日本記念日協会に登録されている今日・11月15日の記念日にのど飴の日」があった。
1981(昭和56)年11月に、日本で初めて商品名に「のど飴」と名のつくのど飴「健康のど飴」を発売したカンロ株式会社(※1)が制定。2011(平成23)年の発売30周年を記念したもの。
日付は発売月の11月と、11月中旬より最低気温が一桁になりのど飴の需要期になること、11と15で「いいひと声」と読む語呂合わせなどから。 ・・・だそうだ。
同社は、飴を中心とした菓子を製造する食品メーカーであり、1912(大正元)年11月山口県光市にて創業。今年・2012(平成24)年11月10日で100周年を迎えたらしい。
1960(昭和35)年、カンロ飴の大ヒットにより社名をカンロ株式会社と改称。「カンロ」は漢字で「甘露」、天から降って人を癒したとされる水を語源に持っており、その語源のように人の口や心を癒したいというところから社名にしたそうだ。
同社のキャッチフレーズは「カンロはお口の童話です」。これは、人の心に愛を語りかけるような、夢のある製品づくりを心がけたい…と、そんな思いを込めた同社の合い言葉だという。
現在のど飴発売30周年を記念したキャンペーンを実施している。ここ参照。
飴は、デンプンを糖化して作った甘い菓子、および、砂糖やその他糖類を加熱して熔融した後、冷却して固形状にしたキャンディなどを指す。固形の飴を固飴(かたあめ)、粘液状の飴を水飴(みずあめ)と呼び、大別する。
最も古い文献としては、神武天皇が東征の折、大和高尾において天下統一を祈願して飴をつくったという記載が『日本書紀』(巻第三)「神武天皇即位前期戊午年九月」条にある(参考※2:「古典の館」の日本書紀 巻第三のニ参照)。
「吾今当に八十平瓮(やそひらか)を以て、水無しに飴を造らむ。」
ここでは「飴」の字には「たがね」と訓じて あるので、飴は古くはタガネと言ったらしいが、これが「あめ」かどうかは定かではない。
ただ『日本書紀』は神話の時代に遡った伝承であり、「神武天皇の時代」とされる紀元前7世紀については不明であるが、同書が編纂された720年(養老4年)には、既に飴が存在していたことになる。
古代の飴は米などを原料にした水あめで、蔓草(つるくさ)の樹液を煮詰めてとる「甘葛(あまずら)」と並ぶ貴重な甘味料として、神饌用(神への奉げもの)としてとり扱われてきた。
奈良時代の天平9年(737年)の但馬国正税帳(但馬国の収支報告書。東大寺正倉院文書)には読経供養料として「阿米(あめ)」をつくるための米が献じられた記録がある。当時、飴には、阿米や餳、糖などの字も用いられていたようだ。
延喜式には諸国から貢納されていたことや平安京の西市に「糖(あめ)」の店があって市販されていたことが記されている。この当時、飴は諸国からの貢納品であったが、都ではその払下げが商品として売られていたのだろう。
平安時代中期に作られた辞書『和名類聚抄』には、「飴は米もやしの煎なり。阿女」と、記されているが、江戸時代に書かれた、『和妙類聚抄』の注釈研究書としての代表的な文献である『箋註和名抄(せんちゅうわみょうしょう)』(※3)には、「今の俗、飴を作るに麦もやし(麦芽)を用ふ。米もやしを用ひず」とあるそうだから、麦もやしを用いるようになったのは、後のことらしい。
『和名類聚抄』には又、おこしは「炒った米を蜜(水飴)とまぜてつくる」と言うことも載っているようなので、この頃には、すでに水飴を使用したお菓子もあったようだ。
それに、平安時代には、宮中では生薬の「地黄煎(じおうせん)」を服用する習慣があった。これは、漢方の地黄(アカヤジオウ)と水飴をまぜて練って服用した物で、後の時代には、地黄を入れていない水飴もこのように呼んだようだ(※4:「砂糖|農畜産業振興機構」の 視点 > 社会 >日本人と砂糖の交流史参照)。
宮内省典薬寮は、「供御薬」という宮中行事により、毎年旧暦11月1日、地黄煎を調達していた。
地黄煎の栽培・販売について、その後の供御人座を形成、この座による販売人を「地黄煎売」(じおうせんうり)といった。産地は摂津国、和泉国、山城国葛野郡であった。
中世(12世紀 16世紀)期の「地黄煎売」の姿は、番匠(大工の前身)がかぶる竹皮製の粗末な笠である「番匠笠」、小型の桶を棒に吊るし振売のスタイルであった。
糖粽(飴粽)は、遅くとも15世(室町時代の中期)、興福寺の塔頭であった大乗院(現存せず、跡地は現在の奈良ホテル)の門跡領であった大和国城上郡箸中村(現在の奈良県桜井市箸中)に、「糖粽座(あめちまきざ)」(餳粽座)が置かれていた。三代の大乗院門跡が記した『大乗院寺社雑事記』のうち、尋尊が記した長禄3年5月28日(1459年7月7日)条に「アメチマキ(箸ノツカ)」という記述がみられる。
「箸ノツカ」とは現在の箸墓古墳のことで、この地に「糖粽」を製造・販売する座が形成されていた。同座は三輪村に由来し「三輪座」(みわざ)とも呼ばれた。
三輪明神(大神神社)の大鳥居より南、かつ長谷川(初瀬川、現在の大和川)にかかる三輪大橋より北の地域で、「糖粽座」は「糖粽」を販売していた。当時近隣地区には幾つかの飴売を製造・販売する座があったが、箸墓の「糖粽座」と苅荘(現在の大軽町)の「煎米座」は、飴の販売でしばしば争いが起きていたという(ここ参照)。
室町時代、15世紀末の明応3年(1494年)に編纂された『三十二番職人歌合』の冒頭には、「いやしき身なる者」として、「地黄煎売」とともに「糖粽売(あめちまきうり)」として紹介され、曲物に入った糖(飴)を二本の箸で粽に塗布する行商人の姿が描かれている。
上掲の画像は、向かって左:地黄煎売、右:糖粽売の歌合(『三十二番職人歌合』、1494年、その1838年の模写)Wikipediaより。
この歌合に載せられた歌には、
手ごとにぞ とるはしつかの 糖ちまき 花をもみわの 昼の休みに
とあり、これは「箸塚」や「三輪」の地名に掛けたものである。同職人歌合が作成された京都においても、「箸塚・三輪の糖粽」が著名であったということである。
このころの振売を行っていた「地黄煎売」は、「飴売」とみなされていた。
飴が一般に身近なものになるのは江戸時代である。
江戸時代(17世紀 〜19世紀)にも、飴としての「地黄煎」は製造・販売されており、元禄5年(1692年)に井原西鶴が発表した『世間胸算用』にも、夜泣きに効くという趣旨で「摺粉に地黄煎入れて焼かへし」というフレーズで登場しているが、これは、京・伏見の里での話しである(※5参照)。
「地黄煎」は、もともとは薬とされたジオウの煎汁をいっていたのだが、やがてそれを水あめに加えたものをいうようになり、さらにジオウを入れないあめそのものの呼称になり、なまって〈ぎょうせん〉ともいっていたようだ。
太閤秀吉も口にしたといわれる大阪攝津の「平野あめ」や京都東福寺門前の菊一文字屋のものや桂の里の桂あめが有名で、飴の文化は上方で発展し、江戸に広まってゆき、これらは江戸で“〈下(くだ)りあめ“下りぎょうせん”と呼ばれて大いに珍重された。
江戸時代の文書に「ちゃうせん飴」と書かれて居るものがあり、これを「朝鮮飴」と誤読することがあるようだが、これは「地黄煎飴」の誤りだろう。
元禄・宝永の頃(1688〜1711)には、浅草の浅草寺境内で「千歳飴」が売り出されて人気を博した。
この浅草寺で千歳飴を売出し者については二説ある。
一つは、先に書いた、大坂の「平野あめ」の製造者であるとする説。
大坂の平野(今の大阪市平野区の辺)は、中世には平野荘と呼ばれて、征夷大将軍の坂上田村麻呂の次男で平野の開発領主となった坂上広野を「平野殿」と呼ばれた。その平野が地名になったという由来がある。
平野庄は近世には平野郷と呼ばれるようになり、その子孫という庶流の平野氏七名家と呼ばれる家々が周囲に環濠を巡らし自衛の形を固めた自治都市であった。
この地は大坂夏の陣では徳川家康の本陣と定められ、以降は徳川幕府代官が管理していた。
その地に、大阪夏の陣で豊臣方に敗れ浪人となった平野甚左衛門の子甚九郎重政が流れてきて飴屋となり、その後元禄・宝永の頃(1688〜1711)、江戸に出てきて、浅草寺境内で売りだしたのが「千歳飴」の始まりだというのである(※6参照)。
もう一説は、17世紀後半から18世紀初頭に掛けて、浅草で七兵衛と言う飴売が千歳飴を開発したとする説である。
千歳飴の始まりについては、江戸後期、文政8年(1825)刊の柳亭種彦の書いた考証随筆『還魂紙料』に千年飴(せんねんあめ)として 「元禄宝永のころ、江戸浅草に七兵衛といふ飴売あり。その飴の名を千年飴、また寿命糖ともいふ。今俗に長袋といふ飴に千歳飴(せんざいあめ)と書くこと、かの七兵衛に起れり」と書かれているという(※7)。
現在はちとせ飴と呼んでいるが、もとは、せんねん飴、せんざい飴と読んでいたようだ。
『還魂紙料』によれば「大道に肩をぬぎて天に指ざしし、広いお江戸にかくれなし、京にもよい若者まけぬを踊て……」とあって、天を指差して歌を歌い、踊って飴を売ったそうである。
享保年間(1716年〜1735年)に歌舞伎の道外方役者の中村吉兵衛が森田座で、この七兵衛に扮したと言われ、それを描いた一枚絵がかつて残されていた。それは『還魂紙料』に収録されているが、画賛には「ぶしゆうとしまのこおりゑどこびき(武州豊島郡江戸木挽)町、せんねん(千年)じゆめうとう(寿命糖)、いとびんせんねんなりけり」とあるようだ(以下参考の※8:「物売り歌謡続考」又、※9:「浮世絵文献資料館」の『日本随筆大成 第一期』 あ行 ◯『還魂紙料』参照)。
今日・11月15日は七五三であるが、江戸市中での七五三のお祝いは華美を極め、神社境内でお参りした後のお土産は例外なく千歳飴で大いに繁盛したという。
江戸中期には飴の種類も増え、縁日で細工飴も売られるようになった。まだ飴がやわらかいうちに成型した飴細工もあり、最初は、鳥や渦巻状にして彩色されただけのものだったが、次第に干支の動物などの細工をしてみせた。
江戸では中期ごろから街頭で飴が売り始められたようだ。当時江戸の巷では、様々な品を売り歩く多くの物売りが登場している。
その中でも、ごく最近まで、われわれの日常生活に離れがたい存在だった親しみ深い薬売りとともに、飴売りの人々が多かったようである。特に、「飴売り」は江戸では街頭で見られる最もポピュラーな行商人であったようである。
彼らは、独特な売り声を考案し、それぞれが競った。「土平飴」「お万飴」「鎌倉節飴」「唐人飴」「お駒飴」「あんけらこんけら糖」「ジョウセン飴(朝鮮飴といったりもした)」といってもわけのわからない飴売りが様ざま、子供相手に行商していた。
飴の名はいずれも、その売り声にちなんだものであった。そして、唄を歌ったり、浄瑠璃役者の声色、踊りなどを披露してサービスをしたというから、当時の子ども達には楽しい見世物でもあったろう。私などが子どもの頃には、正月やその他神社などの市では色んな大道芸の見世物があったが、最近は市でも単に物を売っているだけのつまらないものになってしまっている。現在のテレビっ子に見せてやりたいものである。
上掲の画像は、飴売り土平 。『飴売り土平伝』舳羅山人 著 、 春信 画。画像は、参考10:「早稲田大学古典籍総合データベース」より借用。
江戸時代の飴売りについては、参考に記載の※8:「物売り歌謡続考」が非常に詳しいが、江戸に流行した商人の様子を狂歌に詠じた文政12 年(1829年)に成立したとされる滝沢馬琴の『露緬廿三番狂歌合並附録』は、江戸時代末期の物売りの様子を具に伝える代表的な資料の一種だが、ここで芸能者を商人と同一土俵の上で取りあげているのは、中世の職人歌合以来の伝統を継承しているようだという。
この狂歌合には23種の職種が収録されているが、そのうち3種は願人坊主なので、これを除くと、今日的観点から商人と認定できる残りの20種中7種が飴売であり、3分の1以上が飴売で占められていて最も多い。しかし、これはこの文献における特殊な傾向というわけではなく、同様の傾向は他の文献からも認められ、当時いかに多くの飴売が巷間に出ていたかが窺える・・・という。そんな中で、当時の飴うりがどんな飴の売り方をしていたか、詳しく調べて書いている。
土平飴売は江戸時代の飴売の中でも比較的よく知られた商人で、土平は飴売の名前である。明和年間(1764年〜1772年)に江戸の町に現われたらしく、奥州の出身で、当時五十歳余であったらしい。
この人物については大田南畝『売飴土平伝』(明和6年〔1769年〕自序)に詳しいとして、冒頭部分が記載されているが、漢文なのでちょっと判り難い。この土平については他にも多くの記述が残されているとして、他にも色々、採りあげている中で、読んで分かりやすいものを以下に2つ記す。
“明和の頃、土平といふ飴売来る。木綿の袖なし羽織、黄に染て虎斑を黒く染、紅絹裏を附、羽織の紐はいかにも 大く、くけ紐(くけ縫いにして作るひも)を付、浅黄の木綿頭巾をかぶり、飴を両懸に致、日傘をさし、江戸中売歩行。世人かたき討也ど評 せり。
其唄に、「土平があたまに蝿が三疋とまつた、只もとまれかし、雪駄はいてとまつたどへえどへえ、土平といふ たらなぜ腹たちやる、土平も若い時色男どへえどへえ」(『続飛鳥陥』)
“明和の頃までは、飴うり、修行者の類、異風なる形をするものなし。土平といふ飴うり、日がさをさし、土平 土平と染出したる袖なし羽織を着、土平飴とよび、二丁町・両国辺をあるき、歌をうたふ。其うたに、「土平とゆたと てなぜはらたちやる、土平もわかひときやいいんろおとこへ、どへえどへえ」とうとふ。(『明和誌』)
・・・といった具合に唄の中で、「どへえ、どへえ」と歌い町々を歩いた。そこで述べられているその姿は上掲の絵と同じである。
また、その歌謡もかなりの数が書き留められているが、それぞれの記述で若干の異同があるものの、ユーモア溢れる歌詞が人々に受け、明和年間の江戸の町ではきわめて注目を集めた飴売であったようだ。
又、江戸時代に登場する飴売りには唐人の姿としぐさをするものが際立って多いことも指摘されている。
「飴売り」は、前にも書いたように、地黄煎の販売特権をもつ供御人による「地黄煎商売座」に始まるが、室町・戦国時代になると「職人」の特権保障の実質が失われてゆく中、偽文書が盛んに作成されるようになり、西国では特権の由来が特定の天皇ないし天皇家の人々に結び付けられることが多くなり、又、戦国・江戸期の大名は、こうした偽文書そのままに認め「職人」の特権を承認している。
中世には宋や明の商人が多数来日し、日本各地を遍歴して商売をしていたが、そうした人々が寄り集まって、博多には11世紀に早くも宋人百堂と呼ばれる大唐街が生まている。
中世平安末期以降、供御人の称号を得て自由通行を保障され旅をした多彩な供御人の中には、唐人の活躍が目立つようになっているが、こうした大陸との動きの中、“綴米(とじまい。おこしのようなものか?)、唐唐(からのあめ)、豆糖(まめのあめ)の商売をしていた土井大炊助康之が、「唐紙に書きて印判を突いた『唐土(もろこし)の支証』をもつ介三郎が同じ商売を行なうことを営業妨害として幕府に訴えた。
「異朝の証文」を持って、「本朝の商売」をするのは不当だというのである。ところが介三郎の権利はすでに天皇の綸旨によって認められており、康之と介三郎は結局示談によって双方とも商売をするようになった。
介三郎の扱った飴はおそらく、南北朝期以降、中国大陸や琉球から盛んにもたらされた砂糖を用いた飴「唐糖」で、介三郎の祖先は先ず間違いなく唐人だったと見てよいだろう。
その所持した『唐土の支証』『異朝(外国の朝廷)の証文』がどのような文書であったかは知る由もないが、例え、それが偽文書であったとしても、天皇はそれを認め商売の特権を介三郎に保証したのである。“・・・ということが週間朝日百科『日本の歴史6・中世1−6海を海民と遍歴する人々』に書かれている。
又、戦前、東北地方では、薬売りを「トウジン」「トンジンサマ」と言っていたところもあるようだ。そのような歴史的背景を考えると、江戸中期に見られる飴売りの一部には唐人の流れを汲んで居る者も少なからずいたのではないだろうか(コトバンク唐人倉 とは又、宋人 とは参照)
岡本綺堂は『唐人飴』(※11:「青空文庫」参照)という小説を書いている。綺堂らしき若い新聞記者が、引退した明治時代半七老人を訪ねて昔の手柄話を聞くという構成になっており、この小説の中では、飴細工職人の話の中で以下のように書かれている。
「今の人たちは飴細工とばかり云うようですが、むかしは飴の鳥とも云いました」と、老人は説明した。「後にはいろいろの細工をするようになりましたが、最初は鳥の形をこしらえたものだそうです。そこで、飴細工を飴の鳥と云います。ひと口に飴屋と云っても、むかしはいろいろの飴屋がありました。そのなかで変っているのは唐人(とうじん)飴で、唐人のような風俗をして売りに来るんです。これは飴細工をするのでなく、ぶつ切りの飴ん棒を一本二本ずつ売るんです」
「じゃあ、和国橋(わこくばし)の髪結い藤次の芝居に出る唐人市兵衛、あのたぐいでしょう」
「そうです、そうです。更紗(さらさ)でこしらえた唐人服を着て、鳥毛の付いた唐人笠をかぶって、沓(くつ)をはいて、鉦(かね)をたたいて来るのもある、チャルメラを吹いて来るのもある。子供が飴を買うと、お愛嬌に何か訳のわからない唄を歌って、カンカンノウといったような節廻しで、変な手付きで踊って見せる。まったく子供だましに相違ないのですが、なにしろ形が変っているのと、変な踊りを見せるのとで、子供たちのあいだには人気がありました。いや、その唐人飴のなかにもいろいろの奴がありまして……」・・・と。
上掲の画像は、一蝶画譜. 初篇 / 英一蝶 [原画] ; 鈴鄰枩 筆「唐人飴」。画像は、以下参考の※12:「早稲田大学古典籍総合データベース」より借用。
江戸時代に新たに登場した飴は、唐、唐人のイメージと結びついている。
英一蝶の『一蝶画譜』(1770年頃刊)に登場する「唐人飴売り」は先端に房飾りのある尖った帽子を被り、腰にフリルの付いた短い上着にズボンを履き、手には軍配状の団扇(うちわ)を持つという朝鮮人ともポルトガル人ともとれる奇妙な「唐人」の格好をしている。(上図参照)。
貞享5年(1688年)刊の井原西鶴作『日本永代蔵』には、長崎で「南京より渡来せし菓子「金平糖」を売って財を成した男が登場する。
金平糖はポルトガル菓子コンフェイトがもとになった砂糖菓子であるが、その挿絵には唐人飴売りの唐人にきわめて酷似したポルトガル人の姿が描かれている。
いずれにせよ、近世には日本古来の糯米(もちごめ)・麦芽を原料とする水飴に漢方の原料である地黄を加え、練り固めるというおそらく1は、中世以来の唐人がもたらした中国系の技術を用いた飴と、長崎来航のポルトガル人により招来された南蛮菓子の系譜に連なる砂糖を原料とする飴との二種の堅飴が「唐人飴」「唐飴」として存在していたことだろうという(※13参照)。
『半七捕物帳 唐人飴』の飴細工職人の話の中で出てくる「唐人市兵衛」のことだが、「髪結藤次」の本名題は「三題噺高座新作(さんだいばなし こうざのしんさく)」で文久3年江戸市村座(元:江戸三座のひとつ)で初演されたとき、高座で三題噺(客から3つの題を貰い、その題を組み入れて即興でこしらえた噺〔話〕)が流行し、黙阿弥も「国性爺、乳貰い、髪結」という題で噺を作ってみたところ、好評だったため、それを芝居に仕立て直したものだそうだ。そこに唐人飴売りの市兵衛が登場する。
藤次は和国橋の辺りを流す髪結いで、通称・和国橋藤次、略して和藤と呼ばれている。彼は酒癖が悪く、女房おむつと喧嘩が絶えない。とうとう、女房の父親である唐人飴売りの市兵衛がおむつを連れて帰ってしまう。藤次は残された赤子を抱えて、乳貰いをして歩く。
そして、妾宅(神崎屋喜兵衛宅)でおきんが二階から藤次に赤い布にくるんだ金を渡してやる場面があるが、この赤い布は、初演当時、江戸で疱瘡(ほうそう。天然痘のこと)が大流行して、疱瘡除けの赤い布が飛ぶように売れたという世相を織り込んでのものだという。この噺の粗筋は参考に記載の※14を、東洲斎写楽の役者絵は※15を参照されると良い。
「チャルメラ」であるが、オーボエの祖先と云われるチャルメラは、16世紀の末・安土桃山時代の南蛮貿易の盛んだった頃、ポルトガルから渡来した木管楽器でポルトガル語のチャラメラがいつのまにかチャルメラとして呼ばれるようになったもの。渡来の当時は、「南蛮笛」と呼ばれ、明治時代には、中国人の飴売りが使っていたので「唐人笛」とも呼ばれていた。
有名な石川啄木もその作品、「一握の砂」(明治43年〔1910年〕)の中で
「飴売のチャルメラ聴けば うしなひし をさなき心 ひろへるごとし」 という歌を詠んでいる(※16参照)。
また、話の中に唐人飴売りは、お愛嬌に何か訳のわからない唄を歌って、“カンカンノウ”といったような節廻しで、変な手付きで踊って見せる・・・とあるが、「かんかんのう」は、江戸時代から明治時代にかけて民衆によって広く唱われていた俗謡で、別名「看々踊(かんかんおどり)」。
元歌は清楽(清国から伝来した、民謡、俗曲を中心とする音楽群の名称)の「九連環」だが、歌詞もメロディー(試聴)も元歌とはかなり変わっている。
文政3年(1820年)の春、長崎の人が大坂・難波・堀江の荒木座で踊った「唐人踊」に始まるという。これは、唐人ふうの扮装をした踊り手が、清楽の「九連環」の替え歌と、鉄鼓、太鼓、胡弓や蛇皮線などの伴奏にあわせて踊る、という興行的な出し物だった。その後、「唐人踊」は名古屋や江戸にも広まって大流行となり、流行の加熱のあまり、文政5年2月には禁令が出るほどであったという。
古典落語「らくだ 」では、肩にかついだ死体の手足を動かして「死人のかんかんおどり」を踊らせる、という場面がある。
また地方では、群馬県上野村のカンカンノーのように、郷土芸能として現在も伝承されているところがある(「かんかんのう」について詳しくは、参考の※17を参照)。
この唐人飴売りでは、文政年間の初め(1818年〜1823年)頃に、江戸の町に登場して、爆発的な人気を博した飴売に「あんなんこんなん唐人飴売」があったそうだ。
『近世商買尽狂歌合』(石塚 豊芥子著)には四番左に「安南こんなん飴」という当て字で見え、絵が描かれるが、その上には「唐のナァ唐人のネ言には「アンナンコンナン、おんなかたいしか、はへらくりうたい、こまつはかんけのナァ、スラスンヘン、スヘランシヨ、妙のうちよに、みせはつじよう、チウシヤカヨカパニ、チンカラモ、チンカラモウソ チンカラモウソ、かわようそこじやいナァ、パアパアパアパア」と書き入れられており、また、『近世商質尽狂歌合』には補遺部分にも、面部痘瘡(とうそう)の跡あり。なをるなをるあばたがなをると戯言しある也。是も文政の初より、年の頃五十位ひの男、図の 如き姿にて「あんなんこんなん」とわからぬ事を、声よく面白く唄ふ。のちのちは替り唱歌も作り、青物尽し鳥尽 し、其外いろいろ出来たり。市中の子供等皆真似せし也。・・・とあるようだ(※8参照)。
ここに出てくる痘瘡(とうそう)は疱瘡(天然痘)と同じこと。治癒しても瘢痕(はんこん。一般的にあばたと呼ぶ)を残すことから、そのあばた面を逆手にとって商売に使い面白く戯言にしている。当時疱瘡が大流行していたことが窺がえる。
兎に角、江戸の飴売りは奇抜な衣装と鳴り物で客を集めた。飴が売れると常磐津を唄い聞かせたり、狐の扮装で踊ってみせたりする飴売りもいたようである。なかでも人気はお萬が飴売りだったそうだ。独特の節回しで唄うようにして「可愛けりゃこそ神田から通う・・お萬が飴じゃ、一丁が4文」と売り歩いたが、この飴売りはもとは屋根職人だった男が女装したものだったそうだ。その突飛さが物見高い江戸っ子に受けて、お萬が飴は大あたり。天保10年(1839)には中村座の4世中村歌右衛門が春狂言で、お萬が飴の扮装を真似、常磐津で踊ってみせたことから、いよいよ大評判になったという(※18参照)。
これら他の飴売りの売り口上や歌など興味があれば、参考※8:「物売り歌謡続考」を参照されると良い。
最後に、もう一度岡本綺堂の 『半七捕物帳 唐人飴』にもどろう。
この物語の冒頭は以下の文で始まっている。
「こんにちでも全く跡を絶ったというのではないが、東京市中に飴売りのすがたを見ることが少なくなった。明治時代までは鉦(かね)をたたいて売りに来る飴売りがすこぶる多く、そこらの辻に屋台の荷をおろして、子どもを相手にいろいろの飴細工を売る。この飴細工と粉(しんこ)細工とが江戸時代の形見といったような大道(だいどう)商人(あきんど)であったが、キャラメルやドロップをしゃぶる現代の子ども達からだんだんに見捨てられて、東京市のまん中からは昔の姿を消して行くらしく、場末の町などで折りおりに見かける飴売りにも若い人は殆ど無い。おおかたは水洟(みずっぱな)をすすっているような老人であるのも、そこに移り行く世のすがたが思われて、一種の哀愁を誘い出さぬでもない。」
綺堂の 『半七捕物帳』は各編の背景に色濃く江戸時代の風俗が描きこまれていて魅力的であるが、この書き出し文の最後の皮肉っぽさがまた面白い。
最近、“なぜ老人は「飴ちゃん」を必ず携帯しているのだろうか?・・・と話題になる。
確かに、今はなき私の母や近隣の人達も年寄りの人・・・特に、おばあさんは、家に居るときだけでなく外出時でも必ず、飴を持っていて、小さな子供たちが近づいてくると、「あめちゃんあげようか?」と、何処からともなく飴を出してくる。
私も、家人もそれを見て、微笑ましくもあり、また、何となく滑稽な感じがしてくすくす笑ったりしていたものだが、今になってみると、私たち二人の必携品となっているのである。そう、若い時は滑稽に見えたことを年をとると今同じようにしているのである。
何故、飴を持っているかというと他の人は知らないが、少なくとも私たちの場合は、何も、口寂しいからではない。
思い起こせば、私たちが、飴を絶えず携行するようになったのは、私が現役を退き、家人と二人で毎日、裏山登山をし始めたときからのことである。
そのころは、登山をしているときに何か欲しくなったとき、持ち歩きに便利で、疲れたときの糖分補給にも役立つというようなことから携行したのだったと思う。
しかし、いまは 私が血圧も高くなり、家人は足が弱っていることから、山登などもしなくなったのだが外出時だけでなく家に居る時でもいつも手近なところに飴入れ飴を置いている。
多分‥老人になると唾液の分泌が少なくなるので、それを促す為の物が欲しくなるからではないだろうか。又、喉の弱い者など、年と共に悪化する傾向が有り、咳き込み易くなるので、喉を潤すと言う意味も有るのだろう。
そんなことで、飴をなめているので、どうしても、普通のあめより、のど飴を多く食べる。私の家では、数種類のものを混ぜて、いろいろな味を楽しむようにしているが、カンロ飴も定番の一つとなっている。
年取ると、本当にのどがあれ、のどの痛みをかんじたり声が出しにくくなり咳をする回数も増える。
年をとると風邪も引きやすくなるので、それがのどあれの原因となっていることも多い。
それに、水分不足になっても、喉の乾きを感じにくくなるので夏など、それが原因で、熱中症になりやすいが、これからの冬場も、夏場より湿度が低い上に、、暖房などで部屋が乾燥するから、喉が渇きやすくなるのだが、放っておくと不思議と、水分を補給していない。だから、余計に、喉がからからになるのだが・・・。
のど飴はのどの痛みや不快感を治す飴のこと。飴の成分で多く含んでいるのは蜂蜜、レモン、ハッカやメントールが多いようだ。効果としてはのどのあれや痛みの他に呼吸器の障害を和らげるとも言われている。
のど飴には医薬品、医薬部外品、食品の3種類がある。医薬品と医薬部外品として売られているのど飴の効果はのどのあれ痛み以外に声がれ、のどの腫れ、たん等に効果があるようだ。
もしのどがあれて痛んだりしてきたらトローチなどののどのあれや痛みを抑える効果のある薬をなめると良い。
いつも飴を携帯している年寄りが、若者には滑稽に見えるかもしれないが、年をとったものには、飴は良い食べものだろう。色々種類が多くあるので、自分に合ったものを、上手に食べるようにしよう。
寒い今年の冬、雨を食べて乗り切ろう!・・・・。ま、こんあことを落ちにして、このブログを終わろう。
(冒頭の画像は、群蝶画英. 初篇 / 英一蝶 筆 、 鄰松 纂・模「飴屋の絵」。画像は、※12:早稲田大学古典籍総合データベース:英 一蝶より借用)
※1:カンロ株式会社HP
http://www.kanro.co.jp/
※2:古典の館
http://www.kyoto.zaq.ne.jp/dkanp700/koten/koten.htm
※3:箋注倭名類聚抄/MANA抄訳
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※4;砂糖|農畜産業振興機構
http://sugar.alic.go.jp/tisiki/tisiki.htm
※5:Yahoo知恵袋『世間胸算用』 巻三の三「小判は寝姿の夢』の口語訳ベストアンサー
http://y-bestanswer.com/result.phpp1=a&p2=&p3=34_1492792319&p4=10&PHPSESSID=elur8d8eucapajlss8lmlv6oo7
※6:レファレンス協同データベース ちとせあめ(千歳飴)の起源について知りたい。
http://crd.ndl.go.jp/GENERAL/servlet/detail.reference?id=1000085122
※7:江戸食文化紀行-江戸の美味探訪- no.96「千歳飴など」
http://www.kabuki-za.com/syoku/2/no96.html
※8:物売り歌謡続考
http://www.welead.net/html/13_Html_%E7%89%A9%E5%A3%B2%E3%82%8A%E6%AD%8C%E8%AC%A1%E7%B6%9A%E8%80%83_669.html
※9:浮世絵文献資料館
http://www.ne.jp/asahi/kato/yoshio/index.html
※10:早稲田大学古典籍総合データベース:売飴土平伝 / 舳羅山人 著 ; 春信 画
http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/he13/he13_02800/index.html
※11:青空文庫:岡本綺堂 『半七捕物帳 唐人飴』
http://www.aozora.gr.jp/cards/000082/files/1019_15031.html
※12:早稲田大学古典籍総合データベース:英 一蝶
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※13:近世における飴の製法と三官飴 八 百 啓 介(Adobe PDF)
https://www.kitakyu-u.ac.jp/_lib/monograph/human/files/bh007401yk.pdf#search='%E8%BF%91%E4%B8%96%E3%81%AB%E3%81%8A%E3%81%91%E3%82%8B%E9%A3%B4%E3%81%AE%E8%A3%BD%E6%B3%95%E3%81%A8%E4%B8%89%E5%AE%98%E9%A3%B4'
※14:疱瘡除けに因んだ芝居
http://77422158.at.webry.info/201005/article_12.html
※15;髪結藤次 - 早稲田大学演劇博物館 浮世絵閲覧
http://www.enpaku.waseda.ac.jp/db/enpakunishik/results-1.php?Max=9&haiyakukensaku=%C8%B1%B7%EB%C6%A3%BC%A1
※16:石川啄木:一握の砂
http://www.geocities.jp/itaka84/bookn/takuboku/takuboku5.html
※17:九連環と「かんかんのう」(明清楽資料庫)
http://www.geocities.jp/cato1963/singaku-02.html#kankanno1892
※18:『おまんが飴』 〜江戸の菓子事情(その68)『近世商売尽狂歌合
http://ameblo.jp/fushigisoshi/entry-10879897116.html
2011年4月号江戸時代の砂糖食文化|農畜産業振興機構
http://www.alic.go.jp/joho-s/joho07_000274.html
江戸食文化紀行バックナンバー
http://www.kabuki-za.com/syoku/bkindex.html
眠い人の植民地日記
http://nemuihito.at.webry.info/
飴考
http://homepage3.nifty.com/tkoikawa/zatsugaku/tonchinkan1_20/ame_koh.html
江戸の生業・唐人飴売り|食べ物歳時記
http://ameblo.jp/tachibana2007/entry-10330220424.html
浮世絵文献資料館
http://www.ne.jp/asahi/kato/yoshio/index.html
のど飴 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%AE%E3%81%A9%E9%A3%B4
1981(昭和56)年11月に、日本で初めて商品名に「のど飴」と名のつくのど飴「健康のど飴」を発売したカンロ株式会社(※1)が制定。2011(平成23)年の発売30周年を記念したもの。
日付は発売月の11月と、11月中旬より最低気温が一桁になりのど飴の需要期になること、11と15で「いいひと声」と読む語呂合わせなどから。 ・・・だそうだ。
同社は、飴を中心とした菓子を製造する食品メーカーであり、1912(大正元)年11月山口県光市にて創業。今年・2012(平成24)年11月10日で100周年を迎えたらしい。
1960(昭和35)年、カンロ飴の大ヒットにより社名をカンロ株式会社と改称。「カンロ」は漢字で「甘露」、天から降って人を癒したとされる水を語源に持っており、その語源のように人の口や心を癒したいというところから社名にしたそうだ。
同社のキャッチフレーズは「カンロはお口の童話です」。これは、人の心に愛を語りかけるような、夢のある製品づくりを心がけたい…と、そんな思いを込めた同社の合い言葉だという。
現在のど飴発売30周年を記念したキャンペーンを実施している。ここ参照。
飴は、デンプンを糖化して作った甘い菓子、および、砂糖やその他糖類を加熱して熔融した後、冷却して固形状にしたキャンディなどを指す。固形の飴を固飴(かたあめ)、粘液状の飴を水飴(みずあめ)と呼び、大別する。
最も古い文献としては、神武天皇が東征の折、大和高尾において天下統一を祈願して飴をつくったという記載が『日本書紀』(巻第三)「神武天皇即位前期戊午年九月」条にある(参考※2:「古典の館」の日本書紀 巻第三のニ参照)。
「吾今当に八十平瓮(やそひらか)を以て、水無しに飴を造らむ。」
ここでは「飴」の字には「たがね」と訓じて あるので、飴は古くはタガネと言ったらしいが、これが「あめ」かどうかは定かではない。
ただ『日本書紀』は神話の時代に遡った伝承であり、「神武天皇の時代」とされる紀元前7世紀については不明であるが、同書が編纂された720年(養老4年)には、既に飴が存在していたことになる。
古代の飴は米などを原料にした水あめで、蔓草(つるくさ)の樹液を煮詰めてとる「甘葛(あまずら)」と並ぶ貴重な甘味料として、神饌用(神への奉げもの)としてとり扱われてきた。
奈良時代の天平9年(737年)の但馬国正税帳(但馬国の収支報告書。東大寺正倉院文書)には読経供養料として「阿米(あめ)」をつくるための米が献じられた記録がある。当時、飴には、阿米や餳、糖などの字も用いられていたようだ。
延喜式には諸国から貢納されていたことや平安京の西市に「糖(あめ)」の店があって市販されていたことが記されている。この当時、飴は諸国からの貢納品であったが、都ではその払下げが商品として売られていたのだろう。
平安時代中期に作られた辞書『和名類聚抄』には、「飴は米もやしの煎なり。阿女」と、記されているが、江戸時代に書かれた、『和妙類聚抄』の注釈研究書としての代表的な文献である『箋註和名抄(せんちゅうわみょうしょう)』(※3)には、「今の俗、飴を作るに麦もやし(麦芽)を用ふ。米もやしを用ひず」とあるそうだから、麦もやしを用いるようになったのは、後のことらしい。
『和名類聚抄』には又、おこしは「炒った米を蜜(水飴)とまぜてつくる」と言うことも載っているようなので、この頃には、すでに水飴を使用したお菓子もあったようだ。
それに、平安時代には、宮中では生薬の「地黄煎(じおうせん)」を服用する習慣があった。これは、漢方の地黄(アカヤジオウ)と水飴をまぜて練って服用した物で、後の時代には、地黄を入れていない水飴もこのように呼んだようだ(※4:「砂糖|農畜産業振興機構」の 視点 > 社会 >日本人と砂糖の交流史参照)。
宮内省典薬寮は、「供御薬」という宮中行事により、毎年旧暦11月1日、地黄煎を調達していた。
地黄煎の栽培・販売について、その後の供御人座を形成、この座による販売人を「地黄煎売」(じおうせんうり)といった。産地は摂津国、和泉国、山城国葛野郡であった。
中世(12世紀 16世紀)期の「地黄煎売」の姿は、番匠(大工の前身)がかぶる竹皮製の粗末な笠である「番匠笠」、小型の桶を棒に吊るし振売のスタイルであった。
糖粽(飴粽)は、遅くとも15世(室町時代の中期)、興福寺の塔頭であった大乗院(現存せず、跡地は現在の奈良ホテル)の門跡領であった大和国城上郡箸中村(現在の奈良県桜井市箸中)に、「糖粽座(あめちまきざ)」(餳粽座)が置かれていた。三代の大乗院門跡が記した『大乗院寺社雑事記』のうち、尋尊が記した長禄3年5月28日(1459年7月7日)条に「アメチマキ(箸ノツカ)」という記述がみられる。
「箸ノツカ」とは現在の箸墓古墳のことで、この地に「糖粽」を製造・販売する座が形成されていた。同座は三輪村に由来し「三輪座」(みわざ)とも呼ばれた。
三輪明神(大神神社)の大鳥居より南、かつ長谷川(初瀬川、現在の大和川)にかかる三輪大橋より北の地域で、「糖粽座」は「糖粽」を販売していた。当時近隣地区には幾つかの飴売を製造・販売する座があったが、箸墓の「糖粽座」と苅荘(現在の大軽町)の「煎米座」は、飴の販売でしばしば争いが起きていたという(ここ参照)。
室町時代、15世紀末の明応3年(1494年)に編纂された『三十二番職人歌合』の冒頭には、「いやしき身なる者」として、「地黄煎売」とともに「糖粽売(あめちまきうり)」として紹介され、曲物に入った糖(飴)を二本の箸で粽に塗布する行商人の姿が描かれている。
上掲の画像は、向かって左:地黄煎売、右:糖粽売の歌合(『三十二番職人歌合』、1494年、その1838年の模写)Wikipediaより。
この歌合に載せられた歌には、
手ごとにぞ とるはしつかの 糖ちまき 花をもみわの 昼の休みに
とあり、これは「箸塚」や「三輪」の地名に掛けたものである。同職人歌合が作成された京都においても、「箸塚・三輪の糖粽」が著名であったということである。
このころの振売を行っていた「地黄煎売」は、「飴売」とみなされていた。
飴が一般に身近なものになるのは江戸時代である。
江戸時代(17世紀 〜19世紀)にも、飴としての「地黄煎」は製造・販売されており、元禄5年(1692年)に井原西鶴が発表した『世間胸算用』にも、夜泣きに効くという趣旨で「摺粉に地黄煎入れて焼かへし」というフレーズで登場しているが、これは、京・伏見の里での話しである(※5参照)。
「地黄煎」は、もともとは薬とされたジオウの煎汁をいっていたのだが、やがてそれを水あめに加えたものをいうようになり、さらにジオウを入れないあめそのものの呼称になり、なまって〈ぎょうせん〉ともいっていたようだ。
太閤秀吉も口にしたといわれる大阪攝津の「平野あめ」や京都東福寺門前の菊一文字屋のものや桂の里の桂あめが有名で、飴の文化は上方で発展し、江戸に広まってゆき、これらは江戸で“〈下(くだ)りあめ“下りぎょうせん”と呼ばれて大いに珍重された。
江戸時代の文書に「ちゃうせん飴」と書かれて居るものがあり、これを「朝鮮飴」と誤読することがあるようだが、これは「地黄煎飴」の誤りだろう。
元禄・宝永の頃(1688〜1711)には、浅草の浅草寺境内で「千歳飴」が売り出されて人気を博した。
この浅草寺で千歳飴を売出し者については二説ある。
一つは、先に書いた、大坂の「平野あめ」の製造者であるとする説。
大坂の平野(今の大阪市平野区の辺)は、中世には平野荘と呼ばれて、征夷大将軍の坂上田村麻呂の次男で平野の開発領主となった坂上広野を「平野殿」と呼ばれた。その平野が地名になったという由来がある。
平野庄は近世には平野郷と呼ばれるようになり、その子孫という庶流の平野氏七名家と呼ばれる家々が周囲に環濠を巡らし自衛の形を固めた自治都市であった。
この地は大坂夏の陣では徳川家康の本陣と定められ、以降は徳川幕府代官が管理していた。
その地に、大阪夏の陣で豊臣方に敗れ浪人となった平野甚左衛門の子甚九郎重政が流れてきて飴屋となり、その後元禄・宝永の頃(1688〜1711)、江戸に出てきて、浅草寺境内で売りだしたのが「千歳飴」の始まりだというのである(※6参照)。
もう一説は、17世紀後半から18世紀初頭に掛けて、浅草で七兵衛と言う飴売が千歳飴を開発したとする説である。
千歳飴の始まりについては、江戸後期、文政8年(1825)刊の柳亭種彦の書いた考証随筆『還魂紙料』に千年飴(せんねんあめ)として 「元禄宝永のころ、江戸浅草に七兵衛といふ飴売あり。その飴の名を千年飴、また寿命糖ともいふ。今俗に長袋といふ飴に千歳飴(せんざいあめ)と書くこと、かの七兵衛に起れり」と書かれているという(※7)。
現在はちとせ飴と呼んでいるが、もとは、せんねん飴、せんざい飴と読んでいたようだ。
『還魂紙料』によれば「大道に肩をぬぎて天に指ざしし、広いお江戸にかくれなし、京にもよい若者まけぬを踊て……」とあって、天を指差して歌を歌い、踊って飴を売ったそうである。
享保年間(1716年〜1735年)に歌舞伎の道外方役者の中村吉兵衛が森田座で、この七兵衛に扮したと言われ、それを描いた一枚絵がかつて残されていた。それは『還魂紙料』に収録されているが、画賛には「ぶしゆうとしまのこおりゑどこびき(武州豊島郡江戸木挽)町、せんねん(千年)じゆめうとう(寿命糖)、いとびんせんねんなりけり」とあるようだ(以下参考の※8:「物売り歌謡続考」又、※9:「浮世絵文献資料館」の『日本随筆大成 第一期』 あ行 ◯『還魂紙料』参照)。
今日・11月15日は七五三であるが、江戸市中での七五三のお祝いは華美を極め、神社境内でお参りした後のお土産は例外なく千歳飴で大いに繁盛したという。
江戸中期には飴の種類も増え、縁日で細工飴も売られるようになった。まだ飴がやわらかいうちに成型した飴細工もあり、最初は、鳥や渦巻状にして彩色されただけのものだったが、次第に干支の動物などの細工をしてみせた。
江戸では中期ごろから街頭で飴が売り始められたようだ。当時江戸の巷では、様々な品を売り歩く多くの物売りが登場している。
その中でも、ごく最近まで、われわれの日常生活に離れがたい存在だった親しみ深い薬売りとともに、飴売りの人々が多かったようである。特に、「飴売り」は江戸では街頭で見られる最もポピュラーな行商人であったようである。
彼らは、独特な売り声を考案し、それぞれが競った。「土平飴」「お万飴」「鎌倉節飴」「唐人飴」「お駒飴」「あんけらこんけら糖」「ジョウセン飴(朝鮮飴といったりもした)」といってもわけのわからない飴売りが様ざま、子供相手に行商していた。
飴の名はいずれも、その売り声にちなんだものであった。そして、唄を歌ったり、浄瑠璃役者の声色、踊りなどを披露してサービスをしたというから、当時の子ども達には楽しい見世物でもあったろう。私などが子どもの頃には、正月やその他神社などの市では色んな大道芸の見世物があったが、最近は市でも単に物を売っているだけのつまらないものになってしまっている。現在のテレビっ子に見せてやりたいものである。
上掲の画像は、飴売り土平 。『飴売り土平伝』舳羅山人 著 、 春信 画。画像は、参考10:「早稲田大学古典籍総合データベース」より借用。
江戸時代の飴売りについては、参考に記載の※8:「物売り歌謡続考」が非常に詳しいが、江戸に流行した商人の様子を狂歌に詠じた文政12 年(1829年)に成立したとされる滝沢馬琴の『露緬廿三番狂歌合並附録』は、江戸時代末期の物売りの様子を具に伝える代表的な資料の一種だが、ここで芸能者を商人と同一土俵の上で取りあげているのは、中世の職人歌合以来の伝統を継承しているようだという。
この狂歌合には23種の職種が収録されているが、そのうち3種は願人坊主なので、これを除くと、今日的観点から商人と認定できる残りの20種中7種が飴売であり、3分の1以上が飴売で占められていて最も多い。しかし、これはこの文献における特殊な傾向というわけではなく、同様の傾向は他の文献からも認められ、当時いかに多くの飴売が巷間に出ていたかが窺える・・・という。そんな中で、当時の飴うりがどんな飴の売り方をしていたか、詳しく調べて書いている。
土平飴売は江戸時代の飴売の中でも比較的よく知られた商人で、土平は飴売の名前である。明和年間(1764年〜1772年)に江戸の町に現われたらしく、奥州の出身で、当時五十歳余であったらしい。
この人物については大田南畝『売飴土平伝』(明和6年〔1769年〕自序)に詳しいとして、冒頭部分が記載されているが、漢文なのでちょっと判り難い。この土平については他にも多くの記述が残されているとして、他にも色々、採りあげている中で、読んで分かりやすいものを以下に2つ記す。
“明和の頃、土平といふ飴売来る。木綿の袖なし羽織、黄に染て虎斑を黒く染、紅絹裏を附、羽織の紐はいかにも 大く、くけ紐(くけ縫いにして作るひも)を付、浅黄の木綿頭巾をかぶり、飴を両懸に致、日傘をさし、江戸中売歩行。世人かたき討也ど評 せり。
其唄に、「土平があたまに蝿が三疋とまつた、只もとまれかし、雪駄はいてとまつたどへえどへえ、土平といふ たらなぜ腹たちやる、土平も若い時色男どへえどへえ」(『続飛鳥陥』)
“明和の頃までは、飴うり、修行者の類、異風なる形をするものなし。土平といふ飴うり、日がさをさし、土平 土平と染出したる袖なし羽織を着、土平飴とよび、二丁町・両国辺をあるき、歌をうたふ。其うたに、「土平とゆたと てなぜはらたちやる、土平もわかひときやいいんろおとこへ、どへえどへえ」とうとふ。(『明和誌』)
・・・といった具合に唄の中で、「どへえ、どへえ」と歌い町々を歩いた。そこで述べられているその姿は上掲の絵と同じである。
また、その歌謡もかなりの数が書き留められているが、それぞれの記述で若干の異同があるものの、ユーモア溢れる歌詞が人々に受け、明和年間の江戸の町ではきわめて注目を集めた飴売であったようだ。
又、江戸時代に登場する飴売りには唐人の姿としぐさをするものが際立って多いことも指摘されている。
「飴売り」は、前にも書いたように、地黄煎の販売特権をもつ供御人による「地黄煎商売座」に始まるが、室町・戦国時代になると「職人」の特権保障の実質が失われてゆく中、偽文書が盛んに作成されるようになり、西国では特権の由来が特定の天皇ないし天皇家の人々に結び付けられることが多くなり、又、戦国・江戸期の大名は、こうした偽文書そのままに認め「職人」の特権を承認している。
中世には宋や明の商人が多数来日し、日本各地を遍歴して商売をしていたが、そうした人々が寄り集まって、博多には11世紀に早くも宋人百堂と呼ばれる大唐街が生まている。
中世平安末期以降、供御人の称号を得て自由通行を保障され旅をした多彩な供御人の中には、唐人の活躍が目立つようになっているが、こうした大陸との動きの中、“綴米(とじまい。おこしのようなものか?)、唐唐(からのあめ)、豆糖(まめのあめ)の商売をしていた土井大炊助康之が、「唐紙に書きて印判を突いた『唐土(もろこし)の支証』をもつ介三郎が同じ商売を行なうことを営業妨害として幕府に訴えた。
「異朝の証文」を持って、「本朝の商売」をするのは不当だというのである。ところが介三郎の権利はすでに天皇の綸旨によって認められており、康之と介三郎は結局示談によって双方とも商売をするようになった。
介三郎の扱った飴はおそらく、南北朝期以降、中国大陸や琉球から盛んにもたらされた砂糖を用いた飴「唐糖」で、介三郎の祖先は先ず間違いなく唐人だったと見てよいだろう。
その所持した『唐土の支証』『異朝(外国の朝廷)の証文』がどのような文書であったかは知る由もないが、例え、それが偽文書であったとしても、天皇はそれを認め商売の特権を介三郎に保証したのである。“・・・ということが週間朝日百科『日本の歴史6・中世1−6海を海民と遍歴する人々』に書かれている。
又、戦前、東北地方では、薬売りを「トウジン」「トンジンサマ」と言っていたところもあるようだ。そのような歴史的背景を考えると、江戸中期に見られる飴売りの一部には唐人の流れを汲んで居る者も少なからずいたのではないだろうか(コトバンク唐人倉 とは又、宋人 とは参照)
岡本綺堂は『唐人飴』(※11:「青空文庫」参照)という小説を書いている。綺堂らしき若い新聞記者が、引退した明治時代半七老人を訪ねて昔の手柄話を聞くという構成になっており、この小説の中では、飴細工職人の話の中で以下のように書かれている。
「今の人たちは飴細工とばかり云うようですが、むかしは飴の鳥とも云いました」と、老人は説明した。「後にはいろいろの細工をするようになりましたが、最初は鳥の形をこしらえたものだそうです。そこで、飴細工を飴の鳥と云います。ひと口に飴屋と云っても、むかしはいろいろの飴屋がありました。そのなかで変っているのは唐人(とうじん)飴で、唐人のような風俗をして売りに来るんです。これは飴細工をするのでなく、ぶつ切りの飴ん棒を一本二本ずつ売るんです」
「じゃあ、和国橋(わこくばし)の髪結い藤次の芝居に出る唐人市兵衛、あのたぐいでしょう」
「そうです、そうです。更紗(さらさ)でこしらえた唐人服を着て、鳥毛の付いた唐人笠をかぶって、沓(くつ)をはいて、鉦(かね)をたたいて来るのもある、チャルメラを吹いて来るのもある。子供が飴を買うと、お愛嬌に何か訳のわからない唄を歌って、カンカンノウといったような節廻しで、変な手付きで踊って見せる。まったく子供だましに相違ないのですが、なにしろ形が変っているのと、変な踊りを見せるのとで、子供たちのあいだには人気がありました。いや、その唐人飴のなかにもいろいろの奴がありまして……」・・・と。
上掲の画像は、一蝶画譜. 初篇 / 英一蝶 [原画] ; 鈴鄰枩 筆「唐人飴」。画像は、以下参考の※12:「早稲田大学古典籍総合データベース」より借用。
江戸時代に新たに登場した飴は、唐、唐人のイメージと結びついている。
英一蝶の『一蝶画譜』(1770年頃刊)に登場する「唐人飴売り」は先端に房飾りのある尖った帽子を被り、腰にフリルの付いた短い上着にズボンを履き、手には軍配状の団扇(うちわ)を持つという朝鮮人ともポルトガル人ともとれる奇妙な「唐人」の格好をしている。(上図参照)。
貞享5年(1688年)刊の井原西鶴作『日本永代蔵』には、長崎で「南京より渡来せし菓子「金平糖」を売って財を成した男が登場する。
金平糖はポルトガル菓子コンフェイトがもとになった砂糖菓子であるが、その挿絵には唐人飴売りの唐人にきわめて酷似したポルトガル人の姿が描かれている。
いずれにせよ、近世には日本古来の糯米(もちごめ)・麦芽を原料とする水飴に漢方の原料である地黄を加え、練り固めるというおそらく1は、中世以来の唐人がもたらした中国系の技術を用いた飴と、長崎来航のポルトガル人により招来された南蛮菓子の系譜に連なる砂糖を原料とする飴との二種の堅飴が「唐人飴」「唐飴」として存在していたことだろうという(※13参照)。
『半七捕物帳 唐人飴』の飴細工職人の話の中で出てくる「唐人市兵衛」のことだが、「髪結藤次」の本名題は「三題噺高座新作(さんだいばなし こうざのしんさく)」で文久3年江戸市村座(元:江戸三座のひとつ)で初演されたとき、高座で三題噺(客から3つの題を貰い、その題を組み入れて即興でこしらえた噺〔話〕)が流行し、黙阿弥も「国性爺、乳貰い、髪結」という題で噺を作ってみたところ、好評だったため、それを芝居に仕立て直したものだそうだ。そこに唐人飴売りの市兵衛が登場する。
藤次は和国橋の辺りを流す髪結いで、通称・和国橋藤次、略して和藤と呼ばれている。彼は酒癖が悪く、女房おむつと喧嘩が絶えない。とうとう、女房の父親である唐人飴売りの市兵衛がおむつを連れて帰ってしまう。藤次は残された赤子を抱えて、乳貰いをして歩く。
そして、妾宅(神崎屋喜兵衛宅)でおきんが二階から藤次に赤い布にくるんだ金を渡してやる場面があるが、この赤い布は、初演当時、江戸で疱瘡(ほうそう。天然痘のこと)が大流行して、疱瘡除けの赤い布が飛ぶように売れたという世相を織り込んでのものだという。この噺の粗筋は参考に記載の※14を、東洲斎写楽の役者絵は※15を参照されると良い。
「チャルメラ」であるが、オーボエの祖先と云われるチャルメラは、16世紀の末・安土桃山時代の南蛮貿易の盛んだった頃、ポルトガルから渡来した木管楽器でポルトガル語のチャラメラがいつのまにかチャルメラとして呼ばれるようになったもの。渡来の当時は、「南蛮笛」と呼ばれ、明治時代には、中国人の飴売りが使っていたので「唐人笛」とも呼ばれていた。
有名な石川啄木もその作品、「一握の砂」(明治43年〔1910年〕)の中で
「飴売のチャルメラ聴けば うしなひし をさなき心 ひろへるごとし」 という歌を詠んでいる(※16参照)。
また、話の中に唐人飴売りは、お愛嬌に何か訳のわからない唄を歌って、“カンカンノウ”といったような節廻しで、変な手付きで踊って見せる・・・とあるが、「かんかんのう」は、江戸時代から明治時代にかけて民衆によって広く唱われていた俗謡で、別名「看々踊(かんかんおどり)」。
元歌は清楽(清国から伝来した、民謡、俗曲を中心とする音楽群の名称)の「九連環」だが、歌詞もメロディー(試聴)も元歌とはかなり変わっている。
文政3年(1820年)の春、長崎の人が大坂・難波・堀江の荒木座で踊った「唐人踊」に始まるという。これは、唐人ふうの扮装をした踊り手が、清楽の「九連環」の替え歌と、鉄鼓、太鼓、胡弓や蛇皮線などの伴奏にあわせて踊る、という興行的な出し物だった。その後、「唐人踊」は名古屋や江戸にも広まって大流行となり、流行の加熱のあまり、文政5年2月には禁令が出るほどであったという。
古典落語「らくだ 」では、肩にかついだ死体の手足を動かして「死人のかんかんおどり」を踊らせる、という場面がある。
また地方では、群馬県上野村のカンカンノーのように、郷土芸能として現在も伝承されているところがある(「かんかんのう」について詳しくは、参考の※17を参照)。
この唐人飴売りでは、文政年間の初め(1818年〜1823年)頃に、江戸の町に登場して、爆発的な人気を博した飴売に「あんなんこんなん唐人飴売」があったそうだ。
『近世商買尽狂歌合』(石塚 豊芥子著)には四番左に「安南こんなん飴」という当て字で見え、絵が描かれるが、その上には「唐のナァ唐人のネ言には「アンナンコンナン、おんなかたいしか、はへらくりうたい、こまつはかんけのナァ、スラスンヘン、スヘランシヨ、妙のうちよに、みせはつじよう、チウシヤカヨカパニ、チンカラモ、チンカラモウソ チンカラモウソ、かわようそこじやいナァ、パアパアパアパア」と書き入れられており、また、『近世商質尽狂歌合』には補遺部分にも、面部痘瘡(とうそう)の跡あり。なをるなをるあばたがなをると戯言しある也。是も文政の初より、年の頃五十位ひの男、図の 如き姿にて「あんなんこんなん」とわからぬ事を、声よく面白く唄ふ。のちのちは替り唱歌も作り、青物尽し鳥尽 し、其外いろいろ出来たり。市中の子供等皆真似せし也。・・・とあるようだ(※8参照)。
ここに出てくる痘瘡(とうそう)は疱瘡(天然痘)と同じこと。治癒しても瘢痕(はんこん。一般的にあばたと呼ぶ)を残すことから、そのあばた面を逆手にとって商売に使い面白く戯言にしている。当時疱瘡が大流行していたことが窺がえる。
兎に角、江戸の飴売りは奇抜な衣装と鳴り物で客を集めた。飴が売れると常磐津を唄い聞かせたり、狐の扮装で踊ってみせたりする飴売りもいたようである。なかでも人気はお萬が飴売りだったそうだ。独特の節回しで唄うようにして「可愛けりゃこそ神田から通う・・お萬が飴じゃ、一丁が4文」と売り歩いたが、この飴売りはもとは屋根職人だった男が女装したものだったそうだ。その突飛さが物見高い江戸っ子に受けて、お萬が飴は大あたり。天保10年(1839)には中村座の4世中村歌右衛門が春狂言で、お萬が飴の扮装を真似、常磐津で踊ってみせたことから、いよいよ大評判になったという(※18参照)。
これら他の飴売りの売り口上や歌など興味があれば、参考※8:「物売り歌謡続考」を参照されると良い。
最後に、もう一度岡本綺堂の 『半七捕物帳 唐人飴』にもどろう。
この物語の冒頭は以下の文で始まっている。
「こんにちでも全く跡を絶ったというのではないが、東京市中に飴売りのすがたを見ることが少なくなった。明治時代までは鉦(かね)をたたいて売りに来る飴売りがすこぶる多く、そこらの辻に屋台の荷をおろして、子どもを相手にいろいろの飴細工を売る。この飴細工と粉(しんこ)細工とが江戸時代の形見といったような大道(だいどう)商人(あきんど)であったが、キャラメルやドロップをしゃぶる現代の子ども達からだんだんに見捨てられて、東京市のまん中からは昔の姿を消して行くらしく、場末の町などで折りおりに見かける飴売りにも若い人は殆ど無い。おおかたは水洟(みずっぱな)をすすっているような老人であるのも、そこに移り行く世のすがたが思われて、一種の哀愁を誘い出さぬでもない。」
綺堂の 『半七捕物帳』は各編の背景に色濃く江戸時代の風俗が描きこまれていて魅力的であるが、この書き出し文の最後の皮肉っぽさがまた面白い。
最近、“なぜ老人は「飴ちゃん」を必ず携帯しているのだろうか?・・・と話題になる。
確かに、今はなき私の母や近隣の人達も年寄りの人・・・特に、おばあさんは、家に居るときだけでなく外出時でも必ず、飴を持っていて、小さな子供たちが近づいてくると、「あめちゃんあげようか?」と、何処からともなく飴を出してくる。
私も、家人もそれを見て、微笑ましくもあり、また、何となく滑稽な感じがしてくすくす笑ったりしていたものだが、今になってみると、私たち二人の必携品となっているのである。そう、若い時は滑稽に見えたことを年をとると今同じようにしているのである。
何故、飴を持っているかというと他の人は知らないが、少なくとも私たちの場合は、何も、口寂しいからではない。
思い起こせば、私たちが、飴を絶えず携行するようになったのは、私が現役を退き、家人と二人で毎日、裏山登山をし始めたときからのことである。
そのころは、登山をしているときに何か欲しくなったとき、持ち歩きに便利で、疲れたときの糖分補給にも役立つというようなことから携行したのだったと思う。
しかし、いまは 私が血圧も高くなり、家人は足が弱っていることから、山登などもしなくなったのだが外出時だけでなく家に居る時でもいつも手近なところに飴入れ飴を置いている。
多分‥老人になると唾液の分泌が少なくなるので、それを促す為の物が欲しくなるからではないだろうか。又、喉の弱い者など、年と共に悪化する傾向が有り、咳き込み易くなるので、喉を潤すと言う意味も有るのだろう。
そんなことで、飴をなめているので、どうしても、普通のあめより、のど飴を多く食べる。私の家では、数種類のものを混ぜて、いろいろな味を楽しむようにしているが、カンロ飴も定番の一つとなっている。
年取ると、本当にのどがあれ、のどの痛みをかんじたり声が出しにくくなり咳をする回数も増える。
年をとると風邪も引きやすくなるので、それがのどあれの原因となっていることも多い。
それに、水分不足になっても、喉の乾きを感じにくくなるので夏など、それが原因で、熱中症になりやすいが、これからの冬場も、夏場より湿度が低い上に、、暖房などで部屋が乾燥するから、喉が渇きやすくなるのだが、放っておくと不思議と、水分を補給していない。だから、余計に、喉がからからになるのだが・・・。
のど飴はのどの痛みや不快感を治す飴のこと。飴の成分で多く含んでいるのは蜂蜜、レモン、ハッカやメントールが多いようだ。効果としてはのどのあれや痛みの他に呼吸器の障害を和らげるとも言われている。
のど飴には医薬品、医薬部外品、食品の3種類がある。医薬品と医薬部外品として売られているのど飴の効果はのどのあれ痛み以外に声がれ、のどの腫れ、たん等に効果があるようだ。
もしのどがあれて痛んだりしてきたらトローチなどののどのあれや痛みを抑える効果のある薬をなめると良い。
いつも飴を携帯している年寄りが、若者には滑稽に見えるかもしれないが、年をとったものには、飴は良い食べものだろう。色々種類が多くあるので、自分に合ったものを、上手に食べるようにしよう。
寒い今年の冬、雨を食べて乗り切ろう!・・・・。ま、こんあことを落ちにして、このブログを終わろう。
(冒頭の画像は、群蝶画英. 初篇 / 英一蝶 筆 、 鄰松 纂・模「飴屋の絵」。画像は、※12:早稲田大学古典籍総合データベース:英 一蝶より借用)
※1:カンロ株式会社HP
http://www.kanro.co.jp/
※2:古典の館
http://www.kyoto.zaq.ne.jp/dkanp700/koten/koten.htm
※3:箋注倭名類聚抄/MANA抄訳
http://www.manabook.jp/kariyaekisai_senchuwayaku.htm
※4;砂糖|農畜産業振興機構
http://sugar.alic.go.jp/tisiki/tisiki.htm
※5:Yahoo知恵袋『世間胸算用』 巻三の三「小判は寝姿の夢』の口語訳ベストアンサー
http://y-bestanswer.com/result.phpp1=a&p2=&p3=34_1492792319&p4=10&PHPSESSID=elur8d8eucapajlss8lmlv6oo7
※6:レファレンス協同データベース ちとせあめ(千歳飴)の起源について知りたい。
http://crd.ndl.go.jp/GENERAL/servlet/detail.reference?id=1000085122
※7:江戸食文化紀行-江戸の美味探訪- no.96「千歳飴など」
http://www.kabuki-za.com/syoku/2/no96.html
※8:物売り歌謡続考
http://www.welead.net/html/13_Html_%E7%89%A9%E5%A3%B2%E3%82%8A%E6%AD%8C%E8%AC%A1%E7%B6%9A%E8%80%83_669.html
※9:浮世絵文献資料館
http://www.ne.jp/asahi/kato/yoshio/index.html
※10:早稲田大学古典籍総合データベース:売飴土平伝 / 舳羅山人 著 ; 春信 画
http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/he13/he13_02800/index.html
※11:青空文庫:岡本綺堂 『半七捕物帳 唐人飴』
http://www.aozora.gr.jp/cards/000082/files/1019_15031.html
※12:早稲田大学古典籍総合データベース:英 一蝶
http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/search.php?cndbn=%89p+%88%EA%92%B1
※13:近世における飴の製法と三官飴 八 百 啓 介(Adobe PDF)
https://www.kitakyu-u.ac.jp/_lib/monograph/human/files/bh007401yk.pdf#search='%E8%BF%91%E4%B8%96%E3%81%AB%E3%81%8A%E3%81%91%E3%82%8B%E9%A3%B4%E3%81%AE%E8%A3%BD%E6%B3%95%E3%81%A8%E4%B8%89%E5%AE%98%E9%A3%B4'
※14:疱瘡除けに因んだ芝居
http://77422158.at.webry.info/201005/article_12.html
※15;髪結藤次 - 早稲田大学演劇博物館 浮世絵閲覧
http://www.enpaku.waseda.ac.jp/db/enpakunishik/results-1.php?Max=9&haiyakukensaku=%C8%B1%B7%EB%C6%A3%BC%A1
※16:石川啄木:一握の砂
http://www.geocities.jp/itaka84/bookn/takuboku/takuboku5.html
※17:九連環と「かんかんのう」(明清楽資料庫)
http://www.geocities.jp/cato1963/singaku-02.html#kankanno1892
※18:『おまんが飴』 〜江戸の菓子事情(その68)『近世商売尽狂歌合
http://ameblo.jp/fushigisoshi/entry-10879897116.html
2011年4月号江戸時代の砂糖食文化|農畜産業振興機構
http://www.alic.go.jp/joho-s/joho07_000274.html
江戸食文化紀行バックナンバー
http://www.kabuki-za.com/syoku/bkindex.html
眠い人の植民地日記
http://nemuihito.at.webry.info/
飴考
http://homepage3.nifty.com/tkoikawa/zatsugaku/tonchinkan1_20/ame_koh.html
江戸の生業・唐人飴売り|食べ物歳時記
http://ameblo.jp/tachibana2007/entry-10330220424.html
浮世絵文献資料館
http://www.ne.jp/asahi/kato/yoshio/index.html
のど飴 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%AE%E3%81%A9%E9%A3%B4