南海、南海地震などが同時発生するマグニチュード(M)9級の「南海トラフ巨大地震」についての被害想定などによると、死者数は最大で32万3000人。そのうち津波による死者は全体の7割の23万人に達するという。有識者会議は、「最悪クラス」の地震起きる可能性は低い」とも指摘しており、適切な非難行動や対策をとれば死者数を最大の5分の1程度に減らせると言うが、それにしても、6万人以上の死傷者が出る勘定になり、恐ろしい限りだ。

それに、昨今は異常気象による猛暑や日照不足、局地的な豪雨などによる災害も各地に頻発している(日本だけでなく世界的にも異常気象は見られる)が、これからの時代、このような異常気象が異常とは言えず普通のことになるかもしれないともいわれている。

もう、このような災害事例はいくつも報道されていることである。それをよそ事とせず、いざ自分が災害にあってから泣き言を言わないように、各人それぞれが、地震や津波だけではなく、あらゆる災害を想定した防災対策・自衛策を講じておかなくてはいけないだろう。

暑い暑いといいながらこのようなことを書き出したのだが、さすが今の時期になると、早朝や日差しがかげたころになると、ひんやりとした風がそよぎ、ふと秋らしさを感じることもある。もう数日の我慢である。

夏の蝉は次第に鳴りをひそめ、赤とんぼの群れや、虫の声が耳にとまるようになる。

秋は春と肩を並べるにぎやかな季節である。様々な花が咲き、稲が黄金に色付き、栗、梨、葡萄などとりどりの果実が店頭を飾るようになる。台風がしばしば日本を襲い、秋雨が長く続くこともあるが、晴れた空は高く澄み渡り、俗に「天高く馬肥ゆる秋」ともいわれる食べ物も美味しい季節だ。

秋の花としては秋の七草が有名である。秋の七草と言えば山上憶良の詠んだ歌が有名で、現在の秋の七草とされる花はこの憶良が数え上げた花である。

山上臣憶良が秋野の花を詠める歌二首(万葉集に掲載※1参照)

巻8−1537:秋の野に 咲きたる花を 指折り(およびをり) かき数ふれば 七種(ななくさ)の花

巻8−1538:萩の花 尾花 葛花 瞿麦の花 姫部志(をみなへし) また藤袴 朝貌の花

ハギ」(萩 Lespedeza)は、マメ科ハギ属の総称で、落葉低木。分布は種類にもよるが、日本のほぼ全域。普通にはヤマハギ・ミヤギノハギを指す。枝の先端から多数の花枝を出し初秋に紫紅色または白色の花をつけ、花は豆のような蝶形花。「萩」の字は「草冠に秋」と書くが、この文字は国字(日本生まれの漢字)である。

萩は秋の七草に数えられているので草花かと思う人もあるかもしれないが、山上臣憶良は万葉集の中で七種(ななくさ。七つの種類)の花として萩を挙げているので誤解のないように・・・。因みに、日本のハギの漢名は、「胡枝花」(こしか。胡枝子とも書く)だそうで、中国名の「萩」は日本の萩とは別の植物で、キク科ヤマハハコ属の植物ヤマハハコなどを指すと言われているようだ。(※2)。

秋を代表する花として、古くから日本人に親しまれ、『万葉集』で最も多く詠まれている花が萩であり、『万葉集』に詠まれた植物は 160種類以上あるそうだが、そのうち萩が142首を占める。これは桜の3倍以上の数だそうで、如何にに日本人が萩の花を好んでいたかが窺がえる。

しかし、『万葉集』の原文ではハギの歌に「萩」の字は全く使われていない。日本で萩の漢字が見られるのは平安時代中期に作られた辞書『和名抄』(⇒和名類聚抄、931年 - 938年編纂)からといわれる。

『万葉集』前半では、「芽」また、多くは「芽子」、後半では「波疑」(波儀とも)という万葉仮名で表わされている。(※「たのしい万葉集」の萩(はぎ)を詠んだ歌参照)。

萩の語源は「生(は)え芽(き)」だとする説が有力のようである。萩は古い枝には花をつけず、毎年、春に必ず古い株から芽が生えてくることからきているのだという。その芽が伸びた枝にだけ花をつける。それがハギに「芽」「芽子」の字を宛て由縁だろう。

ただ、万葉集でこれほど多くのハギの歌が多いのには、日本人にとって、萩はさまざまな意味で象徴性の豊かな植物であったからのようだともいう。

萩の開花期は、稲・粟・稗などの収穫期に重なり、豊かに咲きこぼれる萩の花は、豊穣の秋のシンボルであったが、そのほか、萩の花は性的な象徴物でもあったようだ。

端的にみると、豆のような蝶形花である萩の紅い花びらからは女性器を想像させ、その花の形からハギを「芽子」と見立てた可能性があるという。この字をそのまま文字通り訓読みすればわかるように、古来、女性器の部分を「芽」、「芽子」、「御芽子」と表現していたようだから・・・(※:3、※4:「やまとうた」和歌歳時記>萩の花参照)。

そして、万葉集にはシカ(鹿)を詠んだ歌が、68首あり。そのほとんどは、鹿の鳴く声を詠んだもので、歌の中では、鹿・さ牡鹿・猪鹿(しし)などという形で詠みこまれている。「さを鹿」とは、雄鹿のことで、雄鹿は冬に角を落として、春に新しく角を生やし始め、秋に一番角が大きくなるために、「さを鹿」は、特に秋を象徴する動物として認識されていたようだ。そして、萩は牡鹿とのペアで詠まれた歌が多いが、牡鹿の角は男性の生殖器の象徴とも見られていたようだ。

鹿とともに萩を同時に詠みこんだ歌が多く見られれ、(※:1「たのしい万葉集」の鹿を詠んだ歌参照)。万葉集第八巻 秋の雑歌の中に以下のような歌がある。

1541:我が岡に、さを鹿(来(き)鳴く、初萩の、花妻(はなつま)どひに、来(き)鳴くさを鹿 (作者: 大伴旅人)

意味::私の住む岡に、牡鹿がやってきて鳴いている。萩の花に求婚しにやってきた鹿が。

「妻どひ」とは、求婚することで、「花妻どひ」は、萩の近くにやってきた牡鹿のことを、萩に求婚しに来た、というように表現している。

1550:秋萩の散りの乱(まが)ひに呼びたてて鳴くなる鹿(しか)の声の遥(はる)けさ(作者:湯原王。※:4:「やまとうた」のここ参照)

意味:秋萩の散り乱れる中、妻を呼び立てて鳴く鹿の声が遥かに聞こえることよ。 

以下参考に記載の※4:「やまとうた」は、和歌を主題とするブログであり、その中の和歌歳時記>萩の花に以下の歌も紹介されている。

 ・なびきかへる花の末より露ちりて萩の葉白き庭の秋風(伏見院 『玉葉集』 )

・秋といへば空すむ月を契りおきて光まちとる萩の下露( 藤原定家 『拾遺愚草』 )

萩が咲き添うにつれ、日没後の冷え込みは強まり、夜は目立って長くなる・また、上掲・定家の歌では、月と萩の下露が恋人同士に擬えられている。

万葉の時代から、歌人たちは秋風・露・月・雁など秋の代表的風物を萩の花に交錯させて歌に詠むことを繰り返してきた。

現在花見と言えば桜であるが、万葉集に桜と思われる花の歌は40首あまり残されているものの、この中に花見を思わせる歌は一首もなく、万葉集で「花見」と言えば梅と萩の二種であったが、当時、「梅」が大陸渡来の樹木であったのに対して、「萩」は日本古来のであった。

巻10−2103: 秋風は涼しくなりぬ馬並めていざ野に行かな萩の花見に(作者: 不明)

意味: 秋風が涼しくなった。さあ、馬を並べて野に萩の花を見に行きましょう。当時、渡来樹木の梅は貴族の庭園に植樹されていたのに対して、野にあった花を花見に行くのはハギだけであった。

巻8−1598: さを鹿の 朝立つ野辺の 秋萩に 玉と見るまで 置ける白露(作者:大伴家持

意味:: 牡鹿が朝に立っている野の秋萩に、玉のように美しい白露がついている。

この歌は、題詞に"大伴宿禰家持の秋の歌三首"とある。また後記に、"右のものは、天平十五年癸未秋八月に、物色を見て作れりなり。"と注がある。"物色を見て作れり"とは、実際に物(風景)を見て作ったということであるが、絵に描いたような典型的な秋の景色が詠われている。

しかし、穿った見方をすれば、そのような注記をしなければならないと言うことは、裏をかえせば、万葉の時代すでに、貴族の庭園は深山幽谷を模して、自然の景色を再現したものが尊ばれていたに違いなく、「萩」を詠った歌にも、実際には庭園の萩を見て詠ったものが多くあったのではないかとも想像できるのだが・・・。

いずれにしても、万葉の頃に愛された萩の花見の習わしもすっかり忘れられてしまった昨今、萩の花の咲くこの季節にもう一度、万葉の昔に思いをはせて、萩の花見などしてみてもいいのいではないか。

又、この時期は、昔から「月といえば秋」といわれるほどに、高く澄んだ夜空に浮かぶ月の輝きが美しい。とくに9月の中旬、もっとも月が輝く中秋の名月いわゆる「十五夜」は、今年の場合、満月にあたり、鑑賞には最高だ。

巻10−2228: 萩の花 咲きのををりを 見よとかも 月夜の清き 恋まさらくに(作者不明)

意味:「咲きのををりを」の「ををり」とは、「たわむほどに」という意味らしい。萩の花が たわわに咲き乱れる様を 見よとばかりの 今宵の月の清らかさよ。見れば かえって(余計に)恋しさが募るというのに 。

月を眺めているとなんとなくロマンチックになり、又、人恋しく、そして切なくもなるようだ。

「秋の夜は 長いものとは まん丸な 月見ぬ人の心かも 更けて待てども 来ぬ人の 訪ずるものは 鐘ばかり。」 (端唄『秋の夜』)

秋の夜が更け、待っている恋人は現れず、ただ満月の光に照らされて、鐘の音を指折り数えている・・・、という切ない気持ちを歌った端唄の名曲であり、幕末に流行したようだ。以下で聞ける。

端唄(はうた) - 歌唱編|文化デジタルライブラリー

萩の花を鑑賞し、月見を楽しむ頃、あちこちからかすかに虫の音が聞こえ始める。秋の夜、散歩をしていても身近な秋の自然が心身を癒してくれる。四季に恵まれた日本人にとって、秋は格別の季節ですね〜。

参考:

※1;たのしい万葉集

http://www6.airnet.ne.jp/manyo/main/

※2:萩、白萩、山萩、野萩 - NPO法人双牛舎

http://sogyusha.org/ruidai/03_autumn/hagi.html

※3:男の愛する花 鴨頭草(ツキクサ) と秋芽子(ハギ)(Adobe PDF)

http://image02.wiki.livedoor.jp/d/o/dokatakayo/3fccf245c4ed5650.PDF

※4:やまとうた

http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/index.html

国立天文台 | ほしぞら情報2012年8月

http://www.nao.ac.jp/astro/sky/2012/08.html

 

二十四節気とは

http://www5a.biglobe.ne.jp/~accent/kazeno/calendar/nijuusi.htm

ロンドンオリンピック2012 - JOC

http://www.joc.or.jp/games/olympic/london/

池田信夫 blog : バランスの取れたエネルギー政策 - ライブドアブログ

http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51806937.html

aサロン(記者ブログ)_科学面にようこそ_日本列島は地震の活動期か

https://aspara.asahi.com/blog/science/entry/2ox4SXZ9zg

南海トラフ 巨大地震と津波の被害想定 NHKニュース

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20120829/k10014624091000.html

気象庁 | 日本の異常気象

http://www.data.jma.go.jp/gmd/cpd/longfcst/extreme_japan/index.html

朝の月

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今朝、5時30分ごろ、散歩時西の山の上に見えたおさまが綺麗だった。
今年8月31日は、数年に一度の「ブルームーン」(青い月ではなく、月に2度目の満月)だったので、まだ2日目の朝のためお月様は丸いです。
ブルームーンは見損ねたが、次のブルームーンが見られるのは2015年とのこと。
通常、満月は1カ月に1度しか見ることができない。月は、約1カ月かけて満ち欠けをするが、その1カ月とは正確には約29.5日。そのため、この誤差が、2〜4年に一度1カ月の間に2度、満月が見られる「ブルームーン」といういう現象を起す。
秋は特に月が綺麗に見える季節。特に9月の中秋の名月(十五夜のお月見、芋名月)が一年で最も綺麗と言われている。それが9月 30日 だが、その日は満月でもあるそうだ。
中秋の名月とは、いわゆる旧暦(太陰太陽暦)8月15日の夜の月のことだが、毎年十五夜の月が満月とは限らない。綺麗に見えるといいのだが・・・。
お月様と言えば、面白い記事を見つけた。
月と農業の関係を調べたタネ屋さんのブログに、以下のようなことが書いてあった。
害虫の防除を満月の前後に行なうのが良いそうだ。より正確には、満月の3〜4日後がベストだという。
虫の生態として、満月の3日前に交尾、満月の日に産卵、そして満月の3日後に孵化する傾向があるからなのだそうだ。
興味のある人は、以下を参照されると良い。
月刊 現代農業2009年6月号 月のリズム防除
http://www.ruralnet.or.jp/gn/200906/moon.htm

食べものを大切にする日

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日本記念日協会の今日・9月9日の記念日を見ると「食べものを大切にする日」があった。
「食べものを大切運動」に取り組んでいる一般財団法人ベターホーム協会(※1)が制定した日。
食べものを捨てることなく食べきることが健康にも通じるとから、健康長寿を祝う重陽の節句にあたる9 月9日としたもの。また、食べものを「捨てないん(ナイン)」「残さないん(ナイン)」の語呂合わせからでもあるようだ。
ベターホーム協会は、1963(昭和38)年に、消費者教育組織として発足した一般財団法人である。
明治時代に制定された従来の公益法人制度のもとで、主務官庁の許可によって数多くの公益法人が設立された。
しかし、その中には、公益性に乏しく営利を目的としていながら税金面で優遇措置を受けていたり、官僚の天下りの温床にもなっていたことから、さまざまな問題が指摘され、批判が絶えなかった。
そのことから2008(平成20)年12月1日施行された公益法人制度改革関連3法の一つ一般社団・財団法人法に基づいて設立された法人である。
一般財団法人は、事業目的に公益性がなくても構わない。公益性があるとは、不特定かつ多数の人の利益を増やすことを目的としているということであり、個人や特定のグループのみの利益を目的としていないということであるため、一般財団法人は個人の利益を追求する法人でかまわない(※2参照)。
そのようなことはさておき、ベターホーム協会が発足した1960年代1960年代は戦後復興を確信させた東京オリンピック1964年=昭和39年)の開催を挟み、日本は「奇跡」と言われる高度経済成長を実現し、新幹線や空港・道路等が整備され、家庭には次々に新しい家電製品が増えて行き、市場にはスーパーマーケットが登場していた。
そして、それまで使ったこともなかった新しい加工食品(※3のここ参照)が登場するなど、人々の暮らしが大きく変化していった時代であり、「今日より明日が良くなる」と皆が信じた時期でもあった。
このような戦後の復興期を経て、日本も、アメリカ型の大量生産、大量消費の消費社会を追随していた。
同協会は、そのような世情にあって、いたずらに消費文明に流されて良いのか、よく勉強して賢い消費者になろうと、主婦たちの学習集団、つまり消費者教育組織として活動を始め、約50年近く、消費者教育(※4参照)の中でも、とくに「食」の分野に特化した活動を展開してきたのだという。
現在、食分野で、日本の国を良くするための大きなテーマとして「食の安全」「食育」「食糧需給率の向上」「日本型食生活の普及」(※3のここ参照)「地産地消」などがいわれている。
また、食の知識や知恵や食文化を知り、おいしい料理の作り方を身につけることは健康で、心豊かな楽しい人生を育んでいく。
そのようなことから同協会は、国民の健康と心豊かな人生のために、大勢が楽しく参加できる食の講習会を通して、社会のために尽くそうということらしい。
そして、同協会は「食べもの大切運動」のひとつとして、2008年に「第1回 ああ、もったいない!捨てないで!食べものを大切にしよう川柳」の募集を行なっており、今年は第5回目となる。
川柳は毎年8月末応募作品が発表されているようだが、今年のものはまだ、同HP上には、発表されていない。

「震災後 残さず喰べる 我が家族」(俄か雨さん53歳)

上掲の句は2011年8月29日、全国から717通の第4回応募作品の中から発表された入選作(入賞5点、佳作10点作品)のうちの1つである。
作品紹介に、「震災後のスーパーやコンビニの食料品の品切れを経験したあとは、食べもののありがたさを再認識しました」とあるように、昨年3月11日の東日本大震災は、広範囲で甚大な被害をもたらしたが、震災の中から、人々が忘れられかけていた人と人との「」の大切さや食べものの大切さなどを思い起させてくれた。

「間に合った 賞味期限に あと5分 」(姫ちゃんさん45歳)

上句も同年入賞作品の1つであるが、ついつい買い過ぎて、気がついたら、賞味期限切れといった無駄も多いのではないか。
折角買った食べ物も、賞味期限が過ぎると味が変わってしまう。賞味期限は、製造者が安全性や味・風味等の品質が維持される保証期限を示した日時であり、期限がきたから食べられないと言ったものではないが、余り期限が過ぎて長く日が経つと当然食べられなくなったりもする。
期限内でも、同じ食べるなら美味しく食べて、「ああおいしかった!」と、心から食べものへの感謝の気持ちがもてるようにしたいものだ。
これら投稿作品には、ついつい笑ってしまうような句や、考えさせられる句など、力作が揃っている。
第1回から第4回のものは、ここで見ることが出来るので、興味のある方は見られると良い。
さて、食べ物の話の続きだが、前に、このブログ「象供養の日 (?)」でも触れたことがあるが、約3億6千万年前、海で生活していた魚にも上陸のチャンスが訪れた。ヒトを含む最初の霊長類は、今から約6500万年前に食虫類(ネズミの仲間)から分かれて進化したといわれており、私たちヒトの祖先もはじめは象と同じように水辺で生活していたのである。(以下※5参照)。
つまり・・・、今生きている私たちヒトにしろ象にしろ、馬にしろ牛にしろ、その歴史を辿れば、食虫類として水辺で生活するようになる前は、もともと水の中で生活していた魚類が進化したものであった。
考えれば、それこそ、みんな同じような仲間であったといえるかもしれない。しかし、どんな動物でも、物を食べなければ生きてはいけない。言い換えれば、生きるということは、喰べると言うことであり、その食べている魚も牛も黒マグロもクジラも、かっては同じような魚が進化してきた生物である。
だから、生きてゆく上で、これは食べて良い動物や悪い動物などといったものがある訳がない。どんな動物だって食べられたくはないのである。
日本では、私たちの世代のものは、仏教の教えに従って、食時の前には、手を合わせ「いただきます」、食後にも「ご馳走様でした。ありがとうございます」と手を合わせて感謝していた。
「いただきます」とは、「生きてゆくために、食べさせていただきます。」「食べることによって生かせていただきます」の意味である。
そして、食べた後で、「有り難うございます」と、生きてゆくのが難しい中、同じように生きているものを食べさせていただいたことにより自分が生きながらえさせてもらえることへの感謝の気持ちを述べていたのである。
しかし、昔に比べて、豊かになった今の日本では、食べものの種類も増え、金さえ出せば、食べたいものがいつでも食べられるようになったものの、その反面、食べ物が食べられることへの感謝の気持ちは少なくなってしまったようだ。
日本における食事前の挨拶である「いただきます」は、「もらう」や「受ける」の謙譲語であり、食事を作った人と食材を作った人への感謝の気持ちも表している。
グルメ情報があふれる一方で、「いただきます」を知らない現代の子どもたちに、食べることについての日本人の「心」の教育も必要ではないか。
冒頭掲載の画像は、ベターホーム協会のシンボルマーク「だいこんハート」。
だいこん(大根)はしっぽから葉先、皮まで捨てるところがない野菜である、又、殆どが国産でもあるところから「無駄にしない」象徴としてシンボルに使用しているそうだ。 
現在、日本の食料自給率は39%(※6参照)と非常に低く、食料の約6割を輸入に頼りながら、日本人には食べものを食べ残し、捨てているもが多くいると聞く。
そのような現状を改め、食料を無駄なく食べきることが大切なことであるだろう。その点では、ベターホーム協会による、「食べもの大切運動」は、良い運動だと思う。今日の記念日を機会に、食べものの大切さや、今の時代、どのような食べ方が良いか、考え直してみるのも良いと思うが、以下参考に記載の※3、※6、※7、※8など参考になるかな〜。

ところで、今日9月9日(旧暦)は五節句の一つ重陽(ちょうよう)の節句。旧暦では菊が咲く季節であることから菊の節句とも呼ばれる。
中国では、菊酒を飲み長寿を祈る習慣があったとのこと。しかし、日本で、奈良時代には重陽の節句は行なわれていなかったようだ。
それは、この日は、天武天皇の亡くなられた日、天武忌、であり、 国忌でもあったためだそうだ。
傅在の新暦の9月ではまだ菊は早い。それに、万葉の時代、日本で秋の花見と言えば、萩が第一。この萩のことは、今9月1日のブログ秋・萩・月で書いたので、気が向いたら見てください。


※1:一般財団法人ベターホーム協会
http://www.betterhome.jp/index.php
※2:一般財団法人とは
http://www.kaishasetsuritsu.biz/zaidan/index.html
※3:e-shokuiku.com
http://www.e-shokuiku.com/
※4:消費者教育-Yahoo!百科事典
http://100.yahoo.co.jp/detail/%E6%B6%88%E8%B2%BB%E8%80%85%E6%95%99%E8%82%B2/
※5:林原自然科学博物館
http://www.hayashibaramuseum.jp/
※6:農林水産省/パンフレット「いちばん身近な『食べもの』の話」について
http://www.maff.go.jp/j/zyukyu/zikyu_ritu/zikyu05.html
※7:農林水産省/「食事バランスガイド」について
http://www.maff.go.jp/j/balance_guide/
※8:みんなのよい食プロジェクト
http://www.yoi-shoku.jp/
平成20年版国民生活白書(全文HTML)|第2章|第1節 消費者政策の経済分析
http://www5.cao.go.jp/seikatsu/whitepaper/h20/01_honpen/html/08sh020101.html
重陽の節句|日本文化いろは事典
http://iroha-japan.net/iroha/A03_goseku/05_choyo.html
日本記念日協会
http://www.kinenbi.gr.jp/

グランド・ジェネレーションズ デー

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今日・9月の第3日曜日は国民の祝日「敬老の日」である。
既に、この日のことは、敬老の日敬老の日(Part2)として、このブログで2度も採りあげているのでそこを見てください。
今日、何を「テーマー」に書こうかと、日本記念日協会の記念日を見て見ると、「グランド・ジェネレーションズ デー」というのがあった。
記念日の由来には、“若々しく年齢を重ね、豊かな知識と経験を持ち、第二の人生をさまざまなライフスタイルで楽しんでいるGRAND GENERATION(G.G)世代。その世代にエールを送り、より輝きを増す日にと、千葉県千葉市に本社を置きイオンなどのショッピングセンターを全国展開するイオンリテール株式会社(英: ÆON RETAIL Co., Ltd.)が制定。日付は「敬老の日」を尊重して。 ”とあった。

グランドジェネレーション(GRAND GENERATION)。略すと、「グラジェネ」や「G,G」。
ジェネレーション【generation】は、世代。また、同世代に属する人々を言う。又、グランド【grand】という言葉には、壮大な、 雄大な、 印象的な;壮麗な、 豪壮な、みごとな、それに、最高位の・・といった意味もあることから、「最も偉大なる世代」といった意味になる。
イオングループが提唱している呼称だが、この呼び名を考えたのは、イオンではなく、放送作家であり、脚本家として第81回アカデミー賞外国語映画賞 、および第32回日本アカデミー賞最優秀作品賞受賞作品である映画「おくりびと」(2008年公開、滝田洋二郎監督)の脚本を担当したことでも知られている小山薫堂氏だそうである。
小山氏は昨年、音楽プロデューサーの松任谷正隆氏の還暦パーティーに携わった際に、松任谷氏を見て「この人に『シニア』という言葉は似合わない」と感じたとのこと。そこで、センスがあり、知識や経験も豊富で、財産の蓄えもそれなりにあるパワフルな団塊世代に対して新たな呼称を考えてみたくなった氏は、「グランド」という表現を思い付いたとのことである。

そして、小山氏が「高齢化社会の到来を憂うばかりではなく、その世代の消費を促すアイデアがこの国には必要だと思う」とも論じると、早速この考え方に賛同したのがイオンで、同社では、今後増加が見込まれるグランド・ジェネレーションをターゲットにした、商品・売場作り、SCサービスという4つの切り口から、この層の支持・獲得に取り組んでいるようだ(※1、※2の 『グラジェネ』っていう言葉の意味、知っていますか?を参照)。
そういえば、今の時代の60代以上の人は昔と比べて元気である。昨・2011年3月、元ドリフターズ加藤茶が68歳にして、自分の長女(20歳)とほぼ同年代である23歳の一般人女性と再婚したことが報じられ世間を賑わせた。この加藤の姿は、60代以上の世代でもまだまだ人生に可能性があるということを世間に示したといえるだろう。

シニアのことについても、これまでに、シニアの日シニアーズディと2度も、書いていので又同じようなことを書くのに抵抗は感じるのだが、今の時代、日本の消費を論じるとき、これらの高年齢者層、特にシニアと呼ばれる層について論じなければやってゆけない状況になって来ているのであえて、又書くことにした。
前に書いた「シニアーズディ 」では、40代後半から50代後半を「シニア」に位置づけているようだったが、実際には、何歳ぐらいを「シニア」と呼ぶか?・・・など、「シニア」に対する考え方は、人によって、かなりの違いがある。
シニア【Senior】を辞書で調べると「年長者」「上級生」「上級者」という意味があるが、一般的には「ジュニア(Junior)」の対義語として使われることが多く、特定の年齢層を意味している訳ではない。
ただ、サラリーマンでいえば、定年で第一線を退いた年代、主婦でいえば子育てを終わった人々などをさしていることが多い。つまり、会社などの仕事や子育てに一つのピリオドを打ち、それまでの経験や知恵を生かして第二の人生、新しいライフスタイル(※3)を目指す人たちのことを「シニア」と呼んでいるようだ。
Yahooの意識調査(実施期間:2007年7月2日〜2007年7月13日)「何歳からがシニア?」といったアンケートの結果でも、60歳以上を「シニア」と答えた人が76%にもなっており、これは退職や年金などの関係から、60歳以上を区切りとした人が多いからのようだが、確かにその面もあるだろうが、現代のような健康で長生きしている人も多い長寿社会では、私なども、60代の人はシニア世代とみてもよい時代になっているのではないかと思っている。
実際に、私など70歳を過ぎて、数年後には国による後期高齢者医療制度の対象となる年代になっても、メタポ検診では、中性脂肪が多い、血圧が高い等々、色々医者から注意はされ、血圧を抑える薬などは飲んでいるものの、早朝に1時間程度の早足での散歩もしているし、自分から病気だと言って医者にかかることは殆どなく、表面的にはいたって元気であり、他の人達からも、若く見えるといわれているので、自分でもその気になっている。
マーケット(Market)の世界においては、国内市場がどんどん縮小する中、これらシニアマーケットを如何に捉えることができるかが、最重要課題であることに相違はないだろう。
しかも、急速な少子・高齢化の進行により、年少や老年人口を養う能力(生産年齢人口の減少)の限界に達してくると、年金・医療・福祉など財政面だけでなく日本の社会における労働力不足は日本経済にも影響するなど様々な問題が生じてくることから、これら豊かな経験を積み重ねてきた人たちを「知的生産者」として、その能力を発揮してもらえる社会にする必要もあり、政府は、?65歳までの雇用の確保、?中高年の再就職の促進、?多様な就業機会の確保を内容とする改正高年齢者雇用安定法を2004(平成16)年6月5日に成立させ、同年12月1日から施行(高年齢者の安定した雇用の確保等を図るため措置については平成18年4月1日から施行)している(※4)。
1960年代のアイビールックや、'70年代のアンノン族、'80年代のニューファミリーを形成してきたのも、又、インターネットによる株取引やパソコン、デジカメといったデジタル家電人気を牽引してきたのもこの世代である。
いわば、高度成長期がむしゃらに働きながらも、自らの人生を楽しみ、より積極的に生きてきたアクティブな人たちであり、こういった人々がこれからの日本の社会を牽引していくことになるだろうことは、前にも「シニアーズディ 」の中で書いる。
このようなシニア世代を新しく「グランド・ジェネレーション」と位置付け、その世代をターゲットに商品展開を行うとしてイオンが記者会見を開いたとき、会見でイオンリテール代表取締役社長の村井正平氏は、「シニアとくくられることに抵抗を覚える方もいる。そういったことを考慮して、弊社では一貫してシニアという言葉を使わず"グランド・ジェネレーション"という言葉を使うことにした」と説明しているが、この年代の人達は健康で活動的であり、まだまだ働ける元気な状態にあり、還暦を迎える年代になったからといって、昔のように「高齢者」と呼ばれることを望んではいないのは確かだろう。
9月17日の今日を「グランド・ジェネレーションズ デー」としているのは、「敬老の日」を尊重してのもの。
9月15日の朝日新聞朝刊の経済蘭のコラムに、「敬老 自分にお疲れ様」のタイトルで、百貨店や通販等の敬老の日に向けた商戦が変わってきたことが掲載されていた。
つまり、かって、百貨店や通販等は、高齢者に贈り物をする若い人をターゲットにしていた。しかし、今はお金があり流行に敏感な高齢者が「自分買い」をする動きが目立っているという。
大丸心斎橋(大阪市)のバッグ売り場に並ぶ商品は、若々しい感じの青やオレンジ、えんじ色など多彩。軽量で、旅行など趣味の活発なシニアがターゲットになっている。
「プレゼントで買う人が中心だが、自分用に買っているお客さんが増えている」(売り場担当者)という。近鉄阿部野店(同市)でもパープルの眼鏡やオレンジ色のバッグなどを展開。通販大手ニッセン(京都市)は、平均70歳の女性15人がモデルのファッションショーを敬老の日に近い日に開き商品をアピールすると言う。顧客の中心は、30歳〜40歳だったが、昨年春、60歳以上の女性が対象のカタログを創刊。「敬老の日をきっかけにシニアの注目を集めたい」といっているそうだ。
千趣会(大阪市)も角川マガジンズと共同で会社を設立し、角川発行のシニア向け雑誌の読者を対象に通販事業を展開。昨年度のこの事業の売上は前年比で約65%伸びたと言う。
総務省によると、昨年10月1日時点で65歳以上の高齢者の比率は23,3%まで上昇(※5)。第一生命経済研究所(東京)の試算では60歳以上の個人消費は2011年に100兆円を突破し、国内の消費全体の44%を占めると見られるという(※6)。
若い世帯は、教育費の負担や、住宅ローンの返済を抱え、財布の紐が硬め。流通業界はこれを痛感し、流行に敏感で趣味にも積極的な高齢者をターゲットにしている。敬老の日であっても、」やはり狙いは、若い人ではなく高齢者となっているのだと言う。
今、日本の65歳以上の高齢者数は、2010 年時点で2,948 万人と世界第4番目の人数であり、高齢者の数があまりに多くなっている。
小子・高齢化が進む中、シニア層をターゲットとしたビジネスが有望視されていることについては、これまでも多くの企業の殆どが承知しており、同 市場を狙ったビジネス戦略が展開されてきたわけであるが、その多くは必ずしも成功を収めているとはいえなかったのではないか。それは、イオンも同様であったと思う。
だが、いよいよ、日本の消費を論じるとき、これらの年代層をターゲットにしなければやってゆけない状況になって来ているのである。

ただ、シニア層を単に「アクティブ」とだけ捉えたら、マーケティングを誤る。「元気さ」と「行動的」という2つのキーワードが当てはまるという理由で、「アクティブ・シニア」という言葉で呼ばれるようになり、さらにそれを、「グラジェネ」に発展してきた。
小山氏が、シニアから「呼び方を少し変えるだけで、新しいマーケット(市場)が生まれてくるような気がするから不思議だ」とも語っているように、マーケティング戦略上、新しいターゲットには、旧来のイメージを超えた明確な性格付けをし、それに適したふさわしいネーミングを付けた方が、新しい商品開発などの革新も進むだろう。
小山氏の提案を受けて、早速イオンが、今後増加が見込まれる高齢者層をシニアとは呼ばず「グランド・ジェネレーション」と位置づけての商品開発をしようと言うのは流石であると思う。
私は、かって、イオンの前身ジャスコ時代に、人事部長をしていた小嶋千鶴子さん(前イオン会長=創業者の岡田卓也の実姉)が、新しいことを始めるときには儀式が必要だ。それを起爆剤として、目標にひたむきに取り組むのだ。・・と言っていたのを思い出す。
この小嶋さんと言う方は本当に立派な方で、ジャスコの前身岡田屋時代、岡田屋の6代目当主惣一郎が逝去後長男の岡田卓也が幼少だったため、卓也の姉千鶴子らが後見人となって長男卓也が成長するまでの店を支えてきた。
そして、弟の卓也には帝王学を学ばせ、企業の成長は、人材にあるとして、何十年先を見据えての将来の幹部候補を育てることに全精力を傾けてきた人だ。
ジャスコ発足当時、流通業界では、「教育のジャスコ」、「小嶋さんあってのジャスコ」とまで言われていた。
そして、7代目当主となった岡田卓也氏は単なる一地方の呉服屋にすぎなかった岡田屋を国内最大規模の流通企業であるイオングループに発展させて事業を拡大させてきたが、今イオンが、日本の小売業のトップ企業にまで成長しているのは、かって、ジャスコの人事部長として小嶋さんが育成をして来た人たちが育ち、今のイオンをささえているからだろう。

1969(昭和44)年、三重県を中心とする岡田屋は、兵庫県のフタギ、大阪のシロとの3社共同出資で共同仕入機構「ジャスコ株式会社」を設立。その翌1970年3月第1次合併。岡田屋がフタギ等を合併し、翌4月従業員への新社名公募等により「日本ユナイテッド・ストアーズ株式会社(Japan United Stores Company、略してJUSCO)」が選ばれ、その通称のジャスコ(株)に社名変更。大阪に本社が設立された。
1972年に第2次合併により、京阪ジャスコ(株)(旧(株)シロ)等を合併。そして、1989年(平成元年)9月 - グループ名称を「ジャスコグループ」から「イオングループ」に変更。2001年8月21日「ジャスコ株式会社」は、「イオン株式会社」へと社名を変更した。
地方の中堅スーパーの三者合併によりジャスコが設立された当時、まだ、流通業界では、ダイエーやイトーヨーカ堂、西友に続いて4位の地位であった。
新会社JUSCOの名前には、日本の地方の弱小スーパーがジャスコと一緒に手を組んで、連邦制経営の下、日本一の流通業に育っていこうとの願いがこめられていた。
そのために、旧ジャスコ株式会社設立時に基本理念となる社是「商業を通じて地域社会に奉仕しよう」を制定すると同時に、ジャスコの信条とジャスコの誓いが発表された。また、1979年(昭和54年)1月には「ジャスコの憲章」を制定した。これはジャスコの連邦経営の理念を明らかにし、連邦各経営者の初志貫徹と連携の強化を目的としたもであった)。
そしてこれらの理念を徹底させるための仕組みを作り、徹底的に指導をして来た。又、ジャスコが5年後の姿を描いた基本政策、それを落とし込んだ年度政策を発表すると、翼下の各事業部、関係会社もそれを下に具体的な政策を立案し、それを所属の部署、店舗グループごとの実践的な政策と戦略へと落とし込ませ、徹底して、その実現に邁進させるように指導をしていた。

曙けぼのは いまさし染めて 明けていく 緑の山河
ひらけていく 世紀を目指し つどうもの 
ジャスコ ジャスコ ジャスコ ジャスコ
繁栄は ジャスコの願い

これは、旧ジャスコ株式会社の社歌「人間の園」1番の歌詞である。
作詞は現東京都知事である石原慎太郎、作曲は、神津善行である。相当な金をかけたであろうが、なかなかいい曲であった。
グループ内の結束を固め、一丸になって目標に向かって前進する。関西での基盤が固まると、本格的に、イトーヨーカ堂などが本拠としている関東・東北地方への出店を強化するため、大阪から本社を東京へ移した(1983年)。1970年ジャスコ設立から13年後のことである。これは、岡田屋創業当時からのユニークな家訓「大黒柱に車を付けよ」に従ってのもの。この古くからの家訓は、お客様の変化に合わせて店舗を移せ。ひいては、既成概念に捉われることなく環境変化に対応せよということを物語っている(※7参照)。
常にお客様と共に歩み続けてきたジャスコ30 年の歩みのなかでのイオンへの社名変更。これは21世紀に向けた新生イオングループの革新への挑戦でもあった。
「イオン (ÆON)」とは、古典ギリシア語 αἰών(aiōn、アイオーン)に由来するラテン語で、「永遠」を意味している。
現在のスーパー業界はセブン&アイグループとイオングループの2強体制となっている。しかし、欧米先進国において、小売業は巨大な産業であり、今世界最大の小売業は西友ストアに資本出資をしているアメリカのウォルマートであるが、ウォルマートは現在売上 30 兆円以上(2011年:売上高 連結:4189億5200万ドル)である。それに対して、日本のトップ企業であるセブン&アイやイオングループはせいぜい5兆円程度。世界の中では、16位から18位であり、「グローバル化」し、外国企業も自由に日本へ進出できるようになった今、日本企業も今の倍以上の売上高にはもっていかなないと、そのうち、外国の企業に総て飲み込まれてしまうことにもなりかねない(※8参照)。
日本国内の内需が減速しているなか、イオンは、そうならないために世界のイオンを目指している。

少し、横道にそれてしまったが、テーマーのシニア層の話に戻ろう。
先にも書いたように、日本は世界に類のない高齢化社会となっており、数字上、高齢者の消費支出が、毎年平均2.7%増のペースで拡大を続けていて、日本の成長分野にみえるかもしれないが、現実問題として、勤労期間を終えて、年金生活の期間を迎えた高齢世帯は、1世帯当たりの所得水準が大きく減少し、節約志向が強まるだろう。
さらに、高齢期になると、先行きの収入が増えていく見通しがなくなり、医療・介護費用を支払っていく備えが心配だという意識も高まる。
核家族化した現代においては、子どもが親の介護をしようとしないし、又、多くの親は、子どもには世話をかけずに自分の老後は自分達で何とかしたいと考えている。
そのために、年をとれば有料の老人ホームへでも入ろうと思っている人が多いだろうが、そうすると、1人3〜4000万円の金が必要になる。夫婦ならその倍近い金が必要となり、それを用意できる人は少ないのではないか。又、程ほどのお金はあっても、自分に合った適当なホームへはなかなか入居が困難なようだ。
そのような時、孤立化した年よりはどうすればよいのか・・・。高齢者の誰もが一番不安に思っていることは、このことだろう。
子ども達が親の面倒を見、年寄りが働く息子夫婦の為に孫たちの世話をする。三世代が一つ屋根の下で生活を送っていた戦後のころまでは、貧乏ながら、若い夫婦も大きな住宅ローンに苦しめられることもなく、可愛い子供たちは爺さん婆さんに預けて安心して働けた。年老いた老人も介護の心配などもせず明るく生きられたものだった。
今日本は、小子・高齢化で、何か高齢者が増えることが大きな問題のようにマスコミなどでとりあげられているが、最大の問題は、少子化と、核家族化による家族の断絶が問題なのだ。
高齢者は若年層より、保有金融資産が多いといわれるが、不安な将来を考えれば少しでも貯蓄を増やしておきたいが、今の低金利ではそうも行かない。保有金融資産の中には株価に連動する資産の占める割合が高いのもそのためである。
それがゆえに、景気が上向き、株価が上昇し、金融資産が増加すると消費マインドは高まるが、逆の場合は消費を抑えざるえなくなるだろう。
このようなことから、景気や株価動向は、高齢者の消費マインドに大きく影響するだろうし、本当に、高齢者が消費ブームを生み出すかどうかは、高齢者の将来への不安をいかにして取り除いてゆけるか・・・。制度面での政府の取り組みが、大きく影響するだろうが、今政治家が行なおうとしていることは、医療費や年金問題解決のために、医療費の負担増や年金の引き下げ、消費税のアップと高齢者の不安を煽ることばかりではないだろうか。
老後を安心して過ごす為に、苦労して蓄えた貯蓄を、生活に充当するために少しずつ減ってゆくのをみている世代に、消費マインドを起させる施策はなかなか難しいものだろうね〜。
何暗い気分になってきた。今日は敬老の日。シルバー。
チューリップの歌銀の指環(財津和夫作詞・作曲)でも聞いて終わろう。

銀の指環(2008)/チューリップ - YouTube

(冒頭の画像は、血圧手帳のの表紙より)
参考:
※1:NEWSポストセブン:小山薫堂 アクティブシニア層の新呼称は「グランド・ジェネレーション」
http://www.news-postseven.com/archives/20120331_98633.html
※2:シニア市場マーケティング
http://senior-market.info/
※4:ライフスタイル とは - コトバンク
http://kotobank.jp/word/%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%95%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%83%AB
※4:平成16年改正高年齢者雇用安定法のお知らせ|厚生労働省
http://www.mhlw.go.jp/general/seido/anteikyoku/kourei2/
※5:第1節 高齢化の状況|平成24年版高齢社会白書(概要版) - 内閣府
http://www8.cao.go.jp/kourei/whitepaper/w-2012/gaiyou/s1_1_1.html
※6:Economic Indicators 定例経済指標レポート - 第一生命保険:100兆円の高齢者消費の行方(Adobe PDF)
http://group.dai-ichi-life.co.jp/dlri/kuma/pdf/k_1112d.pdf#search='Economic%20Indicators%20定例経済指標レポート%20100兆円の高齢者消費の行方'
※7:創業時からの家訓「大黒柱に車を付けよ」「下げにもうけよ、上げでもうけるな」
http://www.zeroemission.co.jp/B-LIFE/SFC/speech04/sp0406.pdf#search='大黒柱に車をつけよ'
※8:グローバル小売ランキング 2011|コンシューマービジネス
http://www.tohmatsu.com/view/ja_JP/jp/industries/cb/f78cdc56b2bcd210VgnVCM3000001c56f00aRCRD.htm
60歳からの年金受給スタイル
http://www.remus.dti.ne.jp/~laputa/nenkin/60_style/60_style_1.html
第一生命経済研究所
http://group.dai-ichi-life.co.jp/dlri/guide/guide.html
内閣府:政策統括官:共生社会政策担当「高齢社会対策」
http://www8.cao.go.jp/kourei/index.html
グランドジェネレーションコレクション| イオンのネットショッピングhttp://www.aeonshop.com/contents/ggc/index.html
銀の指環 チューリップ 歌詞情報 - goo 音楽
http://music.goo.ne.jp/lyric/LYRUTND1647/index.html
日本記念日協会
http://www.kinenbi.gr.jp/index2.html


 俳人池西言水(木枯しの言水)の忌日

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今日、このブログで何を書こうかといつも参考にしている「今日は何の日〜毎日が記念日〜」(※1)をみると、旧暦9月24日は、俳人・池西言水の1722(享保7)年の忌日・・・とあった。
池西言水(いけにしごんすい。※2参照)は、江戸時代に松尾芭蕉と同時代に活躍した俳人の一人だそうであるが、私はこの人のことをよく知らないのだが、前に、京都観光をした時に、言水の句碑を見た記憶があったので書くことにした。
句碑の場所は、京都市中京区新京極通りにある寅薬師と称した薬師如来を安置する西光寺(蛸薬師上る中筋町495−1)の北隣に、華嶽山東北寺(かがくざんとうぼくじ)、誠心院(せいしんいん)と号する通称和泉式部の名で知られている真言宗泉涌寺派の寺である(西光寺、誠心院の位置関係など※3参照)。
寺伝によれば、関白藤原道長が、娘の上東門院(藤原彰子)に仕えていた和泉式部のために、法成寺東北院内に一庵(小御堂)を与えたのが寺の起こりだとか。
当初、御所の東側にあったが、その後一条小川に再建され、さらに天正年間(1573〜91年)にこの地に移されたといわれている。
誠心院本堂に安置される本尊阿弥陀如来像の傍らに和泉式部法体(ほったい。僧侶の姿)の像があるほか境内墓地には、和泉式部塔と称する石造宝篋印塔(ほうきょういんとう)がある(※3又※4:誠心院HP参)。また、傍らの梅の木は、和泉式部が生前愛木した「軒端(のきば)の梅」(※5参照)に因んで、後に植えられたものだそうである。
このほか、誠心院HPには何も記されていないのだが、同境内墓地の和泉式部塔の近くに池西言水の小さな石碑がひっそりとあった。
冒頭の画像向かって左がそれである。その右側にも副碑のようなものがあり、副碑上部には「池永言水句碑」と書かれているが、その下に、書かれている刻字はかなり損傷が激しくよく読めないが、どうやら「此度爰に地を占し○○を加へ永○に○保存所や」と刻まれているようなのだが解読できない。どうやら句碑ではなく、此の地に言水の句碑を建て永世に保存所しようと言うようなことではないかと推測している。
その句碑というのは左側にある墓標らしく、よく見ると石碑の上端に縦書きではなく、横へ流れる形で「木枯の果てはありけり海の音」の句が刻まれている。
この池西言水のことについては、参考2:コトバンク-「池西言水」や、特に※6:「龍谷大学学術機関リポジトリ」のコミュニティ> 10学位論文 >■博士(文学)>宇城, 由文著:芭蕉と言水 ―近世前期俳諧の位相― などに詳しく書かれており、興味のある人はそこを見られると良い。ここでは、その経歴等を簡単に書くと以下のようになる。
言水は、慶安3年(1650年)奈良にて出生。祖祖父千貫屋久兵衛は奈良大年寄を勤め、祖父良以は 和歌に通じ、実父柳以も誹詰(俳諧)を、たしなむなど比較的めぐまれた環境のもとで育ったようだ。
16歳に法体(僧体)して俳諧に専念したと、言水の死後発行された追悼集(俳諧集『海音集』。作者:方設)にある。
名は則好。通称八郎兵衛といい、兼志、紫藤軒、洛下童、鳳下堂とも号したようだ。
同『海音集』には、「木がらしを辞世にし自筆をうつして彫りて和泉式部軒端しの梅の下影に石のかた代築く」とあるので、それが、先に書いた誠心院にある墓碑にあたるのではないのだろうか。
石碑の句の下に刻まれている銘は別号の「紫藤軒言水」が用いられており、又、墓碑に刻まれている命日の日付「享保七年九月廿四日」も一致する。
俳諧は、はじめ京都の松江重頼の門人であったといわれるが、重頼の選集に名はみえないようだ。
言水の句の初見は寛文12年(1672年)刊『続大和順礼』(岡村正辰編。岡村正辰=郡山に住んでいた俳人で、池田正式の門人といわれる)で、23歳の時であった。このとき42句入集しているそうだが、発想においても技巧においても貞門風の俳諧だという。
延宝4年(1676年)刊の『到来集』(胡兮編)に、江戸小石川にて「小日向の雪やとけ来て小石川 」(南都 池西兼志)と、言水の句が見られるところから、このころ江戸へ出てきたようだ。
寛文13年(1673年)から延宝4年(1676年)までの間の言水の足取りは定かではないという。
江戸では、談林派の俳人として活躍するが、言水の江戸での本格的な活躍(デビュー)は風虎サロン(※6、※7参照)に始まる。
それは延宝5年(1677年)内藤風虎の催した『六百番誹詰(俳諧)発句合』の入集である。
入賞の句は当時流行の句作りを示しており、言葉の巧みな使用、機知に富んだ句作り、聴覚的なイメージの利用などには、既に言水の句作りの特性が発揮されつつあり、『続大和巡礼』の作品と比較すると著しい進展が見られるという。
松尾芭蕉、椎本才麿と交友を重ね、江戸俳壇に確固たる地位を築く。当時の彼は時代の新風を追い求める先鋭的な俳人であったようだ。
しかし、天和2(1682)年の春、33歳で京都に移住したのち、北越、奥羽、九州などに行脚し、京都、新町通り六角下るに落ち着き、定住後は京都俳壇を代表する俳人の一人として活躍。伊藤信徳と交友を重ねた。
能書家(書家の中でも特に書における高度な技術と教養を持った人のこと。書の名人)でもあり、また、絵画、茶道、書画骨董の目利きにも優れていたようだ。
江戸在住中に『江戸新道(しんみち)』(1678年)、『江戸蛇之鮓(じゃのすし)』(1679年)、『江戸弁慶』(1680年)、『東日記』(1681年)、『後様姿』(1682年)などを著した。京都へ帰ってきてからは地方への勢力を拡大しつつ、『京日記』(1687年)、『前後園』(1689年)、『都曲(みやこぶり)』(1690年)などを刊行し京での地歩を固めていった。
言水の代表句「凩(こがらし)の果はありけり海の音」の句は、元禄3年(1690年)『都曲』への所収が初めてであり、この句が評判になる。又、元禄15年(1702年)刊『花見車』(轍士〔てっし〕著)には、「木がらしの果はありけり、とたちあがりたる風俗に一たびは京も田舎もなづみたり」とあり、「木枯の言水」と評判されたという。
『海音集』で、「我木枯の発句は人生のあらまし二つの海の心も述べたり。此句辞世とすべし。」と方設 が言水の遺言を伝えているところから、言水自身にとっても生涯で最も自信のある句であったと考えられる。
「凩」は風の略形と木とをあわせたもので日本製の漢字「和語」であり、木を吹き枯らす意から、「木枯」とも書く。秋から初冬にかけて山から海へ吹く、強く冷たい風。冬の訪れを告げる風でもあるため、冬の季語となっている。
この句は「湖上眺望」の前書きがあり、ここでの「海」は琵琶湖なので、「木枯」は比叡颪(おろし)のことである。
冬になって野山の木々の葉を吹き散らす木枯しは、どこまでも絶え間なく吹き続けているようだが、やがて冬の荒れた海に出ると、激しい波の音の中に消えていく。この海こそが、木枯しの行き着く果てであった。そして冬は、一年の終末であり死を喚起させる季節でもある。
冬の荒々しい自然を、木枯しと海の音の照応でとらえた句である。いまはもう吹き枯らすものもなく、役割を終えた木枯らの風に、言水自身の最期の姿を思い浮かべていたのだろうか。この世のはかなさを詠んだもので、談林派の知的観念的作風とは一線を画する名作といわれている。
山口誓子の「海に出て木枯帰るところなし」や、大場寥和の「木を枯らす風の相手や海の音」なども、言水の句の意を踏まえて詠んだものだろう。多くの俳人が木枯しを詠んでいる(※8)参照。
京・大坂・江戸の点者を遊女に見立て、廓詞(くるわことば)で品評し評判をえた俳人評判記『花見車』は、言水を太夫の位にランクし、「目はしのきいた君也」と評しているが、この評の通り、時流には敏感で、元禄年間(1688〜1704)に流行し始めた前句付,笠付などの雑俳にも手を染めている。
ただその前段で、言水の京移住後の生活については、「身上がりに大分借銭があり(略)お子がひたと出来てとまらんす。それゆえ神ほとけをふかふいのらんす頬もすいていかふ古う見えます。」とあり、よく解釈できない言葉もあるが、言水の京での生活は楽ではなかったようである。金になる雑俳に力を注いだのもこのような生活に窮してのことだったかもしれない。そのような俳諧への姿勢から大阪などでは、必ずしも言水への評判は良いものではなかったようだ。
「木枯し」の句が作られた元禄3年(1690年)頃、ほぼ同時期に芭蕉の蕉風開眼の一句とされる「古池や蛙飛び込む水の音」(貞享3年=1686年)がある。
言水の「木枯し」の句は芭蕉の「古池」に匹敵する名句といえるかもしれない。しかし、文学史的な視点からみると、同時代に活躍した2人でありながら、後世への影響力、また、その評価には雲泥の差がある。
元禄期において芭蕉とあい並ぶ有名な俳人には池西言水と椎本才丸がいた。この3人が永宝の末の数年間江戸俳諧を舞台に何らかの交渉を持ち、新風起立をめざして活躍した。
3人の年齢は延宝6年(1768年)に、芭蕉35歳。言水29歳、才丸23歳であった。
この永宝6年芭蕉が意欲的な活躍をするが、同じ年に言水も第一撰集『江戸新道』を出版している。才丸の第一撰集『坂東太郎』はその翌延宝7年の出版である。このように3人はほぼ時を同じくして活躍している。
この3人の関りは密接であり、特にとし若い言水、才丸らが薫風樹立の前段階にあって、芭蕉の先駆者ないし、同伴者としての役割を果たしたといわれている。ただ、言水は『東日記』を出版した翌年(天和2年)に突然江戸を去り京都に移っている。
延宝6年(1768年)から4年間、年ごとに新しい撰集を出版し、『東日記』の序で才丸が「これより先三度句帖を顕はし、三度風躰をかへて三度古し」と言水自信の言葉を伝えている通り、あれほど意欲的な活躍を続けてきた言水が何故江戸を去らねばならなかったのかという疑問が残る。後に残った才丸も6年後の元禄2年に江戸を去って大阪に移っている。
結果的に見て、言水や才丸が江戸の俳壇という活躍の舞台を、芭蕉一派に譲った形になっている。
特に言水は延宝6年に『江戸新道』を出版して以来、延宝7年『江戸蛇之鮓』、延宝8年『江戸弁慶』延砲年『東日記』と年毎に撰集を出版し、延宝期の俳壇でもっとも注目すべき活躍をした人物の1人であったのだが・・・。
このことについては、以下参考※9「延宝・天和の江戸俳壇-言水 ・才丸 ・芭蕉とそれらの周辺-」で詳しく考察されているので、見られると良い。
考察は、言水の発行した撰集にあらわれる人物を検討することからはじめられている。
そこから見られるのは、内藤露沾幽山一派と密接な交渉を持つことによって、江戸俳壇の中で、安定した立場を得、幽山の地盤を受け継ぎ、次第に調和一派との交渉を深め(同7年)、ついで才丸との緊密な協力体制を固め(同8年)、ついに新興勢力である芭蕉(桃青)一派に接近する(同9年)。
このように1年ごとにかなりはっきりとした特徴をみせながら、言水の撰集活動は進んでいくわけであるが、その反面、幽山を中心とする『江戸八百韻』の連衆(連句では、集った人たちをいう)が不振となり、そのことが言水の活躍をかなり制限したようにも見える。
江戸俳壇における言水の表面的な活躍が余りに急速かつ花々しかったことにより、言水はいきおい多くの俳人達との交渉を生じたが、彼にとって最も重要な基盤であるはずの幽山一派の勢力を伸ばすことに、はたしてどれだけの努力をしたか疑問がある。
そして、言水は幽山一派の連衆から次第に浮きあがった姿勢で、自己の撰集活動を勧めていったようである。或いは逆に考えれば、幽山一派というものが、言水にとって、(最初の踏み台としては適していたはずだが)次第に物足りなさを感じさせるようになったのかも知れない。
なにしろ、幽山一派は調和派などに比べれば、まだ弱小グループの観をまぬがれない存在だったから。
こうした不安定な立場にあった言水に、さらに大きな打撃を与えたのが内当家の内紛事件(内藤露沾退身の事件)だろうという。
俳壇のパトロン内藤風虎・露沾父子が不和を生じ、加うるに露沾が逆臣松賀紫塵の陰謀事件に巻き込まれたために、ついに露沾の退身となった。
このため風虎の文学サロンは活動を停止し、幽山一派とりわけ言水の受けた打撃は大きかったと想像されるという。
必ずしもこれだけが京都移住の原因だとはいえないまでも、内当家の事件が天和2年2月であり、言水の京都移住が同年3月であってみれば、この2つの事件は全く無関係とは言い切れないだろう。
こうして江戸を去ってからから、京都俳壇において言水の占める位置は、後年高いものではあったろうが、江戸での活躍に比べればやはりさびしさの影が付きまとていたようだ。
江戸俳壇という活躍の場を捨てた言水の俳人としての限界を、杉浦正一郎の論文では以下のように書いているようだ。
「彼(言水)は珍しい程詩人的センス豊かに恵まれた人であったので、いち早く談林の只中から薫風的新風に移りゆくべき運命を感じとったのであったが、のち、京、南都に帰り住んで上方俳人となってからは、若き日の情熱も失せたものか、洗練された技巧をもって都会人らしいデリケートな感覚描写に腕の冴えを見せただけで終わってしまった。」・・・と。
芭蕉一派の結束が固まるにつれて、元来よそものであった才丸も芭蕉一派から締め出されてしまったようである。元禄2年芭蕉が『奥の細道』の旅に出発したその年に、才丸も江戸を出発して、伊勢路向かう。その年の冬大阪に帰りついた才丸は以後およそ50年間この地に住み着いて生涯句を終わっているという。

参考:
※1:今日は何の日〜毎日が記念日〜
http://www.nnh.to/
※2:コトバンク-池西言水とは
http://kotobank.jp/word/%E6%B1%A0%E8%A5%BF%E8%A8%80%E6%B0%B4
※3;京都観光Navi:誠心院
http://kanko.city.kyoto.lg.jp/detail.php?InforKindCode=10&ManageCode=180
※4:和泉式部-誠心院
http://www.seishinin.or.jp/
※5:能・演目事典:東北
http://www.the-noh.com/jp/plays/data/program_050.html
※6:龍谷大学学術機関リポジトリ:コミュニティ
http://repo.lib.ryukoku.ac.jp/jspui/
※7:内藤風虎の元禄サロン
http://ir.lib.hiroshima-u.ac.jp/metadb/up/kiyo/AN00090146/kokubungakukou_43_120.pdf#search='風虎%20露活'
※8:勝手に俳句歳時記「木枯」
http://www.ab.auone-net.jp/~koboku/huyu/saijiki/kogarasi.pdf
※9:延宝・天和の江戸俳壇-言水 ・才丸 ・芭蕉とそれらの周辺-(Adobe PDF)



鉄人28号の巨大モニュメントが完成した日

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1995(平成7)年1月17日(火)に発生した阪神・淡路大震災は、当時の地震災害(Mj7.3)としては戦後最大規模の被害を出した(建物被害は地震波の強弱によるものか?。※1、※2参照)。
この震災は近畿圏の広域(兵庫県を中心に、大阪府、京都府も)に大きな被害を与えたが、特に震源に近い神戸市市街地(東灘区・灘区・中央区(三宮・元町・ポートアイランドなど)・兵庫区・長田区・須磨区)の被害状況は甚大で、日本国内のみならず世界中に衝撃を与えた。
この震災で壊滅的な被害を受けた神戸市長田区JR新長田駅周辺地域の震災後の復興と商店街活性化のシンボルとして、同駅南口を出てから徒歩5分ほどのところにある若松公園に設置されたのが、地元商店街などで作るNPO法人KOBE鉄人PROJECT」による鉄人28号の高さ15.6m(全長18m)の巨大(実物大)モニュメント像である。
当初は、JP新長田気前に高さ5〜6mの像を建てる方針だったが、「強烈な印象で多くの人を引き付けたい」として、震災時には被災者の避難所ともなっていたこともあるより広い近くの若松公園に5〜6階建てのビルに相当するものにすることとした。
外装は耐候性鋼板製、重量は約50t。総工費は1億3,500万円。ただ資金集めが難航し、神戸市からの補助金4,500万円や神戸市灘区に本社のある食品会社(エム・シーシー食品)が発売した「鉄人カレー」の売上金の一部を充てても足りなかったが、当初の完成予定次期2008(平成20)年の末に公園近くに自動販売機37台を設置することで大手飲料メーカーが支援を決定。費用の8割程度が集まる見通しとなり、残りは個人や企業からの寄付や協賛金によって集められた。
そして、翌・2009(平成21)年7月27日に起工式が行われ、同年、9月29日に完成し(完成セレモニーは10月4日)公園内に恒久設置されたもの。なおこれに合わせ、周辺の街路灯も鉄人の頭部を模したデザインのものに変更して使用している。
いよいよ鉄人28号のモニュメント建設が決まったとき、同プロジェクトの岡田誠司氏が「鉄人は今のロボットアニメの原点。復興の記念碑として沢山の人に見てもらいたい。長田を全国的に有名な町にしたい」と話していた(朝日新聞2009年2月14日朝刊)。
又、完成式典が行なわれた時、同式典で井戸敏三兵庫県知事は「震災15年を迎えるのにふさわしい長田の新たな守り神ができた。街に元気を与え続けることを期待する」と述べていたが、私も心からそれを願っていた。
JR新長田駅の南に広がる大正筋商店街を中心とする周辺一体は震災復興再開発地区(震災復興再開発事業参照)となり、住商一体型のビルが建設され、現在では、商店街も、復興し、人出も震災前にも増したようではあるが、余りにもこの地域としては商業規模が大きく、競合が激しすぎて、商店の営業面では非常に厳しく大変な状況となっているようである。
地元神戸に住み、子どもの頃から、この地域のことをよく知っている私などから見れば、正直言って、神戸市の都市再開発事業の大失敗だと思っているのだが・・・。
ロボットアニメとは、ロボットを主人公格に据えた、あるいは中心的な題材としたアニメのことである。
1950年代(昭和30年代前半)日本では『少年』、『冒険王』 、『ぼくら』、『少年ブック』、『少年クラブ』、『少年画報』 などの月刊誌が、百花繚乱の時代で、毎月競ってマンガを載せ膨大な別冊付録やオマケを付けて販売されていた。
ちなみに『「鉄腕アトム」』や『鉄人28号』なども、これら月刊誌から誕生した人気キャラクターである。
1963(昭和38)年1月1日、テレビ・アニメシリーズ、「鉄腕アトム」第1話がブラウン管(フジテレビ系列)に登場した。
この鉄腕アトムは、手塚治虫(当時34歳)が自ら製作・演出した日本で最初の本格的な1話30分の連続TVアニメであった。
21世紀の未来を舞台に、原子力(後に核融合)をエネルギー源として動き、人と同等の感情を持った少年ロボット、アトムが活躍する物語であり、米題は『ASTRO BOY(アストロ・ボーイ)』。
1951(昭和26)年4月から、翌年3月に連載された『アトム大使』の登場人物の一人(脇役)として出ていたロボット少年アトムを主人公にして、1952年(昭和27年)4月から1968年(昭和43年)にかけて、『少年』(光文社)に連載されるなど、すでに10年余りにわたって雑誌や漫画本で親しまれていたアトム
そのアトムが、今度はTV画面を所狭しと飛び回る動画として登場したものであったが、そのストーリー性豊かな手塚マンガのアニメ化は、それまでギャグ中心の外国製テレビアニメしか知らなかった子ども達に熱狂的に迎えられ、子ども達はテレビの前に釘付けになった。この第1話の視聴率は27,4%で、以後さらに伸びて、時には40%を超えたという。
この成功の影には、当初の『アトム大使』では、ロボット少年アトムは脇役であり、作品自体の人気も今ひとつであったことから、『少年』編集長の金井武志から「弱さや人間らしい感情のあるロボットを主人公にすれば読者に受け入れられるのでは・・」との手塚への提案があり、アトムを主人公として設定を少し変更したものであったことが挙げられるようだ。
又、漫画鉄腕アトムを、テレビアニメ化する前に、実写版テレビドラマ「腕アトム」として、1959(昭和34))3月7日から1960(昭和35)年5月28日まで毎日放送制作、フジテレビ系列で放送されていた。
しかし、1年間に及ぶ人気作となったものの、手塚治虫は「原作のイメージと余りにもかけ離れている」として、自作漫画の実写化に不満を抱くこととなり、これが『鉄腕アトム (アニメ第1作)』制作の原動力となったものという(Wikipedia)。
以下で、貴重な実写版鉄腕アトムのオープニングアニメ付き画像を見ることが出来る。

鉄腕アトムOP.mpg - YouTube

日本では、終戦後、 GHQ によりテレビ研究の禁止令が出されていたが、1946(昭和21)年から再開され、1953(昭和28)年1月にシャープから国産第1号の白黒テレビが発売される(サイズは14インチ、価格は175,000円)。
同年2月にNHKが本放送を開始。発売当初は高価だったことから購入者は富裕層などに限られていたが、高度経済成長の波に乗って、1959(昭和34)年の当時の皇太子明仁親王今上天皇)ご成婚パレードを機に普及が進んだ。
1950年代後半には、白黒テレビは電気洗濯機や電気冷蔵庫などとともに「三種の神器」の一つに数えられるようにさえなっていた。
そして、1960(昭和35)年7月には、東芝から国産初のカラーテレビが発売され、1964(昭和39)年の東京オリンピックを契機に各メーカーが宣伝に力を入れはじめ、1960年代後半にはカラー放送が大幅に増えたことによって普及が進み、カラーテレビはクーラーや自動車などとともに「新・三種の神器」(3C)の一つに数えられるようにもなった。
先に書いた、実写版鉄腕アトムの放映は、まだテレビが一般家庭に完全に普及する前の番組だったにもかかわらずよくこんな貴重な映像が撮れたものと感心する。
子ども達にとって、大好きな漫画でも、テレビで視覚的に訴えるアニメは漫画本で見たものより格別に魅力的であったことは間違いない。
テレビアニメが放送・映画業界の注目する新しいメディアとして認知されるようになると、その勢いに刺激されるように、後続のテレビアニメ作品が続々と誕生した。
テレビCM 制作会社のTCJ(現エイケン)は、アニメーションを使ったテレビCMの制作を得意としていたが、テレビCMはアニメから実写での制作が主体となり、アニメの制作スタッフ活用のために、1963(昭和38)年の春、社内に映画部を設立してテレビアニメに進出。
そして、虫プロ制作の「鉄腕アトム」のヒットにあやかって、同年9月には「仙人部落」を、10月からは、「鉄人28号」(共にフジテレビ系)、11月には「エイトマン」(TBS系)などを送り出している。
TCJの連続アニメ番組の第一作となる「仙人部落」は、昔の中国の桃源郷に住む老子の元に就く若い弟子の一人が、3人の乙女仙人や年増仙人と色恋沙汰を繰り広げ、やがて老子をも巻き込んで大騒動に発展してしまう…といったもの。
アサヒ芸能』(徳間書店)にて1956(昭和31)年より、現在にも続く長期連載されている小島 功の代表作『仙人部落』を、日本初の大人向けのテレビアニメ番組として、一種の深夜番組として製作・放映されたものであった。
その次の 「鉄人28号」、「エイトマン」はともに子どもたちの大好きなロボット物のアニメである。
「鉄人28号」は、神戸市長田区に隣接する須磨区 出身の漫画家、横山光輝(本名:横山 光照)が1956(昭和31)年に発表(月刊誌『少年』で連載開始)した作品に登場する架空のロボットの名称である。 
太平洋戦争末期、大日本帝国陸軍が起死回生の秘密兵器として開発していた巨大ロボット「鉄人28号」が戦後に現れ、鉄人を自由に操る小型操縦器(リモコン)を巡って悪漢、犯罪組織にスパイ団までもが入り乱れる争奪戦に、主人公の少年探偵・金田正太郎も巻き込まれる。数々の苦難の末に鉄人を手に入れた正太郎は、今度は鉄人28号の力で次々と現れる犯罪者や怪ロボットを倒して平和を守る為に活躍する・・・、といったストーリーで、リメイクを繰り返し、何度も映像化された人気作品である。
本来は少年探偵ものであったが、鉄人編が好評を博したため、ロボットものへと方針が変更されたとされているようだ。
また、サンケイ新聞記者として工業関係の取材経験のあった横山は、「最初は大きくしかできず、それから小さくなる」と考え、手塚治虫の『鉄腕アトム』を意識して鉄人28号を大型ロボットにしたとも語っていた・・・・と、Wikipediabには書かれている。

鉄人28号 - YouTube

グリコ!グリコ!グー!リー!コー!
グリコ劇場のスポンサーは、江崎グリコとその関連会社グリコ乳業(グリコ協同乳業)であったため、提供クレジットとして放送開始時およびオープニングテーマの最後にこの「グリコ、グリコ、グーリーコー!」というデューク・エイセスによるコーラス(通称「グリココール」)が流れた。
このコーラスまでがテーマ曲。また、開始時の台詞の部分で、画面に「グリコ劇場」という字幕が表示された。
このオープニング・テーマ「鉄人28号」の作詞・作曲・編曲は、三木鶏郎
ビクター版、朝日ソノラマ版ともに歌手は同じだが、音源が異なる。以下の貴重な164年(昭和39年)発売の朝日ソノシートの「鉄人28号」と聞き比べると面白い。

鉄人28号の歌, 進め正太郎, アニメ「鉄人28号」, ソノシート - YouTube

横山の『鉄人28号』も、テレビアニメ化される前の1959(昭和34)年には、ラジオドラマ『鉄人28号』としてニッポン放送で放送されており、放送メディアでの作品化はこれが最初である。
そして、鉄腕アトム同様に、1960(昭和35)年2月1日 から 同年4月25日まで、日本テレビ系列で実写版テレビドラマ「鉄人28号」としても放送されている(全13話でモノクロ)が、どうも、不人気だったようで、この実写版TVドラマ「鉄人28号」は、わずか3ヶ月の短期間で終了している。この実写版TVドラマの内容や評価は以下参考の※3、※4を参照されると良い。
「エイトマン」の原作はSF作家の平井和正、作画は桑田次郎(現:桑田二郎)。1963(昭和38)年5月からの『週刊少年マガジン』での看板作品をもとに、アニメ化されたの。
あるギャング事件を追跡していて殉職した警視庁捜査一課の敏腕青年刑事東八郎の脳細胞と組み合わされた電子頭脳をもつスーパーロボットである「エイトマン」が主人公。
体は、特殊な金属を使って作られた内部機構を人造皮膚で覆っており、外見は人間そっくりにできている。当然人間と同じように、ものを考えたり手足の動きなども脳の命令でする。
日常は粋なダブルのスーツを着た私立探偵・東八郎だが、ひとたび事件が起き、田中課長から要請を受けると、エイトマンに変身して数々の難事件・怪事件に立ち向かうといった筋立てである(※5参照)。
この原作は、コンペティションによって先行する『鉄腕アトム』とも『鉄人28号』とも異なる、「変身能力」「加速性能」というオリジナリティが受け入れられて採用されたものだという。
作品には平井和正自信に加え、半村良豊田有恒らに日本の SF の胎動期から活躍した一線級作家陣がシナリオに参加し、内容、キャラクター共に、あまり子供向けとは言えなかったが、相当の視聴率を上げ、惜しまれつつ終わった。

エイトマン(エイトマン登場〜) 第一話 前半 - デイリーモーション動画

漫画の旗手であった手塚治虫は日本のアニメにおいてもパイオニアであった。
そこに、登場する鉄腕アトムなどは、以下参考の※6:「ロボットアニメの歴史」でも触れられているように、ロボットと言うよりも非常に生物くさい、人間と等身大の存在であった。
それを、いわゆる戦闘ロボに変貌させたのが、横山光輝であった。彼が創造した『鉄人28号』は、旧日本陸軍の秘密兵器という設定であった。
これは、リモコンによって操作される兵器であるから、感情を持たぬ冷たい鉄の塊であり、リモコンを用いる者の意思によって、善にも悪にもなる存在である。
横山の描くロボットは、『ジャイアント・ロボ』、『バビル2世』、『マーズ』を通して、全て同じイメージが貫かれているので、これが彼のロボット観なのだろう。
手塚治虫の『鉄腕アトム』に比肩する人気作となった『鉄人28号』は、又、巨大ロボット物の先駆として、『マジンガーZ』(永井豪作品)を初めとする多くの作品に強い影響を与えたという点では、手塚よりも上だろう。これ以後、圧倒的に巨大ロボット物がアニメを含めて作られる様になっているからだ。
今読むと如何にも古臭いとの印象は拭えないかも知れないが、ロボット漫画の歴史を塗り変えた記念碑的作品として、『鉄人28号』は後世に語り継がれていくことだろう。
横山 光輝のことについては、以前に此のブログで書いたので、気が向けば以下参考の※7:「今日のことあれこれと・・・「マンガ家・横山 光輝(『鉄人28号』)誕生日」」を見てください。
(冒頭の画像は2009年11月28日に摂ったもの)
参考:
※1:芝建 東日本大震災と阪神淡路大震災の違い
http://contest.thinkquest.jp/tqj14/140183/page4.4.html
※2:揺れによる建物被害少ない可能性…地震波分析
http://www.yomiuri.co.jp/science/news/20110317-OYT1T00173.htm
※3:鉄人28号 実写 角めんこ
http://menkonohako.web.fc2.com/untitled.htm27.htm
※4:超映画批評『鉄人28号』30点(100点満点中)
http://movie.maeda-y.com/movie/00493.htm
※5:EKエイケン公式HP
http://www.eiken-anime.jp/
※6:ロボットアニメの歴史
http://www.t3.rim.or.jp/~miukun/robot.htm
※7:今日のことあれこれと・・・「マンガ家・横山 光輝(『鉄人28号』)誕生日」
http://blog.goo.ne.jp/yousan02/e/fa68045839b217b2b5a121c91e75fb31
TezukaOsamu.net(JP) - 手塚プロダクション
http://tezukaosamu.net/jp/
神戸市:阪神・淡路大震災の記録
http://www.city.kobe.lg.jp/safety/hanshinawaji/index.html
震災記録写真(大木本美通撮影)
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/directory/eqb/photo/oogimoto/index.html
横山光輝オフィシャルサイト
http://www.yokoyama-mitsuteru.com/
神戸・ながたまちの情報館
http://i-town-nagata.com/02/cont-02-07.htm
鉄人28号- デューク・エイセス - 歌詞 : 歌ネット
http://www.uta-net.com/song/3135/
鉄人28号 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%89%84%E4%BA%BA28%E5%8F%B7

「親分」の愛称で親しまれていた野球評論家・大沢啓二の忌日

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大沢啓二(おおさわ・けいじ)の本名は、大沢 昭(おおさわ あきら)、旧名は大沢 昌芳(おおさわ まさよし)。
1932(昭和7)年3月14日、生まれ、神奈川県藤沢市出身の元プロ野球選手(外野手)であり、監督を経て、晩年、1995(平成7)年より、フリーでのプロ野球評論家、そのかたわら日本プロ野球OBクラブ理事長(2009〔平成21〕年3月まで)。4月からは名誉理事長に就任)、プロ野球マスターズリーグ委員会議長、正力松太郎賞選考委員などとして活躍していたほか、日曜日朝のテレビ番組TBS系『サンデーモーニング』内のコーナーでは、張本勲と共にレギュラー出演し、「ご意見番」としてプレーぶりなどに“喝”を入れ、人気を集めていたが、一昨年9月19日が最後の出演だった。
サンデーモーニング内の「週刊御意見番」のコーナーは、私も大好きであり毎週見ていたが、最後の出演となる前ころは、痩せていた印象があり、健康状態を心配していたのだが、やはり、体調を崩し闘病されていたようだ。その18日後の2010年10月7日に78歳で死去された。死因は胆嚢がんだったそうだ。
大沢氏と言えば、先ず、日本ハム監督時代の退場劇(※1参照)や余りにも不甲斐ない成績で最下位に終わり、ファンの前で土下座したシーン(1994年本拠地東京ドームでの最終戦)等とにかく「熱い」監督だったと言う印象が強い。
グラウンドを離れてからも、歯に衣着せぬ語り口でプロ野球界の現状に意見してきたが、このようにはっきりと、モノ申す人物が少なくなってきた昨今、あの「べらんめぇ口調」での批評が聞けないのは残念なことである。
大沢は神奈川商工高から立教大学へ、東京六大学リーグ通算94試合出場、314打数80安打、打率.255、2本塁打、32打点。ベストナイン2回。2学年下の後輩に、後に「立教三羽烏」と呼ばれる長嶋茂雄杉浦忠本屋敷錦吾がいた。
1956(昭和31)年に南海ホークス(現:ソフトバンク)に入団。Wikipediaによれば、南海の監督鶴岡一人から勧誘の時に「日本一になるには君と長嶋と杉浦の力を借りたい」と言われたとされ、南海への入団には、長嶋・杉浦の両選手獲得のためのパイプとしての期待も込められていたらしいが、もちろん、大沢の人望を鶴岡が見抜いてのものと思われる。
当時はドラフト前の球団の選手獲得は自由競争時代。大沢を通じてこの2人には卒業するまでの間、金銭や食事面で随分面倒を見ていたらしい。結果的には長島は入団しなかったが、杉浦は義理を果たし入団している。
1959年の日本シリーズ第3戦では、杉浦や野村克也捕手らの活躍と共に、大沢の好守備が日本一に貢献している。
その後、1965(昭和40)年東京オリオンズ(現:ロッテマリーンズ) に移籍し、同年限りで現役引退。
南海ホークス黄金時代においての大沢は、中堅選手の位置づけといったところで、プロ選手として頭脳的な好守巧打の外野手として鳴らしていた。
プロ通算成績は、9888試合、501安打、17本塁打。
プロ退団の翌・1966(昭和41)年からオリオンズのコーチとなっているが、これには、大沢のオリオンズへの移籍は、引退後コーチとなって、南海の監督を長い間務めた鶴岡が南海を勇退し、オリオンズで指揮をとるのを前提にしたものであったが、南海の新任監督となった蔭山信夫が就任4日後に急遺。やむなく鶴岡が南海監督を継続することになり、大沢1人がオリオンズのコーチとなったものだという。
その後、2軍監督を務めていたが、1971(昭和46)年7月に一軍の農人渉監督がプロ野球史上「最後の放棄試合」を起してしまい、それが発端で大沢がシーズン途中から一軍監督に抜擢されることになる。まだ39歳の若い大沢が指揮を執ったオリオンズは、王者阪急ブレーブス(現:オリックス・バファローズの前身)との激しいデッドヒートを演じた末2位と善戦した。
同シーズン終了後に5年の長期契約を結ぶものの、翌・1972年5位に低迷すると、シーズン終了後に5年契約を破棄・解雇されている。ただ、このとき、Wikipediaによれば、オリオンズのオーナーを退任し、太平洋クラブライオンズのオーナーに転じた中村長芳から「将来太平洋の監督に迎える」という内諾を得ていたのだという(根拠:『球道無頼』P140)。
1973(昭和48)年から1975(昭和50)年までラジオ関東(現:RFラジオ日本)の解説者時代を経て、1976(昭和61)年から日本ハムファイターズの監督に就任することになる。
日本ハムのチーム名の変遷を見ると、日本ハムファイターズは、戦後間もない1946(昭和21)年に球団を発足。当時はセネタースという球団名であった。
しかし、1年で東急フライヤーズへと名称変更。その1年後に急映フライヤーズになり。1949(昭和24)年、つまり、また1年で東急フライヤーズに名前が戻り、1954(昭和29)年から1972昭和47)年まで東映フライヤーズ、1973(昭和48)年に日拓ホームフライヤーズ、同年11月19日に、日本ハムへ売却。法人名が「日本ハム球団株式会社」となり、オーナーに大社義規が就くと、三原脩を球団の代表取締役社長兼球団代表に就任させ、三原の娘婿である中西太を招聘(しょうへい)させた。そして、球団名は公募で決定した新ニックネームをつけ、やっと、「日本ハムファイターズ」の名称に落ち着いた。
しかし、日本ハム最初のシーズンとなった1974(昭和49)年、2年目の1975(昭和50)年と2年連続の総合最下位に終わり、中西はその責任を取り辞任。後任監督に三原は大沢を招聘した。大沢が三原からの監督就任要請を受諾したのは三原がロッテ一軍、二軍監督時代の大沢の采配を見て、共感したからだとも言われている。
ただ、大沢は、中村との約束の件もあり、オーナーの大社義規と面談、その場で大社が中村に断りの電話を入れて就任を受諾したという。
因みに、後にTVのサンデーモーニングで大沢とともにご意見番を演じた、張本は、1974(昭和49)年には、日本ハムファイターズで7度目の首位打者を獲得しているが、翌1975(昭和50)年には、高橋一三富田勝との交換で巨人に移籍させるなど、大沢は、チームの体質改善のため、中心選手のトレードも何度か敢行し、又、新人選手を次々に抜擢している。
このようにして、1976(昭和51)年から日本ハムの監督を務めた大沢は、1978(昭和53)年ファイターズになって初のAクラス(総合3位)として以降、翌年も前年に続いて総合3位、1980(昭和55)年には総合2位と、Bクラスだったチームを、優勝を狙えるチームにまで育て上げ、1981(昭和56)年には、前身の東映時代以来19年ぶりの、リーグ優勝を果たしている。
面倒見がよく、このころから“親分”の愛称で選手から慕われていたように記憶しているのだが・・・。
そして、1984(昭和59)年より日本ハム常務に就任するが、後任監督として推薦した植村義信が成績不振のためシーズン途中の6月で辞任したため、植村を推薦した責任を取る形で現場復帰し、シーズン終了まで指揮をとったが、翌・1985(昭和60)年から1992(平成4)年までは日本ハム球団常務を務めている。
1992(平成4)年オフ、日本ハムの監督選びが難航するなか、大沢が監督に推薦した上田利治王貞治などが球団に断られ、難航する監督人事に、ついにキレた大沢は、「フロントは相変わらず人気、知名度のある人を、という条件を言うもんだから、とうとうオレは頭にきちまって人気だけだったら、当時旬の女優だった宮沢りえにやらせろ」とまでフロントに対して発言し、結局、時間切れで自分が監督をやるはめになったようだ(※3参照)。
そして、1993(平成5)年から1994(平成6)年まで再び日本ハムの監督として指揮をとり、1993年は西武と激しいデッドヒートを演じ、結果は2位と敗れ優勝できなかったもののパ・リーグを大いに盛り上げた。
大沢のユーモアあふれるコメントはマスコミで大々的に報じられたこともあって「親分」の語句は、この年の新語・流行語大賞の「大衆語部門・金賞」に選ばれている(※2参照)
次の年・1994(平成6)年、今年こそは何としても優勝とのファンや球団フロントの期待を裏切り、余りにも不甲斐ない成績で最下位に終わったことから、本拠地・東京ドームでのシーズン最終戦、ロッテには大勝したにも関らず、試合終了後に、突然マウンド場でファンに向かってを深々と土下座して謝り、観客を驚かせたのは冒頭で述べたとおりである。
この年、監督業から完全に退くが、監督としての通算成績は13年で、 725勝、 723敗、 99 分け、勝率5割1厘。
通算の退場回数は7回と、タフィ・ローズ(14回)、マーティ・ブラウン(12回)、金田正一(8回)に次ぐ不名誉な記録を持つっている。
神奈川商工高時代、夏の甲子園をかけた予選で、球審の判定で敗れたと感じた大沢投手は試合終了後、その審判をボコボコにしたという逸話が残っているそうだが、立教大を経て南海入りしてから引退するまで、大沢は選手としては1度も退場がなく、記録はすべてコーチ・監督時代のもの。
参考※1にもあるように、選手時代から頭脳的名守備を見せていた “親分”は大事な局面を迎えると、今やるべきかどうか、計算しながら“暴れていた”ようだ。
ひと芝居打ち、監督が怒りを露にすることでチームの士気を高め、ムードを変える。ひと昔前の発想かもしれなかったが、大沢監督にとってこれは必殺技。勝負をかけた“退場”だったようだ。
監督としての通算勝ち越し数は2試合。これについては、参考※3にもあるように、「勝ち越して監督生活を終われる人間はそう多くない。名将なんておこがましいが、貯金2か。ちょうどいいんじゃねぇか」。ロッテと日本ハム時代にシーズン途中から指揮を執り、2度目のファイターズ監督就任もなり手がいなくて困った時に引き受けた。いわば火中の栗を拾い続けた親分。口は悪かったが、無類のお人好し、それが親分の素顔だったのだろう。
現代では失われてしまった「親分」という言葉を、復活させた大沢。
親分とは、親子関係を擬した主従関係における主人。子にあたるのは子分。前近代では民間における主人と従者の関係が親子関係に擬せられることが多くあった。
プロ野球の世界で「親分」と呼ばれていた監督には、大沢が初めてプロ選手として入団した時の監督鶴岡一人がいる。南海を率いて黄金時代を築き、三原脩、水原茂とともに「3大監督」といわれた。
大沢が南海へ入団する10年前、戦後の1946(昭和21)年に復員し、29歳で南海監督就任を要請され、同年から1952(昭和27)年まで選手兼任監督となる。
戦後の混乱状態の中、一見強面であるが野球のみならず選手の生活の面倒までを細やかに世話するなど人情味豊かな人柄から「鶴岡親分」と慕われた。
有望選手の獲得も上手かったが、無名の選手を中百舌鳥で鍛えて名選手に育て上げる手腕がそれ以上に長けていたといわれている。
打倒巨人に燃え、機動力野球から400フィート打線と呼ばれる大型打線へとチームを見事に変貌させ、杉浦の4連投・4連勝もあり、1959(昭和 34)年には巨人を倒し、念願の日本一にもなっている。
「鶴岡親分」と呼ばれ、「精神野球」のような印象を持たれるかもしれないが、それまでカンに頼っていた野球にデータを持ち込み合理的な近代野球をいち早く実践したのも鶴岡監督であり、義理と人情の古めかしさと、鶴岡の求心力によって、それらがほどよく交ざり合い強力チームを作り上げた人であった。
「親分」のニックネームで親しまれた大沢も、鶴岡一家の一員だったわけで、少なからぬ影響を鶴岡から受け継いでいることだろう。
生来のおおらかで明るく豪放な性格で、あけっぴろげなべらんめえ口調は、選手を完全に掌握し、豪快なチーム作りと戦いぶりで観客を魅了した。
よく「名選手、名監督にあらず」と言われる。
巨人の創世期を支えた水原茂も三原脩も、あるいは毎日のあと阪急・近鉄時代に時間をかけて選手を育て、チームを作り変え、弱小球団を常勝軍団へと導き、20年間の監督生活で8度ものリーグ優勝を果たしながら、日本シリーズでは1度も日本一に就けず、「悲運の名将」と言われた西本幸雄、その西本のあとを受け継ぎ、阪急の黄金期を築いた上田利治、広島で赤ヘル旋風を巻き起こし、萬年最下位から奇跡の優勝を遂げた時の名将・古葉竹識監督でも現役時代に特別秀でた戦績を残していたようには見えないからだ(※4参照)。
大沢親分も監督としての戦跡は、彼らほどではないものの、それは、前述したように、監督への就任事情にもよるものであり、大沢自身は、イメージに似合わず非常に繊細でクレバー【clever】な頭脳の持ち主で、その指導者としての資質は球界内でも高く評価されていた。
これに対して、参考※5:「小関順二公式ホームページ」では、“「名選手、名監督にあらず」とよく言われるが、リーグ優勝の経験のある監督を見ていくと、「名選手にあらずんば、名監督にあらず」のほうが正しいことがわかる”と主張している。
そして、「名選手にあらず」に分類した西本も、アマチュア時代には、名選手と言ってもいい実績を残しているし、大沢は鶴岡南海時代の外野守備名人だったのだから無名選手とは言えない。又、1970(昭和45)年にロッテをリーグ優勝に導いた濃人が翌1971年には大沢へ途中交代させられているのも、選手時代の実績がなかったためであり、監督としても軽く扱われたのだと思う。・・・としている。確かに、そこに、書かれているところを見るとそうともいえる。
今のプロ野球界はどちらかといえば、監督の条件として野球理論の優秀さよりも、選手時代の実績やネームバリュー、つまりどの球団も「大物監督」を優先させる傾向は強く、選手時代の実績が地味だった人物が監督に抜擢されるケースは以前よりも少なくなっているかも知れないようだ。
そんな中で、昨年、栗山英樹氏が日本ハムの監督に就任したことは、珍しいケースと言えるかもしれない。
そんな彼が、監督就任1年目となった今年(2012年)、チームのエースだったダルビッシュ有が抜け苦戦も予想されたが、吉川光夫中田翔など若手選手の台頭もあり開幕当初から好調を維持。10月2日、新人監督として17人目のリーグ優勝を果たした。
野球解説者・スポーツキャスターとしての知名度はあったものの、プロの選手としての実績らしい実績もなく、指導者経験もなしで監督就任したのは異例中の異例のことであり世間を驚かせた。
その栗山新監督の背番号「80」は、名監督三原脩への憧れに因んでのものであったそうだ。
昨年11月9日の監督就任会見では、「多くの名将と呼ばれる方を取材してきましたが、組織を生かすこと、監督とは何かを学んだのは三原さん。名将の元祖。そういう大先輩に少しでも近づきたい」。また、座右の銘は「夢は正夢」。テスト入団から猛練習でレギュラーをつかんだ自らと重ね合わせるように「すべての選手にチャンスがある」と信じる。選手たちの可能性を信じ、周囲が驚く起用で結果を出した三原氏のように“栗山魔術”を北の大地で披露する。そして、「自分のことはどうでもいい。少しでも選手のために何ができるか」と選手の能力開花にすべてをささげるつもりだ。・・と話していた(※6参照)ようだが、その通りになった。
古い時代だけでなく、今の時代であっても、鶴岡や大沢のような親分肌の監督でなくても、監督となった以上、監督選手を信頼し、選手からも信頼もされる・・・そんな、親子関係のようなものが築き挙げられなければ、野球のようなプロ集団であってもなかなか成果は上らないものだろうね〜。
今の民主党政権のまとまりのないバラバラの状態でどんな政治が出来るのだろうか。野田総理も、政権のたらい回しや延命工作をせず、野党・自民党との「近いうちに・・・」との約束どおり、早く解散・総選挙をし、国民に信を問い直し、まず党員からの信頼を確立した上で本当に国民が望んでいる政治をして欲しいものだね〜。
なんかつい愚痴をこぼしてしまったが、最後に、サンデーモーニングの御意見番コーナーへ、陽気に歌を歌いながら登場するシーンでも見ながら、在りし日の大沢親分を偲ぶことにしよう。以下で偲んでください。

大沢親分SONGS 2010年ーYouTube


(冒頭の画像は、2003年11月撮影大沢啓二氏。2010年10月8日朝日新聞掲載分借用)
※1:5月29日】1994年(平6) “親分”大沢監督 7度目の退場!羽交い絞めされてもキック!
http://www.sponichi.co.jp/baseball/special/calender/calender_09may/KFullNormal20090501174.html
※2:新語・流行語大賞(1993年 )
http://www.mapbinder.com/Dictionary/Ryukogo/1993.html
※3:日本ハム 10年ぶりの最下位 大沢親分 ファンの前で土下座-スポーツニッポン【9月29日】1994年(平6)
http://www.sponichi.co.jp/baseball/yomimono/pro_calendar/1109/kiji/K20110929001721880.html
※4:監督の資質と条件(監督に向く人と向かない人): 時遊人SUZUのひとり言
http://tsuri-ten.cocolog-nifty.com/blog/2012/09/post-4a2d.html
※5:小関順二公式ホームページ「名選手にあらずんば、名監督にあらず 」
http://kosekijunjihomepage.com/?%E5%90%8D%E9%81%B8%E6%89%8B%E3%81%AB%E3%81%82%E3%82%89%E3%81%9A%E3%82%93%E3%81%B0%E3%80%81%E5%90%8D%E7%9B%A3%E7%9D%A3%E3%81%AB%E3%81%82%E3%82%89%E3%81%9A
※6::栗山ハム新監督“三原イズム”で勝つ!/野球/デイリースポーツonline
http://www.daily.co.jp/baseball/2011/11/10/0004608771.shtml
年度別成績 - 日本野球機構
http://bis.npb.or.jp/yearly/
財団法人野球体育博物館
http://www.baseball-museum.or.jp/
大沢啓二 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%B2%A2%E5%95%93%E4%BA%8C

関西を代表する“浪花のおかん” ミヤコ蝶々(女優・漫才師)の忌日

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幼少時の旅回り一座から漫才に進み、ラジオ・テレビの名司会役、そして自作自演の芝居にと大活躍したミヤコ蝶々が亡くなったのが、2000(平成12)年10月12日のことであった。。
芸の世界に身を投じて70余年。自らの苦労や哀しみを、お客さんが喜んでくれるのならとさらけ出し、どうしたら人を笑わせられるか、涙を流させられるか、その一点に集中して、その生涯を「お笑い人生」に没頭した人であった。自宅は大阪府箕面市桜ケ丘1の10の43。没後自宅は改装され、ミヤコ蝶々記念館となっている。

ミヤコ蝶々、本名、日向 鈴子(ひゅうが すずこ)は、1920(大正9)年現在の東京都中央区日本橋小伝馬町にて、家具店を営む裕福な家庭の長女として生まれたそうだ。
しかし、関東大震災の翌1924 (大正13)年、蝶々4歳のとき、父親英次郎が若い芸者と駆け落ちし我が地元神戸へと移り住むことに。
父はデパートで家具の販売をしながら神戸・元町で小さな家具屋を営んでいたそうだが、神戸は、神戸港の開港。外国人居留地が出来たことから腕の良い船大工出身の洋家具製作が盛んになり、神戸家具として今でも神戸の高級家具の人気は高い(※01参照)。又、当時の神戸は演芸が盛んな町でもあった(※2)。

上掲の画像は、コレクションの絵葉書の中の「神戸名所絵葉書」中の1枚。大正から昭和初期、全盛期を迎えた新開地本通りの様子である。

父は芸事が好きで、新内節を唄ったり、毎日のように娘を連れて寄席通いをしたり、寄席芸人を招いては宴を楽しんでいたという。
あげくのはてに、1927(昭和2)年、とうとう家具屋をたたみ、父親の思いつきだけで、まだ7歳だった娘を座長に据えて、旅回りの“都家蝶々一座”を結成し、九州の炭坑町の小さな劇場で安来節を唄い、初舞台を踏ませたという。
蝶々は、その後もあらゆる芸(漫才、喜劇、女剣舞、バレエ、三味線など)を身に付けた。
そして、国内各地から中国、朝鮮半島を巡業した。読み書きは、三味線や踊りの師匠でもあった義母に教わり、楽屋を学校代わりに育つったという。
この頃は世界的な大不況(世界恐慌参照)のあおりで失業者が街にあふれ、日本中が笑いに救いを求めていた時代。
地方の人々にとっての娯楽は、芝居小屋にやってくる劇団だけだったため、蝶々一座も各地の芝居小屋から引っ張りだこになっていたようだ。
第二次世界大戦の真っ只中。一座の巡業生活が続くなか、1942(昭和17)年、蝶々22歳の時に地方まわりの芸人にとって憧れの舞台大阪の吉本興業 からの誘いを受け、一座を解散、檜舞台に立ち、大阪に定住生活をするようになる。
これから、蝶々の夢の舞台への挑戦が始まるのだが、そこには思わぬ試練が待ち受けていた。
蝶々は一時期、つまり、1946(昭和21)年、横山エンタツ花菱アチャコと並び一世を風靡していた夫婦漫才家のミスワカナ・玉松一郎のワカナ(初代)が世を去った後、相方である一郎とコンビを組み2代目ワカナを名乗ったことがあるがコンビは半年で解消しており、人気が出たのは戦後、南都雄二と漫才コンビを組んでからのことである。
そのころを知る人は、「漫才の女王といわれたミスワカナより上」と評価しているという。
蝶々の実力を高く評価していた吉本側は、この当時人気があったミスワカナの二代目として彼女を売り出すために、公演の最後を飾る大看板のひとつ前に登場される「モタレ」(「膝代り」ともいう。※3参照)を任せた(「立花敏夫・ミヤコ蝶々」としてデビュー)。本来は、大ベテランが務めるこの「モタレ」への大抜擢により、周りの芸人たちからは大きな反感を買い、「トリ」を務める大御所芸人が出演を拒否するなど嫌がらせが頻繁に起こるようになり、 非常に悩んでいた。
そんな蝶々を、影で見守ってくれていたのが、当時の人気落語家で後に漫才の世界に転進することになる三遊亭柳枝であり、出演拒否で穴が開いた「トリ」を総て埋めてくれたり、芸人仲間から疎外されていた蝶々を、食事に誘うなどして励ましてくれたそうだ。
こうした柳枝の優しさに引かれ、17歳も年上で、しかも、妻子を持つ身である柳枝と、いつしか不倫の恋に落ち、1942(昭和17)年に結婚。柳枝が、最初の夫となったが、彼には新婚当時すでに元妻以外にも3人の女性がいたと言う。
太平洋戦争が激化し、1945 (昭和20) 年3月には、大阪大空襲によって、大阪の街は一面焼け野原と化し、本社をはじめ、所有していた寄席や劇場、映画館のほとんどが瓦礫と化した吉本興業は一時休業状態になったため、1946(昭和21)年、柳枝らと共に「柳枝劇団」を旗揚げし、各地を巡業することに・・・。
一座は20人ほどだったようだが、蝶々が鈴美という弟子と漫才、柳枝が漫談と芝居をやっていたようだ。
この劇団をつくるとき、一人の若者(吉村朝治)が、弟子入りしてきた。弟子の芸名は男性なら蝶々の本名の鈴子から、女性なら芸名の蝶々から取っていたので、吉村は男性なので鈴夫と名づけられた。
金がないので蝶々はいろんな雑事をこなし、髪結い、囃子方や三味線なども。漫才や芝居の脚本も専門家に頼むと高いので、蝶々と柳枝で書いたが、柳枝は堅実なものを好み、蝶々は劇中にその時々の流行を取り入れたかったので、よく喧嘩にもなったという。
しかし、敗戦後の暗い世の中、当時国民は娯楽に餓えていたこともあり、二人の劇団は各地で大盛況したそうだ。
経営も上手く行き、蝶々も柳枝とのひと時の幸せな生活をかみ締めていのだが、夫の柳枝は相変わらず女癖が悪く、入ってくる劇団の若手女優に次々手を出すなど浮気をしたため、翌1947(昭和22)年に、蝶々の世話役も勤めていた劇団員の吉村朝治.と共に家を出て、後に柳枝とは離婚し、朝治と再婚する(自実婚と言われている)。しかし、柳枝劇団との契約が切れるまでは別れた柳枝と共に舞台に出演していた。
柳枝と別れ、劇団も辞め、仕事も無くなり、まだ芸人としては半人前の弟子であり夫の朝治との二人だけになり、先の見通しもつかない状態に思い悩む日々が続いていた蝶々は、その心を癒すために、当時は疲労回復のため一般の薬局でも販売されていて、芸能界で蔓延(初代ミス・ワカナが心臓発作を起こし36歳の若さで急逝したのもヒロポン中毒と過労が原因だったと俗説されている)していたヒロポン(覚醒剤の一種)に手を出した。
強度の依存症となったが、そんな状態ではどの劇場でも使ってくれるはずがなく、そのうち、お金も底をつき、どん底生活の中、薬を買うこともできなくなり、強烈な禁断症状に襲われるようになったとき、そんな蝶々を見捨てず、献身的に必死に支えてくれたのが、夫・朝治であった。
そんな夫の優しさに応えるために、一刻も早くこの地獄から抜け出そうと、治療のため入院し努力あってこれを克服。1カ月後には退院した。
この事件を境に、蝶々は夫である朝治を相方とし、夫婦漫才コンビ「蝶々・鈴夫」を結成するが、ミヤコ(都)蝶々とのコンビには鈴夫よりも上方トンボのほうが良いだろうとの柳家三亀松の改名提案を受け入れ「蝶々・トンボ」のコンビ名で、1948(昭和23)年、三重県津市の曙座(明治時代には河上音二郎なども舞台に立っているらしい.※04参照)で初舞台。この時、蝶々は28歳。以来、地道な活動を続けてきた「蝶々・トンボ」は、実力も付き、徐々に人気も出始めた。
戦後、多くの漫才師が疎開しあちこちにバラバラになり劇場や寄席も空襲に合い、吉本興業も新興演芸(松竹社長であった白井松次郎による新興キネマ〔のち大映に合併〕に新設されていた演芸部)も漫才の興業から手を引いてしまって、上方の漫才興業は壊滅状態となっていた。
当時新興キネマの文藝部長に就任していた秋田實は、そんな漫才の将来を危惧して戦後京都に戻り、若手の漫才師を集め1948(昭和23)年に「MZ研進会」(Mは漫、Zは才の頭文字を取ったものとか)という漫才のサークル集団を結成、翌1949(昭和24)年に京都で正式に旗揚げをし、秋田Aスケ・Bスケミスワカサ・島ひろし夢路いとし・喜味こいしらが加わっていた。
秋田は、新しい笑いをどんどん取り入れて書き下ろした新作を若手漫才師にやらせていた。
このとき、地方の舞台に出ていた蝶々らも秋田の誘いを受け参加し、秋田の教えを受けるようになる。そして、ラジオ番組に出るようになる。
このころ秋田が番組構成を担当したNHK大阪放送局制作による全国放送のラジオ番組『上方演芸会』が9月から放送を開始しているが、1951 (昭和26) 年には、大阪に毎日放送(BBS,9月1日開局)、朝日放送(ABC、11月11日開局)と、初の民間放送局も誕生している。
秋田は、旧・阪急電鉄(現在の阪急阪神ホールディングス)創業者の小林一三と軽演劇集団「宝塚新芸座」を、1950(昭和25)年に立ち上げる。
1952(昭和27)年には、蝶々等もこの演劇集団に参加し、大阪・道頓堀中座を拠点に活躍するようになる。
そんななか、1954 (昭和29) 年に朝日放送で始まったのが「漫才学校」であった。
蝶々が校長、雄二が出席を採る用務員、森光子が教師、夢路いとし・喜味こいし・秋田Aスケ・Bスケ・笑福亭松之助他が生徒という顔触れによる秋田実のラジオコメディーで、蝶々らは一躍人気者となった。
このような大阪のラジオ番組で新作漫才をやる時には秋田から台本をもらうのだが、それも本番の2、3日前。
学校に行っていない蝶々が書けるのはひらがなだけで、読める漢字もそれほど多くはなかったため、台本に読めない字がある度に、相方の鈴夫に「これ何とゆう字?」と聞いた。何度も「なんとゆうじ?」と聞いているうち、いっそ芸名にしてしまおうと思いついたという。それまでの上方トンボと言う名が気に入っていなかった鈴夫も喜んで、「南都雄二」に決まったというエピソードがあり、このころコンビ名も「ミヤコ蝶々・南都雄二」に改名されている。
人気の漫才学校に続いて、同じく、朝日放送で1955(昭和30)年6月に放送開始の夫婦対談番組「夫婦善哉」の司会をコンビで務める。
当初の正式タイトルは「蝶々・雄二の夫婦善哉」だった。番組は毎回一般の夫婦を招き、蝶々・雄二の2人が結婚生活の極意や新婚時代のエピソードを絶妙な間で聞き出すという形で進行。現在の「
新婚さんいらっしゃい!」へと繋がる夫婦対談番組の先駆的存在として人気を博し、番組はラジオで8年間、その後テレビで12年間、計20年間も放送された。
この番組で「蝶々・雄二」の人気も定着し、この頃始まったテレビ番組に引っ張りだことなり、スケジュールはいつも満杯状態となる。

上掲の画像は、1961年南都雄二さんとの万歳風景。朝日新聞2000年10月13日付より。

しかし、この「夫婦善哉」の開始当時、司会の蝶々・雄二もまた実際の夫婦であり、「おしどり夫婦」と思われていたが、内情は雄二の浮気癖で早くから家庭内は不毛であったという。
1958(昭和33)年に雄二の不倫がもとで「離婚」(法的に婚姻関係でなかったため、事実婚を解消)するが、その後も数年は公にせず2人はコンビで「夫婦善哉」の司会を続けていたが、週刊誌等で話題になってきたことなどもあり、「夫婦善哉」の番組内で離婚していたことを告白。これが、かえって自分たちの結婚生活での体験を素直に話すことができるようになったせいか、よりリアリティのあるゲスト夫婦の体験談を聞き出しやすくなり、多くの視聴者の共感を得たようだ。
人気絶頂の蝶々は、離婚後ソロの女優としても活動するようになり、1969 (昭和44) 年には、映画界にも進出。
山田洋次監督の代表作「男はつらいよ」の第2作「続・男はつらいよ」に、寅さんの瞼の母お菊役で出演している。
雄二とは離婚後も、公私共に付き合いは続き、1972(昭和47)年に雄二が糖尿病を悪化させ入院し、翌・1973(昭和48)年に48歳で亡くなるまで、後妻に逃げられ、身寄りもない雄二さんの、一切の面倒を見続けたのは蝶々だった。
葬儀の日。「親子でも、夫婦でも、兄弟でもない私と雄二さんが、愛情をも超えた深い絆で結ばれていたことは間違いない」・・・と。蝶々は、雄二を「友人代表」として見送った。
その後、自ら劇団を旗揚げし、大阪・道頓堀の劇場「中座」を拠点に活動する。

上掲の画像は左:大阪中座の1993年4月公演「嫁と姑」藤山直美特別参加。右、同舞台での共演シーン。朝日新聞2000年10月13日付より。

蝶々は数冊の本も出しているが、雄二が長年抱えていた糖尿病の症状が進行し、入退院を繰り返すようになる前年の1966(昭和41)年、45歳のときに執筆した自伝『女ひとり』では、私生活をさらけだした。
例えば、最初の夫三遊亭柳枝や雄二との結婚・離婚の経緯、自身のヒロポン中毒のことなど飾り気のない文章で顕わし、評判となった。
1971(昭和46)年には、大阪・梅田コマ(現:梅田芸術劇場)で『女ひとり』を芝居化し大ヒット。その後も芝居を書き続けたが、その殆どは、自作・自演で、テーマーは、いづれもそのときの社会的な関心やそこに生きる人の悩みだった。
このようなものをテーマーに、特に、蝶々のホームグラウンドであった道頓堀の中座においては、 連続21年間、女座長として定期公演を続けている。
「なにわのスーパーかあちゃん」では強い母親像を、「おもろい一族」では遺産相続問題を取り上げ、「金とダンボール」では、金万能の世の中を痛烈に批判し、している。

上掲の画像は中座での「金とダンボール」の公演チラシ。

これらは、大阪伝統の人情喜劇ある松竹新喜劇とはまた違ったもので、蝶々流の社会派ドラマであり喜劇である。

“人の迷惑を考えない世の中悲しいよ。政治がしっかりしとらんからや。(政治家は)国民の機嫌をとるな、国民のためにやってくれ。

芝居は下手でもええ。一生懸命やってたらこころが通じる。みなさんも死になはんなや。元気にしていて、又見にきてな。“・・・1996年9月京都。南座「恋のぬくもり」の舞台から言葉。

上掲の画像は、同南座での「恋のぬくもり」公演のチラシ。

芝居の最後に一人でおしゃべりトークする「トークショー」は、1982(昭和57)年頃はじまったようであるが、世相や自らの半生を蝶々流に語り、お客さんの共感を誘って人気を博した。
東京生まれだが「関西にそだててもらった」と関西をこよなく愛した人であった。
あるときの制作発表では、がりがりに痩せた姿で現れた。脚本が思うようにかけなかったからだというので、「そんなに苦しんでまで」なんで自分で書くんですか」と聞くと、「どなたに御願いしようにも大阪のにおいがする作品を書いてくれる作家がおれへん」と話したという(朝日新聞2000年10月13日朝刊)。
先天的に片方の腎臓が機能していなかったこともあり、晩年は体調不良のため入退院を繰り返した。舞台に対する思いは強く、闘病生活を続けながらも舞台に出演していた。その様子は『NHKスペシャル』でも取り上げられ話題となった。
最後の舞台は1999(平成11)年10月15日の『じゅんさいはん』(中座)。 特別ゲストとして登場し、自身のホームグラウンドと称していた中座の閉館を「お金があれば、この小屋買うのに」と惜しんでいたと聞く。
2000(平成12)年3月にテレビ出演したのが公式の場に出た最後となり、10月12日慢性腎不全で、大阪市の病院で死去した。享年80。
1984(昭和59)年に紫綬褒章を、1993(平成5)年に勲四等宝冠章を受章している。

“いつも言いますが、一番大事なのはお客さんです。たとえ劇場の人がいらんとおっしゃろうが、お客さんが私を見放さん限り、私はついていきます。
「あんたが頼りや。死なんといてや。」街で声をかけられます。私みたいな頼りない人間でも、そんなに言われると勇気づけられる。生きようと思う。”(1997年2月、芝居の政策発表会見での言葉。2000年10月13日朝日新聞朝刊掲載より)。
70年以上にわたって笑いと涙を振りまき続けた蝶々。その芸の先にはいつも庶民がいた。芝居、ラジオ、」テレビ、映画と見せる場は違っても、社会を意識し、世相を映した芸へのこだわりは変ることはなかった。その芸人魂は、弟子や芸人仲間へと同様自ら対しても厳しかった。
企画、プロデュース、脚本、演出、そして、主演。そのすべてをこなし、「浪花」を描き出せる女性の役者が大阪からいなくなってしまったのが寂しい。

(冒頭の画像は、日向 鈴子 著『ミヤコ蝶々 女ひとり』 講談社)

参考:

※1:黎明期 - 神戸芸術工科大学 「神戸家具」の変遷と可能性
http://www.r-nagata.co.jp/kobekagu/rekishi1.html
※2:新開地のまちづくり 「新開地」まちの変遷 | 新開地オモシロ情報サイト
http://www.shinkaichi.or.jp/outline/history.html
※3:落語辞典用語集 - 落語はじめの一歩|落語芸術協会
http://www.geikyo.com/beginner/dictionary_detail.html
※04:救助の礼に無料公演―川上音二郎の手紙 - 三重の文化
http://www.bunka.pref.mie.lg.jp/rekishi/kenshi/asp/hakken2/detail.asp?record=372
“浪花のおかん” ミヤコ蝶々さん死去(朝日新聞)
http://www.asyura2.com/sora/bd11/msg/13.html
SmaSTATION:特別企画Copyright(C)2007
http://www.tv-asahi.co.jp/ss/237/special/top.html
ミヤコ蝶々 〜笑いと涙の女の一生〜
http://yuuyuukandai.at.webry.info/200703/article_15.html
SINCERELY blog 「ミヤコ蝶々 女ひとり」を読んで
http://emikurarafanblog.blog100.fc2.com/blog-entry-211.html
ミヤコ蝶々の歩み
http://www.chochokinenkan.ecnet.jp/sub3.html
『鈴子の恋』 - とれたてフジテレビ
http://www.fujitv.co.jp/fujitv/news/pub_2011/111227-n038.html
ミヤコ蝶々 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%83%A4%E3%82%B3%E8%9D%B6%E3%80%85

名曲「荒城の月」の作詞家土井晩翠の忌日

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10月19日の今日は、詩人・英文学者・土井晩翠の1952(昭和27)年の忌日である。
日本の歌で、戦前、海外にも良く知られた名曲がニ曲ある。
一つは「さくら」であり、もう一つは「荒城の月」であり、どちらの曲も今だに、日本の代表的な歌として、欧米の人々に愛されている。「さくら」は、もともとは幕末に、江戸で子供用の箏曲の手ほどき曲として伝承されてきたもの(作者不明)で、原曲には「咲いた桜・・・」という歌詞がついていたものが、その優美なメロディから、明治の改良唱歌運動の一つとして、文部省音楽取調掛撰「箏曲集」(1888年=明治21年刊)に記載されていたもの。これが現代知られている「桜さくら・・」という歌詞に改められた。その旋律はともかくとして、歌詞は新しいものである(原曲「咲いた桜」の歌詞などは、参考の※1参照)。
後世様々な編曲がなされているが、宮城道雄の「さくら変奏曲」が特に有名である。
余談になるが、宮城道雄は、1894(明治27)年4月7日、我が地元である神戸の居留地内に菅道雄として誕生した作曲家・箏曲家であり、十七絃の発明者としても知られる。
以下は、宮城道雄のかっての弟子牧瀬喜代子(宮城喜代子=道雄の嫁・貞子の姪である)と吉田恭子の「さくら変奏曲」の演奏である。今、よく聞く曲とは違った味がある。
さくら変奏曲(上・下) 宮城道雄- YouTube
現在の弟子による演奏曲は以下参考の※2:「宮城道雄の世界」のここで聞けるが、皆さんはどちらが好みだろうか。
また、宮城は、父親の故郷であり自身が8歳で失明する前に育てられた土地、福山市鞆町から見える鞆の浦にインスピレーションを受けて創作したといわれる、1929(昭和4)年発表の「春の海」は、フランス人女流ヴァイオリニスト、ルネ・シュメーと競演され、世界的な評価を得ることとなった。
日本では、小学校における音楽の観賞用教材として指定されているほか、特に正月には、テレビ・ラジオ番組や商業施設等でBGMとして使用されているため、非常に有名である。
ルネ・シュメーという人部についてはどんな人かよく分からないが、来日したシュメーが「春の海」を気に入り、1932(昭和7)年の来日時に、尺八のパートをヴァイオリンで演奏したものを録音し、このレコードは、日本、アメリカ、フランスで発売されたそうだが、以下のものが、その時の録音だろうか。尺八でなくヴァイオリンで聞いても素晴らしい曲である。
"Haru no Umi" (The Sea in Spring) for Koto and Shakuhachi -YouTube

さて、本題に入るが、「荒城の月」は、土井晩翠の作詞に、
瀧廉太郎が曲をつけた歌曲である。
この「荒城の月」が発表されたのは1901(明治34)年で、東京音楽学校(現東京芸術大学音楽部)が、同年に発行した音楽教科書『中学唱歌』(※3また※4参照)に掲載された。
 当時、小中学生用の唱歌といえば、外国曲に日本語の詩をつけたものが主流であった。
東京音楽学校では、この風潮に一石を投じて日本独特の唱歌を作ろうと企画、中学生用の教科書を作る時、いくつかの詩を公開し、それに付ける曲を募集した。
 当時同音楽学校の研究科生だった滝はこれに応募し、見事3曲(「荒城の月」他「箱根八里」〔作詞:鳥居忱〔とりいまこと〕、「豊太閤」〔作詞者不詳〕)に曲をつけて応募したところ、3曲とも採用されることになったという。
ただ、「豊太閤」は瀧廉太郎作曲と言われているが、もともはとドイツ民謡であったとか・・・(※3の明治34年『中学唱歌』参照)。そうすれば、その外国民謡を滝が日本の歌にアレンジしたということだろうか。彼はこれにより、賞金15円を得たと言われているようだ(※4の『荒城の月』が聖歌になった参照)。
ちなみに、1901(明治34)年当時の綿糸紡績職工平均賃金1日男約30銭、女約20銭〕 (1日115時間労働、残業で18時間になることも少なくなかったという)、物価はビール大瓶19銭、牛肉100g7銭、理髪15銭の時代(朝日クロニクス「週刊20世紀」1901年号)だから、滝の作曲料は今の時代に比すと安いのか高いのか・・・?

「荒城の月」と言えば、音楽の授業で、明治の西洋音楽黎明きにおける近代音楽の代表的な作曲家の一人であるの滝廉太郎の曲として、大多数の人が知っていると思うのだが、このような、瀧廉太郎の知名度に対して、現代、その作詞者である土井晩翠については、どれだけの人がどれだけのことを知っているのだろうか・・・。
正直、そういう私も、土井晩翠が「荒城の月」の作詞者である事は、知っているものの、そのこと意外は以外に知らないのである。それで、お勉強のため、彼のことについて、知らべて、このブログを書いてみようと思ったのである。

(一)
 春 高楼の花の宴 巡る盃影さして
 千代の松が枝(え)分け出でし 昔の光今何処(いづこ)
(二)
 秋 陣営の霜の色 鳴きゆく雁(かり)の数見せて
 植うる剣(つるぎ)に照り沿(そ)ひし 昔の光今何処(いづこ)
(三)
 今 荒城の夜半(よは)の月 変はらぬ光誰(た)がためぞ
 垣に残るはただ葛(かづら) 松に歌(うと)ふはただ嵐
(四)
 天上影は変はらねど 栄枯(えいこ)は移る世の姿
 映(うつ)さんとてか今も尚 ああ荒城の夜半の月

漢詩の伝統が脈打つ格調高いこの新体詩(※5)は、七五調の歌詞(今様形式)と哀切をおびた西洋音楽のメロディが見事に融合した楽曲であり、又、詩の一・二番の「対句」は大変鮮やかであり高い評価がされている。
第1連(連=長い詩を構成する一区切りの単位、聯、節ともいう)は春で花に盃、第2連は秋で霜に雁の取り合わせである。
和歌などの世界で、夏と冬の歌がまったくないわけではないが、それはマイナー的な存在であり、歌にはやはり春と秋こそがふさわしい。また、第1連では栄える様子を、第2連では枯れ果てる様子が描かれている。
そして、第3連、第4連では、荒れ果てた城あとを照らす月。人の世は変わっても、月とそれをとりまく自然はひたすら廻(めぐ)り続ける世の転変を、ぐっと引いた離れた位置から見つめる視線は、晩翠の他の詩でも見られる。
こんな晩翠の男性的な漢詩調詩風は、当時女性的な詩風の島崎藤村と並び称されていた。
この詩の集約とも言える第4連は、“空にある月の姿は昔も今も変わらないが、地上の栄枯盛衰の有様を見て、その時々の姿を写し取ったはずの光は今はない。しかし、今荒れ果てた城跡に立って荒城を照らす月の光を見ると、この城の栄枯盛衰が目の当たりに想像され、まるで当時の光が写し取った光景を自分の目の前に披瀝してくれようとしているように思われる。ああ、荒城にかかる夜半の月よ」というほどの意味なのであろうが、それでは、晩翠がどこの「荒城」をイメージしてこの詞を構想したのだろうか?
晩翠がモデルとしてイメージしていたたであろう場所は、以下参考の※6:『日本ペンクラブ電子文藝館』の物故会員 土井 晩翠には、晩翠が瀧の没後45年祭(昭和22年)に列しての感慨の一文を添えられており、これによると、晩翠が、東京音楽学校からの依頼を受けて、この「荒城の月」を作詞したのは、1898(明治31)年、晩翠28歳の時であり、その時、真っ先に頭に浮んだのは、それより数年前に、第二高等中学東北大学の前身校の一つ)の修学旅行で会津を訪れた際に、間近に目にした鶴ヶ城(若松城)だったようである。
戊辰戦争で壊滅状態となり、有名な白虎隊の悲話も残る鶴ヶ城。そんな、秘話を念頭に置きながらも作詞の上で材料を供したのはやはり、彼の故郷である宮城県仙台市の青葉城(仙台城)址であったようだ。
歌詞一番にある「千代」とは非常に長い年月を意味し、「千代木」(ちよき)が松の異名であること。
また、伊達政宗が、もともと「千代」(せんだい)を「仙台」(仙臺)と書き改め、現在の仙台市につながっているため、仙台出身の晩翠が「仙台」の掛詞である「千代」と書き、「ちよ」と読みを替えて「仙台」のことを暗に示しているとも考えられること。
歌詞二番の「秋陣営の…」の部分は、上杉謙信七尾城攻略の時に詠んだ漢詩 「九月十三夜陣中作」(※7)の「霜は軍営に満ちて秋気清し数行の過雁(かがん)月三更・・・」をふまえたものと思われるし、又、ここに登場するは、東北から北陸にかけての地方で越冬する渡り鳥であこと(宮城県伊豆沼に冬鳥として多く飛来することから1965年には宮城県の県鳥にも指定されている(※8)。
そして、歌詞の三番「垣に残るは唯かづら、松に歌ふは唯嵐」は青葉上の実況である。・・・と、瀧の没後45年祭(昭和22年)に列しての感慨の晩翠の一文にも書かれているからである。
この歌の荒城のモデルとなった場所としては、他にも仙台在住当時の晩翠が、よく立ち寄ったとされる岩手県二戸市の九戸(くのへ)城址も言われており、瀧廉太郎の場合は、自分が子ども時代を過ごした大分県竹田市の岡城址を見て曲を構想したとされており、ほかに、滝の父が仕事の関係で、竹田の前にいた富山県富山市で、小学校1年から3年までの多感な時期を過ごしており、彼が通っていた小学校が富山城の敷地内にあった事などから、富山城址も候補に挙がっており、現在これら5ヶ所に「荒城の月」の歌碑が設置されているようだ。
晩翠は、鶴ヶ城を思い浮かべながらも、彼の故郷の青葉城や他の城での歴史的出来事なども想像しながらの作詞だったのだろう。

土井晩翠(どい ばんすい)の生い立ちや作品などは、『「雨の降る日は天気が悪い」序 』『新詩發生時代の思ひ出』に記載されている自伝や作品紹介(いずれも参考※9:「青空文庫」を参照)等を参考にしながら書くと以下のようになる。
土井晩翠、本名:林吉(りんきち)は、1871年12月5日(明治4年10月23日)、仙台・北鍛冶(かじ)町(現・宮城県仙台市青葉区木町通2丁目)の旧家・土井(つちい)家の長男として生まれた。(本来姓は「つちい」だったが選擧人名簿には「ド」の部にあるので、昭和初期に「どい」と改称したことが「「雨の降る日は天気が悪い」序」(※9参照)に書かれている。
父は、和歌や俳諧をたしなむような教養人で、林吉もその影響から読書好きの少年として育つたようだ。
晩翠の筆名は(そう)の詩人范質(はんち)の詩句「遅遅澗畔松・鬱鬱含晩翠」(遅遅たる澗畔〔かんぱん。澗は、渓谷、谷川の意〕の松鬱鬱〔うつうつ〕として晩翠〔冬枯れの季節になってもなお草木の葉が緑色であること。また、その緑〕を含む)に由来するという。
仙台英語塾を経て、1888(明治21)年18歳で第二高等中学に入学、1894(明治27)年に帝国大学(現:東大)英文科に入学。同年末に結成された帝国文学会に加入しその機関紙である『帝国文学』の編集にも携り新体詩を発表。
1897(明治30)年に大学卒業後、1898(明治31)年にはカーライルの『英雄論』を春陽堂から翻訳出版し、翌・1899(明治32)年には、母校二高教授として帰郷。この年、第一詩集『天地有情』(※9参照)を博文館から出版。「星落秋風五丈原(ほしおつしゆうふうごじようげん)」など、漢語を駆使した悲壮・哀感漂う叙事詩をつくりだし、この詩集で島崎藤村(仙台の東北学院赴任中に執筆した『若菜集』で1897年に文壇登場)と並び称され、「藤晩時代」あるいは「晩藤時代」を築いた。
この晩翠絶好調の時期に東京音楽学校から中学唱歌用の歌詞を委嘱され、「荒城月」(のちの「荒城の月」)も作詩された。
作曲した滝との間に同校が介在したため、晩翠と滝が会ったのはたった一度だけしかないそうだ。
晩翠は、1901(明治34)年6月、私費で欧州遊学に出發し、英・佛・獨・伊を廻り、1904(明治37)年末、日露戰役(1904年2月8日 〜1905年9月5日)の最中に歸朝しているが、この時、ライプツィヒ音楽院に留学した滝が肺結核を患ったため帰国することになり、日本郵船の大型客船「若狭丸」に乗って、同船がイギリス・ロンドン郊外のティルベリー(テムズ川河口港)に寄港した際、姉崎正治と共に滝を見舞い最初で最後の対面をしたという。
晩翠は、帰国の翌年また二高に奉職して以来三十年英語教員を務め、1934(昭和9)年、二高を定年退職し名誉教授となる。
その間、第二詩集『暁鐘』(1901年)、第三詩集『東海遊子吟』(1906年)、などを刊行後、大正期はむしろ英文学者としての活躍がみられ、1924(大正13)年には、イギリスの詩人バイロン没後100周年を期して『チャイルド・ハロウドの巡礼』を翻訳刊行。
妻子に次々と先立たれたことで心霊学にも関心を示すようになり、1946(昭和21)年には財団法人日本心霊科学協会の設立に顧問として関わっている。1949(昭和24)年仙台名誉市民になる。
戦後占領期に漢詩調詩が廃れたため、校歌の作詞にほぼ専念し、母校の木町通小学校をはじめ、日本全国の非常に多くの学校の校歌を作詞している。
1950(昭和25)年に、詩人としては初めて文化勲章も受章している。1952(昭和27)年、急性肺炎のため死去した。

晩翠は、前にも述べたように、1899(明治32)年4月に、処女詩集『天地有情』(※9)を刊行し、この詩集によって、島崎藤村と並び称される詩人として、非常に高い評価を受けるようになった。また、晩翠は、東京帝国大学文科大学そして大学院で英文学の研鑚を積んだ英文学者でもあった。
そんな彼が、12月に、高知県出身の林八枝と結婚(八枝の兄は東京帝国大学英文科で晩翠の一年先輩であり、八枝が在学していた東京音楽学校=現・東京芸術大学音楽学部の研究生に滝廉太郎がいた。)し、1900(明治33)年1月、29歳の時に仙台に戻り、母校である(旧制)第二高等学校の教授となったのだが、晩翠にとって、この年は非常に大きな節目の年ともなった。
晩翠は、前にも述べたように、この年から、仙台の地で教師として、英文学者として、そしてまた詩人として、新たな一歩を踏み出すことなったわけである。
そして、仙台でも、詩を書いていくのであるが、この年から翌年はじめにかけて書いた詩を作品にまとめて、刊行した第二詩集『暁鐘』詩集が上梓(じょうし=出版)された時、詩壇の反応が全くなかったと、以下参考に記載の※12:「東北大学付属図書館報木遣子」にはある。
そして、ただその中で『暁鐘』にふれた唯一と言って良い評論・小山鼎浦(二高を経て、東京帝大文科哲学科卒業。早稲田・関西大学の教師、「東京毎日新聞」の記者を経ての評論家)が書いた「現今の新体詩家 土井晩翠」という評論で、晩翠の『暁鐘』を『天地有情』と対比しながらかなり強く批判しているらしい。
つまり、『天地有情』におさめられた諸作品を読んで、彼のこれからの詩品の大に発展せんことを待望んだが、東京を去って故郷の仙台で教鞭を執りながら、静かな読書に勤しむ生活を送っている。そのような中から生まれた作品が、読者の期待、待望を裏切るものとなってしまっていると言っているようだ。
言い換えると、仙台で作られた晩翠の作品は詩壇の要求を満たすものではもはやあり得ないといったことが、暗に語られているのだ。
第三詩集『東海遊子吟』(1906)が刊行された時にも、詩壇の反応は全くなかった。
雑誌『明星』に新詩社同人の名前で「土井晩翠氏に与ふる書」という長編の評論が発表されており、この評論の内容を大まかに辿ってみると、冒頭のあたりで日本の近代の詩の非常に急速な変化と進展の様を概括し、その上で1904(明治37)年末日本に帰国間もない晩翠に対して「足下が詩人として如何なる位地にあるかを自覚」せよと告げている。
これに続いて、後に『東海遊子吟』(1906年刊行)におさめられることになる作品について徹底した批判を加えて行く。
その批判の趣旨というのは、内容に関しては、陳腐で、平板、常識的であることを、具体的な作品を取り上げて繰り返し指摘。また表現に関しても、粗雑、単調であり、散文的であると言って、非常に痛烈な批判を行っている。
結論的に、この長い評論の最後の部分で、「而して思ふに、足下は終に詩人の資にあらざるなり」と言い。晩翠は詩人としての資質を欠いている、むしろ学者としてあるべきだといっている。そしてもし「足下猶詩人として日本の文壇に立たむと欲せば、足下、詩界の進歩に後るる十年なるを知らざるべかららざるべからず」と述べている。これはかなり厳しい批判であるが、一面で晩翠の詩の本質を突いていると言わざるを得ないのではないかと思う。・・・と言うのである。
このことは、以下参考に記載の※13:「久保忠夫氏の論文『土井晩翠と与謝野鉄幹』」にも詳しく書かれている。
そこでも、「土井晩翠氏に与ふる書」はもの言いは野卑のそしりを免れないが、いっていることは大体首肯出来る。学者の道を、というのも、早く三十一年三月の「帝国文学」の泰西(西の果ての意=西洋。または、西洋諸国)文学と新体詩が「彼〔晩翠〕が希以英仏独等諸文学に精通せる蘊蓄」と書いているように、博学であり、その運用に妙をえてもいた。
たしかに学者への道も選択肢の一つであり、また、詩界の進歩に十年後れているから、詩人として進むなら研究に精進せよというのにもいわれはある。・・・としている。詳しい事に、興味ある方は一読されると良い。

晩翠には気の毒な落ちになってしまったが、晩翠の評価が最も高かった頃の詩、「荒城月」は瀧廉太郎の曲と相俟って最高の名曲となっている。何度聞いても、飽き足らないので、最後に此の曲を聴いて、このブログを終りたい。
「荒城の月」の詩は、東京音楽学校が土井晩翠に懸賞応募用テキストとして依頼したもので、この詩に瀧廉太郎が、曲をつけて入選となった作品だが、メロディーだけで伴奏が無く、後に三浦環に頼まれた山田耕筰がピアノ伴奏を付けたものが今日歌われているものとされてる。
山田耕筰はロ短調から短三度上のニ短調へ移調、ピアノ・パートを補い、旋律にも改変を加えた。山田版は全8小節からテンポを半分にしたのに伴い16小節に変更し、一番の歌詞でいえば「花の宴」の「え」の音を、原曲より半音下げて(シャープをとって)いる。
戦前の中国(中華民國)と満州國、日本で歌手、女優として活躍(悲運の運命を辿ったと言ったほうが良い)した李香蘭(山口 淑子)が戦地慰問でかならず最初に歌ったという歌が、「荒城の月」であったといい、これは1942(昭和1)年古賀政男の編曲になるものだそうだ(※14)。

この歌は戦後、新東宝映画 谷口千吉監督「暁の脱走」(1950年公開。 主演 山口淑子=李香蘭、池部良)に取り入れられ、You Tubeでも見ることができる。
彼女の本格クラシック的歌唱力は幼少時に奉天(現:瀋陽)に住むイタリア人オペラ歌手マダム・ポドレソフのもとで声楽を習い、日本では三浦環にも師事したといわれるだけあって、単なる美貌のアイドルスターの歌ではなく、とても素晴らしいものだ。
私は、若い頃から彼女の歌の大ファンである。是非この曲をきいてください。映像は、戦時中の慰問の姿を自らが再現したともいえる場面である。
荒城の月 山口淑子 - YouTube
以下の曲はデューク・エイセスによるものである。これも味があっていいよね〜。
「荒城の月」歌:デューク・エイセス - YouTube
「荒城の月」が、国際的に普及したのは声学家(テノール)の藤原義江が、20代の時、1921(大正10)年、英国公演で絶賛され、米国ビクターの申し入れでレコード化(1925年)したことが大きいという。



(冒頭の画像は、土井晩翠。朝日クロニクル「週刊20世紀」1952年号31Pより借用)
参考:
※1: Kenji Bunko Literature
http://homepage2.nifty.com/~bunko/w/soukyokusyu.htm
※2:宮城道雄の世界
http://www.miyagikai.gr.jp/index.html
※3:うたごえサークルおけらの唱歌(年表)
http://bunbun.boo.jp/okera/w_shouka/shouka_sub1.htm
※4:Moto Saitoh's Home Page
http://www.geocities.jp/saitohmoto/index.html
※ 5:新体詩 とは - コトバンク
http://kotobank.jp/word/%E6%96%B0%E4%BD%93%E8%A9%A9
※ 6:『日本ペンクラブ電子文藝館』
http://www.japanpen.or.jp/e-bungeikan/
※7:日本の漢詩? 上杉謙信 【全日本漢詩連盟】
http://www.zen-kanshiren.com/article/contribution/kaichou_tsuushin/30.html
※8:宮城県のシンボル
http://www.pref.miyagi.jp/profile/symbol.htm
※9:青空文庫:作家別作品リスト:No.1081土井晩翠 
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person1081.html
※10 :范質(はん しつ)
http://juei.kakurezato.com/s-m-hanshitsu.html
※11:鶴田皓の遊学
http://www004.upp.so-net.ne.jp/t-t-aoba/yugaku.html
※12:東北大学付属図書館報木遣子(Adobe PDF)
http://tul.library.tohoku.ac.jp/kiboko/28-4/kbk28-4.pdf#search='%E5%9C%9F%E4%BA%95%E6%99%A9%E7%BF%A0%E6%B0%8F%E3%81%AB%E4%B8%8E%E3%81%B5%E3%82%8B%E6%9B%B8'
※13:久保忠夫氏の論文『土井晩翠と与謝野鉄幹』
http://www.geocities.jp/gendaibungakushi/kubotadao.html
※14:SP歌謡・回顧と展望:古賀政男と「荒城の月」
http://8315.teacup.com/spkikuchi/bbs/244
小さな資料室
http://www.geocities.jp/sybrma/index.html
童謡・唱歌 | 形式: CD
http://www.amazon.co.jp/gp/product/B00009QI0L?ie=UTF8&tag=worldfolksong-22&linkCode=as2&camp=247&creative=7399&creativeASIN=B00009QI0L
日本の旋律
http://kcpo.jp/info/butterfly/melody.html
暁の脱走 - goo 映画
http://movie.goo.ne.jp/contents/movies/MOVCSTD19550/index.html
暁の脱走
http://www.eiga-kawaraban.com/98/98070903.html
バンコク週報>生活文化コラム>李香蘭アジアの時代に
2003年: 1078号(1李香蘭の出現)〜1094号(17抗日運動)
http://www.bangkokshuho.com/archive/2003/oldcolumn/hada/enter.htm
2004年: 1095号(18)ゆれ動く心〜 1146号(69)李香蘭との別れ
http://www.bangkokshuho.com/archive/2004/oldcolumn/hada/04enter.htm
2005年:1148号(70「夜来香」リサイタル)〜 1157号(最終話山口淑子、その後)
http://www.bangkokshuho.com/archive/2005/oldcolumn/hada/05enter.htm
『李香蘭』DVD版(2007年)についてのページ
http://www2.komatsu-c.ac.jp/~yositani/rikouran.htm

どぶろくの日

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日本記念日協会(※1)で、今日の記念日を探すと「どぶろくの日 」があった。
記念日の由来をみると、「御園竹」「牧水」などの銘柄で知られ、長野県佐久市(旧望月町茂田井)にある明治元年創業の老舗の蔵元「武重本家酒造株式会社」(※2)が制定したもので、濁酒(どぶろく)の魅力を広めるのが目的。
日付は、どぶろくのシーズンが始まるのが10月下旬であり、10(ど)と26(ぶろく)で「どぶろく」と読む語呂合わせから。武重本家酒造株式会社では「十二六 甘酸泡楽(じゅうにろくかんさんほうらく)」略して「どぶろく」という濁酒を販売している。 ・・・そうだ。
ここをクリックすると、”「十二六 甘酸泡楽」の秘密”のページへ入れるが、この造語について、以下のように記載がある。
昔からのどぶろくを現在の味覚に合わせた全く新しいおが、「十二六 甘酸泡楽」であり、「甘酸泡楽」の4文字は、「十二六」そのものを表現しており、妙にどぶろくに合った名前ではないかと自画自賛している。
そして、この甘酸泡楽は、
甘  米の甘味が十分に残り
酸  キリリとした酸味
泡  舌の上で弾ける炭酸ガスの泡も加わって
楽  口の中一杯に楽しさがひろがるお酒である。・・・ことを意味しているそうだ。
酒に使用する新米の刈り取りが9月の中旬から始まり、乾燥、脱穀、精米を順々に行って、どぶろくを仕込むと、10月下旬にどぶろくが出来上がる。商品名「十二六」にちなみ、10月26日を「どぶろくの日」として、その前後の金曜日を十二六の最初の発売日としている。・そうである。

私は、お酒が大好きで、若いころより、酒を飲みすぎ、今では肝臓を悪くし、医者からも飲むのを控えるように言われているが、私にとって、毎日のご飯代わりの晩酌だけは欠かせない。
よくま〜、あれだけ無茶飲みをし、悪友(飲兵衛仲間)などは、皆、飲み過ぎが原因で亡くなっているのに、私だけは、肝臓が真っ黒だといわれながらも、それでも、薬を飲みながら晩酌だけは続けていても生き残っているものだ。
飲兵衛仲間よりは、相当内臓が丈夫に出来ており、しかも、アルコールに強い体質だったのだろう。ただ、生きている限りは、何時までも大好きなお酒を楽しみたいものだから、何時、どんな場合でも、自分で決めた定量以上は絶対に飲まないよう自重はしている。
それから、酒が余り量は飲めなくなってきた50歳代になった頃から、酒をただガブガブ飲んで楽しむだけでなく、酒の器(酒器)や料理用の小鉢などを集めて、酒の場そのものを楽しむようにしている。
そんな趣味で集めた酒器は、私のホームページ「よーさんの我楽多部屋」のCorection Room>Room3:酒器類に展示しているので、興味のある人はi一度覗いてください。
我楽多ばかりだが、色んなものを数だけは持っている。骨董は酒器に始まり酒器に終わるといわれるが酒器には結構面白いものがありますよ。
そんなお酒大好き人間の私には、「どぶろく」も、かって飲んだことのある懐かしい酒でもあり、今日の記念日に興味を引かれ、これをテーマーとして書くことにした。
日本の酒税法では、飲んで酔いを催すアルコール分1%(1度)以上を含む飲み物(致酔飲料)を酒類(※3のここ参照)と総称するが、国によってはその基準を0.5%とするところもあるようだ。
日本古来の代表的な醸造酒で、「酒」といえば清酒をさし、またこれを日本酒ともいうが、これは、濁り酒=濁酒(だくしゅ)に対する語で、これを濾(こ)して澄明にした酒の意である。清酒は欧米でも人気があり英語でも“sake”で通用する。
濁り酒=濁酒は、発酵させただけの白く濁った酒で、一般には「どぶろく」のことを言っていることが多い。
どぶろくは、炊いた米に、米麹(こめこうじ)や酒粕に残る酵母などを加えて発酵させることによって造られる日本酒(清酒)の原型である。
非常に簡単な道具を用いて家庭で作ることも可能である。しかし、日本では、酒税法によって許可なく酒類を製造することは禁じられる(酒税法7条1項、8条、54条1項)が、このことは、また、最後に書くことにする。
一体お酒といわれるものが日本列島に住む人々によって造られて飲まれ初めたのはいつ頃からであろうか?
神話の時代(神武天皇の在位する以前までの時代)より日本の酒の成立ちをたどると、日本の酒についての記事が文献上に初めて登場するのは、弥生時代後期、3世紀前半に書かれた『三国志魏志東夷伝魏志倭人伝)であり、同書は倭人の習俗について以下のように書いている(※4:「三国志魏書 東夷伝」の中の魏志倭人伝 私注の習俗を参照)。
・「其會同坐起、父子男女無別。人性嗜酒」
通釈:(倭人が)集まる時、親子・男女の区別はない。(倭)人は酒が好きである。
・「其死、有棺無槨、封土作冢。始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒。已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐。」
通釈:人が死んだ時は、"棺は用いるが槨は使わず、土を盛って冢を作る"。始めの十日ほどは喪に服し、肉を食べず、喪主は哭泣(こっきゅう)するが、他の者は歌い、舞い、酒を飲む。埋葬が終わると、その家のものは皆、”練沐”のように水中で禊をする。
補足1、"棺は用いるが槨は使わず、土を盛って冢を作る"の槨とは棺の外箱であり、このことは以下参考※:※5:「倭国の相貌/放言集/魏志倭人傳私注/有棺」無槨を参照されるとよい。
補足2、練沐(れんもく)は練り絹を着ての沐浴のようである。

このように、この当時すでに酒を飲む風習があったことを述べてはいるが、ただ、その酒が米の酒なのか、また、液体か、かゆ状のものか、他の穀類、果実から造られた酒なのかは不明であるが、酒と宗教が深く関わっていたことを示すこの『三国志』の記述は、酒造りが巫女(みこ)の仕事として始まったことをうかがわせる一つの根拠ともなっている。
手持ちの『週間朝日百科 日本の歴史36』1−77Pには、以下のようなことが、書かれていた。
青森県は、縄文前・中期の円筒式土器文化ばかりでなく、縄文時代晩期の亀ヶ岡文化においても中心的な地域であった。
つがる市亀が岡遺跡より発見された亀ヶ岡式土器は、漆を利用、半浮き彫りを多用した文様、それに変化に富んだ器形に見られるように、工業的水準は極めて高いが、注口土器はその中でも代表的なものであり、その中身は果実酒であったと思われる。ヤマトブドウマタタビなどからはエキスが5分の1くらいしかとれないため注ぎ口を低くつけている。・・・と。

そして、上掲の画像(岩手県立博物館蔵)が添えられていた(亀ヶ岡遺跡で発見された注口土器は以下参考の※5を参照)。
又、これより前の長野県茅野市にある井戸尻遺跡群の一つ、藤内遺跡から出土した多くの土器のなかから発見された大型で膨らみのある「半人半蛙文 有孔鍔(つば)付土器」には口縁部に内壁を貫通する小孔が列状に20個ほど空いており、壷の内部に黒色変化があること。
さらに中にヤマブドウの種子と思われる炭化物が発見された例があることから、おそらく内容物は液果酒(主にヤマブドウやサルナシの実などを使用し、土器内ですり潰し野生酵母によって醗酵させた酒)で、酒造具として祭祀用に使ったと考えられ、小孔は醗酵過程で生じたガスの排出口であると推定されているようだ。
エジプト神話における水の女神ヘケトは、蛙そのものか、蛙の顔をした女性の姿をしており、多産と復活を司るとされているが、元々古代エジプトにおいて蛙はその姿から胎児の象徴であり、また多くの卵を産むことから多産の象徴でもあったそうだ。
以下参考の※7:「縄文土器 これこそ世界遺産!」には、井戸尻考古館所蔵の有孔鍔(つば)付土器の多くの画像とその解説をしているが、その中の“井戸尻考古館 北杜市埋蔵文化財センター 縄文の女神”にもあるように、縄文人も、この土器の中で醸される、神秘な飲みもの、酒は、女神がその体から産出してくれるのだと感じ、この土器で、酒を醸して飲む祭りを行なうたびに、その酒による若返りの奇蹟、再生の奇蹟を味わった。
死と再生を無限に繰り返す蛙神、女神、万物を産み養い育ててくれる女神の不思議な力。・・・を信じてこの土器を主導具として使っていたのだろう。
これら有孔鍔付土器は縄文中期に盛行し関東地方を中心に分布するが、縄文中期終末には消滅し、末期には先に述べた注口土器に代わっている。
同じ縄文中期まであったと思われているもうひとつの酒が、堅果(果皮が木質か革質で堅い果実。クリ・カシ・ナラなど)や雑穀などで造った「口噛み酒」といわれるものである。
「口噛み酒」は加熱した穀物を口でよく噛み、唾液の酵素ジアスターゼ〔アミラーゼ〕)で糖化し、野生酵母によって発酵させるという最も原始的な方法を用いていた。
この「口噛み酒」のことは『大隅国風土記』に明記されている(ここ参照)という。
この「口噛みの酒」の記載が『古事記』『日本書紀』では見られないが、『記・紀』が書かれた8世紀に口噛みの酒の記載がないのは、原料は必ずしも米に限らず、アワ・ヒエ・トウモロコシ等すべての雑穀が原料であり、米での酒造りは日常行われていなかったからではないか・・・。
酒を造ることを「醸(かも)す」というが、この語源は「噛む」によるといわれているが、異説もあり、農業博士の住江金之は著書『酒』(西ヶ原刊行会)にて、これらは別系統の言葉であると指摘、「醸す」は「かびす」から転じたものであると分析している(『世界の酒日本の酒ものしり辞典』 外池良三、東京堂出版)そうだ。
私たちが現在飲んでいるような、米を主体としてお酒が米から造られるようになるのは、縄文時代以降、弥生時代にかけて稲作、とりわけ水稲の耕作が渡来定着した後のことであろう。
この稲の実・米が主食として定着すると、当時の人々は雑穀を酒にした口噛みの方法で、ご飯からも酒を造ることを試みるようになる。
この「口噛み酒」は、わが国へは南方系の根菜栽培民族から伝わったと言われており、近年までアイヌの祭りや、沖縄本島や周辺の諸島で神酒として造られていた。
呪術神事に使われていたためか、口噛みをする役目は、穢れを知らない少女か、神に仕える巫女だった。中国ではこれを「ミキ」と呼び「米寄」の字を当てていたという。
次に、奈良時代(710〔和銅3〕年〜784〔延暦3〕年)の初期に出た民族誌『播磨國風土記』には、「神棚に備えた御饌(ミケ:米飯、神饌〔しんせん〕、御贄[みにえ]とも言う)が雨に濡れてカビが生えたので、これで酒を醸して神に捧げ、あと宴を催した」とあるようだ。
これは麹黴(コウジカビ)で酒が作れることがわかっていた証拠で、米を原料とする酒造りの出発点がここにある。こうして日本列島に、カビ利用の米の酒が定着するのである。
弥生時代に始まった稲作農耕は、やがて生産の主体となり、階級社会が生まれ、地域単位の小国家があちこちに出来、7世紀には全国を統一した大和朝廷が成立する。
文化的にも天皇主導の歴史書『古事記』と『日本書紀』などが相次いで世に出、さまざまな酒の記述が見られ、各地で酒造りが始まっていたことがわる。「サケ」は、「キ」「ミキ」「ミワ」「クシ」などとさまざまな呼ばれ方がされていた。
古代の酒は、標準的には、出雲や博多に現在も残る練酒(ねりざけ)のようにペースト状でねっとりとしたものであったようだ。現在でも、皇室における新嘗祭(にいなめさい)では、このような古代の製法で醸造した白酒(しろき)、黒酒(くろき)という二種類の酒が現在も伊勢神宮宮中で造られ供えられる。
延喜式』によれば、白酒は神田で採れた米で醸造した酒をそのまま濾したものであり、黒酒とは、白濁した白酒に、久佐木と呼ばれる草を蒸し焼きにし、その灰をまぜこんで黒くした酒(灰持酒)だそうである。
これは、黒みがかった古代米で造った古代の酒の色を伝承していくための工夫の結果であろうと考えられている。
今日では、清酒と濁酒(どぶろく)の組を白酒・黒酒の代用とすることも多いようだ。かつて、神酒は神社もしくは氏子が自家醸造していたが、現在は酒税法の規制があるため、伊勢神宮のように清酒の醸造免許や、税務署からのどぶろくの醸造許可を得ている神社も存在する。
清酒(せいしゅ)は、やがて、高野山の「天野酒」(あまのさけ)、奈良、平城の『菩提泉』に代表されるような平安時代以降の僧坊酒にその技術が結集されていくことになる。
数ある僧坊酒の中で、奈良の寺院が造った「南都諸白(なんともろはく)」は室町時代に至るまで長いこと高い名声を保った。
諸白とは、現在の酒造りの基礎にもなっている、麹米と掛け米の両方に精白米を用いる手法で造られた透明度の高い酒、今日でいう清酒とほぼ等しい酒のことを、当時の酒の主流をしめていた濁り酒(にごりざけ(発酵させただけの白く濁った酒。もろみ酒、濁り酒。どぶろく)に対して呼んだ名称であり、江戸時代以降も「下り諸白」などのように上級酒をあらわす語として使われた。
また、この『菩提泉』をもって日本最初の清酒とする説もあり、それを醸した奈良正暦寺には「日本清酒発祥之地」の碑が建っている。

上掲の画像は、正暦寺の日本清酒発祥之地の碑である(画像はWikipedia日本酒の歴史より借用)。
平安時代中期から室町時代末期にかけて、奈良菩提山正暦寺で産する銘酒『菩提泉』を醸す菩提酛(ぼだいもと)という酒母や、今でいう高温糖化法の一種である煮酛(にもと)などの技術によって優れた清酒を醸造していたが、この時代の清酒は量的にも些少であり、有力貴族など極めて限られた階層にしか行き渡らなかったと考えられる。

日本酒は、中世の末までにいちおう濁り酒から今日でいう清酒への移行を完了したと考えられるが、だからといって、これ以後に、濁り酒がなくなるというわけではないし、清酒も今日の清酒とほぼ等しい、酒(諸白)と同じものというわけでもない。
当時の清酒は、一般的には諸白より格下の、麹米は白米だが、掛米(※9参照)が玄米のまま仕込んだ片白(かたはく)や、麹米も掛米も玄米のまま仕込んだ並酒(なみざけ)が主流であったため、ほとんどの清酒はまだ玄米の持つ糠が雑味として残る黄金色がかった、今日の味醂(みりん)のようにこってりした味であったと考えられているようだ。
京方面から「くだり酒」として江戸へ送られたことは良く知られているように、効率的に清酒を大量生産する製法が開発され、酒が本格的に一般にも流通するようになったのは、江戸時代になってからのことである。
濁り酒は、農民たちが自家で製するどぶろくを含めて、清酒よりも安価で手軽な格下の酒として製造、流通されつづ、大衆化・庶民化していった。
米粒や麹、酵母がそのまま入っており、甘酸っぱい味で、腹もちもよく庶民の酒として愛飲され、明治末年には2万石近くの消費があったという。
「どぶろく」(濁り酒、濁酒)の語源は定かではないが、平安時代以前から米で作る醪(もろみ)の混じった状態の濁酒のことを「濁醪(だくらう)」と呼んでいたのが訛って、今日の「どぶろく」になったと言われるが、「どぶろく」は、米を使った酒類では最も素朴な形態であり、家庭でも簡単に作ることができるが、違法行為(酒税法違反)であるため、転じて密造酒の別名としてこの言葉が用いられることもある。
このことから隠語で呼ばれることも多く、「どぶ」や「白馬(しろうま)」、溷六(どぶろくまたはずぶろく)といった呼び方も地方によっては残されているようだ。なお、「溷六」と漢字で書くと、“泥酔状態にある酔っ払い”のことを指す別の言葉にもなることは、国語辞書などにも載っている。
どぶろくで酔いつぶれる人が多かったのは、盛んに発酵したばかりの酒なので、酵母がまだ生きており、非常に活性の高い酒であること。ぴりぴりと炭酸ガスを含んでいるため胃や腸が刺激され、アルコールの吸収が速いこと、などが理由とされている。
いずれにせよ、戦前生まれの飲兵衛さんには、酒が大いに不足した戦後の混乱期に、こっそり楽しんだ経験をお持ちの方もおられるのでは・・・。
先の第二次世界大戦中は食料の不足で酒どころでは無かったが、終戦になると抑えられてきた欲望が一度に噴出してアルコールへの執着がいっそう高まったかにみえた。
昼間は食べものや雑貨などが主流の闇市も夜になると酒を扱うところが断然増える。
その酒もバクダンと称する妖しげな酒など様々だったが、密造のどぶろくは根強い人気を保っていた。警察も黙っていたわけではなく、しばしば手入れを行なった。
しかし、ピーク時の1950(昭和25)年には、密造酒の生産量は世紀の酒類のそれを上回り、手入れとヤミ酒のいたちごっこが続いた。
無免許での酒の醸造はご法度であり、密造は今も犯罪である。だが、かっては、味噌、醤油同様、どぶろくも勝手に造ることが出来た。どぶろく醸造が禁止になるのは、1899(明治32)年である。
取り締まりは厳しく、 日露戦争後は一層強化された。
国家収入の30%以上を占める酒税の徴収をさらに拡大し、膨れ上がる一方の軍事費を捻出する必要があったからだ。

上掲の向かって、左画像は、1945(昭和20)年か1946(昭和21)年撮影で東京の尾久署が密造部落を襲って押収したどぶろく。右画像は、1950(昭和25)年の東京・大森のゴミ捨て場の飲み屋。写真はアサヒクロニクル『週刊20世紀』ぜいたくの100年号。30p、同誌ふるさとの100年。裏表紙の巻末コラム郷愁の飲み物どぶろくを求めてより)

このどぶろくの醸造禁酒は農民にとっては大変な打撃であった。楽しみを奪われたうえに高い酒をわざわざ買わされるはめになったからだ。
ところで、自家用の酒を自分で造る権利を国家は一方的に抑圧できるのだろうか。反骨の思想家前田俊彦は1981(昭和56)年「自分の飲む酒を自分で造ってどこが悪い」と公然と、どぶろく造りを始め、正々堂々造ったとどぶろくを客にふるまっていた。
そして、ご丁寧に、自宅での利き酒会には国税庁長官にも招待状を出した。
自宅の瓢鰻亭(ひょうまんてい)にやって来たのは、国税局の役人30人だった。周りは、機動隊100人に取り囲まれた。
結果的には、1985(昭和60)年に、酒税法違反で起訴され、「どぶろく裁判」として知られる裁判闘争となる。
5年半に及ぶ裁判の末、最高裁は「酒造りの自由の制約は合憲」との判断を示し、30万円の罰金が確定した。

今でもどぶろくについての規定がなく、密造に通じるので、製造は許されていない。例外として神事用に神社で少量の製造が許される場合がある。
なお、現在市販されている「濁り酒」「白酒(しろき)(白貴)」などは、清酒もろみの中の蒸米や麹の粒を細かく砕いて目の粗い布等で濾す「活性清酒」(※9参照)として商品化されているもので、酒税法上は清酒に属している。
澄んだ清酒とはひと味違う濃厚かつ芳醇などぶろくの風味を味わうには、岐阜県・白河郷の神社(5ヶ所の神社)など各地にわずかに残るどぶろく祭りにでも出かけるほかないが、豊穣祈願などの宗教行事や地域産品としてのどぶろく造りでは、地域振興の関係から、2002(平成14)年の行政構造改革によって、構造改革特別区域が設けられ、同特別区内でのどぶろく製造と、飲食店や民宿等で、その場で消費される場合に限り、販売も許可されており、(通称「どぶろく特区」と呼ばれる)本物のどぶろくを飲めるところが徐々に増えているのは、酒好きの人には嬉しいことだよね(^0^)。

(冒頭の画像は、農文協 前田俊彦著「ドブロクをつくろう」)
※1:日本記念日協会
http://www.kinenbi.gr.jp/index2.html
※2:武重本家酒造株式会社HP
http://www.takeshige-honke.co.jp/
※3:国税庁>お酒に関する情報
http://www.nta.go.jp/shiraberu/senmonjoho/sake/sake.htm
※4:三国志魏書 東夷伝
http://www.geocities.jp/thirdcenturyjapan/gisi-toi.html
※5:倭国の相貌/放言集/魏志倭人傳私注/有棺無槨
http://members3.jcom.home.ne.jp/wakokunosobo/hougen/gishiwa/kankaku.html
※6:青森・亀が岡遺跡
http://inoues.net/ruins/3naikamegaoka.html
※7:縄文土器 これこそ世界遺産!
http://jomontaro.web.fc2.com/page052.html
※8:正暦寺公式サイト
http://shoryakuji.jp/
※9:四季桜-日本酒雑楽(宇都宮酒造)
http://www.shikisakura.co.jp/zatugaku/zatugaku.top.htm
菊水酒造・日本酒物語
http://www.kikusui-sake.com/home/jp/fun/story/001.html
SSI net:日本酒の歴史
http://www.sakejapan.com/index.phpoption=com_content&view=article&id=32&Itemid=50井戸尻考古館」ホームページ
http://www.alles.or.jp/~fujimi/idojiri.html
比較文化史の試み 723
http://www2.ttcn.ne.jp/kobuta/bunnka8/b723.htm
アルコールについて | 医療知識 | 保健センター
http://www.hit-u.ac.jp/hoken/knowledge02.html
どぶろく - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%A9%E3%81%B6%E3%82%8D%E3%81%8F

犬の日

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日本記念日協会の今日・11月1日の記念日を見ると「 犬の日」があった。
記念日の由来を見ると、“11と1で「ワンワンワン」と読む語呂合わせから、2007年12月8日にロードショー公開の映画「マリと子犬の物語」(東宝株式会社)と、2008年3月にロードショー公開の映画「犬と私の10の約束」(松竹株式会社)が制定。2作品とも犬が主人公の感動の作品。”・・とあった。

種としてのイヌ(犬、狗。Yahoo!百科事典も参照)は、食肉目イヌ科哺乳類である。
広義には、広くイヌ科に属する動物(イエイヌ、オオカミ、コヨーテ、ジャッカル、キツネ、タヌキ、ヤブイヌ、リカオンなど)の総称である。
しかし、人間にもっとも早く飼いならされ、家畜化された種であり、狭義には、一般にイヌ科の家畜種である現在のイエイヌのことをイヌと言っている。
現在も、ネコ(猫、 Felis silvestris catus), と並んで代表的なペットまたはコンパニオンアニマルとして、広く飼育され、親しまれている。
野生化したものを野犬(やけん)といい、日本語ではあたかも標準和名であるかのように片仮名で「ノイヌ」と表記されることも多いが、分類学上は種や亜種としてイエイヌと区別される存在ではない。
現在、ジャパンケネルクラブ (JKC) では、国際畜犬連盟 (FCI) が公認する331犬種を公認し、そのうち176犬種を登録してスタンダードを定めており、世界全体では4億匹の犬がいると見積もられているようだ。血液型は8種類あるらしい(※1参照)。
イヌは単に野生の動物を捕らえて飼い慣らしただけのものではない。品種を異にするまで淘汰を重ね、その子孫もまた家畜として生まれてくるように改良されたものであり、その家畜がペットともなっているもである。
イヌの祖先については、食肉目イヌ科に属するオオカミとジャッカルから分化したという説、オーストラリアなどに生息するディンゴなど野イヌであるという説などがあったようだが、1990年代以降発展した分子系統学の知見によると、ほぼ間違いなくオオカミから分岐した動物と考えられており、分類上の位置づけとしてはタイリクオオカミ(Canis lupus。以下オオカミという)の一亜種とされているようだ(イヌの起源参照)。
従って、オオカミに似た形質を残してはいるが、家畜化(=馴化)の途上で人為淘汰(とうた)を受け、さまざまな品種が産み出され、形態に著しい差異がある(犬種については犬の品種一覧を参照)。
イヌがオオカミから分岐した(イヌが人間によって最初に家畜化された)時期については異なった見解が並立しているようであるが、考古学的遺物の研究から最古のイエイヌの骨であるかもしれないものとして、
シリア・ドゥアラ洞窟にあるネアンデルタール人の住居遺跡(約3万5千年前)、ムスティエ文化から発掘されたイヌ科動物の下顎骨(この下顎骨については、※2:「精神のエクスペディシオン」内、「東京大学展」や「ネアンデルタールとの出会い 洪積世人類遺跡調査」(赤澤威)で画像と解説を見ることができる。)。埴原和郎らが発掘。オオカミの下顎骨に比べて小さく、これを世界最古のイエイヌとする説がある。
又、ウクライナ・マルタ遺跡などで出土した、イヌ科動物の骨(※3)。 オオカミにしては小型。同じくウクライナのメジン遺跡(約3万年前)でもイヌの骨が出土している。など非常に古いものがあるらしいが、現在では、アイン・マラッハ遺跡など、前1万2千年ごろの西アジアのもの、あるいはドイツ・オーバーカッセル遺跡(Oberkassel, 約1万4千年前)から発見された、イヌまたは馴化されたオオカミの骨を「最古のイヌ」として挙げる資料が多いそうだ。
前1万2千年ごろは、中石器時代のナトゥーフ文化( Natufian culture※4 )初期に当たり、主要な狩猟具が石斧から細石器(小さな石のやじり)へと移行した時期である。狩猟の形態の変化が、イヌの利用と何らかの関わりをもつ可能性もあるという。
このことから全てのイヌの祖先が東アジアのオオカミから家畜化された動物で、これがその時代に移動生活を始めた人間とともに世界各地に移動して広がっていったと考えられているようだ。

ペットと家畜(実用的な理由に拠るもの)の歴史は古く、狩猟において助けとなるイヌや、農耕において害獣となるネズミなどを駆除してくれるネコやイタチのような小型肉食獣が珍重されていた。
特にイヌの場合は、はっきりした主従関係を好む習性から、家族の一員として扱われた歴史が長いとされる。
石器時代におけるイヌの墳墓(埋葬に際して添えられたと見られる花の花粉が見られたり、なんらかの食料の残骸が一緒に発見されるなどの特徴も見られる)も発見されている。
その一方で、所有物という概念もあったようで、殉死によって飼い主と共に埋葬されたと思われるケースも見られる。
欧米では、古来から現代まで王侯貴族や歴代大統領から一般市民の間で愛玩用、護衛用、狩猟用などとして飼われている。
ただ、古くは家畜とペットの境界は曖昧で、飼育する側の社会的地位によって、その境界は更に曖昧な物であった。
今日では多くの国で愛玩用または訓練されるイヌであるが、日本でも一般的な食用動物として見なされていた時代があった。

それでは、古い時代の日本人はどのような動物にどのような関心を抱いてきたのだろうか。
私の蔵書『週刊朝日百科:日本の歴史71動物達の日本史』に面白い記事があったが、で要約すると以下のようなことである。
古代の8世紀から中世の14世紀に至るまでの幾つかの史書、地誌・歌集・説話集・物語に登場する名を調べて表にしてみると、この当時の日本人に一貫して親しまれた哺乳類は、ウシ・ウマ・イヌ・シカ・イノシシ、キツネ・サルおよびネズミだったそうだ。そしてこれらの動物がキツネとネズミを除いては埴輪に造形された哺乳類と一致する。この中にもっと多く表れてよいと思われるのに以外に出現頻度の低い動物がネコ、タヌキ、カモシカなどがいる。このような事実は古い時代の日本人の動物感を反映している。
それは『日本書紀天武天皇4年4月17日(675年)のいわゆる肉食禁止令に見られる。以下がそのときの詔である。
「庚寅、詔諸國曰、自今以後、制諸漁獵者、莫造檻穽、及施機槍等之類。亦四月朔以後、九月卅日以前、莫置比彌沙伎理・梁。且莫食牛馬犬猨鶏之宍。以外不在禁例。若有犯者罪之。」(日本書紀巻第廿九)・・・(※5:日本書紀参照)
これを見るとわかるように、肉食禁止の対象は、ウシ・ウマ・イヌ、サル、ニワトリに限定されている。これは、埴輪として出土し、又、表の諸書に多く出る動物と禁制対象の動物との対応が印象的であり、シカとイノシシを除くと、そのまま食禁哺乳類のリストとなる。
このことからも分かるように、古代日本人の関心を最も強く引き付けた哺乳類は、家畜のウシ、ウマ、イヌ、人もどきのサル、および食用に最適のシカ・イノシシに3分されていた。尚、シカとイノシシは、山神の動物形態としても有力だろう。
古事記景行記でヤマトタケルを苦しめた足柄の坂本のシカ、伊吹山のイノシシはいずれも山の神である(※6参照)。


上掲の画像は、「イヌの埴輪」、東京国立博物館蔵。
これら動物の埴輪の製作意図は動物の種類によって多少異なるが、いずれも広い意味で、宗教儀礼に用いられたことは間違いないようだ。
特に、これら哺乳類のイヌはについて言えば、縄文時代に、すでにイヌはヒト(人)の狩猟を助けていた。
それは弥生時代銅鐸からも明らかである(以下の画像参照)。又恐らく警備にも利用されていただろう。

上掲の画像は袈裟襷紋(けさだすきもん)銅鐸の動物の図とイノシシを狩る場面。(右下)。数等のイヌがシカを取り巻いている。(画像は東京国立博物館蔵。画は『週刊朝日百科:日本の歴史71動物達の日本史』より)

ただ前に紹介した天武天皇4年の詔は五畜の肉食を禁じているが、恒久的なものでなく、期間が4月1日から9月30日までの農繁期に限定されており、裏を返せば農閑期は肉食を行ってもまったく問題がなく、また農繁期であっても五畜以外の動物の肉は食べてもよいということである。したがって、この肉食禁止令は仏教に基づく肉食禁止ではない。
日本人の食肉習慣を見ると、ウシ、ウマ、イヌは、食肉以外の目的に有用であるからこそ 屠殺を禁止されたものであろう。つまり、明治以前の日本人は食用のために特定の家畜を定めることなく、むしろ野生獣を捕らえて屠食していたことになる。
このような犬食の習慣は日本を含めた東アジア、東南アジア及びハワイ、ポリネシア、ミクロネシア、オセアニアなどの島嶼(とうしょ)に於いて多く存在したことである(肉食文化参照)。
しかし法令(「生類憐れみの令」)や宗教的な理由から獣肉を食べる習慣が日本では次第に廃れたことから、今日の日本ではイヌを食用と見なす習慣はない(犬食文化の項を参照)が、犬食は日本でも戦後しばらくまで一部の地域で行われており、神戸でも一部の地域では「赤犬(毛色が茶〜赤のイヌの俗称)は旨い」といって食べていたところがあると子ども時代に噂話として聞いている。
今、愛玩犬として人気の高い中国原産のチャウチャウも、もともとは食用のために作られた種類であった。

ところで、中世や、近世での、イヌやネコの飼い方はどうだったのだろう。
日本には、元来ネコ(イエネコ)が存在していなかった。日本へネコは、奈良時代ごろに古代中国古代朝鮮から、仏教の伝来とともに経典を守る益獣として輸入されたという説が有力のようだ。
従って、愛玩用というよりも益獣として輸入された猫ではあるが、平安時代には、貴重な動物として貴族達の間で猫がかわいがられ、平安時代の『源氏物語』や、鎌倉時代の『石山寺縁起』などの絵巻物を見ると、猫が逃げたり、盗まれたりしないように、首に縄をつけ、紐に繋いで飼っていた。

上掲の画像は紐につながれている猫。石山寺縁起より。石山寺蔵。(画像は、週刊朝日百科「日本の歴史別冊・史実と架空の世界」より借用)

江戸時代初期の1602(慶長7)年には猫にとって画期的な法令が出た。すなわち猫を綱でつないで飼うことが禁止された。目的は、鼠退治の為である。これは「猫のさうし(草子)」という御伽草子(※006、007にもなった有名な事件であるが、このあたりから、猫の放し飼いがされるようになったようである。このことは、私の前のブログ「招き猫の日」でも詳しく書いた。
色々な変遷があり、世界各地で猫が飼われるようになっても、人が猫に求める最大の役割は、狩猟本能を利用した「鼠退治」だったので、犬のようにさまざまな目的のために改良されることはなかった。そのため、猫は今も野生的な性質を存分に残しているといわれる。

上掲の図、向かって右:『年中行事絵巻』から、12世紀末、個人蔵。左:粉河寺縁起12世紀末。粉河寺蔵。(いずれもともに週刊朝日百科「日本の歴史別冊・歴史の読み10 方史実と架空の世界」より借用)。

猫同様に、犬も都市に必須の動物だ。『猫のさうし』で放し飼いになった猫に猛然と襲いかかったのは犬たちであった。
中世の絵巻物などに描かれている犬は殆ど放し飼いであった。たとえば『年中行事絵巻』に描かれた人に吠えかかる犬や、闘鶏の鶏に吠え掛かる犬など(上掲の画像向かって右参照。なお、粉河寺縁起の原画は参考※9の2−cで総て見られる)。『粉河寺縁起』第一段の猟師の家の庭の赤い首輪を付けた犬を見ると良い(上掲の画像:向かって左参照)。放し飼いだ。赤い首輪は狩猟の際に目印になる。それに鈴を付けている場合もある。

上掲の画像右:『江戸名所図屏風』から。出光美術館蔵。左:「南蛮屏風」から17世紀前期。神戸市立館蔵。(画像は、いずれもともに週刊朝日百科「日本の歴史別冊・歴史の読み10 方史実と架空の世界」より借用)

近世でも繋がれていない犬が多かった。でなければ、『猫のさうし』にあるような、放し飼いになった猫に襲いかかることは出来なかった。
その限りでは犬の飼い方は中世(鎌倉時代・室町時代)と近世(安土桃山時代・江戸時代)ではあまり違わなかった。だが、注意したいのは近世に於ける犬のペット化の進行であった。それに伴って犬を首綱で引いている場合や家の中で犬を飼う場合が多くみ見られるようになる。
また、都市化の進行で、人に吠え付いたり、噛み付く犬を繋いでおく必要が高まったろう。例えば、『江戸名所図屏風』(※10)の浅草寺境内で、赤い首綱で引かれている犬の姿がある(上図右参照)。
こうした首綱で犬を引く姿は、恐らく南蛮人のそれを真似た可能性があることに注意したい。それほど南蛮人と犬は日本人の関心を集めたらしい。
そこで、『南蛮屏風』(鹿島出版会)に収録されている『南蛮屏風』に描かれている犬たちを見ていると、南蛮人の連れている犬は、すべて首綱でつながれている。南蛮人のこうした犬に首綱をつけて歩く姿を日本人が真似た可能性が大きい。
つまり、中世では猫は首輪でつながれ、犬は放し飼いだった。近世では、猫は放し飼いになり犬を首綱でつないで飼うような飼い方が増加した(犬は基本的には放し飼いであったが)。
このように見ると、現在の都市生活での我々の犬と猫の飼い方と中世のそれでは全く正反対であったこと、現在のそれが近世社会の飼い方の延長線上にある事が判る。

現代は、猫と共にペットとして飼われている犬が多くなり、2010(平成22)年9月の内閣府による動物愛護に関する世論調査(※11参照)によると、ペット飼育の好き嫌いでは、「好き」とする者の割合が72.5%、「嫌い」とする者の割合が25.1%となっており、前回の調査結果(平成15年7月調査)と比較して、「好き」(65.5%→72.5%)とする者の割合が上昇し、「嫌い」(31.7%→25.1%)とする者の割合が低下している。
又、家庭で犬や猫など、ペットを飼っているかどうか聞いたところ、「飼っている」と答えた者の割合が34.3%、「飼っていない」と答えた者の割合が65.7%となっており、前回の調査結果と比較してみると、大きな変化は見られない。
そして、ペットを「飼っている」と答えた者に(666人)に、どんな動物か聞いたところ,「犬」を挙げた者の割合が58.6%と最も高く、以下、「猫」(30.9%),「魚類」(19.4%)などの順となっている。(複数回答、上位3項目)。
今日では、ペットは、家族として、パートナーとして、仲間として人の暮らしに密接に関わり、心を癒してくれたり、あるいは愛玩されたり、共生するなど、様々な面を持った存在となっている。
近年では、生命全般を大切にする思想も普及してきており、動物であっても無下に扱う事を忌避する人々は増えている。
古来、日本人が仏教的な輪廻転生の思想や「鳥獣すらなお道を知る、いわんや人間は・・・」という儒教的道徳観から、人と動物の関係は優劣のない一体のものと見てきた。

上掲の図は、近世末期の犬の墓。(白金館址遺跡調査団提供。画像は、週刊朝日百科「日本の歴史別冊・歴史の読み10 方史実と架空の世界」より借用)。
上掲の画像は、近世末期の犬の墓であるが、このように、イエイヌの死体を人の葬送のように、墓を設けて葬った例はすでに縄文期にもあった。それは、個々人の愛情によるもので制度として行われているものではない。しかし、近世に都市が発達し、警備や愛玩のために多くの市民がイエイヌを養うようになると、その死に際し寺院で人に類する葬儀を営んで埋葬し、墓碑を建立するものも少なからず出た。江戸郊外にもいくつかそうした墓が存在し、現今のペット化がすでに犬猫にみられたことを立証している。

古くから人間と接してきた犬。現代ではペットの家族化も進んでおり、中にはペットに遺産を残したいと望む人さえもいる。
ペットを飼うことの長所としては癒し、孤独の解消、世話をする事によって(飼う側の人間に)育まれる興味や思いやりの心等が挙げられている。そして、近年、ペットを飼うことが、子どもの健全な心を育てることもわかっているそうだ。
そんな家族化しているペットの多くが最近危機に直面した。それが、阪神・淡路大震災、や昨年の東日本大震災などに遭遇し、震災した飼い主と離れ離れになり被災地に取り残された多くの哀れペットが多く出たことである。
今日の記念日の由来にある、映画「マリと子犬の物語」は、2004年10月23日の新潟県中越地震で大きな被害に見舞われた山古志村で、失意の被災者を勇気づけた奇跡の実話を映画化したもの。
地震の被害で全村避難となり、愛犬マリと3匹の子犬を村に残さざるを得なかった飼い主家族の苦悩と、孤立した村で生き延びエサもない中、我が子を懸命に守り抜く母犬マリの奮闘を描いた感動のドラマであった(※12参照)。以下でそのワンシーンが見れる。
マリと子犬の物語 – YouTube
神淡路大震災のときには、急きょ仮設住宅が建てられ避難命令が出されたが、傾きかかった自宅の中でイヌや猫と一緒に暮らしているお年寄りがずいぶんいた。東日本大震災でも同様の犬が数多くいた。
このような、動物と暮らす飼い主が災害時に備えるために何をしておいたらよいか。地震などの大災害のときに、自分の犬を救うために必要なものはなにか・・・これからペットを飼うときには、そのようなことを十分に考えて飼わなければいけないだろう。
又、ペットがもたらすメリットがある反面、ペットを物品のように扱い、「飽きたから捨てる」という考え方をする者の存在により、飼い主がこれら動物を野に放ち帰化動物を作り出してしまうという問題も、世界各地で発生している(日本の場合、今イヌだけでく、ペットとして飼われている動物の殆どと言っていいほど外来種が多いように思う)。
それに、躾の問題でもあるが、本人自身は可愛がっているつもりでも、隣近所に迷惑をかけている場合や、ペットにとっては、好ましくない可愛がり方をしている場合も多くあることだろう。
映画「犬と私の10の約束」は、作者不詳(実際には分かっているらしい)のまま広く世界に伝わっている英文の詩で、日本では「犬の十戒」として知られているものをモチーフとした本木克英監督による映画である。
私も犬は大好きなので、子どもの頃には家の近くを餌を求めてうろついていた野良犬(雑種犬)を拾ってきて飼っていたたが、戦後のことであり、家の周辺は焼け野原でもあったことから犬には、身元が分かるように首輪だけは付けているが、飼い方は放し飼いで、相手をしなくても一日中、家の近所でひとり?遊び歩いて、食時のときになるときっちりと決まった時間に帰ってきて犬小屋で寝ていた。
私が、公園や海へ泳ぎに自転車で行ったり、又、山に登るとき、公園で遊んでいるときには呼ばなくても勝手についてきていたが、特別に散歩として連れてゆくことはなかった。餌も私たちの食時の残り物を与えていたから、本当に世話と言うほどのことはしていかった。
この当時は、戦後の大変な時代であり、どこの親も食べるものを得るために、忙しく寸暇を惜しんで働いていたので、犬どころか、自分の子どもでも、食時以外は放任で特に面倒を見ることもなかった。放っておけば、子どもは子どもで、近所の子どもと勝手に遊んでいたし、犬もその近くで走りまわっていた。
それでも、子どもも犬も親や飼い主の言うことは良く聞き、いい関係を築いていたものだ。思い出せば、かえって雑種犬だからだろうか、なんでも教えたことは非常に覚えが早く、ウンチなども早くから決められた砂を入れた木箱の中にちゃんとしていた。
年をとって、自分の子どもも巣立ち、夫婦二人だけになると、家人なども私以外に世話をやくものも居らず寂しいものだから、犬を飼いたいといって、何度か話をしたことがあるが、昔のような放し飼いは出来ず、年取った者が毎日の散歩をさせるのも自信がないし、それよりも一番に、犬の寿命が短いので、死ぬのは犬か私たちかどちらが先になるか微妙なところで、情の移った犬が亡くなるのをみるのも悲しいし、私たちが先に亡くなり、犬だけが残ることになるのも可哀想だということで、結局は飼うのを諦めることになった。
今の時代に、ペットを飼うのはなかなか大変そうだが、飼う以上は、きっちりと躾もし、また、ペットのこともよく理解して飼わなくてはいけないだろう。
そういうことで、”ペットとして飼われることとなった犬と人間との望ましい関係”を作る上で、犬の十戒を実行するのはいいことなのだろうね〜。
犬の十戒
尚、犬についての総てはなかなか書ききれないので随分書きたいことを省略したが、詳しいことは、以下の参考に記載しているブログで詳しく書かれているので、そちらを見られると良い。
(冒頭の画像は、コレクションの映画「マリと子犬の物語」チラシ)
参考:
※1:イヌの血液型
http://imahome.fc2web.com/dog-ketuekigata.htm
※2:精神のエクスペディシオン
http://www.um.u-tokyo.ac.jp/publish_db/1997Expedition/
※3:松井章 「日本人と家畜 考古学から見た動物と日本人の歴史」http://www.kinrenju.jp/menu02/taikai_0910.pdf
※4:ナトゥーフ文化(1)農耕なき定住 - るいネット
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=43375
※5:日本書紀
http://www.seisaku.bz/shoki_index.html
※6:伊吹山 ー神話への旅ー
http://www013.upp.so-net.ne.jp/mayalibrary/niki/niki45.htm
※7:歴史家の見た御伽草子 『猫のさうし』 と禁制
http://ci.nii.ac.jp/naid/110004688378
※8:【大塚ひかりの古典にポッ】猫と鼠、因縁の始まり 御伽草子
http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/120821/wlf12082115110011-n1.htm
※9:粉河寺縁起
http://www.kyohaku.go.jp/jp/syuzou/meihin/kaiga/emaki/item05.html
※10:江戸名所図屏風 八曲一双 - 出光コレクション - 出光美術
http://www.idemitsu.co.jp/museum//collection/introduction/painting/genre/genre03.html
※11:動物愛護に関する世論調査(平成22年9月) - 内閣府
http://www8.cao.go.jp/survey/h22/h22-doubutu/index.html
※:12:マリと子犬の物語
http://fc.ccb.or.jp/tourism/product/mari.html
十 二 支 物 語;犬の話
http://www2.plala.or.jp/terahakubutu/jyuunisiinu.htm
日本における肉食の歴史
http://www.bunbun.ne.jp/~drhnakai/sub1-59.htm
イヌ
http://www.jttk.zaq.ne.jp/takasho/abc-052-dog.html
イヌ-Yahoo!百科事典
http://100.yahoo.co.jp/detail/%E3%82%A4%E3%83%8C/
イヌ - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%8C
コトバンクーイヌ(犬)
http://kotobank.jp/word/%E3%82%A4%E3%83%8C(%E7%8A%AC)
「中国語」としての漢字:「犬」と「狗」
http://www.jttk.zaq.ne.jp/takasho/abc-052-dog.html
アプラウト(母音交替) - 英語翻訳の通信講座ならDHC総合教育研究所 (Adobe PDF)
http://www.edu.dhc.co.jp/fun_study/howto/pdf/essay003.pdf#search='%E3%82%A2%E3%83%97%E3%83%A9%E3%82%A6%E3%83%88%EF%BC%88%E6%AF%8D%E9%9F%B3%E4%BA%A4%E6%9B%BF%EF%BC%89'
漢字Q&A(その7)
http://www.taishukan.co.jp/kanji/qa07.html
024 【脱線】動物の神と妖(あやかし)|猫の雑学|野良猫総合研究所
http://ryoquest.sakura.ne.jp/town/cgi-bin/town/patio212/game.cgi?mode=view&no=25
縄文時代と同じ頃の西アジア
http://www.um.u-tokyo.ac.jp/publish_db/2000dm2k/japanese/02/02-08.html
世界史テーマ研究 農耕の起源とドナウ文明
http://thaumazein.cocolog-nifty.com/blog/2011/06/post-4947.html
ペットたちに「感謝」する日- 今日のことあれこれと・・・
http://blog.goo.ne.jp/yousan02/e/7f3675e29c8f70d94b3af5d85ab12f8e

猫の日 - 今日のことあれこれと・・・
http://blog.goo.ne.jp/yousan02/e/9455856dc1a307620fa3ffcaf2c27456

信楽たぬきの日

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今日11月8日の記念日「信楽たぬきの日」は、全国の店先などで愛嬌よく商売繁盛に頑張っている信楽焼のの記念日である。
信楽焼で有名な滋賀県甲賀市信楽町の信楽町観光協会では、2008(平成20)年に、11月8日を「たぬき休むでぇ〜」と記念日 登録し、日頃の信楽狸の労をねぎらい、が休んでいる間に、狸以外の信楽のいいところにも目をむけようと「ほっとするたぬきの休日」事業を続けてきていたが、5年目を迎えた今年(2012年)、よりイメージアップを図ることを目的に「信楽たぬきの日」と名称を変更したものだそうだ。
日付は1と1が重なるいちばん良い月の11月と、信楽焼の狸の特徴である八つの縁起物の八相縁起から8日を組み合わせたものだという。

今、信楽と言えば、一般的には信楽焼の狸の置物で知られているが、信楽は朝鮮文化の影響を受けて、日本文化の中心として栄えてきた近畿地方の中心にあり、古代の主要道となっていたことや付近の丘陵から焼物に適した良質の陶土がでる土地柄であり、当時の天皇が宮を造営するには理想的な土地でもあった。
そのようなことから、長い歴史と文化、伝統的な技術によって今日に伝えられている信楽焼は、742(天平14)年、聖武天皇紫香楽宮造営の折に、瓦や須恵器を焼いたのが起源と云われているが、本格的に始まったのはやはり、平安末期から鎌倉初期であろうと言われている。信楽陶窯(陶磁器を焼くかま)の、窯址で発見された種壷などの日用雑記類は、ほぼ鎌倉末期から室町初期の遺品と考えられている。
生産は農家向けの壷や甕(かめ)、擂鉢(すりばち)などの日用雑貨が中心であった。それだけに気取らず仕事も丁寧であった。
茶人・村田珠光がこの“無作為の美“に目をつけ茶道に取り上げて珍重した(※1)。こうして桃山時代、農家の片隅に転がっていた信楽の各種の壷が脚光を浴びた。
種壷や茶壷が「蹲(うずくまる)」と呼ばれて花生に、油壷や酒器が花入れに、糸をつむぐ桛(かせ)を入れた苧桶(おおけ。※2参照)が「鬼桶」といわれて水指に・・といった具合であった。

上掲の画像はコレクションの酒器より古信楽の徳利。中に少し、酒が滲みて茶色く変色した景色が見える。

素朴さのなかに、日本人の風情を表現したものとして室町・安土桃山時代(戦国時代末期)に茶道が盛んになるに従い、多くの茶人が信楽を用いた。
一休和尚に師事した武野招鷗も信楽製を茶器に使い、弟子の千利休も好みを陶工に焼かせた。武野紹鴎が作らせた物は紹鴎信楽、千利休が作らせたものは利休信楽と呼ばれている。
寛永(1624年から1645年)以降は、宗旦小堀遠州本阿弥光甫(本阿弥光悦の孫)、野々村仁清有来新兵衛とそれぞれ信楽の焼物を茶器に利用した(『やきもの辞典』光芸出版編)。
このように、信楽は一旦茶道具の生産に踏み切ったが、信楽を愛した千利休の死(天正19年=1591年)後、需用が減った。
また、江戸時代、商業の発達にともない文化文政(1804-1830)の頃から、本来の日用雑貨作りに再び転進。登窯(窖窯〔あながま〕)によって、茶壷をはじめ多種多様な生活雑器を量産するようになった。
信楽焼は古くから特に茶壷で有名だが、これは古くからこの町にお茶が栽培されたので、技術的に優れたものがあったからである。江戸中期には、宇治から将軍家へ献上するお茶の茶壷を頼まれ、天下にその名を高めた。
しかし、山一つ隔てた伊賀焼では茶陶を中心に焼いていたが、信楽焼は生活雑器が主流となり、江戸後期には、ビードロ釉(松灰に長石を少量混合した釉で、青緑色あるいは黄色に呈色する)や、なまこ釉(二重に釉掛けする藍紫色を主体とする失透釉〔光沢はあるが透明でない釉薬〕)などのさまざまな釉薬が用いられるようになった。
明治時代には、新しく開発された「なまこ釉」を使った火鉢生産がはじまり、大正時代から第二次大戦前までは、熱に強く、保温性に優れた信楽焼の火鉢が人気となり主力商品となっていたが、現在では生活に根ざしたタイル・花器・食器・置物等、土の持つ味わいを生かした製品が作られている。中でも「狸」の置物は信楽の代名詞となるほど有名である。
信楽焼の特徴は、土中の鉄分が赤く発色する火色(緋色)や、登窯(窖窯〔あながま〕)窯のなかで炎の勢いにより器物に灰のふりかかる、灰かぶりの現象による自然降灰釉(ビードロ釉)の付着、また、薪の灰に埋まり黒褐色になる「焦げ」も含めた、炎が生み出す独特の焼き上がりにあるといわれている。

上掲の画像は、コレクションの茶壷と壷である。どちらもそう古いものではないし良い品ではないが信楽焼の特徴は見られる。

信楽の町へ行くとどこへ行っても出会うのが、狸の焼き物である。
この信楽焼狸の置物の歴史は比較的浅く、陶芸家で狸庵初代藤原銕造(てつぞう)氏が、昭和10年頃に作ったものが最初で、信楽タヌキの愛嬌のある顔や独特の体形は氏の作品の継承だそうだ。
1951(昭和26)年11月15日、昭和天皇が信楽町行幸の際、窯業試験場を訪問された。その際、沿道に小旗をもったたくさんの陶器製の信楽焼のタヌキを並べて歓迎されたことを天皇が大変お気に召され、その時の思い出を「をさなどき あつめしからになつかしも 信楽焼の狸をみれば」と詠んだ和歌がマスコミで報道され、それまでコツコツと作られていた信楽の狸が全国的に広がり、以来全国的に信楽ダヌキが大流行する切掛になったのだという(※3参照)。

上掲の画像は昭和天皇の近畿巡行。天皇は1951(昭和26)年11月11日〜25日まで京都、滋賀、奈良、三重の近畿4府県下を巡行された。写真は11月24日三重県賢島港でのもの。(アサヒクロニクル週刊20世紀1951年号より借用)


上掲はコレクションより土産物の7cmほどの小さな狸の飾り物。

編み笠を被り少し首をかしげながら右手に徳利、左手に通い通帳を持って突っ立っているなんとなく憎めない狸の置物の姿形は、いわゆる「酒買い小僧」型の豆狸(まめだ)が定番となっている。

雨がショボショボ降る晩に
豆狸が徳利もって酒買いに
酒屋の前で徳利割って
家いんでおかんに叱られて
おまん三つで泣きやんだ

これは、兵庫のわらべうたの中の手まり歌の一つ「豆狸の徳利」であり、神戸に住む私なども、女の子ではないが、子どもの頃には面白半分にこんな歌を歌っていた記憶がある。
この手まり歌は主に四国地方に分布するといわれ、近畿地方で広く歌われている歌であるが、前段の2節「雨がショボショボ降る晩に 豆狸が徳利もって酒買いに」までは同じでも、その後の歌詞は地域によっていろいろ違いがあるようだ(参考の※4 ※5 参照)。
神戸の造り酒屋では、酒蔵に豆狸が1〜2匹は住んでいないとおいしい酒がつくれないという話もあるようだが、それ程古い酒蔵は、古い伝統と経験がないとよい酒が造れないという例えのようである。
その清酒は慶長年間(1596年-1615年)に完成し、江戸初期から一般庶民の口に入るようになり、小僧が通い徳利(私のHP「よーさんの我楽多部屋」のCorectionRoom3酒器類の通い徳利参照)を持って酒を買いに行き、酒屋で樽から注いでもらいもって帰ったもので、代金は通い通帳に記入しておいてもらい後で支払ったものだ。酒買い小僧の狸の置物は、その姿をタヌキの置物にしたものである。
徳利または通帳に○に八のマークがあるのは、尾張徳川家の合印(あいいん)として用いられていたもの。
合印とは、他と区別するためのしるし。特に戦場で敵味方の区別をするために、兜(かぶと)や袖(そで)の一部につけた一定の標識であり、丸八印は尾張藩の略章(正式の家紋は葵巴紋)というべきもので、小使提灯、小者用の紋所、小荷駄などに使用されていた。
制定の経緯は定かではないようだが、「丸は無限に広がる力、また八は末広がりで発展を示す」というお目出度いマークであり、現在名古屋市の市章である(※6参照)。
それを、尾張知多半島にある常滑焼きで、○に八の紋を入れて造ったのが人気を博し、それを模して、狸の置物には○に八と意味も分からないまま造るようになったという説があるようだ。
現在、八相縁起と行って、笠は災難除け、腹は太っ腹、顔は愛想よく等々、8つの縁起があると言う意味での○に八と結びつけているが、これは、昭和天皇が信楽町行幸の翌・1952(昭和27)年に、当時名城大学の講師、をしていた石田豪澄が「信楽狸八相縁起」を詠んだことによるそうだ(※7:「おいでやす狸楽巣(りらくす)」 狸めぐり>滋賀県>信楽タヌキ参照)。
「信楽狸八相縁起」とはどんなことか?それは、滋賀県工業技術総合センター :: タヌキのページ
参照。

酒買い小僧といわれる(徳利と通帳を持ち、傘を冠っている)形の置物は、何も信楽のみならず、常滑や備前清水などでも古くから焼かれている。
どの産地が最初であるか今のところ明かではないが、清酒が酒屋で売られるようになった江戸時代から、狸のやきものは造られていたようである。
当初の信楽タヌキの特徴は細身、長身、本物のタヌキを髣髴させる顔であった。それが現在のような親しみあるふっくらとしたデザインへと変っていった。
それは、信楽だけでなく何処の地域でも同様であろう。それに当初の信楽タヌキは、笠は別に造って焼き上げてからしゅろ縄でくくりつけて用いていたらしいが、のちに現代のもののように頭上から背中にかけて、生素地の内にくっつけて焼くようになている。

上掲の画像は、私のコレクションで備前焼のタヌキの徳利であるが、向かって左が昭和の作品。右の笠のない方が明治時代の作品である。どちらも笠は別作りのものを紐で括って被るように造られているが、右の方は笠を紛失したものである。

狸の置物は縁起物として喜ばれ、また、タヌキ(狸)が「他を抜く」に通じることからも商売繁盛と洒落て店の軒先に置かれることが多い。
今では狸の置物は、信楽焼の代名詞のような存在となり、信楽へのアクセス路線である信楽高原鐵道の車体には、タヌキのキャラクターが描かれている。
同鉄道は、昭和62年7月12日に、JR西日本旅客鉄道?信楽線が廃止され、その翌日より、第三セクター信楽高原鐵道信楽線として開業(運転開始)するようになった。

上掲の画像は、コレクションの信楽高原鉄道開業1周年記念乗車券(63・7・13日付印あり)である。焼物の町らしく陶器製の切符で、信楽狸の図案があるのも面白い。

タヌキ(狸/貍)は、哺乳綱食肉目イヌ科の動物である。
体重5〜8kg、体長50〜70?。体はずんぐりしていて、長胴短脚、尾は太くフサフサ、耳は丸くて小さい。毛は厚く、密生した下毛と荒く長い差し毛とがある。
習性としては、夜行性で、雑食。集団行動し、水辺近くの山林に住み、木の根元のうろ(樹洞)や岩穴、アナグマの放棄した巣穴などをねぐらとする。
日本およびユーラシア大陸の北、シベリアアムール川より、南はベトナム北部までの間に分布するという。
タヌキ属には、タヌキ1種だけが知られているが、生息する地域によりわずかではあるが形態的違い(地理的変異)がみられ、6亜種に分類され、日本にはこのうち2亜種が生息し、本州、四国、九州および佐渡島に分布するものをホンドタヌキ(N. p. viverrinus)とよび、北海道のものをエゾタヌキ(N. p. albus)とよぶそうだ。このほかの亜種はすべて大陸に生息するという。
タヌキに冬眠の習性はないが、秋になると冬に備えて脂肪を蓄え、体重を50%ほども増加させる。タヌキのずんぐりしたイメージは、冬毛の長い上毛による部分も大きく、夏毛のタヌキは意外にスリムなのだそうだ。
タヌキは急に驚かされると仮死状態のようになることがある。完全な失神状態ではなく脳はある程度目覚めているため、一種の警戒状態の行動であろうといわれている。また、この状態からしばらくたつと起き出して逃げるので、古来「たぬき寝入り」とよばれて死にまね(擬死)とみられたり、キツネと同様に人を化かすという言い伝えのもとにもなっている。
タヌキは体形的に攻撃や逃走が不得手なため、長い間に、生存上有利であったこのような習性を身につけたものと考えられているようだ。
タヌキは人家近くの里山でもたびたび見かけられ、野生動物のなかで、もっとも人間とのつきあいが古いものの一種である。ケモノヘンに里と書く「狸」の文字が、そのことを物語っている。
狸(貍)は狐と共に人を誑(たぶら)かす妖獣の代名詞ともなっているが、狸は狐に比べて、なにか素朴で愛嬌があり、どこか憎めない印象を抱かせる。しかし、狸が滑稽な動物とされたのは近世中頃以降のことで、近世初期の狸は人に害をなす恐ろしいあやかし(妖)として描かれることが多い。
蔵本の『週刊朝日百科日本の歴史71・近世1−5動物たちの日本史)』を見ていると以下のようなことが書いてあった。
狸の怪異は『宇治拾遺集』に始まる。その巻八-六”猟師仏を射る事”で、狸は普賢菩薩に化けて現れ、猟師の矢に射られて命を落とす(※8参照)。
ただし、この狸の日本語読みは不明である。そして、興味深いことに、『今昔物語集』巻ニ十第十三話は、これと全く同形の説話であり、ただ狸の役割を今昔物語集は野猪が演じている(※9参照)。
古今著聞集』六百六話においては、水無瀬山(現在の地名としては大阪府三島郡島本町北西の山を水無瀬山と呼ぶそうだが、名所歌枕 としての水無瀬山は、”水無瀬の地より見える山々”といった程度の意味だろう)の奥の古池のなかに光が現れ、岸の松の木との間を飛び移り、たびたび人をとらえては、池に引きずりこむ。
そこで、源仲俊(源仲国〔宇多源氏・源仲章の兄〕の子といわれる)がその正体を見届けると、老婆の姿をしていた。さらにそれを刺し殺すと、狸になった(六百六話とあるのは実際には603段 “薩摩守仲俊、水無瀬池にて変化を捕縛する事”の誤りであろう。※10参照)。
この狸はたぬきと訓じられているが、空中飛翔と池中の行動を見ると、どうもタヌキらしくない。
ちなみに、『類聚名義鈔』(十二世紀)で、狸・貍の読みは、タヌキ、イタチ、野ネコ等、又、『覚禅鈔』(覚禅、千二百年頃※11参照)西南院本(高野山西南院本)の貍(訓はたぬき)は、動物学者・池田啓氏によれば、中国のジャコウネコ科の一種に近いという。中国では、貍はヤマネコジャコウネコなど中型のネコ的野生動物の漫然たる総称だったようである(※0012参照)。
そして、貍は『捜神記』(干宝、四世紀)以来、キツネとともに大いに怪異を発揮してきた。これが日本人の知識人に影響をあたえ、彼らは中国の貍に相当する山の動物に日本においても想定したのではないか。
かくて、タヌキ、イタチ、テン、アナグマ、ムササビ、小イノシシ及び野生化した飼いネコなどが貍(タヌキ)の概念に曖昧に包括されたのだと思われる。
ネコマタ(猫又、猫股)もまた、貍イメージの一構成要素だったのだろう。それならば、貍の怪とネコマタの出現の時代がほぼ一致するのも理解できる。
こう考えると『鳥獣人物戯画』甲巻のネコ的動物は、実は当時における貍の一つの解釈だったのかも知れない・・・と。

上掲の画像向かって左は『鳥獣人物画』甲巻に描かれたネコマタ。左端近くの烏帽子を被り扇を持った猫的動物がそれ。自分の尻尾を抱えているが、この動作は同じ甲巻の他の場面でキツネについても描かれており(右画参照)、怪異性を示唆するのかもしれない。古代末期から中世にかけて出現したネコタマあるいはキツネの怪が、ここに現れているのではないか。
中国で狸とは、ヤマネコやジャコウネコなど野生のネコ的動物を意味していたが、ネコマタはその日本版であるといえよう。
日本では『日本霊異記』の写本に「狸」にネコと訓ずる例があり、江戸時代になっても、たとえば『狂歌百物語』のネコマタは「狸」と表記される。
中国では、タヌキのことを古くから「貉(狢。ムジナ)」と表記しており、現在でもタヌキの動物学的標準名は貉となっているそうだ(※13)。
ムジナ(貉、狢)とは、主にアナグマのことを指す。地方によってはタヌキやハクビシンを指したり、これらの種をはっきり区別することなくまとめて指している場合もある。
日本の民話では、ムジナはキツネやタヌキと並び、人をばかす妖怪として描かれることが多い。
ことわざの「同じ穴のムジナ」とは、”一見違っているように見えるが、実は同類である”と言うことのたとえ。主に悪い意味で用いられることが多い。迷信では、ムジナが「(人間を化かすとされる)タヌキと同じ穴で生活する習性をもつこと」に由来していると思われる。
日本では「狸・貍」は「ねこ」「むじな」「あなぐま」「きつね」等と同一視され、混同され、あるいは入れ替えられていたようだが、古来、農耕民族である日本人に、中型の獣は皆同じように見えたらしい。特に種の違いを厳密に区別する必要はなかったから、呼び名すら統一されなかったのだろう。
「狸」表記のケモノの怪異譚は前にも書いた通り、鎌倉時代の『宇治拾遺物語』『古今著聞集』で増え始め、室町後期の日記や絵巻物になると「狸」が人やに化けたという話になる。
これ以後「狸」はおおむねタヌキに統一されたと考えられるが、「むじな」「まみ」とも呼ばれアナグマとはほとんど区別されなかった。大正時代にたぬき・むじな事件さえ起こっている。「むじな」は東日本に、「たぬき」は西日本に多い呼称らしい。
狸がなにをさすかはさておき、キツネとタヌキの怪異は、全国的に多いが、全国分布をみると、はっきりとした特徴があり、キツネは東日本、タヌキは西日本に多いようだ(参考※14の第51回 キツネとタヌキ参照)。
化け物としての狸、つまり、化け狸の伝説は、新潟県の佐渡島や四国に多く、中でも佐渡の団三郎狸、阿波国(徳島県)の金長や六右衛門(阿波の狸合戦)、香川県の屋島の禿狸のように、特別な能力を持つタヌキたちには名前がつけられ、祭祀の対象にもなっている。
化け狸の話は、日本各地に伝わっている。しかし、タヌキの本場は何と言っても四国で、怪異といえば、原因はたいていタヌキの仕業である。全国的には八百八匹の眷属を従えていたとされている隠神刑部(刑部狸とも)などが知られる(日本各地の化け狸参照)。
「タヌキ寝入り」「タヌキ親爺」「捕らぬタヌキの皮算用」「タヌキの金玉八畳敷」などのことわざがあるし、コッケイな顔つきの人には「タヌキ」のアダ名をつける。
キツネとは違って、タヌキは人を化かすといいながら、何か憎めない、その図々しさにも逆に親しみさえ感じられるところが、日本人に愛されてきたところだろう。
ところで、「タヌキの金玉(きんたま)八畳敷」の諺の意味は知っていますか。
ここでいうきんたまは睾丸(こうがん)のことを行っているようであるが、実際は睾丸ではなく狸の陰嚢(いんのう) (金玉袋)の非常に大きいことをいう言葉であり、大きく広がった物のたとえである。
タヌキと言えば、信楽狸の巨大な陰嚢をもった意匠が思い浮かぶのではないか。信楽狸の大きな金袋は八相縁起では金運を表しているそうだ。
八畳敷きの由来は“タヌキの皮は耐久性に優れているため、金箔を作るときにタヌキの皮を利用したことに由来しているとも言われているそうだが・・・。

上掲の画像は狸の八畳敷『八笑人』(※15参照)。都立中央図書館蔵。
隅田堤(すみだづつみ。かつての東京・隅田川〔古隅田川〕の両岸。桜の名所であった)に屋形船を浮かべて酒宴を催し、狸噺子(たぬきばやし)を聞いていたと思ったら、屋形船は狸の八畳敷であったというばか話の図である。当画像は以下参考に記載の※16:滝亭鯉丈 編『花暦八笑人第五編』の13−7より借用している。
実際にはタヌキの金玉は小さく、人間の小指の先程しかないという。むしろ哺乳類の中でも小さい部類らしいのだが・・・。
タヌキが座ったときに、フサフサ大きなしっぽが股の間からおなか側へはみだしている様子が金玉に見間違えられたという説があるそうだ。
狸の妖怪豆狸(まめだ)は、西日本に伝承されているほか、江戸時代の奇談集『絵本百物語』にも記述がある。
広げると八畳もある陰嚢を持ち、関西以西に多く棲んでいたという。犬くらいの大きさで、通常の狸よりもずっと知能が高く、陰嚢に息を吹きかけることで大きく広げて部屋などの幻を人に見せたり、自ら陰嚢をかぶって別の者に化けたりしたという。

上掲の画像は竹原春泉画『絵本百物語』より「豆狸」(Wikipediaより)

とにかく、狸のことを書き始めるときりがないので、中途半端だが、もうこれくらいでやめよう。豆狸(まめだ)のことはここを見てください。
最後に、たぬきの金玉・・と言えば、私などのような戦前生まれのものは、子どもの頃に面白がって、以下のような歌を歌っていたものだ。

たんたんたぬきの ○○○○は
風もないのに ぶ〜らぶら・・・・

作者不詳のこの「たんたんたぬきの」の歌も地域によっていろいろと歌われていたようだ(詞や曲など参考※17参照)が、この歌は、賛美歌まもなくかなたの」 の冒頭部分のメロディーが同じであることから、この賛美歌の替え歌としているところもあるらしいが、実際には、賛美歌「まもなくかなたの」の曲の一部を流用してつくられた「タバコやの娘」(作詞:園ひさし、作曲:鈴木静一)の替え歌だそうだ(※作詞の「薗ひさし」は、鈴木静一のペンネーム)。
「タバコやの娘」は1937(昭和12)年、コメディアン岸井明と童謡歌手から流行歌歌手に転向した平井英子の歌で大ヒットしていたそうだ。
当時盛んに作られたコミックソングまたはナンセンスソングと呼ばれるジャンルの曲であり、歌いやすく面白い。
この歌は、佐川ミツオ渡辺マリのデュエットによるカバー曲が以下で聞ける。この歌の元曲である賛美歌「まもなくかなたの」と比較して聴いてみるのも面白いのでは・・・。

まもなくかなたの 聖歌・賛美歌 - YouTube

煙草屋の娘 (佐川ミツオ, 渡辺マリ) - YouTube



参考:
※1表千家不審菴:茶人のことば:村田珠光「心の文」その1
http://www.omotesenke.jp/chanoyu/7_2_1a.html
※2:信楽鬼桶水指
http://story.turuta.jp/archives/6804/
※3:信楽地域情報
http://www.shigaraki-labo.co.jp/shigaraki/index.html
※4:詩誌『現代詩神戸』231号
http://homepage2.nifty.com/GOMAME/2010/05/100519.htm
※5:兵庫県のわらべ歌 - ODN(PDF)
http://www1.odn.ne.jp/~aar16910/imgs/warabeuta.pdf#search='%E5%85%B5%E5%BA%AB%E7%9C%8C%E3%81%AE%E3%82%8F%E3%82%89%E3%81%B9%E6%AD%8C'
※6:名古屋市:ご存じですか?八マーク(観光・イベント情報)
http://blog.livedoor.jp/zunousen007/archives/17258732.html
※7:おいでやす狸楽巣(りらくす)
http://www.katch.ne.jp/~msyk-tsj/index.html
※8:日本古典文学摘集宇治拾遺物語
http://www.koten.net/uji/
※9:ゐむら【豕羣】 | 情報言語学研究室
http://club.ap.teacup.com/hagi/234.html
※10:鈴なり星:古今著聞集ぶらぶら 
http://xxxsuzunari88xxx.yamanoha.com/tyomonsyu.htm
※11:覚禅鈔
http://www002.upp.so-net.ne.jp/eigonji/gane/kakuzenshou.html
※12:s-ryooの語源随想『ねこ』の語源を考える(7)〜『たたけ』について
http://d.hatena.ne.jp/s-ryoo/?of=1
※13:埼玉県立自然史博物館 自然史だより 第20号 :貉(むじな)か狸(たぬき)か
http://www.kumagaya.or.jp/~sizensi/print/dayori/20/20_6.html
※14:国際日本文化研究センター | 怪異・妖怪伝承データベース
http://www.nichibun.ac.jp/youkaidb/ikai/
※15:私の古典(12)『花暦八笑人』
http://plus.harenet.ne.jp/~kida/topcontents/news/2010/121601/index.html
※16:花暦八笑人. 初,2-5編 / 滝亭鯉丈 編 ; 渓斎英泉,歌川国直 画 (古典籍総合データベース。早稲田大学)
http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/he13/he13_03094/index.html
※17:作詞者不詳・曲=「たんたんたぬきの」聖歌687番(新聖歌475番) http://www.mahoroba.ne.jp/~gonbe007/hog/shouka/tantantanuki.html
狸の本・アラカルト狸
http://www.ztv.ne.jp/ann/ooatari/rink.htm
信楽焼の歴史
http://www.the-anagama.com/Ja/kanzaki_4/j_pot_history.html
京都大学 防災研究所( html )
http://cache.yahoofs.jp/search/cache?c=ZKTy0L2UREIJ&p=%E7%81%98%E3%81%AE%E9%80%A0%E3%82%8A%E9%85%92%E5%B1%8B++%E9%85%92%E8%94%B5+%E8%B1%86%E7%8B%B8&u=www.dpri.kyoto-u.ac.jp%2F%7Edptech%2Ftusin%2F94%2Finfo25.doc
滋賀県工業技術総合センター :: タヌキのページ
http://www.shiga-irc.go.jp/scri/shigaraki_info/%E3%82%BF%E3%83%8C%E3%82%AD%E3%81%AE%E3%83%9A%E3%83%BC%E3%82%B8/
信楽町観光協会
http://www.e-shigaraki.org/
信楽焼 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%A1%E6%A5%BD%E7%84%BC
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