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のど飴の日

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日本記念日協会に登録されている今日・11月15日の記念日にのど飴の日」があった。
1981(昭和56)年11月に、日本で初めて商品名に「のど飴」と名のつくのど飴「健康のど飴」を発売したカンロ株式会社(※1)が制定。2011(平成23)年の発売30周年を記念したもの。
日付は発売月の11月と、11月中旬より最低気温が一桁になりのど飴の需要期になること、11と15で「いいひと声」と読む語呂合わせなどから。 ・・・だそうだ。
同社は、を中心とした菓子を製造する食品メーカーであり、1912(大正元)年11月山口県光市にて創業。今年・2012(平成24)年11月10日で100周年を迎えたらしい。
1960(昭和35)年、カンロ飴の大ヒットにより社名をカンロ株式会社と改称。「カンロ」は漢字で「甘露」、天から降って人を癒したとされる水を語源に持っており、その語源のように人の口や心を癒したいというところから社名にしたそうだ。
同社のキャッチフレーズは「カンロはお口の童話です」。これは、人の心に愛を語りかけるような、夢のある製品づくりを心がけたい…と、そんな思いを込めた同社の合い言葉だという。
現在のど飴発売30周年を記念したキャンペーンを実施している。ここ参照。

飴は、デンプンを糖化して作った甘い菓子、および、砂糖やその他糖類を加熱して熔融した後、冷却して固形状にしたキャンディなどを指す。固形の飴を固飴(かたあめ)、粘液状の飴を水飴(みずあめ)と呼び、大別する。
最も古い文献としては、神武天皇東征の折、大和高尾において天下統一を祈願して飴をつくったという記載が『日本書紀』(巻第三)「神武天皇即位前期戊午年九月」条にある(参考※2:「古典の館」の日本書紀 巻第三のニ参照)。

「吾今当に八十平瓮(やそひらか)を以て、水無しに飴を造らむ。」

ここでは「」の字には「たがね」と訓じて あるので、飴は古くはタガネと言ったらしいが、これが「あめ」かどうかは定かではない。
ただ『日本書紀』は神話の時代に遡った伝承であり、「神武天皇の時代」とされる紀元前7世紀については不明であるが、同書が編纂された720年(養老4年)には、既に飴が存在していたことになる。

古代の飴は米などを原料にした水あめで、蔓草(つるくさ)の樹液を煮詰めてとる「甘葛(あまずら)」と並ぶ貴重な甘味料として、神饌用(神への奉げもの)としてとり扱われてきた。
奈良時代の天平9年(737年)の但馬国正税帳(但馬国の収支報告書。東大寺正倉院文書)には読経供養料として「阿米(あめ)」をつくるための米が献じられた記録がある。当時、飴には、阿米や餳、糖などの字も用いられていたようだ。
延喜式には諸国から貢納されていたことや平安京の西市に「糖(あめ)」の店があって市販されていたことが記されている。この当時、飴は諸国からの貢納品であったが、都ではその払下げが商品として売られていたのだろう。
平安時代中期に作られた辞書『和名類聚抄』には、「飴は米もやしの煎なり。阿女」と、記されているが、江戸時代に書かれた、『和妙類聚抄』の注釈研究書としての代表的な文献である『箋註和名抄(せんちゅうわみょうしょう)』(※3)には、「今の俗、飴を作るに麦もやし(麦芽)を用ふ。米もやしを用ひず」とあるそうだから、麦もやしを用いるようになったのは、後のことらしい。
『和名類聚抄』には又、おこしは「炒った米を蜜(水飴)とまぜてつくる」と言うことも載っているようなので、この頃には、すでに水飴を使用したお菓子もあったようだ。
それに、平安時代には、宮中では生薬の「地黄煎(じおうせん)」を服用する習慣があった。これは、漢方の地黄(アカヤジオウ)と水飴をまぜて練って服用した物で、後の時代には、地黄を入れていない水飴もこのように呼んだようだ(※4:「砂糖|農畜産業振興機構」の 視点 > 社会 >日本人と砂糖の交流史参照)。
宮内省典薬寮は、「供御薬」という宮中行事により、毎年旧暦11月1日、地黄煎を調達していた。
地黄煎の栽培・販売について、その後の供御人座を形成、この座による販売人を「地黄煎売」(じおうせんうり)といった。産地は摂津国和泉国、山城国葛野郡であった。
中世(12世紀 16世紀)期の「地黄煎売」の姿は、番匠(大工の前身)がかぶる竹皮製の粗末な笠である「番匠笠」、小型の桶を棒に吊るし振売のスタイルであった。
糖粽(飴粽)は、遅くとも15世(室町時代の中期)、興福寺塔頭であった大乗院(現存せず、跡地は現在の奈良ホテル)の門跡領であった大和国城上郡箸中村(現在の奈良県桜井市箸中)に、「糖粽座(あめちまきざ)」(餳粽座)が置かれていた。三代の大乗院門跡が記した『大乗院寺社雑事記』のうち、尋尊が記した長禄3年5月28日(1459年7月7日)条に「アメチマキ(箸ノツカ)」という記述がみられる。
「箸ノツカ」とは現在の箸墓古墳のことで、この地に「糖粽」を製造・販売する座が形成されていた。同座は三輪村に由来し「三輪座」(みわざ)とも呼ばれた。
三輪明神(大神神社)の大鳥居より南、かつ長谷川(初瀬川、現在の大和川)にかかる三輪大橋より北の地域で、「糖粽座」は「糖粽」を販売していた。当時近隣地区には幾つかの飴売を製造・販売するがあったが、箸墓の「糖粽座」と苅荘(現在の大軽町)の「煎米座」は、飴の販売でしばしば争いが起きていたという(ここ参照)。
室町時代、15世紀末の明応3年(1494年)に編纂された『三十二番職人歌合』の冒頭には、「いやしき身なる者」として、「地黄煎売」とともに「糖粽売(あめちまきうり)」として紹介され、曲物に入った糖(飴)を二本の箸で粽に塗布する行商人の姿が描かれている。

上掲の画像は、向かって左:地黄煎売、右:糖粽売の歌合(『三十二番職人歌合』、1494年、その1838年の模写)Wikipediaより。

この歌合に載せられた歌には、

手ごとにぞ とるはしつかの 糖ちまき 花をもみわの 昼の休みに

とあり、これは「箸塚」や「三輪」の地名に掛けたものである。同職人歌合が作成された京都においても、「箸塚・三輪の糖粽」が著名であったということである。
このころの振売を行っていた「地黄煎売」は、「飴売」とみなされていた。
飴が一般に身近なものになるのは江戸時代である。
江戸時代(17世紀 〜19世紀)にも、飴としての「地黄煎」は製造・販売されており、元禄5年(1692年)に井原西鶴が発表した『世間胸算用』にも、夜泣きに効くという趣旨で「摺粉に地黄煎入れて焼かへし」というフレーズで登場しているが、これは、京・伏見の里での話しである(※5参照)。
「地黄煎」は、もともとは薬とされたジオウの煎汁をいっていたのだが、やがてそれを水あめに加えたものをいうようになり、さらにジオウを入れないあめそのものの呼称になり、なまって〈ぎょうせん〉ともいっていたようだ。
太閤秀吉も口にしたといわれる大阪攝津の「平野あめ」や京都東福寺門前の菊一文字屋のものや桂の里の桂あめが有名で、飴の文化は上方で発展し、江戸に広まってゆき、これらは江戸で“〈下(くだ)りあめ“下りぎょうせん”と呼ばれて大いに珍重された。
江戸時代の文書に「ちゃうせん飴」と書かれて居るものがあり、これを「朝鮮飴」と誤読することがあるようだが、これは「地黄煎飴」の誤りだろう。
元禄・宝永の頃(1688〜1711)には、浅草浅草寺境内で「千歳飴」が売り出されて人気を博した。
この浅草寺で千歳飴を売出し者については二説ある。
一つは、先に書いた、大坂の「平野あめ」の製造者であるとする説。
大坂の平野(今の大阪市平野区の辺)は、中世には平野荘と呼ばれて、征夷大将軍坂上田村麻呂の次男で平野の開発領主となった坂上広野を「平野殿」と呼ばれた。その平野が地名になったという由来がある。
平野庄は近世には平野郷と呼ばれるようになり、その子孫という庶流の平野氏七名家と呼ばれる家々が周囲に環濠を巡らし自衛の形を固めた自治都市であった。
この地は大坂夏の陣では徳川家康の本陣と定められ、以降は徳川幕府代官が管理していた。
その地に、大阪夏の陣で豊臣方に敗れ浪人となった平野甚左衛門の子甚九郎重政が流れてきて飴屋となり、その後元禄・宝永の頃(1688〜1711)、江戸に出てきて、浅草寺境内で売りだしたのが「千歳飴」の始まりだというのである(※6参照)。
もう一説は、17世紀後半から18世紀初頭に掛けて、浅草で七兵衛と言う飴売が千歳飴を開発したとする説である。
千歳飴の始まりについては、江戸後期、文政8年(1825)刊の柳亭種彦の書いた考証随筆『還魂紙料』に千年飴(せんねんあめ)として 「元禄宝永のころ、江戸浅草に七兵衛といふ飴売あり。その飴の名を千年飴、また寿命糖ともいふ。今俗に長袋といふ飴に千歳飴(せんざいあめ)と書くこと、かの七兵衛に起れり」と書かれているという(※7)。
現在はちとせ飴と呼んでいるが、もとは、せんねん飴、せんざい飴と読んでいたようだ。
『還魂紙料』によれば「大道に肩をぬぎて天に指ざしし、広いお江戸にかくれなし、京にもよい若者まけぬを踊て……」とあって、天を指差して歌を歌い、踊って飴を売ったそうである。
享保年間(1716年〜1735年)に歌舞伎の道外方役者の中村吉兵衛が森田座で、この七兵衛に扮したと言われ、それを描いた一枚絵がかつて残されていた。それは『還魂紙料』に収録されているが、画賛には「ぶしゆうとしまのこおりゑどこびき(武州豊島郡江戸木挽)町、せんねん(千年)じゆめうとう(寿命糖)、いとびんせんねんなりけり」とあるようだ(以下参考の※8:「物売り歌謡続考」又、※9:「浮世絵文献資料館」の『日本随筆大成 第一期』 あ行 ◯『還魂紙料』参照)。
今日・11月15日は七五三であるが、江戸市中での七五三のお祝いは華美を極め、神社境内でお参りした後のお土産は例外なく千歳飴で大いに繁盛したという。

江戸中期には飴の種類も増え、縁日で細工飴も売られるようになった。まだ飴がやわらかいうちに成型した飴細工もあり、最初は、鳥や渦巻状にして彩色されただけのものだったが、次第に干支の動物などの細工をしてみせた。
江戸では中期ごろから街頭で飴が売り始められたようだ。当時江戸の巷では、様々な品を売り歩く多くの物売りが登場している。
その中でも、ごく最近まで、われわれの日常生活に離れがたい存在だった親しみ深い薬売りとともに、飴売りの人々が多かったようである。特に、「飴売り」は江戸では街頭で見られる最もポピュラーな行商人であったようである。
彼らは、独特な売り声を考案し、それぞれが競った。「土平飴」「お万飴」「鎌倉節飴」「唐人飴」「お駒飴」「あんけらこんけら糖」「ジョウセン飴(朝鮮飴といったりもした)」といってもわけのわからない飴売りが様ざま、子供相手に行商していた。
飴の名はいずれも、その売り声にちなんだものであった。そして、唄を歌ったり、浄瑠璃役者の声色、踊りなどを披露してサービスをしたというから、当時の子ども達には楽しい見世物でもあったろう。私などが子どもの頃には、正月やその他神社などの市では色んな大道芸の見世物があったが、最近は市でも単に物を売っているだけのつまらないものになってしまっている。現在のテレビっ子に見せてやりたいものである。

上掲の画像は、飴売り土平 。『飴売り土平伝』舳羅山人 著 、 春信 画。画像は、参考10:「早稲田大学古典籍総合データベース」より借用。
江戸時代の飴売りについては、参考に記載の※8:「物売り歌謡続考」が非常に詳しいが、江戸に流行した商人の様子を狂歌に詠じた文政12 年(1829年)に成立したとされる滝沢馬琴の『露緬廿三番狂歌合並附録』は、江戸時代末期の物売りの様子を具に伝える代表的な資料の一種だが、ここで芸能者を商人と同一土俵の上で取りあげているのは、中世の職人歌合以来の伝統を継承しているようだという。
この狂歌合には23種の職種が収録されているが、そのうち3種は願人坊主なので、これを除くと、今日的観点から商人と認定できる残りの20種中7種が飴売であり、3分の1以上が飴売で占められていて最も多い。しかし、これはこの文献における特殊な傾向というわけではなく、同様の傾向は他の文献からも認められ、当時いかに多くの飴売が巷間に出ていたかが窺える・・・という。そんな中で、当時の飴うりがどんな飴の売り方をしていたか、詳しく調べて書いている。
土平飴売は江戸時代の飴売の中でも比較的よく知られた商人で、土平は飴売の名前である。明和年間(1764年〜1772年)に江戸の町に現われたらしく、奥州の出身で、当時五十歳余であったらしい。
この人物については大田南畝『売飴土平伝』(明和6年〔1769年〕自序)に詳しいとして、冒頭部分が記載されているが、漢文なのでちょっと判り難い。この土平については他にも多くの記述が残されているとして、他にも色々、採りあげている中で、読んで分かりやすいものを以下に2つ記す。
“明和の頃、土平といふ飴売来る。木綿の袖なし羽織、黄に染て虎斑を黒く染、紅絹裏を附、羽織の紐はいかにも 大く、くけ紐(くけ縫いにして作るひも)を付、浅黄の木綿頭巾をかぶり、飴を両懸に致、日傘をさし、江戸中売歩行。世人かたき討也ど評 せり。
其唄に、「土平があたまに蝿が三疋とまつた、只もとまれかし、雪駄はいてとまつたどへえどへえ、土平といふ たらなぜ腹たちやる、土平も若い時色男どへえどへえ」(『続飛鳥陥』)
“明和の頃までは、飴うり、修行者の類、異風なる形をするものなし。土平といふ飴うり、日がさをさし、土平 土平と染出したる袖なし羽織を着、土平飴とよび、二丁町・両国辺をあるき、歌をうたふ。其うたに、「土平とゆたと てなぜはらたちやる、土平もわかひときやいいんろおとこへ、どへえどへえ」とうとふ。(『明和誌』)
・・・といった具合に唄の中で、「どへえ、どへえ」と歌い町々を歩いた。そこで述べられているその姿は上掲の絵と同じである。
また、その歌謡もかなりの数が書き留められているが、それぞれの記述で若干の異同があるものの、ユーモア溢れる歌詞が人々に受け、明和年間の江戸の町ではきわめて注目を集めた飴売であったようだ。
又、江戸時代に登場する飴売りには唐人の姿としぐさをするものが際立って多いことも指摘されている。

「飴売り」は、前にも書いたように、地黄煎の販売特権をもつ供御人による「地黄煎商売座」に始まるが、室町・戦国時代になると「職人」の特権保障の実質が失われてゆく中、偽文書が盛んに作成されるようになり、西国では特権の由来が特定の天皇ないし天皇家の人々に結び付けられることが多くなり、又、戦国・江戸期の大名は、こうした偽文書そのままに認め「職人」の特権を承認している。
中世には宋や明の商人が多数来日し、日本各地を遍歴して商売をしていたが、そうした人々が寄り集まって、博多には11世紀に早くも宋人百堂と呼ばれる大唐街が生まている。
中世平安末期以降、供御人の称号を得て自由通行を保障され旅をした多彩な供御人の中には、唐人の活躍が目立つようになっているが、こうした大陸との動きの中、“綴米(とじまい。おこしのようなものか?)、唐唐(からのあめ)、豆糖(まめのあめ)の商売をしていた土井大炊助康之が、「唐紙に書きて印判を突いた『唐土(もろこし)の支証』をもつ介三郎が同じ商売を行なうことを営業妨害として幕府に訴えた。
「異朝の証文」を持って、「本朝の商売」をするのは不当だというのである。ところが介三郎の権利はすでに天皇の綸旨によって認められており、康之と介三郎は結局示談によって双方とも商売をするようになった。
介三郎の扱った飴はおそらく、南北朝期以降、中国大陸や琉球から盛んにもたらされた砂糖を用いた飴「唐糖」で、介三郎の祖先は先ず間違いなく唐人だったと見てよいだろう。
その所持した『唐土の支証』『異朝(外国の朝廷)の証文』がどのような文書であったかは知る由もないが、例え、それが偽文書であったとしても、天皇はそれを認め商売の特権を介三郎に保証したのである。“・・・ということが週間朝日百科『日本の歴史6・中世1−6海を海民と遍歴する人々』に書かれている。
又、戦前、東北地方では、薬売りを「トウジン」「トンジンサマ」と言っていたところもあるようだ。そのような歴史的背景を考えると、江戸中期に見られる飴売りの一部には唐人の流れを汲んで居る者も少なからずいたのではないだろうか(コトバンク唐人倉 とは又、宋人 とは参照)

岡本綺堂は『唐人飴』(※11:「青空文庫」参照)という小説を書いている。綺堂らしき若い新聞記者が、引退した明治時代半七老人を訪ねて昔の手柄話を聞くという構成になっており、この小説の中では、飴細工職人の話の中で以下のように書かれている。

「今の人たちは飴細工とばかり云うようですが、むかしは飴の鳥とも云いました」と、老人は説明した。「後にはいろいろの細工をするようになりましたが、最初は鳥の形をこしらえたものだそうです。そこで、飴細工を飴の鳥と云います。ひと口に飴屋と云っても、むかしはいろいろの飴屋がありました。そのなかで変っているのは唐人(とうじん)飴で、唐人のような風俗をして売りに来るんです。これは飴細工をするのでなく、ぶつ切りの飴ん棒を一本二本ずつ売るんです」
「じゃあ、和国橋(わこくばし)の髪結い藤次の芝居に出る唐人市兵衛、あのたぐいでしょう」
「そうです、そうです。更紗(さらさ)でこしらえた唐人服を着て、鳥毛の付いた唐人笠をかぶって、沓(くつ)をはいて、鉦(かね)をたたいて来るのもある、チャルメラを吹いて来るのもある。子供が飴を買うと、お愛嬌に何か訳のわからない唄を歌って、カンカンノウといったような節廻しで、変な手付きで踊って見せる。まったく子供だましに相違ないのですが、なにしろ形が変っているのと、変な踊りを見せるのとで、子供たちのあいだには人気がありました。いや、その唐人飴のなかにもいろいろの奴がありまして……」・・・と。

上掲の画像は、一蝶画譜. 初篇 / 英一蝶 [原画] ; 鈴鄰枩 筆「唐人飴」。画像は、以下参考の※12:「早稲田大学古典籍総合データベース」より借用。
江戸時代に新たに登場した飴は、唐、唐人のイメージと結びついている。
英一蝶の『一蝶画譜』(1770年頃刊)に登場する「唐人飴売り」は先端に房飾りのある尖った帽子を被り、腰にフリルの付いた短い上着にズボンを履き、手には軍配状の団扇(うちわ)を持つという朝鮮人ともポルトガル人ともとれる奇妙な「唐人」の格好をしている。(上図参照)。
貞享5年(1688年)刊の井原西鶴作『日本永代蔵』には、長崎で「南京より渡来せし菓子「金平糖」を売って財を成した男が登場する。
金平糖はポルトガル菓子コンフェイトがもとになった砂糖菓子であるが、その挿絵には唐人飴売りの唐人にきわめて酷似したポルトガル人の姿が描かれている。
いずれにせよ、近世には日本古来の糯米(もちごめ)・麦芽を原料とする水飴に漢方の原料である地黄を加え、練り固めるというおそらく1は、中世以来の唐人がもたらした中国系の技術を用いた飴と、長崎来航のポルトガル人により招来された南蛮菓子の系譜に連なる砂糖を原料とする飴との二種の堅飴が「唐人飴」「唐飴」として存在していたことだろうという(※13参照)。
『半七捕物帳 唐人飴』の飴細工職人の話の中で出てくる「唐人市兵衛」のことだが、「髪結藤次」の本名題は「三題噺高座新作(さんだいばなし こうざのしんさく)」で文久3年江戸市村座(元:江戸三座のひとつ)で初演されたとき、高座で三題噺(客から3つの題を貰い、その題を組み入れて即興でこしらえた噺〔話〕)が流行し、黙阿弥も「国性爺、乳貰い、髪結」という題で噺を作ってみたところ、好評だったため、それを芝居に仕立て直したものだそうだ。そこに唐人飴売りの市兵衛が登場する。
藤次は和国橋の辺りを流す髪結いで、通称・和国橋藤次、略して和藤と呼ばれている。彼は酒癖が悪く、女房おむつと喧嘩が絶えない。とうとう、女房の父親である唐人飴売りの市兵衛がおむつを連れて帰ってしまう。藤次は残された赤子を抱えて、乳貰いをして歩く。
そして、妾宅(神崎屋喜兵衛宅)でおきんが二階から藤次に赤い布にくるんだ金を渡してやる場面があるが、この赤い布は、初演当時、江戸で疱瘡(ほうそう。天然痘のこと)が大流行して、疱瘡除けの赤い布が飛ぶように売れたという世相を織り込んでのものだという。この噺の粗筋は参考に記載の※14を、東洲斎写楽の役者絵は※15を参照されると良い。
「チャルメラ」であるが、オーボエの祖先と云われるチャルメラは、16世紀の末・安土桃山時代の南蛮貿易の盛んだった頃、ポルトガルから渡来した木管楽器でポルトガル語のチャラメラがいつのまにかチャルメラとして呼ばれるようになったもの。渡来の当時は、「南蛮笛」と呼ばれ、明治時代には、中国人の飴売りが使っていたので「唐人笛」とも呼ばれていた。
有名な石川啄木もその作品、「一握の砂」(明治43年〔1910年〕)の中で
「飴売のチャルメラ聴けば うしなひし をさなき心 ひろへるごとし」 という歌を詠んでいる(※16参照)。
また、話の中に唐人飴売りは、お愛嬌に何か訳のわからない唄を歌って、“カンカンノウ”といったような節廻しで、変な手付きで踊って見せる・・・とあるが、「かんかんのう」は、江戸時代から明治時代にかけて民衆によって広く唱われていた俗謡で、別名「看々踊(かんかんおどり)」。
元歌は清楽(清国から伝来した、民謡、俗曲を中心とする音楽群の名称)の「九連環」だが、歌詞もメロディー(試聴)も元歌とはかなり変わっている。
文政3年(1820年)の春、長崎の人が大坂・難波堀江の荒木座で踊った「唐人踊」に始まるという。これは、唐人ふうの扮装をした踊り手が、清楽の「九連環」の替え歌と、鉄鼓、太鼓、胡弓や蛇皮線などの伴奏にあわせて踊る、という興行的な出し物だった。その後、「唐人踊」は名古屋や江戸にも広まって大流行となり、流行の加熱のあまり、文政5年2月には禁令が出るほどであったという。
古典落語「らくだ 」では、肩にかついだ死体の手足を動かして「死人のかんかんおどり」を踊らせる、という場面がある。
また地方では、群馬県上野村のカンカンノーのように、郷土芸能として現在も伝承されているところがある(「かんかんのう」について詳しくは、参考の※17を参照)。
この唐人飴売りでは、文政年間の初め(1818年〜1823年)頃に、江戸の町に登場して、爆発的な人気を博した飴売に「あんなんこんなん唐人飴売」があったそうだ。
『近世商買尽狂歌合』(石塚 豊芥子著)には四番左に「安南こんなん飴」という当て字で見え、絵が描かれるが、その上には「唐のナァ唐人のネ言には「アンナンコンナン、おんなかたいしか、はへらくりうたい、こまつはかんけのナァ、スラスンヘン、スヘランシヨ、妙のうちよに、みせはつじよう、チウシヤカヨカパニ、チンカラモ、チンカラモウソ チンカラモウソ、かわようそこじやいナァ、パアパアパアパア」と書き入れられており、また、『近世商質尽狂歌合』には補遺部分にも、面部痘瘡(とうそう)の跡あり。なをるなをるあばたがなをると戯言しある也。是も文政の初より、年の頃五十位ひの男、図の 如き姿にて「あんなんこんなん」とわからぬ事を、声よく面白く唄ふ。のちのちは替り唱歌も作り、青物尽し鳥尽 し、其外いろいろ出来たり。市中の子供等皆真似せし也。・・・とあるようだ(※8参照)。
ここに出てくる痘瘡(とうそう)は疱瘡(天然痘)と同じこと。治癒しても瘢痕(はんこん。一般的にあばたと呼ぶ)を残すことから、そのあばた面を逆手にとって商売に使い面白く戯言にしている。当時疱瘡が大流行していたことが窺がえる。
兎に角、江戸の飴売りは奇抜な衣装と鳴り物で客を集めた。飴が売れると常磐津を唄い聞かせたり、狐の扮装で踊ってみせたりする飴売りもいたようである。なかでも人気はお萬が飴売りだったそうだ。独特の節回しで唄うようにして「可愛けりゃこそ神田から通う・・お萬が飴じゃ、一丁が4文」と売り歩いたが、この飴売りはもとは屋根職人だった男が女装したものだったそうだ。その突飛さが物見高い江戸っ子に受けて、お萬が飴は大あたり。天保10年(1839)には中村座の4世中村歌右衛門が春狂言で、お萬が飴の扮装を真似、常磐津で踊ってみせたことから、いよいよ大評判になったという(※18参照)。
これら他の飴売りの売り口上や歌など興味があれば、参考※8:「物売り歌謡続考」を参照されると良い。
最後に、もう一度岡本綺堂の 『半七捕物帳 唐人飴』にもどろう。
この物語の冒頭は以下の文で始まっている。
「こんにちでも全く跡を絶ったというのではないが、東京市中に飴売りのすがたを見ることが少なくなった。明治時代までは鉦(かね)をたたいて売りに来る飴売りがすこぶる多く、そこらの辻に屋台の荷をおろして、子どもを相手にいろいろの飴細工を売る。この飴細工と粉(しんこ)細工とが江戸時代の形見といったような大道(だいどう)商人(あきんど)であったが、キャラメルやドロップをしゃぶる現代の子ども達からだんだんに見捨てられて、東京市のまん中からは昔の姿を消して行くらしく、場末の町などで折りおりに見かける飴売りにも若い人は殆ど無い。おおかたは水洟(みずっぱな)をすすっているような老人であるのも、そこに移り行く世のすがたが思われて、一種の哀愁を誘い出さぬでもない。」

綺堂の 『半七捕物帳』は各編の背景に色濃く江戸時代の風俗が描きこまれていて魅力的であるが、この書き出し文の最後の皮肉っぽさがまた面白い。
最近、“なぜ老人は「飴ちゃん」を必ず携帯しているのだろうか?・・・と話題になる。
確かに、今はなき私の母や近隣の人達も年寄りの人・・・特に、おばあさんは、家に居るときだけでなく外出時でも必ず、飴を持っていて、小さな子供たちが近づいてくると、「あめちゃんあげようか?」と、何処からともなく飴を出してくる。
私も、家人もそれを見て、微笑ましくもあり、また、何となく滑稽な感じがしてくすくす笑ったりしていたものだが、今になってみると、私たち二人の必携品となっているのである。そう、若い時は滑稽に見えたことを年をとると今同じようにしているのである。
何故、飴を持っているかというと他の人は知らないが、少なくとも私たちの場合は、何も、口寂しいからではない。
思い起こせば、私たちが、飴を絶えず携行するようになったのは、私が現役を退き、家人と二人で毎日、裏山登山をし始めたときからのことである。
そのころは、登山をしているときに何か欲しくなったとき、持ち歩きに便利で、疲れたときの糖分補給にも役立つというようなことから携行したのだったと思う。
しかし、いまは 私が血圧も高くなり、家人は足が弱っていることから、山登などもしなくなったのだが外出時だけでなく家に居る時でもいつも手近なところに飴入れ飴を置いている。
多分‥老人になると唾液の分泌が少なくなるので、それを促す為の物が欲しくなるからではないだろうか。又、喉の弱い者など、年と共に悪化する傾向が有り、咳き込み易くなるので、喉を潤すと言う意味も有るのだろう。
そんなことで、飴をなめているので、どうしても、普通のあめより、のど飴を多く食べる。私の家では、数種類のものを混ぜて、いろいろな味を楽しむようにしているが、カンロ飴も定番の一つとなっている。
年取ると、本当にのどがあれ、のどの痛みをかんじたり声が出しにくくなり咳をする回数も増える。
年をとると風邪も引きやすくなるので、それがのどあれの原因となっていることも多い。
それに、水分不足になっても、喉の乾きを感じにくくなるので夏など、それが原因で、熱中症になりやすいが、これからの冬場も、夏場より湿度が低い上に、、暖房などで部屋が乾燥するから、喉が渇きやすくなるのだが、放っておくと不思議と、水分を補給していない。だから、余計に、喉がからからになるのだが・・・。
のど飴はのどの痛みや不快感を治す飴のこと。飴の成分で多く含んでいるのは蜂蜜、レモン、ハッカやメントールが多いようだ。効果としてはのどのあれや痛みの他に呼吸器の障害を和らげるとも言われている。
のど飴には医薬品、医薬部外品、食品の3種類がある。医薬品と医薬部外品として売られているのど飴の効果はのどのあれ痛み以外に声がれ、のどの腫れ、たん等に効果があるようだ。
もしのどがあれて痛んだりしてきたらトローチなどののどのあれや痛みを抑える効果のある薬をなめると良い。
いつも飴を携帯している年寄りが、若者には滑稽に見えるかもしれないが、年をとったものには、飴は良い食べものだろう。色々種類が多くあるので、自分に合ったものを、上手に食べるようにしよう。
寒い今年の冬、雨を食べて乗り切ろう!・・・・。ま、こんあことを落ちにして、このブログを終わろう。

(冒頭の画像は、群蝶画英. 初篇 / 英一蝶 筆 、 鄰松 纂・模「飴屋の絵」。画像は、※12:早稲田大学古典籍総合データベース:英 一蝶より借用)
※1:カンロ株式会社HP
http://www.kanro.co.jp/
※2:古典の館
http://www.kyoto.zaq.ne.jp/dkanp700/koten/koten.htm
※3:箋注倭名類聚抄/MANA抄訳
http://www.manabook.jp/kariyaekisai_senchuwayaku.htm
※4;砂糖|農畜産業振興機構
http://sugar.alic.go.jp/tisiki/tisiki.htm
※5:Yahoo知恵袋『世間胸算用』 巻三の三「小判は寝姿の夢』の口語訳ベストアンサー
http://y-bestanswer.com/result.phpp1=a&p2=&p3=34_1492792319&p4=10&PHPSESSID=elur8d8eucapajlss8lmlv6oo7
※6:レファレンス協同データベース ちとせあめ(千歳飴)の起源について知りたい。
http://crd.ndl.go.jp/GENERAL/servlet/detail.reference?id=1000085122
※7:江戸食文化紀行-江戸の美味探訪- no.96「千歳飴など」
http://www.kabuki-za.com/syoku/2/no96.html
※8:物売り歌謡続考
http://www.welead.net/html/13_Html_%E7%89%A9%E5%A3%B2%E3%82%8A%E6%AD%8C%E8%AC%A1%E7%B6%9A%E8%80%83_669.html
※9:浮世絵文献資料館
http://www.ne.jp/asahi/kato/yoshio/index.html
※10:早稲田大学古典籍総合データベース:売飴土平伝 / 舳羅山人 著 ; 春信 画
http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/he13/he13_02800/index.html
※11:青空文庫:岡本綺堂 『半七捕物帳 唐人飴』
http://www.aozora.gr.jp/cards/000082/files/1019_15031.html
※12:早稲田大学古典籍総合データベース:英 一蝶
http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/search.php?cndbn=%89p+%88%EA%92%B1
※13:近世における飴の製法と三官飴 八 百 啓 介(Adobe PDF)
https://www.kitakyu-u.ac.jp/_lib/monograph/human/files/bh007401yk.pdf#search='%E8%BF%91%E4%B8%96%E3%81%AB%E3%81%8A%E3%81%91%E3%82%8B%E9%A3%B4%E3%81%AE%E8%A3%BD%E6%B3%95%E3%81%A8%E4%B8%89%E5%AE%98%E9%A3%B4'
※14:疱瘡除けに因んだ芝居
http://77422158.at.webry.info/201005/article_12.html
※15;髪結藤次 - 早稲田大学演劇博物館 浮世絵閲覧
http://www.enpaku.waseda.ac.jp/db/enpakunishik/results-1.php?Max=9&haiyakukensaku=%C8%B1%B7%EB%C6%A3%BC%A1
※16:石川啄木:一握の砂
http://www.geocities.jp/itaka84/bookn/takuboku/takuboku5.html
※17:九連環と「かんかんのう」(明清楽資料庫)
http://www.geocities.jp/cato1963/singaku-02.html#kankanno1892
※18:『おまんが飴』 〜江戸の菓子事情(その68)『近世商売尽狂歌合
http://ameblo.jp/fushigisoshi/entry-10879897116.html
2011年4月号江戸時代の砂糖食文化|農畜産業振興機構
http://www.alic.go.jp/joho-s/joho07_000274.html
江戸食文化紀行バックナンバー
http://www.kabuki-za.com/syoku/bkindex.html
眠い人の植民地日記
http://nemuihito.at.webry.info/
飴考
http://homepage3.nifty.com/tkoikawa/zatsugaku/tonchinkan1_20/ame_koh.html
江戸の生業・唐人飴売り|食べ物歳時記
http://ameblo.jp/tachibana2007/entry-10330220424.html
浮世絵文献資料館
http://www.ne.jp/asahi/kato/yoshio/index.html
のど飴 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%AE%E3%81%A9%E9%A3%B4


紅葉狩り

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日本では、紅葉する季節になると、人によっては紅葉狩り(もみじがり)も一つの行事になっているかも知れない。
樹木の分類には、マツやスギなど1年を通じて葉が落ちない常緑樹と、サクラ、カエデ、ブナ、イチョウなど冬や乾期に葉の落ちる落葉樹があり、落葉樹が紅葉する。
落葉樹は春に冬芽が発芽して葉を展開し、夏の間に盛んに光合成をして、自らを生長させたり、種子を作るための養分を貯蔵する。そして、秋になり気温が下がってきたとき、薄い葉を持つ落葉樹が緑の葉をつけたままでいると、葉の葉緑体での光合成能力が落ち、植物体(植物の個体)を維持できなくなる。
また、乾燥する冬には葉裏の気孔からどんどん水分を奪われてしまい、樹木全体が死んでしまうことになる。そこで樹木は生育に不利な時期には一度に落葉して、休眠芽(形成されたのち、生長を止めて休眠状態にある芽。)や冬芽の形で休眠する。
一方の、常緑樹は常緑といっても全く落葉しないわけではなく、毎年新しい葉が展開して、古いものから落葉していくが目立たないだけである(植物における休眠参照)。
紅葉(こうよう)とは、こうした樹木の冬支度をしている姿であり、冬に葉を落とすために、秋になって気温が下がりだすと分や水分などの供給を中止すると、葉緑素が壊れてしまうため、今まで見えなかったカロチノイドという黄色色素が浮き出て見え、これが黄色く色づくイチョウなどの黄葉(こうよう、おうよう)である。
また、葉の中に残った糖分によってアントシアンというい色素が出来ていると赤が目立ってくるので、カエデのような赤い紅葉(こうよう) になる。
そして、ブナケヤキなど褐色に変わるのを「褐葉(かつよう)」と呼ぶが、これらを厳密に区別するのが困難な場合も多く、いずれも「紅葉」として扱われることが多い(※1参照)。
同じ種類の木でも、生育条件や個体差によって、赤くなったり黄色くなったりすることがある。
葉が何のために色づくのかについては、その理由は諸説あるが、いまだ明らかになっておらず、落葉する過程でそういう色になるというしか言い様がないらしい。
が深まり、朝晩の気温が下がってくると、草木の葉が赤や黄に色づき、深山で見られる圧倒的な紅葉には誰しもが心打たれるが、一般に紅葉は、落葉樹のものが有名であり、カエデ科の数種を特に“モミジ”と呼ぶことが多く、実際に“モミジ”の紅葉が鮮やかな木の代表種であることに間違いはない。
日本の紅葉は9月頃から北海道の大雪山を手始めに始まり、徐々に南下する。紅葉が始まってから完了するまでは約1か月かかる。見頃は開始後20〜25日程度で、時期は北海道と東北地方が10月、関東から九州では11月から12月初め頃まで。また、山間部や内陸では朝晩の冷え込みが起こりやすいために、通常これより早い。
ただ、同じ場所でも毎年色の具合が違う。紅葉の良し悪しには、赤い色素となる糖分が光合成によって作られていることから、日中の天気が良いこと。次に、夜の気温が高いと、昼間作った糖分を使って活動してしまうため鮮やかな赤にならない。そのため、昼と夜の寒暖の差があること。そして、乾燥しすぎると葉が紅葉する前に枯れてしまうことから、適度な雨や水分があることなど、この3つの条件が揃うと真っ赤に色づき綺麗に紅葉する。
紅葉の名所と言われる所(全国的には奥入瀬(青森県)や日光(栃木県)、京都の社寺などが有名)に、渓谷や川沿いが多いのは、こうした条件が揃っているからである。
日本では紅葉の見頃の推移を桜前線と対比して「紅葉前線」と呼ぶが、この前線は寒い北から南へ、山から下の平野部へと進んでゆく。
古の人は奈良の竜田山に住む「竜田姫」という女神が秋を司り、その着物の袖を振って山々を染めていくとしており、平安時代前期の勅撰和歌集である『古今和歌集』(略称『古今集』)の巻五 秋歌下(※2参照)二九八番に次の歌が収められている。

竜田姫 たむくる神の あればこそ 秋の木の葉の 幣(ぬさ)と散るらめ (作者:兼覧王。※2の千人万首 兼覧王参照)

歌の意は、旅立つ竜田姫には手向けをする神さまがいらっしゃるので、秋の木(こ)の葉が神へのささげ物として散るのでしょうといったもの。
竜田山は、生駒山地の最南端、信貴山の南に連なる大和川北岸の山々の総称であり、竜田川流域にあって、その下流は平安時代より、紅葉(もみじ)の名所として名高く、歌枕として多くの和歌に詠まれている。
幣(ぬさ)とは、神に祈る時、神前に供えて撒(ま)く物で、当時、小さく切った布(麻や葛など植物繊維の布のこと)や帛(はく、絹の布のこと)、紙などを用いた。
この歌は、散る紅葉を竜田姫の幣に見立てており、竜田姫を紅葉の化身(秋の女神)とすることによって、秋という季節が華麗に表象されている。
この竜田姫が秋をつかさどる神とされたのは、竜田山一帯が平城京の西に当たり、「西」は陰陽五行説で「秋」にあたるからだといわれている(逆に春は東)。
そして、竜田姫は、佐保姫(さほひめ)が春霞の化身(春の女神)であるのに対し、竜田姫は紅葉の化身(秋の女神)として、東西・春秋の一対の女神として知られる。
又、竜田姫は、「龍田比古龍田比女神社」(龍田神社)に祭られれていた夫神・龍田比古神(竜田彦)同様、いまだ土着の神(秋の風を司る風神)としての面影も宿している。

283 竜田河紅葉乱(みだれ)て流るめり渡らば錦中やたえなむ(今和歌集、読人知らず)

『今和歌集』における竜田の歌の中で、最も古いと捉えられる上掲の二八三番歌も「平城(なら)の帝(みかど)」の歌」として伝承されているようで、竜田川に流れる紅葉がに見立てられている。
紅葉は錦織に喩えられるが、竜田姫は染織物の名手であり、時雨を縦糸に露・霜を横糸にして織ったといわれている。紅葉の色は時雨・露が染めたと思われていた古代・中世ならではの発想である。
この歌も含めて『古今集』の竜田の歌は十四首で、その中の十首が秋の歌である。しかもすべて「竜田川」の紅葉が詠まれており、このように歌枕としての竜田の季節が秋に固定されるようになったきっかけも、先ほどの五行説が反映されたからであろうという。詳しくは、参考※3:※4を参照されると良い。
今の季節、温暖な関西、特に京都の社寺など紅葉で有名なところは、どこも紅葉狩りの行楽客で大いに賑わっていることだろう。今日、明日は天気がよくないが、土日は回復しそうで良かったですね。

上掲の画像は、我が地元兵庫県神戸市北区の有馬温泉郷にある都市公園瑞宝寺公園の紅葉である。温泉街の最高部(標高500m)に位置し、紅葉の名所として知られている。写真は、今年のものではなく2004年11月25日撮影のものであり、時期的には丁度今頃が見ごろである。
歴史的には、豊臣秀吉も有馬をたびたび訪れていたといわれる。秀吉が「いくら見ても飽きない」などと瑞宝寺の紅葉を気に入ったという故事から、この地の紅葉には「日暮しの庭」、「錦繍谷」の別称がある。
公園内には、小倉百人一首にも詠まれている大弐三位(だいにのさんみ。女房三十六歌仙の一人。藤原宣孝の女、母は紫式部。本名は藤原賢子〔ふじわら の かたいこ/けんし〕)の和歌「有馬山猪名の笹原風吹けばいでそよ人を忘れやはする」の歌碑もある。(歌の意は※2:「やまとうた」の千人万首 大弐三位 参照)

上掲の紅葉の画像は、京都の嵯峨野にある常寂光院のもの(2002年11月14日撮影のもの)。
百人一首で詠まれる小倉山の中腹の斜面にあって境内からは嵯峨野を一望でき、秋は全山紅葉に包まれる。その常寂光土のような風情から寺号がつけられたとされる。木下から光を透かしてモミジの葉の裏から見る光景が素晴らしい。

又、上掲の画像は、勝川春潮画「海晏寺の楓狩」東京国立図書館蔵。 大判錦絵3枚続きの 右2枚である。
江戸の名所は幾つかあるが、品川海晏寺(かいあんじ)に止めを刺すといわれていたようで、俗謡にも、
「あれ見やしゃんせ海晏寺 ままよ竜田が高尾でも 及びないぞえ紅葉狩り」・・と、
昔から紅葉の名所として有名で、奈良の竜田や京の高尾(高雄。京都市右京区の清滝川に沿う景勝地で、北に接する栂尾〔とがのお〕・槙尾〔まきのお〕とともに三尾〔さんび〕とよばれる紅葉の名所)さえ及ばないほどだと謡われている(※5)。
ここでは、「紅葉狩り」を「楓狩」と表記している。つまり。”モミジ(紅葉)”ではなく、”カエデ(楓)”と書いているのである。

日本では、“モミジ”が、紅葉する季節に紅葉を見物をすることを紅葉狩り(もみじがり)紅葉狩りと言っているがそれはなぜか・・・?

900年頃成立した菅原道真撰と伝えられる歌集『新撰万葉集』は、万葉仮名で書かれた和歌と、和歌を漢詩に読み替えたものが載せられており、そこに載せられた猿丸大夫の和歌に小倉百人一首でも有名な以下の歌がある。

奥山に紅葉ふみわけなく鹿のこゑきく時ぞ秋はかなしき (百人一首5番、)

この歌は、新撰万葉集では、万葉仮名で以下のように書かれている。

奥山丹 黄葉踏別 鳴鹿之 音聆時曾 秋者金敷
(おくやまに もみぢふみわけ なくしかの こゑきくときぞ あきはかなしき)

歌意は、奧山に、黄葉した萩の下枝を踏み分けて鳴く、鹿の声が聞こえる。−そんな時だ、秋は悲しい季節だと感じるのは・・・といったとこらしい。(※6:「やまとうた」の小倉百人一首 注釈:猿丸大夫参照)

なお『古今和歌集』215番では「読み人しらず」とされており、「おくやまに」の歌は『猿丸大夫集(猿丸集)』にも入っているが語句に異同があり、「あきやまの もみぢふみわけ なくしかの こゑきく時ぞ 物はかなしき」となっている(御所本三十六人集に拠る)。
猿丸大夫は実に謎の多い人物で、私もファンである哲学者の梅原猛は『水底の歌-柿本人麻呂論』において、柿本人麻呂説を説きその評論で大佛次郎賞受賞指定している。
なぜ猿丸大夫の歌が「よみ人しらず」とされてしまったのか・・・など。興味のある人は、(※6 「やまとうた」の百人一首のなぜこの人・なぜこの一首:第5番猿丸大夫を読まれると良い。

そのようなことはさておき、花札の「モミジに、シカ(鹿)」の取り合わせは、この歌による(上掲の画像は花札「モミジと鹿」)。
葉が落ちて、獣の動きが捉え易く、弓矢で狩り易くなる季節が「秋」であり、この時期が当時のシカ狩りに適した季節であった。
本来なら獣などを捕まえるという意味の「狩り」が、時代とともに小動物や野鳥を捕まえるという意味にも広がり、さらには動植物を採るという意味(みかん狩りやイチゴ狩りなどの「果実狩り」や「潮干狩り」など)になって、草花などの自然を観賞するという意味(「紅葉狩り」「桜狩り(※7)」)の意味をもつようになった。
特に観賞する意味になったのは、狩猟をしない貴族が花や草木を眺めるために野山をめぐる様子を、狩りにたとえるようになったからである。
ただ、実際に。古代(奈良時代あたりまで)、貴族の間では紅葉の枝をもぎ取って賞でるという風習が実際にあった。「花を見る」ことを「花狩り」といい、「紅葉を見る」ことを「紅葉狩り」というのは、花や紅葉をただ眼でみるだけではなく、枝を折るという行動を通して自然との関わりをもとうとする行為だったといえる。
そして、桜などもただ見るだけではなく、実際に枝を折って頭に挿したりした。つまり、能動的に折るという行為で、花と関係をもつことによって親しむという思想である。
そのことは、以前の私のブログ3月16日十六団子の日でも詳しく触れたのでそこを見て欲しいが、農耕民族である日本人の農業は木を倒し、土を掘り起こし、草木を刈るという反自然の環境破壊行為であり、そのような環境破壊行為をすることによって、人は生きてゆけた。そのような生きてゆくための行為への神への感謝の気持ちをこめて、始められたのが、花見の始まりだったのである。
そのような風習から、よく色づいた枝葉を折って、部屋に飾ったり、外出もままならない貴人に献上したり、思いを寄せる人に贈ったりしていたが、平安時代以降は、邸宅や寺院の敷地内にカエデなどを植えてそのまま鑑賞することが多くなり、わざわざ山に入って枝を折って持ち帰る風習は廃れていき、そして「紅葉狩り」という言葉だけが残っようだ。
日本にはカエデ属の植物は多種あるが、各地でごく普通に見るのはイロハモミジオオモミジである。イロハモミジはタカオカエデとも呼ばれるが、この名は前に述べた京都の清滝川渓谷の高雄に因んだものである。
紅葉見物のことを「モミジ狩り」というが、学術的には「モミジ」という植物はなく、植物分類上はカエデもモミジもともにカエデ属樹木を表す同義語であるが、園芸界ではイロハモミジ、オオモミジ、ハウチワカエデなどイロハモミジ系のものをモミジといい、それ以外のイタヤカエデウリハダカエデなどをカエデとして区別する習慣があるようだ。
日本では、一般にはカエデに、楓の漢字をあてるが、中国で楓とはマンサク科の植物であるフウのことで、カエデは槭と書くらしい。フウは日本には自生しないが、葉形がややカエデに似ているので両者を混同したのだろうという。
万葉集巻八に:大伴田村大嬢の詠んだ以下の歌が見られる。

原文:吾屋戸尓 黄變蝦手 毎見 妹乎懸管 不戀日者無(巻八-1623)

読み:我がやど(宿)に もみつ蝦手(かえるで)見るごとに 妹を懸(か)けつつ 恋ひぬ日はなし
歌意:家の庭の紅葉した蝦手(かえるで)=楓(かえで)を見るたびに、あなたのことを思って、恋しくないなんて日はありませんよ。
異母姉の坂上大嬢(さかのうえのだいじょう)に贈った歌である(※8:「たのしい万葉集:」の楓(かえで)を詠んだ歌参照)。
ここでももみじに「黄葉」の漢字を宛てており、「もみじ」と詠んでいるが、本来「もみじ」は動詞であり、草木が秋になって変色することを「もみつ」などといったが、カエデが一番美しく紅葉するので、その別名詞となったのだろういう。 
なお、「もみつ」よりも古くは「もみち」ともよまれている例がある。万葉集巻十-2205、作者不明の以下の歌参照。

秋萩の下葉もみちぬあらたまの 月の経ぬれば風をいたみかも

歌意:秋萩の下葉が赤くなってきた。月が経って行くにつれて風がはげしく吹くからであろうか。
以下参考の※9 「秋萩の 下葉もみちぬ あらたまの(京都府立山城郷土資料館)」では、この歌について詳しく検証をしているが、記紀歌謡には「モミチ」の歌は収録されておらず、万葉集には 「モミチ」・「モミツ」・・・と発音するものは99首、102例。うち、「黄葉」と表記するものが70例と圧倒的に多く、大半が、「モミチ」 = 「黄葉」で、「紅葉」 ・ 「赤」 ・ 「赤葉」の表記はたったの4例しかないという。そして、「モミチ」は巻8と巻10 に集中しているという。
この「秋萩の・・・」の歌の原文は、以下である。

秋芽子乃 下葉赤 荒玉乃 月之歴去者 風疾鴨

冒頭部分「秋芽子乃 下葉赤」は「「アキハギノ シタバモミチ」であり、「モミチ」は普通、万葉集では 「黄葉」と表記するものを、この歌の、「下葉赤」の赤という表現は、極めて稀であり、この歌を訓読みで収録した万葉集の担当者は、の下葉が色づき始めた黄色ではないよ。月が経って行くにつれて、風がはげしく吹いたから萩の下葉の色がさらに色が濃くなって、晩秋の枯葉色に紅葉したということを言いたかったので、あえて「赤」という漢字を使ったのではないかと言っている。
万葉集の常識 「モミチ」 = 「黄葉」 は誰が設定したか。・・それは、柿本人麻呂が設定したと考えられる。
まず、不思議なことに万葉集には最初の歌から「黄葉」と表記されていること。山の紅葉や落ち葉は黄のほかにも紅や赤もあるのになぜ「黄葉」なんだろうか。カギは柿本人麻呂の以下のような挽歌にあるようだ。

原文: 秋山尓 落黄葉 須臾者 勿散乱曽 妹之當将見
よみ:秋山に 落つる黄葉 しましくは な散りまがひそ 妹があたり見む(巻二‐137)

原文: 秋山之 黄葉乎茂 迷流 妹乎将求 山道不知母(巻ニ-208)
よみ: 秋山の、黄葉(もみぢ)を茂み、惑(まど)ひぬる、妹(いも)を求めむ、山道(やまぢ)知らずも

これと同じような歌が他にもある。これらの歌の解析から、太古の日本には黄泉の国に通じる黄泉路(よみぢ)が存在し、黄泉比良坂(よもつひらさか。この世とあの世をつなぐ道)で、葦原中国とつながっていると考えられていた。
人麻呂は亡くなった人が住むという黄泉の国、その黄泉の国の「黄」を使って「もみち」 = 「黄葉」とし、色づいた葉という意の「もみち」に重ねて歌に詠んで亡くなった人を偲んだ。
しかし、黄泉という意を含んだ「黄葉」を詠んだのは人麻呂と持統天皇(巻2 159)くらいで、以降は黄泉の意は黄葉から抜け落ちてしまって、ただの色づいた葉という意味の「もみち」 = 「黄葉」だけが世の中に流布してしまった。これが「もみち」が「黄葉」となった真相ではなかろうかと考えている・・・とのことである(詳しくは※9参照)。
この他、「黄葉の」という枕詞もあり『万葉集』では、うつろい、散るところから、「移る」「過ぐ」にかかる語として、後には紅葉のあかいところから、「あけ」にかかる語として使用され又、この『万葉集』の「もみち」が濁音化して「紅葉」という漢字を常用するようになったのが平安時代になってからのようである。

このブログを書いていて、先日(11月23日)朝日新聞夕刊に、「人類の知性は2千年〜6千年前頃をピークにゆっくりと低下し続けているかも知れない」との説を米国スタンフォード大学のジュラルド・クラブトリー教授が米科学誌『セル』の関連誌に発表したと書かれていた(※5参照)のを思い出した。
私なども以前からこのような万葉人の和歌や平安時代中期に成立したとされる『源氏物語』など古典文学を読んでいると、今の文学に比して、その創造力の豊かさにいつも感心させられていたので、この報道にさもあらんと納得したのだが、皆さんはどう思われますか?

ヒトの知性、6千年前ピーク? 米教授「狩りやめ低下」 (朝日新聞デジタル11月20日(火)16時49分配信 )

参考:
※1参照:BotanyWEB
http://www.biol.tsukuba.ac.jp/~algae/BotanyWEB/top.html
※2: 古今和歌集の部屋
http://www.milord-club.com/Kokin/
※3:竜田姫の秋 古典文学(平安)・日本文化史
http://www.ndsu.ac.jp/1000_guid/1400_depa/1430_japa/1432_essay/1432_essay_4th/1432_essay_4th_36_kataoka.html
※4:折々の銘 76 【竜田姫】たつたひめ
http://www.morita-fumiyasu.com/docs/oriori_076.pdf#search='%E7%AB%9C%E7%94%B0%E5%A7%AB+%E7%A7%8B+%E7%B4%85%E8%91%89'
※5:端唄・俗曲 その3 か〜き
http://sky.geocities.jp/tears_of_ruby_grapefruit/minyou3/hauta3.htm
※6:やまとうた
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/index.html
※7:季語・桜狩
http://kigosai.sub.jp/kigo500d/637.html
※8:たのしい万葉集:
http://www6.airnet.ne.jp/manyo/main/home.html
※9:秋萩の 下葉もみちぬ あらたまの(京都府立山城郷土資料館)  
http://www1.kcn.ne.jp/~uehiro08/contents/parts/32.htm
中国と日本の「紅葉」の違い_中国網_日本語
http://japanese.china.org.cn/jp/txt/2011-10/18/content_23658210.htm
レファレンス協同データベース
http://crd.ndl.go.jp/GENERAL/servlet/detail.reference?id=1000089034
カエデとモミジ
http://www.geocities.jp/kinomemocho/sanpo_kaede.html
もみじの魅力
http://www.hayashiya-gr.co.jp/momiji/index.html
「椛」・・・人気漢字の読み・意味・名前例
http://happyname.livedoor.biz/archives/50422437.html
紅葉(もみじ) - 語源由来辞典
http://gogen-allguide.com/mo/momiji.html
紅葉 - Wikipedia 
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%85%E8%91%89

いい肉の日

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日本記念日協会の今日・11月29日の記念日として、肉の日が登録されている。
全国有数の肉用牛の産地である宮崎県の「より良き宮崎牛づくり対策協議会」(※1)が味と品質の良さで知られる宮崎牛をアピールするために制定したもの。日付は11と29で「いい肉」と読む語呂合わせから。
今日は、「いい肉の日」であるが、 2月9日や毎月29日も、「に(2)く(9)」の語呂合せで、「肉の日」として、焼肉店などでセールが行なわれているようだ。
私は、前にこのブログで毎月29日「肉の日」として、書いた(http※2参照)ので、どうしようかと思ったのだが、今日は、ただの「肉の日」ではなく、「いい肉の日」なので、前回のブログと少々重複することもあるが、私は肉が大好きなので、又、少し視点を変えて書いてみることにした。
」と言えば、皆さん、先ずどんな肉を思い浮かべますか?
肉の好みは、関西や東京、又、他の地域でも随分違うようだ。
関西では、単に肉と言えば「牛肉」だが、関東などでは、豚肉が好まれるようだが、肉の好みはそのまま消費者の購買に繋がるので、スーパーなどの肉売り場での棚割り(※3:「MD-ing講座」の(13)「棚割」参照)などを見れば直ぐ分かる。
関西では牛肉のスペースが広いが、東京などでは豚肉のスペースが広い。又、私など現役時代信州や福岡など馬肉を良く食べる地域へ行くと馬肉のスペースが、大分などのように鶏の好まれる地域では、鶏のスペースが広く取られている・・・といった具合だ。
 ちなみに、農林水産省所管の独立行政法人である農畜産業振興機構(※4)の調査・報告 畜産の情報 2012年11月号:牛肉の販売意向調査の結果(24年度下期)によると、同機構が今後の食肉の販売動向を把握するため、9月に量販店と食肉専門店を対象に販売意向のアンケート調査を実施した結果、“調査時点における食肉の取扱割合(重量ベース)については、量販店では概ね牛肉3割、豚肉4割、鶏肉3割といった構成になった。
この割合を前回調査(平成24年2月、3月)と比較すると牛肉は8ポイント増加している一方、豚肉と鶏肉がそれぞれ減少している。これは、平成23年7月に発生したセシウム問題(※5参照)の影響が緩和し、豚肉や鶏肉へ一時シフトした消費が戻ってきたものとみられる。一方、食肉専門店では、牛肉4割、豚肉4割、鶏肉2割という構成であり、銘柄牛などの品揃えが量販店より充実している分、牛肉の割合が高くなっていると思われる”・・・とある。
人の食用の肉では、この他、馬肉、羊肉、猪肉などもよく食べられているが、上位3位の牛・豚・鶏の重量ベースでの販売量としては、ほぼ同じような感じである。しかし、人によって、肉の中でも好き嫌いはあるだろうが、なんといっても、一番好んでたべられ肉と言えばやはり牛肉だろう。
牛肉は、良質なたんぱく質の供給源であり、脂質・たんぱく質・が豊富に含まれており、特徴としては鉄が豚肉よりも多く含まれている事。肉に含まれる蛋白質は私達の体を構成するのに不可欠な必須アミノ酸を含んだ良質な蛋白質で抵抗力をつけるのに効果的。ただし動物的脂肪にはコレステロール上昇作用があるので食べ過ぎないよう、適量を摂取するようにする必要があるそうだ(※6:「食育大辞典」肉類>牛肉より)。

「天地の間に生るゝ動物は肉食のものと肉を喰はざるものとあり。獅子、虎、犬、猫の如きは肉類を以て食物と爲し、牛、馬、羊の如きは五穀草木を喰ふ。皆其天然の性なり。人は萬物の靈にして五穀草木鳥魚獸肉盡く皆喰はざるものなし。此亦人の天性なれば、若し此性に戻り肉類のみを喰ひ或は五穀草木のみを喰ふときは必ず身心虚弱に陷り、不意の病に罹て斃るゝ歟、又は短命ならざるも生て甲斐なき病身にて、生涯の樂なかるべし。古來我日本國は農業をつとめ、人の常食五穀を用ひ肉類を喰ふこと稀にして、人身の榮養一方に偏り自から病弱の者多ければ、今より大に牧牛羊の法を開き、其肉を用ひ其乳汁を飮み滋養の缺を補ふべき筈なれども、數千百年の久しき、一國の風俗を成し、肉食を穢たるものゝ如く云ひなし、妄に之を嫌ふ者多し。畢竟人の天性を知らず人身の窮理を辨へざる無學文盲の空論なり。・・・・」(中簡略)「今我國民肉食を缺(かい)て不養生を爲し、其生力を落す者少なからず。即ち一國の損亡なり」・・・。

これは、福澤諭吉 の『肉食之説(にくじきのせつ)』(※7:青空文庫参照)からの抜粋である。
明治3年(1870年)に福澤諭吉が『学問のすすめ』ならぬ、食肉のすすめを説いたもの。
よく日本人は、草食人種だなどと言われるが、古来、人間の食生活は肉食から始まったといわれ、日本人も古来食べていたのだが、仏教の殺生戎の影響による肉食禁忌は、一種の迷信化して長く日本人の食生活を縛っていた。

富国強兵をめざす明治政府は、文化や国民生活の近代化を促進する必要から、率先して西洋の近代思想や生活様式を積極的に取り入れようとした。
この風潮は、明治初年の新しい世相ともなり、民間におけるジャーナリズムやその他を通して啓蒙運動を促進した。この傾向は、庶民の生活様式にも一部受け入れられ、東京などの大都市を中心に広まった。当時、この風潮は文明開化と呼ばれた。
明治4年(1871年)の散髪脱刀令学制発布、博覧会の開催、同5年の国立銀行の創設、太陽暦(グレゴリオ暦)の施行、6年の地租改正などを始めとして生活の洋風化となり、衣食住にも大きな影響を与え近代化への道を促進することとなった。
この文明開花への啓蒙思想を順調に庶民層に浸透させるために、もののもつ合理性が唱えられるようになったが、これは、福沢諭吉の学問論の基調に通じるものであり、従来権威とされた儒学和学は古来世間でいうほど貴ぶべきものではなく、むしろ「専ら勤むべきは人間普通日用に近き実学」(※7:「青空文庫」の『学問のすすめ』初編上段部分参照)こそ本当の学問で、これは、日常生活に必要な「物事の道理」を知るためのものである。つまり、この実用性と合理性こそ文明開化の原理であるとする考え方によるものであった。
仮名垣魯文(かながきろぶん)の戯作(げさく)『安愚楽鍋』(明治4年-5年出版)にも、

「文明開化の世の中、牛肉を食べると穢れると思う人は窮理学(きゅうり学)を辨(わきま)へねへからのことでげス、そんな夷(えびし)に、福澤の著(かい)た肉食の説でも、讀ませてへネモシ西洋にやア、そんなことはごウせん、彼土(あっち)はすべて、理でおして行く國がらだから、蒸気の船や車のしかけなんざア、おそれいったもんだネ。」(※8で安愚楽鍋が読める、“西洋好(ずき)の聴取(きゝとり)”の段参照)と、

書かれており、このような合理思想は「明治文化研究会」の編集により、明治時代の基本的文献を集成した叢書『明治文化全集』に収録の文献には共通したものだったという。
明治政府は文明開化政策を行い、諸外国の文化文明を積極的に導入することとし、政治、経済などあらゆる分野で文明開化が開花した。その影響は、生活様式にまで及び、その中で、庶民の最も身近な食生活にも養生と栄養の必要が唱えられ、新風が吹き込んできた。それが欧米食の移入であった(※9参照)。
そんな文明開化の欧米食と言えば、一番代表的なのが牛肉だった。

しかし、上古から階級を問わず、肉食を忌避してきために、『肉食の説』では、「肉は臭いというが、魚や干物だって臭いし、茄子大根の漬物だって匂いはするし不衛生」 だとか 「黒鯛の吸い物がうまいと言ったって、それは大船で人の糞を食べた魚であって、牛は五穀草木を食べて水を飲むのみ。」といった酷い話を例にあげ、肉を食べない人に対して、魚しか食べないことの短所を挙げたうえ、攻撃的とさえ言える書き方で、肉を食べることのメリットを紹介しているが、そこには、当時の人が「肉なんて臭くて汚くて食えたもんじゃねえ〜」とか、牛を殺すのは可哀想だとか、数々の迷信を信じてなかなか肉を食べようとしなかった背景があったからだろう。
文明開化を推し進めなければならなかった明治の日本人には、日常生活から外交まで、あらゆる面で敵が迫っていたため、 いろんなことと戦わなければならなかったことから、肉食一つにしても、ここまで激しく立ち向かわなければならなかったのかもしれない。

幕末ペリーが開国を要求して黒船が浦賀に到来して以降、横浜に居留するようになった外国人に対する牛肉調達の必要性が生じた。
近畿や中国地方のウシが、家畜商の仲介で神戸港に集められて横浜に運ばれ、慶応3(1867)年には幕府の御用達で芝白金(現:東京都港区白金) に屠(と)畜場が作られた(※10 )。
ビーフステーキを好む外国人にとって、白糠(シロヌカ)や豆腐粕(おから)で肥育され船で運ばれてきた「神戸ビーフ」の評判は格別だったようだが、江戸町民たちには鍋料理としてひろまった。
特に人気の高かった牛鍋は、ももんじ屋で人気のあったカモ鍋や牡丹鍋のように、ぶつ切りの牛肉とザク(雑具:付け合せの長ネギ、コンニャク、焼き豆腐など)を味噌で煮ていたものだったそうだ(※11 参照)。

上掲の図は「ももんじ屋」。広重の「名所江戸百景」から“びくにはし雪中“。山鯨(やまくじら)はイノシシの肉。
ももんじ屋とは、江戸時代の江戸近郊農村において、農民が鉄砲などで捕獲した農害獣の猪や鹿を利根川を利用して江戸へ運び、その他犬や猿、牛、馬など牛肉、馬肉等を肉食させたり、売っていた店(獣肉店)のことらしい。
表向きは肉食忌避があったから、これらを「薬喰い」と呼んだ。そして、猪肉を山鯨(やまくじら)、鹿肉を紅葉(もみじ)などと称した。
江戸では両国広小路、あるいは麹町にあった店が有名であったそうだ。これらもともとあった肉食文化が明治初期の横浜や、東京での牛鍋屋開店につながっていった。
そこへ、明治に入ると、文明開化の風潮に乗って、福澤福沢が『肉食の説』で「今わが国民肉食を欠いて不摂生を為し、其生活力落す者少なからず。即ち一国の損失なり」と肉食の必要性を説き、また、仮名垣魯文が『安愚楽鍋』の中で、東京での牛肉流行のありさまを描いて「士農工商老若男女、賢愚貪福おしなべて、牛鍋食はねば開化不進奴」といい、明治2年(1869年)に海軍が牛肉を栄養食として採用し、又、明治天皇が文明国の取るべき態度として、断髪のうえ洋装して、和食をフランス料理に変えている。
これが、明治5年正月発行の『新聞雑誌』第26号に天皇が肉食奨励の方針にそって、肉食の禁を破って率先して牛肉を食べ始めたとして記載される。
そして、同年4月に僧侶の肉食妻帯が許されることになり、国民も肉食に対する偏見を改めるようになり、牛肉を食べない者は文明人ではないというような時代を迎えることになるが、牛肉の普及に大きく貢献したのは、やはり、福沢諭吉や仮名垣魯文などの知識人による肉食啓蒙であったと言えるようだ。
以下は、仮名垣魯文の小説「牛店雑談安愚楽鍋」の挿絵である(※12参照)。

牛鍋屋 仮名垣魯文『牛店雑談安愚楽鍋』1871年(明治4)刊 横浜開港

明治時代に一世を風靡した牛鍋は、関東大震災をきっかけに、関西風に卵をつけて食べることが多くなったすき焼きと、大衆食堂で親しまれた安価な牛丼に分化していったようだ。
大平洋戦争により肉食の普及が一時後退。
そして、敗戦直後の食糧難時代には食肉は手に入れることが難しくなるが、1949(昭和24)年になってようやく小売店で自由に買うことができるようになったが、食肉の消費量が戦前の水準を越えたのは1956(昭和31)年になってからのことである。
この年、日本経済は復興から高度成長に移る。以後アメリカの食文化の積極的な導入により食肉の消費は拡大し、食肉の国産化、大規模飼育経営へと転換してゆく。
しかし、牛肉は高いので、普段は一般家庭ではなかなか食べられなかった。その肉が、今のように、安い価格で、毎日でも食べれるようになったのには、スーパーの影響が大きい。戦後、高くて食べたくても食べられない肉を、目玉に安く売り出したのが、スーパーのはしりであるダイエーであった。
ダイエーは、この肉の安売りを戦略にして、当時の庶民に人気を得、急成長したのである。そのダイエーも、創業者のワンマン経営から、財務状況が悪化し、今では、急成長したイオングループ(前身はジャスコ)の傘下にあるが、正に『平家物語』じゃないが“驕 れる人久しからず”といったところだが、流通業のリーダーとして果たしたその功績は大きい。

昭和後期(1965年以降)に入り、肉食の大衆化が進み1970年代初頭には、外国肉が輸入されるようになり、1991(平成3)年から牛肉の輸入自由化(※13参照)がなされ今日に至っている。
このような、食肉(牛肉、豚肉)は、畜産農家で肥育された肥育牛、肥育豚が、と畜場でと畜・解体された後、日本では、主に枝肉の形で、全国200余ヵ所の食肉卸売市場(食肉取引の指標となる枝肉の価格形成の場所)、食肉センター(食肉卸売市場以外の枝肉取引が行われる場所)等での取引を経て、枝肉から部分肉そして精肉(直接調理できるように整形した食肉)へと流通する。
これら、食肉(牛肉、豚肉)は流通の指標としての客観的な規格により格付を受け、その結果により価格が形成される。
この食肉の格付規格は、食肉規格格付事業を専門的に行う機関として、1975(昭和50)年に、当時の畜産振興事業団(現在、独立行政法人 農畜産業振興機構)、都道府県、生産者団体及び流通団体を会員として設立された社団法人日本食肉格付協会(※14)の格付規格(「畜産物の価格 安定等に関する法律」〔畜安法〕に基づく。※15参照)により行われている。
また、肉食の大衆化と共に、消費者ニーズにマッチするように部位別、用途別(※16参照)の販売が進む一方、食肉のおいしさ、質、安全性が重視されるようになると共に牛肉も産地化、ブランド化が進んでおり、有名なものとしては、我が地元の神戸ビーフ(神戸牛)のほか、松阪牛(三重県)、近江牛(滋賀県)、米沢牛(山形県)それに、今日のブログ「いい肉の日」を登録している宮崎県の宮崎牛などがあり、このほかにもかなり多くの銘柄がある。   
牛肉のブランドは、産地(地理的表示)、血統(品種)、枝肉の格付け(枝肉の状態で A-5 から C-1 までの15段階に格付け。※16参照)、飼育法などにより、ある一定の基準を満たしたものに付けられているのが一般的ではあるが、それらのすべてが必ずしも一定の基準によってなされているとは限らないようだ(ブランド牛肉参照)。
ところで、牛肉のブランドの個別の話しに入る前に、礼儀として、今日のブログ「いい肉の日」を登録している宮崎県の宮崎牛の話しをしておこう。
宮崎県は、日本有数の農業県であり、2009(平成21)年の都道府県別にみた農業産出額は全国5位(九州では鹿児島に次いで2位)。温暖な気候を利用し、稲作においては超早場米の生産地として有名であり、また、野菜・果実等の促成栽培、葉たばこ・サツマイモ等の商品性作物の生産が盛ん。また、牧畜業は乳牛・肉牛・豚・鶏の全てにおいて日本有数の生産高を誇り、同年の肉用牛産出額も全国1位の鹿児島県に次いで全国2位となっている(※17)。
以前はそれほど知名度が高くなかった農畜産物も、2007(平成19)年に、元ビートたけ率いる芸人集団・たけし軍団の一員でビートたけしの最初の弟子であった東国原英夫は、宮崎県知事選に立候補した時から元たけし軍団の吉川敏夫又、東国原の一番弟子で、ビートたけしの初孫弟子でもある早川伸吾を選挙活動のスタッフに就け、その顔を生かして、保守陣営の分裂という追い風も幸いして見事知事選に勝利。
県知事に就任してからも、吉川を政務秘書とし、早川もスタッフ(東国原の側近と称される)につけ、タレントとしての全国的な知名度を最大限に生かして、自ら「宮崎県のセールスマン」と称し、積極的にマスメディアに出演。まるで、タレントのままのようにバラエティー番組などへの出演も多く、それを見て眉をひそめる人も少なくはなかったと思うが、テレビなどマスコミでの宣伝効果は大きく、急速に宮崎県産品の知名度を向上させることには成功した。
しかし、2010(平成22)年日本における口蹄疫の流行は、宮崎県畜産家を直撃し、大きな被害を出した。このときの県の対応については、3月下旬に感染が疑われる牛が見つかったにもかかわらず、最初の感染事例として公表したのが4月20日であったことから、3月に対策をとっていれば感染拡大は防げたとも指摘もされている。
それはさておき、2008(平成20)年10月1日付で設立された財務省所管の政策金融機関である日本政策金融公庫が、差別化に結び付けて競争力を高めるためには、「ブランド」とは何か、その価値は何によってもたらされるのかを明確にする必要から、日経リサーチ(日本経済新聞グループの総合調査会社)に委託して農産物ブランドに関する調査を実施し、特に、ブランド数が多く、全国的に取り組みの見られる事例である豚肉・牛肉のブランドについて、バイヤー・消費者・生産者に対するアンケート調査(平成20年3月)を行った結果をまとめその概要を発表している(※18)。
その中から、牛肉のブランドについての結果を一部抜き出してみる。
■バイヤーが評価する牛肉ブランドは・・・
○1位「松阪牛」、2位「神戸ビーフ(神戸肉)」、3位「鹿児島黒牛」であり、続いて、4位、米沢牛(山形県)、5位佐賀牛(佐賀県)、6位、宮崎牛(宮崎県)7位、飛騨牛(岐阜県)、8位近江牛(滋賀県)、9位、いわて前沢牛(岩手県)、10位、仙台牛(宮城県)となっている。
この時の調査対象全176ブランドのうち、バイヤー199人(178社)のうち、ひとりでもバイヤーが評価していると回答したブランドは、112 銘柄あったが、そのうちの10 人以上から評価されたブランドは たったの16 銘柄だった。
1位「松阪牛」と2位「神戸ビーフ(神戸肉)」について、「松阪牛」はランキングを構成する16項目のうち12項目が1位評価、1項目が3位評価を得た。3位以内の評価を得られなかったのは「価格水準が妥当」「価格面での取り引き条件がよい」「取り引きの対応が柔軟」の3項目であった。
一方の「神戸ビーフ(神戸肉)」も16項目のうち12項目で3位以内の評価を得た。3位以内に入らなかった4項目のうち、「価格水準が妥当」「価格面での取り引き条件がよい」は「松阪牛」と同様であったが、「松阪牛」では1位の「品質がよい」、「今後(も)、取り扱いたい」という回答はそれそれ4位と7位だったそうだ。
○ 価格や取り引きに対する評価が高いブランド・・・では、
価格や取り引きに対する評価が高いのは3位「鹿児島黒牛」と6位「宮崎牛」であった。
「価格水準が妥当」「価格面での取り引き条件がよい」「取り引きの対応が柔軟」の3項目全て、「鹿児島黒牛」が1位、「宮崎牛」が2位の評価を得た。「鹿児島黒牛」に対しては、「松阪牛・神戸ビーフ(神戸牛)より味の面では劣るが、量販で価格訴求する商品としては外せない。頭数、価格面での条件は非常に良い」(スーパー、和歌山県)、「宮崎牛」には「品質が良く、販売価格面でもリーズナブルな売価設定ができる」(スーパー、鹿児島県)というバイヤーの声があがっているそうだ。
僅差の4位と5位評価しているブランドとしてあげたバイヤーが「米沢牛」では 90人いるのに対し、「佐賀牛」は 65 人であったが、総合得点は4位「米沢牛」と、5位「佐賀牛」との差は僅か 2.6 点。「佐賀牛」は「品質がよい」と「価格水準が妥当」を両立させている点で「米沢牛」を上回り、「今後(も)、取り扱いたい」というバイヤーの意向が高いという。
■消費者が評価する牛肉ブランドは・・・1位「松阪牛」、2位「米沢牛」、3位「神戸ビーフ(神戸肉)」であり、4位、近江牛(滋賀県)、5位飛騨牛(岐阜県)、6位兵庫産〔但馬牛〕(兵庫県)、7位、山形牛(山形県)、8位仙台牛(宮城県)、9位佐賀牛(佐賀県)、10宮崎牛(宮崎県)となっている。
概要
○「食べたことがあってまた食べたい(または食べたことはないが今後食べてみたい)」ブランドに対する評価をもとにランキングを作成したが、調査対象全 176 ブランドがランキングの対象となった。
○「松阪牛」バイヤー編と二冠
「松阪牛」が2位の「米沢牛」に 100.0 点差をつけ1位になった。ランキングを構成する 12項目については、「広告・キャンペーンが魅力的」「ネーミングやラベルデザインがよい」を除く 10 項目で最も多くの消費者から評価を得た。バイヤー編では「価格水準が妥当」に対する評価は32位だったが、消費者編では最も 評価が高かったようだ。味に対する評価が最も高く、「食べたことがあってまた食べたい(または食べたことはないが今後食べてみたい)」は、725 人のうち 704 人が「味がよい(おいしそう)」と答えた。
○「松阪牛」以外で評価項目の首位を獲得したブランド
「広告・キャンペーンが魅力的」では「宮崎牛」が最も評価された。消費者からは、「宮崎の東国原知事のPRなどで有名になったのと、賞をとったとの報道など でいいイメージがあるので」(40 代、北海道)という声があがったようだ。
○2位「米沢牛」は「松阪牛」が最も評価された10項目で、2位か3位という「松阪牛」に次ぐ安定した評価を得た。僅差の3位から5位は、3位「神戸ビーフ(神戸肉)」から5位「飛騨牛」まで点差は 3.9 点。この3つのブランドでは、「味がよい(おいしそう)」など6項目に対する評価に大きな差はなかったが、マーケティングの部門では点差が開いた。「神戸ビーフ(神戸肉)」は「食べたことがあってまた食べたい(または食べたことはないが今後食べてみたい)」「プレミアム価値を感じる」「広告・キャンペーンが魅力的」「ネーミングやラベルデザインがよい」、「近江牛」は「周囲の評判がよい」、「飛騨牛」は「産地のイメージがよい」と 評価されたようだ。
しかし、「地域ブランド」制度について、消費者の65,0 %が「知らない」と回答した。「名称を聞いたことがある」が 29.6%で、「内容を知っている」と答えた消費者は僅か 5.2%と言う結果だったようである。
ブランド牛肉や豚肉について、「どんな手段で情報を得ていますか。」の質問に半数以上の56.5%が、「スーパーのPOPや店頭広告」で情報収集と最も多かったものの、「テレビ番組・CM」(49.3%)や「新聞の記事・広告」(35.3%)もあるわけだから、宮崎牛のように、元タレントの知事がマスコミで宣伝活動したり、民放のテレビ番組などが、タレントを使って、地域の特産品や、食べものをレポートするような様子で食べさせて、目をぱちくりさせながらタレントにおいしいおいしいと連発させている・・・どう見てもそれは広告ではないか?・・・と思われる番組が非常に多くなった気がする。景気が悪くテレビ局も広告収入が減ったようなので、販売面で苦労している産地や飲食店などに協力させているのだろう・・・と私は見ている。
最近のテレビ番組は、番組なのか宣伝なのか分からないものが非常に多くなったが、これでよいのだろうか?牛肉とは関係ないことだが、私は非常に疑問を感じているところである。
かって、テレビや映画などでの「閾下知覚(いきかちかく;subliminal perception)」が問題になった。
「閾下知覚」とは、簡単に言えば、“閾下の刺激によって生じる知覚”であり、この心理的効果を広告などに利用することがある。つまり、映像を見ている人が気づかない瞬間的映像をテレビ番組や映画に挿入し、見ている人の潜在意識に印象づけることである。
1950年代のアメリカで、後に有名になる「閾下知覚(いきかちかく;subliminal perception)」の実験がおこなわれた。
当時、映画館で上映されていた映画のフィルムの中に、人間が知覚できるかできないかギリギリのほんの短い間、「ポップコーン」という文字を一瞬だけ挿入したのである。その結果、売店でのポップコーンの売り上げが上がった・・・というのである。
そのような視聴者が意識していない一瞬の映像でも映画やテレビで流されると、影響を受けるのに、番組のような体裁を整えて、産地やメーカーの品や食べものを、タレントに食べさせて美味しいおいしいといったことを言わせていると、テレビで取り上げられたところだけが良い品、美味しい品との錯覚を起こさせることになる。そうは、思いませんか?
最近は、報道番組でも、昔のニュース番組のようにただ、事実だけを報道するのではなく、TVキャスターやコメンテーター、それにわけのわからないタレントがああだ、こうだと意見を述べるのは良いが、その発言がかなり視聴者を誘導・扇動していると思われることが多くなってきた。
最近では、2001(平成13)年の第19回参議院議員通常選挙、2005(平成17)年の第44回衆議院議員総選挙で起こった小泉旋風、2009(平成21)年第45回衆議院選挙での民主党圧勝劇などが代表である。308議席を獲得し、戦後初めて野党が 衆議院で単独過半数を得ての政権交代が実現することになった。その結果どうなったか・・・。
今回も野田政権が、野党自民党などから追い詰められて、突然、ヤケクソのように衆議院を解散し、来月選挙が行なわれる。少数野党が乱立し、国民は誰に投票しようかと迷っているが、マスコミの報道は、ますまし、国民を迷わすような報道ばかりである。
政治家のことを色々批判するなら、マスコミはマスコミで、責任を持った報道をすべきだろう。国民を誘導したり、混乱させるのがマスコミの役割ではないだろう。牛肉のこと色々書きたいことがまだまだあるのだが、宮崎牛から変な方向にそれてしまったが、皆さんも参考※19:※20などを見た上で、今のマスコミ報道、特にテレビの番組や報道の仕方に注意してみた上で、よく考えてみてください。私は、今の政治や世の中が少しおかしくなってきた原因に、今のマスコミの番組作りや報道の仕方が相当影響しているのではないかと思っている。

最後に、日本全国のブランド牛の取り組みについては以下参考※21:「財団法人日本食肉消費総合センタ」の「銘柄牛肉検索システム</bn>」を見られると良い。
宮崎牛は、平成19年10月に鳥取で開催された、第9回全国和牛能力共進会で最高賞の内閣総理大臣賞を受賞した他主要9区分中7区で首席を受賞したそうです。これはたいしたものですね。
我が地元兵庫県産の但馬牛(但馬ビーフ) は、兵庫県内で生産される優れた但馬牛をもと牛として、熟練した農家が高度な肥育技術を駆使してつくりだした牛肉で、この兵庫県産(但馬牛)のうちBMS等級(ビーフ・マーブル・スタンダード、肉質等級)が6以上の牛肉が「神戸ビーフ」となる。繁殖から肥育生産者、流通業者を指定登録し、一貫した組織体制を構築している。
又、参考※22:「子供すこやか食の安全・安心.com」の
米国産輸入牛肉の問題点
ファーストフードの美味しい秘密(テレビじゃいえないそのタブー)
などには、小さな子供を持つ親御さんが読むとちょっと恐い話が書かれているよ。参考にどうぞ。



(冒頭の画像は牛肉。Wikipediaより)
参考:
※1:より良き宮崎牛づくり対策協議会HP
http://www.miyazakigyu.jp/index.php
j※2:今日のことあれこれと・・・肉の日
http://blog.goo.ne.jp/yousan02/e/c78d0ced9edf622386737aa705ecdacb
※3:MD-ing講座
http://www.e4510net.com/oyakudate/md/
※4:農畜産業振興機構
http://www.alic.go.jp/
※5:牛肉のセシウム汚染問題 - Yahoo!ニュース
http://dailynews.yahoo.co.jp/fc/domestic/beef_containing_cesium/
※6:食育大事典
http://www.shokuiku-daijiten.com/
※7:青空文庫:作家別作品リスト:No.296:福沢 諭吉
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person296.html
※8:假名垣魯文(Adobe PDF)
http://www.japanpen.or.jp/e-bungeikan/guest/pdf/kanagakirobun.pdf#search='%E5%AE%89%E6%84%9A%E6%A5%BD%E9%8D%8B'
※9:文明開化による欧米食の移入(Adobe PDF)
http://nccur.lib.nccu.edu.tw/bitstream/140.119/33307/5/55600505.pdf#search='%E7%A6%8F%E6%BE%A4%E8%AB%AD%E5%90%89++%E8%82%89%E9%A3%9F%E4%B9%8B%E8%AA%AC'
※10芝浦と場・食肉市場の歩み
http://www.shijou.metro.tokyo.jp/syokuniku/rekisi_keihatu_01_01.html
※11:食肉の知識 - 農畜産業振興機構(Adobe PDF)
http://www.alic.go.jp/content/000001729.pdf#search='%E9%A3%9F%E8%82%89%E3%81%AE%E7%9F%A5%E8%AD%98'
※12:森川和夫:廣重の風景版画の研究(1)139
http://homepage3.nifty.com/morikawa_works/hiroshige139.html
※13:自由化20年、牛飼いの胸をよぎる不安:日経ビジネスオンライン
http://business.nikkeibp.co.jp/article/topics/20110225/218600/
※14:日本食肉格付協会
http://www.jmga.or.jp/
※15:畜産物の価格安定に関する法律
http://law.e-gov.go.jp/htmldata/S36/S36HO183.html
※16:食材事典:牛肉
http://www2.odn.ne.jp/shokuzai/Gyuniku.htm
※17:平成21年 農業産出額(都道府県別) - 農林水産省(Adobe PDF)
http://www.maff.go.jp/j/tokei/pdf/sansyutu_zenkoku_2009.pdf#search='%E8%BE%B2%E6%A5%AD%E7%94%A3%E5%87%BA%E9%A1%8D'
※18:牛肉・豚肉のブランド化への 取り組みとその評価 - 日本政策金融公庫(PDF)

大根焚き

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通常11月8日の頃は1年を24に分けて季節を表す二十四節気では立冬(りっとうにあたる。(今年、2012年は11月7日が立冬)。
『暦便覧』(天明7年=1787年〔寛政10年=1798年に再版〕 に出版された暦の解説書。太玄斎著。※1)では、「冬の気立ち始めて、いよいよ冷ゆれば也」と説明しており、初めての気配が現われてくる日としているが、今年は、冬の到来が非常に早く、11月から真冬並みの寒さとなっている。これからの冬の寒さとの闘いは長期戦となりそうだね〜(※2)。
こんな寒い季節には暖かい鍋物を食べて、躰の芯から温めるのがなによりだろう。
1000年の歴史を誇る京都の冬は底冷えして寒いが、そんな京の都の冬の到来を告げる12月の歳時記年中行事の一つに「大根焚き」がある。
京都では「大根」のことを「だいこ」と呼ぶ習わしがあるので、「大根焚き」は「だいこだき」となる。
但し、近い時期に各寺で行なわれる行事ではあるが、個々の寺の間に関連はなく、別々の意味合いを持った行事として行なわれるものである。

西陣(京都市上京区)にある真言宗智山派の寺院である大報恩寺、山号は瑞応山(通称:千本釈迦堂)では、釈迦が菩提樹の下で成道(悟りを開く事)した(日本では、釈迦は臘月=旧暦12月の8日に成道したと伝承されている)のを記念して行われる法要 成道会 ( じょうどうえ )の12月7日・8日に、境内で行われる大根炊きが知られている。
この行事は、鎌倉時代に、当寺の三世・慈禅(近衛兼経の弟。コトバンク-近衛家 とは参照)が、法要の際に大根の切り口に梵字を書いて息災祈願を行なったのが起源とされ、今日では、この大根を食べると中風 コトバンク-中風 とは も参照)など諸病除けになると信じられているようだ。
使われている大根は、従来聖護院大根を使っていたが、昨今は京の伝統野菜「聖護院大根」は実りに限りがあり、品不足であることから、仕方なく他の大根も使われているそうだ(※3)。 
また、京都市右京区鳴滝にある真宗大谷派の法輪山了徳寺。ここも通称、大根焚寺と呼ばれており、毎年、12月9日、10日に行われる大根焚きの行事は千本釈迦堂とともに知られる。
その由縁は、同じく鎌倉時代に、親鸞愛宕山中の月輪寺よりの帰途、鳴滝で説法をし、それに感銘を受けた里人が、他に何ももてなすものがないので、塩炊きの大根を馳走した。
それに応えて、親鸞はすすきの穂を束にして筆代わりとし、「歸命盡十方無礙光如來」(※4)の十字名号を書いて、その礼としたとのことが伝えられており、この故事に因んで行なわれる報恩講の通称が、大根焚きだという。
寺の前庭には「すすき塚」がある。ここの大根だきの大根は、細長い“笹大根”を用い、昔は寺の畑などで作ったものを使っていたが、今は亀岡市篠町のものが使われているそうだ。そして、大根だきで、切るのは女、煮るのは男、加減はすべて口伝で申し送られているのだという。
このような、京都の仏教行事は、僧侶を中心とした法会と、地域の人々の願いを込めた庶民信仰の2つに分けられるが、後者は各宗派の祖師の忌日か誕生に係わるものが多く、五穀豊穣(穀物が豊かに実ること)・減罪除災・祖先の供養など仏事の目的で行われるが、「大根だき」も庶民信仰の長い歴史の中で生まれたものであるといえよう。
京都での「大根炊き」は、このほか、日蓮宗の寺で宇多野の三宝寺(鳴滝の妙見さん)が12月第1土・日曜日に御会式法要(日蓮忌日報恩法要。)で、真言宗大覚寺派で嵯峨野覚勝院の大根供養(※5)が11月22日・23に行われるほか、東山にある天台宗法住寺大原にある同じく天台宗の三千院などでも行なわれるようだが、大根炊きは京都地域だけにに限らずその他の地域でも行われている。
よく、観光案内などでは、大根炊きが、“参詣者にふるまわれる。”“接待がある”・・などといった書き方をしているので、何か、ただで、食べさせてくれるような錯覚をする人がいるかもしれないが、いずれも、700円から1000円の料金がいることをお忘れなく。日本の神社などでは、ありがたい大根供養や接待を受けようと思うと、それ相当のご喜捨が必要なのですよ。
大根炊きを食べると中風 コトバンク-中風 とは も参照)にならないと信じられているが、この中風とは、一般には、卒中発作後、後遺症として半身不随(片麻痺)などの運動麻痺を残した状態をいうことが多いが、本来は純然たる伝統中国医学(東洋医学)の用語で、後漢時代に書かれた漢方薬術書「傷寒論」にも頻出するようだ。
中風の「中」は、中毒の中と同じく、「あたる」という意味であり、古くは、風邪(ふうじゃ)が身体に侵入したことによって引き起こされる症状を「中風」といっていたらしい。
中国医学の初期には、病変を起こすは外界にある邪気で、風とか湿のような形をとって体内に侵入するとしていたようだ。
特に重視されたのが風の邪気、すなわち風邪(ふうじや)であって、たとえば、中風は風邪によって起こされた発熱性疾患であり、発熱・発汗・咳・頭痛・肩のこり・悪寒・悪風(おふう、風に当たると寒けや不快感があること)など・・・風病の一種で、感冒のようなものとされていた。
また、破傷風は傷口に風邪が侵入して起こった病気という考えであったらしい。したがって、その治療にも薬物などのほかにまじない(呪い=呪術)が重視されたようである。

今年の冬は低気圧の影響で非常に寒いが、3日に「2012ユーキャン新語・流行語大賞」(※6)が発表されたが、そのトップテンに、(株)ウェザーニューズの「爆弾低気圧」が選ばれている。
「爆弾低気圧」("bomb" cyclone)とは、急速に発達し、熱帯低気圧(台風)並みの暴風雨をもたらす温帯低気圧を指す俗語であるが、近年では、2012年4月3日に、台風並みに巨大な低気圧が発生し、各地に被害や混乱をもたらした。特に風が強く、西日本から北陸にかけての広い範囲で瞬間風速30メートル以上が記録された(※7参照)。また、一昨日(12月6日)、昨日にも日本海側、北日本などで大きな影響を及ぼしている(※8)。
このとき、普通は「非常に発達した低気圧」というべきだが、日本列島を襲った低気圧は、その表現を超えたため、インパクトのある呼称を使用したもの。
『現代用語の基礎知識』には2008年版から登場している用語らしいが、なんでも、気象庁は、「急速に発達する低気圧」といった表現を使用しており、この用語を使用しないよう指導しているらしい( Yahoo!百科事典参照)

先にも書いたように、邪気払いの庶民信仰から生まれ大根炊きを食べると中風にならないと言うのだが、大根炊きを1度くらい食べたからと言って、中風の予防にはならないだろうが、以下参考の※9:「風邪予防に良い食べ物」の中にもダイコン(大根)は、含まれており、寒い冬に、普段から、温かいダイコンの煮物などを常用していると、風邪(かぜ)の予防の一助にはなるだろう。

「 せり なずな ごぎょう はこべら ほとけのざ すずな すずしろ 春の七草 」

よく知られている春の七草は食用になる7種類の野草や野菜で、そのひとつ、すずしろ(須々代, 蘿蔔)とはダイコン(大根)のことである。

原産地は地中海地方中東という説が有力のようだ。古代エジプトには食用として用いられたという記録が存在するという。
その後ユーラシアの各地へ伝わり、日本に最初に伝来したのは、弥生時代のこととされているが、奈良時代になって中国から本格的に伝来したといわれている。
古事記』(712年)下巻「仁徳天皇」には以下の歌がある。
原文:「都藝泥布 夜麻志呂賣能 許久波母知 宇知斯淤富泥 泥士漏能 斯漏多陀牟岐 麻迦受祁婆許曾 斯良受登母伊波米」
読み:「つぎねふ 山代女(やましろめ)の 木鍬持(こくわも)ち 打ちし大根(おほね) 根白(ねじろ)の 白腕(しろただむき) 枕(ま)かずけばこそ 知らずとも言はめ」
解読:都藝泥布(つぎねふ)は山城(やましろ)」にかかる枕言葉(※10)なので、「山城女が木の鍬を持って、畑を耕してつくった大根。その根のように白い腕を枕として共寝をしなかったのなら、知らないと言ってもいいが、そうは言えない仲ではないか。」・・・といったような意味になるようだ。大根は女性の白い腕に例えられている。
ここでは、大根は、「淤富泥(おほね)」となっているが、「意富泥(おほね)」も出てくる。『日本書紀』(720年)卷第十一「大鷦鷯天皇(おほさぎのすめらみこと) 仁徳天皇」にも同じ歌があるがそこには「於朋泥(おほね)」の名で記されている。(※11:「古代史獺祭」の古事記下卷仁?天皇また、「日本書紀 」卷第十一 大鷦鷯天皇 仁?天皇を参照)
まだ、和字がなかったこの時代、古事記や万葉集の歌は万葉仮名で表記されているので大根(おほね)に「淤富泥」「意富泥」「於朋泥」など文字が違っていても仕方がない。
中国から渡来した当時はとにかく「おほね」と呼ばれていたが、平安中期の漢和辞典『和名類聚抄』(937年)には、於朋泥(おほね)俗称大根(おおね)とあり、やがて「大きな根」の意味合いからの「おほね」が「おおね」となり、品種改良や栽培技術が進んだ江戸時代には「大根(だいこん)」と呼ばれるようになる。

万葉集の編まれた時代には「秋の七草(種)」はあった(山上憶良が詠んだ2首が有名。秋の七草参照)が、「春の七草」はまだ定まっていなかった。
「春の七草」は南北朝時代四辻善成(よつつじのよしなり)が『源氏物語』の注釈書である『河海抄(かかいしょう) 』(20巻)で七種の草を選んだのが最初であるが、その第十三巻の「若菜」の注釈のなかで、善成は平安時代の「若菜まいる」の行事は、次の12種の植物を合わせて羹(あつもの)にしたと書いている。

若菜(わかな) 薊(あざみ) 苣(ちしゃ) 芹(せり) 蕨(わらび) 薺(なずな) 葵(あおい) 蓬(よもぎ) 水蓼(みずたで) 水雲(すいうん) 芝(し) 菘(すう)

菜とは「草の茎 葉根の食べられるものの総称」とされており、この12種の最初の「若菜」は、個別に挙げた種類以外の野草をいっている。
個別に挙げた種類の中に、大根(すずしろ)は、含まれていないが、善成はこれに続いて7種の野菜・野草を挙げており、これが先に挙げた現在まで伝わる春の七草の歌の原典になっている。
しかし、そこでは、今知られている「セリ」に始まる歌の順には七草が掲載されていないようで、後に誰かが五・七・五・七・七の短歌の形にしたものだが、それが誰かはわかっていない(※12:「チューさんの野菜ワールド」の七草の歌・作者はだれ?参照)。
今日本では豊富な野菜に恵まれて、ベジタリアンだけでなく野菜好きの日本人が多いのだが、もともと日本原産の野菜は極めて少なく、芹、水菜、蔓菜(つるな) 蕗(ふき) 韮(にら) 茗荷(みょうが) 独活(うど) 三つ葉 山芋 位しかなく、それもほとんど葉菜であり、早くから日本に入ってきたダイコン以外は日頃あまり食べないし、名前も知らないものが多いようだ(※12:「チューさんの野菜ワールド」の野菜はどこから来たの ?・参照)。
古来より、新年早春になると、上も下もこぞってまだ雪の残る野に出て若菜を求め、これを摘んで煮物にしたり,粥や雑炊に入れて食した。

「籠毛與 美籠母乳 布久思毛與 美夫君志持 此岳尓 菜採須兒 家吉閑名 告紗根」
読み:籠(こ)もよ、み籠持ち、掘串(ふくし)もよ、み掘串(ぶくし)持ち、この岳(をか)に菜(な)摘(つ)ます兒(こ)、家聞かな、告(の)らさね、
解釈:良いかごを持って、良い串を持って、この丘で菜(な)を摘むお嬢さん。君の家はどこかな、教えてくれないかな。

万葉集巻第一の1より(※14:「たのしい万葉」のここ参照)抜粋したもの。万葉集第一巻の最初の歌は、この雄略天皇の歌より始まる。
春の野遊びに出た雄略天皇に、こう呼びかけられた乙女が、春の丘の辺で摘んでいたのも、若萌えの草の芽だったのだろう。
この巻頭の雑歌をはじめとして、山部赤人の「明日よりは春菜(はるな=わかな)摘(つ)まむと、標(し)めし野に、昨日も今日も雪は降りつつ」(第八巻-1427。※14:「たのしい万葉集」のここ参照)など、万葉集には春の野山での菜摘みを詠んだ歌が多い。

若菜摘みは冬の食生活において不足しがちな新鮮な野菜、文字通り「野」の「菜」、を求める生活上の必然からであり、現在、字面からイメージするようなのどかな春の遊びではなかったようだ。
早春に若菜を食する風習は,厳しい寒さが続くなかで芽吹く若菜に強い生命力と神秘さを感じ、若菜に秘められた力を借りて邪気を祓い万病を除くことを願ったものであるが、栄養学的に見ても冬の食生活において不足しがちなカリウム、ビタミン A、ビタミン C などの補給の面から理にかなったことではあった。おそらくそれまでの食経験から若菜を食すると種々の病を避けられることが知られていたのであろう。
若菜摘みは平安時代中頃には古代中国の正月七日(人日)の七種菜羹(じんじつななしゆのさいかん)の風習(7種類の野菜を入れた羹[あつもの]を食べて無病を祈る習慣)などと習合して、新春の宮中行事として型が整備され、正月七日あるいは初子の日に若菜の羮を奉るようになった。
また、長寿を祝う算賀にも新年に若菜の羮を贈る習わしがあった。古くは種々の若菜,、山菜を摘み集めて羮にしたのであろうが、儀式化されるに従って若菜の数が七種類あるいは十二種類と定められるようになっていった。
若菜を七種類あるいは十二種類とするのは、七が陽数(陰陽思想などにおける奇数のこと)であることからその呪力を借りようとするものであり、十二も吉数で若返るという縁起があるからである。
若菜の羮のうち、七種類の若菜を用いてつくる羮は七種菜と呼ばれ、現在の七草粥につながるものとしてよく知られているが、しかし当時(平安時代)の七種粥は、いわゆる「春の七草」を入れたものではなく、七種類の穀物で作られ、「七種粥」と言われたという説もあり、入っていたものはコメ、クリ、キビ、ヒエ、ミノ、ゴマ、アズキで、「春の七草」が使われるようになったのは鎌倉時代になってからともいわれているようだ。
一方、十二種類の若菜を用いてつくる羮は十二種若菜と呼ばれるが、これについてはあまり知られていないが、このことについては参考の※15:同志社女子大学学術リポジトリ - 季節を祝う食べ物 : (3新年を祝う十二種若菜)参照。
江戸時代の本草学貝原益軒の『大和本草』(1709)に「凡そ大根に種類多し。」とあって、十数種があげられているという(※16)。
江戸時代になると、日本在来種と中国からの大根との交雑が行われ、栽培技術や品種改良が進み、やがて、江戸近郊に位置した板橋や練馬、浦和、三浦半島辺りが大根の特産地となっていった。中でも練馬大根は特別に有名になった。
大根の種類は多く、各地で改良されてきた歴史があり、現在有名なものだけでも青首大根、白首大根、桜島大根 、聖護院大根 、守口大根など10種類ほどあり、中でも青首大根が圧倒的に普及しており、青首大根以外の大根は、主に特定の地域だけで出回っていて総称して「地大根」(地野菜)と呼ばれている。そして、小規模な品種も含めれば100種類以上もの品種があるとされているようだ。
大根の大部分は水分であるが、主な栄養成分はジアスターゼアミラーゼなどの消化酵素であるが、ビタミンCも含まれている。ビタミンCは、これからの季節、風邪を予防したりストレスを和らげたりもするのでいい。また、大根の根よりも葉の部分の方がビタミン類(CやA)などは多く含まれているので大いに利用したいが、いまどき、スーパーなどでは、葉を切り落とし、根だけ売っているのは、ちょっと、問題だな〜。
それに、ジアスターゼは熱に弱いので、生のまま食べるのが効果的。また、大根の辛味成分イソチオシアネートには抗ガン作用があるそうだ。だいこんは先端にいくほど辛みが強くなるので、サラダなら甘い首の部分、煮物は中央部分、おろしや薬味なら先端と、これぐらいの使い分けだけはした方が良いよね。このような大根の栄養や効用・効能、料理のコツなど詳しくは、以下参考の※17:「健康・医療館」の健康食品:大根を参照)
寒い今日は、さっそく温かい、大根の煮物かおでんでも食べてみては・・・。


(冒頭の画像は了徳寺の大根焚き。Wikipediaより)


参考:
※1:二十四節気・解説
http://koyomi.vis.ne.jp/directjp.cgi?http://koyomi.vis.ne.jp/24doc.htm
※2:冬(12〜2月)の天候 - 気象庁 | 平成24年報道発表資料
http://www.jma.go.jp/jma/press/1203/01c/tenko121202.html
※3:e京都ねっと-京都の観光ポータルサイト | 大根焚き
http://www.e-kyoto.net/saiji2/622
※4:十字名号の意味。正信偈問答。松並語録
http://www.eonet.ne.jp/~souan/jihou/2009/2009.04.html
※5:京都 | 嵯峨野 | 大覚寺塔頭|別格本山覚勝院
http://www.kakushouin.jp/
※6:「2012ユーキャン新語・流行語大賞」
http://singo.jiyu.co.jp/
※7:気象庁 | 平成24年報道発表資料
http://www.jma.go.jp/jma/press/1204/06a/20120406teikiatsu.html
※8:爆弾低気圧…北海道・東北に猛烈な吹雪と暴風 : 社会 : YOMIURI
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20121206-OYT1T01317.htm
※9:風邪予防に良い食べ物
http://www.healthy-mylife.com/101/205/post-12.html
※10:つぎねふ山代」の語義
http://www.dai3gen.net/tuginehu.htm
※11:古代史獺祭
http://www001.upp.so-net.ne.jp/dassai/index.htm
※12:チューさんの野菜ワールド
http://www.h6.dion.ne.jp/~chusan55/mokuji.htm
※13:やまとうた:百人一首 光孝天皇
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/100i/015.html
※14:たのしい万葉集:
http://www6.airnet.ne.jp/manyo/main/home.html
※15:同志社女子大学学術リポジトリ - 季節を祝う食べ物 : (3新年を祝う十二種若菜)
http://repository.dwc.doshisha.ac.jp/modules/xoonips/detail.php?id=AA11325308-20120220-78
※16:練馬大根の発祥はいつごろか。 | レファレンス協同データベース
http://crd.ndl.go.jp/GENERAL/servlet/detail.reference?id=1000078103
※17:健康・医療館
http://health.merrymall.net/index.html
国立国会図書館デジタル化資料 - 和名類聚抄 20巻
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2606770
貝原益軒アーカイブ:大和本草|図書館|中村学園
http://www.nakamura-u.ac.jp/~library/lib_data/b01.html
「京都観光ナビ
http://kanko.city.kyoto.lg.jp/top.php
京の季節の味・大根炊き(だいこだき)
http://www.kyoto-eiyoshikai.or.jp/season/kyonoaji2.html
日蓮宗の大根焚・御会式
http://kanko.city.kyoto.lg.jp/detail.php?InforKindCode=2&ManageCode=1000268
気象庁 | 気圧配置 気圧・高気圧・低気圧に関する用語
http://www.jma.go.jp/jma/kishou/know/yougo_hp/haichi1.html
大根焚き - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%A0%B9%E7%84%9A%E3%81%8D

洗濯の日

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日本記念日協会登録の記念日に「洗濯の日 」(12月第3土曜日)があった。
記念日の由来を見ると、”年末の大掃除のように、家にある布団カバー、毛布、カーテンなどの大きな物を洗い、すっきりとした気持ちで新しい年を迎えることを勧めようと、家庭用の洗剤などの洗濯用品を手がけるライオン株式会社(※1)が制定。日付は年末の掃除や洗濯の準備を始めるのが12月の3週目が多く、しっかり取り組みやすい日としてその土曜日としたそうだ。
お爺さんは山へ柴刈りに、お婆さんは川へ洗濯に行きました。
よく知られている桃太郎伝説の冒頭の一文であるが、こ物語の原型が出来たのは室町時代以前と考えられている。
洗濯とは、衣類などについた汚れを洗い落とすことであり、古くは、水辺での足踏みやたたき洗いが行われた。中世に入るとたらいでのもみ洗いが普及し、井戸端でしゃがんで選択をする光景が一般化した。上図参照。
昭和初期までよく見られた家族のものに小ざっぱりとしたものを着せるための洗濯にかかわる一連の作業は家庭を預かる妻女のつとめであった。川の流れを利用した洗濯では大きなものは足踏み洗いをした。そして、井戸端でのたらい洗いは語らいの場でもあった。
石鹸は、安土桃山時代南蛮貿易で伝えられたが、江戸時代には医薬用に使用されたぐらいであった。また、戦後の昭和初期までよく見られた洗濯板は明治以降に使われだしたものである。
汚れ落としのための当時の洗剤としては、灰汁(あく)や、無患子(むくろじ)(※2も参照)、皁莢(さいかち)の実を煎じたものなどが用いられ、また、糠(ぬか)や米のとき汁などもつかわれた。
一方、着物を一度解いて生地にして洗う解き洗いという方法もあった。これは解いた生地を洗い張りの板に張って干す方法と、伸子(しんし)という竹ひごで布を広げて干す方法がある。
中世より、一部には洗濯女のような職業もあり、安土桃山時代になると、紺屋から分離、独立した洗濯士という職人が生まれている。
江戸時代に入ると、紺屋から独立した洗張りの仕事は、京都で洗い物屋、江戸で洗濁屋(せんだくや)と呼ばれる本格的専門業者に移ったようだ。
また、コトバンクよれば、日本初のクリーニング屋は、1859(安政6)年横浜本町に開業した青木屋忠七を初めとするそうで、本業は横浜に入港した船舶の荷役配送業務であったが、同時に船員の衣類の補修から洗濯までを副業としたそうだ。
しかし、横浜市中区山手町に「クリーニング発祥の地の碑」があり、その碑文には「安政6年神奈川宿の人、青木屋忠七西洋洗濯を横浜に・・・・・」と記されているが、青木が外国奉行に営業申請したのは3月であり、横浜港開港はその後の安政6年6月2日(太陽暦で1859年7月1日)のことであり、この碑分の文面の信憑性は薄いとされているようだ。外国人相手の洗濯屋は開港時から存在はしたが、本格的な洗濯業としては、文久年間に開業した、渡辺善兵衛が最初とされており、店の前を流れる小川のなかに大きい丸い石があり、外国人の衣類をその石に叩きつけて、洗濯していたという。
小島庄助、脇沢金次郎らが、これに次ぐが、近代企業としてのクリーニング業は、フランス人ドンバルの技術指導により、脇沢金次郎が始めたと言われているようだ(※3、※4参照)。
当時近隣には、フランス駐屯軍やイギリス駐屯軍が駐留していたこともあり、これらの士官や兵士たちの洗濯を請け負っていたようだ。
一方、ドライ・クリーニングは、1906(明治39)年3月、東京・日本橋にて洗濯店「白洋舎」を創業した五十嵐健治がその翌年に初めて成功したようだ。

汚れには水に溶ける「水溶性」と、水に溶けない「脂溶性・不水溶性」がある。たとえば、身体から出るなどは水溶性だが皮脂は脂溶性であり、襟など直接皮膚にあたるとこは特に脂溶性の汚れ(油汚れ)が多い。
このような汚れを取るための洗濯の方法には湿式洗濯と乾式洗濯がある。
湿式洗濯とは、水を使用した洗浄法のことをいう。現代の家庭で洗濯機に水と洗剤を入れて行っている洗濯は湿式洗濯である。
湿式洗濯(クリーニング)の長所は、水溶性の汚れがよく落ちる(水の温度を上げるとなお、よく落ち)。短所は、型崩れしやすい点である。
したがって、この湿式洗濯は、羊毛製品や絹製品などは、型くずれ、変形、色落ちしやすくなる。しかし、湿式洗濯は、水溶性の汚れをよく落とすという特徴がある。
この湿式洗濯に対して、洗濯する際に水を使用せず、油脂類に起因する汚れや垢を、溶解する揮発性(液体の蒸発しやすい性質.)の 有機溶剤を使用した洗浄法のことを「乾式洗濯(ドライクリーニング)」という。
乾式洗濯(ドライクリーニング)の長所は、油汚れがよく落ちる。衣類の型崩れや収縮がしにくい。短所は、汗やしみ(水溶性のもの)が残るのが特徴である。
このように2種類の洗濯方法には長所と短所があり、洗濯する服の繊維や汚れを考えて洗濯しないときちんと洗えない(詳しくは、※6参照)。
明治、大正の頃より、ドライクリーニング(乾式洗濯)は揮発油ベンジン等いわゆる石油系溶剤が主流であったが、これらの溶剤は揮発性が高く、引火性もあるため、コンパクトな機械でも、できうる限り密閉式につくられていた。
一般に町の洗濯屋さんでは、地下槽を設備したり、防爆式にしたりする関係上、機械を設置するには、それなりのスペースと防火設備が必要であることから、ワイシャツ等の水洗物とは違い、ドライは外注に頼っていた。
数カ所、あるいは数十カ所の洗濯屋さんから集められたドライ物は、ホールセールで素洗い、乾燥処理されてから、それぞれの洗濯屋さんに返却され手アイロン等で仕上げられていた。この工程を踏んだものは当時「純ドライ」「洋式洗濯」「乾式洗濯」などの名称で看板を出していたようだ。
石油系溶剤は、現在あるような、臭わないものではなく、独特の臭いを強くもっていた。素洗いをした被洗物を手アイロン等で仕上げ成型しても、揮発性の高い臭いが残り、その臭いで本式だという認め方もあったくらいだという。

上掲の画像は、MYコレクションの絵葉書より、「洋服を揮発油にてあらふキハツ クリーニング場 」の光景である。絵葉書表差出人欄には神戸市阪神電車神戸終點前、 陣野染洗店・・とある。呉服の染物や洗い張り、しみ抜きなどをしていたところが、洋装の広がりから、その技術を生かして、クリーニング業へ転身していったところが多かったということだろう。
この絵葉書はクリーニングの広告用の絵葉書だろうが、表書きの阪神電車神戸終點前とある、神戸とは、かつて兵庫県神戸市に存在した阪神電気鉄道本線の駅で、通称滝道駅のことだろう。
阪神電車は、1905(明治38)年4月12日 大阪の出入橋駅 - 神戸駅(初期は神戸雲井通とも案内。のちの三宮駅)間で開業。
1912(大正元)年11月1日 神戸側終点を雲井通(三宮)から加納町(滝道)まで延伸。加納町(滝道)に新たな神戸駅設置、従来の神戸駅(神戸雲井通)を三宮駅に改称。神戸駅は市電の電停名に倣い滝道駅と呼ばれることも多かった。
1933(昭和8)年6月17日 神戸側の地下新線(岩屋駅 - 神戸駅間)開業。岩屋以西を地下線として岩屋駅 - 三宮駅 - 神戸(滝道)駅間地上線の営業廃止。省線三ノ宮駅近くの地下へ新たな神戸側終点となる神戸駅を設置する。
したがって、ここにある絵葉書の年代は、神戸(滝道)駅のあった、1912(大正元)年11月1日〜1933(昭和8)年6月17日の間のものと思われる。余談だが、この駅ができる3年前の1908(明治41)年、当線を歌った「阪神電車唱歌」が作曲されている。阪神電鉄が宣伝のために製作したもので、22節に当時の駅名を織りこみ、当時の沿線の名所や­名物などを紹介している。面白い歌なので、後で一度聞いてみてください。以下です。
阪神電車唱歌を歌おう - ZAQ
http://www.hi-net.zaq.ne.jp/buaro005/hs_syouka.htm

東京など、関東大震災後、郊外に続々と建てられた洋風のモダン住宅は「文化住宅」と呼ばれ、サラリーマン層の夢を誘った。これらの住宅の特徴は、玄関わきの応接間、そして、居間と食堂、さらに水道やガスの引かれた板張りの台所である。そこには、炊事や暖房用の目新しいガス器具や電気器具が並んでいた。
ガスや電気は最初は照明として使われていたが、やがて燃料としても使われるようになり、ガスの竈(かまど)(日本における最初のガス器具特許品)が発売されたのは、1902 (明治35)年のこと(東京ガスより※7参照)。
大正中期には熱源をめぐってガスと電気の競争が始まり、大正末にはガスの七輪に対して電気の七輪が、ガスのかまどに対して、電気釜が登場したという(『朝日クロニクル週刊20世紀)』1926年063号)。
そして、東京電機(現在の東芝)が、電気アイロン(1915年※8)、電気冷蔵庫(1930年※8)、そして、同年に日本初の電気洗濯機(※8)の国産化も進めた。
しかし、これらの電気製品やガス器具をそろえることができたのは一部の高給取りに限られていた。多くの庶民は、鍋や釜、包丁、はてはたわしまで「文化」の名前を付け流行の文化生活の一端に触れようとした。しかし、家庭での電気利用はせいぜい電燈ぐらいで、洗濯には洗濯板を使い、料理は薪や炭でするという生活がほとんどだった。
やがて1927(昭和2)年の金融恐慌をきっかけに慢性的な不況に突入。満州事変を契機にナショナリズムが台頭してくると都市型の文化生活は目の敵にされるようになる。
そして、第二次世界大戦が終わるまで、ぜいたくは敵であり、ただただ耐久生活が続いた。

以下参考の※5:「共栄産業ホームページ:業界今昔物語」によると、クリーニング業界は比較的歴史は若く、急速に加速したのは、1959(昭和34)年の環境衛生法(正称は環境衛生関係営業の運営の適正化に関する法律)の施行により大きな転換を迫られた頃からだという。
機械洗濯(洗濯機参照)の歴史は明治、大正時代から「湿式洗濯」と「乾式洗濯」の名称のもとに、繊維の発達と洗剤・助剤の発達とともに時々刻々緩やかな道のりを辿りながら、需要を満たしてきた。
昭和の初期までは、タライや洗濯板を使って手で洗濯し、天日で乾かしたものであった。このころでも、一部では洗濯機械もあるにはあったが、ごく限られたところでしか使われていなかった。
終戦後、米軍の進駐にともない、その後方機関としてQMランドリーというものがあったそうだ。これは米軍の部隊、病院などからでる洗濯ものを処理する工場で、当時としては目を見張る設備を備えたクリーニング工場で、これが、クリーニング業者はもちろん、機械メーカーにも大きな参考になった。米国払い下げの中古機械を買い漁った時代もあったという。
そして、国民生活が終戦後の混乱期を脱した頃より、その需要は様変わりして、環境衛生法の実現をみた。
昭和34年の環境衛生法が施行される前は、ランドリークリーニング(ドラム式。水を使用しての洗い)においても、ドライクリーニング(有機溶剤を使用して洗い)においても、最もつらい労働であった「絞り」を解決するために、手回し脱水機がまず工場に備えつけられた。これはやがて直結電動型となっていった。
環境衛生法施行とともに洗濯する機械、乾燥する機械を含め、仕上げる機械を「業務型洗濯機」という名称で機械メーカーが生産。
米軍の設備が手本となったため、業者は米国のクリーニング工場を参考とし、需要を満たすため、進んで米国業界を手本とし、発達する道のりを歩んでいったという。
一方、家電メーカーも「家庭用洗濯機」を発売して、一層の発展への拍車がかけられ、経済発展に伴う庶民の生活の向上とともに、洗濯に対する必要性がますます認識され、便利さと快適さを求められて今に及んでいる。
女性の仕事として長い間家事労働の大きな部分を占めてきた洗濯だが、家庭電化による電気洗濯機の普及、新しい化学繊維や新洗剤の出現などにより、洗濯に費やす時間と労力は著しく合理化されてきたため、今の女性は昔の女性に比べずいぶんと家事労働が減り、自由に行動ができるようになったといえるだろう。

ところで、今の時期になるとなかなか1日では出来ない大掃除をしなくていけないと、これがずいぶん負担になっている人も多いのではないか。俳句では、年末の大掃除に『すす払い(煤払)』という季語を用いる。どうせするなら、あまり忙しくないほかの季節にすればよいものを日本では、年末の大掃除は、単に掃除をするということより、『すす払い(煤払)』をして、建物や身体や気持ちを清めて新年を迎えるという正月行事の一つとなっている。
しかし、正月の準備は本来、正月事始の12月13日に行うもので、正月飾り、門松、鏡餅を供える。大掃除(すす払い)をするのも、歳神様(歳徳神)を招きいれるための準備である。しかし、現代では元日間際になって行うというのが一般的になっているのではないか?。
普段からの計画的な手入れ次第で、そんなに、年末だからと言って、たいそうな掃除をする必要はないはず。
私の家など息子たちが自立しマンションを買って出て行ったため、年を取った私と女房の二人では、少し広すぎる家になったし、我々二人だけでは、年末の大掃除も大変なので、大掃除ですべきことなど、正月前にしなくて良いものなどすべて、1年の計画の中で組み込んで、一つづつこなしている。だから、これから後にすることはあまりない。
掃除で手間のかかるのは、戦後の急成長期以降、なんだかだと言って買った物が多くありすぎるからだろう。何もないすっきりした部屋なら掃除に時間はかからない。
戦後の焼け野原の後には、どんなに狭くても「我が家」の存在自体がすばらしいものであった。……いわゆる「団地のDK(ダイニングキッチン)」の台頭。そこに備えたい台所用品や家電の多くは、それまでの主婦らは見たことも、想像すらできないものばかりだった。新しいモノを知ったが最後、周囲の家と競い合うように買い求め、それが当たり前になっていった時代があった。そして、家も広くなり、その分どんどんと品物が増えていったのだ。
「戦後 」のもののなかった時代を考えてみれば、今のように「モノが多過ぎる」状況に至るのは別段不思議ではなかったようにもみえるが、この際、不要なものは思い切って、すべて、バッサリと大掃除することが大切かもしれない。
私も、今までに買いだめした衣類などでも、まだ手も通したことのない背広ほか多くのものがあり、これらのうち、もう長く来ていないものや、これからもいつ着るかわからに様なものは、すべて、この際処分しようと思っている。そうすると、気まぐれにあれを着たり、これを着たりしてできてしまった洗濯ものの数も減るし、一挙両得だものね。
それと、今度の衆議院選挙では、国会議員さんも慎重に見極め、戦後日本の「腐りきった行政の大掃除」を断行してくれそうな人を選びたいものだね。政治、行政の洗濯をしないと、日本は何時ギリシャになるかわからないところに来ているから・・・。
さて最後になったが、今日のテーマー「洗濯」など、特に、年末だからというのではなく、普段からやっておきたいのだが、まだの人は、今日の記念日「洗濯の日」を設定したライオンでは、クイズに答えて当たる!旅行券10万円分を10名様、買って当たる! 神戸牛すき焼き肉等を合計1,205名様にプレゼント!・・・といった、「年末大洗濯始めよう!キャンペーン! 」をしているので、時間のある人はちょっと覗いてみては・・・。以下です。
年末大洗濯始めよう!キャンペーン!
http://o-sentaku.jp/


それと、私は明日から、正月の松の内が明ける1月15日まで、このブログを休止しようと思っていますのでよろしくお願いします。また、来年もよろしく訪問お願いします。
皆様、良いお正月をお迎えください。


(冒頭に画像は、洗濯『倭国百女』。NHKデーター情報部編ヴィジュアル百科『江戸事情』第1巻生活編より借用)
参考:
ライオン株式会社
http://www.lion.co.jp/index2.htm
※2:無患子(ムクロジ)
http://www.hana300.com/mukuro.html
※3:発祥の地コレクション/クリーニング業発祥の地
http://hamadayori.com/hass-col/commerce/cleaning.htm
※4:タイムスリップよこはま - 元町周辺/クリーニング業
http://www.timeslip-y.jp/motomachi/clean.html
※5:共栄産業ホームページ:業界今昔物語
http://www.kyoeinet.com/konjaku/index.html
※6:洗濯屋さんのホームページ
http://members.jcom.home.ne.jp/wex/index.html
※7:東京ガス : GAS MUSEUM ガスミュージアム / 収蔵品検索 調理器具
http://www.gasmuseum.jp/search/gas_kigu001.html
※8:東芝科学館 - 東芝一号機ものがたり
http://kagakukan.toshiba.co.jp/manabu/history/1goki_j.html
汚れの分類
http://liv.ed.ynu.ac.jp/kaisetsu2/01basic/02soil.html
大掃除のコツ ホーム - サイトマップ
http://www.3615soul.com/
日本記念日協会:今日の記念日
http://www.kinenbi.gr.jp/
洗濯 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%97%E6%BF%AF

クリスマス イブ

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Merry Christmas
今日はイブ。
寒冷前線の接近により寒い寒いホワイト・クリスマスとなったようですが、せっかくのクリスマス、日本では、宗教とは関係なく、一行事として楽しく過ごしましょうね。
添付の画像は、神戸・うろこの館のサンタさん。今年、オリンピックで活躍した選手たちも勢揃いしています。
このクリスマスが終わると、すぐに正月が来ます。
私は、これから正月の松の内が明けるまでブログを休止しますが、みなさん、クリスマスの後は、休養を十分にとってとって、風邪を引かないようにし、よいお正月を迎えてくださいね。
今年は訪問有難うございました。
この場を借りてお礼を申し上げます。
来年も訪問をお待ちしています。

Happy New Year

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明けましておめでとうございます。
昨年は当ブログへのご訪問有難うございました。
昨年から今年は、政権も安倍新内閣へと生まれ変わり、国債を増発してでも、デフレからの脱却を最重点課題として取り組むとのこと。
そのことを市場は好感し、円安・株高へと動いています。
反面、国債の値下がりによる金利の上昇、円安による石油・ガソリン等輸入価格の上昇により、厳冬の中での暖房費や配送コスト等のアップといったマイナス面も見え始めています。
今の日本には、昨年来未解決である東北地方の復興や、原発・エネルギー問題の他、年金や医療、若年者の雇用問題、そして、外交問題等々解決しなければならない重要問題が山積みとなっています。
何をどうすれば良いのか?。
これなら・・・といった妙薬があればすでにやられているわけであり、何をしても、これですべて解決するといった妙案は、ないでしょうが、景気の回復なくしては、諸問題を解決するための原資を得ることができないので、最重要課題として取り組むべき課題ではあるものの、その反面、発生するであろう物価の上昇が、所得上昇のどの程度の範囲に収まるのか・・・。
少子高齢化により、ただ、収入を年金だけがに頼っている多くの高齢者には、消費税等の増税も始まる中での物価上昇は想像以上の負担となるかもしれません。
こういったマイナス面への配慮がどのようになされていくかは、十分注意して見守っていかなければいけないでしょうね。
今年は、大きく変化する年になりそうですが、兎に角、国民にとって幸せでよい年となることを心より願っています。
私は、このブログ1月10日ごろまでは、お休みしますが、また、再開時には、ご訪問よろしくお願いします。
みなさんも、健康には気を付けて、お正月、大いにお楽しみください。

110番の日

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今日の記念日「110番の日」は110番(ひゃくとおばん)の適切な使用を推進しようと、1985(昭和60)年12月に警察庁が定めた。
記念日の日付自体は110番を日付にすると、1月10日となる語呂合わせからであり、緊急通報制度の興りなどとは全く関係はない。
110番(ひゃくとおばん)とは、日本において警察機関に提供される緊急通報用電話番号のことであり、これが、110番「ひゃくとうばん」の正式名称である。
記念日登録した翌1986(昭和61)年1月から警視庁では「通信指令センター」を一般公開している。
また1月10日には、全国の警察でもこれに関連したキャンペーンが行われている。
東京では、今日の午後2時から4時まで、千代田区有楽町の読売会館7階 「よみうりホール」で、「110番の日の集い」が行われ、平成25年110番イメージキャラクター「川島海荷さん」・「ピーポくん」とともに110番通報時の正確な場所の伝え方等について学び、警視庁音楽隊・警視庁音楽隊カラーガード(※1のここ参照 )の演奏・演技で、楽しいひとときを過ごそうということらしい(※1:警視庁HP『110番』参照)。
冒頭掲載の画像は、平成25年 警視庁「110番」広報用ポスターであるが、ポスターの女性が川島海荷さん。

上掲画像は、「ピーポくん」のぬいぐるみ(Wikipediaより)。
ほぼ全身が黄色であり、耳が大きく、腰には拳銃を装備したベルト(1994年3月まで警察官の装備として採用されていた負革の付いた帯革)を締めているピーポくんは、都民と警視庁のきずなを強めるため「親しまれ、信頼される警視庁」をテーマに、警視庁のシンボルマスコットとして、1987(昭和62)年4月17日に誕生した警視庁のマスコットキャラクターである。
名前の由来は、人々の「ピープル」(People)と、警察の「ポリス」(Police)の頭文字(Peopo)からだそうだ。
ピーポくんは特定の動物ではなく、いろいろな動物の可愛らしい部分をイメージ化して作られたもので、顔が大きく体が小さいなど、愛着のあるキャラクターとして幼児向けの要素も盛り込んでいるが、大きい耳や触角のようなアンテナ、見開いた目には、それぞれ以下のような役目を持つとされる(※1:警視庁HPピーポくんタウンより)。
耳:都民の声を幅広く聞くためのもの
アンテナ:社会全体の動きを素早くキャッチするためのもの
目:社会をすみずみまで見わたすためのもの
ピーポくんは元々、警視庁広報課が発案しキャラクターデザイナーと共同で製作したもので、その著作権は警視庁に帰属し、商標登録もされている(登録権利者は東京都)。ネットで検索していると、キャラクターをデザインしたのは日本漫画界の巨匠・手塚治虫とのうわさも見られるが、根拠は見当たらない。
いずれにしてもかわいいキャラクターなので、当初は防犯ポスターなどに使われていたが、その後、縫いぐるみや携帯ストラップ、メモ帳、消しゴム、マウスパッド、テレカ、Tシャツ、キーホルダー、防犯ブザー等各種グッズが製作・販売されるようになり(警視庁管内の運転免許試験場の売店等で購入できる)、また、警視庁公式ウェブサイトには、いたるところにピーポくんが登場する。
さらに、警視庁管内の交番や警察署の各課窓口等には、縫いぐるみやポスター、建て看板などが置かれていたりもするようだ。
ぴーぽくんには家族もおり、これらキャラの使用については、1988(昭和63)年に、「シンボルマスコット等活用要綱」で決められている(警視庁シンボルマスコット等活用要綱の制定について参照)。
こんなかわいいピーポくんンの誕生は、都民に対して、それまでの、「怖い、威圧的な警察」のイメージ改善には結構貢献したことだろう。今は、ぴーぽ君の歌までできている(ぴーぽ君の歌)。

もともと、戦後の警察は民主警察を基本としており、警察官による警察活動も「市民を脅かす」、「恐い顔をして牽制する」などという戦前の旧体制下の警察とは全く異なるものである。
日本の警察制度は明治維新とともに始まる。江戸時代には警察に相当する役所として町奉行所があった。
江戸には南北の町奉行が、諸国には遠国奉行があり、その職員である与力同心が現在の警察官に相当した。ただし与力、同心の人数は人口に対して非常に少なく、江戸の人口100万人に対して与力は50人、同心は250人しかいなかったという。そのため、同心は私的に岡っ引と呼ばれる手先を雇い、警察業務を執行していた。
明治維新によって江戸幕府が崩壊すると、諸藩の兵(藩兵)が治安維持に当たった。しかし藩兵は純然たる軍隊であり、警察ではなかった。
1871(明治4)年、東京府に 邏卒(らそつ:“巡邏の兵卒”の略.。巡査参照)3000人が設置されたことが近代警察の始まりとなった。同年、司法省警保寮が創設されると、警察権は同省に一括され、東京府邏卒も同省へ移管された。
そして、明治5年(1872年)、邏卒総長に就任した薩摩藩出身の川路利良が、新時代にふさわしい警察制度研究のため、同年、司法省の西欧視察団(8人)の一員として、欧州各国の警察制度を視察、渡欧し、帰国後、フランスの警察に倣った制度改革を建議。司法省警保寮は内務省に移され、1874(明治7)年、首都警察としての警視庁創設に伴い初代大警視(後の警視総監)に就任。日本の近代警察制度がここに始まる。
以後の警察は、国家主導体制のもと、管轄する中央省庁の権限委任も多く行われたが、最終的に内務省に警察権が委任され、内務省方の国家警察・国家直属の首都警察としての警視庁と、各道府県知事が直接管理下に置く地方警察の体制に落ち着いた。
そして、内務大臣が主任の大臣として、地方長官たる警視総監及び府県知事等を指揮監督し、これらの地方長官は、国の機関としての警視庁及び道府県(警察部)とその下に置かれた警察署等を指揮監督した。
この体制は昭和に入っても継続され、第二次世界大戦中には、特高憲兵といった秘密警察を筆頭に地域の警察署や交番に至るまで軍部や政府の方針通りに思想統制を行う弾圧機関として暴走していた過去がある。この頃の警察は現在とは異なり、イメージ的には威圧的で、市民から恐怖と非難の的となってた存在であり、とても現在のような「正義の為の警察」、「市民の安全を守る警察」といったイメージではなかった。
こうした暴走を繰り返さない為、戦後は、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の指導の下、日本警察の再編が行われ、それまでの中央集権的な警察組織が廃止され、1948(昭和23)年に旧警察法が定められる。
旧法では、地方分権色の強い国家地方警察自治体警察の二本立ての運営で行われる(※2の『平成16年 警察白書』のここ参照)が、1954(昭和29)年には現警察法に改正され、国家行政組織の警察庁と地方組織の警視庁道府県警察に統一されて今日に至っている(※2の『平成16年 警察白書』のここ参照)。
また、警察官の服装に関しては、第二次世界大戦中までは、一般の制服警察官が常時拳銃を携行することはなく、常時の武装としてはサーベルを佩用(はいよう。身におび、用いること)していた。交通警察・消防警察・水上警察その他サーベル佩用が不便な業務に従事する警察官は、サーベルに代えて短剣を佩用していたが、終戦後はサーベル・短剣は、GHQの指示に基づき、1946(昭和21)年3月12日付勅令第133条(昭和時代の日本の勅令一覧)により佩用禁止となり、警棒を持つようになった。また、1948(昭和23)年からGHQの指示により警察官が拳銃を携行(※3)するようもなった。
そして、警察官のシンボルである、制服も戦前は軍服と似たような襟詰デザインだったが、これも変更され、戦後しばらくは、GHQの指導のもと、アメリカの占領軍兵士が着ているような気色味をおびたカーキ色のブレザー風制服だったが、その後、紺色ブレザーへと変わった。
現在の制服は、従来の制服にさらに威圧感軽減を図ったもので、警棒や拳銃を納めた帯革が上衣の下に隠れるようになり、外観から武器が極力見えないようになって威圧感がより軽減された。

110番制度も、1948(昭和23)年にGHQからの申し入れにより、国家地方警察(現在の警察庁)と逓信省(現在の総務省)が協議して、同年10月1日より始まった。
当初は東京都区部・大阪市・京都市・横浜市・川崎市・名古屋市・神戸市・福岡市の8都市のみでスタートした。
110番や1110番というようにバラバラだったが、1954(昭和29)年7月1日の新警察法施行をもって110番に統一された。
この警察への通報用電話が110番となった理由としては、
国民に覚えやすい番号とすること
誤報が少ないように番号を3桁にすること
ストッパーまでの距離が短い「1」を多くすること(当時の電話機は回転ダイヤル式であった)
の三項目を基本に検討された結果だと言われている。

日本では、1950年(昭和25年)に電気通信省(現在の総務省、NTTグループ)によって4号電話機(※4のここ参照)が制式化され、1952(昭和27)年に、電気通信省が廃止され日本電信電話公社(現:NTT)に移行し、この年から提供が開始された。
1950年代には、商店・企業の連絡手段として電話は必要不可欠なものとなっていたが、そのころ一般家庭では、まだ「呼出電話」と呼ばれる、電話を持っている人に着信させ、電話を受けた人が呼び出す人をその人の家まで呼びに行くものであった。そのため、電話機は玄関に設置されていた。
私の家は商売をしていたので、早く戦前から電話は設置されていたが、記憶に残っているのは長方形の壁掛け式の電話であった。そして、よく近所の人が利用していたのを覚えている。
日本で一般の家庭にも、電話が普及しはじめたのは1970年代以降のことである。

緊急通報用電話番号の110番の読み方が「ひゃくとおばん」と世間に広まったきっかけは、作家の故向田邦子さんが、脚本家としてデビューしたテレビドラマ「ダイヤル110番」であり(※5参照)、実際に起きた刑事事件をモチーフに製作された。
当連続ドラマは、1957(昭和32)年9月3日から1964(昭和39)年9月6日まで、日本テレビ系列にて放映された日本初の刑事ドラマだとされている。
オープニングでは、警視庁の通信指令室が映った後、係が受話器を取って「はい、こちら110番」と応じる場面から始まった。また、本作では本物のパトカーが使用されたことも評判になった(ここ参照)。
Wikipediaによれば、このドラマ「ダイヤル110番」は、アメリカで放映された実録刑事ドラマ「ドラグネット」にヒントを得て制作。
アメリカのドラマ同様、警視庁の協力を得て、警視庁、警察庁、日本全国の警察署から寄せられた現実の事件等の資料に基づいてストーリーが構成されたものだそうであり、後に本作は、警察庁長官賞を受賞したとある(日本テレビ編『日テレドラマ半世紀』114ページ)。
私は、この「ドラグネット」という映画の名前に記憶があり、調べてみると、私のコレクションの中の1つ、映画のチラシの中に同ドラマを映画化した1987年度アメリカ映画「ドラグネットー正義一直線―」(※6)があった。

上掲のものがその映画のチラシである。同チラシ説明によると、「ドラグネット」は1949年NBCのラジオ番組として産声を上げた。
このドラマは、アメリカで実際に起こった事件と、警察の捜査に基づいたリアルなシリーズとして、当時の聴取者達をラジオの前にくぎ付けにしたという。
その人気は、そのまま、テレビシリーズとして引き継がれ、テーマ曲として有名な“ダーンダ・ダンダ”と共に、コンビで活躍する2人の刑事ドラマを原点として、テレビや映画に強い影響を与えた。
テレビシリーズでは、途中数年間のブランクの後、1970年の放送終了まで延べ22年間に渡って人々に愛された正に国民的な(日本でいう水戸黄門的な)番組であったらしい。
そんなシリアスな刑事ドラマがダン・エイクロイドトム・ハンクスの2人の名優によって、現代に蘇り、1987年度全米興行成績第9位に輝く新刑事コンビが誕生した・・とある。
今では、全米No1 スターに成長した、当時まだ売り出し始めたばかりのトム・ハンクスが若い・・・。以下では、映画解説と共にそのワンシーンも見ることができるよ。

燃えよ!映画論 : ドラグネット 正義一直線

電話も普及した今、警察への直通電話番号として「110」番が定着しており、警察への問い合わせにも「110」番が使われることが多くなったため、全国共通のプッシュ回線(トーン回線)や携帯電話専用の直通総合相談番号「#(シャープ)9110」も設定され、ダイヤル回線(パルス回線)の場合には、更に別の番号が用意されている(ここ参照)。あわせて、警察署の代表番号の下4桁を「110」番から連想しやすい「0110」、「9110」とする地区も多い。
警察への事件の連絡が「110番」にかかると、各都道府県警察本部や地域の通信司令室の110番受理台につながり、場所・事件内容を確認後、管轄の警察署から警察官が出動する形を取っている。
場所が警察署の管轄地域の境界に近い場合、管轄の署をめぐって出動に手間取ることも多いようだ。また、ダイヤルの0と9の位置が隣り合っているため、緊急事態であることも加わって、消防・救急(119番)と間違える場合も多いと言われている(110番と119番との受付台で相互に連絡を取り合っているようだが(※7)。

平成23年警察白書(※2:「警察庁HP」のここ参照)の“110番通報の現状”を見ると、
110番通報受理件数は、平成22年中は約931万件と、前年より約27万件増加し、依然として高い水準にあり、これは、約3.4秒に1回、国民約14人に1人の割合で通報したことになるらしい。
また、携帯電話等の移動電話からの110番通報が65.9%を占めているという。
警察では、1月10日を「110番の日」と定め、110番通報を適切に利用し、緊急の対応を必要としない相談等の電話には専用の「#(シャープ)9110」番を利用するよう呼び掛けている。また、移動電話を用いて110番通報をするときは、所在地や番地、目標物を確認するほか、通話中にはできる限り場所を移動しないことなどを呼び掛けている。・・・ようだ。

“刑法犯の認知・検挙状況”を見ると、
平成22年中の刑法犯の認知件数は158万5,856件と、前年より11万7,188件(6.9%)減少したが、120万件前後で推移していた昭和40年代と比較すると高い水準にあることに変わりなく、情勢は依然として厳しい。
この刑法犯の認知件数は、平成8年以降急増したが、中でも街頭での強盗やひったくり、住宅等に侵入して行われる窃盗や強盗等の増加が顕著であったことから、警察では、平成15年1月から街頭犯罪・侵入犯罪抑止総合対策を推進している。・・・という。

事件の早期解決は、事件発生直後、いかに多くの情報を正確に早く伝えるかにかかっている。
犯罪から自身の身を守るため、また、地域の人たちの安全を守るため、110番は、正しく活用したいものですね。

参考:
※1:警視庁HP
http://www.keishicho.metro.tokyo.jp/index.htm
※2:警察庁HP
http://www.npa.go.jp/
※3:警察官等けん銃使用及び取扱い規範
http://law.e-gov.go.jp/htmldata/S37/S37F30301000007.html
※4:NTT DIGITAL MUSEUM:電信・電話の歴史年表
http://park.org/Japan/NTT/DM-/html_ht/HT_idx_j.html
※5:向田さん“幻のデビュー作”発見 「ダイヤル110番」脚本
http://www.47news.jp/CN/200909/CN2009091401000150.html
※6:映画 ドラグネット・正義一直線 – allcinema
http://www.allcinema.net/prog/show_c.php?num_c=16144
※7 :大分県警察本部>110番について
http://www.pref.oita.jp/keisatu/110ban/110_01_08.htm
「全国読売防犯協力会」のホームページ
http://www.bouhan-nippon.jp/
罪と罰(日本刑事政策研究会)
http://www.jcps.or.jp/publication/index.html
110番の日 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/110%E7%95%AA%E3%81%AE%E6%97%A5


分割・民営化された最後の国鉄総裁を務めた杉浦喬也 の亡くなった日

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今日1月16日は、元運輸官僚で、分割・民営化された国鉄の最後の総裁を務めた杉浦喬也(すぎうら・たかや)が死去(2008年)して5年目になる。
杉浦は1925(大正14)年8月15日東京大森で生まれ、東大経済学部卒業。1951(昭和26)年に運輸省(現国土交通省)へ入省。
1969年鉄道監督局国鉄部財政課長に就任の後、国鉄部長になる。1982(昭和57)年から運輸事務次官を務める。
1982(昭和57)年7月、第2次臨時行政調査会国鉄(日本国有鉄道)の分割・民営化を答申。
運輸事務次官を退官後、1985(昭和60)年6月、国鉄分割民営化に消極的で非分割民営化を推進していた仁杉巌第9代国鉄総裁が、当時の中曽根康弘内閣総理大臣の強い意向を受けて辞任、その後任を受ける形で6月25日第10代国鉄総裁に就任した。就任後、分割民営化を取り仕切り強力に推進。
民営化後は、旧国鉄の債務を引き継ぐ国鉄清算事業団の初代理事長に転じ、1991(平成3)年全日空会長に就任。1999(平成11)年、勲一等瑞宝章受章。平成20年1月16日死去した。<享年82歳>。

大学卒業後、運輸省に入省し、国鉄と並走するが如く運輸官僚人生を駆け抜けた杉浦の推進した国鉄分割民営化の方法やその評価について、意見は様々ある。
今日はそんな、杉浦個人のことを書くつもりはない。ここでは、世界に誇る日本の鉄道・・・・、かっての国鉄が民営化に至るまでの軌跡を簡単に追ってみようと思う。

明治維新の翌年、明治新政府は東西両京を結ぶ鉄道幹線と定め、東京―横浜間と、琵琶湖から敦賀港に至る線を支線とすること、また、これを官営によって建設することを決定し、鉄道建設を開始した。
そして、日本の鉄道が、新橋駅 - 横駅間で正式開業したのは1872(明治5)年9月12日(旧暦新暦だと10月14日)のことであった。ただし、実際にはその数か月前から品川 - 横浜(後の桜木町)間で仮営業が行われていた(※1)。
冒頭に掲載の画像は、“浮世絵に描かれた開業当初の鉄道(横浜)”、 画像はWikipediaより借用。
鉄道は大評判となり、開業翌1873(明治6)年には大幅な利益を計上したが、運賃収入の大半は旅客収入であった。
この結果「鉄道は儲かる」という認識が広まった。また旅客と貨物の比率について、鉄道側に貨物運用の準備不足もあったが、明治維新直後で近代産業が未発達な時期であり「運ぶ荷物がなかった」事も考えられる。
京浜間と同時に工事が進められていた京阪神地区も順調に建設が進み、1874(明治7)年5月11日には大阪駅 - 神戸駅間が開通したが、この時は仮開業として扱われ、開業式が行われたのは1877(明治10)年に京都駅まで延伸した時であった。尚、1875(明治8)年5月官鉄の神戸工場で輸入車両車軸による、客貨車を製造(客貨車の日本初国産)が行われている。

上掲の画像は「日本最古客車図」(Wikipedia-日本の客車史 より)。
1872(明治5)年に開業した日本最初の鉄道は、順調にスタートしたが、これらの鉄道は国による建設であり、国有国営を旨としていたものの、その後、1877(明治10)年に勃発した西南戦争による政府財政の窮乏により、新規建設は東海道線(1889年=明治22年全通)などを除いてほとんど停止.。幹線鉄道網の一部は政府の保護を受けた半官半民の会社としての日本鉄道などの私鉄により建設された。
しかし、日清(1894年7月〜1895年3月)・日露( 1904年2月〜1905年9月)の両戦争を経て、軍事輸送の観点などから鉄道国有論が高まり、1906(明治39)年に鉄道国有法が制定され、日本の鉄道網は基本的に国が運営することとなった。
これにより、1906(明治39)年から翌年の1907年(明治40年)にかけて、17社(被買収私鉄の一覧参照)の2,812哩(約4,500km)が買収された。買収前には1,600哩(約2,600km)に過ぎなかった官設鉄道は、4,400哩(約7,100km)と3倍に増え、私鉄は地域輸送のみに限定されることとなった。
その後も鉄道敷設法に基づいて、私鉄の買収国有化が行われた。
明治維新によって新政府が発足した当時、アジアでは欧米列強諸国による植民地化が進んでいた。
日本はそれを避けるため、富国強兵による近代化を図った。鉄道の敷設も、その一策であった。
欧米では、極東の鎖国をしていた島国の日本が、当初は日本に鉄道技術がなかったにもかかわらず、外国人技師の指導を受けながらも、明治維新より僅か数年で自前の鉄道を完成させたということには、驚嘆の声が上がったといわれる。
Wikipedia(日本の鉄道史)には、歴史家のアーノルド・J・トインビーが、「人類の歴史の奇跡の一つは、日本の明治以降の近代化である」と述べていたが、新橋駅 - 横浜駅間開業から30年余りで7000kmを突破した日本の鉄道網が、その近代化を支えていたのは間違いない。・・・とあるが、私もその通りであろうと思う。

このように、鉄道国有法以降、第二次世界大戦直後までは、国(鉄道寮→鉄道院→鉄道省→運輸省)が全国の主要路線(国有鉄道)を直接運営していたが、終戦直後の一般産業は戦争の影響で停止した状態に入っており、国民の足といわれ、国民の動脈といわれている国鉄は、一瞬たりとも休止することを許されなかったが、その国鉄も、8年有余にわたる戦争により軌道は、全延長キロの約5%が戦災被害を被り、さらに、鉄道施設・車両も荒廃し、旅客も貨物も全く輸送需要に応じきれないという状態であった。
その上、労働力、それに石炭・鉄鋼(鉄を主成分とする金属材料の総称)等資材も不足しており、戦災で焼かれた駅舎はもちろん、ホームの屋根すら修理することができず、また、洪水等で流された橋梁も復旧できず、木製の仮橋で間にあわせるというような事態すら生まれた。
このような施設・車両の荒廃のさなか、1947(昭和22)年2月の八高線(小宮駅 - 拝島駅間の多摩川橋梁上)、同年4月の京浜東北線田端駅(※2)での追突事故、同年8月山陽本線(万富駅通過中(※3:「きはゆに資料室」の事故と安全対策の歴史参照)の脱線・転覆事故等重大事故及び荷物・貨物の紛失・盗難等が続出して、国有鉄道の体質・モラルの荒廃が議論の焦点とさえなっていた。したがって、国有鉄道の制度を根本的に改め、一刻でも早く輸送の正常化を図る必要性が生じていた。
そして、1949(昭和24)年、6月1日に国有鉄道は公共企業体公社)として改組され、日本国有鉄道の名称で発足した。
この公共企業体としての発足は、1872(明治5)年以来、官設官営の方式をとってきた国有鉄道にとって、根本的な改革を意味するものであったが、このような抜本的な改革の背景には、占領体制下にあって、当時絶対的権力を保持していたGHQの意向があった(のちに触れる)ものの、例え、そうでなくても、戦後の国有鉄道には早急に取り組まねばならない事情が多くあった。
国有鉄道では、日中戦争以後、戦争遂行のために女子、年少労働者の雇用が増大し、1944(、昭和19)年には、職員数は1936(昭和11)年の約2倍に達していた。
その後、終戦とともに軍召集者・引揚者の増加や戦災復興への着手等の業務のための新規採用もあって、職員数はさらに増大し、1947(22)年度には61万人(約51万人とも)にも達していたという(※4また※5:「国鉄があった時代」の労働運動と国鉄参照)。
このような状況のもとで、1949(昭和24)年7月、行政機関職員定員法(詳しくは、※6:「日本労働年鑑」の第23集(1951年版)>第三部 労働政策第二編 政府の労働政策 第五章 行政整理の”ここ ”参照)に基づく国鉄職員9万 5,000人(75000人とも(※4また※5参照)という大規模な人員整理が実施された。
一方、労働組合法(昭和二十年法律第五十一号)の成立(最終改正昭和24年6月1日)を契機として1946(昭和21)年2月には、国鉄労働組合総連合会が結成されていたが、最初の労働争議は、同年9 月に起こった、いわゆる 9.15 争議((国鉄総連は9月15日ゼネストを予定)とよばれるものであった。
これは、終戦後の未曾有の赤字に対処する経営の合理化の必要から生じた人員整理問題に端を発したものであるが、スト突入寸前に至り、運輸大臣の介入等により収拾した。
続いて翌1947(昭和22)年には、全官公庁労組のいわゆる2.1 ストが発生した。
これは、給与問題に端を発したものであり、これもまたゼネスト突入寸前に至り、マッカーサーの中止指令により中止された。しかしながら、この争議後も地域闘争、職場離脱等が各所で起こっていた。
1948(昭和23)年国家公務員法が施行された際、GHQは、マッカーサー書簡(同年7月付)を日本政府に送り、公務員の争議権を否認した。
それは、労働運動に対する政策という観点から、公共企業体としての国有鉄道の改編を指示したものであり、そこでは、国営企業の民主化及び現業部門の運営の能率向上等の理由から、鉄道現業部門を運輸省から切り離すべきであるという考え方が有力であった(※4)。
1949(昭和24)年6月、公共企業体としての日本国有鉄道の発足とともに公共企業体等労働関係法が施行され、国鉄労働組合(略称国労)は、この法律により規律されることになり、争議行為は禁止され、これに代わり調停、仲裁制度等が設けられることとなった。
このような状況を経て、上記7月の大規模人員整理は、組織的な争議を伴わず実施されたのであるが、この人員整理の進行中、 下山事件(1949年7月5日下山国鉄総裁変死事件)、三鷹事件(同年7月15日、三鷹駅構内での無人電車暴走事件)、松川事件(同年8月17日、松川での旅客列車脱線転覆事件)が続発している。
国鉄財政面では、軍需関係貨物の減少と石炭事情の悪化による輸送量の減少のため運賃収入は減収となる一方、インフレによる諸経費の増加、鉄道施設の戦災復旧のための多額の出費、さらに、これらの財源として多額の借入金を抱えたこと等から、昭和20年度には、創業以来初めて赤字を計上した。
しかも、赤字経営が長期化することが予想されたため、国鉄職員の整理と並行して、国鉄運賃を昭和20年度〜23年度にかけて4度改定し増収をはかった。
しかし、民生の安定・経済の復興に重要な役割を果たすことから、運賃水準をできる限り低水準に抑えたため、国鉄運賃は、物価の上昇に追随することが出来ず、国鉄財政は、引き続き物件費の高騰に悩まされることとなった。
その後、1950(昭和25)年にぼっ発した、朝鮮戦争に伴う特需景気により国内産業は活況を呈し、それに伴い、旅客・貨物輸出量とも増加したことなどから、国鉄財政は、昭和25年度及び昭和28年度の2年間は良かったもののこの2年間を例外として昭和20年代は、いずれの年度も赤字計上となった。
その後、国鉄財政は、昭和30年代こそ、高度成長期による輸出量の増大等に支えられて黒字経営が可能となったものの、40年代からは、再び構造的な赤字経営に落ち込むこととなった。
また、民営鉄道においても、朝鮮戦争後の資材の高騰と1950(昭和25)年のシャウプ勧告による税制の改正に伴う法人税等の引き上げ等により経営難に陥る中小民鉄が出てきた。
このため、1953(昭和28)年8月に地方鉄道軌道整備法(※5:「国鉄があった時代」のここ参照)が公布され、天然資源その他産業の振興上、特に重要な新線の建設の助成、赤字に悩む中小民営鉄道の救済をはからねばならない状況となっていた(※4参照)。
そのようなことから1949(昭和24)年に公共企業体(公社)として発足した日本国有鉄道(国鉄)の赤字解消のために再び改組が行われることとなった。
1986(昭和61)年11月に成立した国鉄改革関連8法に基づき、翌・1987(昭和62)年4月1日、国鉄は6つの旅客会社と1つの貨物会社のJRグループに分割・民営化された。この年は、1872(明治5)年日本に初めて鉄道が開業してから116年目にあたる。
このほか同時期に電電公社(現:NTT)や日本専売公社(現:JT)を含めた三公社の民営化は自由民主党によって進められたが、分割・民営化に現場で辣腕を振るったのは、当時運輸大臣であった三塚博であったといわれている。
最後の国鉄総裁杉となった杉浦喬也は、鉄道監督局国鉄部財政課長に就任の後、国鉄部長になったころ自民党の有力な運輸族であった三塚博らと親しくなったとされている。
この国鉄の分割民営化は、経営が破綻に瀕した国鉄という全国一元的な経営形態を解体・再編し、経営の効率化や長期債務処理、労使関係の正常化、鉄道事業の再生を図る「世紀の大手術」であった(※7:「運輸白書」の昭和61年度運輸白書:第2章:第2節 分割・民営化による国鉄事業再生への取組み 参照)。

国鉄最後の日の3月31日国鉄は6000円(子供は3,000円)で全国前線乗り放題というこの日かぎりの「謝恩フリー切符」を売り出し各列車は大混雑となった。各地でも記念行事が開かれ、東京駅では臨時列車「旅立ちJR」を一目見ようと鉄道ファンが殺到した。

上記の画像は国鉄最後の日の3月31日「旅立ちJR」を一目見ようと東京駅に殺到した鉄道ファン。画像は「朝日クロニクル週刊20世紀」1987年号より借用。

また、上掲のものは、2013年3月31日、早朝より神戸・三宮の駅で長い行列に並び、苦労して手に入れた私のコレクションの1つ「日本国有鉄道から西日本旅客鉄道ゆき」と記された1000円のオレンジカードである。1985(昭和60)年3月25日に、国鉄の関東圏の主要駅で販売が開始されたのち、全国で発売されたが今年・2013(平成25)年3月31日をもって発売を終了するとの発表があった(※8)。私は、発売駅の違うものを他に2種類持っているが、少しはプレミアが付くかな・・ヾ(´▽`;)ゝウヘヘ。

国鉄最後の日(汽笛オーケストラ)- YouTube
上掲の動画では、国鉄最後の日に、京都・梅小路機関車館でだと思うが、作曲家、指揮者である故山本 直純指揮による汽笛のオーケストラが聞ける。これはすごいのでぜひ見てほしい。

この国鉄改革をめぐる評価はさまざまである。
改革を推進した運輸省などは、次のような点を挙げて「大成功」だといっているようだ。
1、 国鉄時代は値上げの連続だった運賃が一部を除き民営化前の水準で維持されている。
2、 地域の実情にあったダイヤ設定、新規車両の投入、社員の接客態度の改善など、サービス内容が改善した。
3、 人員削減などの合理化により、生産性が向上した。
4、 労組のストが激減した。
しかし、仮に、これらを改革の「功(利点)」とすれば、その一方で、「負の遺産」も少なくはない。
1987(昭和62)年度当初、約37兆円にのぼった国鉄の長期債務は、約25.5兆円を国鉄清算事業団、残りは、新幹線保有機構が5.7兆円、JR各社が5.9兆円を引き継いだ。
同事業団は旧国鉄の土地や保有するJRの株式を売って借金返済にあてたが、返済の穴埋めのため借金を重ねた結果、債務は逆に1998(平成10)年度当初で約28兆円に膨らんだ。
政府は、同年10月に「日本国有鉄道清算事業団の債務等の処理に関する法律(債務等処理法)」(※9)を制定し、同年から60年間かけて返済する処理策を決めた。
そして、国鉄清算事業団は解散し、同事業団の業務は、日本鉄道建設公団(国鉄清算事業本部)に引き継がれ、このうち、年金等の負担費用である3.9兆円を日本鉄道建設公団が承継し、残りの24.1兆円の債務を国が、0.2兆円をJRが負担することとなったという。・・・、財源の大半は、公的資金、つまり、国民の負担とされたのだ(※7の平成8年度運輸白書の第1部 国鉄改革10年目に当たってや、※10参照)。
また、輸送需要の少なさなど構造的に経営基盤が弱体なまま出発した北海道四国九州

大寒

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今日1月20日は二十四節気の第24「大寒」.である。
『暦便覧』では「冷ゆることの至りて甚だしきときなれば也」と説明している。
大寒は、一年で最も寒さが、厳しくなる時期ということ。。
1月5日の小寒から数えて15日後、小寒から大寒までの15日間と大寒から立春までの15日間、あわせて30日間を「寒(かん)の内」という.
武道などではこのころ寒稽古などが行われるが、私のお寺でも、寒修行が行われている。
また、 寒気を利用した食べ物(凍り豆腐、寒天、酒、味噌など)を仕込む時期ともされている。
「大寒の日には何を食べる」という決まりはないが、『一年のうちで一番寒い日』とされる大寒には 温かいものを食べよう!と、様々なレシピが紹介されたりしているが、身体を温める 香辛料や生姜にんにく・お酒類などを使用した料理が多く、 シチューや鍋ものなども大寒にはピッタリのメニューである。
その中でも、最近は、特に人気のあるのが生姜のようだ。
先日(1月15日)、NHK「あさイチ」、”スゴ技Q” で、”これぞ究極 ウルトラ蒸しショウガ”と題して、冷え性の人には乾燥させた生姜よりもさらに体を温める効果が強い「ウルトラ蒸しショウガ」が良いと、その作り方や効能を紹介していた(※1参照)。

冒頭の画像は、それをまねて百均の店で買ってきた「多用途ネット」で、蒸した生姜を乾燥させているところ。
炊き込みご飯の中に ショウガを千切りにして入れる「生姜ご飯」や鍋物に薄切りの生姜を入れると、香りもよいし体が温まる。
また、紅茶に生姜を入れたり、蜂蜜に混ぜてお湯を入れて飲むのも良い。それに、朝の散歩やジョッギングの前に、蒸し生姜を少し食べておくと脂肪燃焼率が向上して効果的・・・・。興味があれば、同ホームページ(※1)を覗かれるとよい。

また、甘酒は疲れを癒し、身体が温まる飲み物として大寒の頃がもっとも飲まれている・・ということから、瓶入りの甘酒を販売してきた森永製菓株式会社が、1月20日を「甘酒の日」に制定しているが、甘酒も寒い冬には体が温まる良い飲み物ではあろう。
記念日「甘酒の日」については、前に、このブログでも書いた(※2参照)。

1月20日は、「二十正月」ともいう。
二十日正月とは、[松納め」、「正月送り」また、「あがり正月」などともいい、正月の終りとなる節目の日であり、餅や正月料理を食べ尽くしたり飾り物を納めたりする日だが、我が家にはもう正月の気配はない。
かつては正月の祝い納めとして仕事を休む物忌みの日であった。万事のんびりした昔の人もこの日の行事をもって正月を終了したようだ。
二十日正月についても前ににこのブログで書いている(※3参照)。
私も、正月気分から抜け出して、明日からは、このブログ作りももう少し真剣に取り組むようにしよう・・。

参考:
※1:NHKあさいち:スゴ技Q これぞ究極 ウルトラ蒸しショウガ
http://www.nhk.or.jp/asaichi/2013/01/15/01.html
※2:1月20日「甘酒の日」・・・今日のことあれこれと・・・
http://blog.goo.ne.jp/yousan02/e/f5bab7e3664afe04482425279487a967
※3:二十日正月。
http://blog.goo.ne.jp/yousan02/e/03f7c19092193a490e16bfa4e6b8c773

アーモンドの日

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日本記念日協会の今日(1月23日)の記念日に「アーモンドの日」がある。
記念日の由来は、“アーモンドは小さな1粒に10種類以上の良質な栄養素が詰まった天然のサプリメントで、とくに「若返りのビタミン」と呼ばれるビタミンE食物繊維ミネラル類、ビタミンB群をバランス良く豊富に含んだ健康食品である。
このアーモンド約23粒で日本人の成人女性に必要な1日の摂取目安量をまかなえることから、「1日23粒のヘルシー・アーモンドライフ」を推奨するカリフォルニア・アーモンド協会(※1)がこの「1日23粒」をアピールすることを目的に制定したという。
日付は1と23で「1日23粒」を表し、「1,2,3」の掛け声でアーモンドを食べる習慣を始めてもらうことから。“・・・・だそうである。

アーモンド(英名:Almond)は、バラ科サクラ属の落葉高木。およびそれから採ったナッツ[nuts]のこと。
ナッツのことは以前にこのブログ「7月22日「ナッツの日」」でも書いたことがあるが、アーモンド粒の形状が偏平なことから和名を「ヘントウ(扁桃)」と呼び、咽頭部の両側にあるリンパ組織の形がこれに似ていることから「扁桃腺」の語源となったという。また、「ハタンキョウ(巴旦杏)」あるいは「あめんどう」ともいう(※2:「GKZ植物事典」の日本語検索にて参照)。
和名の一つである「あめんどう」は、江戸時代にポルトガルを通じてこの実が持ち込まれたことからきているという。ポルトガル語のアメンドア〔amendoa〕が転じて、アメンドゥ、もしくはアメンドースと呼ばれていたそうだ(コトバンク)。
ちなみに、英語のアーマンド〔almond〕、フランス語アマンド〔Amande〕と呼ばれるアーモンドの語源は、古代ラテン語のアミグダラ〔amygdala〕、古代ギリシア語のアミダグレーに由来しているそうだ。
アーモンドの原産はアジア西南部。現在では南ヨーロッパ、アメリカ合衆国、オーストラリアなどで栽培されており、アメリカ合衆国のカリフォルニア州が最大の産地である。日本では小豆島などで栽培されている。
このアーモンドの木は、バラ科さくら属であることから、その花はに大変よく似た五弁の淡いビンク色の可愛いもので、く2〜3月にかけて一斉に開花する。
わが地元神戸市の東灘区深江浜町30番地に、アーモンドの菓子類を製造している東洋ナッツ食品株式会社(※3)というところがある。この工場では、1986(昭和61)年以来、阪神・淡路大震災で3年間の中断はあったが、その後も毎年、「アーモンドフェスティバル」を開催している。
私もちょうど10年前の2003(平成15)年に工場へ見物に出かけたが、なんでも、カリフォルニアの得意先からアーモンドの苗木を譲り受け、その苗木を工場前庭に移植したものだそうだ。
阪神電鉄深江駅から、工場までの道路際にも植えられており、桜より少し早い時期に花見が出来て、年々好評のようだ。

上掲の画像は、東洋ナッツ食品株式会社深江の工場で撮ったアーモンドの花(2003年03月19日撮影)である。
アーモンドの果実は、殻、果肉、核、仁からなる。アンズ、モモやウメの近縁種だが果肉は薄く、食用にならない。食用に供しているのは仁(上図参照)の部分である。

※上掲の画像はアーモンドの実。写真は、google写真より借用している。
果肉と種子の殻を取り除いた仁(生アーモンド)を炒って、もしくは揚げて食用とする。
そのまま塩味をつけて食べるほか、スライスしたり粉末にしたものを料理(コルマなど)や洋菓子(フィナンシマカロンアマレッティヌガーマルチパンなど)の材料にする。
種子を水につけてからアーモンドミルクを絞って飲料とすることもある。イランでは、未熟果をホーレシュという煮込み料理に用いるそうだ。
アーモンドの種類としては、 大きく分けると、スイート種(スィートアーモンド[sweetalmond]、甘扁桃仁)とビター種(ビターアーモンド[bitter almond]、苦扁桃仁)がある。
後者のビター種(苦扁桃仁)は、 野生種、或いはそれに近いアーモンドの木から穫れるもの。
それに含まれるアミグダリンという青酸化合物によって苦い味がして一定量以上摂取すると有毒であり、食べられない。日本へは食品として輸入することはできない。
ビター種には、鎮咳(ちんがい)鎮痙(ちんけい)などの薬用、ベンズアルデヒドを多く含むため着香料、ビターアーモンドエッセンス、オイル(苦扁桃油)の原料として用いられている。
食用にされるもののほとんどは前者のスイート種で、 スイートアーモンドには細かく分けると100以上の品種があるらしく、その主な品種は、ノンパレイユ(Nonpareil)、カリフォルニア(California)、カーメル(Carmel)、ミッション(Mission)、ビュート(Bute)などだそうである(その特徴などは※4参照)。
先にも書いたように、アーモンドには、食品の中でもビタミンEが最も多く(含有100グラム中約30ミリ・グラム)含まれている。ビタミンEは活性酸素による体細胞血管酸化を防ぐ抗酸化作用(※5参照)の強い脂溶性ビタミンであり、老化の予防に役立つ。
また、悪玉コレステロール(LDLコレステロール。※6参照)の酸化を抑制し、過酸化脂質の生成を防ぎ、心臓病糖尿病など生活習慣病の予防にも役立つ。
また、アーモンドの食物繊維の量は、牛蒡の約2倍、薩摩芋の約4倍、玄米の約7倍といわれ、豊富な不溶性食物繊維(※15のここ参照)は腸の働きを活発にして整腸を促してくれる。
他に亜鉛マグネシウムカリウムなど様々なミネラルがバランスよく含まれている。
この様に、アーモンドには、10種類以上の豊富な栄養素が一粒に詰まっているので「天然のサプリメント」とも呼ばれている。アーモンドの種子から絞ったアーモンドオイルは、料理に使われる他、キャリアオイルとしても用いられる。
アーモンドの効用は、紀元前から認められており旧約聖書の中にも記述されている。
旧約聖書は、一冊の本ではなく、39書もの正典と、外典からなっている(※7参照)が、アーモンドは創世記出エジプト記民数記の3記、伝道者の書(コヘレトの言葉)、エレミア書の2つの伝道書に合計9節の出典がみられるそうだ。
その象徴する所は多様で、豊かさ(多産)、神の祝福(約束、あるいは奇跡)、価値ある贈り物、神へ捧げる聖なる燭台、神の復活、目覚め(再生/春の訪れ)、神が見張っている事(神の目)と非常に宗教的には重要な要素を象徴しているという(※8:「アーモンドとは? 」の旧約聖書におけるアーモンを参照。尚、各書については※9を参照)。
いずれにしても、狩に出かけなくても毎年、決まった食料が取れることから、人類が樹木の栽培をする、きっかけになった木の一つだとも言われている。
このアーモンド栽培の歴史は、参考※8:「アーモンドとは? 」に詳しく書かれているが、概ね以下のようである。
アーモンドはメソポタミア地域では、紀元前4000年頃から食用にされていたようであり、ここから始まり、その後、地中海に沿ってシナイ山麓(シナイ山 - goo辞書参照)からナイル川沿いのエジプトやヒッタイト(現トルコ)へと栽培が広がり、やがてギリシャを始めとしたヨーロッパの地中海沿岸の諸国へともたらされることにる。
古代エジプトでは紀元前1352年、ツタンカーメン王が亡くなると、王の墓には死後の旅路の食糧として、アーモンドが入れられたと記述が残されているそうであり、ギリシャ神話でもフリュギア(現在のトルコ)で昼寝をしているゼウスから生まれた女神キュベレ(Kybele)の体の一部から熟した実をつけたアーモンドの木が生えたといわれている(アッティスまた、※「8:アーモンドとは?」のギリシャ神話におけるアーモンドを参照)。
アーモンドはアレキサンダー大王東方遠征(途中で死去)がアーモンドの栽培がギリシャから更に西方のヨーロッパへと広まっていった時期と、ほぼ同じであることから、アレキサンダー大王によって本格的にその栽培地域が地中海沿岸の西方地域へと伝えてられていったのではないかとされている。
そして、アーモンドがカリフォルニアに伝えられたのは18世紀の中頃、スペインの宣教師フニペロ・セラ神父によってもたらされたと伝えられているそうだ。
18世紀の中頃から19世紀にかけて、フランシスコ派イエズス会はミッション・サンディエゴ・アルカラを起点にカリフォルニアを北上し、ソノマまで21のミッション(伝導所)を創設していった(カリフォルニア・ミッション参照)。
セラ神父の功績はその伝導活動に留まらず、ミッション(伝道所)の周辺にアーモンドやぶどうを植え、今日のカリフォルニアにおけるアーモンド産業やワイン産業の礎を築いたといわれているという。
アメリカでは東部のニューイングランドや中部諸州でも栽培が試みられたと記録されているそうだが、商業生産が定着したのはカリフォルニア州だけで、本格的な生産が始まったのは1840年代のことだという。
そして、2000年代に入り、カリフォルニアのアーモンド産業は地中海沿岸諸国の生産量を遥かに超える10億ポンド以上の生産量を誇り、世界の8割以上のアーモンドを生産する主産地へと発展してきたという。
そして、日本へは、1950年代に本格的な輸入が始まり、お菓子の材料やスナック等、幅広く食品や料理に利用されている。

さて、先にアーモンドの歴史の中では、“フニペロ・セラ神父の功績は、その伝導活動に留まらず、ミッション(伝道所)の周辺にアーモンドやぶどうを植え、今日のカリフォルニアにおけるアーモンド産業やワイン産業の礎を築いたといわれている。”と書かれている。
確かに、ミッション(伝道所)の周辺にアーモンドを植え、アーモンド産業の礎を築いたとのは、セラ神父の功績かもしれないが、このセラ神父について、Wikipediaには以下のようなことが書かれている。
セラ神父は、カリフォルニアでの伝道(ミッション)を、イエズス会のやり方に倣った。
武装したスペイン軍隊と共にセラはインディアン(アメリカ先住民)たちの平和な村々を襲い、酋長や呪い師を「異端者」として真っ先に捕え、拷問を加えて脅迫し、火炙りにしてこれを殺した。
大人も子供も構わず、インディアンたちを動物のように捕まえ、柵の中に追い込み、「死にたくなければカトリック教徒に入信するように」とインディアンたちを脅迫し、逆らう者たちを殺した。
セラが率いるフランシスコ会によるカリフォルニア支配が始まって3年の間に、カリフォルニアのインディアンの3分の1から4分の1が死んだ。
セラは洗礼させた言語の違う多数の先住民(インディアン)達をひとまとめにして、伝道所へ拉致連行し、「ミッションインディアン」(スペイン・カソリックに改宗させられた諸部族)として奴隷化したという。
「ミッション・インディアン」はプランテーション (plantation) での労働を強制された。
プランテーション>とは、大規模工場生産の方式を取り入れて、熱帯、亜熱帯地域の広大な農地に大量の資本を投入し、先住民や黒人奴隷などの安価な労働力を使って単一作物を大量に栽培する大規模農園のことである。このプランテーションで、アーモンドも作られた。
プランテーションでの労働では、満足な食事も与えられずインディアンたちを栄養失調で苦しめた。
セラの下で奴隷労働させられたミッション・インディアンたちは、同時期のミシシッピ州、アラバマ州またはジョージア州の平均的な黒人奴隷に与えられたカロリー摂取量の半分以下しか許されなかったという。
また、もう一つの問題として、栄養価の問題があり、セラがミッション・インディアンたちに強いた食事内容には、ビタミンAとC、さらに高品質のタンパク質とリボフラビンが深刻に不足していた。その結果として生じたのがひどい栄養失調であった。
このような状況下で、当時、スペイン人が持ち込んだ疫病は野放しで、梅毒、結核、麻疹、天然痘、腸チフス、インフルエンザの流行が、すべてのインディアンたちを襲っていた。
伝道所では、地域によって様々であるようだが基本的には、土着の宗教と文化、言語を否定し、強制的にカソリックに改宗させる場所であったようだ。
食事も最低限のカロリーしか与えられず、多くの者が、過労や栄養失調、その上に、不潔で窮屈な生活環境の中で、彼らを感染症に一層かかりやすくし、そして、飢餓、病によって、驚くべき死亡率で死んでいったのだという。
インディアンに対する洗脳同化教育は、全米で行われていたが、主に子供中心であった様だが、カリフォルニアの修道院教育は家族まとめて教育するもので、徹底していたらしい。
そして、亡くなると、次々と補充され、そうして先住者たちは絶滅に追いやられていった。つまり、伝道所とは名ばかりで、現実には、奴隷労働力のための強制収容所のような存在だったようだ。
このようなカリフォルニアのインディアンに対して行った残虐行為とその残忍性から、作家のジョージ・モンビオット(英語版)はセラを「カリフォルニアのアドルフ・アイヒマン」と呼んでいるという(『ガーディアン』(「George Monbiot – The Holocaust We Will Not See」,George Monbiot,2010年1月11日。この翻訳をしたものがある。参考※10参照)。
これが真実かどうかは知らないが、考えられないことではないので、このようなものを見ていると、歴史というものは、単に、表面上の一面的なことのみを見ていてはだめだな〜ということを改めて考えさせられた。
私は、日本の時代劇が好きだが、これと同様に、アメリカの西部劇も大好きだ。
若いころに見た西部劇で、ジョン・ウエインが制作、監督、主演をした西部劇映画「「THE ALAMO」(1960年公開.。※11参照)を思い出す。
「THE ALAMO(アラモ)」とは、アラモ砦、アラモ伝道所 のことである。
この映画は、当時メキシコ領であったテキサスの、アラモ砦に立てこもったアメリカ人と、それを包囲攻撃するサンタ・アナ率いるメキシコ軍との壮絶な戦い・・・、アメリカ西部開拓史上に有名な「アラモ砦の戦い」を描いた作品である。
アラモ伝道所は、正式名称はサンアントニオ・デ・バレロ伝道所(Mission San Antonio de Valero)。
もともと聖域と周辺の建造物を包含していたこの施設は、地元のインディアンをキリスト教へ改宗させる教育のために、18世紀にスペイン帝国によって建設されたもの。つまり、その目的は、前記のカリフォルニヤの伝道所と同じ目的で、建てられたもの。多くの現地人が、スペイン人宣教師に、改宗させられ、苦汁を強いられていたことだろう。
映画「アラモ」では敵役にされているサンタ・アナであるが、1810年〜1821年のスペインからのメキシコ独立戦争では活躍し、スペインの再征服を返り討ちにした1829年の戦いで、メキシコの国民的英雄となり、「西部のナポレオン」と自称していたそうだ。
1833年大統領に選出されるも、各地で保守派の反乱が頻発し、独裁体制を築こうとする。その中でテキサス州も反乱を起こし、鎮圧に乗り出したのが、アラモの戦いであったのだ。
この映画の内容そのものに対する評価はいろいろだが、ディミトリ・ティオムキンの名曲「遥かなるアラモ」「アラモの唄」「皆殺しの歌」などと共に、非常に印象に残っている映画だ。
ついでだからちょっとその名曲を聴いてみますか。
懐かしの名シーンとともに曲を楽しむなら以下が良い。
John Wayne's "The Alamo" in 8.5 minutes with Original Soundtrack –YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=EWmr0Afr4f8

名曲そのものを堪能したいのなら以下が良い。
The Alamo - Main Title~ Dimitri Tiomkin
http://www.youtube.com/watch?v=UuGy6ykIiQ0

アーモンドは蛋白成分に鎮痛効果があること、食物繊維が多い事から便通に良い、あるいはカルシウムが多いことからイライラ解消に効く等、その栄養成分の効果が古くから知られていたという(※8:「アーモンドとは?」の薬草史におけるアーモンド参照)。
このアーモンド、現在日本では、スナックやおつまみをとして、食べられることが多いのではないかと思うが、お菓子の材料としてのアーモンドは大変古く、アーモンドペーストで出来たマジパンは、 古代よりお祭り用のお菓子の材料として珍重されてきたようだ。
このマジパンの詳しい作り方を書いた一番古い記録は、イタリアのパティストであるプラチナムという人が 15世紀に書いた料理書だそうだが、マジパンそのものは紀元前の時代から用いられてきた様で、 粉状に砕いたアーモンドにハチミツや砂糖を混ぜる様子が古代の壁画等にも多数描かれているという(※8:「アーモンドとは」のアーモンドのお菓子の始まり参照)。

アーモンドの種類には、スイートアーモンド、ビターアーモンド以外に、アプリコットカーネル(apricot kernel、の仁=杏仁) がある。
アプリコットカーネルの木は中国原産であるが、古代ローマ時代にヨーロッパで栽培が盛んになり、後に中東地域へと伝わった。
アーモンドより通常小型で、中国ではアーモンドと混同されているそうだ。
この種は、ビターアーモンドと同様の香りを持つことから代用としても使用出来るそうで、古くから杏仁豆腐の材料としても用いられている。

上掲の画像は杏仁豆腐。画像は、Wikipediaより借用。
杏仁豆腐は、本来は薬膳料理の一種で、喘息・乾性咳嗽(咳)の治療薬であるアンズ類の種の中の仁=杏仁(きょうにん、中国語では「シンレン」)を粉末にしたもの(杏仁霜)を、苦味を消すために甘くして服用しやすくした料理。
杏仁には薬品用の苦みの強い苦杏仁と食品用の苦みの弱い甜杏仁があり、杏仁豆腐に使用されるのは後者である。
日本では完全な嗜好品・デザートとして扱われているため、実際には杏仁を使っていないものが多く、現在日本のスーパーマーケット等で杏仁豆腐として売られているものは、ほとんどが杏仁と似た香りを持つアーモンドエッセンスを用いて作ったものだそうだ。だから、杏仁豆腐は、一種独特の香りと味がするのだね〜。
あんずの種子からは良質のキャリアオイル「アプリコットカーネルオイル」も作られる(※13)。

現在、アーモンドなど食品としてのナッツ類は、栄養価の高い高カロリー食品であることはよく知られており、「ナッツは健康食」として推奨されている。
カロリーとは、食べ物や運動の熱量などを表現する「エネルギーの単位」のことである。
1kcal(キロカロリー)は1gの水の温度を1℃上昇させるのに必要な熱量を意味している。
一般的な成人の摂取カロリーの目安は、だいたい1800kcal〜2200kcal前後である。しかし、年齢を重ねるほど、体内の代謝は悪くなるので、基礎代謝量は減ってしまう。ということは、摂取するカロリーも少なくていいわけである。また女性より男性の方がカラダも臓器も大きいため、基礎代謝量は高くなる。
カロリーには、食べ物によって体内に入る摂取カロリーと生命維持や運動などにより消費される消費カロリーがある。摂取カロリーに比して消費カロリーのバランスが取れていることが肝要となる。
例えビタミンEが身体に良いといっても、取りすぎは良くない。やはり何事も「ほどほど」ということだろう(※14、※15のビタミンE参照)
体を動かすとカロリーは消費され、ジョギングを20分程行えばで80kcal程消費するといわれている。
健康のために体重を減らすには食事による摂取カロリーを減らし、体が使う消費カロリーを増やして、カロリー収支をマイナスにすることことが基本である。
しかし、そのためには、運動などで消費するカロリーについてもそれなりの知識を持っておかなければいけないだろうし、1日の摂取カロリーの計算もしなければいけないが、摂取量全てを計算するのはなかなか難しいことだ。
以下では、そんな、カロリーダイエットを徹底解説しており、食品別、料理別のカロリー計算や、標準体重、BMI、体脂肪、摂取カロリーなどの測定もできるようになっている。
私も、このようなことについては、何も知らないので、今日を機会に、ちょっと勉強しておこう。
カロリー計算コントロール
http://www.no1-diet.com/

(冒頭の画像は、フィンセント・ファン・ゴッホ「花咲くアーモンド」複製画。ゴッホが死の半年前、収容されていたサン・レミの精神病院で描いたといわれるこの絵。ゴッホと彼の無二の理解者であり、その生活と創作活動を支えてきた弟 テオ家族との絆を語る特別な一枚だという。その理由は以下参考の※12 参照)

参考:
※1:カリフォルニア・アーモンド協会
http://www.californiaalmond.jp/
※2:GKZ植物事典日本語検索(総索引)
http://www.t-webcity.com/~plantdan/index.html
※3:東洋ナッツ食品 株式会社
http://www.toyonut.co.jp/
※4:アーモンドのお話(グリコHP)
http://www.ezaki-glico.com/almond/index.html
※5:「抗酸化作用」研究ノート:抗酸化作用とは
http://o2.blogsnation.net/c.php/1/
※6:悪玉コレステロールを下げる方法!
http://www.koresuteroru-sageru.net/index.html
※7:旧約聖書
http://www.asahi-net.or.jp/~zm4m-ootk/kyuyaku.html
※8:アーモンドとは?
http://www.bdalmonds.com/index.html
※9:カテゴリ:旧約聖書 (口語訳)-Wikisource:
http://ja.wikisource.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%86%E3%82%B4%E3%83%AA:%E6%97%A7%E7%B4%84%E8%81%96%E6%9B%B8_(%E5%8F%A3%E8%AA%9E%E8%A8%B3)
※10:[私的翻訳][映画]アメリカ原住民虐殺のメタファーとしての「アバター」:ジョージ・モンビオット(英ガーディアン紙)
http://d.hatena.ne.jp/cameracamera/20100120/p1
※11:アラモ(1960) - goo 映画
http://movie.goo.ne.jp/movies/p530/index.html
※12:名画デスクトップ壁紙美術館 ゴッホ・花咲くアーモンドの枝
http://stephan.mods.jp/kabegami/kako/AlmondTree.html
※13:アプリコットカーネルオイル - キャリアオイル
http://www.t-tree.net/carrieroil/apricotkernel.htm
※14:ビタミンE 取りすぎ注意 骨粗しょう症リスク高まる 慶大チーム
http://asahi-ph.2240.co.jp/article/14297381.html
※15:イートスマート>得する健康情報>栄養素を知ろう!
http://www.eatsmart.jp/do/contents/eiyoinfo/index
『抗酸化作用』 活性酸素 - About
http://allabout.co.jp/gm/gc/298902/
幻想万象資料館
http://homepage3.nifty.com/onion/labo/l-index.htm
摂取カロリー・消費カロリー大辞典
http://muuum.com/calorie/1010.html
聖書の植物(日本ナザレン教団)
http://www.nazarene.or.jp/plants-in-bible-1.htm
日本記念日協会
http://www.kinenbi.gr.jp/index2.html
アーモンド - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%83%A2%E3%83%B3%E3%83%89

みその日Part2

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「みその日」(毎月30日)は、全国味噌工業協同組合連合会(※1)が1982(昭和57)年9月に制定したものであり、推進はみそ健康づくり委員会(※2)が実施している。記念日の日付は「みそ(三十)」の語呂合せから。
味噌(みそ)は、穀物発酵させて作られた発酵食品であり、古くから使用されてきた日本の基本的な調味料の一つでもあり、今では、日本の味(MISO)として日本国外にも広く知られている。
副食素材が豊富になった今日では、味噌は、単に調味料とみなされる事もあるが、古くから日本の食生活(※3の日本型食生活参照)における主要な蛋白源であり、特に江戸時代中盤以前は「おかず」的な扱いをされていた。もっとも、現在でも「おかず」としての「おかずみそ」は多数は存在しているが(※4参照)・・・。
しかし、日本の食生活の洋風化と外食による味噌(みそ)の消費減少のなか、”すぐれた健康食品でもある味噌を健康増進に役立ててもらおう”と設立された組織が、みそ健康づくり委員会のようである。
この「みその日」については、以前に、このブログでも書いた(ここ参照)のだが、先日(1月23日)も「アーモンドの日」で食べ物と健康に関することなど書いて以来、ここのところ、このような食べ物のことに興味を持つようになり、今回も、「みその日Part2」として、 前回触れていないことなどを中心に、もう少し「みそ」のことについて書いてみようと思った。
江戸時代前期の俳諧師で、後世俳聖とも称されるに至った松尾芭蕉は、伊賀国(現在の三重県伊賀市)で生まれ、若いころ藤堂藩伊賀付侍大将家の嫡子藤堂良忠(俳号は蝉吟)の近習として仕え、その感化で俳諧を学ぶが、良忠に仕えた時の仕事は陪膳役か厨房役また料理人のようなものだったのではないかといわれているが、芭蕉は料理には関心があったようで、食べ物の句を多く詠んでいるし、また、酒も好きであったらしく、酒の句もたくさんある(※5:「芭蕉db」の芭蕉補遺>芭蕉の嗜好参照)。

「あら何ともなや昨日は過ぎて河豚汁」(桃青)・・・という句がある(※5の芭蕉句集参照)。

芭蕉は、伊賀で良忠の病没後、京都で北村季吟に師事。のち、1672 (寛文12)年29歳の時に江戸に下り、1677(延宝5)年からから1680(延宝8)年までの4年間、神田上水(小石川上水)の修理工事に携わった。
このころ、俳壇内に地盤を形成。上掲の句は『江戸三吟』の巻頭句。1677(延宝5)年、芭蕉34歳の時の作(このときの号は桃青)。この年に俳諧宗匠として立机(プロの俳諧師になること)したらしい。
その後、隅田川のほとりの深川の草庵、いわゆる今日の深川芭蕉庵に移った頃(1680[延宝8]芭蕉37歳頃)から独自の蕉風を開拓したといわれる。
『ここに出てくる河豚汁は、今の人ならふぐ鍋を思い出すかもしれないがこれは文字通り河豚(ふぐ)の汁、つまり、河豚の味噌汁のことである。
日本で、現在の穀物を発酵させて造られた液体調味料としての醤油に近いものが生産されるようになったのは、室町時代末期頃だといわれる.。その製法は秘伝口承であり、関西方面(湯浅龍野)で生まれた醤油は、やがて関東(銚子野田)へ、そして全国に広まっていった。
江戸時代、醤油が普及するまでは膾(なます)や、刺身(さしみ)に欠かせない調味料としては「煎り酒」が使用されていた。この醤油が広く庶民に普及したのは、関西では江戸時代初期、関東では江戸時代中期以降からだといわれている。
室町時代に日本料理の正式な膳立てといわれる「本膳料理」が出来、一の膳(本膳)、二の膳、三の膳から成り、それぞれの膳に「一の汁」(味噌汁)、「二の汁」(すまし汁)、「三の汁」(潮汁)がつけられていた。
江戸時代になると醤油が味噌と並んで重要な調味料となるが、芭蕉が江戸で活躍した時代には、まだまだ関東での醤油醸造は盛況ではなく、醤油自体が高価であったと推定されることから、庶民生活の中の汁物には依然として味噌仕立て(味噌汁など)のものが主流であった。
汁物の具には野菜のほか魚、鶏肉なども含まれており、鍋物らしい様相を備えていく。しかし現代の味噌汁と同様、主食の飯に添えられたもので、人々はこれを独立した料理とはみなしていなかった。
味噌汁の上澄みを用いた「おすまし(すまし汁)」 は、当時、今とは違って、食事をした後の酒の肴として添えられるものであった。
当時は、現在とは違って「汁」とともに飯を食べてから、あらためて酒の宴を張るというのが当時の食事の作法であった。このため「汁」と「吸い物」に区別を付けるのもそれなりの合理性があった。すなわち「汁」は飯に添える物であるため、飯の味が引き立つように濃いめに、「吸い物」は酒が進むように淡白にというのが約束事だった。
しかし、汁物ほど多種多様なものはない。魚、肉、野菜だけではなく世の中のほとんどの食品は、味噌汁の具になり得る。そのため、地域によって家庭によって、独自の具沢山な汁物が作られたのだろう。この汁物を入れた鍋を卓上に置き、各人が自分勝手に好きなように食べれば、現代の鍋物となるではないか。
江戸時代にどんな汁物が食されていたかその実態はよくわからないが、その汁は今の味噌汁と同じようなものだから、あまりにも普通過ぎて、記録したりするに値しなかったのだろうが、その例外的なものの第一が、先にも挙げた芭蕉の句にもある河豚(ふぐ)汁であろう。
なにしろ食べ方を一つ間違えると死んでしまう。しかも特別に美味しいし、冬に獲れる魚だから、鍋物に最適である。しかも、食べれるチャンスは1年にさほど多くない。
それに、豊臣秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)の際に「ふく」を食べて多くの兵士が亡くなったことから禁止令が出され、江戸時代には多くの藩でも禁止令が出されたそうだ。だから、大げさに言えば、死を覚悟して口にしなければならないし、本当に死んでしまうこともある。
江戸後期の浮世絵師、喜多川歌麿が絵を描き、それに宿屋飯盛(石川 雅望)撰で二十五首の狂歌を添えた絵双紙『絵本詞の花』(以下参考の※6)には以下の二人の狂歌が絵と共に掲載されている。
「きこしめせ あたる ふしき あたらぬも ふしぎなりけり 易と 河豚汁 」(紀定丸。きのさだまる)
「鉄砲の こんや あたりの やくそくを はづすハ 君が 玉に きずあり」(千枝鼻元。ちえのはなもと)
前者は、あたる、と、易・ふぐを、後者は鉄砲と当たる・玉をひっかけたものである。
後者の、豚汁は鉄砲、あるいは鉄砲女郎のことらしい。「鉄砲見世」は最下級の遊女を置く店。 鉄砲店の玉という意味で、鉄砲店の遊女。玉に瑕(きず)の玉女・芸娼妓・陰間・道具の意味でもあるらしい。鉄砲店の遊女。鉄砲女郎 は梅毒感染の危険性が高く、「毒にあたる」ことからだという。
○河豚食う無分別、河豚食わぬ無分別 ○河豚は食いたし命は惜しし・・・などの諺もある。
上掲の芭蕉の「あら何ともなや昨日は過ぎて河豚汁」の句の「あら何ともなや・・・」は、謡曲の言葉「あらなんともなや候」の文句どりもじり(捩り)を用いたもの。謡曲では「何だ、つまらない」とか「おや、ばかばかしい」といった意味だという。
句意は、「河豚を食うからには、命に別状のあることも覚悟の上でなくてはならない。しかし、翌朝目覚めて昨日と同じ気分であれば、ほっとすると同時に、昨夜の多少の思いつめはばかばかしくもなるものである。」といったところ。
その中にはびくびくしながら死をかけて食べ、どうなることかと心配しながら寝たのに、翌日の目覚めは何事もなく、あんなに心配しなくてよかった・・・なんとばからしいことだといった気持が含まれている。
この笑いは謡曲の言葉を生かして、死の危険の覚悟を河豚汁と対比させているところに面白さがある。
芭蕉の句はこのように古典文学、謡曲を入れながら言葉の可笑しさを介在させ、河豚汁をすする人の心の機微をつくような詠み方をする。
貞門との違いは、連歌への向上を意識せず、しかも、生活感覚を生かしながら異なった次元ににある言葉を突き合わせて俳諧のもつ滑稽と通俗性をもとうとしたところにあるといわれている(※7参照)が、それだけに、短い語句で非常に深い意味を持っていて面白い。
関西でよく使われている「てっちり」(河豚ちり)「てっさ」(ふぐ刺し)は、この「鉄砲」から派生したものである。
私は神戸の生まれであり、昭和30年代初めに大阪の会社へ勤務するまでは、ふぐ鍋を食べたことがなかったが、当時は、まだ、河豚を食べるのは怖いものと思っている人が多く、河豚鍋がそんなにメジャーな食べ物とはなっていなかったように記憶をしている。
大阪へ勤務後、先輩に初めて安くておいしいと評判の店へ「てっぽう」を食べに連れて行ってもらい、ドキドキしながら食べたが、余りにも美味しかったので、追加して、ちりを2人前食べたら、その後しばらく舌が少ししびれて、もつれた状態になり、大丈夫だろうかと非常に心配をしていたことも覚えている。
安さで有名な店だったので、ひょっとしたら危険な状態であったのかもしれないが、それでも、おいしいので、何度かこわごわ食べていたが、その後、東京で仕事をするようになったのだが、東京では、そのような、舌がしびれるようなものはどこを探してもなかった。安全性を考えてのものだろうが、何か頼りなく感じた。
その後、東京から大阪へ帰ってきて仕事をするようになったときには、もう、大阪でも舌のしびれを感じるようなものは食べられなくなっていたが、あの時の舌のしびれた感覚は無性に懐かしい。私など、最初は、そんな河豚こそ本物だ・・なんて思っていたが、今思えばぞっとする。
江戸時代など、そんな少々危険な河豚汁を食べていたのではないだろうか・・・?ちょっと、横道が過ぎたので、本題の方へ戻ることにしよう。

色付くや豆腐に落ちて薄紅葉(真蹟短冊)

順序が逆になったが、この句も、先の「あら何ともなや・・・」で河豚汁を詠んだ1677(延宝5)年、芭蕉34歳の時の作であるが、「あら何ともなや・・・」の句が冬に詠まれたのに対し、紅葉だから秋の句であり、芭蕉東上後の経済的庇護者として知られる杉山杉風と両吟で百韻を興行した時の発句である。
この句意を、※5:「芭蕉db」(ここ)では「真っ白な豆腐に色付けのための葉が一枚添えられると、豆腐の白さでなお一層色付けられて薄紅葉になり、それが紅葉豆腐となる。」としている。
江戸時代、和泉国(大阪府)堺に「紅葉豆腐」と呼ばれる名物の豆腐があったようである(※9)。上にもみじの形を印したもので、のちに江戸でも売られたようだ。
江戸時代の風俗、事物を説明した一種の類書(百科事典)である『守貞漫稿』(喜田川守貞著。※8)の豆腐売には、「豆腐昔は豆腐に紅葉の形を印す今も江戸にては印レ之、京坂は菱形を印せり、是は豆腐製筥に其形を彫たる也。」とある(※10)。
紅葉豆腐がどんな豆腐であったかであるが、豆腐の中に蕃椒粉(とうがらし)を擂(す)りまぜて蒸して製したものだそうだ(※11参照)。
この句は、唐辛子を混ぜて紅葉豆腐を作るのを秋の紅葉に見立てたもので、あえて、句面から肝心の「唐辛子」を抜き、読者の機知でそれに気づかせる「抜け」の手法とかいうものがつかわれているのだそうだが、芭蕉の俳句を理解するのはなかなか大変だな〜。

豆腐は、大豆の搾り汁(豆乳)を凝固剤(にがり、その他)によって固めたものであるが、日本へは奈良時代に中国から伝えられ、日本に伝来した豆腐は白く柔らかい食感を持つ「日本独特の食品」として発達した。
鎌倉時代末期ごろには精進料理とともに民間へと伝わり、室町時代にはかなり普及していたが、江戸時代初期には、豆腐はまだまだぜいたく品であり、農民は特別な日にしか食べられることができず、製造も禁止されていたほどであったが、江戸時代の中ごろからは、落語の題材になったり、『豆腐百珍』(17828[天明2]年)のような料理本まで出るほど、広く庶民の食べ物となっていた。

上掲の画は、豆腐の料理 『地口絵手本』個人蔵。画像は、NHKデーター情報部編ヴィジュアル百科『江戸事情』第一巻産業編208pより。
豆腐は煮物、焼き物、揚げ物、和え物など様々に料理された。それらはおよそ100種の豆腐料理を集めた『豆腐百珍』のなかに見ることができる。
『豆腐百珍』に紹介されているさまざまな豆腐料理の中で、特に流行したのが、田楽であった。
江戸では先割れしていない串を1本使い赤味噌をつけ、上方では先割れの串2本に白味噌を使って焼いた。

上掲の画像は、田楽屋、『百人女郎品定』(※12参照)。画像は、NHKデーター情報部編ヴィジュアル百科『江戸事情』第一巻生活編244pより。
東海道筋目川村(滋賀県栗東町)の街道茶屋で、菜飯とともに出す田楽は名物であった。『東海道名所図会』(※13 )には、目川で菜飯と田楽豆腐が名物であった伊勢屋が紹介されており(※14参照)、広重はそれをそのまま描写し、その背景に山河を添えて書いている。

上掲の画像は広重画「東海道五拾三次之内 52 石部」《目川ノ里》である。この広重の絵と(※13:「東海道名所図会 絵引データベース」の目川の茶店とを比較されるとよくわかる。
名物の「豆腐田楽」は、硬めの豆腐を串にさして味噌をつけて焼いたもの。蕪や大根の葉を細かく刻んで薄い塩味で炊いたご飯に混ぜた菜飯(なめし)とともに、『目川田楽』の名でセット販売されていた。

江戸時代では食材のの期間しか食べられない物が多い中、豆腐と納豆は季節を問わないため人気があり、これらは、身分の上下に関わらず好まれた。
江戸時代も、明和年間(1764年から1761年)に入ると人々に経済的な余裕が生まれ、屋台や道端の店が増えた。
江戸時代にはその場で調理する屋台だけでなく、調理済みの物売りが売り歩いていた。ぼてふりまた、ふり売りと呼ばれてい商人であり、豆腐売りや納豆売りなどもそうである。

上掲の画像は、豆腐売りの様子である。『露休置土産(ろきゅうおきみやげ)』(初代露の五郎兵衛作の噺本)。東京大学文学部図書室蔵。NHKデーター情報部編ヴィジュアル百科『江戸事情』第二巻産業編178pより。
幕末の風俗史書守貞漫稿に、当時の状況が記述されているそうだ。
「納豆売り」は、納豆汁の食材を売り歩いた。
納豆汁とは、納豆を加えた味噌汁の一種であり、叩き潰した納豆に豆腐や「細かく切った葱また青菜をなどを添えて、すぐに味噌汁の具に使えるようにした「叩き納豆」がセットになったもので、今でいうインスタント味噌汁のようなものであったようだ。
なお、江戸で食事を売ることを専門とする固定の料理店の最初は、明暦の大火(1657年)以後に、江戸浅草金竜山(浅草寺)門前に出来た「奈良茶飯屋」とされる。ここの奈良茶飯は、茶飯に一汁二菜(豆腐汁に煮染・煮豆等)が付いていたらしい。
江戸前期に存在したのはこうした手軽な飲食店だけであり、本格的な料理茶店が出現するのは江戸後期の明和、安永期ごろになってからだという。

侘びて澄め月侘斎が奈良茶歌   芭蕉
(わびてすめ つきわびさいが ならちゃうた)

芭蕉が青雲の志を持って江戸に下り、ついに3年前、念願の俳諧師匠として立机したものの、その 文芸の世界も金と名誉欲の渦巻く俗世界そのもの。
絶望した芭蕉は、9年の江戸市中の生活を捨てて深川の草庵(後に芭蕉を植えて芭蕉庵となる)に隠棲してしまう。そしてそこに、暮らし始めてまだ1 年を経ない1680(延宝8)年芭蕉38 歳の秋の作.で、翌1681(天和2)年3月に刊行となる千春撰『武蔵曲』に収められている、はじめて芭蕉の号で詠んだ発句の一つである。
芭蕉の門人支考の『俳諧十論』によれば、芭蕉は、「奈良茶三石喰ふて後、はじめて俳諧の意味を知るべし」と弟子に語ったとある。
句意は、奈良茶とは、上記で述べた奈良の東大寺などで食する奈良茶飯のこと。
奈良茶歌とは、奈良茶飯を食いながらわび住まいの中で詠まれた歌という程度の意味で、月侘斎は侘び住まいの隠士で、芭蕉自らを指しているそうだ(※5:「芭蕉db」参照)。
月を見ながら奈良茶歌でも口ずさみ、わびしくも独りで住めよと、自身に問いつつ自覚を促しているのであろうか。枯淡(こたん)なわびの生活へ向おうとする芭蕉の心境がよく解る。

この時代は質素と淡白を尚ぶ(たっとぶ=重んじる)風が行われて、一串の豆腐田楽で花見をしたり、湯豆腐で雪のあしたを楽しむ風雅なところがあったが、この室町時代に出現したといわれる田楽、もともと、種を串刺しにして焼いた「焼き田楽」のほか、種を茹でた「煮込み田楽」があった。つまり、コンニャクなど串に刺さないで、ゆでて味噌をつけたものも「お田」であった。
この「煮込み田楽」が今の「おでん」のルーツである。
江戸の町で醤油が大量生産され始めたことに関係しているのだろう、江戸の末期のころには、鰹出汁(かつおだし)に醤油や砂糖、みりんを入れた甘辛く色の濃い汁で鳥・獣肉などと共に一つ鍋で煮込まれたおでんに、そのお株を奪われるようになった。
上方では種を昆布だしの中で温めて甘味噌をつけて食べる「焼かない田楽」しか存在しておらず、田楽が江戸で発達し汁で煮込むようになったおでん」(煮込み田楽)が上方にも伝わった際に、それと区別するために「関東だき煮屋」の名で商い繁盛したとか。その名残か、関西地方では今もおでんを「関東炊き」と呼んでいる。
あらかじめ煮込んでおけば提供できるおでんは、外食産業が盛んであった江戸では、「おでん かんざけ」と書いたのれんを掲げたおでんの振売が流行したようだが、今では全国各地の屋台や店で安上がりに飲んで楽しめる食材として人気である。
繰り返すが、江戸時代もっとも用いられた調理法は煮物で、魚介、鶏肉、野菜類などを材料に塩、味噌、醤油酒などを用いて味付けされた。
冬の俳句の季語にもなっているちり鍋は、新鮮な白身魚が決め手。新しい魚の切り身は煮るとちりちりと縮まることからこの名がついたといわれる。
「魚を豆腐や野菜と共に水煮する」料理は中心となる魚の種類によって様々なバリエーションがあり、魚種名を添えて「○○ちり」という名で呼ばれることが一般的である。また魚だけでなく、豚ちり(毎晩食べても飽きないことから"常夜鍋"とも呼ばれる)、鶏ちりなども広まっている。
砂糖・醤油などの甘味料の使用は江戸後期以降のことであり、それまでは味噌が主であり、また、それ以降でも味噌が多くの料理で使われている。

上掲は牛鍋。『安愚楽鍋』東京家政学院大学図書館蔵。NHKデーター情報部編ヴィジュアル百科『江戸事情』第一巻生活編209p。
江戸時代日常の食事から除外されていた獣肉は「ももんじ屋」(いのしし料理店)と名を変えた料理屋で食べられていたが、江戸末期になると、横浜、京都などで牛鍋屋が開業した。牛肉にはネギを入れ、味噌で調理した牛鍋は、明治期に爆発的に流行した。
日本では幕末になるまで、牛肉を食べることは一般には行われていなかったが、別に「すきやき」と称された料理は存在していたそうだ。
古くは1643(寛永20)年刊行の料理書『料理物語』に「杉やき」が登場しており、これは鯛などの魚介類と野菜を杉材の箱に入れて味噌煮にする料理であったそうだ。
また、使い古した鋤を火にかざして鴨などの鶏肉や鯨肉、魚類などを加熱する一種の焼き料理「鋤やき」の名が享和・文化・文政の書物に見られるらしく、この二種類の料理が、「すき焼き」のルーツとして挙げられているという。
味噌汁を考えてみればよくわかるが、魚、肉、野菜、世の中のほとんどの食品は、味噌汁の具になり得る。そして、味噌は魚・肉の臭いを消してくれる。これを発展させて、鍋で煮て、その鍋を囲んで皆で食べられれば、現代の鍋物になるだろう。
味噌汁も鍋物も、その土地、土地、また、家庭でのアイデア次第で、お好みのものを創造してゆくことができる。それに、この「ちり」タイプの鍋物は、何と言っても各人がお皿の上で、自由に味付けを加減して食べることのできるのが魅力でもある。
そして、酒を酌み交わしながら食べた後の鍋に、麺類を入れて食べたり、残り物のご飯を入れて雑炊にして食べると、これが、また、格別に美味しいだけでなく、具から染み出た汁から栄養を十分に摂ることもできる。

日本が今のように豊かではなく、まだ貧しかった頃、質素な食事でありながらも、人々が健康でいられたのは、ご飯とみそ汁のおかげだともいわれている。
それは、ただ美味しいだけでなく、味噌そのものに栄養があり、具を煮た煮汁ごと食べるため、その具の栄養も一緒に摂れるすぐれた健康食品だからである。鍋物は具沢山のため、尚、一層の栄養を摂ることができる。
食品には、大きく分けて3つの機能があり, 1次機能とは栄養、2次機能とは味、3次機能とは体調を整えたり病気を予防する働きのことだそうだ。3次機能をもつ食品を、とくに「機能性食品」と呼ぶそうだ。
みその機能性については、科学的に究明され、多くの効用が解明されつつあるようだが、このような機能性は、継続的に食べることによって威力を発揮するものだという(※15、※16参照)。
そして、このみそ汁のうま味は、味噌、だし、具のそれぞれが持つうま味が一体となって生まれるものであり、したがって、美味しいみそ汁を作るには 出汁(だし)をしっかりとる事、味噌の種類、具の組み合わせ方が決め手となるようだ。
今年のような寒い冬などには、味噌汁は体も温まるし、是非、食べたい食べ物ではある。

(冒頭の画像は、豆腐の田楽を長方形の焼き火鉢で一人で焼きながら食べている。『地口絵手本』個人蔵。NHKデーター情報部編ヴィジュアル百科『江戸事情』第一巻生活編209pより。木の芽味噌、辛子味噌などいろいろな味噌をつけた。・・とある。)

参考:
※1:全国味噌工業協同組合連合会
http://zenmi.jp/
※2:みそ健康づくり委員会
http://miso.or.jp/
※3:食育・食生活の指針の情報センター
http://www.e-shokuiku.com/outline/
※4:メチャ買いたい.com:おかずみそ |
http://food.mechakaitai.com/seasoning-miso/%E3%81%8A%E3%81%8B%E3%81%9A%E5%91%B3%E5%99%8C.html
※5:芭蕉DB
http://www2.yamanashi-ken.ac.jp/~itoyo/basho/basho.htm
※6:絵本詞の花(えほんことばのはな) 二巻  一冊
このサイトはリンクできないので、上記で検索してください。
※7:芭蕉、蕪村、子規の俳句と能Adobe PDF)
http://atlantic.gssc.nihon-u.ac.jp/~ISHCC/bulletin/01/104.pdf#search='%E3%81%82%E3%82%89%E4%BD%95%E3%81%A8%E3%82%82%E3%81%AA%E3%82%84+%E8%AC%A1%E6%9B%B2'
※8:国立国会図書館デジタル化資料 - 守貞謾稿. 巻1,3-16,18-30,後集巻1-4
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2610250
※9:紅葉豆腐の謎 | お豆腐ランド
http://www.toyoshinpo.jp/tofu/3298
※10:林春隆『新撰豆腐百珍』「豆腐の今昔」
http://plaza.rakuten.co.jp/amizako/diary/200510060002/
※11:林春隆『新撰豆腐百珍』「ひ之部」「も之部」「せ之部」「す之部」
http://plaza.rakuten.co.jp/amizako/diary/200509300002/
※12:百人女郎品定 - 古典籍総合データベース
http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/search.php?cndbn=%95S%90l%8F%97%98Y%95i%92%E8
※13:東海道名所図会 絵引データベース
http://www.himoji.jp/database/db07/tokaido/
※14:栗東の名物−目川田楽と菜飯 - 広報りっとう
http://www.city.ritto.shiga.jp/koho/1107/071_4.html
※15:みそは医者要らず!
http://www.koujiya.com/site/shinobu/study/function.html
※16:宮城県味噌醤油工業協同組合 - みその機能性
http://www.omiso.or.jp/modules/tinyd3/index.php?id=6
日本鍋物研究会
http://www.nabe-ken.com/index.html
古典籍総合データベース:地口絵手本 / 梅亭樵父 筆
http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/he09/he09_03605/index.html
浮世絵事典・ふ☆ ふく 河豚
http://www.ne.jp/asahi/kato/yoshio/ukiyoeyougo/hu-yougo/yougo-hugu.html
堺と醤油 堺市立図書館
http://www.lib-sakai.jp/kyoudo/kyo_digi/monodukurisakai/monodukuri_syoyu.htm
鍋物大学
http://www.nabe-ken.com/column/gallery.cgi?mode=view&id=1202232048
味噌- Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%B3%E5%99%8C

世界女性器切除根絶の日

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上掲の画像:アフリカにおけるFGMの分布と比率(Wikipediaより)
いつもこのブログを書くのに参考にさせてもらっている「今日は何の日〜毎日が記念日〜」(※1)に、今日(2月6日)の記念日として「世界女性器切除根絶の日(International Day of Zero Tolerance to Female Genital Mutilation)」があった。
そこには、「国連国際デーの一つ。アフリカを中心に行われている女性器切除について広く世界の人々に認識させ、その撲滅を促進するための日。
2003年にナイジェリアの大統領夫人であるステラ・オバサンジョの提案で始められ、国連人権委員会で国際的な啓発デーとすることが採択された。”・・・と記載されている。
それにしても、国連の国際デーには、凄い名前の記念日があるものだと驚き、少し調べてこのブログを書いてみようと思った。

この件に関しては、2012年12月1日付け朝日新聞デジタル(※2)には、以下のように記されていた。
「アフリカや中東の一部で続く「女性性器切除」(FGM)について、国連加盟国に禁止の法制化を強く求める決議案が12月、国連総会で採択されることになった。法的拘束力はないが、「文化伝統に根ざした慣習」としてFGMを続ける地域に対し、国際社会が根絶を後押しするものだ。
決議案では、FGMを「女性に元に戻すことができない傷を負わせる虐待」と非難。全世界で1億〜1億4千万人がFGMの傷を負わされ、今も毎年推定300万人以上が犠牲になっていると警告し、根絶に向けた啓発教育に取り組むよう求めている。」・・・と。
それでは国連でどのような決議がされ、国際デー(記念日)となったのか?
国連広報センターの国際デー/国際年のページ(※3)で、記念日と記念週間(国際デー、週間)を見てみるが、「世界女性器切除根絶の日」と名のつく記念日・記念週間は見られなかった。
しかし、同ページの中にある”毎日の動き”の中に、2012年12月27日、「国連総会、女性性器切除根絶求める」として以下のように書いてある。
「国連総会はこのたび、各国に対し、女性性器切除の根絶を求めた。
潘基文事務総長は声明を発し、この決議が女性に対する暴力がない世界に向けた重要な一歩であるとして、歓迎を表明した。」…とあった。
同ページには国連事務総長の”決議・声明・報告書”も掲載されているので、そこに、どのような声明文が記載されているのかと、見てみたのだが、その中には、“女性に対する暴力撤廃の国際デー(11月25日)”や、“人権デー(12月10日)” “国際移住者デー(12月18日)”等についての事務総長メッセージ(声明文)はあるが、「各国に対し、女性性器切除の根絶を求める」といった内容の声明文は見当たらなかった。
ここに書かれている内容だけから解釈すると、「国連総会がこのたび、各国に対し、女性性器切除の根絶を求めた」・・・ことに対して、国連の事務総長としては、単に「暴力がない世界に向けた重要な一歩である」・・・として、「歓迎を表明した」だけということなのだろうか?

日本ユニセフ協会の公式サイトの“協会からのお知らせ”の【2009年2月5日】、【2011年1月13日】にも書かれているように、
女性性器切除(female genital mutilation/cutting、略称FGM/C)とは、朝日新聞デジタルでも書かれていたように、アフリカをはじめアジアや中東など世界各国において長年にわたり行われてきた女子や女性の性器の一部もしくは全部を切除してしまう慣習であるが、その慣習により、健康面で長期的な影響を及ぼすのみならず、心にも深い傷を負わせるFGM/Cは、毎年、世界中で300万人もの女の子や女性が犠牲になっているという。
そのため、FGMをはじめ、女性や子どもの健康に影響を与える様々な慣習に起因する問題に取り組むNGO(非政府組織)、インター・アフリカン・コミッティー(IAC★1参照) が、FGMの根絶に向けた国際社会と市民の連携を構築するため、2003年、エチオピアの首都アディスアベバで、「FGM根絶」世界会議を開催した。
ユニセフをはじめとする国際機関やNGO、各国政府代表や議員、学識経験者、世界の宗教指導者、若者の代表に加え、女性性器切除を処術していた人々などが参加したこの会議で、毎年2月6日を「世界FGM(女性性器切除)根絶の日」とすることを宣言した。・・とある。
そして、2008年2月27日には、10の国連機関(★2参照)が、FGM/C根絶に取り組む姿勢を示した声明を発表し、ミレニアム開発目標で目標達成期限とされている2015年までに、多くの国でこの慣習が大幅に減少し、約30年以内に廃止されるよう、各国政府や地域社会、女性と少女に対して支援を行うことを約束している・・・と、いうことである。
2008年に世界保健機関(WHO)が発行した『女性性器切除の廃絶を求める国連10機関共同声明』日本語版(※4参照)を、FGM廃絶を支援する女たちの会(=WAAF。同HPは※5参照)が発行している。本書では、新しいデータを基に様々な角度からFGM/Cについて分析し、その廃絶を訴えているというので、詳しいことはそれを見られるとよい。

世界FGM/C(女性性器切除)根絶の日(ゼロ・トレランス・デー)」で取り上げられている女性性器切除(Female Genital Mutilation、略称FGM)は、女性外性器の一部あるいは全部の切除、時には切除してから外性器を縫合してしまう慣習のことであり、これは、アフリカを中心に様々な民族の伝統的な通過儀礼として、2000年以上も続いていると言われている。
FGM廃絶を支援する女達の会HP(※5)によれば、この女性性器切除は、以前は「女子割礼」と呼ばれていたが、NGO『インター・アフリカン・コミッティ(IAC)』が1990年に開いた総会において、アフリカの女性たちがこれを「女子割礼ではなく女性性器切除(FGM)という言葉を使う」ことに決めたようである。
「女子割礼」では男子割礼(Female Circumcision)と同一視され、FGMの実態や女性の心身に与える被害を見え難くするから・・・・、というのがその理由であるという。
そして、切除者の多くは、伝統的助産婦といわれる女性や「割礼師」と呼ばれる人々であり、大抵の場合は、麻酔なしで、ガラスの破片、かみそりの刃、ナイフ、缶詰の蓋、鋭利な石、アカシアのトゲなどを使って少女の性器を切り取り、時にはカラタチのトゲなどで大陰唇を縫い合わせるのだという。止血や傷を癒すために、植物樹脂、灰、植物の溶液、ハーブなどを混ぜ合わせたものが使われることもあるそうだ。
このように、FGMの施術は、一般的に剃刀や鋭い石などを使い、麻酔も薬も用いず行なわれるため、激しい痛みや出血によるショック、感染症で死に至ることやHIV/エイズ感染の危険もあるほか、後遺症も深刻であり、尿道の閉鎖、慢性の感染症、貧血、腎障害、月経困難症、失禁、傷跡(ケロイド)による難産、膣狭窄(さく)及び陰唇裂傷、瘻孔(ろうこう)(膣と膀胱、膣と直腸の間に穴が開いてつながってしまう疾病)、性交時の激痛、性行為への恐怖、欝症状など女性の身体と人生に大きな影響を与えている・・という。・・・何ともぞっとする話だ。

しかし、、本来は、国や人種の宗教・文化・伝統など慣習に基づく行為に対しては、国連が介入すべきことではないかもしれないが、この慣習が女性にとっては虐待に近いものであり、女性と少女の基本的人権を侵しているだけでなく、彼女たちの健康を著しく損なうものでもあるとすれば、国連としても各国に有害な伝統的慣習であるFGM の廃絶のための措置を講ずるよう要請せざるをえないだろう。
しかし、当事国にとっては、長い歴史の中に根付いていた慣習を廃絶することへの抵抗も当初は強かったであろうことは推測される。
21世紀に入ってからも、10年以上経つて、ようやく、このような慣習の廃絶を「国連総会で採択」という段階となったのも、そのような理由があったからだろう
最近では、女性性器切除が行われている多くの国では、その行為を違法とする法律が既に制定されており。加えて、女性性器切除の身体的・精神的なリスクへの認識も高まっていることを反映し、その行為に反対する者も増加しているようだ。加えて、女性性器切除の身体的・精神的なリスクへの認識が高まっていることを反映し、その行為に反対する者も増加しているという。
しかし、最近の傾向として、そんなリスクへの認識が高まっていることと、医療サービスが以前より普及したことから、女性性器切除のリスクを最小限にくいとどめるべく、整った診療体制の中で医療の専門家に切除を依頼する親が増加しているという。さらに、成長すると女性性器切除を受けることを拒む可能性があるため、まだ幼いうちに受けさせるという若年齢化に対しても警告が発せられているようだ(※7)。
Wikipediaでは、現在では、アフリカの28カ国で、主に生後1週間から初潮前の少女に行われている。また、アフリカの人口増加に伴い、以前より多くの少女達が性器切除を施されている。・・・と、記されている。
そして、欧米においては、この慣習の存在する地域から移民した人々の間においてもFGMが広く行われていることが昨今の調査で明らかになり、それに対して法的な規制を制定する国も増えてきているという。
以下参考の※8:「FGM(女性性器損傷)とジェンダーに基づく迫害概念をめぐる諸課題」では、“第2 章 FGMとは何か”のところで、このFGM問題が、今問題となっているトランスナショナル (国境を越えた)な人口移動が拡大傾向にある中での、女性移民の増大(移民の女性化)や、難民女性の増加とFGM・ジェンダーとのかかわりなども触れたうえで、FGMが民族的・歴史的背景も考えると単純に虐待行為としてのみ片付けられない面があるなどこの問題の解決の難しを深く考察されている。書けば長くなるので、興味のある人は一読されるとよい。
この「女性器切除」のあらましはWikipedia(※6)を読めば分かるので、そこを詠まれるとよい。いろいろ、微妙な問題があるのでこれ以上書くのはやめておく。
ただ、気になったことを一つだけ追加しておこう。
冒頭の「世界女性器切除根絶の日」の説明の中で、「2003年にナイジェリアの大統領夫人であるステラ・オバサンジョの提案で始められ、国連人権委員会で国際的な啓発デーとすることが採択された。・・と書いたが、当時のナイジェリアの大統領はオルシェグン・オバサンジョであり、オグン州アベオクタ生まれ。ヨルバ族出身のキリスト教徒で、彼は10回以上の来日歴を有する親日家だそうである。

上掲の画像:オルシェグン・オバサンジョ元大統領(Wikipediaより)
ステラ・オバサンジョは、その後妻である。
以下参考に記載の※9:「NAIJA NEWSナイジャ(ナイジェリア)ニュース」のステラ・オバサンジョ☆死因は?・・に以下のようなことが書かれている。
“スペインの病院でナイジェリアのファーストレディ、ステラ・オバサンジョが外科手術中に死亡。
死因に関する検死報告書が提出され、外科手術を行なった医師ラモン・ロイへ医学博士の写真も含まれているという。博士はMolding Clinicの所長。報告書はまだ公表されていない“(2005/10/26)・・・と。
しかし、その後も、ステラの葬式のことや、埋葬先のことは書かれているが、ステラが何の外科手術をしていて、何故、死んだのかは何も書かれておらず謎のままである。
夫のオルシェグン・オバサンジョはオグン州のアベオクタ生まれで、ヨルバ族の出身らしいが、この、ヨルバ族について、以下参考の※10:「オンド州の州議会 - ナイジェリアの生活日記」には、以下のように書かれている。
オンド州はジェンダーセンシティブ【gender sensitive】な州で、
○ナイジェリアで初めて、女子差別撤廃条約(CEDAW)の国内法適用のための州法をパスさせた。
子供の権利条約もパスさせた(女子教育の必要とか書いてある)
○女性の政治参加がかなり進んでいる。
オンド州はナイジェリア3大民族の一つ、ヨルバ族が主流。FGMは北部ではほとんどないのだけど、ヨルバ族に限っては60%近くが実施している。・・と。
ステラが何族の出身か知らないが、オルシェグンが西アフリカ最大の民族集団のひとつであるヨルバ族とすれば、ステラも女性器切除をしていた可能性が大きいのではないか?そうすれば、2003年に女性器切除根絶の啓発デーが採択されると、自身の性器を元に戻すための外科的な治療が行われたのではないか・・・?そして、それが失敗に終わり死亡に至った・・・。また、そこには、女性器切除根絶に反対する一派も絡んでいた・・・なんて考えるのは、考えすぎだろうか。どうも、推理小説大好き人間の好奇心を掻き立てる出来事ではある。
先日アルジェリアでのアルカイダ系の武装勢力による人質拘束事件(ここ参照)が起こり、事件に巻き込まれた日本人10人の死亡が確認されたことから、日本人の中東地域への関心も深まったかと思うが、ナイジェリアはこのアルジェリアに隣接(北側)している国・ニジェール( Niger)に隣接(北西側)している国である。
ナイジェリア(. Nigeria)の国名の由来は、国内を流れるよりつけられたもの。ニジェール川の語源は、遊牧民トゥアレグ族により、この川がニエジーレン (n'egiren) 「川」、またはエジーレン (egiren) 「川」と呼ばれ、これがフランス人に伝えられ、ラテン語で「黒」を意味するニジェール (niger) と転訛した。つまり隣国の「ニジェール」( Niger)と同じ意味で、本来は同じ地域を指しているが旧宗主国を異にする両地域が別々に独立した際に、現在のように別の国を指すこととなったものである。
このナイジェリアでも、昨・2012年2月北東部の市場で無差別攻撃(※11)で30人が死亡するなど、ここ数年、主にイスラム教徒が多い北部で、ボコ・ハラムによる銃撃事件や爆弾攻撃。・・といったテロ事件が相次いで起こっている。
イスラム過激派のボコ・ハラムとは、「西洋式の非イスラム教育」「西洋の教育は罪」といった意味Dらしく、従ってそのような西欧に対する敵意が、ナイジェリアのキリスト教徒の殺害や教会の破壊につながっているのだろう。
ナイジェリアはアフリカ最大の人口をかかえる国家で、人口は1億5千8百万人以上と世界第7位の大国であるが、約250の部族、民族が住んでおり、部族間、民族間の争いが絶えず、少数民族や少数部族が、不平等な扱いを受けているようだ。
主に北部ではイスラーム教が、南部ではキリスト教が信仰され、その他土着のアニミズム宗教も勢力を保っている。その構成は、イスラム教が約半数を占め、キリスト教が4割ほど、土地固有の伝統宗教が1割くらいの割合となっているようだ。
17世紀から19世紀までは、奴隷貿易の拠点となり、アメリカ大陸へ大勢の奴隷が売られていった。この奴隷貿易の拠点売買となったことに伴い植民地化され、イギリスの植民地となった。第二次大戦後独立はするが、今に至るまで紛争は絶えない。
「じゃぁ、アフリカに民主主義を導入すればいい」という単純なものではない。
第二次世界大戦前からあった独立への動きは、同大戦後になると他のアフリカ諸国と同様に、民主主義運動が高まり、1960年夫々が自治権を有する北部州西部州及び東部州の3地域の連邦制国家として完全独立を果たした。
独立時は、イギリス女王を国家元首として頂く英連邦王国であったが、1963年に連邦共和国憲法を制定し、大統領制に移行した。それと同時に、西部州から中西部州を分割し、全4地域になる。
しかしながら、英国からの独立以降、地域間の対立が激化するとともに、選挙の不正に始まる政治の腐敗も深刻になり、第一共和制は混乱に陥って行った。
そして、それ以降、ナイジェリアの歴史の大部分は軍事支配一色となった。
始まりは 1966 年の第 1 回軍事クーデターで、複数の将軍とその支持者は国内に燻(くす)ぶる 250 の民族集団及び宗教コミュニティ間の緊張を制御できるのは自分たちだけだと豪語。その当時、北部はムスリム(「神に帰依する者」を意味するアラビア語で、イスラム教徒のこと)が多数派を占め、南部はキリスト教徒が多数派を占めていた。
このクーデターで北部人による東部のイボ人の迫害と虐殺が激化し、ナイジェリア内戦の契機となった。
民族間及び地域間の緊張によって分離独立運動が活発化し、1967 年、イボ族の ビアフラ共和国建国をきっかけに、3 年間に及ぶ血みどろの内戦(ビアフラ戦争)に突入し、壊滅的な飢餓状態が発生した。1970年にイボ族の敗北で内戦が終結。
1975年、軍の民政移行派(オルシェグン・オバサンジョ、ムルタラ・ムハンマド将軍らを含む)によるクーデターが成功し、前政権は打倒され、ムハメド将軍が最高軍事評議会の議長として執政に当った。彼の政策は民衆の支持を受け、彼の決断は伝説上の英雄に祭り上げられたようだが、彼が偽善的で汚職は続けられたとの批判もあるようだ。
1976年2月、ブカ・スカ・ディムカ中佐(後に処刑)を中心としたクーデター(未遂)で、ムハンマドは暗殺され、オバサンジョも殺害対象とされたが、これを鎮圧したオバサンジョが、最高軍事評議会議長・国家元首・国軍最高司令官を兼ねて最高指導者となり、彼による第一次軍政(1976年2月13日〜1979年10月1日)。が行われた。
その後も、1990年代末迄の間、多民族国家であるが故に生じる利害関係の縺(もつ)れ、それに加え貧困や汚職の蔓延に対する国民の不満の鬱積を背景に、長期に亙って政治と社会の両面で不安定な時期が続いた。
現在のナイジェリアが出現したのは、数年間にわたるイブラヒム・ババンギダ 将軍下の軍事支配を経て、大統領選挙が行われた 1993 年である。
南部出身のヨルバ人のイスラム教徒モシュード・アビオラが勝利すると見られたが、選挙結果は軍によって無効にされた。1993年11月、1980年代の2回のクーデターにもかかわったとみられるサニ・アバチャ将軍が実権を掌握した。
新憲法が制定され、民政へ移行したのは1999年のことだ。かつてのクーデター軍人オルシェグン・オバサンジョが、初の民主的選挙で、大統領に当選。
2003年の選挙でも再選した。しかし彼は民主派の希望でもあった司法長官ボラ・イゲが2001年に暗殺された件にかかわったといわれるほか、ナイジェリアの汚職と腐敗が彼の時代になって最悪になったといわれ、国民の感情は好悪半ばしている。オバサンジョは腐敗政治家を次々逮捕しているが依然政府の腐敗は深刻で、多くの頭脳流出を招いているという。
その後、2007年の選挙では敗れているが、この選挙を含め、その後の選挙でも、民族問題も絡んだ何かどろどろとした選挙戦が行われている。

そして、以下参考の※12:「英国内務省報告:出身国情報報告書 ナイジェリア」での人権についての記載を見ると、
2009年2月25日に公表された米国務省の人権実践に関する国別報告 、2008 ナイジェリア編 (USSD 2008)によれば、「ナイジェリア政府の人権記録は依然として劣悪であり、政府高官の重大な侵害行為は引き続きあらゆるレベルで確認されたという。そして、以下のように書かれている。
「最も重大な人権問題として、政権交代に対する国民の権利剥奪、治安部隊による超法規的所り、治安部隊による致命的及び過度の武力行使、自警団の民間人殺人、治安部隊の虐待行為に対する免責特権、受刑者、被拘禁者及び犯罪被疑者に対する拷問、強姦その他の形態の残忍で非人道的かつ品位を傷つける扱い、苛酷かつ生命を脅かす刑務所及び拘禁施設の現状、未決拘禁の延長を伴う恣意的逮捕、行政府が司法府及び司法の腐敗に与える影響、プライバシーの権利侵害、言論、報道、集会、信教及び移動の自由に対する規制措置、女性に対する家庭内暴力と差別、女性の性器割礼 (FGM)、児童の性的搾取を含む児童虐待、社会的暴力、民族、地域及び宗教的差別、売春及び強制労働目的の人身売買、並びに児童就労などが挙げられた。」・・・と。そして、これらについて詳細な事例が挙げている。
勿論、女性や、子供への暴力の中で、今日のテーマーである「女性器切除(FGM)」のことも詳しく書かれている。
24. 女性 概観  では、以下のように記載れている。
 “2009年1月に公表された 2008年の出来事を扱う Freedom House 報告書 2009ナイジェリア編が述べたところによれば
「ここ数年で教育の機会を阻む壁は低くなってきたが、ナイジェリアの女性は現在も社会差別を受けている。一部の民族集団では、女性は財産の平等な相続権を与えられず、配偶者による強姦は犯罪とみなされない。正確な事例は周知でないが、女性器切除(FGM)を受けている女性は多い。 連邦政府は FGM に公然と反対するものの、この慣行を禁止する措置は講じなかった。
シャリア法(イスラム教における宗教に基づく法体系)を準拠法とする北部州では、女性の権利の深刻な後退が見られた。労働力及び売春目的の国内外の人身売買の増大が報告されている。政府は 2004 年に人身売買を非合法化し、加害者を罰する公的機関を設立したが、既存の規定は不十分である。UNICEF によれば、現在ナイジェリアの児童就労者は 1500 万人に上り、このうち 40%が人身売買の危険に瀕しているということである。
一部の組織の報告では、妊娠した 10 代の少女に堕胎を約束する違法な取引があり、出産まで拘束してその後平均 350,000 ナイ(2,400 米ドル)で売られるということである。」・・・と。
ま〜、FGMどころか、いまだに、子女を所有物として人身売買までされているのには驚かされるが、「ナイジェリアでは制定法、イスラム法及び慣習法の下に女性に対する暴力が容認されており、かかる行為を支持する規定も記載されている」・・・というのだから、表面的には法整備もされているように見えても、抜け道があり、非合法なことがされていても見て見ぬふりでは助からないよね〜。。・・・こんな国情を見ていると、大統領夫人のステラ・オバサンジョが外科手術で死んだ・・。しかし、その死因は発表されない・・・などというニュースを見て、私が、その死因に懐疑の念をもってもそうおかしくもない・・・とは思いませんか・・・・。
いずれにしても、平和な日本に住んでいることに感謝したい。
「英国内務省報告:出身国情報報告書 ナイジェリア」のこの章は別紙となっているので、以下参考の※13:「女性同性愛者、男性同性愛者、両性愛者及び性同一性障害者」を参照されるとよい。

用語説明
★1:IAC:The Inter-African Committee on Traditional Practices affecting the health of Women and Children(女性と子どもの健康に影響を与える慣習に取り組むアフリカ委員会)1984 設立。28カ国のNGOが参加()。
★2:女性性器切除の廃絶を求める国連10機関 (共同声明に参加した国連機関)は、国連エイズ合同計画(UNAIDS)、国連開発計画(UNDP)、国連アフリカ経済委員会(UNECA)、ユネスコ(UNESCO)、国連人口基金(UNFPA)、国連人権高等弁務官事務所(UNHCHR)、国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)、ユニセフ(UNICEF)、国連婦人開発基金(UNIFEM)、世界保健機関(WHO)である。
参考:
※1:今日は何の日〜毎日が記念日〜
http://www.nnh.to/
※2:朝日新聞デジタル:女性器切除、禁止法制化求める 国連総会で決議案
http://www.asahi.com/international/update/1128/TKY201211280891.html
※3:国連広報センター|国際デー/国際年
http://unic.or.jp/unic/schedule
※4:女性性器切除の廃絶を求める国連10機関共同声明(Adobe PDF)
http://www.jca.apc.org/~waaf/pages/activity/newsletter/10-Agency%204pages.pdf#search='%E5%A5%B3%E6%80%A7%E6%80%A7%E5%99%A8%E5%88%87%E9%99%A4%E3%81%AE%E5%BB%83%E7%B5%B6%E3%82%92%E6%B1%82%E3%82%81%E3%82%8B%E5%9B%BD%E9%80%A310%E6%A9%9F%E9%96%A2%E5%85%B1%E5%90%8C%E5%A3%B0%E6%98%8E'
※5:FGM廃絶を支援する女達の会
http://www.jca.apc.org/~waaf/pages/FGM/FGM.html
※6:女性器切除 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%B3%E6%80%A7%E5%99%A8%E5%88%87%E9%99%A4
※7:UNFPA国連人口基金東京事務所プレスリリース2007年2月
http://www.unfpa.or.jp/news/press.php?eid=00096#h2-1
※8:FGM(女性性器損傷)とジェンダーに基づく迫害概念をめぐる諸課題
http://dspace.wul.waseda.ac.jp/dspace/bitstream/2065/34771/3/Honbun-5356.pdf#search='FGM%2FC%E3%81%B8%E3%81%AE%E4%B8%8D%E5%AF%9B%E5%AE%B9%E5%9B%BD%E9%9A%9B%E3%83%87%E3%83%BC'
※9:NAIJA NEWSナイジャ(ナイジェリア)ニュース
http://plaza.rakuten.co.jp/bigafrika/backnumber/200510/
※10:オンド州の州議会 - ナイジェリアの生活日記
http://blogs.yahoo.co.jp/gidanaisha/60743923.html
※11:ナイジェリア北東部の市場で無差別攻撃、30人死亡か 目撃者証言(2012年02月21日 10:45 発信地:カノ/ナイジェリア)
http://www.afpbb.com/article/war-unrest/2859490/8514681
※12:英国内務省報告:出身国情報報告書 ナイジェリア(Adobe PDF)
http://www.moj.go.jp/content/000056494.pdf#search='%E3%83%A8%E3%83%AB%E3%83%90%E4%BA%BA+%EF%BC%A6%EF%BC%A7%EF%BC%AD'
※13: 女性同性愛者、男性同性愛者、両性愛者及び性同一性障害者
http://www.moj.go.jp/content/000056496.pdf#search='%E5%85%90%E7%AB%A5%E3%80%81%E5%A5%B3%E6%80%A7%E5%99%A8%E5%88%87%E9%99%A4+%E5%90%84%E9%A0%85%E5%8F%8A%E3%81%B3%E5%86%85%E5%8B%99%E7%9C%81%E5%9B%BD%E5%A2%83%E5%B1%80%E3%81%AEFGM%E3%81%AB%E9%96%A2%E3%81%99%E3%82%8B%E5%A0%B1%E5%91%8A%E6%9B%B8'
女性性器切除の廃絶を求める国連10機関共同声明-日本ユニセフ協会
http://www.unicef.or.jp/osirase/back2011/1101_05.htm
女性移民労働 - 関東社会学会
http://kantohsociologicalsociety.jp/congress/53/points_section10.html
アムネスティ日本: 世界人権宣言ってなんだろう?
http://www.amnesty.or.jp/human-rights/music-and-art/passport/universal_declaration.html


黄ニラ記念日

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今日の記念日「黄ニラ記念日」は、全国農業協同組合連合会岡山県本(JA全農おかやま。※1)が岡山県特産の黄ニラのPRのために制定したもの。日付は、「にっこり(2月)いいニラ(12日)」の語呂合わせと、2月が黄ニラの最盛期であり鍋物などへの需要期であることから。毎年この日の前後には「黄ニラまつり」が開催されているようだ。
ニラ(韮、韭)は、西アジアからインド東南アジア東アジアシベリヤにかけて広く分布しているが、西洋では見られず、その栽培は東洋に限られており、原産地は中国西部とする説が有力のようである。
ネギ(葱)と同じユリ科APG植物分類体系ではネギ科ネギ属の1種で、多年草緑黄色野菜である。
ニラは、葉は細長く平べったい形でやや肉厚。夏には葉の間から30 - 40cmほどの花茎を伸ばす。花期は8 - 10月頃。花は半球形の散形花序が3枚あり、花弁が6枚あるように見える。雄蕊(おしべ)は6本、子房は3室になっている。子房は熟すると割れて黒色の小さな種を散布する。(冒頭の画像はニラ。Wikipediaより)。
餃子のたねやレバニラ炒めなどでよく使われるニラは、栄養も豊富で夏のスタミナ食材としてもよく使われる。ニラにはニンニクやネギにも含まれる「アリシン(allicin)」という独特の香り成分が、味に深みを持たせてくれ、食欲増進にもなるので、今では、体力をつけたいときにうってつけの野菜として好まれている。
普通、ニラと言えば緑色の「葉ニラ」のことであり、出回っているものの大半は、葉幅が広く色も濃い”グリーンベルト”であり、主な産地は栃木、高知などで、全国の出荷量の約6割をこの両県で占めているそうだ。
ニラは、色と食用する部分によって区別され、”テンダーポール”という「花ニラ」用の品種があり、これは、葉ではなく、小さなつぼみ(蕾)と花茎を食べるニラで、中国料理では炒め物に使われる。
主な生産地は、千葉と高知。葉色が鮮やかな濃緑色でツヤがあり、柔らかく腐りやすいので、晴天の日に収穫し、即時出荷されるという。花茎やつぼみが十分に 太ったものが良い。花ニラの葉は、葉ニラより葉数が少なく細く硬いので食べない。
他に、「黄ニラ」があるが、特別に「黄ニラ」という種類があるわけではなく、「葉ニラ」の軟白種のものをいう。アスパラガスに、グリーンアスパラとホワイトアスパラがあるのと同じように、いったん収穫した後のニラの株に日光があたらないよう覆いを被せて遮断して栽培した軟化野菜で、主な生産地は、千葉と高知。葉色が鮮やかな濃緑色でツヤがあり、柔らかく腐りやすいので、晴天の日に収穫し、即時出荷されるという。ニラ特有の臭みがなく、ニラとなる。葉が緑化していないものがよい。ニラ特有の臭みが少なく、より柔らかく、甘みが有るものになるそうだ。
今日の「黄ニラ記念日」の「黄ニラ」がこれらしい。日本では岡山県が主産地で明治時代から栽培が始まったらしく、黄ニラでは日本一の生産量を誇り、全国の約7割を生産しているという。
県内での主な生産地は、赤磐市、岡山市、美咲町があり、東京を中心に、名古屋、京阪神等広く出荷しているらしい。他に、黄ニラの全国的な主産地としては、栃木県があるようだ。
柔らかさの中にもシャキシャキとした歯ごたえがあり、ほんのりとした甘みが食欲をそそる、また、淡く上品な香りと優しげな黄色が料理を引き立てくれるといっている(※2、※3参照)。
中国料理のスープや炒め物に使われるのが一般的だが、岡山ではお寿司や焼きそばの材料としても使われているようだ。

このニラ、原産地は中国西部とする説が有力らしいが、日本には弥生時代(紀元前3世紀中頃)に中国から渡来したとも云われ、 自生していたと云う説もあり定かではないようだが、古代歌謡のうち記紀神武天皇の条にある久米部(くめべ)が歌ったとされる6首の歌「久米歌」の一首に、「賀美良(かみら)」という名前が登場する。
原文:美都美都斯 久米能古良賀 阿波布爾波 賀美良比登母登 曾泥賀母登 曾泥米都那藝弖 宇知弖志夜麻牟 (※3:「古事記」中巻神武天皇参照)
讀み:みつみつし 久米(くめ)の子(こ)らが 粟生(あはふ)には 臭韮(かみら)一本(ひともと) そねが本(もと)芽繋(そねめ)つなぎて うちてし止(や)まむ
意訳:勢い盛んな久米部の兵士が作っている粟の畑には、臭い韮が一本生えている。そいつの根と芽を一緒に引き抜くように、数珠繋ぎに敵を捕えて、撃ち取ってしまうぞ。
また、万葉集(巻第14−3444)には以下の歌が一首が詠われている(※6:「たのしい万葉集」のここ参照)
原文: 伎波都久乃 乎加能久君美良 和礼都賣杼 故尓毛美多奈布 西奈等都麻佐祢
讀み:伎波都久(きはつく)の 岡の久君美良(くくみら) 我れ摘めど 籠(こ)にも満たなふ 背(せ)なと摘まさね
意訳:伎波都久(きはつく)の岡に、茎韮(くくみら)を摘みに来たけれど、籠はぜんぜん一杯になりませんよ。じゃあ、あの人(背=夫)と一緒に摘みなさいな。・・・といったところ。
「久々美良(くくみら)」は「ニラ(韮)」のこと。この歌は、東歌の一つであるが、茎韮(くくみら)を摘みに来た女の人たちが歌った歌のようである。「伎波都久(きはつく)の岡」がどこかははっきりしていないが、常陸国真壁郡ともいわれているようだ(※5参照)。
この歌(万葉集・3444)については、毎週日曜日朝5:40より毎日放送ラジオで放送されている「上野誠の万葉歌ごよみ」での解説は、以下参考の※7:「【巻】14・3444…伎波都久の丘の茎韮 (Audio) - 上野誠の万葉歌ごよみ」で聞くことができるが、概ね上記の解釈と同様である。
しかしこのような解釈が、これまでの一般的な解釈とされているのだが、これが全くのデタラメナ読解であるとする説がある。それが、以下参考に記載の※8:「野村玄良のホームページ」である。同HPの◎万葉集巻頭歌「こもよみこもち」再考では同歌について以下のようにいっている(最後段のところ)。
【巻】14・3444の歌
「伎波都久乃 乎加能久君美良 和礼都賣杼 故尓毛美《乃》多奈布 西奈等都麻佐祢」
(キハツクノ ヲカノククミラ ワレツメド コニモミタナフ セナトツマサネ)
この歌の「故尓毛美多奈布」の元暦校本(※9参照)は「故尓毛乃多奈布」であり、「乃」であるべきものが「美」に改竄されている。そして、「コ・児」を「コ・籠」の意味に取り違えて解釈したために、万葉歌をこともあろうに勝手に改竄して、デタラメな読解をしている問題歌の一つであると指摘。この筆者の読みでは以下のようになるという。

詠み:「伎波都久の 岡のくくみら 我れ(二人称のワレ=アナタ)摘めど 児にものたなふ、背なと摘まさね」

この歌で使われている語の意味や解釈は詳細に記されているが、ここでは省略する。同HPで見てください。それらを踏まえて訳すと以下のようになるという。

意訳:「伎波都久の岡のくくみら(嬥歌[かがい]。上代、東国地方で、歌垣[うたがき]をいう語。※10も参照)の場を、際突くの丘、と地名に換喩(かんゆ)し、求める相手の男性を茎で表した隠語)そのククミラ(元気な若者を)をアンタ(ワレ)は摘もうとしているけど、(青年があんたを見ると)のたって萎えてしまって見向きもされないよ、(あきらめて)あんたの父さんとなさったらどう」。・・・と。
 そして、“この歌は嬥歌・歌垣などでの、愛情のもつれ合いや、女同士の足取り、或いはしっぺ返しなどといった鞘当ての場面で歌われた歌謡と考える。
このような掛け合いの歌から、やがて相聞歌へと発展していったものと思われる。
解釈は「コ」を籠と解釈したので、「のたなふ」の説明が出来ないので、「満たなふ」に改竄。「ワレ」を「自分」と解釈したので、歌の流れが中折れし、第三者が歌の中から突如登上して、歌の作者である「我=自分」に声を掛ける、などと言った奇異な解釈が行われてきたのである。
仙覚は「こにものたなふ」と読んで「子にもの給う也」の意であると説明している。この解釈の是非はともかくとして「故」は「子」であるとの音義認識を正しく行っている点は注目すべきである。“・・と。
そして、最後に、“一音節の「素語:意義素」(※8参照)の存在を無視した日本語学は、本当の学問であるのか、いま万葉歌学のみならず、言葉の学問そのものの再考が迫られているのである。”・・・・とまで言っている。
この様な万葉学の専門家でもない私には、一般的な解釈が正しいのか、この指摘が正しいのか判断できない。しかし、前に、このブログ、「秋・萩・月」で、“万葉集に登場する花で最も多く歌に詠まれているのがハギ(萩)であり、この歌が多いのには、日本人にとって、萩がさまざまな意味で象徴性の豊かな植物であったからのようだともいわれている。
萩は牡鹿とのペアで詠まれた歌が多いが、萩の花の形から女性器を想像させ、ハギを「芽子」と見立て、牡鹿の角は男性の生殖器の象徴とも見られていたようだ(万葉集第八巻 秋の雑歌の中、1541:「我が岡に、さを鹿(来(き)鳴く、初萩の、花妻(はなつま)どひに、来(き)鳴くさを鹿 」作者: 大伴旅人)・・といったことを書いたことを思い出し、この歌も野村の解釈の方が万葉集らしくって、面白いなと思い、ここに紹介した次第。
私のいつもの癖で、ちょっと、本題からそれてしまったが、また、元のニラの話に戻る。

ニラは、『古事記』では「加美良(かみら)」、『万葉集』では「久々美良(くくみら)と呼ばれていたが、天平宝治8年(764年)に記された正倉院文書の一つには「七文毛彌良七巴」の文字があり、この毛彌良(モミラ)の彌良(ミラ)が韮(ニラ)であることは、900年頃編纂された『新撰字鏡』に解説されているそうで(日本国語大辞典)、古代においてこの「ニラ」はいずれも「ミラ」と呼ばれていたようだ。
『古事記』の賀美良(カミラ)の“カ”は香、“ミラ”は韮であることから、匂いの強いニラのことを意味していたものと考えられるが、『本草和名』(901年 - 923年)には、「韮の和名は古美良(コミラ)とある。
これはニンニク(大蒜)の古名の“オオミラ”に対してニラを“コミラ”と称していたようだ。これらの呼び名が、院政期頃から簡略され“ミラ”となり、それが転訛して“ニラ(韮)”となったものだそうだ。
その共通の“ミラ”の意味は、食べると美味しいことを“ミラ(美辣)”と云ったことから来ているようだという(※12)。
後漢時代儒学者・文字学者である許慎の著した最古の部首別漢字字典といわれる『説文解字』には、「韭は韭菜である。いちど種すると久生(キュウセイ:久しく生える、の意)するものである。故にこれを韭(キュウ)という。象形である。「一」の上に在る。「一」は地面である。この字と「耑(タン)」は同意である」として、説文では、「韭」が正字で「韮」は俗字だとしている(『説文解字』の原書は※13:「漢字データベースプロジェクト」の説文解字第七篇下を参照。その意訳は、※14:『食物本草歳時記』の韮を参照)。確かに、小篆の「韭」を見れば一目瞭然で、この字が象形文字であることがわかる。
日本における本草学は、中国・明代の・李時珍の『本草綱目』の伝来により始まるらしいが、※14:『食物本草歳時記』では同じ明代末(1643年)刊行の姚可成の『食物本草』の中から毎月ひとつの品目をテーマに選んで筆者の解釈による現代口語訳をつけ発表しているが、『食物本草』の「韭」も『説文解字』の説を踏襲しているという。
『食物本草』とは、数多くある中国の本草書(健康を保つための医薬となる自然物についての学問)の中から日常の飲食物だけを取り出して、その産地や形状、性質や薬効などを詳細に記述したもののようである。
食物本草は、食を生命の根本と見る観点から、健康を保ち不老長寿を得るための日常の食生活についての正しい取り組み方を示そうとしたものであるようだ。 
※14:『食物本草歳時記』では以下のように言っている。
「春生、夏盛、秋収、冬蔵」というのが森羅万象の一年のサイクルであり、春は万物が「生じる」季節である。冬の間に地中深く「蔵(たくわえ)」られていた地気は、春の訪れとともに冬眠状態からいっせいに目覚め、勢いよく芽を出して再生する。春になると地面から生え出るニラは、春先の野菜の代表といってよい。
冬の養生は陰を養うのが主題で、ちょうど寒風に耐えて身を固く閉じているモクレンの蕾のように、外邪(※15参照)から身を守るために蔵して防御することに重点を置かなければならない。
春の養生の主題は陽を養うことにあり、冬眠状態の身体を眼覚めさせ、肝のはたらきを向上させて代謝を活発にし、冬の間に蔵した老廃物や有害物を排除し、気を昇らせるようにしなければならない。
そのため中国では『食物本草』にも記載されているように、春季の養生として、春先に採れる五種類の香味野菜を細かく刻んで食べる風習が古くから行われてきたという。それを、「五辛菜(ごしんばん)」というらしい。
中国南朝の梁の宗懍が当時の揚子江(長江)中流域の年中行事を記した『荊楚歳時記』には「正月七日を人日(ジンジツ)と為す。七種の菜を以って羹(かん)を為る。」とある。人日とは、この日にその年の人の吉凶を占う日である。
元旦及び立春にはに韭(ニラ)、薤(ラッキョウ)、葱(ネギ)、蒜(ニンニク)、薑(ショウガ)の五辛を食べて癘気(れいき。※16を参照)を避けた。春に韭を献上し、元日に辛のものを供えるのは、その力によって再生を助けて邪気(物の怪。また、病気。)を払うためである。
余談だが、旧暦の1月7日は新暦では、2013年の今年は2月16日となる。
先日の2月10日、中国は旧暦の正月・春節祭であった。健康被害不安が広がる中国で深刻化した微粒子状物質PM2・5」による大気汚染の影響が日本にも及ぶと警戒している最中、そんなこともお構いなしに多くの市民が新年を祝う春節(旧正月)の大晦日に爆竹をして大気汚染指数が急激に悪化している。本当に迷惑なことではある。
この中国の行事人日が平安貴族の生活に取り入れられて生まれたのが”七草粥”と”若菜の賀”(源氏物語の若菜の巻に登場)で、記録によれば宇多天皇の寛平二年(890)の正月に始っている。
しかし当時の七種粥は、いわゆる”春の七草”を入れたものではなく、鎌倉時代の『拾芥抄(しゅうがいしょう)』によると、米・小豆・大角豆・黍・粟などの7種類の穀類の粥であったようだ。
 若菜の方は粥とは別に、沈という香木で作った折敷(角盆)などに盛ってだされ羹(あつもの)にされたが、菜の種類は決まっていなかった。例えば、室町時代の有職故実書『公事根源』にはハコベ・セリ・ワラビ・ナズナ・ヨモギ・タデなどの12種類があげられているという。
日本古来の”春菜摘み”が”若菜の賀”となり”七草粥”と合体して一つの行事となり、さらに草の種類が特定されようになるのは鎌倉時代以降であり、山上憶良の「秋の七草」に対する概念として「春の七草」が定着したのは江戸時代以降のことのようである(※18の万葉の植物総論>万葉の花の語源について>春の七草と七草粥について参照)。
しかし、天の配剤の不思議は、春になれば春の養生に必要な食べ物がちゃんと用意されているということであり、自然に逆らうことなく、自然の恵みを感謝しながら、季節のものを無駄なく食べることが食養生の基本だと考えられている。
中国の医食同源(薬食同源)の考えから生まれた料理の「薬膳」とは、簡単に言うと生薬((※19も参照)や食品がもっている薬効や特性、味覚などを組み合わせて調理した健康食のことであり、中国では伝統的に受け継がれ、日常的に食されてる。
この薬膳には、病気の症状に合わせて治療を目的に摂る「食療」と、健康な人が日常の食事に取り入れる「食養」があり、食療のための食事とは、病気を治療するための食事のことであり、食養のための食事とは病気を予防するための食事のことを言うそうだ。
「食養」のポイントは「旬の食物を使うこと」、「バランスよく摂ること」、「多くの種類の食物を使うこと」の3つ。つまり、普段の食事で気をつかっていることに、陰陽五行の考え方を少しプラスすれば、薬膳になるのだという(※19も参照)。
※14:『食物本草歳時記』は、食療では、ニラには次のような効能があると書かれている。
温中理気:胃腸を温め、気の巡りを改善する。
安五臓:五臓を温め、内臓のはたらきを回復させる。
固精壮陽:(種子)腎の機能を高め、生殖機能を強くし、精液漏れを防ぐ。
補肝腎:肝臓と腎臓の機能を高め、腰と膝をじょうぶにする。
そのほかに、健胃、解毒、血行促進、疲労回復、食欲増進、瘀血改善などの効能があるそうだ。ただし、ほうれん草、牛肉、はちみつと同食してはならない、肺結核のものは食べてはならない、などの禁忌もある。
ニラにはほうれん草より多くのカロチンが含まれているほか、ビタミンB群Cカルシウムカリウムなども豊富で、便秘予防にも効果があるそうだ。
また、匂い成分の硫化アリル化合物は、自律神経を刺激してエネルギー代謝を促進し、血行をよくして新陳代謝を活発にするとともに、体を温め、血液の汚れを取り除く効果があるという。その上、ニラに含まれるアリルスルフィド(ネギ属の植物にみられる有機硫黄化合物)には強い殺菌力があり、ひきはじめの風邪に効果があるのだそうだ。
そのほかにも、健胃、解毒、血行促進、疲労回復、食欲増進、瘀血(おけつ)改善などの効能があるそうだが、ほうれん草、牛肉、はちみつと同食してはならない、肺結核のものは食べてはならない、などの禁忌があるようだ。
江戸時代の農業全書の中で、「ニラは昔から有名な作物で、人々から賞味されていて、陽起草とも云って人の栄養を助け、身体を温める性質の良い野菜である」(※20「農業全書」の0402 ニラ(韭)参照)と書かれている。
なんでも、陽起とは、男性白身の勃起力を高めるという意味の中国の言葉と聞いたことがあるが、それほどに、古くから体を温めてくれ、スタミナのつく野菜として扱われてた野菜、今年の寒い冬にぴったりの食べ物で、毎日でも食べて、元気で乗り切りたいと思うのだが、歳のせいか、最近は、ニラなど多く食べると胃もたれがして仕方がない。それに、私のような、高血圧の高い者には良くないようだ。
この書が書かれた時代になると、ニラも重要な野菜の一つとなり、栽培法や利用法、効用に関する記載も多く見られるようになってきたが、依然として大量に用いるものではなかったので庭先や、畑の隅に、畑の縁の土留めを兼ねて植えられる程度で、少量ずつ栽培、利用されていたようだ。
このニラが大量に栽培され、消費されるようになったのは、食生活の変化が著しくなった1960年代(昭和35年頃)以降からのようだ。
以下参考に記載の※21や※22では、ニラのレシピが沢山紹介されている。昔から、身体に良いといわれているニラ、大いに食べましょう。
参考:
※1:全国農業協同組合連合会岡山県本部
http://home.oy.zennoh.or.jp/index.php
※2:岡山県ホームページ)農政企画課>黄にらのページ
http://www.pref.okayama.jp/page/detail-26757.html
※3:農畜産業振興機構>野菜>野菜図鑑>ニラ
http://www.alic.go.jp/vegetable/index.html
http://www.pref.okayama.jp/page/detail-26757.html
※4:古事記(原文)の全文検索
http://www.seisaku.bz/kojiki_index.html
※5:海神の国3.海人と俳優 (2) 久米舞
http://homepage2.nifty.com/amanokuni/kumeuta.htm
※6:たのしい万葉集
http://www6.airnet.ne.jp/manyo/main/home.html
※7:【巻】14・3444…伎波都久の丘の茎韮 (Audio) - 上野誠の万葉歌ごよみ
http://www.podcast.de/episode/63468637/%25E3%2580%2590%25E5%25B7%25BB%25E3%2580%259114%25E3%2583%25BB3444%25E2%2580%25A6%25E4%25BC%258E%25E6%25B3%25A2%25E9%2583%25BD%25E4%25B9%2585%25E3%2581%25AE%25E4%25B8%2598%25E3%2581%25AE%25E8%258C%258E%25E9%259F%25AE
※8:野 村 玄 良 の ホームページ:『 素 語 ソ ゴ 』 とは 
http://www7b.biglobe.ne.jp/~gengo/newpage80.html
※9:『元暦校本万葉集』
http://www.norinagakinenkan.com/norinaga/kaisetsu/genryaku.html
※10:かがい〔嬥歌〕 - 國學院デジタルミュージアム
http://k-amc.kokugakuin.ac.jp/DM/detail.do?class_name=col_dsg&data_id=68386
※11:「こ(ko)甲類」の万葉仮名
http://www1.kcn.ne.jp/~uehiro08/contents/kana/ko_kourui.htm
※12:都立薬用植物園の妖精達 :ニラ  [韮]
http://www5f.biglobe.ne.jp/~homepagehide3/torituyakuyou/nagyou/nira.html
※13:漢字データベースプロジェクト
http://kanji-database.sourceforge.net/index.html
※14:『食物本草歳時記』
http://www.occn.zaq.ne.jp/ringo-do/syokumotu.htm
※15:漢方の病因論
http://members.jcom.home.ne.jp/1639705511/theory/byouin.htm
※16:病因病機 〜癘気〜|院長^^のブログ中国医学講座
http://ameblo.jp/dojin-koudai/entry-11346574544.html
※17:生薬、薬用植物(薬草)と身近な野生植物(野草)のページ・木下武司HP
http://www2.odn.ne.jp/~had26900/index.htm
※18:万葉の植物総論>万葉の花の語源について>春の七草と七草粥について
http://www2.odn.ne.jp/~had26900/topics_&_items2/on-nanakusa.htm>http://www2.odn.ne.jp/~had26900/topics_&_items2/on-nanakusa.htm>http://www2.odn.ne.jp/~had26900/topics_&_items2/on-nanakusa.htm
※19:漢方薬で健康スローライフ入門
http://kanpo.kenko-jp.com/
※20:農業全書
http://www.i-apple.jp/nz/
※21:にら レシピ 202品 [クックパッド] 簡単おいしいみんなのレシピが139万品
http://cookpad.com/category/1280
※22:にらの人気レシピ[1,398品]|簡単作り方/料理検索の楽天レシピ
http://recipe.rakuten.co.jp/category/12-103-4/
跡見学園女子大学 > 柳上書屋 > 常務理事からの花便り > 跡見群芳譜
http://www2.mmc.atomi.ac.jp/web01/Flower%20Information%20by%20Vps/Flower%20Albumn/index.htm
巻四  農産譜 :にら (韭・韮)
古典籍総合データベース:本草和名. 上,下巻 / 深江輔仁 [著]
http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/ni01/ni01_00798/index.html
2012年・2013年・九星・新暦・旧暦・六曜カレンダー1月10日が旧暦の正月
http://9seicalendar2012.seesaa.net/category/11511663-1.html
花々のよもやま話:韮
http://plumkiw948.at.webry.info/201109/article_9.html
ニラ - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%83%A9

防犯の日

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 日本記念日協会の記念日に「防犯の日」(毎月18日)があった。
日本で初めての警備保障会社として1962年に創業したセコム株式会社(※1)が制定したもの。
セキュリティのトップカンパニーとして社会の安全化に努めてきた同社の、企業や家庭、個人の防犯対策を毎月この日に見直して「安全、安心」に暮らしてもらいたいとの願いが込められているのだとか。
日付は18の1を棒に見立てて「防」、8を「ハン=犯」とする語呂合わせからだそうだ。
セコムの会社設立は、1962(昭和37)年7月7日のこと。昨2012(平成24)年に創立50周年を迎えたことを期にこの記念日を申請し、設定されたようだ。
セコムでは、ここ数年刑法犯の認知件数は減少傾向にある一方で、犯罪の凶悪化、手口の多様化などで、私たちの不安がなくなることはない。
そのような現状の中「もっと安心できる毎日を」・・・と、そんな願いを込めて、毎月18日の「防犯の日」に加えて、7月5日、6日を「セコムの日」と制定。これは、社名の「セコム」にちなみ、7月5日、6日の数字を語呂合わせで「7(セ)」「5(コ)」「6(ム)」と読むそうだ。
本当に、毎日毎日、テレビをつければ、凶悪な犯罪の報道がされない日はないというほど物騒な世の中になった。世界の中では安全な国と言われていた日本も、今では、警察だけに頼らず、それぞれがそれなりの自己防衛をしてゆかなければいけない時代になってしまったということなのだろう。
現在、日本で警備サービス業のトップ企業であるセコム株式会社(英称:SECOM Co., Ltd.)の歴史は、1962(昭和37)年7月、創業者飯田亮(まこと)らが東京都港区芝公園(現在の港区芝大門1-9-1)に日本初の民間警備保障会社として日本警備保障(株)を設立したことに始まる。
事務員数名と警備員2名で始めた初仕事は、ほぼ創業4ヵ月後の千代田区内の旅行代理店との巡回契約であったという。そして、社員も8名ほどとなり、契約数も二けたとなった翌・1963(昭和38)年4月に千代田区神田小川町に本社を移転。巡回契約の他に、初めて常駐警備の契約も取得する。
この年の暮れに東京オリンピックの組織委員会から警備の依頼をうけ、翌・1964(昭和39)年10月オリンピック開催時には、競技施設、選手村警備などの警備委託の同社単独契機となったことにより、警備契約が増大した。

1965(昭和40)4月、当時まだ発展途上だった警備保障会社をテーマとしたTV番組「ザ・ガードマン」が放映された。
「ザ・ガードマンとは、警備と保障を業務とし、大都会に渦巻く犯罪に敢然と立ち向かう勇敢な男たちの物語である。
昼は人々の生活を守り、夜は人々の眠りを安らぐ、自由と責任の名において、日々活躍する名もなき男たち。
それはザ・ガードマン。」
芥川隆行のオープニングナレーションで始まる、TVドラマ「ザ・ガードマン」。
高倉キャップ率いる東京パトロールという会社を舞台に犯罪と事件から市民を守るガードマンたちの刑事ドラマさながらの奮闘を描く。
警備員というと制服を着て特定の場所を守る仕事というイメージがあるが、この作品の主人公たち7人のチームは主に私服(スーツ)を着用。そして、警察とは違って、権限がないかわりに、隠しカメラなどのアイテムを使ったりして任務にあたる。その行動範囲も、潜入捜査を始め、地方はおろか、海外に至るまで非常に広範である。
以下では、その懐かしいテレビドラマ「ザ・ガードマン」のオープニングとエンディングを見ることができる。
ザ・ガードマン OPとED-YouYube
レギュラー出演の高倉隊長、通称キャップを演じる宇津井健他、隊員の川津祐介藤巻潤倉石功など当時の若々しい姿・・恰好良かったな〜。本当に懐かしいよ・・・。
このドラマは、日本警備保障(現・セコム)をモデルにしたものだが、セコムがモデルとなったきっかけは、東京オリンピック後に始まった帝国ホテルの常駐警備の警備員が、新しい仕事としてテレビ局のプロデューサーの目に止まったことによるという。
番組制作にあたり、モデルとなった日本警備保障に提示されたタイトルは「東京用心棒」だったそうだ。
これに対し、同社創始者の飯田亮が「自分たちは『用心棒』ではない」として、逆提示したタイトルが「ザ・ガードマン」だったそうで、自社をモデルにされるにあたり、飯田は番組の脚本について「乱暴な言葉づかいをしない」、「女がらみなし」、「酒は飲ませない」の条件を出したと言われている。
そういえば、黒沢明監督の東宝映画「用心棒」が公開されたのは、1961(昭和36)年のことであり、この当時用心棒ブームだったものな〜。そのため、テレビの大人気に乗じて劇場用作品も2本製作されたが、最初の作品名は「ザ・ガードマン 東京用心棒」であった。
このTVドラマ「ザ・ガードマン」は、最高視聴率40%以上を記録するなどお茶の間の人気を集めたことから、それまで馴染のなかった警備保障会社というものが世間の注目を浴びるようになり、同社(セコム)が全国ネット網の整備に着手するきっかけとなったようである。
ただ、この番組で和製英語である「ガードマン」という言葉が少しずつ世間に広まったものの、当時では、ドラマの世界とは違って、現実には依然として守衛が一般的な呼称ではあった。
以下、セコムのHPにある、会社研究・セコムの歩みセコム創業期物語木曜コラム 読み解くセコム50年の歩みなどを参考にして書かせてもらうと、
このドラマが始まった次の年である1966(昭和41)年、人手がかかる常駐警備や巡回警備にかわり、わが国初の企業向けのオンラインの監視装置で異常を発見する機械警備システム「SP(セキュリティ・パトロール)アラーム」を開発(以下セコムの防犯・防災用語は※2を参照されるとよい)。
その2年後の1968(昭和43)年10月から11月にかけて、東京都区部・京都市・函館市・名古屋市において、拳銃による連続射殺事件「警察庁広域重要指定108号事件(永山則夫連続射殺事件)」が発生した。
翌・1969(昭和44)年4月7日、手配犯が一連の犯行に使用した拳銃を持って予備校に金銭目的で侵入した所を、機械警備の警報で駆けつけた日本警備保障の警備員に発見されるが、発砲してガードマンがひるんだ隙に逃走。しかし、警視庁緊急配備を発令。数時間後に、警戒中の代々木警察署のパトカーに発見され逮捕された。
この事件の犯人逮捕を契機に、この機械警備システムが脚光を浴び一般的にも知られることとなり、従来の巡回警備、常駐警備からSPアラーム一本へと方向を転換し、以後、同社のセキュリティ事業の柱に成長した。

セコムの最大の特徴と言えば、この昭和40年代から進められた業務の機械化等があげられるだろう。
1973(昭和48)年には、米国の銀行と提携した無人銀行システム開発をもとに、日本初の金融機関CD(キャッシュディスペンサー)コーナー向け安全システムを開発。
また、都心のビルの大型化に合わせて、日本初の大型施設向け安全管理システムを開発、後の「トータックスZETA」の原点、「セコム3」を発表している。
1974(昭和49)年 防災業界トップの能美防災(株)と業務提携。両社の防犯技術と防災技術を融合した商品を開発をすることで、新しい市場の創出をめざしている。
1975(昭和50)年、コンピュータを導入した世界初の「CSS(コンピュータ・セキュリティ・システム)」が開発され、同社の契約件数は飛躍的に増大していった。
そして、会社設立の1962(昭和37)年から、16年目の1978(昭和53)年5月に東京証券取引所市場第一部に昇格(同市場第二部に株式上場は1974年6月)している。これは、驚異的な成長だ。
また、1981(昭和56)年には、わが国初の家庭用警備システム(セコムホームセキュリティー。発売当時は「マイアラーム」)を発売し、家庭市場を開拓。現在は、企業で約86万3000件、家庭で約85万3000件、合計約171万6000件(2012年9月30日現在)の契約先を有しているという。
このように、防犯及び火災報知の分野(SPアラーム、現在のDXなど)のみならず、同社の戦略においては機械警備が絶大な効果を発揮し、ライバルの綜合警備保障等との激しい競争を制するために大いに貢献したと思われる。
創業以来、革新的なサービスを次々に創造し、提供してきた「日本警備保障(株)」は、東京オリンピックや大阪万博での警備を担当し、その名を徐々に社会に浸透させていた。
1983(昭和58)年、高度情報化社会の到来を目前に控え、CATV会社の設立など情報系事業をスタートし、事業内容もこのころから警備だけではなくなったことから、社名も日本警備保障(株)からセコム(株)に社名を変更した。
もともと、「セコム(SECOM)」とは、「セキュリティ・コミュニケーション(Security Communication)」という言葉を略した造語で、情報通信ネットワークを活用して安全で便利で快適な社会を築く「社会システム産業」の構想が固まりつつあったなか、“人と科学の協力による新しいセキュリティシステム”の構築というコンセプトを持つブランドとして、1973(昭和48)年2月には制定されていたものだそうだ。
新ブランド制定後10年間は、「日本警備保障」の社名のまま「セコム」も使い、ダブルブランドで事業を展開してきたものだが、「セコム」という名前が社会に浸透したのを機会に、CATV事業に進出したこの年12月に社名を変更したもの。

このセコムの名前を世の中に広く知らしめたものに、同社のテレビCMがある。
古くから多くの人に知られているのが、元巨人軍のスターであり、監督も務めた長嶋茂雄氏の出ているCMで「セコムしていますか」・・のコマーシャルである。
この長嶋氏の「セコムしていますか」のキャッチフレーズにより、セコムの「安全・安心」の代名詞になったともいえるほど多くの人の記憶に強烈に焼き付いており、長嶋氏のセコムのCMと言うと、この「セコムしていますか」を思い浮かべるのだが、実際には、長嶋氏の同社CMへの最初の出演は、現役時代絶頂期の1971 (昭和46)年3月20日から1972(昭和47)年にかけてだという。
長嶋氏は、この1971(昭和46)年5月25日のヤクルト戦では、浅野啓司投手から史上5人目となる通算2000本安打を達成。1708試合での到達は、同じ巨人軍の先輩で“打撃の神様”と言われた川上哲治に次いで歴代2位のスピード記録であり、右打者では歴代最速記録を達成。同年シーズンは2位・広島カープの衣笠祥雄の.285を大きく引き離す打率.320を残し、6度目の首位打者となっている。34本塁打・86打点はそれぞれ王 貞治に次いでリーグ2位だった。
しかし、この時のCMは「鉄壁の守り」をテーマにしたものであったというが、長嶋は打撃だけではなく3塁守備での華麗なグラブさばきも売り物だったよな〜。
長嶋は、その後1990 (平成2) 年から再度、セコムのCMキャラクターを務め、2004(平成16)年3月、脳梗塞で倒れ出演できなくるまで、長きにわたり同社のキャラクターとして活躍(2003年からは長嶋氏を象った人形アニメを使用)していたが、以下のセコムCMライブラリーでは、長嶋氏をキャラクターとして使用した「ホームセキュリティ・守り篇(1990年)」以降のものが保存されている。
当編では、CMの最後に「セコム」とは出てくるが、よく知られている「セコムしていますか」は出てこない。この次の同じく長嶋氏使用の「ホームセキュリティ・笑顔篇(1991年)」には「「セコムしていますか」の言葉が出てくる.ので、このキャッチフレーズはこの年くらいから使われ始めたのかな・・・?懐かしいCM、以下見ることが出来る。
セコムCMライブラリー  

セコムは1962年に日本初の警備保障会社として誕生して以来、オンライン・セキュリティシステム、ホームセキュリティシステムを始めとするさまざまな日本初のサービスを開発し、企業、公共施設、家庭、個人に「安全・安心」を提供してきた。
さらに、1989(平成元)年には「社会システム産業元年」を宣言。セコムグループとしては、セキュリティを中心に、防災、メディカル、保険、地理情報サービス、情報系事業などを展開。セキュリティで培った安全のネットワークをベースに、安心で便利で、快適なサービスシステムをトータルで提供する、新しい社会システムづくりに取り組んでいる。

上場企業に関する情報を、各社の有価証券報告書に基づいて収集して掲載している上場企業情報サイト「Kmonos(クモノス)」(※3)というユニークなサイトが出来ている(ここ参照)。
このサイトの情報によれば、セコムは、主に警備保障サービス業界に属し、この業界では、国内トップクラス(ここ参照)であり、警備請負サービスを中心としたセキュリティサービス事業、総合防災サービスを中心とした防災事業、在宅医療および遠隔画像診断支援サービスを柱にしたメディカル(医療・医学関連)サービス事業、損害保険業を中心とした保険事業、地理情報サービス事業、情報セキュリティサービスおよび不動産開発・販売を中心とした情報通信・その他の事業を主な内容としており子会社172社、関連会社26社でセコムグループを構成している。
そして、セコムの直近(第51期)の成績は、売上高6791.73億円。ここ最近の時価総額は1兆0359億円くらいであり、共に東証1部に上場している同警備サービス業界で、売上高第2位の綜合警備保障の約8.8倍。3位セントラル警備保障(Kmonosでは4位。以下参照)の83,5倍の規模を要しており、日本国内の他、1980年ごろから、セコム方式の安全システムの海外普及も進め、海外19カ国でも事業展開をしている。特に、セコムで働く従業員は、14911人で、セコムグループ全体で働く従業員は34063人。一万人を超える人を雇用しているということはすごいことである。
売上高ランキング!(事業別ではなく会社全体の売上高を使用)Kmonos
1位 セコム 【6791.73億円 (2012/03/31)】時価総額は1兆0359億円くらい(ここ参照)。
2位 綜合警備保障 【3047.23億円 (2012/03/31)】時価総額は1177億円くらい(ここ参照)。
3位 イオンディライト(☆1参照) 【2197.97億円 (2012/02/29)】最近の時価総額は124億円くらい(ここ参照)。
4位 セントラル警備保障 【399.44億円 (2012/02/29)】最近の時価総額は124億円くらい(ここ参照)。

日本初の警備保障会社セコムの創業者 飯田亮。
警備保障業は日本ではまったくなじみのない新しい事業であったが、同社を大きく成長させ東証一部にまで上場させた偉大な人物である。

自分たちが最高だと思ってやっていることを
真っ向から否定しないと
新しいものは生まれてこない

創造的破壊とはよく言われる言葉だが、それを確実に実行できるかどうかが成功カギだ。以下の飯田亮の名言・格言読んでみませんか。

飯田亮の名言集 - YouTube

法務省が毎年公表している『犯罪白書』は、前年の統計を中心に我が国の犯罪の現状を分析し、今後の治安対策の基礎資料にされるとともに、国民に対する情報提供も目的としている。
同白書などを見ても我が国の犯罪情勢は、平成14年に刑法犯の過半数を占める窃盗を中心に刑法犯認知件数は減少傾向にある一方で、犯罪の凶悪化や、手口の多様化などで、私たちの不安がなくなることはない。
最近の傾向として、少子高齢化の中、高齢犯罪者が急増しており、この高齢犯罪者は、高齢者人口の増加率よりもはるかに高い比率で増加しているという。
そして、この高齢者の犯罪の特徴として窃盗、それも万引きが多いことと、女性の場合、その傾向が特に顕著であるという。逆に、高齢者を狙う犯罪、つまり、高齢被害者も増加しているのである。
また、平成17年以降、一般刑法犯の検挙人員は減少を続けており、そのうち、初犯者が大きく減少している一方で、再犯者の減少はわずかに止まり、その結果、検挙人員に占める再犯者の人員の比率が上昇を続け、平成23年には再犯者率が43.8%に至っており、近年、この再犯防止が犯罪対策における最も重要な課題になっているという。
その要因には、不安定な就労や居住状況といった生活基盤に関わる課題が刑務所出所者等の再犯に共通するリスクとなっていることが確認されているというのだが、まともに、大学を出た犯罪歴のない若者でさえも就職難に喘いでいる今の時代、犯罪歴のある人の就労はさぞ困難なことであろことが察せられる。
野田民主党政権から阿部自民党政権へ政権交代し、政策路線も経済成長路線へと舵が切られたが、これにより、企業が雇用を拡大してくれるとよいのだが・・・・。
それにしても、最近の事件の報道を見聞きしていて、怖いと思うのは、今の時代の人は、普段はおとなしそうに見える普通の人たちが、一旦プツッと切れると何をするかわからない人が増えてきたことだ。
昔は、恐ろしい事件は、その筋の人の中でもちょっと狂人的な人たちが起こすことが多かったと思うが、だから、私たちもそれなりに警戒し、用心もできたのだが、この頃の恐ろしいしかも猟奇的とさえいえる事件が、身の回りにいるようなごく普通の感じの人たちによって引き起こされている。
そんなごく普通に見える人たちが、ちょとした諍(いさか)いごとがあったり、何か自分の気に入らないことが起こると、豹変して、その筋の人さえも躊躇しそうなとんでもない犯罪を犯してしまう・・・。
ここのところ、阪神・淡路大震災東日本大震災など発生以降、地域とのの大切さが言われる中、隣近所に住んでいたり、町中を歩いいるごく普通に見える人たちが、些細なことですぐ切れて、何をするかもわからない…などと考えると、一体どう接してゆけば良いのかも分からなくなってしまうのだが・・・。
私は、戦後経済成長の中で甘やかされて育ってきた人たちには、辛いことを我慢する力、いや忍耐力が欠けている・・・といった方が適切かもしれないが・・・。
苦しさ、辛さ、悲しさなどを耐え忍ぶこと。例えば、自分に不都合なことなどを人にされても、暴力的な仕返しをしたり、現実逃避したりしないなど。忍耐する力を「忍耐力」、忍耐力があることを「忍耐強い」と言う。
この「忍耐」は、四元徳のひとつとされている。
仏教においては、さまざまな苦難や他者からの迫害に耐え忍ぶことを忍辱(にんにく)という。
私たちが子供のころには、親や、学校の先生、また周囲の人たちなどからも、「我慢」「忍耐」の大切さを、しっかりと教えられてきたものなのだが・・・。
だから、敗戦後、親や家族を失い、そしてすべての財産を失い、焼け野原の中で、3度の食事もままならない貧乏生活にも耐えて、ただただ、将来に希望を求めてがむしゃらに働いて、今日の幸せを築いてきたのだが・・・。
最近、滋賀県大津市の中学生が“いじめ”を受けたことを苦に自殺した事件(※4)や、大阪市立桜宮高校バスケットボール部のキャプテンを務めていた男子生徒が顧問からの体罰を苦に自殺した事件(※5)などが話題になっている。
このような学校でのいじめ体罰は昔からあった。私自身いじめに近いことをされてきたし、逆に、いたずら半分に女生徒をからかってきたことなど、今流で言えばいじめになるのだろう。
また、やんちゃな私は学校では、先生に叩かれたり、水を入れたバケツを頭に載せて教室の後ろに立たされたり、家にあっては躾の厳しい親から言うことを聞かないと叩かれたり、押し入れに放り込まれたり、家から閉め出されたりの折檻は、しょっちであったが、そのあと、性懲りもなく同じ悪さをしては先生や親を呆れさせていた。
私の子供のころはいたずらっ子や悪がきが多くいたが、いじめや、体罰を苦にして、自殺するなどというようなことは、あまり、聞いたことがないように思うのだが・・・。
これは、いじめや体罰を受けたものの感受性や忍耐力の差によるものだろうか・・・。先にも述べた様に、今の若い人は、昔の人に比べれば忍耐力は低くなっているようだし、感受性も高そう。・・・しかし、それだけではないのだろう。
そこには、同じいじめにしても質の面において、昔よりも今のいじめは非常に陰湿になっているような気がしてならない。大津市の中学生の自殺問題を見ても、これはいじめというよりも完全な犯罪であろう。非常に性質が悪い。
また、桜宮高校で起こったバスケットボール部顧問による体罰も、30発も40発も叩いたとしたら、それはもう指導的な体罰の域を超えて、個人的感情をむき出しにした腹いせ的な暴力であるとしか言えない内容だ。暴力を振るった顧問は人格として指導者失格人間であり、まるで餓鬼のようにキレてしまっているのだ。
※6:「自殺予防総合対策センター」によれば、日本の年間の自殺死亡は、1998(平成10)年に年間死亡数が31,755人と初めて3万人を超えて以来、その水準で推移している(因みに平成23年の年間の自殺者数は3万651人と初めて3万1千人を下回る)が、この自殺死亡率は欧米の先進諸国に比べても突出して高い状態となっており、日本が自殺大国と言われる所以にもなっているようだ。
この高い自殺率の背景には、バブル崩壊後の日本社会の急激な変容があるようだ。年功序列型の終身雇用の崩壊や成果主義から、勝ち組・負け組といった言葉で表されるストレスなどの影響を強く受け、これがうつ(鬱)病など、心の健康を損なわせている。
人生を楽しめなくなり、自分が価値のない存在で、周りの人に迷惑をかけているといった考えで頭がいっぱいになると、死ぬことが苦しみから逃れる為の解決策に見えやすくなる。これは決して、健全な心で生みだされる考えではない。
これら自殺に追い込まれる人はストレス社会の中で、1つの要因だけではなく、何らかの困難な問題に直面しているなど複数の要因が重なって自殺に追い込まれていると考えられている。
最近は、自殺者の年齢が全体的に高くなる一方で、自殺が低年齢層にも広がる兆しがあり、中学や高校生ではいじめや学業不振などといった学校での問題が自殺の原因とみられている。そして、自殺予備軍ともいえるうつ状態の小学生も急増しているそうだ(※7、※8参照)。
先日、2月17日にグアム島で日本人観光客3人が死亡し、10人が負傷した無差別殺傷事件が起こっているが、同じような事件が日本にもあったのを覚えておられるだろう。
2008(平成20)年6月8日、日曜日に起きた「秋葉原、無差別殺人事件」である。この事件も、「うつ病」によって引き起こされたものだという。
なぜ、うつ病の者がこのような行動に出たかは、※9:「日本人の「うつ病」の脳の働き方」を参照されるとよい。
日本の社会で、うつ病の人が増えているようであるが、うつがひどくなると、自らの命を絶つ自殺行為だけでなく、このような大それた行動にも出るのだ。
毎日毎日報道される悲惨な事件の数々、いつ自分や大切な人の身に悲しい出来事が起こらないとも限らない。
用心に越したことはないのだが一体どうしたらよいのだろう。地震や火災などの防災対策だけではなく、今日のような「防犯の日」に、いつ遭遇するかわからない防犯対策について見直しをしておくのもよいだろう。
セコムは毎月18日に防犯に関するニュースレターやメールマガジンの配信。また、セコムの公式Webサイトに「防犯の日」特設ページを公開しているようなので、それを活用するのもよいだろう。また、以下参考の※10:「法務省:犯罪白書」、※11:「警察白書|警察庁」の他、※12:「[防犯] All About」の防犯に関する特集なども参考になるのではないか。

(画像は、「ザ・ガードマン東京警備指令」1965年版VOL.4 [DVD])
参考:
☆1:イオンディライトは、主にビルメンテナンス業界と間接業務請負・支援業界と警備保障サービス業界に属し、イオン系列の施設管理会社。商業施設内の建物設備の保守、点検、警備を行う設備管理事業、イベントの警備などを行う警備保安事業、清掃事業、修繕工事を行う建設施工事業の4事業が主力であり、中国でサービスを開始するなど、海外進出にも積極的である。)
※1;セコム株式会社HP
http://www.secom.co.jp/
※2:セコム防犯・防災用語集
http://www.secom.co.jp/bouhan/yougo/21.html
※3:上場企業情報サイトKmonos(クモノス)
https://kmonos.jp/
※4:【大津市イジメ】皇子山中学校の地元に聞く「親達の心境」と「恐ろしい噂 ..」
http://news.livedoor.com/article/detail/6818297/
※5:「桜宮高校 体罰自殺」特集:イザ!
http://www.iza.ne.jp/news/feature/6629/
※6:自殺予防総合対策センター
http://ikiru.ncnp.go.jp/ikiru-hp/index.html
※7:自殺大国日本|「うつ」の心に癒しを
http://www.kokoro-iyashi.info/archives/795019.html
※8:All About 「なぜ日本は自殺大国なのか、その理由」(2006年6月6日)
http://focus.allabout.co.jp/gm/gc/303017/?from=dailynews.yahoo.co.jp
※9:日本人の「うつ病」の脳の働き方 特集・「秋葉原、無差別大量殺人事件」の原因は「うつ病」である
http://www.porsonale.co.jp/keikou72.htm
※10:法務省:犯罪白書
http://www.moj.go.jp/housouken/houso_hakusho2.html
※11:警察白書|警察庁
http://www.npa.go.jp/hakusyo/index.htm
※12:[防犯] All About|盗撮・盗聴・痴漢・詐欺・泥棒などの対策を紹介
http://allabout.co.jp/gm/gt/71/
罪と罰>刑事政策関係刊行物:犯罪白書
http://www.jcps.or.jp/publication/index.html

宝塚歌劇団出身の女優・淡島 千景を偲んで

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宝塚歌劇団出身の女優・淡島 千景(あわしま ちかげ)が87年の人生を終えたのは昨・2012年(平成24年)2月16日のことであった。実に幅広い役柄を演じた名女優だった。
本当は、一周忌にあたる今年2月16日に、このブログを書たかったのだが、どうしてもこの日に間に合わなかったので、彼女の誕生の日である今日書くことにした次第。
淡島 千景、本名:中川 慶子(なかがわ けいこ)は、1924(大正13)年2月24日生まれ、東京府(現代の東京都)大田区の出身である。
東京都武蔵野市吉祥寺にある成蹊高等女学校(現・成蹊中学校)卒業後、1939(昭和14)年に、宝塚音楽舞踊学校 (現:宝塚音楽学校の前身)に入学(15歳)。
ちょっと、ここで、※1:「宝塚音楽学校」HPを元に、淡島が入学するまでの同校歴史を辿ってみよう。
わが地元である兵庫県宝塚市にある宝塚歌劇団団員養成所である宝塚音楽学校は、1913 (大正2)年に第1期、2期生として12歳から19歳の少女20人が採用され、7月に「宝塚唱歌隊」として創立し、今年・2013(平成25)年7月に創立100周年を迎える。
「宝塚唱歌隊」は創立の年の12月には宝塚少女歌劇養成会と改称。翌1914(大正8)年に宝塚少女歌劇団として宝塚新温泉(※2参照)で初演している。
初の演目は、歌劇『ドンブラコ』、喜歌劇『浮れ達磨』(※3参照)、ダンス『胡蝶の舞』(Wikipediaも参照)は、かわいらしい14、5歳の少女がオーケストラに合わせて独唱や合唱をしながら踊るという珍しさで、予想外に歓迎されたという(※2の第3章 少女歌劇と宝塚新温泉また、Wikipedia のドンブラコ』も参照)。
1918 (大正7) 年に、私立「宝塚音楽歌劇学校」(文部省認可)となり、1919(大正8)年養成会を解散し、宝塚音楽歌劇学校生徒と卒業生で宝塚少女歌劇団を組織(音楽学校と歌劇団は一体)。
1923 (大正12)1月、宝塚新温泉、宝塚音楽歌劇学校新校舎焼失。同年4月入学年齢変更、13歳〜19歳とする。
1935(昭和10)年3月宝塚音楽歌劇学校新校舎落成(宝塚市宮ノ下)。1939 (昭和14)年12月宝塚少女歌劇団と学校を分離し、宝塚音楽舞踊学校と改称。
淡島はこの改称された宝塚音楽舞踊学校の第1期生徒ということになるようだ。
そして1941(昭和16)年に宝塚歌劇団に入団し、宝塚歌劇団28期生に属する。この期には彼女同様後に女優となる久慈あさみ南悠子それに、元雪組組長で後俳優の睦千賀らが入団している。
淡島千景の芸名は百人一首源兼昌の「淡路島 かよふ千鳥の なく声に いく夜ね覚めぬ 須磨の関守」(「金葉和歌集」冬288)から採ったもの。
初舞台公演演目は『大やまとの歌』だという。

上掲の画像は、1941年月組 寶塚少女歌劇 歌劇「正行出陣」舞踊「小夜ふく春風」「大やまとの歌」05月宝塚大劇場パンフレット(※4:イマヨシ書店:すみれの本棚【宝塚関係書籍】のビンテージコーナー・脚本集に掲載のものを借用)。
「大やまとの歌(佐保川の歌)」 作詞:坪井正直 作曲:長谷川良夫 歌手若竹 操作詞:坪井正直、作曲長谷川良夫による「大やまとの歌(佐保川砧【きぬた】)を若竹 操(宝塚歌劇団21期生 1932(昭和7)年入学〜1942(昭和17)年に退団)歌唱のもの(昭和16年7月 コロムビア発売SP盤)が聞ける。少々ノイズが入っているが貴重なものなので以下に記しておく。

「大やまとの歌(佐保川の砧) 若竹 操 – YouTube

1941(昭和16)年から1950(昭和25)年までの太平洋戦争を挟んで戦後の占領期に宝塚歌劇団に在籍し、在団中は月組で久慈あさみ、南悠子と同期トリオを結成。2人の男役から愛される美貌の娘役として活躍。
1946(昭和21)年の戦後の月組第1回公演「ローズ・マリー」で主演し、娘役トップになり、1947(昭和22)年 〜 1950(昭和25)年退団まで、月組公演主演は主に淡島が演じたという。
1953(昭和28)年から『少女クラブ』に連載された手塚治虫の少女漫画の代表作の一つで、日本最古のストーリー少女漫画として知られる『リボンの騎士』は、天使・チンクの勘違いによって、男の心と女の心を持つサファイア王女(王子)をヒロイン(ヒーロー)にした作品であるが、このサファイア王女は、淡島が宝塚時代に数回演じた男役をモデルにした、と大ファンだった手塚本人が生前語っていたという。

以下参考に記載の※4:「イマヨシ書店:すみれの本棚(宝塚関係書籍)」の公演パンフ>”戦後から1970までのパンフ”に掲載されている1947年月組 【脚本集】の表紙の人物(上掲のもの)は淡島ではないだろうか?上掲の画像がそれ。

淡島は、1950(昭和25)年に宝塚退団後映画界に転向し、松竹の専属俳優となる。デビュー作の獅子文六原作、渋谷実監督の風刺コメディー「てんやわんや」で社長秘書を軽妙洒脱に演じ、それまでに見られないコメディエンヌぶりを発揮し、第1回ブルー・リボン賞演技賞を受賞している。


上掲の青弓社出版の『淡島千景 女優というプリズム 』表紙の人物が、1950年松竹映画「てんやわんや」出演の淡島千景である。
今風にいえばOL役の淡島千景はセパレーツの水着姿で登場。1950(昭和25)年当時としては、実に大胆であり、何よりもまぶしく健康的であった。
それまでの耐え忍ぶ日本女性のイメージとはまるで違う。明るく自己主張し、好きな男性に好きという、戦後の新しい女性としての登場であった。宝塚ではレビューで鍛えられていたので水着姿も抵抗はなかったといっていたという。
この翌年にも獅子文六原作、渋谷実監督による「自由学校」に出演。「自由学校」とは戦後の自由化された家庭・社会のことを指す。佐分利信演じる南村五百助と高峰三枝子演じる駒子の夫婦は、五百助が辞職して家出したことを切っ掛けに、それぞれ別の道を歩み、様々な人々と交流・交際していくことになる。淡島はおしとやかとは正反対の行動的なアプレ(戦後派)だが、笑顔の可愛い愛すべき現代娘(藤村ユリ)を演じた。この映画に使われた「とんでもハップン」は流行語となり子供も真似した。
この映画化にあたっては渋谷実監督の松竹吉村公三郎監督の大映とが競作。しかも同じ週に封切られると言う異例の作品となった。また、この作品が5月初めの連休に公開され、2作品とも興行成績がよかったため、今日いわれるところの「ゴールデンウィーク」という用語が生まれた。大映ではアプレのユリ役を京マチ子が演じている(この映画の開設は※5を参照されるとよい)。

上掲の画像が映画化された自由学校のシーン写真左が吉村公三郎監督の大映作品。主人公の五百助役を一般から公募、雑誌編集者の小野文春を起用。駒子は小暮美千代、ユリーに起用京マチ子。写真右は、渋谷実監督の松竹版は五百助役に佐分利信、駒子は高峰美枝子、ユリーに淡島千景を起用した。画像は、朝日クロニクル週刊20世紀1951年号より借用。
淡島の凄いのは、現代娘に役を固定させなかったことであった。
木下惠介監督の作品で「カルメン故郷に帰る」(日本初総天然色映画)の続編「カルメン純情す」(1952年。モノクロ、※7参照)ではカルメンの恋する男のフィアンセで男癖が悪い女として描かれている(千鳥)を演じ、1953(昭和28)年の「君の名は」では、岸恵子演じるヒロイン真知子の面倒を見る気風の良い姉御肌の娘(佐渡島・ひさご家の娘で真知子の友人綾)を好演。綾の協力で、真知子は春樹を探し求めることができるが・・・。綾も何となく春樹に惹かれているのだったが、・・・。ラストシーン、淡島千景がひとり数寄屋橋でもの想う。そして「忘却とは忘れ去ることなり」と自分の心にいいきかせるように吐くのは印象的。・・・重要な役割だ。
「君の名は」は織井茂子の主題歌が大ヒットしたことで有名だが、この映画「君の名は・第三部」挿入歌「綾の歌」(作詞:菊田 一夫 作曲:古関 裕而)を淡島が歌っている。宝塚出身の映画スターが輝いていた時代。彼女も負けじと映画で歌を歌っていたのである。

淡島千景 綾の歌(追悼投稿)- YouTube

そして、樋口一葉原作、今井正監督の「にごりえ」(1953年)では明治時代の薄幸の酌婦と役柄を広げていることである。
また、小津安二郎監督による「紀子三部作」(「晩春」「麦秋」「東京物語」)の2作目『麦秋』(1951年)では、紀子(原 節子)の女学校時代の級友で築地の料亭の娘(田村アヤ)を淡島が演じ、まるっきりの深窓のお嬢さんでなく料亭の娘という感じをよく出しており、「早春」(1956年)では平凡なサラリーマン池部 良演じる杉山とは結婚後8年経って、倦怠期に入っている妻昌子を演じているなど日本を代表する監督の名作に立て続けに出演し好演、松竹の看板女優として活躍した。

その後、東宝に招かれ、織田作之助の同名小説を映画化した他社出演第1作「夫婦善哉」(1955年)では、ぐうたらなダメ男柳吉(森繁久彌)に「頼りにしてまっせ」と頼られるしっかり者の姉さん女房役を演じた。
この大阪を舞台にした森繁との名コンビで、彼女は2度目の(第6回)ブルーリボン賞主演女優賞を受賞。戦後日本映画界の全盛期を支えたトップスターの仲間入りを果たした。
しかし、それにしても、淡島が宝塚退団後映画界に転向し、「てんやわんや」で水着姿でデビューした女優は気のいい現代娘から4年経つといつの間にか悲しみを知った着物のよく似合う落ち着いた大人の女性へと変身していたのだから驚かされる。

上掲の画像は、映画「夫婦善哉」(1955年東宝)で森繁と共演の淡島。2012年2月17日朝日新聞掲載のもの借用。
この後、1956(昭和31)年にフリーとなり、以降、各社の映画に出演。
村松梢風が二代目・尾上菊之助の人生を描いた同名小説を、依田義賢が脚色し島耕二が監督した「残菊物語>」(1956年大映カラー総天然色)では、演劇の世界を背景に、一芸をきわめようとする男・二代目尾上菊之助(長谷川一夫)の辛苦と、その為に自らを犠牲とする献身的な女・お徳(淡島)を主題として、清純な愛情の悲劇を描いたものだが、徳の貞女良妻ぶりに心をうたれ泣かされた人が多いのでは・・・・。

上掲のものは、映画パンフレット『残菊物語』 (1956年大映)である。Wikipediaより。
また、古巣松竹で五所平之助監督「黄色いからす」(1957年)では、小学生のいる気のいい母親役を主演し、第15回米国ゴールデングローブ賞 外国語映画賞受賞作品となっている。
この後、特に1960年代の東宝の屋台骨を支えた大ヒットシリーズ喜劇『駅前シリーズ』、成瀬巳喜男監督による女性映画の決定版「妻として女として」(1961年)、橋本忍のオリジナル脚本を堀川弘通監督が映画化したミステリー・サスペンス「白と黒」(1963 年)など東宝の映画に出演し、東宝の看板女優として活躍する。
1963(昭和38)年にはNHK大河ドラマ第一作舟橋 聖一原作の桜田門外の変で暗殺された井伊直弼の生涯を描いた同名の小説をドラマ化した「花の生涯」では、かって同名の映画(「花の生涯 彦根篇 江戸篇」1953年松竹大曾根辰夫監督、主演:松本幸四郎=初代白鸚 )でも評判となった三味線師匠村山たか女役を演じて好評を得た(花の生涯映画のことは、※9参照)。
日本映画の斜陽期にあって、いち早くテレビに進出し多数出演。そして1980年代からは商業演劇の場へと活動の場を広げ、生涯現役の大スターとして息長く活躍を続けてきた。

私のコレクションの中には淡島の舞台のチラシもいろいろあるのだが、その中の一つが上掲のものである。これは東京宝塚劇場公演の「細雪」である。1987 (昭和63)年1月の公演のものと思われる(チラシの整理が悪く年度があやふやだが、1月2日(木)からとなっているのでそうだと思う。数ある中からこのチラシを選んだのには理由がある。それは、以下に書いてある説明など読んで頂けば察しがつくだろう。
近代日本文学を代表する文豪の一人でもある谷崎純一郎関東大震災の後、震災を避けて関西に移転してきたとき、数カ月単位でわが地元兵庫県の神戸京都、神戸と点々と住居をかえるが、1929(昭和4)年に当時の武庫郡住吉村反高林1876-203に建てられた和風木造建築で、1936(昭和11)年11月から1943(昭和18)年11月まで兵庫県神戸市東灘区に建つ現在歴史的建造物となっている倚松庵(いしょうあん)に居住した。1990年(平成2年)に、倚松庵は同じ東灘区内の現在地(東灘区住吉東町1−6−50)に移築されている。

上掲の画像が倚松庵である。 Wikipediaより。

関西の地をこよなく愛した彼の代表作の多くは、京都や阪神間の生活の中から生み出された。
彼の代表昨『細雪』は第二次世界大戦中の1943(昭和18)年に倚松庵に住んでいるときに一部を発表。当局の干渉で中断後、『婦人公論』に連載され昭和21年から23年にかけて出版された。倚松庵は彼の代表作にちなんで「『細雪』の家」とも呼ばれている。庵号は夫人の名前松子に因んでのもの。
小説『細雪』は何度も映画化、舞台化された。昭和の初期大阪・船場、そして芦屋を舞台に描く文豪・谷崎純一郎の最大長編小説の傑作!それがこの舞台にもなっている「細雪」である。
当舞台で公演のものは、菊田一夫作・演出で劇化されたものを1984(昭和59)年に大劇場向きに改定されたものである。
蒔岡家は、徳川時代から続く船場の木綿問屋。かっては、豪商として大阪・船場で鳴らしたこの家も大正末期から没落の一途を辿っていたが、桜の季節には、京都嵐山平安神宮紅枝垂を楽しみ、紅葉盛りには箕面公園で楽しむというブルジョア的な余裕が残っていた。
生家の没落にもめげず、移りゆく古都の四季の中、その美しさを競う4人の姉妹。銀行員の辰夫を婿養子に迎えて本家を継ぐ長女・鶴子を淡島が演じる。次女・幸子を八千草薫が、三女・由紀子を多岐川裕美が、四女・妙子を熊谷直美が演じている。船場言葉を奏でる四人姉妹たち・・・。喜び、哀しみ、支え合うそれぞれの愛・・・人生の詩・・・。時を超えて日本人の心に生き続ける永遠の名作である。
この「細雪」が公演された東京宝塚劇場は、1934(昭和9)年に、宝塚歌劇の東京での拠点となる劇場として誕生した。
この東京宝塚劇場で宝塚歌劇は、年6ヶ月から7ヶ月公演した。他の月は、当時の名優たちの共演、競演の場となり、戦前は芸術座春秋座新国劇東宝劇団など、戦後は東宝歌舞伎や東宝ミュージカルに始まり、様々なジャンルの作品が上演されている。
日本の商業演劇の中枢として活躍した東京宝塚劇場であったが、この「細雪」の舞台公演・1997年1月の1年後の1998(平成10)年1月から老朽化による建て替えのため、64年間の幕を閉じた。そして、2年後の2001(平成113)年1月1日、21世紀の幕開けと共に現在の新東京宝塚劇場がリニューアルオープンした。旧劇場との大きな違いは、宝塚歌劇の通年公演を目的とした宝塚歌劇専用の劇場として生まれ変わったことである。
この淡島ら4名による「細雪」は1998(平成10)年4月に、大阪・梅田の劇場飛天(現:梅田芸術劇場)でも公演されており、そのチラシも持っている。そのチラシはチケット販売に力を入れているのであろう、通常サイズ(B5版)の倍のB4版のものであり、私のスキャナーではコピーが撮れないので、ここでは東京宝塚劇場のものを使った。この劇場飛天のときの四姉妹のうち1名、次女役は八千草薫に代わって池内淳子が演じている。
当劇場の前身は1956(昭和31)年、大阪に開場した「梅田コマスタジアム」である。大阪では梅田花月中座、そして近鉄劇場もなくなり、35年間劇場として西日本一の観客を集めてきた大坂・キタの「梅田コマ劇場」も亡くなってしまうのかと心配していたが、阪急不動産茶屋町ビルに移り、コマ劇場の1.5倍の広さ、東京帝国劇場の9mを越える11mの高さをもつ日本一の舞台となり、名称も「劇場飛天」と改め、大衆演劇から脱皮し、大阪の演劇のルネッサンス(復興)を目指し、こけら落としも森繁久弥らによる「孤愁の岸」(杉本 苑子の同名の直木賞受賞作品の劇化。※10、※11「私の読書感想」の中の杉本苑子「孤愁の岸」参照)の豪華な演目で、華々しく幕開け、その後も、この淡島ら四姉妹による「細雪」などの他芸術性高い演目が公演されてきたのだが、その分料金も高くなり観客数が激減。バブル崩壊や阪神・淡路大震災の直撃もあったが、目的は達成されず挫折。
1992(平成4)年に、名称も元の「梅田コマ劇場」に戻し、入場料もかってのレベルまで、引き下げ、観客の呼び戻しを図ったものの、これも、上手く行かず経営が悪化し、2005(平成17)年4月1日より新たに、「梅田芸術劇場」としてリニューアルされた。後は、クラシック、オペラ、コンサート等、多彩な公演の招聘を図っていくということだったが今はどうなっていることやら・・・。
これは、東京・新宿歌舞伎町のシンボル的存在として親しまれた「新宿コマ劇場」も同様で、再開発のために2008(平成20)年12月31日をもって閉館している。
かっては演芸で栄えた大阪から次々と劇場が消え、今では大阪ではあまり上品とは言えない吉本興業によるドタバタの新喜劇やタレントのみが幅を利かせている。
「細雪」の舞台でかわす四姉妹は船場言葉を使用しているが、かって、そう、私が大阪本町船場)に本社のある商社で仕事をしていた昭和30年代ごろまでは、仕事で使う言葉は、船場言葉が普通であった。
私などは神戸出身なので摂津弁を使っていたが播州弁の影響を受けちょっと汚い言葉も使っていたのでそれを笑われて、すぐに船場言葉を使うように改めたものだ。
俗に大阪弁と言われるものには、今のようなテレビが普及した時代には、テレビなどによく登場する吉本のタレントなどが使っているあまり品の良くない言葉などがそうだと思っている人が多いかもしれないが、「細雪」の舞台を見られた人などは、その違いに驚かされただろう。
かっては今の吉本のタレントの多くが使っているような河内弁などは品がないと笑われたものだ。同じ大阪の芸人でも大阪を代表する喜劇役者藤山寛美などが活躍していた時代の松竹新喜劇で使われていた言葉は、北摂地域の摂津弁か船場言葉といわれるものであった。なにか、芸が廃れると言葉まで悪くなってしまう。芸のともなわないダジャレだけを売り物にするには、汚い言葉での早口があっているのかもしれないが・・・。私など神戸の人間であるが長く大阪で仕事をしてきたものには、昔の言葉が懐かしい。
芸人と言えば、私が持っている、「細雪」のチラシに、1994年3月東京の帝国劇場での公演のものがある。このときの四姉妹も長女淡島、三女・多岐川、四女熊谷は同じなのだが、次女は新玉美千代が演じている。
この新玉は、2001(平成13)年3月17日に亡くなっているが、飛天で次女を演じた池内順子も2010(平成22)年9月26日に亡くなっている。
そして、去年は、芸人だけでも、淡島千景ほか淡島の宝塚時代の先輩、春日野八千代、俳優では、山田五十鈴津島恵子森光子地井武男大滝秀治馬淵晴子小沢昭一三崎千恵子二谷英明桜井せんり安岡力也、それに、歌舞伎俳優の中村雀右衛門中村勘三郎など私達には懐かしい大物俳優が数多く亡くなった。
それに今年は、先日歌舞伎界の十二代目 市川 團十郎まで亡くなってしまった。
今の時代は、俳優と言われる人達でも、舞台などでしっかりと基礎を身につけた人達が少ない。これだけ次々と本当の意味での芸人達が多くなくなってしまうと、これからの芸能界はどんな舞台をやってゆけるのだろう。
もう、映画でもテレビでも本物の時代劇を演じれる人がいなくなってしまったが、これからは、私達とは縁のないテンポの速い踊りや歌を取り入れたミュージカルのようなものが中心になるのだろうね〜。さみしいものだ。
淡島千景のことを書きながら、いつもの調子で、いろいろ脱線してしまったが、最後に、戦後の映画界を背負った女優・淡島千景を以下の歌など聞きながら、偲ぶことにしよう。
以下は松竹映画「お景ちゃんと鞍馬先生」(1952年)の主題歌。作詞:サトウ・ハチロー、 作曲:万城目正「お景ちゃん」(昭和27年販売)。お景ちゃんとはは彼女の宝塚時代からの愛称だ。曲とともに当時の画像が多く紹介されており、彼女のファンには懐かしいだろう。

淡島千景 お景ちゃん(追悼投稿)-YouTube

以下は、寶塚レヴュー『再び君が胸に』(花組、1948年7月1日 〜7月30日、宝塚大劇場) 主題歌『アデューの歌』。堀正旗作詞・ハンガリー民謡・酒井協編曲によるもの。

追悼 淡島千景 宝塚時代のお景ちゃんの歌声 Part 1 「アデューの歌」-YouTube

以下は、寶塚レヴュー「リオで結婚」(月組,1949年9月1日〜9月29日、宝塚大劇場)の主題歌集から『ロザリーの歌・いつも三人』。天城月江・淡島千景 久慈あさみ南悠子 。歌詞・セリフ入り。

追悼 淡島千景 久慈あさみ ロザリーの歌・いつもの三人 -YouTube

(冒頭の画像は平成8年度文化庁芸術祭参加作品。三越劇場10月公演『江戸コメディー花色の家』画像は、淡島千景と菅井きん。コレクションのちらしより。)
参考:
※1:宝塚音楽学校
http://www.tms.ac.jp/
※2:宝塚温泉
http://www.h-wakamizu.com/takarazuka/story/page01.html
※3:福田信子 浮れ達磨 - YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=HN7vYiQChw4
※4:イマヨシ書店:すみれの本棚(宝塚関係書籍)
http://kobe-kosho.com/list_takara/
※5:自由学校 (1951): お楽しみはココからだ〜 映画をもっと楽しむ方法
http://otanocinema.cocolog-nifty.com/blog/2012/05/1951-2e98.html
※6:善魔 : 作品情報 - 映画.com
http://eiga.com/movie/37546/
※7:カルメン純情す(1952)|日本映画ブログ
http://ameblo.jp/runupgo/entry-11093330866.html
※8:幻映画館(91)「早春」
http://blog.livedoor.jp/michikusa05/archives/51634753.html
※9:日本映画の感想文花の生涯
http://home.f05.itscom.net/kota2/jmov/2007_01/070133.html
※10:私の読書感想: 歴史小説・日本文化論と史実近世篇14
http://blog.zaq.ne.jp/mura339/category/22/
※11:私の読書感想: 歴史小説・日本文化論と史実近世篇15
http://blog.zaq.ne.jp/mura339/category/23/
谷崎潤一郎の神戸を歩く
http://www.tokyo-kurenaidan.com/tanizaki-kobe1.htm
淡島千景 - goo 映画
http://movie.goo.ne.jp/cast/c90594/index.html
宝塚歌劇
http://kageki.hankyu.co.jp/html/index.html
宝塚DVD特集
http://takarazukakagekidan.blog.fc2.com/blog-date-201106-86.html
Category:宝塚歌劇団
http://ja.wikipedia.org/wiki/Category:%E5%AE%9D%E5%A1%9A%E6%AD%8C%E5%8A%87%E5%9B%A3
淡島千景 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B7%A1%E5%B3%B6%E5%8D%83%E6%99%AF

未来郵便の日

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日本記念日協会(※1)に登録されている今日・3月1日の記念日に「未来郵便の日」がある。
記念日は、未来に向けて発信し、5年後、10年後の指定した日に届く未来郵便制度を発足させた長野県下水内郡栄村の栄村国際絵手紙タイムカプセル館(※2)と、その運営を手がける絵手紙株式会社(※3)が制定したもの。日付は3と1で「みらい」と読む語呂合わせからで、「未来に届ける大切なメッセージ」という公募展などを開催している。

未来に向けて発信し、5年後、10年後の指定した日に届く未来郵便制度・・・なんとなくロマンがあって面白いじゃないですか・・・!
そこで、「未来郵便」とはどんなものか・・・。栄村国際絵手紙タイムカプセル館を覗いてみたら、以下のように書かれていた。
“未来郵便とは、絵手紙手紙で「今」の想いを「未来」へと託すことができる、新しいシステムです。
例えば、「20歳の自分へ手紙を送る」「10年後の息子・娘へ手紙を送る」「遠い未来へ友達とタイムカプセルを送りたい」「天国からのメッセージを残したい」など、様々なシーンで未来へ手紙や大切な物を残せたら、どんなに素敵なことでしょう。
絵手紙を、何年か後の自分や家族に届けてみたい・・・。次世代を担う子どもや孫たちを絵手紙で応援したい・・・。そんな夢が未来ゆうびんシステムで実現します。
近い未来ならばお誕生日、記念日、自分を励ます絵手紙などに、ちょっと遠い未来ならば大切なご家族やお孫さんへのメッセージとして・・・。どなたでもお気軽にご利用いただけます。”・・・と。
料金は、基本料500円(1通につき)。預かりから半年以内に届ける場合は加算金0であるが、預かり日から1年以上(以後1年ごとに)50円加算となっている。
預けることができる絵手紙は、はがき、大判はがき、定型封筒に入ったもの(25gまで)までだが、これらは、指定された日に「未来ゆうびん専用封筒」に入れてタイムカプセル館から郵送されるそうだ。
それぞれの年代や立場でいろいろな使い方があるだろうが、もう年齢的にも先の長くない私などは、どのようなことに使ってみたらよいのかな〜・・・。
いま、私は、来るべき時に慌てないために、ぼちぼちと身辺の整理をすると共に、エンディング・ノート作りも始めようと準備をしているところだが、いざ、その時になると一番気になるだろうと思うことは、もう、息子一家については、経済的には問題ないだろうし、孫の教育面もうまくいっているようで、後は健康面以外何も心配することはないだろう。
残る心配事は、私が亡くなった後に一人残されることになる、長年連れ添ってきた家人のことである。
私の家の方も幸いに、経済面では一応最低限の用意はしてあるので、一人になった家人が気を落とさず元気で気丈に生きて行ってくれることだけが気がかりである。
だから、エンディング・ノートにはそのことを書いておくつもりだが、それとは別に、後に残った家人を勇気づけるためのメッセージなどを事前に用意しておいて、私の寿命ももう、終わりだ、・・・と思った時に、用意しておいたものを預けておいて、翌年の家人の誕生日などに生きていた時の感謝の気持ちと、これからも元気で生きていくよう励ましのメッセージを届けられると良いな〜、などと今思いついたのだが、これはちょっと、機関へ預けるタイミングなどが難しいかもね〜。
でも、もしできたらいいな〜。私のような年代の者には、生きているうちは、なかなか感謝の気持ちなど口に出して言えないものだが、このような方法なら素直に感謝の気持ちを表せるもの。皆さんならどのように使いますか?

ところで、今日の記念日については、長野県の栄村絵手紙との関係が深いようだ。
絵手紙とは、手紙の一種で「絵のある手紙を書き送ること」であるが、その基本は手書きであり、はがきに花や野菜など、身近にあるものを素材にして書き、絵手紙を送る相手に最も伝えたい気持ちを短い言葉で添えたものである。
Wikipediaによれば、この「絵手紙」というジャンルが確立されたきっかけは、書道家の小池邦夫(※4参照)が1978(昭和53)年から1979(昭和54)年にかけて、芸術誌「季刊 銀花」(文化出版局)へ綴じ込み企画として、6万枚の直筆絵手紙を発表したこと・・・とされているようだ。
そのモットーは、「ヘタでいい・ヘタがいい」。 テクニックよりも、自分らしさがハガキの中に出ているかどうかを大切にする。 また、「手紙」という性質上、絵手紙といっても、あくまで、絵は添え物であって、言葉(かき手の気持ち)の方が重視されるという。

長野県下水内郡の栄村は、長野県の最北端、新潟県と接する地にあり、国勢調査によれば、栄村(に該当する地域)の人口は2005年、2,488人、2010年2,215人と、過疎化の続いている小さな山村である。
しかも、山々に囲まれたこの地域は、日本有数の豪雪地帯であり、特別豪雪地帯の指定を受けているようなところでもある。
それなのに、どうして、このような雪の深い、僻地の小さな山村で、このようなユニークな運動を始めることになったのだろう。
そのきっかけは、1995(平成7)年のこと。人口わずか2,500人余り(1995年国勢調査人口2,896人)の雪深い信州のこの小さな山里に、なんと1万2000人もの人が訪れるというまさに大事件が起ったのだという。
このとき、山路智恵さんという1人の少女の絵手紙展が開かれたそうだ。
彼女は、小学校1年の入学式の日から、絵手紙の創始者である小池邦夫に絵手紙を送り続け、6年生で連日2千日送り続けたという。
これを記念して東京・大崎ウエストギャラリー(※5)で開かれた絵手紙展を見て、大いに感激した村の公社職員が、この感動を村の人にも味わってほしいと、実行委員会を立ち上げ、小さな村で山路智恵さんの絵手紙展を実現したら、会場の栄村物産館には、村内外から1万2000人もの人が訪れてくれたのだそうだ。
この山路智恵絵手紙展の大成功で盛り上がった実行委員会は、今度は全国公募展を計画。1996年に『小ちゃなしあわせ展』を実現。
全国の市町村に村民自ら手描きの絵手紙を添えて呼びかけ1万2500通が寄せられ、この絵手紙展に全国から2万人もの人たちが栄村を訪ねてくれたという。
この絵手紙展をきっかけに、村の中に絵手紙愛好者が広がり、絵手紙に心ひかれた女性たちがグループ(ふきのとうの会)を作り、村内のお年寄り世帯に少しでも何かのお役に立てばと、絵手紙で「元気訪問」を始めたそうだ。
また、『小ちゃなしあわせ』展の終了後、今度は2年後にひかえた『長野オリンピック』に絵手紙で参加しようと、長野オリンピック冬季競技大会組織委員会(NAOC)に文化プログラムを申請。ほかにも外務省、郵政省、自治省、文化庁、国土庁、長野県に名義後援を申請。その結果、長野オリンピックおよびパラリンピックの文化プログラムとして採択されたことから、スタッフは在日の大使館にも協力を要請し、努力の結果として、応募総数も8万枚をこえ、海外からも1万9000通もの応募があったという。
だれでもが参加できるこの絵手紙のオリンピック後、
2002年には、日中友好30周年記念(※6)行事『10万通日中絵手紙展』を日本絵手紙協会(※7)と蘇州市とで共催するまでになる。
2003年には、村民有志が『栄村絵手紙・芽吹きの会』を設立し会員を募集。2004年には、森宮野原駅交流館オープン記念として、山路智恵絵手紙展『再会のさくら展』を開催する。

上掲は森宮野原駅。ここに交流館はある。拡大画像参照。Wikipediaより。
その後も、蘇州市、日本絵手紙協会主催の各絵手紙展企画に参加し、村内で展示。蘇州市使節団が来村するなど、中国との交流を深めてきたようだ。
そして2007(平成19)年7月。栄村に、日本絵手紙協会の活動を通して寄せられた全絵手紙を収蔵するタイムカプセル館が、そして『絵手紙の村 栄村』のきっかけを作ってくれた山路智恵さんの絵手紙美術館ができる。
2010年7月には、念願の展示室・新館が完成。また、新規事業として、『未来郵便』を立ち上げたそうで、記念日登録もこの年にされているようだ。
そして、雪深い僻地の小さな山村にある、タイムカプセル館は、今、栄村の過去・現在・未来の架け橋としての役割を担っているのだという。

なかなかいい話ではないか・・・・。「わが村は僻地の小さな村でどうのこうの・・・・」といった泣き言はよく聞くが、このようにして、今では2千人少々(2010年国勢調査人口2,215人)しかいない小さな村で、おそらくはその大半がお年寄りだと思うのだが、村の人が一致団結して、人口の10倍もの人を呼び込むイベントをしているというのは実に頼もしいものだ。・・・、これはもう、立派な村興しだが、この村の偉いところはこれだけにはとどまらないようだ。
この小さな栄村では、なんでも、補助金に頼らない田直し事業や、山間に「下駄履きヘルパー」を派遣する事業が実施されるなど、過疎地に合わせた政策を展開し、中央政権による一律(高基準)な補助金を受け続けた場合、「補助金はあくまで補助であるため、当地の財政は破綻する」と考えた村長が、独自の政策を掲げた運営をしてきている(Wikipedia)・・・というのだ。なかなか自立心の高い地域である(※8の栄村の取り組み参照)。どこの地域も見習って欲しいものだ。
東京・大崎ウエストギャラリーでは、今年・2013(平成25)年も、2月15日(金)〜22日(金)にかけて「絵手紙フェスティバル 2013」が開催され、会期中はさまざまな講演会・体験教室が企画されているようだ(※5)参照。

タイムカプセルと言えば、日本で知られるものとしては、アジア初であり、日本で最初の国際博覧会である1970(昭和45)年の日本万国博覧会の年に、松下電器(現・パナソニック)と毎日新聞により企画、製作され大阪城公園に埋められたタイムカプセルがある。これは、5,000年後の6,970年に開封予定のものである。

上掲の画像は、パナソニックと毎日新聞が大阪万博の年に設置したタイムカプセルのモニュメント。現物はこの地下にある(画像はWikipediaより)。
この「タイムカプセル」という用語の登場は、Wikipedia によれば、1939年のニューヨーク万国博覧会とされているようだが、貴重品を後世のために隠しておくというアイデアは、遠くメソポタミア文明にまで遡り、メソポタミアの都市遺跡(ウルク)の城壁の中に隠されていた小部屋の中から5,000年前の箱が発見されているなど、神殿や城塞の建設時に記念物を埋めることが行われてきたという。
現存する人類最古の文学であるギルガメシュ叙事詩の冒頭は、このウルクの城壁の礎石の中にある銅の箱の見つけ方から始まる。
この箱にラピス・ラズリ銘板に書かれたギルガメシュの物語が保管されており、ここから彼の物語が語られる(※9、※10参照)。
このようなタイムカプセルに物を入れ、何千年も先になって昔を懐かしむのも、それはそれでよいかもしれないが、もう少し、早く、自分たちの生きている間に小包や郵便のような形で見る方がより、楽しいのではないか?・・・と、考えても不思議はない。
1985(昭和60)年に「人間・居住・環境と科学技術」をテーマに、茨城県つくば市で行われた国際科学技術博覧会(略称:科学万博、つくば '85、Tsukuba Expo '85など)では、郵政省による「ポストカプセル2001」という企画が行われていたのを思い出す。
これは、科学万博郵便局内に設置した専用ポストへ投函したか、または、ポストカプセル郵便であることを明記した手紙が、16年後の21世紀最初の元日である2001(平成13)年1月1日に届くというものであった。
いわば郵便局版のタイムカプセルともいうべきものだが、Wikipediaによれば、当日には、326万636通の郵便物が配達されたそうだ。これらの郵便物は、配達までは筑波学園郵便局で保管されていたそうだ(※11参照)。

郵便とは、書状・はがきや荷物などを宛先の人に送り届ける通信事業の仕組みのことであるが、近代日本の郵便制度は1871(明治4)年に、その先駆けであるイギリスの郵便制度を参考に前島密により導入された。
官営事業から2003(平成15)年には、日本郵政公社として公社化され、2007(同19)年、郵政民営化により、日本郵政グループへと引き継がれた。
郵政事業は現在では郵便、郵便貯金郵便保険(簡易保険)の三事業であり、これら郵政三事業は、日本各地に設置されている郵便局を通じて、広く国民にサービスを提供している。
ただ、郵貯銀行と郵便保険会社については完全民営化されるが、郵便事業会社と郵便局会社の株式は日本郵政株式会社が全株(100%)を保持し続けるようだ。
もっとも、郵政民営化の本当の目的は郵貯・簡保の改革にあったことから、これはこれでよいとしなければいけないのかもしれないが、現在のイギリスでは、郵便は、窓口会社、郵便会社、小包会社などと分割されており(ロイヤルメール参照)それぞれが採算に合っているとも聞くのだが・・・。日本の郵便事業はこれからどうなるのだろうかな〜。

「未来郵便」は、土に埋めないタイムカプセル・・ともいうべきものだが、今日の記念日設定をした栄村の未来郵便には私も賛同し、参加したいのだが、絵葉書にこだわられると、私のような性格のものにはなかなか難しい。
なにも難しく考えなくても、「ヘタでいい・ヘタがいい」・・・の気持ちで、素直に書くからかえってその人独特の味わいのあるものになる・・というが、それにしても、ある程度練習をしないと、私などはどうしても、「はずかしい」・・という気持ちから、抜けられない。
そこで、絵手紙でなくてもよい、同種のものがないか・・・と、ネットで検索してみると、今は、いろいろなところが未来郵便を取り扱っている。
以下の(イ)(ロ)などは、一応、特定非営利活動法人(NPO法人)としての運営ということになっている。(ハ)は、そうではない普通の業者である。

(イ)タイムカプセル郵便みらいねっと
http://npo-mirainet.com/
(ロ)特定非営利活動法人みらいぽすと
http://miraipost.com/
(ハ)フューチャーポスタルサービス未来郵便
http://mirai-yubin.com/index.html

(イ)は、その業務を「はがきや手紙などの一時保管・発送代行サービス」、(ロ)は、「郵便配達代行業」、(ハ)は、「お手紙、物品等の一時保管、関連商品の販売、ホームページ制作」となっている。

皆さん「手紙」のことを「信書」とも呼びますよね。
「信書」は通信手段であり、日本国憲法が保障する通信の秘密を保護する必要があることから、「信書」についての秘密を侵すことは禁止されている。
この信書は、郵便法第4条2項で「特定の受取人に対し、差出人の意思を表示し、又は事実を通知する文書」(※12参照) と規定されており、また、総務省は「信書のガイドライン」を定め、区分を行なうための基準を示している。
手紙のほかに、請求書・結婚式の招待状、免許証・表彰状・印鑑証明書などが該当し、新聞・雑誌・カタログ、株券・商品券・航空券、キャッシュカード・ポイントカードなどは該当しない(詳細は※13の信書のガイドライン参照)。
この信書の送達事業は、従来、郵便法により、国(郵便事業会社)の独占とされてきたところ、「民間事業者による信書の送達に関する法律」(平成14年法律第99号。以下「信書便法」という。)により、信書便事業への参入が許可された民間事業者も信書便を送達することが可能となった(※※13参照)。
信書便事業には「一般信書便事業」と「特定信書便事業」の2種類があり、平成15年4月の同法施行以降、一般信書便事業については参入がないものの、特定信書便事業については、346者(平成23年3月末現在)が参入している。
特定信書便事業は、創意工夫を凝らした多様なサービスを提供する「特定サービス型」の事業で、次に掲げる特定信書便役務のいずれかを充たす必要がある(詳しくは、※13にリンクされている特定信書便事業のご案内を参照)。
1.長さ、幅及び厚さの合計が90cmを超え、又は重量が4kgを超える信書便物を送達する役務
2.信書便物が差し出された時から3時間以内に当該信書便物を送達する役務
3.料金の額が1,000円を超える信書便の役務
よって、それ以外の、総務大臣の許可を受けていない宅配便業者などが信書を配達することはできないことになっており、一般の宅配便、メール便は郵便事業、信書便事業には該当しない。

簡単に信書便事業制度の概要を見てきたが、それでは、上記の(1)〜(3)などの「未来郵便」 は、どういうことになるのだろう。
NPO法人として運営している上記(1)は、「一時保管・発送代行サービス」、(2)も「郵便配達代行業」としており、(3)の民間会社は、「手紙や、物品等の一時保管と、関連商品の販売、ホームページ制作」を業務としている。
しかし、この未来郵便の取り扱いや、配送など、その取扱いは、料金に若干の差はあるものの、いずれも基本的には同じような内容である。
他にも同様の業種がたくさんあるが、いずれも基本的には同じようなものだろうから、結局は、、プライバシーの確保や倒産リスクの回避。それに、20年後の配達といったような、配達されるまで、長期間預けておくような場合には、事故や災害なども含めた適切な保管や、誤りのない配達が保障されているか・・といったような信用力が、一番の問題となってくるのであろう。
「未来郵便」・・・なかなか面白いそうで興味が湧くが、どこを利用するかは、慎重に選んだ方がよさそうだね〜。

冒頭の画像は、マイコレクションのメルパルク福岡の貯金箱)
参考:
日本記念日協会ホームページ(※1)
http://www.kinenbi.gr.jp/index2.html
※2:栄村国際絵手紙タイムカプセル館
http://www.etegami-goods.co.jp/
※3:絵手紙株式会社
http://www.etegami-shop.net/
※4:小池邦夫絵手紙美術館
http://www15.ocn.ne.jp/~o-k.muse/koike.html
※5:大崎ウエストギャラリー(貸しギャラリー・貸しスペース)
http://www.space-gallery.net/
※6:日中平和友好条約締結30周年記念レセプション/麻生総理挨拶
http://www.mofa.go.jp/mofaj/press/enzetsu/20/easo_1024.html
※7:日本絵手紙協会
http://www.etegami.or.jp/
※8:長野県栄村公式サイト
http://www.vill.sakae.nagano.jp/index.html
※9:ギルガメッシュ
http://www.wellon.co.jp/kgirugameshu.html
※10:異訳ギルガメシュ叙事詩
http://www8.ocn.ne.jp/~nomutyan/java/yanakiz.html
※11:筑波学園郵便局のポストカプセル よみがえる科学万博-つくば'85
http://ibaraki-daisuki.main.jp/expo85/03_postcapsule_050221.htm
※12:郵便法(昭和二十二年十二月十二日法律第百六十五号)
http://law.e-gov.go.jp/htmldata/S22/S22HO165.html
※13:総務省信書便事業のページ
http://www.soumu.go.jp/yusei/shinsyo_top.html
※14:信書便事業をめぐる現状と課題 - 参議院(Adobe PDF)
http://www.sangiin.go.jp/japanese/annai/chousa/rippou_chousa/backnumber/2011pdf/20111003113.pdf#search='%E4%BF%A1%E6%9B%B8%E4%BE%BF%E5%88%B6%E5%BA%A6+%E6%9C%AA%E6%9D%A5%E9%83%B5%E4%BE%BF'
郵便 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%83%B5%E4%BE%BF

ミニーマウスのひな祭り

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3月2日は「ミニーマウスの日」だそうだ。
オシャレで女の子らしく、楽しいことが大好きなミニーマウスの魅力を伝え、ミニーマウスとデイジーダックのように仲良しの女ともだち同士が素敵な時間を過ごすことを応援する目的で、ウォルト・ディズニー・ジャパン株式会社が制定したものだそうだ。
日付は3と2で「ミニー」と読む語呂合わせと、女の子がオシャレを楽しみ輝く早春であり、女の子の節句「ひな祭り」と同じ時期などからだとか・・・。
ミニーマウス (Minnie Mouse) はミッキーマウスの恋人として登場するディズニーアニメのキャラクター。女の子であるが、多くの作品にミッキーマウスと共に出演している。頭にはリボン、もしくは1輪の花のついた帽子をつけている。
それで、今日は、私の貯金箱のコレクションんの中から、三菱銀行(現:三菱東京UFJ銀行)の貯金箱(※1「よーさんのガラクタ部屋」のここ参照)ミッキーとミニーに出場してもらうことにした。

1950年代後半から60年代前半にかけ、都市銀行をはじめとする各金融機関は、個人預金を獲得するために個人向け金融商品を競って開発し、新規商品がでると各機関がこれに追随し、さらに新しい商品が生まれていった。
競争は、商品だけではなく、サービスの部門でも行なわれた。
こうした動きの中で、オリジナルのマスコットキャラクターを展開する流れが生まれた。
そんな中、三菱銀行は、1961(昭和36)年11月から、他行に先駆けて「ブーチャン貯金箱」(※2参照)の配布を開始した。
これは、以前はマッチやカレンダーなどに限られていた、金融機関が配布できる景品に、1954(昭和29)年に「貯金箱」が新たに加えられたのを受けたものである。
なお、このブーチャン」とは、当時NHK総合で放送されていた人気テレビ番組「「ブーフーウー」からヒントを得た子ブタのキャラクターであり、1年間で150万個が配布されるなど、人気となった。その後、このブーチャンは三菱銀行の親しみやすさを象徴するキャラクターとして、ポスターやチラシなどに採用された。
また、その年の12月1日には、当時三菱地所東映が協力して行っていた、日本へのディズニーランド誘致に呼応する形で、ディズニー・プロダクションズ(現:ウォルト・ディズニー・カンパニー)と版権契約を結び、ディズニーキャラクターを使用した「絵入り通帳」の取り扱いを開始した。
日本へのディズニーランド誘致は、結局三菱地所と競合していた三井不動産京成電鉄連合が権益を獲得したものの、ブーチャンと同様に、ディズニーキャラクターは、三菱銀行の親しみやすさを示す象徴となった。
なお、当時は、普通預金と積立預金の2種類の通帳が用意され、普通預金には「ディズニー預金」という名前が付けられた。また、キャラクターは、ドナルドダックバンビシンデレラピノキオなどが採用された。
また、1963(昭和38)年1月からは、「ディズニー貯金箱シリーズ」が始まり、第1号である「ドナルドダック」の貯金箱が配布された。
バブル経済の崩壊とともに金融界は再編の動きを見せ始め次々と提携・合併が相次ぎ、その都度名前が次々変わるものだからかっての銀行が今は何銀行だかわからなくさえなっている(※3参照)。
そのような兆しが見え始めた時に、記念にと思って集めたのが銀行の貯金箱であった。それは私のHP※1:「よーさんのガラクタ部屋」のColectionRoom1貯金箱貯金箱 の中の銀行のものを参照ください。 
銀行の貯金箱の話は、それまでとして、ミッキーとミニーには明日はひな祭りなので内裏雛(だいりびな)になったつもりで写真を撮っってもらった。

♪今日はたのしい ひな祭り お内裏様と おひな様二人ならんで すまし顔

作詞:山野三郎、作曲:河村光陽の童謡「うれしいひなまつり

山野三郎は、サトウハチロー の別名。
内裏雛とは天皇と皇后を表す一対の雛人形で、段飾りにおいては最上段に飾られる。
サトウハチローが作詞した楽曲の中では最もよく歌われるものの一つともいわれるが、この歌で男雛と女雛を「お内裏様とお雛様」と呼ぶのはこの歌から広まった誤用であり、作詞したサトウハチロー自身ははこうした誤りを気にして、晩年までこの曲を嫌っていたという。

ミッキー:それにしても、ミニーちゃん、壇上に並ぶときは男雛の僕が左で、女雛のミニーちゃんは右に並んでくれないと・・・。並び方が違うよ・・・」
ミニー :なに言ってんのよ・・・。あなた古いわね・・・」
ミッキー:僕が初めて日本へ観光に来て、日本の伝統文化の中心地である京都へ行ったとき、京都では男雛が左に並んでいたよ。」
ミニー :だから、古いと言っているの。日本は古来から、左は右より格が高いとされ、お内裏さまはお雛さまの左、つまり向かって右にお座りになられていた。京雛の位置は、御所における玉座の位置に基づいているのよ。
だから、京雛(※4参照)は、古来の慣わしに従ってお内裏さまが向かって右側(左)にお座りになっている。
現在一般的な関東雛は、向かって左にお内裏さまがお座りになっているが、なぜ関東雛はお内裏さまが左側になったのか。それにはわけがあるの。
ミッキー:どうしてだい。日本の伝統に従って、京雛と同じように、関東でも、男雛が左に座ればいいじゃないか・・・。
ミニー :それが、右に座るようになったのは、大正天皇が関係しているとされているのよ。
明治時代、西洋の流れを受けて国際儀礼(※5参照)である「右が上位」の考え方が取り入れられるようになり、大正天皇が即位の礼で、洋装の天皇陛下が西洋のスタイルで皇后陛下の右に立たれた事からこの風習が広まったとされているのよ。
そして、明治天皇の時代から皇居は東京に移っていたから関東を中心にこのご即位時のスタイルが定番となってゆき、今では 全国的にこのスタイルが主流となっているのよ。
ミッキー:ふーん。そうか〜。
ミニー :な〜に。私が、左に座ると不満なの。私たちは、アメリカ生まれで、日本生まれではないでしょ。だから、さっきも言ったように、西洋流は、右が上位なのだし、あなたにとっても不満はないでしょ・・・。
ミッキー:そういわれれば、そうだね。じゃ〜3月3日のひな祭りにこの写真を堂々と人に見せられるんだね。・・・ウキウキ!・・・。
いつもミニーには頭が上がらないミッキーでした。

参考:
※1:よーさんのガラクタ部屋
http://www.hi-net.zaq.ne.jp/yousan/
※2:ソフトビニール製キャラクター景品貯金箱? - NipponStyle
http://www.nipponstyle.jp/column/nttr/column_15.html
※3:銀行の提携・合併リスト(全国銀行協会)
http://www.zenginkyo.or.jp/inquiry/affiliation/
※4:雛人形(京雛) - 人形の佳月
http://www.kagetsu-doll.com/hina/index.htm
※ 5: 国際儀礼
http://www2.aia.pref.aichi.jp/kikaku/j/sonota/kokusaigirei.html
動く貯金箱 ディズニーの家 - YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=cCOa6kWlAZY

メンチカツの日

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日本記念日協会(※1)に登録されている今日・3月7日の記念日に「メンチカツの日」がある。
記念日は、コロッケメンチカツをはじめとして、各種の冷凍食品の製造販売を手がけ、全国の量販店、コンビニ、外食産業などに流通させている香川県三豊市の株式会社「味のちぬや」(※2)が制定した日。
日付は関西ではメンチカツのことをミンチカツと呼ぶところも多く、3と7で「ミンチ」と読む語呂合わせから。また、受験シーズンにメンチカツを食べて受験に勝ってほしいとの願いも込められているそうだ。

冷凍食品は水分や油脂が凍結・凝固する程の低温にすることで微生物の活動を抑え、長期間にわたって保存できるのが特徴である。
冷凍食品とはどんなものか?については、食品衛生法」や、「農林物資の規格化及び品質表示の適正化に関する法律(JAS法)」など各食品等関連法令において定められており、「食品衛生法」では、保存基準として、包装して零下15℃以下、JAS法では、−18℃以下で保存を規定している。
また、冷凍食品を製造する日本の企業・団体をおもな会員とする農林水産省所管の社団法人である日本冷凍食品協会(※3)の自主的取扱基準における冷凍食品の定義は「前処理を施し、品温が零下18℃以下になるように急速凍結し、包装することにより、生産から流通・消費の段階まで一貫してそのまま(−18℃以下)の低温を保って取り扱われる食品」としている(詳しくは※3の冷凍食品認定制度のための品質管理の手引き参照)。
冷凍食品にして食品を保存することを一般にフリージング(freezing)とよんでいる。
急速凍結(最大−30℃以下が望ましい)することで食品の鮮度が長期間(マイナス18℃以下であれば製造後1年程度)保つように配慮されているのが冷凍食品メーカー(※3:「日本冷凍食品協会」の会員名簿参照)などが製造している冷凍食品である。
しかし、家庭用の冷蔵庫での緩慢凍結で作られたものでは解凍時に鮮度が落ち、-18℃以下に保ち続けることが難しいため、保存も2〜3ヶ月を目処にすることが望ましいとされている。

この冷凍食品、1900年代頃にアメリカにおいて、あまり日持ちのしないジャム加工用のイチゴを輸送に適するために冷凍にしたのが興りだと言われているそうだ。
しかし、当初は、冷凍技術の問題や適切な解凍方法がないことから普及はしなかったが、その後の急速冷凍技術の開発等もあり本格的に冷凍食品が広く普及したのは1960年代(日本では1965年)以降のことである。
日本では1964(昭和39)年の東京オリンピックを機に、冷凍食品に適した解凍、調理法が研究され、外食産業分野で利用が始まった。
1970年代には、冷凍冷蔵庫や電子レンジの普及、セントラルキッチン方式のファミリーレストランチェーンの拡大により、業務用とも大きな伸びを示すようになった。
また1980年代以降には電子レンジの低価格化に伴う家庭への普及があり、同時に家庭用の冷凍食品も広く受け入れられるようになった。 
そして、技術の向上によって冷凍食品の種類も多様化し、今日では、喫茶店等で出されるモーニングセットなどでも利用され、これらの業社向けのものが業務用冷凍食品として流通している。
ここ数年、冷凍食品の世界は随分と進化しているようだが、現在、とくに注目されているのは、「自然解凍」というキーワードである。朝、凍ったまま弁当に入れると、お昼頃には解凍され、おいしく食べられるという商品であり、特に子供が学校に弁当を持って行くという家庭に人気になっている。
その上、ひと昔前の冷凍食品のイメージと違って、最近では、製造技術が進化し、また、有名ホテルを含む名店や名調理人の名前を冠し、味をそのままに冷凍した高級志向の冷凍食品も登場しているなど、「冷凍だからおいしい」という時代にもなりつつあり、自然解凍の食材は、子供の世界だけでなく、サラリーマンの弁当にも好評のようだと聞く。また、電子レンジを使わないので、節電という意味でも注目を集めているようだ。
調理済みないしは、下ごしらえ済みであるため調理の省力化に役立つことから、飲食店から一般家庭まで広く普及している冷凍食品。
この冷凍食品業界は、ニチロ食品、味の素冷凍食品、極洋、日東ベスト、キユーピー、ヤヨイ食品、日本水産など大手水産や業務用専業メーカーがシェアー争いの上位を競っている(※4:の冷凍食品の販売集中度参照)。
こうしたシェア争いの裏側では、過当競争による収益力の低下が深刻な問題になっている。特に,家庭用は量販店の目玉商品として4〜5割引が常態化しており、こうしたなか、大手メーカーを中心に分社化や内外企業との提携、中国をはじめとする海外生産拠点の確立など、グループ戦略の強化と業界再編の動きが活発化したており、最近では、加ト吉が、2008(平成20)年にJTの子会社となっている。
これらメーカーによる、国内生産量上位20品目を※3:日本冷凍食品協会の統計資料で見てみると、2011(平成23)年も、第1位はコロッケ、第2位はうどんであり、3位ハンバーグ、そして、カツが6位 となっているが、今日のテーマーであるメンチカツは20位までに入ってはいない(ここ参照)。
また、今日の記念日を登録した味のちぬやが、冷凍食品業界のどのくらいのシェアーを確保しているのかは知らないが、全国の量販店、惣菜、コンビニ、製パン、給食、外食など幅広いルートで冷凍食品を販売しているという味のちぬやのHPを見ると、同社は、これら冷凍食品の中でも、コロッケとメンチカツの販売に特化して、冷凍コロッケ、メンチカツのシェアー日本一を目指して日々営業活動をしているらしい。

日本における洋食は、幕末から明治期にかけて、西洋人のために開店した西洋料理店の料理がルーツである。
日本では獣肉食を忌避する習慣があったため、牛肉や豚肉を主体とする西洋料理は抵抗が大きかったが、明治政府が国民の体格向上のため肉食を奨励し、また明治天皇が自ら率先する形で、賄い方に命じ牛肉を膳に上せられたという新聞報道などもあり(※5参照)、庶民のあいだでも徐々に牛鍋などの形で肉食が広まっていった。
しかし、明治時代の日本において、西洋料理の食材を完全に揃えることは困難で、しばしば代用品が使われた。また日本人向けにアレンジが加えられたり、新たな創案が加わった。
そうして生まれた洋食に、カレーライスや、カキフライエビフライオムライスなどと共にコロッケが挙げられる。
そのほか、人気のあったものにカツ( カツレツとも呼ぶ)があった。
1897(明治30)年、和洋折衷料理という言葉が流行。Wikipediaによれば、東京には洋食店が1500店を数えたという。このうち、東京銀座の「煉瓦亭」は、ソテー料理であったカツレツを大量の油で揚げる調理法によって改良を行い、その後に大流行する「とんかつ(豚カツ)」など日本の洋食に大きな影響を与えた。

ワイフ貰つて、嬉しかつたが
何時も出てくるおかずはコロツケ
今日もコロツケ 明日もコロツケ
これじや年がら年中 コロツケ
アハハハ、アハハハ こりや可笑し

1917(大正6)年5月、浅草オペラで歌われた『コロッケの唄』が大流行した。
鈴木ヤスシと、南地みつ春による懐メロ版のコロッケの唄が以下のYouTubeで聞ける。面白い歌だよ。

コロッケの唄 - YouTube

憧れの西洋料理は今日も明日も食卓に上り、ついに家庭の味となった。
1903 (明治36) 年1月から1年間、報知新聞に連載され、大人気を博したことで単行本としても刊行されると、空前の大ベストセラーにもなった村井弦斎作品で、食道楽をテーマにした物語『食道樂』秋の巻にコロッケのレシピが掲載されている(※6:「『食道樂』 - 国立国会図書館」秋の巻154ページ参照)。
明治の洋食として日本に伝わった「コロッケ」のルーツはオランダにさかのぼるという。
蔵書の『朝日クロニクル週刊20世紀』(1917年号)によれば、「コロッケ」のもともとの語源はドライクッキーを意味するフランス語の「croquette(クロケット)」であり、お菓子としてオランダに渡来した後、クリームソースに牛挽肉を混ぜた立派な料理に育った。
作詩・作曲者は益田太郎冠者(本名太郎)。慶応義塾に学び、ベルギーに留学した三井家の御曹司にして、帝国劇場の文芸担当重役であり、劇作家というスマートボーイであったという。
増田家は、女中を3人も抱え、ホワイトソースをふんだんに使った高級料理「クロケット」を食していたのは想像に難くないが、歌われる「コロッケの唄」は似て非なる庶民の味。イモコロッケだ。すなわち、ジャガイモを茹でてつぶし、塩、コショーを加え、豚挽肉とタマネギを混ぜて揚げた、ご婦人のでんぷん質欲を満足させる一品であった。
日本人が改良したこの「コロッケ」は、同年の「実用割烹教科書」に掲載され、女学校でも経済的お惣菜として盛んに教えられていた。増田氏はこうした庶民の新婚家庭を見事に風刺した。
ジャガイモ(じゃがたらいも)は、オランダ領東インド会社の拠点ジャガタラから、オランダ船で伝えられたとされる。父祖の国の名物料理との思いがけない国・日本での出会いであったと言える。・・・と。
しかし、Wikipediaには、この年の洋食の値段は豚カツ13銭、ビーフステーキ15銭に対し、コロッケ25銭と、明治から大正にかけてのコロッケは高価な料理だったが、昭和に入り徐々に安価なものとなってきた(注記『おいしいコロッケ大百科』 アイフォレスト出版)。・・・と書かれている。
Wikipediaに書かれているような高価なものは今でいうコロッケではなく高級料理「クロケット」のことかもしれない。「コロッケの唄」が流行りだしたころには、今でいうところのコロッケに変身し、ちょっとハイカラな女性が好む家庭料理として定着していたのだろう。
その後安くなり、昭和初期の東京では、コロッケは肉屋でつくって売るものが惣菜として一般的であった。 まだ、肉屋で、薄切りのペチャカツでも、カツを買えるのは少なく、普通はコロッケであった。
戦後の私がまだ小学生の頃でも、コロッケは、肉屋で買うものであった。まだ、今のようにおやつなどもいろいろなものがない時代、市場の肉屋で揚げたてのコロッケを買ってもらって、その場でソースをつけてもらいおやつ代わりに食べるのがうれしくて、母親が買い物に出るといつもその尻について行ったのを思い出す。
本当においしかったな〜。私たちが子供であった戦後のこのころにも『コロッケの唄』はよく歌われていたよ。
厚生省が実施している1986(昭和61)年の国民栄養調査によると、家庭でよく利用する夕食の惣菜の第1位は、コロッケであり、また、デパート、スーパーマーケットなどの惣菜屋で売っている惣菜のベストワンがコロッケ、以下、てんぷら、ギョウザ、焼鳥、フライであり、ファーストフードのコロッケは、10代の若者などにハンバーガー同様の人気があるようだ(※7:「国民健康・栄養調査|厚生労働省」の1986(昭和61)年国民栄養の現状参照)。

ホワイトソースに白身の魚や貝、エビなど高級な食材を加え、冷やして固め衣をつけて揚げた高級な西洋料理が日本に入ると、ジャガイモと申しわけ程度のミンチ肉の入った和様折衷の惣菜「コロッケ」に化け、日本人の味覚をガッチリと掴み、今日では、冷凍食品の生産量としてもトップを誇る存在になっている。
調理が手軽で安価である事から人気のコロッケは、日本各地で町おこしの為のご当地グルメとしても販売され、ジャガイモを主体とした「 ポテトコロッケ」は、混ぜる具材によって、肉(挽肉)を多く使用した「ミートコロッケ」ほか、「ツナコロッケ」、「野菜コロッケ」 、「カレーコロッケ」 「肉じゃがコロッケ」 「 ポテトサラダコロッケ」 「カボチャコロッケ」 「サツマイモコロッケ」、カニやエビを使った「クリームコロッケ」などさまざまな種類が存在する。

「ミンチカツ」と呼ばれるものは、豚肉や牛肉の挽肉にタマネギのみじん切り・食塩・コショウなどを混ぜて練り合わせ、小判型に成形し、小麦粉・溶き卵・パン粉からなる衣をつけて油で揚げたものをであるが、中華鍋などに入れた多量の油で揚げるか、またはフライパンで焼き上げる方法もある。
関東では「メンチカツ」と呼ぶ人が多いが、近畿地方、四国の一部などではこれを「ミンチツ」と呼ぶ。「メンチ」も「ミンチ」も“細かく刻む”という意味の英語「mince(ミンス)=挽き肉」が由来のようだが、新しくいことばが伝わる当初は、ことばの形が一定しないことがよくあるので、「メンチ」「ミンチ」両方の呼び方が生まれたのだろう(語誌参照)。
NHKの「お元気ですか日本列島」の”ことばの宝船”によると、メンチカツは、東京・銀座の洋食店が発祥らしい。そして、それは、先にも挙げたひき肉をパン粉で包んで油で揚げた「ポークカツレツ」を生み出した店で、同じようにまとめたひき肉を揚げて「メンチカツ」として売り出した。
一方、関西で初めてメンチカツを出したのは、神戸湊川の肉屋、「三ツ輪屋総本店」(神戸市兵庫区東山町4-23-6)であり、「三ツ輪屋総本店」2代目水野三次氏が、関東での修業時代にメンチカツのレシピを修得し、神戸に持ち帰って、「ミンチカツ」として売り出した。・・・とある(※8NHK「ことばの宝船」”メンチカツ?ミンチカツ?”参照)。
湊川の「三ツ輪屋総本店」は明治34年創業で、元祖ミンチカツ発祥地として知られてはいるが、私が神戸で他に知っている有名なところとしては、元町から大丸のある筋に下ったところにある神戸牛の老舗 「本神戸肉 森谷商店」(神戸市中央区元町通1丁目7−2。※9参照)がある。
同社HPによれば、創業は1873(明治6)年11月で、肉食の文化が日本に広まる前の頃、神戸港の開港とともに、外国人のご用達のホテルやレストランへ牛肉を納めていたという老舗である。現在は元町に店を構えているが、当初は神戸の中国人街「南京町」に店があったそうだ。
皇室への御料理肉の献上という栄誉もいただいているという。そして、但馬牛の仔牛を生産牧場で買ってきて、地元の肥育牧場でこの仔牛の生産から肥育まで一貫体制で育てたものを販売しているという。
そんな老舗が、厳選した国産ジャガイモと玉葱、じっくり煮込んだ筋肉を使ったコロッケは芳香な肉の香りが漂い、衣は薄くサクサクとしていて肉の甘みがあり美味しいと評判がよく行列もできる店である。また、ミンチカツの肉はミンチではなく、肉片を使っていて、衣を割ってみると肉汁がジューシーで、噛むと肉汁がじゅわっと出てきて美味しいとまた評判が良い。
神戸へ来られたら、場所も便利なところにあるのでぜひ一度立ち寄られるとよい。コロッケとミンチカツは冷凍にしたものも売られている。

上掲の画像は神戸元町・(株)本神戸肉森谷商店の冷凍ミンチカツ。画像は同社HPより。
森谷のコロッケは衣の薄いのが特徴だが、反面破けやすいのが難点。しかし、冷凍のまま説明書きにあるポイントをしっかり押さえて揚げると、自宅で揚げても、店で揚げたのと同じようにおいしく食べられる。

ところで、ミンチもメンチも mince(ミンス:挽肉)の事で、カツはカツレツ(cutlet:薄切り肉等に衣を付けて油で揚げた料理)の事。ミンチカツ(メンチカツ)は和製語であるが、ミンチ(挽肉)とカツ(薄切り肉)を組んでミンチカツとは面白い言葉だ。
挽肉を多く使用した「ミートコロッケ」をミンチコロッケと読んだりもする。みなさんおイメージでは、ミンチカツはカツレツですかコロッケですか・・・・?

(冒頭の画像はメンチカツ。Wikipediaより。)

参考:
※1:日本記念日協会
http://www.kinenbi.gr.jp/index2.html
※2:味のちぬや
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%84
※3:日本冷凍食品協会
http://www.reishokukyo.or.jp/
※4:類食品産業の生産・販売シェア もっと詳しく - 日刊経済通信社
http://www.nikkankeizai.co.jp/share.html
※5:浅羽昌次「明治時代における食肉事情」
http://okayama.lin.gr.jp/tikusandayori/0204/tks08.htm
※6:『食道樂』 - 国立国会図書館
http://iss.ndl.go.jp/api/openurl?ndl_jpno=41008841
※7:国民健康・栄養調査|厚生労働省
http://www.mhlw.go.jp/bunya/kenkou/kenkou_eiyou_chousa.html
※8:NHK「お元気ですか日本列島」ことばの宝船”メンチカツ?ミンチカツ?”(2010年5月11日放送)
http://www.nhk.or.jp/kininaru-blog/55108.html
※9:本神戸肉 森谷商店
http://www.moriya-kobe.co.jp/
洋食をもっと楽しむ
http://www.alpha-net.ne.jp/users2/n412493/kit/ktindex.html
ジャガイモ博物館:ポテトエッセイ第35話
http://www.geocities.jp/a5ama/e035.html
冷凍コロッケの市場規模、メーカーシェア 2011年 | Mpac-マーケティング
http://www2.fgn.jp/mpac/_data/1/?d=002001
冷凍食品
http://www3.ocn.ne.jp/~eiyou-km/newpage121.htm

サクランボの実のなる桜の木

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は分類学上、バラ科サクラ亜科サクラ属に分類されるようだ。
サクラ属はさらにサクラ亜属、モモ亜属、ウメ亜属、スモモ亜属などがあって、広い意味では桜はバラの仲間だし、梅や桃(もも)、杏(あんず)なんかとも仲間である。
桜の名前の由来は、いくつかの説があるが、動詞の「咲(さ)く」に接尾語「ら(「ぼくら」など複数を表す「ら」)がついたという説や、「古事記」に出てくる『木花之開耶姫(コノハナノサクヤヒメ)』の「木花」が桜の花を意味していたことから「サクヤ」の音が「サクラ」になったという説が有名(※1)。
桜の漢字は、「木」へんに「ツ」に「女」って書くが、これは書きやすいように省略した形で、もともとは「櫻」と書いていた。2つの「貝」には、貝の首飾りの意味があり、「嬰(えい)」で女性が首飾りをしている様子を表している。「貝飾りのような実(サクランボ)をつける木」という意味で「櫻(桜)」という漢字になったと言われている。
桜を英語ではセイヨウミザクラのように実を食べるものをcherry、日本で改良された花をみるサクラをJapanese cherry、flowering cherry、Japanese flowering cherryと呼び,区別しているようだ。
サクランボは「さくらんぼう」とも呼ばれ、漢字で書くと「桜ん坊(さくらんぼう)」や「桜桃(「おうとう」とも読む」と書く。
広い意味でのサクランボはサクラ類の果実を総称するが、ほとんどの桜になる実は小さかったり、酸っぱかったりで、余り美味しくはない。園芸上では栽培種の果実をサクランボと称しており、そのなかで日本の果樹として重要なものは、セイヨウミザクラ(甘果オウトウ)P.avium L.(英名sweet cherry)であり、サクランボの名称で市販されている果物は大部分が本種である。
セイヨウミザクラは数千年前から人類に食されていたようで、Wikipediaによれば、青銅器時代のイギリスなどのヨーロッパで、種が発掘されており、たとえば、イタリアのガルダ湖南岸付近にあるデゼンツァーノロナート付近で、青銅器時代の初期から中期の高床式住居跡から見つかっているという。
高さ15〜20mになる落葉高木で、春にサクラに似た花を咲かせ、6〜7月に果実が成熟する。
セイヨウミザクラは鑑賞用としても育てられているが、大きさがちょうどよいことから、公園や庭木として使われることも多い。
冒頭掲載の画像は、今朝撮ったご近所の庭木で、サクランボのなる木(セイヨウミザクラなのだろう)である。
通常花期は3月下旬頃だと思うのだが、寒い寒いと言っていたわりに今年は少し開花が早いように思われるのだが・・・。もうこの木はほとんど満開に近い。
参考:
花言葉は、小さな恋人。上品。・・だという(※2)が、本当にかわいい花である。
※1:さくらの語源 櫻と桜 桜の会
http://sakuramori.at.webry.info/200505/article_2.html
※2:GKZ植物事典・團伊玖麿植物事典・セイヨウミザクラ(西洋実桜)
http://www.t-webcity.com/~plantdan/mokuhon/syousai/sagyou/se/seiyoumizakuara.html
このはなさくや図鑑「セイヨウミザクラ 」
http://www7b.biglobe.ne.jp/~cerasus/cera-sa/c-seiyo.html
セイヨウミザクラ - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BB%E3%82%A4%E3%83%A8%E3%82%A6%E3%83%9F%E3%82%B6%E3%82%AF%E3%83%A9
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