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さーたーあんだぎーの日

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日本記念日協会」(※1)の今日・3月14日の記念日に「さーたーあんだぎーの日」がある。
記念日の由来によると、「さーたーあんだぎー」とは砂糖、小麦粉などを使い、油で揚げた沖縄を代表するお菓子である。
「さーたーあんだぎーのうた」を2004(平成16)年3月14日に発表した沖縄出身のミュージシャン「シューベルトまつだ」が制定した日だそうで、「ホワイトデーには『さーたーあんだぎー』をお返しに贈ろう」と呼びかけ、全国に沖縄の家庭の味「さーたーあんだぎー」を普及させるのが目的・・・とあった。
私は、余り、今の時代の若いタレントや歌手のことはよく知らないので、シューベルトまつだがどんな人物か、また、何をしているのかも知らないし、「さーたーあんだぎーのうた」がどんな歌かは聞いたこともない。
そこで、ネットで検索してみるとシューベルトまつだのブログ(※2)があったので、覗いてみると、該当の歌があったので、聞いてみた。この歌は、YouTubeにも掲載されていたので以下にリンクを貼っておく。

さーたーあんだぎーのうた〜シューベルトまつだ(オリジナル曲)

このような歌に余り、興味もない私など、この歌が良いのか悪いのかは知らないが、正直、私にはまったく面白くもない、ただの沖縄の揚げ菓子のCMソング、また、記念日登録者自身の宣伝活動・・としか思えない。。
最近は、日本記念日協会へ登録の記念日にも、この手のものが非常に多くなってきたものだ。
沖縄の代表的な揚げ菓子の一つでもある「さーたーあんだぎー」そのものは、私も、沖縄へ旅行した時などに、土産として買ってきたこともあり、当然食べたこともあるので一応は知っている。
琉球(沖縄)方言で「サーター」は砂糖、「アンダーギー」は「アンダ(油)」+「アギー(揚げ)」で「揚げる」・・・、つまり、揚げ物を意味しており、その名の通り砂糖を多めに使用した球状の揚げドーナツといったもの。「砂糖天ぷら」「サーターアンダギー」、「サーターアンラギー」ともいう(方言は※3、※4参照)そうだ。
Wikipediaによれば、「サーターアンダギー」は、低温のでゆっくり揚げる際に、まず球状に表面が固くなり、そのあと内部の膨張に従って球状の表面が割れる。その形が花が開いたように見えることから、縁起のよい菓子とされ、祝い事の際などに饗応されるという。
また、サーターアンダギーは表面が割れ目を生じるその形状から、沖縄県では「女性」を象徴するお菓子とされており、結納では同じく「男性」を象徴するお菓子、「カタハランブー」(※3、※4)と一緒にどっさりと盛り付けられ、卓を囲むもので、それらを食するという習慣があるそうだ。
Wikipediaの説明だけではよくわからないので調べてみる、「カタハランブー」は、塩味の天ぷらで、天ぷらの衣に少しだけ塩味を付けて、鍋フチから滑らせるようにタネを入れて揚げるそうで、その語源は「片腹」(カタハラ)と「重い」(ンブー)の合体語らしく、もともとは、松風(マチカジ/“結びきり(水引の結び方参照)”の形をしたお菓子)との3点セットで、沖縄の結納料理として使われ、これを食べて、末永い幸せや子孫繁栄的を願うといった意味合いがあるのだそうだ(※5、※6参照)。

ところで、今日・3月14日は、ホワイトデーであるが、この「ホワイトデー」のことについては、以前にこのブログでも書いたことがある(ここ参照)ので、ここでは詳しく触れない。
「ホワイトデー」は一般的にバレンタインデーチョコレート等を貰った男性が、そのお返しとしてキャンディマシュマロホワイトチョコレート等のプレゼントを女性へ贈る日とされているが、この習慣は日本など一部の東アジア特有のものであり、欧米ではこういった習慣は見られないらしい。
「バレンタインデー」にチョコレートを贈る習慣などと同様に、日本で、バレンタインデーが定着するに従って、菓子業界がそれにお返しをする日として、昭和40年代に入って以降、個々に独自の日を定め、この日にビスケットやマシュマロ、キャンディ等を「お返しの贈り物」として宣伝販売するようになったといわれている。いわば、菓子などの物を売るための便乗商法であり、この「さーたーあんだぎーの日」も同様であろうし、先にも書いたように、記念日を登録した人自身の宣伝活動の一環でもあるのだろう。

ただ、関西人の私などには、沖縄では、バレンタインのお返しに、ホワイトデーには、男性が女性に対して、女性の象徴であるといわれる「サーターアンダギー」を贈ろうというのがよくわからない。
ひょっとして、沖縄では、バレンタインにはチョコレートではなく、男性の象徴であるとされている「カタハランブー」を女性からプレゼントされているのだろうか?
もしそうだとしたら、バレンタインには、女性から、チョコに添えてパンツ(また、トランクス)を贈られた男性が、そのお返しに、女性にパンティーを返すといった、ちょっとどぎついジョーク・・・以上に、きついブラックジョーク(英: black joke)のようにさえ思われるのだが・・・・。それは、南の島の沖縄の人と関西人との感性の違いなのだろうか。それとも、今の若い男女の性に対する意識変化についてゆけないだけなのだろうか・・・?

そういえば、2011年11月号の『日経WOMAN』の「働く女性700人のセックス白書」に、今時の女性の貞操観念についても驚くべきアンケート結果が出ていたことが、生活情報サイトAllAboutに採りあげられていた。
つまり、一昔前は、「セックスは恋人になってからするもの」という価値観が、多くの女性にとって、恋愛常識であったのだが、読者アンケート(平均年齢33.6歳)の結果では、今では、「セックスは恋人になってからするもの」という恋のルールが変わり始めており、交際を前提とする約束がなくても、女性がセックスをすることは珍しくなくなっているようであり、多くの女性にとって、その貞操観念や性意識は、かなりおおらかになってきているようだという。
この性意識の変化は、もちろん女性だけのではなく、交際を伴わずに、セックスそのものをより貪欲に楽しむ関係が男女双方に増えてきているのだと言える。・・・というのだが、詳しくは以下参考※7「あなたは、彼氏ではない男性とも、セックスしますか? [恋愛] All About」を参照されるとよい。
そうであれば、先に述べたような、ホワイトデーに、バレンタインのお返しとして、男性からパンティーならぬ女性の象徴「サーターアンダギー」を贈られても、それは単なるジョークというよりも、むしろ、積極的に男性が女性にセックスを求めている証として、女性からは喜んで受け入れられていることなのかもしれない・・・。要するに、今の時代の若者の意識変化についてゆけない古い年代の私たちの常識こそが今の時代ではおかしい・・・ということになっているのかも知れない・・・。
そんなことを考えていると、よくは覚えていないが、もう一昔も前に見た映画「氣違ひ部落」(1957年、松竹映画。)のことがひょっと、頭をよぎった。
この映画、きだみのるの『気違い部落周遊記』など、一連の“気違い部落”ものを原作に渋谷実が監督した社会喜劇である。
東京からわずか十三里半の所にある“気違い部落”がある。・・といっても気違い(注:ここ参照)が住んでいるわけではない。
小さな山村のそのまた一部落(集落)で、貧困のなかで欲望をむき出しにしているところが気違い沙汰に見えることから、そう呼ばれている。その部落の掟は日本の法律よりも優先される…。
題名などに現代社会では差別用語とされる刺激的な言葉を使ってはいるが、きだみのるは、そのようなことに触れているわけではなく、当時の日本の農村のどこにでもごく普通に見られたそんな閉鎖的な“村社会” を取り上げて鋭く風刺したものである。
しかし、それは、はたして「気違い部落」と呼ばれるほどの驚きを持ったものなのか、はたまた逆にそれを笑う都会人の方が「気違い部落」の住人なのか。
この映画の冒頭で、解説者(森繁久彌)が登場し、「気違いは自分のことを気違いだとは思っていない…」とナレーションをしている。このような氣違い部落にいる人たちから見れば、自分たちとは違ったよそ者こそが逆に氣違いに見えているのだろう(※8、※9参照)。
それを今の時代に置き換えてみると、映画とは逆になるかもしれないが、今の日本の若者の性意識が急速な変化をしている社会で、一昔前の貞操観念を持った女性やそのような女性を良しとしてみている人などは、今の若者達からみれば、ちょっと時代遅れの変な人・・ということになるのだろう。
私には今、目の中に入れても痛くないほど可愛い孫娘が一人いる。その孫も今や性に目覚めているはずの中学生となっている。これからの大人への成長をどのように見守ってゆけばよいのだろうか・・・・と、戸惑っているところである。
これを飛躍させると、ひょっとしたら、孫が結婚をするような年代になったら、日本では、結婚制度そのものが崩れ、フリーセックス自由恋愛の中で出来ちゃった子供は、育てたいと思う方が育てれば良い・・・なんて考える人たちが増えているのではないかとさえ考えるのだが・・・。
そう思って、ネットで検索をすると、30歳以上の独身女性の本音を扱うコラム独女通信というものがあるようで、そこで、30代独女の結婚観を聞いてみようと思ったら、「いっその事、結婚制度なんて廃止しちゃえばいいと思う!」・・・と考えている人が意外に多いらしいことが書かれていた(※10参照)。
さもあらん、急速な若者の性意識の変化は当然これからの結婚観をも変えてゆくだろうし、そういう人たちが多数を占めてくると、それに反対する人が時代に合わない変な人になってしまうのだろう。私など、そのころには生きていないだろうが、それをありがたいことと思う。

さて、話は変わって「さーたーあんだぎー」と言えば、フジテレビ系のクイズバラエティ番組クイズ!ヘキサゴンII』から生まれた同名の音楽ユニットサーターアンダギー (ユニット) 参照)があったよね〜。
「クイズ!ヘキサゴンII」では、元お笑いタレントの島田紳助音楽プロデューサーとなり、出演者同士でユニットを組み歌手デビューさせていた。
それらが2008(平成20)年には、NHK『第59回NHK紅白歌合戦』に出場するなどいわゆる「おバカブーム」を作り上げ、番組の全盛期を迎えた。平均視聴率も15%を上回るフジテレビを代表する高視聴率番組として躍進を見せていた(番組で結成されたユニットについては『ヘキサゴンファミリー』を参照)。
そんな人気番組から、沖縄県国頭郡恩納村出身の山田親太朗を中心とした森公平松岡卓弥の男性3人組のユニットで、2010年2月10日、シングル「ヤンバルクイナが飛んだ」(作詞は島田紳助【カシアス島田名義】、作曲は、J-POPユニット「ワカバ」のメンバー松井亮太 )でデビューした。
タイトルの「ヤンバルクイナ」、歌詞(※12参照)の中の方言、三線の演奏など、山田の出身地である沖縄のテイストを取り入れた楽曲であり、タイトルを聞かされた当初、山田は「ふざけた歌なのかな?ヤンバルクイナは飛ばないよ」と言っていた(※11参照)ようだが、同曲はレコチョクのデイリー着うたフルランキングで2日連続1位を記録。デビュー曲の発売日2月10日から、2月14日の都内での発売記念ミニライブまでに全国8会場でイベントを開催し、累計2万人を集め、山田を感激させたという。
また、この2月14日はバレンタインデーであることから、応援に駆け付けた里田まいはデビューしたばかりの3人に 森と松岡にはチョコレートを、沖縄出身の山田には、沖縄のお菓子ムーチーが渡されたという(※13参照)。
ムーチーは、沖縄県で一般に食される菓子の一種であり、餅粉をこね、白糖や黒糖で味付けを行い、月桃の葉で巻き、蒸して作る。旧暦の12月8日(グレゴリオ暦では概ね1月)には健康・長寿の祈願のため縁起物として食されるものだという。
島田紳助が、暴力団関係者との交際が発覚して、2011年に芸能界を引退をしたことに伴う『ヘキサゴンII』終了後も活動を継続していた唯一の同番組発ユニットであったが、2013年2月24日に解散した。
これは、昨2012(平成24)年2月のコンサートの中で「ライブ総動員数1万人」「イベント総動員数3万人」「配信ダウンロード総数5万ダウンロード」「CD総出荷枚数10万枚」と4つの目標を掲げ、「今年中にこれらを1つでも実現出来なかった場合は解散する」と宣言したが、結果は4つの目標のうち「CD総出荷枚数10万枚」が達成できず、解散が決定したのだそうである(※14参照)。
もともと歌手としての実力があったわけでもなく、島田の企画力によって、売れたものの、島田が引退した後の解散はやむを得ないものと考えるが、レビュー曲のタイトルを聞かされた山田が、「ふざけた歌なのかな?ヤンバルクイナは飛ばないよ」と言っていたものが、その予感通りに、島田引退後、サーターアンダギー (ユニット)も飛んで行けなかったということかな・・・。
私の癖で、今日も、随分と、あちこちへ飛んで行ったが、今日は私もこれからホワイトデーのお返しを配って回らないといけないのでこれで終ることにしよう。でも、お返しは、「さーたーあんだぎー」ではなく、ごくごく平凡なお菓子だよ・・・・。

(冒頭の画像は沖縄の揚げ菓子サーターアンダーギー。Wikipediaより。)
参考:
※1:日本記念日協会
http://www.kinenbi.gr.jp/index2.html
※2:シューベルトまつだのブログ
http://schubert.ti-da.net/
※3:首里・那覇方言音声データーベース
http://ryukyu-lang.lib.u-ryukyu.ac.jp/srnh/index.html
※4:沖縄大百科
http://word.uruma.jp/
※5:沖縄名物 サーターアンダギーは祝菓子
http://plaza.rakuten.co.jp/makiplanning/diary/20100221/
※6:十人十色の結納を一からサポート! - 与那原通
http://yonabaru-too.com/sponsor/6958.html
※7:あなたは、彼氏ではない男性とも、セックスしますか? [恋愛] All About
http://allabout.co.jp/gm/gc/386548/
※8:気違い部落 - goo 映画
http://movie.goo.ne.jp/contents/movies/MOVCSTD19963/index.html
※9:映画評「気違い部落」
http://www.ne.jp/asahi/gensou/kan/eigahyou52/kichigaiburaku.html
※10:【独女通信】ある30代独女の本音 ”結婚制度を廃止してしまえ!”
http://news.livedoor.com/article/detail/3194405/
※11:“ヘキサゴン発! 山田親太朗率いる新たなイケメン三銃士に直撃&密着”. ORICONSTYLE. (2010年2月17日)
http://www.oricon.co.jp/music/interview/100203_01.html
※12:サーターアンダギー ヤンバルクイナが飛んだ 歌詞
http://j-lyric.net/artist/a053357/l01e8d3.html
※13:“サーターアンダギーがデビューイベント! 山田親太朗らがボロ泣き”. webザテレビジョン. (2010年2月16日)
http://news.thetv.jp/article/12739/
※14:“サーターアンダギー公約守り“解散””. 朝日新聞デジタル. (2012年12月16日)
http://www.asahi.com/showbiz/nikkan/NIK201212160002.html
サーターアンダギーの歌詞一覧リスト
http://www.uta-net.com/artist/9425/
サーターアンダーギー - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%80%E3%83%BC%E3%82%AE%E3%83%BC

春分の日・お彼岸・春季皇霊祭

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今日は、春分の日。二十四節気の第4。二月中(旧暦2月内)。現在広まっている定気法では、太陽春分点を通過した瞬間、すなわち太陽黄経が0度となったときである。
ではそれが起こる日.であるが、天文学ではその瞬間とし、日のほうは春分日(しゅんぶんび)と呼ぶ。毎年、3月20日から3月21日ごろがそれにあたる。
太陽がほぼ真東から昇って真西に沈み、昼と夜の長さが同じになる日とされている。しかし、実際には昼の方が長いらしい(詳細は春分を参照)が、いずれにしても、これからは、日ごとに昼が長くなっていくことには変わりはない。これと同じような現象は秋にも発生し、これは、春分日に対して秋分日と呼び毎年9月23日ごろである。
この「春分の日」「秋分の日」を中日とし、前後各3日を合わせた各7日間(1年で計14日間)がお彼岸であり、暦の上では雑節の中に入る。そして、最初の日を「彼岸の入り」、最後の日を「彼岸明け」と呼んでいる。
また、「彼岸」とだけ言った場合、これは春の彼岸を指す。これに対し、秋の彼岸を「のちの彼岸」「秋彼岸」と呼び分けることもある。
そして、この彼岸の期間に法要や墓参りをしたり、お寺では彼岸会(ひがんえ)が催されるなど、仏教の影響が色濃く感じられる。
冒頭に掲載の画像は、お彼岸の光景で、『江戸名所図絵』より江戸の六阿弥陀めぐりの図である。画像は、NHKデーター情報部編『ヴイジュアル百科江戸事情』第一巻生活編より借用したもの。江戸の六阿弥陀のことについては、以下参考に記載の※1:古今宗教研究所 別館「古今御朱印研究室」の江戸の六阿弥陀のところを参照されるとよい。江戸時代には、在俗の信者はお彼岸に、念仏講に行く人もいた。

春分と秋分は、太陽が真東から昇り、真西に沈むので、西方に沈む太陽を礼拝し、遙か彼方の極楽浄土に思いをはせたのが彼岸の始まり…といったように、現在では、彼岸の仏事を浄土思想に結びつけて説明される場合が多いのだが、本来の仏教行事とは解釈できない要素が含まれていて、もともとは我が国固有の信仰や民間行事が、基調をなしているものだとされている。

日本人が石器から鉄器の器具を使い出し、「稲作」を始めた頃,春には「豊作への祈り」、 秋には「収穫への感謝」を、太陽を始め、様々な「」への祈りを始めたのが、「春」と「秋」の祈りの始まりだろう。
今では1年のうちで「」と「正月」の祭りが中心であるが、この頃は「春」と「秋」の祭りが最も重要であった。
古くから使われている日本の慣用句に”暑さ寒さも彼岸まで”とはよく言われることだが、日本人にとって、春と秋の彼岸に「暑い夏」の終わりや「寒い冬」の終わりを実感してきた。
そんな日本に仏教が伝来し、彼岸は日本古来の信仰と合わさり、日本独自の行事として営まれるようになった。

仏教用語の彼岸は、元々梵語(ぼんご)波羅蜜多(はらみつた)を漢訳した「到彼岸(とうひがん)」。つまり、「彼岸」という場所に至ることと解釈されている。
煩悩に満ちた世界「此岸(しがん)」から解脱した悟りの世界、涅槃を指している。
しかし、悟りの境地に達するのには「六波羅蜜」の修業をしなければならない。
こんな難しい修業は、誰にでもできるわけはなく、出家をしたものでなければできない。
そのようなことから、在家のものには、せめて、「春分」、「秋分」を中日として前後7日間のうち、中日には、先祖に感謝し、残る6日は、悟りの境地に達するのに必要な6つの徳目「六波羅蜜」を1日に1つずつ修める日としたのである。
1、布施。 2、持戒(戒律を守る。在家の場合は五戒もしくは八戒)、3.忍辱(耐え忍ぶこと。あるいは怒りを捨てること【慈悲】)、4 、精進(精進努力する)。 5、禅定(心を安定させる)、 6、智慧(般若。真実を見る智慧を養う)。
この彼岸の考え方が、さらに煩悩に満ちたこちらの世界を現世、涅槃の世界を死後の極楽浄土ととらえ、あちらの世界と考えたところから、亡くなった先祖たちの霊が住む世界を「彼岸」と考えるようになった。

この彼岸について説明しているものとして『観無量寿仏経疏』(『観経疏』)のなかに「二河白道(にがびゃくどう)」の譬えがある。
中国・唐の著名な浄土教家である善導(613〜681)が著した『観無量寿経』の註釈書である『観経疏』巻第四で三心(さんしん。仏語。浄土に生まれるために必要な3種の心。観無量寿経に説く、至誠心[しじょうしん]・深心[じんしん]・廻向発願心[えこうほつがんしん])の中の、廻向譬喩が説かれている(参考※2「観経疏 散善義 七祖」の.2.3.12 二河白道譬喩に詳しく書かれている)。
わが国では法然、がその著書『選択本願念仏集』の中で、親鸞も『教行信証』などで引用・言及してから浄土教諸派でこれが絵画化されるようになった。

上掲の画像は、その一つ。神戸市東灘区にある、香雪美術館蔵の「二河白道図(にがびゃくどうず)」の部分であり、同画像は、蔵書の『週刊朝日百科日本の歴史13』(中世2−2河原と落書・鬼と妖怪)に掲載分を借用した。
盗賊と悪獣に迫られた旅人の前に現れた一筋の白道は極楽往生を願う清浄心の象徴。荒波立てる河は貪婪(どんらん。ひどく欲が深いこと。また 、そのさま。貪欲。)の煩悩、灼熱の火の河は憤怒の煩悩を表している。図は、その絵解きによって衆生を導こうとしたものである。
この画の全体図は参考※3:「二河白道図 - 絵画 一覧| 香雪美術館」のものを参照されるとよいが、絵が小さい。※4 :「NAMs出版プロジェクト: 二河白道図」では、全体図が拡大して見られるし、この画題としては最古と言われる京都・光明寺蔵のもの、また、 香雪美術館とよく似た構図の京都・清涼寺蔵のものとも比較して見られるので、ご覧になるとよい。
また、※5;「静岡県平野美術館所蔵二河白道図について 」では、その後発見されたものと比較して、図の詳しい解説がされているのでわかりやすいと思う。

いつの時代でも、どこの国でも、生を終えた後の世界を願う気持ちは同じであり、日本に限らず古来から、太陽祖霊信仰原始宗教の頃からつきものであり、そのような考え方に基づいた「日オガミ」「日ガミ」、そして、「日願(ひがん)」が、「彼岸」へと結びつい来たという説もある。
そして、太陽は真東から昇り、真西に沈むところから、涅槃の世界が、「西方浄土」とも呼ばれ、阿弥陀仏極楽浄土も「西」にあるとされるようになり、ここに、日本古来の民間行事であったものが、後から入ってきた仏教語の「到彼岸」と結びついものが彼岸であるようだ。このことは、以前にこのブログ「西の日」でも取り上げたことがある。
そして、先祖への感謝をこめて、墓参りをするようになったのだが、現在のような「お」が庶民に浸透するのは、江戸時代中期以降のことであり、お彼岸のお墓参りは以外と歴史の浅いものなのである。

この春分の日、秋分の日は、1948(昭和23)年に公布・施行された国民の祝日に関する法律(祝日法、昭和23年7月20日法律第178号)によって制定された日本の国民の祝日の一つである。
この国民の祝日について 内閣府は、ホームページで以下のように述べている。
祝日のうち、「春分の日」及び「秋分の日」は、法律で具体的に月日が明記されずに、それぞれ「春分日」、「秋分日」と定められています。
「春分の日」及び「秋分の日」については、国立天文台が、毎年2月に翌年の「春分の日」、「秋分の日」を官報で公表しています。詳しくは、国立天文台ホームページ「よくある質問」(質問3-1)を御参照ください。・・・と(※6 参照)。
国立天文台が作成している「暦象年表」では、今年・2013年の春分の日 は、3月20日(水) 、秋分の日は、9月23日(月) となっている(※7参照)。
そして、「国民の祝日に関する法律」の第1条に、次のように記されている。
祝日法第1条では、「自由と平和を求めてやまない日本国民は、美しい風習を育てつつ、よりよき社会、より豊かな生活を築きあげるために、ここに国民こぞつて祝い、感謝し、又は記念する日を定め、これを「国民の祝日」と名づける・・・と。
また、第2条では、春分日は「自然をたたえ、生物をいつくしむ」ことを、秋分日は 「祖先をうやまい、なくなった人々をしのぶ。」ことを趣旨としている。
しかし、このような、天文学に基づいて年ごとに決定される国家の祝日は世界的にみても珍しいものだといえる。

では、なぜ、雑節の中でも、春分の日と秋分の日が祝日になっているのだろうか?
それは、戦前まであった皇霊祭(こうれいさい)からきている。
皇霊祭は、歴代の天皇・皇后・皇親の霊を祭る儀式で、宮中祭祀のひとつ(大祭)であった。
そして、毎年2回、春分日に春季皇霊祭(しゅんきこうれいさい)、秋分日に秋季皇霊祭(しゅうきこうれいさい)が斎行されていた。
休日としては、1878(明治11)年改正の年中祭日祝日ノ休暇日ヲ定ム(明治11年6月5日太政官布告第23号)によるもので、1947年(昭和22年)に廃止されるまでこの名称だった。
今は無くなったが、戦前の休日には祝日祭日があった。皇室祭祀における「大祭」をベースにしていることから「祝日大祭日」略して「祝祭日」と呼ばれていた。
当初は、新年宴会(1月5日)、天長節(11月3日)、の祝日2日と、元始祭(1月3日)、紀元節(2月11日)、神武天皇祭(4月3日)、神嘗祭(9月17日)、新嘗祭(11月23日)、大正天皇祭先帝祭。12月25日)の祭日6日、計8日だったが、この時の改正により、春季皇霊祭(春分日)と秋季皇霊祭(秋分日)の2日の祭日が追加されて10日となった。尚、明治節(11月3日、明治天皇の誕生日。名君とされ近代日本の礎を築いたという功績を偲ぶもの)がこの改正時に追加され、祝・休日は11日となる。

「神社は国家の宗祀」との太政官布告1871)年が出され、天皇の「荒人神」としての神格化や神仏分離などに合わせて、途絶えていた祭祀の復興や新たな祭祀の創出が行われていた。
初期の段階では初代神武から、明治天皇の先代の孝明天皇まで全てをお祭りする計画もあったらしいが、121代にも及ぶ天皇をお祭りすることなどできないので、結局、神武天皇と先代の孝明天皇を残して、皇室の祭祀としては、神武天皇祭先帝祭を、大祭とし、先帝以前三代の例祭は小祭が行われている。
歴代天皇は数が多いので、あとは民間でも先祖供養の日としている、春分・秋分の時に春季皇霊祭・秋季皇霊祭とし、歴代天皇の御魂をまとめてお祀りし、この日を祭日および休日としたようだ。(詳しくは「祝祭日」参照)。
元々、この皇霊祭の日に最も近いの日は、社日(しゃにち)として、氏子氏神たる神社に参詣し、春は五穀豊穣を祈り、秋は実りある収穫に感謝する習わしがあったからであり、古代中国では祖廟(祖先の霊をまつる御霊屋〔みたまや〕)を祀る日でもあったそうだ。

日本では、『日本書紀』巻第三・神武天皇四年春二月壬戌朔甲申の条に、以下の通り記されており、神武天皇は、即位後、鳥見山で祭祀を行っている(日本書紀原文は参考の※8参照)。

「乃立靈畤於鳥見山中、其地號曰上小野榛原・下小野榛原。用祭皇祖天?焉」
意訳:乃(すなは)ち霊畤(まつりのには)を鳥見山(とみのやま)の中に立てて、其地(そこ)を號(なづ)けて、上小野(かみつをの)の榛原(はりはら)・下小野(しもつをの)の榛原と曰(い)ふ。用(も)て皇祖天神(みおやのあまつかみ)を祭(まつ)りたまふ。(意訳は※9:「万葉散歩」の雑 記> 宇陀、鳥見山参照)。

また同じく、『日本書紀』巻第廿九、天渟中原瀛眞人天皇(天武天皇)下の ,天武天皇十年(682年)の条に以下の記述がみられる。
「五月己巳朔己卯、祭皇祖御魂。」
意訳:五月の己巳(つちのとのみ)の朔己卯(つちのとのう)の日に、皇祖(すめみおや。天皇の先祖にあたる歴代の天皇)の御魂(みたま)を祭った。・・・と。

このように、日本でも古くから天皇による祖先の霊をまつる祖先祭祀の伝統が前提にあったからこそ、やがて仏教的な彼岸会も行われるように至ったのであろう。
そして、彼岸の行事が806年には行われていたことが、平安時代初期に編纂された勅撰史書で、『続日本紀』に続く六国史の第三にあたる『日本後紀』に書かれている。
桓武天皇は、即位前の772(宝亀3)年には井上内親王(いのうえのひめみこ)他戸親王(おさべのみこ)の、在位中の785(延暦4)年には早良親王(さわらしんのう)の不自然な 薨去(こうきょ)」といった暗い事件が多々あった。
そんなことから、井上内親王や早良親王の怨霊を恐れて同19年7月23日(800年8月16日)に後者に「崇道天皇」と追尊し、前者は皇后位を復すと共にその墓を山陵と追称したりしている。
そして、「806(大同元)年、崇道天皇の奉為(おおんため。御為【おんため】の意)に諸国国分寺の僧として春秋二仲別七日(春秋二季の7日間)金剛般若経を読まわしむ」と『日本後紀』にある。
(注:早良親王は藤原種継暗殺事件に関与した罪で淡路島に流される途中、河内国高瀬橋付近の船上で憤死(ふんし・身の潔白を証明するための死)したといわれている。桓武天皇は、同母弟早良親王の怨霊に悩まされつづけることになり、このために、長岡京の後に遷都した平安京の造営に当たっては怨霊を鎮めることに大いに配慮することになる)。
このように、少なくとも平安時代には、すでに彼岸が年中行事になっていたことは確かなことであろう。
敗戦後、GHQからは、日本の諸制度の様々な変更と共に、皇室と国民を分断するために、皇室や神道とかかわりの深い祝・祭日の廃止が迫られた。
そして、「休日ニ関スル件」で制定されていた11の休日のうち、元始祭、新年宴会、紀元節、神武天皇祭、神嘗祭、大正天皇祭(先帝祭)の6日が廃止され、それ以外のものは、以下の様に変更された。
春季皇霊祭(春分日)→」春分の日。
秋季皇霊祭(秋分日)→」秋分の日。
天長節(4月29日)→天皇誕生日。
明治節(11月3日)→文化の日。
新嘗祭(11月23日)→勤労感謝の日。
このように、戦後の祝日法はGHQの指導もあり、皇室と神道とのかかわり(国家神道参照)のある休日は廃止され、春分と秋分に行われていた「皇霊祭」は休日からは外れたが、同じ日は春分の日・秋分の日に名前が変わって残っている。また、春季皇霊祭・秋季皇霊祭は宮中行事・宮中祭祀として今でも執り行行われている。
宮中祭祀について定めたものとしては、1908(明治41)年に皇室祭祀令皇室令の一つとして制定されていたが、戦後、皇室祭祀令など戦前の皇室令は全て廃されていた。
しかし、 日本国憲法やその下の法律に宮中祭祀についての明文の規定はなく、現在の宮中祭祀も皇室祭祀令に基づいて行われているようだ。
宮中祭祀は、皇居吹上御苑の東南にある宮中三殿賢所、皇霊殿、神殿)で行われる。
大祭は、天皇が自ら祭典を斎行し、御告文を奏上し、小祭は、掌典長(掌典職)らが祭典を行い、天皇が拝礼する形をとっているようだ。
年2回、春分の日と秋分の日には、歴代天皇、皇族の霊が祭られている三殿のなかの「皇霊殿」で、「皇霊祭」が行われ、天皇陛下がお告げ文を読み上げ、皇后陛下、皇太子殿下、皇太子妃殿下が拝礼する。また、この日には続いて「神殿」で行われる神恩感謝の祭典「神殿祭」も行われている。
このほか皇室では、数多くの祭儀が行われているがそれは以下参考に記載の※10:「宮内庁:主要祭儀一覧」を参照されるとよい。
古くから続いていた日本の祝・祭日の名前も今では変ってしまい元の意味を教えられないので、ただの会社が休める日…となってしまっているようだね。
私は、昨日お墓参りに行ってきたので、今日・彼岸の中日はお寺へお参りに行ってきます。

参考:
※1:古今宗教研究所 別館古今御朱印研究室≪SBI証券≫
http://goshuin.ko-kon.net/
※2:観経疏 散善義 (七祖) - WikiArc
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E8%A6%B3%E7%B5%8C%E7%96%8F%E3%80%80%E6%95%A3%E5%96%84%E7%BE%A9_(%E4%B8%83%E7%A5%96)
※3:二河白道図 - 絵画 ::| 香雪美術館
http://www.kosetsu-museum.or.jp/collection/kaiga/kaiga09/index.html
※4 :NAMs出版プロジェクト: 二河白道図
http://nam-students.blogspot.jp/2011/11/blog-post_13.html
※5;静岡県平野美術館所蔵二河白道図について - 広島大学 学術情報リポジトリ(Adobe PDF)
http://ir.lib.hiroshima-u.ac.jp/metadb/up/AN10217323/AnnuRev-HiroshimaSoc-SciArt_23_29.pdf#search='%E4%BA%8C%E6%B2%B3%E7%99%BD%E9%81%93%E5%9B%B3'
※6:国民の祝日について - 内閣府
http://www8.cao.go.jp/chosei/shukujitsu/gaiyou.html
※7:国立天文台 暦計算室 暦象年表
http://eco.mtk.nao.ac.jp/koyomi/cande/
※8:日本書紀(朝日新聞社本)巻一〜巻三十(日本文学電子図書館)甲南女子大学
http://www.seisaku.bz/shoki_index.html
※9:万葉散歩
http://www1.kcn.ne.jp/~uehiro08/
※10:宮内庁:主要祭儀一覧
http://www.kunaicho.go.jp/about/gokomu/kyuchu/saishi/saishi01.html
やまとうた:家持>伝記>人物事典
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/jinmei.html
京都社寺案内≪SBI証券≫
http://everkyoto.web.fc2.com/sitemap.html
文化庁 | 文化庁月報 | イベント案内 東京国立博物館
http://www.bunka.go.jp/publish/bunkachou_geppou/2011_10/event_04/event_04.html
大宝令・養老令(二官八省制)
http://www.sol.dti.ne.jp/~hiromi/kansei/e_taihoyoro.html
馬込と大田区の歴史を保存する会
http://www.photo-make.jp/index.htm

伊達騒動と原田甲斐

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寛文11年(1671年)年3月27(新暦5月6日)日仙台藩の内紛・伊達騒動(寛文事件とも)幕府が裁断。この席上で重臣・原田甲斐(宗輔)伊達安藝(宗重)らを斬殺し、甲斐も斬殺される。
冒頭の画像は江戸時代末期から明治時代の大坂の浮世絵師中井 芳滝画「原田甲斐」、演じる俳優は阪東寿太郎。画像は、以下参考の※1:「早稲田大学演劇博物館 浮世絵閲覧システム」にあるものを借用。原画(拡大図)その他詳細は作品番号:016-2080 を参照。
伊達騒動は、17世紀後半、まだ割拠性の強い家臣団をおさえて、仙台藩が藩政を確立してゆく過程で起きたお家騒動であり、加賀騒動黒田騒動とともに三大お家騒動と呼ばれている。
騒動は綱宗隠居事件に始まり、寛文事件へと続き、そして綱村隠居事件にてようやく終止符が打たれる。
一般に伊達騒動と呼ばれる場合には、寛文事件を指す。

巷説において伊達騒動は、おおむね以下のような物語が形成されている。
仙台伊達家の3代藩主・伊達綱宗吉原高尾太夫(二代目万治高尾)に魂を奪われ、での遊蕩(女遊びにふけること。放蕩)にふけり、隠居させられる。これらはお家乗っ取りをたくらむ家老原田甲斐(宗輔)と黒幕である伊達兵部(宗勝)ら一味の仕掛けによるものだった。
甲斐一味は綱宗の後を継いだ亀千代(4代藩主・伊達綱村)の毒殺を図るが、忠臣たちによって防がれる。忠臣の筆頭である伊達安芸(宗重)は兵部・甲斐らの悪行を幕府に訴える。酒井雅楽頭(忠清)邸での審理で、兵部と通じる雅楽頭は兵部・甲斐側に加担するが、清廉な板倉内膳正(重矩)の裁断により安芸側が勝利。もはやこれまでと抜刀した甲斐は安芸を斬るが自らも討たれ、伊達家に平和が戻る。
本作をはじめとする伊達騒動ものは基本的にこの筋書きを踏襲している。

しかし、当事件後、歌舞伎人形浄瑠璃などの好題目となったが、当時は、こうした事件をそのまま上演することは禁じられていたから、北条織田今川などの時代に置き換え脚色した。
お家騒動を素材にしたものを「御家もの」というが、奈河亀輔作「伽羅先代萩」(通称「先代萩」)などは、その代表的なものである。

上掲の画像は、外題:「伽羅先浮世の流行おそのまゝに 伽羅先代萩 加賀ツ原薩摩座代萩」、画題等は、「浮世の流行おそのまゝに 伽羅先代萩 加賀ツ原薩摩座」となっており、絵師は、二代目広重、落款印章は、「応需広重筆」としている。「応需」とは、“もとめに応じること”であるため、自分の意志で書いたというよりも版元などに求められて書いたものという意味だろうか。
上演は明治1年 (1868年)4月。上演場所は江戸・ 加賀ツ原(※3参照)の薩摩座での演目であったらしい。画像は、以下参考の※1:「早稲田大学演劇博物館 浮世絵閲覧システム」にあるものを借用。原画(拡大図)配役その他は詳細は、ここで、作品番号:100-7001と作品番号:100-を参照とよい。

この歌舞伎「伽羅先代萩」は、奥州の足利家の執権仁木弾正(原田甲斐 に相当)や妹八汐(やしお)らが、足利家の乗っ取りを企む物語として書かれている。
題目の「伽羅先代萩」(めいぼく せんだいはぎ。通称:先代萩)の「伽羅」とは、特に良質の香木の銘であり、武士は出陣する際に兜の中に香を焚き込めたということから,伽羅=忠義(※4参照)の武士となり 先代萩=古代の仙台地方における歌枕の地、宮城野に生える萩「ミヤギノハギ(宮城野の萩)」を表しており、「伽羅先代萩」が仙台藩伊達家のお家騒動を取材した作品であることを暗示している。
そして、そこには、忠義の乳母・政岡(千松の生母・三沢初子に相当。初子は、綱宗の側室。しかし、綱宗は正室を設けなかったので、初子が実質正室のようなもの)とその子・千松を登場させ、鶴千代(綱宗嫡子の亀千代に相当)と同年代の我が子・千松とともに鶴千代の身辺を守っている。
舞台では、逆臣方に加担する管領・山名宗全(史実の老中・酒井雅楽頭)の奥方・栄御前が現われ、持参の菓子を鶴千代の前に差し出す。毒入りを危惧した政岡だったが、管領家の手前制止しきれず苦慮していたところ、駆け込んで来た千松が菓子を手づかみで食べ、毒にあたって苦しむ。
本作中最大の山場「御殿」の場面では、我が子を犠牲にしてまで主君を守るという筋書きは、朱子学が幅を利かせた江戸時代に発達した歌舞伎や人形浄瑠璃の世界では常套の展開である(※5参照)。
「床下の場」では御殿全体がせり上がり、床下の場面となる。
讒言によって主君から遠ざけられ、御殿の床下でひそかに警護を行っていた忠臣・荒獅子男之助が、巻物をくわえた大鼠(御殿幕切れに登場)を踏まえて「ああら怪しやなア」といいつつ登場する。鉄扇で打たれた鼠は男之助から逃げ去り、煙のなか眉間に傷を付け巻物をくわえて印を結んだ仁木弾正の姿に戻る。弾正は巻物を懐にしまうと不敵な笑みを浮かべて去っていく。
そして、女性中心からなる義太夫狂言様式の前場「御殿」から一変して、せり上がりやすっぽん(花道の舞台寄りの七三と呼ばれる場所にある小型のセリ。※2参照)などの仕掛けを用い、荒事(※2参照)の英傑と妖気漂う男性の悪役が対峙する名場面である。
上掲の画題は、「浮世の流行おそのまゝに 伽羅先代萩」となっており、この画は、そんな「御殿」の場面から一変して、せり上がり「床下の場」となった場面を描いているのだろう。
政岡は「御殿」の主役であり、「片はずし(かたはずし)」(※2参照)とよばれる御殿女中役の中でも大役とされている。また仁木弾正は、悪の色気を見せる「国崩し(くにくずし)」(※2のかたきやくを参照)とよばれる敵役(かたきやく)の大役として有名。この舞台では、岩井粂八が仁木弾正と、日替わりで正岡も演じている。
「伽羅先代萩」の現行の脚本は大きく「花水橋」「竹の間・御殿・床下」「対決・刃傷」の3部に分けることができるが、物語の概要は ここ、を見てください。また、その史実については、Wikipedia-伊達騒動その他以下で述べる事項等を参照してください。

さて、史実としての伊達騒動に触れていこう。
陸奥国の仙台藩3代藩主伊達綱宗は第2代藩主(伊達氏第19代当主)・伊達忠宗伊達政宗の二男で嫡子)の6男であり、幼名は巳之介といった。
母が後西天皇の母方の叔母に当たることから、綱宗と後西天皇は従兄弟関係になる。
6男であるが、寛永21年(1645年)、兄・光宗夭折により綱宗が嫡子となった。存命の兄、宗良宗倫、は他家に養子に出ている。
そして、万治元年(1658年)、父忠宗の死去により、若年19歳で家督を継いだ綱宗自身は、酒色に溺れて藩政を顧みない暗愚な藩主とされている。
さらには叔父に当たる一関藩主・伊達宗勝(伊達政宗の10男で、第2代藩主忠宗の弟)の政治干渉、そして家臣団の対立などの様々な要因が重なって、藩主として不適格と見なされて幕命により万治3年(1660年)7月18日、不作法の儀により21歳の若さで隠居させられた。これが綱宗隠居事件である。
家督は綱宗の世子(せいし。世嗣、跡継ぎのこと。嫡男を参照)で、2歳の亀千代(後の伊達綱村)が継いだ。

上掲の画像は、向かって左が伊達綱宗の肖像画である(wikipediaより借用)。また、右は、私の酒器のコレクションより、犬山焼(「犬山乾山」)のぐい飲みである。
犬山焼は、尾張犬山の陶器で、宝暦年間(1751年〜1764年)に犬山に近い今井村(愛知県丹羽郡に存在した村)で始まり、文化7年(1810年)に犬山城東の丸山に釜を移した。それで、犬山焼、別称丸山焼の名があるが、作風は”乾山”を模した呉須赤絵風なので”犬山乾山”とも呼ばれている。
突然こんな焼物の話を持ち出してどうしたのかと思うかもしれないが、このぐい呑は、私が現役時代、仕事で東北へ出張したおり、花巻温泉の骨董屋で入手したものであるが、何故、東北のこんなところに犬山焼があるのかを主人に聞くと、主人の説明では、仙台の伊達藩主、「伊達綱宗公が別注で作らせたもので、非常に珍しいものである」と言って、以下の説明をしてくれた。
仙台・伊達藩の「伊達騒動」を扱った山本周五郎の小説「樅ノ木は残った」は良く知られているが、この伊達騒動に登場する伊達綱宗は、先にも書いたような理由で「若くして、3代藩主となったが、叔父で一関館主・伊達兵部宗勝の干渉や家臣間の対立などで嫌気が差し酒肉(酒と肉。さけさかな。酒肴)に溺れていた為、徳川幕府によって、21歳の若さで隠居を命じられ、僅か2歳の亀千代(後の綱村)に家督を相続させた。そして、この綱宗は隠居後も酒に溺れていたようであり、このぐい呑は、この綱宗の別注により特別に焼かれた中国風赤絵写しの犬山焼で、綱宗専用の「御止め柄」である。酒の好きな綱宗は酒席にいた気に入った人達などに、このお気に入りの焼物をやったそうだ。」・・・と。これが本当だとするとすごい珍品である。と同時に、綱宗が相当な酒好き、お遊び好きであったようであることは推測できる。

伊達騒動を題材にした読本や芝居に見られる、吉原三浦屋の高尾太夫身請話やつるし斬り事件などの俗説がある(注3参照)。
上掲の浮世絵、画題は「見立三十六句選」より「三浦の高尾 左金吾頼兼」。画像は、※1:「演劇博物館浮世絵閲覧システム 」より借用(拡大画像や、詳細はここ で、作品番号:500-2216「見立三十六句選」「三浦の高尾 左金吾頼兼」を参照)。
「見立三十六句選」は、役者絵を得意とした人気絵師の三代歌川豊国(国貞)による人気演目と人気役者を取り合わせて描いたシリーズだという(※6参照)。
「三十六句選」というように、単なる歌舞伎の名場面だけでなく上段には句の外題、人物名、豊国の落款(落款印章は「一陽斎豊国」)、その隣には駒絵(挿絵参照)が描かれており、同様の人気絵が36枚あるようで、これはその一枚。
駒絵には、「君は今駒形あたり」の文字とその横にホトトギス(時鳥、不如帰)が描かれており、これで、「君は今 駒形あたり ほととぎす」という句になる。
隅田川にかかる駒形橋。この駒形(にごらずに”こまかた”と読む)の名は、駒形橋の西詰め(浅草寺の一部)にある「駒形堂」に由来する。
ここは古来、交通の要地で、駒形の渡しのあったところ。
私の大好きな池波正太郎の時代小説『鬼平犯科帳』。その第1巻第4話「浅草・御厩河岸(おうまやがし)」(※7:「江戸観光案内:」の御厩河岸参照)で、盗み金を小船に積み込んで逃げようとしたのが仙台掘.である。なんでも、江戸には二つの“仙台堀”が在り、一つは、深川の仙台堀川で、人工的に造られた川で、位置的には清澄庭園の南側を東西に流れており、名前は、かつて北岸に仙台藩蔵屋敷が在ったことに由来するそうだ。もう一つは、JR御茶ノ水駅周辺の神田川であり、ここに登場する仙台掘は、後者のJR御茶ノ水駅周辺を流れる神田川のこと。
神田川は、三代将軍徳川家光の時に、江戸城東北の防備の必要から、仙台藩主伊達政宗に命じて掘らせた空堀が前身で、四代将軍家綱の時に拡幅し、平川の流路をこちらへ付け替えてから、神田川と呼ぶようになったそうだ。この神田川(小石川堀普請)(※8参照)の大工事を命じられたのも仙台藩主伊達綱宗であった。そのため、神田川の別名も「仙台掘」なのだそうだ(※7:「江戸観光案内:」の仙台堀、また※9参照)。
このとき、若くして仙台藩主となった綱宗は普請場の視察の帰りに、遊郭へ足繁く通っていたといわれる。そのうち、高尾太夫もいつか綱宗公を深く愛するようになって、あるとき高尾太夫が綱宗公に書いたという手紙が残っているそうで。それが以下の名文だという。

「ゆうべは波の上の御帰らせ、いかが候。
御館の御首尾つつがなくおわしまし候や。
御見のまま忘れねばこそ、思い出さず候。かしこ。」
「忘れねばこそ、思い出さず候。」は、「私はあなたのことを思い出すことがない。それはいつもあなたのことを思っているために忘れることがないからです」・・といった意味で、なかなかの殺し文句である。教養の高かったといわれる太夫ならではの愛の表現だとされている。
また、明治中期に作られた「又の御見(ごげん)」という小唄は、かつて高尾太夫が、館へ帰られる仙台候を乗せた船が、今頃は駒形河岸あたりへ挿しかかっているであろうと、綱宗公との後朝の別れを惜しんで口ずさんだといわれている句「君はいま 駒形あたり ほととぎす」を取り込んで作ったもので「又の御見」は、“この次にお目にかかる日を楽しみに”の意だそうだ(※10参照)。
歌川広重の「駒形堂吾嬬橋」の画にも、五月雨の空に一羽のホトトギスが飛んでいるが(駒形参照)、この句の舞台もこのあたり。この句は、文芸・美術などの上で駒形堂とともに、この辺りの雰囲気を伝えている。
しかし、日本橋箱崎町にある高尾稲荷神社の説明では、どうしてもなびかない高尾太夫を綱宗が切り殺したという(※11)が、綱宗が高尾太夫を殺したという史実はなく、綱宗と高尾太夫との話は「大名を振った遊女」といった筋書きが面白かろうと、虚実織り交ぜての芝居話となっていったのだろう。
綱宗逼塞(ひっそく)の理由として、綱宗公が普請の視察帰りに遊郭へ足繁く通っていたらしいこと、更には酒癖が悪く、藩主に就任以降これがひどくなり重臣達の諫言にも耳を貸さなくなった等が挙げられているが、遊郭通いは当時の大名には珍しいことではなかったとする説もある。ただ幕命による普請の視察ついでに遊郭通いというのは、イメージとしては決して良いものではないが、そんな遊郭通いだけで藩主の座から下ろされるというのは、理由としては、少々弱い気がする。
ただ、綱宗に酒狂の悪癖はあったらしく、以下参考に記載の※3:「女たちの伊達騒動」には、"父である忠宗公に殉死した重臣古内主膳重広は、死の間際、綱宗公の酒好きが将来心配であると語ったとされている。更に、逼塞を命じられた直後の奥山大学常辰の書状に、公が屋敷を堅く閉じ、酒を留めたことが記載されている。”・・・と、いう。
また、参考※12:「伊達の黒箱/寛文事件(伊達騒動)の資料 - ひーさんの散歩道」には、”水戸黄門が「女中の召使方が荒いなど、綱宗の素行の悪さが噂されているが、幕府に知れてはもってのほかである」と、綱宗に自制を促すように伝えていた。”(綱宗を叱った書状が残っている)らしく、多くの学者も綱宗逼塞の最大の理由に酒癖の悪さもその一つとしてあったことは認めているようだ。
とはいえ、綱宗公が幕府から逼塞を命じられた本当の理由などその真実は明らかになっていないが、綱宗の隠居の背景には、綱宗と当時の後西天皇が従兄弟同士であったために、仙台藩と朝廷が結びつくことを恐れた幕府が、綱宗の酒癖の悪さをいいことに綱宗と仙台藩家臣、伊達一族を圧迫して強引に隠居させたとする説も見逃せないようだ(※3参照)。
元々血筋的にも藩内で孤立していた綱宗だったが、二代忠宗が亡くなった後に、綱宗を擁護しようとする勢力が藩内に居なかった。
唯一、忠宗の死後頼りになるのは、母振姫(徳川秀忠の姪)の存在だけであった。綱宗が家督を継ぎ仙台藩主に就任出来たのも振姫の御声がかりによってのもの。その、後ろ盾になっていた振姫は、忠宗が死去した翌・万冶2年2月5日江戸において53歳で浙去してしまったのが不運であった。
綱宗は母・振姫がなくなったその翌・万治3年(1660年)7月18日、不作法の儀により21歳の若さで幕府により強制的に隠居させられ、正徳元年(1711年)6月7日、71歳で亡くなるまでの50年間を品川大井の伊達家下屋敷で、作刀などの芸術に傾倒していったといわれている。

伊達騒動のもう一つの重要な事件、原田甲斐の大老酒井雅楽頭屋敷での刀傷事件の真実はどうだろうか。
伊達騒動は、言うまでもなく綱宗逼塞に端を発する政治的な権力争いである。
綱宗逼塞後、4代藩主には、わずか2歳の世子亀千代(後の綱村)が就いた。
初めは亀千代が幼少のため後見の座に着いた大叔父にあたる伊達兵部宗勝(陸奥仙台藩初代藩主・伊達政宗の十男。仙台藩支藩・一関藩の藩主)や最高の相談役である立花忠茂(筑後柳河藩第2代藩主。継室は徳川秀忠の養女で、伊達忠宗の娘・鍋子)が信任する奉行(仙台藩の役職に家老は存在しないため、他藩の家老相当職を奉行と呼称している)奥山常辰が、藩政の実権を握り、人事も政治も、伊達宗勝を無視して専横をきわめたが、同時に、伊達宗勝の藩主を無視した行為をも糾弾した。怒った伊達宗勝は寛文3年(1663年)7月、彼を奉行職から罷免した。
その後は、宗勝自身が実権を掌握し権勢を振るった。
宗勝は監察(監督・査察すること。取り締まり、調べること。また、その役。)権を持つ目付(藩士や奉行の仕事や動きを観察する役人)の権力を強化し、奉行や家臣への影響力を強めてゆく。監視された奉行らは、本来は格下である目付の顔色を窺うようになり、目付の勢いは奉行を超えるほどになる。また、兵部を恐れる奉行の原田宗輔は、兵部とのつながりを深めて側近に加わる。
その中で諫言した里見重勝跡式(あとしき)を認可せずに故意に無嗣断絶(跡継ぎがないため大名家を取り潰すこと)に追い込んだり、席次問題に端を発した伊東家一族処罰事件が起こる。こうして兵部は自身の集権化を行い伊達六十二万石の藩政の主導権を独占した。
尚、綱宗逼塞後、伊達宗勝と共に二代目忠宗の三男、当時の一関城主田村 右京亮(宗良)が綱村の後見となっていた。しかし、田村は、人柄は温和であり人望を集めていたようだが、同時に気弱な一面もあり、才気活発な宗勝による専横を許すことになったようだ。

一方、それを憎んだ伊達安芸守宗重(涌谷伊達氏第2代当主)が、幕府に上訴するのだが、そこへ行くには以下のような背景があったようだ。
藩主後見人とはいえあくまで代理人の立場である宗勝が、藩内の有力者たちの合議なども行なわず、自らの一派のみで藩政を取り仕切ることは、宗重をはじめとする藩内の有力者たちには容認し難く、藩内は両者の対立により混乱に陥った。こうした中で宗重は、家格・年齢的にも反宗勝派の筆頭格と目されるようになる。
突然の綱宗隠居から5年後の寛文5年(1665年)、かつて奥山を失脚に追い込んだ一門の登米領主・伊達宗倫(伊達一門第五席。伊達忠宗の五男。宗勝の甥)と宗重(涌谷伊達氏)との間に知行地境(領地)争いがおこる。
この争いは長引き、寛文9年(1669年)秋、宗勝ら藩首脳は宗重と宗倫の争点となっていた地域の3分の2を登米領として裁断を下し、事態の収拾を図ったが、宗重はこの裁定を不服として、翌年藩に再吟味を訴えるが宗勝たちはこれを拒否した。
一方寛文6年(1666年)には、藩主・亀千代の毒殺未遂事件が発生(毒見役が死亡)、更に寛文8年(1668年)、今度は伊東重門(岩沼古内氏初代古内重広の息子。養子となり、伊東家を継いでいた。)
と共に、宗勝暗殺の計画が発覚した首謀者・伊東重孝(七十郎)が寛文8年4月28日一族共々誓願寺(※13参照)河原にて処刑された。こうした一連の騒動の中で宗勝への家中の反感はますます高まっていった。
領地の件などで度重なる冷遇を受け、またかねてから宗勝一派と相容れなかった宗重は、事ここに至り、宗勝一派一掃のため、仙台藩の現状を幕府に訴える決意を固める。
宗重の考えを知った茂庭姓元(※14参照)や片倉景長(通称小十郎)らは、藩の内紛が幕府に知れれば仙台藩は改易の危機に瀕するとして宗重の上訴を諌止(かんし。いさめて思いとどまらせること)したが、伊達宗勝派の専横を正したいという宗重の意思は固く、結局寛文10年(1670年)12月、宗重の申し条を記した上訴文が幕府に提出された。
そして、寛文11年(1671月27日、両者は、老中酒井雅楽頭(忠清)久世大和守(重之)等の面前で対決する。事件の性質上、決着の山場は公の評議・評定の席にある。
原田甲斐は幕府の評定を受けるため、他5人の仙台藩家臣と騒動解決を目的として大老・酒井忠清邸に召喚されたが、審問後、同じく召喚されて来ていた伊達宗重をその場で斬殺し、さらに宗重派の柴田朝意と斬りあって双方ともに傷を負っていた。そこへ、聞役の蜂屋も柴田に加勢したが、混乱した酒井家家臣に3人とも斬られて、原田は即死、柴田もその日のうちに、蜂屋は翌日死亡したという。
関係者が死亡した事件の事後処理では、正式に藩主綱村は幼少のためお構い無しとされ、大老宅で刃傷沙汰を起こした原田家は元より、裁判の争点となった宗勝派及び、藩主の代行としての責任を持つ両後見人が処罰され、特に年長の後見人としての責務を問われた宗勝の一関藩は改易となった。

歌舞伎の世界を大観してみるに、ここで造形された原田甲斐の役柄は、ほぼ一貫して極悪非道の冷血漢だったと言ってよい。
御家騒動は藩にとっても名誉なことでは無いので、その関係資料は処分されることも多く、例え残っていても他見不許可の措置がとられるのが普通だろうから、実際の原田甲斐が極悪非道の冷血漢だったという証拠があるわけではない。
ただ、勧善懲悪を元とする当時の作劇術は、善玉を追いつめる「敵役」を必要としていたし、さらに、御政道批判を憚って他所事に仮託する事でかろうじて事実を語っていた当時の作劇術では、その劇の元になる事実の枠組を大きく変える事は許されなかった。
これが芝居になると脚色され、複雑かつ面白く筋書きが変わっていき、架空の人物も加えられ、あたかも実在の人物であるかのように印象づけられていく。
結果として、原田甲斐は、極悪非道の悪役に仕立て上げられることになる。

代表作の1つでもある『樅の木は残った』を書いた山本周五郎は、
「私は、自分が見たもの、現実に感じることの出来るもの以外は(殆ど)書かないし、英雄、豪傑、権力者の類いには、まったく関心がない。人間の人間らしさ、人間同士の共感といったものを、満足やよろこびのなかに、より強く私はかんじることができる。『古風』であるかどうかは知らないが、ここには読者の身近にすぐみいだせる人たちの、生きる苦しみや悲しみや、そうして、ささやかではあるが、深いよろこびがさぐりだされている筈である」と書いているそうだ(アサヒクロニクル「週間20世紀)。
だから、『樅の木は残った』では、極悪人として描かれることの多い原田甲斐も、そのようなヒロイックな存在ではなく、人間としての苦しみや悩みをもち、社会的な枠の中にあって、それに抗しながらギリギリの生き方を貫いた人物、悪名を負って藩を救った人物として描かれている。

Wikipediaによれば、伊達宗勝と原田甲斐(宗輔)との密接な関係は有名だが、「仙台市史・近世2・通史4」によると、原田を奉行に推挙したのは宗勝ではなく、藩主・伊達綱村のもう一人の後見人である田村宗良であり、この推挙に対して宗勝は「もし家柄だけで原田を奉行にするなら、心もとないから原田の詰番のときにはしっかりとした評定役をつける必要がある」と述べており、宗勝からは奉行としての能力を全く評価されていなかったとしている。ちなみに原田の正確な奉行就任の月日は定かではないが、少なくとも里見重勝一件での書状で寛文3年(1663年)7月23日までには奉行に就任している。
他方で寛文9年(1669年)の仙台藩奉行の古内 義如から田村宗良の家臣への手紙の中で宗輔は宗勝を大変恐れて、宗勝とその寵愛を受けた目附衆がおかしいことをいってもすぐ同意し、えこひいきや立身、威勢を望むところは奥山常辰と変わらないと指摘している。・・・そうだ。
時の大老、酒井雅楽頭忠清の屋敷においての裁きによって、大老宅で刃傷沙汰を起こした原田家だけでなく、、裁判の争点となった宗勝派及び、藩主の代行としての責任を持つ両後見人が処罰され、そのうえで、伊達家の御家は無事安泰となっている。
こう見てゆくと、悪の中心人物と云われた原田甲斐は酒井邸においてその悪政が暴かれた悔しさに伊達安芸に手向かっただけの、弱い人間だったような気がする。
今の時代でも、権力者に抵抗できず、その手先として使われ、びくびくしながら悪いことをしている人間は多いものな〜。

参考:
※1:早稲田大学演劇博物館 浮世絵閲覧システム
http://www.enpaku.waseda.ac.jp/db/index.html
※2:歌舞伎辞典
http://www2.ntj.jac.go.jp/dglib/contents/learn/edc_dic/dictionary/main.html
※3:女たちの伊達騒動
http://yubarimelon.blog.so-net.ne.jp/2011-08-21
※4:忠義 - 武士道 -- Key:雑学事典
http://www.7key.jp/data/bushido/chuugi.html
※5:歌舞伎素人講釈>作品研究>引き裂かれた状況
http://www5b.biglobe.ne.jp/~kabusk/sakuhin80.htm
※6:平木浮世絵美術館:三代豊国 見立三十六句選 歌舞伎の名場面集
http://www.ukiyoe-tokyo.or.jp/2012exhibition/20130136kusen/20130136kusen.html
※7:江戸観光案内
http://edokanko.blog.ocn.ne.jp/blog/
※8:鬼平犯科帳 第4話「浅草・御厩河岸」 仙台掘・御茶の水
http://blog.goo.ne.jp/tabineko_j/e/6517e0cb4f451d8bc71af3b56ba5b7f7>
※9:江戸城のお濠めぐり
http://www.geocities.jp/peepooblue/ohori.html
※10:又の御見 小唄清元教室
http://kiyuumi.com/archives/2012/05/post_508.php
※11:高尾稲荷神社|中央区日本橋箱崎町の神社
http://www.tesshow.jp/chuo/shrine_hakozaki_takao.html
※12:伊達の黒箱/寛文事件(伊達騒動)の資料 - ひーさんの散歩道
http://blog.goo.ne.jp/hi-sann_001/e/e1a21fba66e6524b19b689ade271fbbc
※13:「伊東七十郎重孝」の碑
http://taihakumachikyo.org/taihk/taihk0200/index.html
※14:みぃはぁ版・平成伊達治家記録別館鬼庭家の人々
http://www008.upp.so-net.ne.jp/tomeas/moniwa.htm
仙台市博物館 - 仙台市史 | 仙台市
http://www.city.sendai.jp/kyouiku/museum/shop/kankou/kankou05.html
岩沼市/岩沼藩三万石ものがたり
http://www.city.iwanuma.miyagi.jp/kakuka/011000/iwanumahan2.html
歌舞伎の部屋:歌舞伎外題一覧
http://www.asahi-net.or.jp/~RP9H-TKHS/kab301.htm
Wikipedia - 伊達騒動
,/a>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E9%81%94%E9%A8%92%E5%8B%95

ピノキオの鼻とうそ

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4月1の今日は、「エイプリルフール」(April Fool's Day)。
この日は一般に“軽いいたずらや、まことしやかな嘘で他人をかついだり、無駄足を踏ませても良い日として知られており、だまされた人のことを「四月馬鹿(バカ)」と呼んでいる。今年もネット上で大いに盛り上がることだろう。
今日のことは、私もすでにこのブログで2度取り上げている。以下参照。
エープリルフール」、「四月馬鹿

嘘(うそ)」とは、事実に反すること、事柄の表明であり、過失無知ではなく、故意になされたものを言う。
嘘の語源は諸説あり正確なことはわからないようだが、漢字の「嘘」(字源「嘘」)は、(くち)+音符「虚」形成文字であり、中国では、意義は.「ふく」(口を開いて笑う)。「はく」(息を吐くこと)であり、「うそ」「うそをつく」の意味はないそうだ。「嘘」の意味としては、奈良時代には「偽り」(いつわり 〔いつはり〕。事実でないこと)、平安時代になって「空言(そらごと、虚言とも書く、《古くは「むなこと」》ほんとうでない言葉。」が使われ、平安末期から室町時代になって「うそ」がつかわれ始めたという。

「あらピノッキオ、どうしてここにいるの? 学校へは、行かなかったの?」
「どうしてって・・・」
 ピノッキオは、本当の事を言ったら、人間の子どもにしてもらえなくなると思い、うそをつくことにしました。
「実は、学校へ行く途中、いきなり見世物小屋の親方につかまったんです」
 そのとたん、ピノッキオの木の鼻が、ズンとのびていきました。
「あれあれ、どうして? 鼻がのびていくよ」
 あわてるピノッキオに、星の女神は言いました。
「ピノッキオ。いま、うそをつきましたね。あなたの鼻はうそをつくと、ドンドンのびていくのですよ」
「うそじゃないよ。本当だよ!」
 ピノッキオがそういうと、ズンズンと、またまた鼻がのびてしまいました。
 星の女神は、きびしい顔で言いました。
「いいですか。うそというものは、一つつくと、新しいうそを重ねてつかなくてはならなくなります。ピノッキオ、あなたは本物の人間の子どもに、なりたくないのですか?」
「なりたいよ! 本物の人間の子どもになりたいよ! 女神さま、うそをいってごめんなさい!」
 ピノッキオが泣きながらさけぶと、星の女神は魔法の杖をクルリとふって、のびた鼻を元通りにしてくれました。

カルロ・コッローディ作の童話『ピノッキオの冒険』を原作とするディズニーの米国にて、1940年公開の『ピノキオ』(原題:Pinocchio)の星の女神とピノッキオの会話であるが、同映画の凡その内容は覚えているがで、以下参考に記載の「※1:ピノッキオ(ピノキオ) コッローディの童話<福娘童話集 きょうの世界昔話>」より、抜粋させてもらった。冒頭の画像は、私のコレクション旧三菱銀行のディズニーキャラクター貯金箱の一つ「ピノキオ」である。

ピノキオの原作は、社会風刺小説であり、ディズニーのピノキオより遥かに残酷な物語のようである。そのため、Wikipediaによれば、ディズニーは、前作の『白雪姫』に続く長編アニメーション映画第2作『ピノキオ』を作るに当たり、原作のピノキオが悪戯っ子で、子供っぽい性格がみられ、白雪姫のような華がなかったため、夢のある物語にするのは容易ではなく、ストーリー作りに数ヶ月も悩み、その間にピノキオは無邪気な性格に変更し、さらに原作ではピノキオにハンマーをぶつけられすぐに死んでしまうコオロギをピノキオの良心、そしてその冒険物語を饒舌に語る重要なストーリーテラーとしての役割をも持つ重要なキャラクター、ジミニー・クリケットとして登場させる事になった。制作が再開された後も熟考を重ね、2年の歳月を経てついにテンポのよい夢と希望にあふれた冒険物語が完成したというが、何故、ディズニーがそれほどに、この映画を作るのに苦労したのだろうか。
以下参考に記載の※2:「ピノッキオの冒険」における考察によれば、ピノッキオの著者コッローディは、スコローピ修道会の学校を卒業し、イタリア独立戦争に2度も参加した愛国者であり、その代表作『ピノッキオの冒険』には随所にキリスト教的な世界観をみることが出来、いたずらや失敗を通じて学んでいくピノッキオの姿は、生きることの意味を、語りかけている。
ディズニー映画『ピノキオ』では、嘘をつくピノキオの鼻はどんどん伸びてしまうように、嘘は否定的に描かれているが、原作の『ピノッキオの冒険』では、妖精がピノッキオに、
「うそにも2種類あり、一つは足の短いうそと、もう一つは長い鼻をもっているうそがある」と話すシーンがあるそうだ。
このあと、ピノッキオの鼻がのびないときがあるが、このときは、うそも方便で、相手をかばうものであった。つまり、「うそ」とは相手を傷つけるうそ(悪いうそ)と相手を傷つけないうそ(良いうそ)があるということをいいたかったようだ。
悪いうそのときは鼻がのびて、良いうそのときは鼻がのびないということ。この鼻がのびるという恐怖感を与えて、道徳を解く(※3の第二篇:第8章 道徳的律法の解明も参照)というのはキリスト教の常道であると思う。
このようなキリスト教的な世界観が、ディズニーの思想と対立していたのではないか。
実際に原作に語られたピノッキオには、残酷さや苦しい場面が描かれていることが多いが、ディズニーの映画「ピノキオ」には醜いところや残酷なところ、苦しいところは描かれていない。そのためために宗教的な意味が消されてしまった。むしろ、そんな宗教敵的な意味を、消すことがディズニーの映画の目的だったような感じがするといっている。
確かに、ディズニーは子供向きのアニメであり、宗教性を薄め、暗い内容のものを明るく描くのに苦労したのだろうけれども、やはり、その根底には道徳的な面での子供への教育性は残されているように思うのだが・・・。

コミュニケーションにおいてうそはある程度潤滑油的な機能をしているとの研究もあり、全くうそをついてはいけない状況になるとコミュニケーションは滞る。
日常生活での言い訳や責任転嫁など、我々はうそを無意識的に言っているが、通常これらは許されるべき正常の範囲内のものではあるのだろう。
末期ガン等の病気の告知では、医師から患者へはうその病名が告知されることがある。それ以外でも、親族などは本人に真実を伝えることが辛過ぎるためうそをつく場合があり、このようなうそは、先に述べた『ピノッキオの冒険』のピノッキオの鼻がのびない、「うそは方便」と同じようなものと言える。これらのうそは一般に黙認されているが、インフォームド・コンセントの面からは問題視する声もある。
また、将来的な予想を外したことに対して「うそを言った」とは言えないが、そこに、他者を欺こうとの意図があったとしたら問題である。
それに、事実に反することが聞き手にあらかじめ了解されている場合、それはうそではなくフィクションや冗談といったものに分類される。結局、うそをつく動機や技術、事実との関係などによって、うそは正負、両方の効果を及ぼしうるものである。
ただ、中には、虚言癖(きょげんへき)や、作話症などによるものもある。また、年少者、とくに幼児におけるうそはこれとかなり事情を異にしており、その多くは誤認、追想錯誤(※4)、空想と現実との混同、ないしは言語遊戯としての作話であって、成人のうそとは質的に相違する。

東日本大震災では、大震災に乗じて善意の募金や寄付金をだまし取ろうとする悪質な詐欺サイトが見つかったと聞いている(※5)。
また、短文投稿サイト「ツイッター」などインターネットを介した情報が、被災者の安否確認や救援に大きな力を果たしてきた一方で、種々のデマやニセ情報を信じて、それを、話題にすることにより、無意識のうちに、そんなデマや偽情報のさらなる拡散に加担することになっていることもよくあること。
そのようなことを風評被害ともいうのだろうが、こんな風評の加担者とならないためにも、また、自分がそんな被害に合わないためにも、情報の真偽については確認する習慣を身につけていることが重要だろう。
私なども、こんなブログを書いていて、一番気にしていることであり、そのため、出来るだけ、時間をかけて、情報の正確性には心がけているのだが、誤りがない・・・とは言い切れない。その点は、承知の上で、みなさんもこのブログを読んでください。
また、同じうそでも、先に述べた、善意の募金や寄付金をだまし取ろうとしたり、悪徳マルチ商法や悪徳キャッチセールスなどの詐欺で使われるうそは社会通念から許容されず、法律によって罰せられる。
うその中には規模の大きな集団が組織的に行うものもあり、内容次第では社会に大きな影響を与えるものがある。例えば、その際に行われるネット上での擬似流行に関しては、大手の会社などがブロガーなどを雇い、流行っている風に見せかけるといったことを行うこともある。
人を騙すうそにもいろいろあるが、最も卑劣なのが、判断力の低下した高齢者を相手の振り込め詐欺ではないか。
振り込め詐欺とは、電話やはがきなどの文書などで相手をだまし、金銭の振り込みを要求する犯罪行為である。
従来、オレオレ詐欺、なりすまし詐欺、架空請求詐欺融資保証金詐欺などと呼ばれていたが、手口の多様化で名称と実態が合わなくなったため、2004(平成16)年12月9日に、警察庁によって統一名称として「振り込め詐欺」と呼ぶことが決定されたものだそうだ。
当初から長年、振り込み詐欺と言われたが、「振り込み」では納得して自ら振り込みをする意味合いとなるため、あくまで「振り込め」と人から言われている、騙されていないかなど、どの時点でも注意や再考を喚起するようにと「振り込め詐欺」へ統一を図った経緯があるようだ。
しかし、昨年大阪などでは、市区町村の職員らを装った電話で「医療費の還付金がある」などと言って、ATM(現金自動受払機)の前へ行くよう支持され、その前で、電話をすると、操作を指示し、「6桁の個人番号を入力」など相手の指示通りにATMを操作すると、気が付かないうちに指定口座に現金を振り込むよう誘導されているといった新種の詐欺が多発していた。これらの被害者の8割以上が60歳以上で、大半が女性だったという(※6)が、うそを言って騙すにしても、このような年寄をターゲットにした悪質な詐欺が減らないね〜。
警視庁 犯罪抑止対策本部の特殊詐欺(振り込め詐欺等)公式ホームページ(※7)を見ると、
昨・2012(平成24)年中は、振り込め詐欺のうち、特に、上記で述べたような還付金等詐欺が462件(前年比+445件、+2617.6%)と急増しているそうだ。また、オレオレ詐欺は、被害件数は若干減少したものの、被害額は前年を上回り、約47億510万円(前年比約+12億4,040万円、+35.8%)に上ったという。
本年の2月中、振り込め詐欺をはじめとする特殊詐欺対策を強化した結果、還付金等詐欺の被害は17件と前月と比べ、大幅に減少したものの、オレオレ詐欺の被害は193件と依然として多く、2月末時点では、オレオレ詐欺、還付金等詐欺ともに昨年より多くの被害が発生しているという。
今では、「振り込め詐欺」という名称も一般的になったが、最近の手口としては、金銭授受の方法が振込だけではなく、指定場所へ持参させる・宅配便や郵便で送付させる・バイク便業者や代理人が被害者の自宅近くに受け取りに現れるなど多様化しており、警視庁では、こうした詐欺行為も「振り込め詐欺」と同種のものとして注意を喚起している(振り込め詐欺の推移は参考の※8参照)。
この頃の「振り込め詐欺」にはこのような、銀行口座を経由しない、手渡しによる犯行も多く、実態を的確に表現できておらず、また“被害者を不安にし、パニックに陥らせることで犯人のコントロール下に置く”ことが、そのカギとなっていることから、「パニックに陥れることを直感的に理解できる新たな名称案」を公募しているようだ。
応募は郵送またはTwitterで可能。締め切りは、平成25年4月10日(水)の消印(送信)分までだがいい案があれば応募してみては・・・。応募の仕方は以下参照。
「振り込め詐欺」の新名称募集について :警視庁

ディズニーアニメ『ピノキオ』の主題歌としてオープニングクレジットとラストで、クリフ・エドワーズが歌い、その年のアカデミー賞の歌曲賞を獲得した。

上掲の画像は、ジミニー・クリケット。画像はWikipedia掲載分借用。歌詞は『ピノキオ』テーマソング「星に願いを」。

星に願いを懸けるとき
君が誰でも関係ないさ
心を込めて望むなら
きっと願いは叶うでしょう

何を示唆しているかというと、子供に恵まれなかったゼペット爺さんが、「どうか、私が作ったこの人形が本物の子供になりますように」と流れ星に願いを託し、それが叶って女神さまがピノキオに魂を与えるこの物語のあらすじを伝えている。
ゼペット爺さんは素敵なおもちゃをたくさん作って、人々に幸せを与えたので願いを叶えてもらえたのだ。
また、命を与えられたが、まだ身体は木のままであるピノキオには「正しいことと間違っていることの区別がついてこそ、本当の人間になれる。」と女神さまに課題を残される。そして、人間の世界に溢れる様々な誘惑にまどわされながらも、最後には勇敢で正直な行動をしたピノキオは無事、本物の人間になることができたのだが・・・。
さて、今の時代の本当の人間はどうなのだろう?本当の人間になりきれてない人が、多いのではないだろうか?

私たち年配の者は、昔から、「うそつきは泥棒のはじまり」。うそは悪いことだと子供の頃から教えられてきた。
ピノキオはうそをつけば鼻が伸びる。うそをつかなければ鼻は元のままだ。そのピノキオが「ボクの鼻が伸びているよ」と言ったとしたら、それは本当なのかうそなのか?
面白い記事が、日経BPネットの調査に見られる。
20〜30代のビジネスパーソン200人を対象に、仕事上で「うそ」をついた経験の有無を尋ねた結果、上司や同僚に対して「ある」と答えた人が47%、取引先に対して「ある」と答えた人は30%だったという。
編集部は当初、「ある」という回答がもっと多いのではないかと予測をしていたし、他の問3では「うそも方便、うまく使えば仕事にプラスになる」「、相手の気分を害さないために必要なこともある」という回答が6割を占めており、問4でも「ハッタリは相手次第で有効なこともある」といった回答が上位を占めていたという。
この様に、うその有効性を認めつつも、自分はそれほどうそはついていない。・・・との回答は、整合性が取れない気がしませんか!・・・と首をひねっているのだが・・・(※9参照)。
恐らく、ここの回答者にとって、問3、4にあるようなことに関しての「うそ」は、悪いこととは思っておらず、これらの場合に「うそ」をついても、本人たちは「うそ」を言ったとは自覚していないということであり、言い換えれば、「うそ」をつきながら「私はうそをつきません」といっているということだろう。
そんな人たちが、「エイプリルフール」の今日は、どんな巧妙な「うそ」で騙してやろうか手ぐすね引いているかもしれない(×_×;)

最後に、うそをついても許される日だからと言って、どんな嘘をつこうが、たちの悪いものでなければ、それをするのも人好き好きだが、せっかくだから、ジミニー・クリケット(クリフ・エドワーズ)が歌う『星に願いを』を聞いてみるのも良いのでは・・。
こんな素敵な曲を聴いていると、本当に願いが叶いそうな気にもなるよ。ここでは、他に「困ったときには口笛を」(Give a little Whistle)の曲なども聞ける。
「星に願いを」クリフ・エドワーズ:When You Wish Upon A Star ? Cliff Edwards

参考:
※1:ピノッキオ(ピノキオ) コッローディの童話 <福娘童話集 きょうの世界昔話>
http://hukumusume.com/douwa/pc/world/08/01.htm
※2:「ピノッキオの冒険」における考察
http://takasi.at.webry.info/theme/d03875ffa7.html
※3:Wikisource:宗教:キリスト教綱要- Wikisource
http://ja.wikisource.org/wiki/%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E6%95%99%E7%B6%B1%E8%A6%81
※4:追想錯誤とは - 介護110番
http://www.kaigo110.co.jp/word/%E8%BF%BD%E6%83%B3%E9%8C%AF%E8%AA%A4
※5:便乗犯罪を防ぐテクニック|原一探偵事務所
http://www.haraichi.co.jp/tantei110/tantei110_technique14.php
※6:「医療費の還付金があります」甘言に注意 急増、府内で昨年50件超 /大阪
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20130105ddlk27040180000c.html
※7:特殊詐欺(振り込め詐欺等)公式ホームページ:警視庁 犯罪抑止対策本部の
http://www.keishicho.metro.tokyo.jp/han_furikome/1_top.htm
※8:時事ドットコム:【図解・社会】振り込め詐欺の推移
http://www.jiji.com/jc/graphics?p=ve_soc_tyosa-jikenfurikome
※9:上手な「ウソ」のつき方・見抜き方
http://www.nikkeibp.co.jp/style/biz/associe/lie/060110_1st/
嘘を見破るには、巧妙な嘘つきの10の特徴を知ろう : ライフハッカー
http://www.lifehacker.jp/2010/06/100601howtobealiar.html
ず's - デマの検証サイト一覧
http://wiliki.zukeran.org/index.cgi?%A5%C7%A5%DE%A4%CE%B8%A1%BE%DA%A5%B5%A5%A4%A5%C8%B0%EC%CD%F7
ピノッキオの冒険 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%94%E3%83%8E%E3%83%83%E3%82%AD%E3%82%AA%E3%81%AE%E5%86%92%E9%99%BA

柔道一直線

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勝つと思うな 思えば負けよ 
負けてもともと この胸の

昭和の歌謡界を代表する歌手美空ひばりが、熱唱した「」(作詞:関沢新一、作曲:古賀政男) の出だし部分である。
この曲は日本テレビ、読売テレビ系列で1964(昭和39)年に放送されたドラマ「柔」の主題歌となり、その名の通り「柔道」をテーマとした曲である。

柔 美空ひばり - YouTube

初めて柔道が正式競技に採用された同年10月開催の東京オリンピックともあいまって、翌1965(昭和40)年にかけて爆発的に売れた。発売から半年足らずで180万枚を超える大ヒットとなったという。
美空ひばりはこの曲で翌・1965(昭和40)年の第7回日本レコード大賞を受賞し、この曲は、美空ひばりのシングル最高売り上げ記録ともなっているそうだ。
冒頭の画像は「柔」で1965年レコード大賞をとった美空ひばりが、12月25日の同賞発表音楽会で「柔」を熱唱。場所:東京・一橋の共立講堂。画像は、『アサヒクロニクル週刊20世紀』1965年号より。
「柔」とは、柔道また、日本古来からある柔術、を言い、現在でも柔術は複数の流派の伝承が存続しているようだが、現代、広く言われているところの柔道は、1882(明治15)年に嘉納治五郎により、創始された武道である「講道館柔道」(正式名称:日本伝講道館柔道)を言っている。
今日ではスポーツ競技・格闘技にも分類されるが、講道館柔道においては「精力善用」「自他共栄」を基本理念とし、競技における単なる勝利至上主義ではなく、身体・精神の鍛錬と教育を目的としている(※2:「嘉納治五郎とは」の遺訓参照)。

「柔」の出だしの歌詞「勝つと思うな 思えば負けよ・・・」。
勝負を争う柔道競技ではあっても、勝つことに執着すると、それは負けにつながると言うことだろう。
また、「柔」の3番の歌詞に次のような一節がある。
「口で言うより手のほうが早い 馬鹿を相手のときじゃない」
「口で言うより手のほうが早い」は、この主人公が短気であることを表しており、そういう主人公だが、今は「馬鹿を相手にしているような場合ではない」。
つまり、喧嘩をふっかけられても相手にせずその力は「柔」に注ぎなさいということである・・・。

嘉納治五郎が創始した講道館柔道の指針として「自他共栄」と共に掲げられている言葉「精力善用」は、柔道は、相手の動きや体重移動を利用し、自分の持つ力を有効に働かせるという原理によって、より大きな力を生むことができる。そして、柔道に打ち込み、修行を積むことによって、自己の能力は磨かれていく。それは日々の生活にも同様のことが言え、その力を使って相手をねじ伏せたり、威圧したりすることに使わず、世の中の役に立つことのために能力を使いなさいということを表しているという(※1の柔道用語辞典を参照)。
このような教えから言うと、この歌の「馬鹿」は道理をわきまえず腕力任せに無理を通そうとするわが身に巣くう愚かさであるのかもしれない。
そう思って聞くと、今年(2013年)1月、女子柔道の国際試合強化選手15名が、全日本女子ナショナルチーム監督である園田隆二を始めとした指導陣による暴力行為やパワーハラスメントを訴えていた問題(女子柔道強化選手による暴力告発問題 - Wikipedia参照)が思い起こされる。
「口で言うより手のほうが早い」と、監督らは聞くに堪えない言葉で選手を罵ったりするだけでなく、殴ったり、蹴ったりしていたというが、このような、女子の指導をめぐる暴力沙汰は柔道家にとって恥ずべき醜態であるが、これは、女子柔道で表面化しただけで、男子柔道ではこのような暴力がないというわけではないだろう。

柔道物といえば私が子供の頃、柔道漫画は少年雑誌において根強い人気があった。その代表作品といえば、『冒険王』に連載されていた福井 英一の柔道漫画『イガグリくん』(※3:テレビドラマデータベースのここも参照)である。ちょっと小太りで坊主頭の中学生で熱血漢イガグリくんの必殺技は“ともえ投げ”。この漫画の大人気を見て、各漫画誌は次々と追随、柔道漫画のブームが巻き起こした。
テレビで最初にヒットした柔道ドラマというのは、1962(昭和37)年12月からTBS系でスタートした『柔道一代』(週刊読売に連載、原作:近藤竜太郎)だろう。
1964(昭和39)年10月9日まで、毎週金曜日に放映(製作会社は国際放映)、されたが、途中1963(昭和38 )年映画化もされた。
原作こそ同じであるものの、テレビドラマが嘉納治五郎の生涯と講道館四天王の活躍を描いていたのに対して(※3のここ参照)、映画は四天王の一人西郷四郎をモデルにした主人公・本郷四郎が強者へ成っていく過程に、青春・友情・恋愛を盛り込んだ物語を描いている。柔道を正式競技に採用する東京オリンピックを翌年に控えていたこともあり、時流を先取りしたものになった。

いかに正義の道とはいえど
身にふる火の粉は払わにゃならぬ

村田英雄が男らしく唄う主題歌「柔道一代」。は、私の愛唱歌の一つともなった。

これに対抗してか、かつて京都に存在していた映画製作会社である日本電波映画(※4参照)はフジテレビ系で1963(昭和38)年11月に「姿三四郎」をスタートさせた(富田常雄の同名小説のドラマ化。※3のここ参照)。

人に勝つより 自分に勝てと
云われた言葉が 胸にしむ
つらい修行と 弱音を吐くな
月が笑うぞ 三四郎

このテレビの主題歌「姿三四郎」も村田英雄が唄っている。

姿三四郎 村田英雄 - YouTube

柔道創成前後の明治時代を背景に、柔術家志望の青年・姿三四郎(講道館四天王の一人、西郷四郎がモデルとされる。)が、矢野正五郎(講道館柔道の創設者、嘉納治五郎がモデル)との出会いによって柔道の世界へと導かれ、様々な試練を経て人間的に成長し、一人前の柔道家になっていく姿を描いている。

上掲の画像は私の絵葉書のコレクションから、黒沢監督映画「姿三四郎」と「続姿三四郎」のポスター絵葉書である。沖縄郵政管理事務所・東京郵政局発行。俳優藤田 進が姿三四郎を主演。
富田の小説『姿三四郎』は、1943(昭和18)年に黒澤明の初監督作品として同名で映画化されるほか、今日までに多数の映画、テレビドラマ、漫画作品の原作となっている。
このドラマは、1964(昭和39)年5月で終了するが、先行の「柔道一代」は同年10月まで続いていた。
その終了から3週間後の10月27日から、日本電波制作の「柔」がスタートした。講道館の創設者嘉納治五郎をモデルにした矢野正五郎を主役に、正しい柔術の道を模索する若き柔術家を描いた作品である。この「柔」終了後、柔一筋(※3のここ参照。1965年4月27日〜10月5日)、続・柔(※3のここ参照。1965年10月12日〜1966年4月12日)と、柔シリーズが制作されている。
いずれもその主題歌は、美空ひばりの「柔」である。この間1965年08月15日からフジテレビ系で「柔道水滸伝」(※3のここ参照。終了は、1966年04月24日)もスタートしており、これだけあると私なども、どれがどんな内容だったがよくわからなくなってしまっている。

そんな中で、柔道物といえば、まず思い浮かぶのが、その後の梶原一騎原作、永島慎二斎藤ゆずる作画による漫画『柔道一直線』ではないか。同名でTVドラマ化もされ、TBS系列で1969(昭和44)年6月22日から1971(昭和46)年の今日・4月4日まで、毎週日曜日午後7時から30分間放送された(※3のここ参照)。

1945(昭和20)年夏に太平洋戦争が“日本の降伏”で終結し、荒廃した日本の復興に国民は力を注いだ。その復興中の日本に1953(昭和28 )年、全く新しいメディアであるテレビが登場した。
街頭テレビが中心のテレビ放送初期に於いて、プロレスプロボクシングプロ野球などのスポーツ中継は、荒廃から立ち上がる日本と重ね合わせて国民の間で熱狂的に受け入れられ、この時期に困難に立ち向かい努力を積み重ねることの美徳が「根性」や「努力」といったキーワードとなって形成された。
TVドラマ「柔道一直線」の原作となった漫画は『週刊少年キング』(少年画報社)誌上に1967(昭和42)年から1971(昭和46)年まで連載されたもので、この時代背景は1968(昭和43)年のメキシコ五輪の前後に相当し、1972(昭和47)年のミュンヘン五輪を目指す日本勢を描いていたもので、大ブームとなった「スポ根ドラマ」の端緒となった人気ドラマである。
同じ梶原一騎が『巨人の星』、『侍ジャイアンツ』と『柔道讃歌』では親子を描いたのに対し、本作では『あしたのジョー』と同様、師弟の絆を描いている。

戦後日本の復興の総決算を象徴する国家的イベントとなった1964(昭和39)年の東京オリンピックの成功を受けて、日本国民の多くがスポーツイベントに関心を寄せるようになり、とりわけ戦後のベビーブームにより増加した若年層(いわゆる団塊の世代)に「スポ根」は漫画文化と共に一気に浸透した。
その後も「欧米に追いつき追い越せ」という国家的スローガンがあったこともあり、団塊の世代以降にも「スポ根」は受け入れられ高度経済成長期の60年代後半から70年代にかけて一大ブームとなった。

ただ、日本を代表する武道の一つでもある柔道は、1932(昭和7)年のロサンゼルスオリンピックで公開競技として登場し、東京オリンピックで初めて採用され、男子のみが正式種目として採用され、重量階級別で実施された。
日本は軽量・中量・重量級の3階級を制覇したものの、無差別級神永昭夫がオランダの巨人・ヘーシング袈裟固一本で敗れた瞬間、会場の日本武道館は信じられないものを見たような静けさに包まれた。
武道=体重無差別という風潮が残っていた当時、最も重要視されていた無差別級で外国人が日本代表を下して優勝を果たした事は、自他共に柔道を「お家芸」と認める日本にとって計り知れない衝撃をもたらした。
『柔道一直線』の主人公・一条直也(主演:桜木健一)の父親もこの東京オリンピックで敗れ、命を落とした。高校生の直也は、亡き父の遺志を継ぎ、再び技の柔道の復権を目指そうと決意する。
そんな直也の前に、彼の人生を変えることになる元講道館の柔道家・車周作(俳優:高松英郎)が現れる。直也は車の「柔よく剛を制す」という柔道の精神に魅せられ、車の弟子となり、二人の長く熱い柔道人生が始まった。
直也は車周作の指導のもと伝説の必殺技「地獄車」などの技を習得、これを駆使して外国人柔道家や日本のライバルたちと戦う・・・。
このドラマは私も観ていた。しかし、細かいことは覚えていないが、「地獄車」など荒唐無稽な色んな技があり、特殊撮影も多用していて、投げられた選手が空中を滑空するシーンなど、見せ場の必殺技を特撮映像で本気で描いていた。
「柔道一直線」と「柔道讃歌(※3のここ参照)は、東京オリンピックでヘーシンクに敗戦した屈辱から日本柔道を立て直すのがテーマになっている。
斉藤仁(1984年ロサンゼルス五輪、1988年ソウル五輪柔道金メダリスト)ら当時少年だった柔道家の多くには、この作品のブームで柔道を始めた者も多くいたという。
ただ、Wikipediaによれば、「地獄車」など荒唐無稽な技が多く出てくるので増田俊也は『七帝柔道記』の中で「この作品が世間に歪んだ柔道観を持たせてしまった」と指摘しているようだが、柔道の知名度をアップするなど、当時の柔道界に果たした貢献度は計り知れないものがあっただろう。
へーシングが無差別級の柔道で勝った時、オランダ関係者が歓喜のあまり畳の上に土足で上がり駆け寄ろうとしたが、ヘーシンクはこれを手で制止して試合場まで上らせなかった。敗者への気遣いであった。へーシングのこの時の行動は「に始まり礼に終わる」という柔道の精神を体現したものとして、現在でも高く評価されている。
そして、ヘーシンクがオリンピックの無差別級の柔道で金メダルを獲得したことは、柔道の国際的普及を促す出来事となった。
ただ、、ヘーシンクの金メダルによって、日本柔道はお家芸でなくなった。そして、技の柔道から力の柔道へと時代は移ろうとしていた。
その後、柔道の国際化が進む中、外国選手を中心とした技術の変化も見られるようになった。これは、海外の柔道競技者の多くは柔道と同時に各国の格闘技や民族武術に取り組み、その技術(フリースタイルや、グレコローマンスタイルのレスリングまた、サンボブラジリアン柔術など)を柔道に取り込んだり、試行錯誤の上新たな技術を考案するなど、日々技術を変化(進化)させてきたという。
このような技術の変化に対して、海外の柔道(世界的に見た柔道)は、武道としての「柔道」ではなく、競技としての「JUDO」になってきた・・・と、柔道の変質を危惧する日本人は少なくないようだ。
東京五輪以降、これまで参加したオリンピックの通算では、日本が獲得する総メダルの4個にひとつが柔道競技によるもので、金メダルにおいては約4割(38%)を柔道競技で獲得していた。
しかし、昨2012年のロンドン五輪では、日本が「お家芸」の柔道において、男子が金メダルを一つも取れなかった(女子は57キロ級で松本薫選手が唯一の金メダルを獲得)。
東京五輪以降柔道が正式競技に加わって以来、男子柔道が金メダル無でオリンピックを終えるのは初めてのことである。
その結果、日本が参加するオリンピック競技において、柔道がもたらすメダルの獲得割合(獲得率)は、ロンドン五輪では金メダルは過去最低の14%、総メダル(金・銀・銅)でも18%となってしまった(※3:「柔道チャンネル」のオリンピックと日本柔道(成績) 参照)。
2008年北京五輪でも女子柔道が金2、銀1、銅2、計5個を獲得しているのに男子柔道は、内柴 正人(66kg級)石井 慧(100kg超級)の2個だけと、男子柔道が惨憺たる結果となったのは、世界柔道の基準に、日本柔道が付いていけなかったことに原因があるといわれている。
日本柔道は、講道館式の柔道に固執し、一本勝ちを堅持する組み手の柔道を基本としているが、世界柔道の基準は、ポイント制に遥か前から移行している。
このことを全く意識せず、本来の講道館柔道に必要以上に固執していることが、日本柔道の惨敗を物語っているというのである。
たとえ、柔道が、日本発祥の武道であり、その精神や本質を高らかに謳っても、世界の柔道には、世界の基準があり、その中で勝負しなければならないのであれば、その基準を受け入れ、その基準に合わせた戦法で戦い勝利することを考える必要があるだろう。
無差別級で、優勝を果たした石井選手は、決勝戦では、「一本」にこだわらず、積極的に前に出ながら技も先にかけて消極的姿勢による指導が2つ相手に与えられるとそのまま逃げ切って勝った。
このような、「一本」をとることよりも「勝ち」にこだわる姿勢をとったこと、また、その言動等で、色々揶揄されているようだが、それは、世界の柔道の基準に合わせて試合をし勝ったのだから批判をされるべきことではないだろう(※5参照)。
身体的能力に劣る日本人が、身体能力の高い、そして、各国の格闘技や民族武術を柔道に取り組み、その技術強化している外国人に、日本式の柔道での勝ちにこだわろうとして、「スポ根」よろしく、無理をした強化練習をしようとするところから、今回の柔道の女子選手の指導をめぐる暴力沙汰事件などへと繋がっていったのではないだろうか。
今では、前時代な価値観と見なされることが多くなった「スポ根」よりも、スポーツにおける「強さ」を単に精神論や根性論に基づく猛特訓だけに求めず、人間工学スポーツ医学などにも配慮する傾向も見られる。
根性論ではしばしば特訓と称して非科学的・非論理的な訓練方法も(コーチの思い付きや誤解にも絡んで)編み出され、これによって傷跡や後遺障害が残るようなケースも現実社会では発生している。
悪がきだった私なども子供のころから親や学校の先生などに色々と体罰を受けてきており、私も息子には教育面からの体罰を加えたことはある。私たちの時代には、程度の差はあるだろうが、ある程度の体罰は普通に行われていた。
今指導に当たっている人たち自身も、しごきや体罰を経験しながら強くなってきた人が多いだろうから、その人たちにしても悪気があってやっている人はいないだろう。スポ根ドラマよろしく、それが良いと思ってやってきたと思うのだが、少々やりすぎる人がいるようだ。
最近のデジタルな人間には「中庸」というものが分からなくなってきているようだ。
1970年代に刊行された月刊誌に『面白半分(おもしろはんぶん)』というのがあった。面白いといっても面白過ぎるとよくない。
面白さも半分ぐらいが丁度良いということなのだが、1980年ごろ廃刊となった。このころから、お笑いでも、下品なお笑いが多くなり、なんでも度が過ぎるようになってきた。つまり、左か右かどちらかしかわからない人間が増えてきたのだ。
私たちが子供のころは子供同士でよく喧嘩した。時には、学校の先生や親の立ち合いの中で喧嘩もした。そんな中でたたき合いの喧嘩をして、負けた方はその痛さを知り、勝った方は、勝った方でこれ以上すると相手が傷つくことを覚え、手加減の大事さを知る。
このようにして、適当なやり方を覚えてゆく。ところが、この頃は、ちょっとした危険なことも喧嘩もしなくなったというよりもさせてもらえなくなっている。そのような経験をしてきていない今の人たちは、何かあるととことんやるきらいがる。何もかも、やりだすと度が過ぎるのである。そんなことから、体罰やしごきが暴力化してゆくのではないかと思ったりするのだが・・・・。
もし、大阪の桜宮高校の体罰事件の報道がなければ、今回の柔道女子選手への暴力事件もヘタすれば隠蔽されていたかもしれない。
どちらも、勝利至上主義による行き過ぎた指導や金メダルを取らねばの プレッシャーなどから起こったものと推測するが・・・。
これからの指導のあり方について十分対策を講じて欲しいものだ。しかし、根が深い問題であり、しばらくは混乱するだろうな〜。

参考:
※1:柔道チャンネル>柔道武道館>柔道用語辞典
http://www.judo-ch.jp/dictionary/terms/
※2:嘉納治五郎 とは Jigoro.Kano
http://ansin-t.jp/Kano.Jigoro.htm  
※3:テレビドラマデータベース-ドラマ詳細データ -柔道一代
http://www.tvdrama-db.com/drama_info/p/id-6543
※4:日本電波映画撮影所 - 立命館大学
http://www.arc.ritsumei.ac.jp/archive01/makino/aruke/aruke9.html
※5:北京五輪石井金メダル
http://www.yohseikai.com/sub12.htm
柔 - 美空ひばり - 歌詞 : 歌ネット
http://www.uta-net.com/song/13083/
柔道女子監督の暴力問題 - Yahoo!ニュース
http://dailynews.yahoo.co.jp/fc/sports/judo_abuse/
柔道一代 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%94%E9%81%93%E4%B8%80%E4%BB%A3

小林一茶が24歳年下の菊と結婚

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平成25(2013)年の今年、芭蕉蕪村に続く江戸時代を代表する俳諧師の一人小林一茶の生誕250年を迎える。
一茶のことはこのブログで、2004年11月19日に小林一茶忌日として簡単に書いたことがあるのだが、今日は違った視点から改めて書くことにした。以前のブログはここを見てください。

「名月の御覧の通り屑家哉」(一茶)

冒頭掲載の画像は『古今俳人百句集』に描かれている小林一茶。画像は、NHKデータ情報部編『ヴィジュアル百科江戸事情』第四巻文化編より借用した。文化15年(1818年)刊『古今俳人百句集』(甲二・米砂・呂律編)。
『古今俳人百句集』には、金令舎道彦(*A)が。九十九房碓嶺(*B)がを書いている。熊谷の草原庵(碓嶺の庵)を訪問したとされる俳人91名、故人9名の句を肖像とともに収録したものだそうだ(*A、*B等古今俳人百句集』については、以下参考の※1:「旅のあれこれ:小林一茶ゆかりの地」の“一茶関連俳書『古今俳人百句集』”を参照)。
『古今俳人百句集』に掲載の一茶の句「名月の御覧の通り屑家哉」の「名月」は、季語で仲秋、天文であり、「屑家」は「屑屋」つまり、「屑」のようなぼろ家(や)という意味。この「御覧」は「月をご覧(見る)」と「ご覧(見る)通りの屑家」とが掛けられており、句意としては、「満月の見事な月を見てご覧。その月光の下の我が家は何とご覧の通りの屑のようなぼろ家であることか。」となるようである(※2参照)。
この句は『文化五年八月句日記』(※3)に初出、文化六年刊の幽嘯(ゆうしょう)編『繋橋(つなぎはし)』には『屑家哉』と改めて入集(※1のここ参照)、以後文化十年刊『古今俳人百句集』等に入集している、一茶の自信作の一つのようである。
小林一茶(本名:小林弥太郎)は、宝暦13年(1763年)信濃北部の北国街道柏原宿(現長野県上水内郡信濃町大字柏原)の中農の長男として生を受けるが、3歳の時に生母を失い、その後祖母の死そして8歳で継母を迎える。
しかし、継母に馴染めず、安永6年(1777年)、15歳の時、江戸へ奉公に出る。以後10年間の消息は定かではないようだが、20歳頃、千葉県松戸馬橋の大川立砂(※1のここ参照)のもとに奉公していたとも伝えられている。
天明 7年(1787年) 25歳のころ、一茶は始め葛飾派の領袖、素丸に拾われ、家の執筆役も勤め(※1のここ参照)、また、小林竹阿(二六庵竹阿。参考※1のここも参照)に師事して俳諧を学び、苦労の末この頃には、「圯橋」の名を使用して俳壇にデビューしていたようだ。
天明 8年(1788年 ) 26歳の時、葛飾派の森田元夢(今日庵。※1のここ参照)に師事し、このころ「菊明」の名を使用。寛政2年(1790年)3月に竹阿が死去すると、改めて、一茶は素丸に入門したようだ。
寛政3年(1791年) 29歳の時、江戸に出て来てからはじめて故郷の柏原に帰っており、このときの帰郷の様子を『寛政三年紀行』(※1のここ参照)に著している)。
Wikipediaによれば、『寛政三年紀行』の巻頭で「西にうろたへ、東にさすらい住の狂人有。旦には上総に喰ひ、夕にハ武蔵にやどりて、しら波のよるべをしらず、たつ泡のきえやすき物から、名を一茶房といふ。」と自身が記しており、この頃から「一茶」を名乗るようになったようだ。
“自分はさすらいの身で、茶の泡のように消えやすい者だから”との意味で「一茶」を名乗っているのだが、このころには江戸で若手俳人として少しは知られ始めていたが、生活そのものは、江戸周辺の葛飾、下総、上総の俳諧門人宅を回って飯と寝床を提供してもらい、帰りしなになにがしかの駄賃をもらう。それが多少たまると借家に帰るというような生活をしていたのであろう。
しかし、どうして、彼は、突然故郷へ帰ったのだろう。

少し当時の歴史的を調べてみると、一茶が故郷にかえった前年の寛政2年(1790年)には、江戸からの帰村を奨励する寛政の改革の一つ旧里帰農令が発令されている(※5:の796旧里帰農令1797旧里帰農令2参照)。これは、当時、江戸へ大量に流入していた地方出身の農民達に資金を与え帰農させ、江戸から農村への人口の移動を狙ったもの、つまり、天明の大飢饉 で荒廃した農村再建のために帰農を政策であった。
一茶の帰郷はこのことともかかわりがあるのかもしれない。一茶は、その翌年より、俳諧の修行のため近畿・四国・九州を歴遊し、寛政10年(1798年) 36歳のとき、 西国の旅を終えると、柏原に帰り、その後また、江戸へ戻っているが、江戸で一家を成すには至らなかったようだ。
享和元年(1801年)、39歳の時、帰省中に発病の父の看病をすることになったが、父は、一茶と弟で田畑・家屋敷を半分ずつ分けるようにと遺言を残して、1か月ほどで死去。
この後、遺産分配をめぐり継母・義弟との対立が始まるが、この時の様子が『父の終焉日記』(※1のここも参照)にまとめられている。
一茶は再び江戸に戻り俳諧の宗匠を務めつつ遺産相続権を主張し続け、その後、一茶が故郷に永住するまで、10年以上にわたって、継母・義弟との財産争いが続き、遺産相続交渉のため江戸と故郷との往復を余儀なくされた。
冒頭に掲載の「名月の御覧の通り屑家哉」の句は、『文化五年八月句日記』(西暦1808年)(※3)に初出と言うので、文化4年(1807年)45歳の時、 父の7回忌法要のため帰郷するも、遺産相続の決着はいまだつかず,遺産相続で争っている中で詠まれたものと言うことになる。
自然美の粋である名月に、人間世界でドロドロ繰り広げられた遺産相続で得ようとしている家をぶっつけた句。こんな茅葺きの屑家を得るためにどうしてこんなに長年争っているのだろうかとの自嘲の思いも入っているのではないか。
江戸で俳諧の一家を成すことができなかった、一茶には、故郷の田地田畑、山林があてにできる唯一のもの。そし て何よりこの地は、おれの本当のおふくろや祖母や、そして親父が眠る、おれの 故郷であり、おれの血の中にも土に生きる農民の血は流れている。 そう簡単には捨てられないよ・・・との思いが強かったのだろう。
しかし、一茶は長男とはいえ、故郷を出たまま 、30年近くも漂白の身の上の男が、いきなり帰ってきて、財産を半分よこせと言っているのであり、その間、義母と弟が、家を守ってきた。
働き者であったらしい義弟により、家産は倍に増えていたらしいから、一茶の半分よこせは、虫のいい話であったとも言えなくはない。
複雑な思いではあったろうが、健康の衰えも加わり、文化9年(1812年)、一茶50歳の時に江戸を引き払い定住するつもりで帰郷する。そして、借家住まいをして遺産交渉を重ね、翌文化10年(1813年)、亡父の13回忌を行い、この時、やっと、和解も成立し、父の遺産の半分を受け取ることになり、義母・義弟夫婦の住む家を二つに仕切って一方を自分の住処とした。
「これがまあ つひの栖か 雪五尺」
句意;五尺も降り積もった雪に埋もれたこのみすぼらしい家が、自分の生涯を終える最後の住まいとなるのか。何とわびしいことか。
以降、ふるさと柏原に定住することになったのが51歳の時であった。
故郷に腰をすえた一茶は、その翌・文化11年(1814年)52歳の時に、母方の縁者で24歳も年下のきく28歳と結婚している(※4参照)。
このきくとの間には、3男1女を儲けるが4人が何れも幼くして亡くなっている。特に最愛の長女さとを失ったショックは大きく、追悼録ともいうべき代表作『おらが春』に一茶は最後の精魂を傾けた(※6参照)。
その後の一茶には、菊の死(37歳で死亡)や度重なる病気、62歳で迎えた2番目の妻雪との半年での離婚、文政10年(1827年)柏原宿を襲った大火に遭い、母屋の消失など、不幸に次々襲われる。
そして、
「焼け土のほかりほかりや蚤(のみ)さわぐ」
句意:火事で焼けたあとの土が、ほかりほかり(オノマトペ=擬声語)とまだ熱い。そんな中で、どもが騒ぎまわっているよ。(【季語:蚤】一茶に蚤の句は多い。参考※7:「長野郷土史研究会」の一茶の資料>一茶発句全集の夏の部・蚤参照)。
この句を遺して、3度目の妻やお(一茶64歳の時結婚)と同棲1年有余の文政10年(1827年)11月、中風の再発により焼け残りの土蔵の中でやおに看とられて65歳の生涯を終えた。
やをは気立てのよい女で、2歳の子どもを一人連れて一茶の家の者になると、よく働き、一茶の面倒もよくみてくれた。また、2番目の妻雪と違って痛風病みのおじいさんである一茶と、一つ蒲団に寝ることも嫌がらなかったという。そんな、やをは、一茶の死後土蔵の中で遺腹のやた女を妊娠。やた女によって血脈を後世に伝え継がれているという。

残された句日記によれば、きくと結婚後連日連夜の交合(性交。交接。媾合とも書く。)に及んでおり、妻の妊娠中も交わったほか、脳卒中で58歳のときに半身不随になり、63歳のときに言語障害を起こしても、なお交合への意欲はやむことがなかったという。
ただ一茶の場合は永井荷風の日記『断腸亭日乗』のように、あちこちの色街を排徊した話ではなく、3人の妻に限られているのが特徴。連日連夜の交合の記録は3ヵ所あるが、文化13年の第1回は、子を得ようとするものだったが・・・。
文化13年(1816年)、一茶54歳の時、4月14日に菊が初めての子(男子)を生むが虚弱児であった。一茶は長沼(長野市)でその報せに接して、15日に善光寺などにお参りしてわが子の無事を祈願してもらうなどし、28日に妻の実家に妻子を見舞い、千太郎と名付けた。
5月11日には、危篤の報せを受けて未明に駆け付けたが間に合わず、生後わずかに28日で、父の看取りも受けず死んでしまった。ネブッチョ仏(寝釈迦)のように、白い帷子(かたびら、死に装束)に包まれて、小さな眼をとじて冷たくなっている。せめてもう一度、眼をあけてくれ、と揺すってみる。
「時鳥(ほととぎす)ネブッチョ仏ゆり起こせ」
その後、千太郎にかわる次の子が欲しいという願望が一茶の胸にふつふつとわき上がったのだろう。
しかし、菊は、出産と産後の疲労、さらには、わが子の死による悲嘆。家や田畑・山林を相続した一茶は、家事や農作業が忙しくても、ただ俳句をつくるだけで農事は一切しない。
田畑の耕作はすべて妻と小作に任せっきりにしていた。菊は一茶と口論したあげく、日頃の鬱憤を爆発させ、家をとび出した。
それから、数日後、菊が帰ってきてから仲直りをし、壁一つ隣り合わせた義弟の仙六一家を気にもせず、54歳の男と30歳の女は、まるで20歳の男女のように賑賑しく睦みあったようだ。ちなみに、この8月の日記に書かれている交合回数がどのようなものか見てみよう(詳しくは、参考※8:「生活習慣病を予防する食生活」の雑穀食・農耕民族の旺盛な性能力−小林一茶の交合記録を参照)。
八日  晴 菊女帰ル 夜五交合
十二日 晴 夜三交
十五日 晴 婦夫月見 三交 
十六日 晴 白飛ニ十六夜セント行クニ留守 三交
十七日 晴 墓詣 夜三交(母の命日)
十八日 晴 夜三交
 廿日 晴 三交
廿一日 晴 牟礼雨乞 通夜大雷 隣旦飯四交(父の命日)
この「交」とあるのが交合回数。
13日、14日に交わりはないが、この日は門弟回りをしていて一茶は家を空けていた。
15日、夫婦で月見をしてからの交合ではなく昼3交し、夜、夫婦で月見をしている。
21日などは、隣村の牟礼で雨乞の祈祷、夜どおし大雷、壁ひとつ隣の家の義弟仙六方で亡父の供養をし、朝食を馳走になったあと、白昼4交に及んでいる。
この日記で「夜三交」とただの「三交」を区別しているが、単に「三交」とあるのは、夜でもなく、未明でも早朝でもなく、昼のようだ。誰に遠慮することもない夫婦二人きりの暮らし、連日連夜、朝・昼・夜の区別ない交合である。
オオナルコユリやナルコユリ(※9参照)の根茎を乾燥した強壮薬で黄精(おうせい)と云うものがあり、一茶は、交合に備えてこのナルコユリを愛用していたらしく、文化14年(1817年)12月3日の日記には、「黄精酒に漬ける、11日黄精食い始める」・・・とも書いている。
とにかく、人生50年と言われた当時にあって、54歳と云えばもう充分な年とも言えるが、これは、若い妻をもった初老の男のあせりなのか、あるいは子種ほしさの切ない戦いだったのか。それとも、一茶の色好みによるものかは知らないが、朝・昼・夜の区別なしの大奮闘は、私などには常識を超えた世界であり、その絶倫というか逞しさには、脱帽の限りである。

しかし、最近は、16歳年下、22歳女優との熱愛が発覚した浅野忠信(※10参照)、56歳にして24歳の女子大生と再婚するラサール石井の32歳差、そして68歳で23歳の女性と結婚した加藤茶の45歳年下をはじめ、堺正章の22歳年下との再々婚と、芸能界の「年の差婚」が続き、世間を驚かせている。
このことについて夫婦・家族問題コンサルタントの池内ひろ美は、この年の差カップルには「セックス回数自慢」が深く関わっていると話しているそうだ。
なぜ彼らが性交回数まで明らかにするのか、・・・それには、理由があり、年齢を重ねていてもまだ子どもを作ることが可能であることを誇りたいオスとしての本能と、若い者に劣っていないという自負がそこにあるという(※11)。
そうだとしたら一茶も同じ気持ちだった…と言えるのかも知らないが、オスとしての本能…という考え方には疑問もある(※12)。ただ、まだまだ元気があるぞと自慢したいだけか、芸能人特有の照れ隠しだろう。自慢している割には、一茶などと比べるとその交合回数などはスケールが小さすぎる。
年配の芸能人などが随分と年下の女性と結婚するなど、「年の差婚」が増えているのは、逆に言えば、自分の父親と変わらない年齢の男性と結婚することに抵抗を感じない女性が増えているということでもあるらしい。
インターネット調査会社の株式会社マクロミルの2011年8月調査(※13参照)によると、結婚対象となる相手の年齢は、36.5%の女性が「10歳上までの男性」と回答し、最多となったが、「15歳年上まで」が12.5%、「20〜30歳上まで」が6.0%、「何歳上でも可」が8.5%で、これらを合わせると「年上の男性と結婚してもいい」と考える女性は、63.5%にも及ぶという。
晩婚化・未婚化が叫ばれるなか、「年の差婚化」が新たなキーワードとして浮上してきた現在の日本では、女性は同世代ではなく、ひと回り年齢が離れているくらいの男性に魅力を感じる傾向が進んでいるようだ。
近年日本は晩婚化の進展に併せて、生涯未婚率(50歳時点で一度も結婚したことのない人の割合)も上昇しており、2010(平成22)年には、男性で20.1%、女性でも10.6%となっており、今後も、男性の出生数が女性より多いことなどもあり、特に男性の生涯未婚率が上昇し、2030(平成42)年には、およそ男性の10人のうち3人、女性の10人のうち2人が生涯未婚であると予測されているという(※14;「平成24年版厚生労働白書」の第1部社会保障を考える:第6章 日本社会の直面する変化や課題と今後の 生活保障を参照)。
このように、若い世代が結婚に消極的であるのならば、日本の将来のためにも、「もう年だから・・」などと悲しいことを言わずに、元気な人は積極的に若い女性と結婚、一茶に負けずに頑張ってほしいですね〜。いや、これは年配の女性も同じですよ・・・。
ちょっと回り道が多かったが元へ戻る。

江戸時代の後期、芭蕉与謝蕪村花鳥風月の美しさを多く詠むなど風流を愛でるのに対して、一茶は農業の厳しさや貧しい生活などを写実的に表現する俳句を多く作り、次第に生活派俳人としての個性を鮮明にしてきたといわれている。
『おらが春』『七番日記』『父の終焉日記』を始め多くの書物を残しているが、これらが発行されたのはすべて没後のことでり、生涯に詠んだ句は20000句を超えるといわれる。
しかし、一茶ほど世間のイメージと実体が違う人はいないのではないか。かっては、にこにこ顔のやさしいおじさんで、「我ときて遊べや親のない雀」や、同じころの「雀の子そこのけそこのけお馬が通る」などの句に見られるように、継子育ちの淋しい生い立ち、それでいて童心を失わぬ人、というイメージであった。
それが、そのあと一転して、不遇な生活のうちに、つむじ曲がりなひねくれ者で、赤裸々な私生活もあけすけに書く野人となっていたことを知って、私なども驚いているところである。

もう5年ほど前だろうか、ケーブルテレビのチャンネルNECO亀井文夫監督映画「信濃風土記より 小林一茶」(1941年東宝文化映画部製作※15参照)を、見たことがある。
わずか30分足らずの小品で、貧しい信濃の風景に小林一茶の風刺に富んだ俳句を重ねて批判的に描いた文化映画であった。亀井の優れた演出で、キネマ旬報非劇映画(ここ参照参照)部門のベストテン第6位に選ばれた。

上掲の画像が同映画のワンカットである。画像は『朝日クロニクル週刊20世紀』1941年号より借用した。この映画は、当初は、フィルムが現存しない幻の第一部「伊那節」、未完の第三部「町と農村」と共に「信濃風土記」三部作の第2作として作られたものである。
文化映画は、戦時下の映画製作の一環としてニュース映画と並んで前年から6大都市を中心に強制上映された。「国民精神の涵養(※16も参照)または、国民知能の啓培」のためである。つまり、戦意昂揚が目的であった。
そんななか、戦前のファシズム体制に抵抗した映画人 として、広く知られている亀井は、このような戦意昂揚の目的を逸脱し、2年前の映画「戦ふ兵隊」(1939年)で敢えて疲れた兵隊を描き軍部から厭戦的だと批判され上映禁止となった。
この「信濃風土記より 小林一茶」は当初、長野県からの依頼を受けて信濃の「観光宣伝映画」として企画されていたものであるが、観光映画ではなく、一茶を農村出の詩人として扱い、彼の句を用いた効果的な編集によって、厳しい農民の生活史を描いた半ば農民映画として描かれている。
そのため、この映画は、文部省により文化映画の認定をはずされた。そして、亀井自身は本作の発表後、治安維持法違反被疑で検挙され1年近くの獄中生活を送った後、映画法により監督資格を剥奪されることになる。
映画の内容は、以下参考に記載の※17:「CineMagaziNet!」のno.15 フィオードロワ・アナスタシア『「旅する」叙情詩人』で詳しく解析されているので見てもらえばよいが、その中ら、一部引用させてもらう。
亀井自身は、本作品では「一茶を通して、郷土の人々の類型的な心を語ろうとした」と述べているようだが、亀井の発言には、映画的テクストとの内実と食い違う部分があり、作中における一茶は、現代を生きる信濃農民の典型「信濃の住民」なのではなく、むしろ彼らとは正反対の人生を送った人物として表象されている。
つまり、地元を遠く離れて人生の大半を旅しながら俳句を詠んで過ごし、50歳を過ぎたときに、初めて信濃に戻ってきた一茶は、農民コミュニティーの一員としてではなく、それに馴染めないでいる不可解な「他者」として描かれているのである。
作中における一茶の疎外感は、永住を決意して故郷の柏原へ帰てきたときに詠んだ先に挙げた句「これがまあ終(つい)のすみかか雪五尺」や、一茶本人の目線を通して強調される。
映画では、一茶の四代目の孫にあたる小林弥太郎は、農業を営む傍ら「ささやかな一茶記念館とも言うべき店」を経営している。カメラはまず、店の中でパイプを吸っている子孫の姿を捉えたあと、棚に飾ってある一茶の肖像画を映し、次に、絵のなかの一茶が手に持つ、パイプのような、黒くて細長い棒(実際、それはパイプではなく、巻物であるが)を映し出す。
亀井は、一茶とその子孫の外見的な類似をほのめかした後、それがあくまで表面的なものであることを明らかにする。
パイプを口にくわえた子孫の顔のクロースアップが表示され、「俺は一茶さんの子孫だが、俺は俳句は作らないが、米作る」という台詞が流れる。
この言葉を一茶の子孫に言わせることで、亀井は、一茶とその他の農民の間に存在する深い溝を浮き彫りにする。
一茶の血を受け継いだ子孫の関心が向けられているのは、詩作ではなく稲作である。
作中において、一茶は自らの俳句を通して農民に語りかけるが、農民は聞く耳と、見る目を持たない。善光寺で必死に祈る女性たちや、一茶の子孫のクロースアップに見られるように、農民たちの眼は、涙で曇っているか、さらに言えばカメラに向けられてさえいない。
また、農民たちは作中において、自らの意思を表明することが一度も無く、農民の心を詠うのは、常に「継子一茶」である。
一茶の子孫は、「俳句は作らない」と発言しているが、その際、彼はパイプをくわえており、その口元は動いていない。・・・農民(大衆)と「他者」とは永遠に交わらない。

「もたいなや 昼寝して聞く 田植唄」
「春がすみ 鍬とらぬ身の もったいな」
一茶自身も農民に生まれながら、農業に従事しないということに引け目を感じていたようだ。田植え唄が風に乗って聞こえて来ると一茶の心は落ち着かない。百姓の自分が農作業もせずに昼寝とは・・ばちが当たる!おちおち昼寝もしていられない。農民の出でありながら鍬を持って農作業もせずに、春がすみの俳句などを詠んでいる。
そんな自分のことを「もったいないことをしている」と感じているわけである。そんな思いからか、一茶の句には農家の暮らしを題材にした俳句が多くある。自ら鍬(くわ)を持たない一茶は、農業を応援する気持ちを俳句で表現するしかなかったのだろう。

一茶最晩年の句に次の一句がある。
「花の影寝まじ未来が恐しき」(『希杖本一茶句集』【希杖本】)
文政10年(1827年)閏六月一日、柏原の大火で15年前義弟仙六と和解して得た家を失い、門弟の家を転々とした後、一茶は土蔵暮らしを強いられる。
その年の11月9日その土蔵で病没。58歳のとき、中風を発し、62歳の時再発しているから、3度発作が起きたのかもしれない。したがって芭蕉や蕪村のように、辞世句はない。
掲句には「耕(たがやさ)ずして喰(くら)ひ織(おら)ずして着る体(てい)たらく、今まで罰のあたらぬもふしぎ也」と前書がある。弟の仙六をはじめ故郷の農民に対して、一茶は生涯、劣等感をもっていたようだ。
一句の「花の影」は西行の辞世句とも言われる「願はくは花の下にて春死なむ」を踏まえていると言われている。

これよりも前、文化2年(1805年)、一茶43歳の時 既に、「耕さぬ罪もいくばく年の暮」(『文化句帖』文化2年12月)と読み、文化4年(1807年)、一茶は45歳の時には、「鍬の罰思ひつく夜や雁の鳴」の句を詠み、この掲句には、「作らずして喰ひ、織らずして着る身程の、行先おそろしく」との前書きがされている。一茶は農民でありながら、鍬も持たず俳句を読んでいる生活に相当早くから思い悩んでいたようだ。

さてこのブログは、これで終えようと思ったのだが、4月9日の朝日新聞朝刊に、「ぷかり浮かぶ愛煙家一茶」のタイトルで、今年6月(旧暦5月5日)で誕生日を迎える小林一茶が、たばこ好きだったことがうかがえる手紙が発見された。・・・との記事があった。以下参照。
一茶、名句の陰に紫煙あり 愛煙家ぶり手紙に
その中に、弟子の村松春甫が描いたとされる小林一茶の肖像画(一茶が60歳の頃らしい)が掲載されていた。

●それが上掲の向かって左の画像であり、長沼の門人、村松春甫が描いた「長沼連衆画象寄合書」の一茶像の膝元にはたばこ盆があり、「句会にはたばこが欠かせなかったこともうかがえる」と書かれていた。ちなみに右は、1日に門人の竜卜宅に泊まり、3日に長沼に行ったところで煙草入れのない鬼気づいた一茶が杉丸の所で忘れたと考え、竜卜に出した手紙と考えられているものの読み下し分である。
この村松春甫(※1のここも参照)が描いた小林一茶の肖像画のことは、このブログで、前に、亀井文夫監督映画「信濃風土記より 小林一茶」の説明の中で、同映画では、「一茶の四代目の孫にあたる小林弥太郎は、農業を営む傍ら「ささやかな一茶記念館とも言うべき店」を経営している。カメラはまず、店の中でパイプを吸っている子孫の姿を捉えたあと、棚に飾ってある一茶の肖像画を映し、次に、絵のなかの一茶が手に持つ、パイプのような、黒くて細長い棒(実際、それはパイプではなく、巻物であるが)を映し出す。」・・・と書いた。
この映画でいっているところの画像は、以下参考に記載の※18:「一茶に学ぶ会(一茶研究会)」の一茶と俳句の研究のページに掲載されている画像と同じのようだ(ここ参照)。
朝日新聞に掲載されている画像には、春甫の落款らしいものがあるが、※18の一茶と俳句の研究のページに掲載の画象には写しと書かれている。肖像画としては落款のある方が本物のように思えるのだが、1941年製作の映画には、映しと書かれた方の画像らしきものが使われているのだが、何故なのだろう?これには、何か意味があるのだろうか?
新聞に書かれている通り、一茶は煙草が好きらしく、たばこの句を多く詠んでいる。参考※7:「長野郷土史研究会」の「一 茶 発 句 全 集」では季題ごとに区が整理され掲載されており、そこにたばこの句も掲載されている。ただし、たばこは季題ではないのでちょっと探し辛いが・・・。
参考:
※1:旅のあれこれ:小林一茶ゆかりの地
http://members.jcom.home.ne.jp/michiko328/1sa00.html
※2:(一茶俳額・俳句鑑賞 五〇「 名月の御覧の通り屑家哉」 ...(Adobe PDF)
http://www012.upp.so-net.ne.jp/yahantei/issa50-61.PDF
※3:一茶の歩んだ道: 文化句帖五年六月名月ご覧の如き屑屋哉
http://takasi-azuma.de-blog.jp/blog/2007/11/post_a3f2.html
※4:一茶ゆかりの里 一茶館・一茶の歴史
http://www.kobayashi-issa.jp/issa-history
※5:日本史史料集>近世(新史料編)>田沼時代〜寛政の改革
http://chushingura.biz/p_nihonsi/siryo/ndx_box/37ndx.htm
※6:一茶の「おらが春」のさわり
http://amanojaku.a.la9.jp/issa.htm>
※7:長野郷土史研究会
http://www.janis.or.jp/users/kyodoshi/
※8:生活習慣病を予防する食生活
http://www.eps1.comlink.ne.jp/~mayus/index.html
※9:イー薬草・ドット・コム・オオナルコユリ
http://www.e-yakusou.com/sou02/soumm254.htm
※10:浅野忠信&仲里依紗、熱愛16歳差! (1/2ページ) - 芸能 - SANSPO.COM
http://www.sanspo.com/geino/news/120203/gna1202030507001-n1.htm
※11:年の差婚の男たちが、性交回数を公言するワケ - AERA - 朝日新聞デジタル
http://dot.asahi.com/life/lifestyle/2012092600761.html
※12:「男の浮気はオスの本能」は正しいか?(前編) - Yahoo!知恵袋
http://note.chiebukuro.yahoo.co.jp/detail/n45632
※13:‘年の差婚’に関する調査(2011年8月2日マクロミル)
http://chosa.itmedia.co.jp/categories/investment/9361
※14;平成24年版厚生労働白書 −社会保障を考える−厚生労働省(Adobe PDF)
http://www.mhlw.go.jp/wp/hakusyo/kousei/12/
..※15:亀井文夫 - 日本映画データベース
http://www.jmdb.ne.jp/person/p0071700.htm
※16:【週報56】 「時局と国民精神作興」 文部省
http://binder.gozaru.jp/056-jikyoku.htm
※17:CineMagaziNet!
http://www.cmn.hs.h.kyoto-u.ac.jp/CMN16/index-2012.html
※18:一茶に学ぶ会(一茶研究会)
http://issafan.web.fc2.com/index.html
平成22年国勢調査 - 総務省統計局
http://www.stat.go.jp/data/kokusei/2010/
日本俳句研究会:俳人列伝;小林一茶
http://jphaiku.jp/haizinn/issa.html
Wikipedia - 小林一茶
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E6%9E%97%E4%B8%80%E8%8C%B6


お香の日(2)

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正倉院『種々薬帳』に記載されている60種類のうち、約40種類が正倉院に現存(※11:「真柳誠[著述等目録]」の8.雑著・雑報の 129)137)参照)し、漢方医薬に用いられたものには、 大黄(ダイオウ・ タデ科、用大黄の根茎) 、厚朴(モクレン科、厚朴あるいは凹葉厚朴の樹皮もしくは根皮)、等の植物由来のもの、寒水石(カンスイセキ・硫酸塩類の鉱物。芒硝[硫曹石]の結晶体) 、禹余粮(ウヨリョウ。酸化物類の鉱物。褐鉄鉱の一種)等の鉱物由来のもの、竜骨(ゾウ、サイ、三趾馬などの古代哺乳動物の骨の化石)、臈蜜(ロウミツ。=蜜蝋[ミツロウ]で検索.ミツバチ科、巣の原料となるもの。中華蜜蜂[和名:ミツバチ]などの働き蜂が分泌する・質を精製したもの。)等の動物由来のもの、
香料では、麝香(ジャコウ。シカ科、麝[ジャ:和名ジャコウジカ]の雄の香腺嚢中の分泌物。)、紫鉱(シコウ。紫膠とも書く。ラックカイガラムシ科の昆虫、紫膠虫[和名:ラックカイガラムシ]の分泌物。紫草茸(シソウジョウ)で検索)、桂心(ケイシン=桂皮[ケイヒ]。クスノキ科ニッケイの樹皮) の実物が保存されている(薬名は※12参照)。

上記薬帳に見られるもののほか、帳外薬物としての木香(モッコウ)丁香(チョウコウ。丁字とも)蘇芳(スオウ),沈香(ジンコウ)も存在している。
沈香は仏教の諸行の中で重要な香木で、香道に用いられ、我国のお香の代名詞とさえ言われる。
正倉院宝物目録での沈香の名は黄熟香(おうじゅくこう)であるが、蘭奢待(らんじゃたい)の名を有し、当代一級の香木とされている。名の由来には諸説あるが、蘭奢待の三文字の中から「東大寺」の字が読み取ることができることかららしい。
この蘭奢待には、室町時代の八代将軍義正織田信長徳川家康明治天皇によって切削されたことが記されているが、このほかにもいくつかの切り口が見られるという。
そのほか正倉院には、全浅香(ぜんせんこう)や、一部に沈香を用いた木画双六局・木画水精荘箱等がある。
これら、香料は、当時としては、薬用、焚香料としての用途が主であった、日本の仏教では、必ず香を炊くことが要求され、法会や祈祷にも貴重な香料を用いることが定められている。
正倉院や法隆寺に香木の現在が蓄えられていたのも、一部薬用と言うこともあるが、仏事での用途に対応したものであった考えてよいのではないか。
これら南海産の品々は、単なる贅沢品のように見えるが、それだけに時の権勢・財力を持つ者にとって、一旦これを用いだせば、無くては済ませられないものとなる。
徒然草』の中で兼業法師が「唐の物は、薬の外は、みななくとも事欠くまじ」(第百二十段。※13参照)と述べているのは、有名だが、産地の特定された薬物・染料等への要求は、近代以前にあっては、一貫して存在したようだ。

天平勝宝5年(753年)、鑑真和上の渡来によって、仏教文化が華開いたのと同時に、中国で行われていた仏教での正しい香の作法や、香の楽しみ方をも殿上人に伝えたとされている。
その頃使われた香類には白檀(ビャクダン)桂皮(ケイヒ=シナモン)、桂心(シナモンの皮から取れる生薬)、などの樹木や沈香の樹 脂 、丁字(チョウジ=クローブ)の蕾、麝香、など、色々あり、これ等を各々粉砕し、その微粉末を混ぜ合わせた「混香」や、更に、それ等に炭粉を混ぜて蜜で練り固めた「練香」であった(詳しくは※14:の「和の香り」香の流れと原料・種類 参照)。
「混香」は主に宗教儀式の為の「焼香」や「塗香」に、又、病を防ぐ「除疫香」として、「練香」は、そのまま置いて「室内香」(火気は用いずに蓋をずらして、ほのかに香りを漂わす。香りが薄れたら、ヘラなどで表面を薄く削る)に、更に、それに熱を加えて「薫香」として、主に人々が香りを楽しむ為に使われた。
そして、仏教とは無関係に香を楽しみはじめたのは、奈良時代後期〜平安時代にかけてといわれている。
上流階級の貴族の間で仏に供えるための香とは区別し、趣味として自分の部屋や衣服、頭髪などに香をたきこめる「空薫物(そらだきもの)」の風習が生まれた。これは、仏への供養である「薫物」に対して生まれた言葉らしく、何が「空(から)」かと言えば、その香煙には「祈りが籠っていない、カラっぽだ」ということからだそうだ(※15:「「e船団」月刊香りとことば)」の31 お香あれこれ(4)空薫物[そらだきもの]参照)。
あの有名な『源氏物語』には、この「薫物」「空薫物」の香りについての記述が多く出てくる。
五十四帖の巻の第3帖「空蝉ウツセミ)」では、空蝉との出会いで、暗闇であったが源氏が薫き込めた香りを嗅いだ女房によって気付かれる話が、良い香りの話の始まりと言える(訳文等※16、※17参照)。巻名は光源氏と空蝉の以下の歌による。
第五段源氏→空蝉
「空蝉の身をかへてける木のもとになほ人がらのなつかしきかな」
注釈:「人柄」に「人殻」を掛ける。「木のもと」は「蝉」の縁語。空蝉の人柄を懐かしむ歌である。
訳文:「蝉が殻を脱ぐように、衣を脱ぎ捨てて逃げ去っていったあなたですがやはり人柄が懐かしく思われます」
「空蝉の羽におく露の木がくれてしのびしのびにぬるる袖かな」
訳文:「空蝉の羽に置く露が木に隠れて見えないようにわたしもひそかに、涙で袖を濡らしております」
源氏の訪れを察した空蝉は、薄衣一枚を脱ぎ捨てて逃げ去り、心ならずも後に残された軒端荻と契った源氏はその薄衣を代わりに持ち帰った。源氏は女の抜け殻のような衣にことよせて空蝉へ歌を送り、空蝉も源氏の愛を受けられない己の境遇のつたなさを密かに嘆いた。
彼女のモデルに関しては、境遇や身分が似ているため、作者(紫式部)自身がモデルではないかと言われている。
この人物は空蝉と呼ぶのが慣例であるが、テキスト本文では帚木と呼ばれる箇所がある。「かの帚木もいざなはれにけり」(関屋)。
「帚木(ははきぎ)」とは人の名前では無く、信濃国園原伏屋にある木で、遠くから見るとある様に見えるが近くに寄って見ると形が見えなくなる伝説の木のことで、姿は見えるのに会えない事を示して居る。

平安貴族たちは、より優美な芳香を求め、その調合を洗練させ、各自が持ち寄った薫物をたき、判者が香りと銘とを総合して優劣を判定する「薫物合せ(たきものあわせ)」(香合わせ)という遊技を生んだ。
優雅な王朝時代から武家の時代へと移行してくると、複雑な薫物の香りに代わり、香木一木(いちぼく)の香りが好まれるようになり、さまざまな香木の香りを聞き比べる「聞香(ききこう・もんこう)」へと発展した。
因みに、香道では、香を「嗅ぐ」と言わず「聞く」と言うが、これは匂いに問いかけをして、五感を研ぎ澄まして一心にその答えを「聞く」という心なのだそうだ。
そして室町時代の華やかな東山文化の下で、茶道や華道が大成するのとほぼ同時期に一定の作法やルールが作られ「香道」が成立する。
江戸時代に入り、香道は貴族だけのものではなく、一般の町民・庶民の間にも広まり香道は日本の伝統芸術として確立し、これが今にも伝わっている。
香には、香を一定の作法に則って香を聞く「聞香」と、文学的でかつ非常にゲーム性に富んだ組香(くみこう)と呼ばれる遊びがある。
季節感のある組香は、その季節に行われるが、そのほか、江戸時代、最も親しまれた香合わせの一つに源氏香があった。
源氏香の成立は享保のころと考えられ、源氏物語を利用した組香である。
私自身、人を迎える心づかいとして香を利用したことはあるが、香道などは習ってもいないのでよくわからないが、これは香を聞く数名の客が、香元から出された香が同じ種類か別のものかを当てる遊びで、それを五本の線で図示する。
源氏香では5種類の香木を5包ずつ合計25包を混ぜ合わせて、そこから無作為に抽出した5包を順に焚いて、香席に5回聞香炉が回される。香席の客は、香りを聞いたら、紙の上に右から順に縦線を引き、同じ香りと思うものは、縦線の上の部分を横線で繋ぐ。そして、5回香りを聞いた後にその図を、源氏物語の巻名に当てはめられた「源氏香之図」に照らし合わせて、巻名で答えて遊ぶのだそうだ。
以下がその図である(Wikipediaより借用)。
ここ→源氏香之図拡大図を見ると、図の説明が見られる。

この時縦線と横線の組み合わせは全部で52通りの図が可能になるが、源氏物語の巻名は全部で54種類あるので、初巻「桐壺」と最終巻「夢浮橋」を除いた「帚木」から「手習」までを当てはめた。
ただし、中には「桐壺」と「夢の浮橋」にも図が与えられているとする説もあるようだが、各々図としての形が与えられているだけで、組香としては意味を成さないものであるため、現在の香道では認められていないようである。52という数から香人は源氏五十四帖を連想したようだ。
最後に、東京都立図書館/貴重資料画像データベースに「源氏香の図」を画題とした浮世絵が54件あるので、以下をクリックして、見てください。ここには、「桐壺」「夢浮橋」を含む源氏五十四帖がすべて揃っている。

東京都立図書館/貴重資料画像データベース:画題等:"「源氏香の図」"を含む浮世絵(54 件)

上掲の浮世絵の絵師は、三代目豊国(歌川 国貞) である。その図柄の面白さがもてはやされ、源氏意匠として絵画や工芸の世界に寄与したと言えようが、源氏香は物語の内容との関連性を持つものではないようだ。

源氏物語では、第32帖の「梅枝(うめがえ)」では、光源氏の養女である「明石の姫君」の入内を記念して「薫物合せ」を催した時の情景が細やかに記載されている。
大宰府などから献上された香木や香料の香りがいまひとつに感じた源氏は、二条院の蔵から古来の品々を取寄せ、それ等を原料として一人当たり二種づつの香りを創らせる。
その詳細や、遣り取り等については、以下参考に記載の※16:「角川文庫 全訳源氏物語(与謝野晶子訳)」や、※17 :「渋谷栄一:源氏物語の世界」を詠まれるとよい。
ここでは上掲の画象のうち資料番号 加8057-033題等「源氏香の図」「梅が枝」の画を1枚ここに借用して見てみよう。ここをクリックすると拡大図が見られる。

この絵に書かれている画中文字は、『源氏物語』第32帖「梅枝」の[第二段 二月十日、薫物合せ]の中に出てくる、朝顔から光源氏にあてた歌である。以下がそれである。

「 はなの香はちりにし枝にとまらねどうつらん袖にあさくしまめや 」

注釈:「散りにし枝」は自分(朝顔)を譬え、「うつらむ袖」は明石姫君を喩える。「浅くしま」「め」(推量の助動詞)「や」(係助詞)、反語表現。浅く薫(かお)りましょうか、いや深く薫ることでしょうの意。「自分を卑下し、姫君の若さを讃えた歌」という。

明石の姫の御裳着(おんもぎ)の準備である。源氏の心遣いは一様ではない。中でも、薫物は源氏自ら六条の院に篭って、調合している。
しかもその調合方法は承和の御代の仁明帝(嵯峨帝皇子。嵯峨 帝は平城帝の弟)が、男子には伝えないとされた秘伝の調合なのである。
紫の上は別に調合の座を造り、八条の式部卿宮(紫の上 の父宮)秘伝の調合をして、源氏と張り合っている。
そんな折蛍兵部卿宮がせわしさ見舞いにやって来る。そこへ朝顔の斉院から梅の枝につけた手紙が来た。兵部卿はかねがね源氏が朝顔に執心であることを知っている。興味津々である。その朝顔の一首である。
歌の意は単純に読めば、「花の香りは散ってしまった枝には残っていませんが、香を焚きしめた袖には深く残るでしょう」・・となるのだろうが、この歌には以下のようなもっと深い意味があるのではないか。
「私如き歳過ぎた者には芳しい花の香も留まりませんように、私が調合いたしました薫物の薫りは、それをが私しては、匂うほどに人々を惹きつけることもありますまいけれど、若く美しい姫君の袖に移りました折には、きっとすばらしい香りを際立たせることでございましょう」・・・と。
この歌には、謙譲の中にも朝顔の源氏への未練と惜春が感じられ、何とも切ない感じがしませんか?

画像は東大寺正倉院収蔵の香木「蘭奢待」Wikipediaより)
※1:日本薫物線香工業会
http://senko-kogyokai.jp/index.html
※2:国立国会図書館のデジタル化資料 - 風来六部集
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2534153
※3:字源-jigen_net
http://jigen.net/
※4:漢字起源説 漢字の起源と由来を探る甲骨文字の旅
http://kanji-roots.blogspot.jp/
※5:岩倉紙芝居館 古典館
http://www.kyoto.zaq.ne.jp/dkanp700/koten/koten.htm
※6:古代史獺祭 列島編 メニュー 
http://www004.upp.so-net.ne.jp/dassai1/index.htm#map_denrayku
※7:淡路島くにうみ神話祭歴史神話マップ
http://www.awajishima-kuniumishinwa.jp/map/index.html
※8:あわじしまの香司
http://awaji-kohshi.com/top.php
※9:パルシェ 香りの館・香りの湯 - PARCHEZ OFFICIAL SITE
http://www.parchez.or.jp/
※10:正倉院公式ケージ
http://shosoin.kunaicho.go.jp/
※11:真柳誠[著述等目録]
http://mayanagi.hum.ibaraki.ac.jp/paperlist.htm
※12:生薬名「異名」(出典)・基原
http://www.naoru.com/44yaku0.html
※13:徒然草(現代語訳付)
http://www.tsurezuregusa.com/index.php?title=%E3%83%A1%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%9A%E3%83%BC%E3%82%B8
※14:和の香り - 漢方薬の きぐすり.com
http://www.kigusuri.com/asano/index.html
※15:「e船団」月刊香りとことばバックナンバー
http://sendan.kaisya.co.jp/kotobakmenu.html
※16:角川文庫 全訳源氏物語(与謝野晶子訳)
http://www.genji.co.jp/yosano/yosano.html
※17 :渋谷栄一:源氏物語の世界
http://www.sainet.or.jp/~eshibuya/
沈香 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%88%E9%A6%99
「源氏千種香?の依拠本を探る」 - 総合研究大学院大学 総合日本文化」...(Adobe PDF)
http://www.initiative.soken.ac.jp/journal_bunka/130321_takei/takei.pdf#search='%E8%8A%B1%E3%81%AE%E9%A6%99%E3%81%AF%E6%95%A3%E3%82%8A%E3%81%AB%E3%81%97%E6%9E%9D%E3%81%AB%E3%81%A8%E3%81%BE%E3%82%89%E3%81%AD%E3%81%A9%E7%A7%BB%E3%82%89%E3%82%93%E8%A2%96%E3%81%AB%E3%81%82%E3%81%95%E3%81%8F%E6%9F%93%E3%81%BE%E3%82%81%E3%82%84'


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お香の日(1)

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今日・4月18日の記念日に「お香の日」がある。
「お香の日」は香文化の普及などを目的に、全国薫物線香組合協議会(現:全国薫物線香工業会※1)により、1992(平成4)年4月に制定されたものだそうだ。
日付は『日本書紀』に日本のお香についての最初の記録と して「595年の夏4月、淡路島に沈水(香木)が漂着した」との記述があることと、「香」の字は分解すると「一十八日と」読み分けられることから。 ・・だという。
沈香(じんこう)も焚(た)かず屁(へ)もひらず」
こんな言葉の替え歌子供の時によく聞いた。特によいところもないが、悪いところもなくて、平々凡々であることのたとえ。長所もなければ短 所もなく、美徳もなければ悪行もない。役にも立たないかわりに、害にもならない。平凡で、居ても居なくてもどうでも構わぬような人のことを皮肉って言うときに使う。
江戸時代の万能学者平賀源内のオナラ(屁)について書いた洒脱でユニークな書物『放屁論』がある。源内の著作、本編、後編があり、後に源内の他の戯作4編と合わせて『風来六部集』として刊行されているようだ。
私は、読んだことがことがないが、日本国語大辞典によると、風来六部集(1780年)放屁論後編に「人は悪かれ我善(よか)れ、義理も絲瓜(へちま)も瓢単も、沈香(ジンコ)も焚(タカ)ず屁も撒(ヒ)らず」 とあるそうだ(ここ参照)。『風来六部集』原本は以下参考に記載の※2:「国立国会図書館のデジタル化資料 - 風来六部集」を参照)。
沈香」、正しくは沈水香木(じんすいこうぼく)は、熱帯産の沈香から製する天然香料である。東南アジアに生息するジンチョウゲ科ジンコウ属の植物である沈香木を土中に埋めて腐敗させて製する。非常に良いにおいがする。
漢字では、良いにおいを匂(※3のここ参照)い、悪いにおいを臭(※3のここ参照)いと書く。ただし「匂」は当用漢字ではなく、また国字である。
よいにおい(匂い)はかおり(旧仮名 かをり)とも言い、漢字は香り(※3のここ参照)・薫り(※3のここ参照)・芳り(※3のここ参照。いずれも当用漢字だが「芳」は表外訓【Yahoo!知恵袋参照】)などを当てる。同じように匂いに関する漢字であるにもかかわらず、その成り立ちはまったく異なる。

「香」という漢字の字源は、穀物である黍(きび)の発酵する時の甘い(うま-い)香りから、出来た字であり、「黍」と「甘」という字を組み合わせた字である。以降黍の音を簡略化し禾とし、ついに「香」という現在の字が出来たそうだ。
一方「臭」は鼻(※3のここ参照)という字と犬(※3のここ参照)という字の組み合わせである。鼻の訓読みは、はじめ(最初のもの。先端。でているところ。)であり、犬が鼻がよく利(き)くところからこの漢字ができたとされているようだ。
どちらも訓読みははじめ(最初のもの。先端。でているところ。)であり、甲骨文字の中にみられるという(※4参照)。
匂いの話は、このブログ「2月1日「ニオイの日」」(ここ参照)でも書いているので、多少重複はするが、今回は前とは少し切り口を変えて書くことにする。

香は仏教における焼香、神道における献香キリスト教では正教会振り香炉などで頻繁に用いられる等、洋の東西を問わず様々な宗教で礼拝や儀礼に用いられている。
もともと日本には無い植物である香木が日本に伝来したのは、いったいいつ頃のことだろうか?
香木の日本への渡来について、歴史に記されているものとしては、『日本書紀』巻第二十二 推古天皇の段には以下のように記されている。「三年夏四月、沈水漂著於淡路嶋。其大一囲。嶋人不知沈水、以交薪焼於竈。其烟気遠薫。則異献之」(※5:「岩倉紙芝居館 古典館」日本書紀巻第22-1参照)
推古天皇3年は西暦595年である。この香木は沈水とあるから沈香(じんこう)の木と思われるが、沈香は、名前の通り木質が堅く重いので水に沈むものであるので他の香木か、あるいは質の悪い軽い沈香かもしれない。
それが何であるにしろもともと日本で香木は採れないから、黒潮に乗って南方から流れてきた香木ではあったのだろう。
また、 “其大一圍” の、“”は“かこむ“の意味であり、”その大きさ、“ひといだき“だから、三尺程になる。現代語訳にすると、以下のようになるのだろう。
「西暦595年夏4月、沈香(香木の一種)が淡路島に漂着した。その太さは三尺程もあった。島人は沈香ということを知らず、他の薪と共に竈の薪としてくべた。するとその(煙)が遠くまでよい薫(香り)を漂わせた。そこでこれは不思議だとして(朝廷に)献上した。
このことは聖徳太子の目にも触れることとなり、太子はすぐにそれを「沈香木」と見抜いたといわれ、同様の記述が『聖徳太子傳歴』にも以下のように記されている。
「三年 乙卯春三月 土佐南海 夜有大光 亦有声如雷響 經卅箇日矣 夏四月 著淡路島南岸 島人不知沉水 以交薪燒於竈 太子遣使令献 其大一圍長八尺 其香異熏 太子觀而大? 奏曰 是爲沉水香者也 此木名栴檀香木 生南天竺國南海岸・・・」。・・・と(※6:「古代史獺祭 列島編 メニュー」の中の14.聖徳太子伝暦上巻原文を参照)。
これは、聖徳太子24歳、推古天皇3年(きのとう)春3月、4月の出来事であるが、同じことが、鎌倉時代初期(1195年頃)の水鏡にも以下のように書かれている。 
「世を知ろしめす事、三十六年。位に即き給ひて明くる年の四月に、御門(みかど)「わが身は女人なり。心に物をさとらず。世の政は、聖徳太子にし給へ」と申し給ひしかば、世の人喜びをなしてき。太子はこの時に太子には立ち給ひて、世の政をし給ひしなり。その前はたゞ皇子と申ししかども、今、語り申す事)なれば、さきざきも太子とは申し侍りつるなり。御年(おんとし)二十二になんなり給(ひし。
今年四天王寺をば難波荒陵(なにわあらはか)には移し給ひしなり。元は玉造りの峰に立て給(たま)へりき。三年と申(まう)しし春、
沈はこの国に始めて波につきて来たれりしなり。土左の国の南の海に、夜毎に大いに光るものありき。その声雷のごとくにして、三十日を経て、四月に淡路の島の南の岸に寄り来たれり〔き〕。太さ人の抱く程にて、長さ八尺ばかりなん侍りし。その香しき事たとへん方なくめでたし。これを御門(みかど)に奉(たてまつ)りき。島人なにとも知らず。多く薪になんしける。これを太子(たいし)見給(たま)ひて「沈水香と申(まう)すものなり。この木を栴檀香といふ。南天竺の南の海の岸に生ひたり。」・・・と(以下参考の※7:「水鏡 - J−TEXTS 日本文学電子図書館」の日本文学叢書本・水鏡の巻之中第三十五代 推古天皇の条P052以降参照)。
まるで、上記6で紹介した『聖徳太子傳歴』(原文)の翻訳のようで判り易いでしょう。続いてもう少し読んでみよう。ここも、『聖徳太子傳歴』の翻訳の様だ。
「この木冷やかなるによりて、夏になりぬれば、もろもろの蛇まとひつけり。
その時に、人かの所へ住き向ひて、その木に矢を射立てゝ、冬になりて、蛇の穴にこもりて後、射立てし矢をしるしにて、これを捕るなり。
その実は鶏舌香。その花は丁子。その油は薫陸。久しくなりたるを沈水香といふ。久しからぬを浅香といふ。御門(みかど)、仏法を崇め給(たま)ふが故(ゆゑ)に、釈梵・威徳の浮べ送り給ふなるべし」と申し給ひき。御門(みかど)この木にて観音をつくりて、比蘇寺になん置奉り給ひし。・・・・」と。

淡路島に流れ着いた香木は、朝廷に献上されたのち、御門(天子・天皇の位。また、天皇の尊称)によって観音像が作られ、吉野の比蘇寺(ひそでら)に奉納したとしている。
比蘇寺は、現在の奈良県吉野郡大淀町比曽にある曹洞宗の寺院世尊寺のことである。
また、淡路島の海岸沿いにたたずむ枯木神社には、今もその香木をご神体として大切に祀られているという。
そして、同島にある伊弉諾神宮境内には、香木伝来を記念して石碑が建てられているようだ。
『日本書紀』・『古事記』には、国産み神産みを終えた伊弉諾尊(イザナギ)Iが、最初に生んだ淡路島多賀の地の幽宮(かくりのみや、終焉の御住居)に鎮まったとあり、これを当社の起源としている(※7参照)。
そして、淡路市一宮地区(旧津名)といえば、昔から香の一種線香の生産で有名なところである。
線香は、16世紀の終わり天正年間(1573–1592年) に、当時貿易で栄えた大阪・に中国から線香の製法が伝わり、日本独自の押し出し機を使った製法を導入し製造したのが日本最古の線香とされている。戦前には堺市「が全国生産量の約60%を占めていたようだが、嘉永3年(1850年)に堺の職人から淡路市の一宮地区に製造方法が教えられ製造を始め、昭和30年代半ばには一宮地区が線香生産量日本一となり、現在では全国生産量のうち、70%を占めているという(※8)。
一宮地区内には線香事業所や下請け業者が多数並び、このエリアでは4人に1人が線香に関っており、町並みを歩くと、どこからともなく良い香りが漂ってくる。また、線香産業を核にした総合計画を展開しており、香りをテーマにした「パルシェ香りの館」は、150種類のハーブを植裁する香りのテーマパークとして整備されているそうだ(※9参照)。
そういえば、今日の記念日を制定した日本薫物線香工業会の事務局は、淡路市志筑新島5-2の淡路市商工会内にあるようだ。

先にも述べたように仏教伝来の年代を巡っては諸説あるが『日本書紀』によると、6世紀の欽明天皇の時代に百済百済から仏像が贈られたが、これの扱いを巡って、崇仏派の蘇我氏と廃仏派の物部氏等が争いが発生した。
そして、欽明天皇13年(552年)10月、廃仏派が仏像を難波堀江に投棄し、また、敏達天皇14年(585年)にも、物部守屋仏舎利塔を倒し、寺に火を放ち、仏像、仏殿を焼き、焼け残った仏像を難波へ運び、前回と同じく堀江に捨て、海に流し去らしめたと記録している。
両者の対立は、用明天皇の没(587年)後さらに激しさを増し、蘇我馬子は物部守屋討伐の軍を起こす。
この時討伐軍に参加した聖徳太子は四天王像を彫り戦勝祈願し、勝利すれば一寺を建立すると誓いを立て、物部守屋の滅亡後誓願どおりに寺を建立した。これが四天王寺である。
仏教の隆盛に伴い、奈良時代には中国大陸との交流が盛んになると、をはじめ、多くの香料・香炉が日本に入ってきた。単に文献にその名を認めるのが大半であるが、有難いことに幾つかのものが、正倉院や寺院の宝物殿蔵に当時の姿を伝えている。

天平勝宝8年(756年)に光明皇太后が、夫聖武天皇の七七忌に、天皇遺愛の品約650点と、約60種の薬物を東大寺の廬舎那仏(大仏)に奉献した。この時香料も薬用として献ぜられたため、薬として一括され献納目録が作られている。
正倉院の薬物は原則としては『種々薬帳』に記されている。薬物60種のうち竜骨と犀角が三種づつあるので、厳密には56種であるようだ。これらはすべて外国産のもので、それらのうち約6分の1が南海産のものだという。

お香の日[2)・参考

マンセッション

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今「マンセッション(mancession)」という言葉が流行しているらしい。
マンセッション(mancession)」は「男性(man)」と「不況(recession)」を組み合わせた造語(男性不況)で、男性の失業が女性よりも深刻な状態を指す新語だそうだ。
4月19日付の朝日新聞「天声人語」(※1)でも触れていたので、ちょっと書いてみる気になった。
自民党の野田聖子総務会長は、当面の重要政策課題をめぐって、4月2日、都内での経団連との意見交換の中で、以下のように述べたと言う(※2)。
「今後、日本がかつてない人口減少社会に突入するという認識のもと、規制改革成長戦略を実行したい」(※3の「成長戦略」とは?参照)
「『ウーマノミクス』(※4参照)という言葉があるが、女性を活用すれば、GDPが15 %は上がるといわれている。他方、男性の失業率が女性の失業率を上回る『マンセッション(男性不況)』になっている。これが、少子化の一因となっている」
「2020 年までに指導的地位に女性が占める割合が少なくとも30 %程度になるよう期待するという政府の目標は、女性の活躍推進に向けた思いの表れである。すべての分野で優秀な女性が活躍できるよう、尽力したい」と述べ、党として成長戦略や規制改革など、さまざまな課題に取り組む姿勢を示したという。

この「マンセッション」という造語はリーマン・ショック(2008年9月)後の米国で流行し始めたものらしい。
このショックによる不況の原因は、欧米での住宅・不動産バブルの崩壊と金融危機(サブプライム住宅ローン危機)だが、前者は、欧米での住宅・建設需要の大幅な減少をもたらし、後者は、特にリーマンショック以降全世界的に、自動車をはじめとする耐久消費財の需要や企業の設備投資意欲の大幅な縮小を引き起こした。
男性の雇用が多い建設業や製造業・運輸関連などでは非常に大きな供給能力の過剰を抱え込むこととなり、リストラを迫られ、男性失業者が大幅に増加することとなった。
一方、教育や医療に代表されるサービス産業は、この時の不況の原因ではない上に、自動車や家電の企業のように先行き不安などから消費がすぐに落ち込むといったことにはなり難いが、特に先進国では共通して高齢化が進んでおり、医療・福祉関連にはその傾向が強い。
サービス産業でも景気全体の悪化の影響を受けない訳ではなく、それ相応に雇用の削減はある。したがって、医療・福祉などのサービ産業に努める比率の多い女性の失業率も悪化はするものの、その程度は男性に比べれば小さいもので済むことになる。
この男性失業率の大幅な悪化は、バブルの歪みがもたらしたものであるため、欧米諸国では、その調整が一巡し、供給能力に見合った需要が回復するまでは、今のような傾向が長期間続く可能性が高い。その後、米経済の回復とともに、失業率の男女間格差は縮まってきたが、依然として、男性の失業率が女性を上回る先進国は多い。
その背景には、雇用を生み出す産業構造の変化と共に男性から女性への主役の交代があるとされている。ただし,これら 女性の仕事には、賃金水準が相対的に低いという問題が絡んでいる。
一方日本は、自動車などの輸出の大幅減少が雇用悪化の引き金となっており、自国内に原因があるわけではない為、輸出の回復に伴って製造業の雇用も徐々に回復していくものの、輸出の回復は中国やアジア諸国といった新興国での需要の拡大がもたらしている。このことが円高と相まって、生産拠点が海外へ移転していく状況を引き起こしているようだ。また、公共事業削減の影響が大きい建設業の需要が落ち込んでいる。

少し話は横道にそれるが、米マサチューセッツ州の州都ボストンで今月の15日に開催されたボストンマラソンのゴール付近で2回の 爆発が起きた。
当日は、アメリカ独立戦争開始の特別な記念日「愛国者の日(ペイトリオッツ・デイ)」で、同州では祝日だったため、多くの人が応援に駆けつけていたことから、大勢の負傷者を出し、8歳の少年を含む3人が死亡する事件が起きた。
オバマ大統領は翌16日の会見で、現段階で犯人像をつかめていないとした上で、「米国は悪に対処する」と述べ、連邦当局も当初より残虐なテロ行為とみて犯人と見られる2名の男性を公開捜査をし、早々と逃亡中の2名の犯人(チェチェン人兄弟)と銃撃戦の末、1名は死亡、1名は逮捕して、取り調べている旨昨22日には報道があった。
どうも、同兄弟は、別のテロ事件も計画していた可能性があったようであること、イラン国内に拠点を置く国際テロ組織アルカイダの支援を受けていたらしいとの報道も耳にはするが、米国内では、頭もよく真面目だったという青年が、どうしてこのような大それた事件を起こしたのかその動機等は正確にはまだ解明されていないようである。
ただ、ボストンマラソンでの爆破事件が起きたとき、その爆発物の爆発力が小さかったことなどから、一部専門家筋は、「専門のテロ集団とは異なり、米国に不満を持つ国内在住人による、何かしらのアピール目的が強いのではないか」と話していた。
私は、そのような爆破事件の報道を聞いて、リーマンショック以降、いまだ、男性の雇用問題がなかなか改善されない現状にあって、この「マンセッション(mancession)」という言葉と関連して、働きたくても働けないことに不満を持っている人たちの中の一部過激派がお祭り騒ぎで騒いでいる人たちに不満をぶつけた事件であり、日本で起きた秋葉原通り魔事件的なものかもしれないなどという思いが頭をかすめ、急にこのブログを書こうと思った次第である。

日本は,欧米よりも失業率は低く、男女格差も小さかったが、失業率も徐々に高まり、欧米と同様に、男性が女性を上回るようになったのは1997年〜1998年かららしい(日本の失業者数・失業率参照)。
最新データーとしては、総務省が発表した平成25年2月の労働力調査(速報)によると、完全失業率(季節調整値)は前月より0.1ポイント上昇し4.3%となった。男女別では、男性は前月と同水準の4.6%、女性は前月より0.1ポイント上昇し、3.9%となっている。
また、男女別にみた対前年同月比は、男性は6万人減少の171万人、女性も6万人減少の106万人となっている(※5:「総務省統計局・統計データー」の労働力調査(基本集計) 平成25年[2013年)]2月分結果の概要参照)。
総務省は失業率悪化について「国内景気の回復期待で、職を求める女性が増え、結果として失業者増となったため」と分析。今後は女性の就業が進む可能性があるため、短期間のうちに大きく悪化する公算は小さいとしている。
また、有効求人倍率は、求職者1人当たり企業から平均何件の求人があるかを示すが、人手不足感の強い医療・福祉などで高水準の求人が続く一方、自動車など製造業の求人が前年に比べて減少したという(※6)。 

失業を測る尺度である失業率は、労働力人口に対する失業者数の割合で定義される。
失業者とは「働く意思と能力があるのに仕事に就けない状態にある人」を指すので、仕事探しをあきらめた人は失業者には含まれない。
ちなみに、労働力調査では、働く意志があるとは、ハローワークに通って職探しをするなど仕事を探す努力や事業開始の準備をしていること、・・・とされている。
したがって、病人を介護している、幼い子供がいる(保育園に入れなくて待機中)、アルバイトやフリーターなどしている。また、就職難で職 に就けないので就職を半ばあきらめハローワークへ行っていない人など失業者に含まれていない者が多くいる。
政府が雇用維持を目的に、雇用調整助成金を支給したことによって、本来は解雇や派遣切りの対象となっていた可能性のある就労者の雇用が守られている人も失業者には含まれていない。そして、近年この様な雇用調整金がなければ、解雇や 派遣切りの対象となる人が増加しているようであるが、このような人は失業者にカウントされていないので、「隠れ失業者」と呼ばれており、この「隠れ失業者」が、日本の失業率を過小評価し実態を反映していないという指摘もある。
もしこれらの人々を失業者にカウントすると、日本の失業率も発表されている数字の培ぐらい、つまり10%近い高い水準になるのではないかと言われている(労働力調査における失業者や失業率の定義については、「労働力調査」の項目参照)。

総務省統計局の2013年4月16日発表の報道資料:人口推計(平成24年10月1日現在)によると、
日本の総人口は1億2751万5千人となり、前年に比べ28万4千人(0.22%)の減少と2年連続で大きく減少している。
そして、総人口の老年人口(65歳以上)は3079万3千人となり、前年に比べ104万1千人増加、初めて3000万人を超えている。
これまで総人口の増加幅は縮小傾向で推移していたが、平成17年に戦後初めて前年を下回り、以降減少を繰り返し、自然増減は6年連続の自然減少(出生者数<死亡者数)であり、男女別にみると、男性は8年連続、女性は4年連続の自然減少となっている。
人口性比(女性100人に対する男性の数)では94.7%となっており,女性が男性より345万6千人多くなっている(1、人口動向参照)。
また、年齢別人口をみると我が国の人口ピラミッドは、第一次ベビーブーム期(1947年から1949年)生まれが65歳になり、前にも書いた老年人口(65歳以上)に含まれている。
我が国の人口ピラミッドは、近年、出生児童数が第2次ベビーブーム期(1971年から1974年)をピークとして減少傾向が続いていることを反映し、二つのベビーブーム期の人口が膨らんだひょうたん型に近い形となっている。
年齢3区分別にみると、年少人口(0〜14歳)は、1654万7千人で前年に比べ15万8千人の減少、生産年齢人口(15〜64歳)は、8017万5千人なのに対して、老年人口(65歳以上)が3079万3千人で、104万1千人の増加となり、初めて3000万人を超えた。なお、75歳以上は1519万3千人で48万5千人の増加となっている(2、年齢別人口を参照)。

このように、日本の人口は、1940年代後半のベビーブームが起きて以降、1950年代には希望子供数(※7)が減少し多産少子型→少産少死型(人口転換参照)へと変化しており、これは先進国共通の現象ではあるが、日本は、先進諸国に比較して急速に進展している。
今の人は「しょうしか」と言う言葉を聞いて「少子」という漢字を思い浮かべる人たちが多いと思うが、このようになったのは、最近のことであり、「少子」と言う言葉は、本来は「一番若い子。末子」と言う意味で「子供が少ないという言葉ではなかった。
しかし、『広辞苑』では第5版(1998年)から、「少子化」と言う言葉を掲載し、「出生率が低下し、子供の数が減少すること」と説明し、「1992(平成4)年度の『国民生活白書』で使われた語」と言葉の出所を明らかにしている。
「少子化」という言葉が頻繁に使われるようになったのは、この白書以降とみられるが、そもそも出生率の低下が社会的な関心を集め、政策課題として取り上げられるようになったのは、1989(平成元)年のいわゆる「1.57ショック」からである。
これが、『平成4年度国民生活白書』では、「出生率の低下やそれに伴う家庭や社会における子供数の低下傾向を「少子化」「子供や若者が少ない社会」を「少子化」と表現している。
人口学の世界では、一般的に合計特殊出生率が人口を維持するに必要な水準(人口置き換え水準)を相当期間下回っている状況を「少子化」と定義している。
女性が平均2人の子供を生むと(合計特殊出生率が2.0の状態)と人口規模は維持できる。より正確には生んだ子供が、今度は自分が産む番には亡くなるケースがあるので、人口置換水準は2,07(平成17年版厚生労働白書)となるそうだ。
日本では、1970年代半ば以降、この「少子化現象」が続いているが、これに関しては、まず、近年の女性の結婚行動の変化があげられる。
わが国では、北欧諸国とは異なり、婚外出生の割合が低く(1980年0.80%→ 2003年1.93%にアップしている(婚外子割合の国際比較参照)が、結婚してから子供を産む場合が多く、日本において、女性の結婚行動と出生率は直接関係しているともいえるだろう。
近年の女性の高学歴化と社会進出により、「男は仕事、女は家事」という従来の価値観が変わってきた。特に経済的に自立している女性は、結婚が絶対に必要なことではなくなった。
この様なことが女性の平均初婚年齢の上昇、いわゆる晩婚化・晩産化につながるが、それがさらに進み、そのことが、世代ごとの比較を見ても、出生率を押し下げる結果となっている。
また、そのような晩婚化の進展に併せて、男女ともに生涯未婚率(50歳時点で一度も結婚したことのない人の割合)が上昇しており、2010(平成22)年には、男性で20.1%、女性でも10.6%にもなっており、今後も、男性の出生数が女性より多いことなどもあり、特に男性の生涯未婚率が上昇し、2030(平成42)年には、およそ男性の10人のうち3人、女性の10人のうち2人が生涯未婚であると予測されているという。
このような、晩婚化や非婚化など好んで結婚しない人達ばかりではなく、未婚の女性にとって出産は、男性社員とは違って、キャリアが中断されるというデメリットがあるため、女性の就労のあり方が問題となる。
近年、社員ではない派遣労働やパートタイム労働者の採用増など企業の雇用形態が変化して来ており、これら派遣、パートタイマー等の場合は、特に正規社員以上に育児休暇を取得後の職場復帰の難しさがあり、安定した職業に就けない不安を生む。
また、多くの女性が就労しているサービス産業などの職種は、男性が主として就労している第1次、2次産業などに比して低所得であることが多いが、日本では、子供の教育に多くの費用がかかるため所得がないと子供が育てられない。そのため、結婚したくても将来の計画がみえないために結婚を諦めざるをえないケースも増えているようだ。

労働力が高い国は出生率も高いといわれる。これは働きながらでも十分に子供を産める環境や制度があることを示し、育児と勤労を両立できることによって、1人が第1子、第2子と産める経済的なゆとりができる。
核家族化の進んでいる日本にあって、保育所の不足は自身では解決できないし、小児科の医師不足においても同様に解決できない問題である。社会全体が子供を持つことで不安にならずに安心して暮らせる状態を作ることが大切である。
出生率を回復させるためには、公的給付や、子供を持つ世帯に配慮した税制、仕事と家庭を両立させるための出産・育児休暇制度の改善などにより、「子供を持つことで損をしない、子供を産んで良かった」と感じられる状態を作りだすことが少子化対策の最も大切なことであるとは考えるのだが・・・。
少子化の問題には、それを招く要因はいくつもある。、今取り組まなければいけない課題などは、『平成24年版厚生労働白書』(※5参照)の第1部第6章 日本社会の直面する変化や課題と今後の生活保障のあり方で明らかにされているし、参考※8:「内閣府>共生社会政策》少子化対策」の中にある公表資料『平成24年版 子ども・子育て白書』(旧少子化社会白書)の中で、少子化への具体的な対処施策が述べられている。
要は、これが、実現できるかどうかであるが、この様な、少子化の問題や解決すべき課題などはすでに『平成16年版 少子化社会白書』で、明らかにされていることであり、ただ、それが、問題解決には及ばず、むしろ、結果的には、男性に職がなく、女性の能力も十分にはいかされず、若い人は結婚も出産もかなわず、少子化と高齢化は止まらず、人口減少が進むばかり・・・といった状況が続いているのである。
天声人語で、「子をもちたい人を後押しするのは当然としても、その流れを変える特効薬は見当たらない。いまどき“産めよ、殖やせよ”はありえないし、対症療法はあっても追いつかない。問題の根はずっと深いのだろう」と言っているがまさに通りだろう。
今問題となっている、年金問題、医療費問題等も同じだ。
汚い話だが、子供を産んで幸せを感じるにも、つまるところは、「お金のゆとりがあるかないか」・・・にかかわってくることなのだろう。
今、日本はデフレ経済からの脱却、名目3%以上の経済成長の達成などを目標にしたアベノミクスへの期待が高く、円安効果で、株価は急上昇し、輸出関連企業にいい影響が出ているので、このまま狙い通りに経済が上向いてゆけば、ひいては、サラリーマンの雇用や給与アップも改善され、それが、少子化問題をはじめ日本の諸問題の改善にもつながってゆくのだろうが、「早くも息切れを示し始めた」・・・と警告を発するエコノミストも現れ始めた(※9参照)。
もし、失敗すれば、そのつけは・・・、などと考えるとゾッとする。
将来生まれて来る子供達に大きな付けを残さないようぜひ成功してもらいたいものなのだが・・・・。

(画像は、重要政策課題について発言する野田自民党総務会長。参考※2より借用)
※1:朝日新聞デジタル:天声人語
http://www.asahi.com/paper/column.html
※2:野田・自民党総務会長との懇談会開催 - 日本経済団体連合会
http://www.keidanren.or.jp/journal/times/2013/0411_03.html
※3:世界一を目指していきたい〜成長戦略の策定に向けて(首相官邸)
http://www.kantei.go.jp/jp/headline/seicho_senryaku2013.html
※4:“ウーマノミクス(女性経済)”が日本を変える - NHK クローズアップ現代
http://www.nhk.or.jp/gendai/kiroku/detail_2983.html
※5:総務省統計局・統計データー
http://www.stat.go.jp/data/index.htm
※6:時事ドットコム:【図解・経済】完全失業率と有効求人倍率(最新)
http://www.jiji.com/jc/graphics?p=ve_eco_jobless-rate
※7:希望子供数とは - 人口統計学辞書 Weblio辞書
http://www.weblio.jp/content/%E5%B8%8C%E6%9C%9B%E5%AD%90%E4%BE%9B%E6%95%B0
※8:内閣府>共生社会政策》少子化対策
http://www8.cao.go.jp/shoushi/index.html
※9:早くも息切れを示し始めたアベノミクスマジック
http://uekusak.cocolog-nifty.com/blog/2013/04/post-1f0c.html

庭の日

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今日・4月28日は「庭の日」。
造園への関心をもっと高めようと、全国の庭づくりのプロが集う日本造園組合連合会(※1)が制定したもの。
日付は4と28を「良(4)い庭(28)」と読む語呂合わせと、全国的に庭が美しく映える時期となることから。・・・と、日本記念日協会の由緒には書かれていた。

庭は、木や植物、草花を植えたり、石や池などを配して花壇として住民の安らぎや慰みの場として利用されることが多い。
住宅敷地の小さな空間に設けられる庭を「坪庭(つぼにわ)」と、またその本格的で規模の大きなものは、「庭園(ていえん)」と呼ばれることもある。
現代では、屋根のある庭、室内庭園、全く植物を用いない庭(平庭)なども、「庭」と称されることもある。

漢字の「」の字源は、部首:「广」(家)+音符「」(テイ;まっすぐに伸びたの意)の会意形声文字であり、「ニハ」は、古くは家屋の前後にある空地、これが転じて、神事や狩猟・農事などの祭祀の行われる場所や、なにかを行う平らな土地をさしていっていたようだ。
今では、築山(つきやま)、泉水ないしは植え込みを設けて観賞の目的とする空間の呼称となっている。
奈良時代には、草木が植えられたり、池が造られたところは「園」や「山斉(しま)」「島(しま)」と呼ばれており、「庭」と区別していた。
以下は『万葉集』に掲載されている歌である(参考※2:「たのしい万葉集:」参照)。

歌:妹として、ふたり作りし、我が山斎(しま)は、木高く茂く、なりにけるかも(巻三-452。作者:大伴旅人
意訳:君(妻)と一緒に作った家の庭は、木も小高くなり枝も茂ってしまったな〜。

九州大宰帥(だざいのそち。長官)だった大伴旅人が、任を解かれて天平2年(西暦730年)の暮れに平城京の自邸に帰ってきて詠んだ歌。山斎(しま)とは庭の山水のことで、庭に築かれた築山や池泉を指している。
次の453番歌ともに亡き妻を偲ぶ歌であり、大伴旅人の邸宅に築山や池泉が築かれていたことを窺わせる歌である。
因みに453番歌は以下の通り。

歌:我妹子が植ゑし梅の木見るごとに心咽(む)せつつ涙し流る(巻三-453。作者:大伴旅人)
意訳:あなたが植えた梅の木が、こんなにも育っている。それを見るたびに私はあなたを思い出し、胸がつまって、涙を流してしまうのです。

奈良時代には、草木が植えられたり、池が造られたところは「園」や「山斉(しま)」「島(しま)」と呼ばれており、「庭」と区別していたが、平安時代ごろから庭園の意味に転じた。

はバラ科サクラ属の落葉低木である。1〜3月、葉が出る前に白、ピンク、紅などの花が咲く。中国が原産で、かなり古い時代から日本でも好まれたようで、万葉集にも多く詠まれているが、万葉集の梅は、すべて白梅と考えられている。

歌:我が園に、梅の花散る、ひさかたの、天より雪の、流れ来るかも(巻5-822。作者: 大伴旅人)
意訳:私の園(庭)に、梅の花が散っています。天から雪が降ってくるのでしょうか。

この歌は、先の歌とは違って、大宰の帥(そち)の任を解かれて天平2年(西暦730年)暮れに平城京に戻ってくる前、つまり、同・天平2年正月13日、大宰帥(そち)旅人は大宰府(だざいふ)の我が館に、山上憶良小野老(おののおゆ)・沙弥満誓(さみまんせい。※3参照)など、筑紫に住んでいたそうそうたる万葉歌人のメンバーのほか、管下の部下など31人を集めて宴を華やかに催したときに詠まれた「梅花の歌三十二首」中の一首である(※2「たのしい万葉集:」の梅を詠んだ歌、※4:「万葉集を詠む」の梅花の宴を参照)。
ここでは、庭のことを「園」と詠んでいる。当時、梅の花は異国の植物で珍しく、好んで植えられたのだろう。
外国への玄関口でもあった大宰府にふさわしく、もちろん旅人(たびと)の邸宅の庭にも植えられていて、エキゾチシズムな雰囲気を醸し出していたことだろう。
ただ、他の歌が今咲き誇っている梅の花を主題にしているのに、宴を催した会の主人である旅人の歌が、「梅の花散る」景を詠みこむのは奇妙であり、この歌が、目の前の風景を率直に詠んだものではなく、旅人の催した歌の会の目的は、2年前に急逝した妻大伴郎女への鎮魂にあったのではないだろうか。
この席に同席した山上億良(この席での名は、筑前守山上大夫)が詠んだ以下の歌、
「春さればまづ咲く屋戸の梅の花独り見つつや春日暮らさむ」(万葉集巻5−818)
意訳すると、「春になるとまず咲く我が家の梅の花を、一人で見て春の日を過ごしましょう。」となるのだろうが、この歌には、2年前に妻を失った旅人への、それとない心遣いが現れている。

奈良市内には、1975(昭和50)年以降の発掘調査で奈良国立文化財研究所によって発見された平城京左京三条二坊の宮跡庭園という変わった名の庭園がある。
宮跡という名前がつくが、この地は正確には宮外であり、平城宮近くに広がっていた奈良時代の皇族長屋王邸宅跡とされるところから発見された貴重な庭園遺構である。
坪の中央部の庭園と園池及びその西側の建物群が確認され、奈良時代の庭園のほぼオリジナルな姿を伝えるものとして、国の特別史跡に指定されている。
既に平安時代の寝殿作りの庭園と同じく自然を模して園池には底に玉石が敷き詰められたS字型に屈曲した水流の跡があり、曲水宴で使われたとみられているようだ。
また、公式の宴会や儀式を催し迎賓館としての役割をも担ったとされる、同じ平城宮域内の東院庭園遺構(1967年発掘。※6参照)にもS字の池と洲浜(水辺にできる島形の洲)が築かれていた。
S字の池と洲浜は、日本式庭園つまり、日本庭園固有の特徴であり、既に、この時代には、その様式が確立していたと考えられている。

日本庭園は西洋庭園と違って、「曲線による造形と左右非対称」であることが大きな特徴だといわれている。
18世紀初頭のイギリスで生まれたイギリス式庭園、自然を生かした「風景式庭園」を除けば、西洋の庭園は、花や緑を使いながらも幾何学的な秩序による、人工的な美しさを追求している幾何学式庭園(イタリア式庭園 フランス式庭園)などである。
これに対し、 日本庭園は、大自然を母体としながらも自然の風景をそのまま庭園に取り入れた「写景的庭園」などではなく、自然のなかの好ましい景観を、好ましい手法によって、理想化して取り入れた「象徴的庭園」であるといえる。

●上掲の画象は、フランス、ヴェルサイユ宮殿の庭園。Wikipediaより)。
現代とは違い、古代の日本の人々は自然と強く共生していた。
磐座(いわくら)・磐境(いわさか、磐座参照)、神池(神霊の宿る池)・神島(神が宿る島)など、こうした池を掘り、島を浮かべ、石を神と見立て崇める習慣(自然崇拝)があった。
古代中国では不老不死、永遠の生命を求める神仙思想があり、中国や朝鮮半島の庭園では古くからこの神仙思想に基づく庭園がつくられており、日本にも飛鳥時代に伝えられた。
日本に仏教が伝来すると、それまでの自然崇拝が、中国、朝鮮から移入された庭園文化と相まって、独自の日本庭園造りへと発展していったのであろう。
平成11年(1999年)飛鳥京跡で発見された日本で最古の苑池遺構(※7参照) などに取り入れられており、この遺構は、数千?に及ぶ池には底にこぶし大の平石が敷き詰められ、石を積み上げた中島が配されている。
護岸は人の頭大の石を三段に積んだ高さ80cmほどの石垣となっている。
また、「出水の酒船石」(ここ参照)と呼ばれる石造りの流水施設や、池に突き出た涼み床が設けられているのが特徴で、朝鮮半島の百済の園池(庭園と泉水)と、新羅時代の両方の特徴を備えており、当時の政権が進んだ文化を採り入れていることを誇示するために作られた可能性があるといわれている(※9)。
日本書紀』巻第29、天渟中原瀛眞人天皇 (天武天皇)の14 年(685年)11月6日の条に、天武天皇が、白錦後苑(しらにしきのみその)におでましになった(原文:幸白錦後苑。※8参照)とあり、飛鳥京苑池であるとする説もあるようだが、いずれにしても、これ以後の日本庭園のデザインに大きな影響を与えたといわれる(※9)。
この時代上古以来の神池・神島にも橋が架けられるなどして、次第に庭園的要素が固まってきた。

そして、本格的な日本庭園の歴史は、延暦13年(794年)桓武天皇による平安京への遷都とともに急速に始まったようだ。
都の東・北・西の三方を囲む優美な稜線の山、ほどよく起伏に富んだ地形、大小の清流など、さまざまな自然条件に恵まれた京都は、まさに風光明媚の地であった。
加えて、沼や湿地、湧水が多く、また豊富な庭石にも恵まれた。このような作庭にとって絶好の条件が整った土地柄は、池、流れ、護岸などをつくる技術を発達させた。
平安中期に書かれ、日本最古の庭園書と言われている『作庭記』は、寝殿造りを前提として、立石・島・池・河・滝などの次第を詳述し、後半は立石の口伝・禁忌などを述べ、最後は楼閣の条でおわる。
この書では、冒頭の基本理念に、 “石をたてん事まつ大旨をこころうへき也”として、地形や池の形態を踏まえた制作方針に、実際の自然風景の風情を思い合わせ ること。
次に、昔の名人の作風を規範とし、依頼主の意向を斟酌しながら自分の美意識を発揮すること。
そして最後に、国々の名所の見所を、自分の制作方針に反映させて、大体の風情を、平易にその名所になぞらえることの3つを主張しており、「模倣の美学」、日本の伝統的な「型」 、名所の模倣「見立て」などが重視されている(※10、※11参照)。
また、当時の四神相応観・陰陽五行説が造庭にも重視され、王朝三位以上の高位貴族の邸宅にみられたとされる。
そこに見られる様式は、寝殿(正殿)と呼ばれる中心的な建物が南の庭に面して建てられ、庭には太鼓橋のかかった池(遣り水)があり、東西に対屋(たいのや)と呼ばれる付属的な建物を配し、それらを渡殿(わたどの)でつなぎ、更に東西の対屋から渡殿を南に出してその先に釣殿(つりどの)を設けた。
なお、平安時代の当時の建築遺構は、今日に残っていないとされ、そのため、後世に描かれた絵巻(『源氏物語絵巻』(※12)『年中行事絵巻』(※13)など)や平安時代のことを記したとされる記録、江戸時代に故実に基づいて再興された紫宸殿清涼殿)の造りなどから考察されているものだという。


●上掲の画象は、典型的な寝殿造である東三条殿復元模型(京都文化博物館)。
1: 寝殿(しんでん)、2.:北対(きたのたい)、3.:細殿(ほそどの)、4.:東対(ひがしのたい)、5.:東北対(ひがしきたのたい)、6.:侍所(さむらいどころ)、7.:渡殿(わたどの)、8: 中門廊(ちゅうもんろう)、9.:釣殿(つりどの)。画像は、Wikipediaより。

平安時代後期から鎌倉時代になると、末法思想の影響で、極楽浄土の世界を描いた曼荼羅の構図を庭に取り入れた浄土式庭園が発達した。
この様式は寝殿造りの庭園に浄土の世界を現出するような形で発展したもので、京都府加茂町の浄瑠璃寺宇治市平等院などの庭がその好例である。
 
源頼朝により、鎌倉幕府が開かれ、中央の公家政権と関東の武家政権が並立する時代となったが、文化面での主導権は依然として京都にあった。
そのため、武士の進出ととともに興隆した禅宗寺院であっても当初の庭園は浄土式を踏襲した浄土式庭園であった。

13世紀中期の鎌倉において客を迎え入れることが多くなった上層武家住宅では接客のための建物が発達し、座敷和室)が生まれた。
具体的には、嘉禎2年(1236年)に執権北条泰時将軍御成のために「寝殿」を建てているが、その孫の北条時頼の代には武家住宅の本来の客間であった出居(でい)が発展して寝殿に代わり御成にも使用できる出居が生まれた。
その主室は「座敷」と呼ばれる建築様式であり、これが書院造の原型とされる。
こうして、貴族・武士階級の建築は寝殿造りから書院造りに様変わりしていった。それに伴い、庭園も建物に隣接した書院造りに変わっていく。
書院式庭園は 寝殿造庭園に比べてやや小さく作りも簡素だが、基本的には浄土式庭園に近い形態 が引き継がれている。
また中国からが伝わるようになり、日本庭園も大きく禅の影響を受けるようになる。

●上掲の画は、「都林泉名勝図会」巻之一 “相国寺林光院鶯宿梅”である。画像は、以下参考の※15:「平安京都名所図会データべース」の『都林泉名勝図会』巻の一の14頁より借用。
都林泉名勝図会』(みやこりんせんみょうしょうずえ)は、江戸時代後期の京都の名庭園を網羅したガイドブックであり、庭園の版画がたくさん掲載されているが、多くある名所図会の中でも庭園だけが取り上げられた珍しいものである。
その中に取り上げられた一つ相国寺は、臨済宗相国寺派(※16)の大本山で、近くに「花の御所」を構えた足利義満が創建した寺、京都五山の第二であり、あの有名な金閣寺(正式名:鹿苑寺)・銀閣寺(正式名:慈照寺)も相国寺の塔頭寺院である。
都林泉名勝図会の相国寺解説 (翻刻文,巻之一の15頁文章)には、以下のように書かれている。

相国寺は上古出雲寺(※17のここ参照)とて、伝教大師(最澄)の草創し給う天台の仏刹なり。永徳年中足利義満公禅院として、夢窓国司(むそう こくし)を始祖とし、妙葩禅師(めうはぜんじ)を二世とす。
封域(ほういく)に十景あり、惣門(外構えの大門、正門)の前を般若林といふ。
排門を妙荘厳域と号け、山門を円通といふ、覚雄宝殿とは仏殿なり。
前の川を龍淵水と号し、連池(れんち)を功徳池といひ、天界橋を架(わた)す。
天輪蔵(てんりんざう)を祝?(字不明)堂といふ。洪音楼は鐘楼(しゅろう)にして、此は南都・元興寺(がんこうじ)の鐘なり、中頃鬼神出てこれを撞(つく)といふ。
故に人恐れて撞かずとなん、相国義満公の命によって此の寺に掲(かく)る。
(中略)
塔頭林光院には鶯宿梅(おうしゅくばい)あり、是はむかし西京(西ノ京)紀貫之の家にありしを、清涼殿の前に植えられんとて求給ひぢに、貫之の娘おしみて歌よみければ其侭(まま)かへし給ふ)・・・(以下略)。・・・と。

当時の相国寺の全体図「相国寺図絵全体図」は、※15:「平安京都名所図会データべース」の『都名所図会』の巻之一の11頁 「平安城再刻」で見られる。

この説明文にもあるように、現在の開山堂は桃園天皇の皇后である恭礼門院の女院御所内の御殿を文化4年(1807年)に下賜されたものであり、その前に広がる庭園は江戸時代後期の枯山水庭園である(※18参照)。

ここに出てくる夢窓国司(=夢窓疎石)は、室町時代における禅宗発展の基礎を築いた人物であり、多くの門弟を育て、その数は1万人以上であったと伝えられているそうだが、単に、それだけではなく、注目すべきは、その作庭によっても広くその名を知られていることだという。
古都京都の文化財」として世界遺産に登録されている西芳寺(苔寺の愛称で知られる)及び、天龍寺(京都五山の第一位とされてきた)のほか、多くの庭園の設計でも知られている。
因みに、この西芳寺を模して創られたのが足利3代将軍義満の鹿苑寺(金閣寺)と8代将軍義政の慈照寺(銀閣寺)である。この二つの名園は、ともに中島を配した池を中心とした浄土式のデザインをみせている。
平安から鎌倉時代を通じて培われた美の伝統を受け継ぎつつ、新しい禅宗風の造形感覚を加味したものである。
枯山水は水のない庭のことで、池や遣水などの水を用いずに石や砂などにより山水の風景を表現する庭園様式である。
例えば白砂や小石を敷いて水面に見立てることが多く、橋が架かっていればその下は水であるが、石の表面の紋様で水の流れを表現することもある。
抽象的な表現の庭が室町時代の禅宗寺院で隆盛を極め、枯山水庭園が発達した。枯山水自体は既に平安時代からあったものだが、室町時代に禅寺の方丈、庭園で発展し、独立した庭園としての地位を確立した。

●上掲の画象は、龍安寺の方丈庭園(石庭)と龍吟庵 東庭(赤砂の枯山水)。Wikipediaより。

安土桃山時代になると、戦国大名が力を誇示するために競い合って作庭された。
豊臣秀吉醍醐の花見に際して造った醍醐寺三宝院庭園は、自らが基本設計を行なったという。
作庭開始後、4か月後に秀吉はなくなるが、醍醐寺座主の義演は、秀吉の基本設計をもとにさらに構想を発展させ、また当時一流の庭師を参加させ、義演が亡くなる元和10年1(624年)までの27年間にわたって石をふんだんに使った贅をつくした庭が造られた。
また、逆に、千利休によって侘び茶が大成され、茶室に至る露地の様式が完成。飛石、手水鉢(ちょうずばち)、石灯籠(どうろう)、潜(くぐ)り戸、木戸、腰垣、植栽などが配置された今日見られるような茶庭(茶屋に付属した庭)という体裁がしだいに整えられていった。

江戸時代初期は、しばしば王朝風と呼ばれる平安時代以降の伝統的な、または安土桃山時代に発達した豪華絢爛な池庭や枯山水、あるいは禅院で発達した枯淡な枯山水や露地から出発し、書院造に影響を与える茶庭など多くの様式が並存する時代であったが、将軍や大名などを中心に、城や屋敷を築く際にこれらの様式を集大成させた回遊式庭園を誕生させた。
これら大名庭園の多くは大池泉のある、回遊及び舟遊式であり、ポイントに四阿(あずまや、しあ。東屋とも)、茶亭(茶室)、橋を設け楽しみながら園内を回遊できる総合庭園であった。
大名庭園の代表的なものに、金沢の兼六園、東京の小石川後楽園、水戸偕楽園、岡山の後楽園、高松の栗林公園などが知られている。
中後期になると作庭方法を記した『築山庭造伝(前編)(後編)』が出版(※21参照)され、庶民の住まいにも庭が造られるなど一般化していったようだ。
元禄時代以降は鑑賞を目的として植物を栽培する園芸文化も成熟し多くの園芸書が出版されるようになると、植木職人はウメ、サクラ、ツバキ、アサガオなどを競って育種し、庶民の間でも大いに流行った。
一般庶民の中でも経済的にゆとりのある町家にも庭が作られるようになり、屋敷内の建物や塀などで囲まれたごく限られた空間の中で露地的な考え方を導入した壺庭(坪庭)というものが発達した。
明治時代になると力を付けた実業家や政府高官などが多くの庭園を造るようになり、また、芝生面を広くとった明るい庭も多く作庭されるようになった。
そして、この時代から、西洋の整形式庭園の影響を受けた庭園も現れた。東京新宿の新宿御苑や、わが地元神戸市須磨区の須磨離宮公園(冒頭の画像)がそれだが、和洋析衷式のものとなっている。
四季の変化がある日本では、私の家のような小さな坪庭でも、立地が山の麓であることから、四季により鶯やメジロ、ヒヨドリ、シギなどが来てくれるし、花は咲かなくても青く茂った木を見ているだけで心が癒される。
しかし、あの阪神・淡路大震災で、私の家の周辺でも多くの家が損壊し、家を建て直しているが、多くの家の庭から、植木が姿を消してしまった。
そして、新しい家では植木のない草花中心のガーデニングのみとなったところが多くなった。
やはり園芸も植木があってこそのものだと思うのだが・・・、ちょっとさみしい気がする。
「庭」については書きたいことがまだまだあるのだが、今回はこれくらいにして、またの機会にもう一度書いてみようと思う。
何か中途半端になったが、今日はここまでとする。


※1:(社)日本造園組合連合会(略称:造園連)
http://www.jflc.or.jp/
※2:たのしい万葉集: 巻ごと
http://www6.airnet.ne.jp/manyo/main/volume.html
※3:千人万首
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin.html
※4:万葉集を詠む
http://manyo.hix05.com/index.html
※5:奈良歴史漫歩 No.057平城京左京三条二坊宮跡庭園 
http://www5.kcn.ne.jp/~book-h/mm060.html
※6:東院庭園 - 平城宮跡 - 奈良文化財研究所
http://www.nabunken.go.jp/heijo/museum/page/toin.html
※7:飛鳥京跡苑池遺構
http://www.bell.jp/pancho/travel/asuka-ji/enti_iseki.htm
※8:日本書紀
http://www.seisaku.bz/shoki_index.html
※9:中田ギャラリー日本庭園を愉しむ
http://muso.to/index.html
※10:作庭記
http://www.nakatani-seminar.org/kozin/niwa/sakuteiki/sakuteiki.html
※11:前田家 名物裂の精華 - 石川県立美術館
http://www.ishibi.pref.ishikawa.jp/tayori/2001/tayori_09/tayori_syosai09_1.html
※12:寝殿造 貴族の住空間・貴族の生活・風俗博物館〜
http://www.iz2.or.jp/kizoku/
※13:京都大学文学部所蔵『年中行事絵巻.』
http://kotobank.jp/word/%E5%B9%B4%E4%B8%AD%E8%A1%8C%E4%BA%8B%E7%B5%B5%E5%B7%BB
※14:京都大学電子図書館:夢窓疎石
http://edb.kulib.kyoto-u.ac.jp/exhibit/np/soseki.html
※15:平安京都名所図会データべース(国際日本文化研究センター)
http://www.nichibun.ac.jp/meisyozue/kyoto/index.html
※16:臨済宗相国寺派のHP
http://www.shokoku-ji.jp/h_siryou_ume.html
※17:文化史01 遷都以前の古代寺院 - 京都市
http://www.city.kyoto.jp/somu/rekishi/fm/nenpyou/htmlsheet/bunka01.html
※18:相国寺 裏方丈庭園、開山塔庭園 | 京の庭を訪ねて | 京都市都市緑化協会
http://www.kyoto-ga.jp/kyononiwa/2009/09/teien015.html
※19:夢窓疎石と作庭
http://www2.biglobe.ne.jp/~naxos/nihongaku/musou.htm
※20:世界遺産京都醍醐寺:境内案内
http://www.daigoji.or.jp/garan/sanboin_detail.html
※21:公開: 作庭書
http://www.nakatani-seminar.org/kozin/niwa/welcome.html
近代デジタルライブラリー - 増補宮殿調度図解(関根正直) 1/2
http://www2s.biglobe.ne.jp/~Taiju/bun1927_sek_01.htm
庭園用語集 - IFNET
http://www.ifnet.or.jp/~chisao/yougo.htm#l
考古情報の部屋
http://www.ne.jp/asahi/musica/rosa/index2.html
壺 齋 閑 話>大伴家持>花鳥の歌
http://blog.hix05.com/blog/2007/04/post_162.html
庭 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%AD

薬の日

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5月5日は「こどもの日」だが、他に・チーズケーキの日、・フットサルの日、・児童憲章制定記念日 ・オモチャの日、わかめの日 ・レゴの日といろいろある。
このうち、・児童憲章制定記念日 ・オモチャの日わかめの日レゴの日のことは、このブログで書いたが、このほかにも「薬の日」があった。
この記念日は全国医薬品小売商業組合連合会(※1)が1987(昭和62)年に制定したもので千年以上も昔の故事に由来しているのだという。
日本書紀』巻第廿二推古天皇19 年(611年)夏5月5日の条に、推古天皇は、百官を率いて、奈良県の兎田野(うだの)で、鹿茸(ろくじょう※2参照)と薬草を採取する薬猟(狩)りをした旨以下のように記されている。

「十九年夏五月五日。薬猟於兎田野。取鶏鳴時集于藤原池上。以会明乃徃之。粟田細目臣為前部領。額田部比羅夫連為後部領。是日。諸臣服色、皆随冠色、各著髻華。則大徳。小徳並用金。大仁。小仁用豹尾。大礼以下用鳥尾。」(原文:以下参考※3参照)

読み下し文(岩波書店 日本古典文学大系『日本書紀下』より)
「十九年の夏五月の五日に、兎田野(うだのの)に薬猟(くすりがり)す。鶏鳴時(あかつき)を取(と)りて、藤原池(ふじはらのいけ)の上(ほとり)に集(つど)ふ。会明(あけぼの)を以(も)て乃(すなは)ち徃(ゆ)く。粟田細目臣(あはたのほそめのおみ)を前(さき)の部領(ことり)とす。額田部比羅夫連(ぬかたべのひらふのむらじ)を後(しりへ)の部領(ことり)とす。是(こ)の日(ひ)に、諸臣(もろもろのおみ)の服(きもの)の色(いろ)、皆(みな)冠(かうぶり)の色に随(したが)ふ。各(おのおの)髻華(うず)著(さ)せり。則(すなは)ち大徳(だいとく)・小徳(せうとく)は並に金(こがね)を用ゐる。大仁(だいにん)・小仁(せうにん)は豹(なかつかみ)の尾(を)を用ゐる。大礼(だいらい)より以下(しも)は鳥(とり)の尾を用ゐる」

薬猟の一行が集合したとされる藤原池は、推古天皇15年(607年)の冬に新しく造られた四つの池(高市池、藤原池、肩岡池、菅原池)の一つであり、現在の明日香村小原にあっと想定されているようだ。
また、薬猟が行われた菟田野は、現在の奈良県宇陀郡にあった1大宇陀町迫間あたり、あるいは天武持統朝のころ皇室の狩り場とされた阿騎野(あきの)あたりだったかもしれないが確証はないようだ。

持統6年( 692年)冬の一日、文武天皇となる前の軽皇子(草壁皇子[天武天皇第二皇子、母は持統天皇]の長男)の伴で阿騎野の地を訪れた柿本人麻呂が以下の歌を残している。

「東(ひむかし)の 野にかぎろひの 立つ見えて かへり見すれば 月かたぶきぬ」万葉集巻1−48

歌の中に出てくる「かぎろひ」とは厳冬のよく晴れた日の出前、東の空を彩る陽光のこと。
奈良県宇陀市大宇陀迫間(旧大宇陀町域)に鎮座する 阿紀神社のすぐ近くの万葉公園(かぎろひの丘) には、人麻呂の上記歌碑も建てられており(※4の万葉歌碑のここ参照)、人麻呂が、「かぎろひ」を見た陰暦11月17日、この場所で「かぎろひを観る会」が開かれているようだ。園内には万葉植物も植栽されている。
平成7年(1995年)の発掘調査によって、丘の下からは阿騎野が古代の狩場だったことを示す遺跡が発掘されたとして、大宇陀町では保存整備委員会を発足させ調査された「中之庄遺跡」の遺構を復元保存し、阿騎野・人麻呂公園として保存されている。

しかし、この万葉集巻1−48の歌の名調子を生み出したのは、江戸時代の国学者・歌人賀茂真淵であるが、この歌の「かぎろひ」は原文では「炎」であり、江戸時代までは、
「東野炎立所見而反見為者月西渡」(読み:あずまのの けぶりのたてる ところみて かへりみずれば つきかたぶきぬ)であり、「東野」は地名、「炎」は「けぶり(煙)」で、「野火の煙が立つのを見た」と言うのである。
これは宇陀の阿騎野から東方に続く高原地帯で行われていた焼畑の夜の野焼きの火が終わり近くなって着ける向かい火とぶつかって高く立ち上がるのを人麻呂は見たのではないだろうか?という意見(※5)もあるなど、説はさまざまな様あり、今、万葉学の最先端ではこの読みでよいのかは疑問があるらしい。

推古天皇19年(611年)夏5月5日の条にあるように、この日は節日であり、当歌の遊猟も薬猟である。そして、史料で確認できるわが国最初の薬猟の記録でもある。
日本の薬猟は大陸伝来の行事で男子は鹿茸(若鹿)をとり、女子は薬草を摘んで長寿や健康を願う儀礼とするのが通説であるが、詳細については不明な点も多いようだ。
荊楚歳時記』には五月五日を「悪月」とし、さまざまなを避ける呪術が行われたことが記され、((五日)是の日、競渡し、雑薬を採る」とあるが、鹿茸を取ることは記されない。
一方、『三国史記』に「高句麗常に三月三日を以て楽浪の丘に会猟し、猪鹿を獲て、天及び山川を祭る」とあり、日本の薬猟で鹿を狩ることは高句麗の影響によるのではないかという。
歴史学者、京都教育大学名誉教授和田萃(わだ あつむ)はこれをふまえ、「日本古代の薬猟は、古代中国で行われていた五月五日の採薬習俗に起源を有するが、薬物としての効能をもつ鹿などを狩る行事は高句麗で成立し、それが推古朝に受容された」という(※6参照)。
推古天皇11年12月5日(604年1月11日)に始めて制定された冠位「冠位十二階」の冠名はを初めに置き、以下に、仁・礼・信・義・智の五常の徳目をとり、おのおのを大・小に分けて、朝廷に仕える臣下を12の等級に分け、地位を表す冠を授けたものである。
菟田野への薬猟では、冠位十二階にもとづく冠をつけ、冠と同色の服を着用し、冠には飾りを用いた。
推古朝に、源流が異なる行事を併せて壮麗な宮廷行事となっていった日本の薬猟は道教に由来するものと思われるという。
推古19年の宇陀野での薬猟に続き、翌・推古20年(612年) 5月5日には羽田で薬猟が行われている。以後『日本書紀』には、推古22年(614年)、と天智7年(668年)の5月5日に薬猟を行ったと記載されるのみであるが、宮廷儀礼として毎年5月5日には、薬猟が行われていた(※3参照)のでその後、薬狩りは恒例行事となったようだ。
その後、冠位・位階制度の変遷を重ねた後、旧来の氏族制度を改革し、新しい国家体制に即応出来る官僚制創造の政策の一環として天武天皇13年(684年)10月に、新たに制定したものが八色の姓(やくさのかばね)であり、これは「真人(まひと)、朝臣(あそみ・あそん)、宿禰(すくね)、忌寸(いみき)、道師(みちのし)、臣(おみ)、連(むらじ)、稲置(いなぎ)」の八つのの制度のことであるが、姓の中に真人(まひと)、道師と言うのものがあるが、これは道教で道を究めた人を意味する真人(しんじん)や、道教の道師(どうし)と関係があるのだろう。

端午(たんご)の節供(節句)は5月5日だが、端午の「」は、「立+耑」で構成された象形文字であり(※7参照)、たつ+目印の山=>目印の山にたつ=>出発点にたつ=>はじめ=>はしっこ・・・などを表している。
旧暦では午の月は五月にあたり(十二支を参照のこと)、このの月の 端( はじめ )の午(うま)の日を 節句として祝っていたものが、中国の時代から三月三日、九月九日などのように月と日を同じ数にすることが好まれ、端午が五月五日に定着したようだ。五が重複するので、重五・重午(ちょうご)ともいう。
また、前にも書いた『荊楚歳時記』に見られるように、古代中国では、五月は物忌みの月とされていたので、邪気を払ういろいろな行事が行われていた(※9参照)。
実際に、旧暦の五月は新暦では6月から7月に当たり、蒸し暑くて虫などに刺されて病気になり易かった。そこで高い薬効と強い香りを持つヨモギが魔除けや虫除けに使われ端午行事に欠かせないものとなった。

天平感宝元年(749)年5月、越中守に任ぜられtた大伴家持の館で、上京の任を終えた朝集使の労をねぎらう詩酒の宴が催された。席上、主人である家持は次のような長歌を披露した。(万葉集巻18- 4116番の長歌の一部抜粋。(以下参考の※10参照)。

読み下し文:「ほととぎす 来鳴(きな)く五月(さつき)の あやめ草(ぐさ) 蓬(よもぎ)かづらき 酒(さか)みづき 遊び和(な)ぐれど、・・・」
意訳:「ほととぎすの来て鳴く五月のあやめ草やよもぎをかずらにして、酒宴をしては遊んで気を紛らそうとするけれど、・・・」
原文:「保止々支須 支奈久五月能 安夜女具佐 余母疑可豆良伎 左加美都伎 安蘇比奈具礼止 」
読み:「ほととぎす きなくさつきの あやめぐさ よもぎかづらき さかみづき あそびなぐれど 」

ここであやめぐさと言っているものは、現在のサトイモ科のショウブ(和名:菖蒲/別名[漢名]:白菖[ハクショウ])のことで、今のアヤメ科のアヤメハナショウブとは異なる。湿地に群生し、初夏に黄色い小さな花をつける。
万葉の時代から、端午の節供には、邪気を払うためにこの草やヨモギ(蓬)の葉などを編んで、薬玉(くすだま)をこしらえ、これに5色の糸をつらぬき、またこれに、ショウブやヨモギなどの花をさしそえて飾りとした。

続日本後紀』卷十九(※11)仁明天皇嘉祥2年(849年)5月5日の項に「薬玉」とあるのが最初とされている。また、ショウブで頭飾として(かずら)を作った。
平安時代に宮中ではこの日、薬玉を下賜し、諸人肘(ひじ)にこれをかけて長命のまじないとした。また5月5日端午の節供に薬玉を柱などにかけておき、9月9日重陽の節供(菊の節供)に菊花を絹に包んだものと取り替える風習があった。そして、貴族間では当時贈答も行われていた。・・・ことなどが『枕草子』の「節」の段(※12)に詳しく書かれている。
ヨモギ(蓬)は、原文では「余母疑」と表記されているが、このような日本のヨモギの習俗は、中国伝来と考えられ『荊楚歳時記』には、次の記載がある。
「五月五日、之を浴蘭節と謂う。四民並びに蹋百草の戯あり。艾を采りて以て人を為り、門戸の上に懸け、以て毒気を禳(はら)う。菖蒲以て、或いは鏤(きざ)み、或いは屑(こな)とし、以て酒に泛ぶ」・・・・と(※13【 よもぎ】参照)。

「浴蘭節」とは蘭の風呂(現在では菖蒲湯のこと)また、「蹋百草」というのは「百草」を蹋(蹋=足偏+日+羽。ふんで)邪気を祓う行事で、日本では「茅の輪(ちのわ)くぐり(大祓参照)として今に伝わっている。
日本ではヨモギには「蓬」の字をあて、「」にはもぐさの訓みをあてている。中国語では「艾(アイ)」はヨモギを指し、「蓬」の字は『辞海』では「飛蓬(Erigeron acer )」和名:エゾムカシヨモギであるとし、『現代中国語辞典』(光生館)では「ヤナギヨモギ」だとしているなど、「蓬」は日本と中国では別の意味をもつ、同文異種の漢字のようだ。
『荊楚歳時記』には、「五月五日は、芳香(蘭)を浴びる浴蘭節である。この日に草摘みをし、辟邪・辟病のためヨモギ人形を門戸に飾り、ショウブ酒を飲む」とある。
端午の節句に菖蒲やヨモギを束ねて軒先に吊るしたり、風呂に入れて邪気を祓う風習が奈良時代に「夏越(なごし)」の行事として伝わったが、今ではヨモギよりも菖蒲湯の方が一般的になっている。
菖蒲の節会については、『続日本紀』天平19年(747)5月5日条に
原文:「庚辰。天皇御南苑、観騎射・走馬。」是曰。太上天皇詔曰。昔者、五月之節、常用菖蒲為縵。比来、已停此事。従今而後。非菖蒲縵者、勿入宮中。」(以下参考の※14:「続日本紀」巻第十七参照)。
意訳:「庚辰、天皇、南苑に御(おは)しまして、騎射・走馬を觀(み)そなはす。是の日。太上天皇詔して曰はく、「昔者、五月の節には常に菖蒲を用て縵(かづら)となす。比來(このころ)已(すで)に此事を停(や)めたり。今より後。菖蒲(あやめ)の縵(かづら)に非ずは、宮中(うち)に入るること勿れとのたまふ。」
とあり、聖武天皇のとき、それまで中断されていた節会の菖蒲縵の着用が復活したことを示している。

ヨモギに関する習俗は奈良時代に中国から招来され、端午の当日、朝はヨモギ(蓬)を玄関の前に飾り、夜はヨモギの入ったお湯で入浴するという風俗が築き上げられていた。
それが日本古来の田植え前の5月行事と結びつくようになり日本風のものに変容されていった。
田植え前の5月行事は、もとは女の祭りであった。田植えを行う5月(旧暦)は早苗の月(今は皐月[さつき])と言い、農耕が基本となる農業社会の日本にとって1年の中で一番重要な月とされていた。

その昔日本の農村では、この時期に田植えを行うのは生命を産み出す女性の役目で、の豊穣を祈るために、田植えが始まる前の晩には早乙女(さおとめ)と呼ばれる若い娘達が田の神(稲の神)を迎えるために、菖蒲や蓬で葺(ふ)いた小屋にこもって身を浄(きよ)め「忌み籠り」(=斎戒)をしなければならいといった風習があった。
これを「五月忌み」(さつきいみ)と言い、忌み籠りする女性達は、この日には菖蒲で亭主の尻を叩いて家から追い出し、菖蒲や蓮で浄化された家に女性だけで籠ったので「女の家」とも言われた。
昔は男性に従う一方だった女性がこの日ばかりは威張っても良い日とされ、上座に座ることが許されるなど、特別な日とされていたようだ。
そして、菖蒲打ち(菖蒲の束で地面を叩き、音の大きさを競うこと)、印地うち(石合戦)、流鏑馬(疾走する馬の上から弓で鏑矢を地面に置かれた三つの的を次々矢を当てるという競技「騎射三物」参照)といった「男らしい」行事が行われ、菖蒲湯に入ったり、家の中に五月人形を飾ったり、庭前に鯉幟(こいのぼり)を立てたりする日本の端午=子供の日(五節句(供)のひとつ)が完成したのである。

●上掲の画象は、歌川国貞(落款印章 香蝶樓國貞画)『五節句ノ内 皐月』大判/錦絵3枚続きの中の1枚である。国立国会図書館蔵。(ここ の向かって右から3枚目をクリックすると拡大図が見れる。)
軒先に菖蒲をさし、女性が菖蒲湯につかっている。

鯉のぼりや五月人形、そして菖蒲は日本の端午の節句を彩る品目であり、それぞれに重要な意味を持つている。
「鯉のぼり」は中国の伝説「鯉魚躍竜門」(鯉の滝登り)から由来したもので、どんな悪い環境でも一生懸命に生きようとしているので、「鯉のぼり」は子供が鯉のように立派な人になってほしいという親の願いの現れである。
また、鯉のぼりの色にも特別の意味があり、吹き流しの五色については古代中国の「五行説」に由来しており、幼児が無事に成長するように「魔除け」の機能を備えている。
「五月人形」は、兜や鎧や刀を身につけた武士の人形が普通だが、甲冑だけを飾る場合もある。本来、悪鬼や災厄を祓うのが目的で、屋敷の中や門の前に兜、槍や長刀などを飾っていたが、庶民は本物の武具などは持っていないことから、最初は厚紙等で兜屋武者人形を作って飾っていた。これが五月人形の始まりである。
しかし、魔除けの符として、「菖蒲」は最も重要である。
菖蒲には様々な使い方がある。解毒作用のある医薬として、または打ち身にも効く薬草として古くから珍重されえきた。
お風呂に入れることで体を清め、疲れを除くこともできる。お酒として飲まれ、中国のヨモギと同じカテゴリーに属している。
中国の節句にはそれぞれに典故があり、端午の節句としての意義には「記念性」と「夏の衛生」の二つに区別されるが、前者には三つの転故、「屈原伝説」「鍾馗伝説」「白蛇伝」・・があるといわれているが、この三つの典故の中では、「屈原伝説」が最も有名である。
その屈原は、中国春秋戦国時代を代表するの国の詩人であるだけでなく、政治家としては国だけでなく人民も大切にする「」と「」を主張して張儀の謀略を見抜き踊らされようとする懐王を必死で諫めたが受け入れられず、楚の将来に絶望して汨羅江(べきらこう)に入水自殺した。それが旧暦の五月五日だったという。
後に民衆が屈原の無念を鎮める為、また、亡骸を魚が食らわないよう魚のえさとして端午の節句の日(端午節)に、笹の葉に米の飯を入れて川に投げ込むようになったのがちまきの由来とされている。
また、伝統的な競艇競技であるドラゴンボート(龍船)は「入水した屈原を救出しようと民衆が、先を争って船を出した」・・・という故事が由来であると伝えられている(Wikipedia)。
「鍾馗伝説」(鍾馗参照)から中国では、厄除けとして鍾馗図を家々に飾る風習が生まれた。
それが、日本に伝わり、江戸時代末(19世紀)ごろから関東で鍾馗を五月人形にしたり、近畿で魔除けとして鍾馗像を屋根に置く風習が見られるようになったという。
白蛇伝」はかなり古くから小説や戯曲などの題材とされてきた物語である。
人との恋愛を語った民間説話白蛇の化身である女性が中心人物で、人間の男性と恋に落ち夫婦となるが、正体が知られ退治されるという異類婚姻譚が物語の大きな枠組み。
四川省・峨眉山の上にある清風洞に住む白蛇の精白娘子は、お供の青蛇の精と共にお嬢様の白素貞と下女の小青に変身して人間界の西湖に観光に来て、人間界に住む書生の許仙と出会い相思相愛の仲になり二人は結婚し、幸せな家庭を築いて、薬屋を開いて幸せに暮らし始めたが・・・。
この物語では、金山の住職法海が白娘子を蛇の妖精だと見抜いて、許仙に「あなたの妻は蛇の妖精だ」と告げ、五月五日・端午の節句の日に、素貞に雄黄の入れた酒を飲ませれば、彼女はもとの姿に戻るはずだと教える。白子は雄黄酒を飲んだ直後に、正体の蛇の姿に戻り、許仙と離れ離れという悲しい結末を迎える・・・。白蛇伝に興味のある人は以下を詠まれるとよい。

媛媛講故事白蛇伝 ?白蛇伝 ?白蛇伝 ?

以後、中国では、端午の日に大人は魔除けのために雄黄酒を飲み、幼児の額に雄黄酒で王の字を書くという風習が出来たという。
また、門前に艾草を掛けて災厄を避ける風習が流行したのは、広州の民間伝説によると黄巣の乱(紀元875-884)から来ているという(※15参照)。
端午の日に、雄黄酒を飲んで魔よけをする習慣は、古くからあったようで、かつて、この酒には微量ながら砒素を含む鉱物を使ってたようだが現代の人々が飲むのは似せて作った酒のようだ。
日本でも、中国の故事にならって、菖蒲酒が飲まれるようになったのではないか。

日本の端午は鎌倉時代から、もう一つの「菖蒲の節句」で名で呼ばれるようになった。
菖蒲の節句と呼ばれたのは、「尚武精神」が理由である。当時では武士や軍事思想が盛んであり、男の子は皆武士になりたいという思いがあった。菖蒲は端午の節句にとって欠かせないものであるし、菖蒲の初音「しょうぶ」は尚武と勝負と同じなので、「菖蒲の節句」という別称を持った。
また、菖蒲の葉の形は剣の形に似ているので、子供たちはそれを武士の剣として遊んでいたようだ。菖蒲=尚武の節句となると、武家では将来立派な武士になるようにと、生まれた男児に兜や太刀を贈った。
江戸時代にはさらに幕府の重要な式目として定められ、将軍に対して、大名や旗本が将軍にお祝いを奉じる儀式を執り行い、将軍の世継ぎが生まれると、表御殿(公の政務・儀式などを行う正殿)の玄関前に馬印や幟を立てて祝った。この儀式がその後武家の男児誕生のお祝いに結びつき、やがて、
下級武士までもが武具やを飾るようになり、安政年間になると庶民がそれを真似て、今の鯉のぼりを飾る習慣となったようである。
この様に菖蒲=尚武の節句は武士を重んじる思想の背景となっている。武士道は「武士の戒律」であると共に道徳規範でもあり、武士たちは、それを守らなければならなかった。そして、それは不言不文の語られざる掟、書かれざる掟でもあった。
武士道は仏教神道から大きな影響を受けているが、源は孔孟の教えであり、知識を行動と一致させよという中国明代の儒学者、思想家である王陽明の「知行合一」の実践であった。
そして、また、自分の命は主君に仕えるための手段と考え、従属関係を重視し、主人に対する忠誠、先人に対する尊敬、両親に対する孝行など、それを遂行する名誉が理想の姿だった。
農学者・教育者そして倫理哲学者でもある新渡戸稲造は武士の徳を義・勇・仁・礼・誠・名誉・忠義に分類しているが、これらの徳目の中でもとりわけ「義」「忠義」が武士道の代表的な精神とされている(※16参照)。

つまり昔の日本では、端午の節供は今のような男の子のお祭りではなく、田植えに結びついた女性のお祭りであった。それが現在のように男の子の節供という一面のみが強調され定着していった背景には、菖蒲」が「尚武」に通じるとして、江戸時代には、幕府は5月5日を重要な日として定める。そして、5月5日には、大名や旗本が式服でお祝い品等を携え、江戸城に出向くようになった。
これ以降、武家の間で菖蒲を軒に挿したり、馬印や幟(のぼり)や兜や鎧を飾り、男児の誕生や成長を祝う習慣が生まれた。当時男児の誕生は、非常に目出度いことであった。
この風習が、次第に裕福な庶民の間へと拡がりを見せていった。庶民は、幟旗を立てることは許されていなかったため代わりに盛んに鯉のぼりをあげるようになり、やがて庶民は、端午の節句に、鯉のぼりだけでなく紙の兜や人形を作るようになり、武者人形などに発展していった。

男児の祝いものとして飾られる鯉幟(のぼり)、武者人形や武者絵、刀や兜、甲冑類の武具、それに菖蒲と柏餅・粽(ちまき)などのお供物(くもつ)など、現在の端午の節供を形成する主要な要素はだいたい江戸時代にほぼ全てが出揃い、また、この日には相撲や凧揚げ、船による競争(競漕)といった勇壮な行事が多く行われるようになった。
ちなみに、幟には、中国の故事で災厄を祓う魔除けの神とされていた「鐘馗(しょうき)」を描いたものが多かったようだ。
また、男児たちは、菖蒲の葉を平たく編んで棒のようにし、地面に叩き付け、音の大きさを競う遊び「菖蒲打」をして楽しんだ。
上掲の画象は、江戸時代末期を代表する浮世絵師の一人歌川国芳の揃物「稚遊五節句之内(ちゆうごせっくのうち) 端午」の中の1枚である。(画像は、プーシキン国立美術館所蔵浮世絵コレクションより)。
節句の日に菖蒲を刈り取り三つ編みにして地面にたたきつけ、音の高さを競う遊び「菖蒲うち」に懸命の2人。
鯉のぼりを持ち指さす子供、関羽の持つ青龍刀を担ぐ子供が描かれている。

かっては、薬草を摘み、艾(よもぎ)の人形を門戸にかけ、菖蒲湯で沐浴して、薬を祓ったこの日も、今では、単なる「こどもの日」。
昭和23年に「国民の祝日に関する法律」で「こどもの人格を重んじ、こどもの幸福をはかるとともに、母に感謝する」日となり、男女の別なくお祝をする日になった。子供の日は、五節供の中では唯一の祝日であるが、祝日と言っても、鯉のぼり一つを見るのも目面しくなり、今日も、子供の日としての行事などほとんどなく、大方の人は単なる旅行やお遊びのための連休の中の1日となっていることだろう。
どこの行楽地もごった返していて、お母さんも感謝をしてもらうどころか、お父さんとともに、子供へのサービスでくたくたになっていることだろう推測する。せめて、今日は、菖蒲湯ぐらい入ってくつろいでくださいね。


参考:
※1:医薬全商連
http://www.zsr.or.jp/
※2:東苑漢方:鹿茸(ロクジョウ)
http://www.toyi-net.com/herbs/rokujo.htm
※3:日本書紀、全文検索
http://www.seisaku.bz/shoki_index.html
※4:うだ記紀・万葉
http://www.city.uda.nara.jp/udakikimanyou/
※5:万葉集の名歌の真実〜柿本人麻呂の歌(Adobe PDF)
http://seihoku-rotary.main.jp/visitor/pdf/takuwa/20100315t.pdf#search='%E4%B8%87%E8%91%89%E9%9B%86%E5%B7%BB1%EF%BC%8D48+%E6%9F%BF%E6%9C%AC%E4%BA%BA%E9%BA%BB%E5%91%82++%E8%B3%80%E8%8C%82%E7%9C%9F%E6%B7%B5'
※6:紫野の贈答歌(Adobe PDF)
https://appsv.main.teikyo-u.ac.jp/tosho/kimura33.pdf
※7:象形字典:耑的象形字
http://vividict.com/WordInfo.aspx?id=3257
※8:象形文字の秘密 「立」の字を解読
http://shoukei.blog65.fc2.com/blog-entry-91.html
※9:五月五日の詩宴 : 天智天皇七年の肆宴につ いて - MIUSE - 三重大学
http://miuse.mie-u.ac.jp/bitstream/10076/6468/1/AN101977030050007.pdf#search='%E4%BA%94%E5%85%B5%E3%82%92%E8%BE%9F%E3%81%91%E3%82%8B'
※10:高岡市万葉歴史館web万葉集:読んでみよう越中万葉
http://www.manreki.com/manyou/
※11:続日本後紀(朝日新聞社本)
http://www.j-texts.com/sheet/shokukouki.html
※12:枕 草 子
http://www.geocities.jp/sakurasoushi/makura.html
※13:「食物本草歳時記」
http://www.occn.zaq.ne.jp/ringo-do/syokumotu.htm
※14:続日本紀(朝日新聞社本)
http://www.j-texts.com/sheet/shoku.html
※15:雄黄酒を飲む - 広州市政府ポータルサイト
http://www.gz.gov.cn/publicfiles//business/htmlfiles/cngzrw/s5568/201102/768554.html
※16:新渡戸稲造著・武士道の要点整理 -
http://blog.goo.ne.jp/tetsuda_n/e/d37b97b8676d8c2be032062a79a8dbd7
くすりの博物館
http://www.eisai.co.jp/museum/index.html
アヤメの語源
http://www.ctb.ne.jp/~imeirou/soumoku/a/ayame.html
訓読万葉集
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/manyok/manyo_k.html
第十講:武士道
http://www.heisei-shin.com/writings_box/religion_page/religion_30_1.html
DonPanchoのホームページ
http://www.bell.jp/pancho/
くすりの博物館
http://www.eisai.co.jp/museum/index.html
野津隆司の世界へようこそ!医療と薬の歴史
http://www003.upp.so-net.ne.jp/nozu/history.htmlhttp://www.bell.jp/pancho/

1937年大阪・御堂筋の拡張工事が完了。幅5.5mの道路を44mに拡幅

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御堂筋(みどうすじ)は、大阪府大阪市の中心部を南北に縦断する国道であり、現代の大阪市における南北幹線の基軸である。
大阪市は大阪府のほぼ中央に位置する市で、同府の府庁所在地であり、政令指定都市に指定されている。
1889(明治22)年4月1日の市町村制開始の際に市制施行した日本の最初の市である。そして、日本を代表する商業地であるが、観光地としても栄えている歴史ある都市である。
大阪市は24区にわかれており、区の数は日本最多である。
エリアは、梅田天満福島など、JR大阪駅梅田駅)を中心とした大阪市街地北部を総称した「キタ」と呼ばれるエリア、心斎橋難波阿倍野周辺など大阪市街地の南部を総称して「ミナミ」と呼ばれるエリア、そして港区ユニバーサルスタジオから安治川(大阪府大阪市西区にある地名)を隔てて南に位置するエリア天保山の3つのエリアに分類される。
御堂筋は、大阪市の中心部である「キタ」のJR大阪駅前から淀屋橋本町・心斎橋を経て「ミナミ」の南海難波駅前間を貫く目抜き通りにあり、全長は約4km、幅員44m、片側6車線の道路であり、大阪駅に近い梅田新道交差点より北側は国道176号線、南側は国道25号線に指定されている。
尚、梅新南交差点より南側は南行きの一方通行である。地下には大阪市営地下鉄御堂筋線が敷設されている。
街路樹のイチョウでも有名な、大阪を代表する道路である。

大阪が位置する上町台地は、古代には「難波潟」(難波江に同じ、難波津のあるところ)と呼ばれる湿地に突き出した半島状の陸地で、「浪速(なみはや、なにわ)」、「難波(なにわ)」、「浪花(なにわ)」、「浪華(なにわ)」などと称されてきた。
縄文時代のころにあたる約7000年前、現在の上町台地は、海の中にある半島のかたちで存在していたことがわかっており、その範囲は、天満橋あたりを北端として、南にある四天王寺(天王寺区)、そこからさらに南西にある住吉のあたりまで、大阪市内をざくっと縦断していた台地であった。
そのように海に囲まれたところだったがゆえに、上町台地は外敵も侵入し難くく、水資源も豊富で、植物や動物、そして人間にとっても比較的生活しやすい環境だったのではないかといわれており、そのため、最初に日本列島あたりへ人々がやってくるとすぐにここで生活する人々が現れたみたいである。
その後、農耕文化が広まって一帯に集落もできてきたりするが、7世紀以降、国際交易が盛んになるなかで、海に囲まれたこの上町台地が重要な位置を占めるようになる。
難波津や住吉津(津は港のこと)を通じて物資や技術、文化が入ってくるようになり、時の天皇がここを拠点に中国大陸や朝鮮半島との交流を行ったり、聖徳太子が中国からやってきた仏教の興隆を願って日本で初めてのお寺・四天王寺を建立したりした。
そして645 (大化元) 年には難波京(難波宮)が営まれることにもなった。
都としての難波宮の存在は長くはなかったが、国際交易港・国内の物流の要所としての上町台地の役目は時代を経ても変わらず、織田 信長の死後その領土を継承した豊臣秀吉は、1583 (天正11)年、この上町台地の北端に位置する、石山本願寺の跡地を 直ちに、総石垣づくりにした大阪城を構えることとなった。
その一方、城の南、上町台地に続く玉造には大名邸や武士住宅を集中させて防御を固め、城の西側、既成市街地には町人を呼び寄せて多くの町屋を造り、北の天満本願寺寺内町とした後、寺町に変えた。
1598(慶長3)年、秀吉は、死に臨んで、惣構(そうがまえ)の}普請を指示、台地の南側に、空堀(惣構)を儲け、惣構内の町屋を東横堀(惣構)外の船場に出し、人質を住まわせる大名邸を造っている。
秀吉の没後は、筆頭の大老徳川家康が西の丸に入って政務をみ、そこにも天守を建てた。また、関ヶ原の戦いの際には西軍の主将となった毛利輝元が西の丸に入った。


上掲の画象は、その頃の大坂の景観であり、北から南を願望したものである。画像・文などは、私の蔵書『週刊朝日百科 日本の歴史』27号から借用した。字が小さく見難いので、赤で四角く囲っているものがあるが、大阪城に近いところの南北の筋が谷町筋である。それに並行して、右の方の南北に走っているのが御堂筋、その右上下に南御堂、北御堂が見られるだろう。詳しくは、拡大画像を見られるとよくわかる。
以下の画像、向かって左部分をクリックするとその部分の拡大画像が、右部分をクリックすると右部分の拡大画像を見ることができる。

このように大阪は、大阪城築城とほぼ同時期に、船場地区を中心に御堂筋周辺の開発も始まり、街区は基本的に42 の正方形で、街路は碁盤目状に直交している。船場の街並みは、大坂城の西に位置することから東西方向が竪(たて)となり、東西方向の街路を通(とおり)と称し、計23本。当初の幅員は4.3間に設定されていた。一方、南北方向は横(よこ)となり、南北方向の街路を筋(すじ)と称し、計13本。当初は補助的な街路とされたために幅員は3.3間と通に対して狭く設定されていた(参考※1参照)。
町割りは基本的に通に沿った両側町で、東から丁目数にして5程度の町が多かった。ただし、西横堀筋は全て南北方向の横町割りで、渡辺筋や御霊筋にも横町割りが見られた。明治以降に通と筋の主従関係が逆転したが、東西方向の竪(縦、たて)町割りは依然健在で、平成以降は竪町割りに統一されているようだ。
筋と通のことについては、大阪市内の筋・通一覧および、参考※2:「大阪市立図書館」の調べる・相談する>おおさか資料室>よくある質問>“通り”と“筋”を参照されるとよい。

御堂筋の名は、上掲の図、また、※1の宝暦大阪図(1759年=宝暦9年)にも見られるように、道路脇にある通称北御堂(正式名称本願寺津村別院)と通称南御堂(正式名称:真宗大谷派難波別院)を繋ぐ道であることに由来するといわれている。
浄土真宗本願寺派と大坂との関係は古く、本願寺の蓮如が1496(明応5)年に石山御坊(後の石山本願寺)を現在の大阪城の地に建設したのが始まりとされる。
織田信長との「石山合戦」のあと焼失し、1951 (天正19 )年には豊臣秀吉の寄進により京都に本山が移転する。津村別院は当初、「津村御坊」の名で1597(慶長2)年に造られた。
難波別院は浄土真宗真宗大谷派と呼ばれる宗派であり、1596 (文禄5 )年、真宗大谷派の開祖である教如が、現在の北区の天満橋天神橋の間に位置する「渡辺の地」に大谷本願寺を開創したことに始まる。
しかし、1583 (天正11 )年、豊臣秀吉が石山本願寺跡に大阪城を築城。城下町を整備していくにあたり、石山本願寺に隣接して建っていた大谷本願寺は、秀吉の命により1598(慶長3 )年現在地に移転した。
江戸時代は、これら南北の御堂を併せて「御堂さん」として親しまれていたそうだ。そして、大阪を南北に貫く現代の御堂筋の名づけ親は関一(せき はじめ)元大阪市長だそうである。この御堂筋とは切っても切れない関係にある関一市長のしたことはこの後でまた記すことにする。

Wikipediaによれば、文献上に、御堂筋の名が初めて現れるのは、1615(元和元)年、大坂夏の陣落人狩りなどを記録した徳島藩の「大坂濫妨人落人改之帳」の中で、捕らえられた男女のうち、男1人の居場所として「大坂御堂筋」と記されているのが最初だそうである。

ここに珍しい名前「濫妨人」が出てくるがこれは「らんぼうにん」のことである。
現代使われている言葉「らんぼう」を国語辞書で引くと「乱暴/濫妨」の字が出てくるが、「乱暴」と「濫妨」では、発音は同じでも意味は相当違ったものである。
戦国時代の戦場は「濫妨狼藉」と「苅田狼藉」の世界でもあった。
ここで言う「濫妨」とは、村や町を襲って家々に火をつけたり家財や人や牛馬を奪う事をさしている。戦闘の最中や直後にはこれがかならず行われていたようであった。
この濫妨狼藉の人を奪い取る目的には2つあったようだ。
一つは身代金目当てであり、村や町に多くの親族をもっている有力者やその家族であった場合は、親族が身代金と引き換えに奪い取られた人を請戻した。
そして、身代金があてにできないような人々の場合は、「人取り」(人捕り)を行ったものが自家の下人として働かせるか、もしくは「奴隷商人」などに売り渡して金に替えるかであった。
戦国期から江戸初期まで、そもそも戦場で人をさらう=略奪することがことさら“悪事”であるとは思われていなかった。人をさらって売り飛ばし、それを利益、手柄としてきた主役は、主として敵方の所謂「雑兵」(ぞうひょう)たちであった。
戦国大名の軍隊で騎乗の武士は大体1割程度であり、そのほかは、「身分の低い兵卒」・・・雑兵であった。戦国時代の戦争では、城を攻める時にはまず雑兵が敵国の村に押し入り、放火、略奪、田畑の破壊をするのが常道であったのだ。
領内が敵に濫妨されるのを防ぎ、配下の兵士に敵地で濫妨させてやることが、領主の器量の見せどころでもあったようだ。
敗戦の落人をまっていたのはこのような敵による残党狩りばかりではなかった。力尽きた彼らからめぼしいものを奪おうと落ち行く先々で土豪や庶民までもが待ち受けていた。
良く知られている山崎の合戦で敗れた明智光秀も土民の槍にかかっている。
落人の中でも、特に力のない女子や子供は悲劇であった。主人の庇護を失った子女が安寿と厨子王のような境遇に落とされたことも十分にうなずけることである。


上掲の画象1枚目は、『大坂夏の陣図屏風』(部分)に描かれている戦乱に逃げ惑う女達の姿である(週刊朝日百科日本の歴史27号より)、また、2枚目も、同じく、同屏風絵(部分)に描かれている若い娘を拐かそうとする雑兵の姿を描いている(同2729号より)。
『大坂夏の陣図屏風」(大阪城天守閣蔵。重要文化財)は六曲一双の屏風画である。これは黒田長政が徳川方の武将として大坂夏の陣(1615)に参戦したあと、その戦勝を記念して作らせたもので、現存する黒田家文書によると、長政自身が存命中に自ら作成を指示したとされているという。
黒田長政は播磨国姫路城で豊臣秀吉の軍師である黒田孝高(官兵衛・如水)の長男として生まれ、秀吉に仕えた戦国武将であった。
秀吉の死後、関ヶ原の合戦(1600年)では東軍として戦い、東軍勝利の立役者の一人となる。その功績で筑前・福岡藩50万石の藩主になった人物である。
「大坂夏の陣図屏風」の右隻の六曲には、徳川軍と豊臣軍の戦闘場面が描かれている。そして左隻には大坂城から淀川方面へ逃げる敗残兵や民衆、それを追いかけたり待ち受けたりする徳川方の武士・雑兵が描かれている。この左隻の中に、上記のような「濫妨狼藉の現場」が描かれているのである。
戦国時代における「奴隷狩り」や「奴隷売買」を詳述した本として、藤本久志・立教大学名誉教授の『新版 雑兵たちの戦場 - 中世の傭兵と奴隷狩り - 』(朝日選書)があり、この本の表紙に「大坂夏の陣図屏風」の画が使われており、この「大坂夏の陣図屏風」の画と共に、この本の内容から奴隷狩り・奴隷売買の部分を詳しく紹介しているのが、以下参考の※3、※4、である。興味のある人は見られるとよい。
また、『雑兵たちの戦場』の中には、以下のような興味深いことが書かれているそうだ。
“幕府は戦争が終わった後の「落人改あらため令」の中で、大坂より外で略奪した人を解放し返せ、との命令を出している。この幕令をうけた蜂須賀軍は、ただちに自軍の奴隷狩りの実状を調査し、その結果を「大坂濫妨人ならびに落人改之帳」という文書にして幕府に提出した。
この文書によると、略奪された人の数は、奉公人男 17人女33人計50人。町人男 29人女47人計76人、子ども男 35人 女16人計51人、合計男81人女96人計177人(奉公人は「武家の奉公人」の意味)と徳川幕府に報告している。
これを見ると、成年男子は全体の4分の1に過ぎず、明らかに女と子供が多数を占めている。
蜂須賀軍は「自軍の人取りはすべて戦場の行為であり、合法だ」と主張していて、それを証明するのが「濫妨人改之帳」を提出した狙いであったという。
合戦で捕獲される人間の多くが女と子供であったという傾向は、蜂須賀軍に限らず、またどの合戦かに拘わらず、大体共通していたことのようだという。男より女・子供の方が捕獲し易いことは、説明するまでもないだろう。

江戸期に入ると、住友鴻池淀屋などの豪商が活躍した。
住友・鴻池と並んで淀屋が出てくるが、淀屋は、江戸時代の大坂で繁栄を極めた豪商である(淀屋のこと詳しくは※5参照)。
大阪夏の陣で荒廃した町を復興させようという徳川幕府の政策のもと、材木商であった「淀屋」初代・淀屋常安が、中之島の開拓を行い、そこに大名の蔵屋敷が次々と建てられ、諸藩が自国の産品を商うことで、大阪の町が栄え、「天下の台所」と呼ばれるようになった。
常安が残した最も大きなものは、先物取引のシステムであった。徳川幕府は米経済を基盤としていたから、諸藩は米を蔵屋敷に蓄え、必要に応じて換金し、藩経済を運営していた。
しかし、取引が米問屋の間で個々に行われていたために品質や価格がまちまちであった。
常安は、これに目を付け、幕府に米市場の設置を願い出て米の取引所を開設。諸大名は、その水運の便利さと、蔵屋敷に近いこともあって、こぞって米市場へ米を持ち込むようになり、やがて米相場が立ち、米の価格の安定と品質の向上に寄与することになった。
現在の地名「淀屋橋」は、米市に集う人々のために、二代目が架けた橋に由来するそうだ。豪商淀屋が天下の台所としての大阪の基礎を築き、淀屋橋は商都大阪の中心となっていく。
淀屋は4代目淀屋重当の頃、最も繁昌したが、彼の死後米市場は堂島へ移った。
そして1730(享保15)年に幕府により先物取引が正式に承認された。堂島米会所(※6参照)は世界初の公設先物取引市場だといわれている。
そして、金融の今橋、薬の道修町などが形成され、懐徳堂適塾といった学問所ができ、活気ある街になった。

江戸時代以来御堂筋と呼ばれていた区間は、もともと本線中の北御堂と、南御堂の門前の東側を通る在来の道(船場の淡路町 - 博労町間)においてのみで、同区間以北では淀屋橋(土佐堀川)を渡って中之島へ出る道であることから「淀屋橋筋」と呼ばれていた。
現在のように一本道ではないが大江橋(堂島川)と蜆(しじみ)橋(曾根崎川)を渡って曾根崎新地へ出ることもできた。
しかし、同区間以南では順慶町(現在の町名は南船場)通など東西方向の通が主体となり、名称らしい名称すらなく、長堀川には架橋されず末吉橋通で完結していた。
また、淡路町通との交差点では屈折も見られ、道幅は3間(約5.4m)ほどしかなく、堺筋難波橋筋心斎橋筋などと比べて見劣りのする、人通りの少ない道であった。

明治期においても東西軸である「通り」が交通の中心であったが、梅田難波に駅ができると、南北軸の必要性が高まった。
大正時代に入ると、大阪市助役から、第7代大阪市長となった關一(せき はじめ)により、大規模な都市計画事業が打ち出された。
御堂筋は、大阪の交通の根幹としてだけではなく、近代都市大阪のシンボルとして計画された。
既に大正8年から調査研究が開始されていたが、大正10年内閣で認可され、1924(大正13)年に更生第一次都市計画事業として決定した。それまで幅54mほどであった道を、幅44m、延長4370mの道路にし、しかもその下に地下鉄を建設するという大事業であった。
1926(大正15)年から地下鉄御堂筋線建設と合わせて拡幅工事が行われた。財政難と用地確保に時間がかかったこと、また技術上の困難が多かったことなどから、翌・1937(昭和12)年5月11日に完成し、ほぼ現在の姿となった。
新橋(長堀川)、道頓堀橋(道頓堀川)が架橋されたのはこの時である。また、この工事の影響で北御堂が移動し、南御堂とともに沿道に並ぶ形になったため、このときから「御堂筋」がそのまま本線の名前として採用され、使われるようになった。
また、地下鉄は、1933(昭和8)年5月20日、梅田駅(仮) - 心斎橋駅間 (3.1 km) が開業。1935(昭和10)年10月6日には、梅田駅本駅が開業。 10月30日に心斎橋駅 - 難波駅間 (0.9 km) が開業し、来たから南までつながった。
コンクリートとアスファルト全面舗装の御堂筋は、路面を、高速車道、植樹帯、緩速車道、歩道に分けられ、完成当初の車道は中央部分が「高速車道」、いわゆる側道部分が「緩速車道」として設計されており、緩速車道は牛馬車や荷車、自転車、そして人力車などの軽車両の通行に供されていた。車社会となった現代においてはその役割は変化したが、戦前の穏やかな都市の雰囲気が偲ばれる。
また、歩道と植樹帯には市内において初の街路灯が設置された。街路灯とともに美しい景観を添えるイチョウ並木は、建設当時からのもの。
1934(昭和9)年から緩速車道の分離帯に2列、歩道に2列の植樹が始まり、計928本が植えられた(御堂筋の歴史など詳しくは、参考※1:また、※7の御堂筋資料館など参照)。
奥の細道』で著名な江戸時の俳諧師松尾芭蕉
その芭蕉の終焉の地は、1694(元禄7)年10月12日、場所は大坂 南久太郎町御堂ノ前 (現大阪市北久宝寺町三丁目)花屋仁右衛門貸座敷であったという(花屋仁右衛門での臨終の様子は、参考※8のここ参照)。
また、この場所は、御堂筋拡幅により現在は御堂筋の車線上にある。そのため、南御堂の御堂筋を挟んで向かい側、車線の分離帯に「このふきん芭蕉終焉ノ地」と刻まれた碑が建てられている。以下がそれである。

また、南御堂の境内には、芭蕉生前の最後の句の1つ『旅に病で 夢は枯野を 駆けまはる』(ここ参照)の句碑がある。

上掲の図は、拡幅完成後の横断構成図。参考※1の国土交通省近畿地方整備局のものを借用。
昭和初期、大阪市長関一の計画のもと、旧来の狭い道を一気に現在の幅にまで拡張したこの工事では同時に地下鉄の建設までもが行われた。まだ、自動車時代の到来する前に、これほど巨大な道路を作ることには当初批判も大きかったようだが、関の先見性は後に高く評価されることになった。
当初より電線を全て地下に配し、イチョウ並木をつくり、周辺ビルのスカイライン(風景)100尺規制により、高さは約30m以内に制限した美しい景観をもつメインストリートとして注目を集めてきた。
現在は、ビルのスカイラインは50mに緩和され、商業施設や、オフィスビルが立ち並んでいる。また、完成時は2車線+1緩速車線の対面交通であったが、大阪万博開催を機に梅田新道以南が南行き一方通行となっている。
御堂筋のとくにミナミ近辺では、すぐ東側に心斎橋筋・戎橋筋といった繁華街が南北に平行に走り、東西には碁盤の目のようにオフィス街や、南船場・アメリカ村などのファッション街が交差し活気に溢れている。
また、近年では御堂筋沿道に、ヘンリー・ムーアや「考える人」で有名なオーギュスト・ロダン高村光太郎など内外の有名作家による彫刻27体が飾られ、通り行く人々を楽しませている(※7の御堂筋の彫刻参照)。
毎年10月には、新たな大阪のビッグイベント「御堂筋Kappo」(みどうすじカッポ=闊歩)が開催され、歩行者に開放された御堂筋(御堂筋が歩行者天国となる)では、様々な体験型イベントも開催されている。
色づいた銀杏が御堂筋を黄金色に染める11月下旬〜12月上旬は、このストリートの最も美しい季節である。
大阪のシンボルである御堂筋のイチョウをイルミネーションで装飾することにより、世界に類を見ない景観を創出し、美しい光のまちとして、人々をひきつける賑わいをつくり、大阪全体の活性化を図ろうと行われてきたイベントOSAKA光のルネサンスも、2003年初開催から年々規模が拡大するに伴い来場者も増え、2010(平成22)年度開催は約286万人もの来場者があり、大阪冬の風物詩として府の内外から多くの人が来場したという。
昨・2012(平成24)年に10年目を迎えた同イベントは、2013年度より、 2015年を目途に世界的な光の祭典・フランス・リヨンのリュミエール祭(Fetes des Lumieres、フェット・デ・リュミエール。街中がイリュミネーションで彩られる。「光の祭典」参照)をめざして、中之島と御堂筋をコアプログラムとして大阪市中心部各エリアの光プログラムが一体となる『大阪・光の饗宴』として新たに発信するという(実行委員会も「大阪・光の饗宴実行委員会」に改める・以下参考の※9:「光のルネッサンス」参照)。
大阪再生のためには自治体とし出来ることの限界があり、政治を変えなくてはいけないと政治集団大阪維新の会まで立ち上げた橋下 徹 市長。
最近は、なにかと批判する人も多くなってきたようだが、私は、今の政治家の中で、身を犠牲にしてまで自分の住んでいる町のために尽くそうとする人などおそらく皆無と思われる中で、本当によくやっていると思う。よいと思うことは、どんどんやればよい。この光の祭典も是非成功させてもらいたいと願っている。
この事業の費用の半分は寄附金で賄うそうだが、世界に誇れるイベントをするため皆さんも協力してあげてください。
それを応援しようとしてのものかどうか知らないが、謎の歌が今ネット上で話題になっている。
曲のタイトルは「御堂筋を歩こう」。
元々は、昨年の1月中旬頃に何の告知も無く突如としてYouTube上にアップされていた曲だそうだ。
単に堂島から心斎橋までの地名を羅列しているだけのようにみえて、歌詞を良く聴くと人名等の隠れたキーワードが見えてくる不思議な歌だ。
歌詞、一番と二番があるが一番を引用してみよう。
(歌詞一番)
堂島川の橋もと 通る【橋下徹】船
新しい蝶【新市長】が飛ぶ
貴女が待つ1時【松井知事】に
心斎橋まで ゆっくりと歩いて行こう
幸せへの鍵は期待しないことだと
誰かが言っていたよね
淀屋橋から 土佐掘へ
北浜 今橋 高麗橋へ
二人よく歩いたね
伏見町 道修町
昔ながらの
街が変わっても
変わらないで 貴女だけは
御堂筋を歩こう

【】内の名前が読み込まれている。続いて二番もあるが、その「締め括りのメッセージ」は「街も自分も変わらないとね 御堂筋を歩こう」・・・である。
PV(プロモーションビデオ 。promotion video)も、「御堂筋イルミネーション」であり、メッセージ性も強く、また、社会風刺ともとれる意味深な曲であるが、なかなかしっくりとした味わい深い曲ではある。謎のアーティストは“ssllee”(スリー)。Wikipediaには、大阪府出身のシンガーソングライター花沢 耕太(はなざわ こうた)ではないかとあるのだが・・・その真実はよくわからない。下のYouTubeで曲が聞けるので、聞いてみるとよい。

御堂筋を歩こう / ssllee (スリー) - YouTube

御堂筋を歩こうと言えば、私などの年代の者は、先ず坂本スミ子の「 たそがれの御堂筋 」 を思い浮かべる。一番の歌詞だけを、下に書いてみる。

御堂筋の たそがれは
若い二人の 夢の道
お茶を飲もうか 心斎橋で
踊り明かそう 宗右衛門町
送りましょうか 送られましょか
せめて難波の 駅までも ウーウ
今日の僕等の 思い出を
テールランプが 見つめてる

「 たそがれの御堂筋 」(作詞:古川益雄,作曲:加藤ヒロシ)

全歌詞はここを参照⇒ 坂本スミ子/歌詞:たそがれの御堂筋/うたまっぷ

1966(昭和41)年に、フィリップス・レコード(Philips Records)より発売されたシングルである。
歌手は、「ラテンの女王」の異名も持つ坂本スミ子のゆったりとした時の流れを感じさせる曲である。
昭和40年代、若者がまだ純粋な恋に生きる時代の恋人同士が、たそがれ時の御堂筋を、ゆっくりと歩いている雰囲気、また当時の風景が蘇ってくるような曲であり、私の大好きな曲である。以下で曲を聞ける。

「 たそがれの御堂筋 」 坂本スミ子 - YouTube

私は、学校を卒業し、始めて就職をしたのが船場の中心地本町に本社を構える商社であった。
酒が大好きなので会社の呑兵衛仲間と南の宗右衛門町や法善寺横丁、また、北の新地などでよく飲み明かしたものだが、時には、恋心を抱いている会社の若い女性と二人で心斎橋でお茶を飲み、夕食をし、ダンスホールなどで楽しい時を過ごしたあと、南海沿線に住む彼女が家に帰るのに南海電車の難波駅まで送ってもいったものだ。この歌を聞くと、そんな自分の青春時代を思い出す。
初めて御堂筋のイチョウ並木の景観を見たときには感動し、季節になると梅田まで歩いたことも何度かある。その時、街路樹を歩きながら銀杏の実を拾い集めたりもしたものだが、足で踏み潰された銀杏の実は、独特の匂いがし、これにはいささか閉口したものだが、近年この実の臭いを嫌う人が多いものだから、植え替え時には、実をつけない雄株が植えられるようになっているようだ。
だから御堂筋のイチョウ並木での銀杏拾いは、近々出来なくなくなるかもしれないな〜。これはこれでちょっとさびしい気もする。
この銀杏並木は、大阪府民投票の結果により、1989(平成元)年4月に大阪みどりの百選に選定されている。また、2000年(平成12年)には、大阪市指定文化財になっているようだ(※10参照)。
大坂の御堂筋は、このような銀杏並木の景観だけでなく、すばらしい歴史遺産や近代建築物群も多く残っている。
しかし、私など、若いころは、酒を飲むことしか興味がなかったので、好きな子とデートする以外は、同じ会社の呑兵衛仲間と年中キタや南の夜の街はうろつき歩いたが、昼間に、このような、歴史や文化・芸術にかかわるようなものをじっくりと見て回ったことはない。
だから、一度ゆっくりとそのようなものを見ながら、家人とでも散策をしてみたいものだと思っている。そのためには、以下参考の※7にある御堂筋ウオーキング,や※10など利用すると便利なのではないか。
皆さんも歴史ある大阪の街をゆっくりとウオーキングされてはいかがですか。
参考:
※1:3 御堂筋について(PDF:5.58MB) - 国土交通省近畿地方整備局
http://www.kkr.mlit.go.jp/osaka/commu/mido/pdf/3mido-nitsuite.pdf#search='%E5%BE%A1%E5%A0%82%E7%AD%8B%E3%81%AE%E5%A4%89%E9%81%B7'
※2:大阪市立図書館
http://www.oml.city.osaka.jp/index.html
※3:No.33 - 日本史と奴隷狩り
http://hypertree.blog.so-net.ne.jp/2011-07-28
※4:No.34 - 大坂夏の陣図屏風 [歴史]
http://hypertree.blog.so-net.ne.jp/2011-08-11
※5:淀屋常安
http://www.asahi-net.or.jp/~uw8y-kym/yodoya-joan00.html
※6:大江戸経済学 大坂堂島米会所
http://www.h6.dion.ne.jp/~tanaka42/doujima.html
※7:「ひと・みち・くらし」 >御堂筋情報室
http://www.kkr.mlit.go.jp/osaka/commu/mido/index.html
※8:芭蕉DB:芭 蕉 年 表
http://www2.yamanashi-ken.ac.jp/~itoyo/basho/index.htm
※9:光のルネッサンス
http://www.hikari-renaissance.com/outline/outline.html
※10:大阪市指定文化財分類一覧表
http://www.city.osaka.lg.jp/kyoiku/page/0000111912.html
大阪市HPサイトマップ
http://www.city.osaka.lg.jp/main/sitemap.html
御堂筋の歴史 - 混沌写真
http://chaos08.blog17.fc2.com/blog-entry-32.html
藤木久志『雑兵たちの戦場』読後雑感
http://www5a.biglobe.ne.jp/~hampton/read007.htm
御堂筋-Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A1%E5%A0%82%E7%AD%8B

お茶漬けの日

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今日・5月17日は「お茶漬けの日」だそうである。
お茶の製法を発明し、煎茶の普及に貢献した永谷宗七郎の子孫にあたる永谷嘉男が創業した株式会社永谷園が制定。永谷園は1952(昭和27)年に画期的なインスタントのお茶漬け商品「お茶づけ海苔」を発売し、お茶漬けをさらに身近な食べ物とした「味ひとすじ」の理念を持つ食品メーカー。「お茶づけ海苔」は2012(平成24)年に発売60周年を迎えた。日付は永谷宗七郎の偉業をたたえ、その命日(1778年5月17日)に由来する。
若いころ相当な呑兵衛であった私など、夜の食事にご飯を食べることはなかった。この習慣は飲み過ぎ肝臓を悪くしてしまった今でも変わらず、胃の休養のため週一の「飲マンデー」以外は、ご飯は食べず、晩酌のみである。ただし、酒が飲めなくなると困るので、今はお酒は最低限に控えている。
そんな私は、若いころは、しょっちゅう、大坂の会社の呑兵衛仲間とキタやミナミで、また、時には、深夜に、大坂から地元神戸・三宮の飲み屋街にまでタクシーを飛ばして行きつけの店を梯子していたが、さすが、深夜を過ぎて、おなかが減った時などには、よく「お茶漬け屋」に寄ったものだ。
夜食として食べるには、温かくて手軽に食べられ、消化もよさそうな物として、真っ先に思い付く食べ物の一つが「お茶漬け」ではないか。お茶漬けというと、その名の通り、ご飯に熱いお茶や白湯をかけた物や、また、冷めて固くなったご飯を食べやすくし、手早く食事を終える工夫と言った感じのものであるが、世代によってはお茶漬けに対するイメージも異なるだろう。
お茶漬けと言うと私など、すぐに思い出すのが小津安二郎監督映画の「お茶漬の味」(1952年松竹製作、白黒映画)である。同年の毎日映画コンクール佐分利信が男優主演賞を受賞している。

●上掲の画像は映画「お茶漬の味」のポスターである。
映画は、地方出身の素朴な夫(佐分利)と夫にうんざりする上流階級出身の妻妙子(木暮実千代)。この生まれも育ちも価値観も異なる夫婦が、そのギャップに悩みつつ、和解するまでを描いたものである。ちょっとあらすじを書くと以下のようなものである。
妻の妙子が夫佐竹茂吉と結婚してからはもう7・8年になる。信州(長野県)の田舎出身の茂吉と上流階級の洗練された雰囲気で育った妙子は、初めから生活態度や趣味の点でぴったりしないまま今日に至り、そうした生活の所在なさがそろそろ耐えられなくなっていた。
妙子は、学校時代の友達や、長兄の娘節子などと、茂吉に内緒で修善寺などへ出かけて遊ぶことで、何となく鬱憤を晴らしていた。一方の茂吉はそんな妻の遊びにも一向に無関心な顔をして、相変わらず妙子の嫌いな「朝日」(タバコ)を吸い、三等車に乗り、ご飯にお汁をかけて食べるような習慣を改めようとはしなかった。
茂吉と妙子の溝は深まるばかり。妙子が同級生の住む神戸へ旅行している間に、茂吉の海外出張が決まり、妙子に連絡がつかないまま茂吉は日本を発ってしまう。その後、妙子は家に帰ってきたが、茂吉のいない家が彼女には初めて虚しく思われた。しかし,その夜更け、思いがけなく茂吉が帰ってきた。飛行機が故障で途中から引き返し、出発が翌朝に延びたのだとという。
腹が減ったから何か食べようと普段はお手伝いに任せている台所に行き、「お茶漬け」の用意をする二人。食事の準備などほとんどしたことのない妻が糠(ぬか)味噌に手をいれ香の物を取り出す。そして夜更けた台所でひっそりと食事をする二人。手にまだ残る糠の匂いが気になる妻、それを嗅いでみる夫、二人のささやかな会話。
最後に「夫婦とはお茶漬の味なのさ」・・・と、妙子を諭す茂吉。この気安い、体裁のない感じに、妙子は初めて夫婦というものの味をかみしめるのだった。その翌朝妙子一人が茂吉の出発を見送った。茂吉の顔も妙子の顔も、別れの淋しさよりも何かほのぼのとした明るさに輝いているようだった。
この映画、昭和20年代当時の風俗をふんだんに盛り込んでいるのも特徴。「お茶漬けの味」は現在の社会が忘れそうになっている大事な何か・・そう、「夫婦の絆.」について・・教えてくれているように思われるのだが・・・。ラストの「お茶漬」のシーンが、如何にも小津作品らしい。この前に、ご飯にみそ汁をかけて食べる茂吉に、妙子が腹を立てるシーンがある。「汁かけ飯」とでも言おうか、これは、私の祖父もよくしていた。祖父は徳島の出だが、よくご飯の上に味噌汁などをかけて食べていた。このような汁をかけた飯は、まるで猫の餌のようなので、それを蔑して「ねこまんまと」などと呼ぶ地方は、西日本には多くみられるようだ。爺さん子の私などがそれをしようものなら、躾に厳しい父親から「品がない」と怒られたものだ。かける汁は味噌汁が 多いが、すまし汁や豚汁など、味噌汁でない汁をかけてもねこまんまと呼ばれる。汁をかけるのは「欠ける」に通じるので、身内に不幸がある、というようなはなしも聞いた記憶がある。
我々のような一定以上の年代の者には、お茶づけと言えば、ご飯にお茶をかけただけの物や、佃煮や漬物などの具材をほんの少し乗せたご飯にお茶をかけた物というイメージが強いが、今時の若い世代でなどでは、永谷園など、市販の粉末のお茶漬けの素などをご飯にかけたものを思い出すのではないかと思われるほど、今は、色々な「お茶漬けの素」が発売されている。
「飯」(めし)は、イネ科の米、麦、あるいはキビ亜科の穀物に、水を加えて汁気が残らないように炊いた、あるいは蒸した食品であり、また、食事の別名でもある。この言葉は「召す」の連用形「召し(めし)」が名詞になった語で「召し上がる物」という意である。丁寧語で「御飯」(ごはん)と呼ばれるものは、現在では特に米を炊いた食品を指す言葉となっている。
人は生米等のβデンプン(デンプン参照)をほとんど消化できず、食べてもうまみを感じないが、炊飯の加水と加熱により、デンプンの状態に変化が生じ、糖がたくさん繋がった高分子 の固い状態から、単分子化して間に水分が入り込み、ふっくらとした柔らかい状態にする事で美味しいご飯として食べる事ができるようになるのだそうだ。
つまりβ化していたデンプンをαデンプンに変化(α化)した事によって、固い米から柔らかく消化吸収に適したご飯が炊き上がっていたのだが、その状態は永続的なものではなく、温度が下がる事で単分子間に入り込んでいた水分が抜け、α化していたデンプンはまたβ化していき、ご飯は固いパサパサした食感へと変化していってしまう。
そのため、β化したデンプンを再びα化させるには温度を上げる事も効果的で、水よりもお湯をかけた方がより冷ご飯は食べやすくなり、お湯をかけたご飯は「湯漬け」と呼ばれているが、古くから食べられていたのは、この白湯を掛けたもの、いわゆる湯漬けである。
日本への稲作、米食文化伝来とともに始まったであろうと考えられているが、当時の記録などは発見されておらず、実際、いつ頃から始まったのかは定かではないが、例えば、乙巳の変の折、最初に蘇我入鹿の暗殺を命じられた者(子麻呂等)が、宮中に赴く前、水をかけた飯を飲み込んだ、という逸話がある。
日本書紀』巻廿四(※1参照。)皇極天皇四(六四五)年六月戊申の条に、
「子麻呂等。以水送飯。恐而反吐。」
訳:「子麻呂等、水を以(も)て送飯(いひす)く。恐(おそ)りて反吐(たまひいだ)す(※2参照)。
・・・とあることからも、相当古くから存在したであろうことは伺い知ることができる。
そして時代が下った平安時代には、『枕草子』(三巻本※3参照)の189 条「宮仕人のもとに来などする男の」には、以下の記載がある。
「宮仕人のもとに来などする男の、そこにて物食ふこそいとわろけれ。食はする人も、いとにくし。思はむ人の、「なほ」など心ざしありて言はむを、忌みたらむやうに口をふたぎ、顔をもてのくべきことにもあらねば、食ひをるにこそはあらめ。
いみじう酔(ゑ)ひて、わりなく夜ふけて泊まりたりとも、さらに湯漬をだに食はせじ。心もなかりけりとて来ずは、さてありなむ。
里などにて、北面より出だしては、いかがはせむ。それだになほぞある。」
意訳:「宮仕えしている女房の局を訪ねて来たりする男が、女の部屋で食事をするなんてのは、全くみっともない。食べさせる女房も、実に腹立たしい。愛する女が、「ぜひに」などと、心をこめてすすめるのを、忌み嫌うかのように、口をふさぎ、顔をそむけるわけにもゆかないので、やむを得ず食べているのでしょうがねぇ。男がひどく酔って、どうしようもなく夜が更けてしまって泊まったとしても、私は、決して湯漬さえ食べさせません。「気の利かない女だ」と思って、来なくなるなら、それはそれでいいのです。」
と、・・・、「湯漬け」が登場するが、恋愛感情で訪れた男が、食事をするのが清少納言には相当お気に召さなかったようだ(※4参照)。
また、『源氏物語』五十二条「蜻蛉」(かげろう)に、夕暮れの宮中で薄絹の着物をまとった女性たちが、氷室から取り出した氷をかち割って紙に包み、胸や額などに押し当てて涼をとっているくだりが描かれている(※5の第五章・第一段・第三段 「小宰相の君、氷を弄ぶ」参照)。
同じく源氏物語第26条「常夏」(とこなつ)には、光源氏の息子・夕霧が友達たちと水飯をかき込んでいるそばで光源氏がお酒を楽しんでいる場面がある(参考※5の第一章、第一段。1.1.3参照)。この様に、平安時代から、夏には氷水をご飯にかけて食べる(水飯=すいはん)、その他の季節には湯をかけて湯漬にする習慣が多くあったことを示している。
さらに、『今昔物語』(※6の「三条中納言、水飯を食う語」参照)や『宇治拾遺物語』(※7の巻第七ノ三 「三条中納言水飯の事」参照)には、肥満に悩んだ三条中納言(藤原 朝成)が医師に相談したところ、湯漬けや水飯でカロリーを制限するように薦められるが、しばらくして、朝成から少しもやせないので、食事を見てほしいとの連絡があり家に出かけた。
すると、中納言朝成の食事の様子はお椀にご飯を大盛りにし、水を少しかけ。水飯をかきこみ。鮎の熟れ鮨や、干瓜を数個ずつ頬ばり、何杯もお代わりするというものであり、医師はあきれて逃げ出してしまったという逸話が登場している。
この時医師は、ご飯の分量を水で増やし満腹感を得させる目的で「水漬け」や「湯漬け」をとるよう指導したものだが、1 杯のお椀のエネルギーが少なくても,何杯も食べれば効果はないのは当然のこと。医師があきれるのは当然であるが、結構こんな人多いのかもしれない。日本での文字となっている肥満治療の最古のもののひとつではないかといわれている。
私たちが子供の頃もそうであったが、湯漬けと水飯が広く食べられていた当時、炊いた飯は、おに移してから食すのが一般的であった。現在のように炊き上がった飯を保温する技術は無く、炊き立ての飯も時間の経過とともに冷える一方であった。前段でも書いたように、温度の下がった冷や飯は、水分も減少し、何よりデンプンの老化が著しいために、炊き立ての食感は失われてしまう。この冷えてしまった飯を美味しく食べる手段としても、特に熱い湯を掛けて飯を暖めたり、水分を補う湯漬けは非常に有用であったことだろう。
湯漬けと水飯は、何も身分の低い者だけが食べたわけではなく、古事類苑の飮食部/?の段には足利幕府(室町幕府)時代ニハ、酒宴ノ後ニハ多ク湯漬ヲ用イルヲ例トシ・・・」(※8参照)・・との記載が見られるように、鎌倉時代から戦国時代末期まで、特に冬季において武士は湯漬けを常食としていたようだ。
例えば、足利義政は、昆布や椎茸で出汁を取った湯を、水で洗った飯にかける湯漬け(現在で言う出汁茶漬け)を特に好んだとされる(NHK教育『歴史に好奇心 あの人は何を食べてきたか(2)足利義政の湯漬け』)。
また、永禄3年(1560年)5月、桶狭間の戦い前夜、今川義元軍の尾張侵攻を聞き、清洲城織田信長は、まず幸若舞敦盛』の一節を謡い舞い、陣貝を吹かせた上で具足を着け、立ったまま、湯漬を食したあと甲冑を着けて出陣したという有名な伝記(『信長公記』)がある。当時、出陣前には、米飯に熱めの湯をかけた湯漬けを食べるのが武士の慣わしでもあった。何よりも、手早く食べられるところから武士が湯漬けを好んだのだろう。
このように、公家・武家を問わずに湯漬けが公式の場で食されることが多かったために有職故実の書でも湯漬けを食べるための礼儀作法について記されているものがある。鎌倉時代の永仁3年(1295年)前後に書かれたとされる有職故実的な料理書『厨事類記』(『群書類従』に収録されている。通し番号861、飲食部巻364)の中には「湯漬菜一種」とあり(p.0377 参照)、湯漬けには香の物や豆醤(まめびしお)、焼味噌などを1品合わせて出すべきことが記されている。また、江戸時代の文化9年(1812年)に書かれた『小笠原流諸礼大全』には湯漬は最初は香の物から食し、中の湯は御飯を食べている際にはすすらずに食後にお茶ばかりを受けて飲むことなどが記されている(Wikipedia)という。
近・現代では、作家・林芙美子が随筆『朝御飯』において「「飯」を食べる場合は、焚きたての熱いのに、梅干をのせて、冷水をかけて食べるのも好き。」と書いている(※9参照)。
こう見てくると、「お茶漬け」は、この湯漬けの白湯(さゆ)のかわりにお茶を使ったに違いないと思われるかもしれない。しかし、、現代の茶漬けに』見られるようないろんな物を飯の上にのせる茶漬けがあるということは、むしろ、もともとお茶に、さまざまな具やお米を混ぜて煮る、・・という食べ物があって、それのインスタント版としてお茶漬けが生まれたのではないかと、考えることもできるようだ。
室町時代末期頃には芳飯(ほうはん)という料理が出現したという。苞飯,法飯,餝飯などとも書き、江戸前期の食物本草書『本朝食鑑』(※10)は、これはもともと僧家の料理で、飯の上に、野菜や乾魚を細かく切って煮たものあるいは焼いたものをのせ、汁をかけて食う、としている(※8:古事類苑全文データベース飲食部五飯p415 参照)。
そして、江戸時代初期のレシピ集である『料理物語』には、「奈良茶飯」というものが出ているが、これなど、小豆や栗などを米と一緒にお茶で煮込んだもので、江戸時代に川崎宿にあった茶屋「万年屋」の名物となった。

●上掲の画象が奈良茶飯。『江戸名所図会』より。この図は、『東海道中膝栗毛』において弥次さん喜多さんが奈良茶飯を食べたと記されている川崎の亀屋万年堂で、ここの奈良茶飯は有名であった。江戸名所図会には、挿図のみが掲載され、記事がないが、当時は説明を要しないほど知名度の高い旅館兼茶屋であり、歌「お江戸日本橋」にも「(前略)六郷(ろくごう)わたれば 川崎の万年屋(後略)」とうたわれた。

お江戸日本橋 【童謡とわらべ歌】 - YouTube

奈良茶飯は、元来は奈良の興福寺東大寺などの僧坊において寺領から納められる、当時としては貴重な茶を用いて食べていたのが始まりとされている。本来は再煎(二番煎じ以降)の茶で炊いた飯を濃く出した初煎(一番煎じ)に浸したもので、茶粥のようなものであった(※11参照)。
わが国のお茶は、遣唐使が往来していた奈良・平安時代に、留学僧が、唐よりお茶の種子を持ち帰ったのが始まりとされているが、平安初期(815年)の『日本後記』には、「嵯峨天皇に大僧都永忠が近江の梵釈寺において茶を煎じて奉った」と記述されているのが、わが国における日本茶の喫茶に関する最初の記述といわれている(※10:「お茶街道」・ お茶の書物と記録2 参照)。しかし、このころのお茶は非常に貴重で、僧侶や貴族階級などのごく限られた人々だけが口にすることができたものであった。
このお茶の栽培は鎌倉初期に栄西(えいさい)禅師が南宋)から帰国する際、茶を持ち帰り、その種子を佐賀県脊振山に植えたのが始まりだといわれている。
その後、京都の明恵(みょうえ)上人が栄西より種子を譲り受け、京都栂尾(とがのお)に蒔き、宇治茶の基礎をつくるとともに、全国に広めたとされている。
南北朝時代の成立になるとされる『異制庭訓往来』(Wikipediaでは虎関師錬著とされるが疑問あり)には以下のように書かれている。
「我が朝の名山は梶尾を以て第一となすなり。仁和寺・醍醐・宇治・葉室・般若寺・神尾寺は是れ補佐たり。此の他、大和室尾・伊賀八鳥・伊勢河居・駿河清見・武蔵河越の茶、皆是れ天下指言するところなり。仁和寺及び大和・伊賀の名所を処々の国に比するは、瑪瑙を以て瓦礫に比するが如し・・・。」(※11:「お茶街道」お茶の歴史年表参照)とある。
また、「分類草人木」に宇治七名園の存在が記されており、宇治七園までの流れと当代の茶風を説き、茶道具の名が出てくることから、 この当時、既に、今日で言う抹茶を用いた喫茶法が行われていたことが判るという。
栄西は『喫茶養生記 』の中で茶の種類や抹茶の製法、身体を壮健にする喫茶の効用などを説いているが、その栄西が宋で身近に体験した抹茶法は、お茶の葉を蒸して乾燥させるという単純なものであり、これが日本国内に普及し、のちに茶の湯(茶道)となった。
しかしその一方で、新しいスタイルとして、庶民にも取り入れられたのが「振り茶」(※12参照)だという。「振り茶」とは、手製の茶筅(ササラ)で煎じ茶をかき混ぜ、泡立てて飲むお茶のこと。この泡立てたお茶に、色んな具を入れて食べたり、女性が集まってこのお茶を囲んで飲みながらワイワイ騒ぐなど、日本全国に普及していったそうだ。
この振り茶、現在でもその習慣が残っており、島根のぼてぼて茶や、香川のボテ茶、沖縄のぶくぶく茶などに見られる(※13:参照)。私は、香川のボテ茶、沖縄のぶくぶく茶は知らないが、松江へ行った折にぼてぼて茶はいただいたことがある。そして、記念にぼてぼて茶碗を一つ、買って帰り、家で真似事をして楽しんだのを思い出す。
●以下の画像が、その時買って帰った「ぼてぼて茶碗」である。

江戸時代前期にはまだ、今一般的に言われているところのおをかけて食べるお茶漬けは出てこない。「お茶」を使った、お茶漬けのはじまりは番茶煎茶が庶民の嗜好品として普及する江戸時代中期以降を待つ事になる。
煎茶には旨味成分のグルタミン酸ナトリウムが含まれる事や、お茶特有の風味や色合いが加わる事で、白湯をかける湯漬けよりも数段美味しくなるが、このころ庶民においては、番茶をかけるのが一般的であった。
今日の茶漬けのはじまりは、当時商家の奉公人らが、忙しさから仕事の合間に食事を迅速に済ませる為にご飯にお茶をかけてかき込んだことからだと言われているようだ。奉公先での質素な食事の中で漬け物は、奉公人にとって自由に摂れるほぼ唯一の副菜(おかず)であり、これだけは、巨大な大鉢などに山のように盛られることが多かったという。そのことも茶漬けという食形態の定着に大いに関係したと推測される。
江戸では屋台と惣菜の移動販売の外食文化が進むが、江戸での固定の料理店の最初は、承応2年(1654年)の明暦の大火から元禄期のいずれかの頃、浅草金龍山(浅草寺)門前の「茶屋」とされているようだが、この茶屋は茶漬屋で奈良茶を提供していたものらしことが守貞謾稿に書かれている。(※8:「古事類苑」の四・飮食部/料理下守貞謾稿・五生業p332参照)。
しかし、「奈良茶」と言えば、奈良茶粥・奈良茶飯等が知られるが、ここで供された「奈良茶」は、それらとは異なり、ここで供された「奈良茶」は茶飯・豆腐汁・煮豆等でととのえた、今日で言う定食のようなものであったようだ(※14も参照)というから、川崎宿の万年屋と同じようなものだろう。
その後、元禄時代には、お茶漬けを専門的に食べさせる「茶漬屋」も登場し、庶民のファーストフードとして親しまれるようになり、一つの料理として成立したという事らしい。1952(昭和27)年には、具やお茶、出汁を粉末化したインスタントのお茶漬けの素・永谷園の「お茶づけ海苔」が考案され、今日のお茶漬け事情を迎える事となる。
これらは乾燥させた具(かやく)と茶(抹茶)や出し汁の粉末を混ぜたもので、小袋に入っており、袋の中身をご飯の上にかけて湯を注ぐとそのまま茶漬けになるという簡便な製品である。
お茶漬けはさまざまな地域で、その地の特性を活かした具材が使われ、非常に多くのバリエーションが存在する。不思議な事に日本と同じく米を主食とし、お茶を好む中国ではお茶漬けという食習慣は見られないそうだ。あっさりしていて、食欲のない時でもサラサラと流し込めるお茶漬け、これも、日本固有の食文化といえるようだ。
そんなお茶漬けを愛し、ひとつの「料理」として見ていた人がいる。芸術家にして料理家・美食家として有名な北大路魯山人(1883〜1959)である。そして、魯山人はお茶漬けについての随想を多く書き遺している。『お茶漬けの味』の中では以下のように言っている。
「さて、お茶漬けの話だが、これにしてもそれぞれ段階があって、ただ飯の上に塩と茶をかけて美味い場合もあるし、たい茶漬けが美味い場合もある。体の状態によって、時々の好みが変ってくる。たい茶漬けが今日美味かったからと言って、明日も明後日もつづけたらどうであろうか。要は、正直に自分の体と相談して、なにを要求しているかを知るべきである。うなぎがいいか、牛肉がいいか、あるいは沢庵の茶漬けか、その時々の状態によって、好むところのものを食しておれば、誠に自然で美味を感じる。が、これを自然にやらないで、「高いものは美味そうだ」「安いものは食いたくない」と言って選択しているのを見聞きするが、こんな考え方は、茶漬けであっても一考を要する。茶漬けを食いたいと要求する肉体が、自分の好きな茶漬けを食えたらこんな幸せはあるまい。これがすなわち栄養本位と言えよう。この理論は茶漬けにかぎらず、どんな場合にも成立する。」・・と。
他にも『京都のごりの茶漬け』『車蝦の茶漬け』 『塩昆布の茶漬け』『塩鮭・塩鱒の茶漬け』 『てんぷらの茶漬け』 『納豆の茶漬け』
『海苔の茶漬け』『鱧・穴子・鰻の茶漬け』『鮪の茶漬け』 など、以下参考の※16「青空文庫」で読めるので興味のある人はお読みになるとよい。
(冒頭の画像は茶漬け 『地口絵手本』NHKデーター情報部編『ヴィジュアル百科江戸事情』第一巻生活編より。)。

参考:
※1:日本書紀、全文検索
http://www.seisaku.bz/shoki_index.html
※2蘇我入鹿暗殺事件
http://www1.kcn.ne.jp/~uehiro08/contents/parts/27.htm
※3:枕草子(三巻本)
http://www.geocities.co.jp/hgonzaemon/makurasannkan.html
※4:宮仕へ人のもとに
http://blog.goo.ne.jp/miyabikohboh/e/b077068b8b57255c7316e5bbcf93c8d9
※5:源氏物語の世界:渋谷栄一著
http://www.sainet.or.jp/~eshibuya/
※6:かたかご ・今昔物語( 原文 / 現代語訳 )
http://yamanekoya.jp/konzyaku/index.html
※7:日本古典文学摘集 宇治拾遺物語
http://www.koten.net/uji/
※8:古事類苑全文データベース:国際日本文化研究センター
http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/
※9:林芙美子 朝御飯 - 青空文庫
http://www.aozora.gr.jp/cards/000291/files/45307_18535.html
※10:本朝食鑑 - 国立国会図書館
http://dl.ndl.go.jp/search/searchResult?searchWord=%E6%9C%AC%E6%9C%9D%E9%A3%9F%E9%91%91+
※11:料理物語-茶之部
http://marchhare.jimdo.com/%E8%8C%B6%E4%B9%8B%E9%83%A8/
※11:「お茶街道」
http://www.ochakaido.com/index.htm
※12:日本の喫茶文化:振り茶
http://www.o-cha.net/japan/dictionary/japan/culture/culture04.html
※13:『第2回世界茶文化学術研究会公開シンポジウム』〜喫茶養生記と宋代の茶文化
http://ameblo.jp/ochafestival2013/entry-11371934876.html
※14:浅草池波正太郎参り
http://tuesdayxx.exblog.jp/19840411/
※15:作家別作品リスト:No.1403北大路 魯山人 
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person1403.html#sakuhin_list_1
※16:「青空文庫」:作家別作品リスト:No.1403北大路 魯山人 
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person1403.html#sakuhin_list_1
茶の湯の歴史
http://wa.ctk23.ne.jp/~take14/History_of_tea_ceremony/rekisi_1.html
故実書年表
http://www.kariginu.jp/monjo-history.htm
永谷園HP
http://www.nagatanien.co.jp/
茶漬け - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8C%B6%E6%BC%AC%E3%81%91

伊達巻の日

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日本記念日協会の今日・5月24日の記念日に「伊達巻の日」がある(※1)。記念日の由緒を見ると以下のようにあった。
厚焼きや玉子焼きをはじめとする寿司具全般のトップメーカーで、大阪府吹田市にある株式会社千日総本社(※2)が制定した日。
戦国の武将として名高い伊達政宗公の命日(5月24日)を由来として、華やかで洒落た滋養豊かな卵料理である伊達巻を、日本の食文化として広く後世にに伝えていくことを目的としている。伊達巻はおせち料理や大阪寿司の一品として欠かせない食べ物。・・・と。
伊達巻(だてまき)は、卵料理のひとつであり、伊達巻き卵とも呼ばれる。伊達巻は一般的には白身魚やエビの擂り身に溶き卵と出汁を加えてよくすり混ぜ、みりんや砂糖で調味してふんわりと焼き上げ、熱いうちに巻き簾(まきす)で巻いて形を整えたものである。
●上掲の画像参照。
確かに日本の正月の晴れやかな御節料理には欠かせない一品である。伊達巻は甘めの味付けなので大人だけでなく子どもにも大人気の一品である。
家庭で作る場合は、すり身の代わりに、入手が容易(たやす)く同じ原材料を用いた魚肉練り製品のはんぺんを代用とすることがある。昔私の母や子供が好きだったので家人が作っていたことがあるので、聞いたところ、はんぺんと卵をフードプロセッサーにかけ液状にし、好みでみりん、砂糖、塩などで味を整える。
はんぺんの比率が高いほど、フワフワと柔らかな食感に仕上がり、卵の比率が高いほど、しっかりとした弾力のある食感になるそうだ。味を整えたら、フライパンで焼く。この時、少し焼き色をつけると巻いた時に綺麗な渦巻きを表現することが出来る。両面焼いたら、巻き簾で巻き、そのまま冷まして形を整えればよいという。
ただ、焼き加減が大切なので注意が必要だという。作り方の基本は同じだが、それぞれの家庭でいろいろと工夫がされていることだろう。伊達巻は素人がきれいにおいしく作るにはちょっと手間がかかるし難しいので、卵焼きや、だし巻を代わりに使用する場合もある。

伊達巻の由来は諸説あるようだが、最も有力な説としては、「豪華」、「華美」、「魅力的」、「見栄」、「粋」などの意味を表す用語「伊達」という言葉からきているようだ。
もともと中国から伝わった五節供の行事に由来する「おせち」(「御節供」の略)は、人日の節句の正月料理を指すようになってくるが、この正月料理は江戸時代の武家作法が中心となって形作られたといわれている。
江戸時代、すでに、関西では「蓬莱飾り」、江戸では食積(くいつみ)などと称し、現在の「おせち」の原型となる風習が存在しており、歳神様三方などで、めでたい食べ物などを床の間に飾り、また年始の挨拶に訪れた客にも振舞ったり家族も食べたりしていた。
そのことは、明治30年代、日清日露両戦争の狭間にあって、社会の大枠がようやく定まりかけたこの頃、東京の暮らしもまた大きな変遷を遂げていたようだが、お節料理も同様であろうが、まだまだ江戸時代の色彩を色濃く残していただろうとは思う。
当時に発行された平出鏗二郎 著『東京風俗誌 中の巻』(明治34年。参考※3参照)の“年中行事 第一節・一月”のところには、古のごとくとはいかないがと断ったうえで、復興した正月料理のことが以下のように記されている(但し漢字等は読みやすいよう、現代使用のものに書き換えてある)。
「家々にては、一日より三日に至るまで、朝毎に若水を汲みて雑煮餅を煮る、朝餉(あさげ)に喰らうなり、その煮方の国々によりて異なるが、中に、都はなべて煮出しに芋、大根、菜などを加え、餅を焼きて煮るなり、また、御節と称(とな)えて、大根、人参、八ツ頭(里芋)、牛蒡、蒟蒻、焼豆腐、青昆布、ごまめなどを喰らい、鹽引(しおびき)の鮭を善に供ふるを習いとす。その他、食積(くひつみ)とて鰊(ニシン)の子(=カズノコ)、煮豆、昆布巻、ごまめ、たたき牛蒡などを煮、重箱に詰めて備え、善の物にもし、年賀の客にも進む。文蛤(ハマグリ)の吸い物是も例なり、屠蘇の酒は多く、味醂(みりん)を用いて、屠蘇散(とそさん。屠蘇参照)を浸す。」・・・と。
この様に、江戸時代〜明治時代には、正月重詰料理と正月節料理の2つがあり、煮物を「御節」といってお膳料理として家のものが食べ、鰊の子など重詰めしたものを「食積」と呼んで、客にも出していたようだ。
それが、重箱に本膳料理であった煮染(にしめ)を中心とした料理が詰められるようになり、食積と御節の融合が進み、現在では重箱に詰めた正月料理を「御節」と呼ぶようになっているが、重箱に御節料理を詰めるようになったのは明治時代以降のことと言われている。
この現代のお節料理の昆布巻き煮豆ごまめ(田作)、たたき牛蒡など総じて地味な色合いの料理の中にあって、伊達巻は鮮やかな黄色で存在感を発揮しており、華やかの言葉にも十分納得が出来る。また、伊達巻は巻物の形に似ているため、学問の発展を願って食される役割を持つおせち料理でもある。
お節料理の華・伊達巻にとってもっとも大切なことは、ふっくらとした焼き方であろうが、今日の記念日を設定した千日総本社HPを覗いてみると、“せんにちのこだわり”として、「せんにちの玉子焼のライバルは家庭で作った玉子焼です。機械化が進んだ現在でも一本一本玉子焼きに人が箸を入れふっくらと焼き上げることにこだわっております。手作りの玉子焼き本来の味・食感・風味をそのままに、差別化できる商品づくりに没頭してきました。・・・」とあった。会社の設立年月日は、平成25年4月1日となっているから、先月に出来たばかりの会社であり、この記念日はその広告ということか・・・。しかし、せっかくだから、同社HPより、同社自慢の厚焼(伊達皮 ・伊達巻 ・巻芯用厚焼 他)写真を紹介させてもらおう。
●以下の画像がそれだ。

ところで、江戸の「にぎりずし」に対して、大阪など近畿地方では「大阪寿司」として、花見や観劇用に厚焼や穴子、えびなどを寿司飯とともに木枠の押し型に美しく敷き詰めて整形した大阪の伝統の味「箱寿司」(押し寿司)や伊達巻が主流であった。
幕末の嘉永六年(1853)版・ 喜田川守貞著『守貞漫稿』後集巻1の「鮨」のところに鮨のことが以下のように書かれている(※4:国立国会図書館デジタル化資料 - 守貞謾稿後集巻1 [50]参照)。
「鮨賣〈中略〉 因曰、京坂ニテハ、方四寸許ノ箱ノ押ズシノミ、一筥四十八文ハ鳥貝ノスシ也、又コケラズシト云ハ、雞卵ヤキ、鮑、鯛ト並ニ薄片ニシテ飯上ニ置ヲ云、價六十四文、一筥凡十二ニ斬テ四文ニ賣ル、又筥ズシ、飯中椎茸ヲ入ル、飯二段ニナリタリ、又淺草海苔卷アリ、卷ズシト云、飯中椎茸ト獨活(ウド)ヲ入ル、京坂ノ鮨、普通以上三品ヲ專トス、而モ異製美製ヲナス店モ稀ニ有レ之、又鮨ニハ、梅酢漬ノ生姜一種ヲ添ル、赤キ故ニ紅生姜ト云、又江戸ニテ原ハ京坂ノ如ク筥(ハコズシ)、近年ハ廢レ之テ握リ鮨ノミ、握リ飯ノ上ニ雞卵ヤキ、鮑、マグロサシミ、海老ノソボロ、小鯛、コハダ、白魚、鮹等ヲ專トス、其他猶種々ヲ製ス、皆各一種ヲ握リ飯上ニ置ク、〈中略〉又因云、文政中、大坂道頓堀戎橋南ニ、江戸ノ握リ鮨ヲ學ビ製シ賣ル、今ニ至リテ此一戸アリ、天保中、尾ノ名古ヤニモ傳製之店ヲ開ク、後世三都トモニ、此製ヲ專用スルコトニ成ル歟、〈下略〉」
江戸の鮨と言えば、握った酢飯に魚をのせる生鮨を思い起こすが、幕末の喜田川守貞が、もとは京阪のように箱鮨で、握り鮨はこの頃になってからであると言うように、その原型は大阪の箱寿司であった。
江戸の末期に現れた、その「握り鮨」とは、握った飯の上に、玉子焼き・鮑・鮪刺身・海老そぼろ・子鯛・こはだ・白魚・蛸をのせたものともあり、ほぼ今の鮨と同様の種物だが、大きく異なるのは、酢と塩で〆たもの、焼き物、煮たもので、生ではなく、鮪も醤油に漬けた「づけ」であった。
今日と同じ物は、玉子焼き・こはだ・穴子くらいであろうか。小さな白魚などは、干瓢で縛るとある。海苔ではなかった。
また、同誌に、大阪の「コケラズシト云ハ、雞卵ヤキ、鮑、鯛ト並ニ薄片ニシテ飯上ニ置ヲ云、」とあるが「コケラズシ」は「箱ずし」のことであり、コケラとは木屑のことだが、この場合は、飯に混ぜ込む魚の切り身を「コケラ板」(屋根葺き板のこと)を葺くのに似ているので、そのように見立てたものと聞いたことがある。
鮨は図入りで解説しているがその掲載図では、箱ずしの枠は四寸(約12センチ)四方で、中央と四隅には卵が配されている。

●上記のものは、浮世絵に描かれた寿司と海苔巻きであり歌川広重の団扇絵「鮨」。江戸後期の作品である。
海老の握りや太巻きの海苔巻寿司と共に少し厚めの玉子焼きで飯をまいた寿司が見られる。海苔で巻く、現在の巻きずしの起源は江戸時代らしいが、はっきりしないようだ。巻くということでは海苔以外にも昆布、湯葉なども使われる。江戸時代玉子巻きというのがあり、これは薄焼き玉子で巻いたもの。それがこの画のようなものか?
大阪では、これよりも厚焼き玉子(伊達巻)で飯を巻いた鮨も伊達巻(寿司)と言っている。伊達巻寿司は、大阪地方の郷土料理であり、伊達巻の中には通常高野豆腐、 椎茸、おぼろ、かんぴょうなどとともに酢飯を巻き込んだ寿司だが、具や飯の分量は地方によって異なる。
この伊達巻寿司、千葉県銚子市の郷土料理でもあるらしい。銚子市の伊達巻寿司がどんなものかは知らなかったので、検索してみると銚子駅から徒歩5分ほどのところにある「大久保」という名の鮨店が、銚子名物・伊達巻鮨の元祖として知られるお店だと紹介していた。以下参考。

ただいまに生きる: 銚子『大久保』さんで、銚子名物「伊達巻鮨」とご対面。

大阪の寿司屋などで見られる伊達巻(寿司)とは違って、銚子名物の伊達巻寿司は、太巻き寿司の上に卵とダシだけで焼き上げた超厚焼きの玉子を乗せたもので、大阪の伊達巻とは比べ物にならないくらいの「巨大な巻いていない伊達巻」と言った感じのものである。
味は、厚焼き玉子と呼ぶにはおよそ似つかわしくない菓子チックな甘い味付けと滑らかな舌触りは、まるでプリンのようだと紹介している。そして、伊達巻寿司は「大久保」の初代店主が考案したものだというが、何時ごろ考案のものかはよく知らないが、Wikipediaの寿司のところでは、明治初期に考案と書かれている。
大阪の伊達巻寿司もいつ考え出されたのかは知らないが、広重の絵に少し厚めの玉子で巻いた伊達巻寿司に近い玉子焼きが見られるので、幕末頃には伊達巻寿司に近いものは造られていたのだろうと想像している。
大阪など戦前は盛んだった玉子巻きや伊達巻きの寿司は近年の江戸前寿司の流行と共に廃れてきており、その派手さからもてなし用のすしの一品として盛られていることが多い。
さて、伊達巻という名前の由来についてだが、一般に、・伊達政宗の好物だったことから伊達巻と呼ばれるようになったという説 、・普通の卵焼きよりも味も見栄えも豪華なために、洒落て凝っている装いを意味する「伊達もの」から伊達巻と呼ぶようになったという説 、・女性用の和服に使われる伊達締めに似ていることからこう呼ぶようになったという説 などがあるが、見栄えも豪華なため「伊達もの」から伊達巻と呼ぶようになったという説が多いことは先に書いたとおりだ、いずれにしても、どれもが伊達氏とのかかわりは深い。
伊達 政宗は、誰もが知っているように出羽国陸奥国の戦国大名。陸奥仙台藩の初代藩主である。伊達氏第16代当主・伊達輝宗最上義守の娘・義姫(最上義光の妹)の嫡男として生まれた。
伊達氏は、鎌倉時代から江戸時代まで東北地方南部を本拠とした一族で、その出自は常陸国伊佐郡、あるいは下野国中村荘と伝えられ、藤原北家魚名流藤原山蔭の子孫であるとしている。
始祖は、伊達常陸介藤原宗村で、宗村が、文治5年(1189年)源頼朝藤原泰衡追討の砌(みぎり=おり)、奥州伊達郡石那坂(石那坂の戦い参照)にて佐藤基治を討ちたる勲功によりて奥州伊達郡を賜り氏と為す(※5参照)。・・・としている。
ただし、どの戦国武将の家系にもよく見られることではあるが、伊達氏の出自が藤原北家であるというのもあくまで自称に過ぎないとする説もある(※6)が、ここでは、一応その出自を正しいものとして話を進めることにする。

●上掲の画象が菊池容斎筆による伝記集『前賢故実』巻第四に描かれた藤原山蔭の肖像画である」(画像は、巻第4の目次より藤原山蔭のところにあり)。
藤原山蔭(四条中納言)は、四条流庖丁式の創始者として知られている。
四条流の起源について
古事記』の景行天皇の段には
「此の(景行天皇の)御世に、田部を定め、又東(あづま)の淡水門を定め、又膳大伴部(かしわでのおおともべ)を定む。」・・・とあり(※7:『古事記傳』26参照)、
日本書紀』景行天皇53年10月の条には、
「(景行天皇は)上総国(かみつふさのくに)に至りて海路より淡水門を渡りたまふ。是の時に、覚賀鳥(かくかのとり。ミサゴのこと)の声聞ゆ。其の鳥の形を見さむと欲して、尋ねて海の中に出ます。仍(よ)りて白蛤(うむき)を得たまふ。是に、膳臣(かしわでのおみ)の遠祖、名は磐鹿六雁(ガマ)を以て手繦(たすき)にして、白蛤を(なます)に為(つく)りて進(たてまつ)る。故、六雁臣の功を美(ほ)めて、膳大伴部を賜ふ」・・・とある(※8『日本書紀』巻第七参照)。
更に、延暦8年(789年)に磐鹿六雁命の子孫である高橋氏が朝廷に奉ったとされる「高橋氏文」(たかはしうじぶみ)には、さらに詳細に記述されており、
景行天皇が皇子日本武尊(やまとたける)の東国平定の事績を偲び、安房の浮島の宮に行幸された折、侍臣の磐鹿六雁命が、弓の弦をとり海に入れた所堅魚(かつお)を釣りあげ、また砂浜を歩いている時、足に触れたものを採ると白蛤(=はまぐり)がとれた。
磐鹿六雁命はこの堅魚と白蛤を(なます)にして差し上げたところ、天皇は大いに賞味され、その料理の技を厚く賞せられ、膳大伴部(かしわでのおおとものべ)を賜った。・・・とある(参考の※9参照)。
日本の律令官制において朝廷の料理は宮内省に属した内膳司が司っていたが、山蔭は内膳職とは関係がなく、単に料理法や作法に通じた識者として指名されたものか。
9世紀の段階で、唐から伝えられた食習慣・調理法が日本風に消化されて定着しつつあったと思われ、これまで磐鹿六雁命の末裔高橋氏が執り行っていた庖丁式を、光孝天皇の命により今までとは別の新たな庖丁式(料理作法)を編み出し、それらをまとめて故実(有職故実参照)という形で山蔭が結実させたものであろう。これにより、山蔭は「日本料理中興の祖」とされている。
この功により、六雁命の子孫たちは、未来にわたって膳職(大膳職参照)の長官、上総国の長官、淡国(安房国)の長官と定められて、その地位には他の氏の者を任命されることはせずに、治めさせられ、もし、膳臣の一族に世継ぎがないときには、天皇の皇子を継がせ、他の氏を交えず、皇室の食事を司るよう賜った。・・・という。
当文書は、律令時代に入って高橋氏と並んで内膳司に奉仕する阿曇氏に対し、高橋氏の優位を主張したものであることから多少の誇張はあるだろう。
この安房国(千葉県南房総市(【旧千倉町】)には、高家神社があり、『延喜式』に登載されている式内社で、旧社格郷社である。「料理の祖神」磐鹿六雁命を主祭神としている。
社名は、「高家」と書いて「たかべ」と読み、祭神・磐鹿六雁命を高倍神ともいう。当社の創建の由緒は不詳らしいが、同社由緒書では、磐鹿六雁命の子孫の高橋氏の一部の者が、祖神に縁のある安房国に移り住み氏神として祖神を祀ったのではないかとしている。
現在の所に祀られたのは江戸時代初頭のことらしい。料理関係者や醤油醸造業者などから崇敬されているようだ。(詳しくは参考※10:「延喜式神社の調査」の安房国式内社:高家神社を参照)。
ところで、前段にも書いたように、景行天皇が東国巡行で安房の水門に渡ったとき、磐鹿六雁命は堅魚や蛤を膾にして 奉功したことにより膳大伴部の官職を賜ったが、房総半島沿岸部周辺などに伝わる郷土料理にたたきの一種「なめろう」がある。

●上掲の画象はアジの「なめろう」。Wikipediaより。
青魚三枚におろし・もしくは青柳 (あおやぎ=バカガイ)を捌いた上に味付けの味噌・日本酒とネギ・シソ・ショウガなどを乗せ、そのまま、まな板の上などで、包丁を使って粘り気が出るまで細かく叩いたものであり、名称の由来については、叩いたことによる粘り気の食感からと、料理を盛っていた皿についた身まで舐めるほど美味だったからという説などがあるようだ。
そして、「なめろう」には漁師が沖の漁船上で作っていた料理であることから、「沖膾」(おきなます)という別名もあるのだそうだ。
そうすると、記紀に出てく「蛤の膾」も安房の沖で漁師が捕れ立ての魚介を船上で粗造りをしていた漁師料理の一種「沖膾」のようなものであったかもしれない。
そう考えると、伊達の先祖である磐鹿六雁命がその美味しさを知っていて景行天皇に「沖膾」を造って差出したら、その料理の美味さと調理の技が気に入られて膳大伴部の官職を賜った・・と考えられなくもない。
そして、古代の安房国は、豊かな漁場に恵まれていたことから御食国に任じられ、皇室や朝廷の御饌を担当することになった。
高倍神社は宮中大膳職坐神三座(御食津神社火雷神社、高倍神社)の一つであり、磐鹿六雁命は、大いなる(かめ=べ)に例え、尊称を高倍神とし宮中醤院で醤油醸造・調味料の神として祀られているという。
醤油のルーツは、古代中国で生まれた「醤(ジャン)」からといわれている。食物を塩漬けして発酵させたもので,肉醤、草醤、穀醤などがあった。
肉醤塩辛魚醤草醤漬物穀醤醤油味噌の原型で、それが日本に伝来して「(ひしお)」と呼ばれていた。
安房から宮中に入った六雁は膳大伴部の職に就いたが、「大宝律令」の制定時から、この職は天皇の食事を掌る内膳司と、饗膳の食事を掌る大膳職に分割された。ただし、主食については大炊寮が掌っており、大膳職は、調味料などの調達・製造・調理・供給の部分を担当していた。
養老令』によれば、醢(肉や魚を塩辛状にしたもの)、醤・未醤(みそ)などの調味料、菓(くだもの)、雑餅(雑穀などの餅製品)などを供給し、管下の組織として菓・餅類を扱う「菓餅所」と醤・未醤を扱う「醤院」が設置された。
そこに「主醤」(ひしおのつかさ)という官職がつくられ、六雁は、主醤として、日本料理の基礎をなす醤油醸造を行っていたとされている。味噌は当時「未醤」(みさう・みしゃう)と書き、主醤が扱っていたことから味噌も醤の仲間とされていたことがうかがえる。
このようなことを由緒として、醤油醸造会社などは磐鹿六雁命を日本料理の始祖「高倍神」としてお祭りしているようでもある。
どうもここのところ、激しい温暖さから少々グロッキー気味の中で伊達巻と伊達氏の関係から、落ちのない変な方向へ話が進んでしまったが、もともと、余り面白い話題もないネタを書いているうちについこうなってしまった。お許しください。
銚子の町は全国屈指の漁港の町であり、江戸時代に利根川水運が開発され、醤油醸造業と漁業で発展してきた。そして、江戸時代には今の千葉県の中ではもっとも大きな町として栄え、銚子で獲れた魚は江戸まで運ばれ、「江戸前」の味を支えていた。
これは、昭和の初期まで続き、銚子の町はとても活気があったようだ。しかし、私が、現役の昭和40年代ごろ、銚子へも時々出張していたが、当時は、本当にさびれていたので、用を済ますと、銚子には止まらずすぐにほかの街へ移り、そこで宿をとったりしていた。
だから、銚子の伊達巻寿司も食べたことがないのだが、今思えば、惜しいことをしたものだ。時代は変わり、今は、けっこう開けていることだろう。銚子の街の寿司屋は江戸前が基本だが、近海でとれた新鮮なネタを使ったものが食べられるようだ。
もし行く機会のある人は、ここで書いたとりとめのない話など思い起こしながら一度味わってみるとよいだろう。

参考:
※1:日本記念日協会 今日の記念日
http://www.kinenbi.gr.jp/
※2:(株)せんにち
http://sennichi.jp/
※3:近代デジタルライブラリー - 東京風俗志. 中
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/992087
※4:国立国会図書館デジタル化資料 - 守貞謾稿. 巻1,3-16,18-30,後集巻1-4
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2610250
※5:日本氏族大鑑
http://www.k2.dion.ne.jp/~tokiwa/keifu/index.html
※6:戦国大名の家紋
http://www.harimaya.com/o_kamon1/buke_keizu/buke_kz.html
※7:『古事記傳』(現代語訳)-雲の筏
http://kumoi1.web.fc2.com/CCP050.html
※8:日本書紀の原文(漢文原文)
http://www.seisaku.bz/shoki_index.html
※9:高橋氏文|天璽瑞宝
http://mononobe.digiweb.jp/siryou/takahashi.html
※10:延喜式神社の調査
http://www.geocities.jp/engisiki/index.html
延喜式神名帳 目次index - 神奈備にようこそ
http://kamnavi.jp/en/
ほしひかる麦談義:第31話 料理祖神、磐鹿六雁命の膾料理 〜 安房、高家神社 〜
http://fv1.jp/hoshi/200901.html
安部氏族を祀る神社 - home.ne.jp
http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/oni-megami/oni-megami-3-7.htm
古代豪族
http://www17.ocn.ne.jp/~kanada/1234-7.html
食べログ千葉・大久保
http://r.tabelog.com/chiba/A1205/A120501/12005189/
世界帝王辞典>家系リスト
http://reichsarchiv.jp/家系リスト
藤原山陰 とは - コトバンク - kotobank
http://kotobank.jp/word/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%B1%B1%E9%99%B0
蓬莱飾り - のしあわび本舗 兵吉屋
http://hyoukichiya.com/hosai.html
藤原山蔭 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%B1%B1%E8%94%AD

ヒョロ松さん 参考

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参考:
やなせたかしのメルヘン絵本
http://www.anpanmanshop.co.jp/merchen02_htm/ew_yanase.htm
※2:爆問学問(爆笑問題のニッポンの教養) | 過去放送記録 - NHKオンライン
http://www.nhk.or.jp/bakumon/previous/
※3:神戸アンパンマンこどもミュージアム&モール
http://www.kobe-anpanman.jp/
※4:「奇跡の一本松」完成は6月末 枝葉復元やり直しで ― スポニチ Sponichi
http://www.sponichi.co.jp/society/news/2013/03/21/kiji/K20130321005445520.html
※5:サイボーグ化される「奇跡の一本松」 1億5000万円もの費用に疑問の声 .
http://www.j-cast.com/2012/08/31144830.html?p=all..
※6:【東日本大震災】一本松の樹齢173年 さらに古い可能性も 京大が鑑定
http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/130228/wlf13022809460009-n1.htm
※7:いわて復興偉人伝 - 岩手県立図書館
http://www.library.pref.iwate.jp/0311jisin/ijinden/09.html
※8:高田松原 文化遺産オンライン
http://bunka.nii.ac.jp/SearchDetail.do?heritageId=209470
※9:宮城県昭和震嘯誌 ‐ 【津波ディジタルライブラリィ】
http://tsunami-dl.jp/document/035
※10:地名「三陸地方」の起源に関する地理学的ならびに社会学的問題 (PDF)(岩手大学教育学部 )
http://ir.iwate-u.ac.jp/dspace/bitstream/10140/1626/1/erar-v54n1p131-144.pdf

※11:補足:津波の「遡上高」とは:イザ!
http://yanagihara.iza.ne.jp/blog/entry/2206602/
※12:気象庁 |地震・津波
http://www.seisvol.kishou.go.jp/eq/index.html
※13:過去に行われた建築規制と現在の建築基準法による措置(Adobe PDF)
http://www.bousai.go.jp/kaigirep/chousakai/tohokukyokun/6/pdf/4.pdf#search='%E6%B5%B7%E5%98%AF%E7%BD%B9%E7%81%BD%E5%9C%B0%E5%BB%BA%E7%AF%89%E5%8F%96%E7%B7%A0%E8%A6%8F%E5%89%87'
※14:防災のための集団移転促進事業に係る国の財政上の特別措置等に関する法律(総務省法令データ提供システム)
http://law.e-gov.go.jp/htmldata/S47/S47HO132.html
※15:防災集団移転促進事業(国土交通省)
http://www.mlit.go.jp/crd/city/sigaiti/tobou/g7_1.html
※16:防災集団移転促進事業実施状況 (PDF)(国土交通省)
http://www.mlit.go.jp/crd/chisei/boushuu/boushujoukyou.pdf
17:記者の目:震災1年 風化繰り返した過去の悲劇=熊谷豪− 毎日jp
http://mainichi.jp/opinion/news/20120314k0000m070124000c.html
※18:失敗学のすすめ、畑村洋太郎
http://www21.ocn.ne.jp/~smart/sippai1205.html
※19:失敗学 実践講義 (畑村洋太郎著 講談社): 石見太郎のブログ
http://pub.ne.jp/bbgmgt/?entry_id=3928344
※20:キラーパルスについて
http://www.kz.tsukuba.ac.jp/~sakai/070720.htm
※21:地震の基礎 - FC2
http://earthx.web.fc2.com/jisin1.html
※22:東南海地震の発生確率「70〜80%」に上昇 政府の地震調査委
http://www.zakzak.co.jp/society/domestic/news/20130112/dms1301121437005-n1.htm
※23:南海トラフ地震、予知困難と報告 - goo ニュース
http://news.goo.ne.jp/topstories/politics/35/d3ac30643b5cd1dc32712b139b266a46.html?fr=RSS
寺田寅彦の伝説の警句 天災は忘れた頃に来る
http://www5d.biglobe.ne.jp/~kabataf/torahiko/torahiko.htm
青空文庫作家別作品リスト:No.42作家名: 寺田 寅彦
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person42.html
宮 城 県 災 害 年 表(Adobe PDF)
http://www.pref.miyagi.jp/uploaded/attachment/88404.pdf#search='%E8%B2%9E%E8%A7%80%E5%8D%81%E4%B8%80%E5%B9%B4+%E9%9C%87%E5%98%AF%E9%99%B8%E5%A5%A5%E5%9C%8B%E5%9C%B0%E5%A4%A7%E9%9C%87%E5%8B%95'
NHK総合テレビ『爆笑問題のニッポンの教養』“ 君もアンパンマンになれる!”
http://tvtopic.goo.ne.jp/kansai/program/info/57328/index.html
南三陸地域を襲った 大津波災害から立ち上がる 3月11日 ... - 近代消防社(Adobe PDF)
http://www.ff-inc.co.jp/PDF/kinsy_11_09_A.pdf#search='%E4%B8%89%E9%99%B8%E3%81%AE%E5%9C%B0+%E6%B4%A5%E6%B3%A2+%E8%AD%A6%E5%91%8A%E3%81%AE%E7%A2%91'

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ヒョロ松さん

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朝日小学生新聞に連載の、漫画家・やなせたかしさんの「メルヘン絵本」(※1)で、「ヒョロ松さん」と呼ばれる一本松が、枝をふるわせて歌っている絵が掲載されたのは今からちょうど2年前(2011年)の今日・5月30日のことであった。
(冒頭の画像が、2011年5月30日付朝日小学生新聞に掲載されたやなせたかしさんの連載「メルヘン絵本」の絵。6月14日付朝日新聞朝刊掲載分を借用)。
このヒョロ松さんが歌っていたのが、やなせたかしさん自身の作詞、作曲による「陸前高田の松の木」であった。
(一番)
陸前高田の松林
うす桃色のかにの子は
ハサミふりふり歌うのさ
ここで生まれたいのちなら
陸前高田の松の木は
みんなのいのちの友だちだ
★ぼくらは生きる 
負けずに生きる
生きてゆくんだ
オー オー オー
(4番まである★は繰り返し)

アンパンマンの原作者やなせたかしさん(当時92歳)が、2011(平成23)年3月11日(金)に発生した東日本大震災東北地方太平洋沖地震)による津波で、岩手県陸前高田市の名勝・高田松原に1本だけ残った松の木を見て歌を作ったもの。

高田松原には震災前、海岸沿いに約7万本の松の木があった。だが津波に襲われ、残ったのは1本だけ。大切なものを失った被災者のあいだで、いつしか「奇跡の一本松」と言われるようになった。

●(上掲の画象は、「奇跡の一本松」として復興のシンボルになった1本の松。背後に見えるのは被災した陸前高田ユースホステルの建物。2011年5月6日撮影。Wikipediaより)

今にも倒れそうな一本松。やなせさん自身も当時92歳になり、学校の同級生は2人しか残っていない。「あとは全部死んでしまった。漫画家の仲間もほとんどいなくなった。わずかに3歳下の水木しげるがいるだけ。僕自身も病気が多く余命はわずかだと思う」。生き残った松が、自分自身と重なったという。
そういえば、NHK総合テレビ『爆笑問題のニッポンの教養』に出演したやなせたかしさんが、ぬいぐるみで埋め尽くされたアンパンマン部屋を訪ねてきた爆笑問題太田光田中裕二)を相手に、「奇跡の一本松」の応援歌ともいうべき「陸前高田の松の木」を大きな声で熱唱していたのを思い出した(放送日:2011年12月1日[木)]22:55〜23:25.。2011年9月1日放送分のアンコール放送分)。以下でそのシーンが見られるが、4番の歌詞を歌っている。

「陸前高田の松ノ木」やなせたかしSings~IMG

太田や田中が言っていたように、やなせの作品が常に「生きていく」ということをテーマにしていること、また、やなせも作品を作る理由は、人を喜ばせると自分がうれしいからだと語っていたが、それが、彼の作品が子供達だけでなく誰からも、愛し続けられている秘訣なのだろう。
私の地元、神戸ハーバーランドにも先月神戸アンパンマンこどもミュージアム&モール(※3参照)がオープンしたがちびっ子たちで大賑わいであった。

高田松原の約7万本の松の中で震災の津波に耐え唯一流されずに残り、震災で何もかもなくした同じ境地の地域の人々の祈りや希望を込め、「奇跡の一本松」と名付けられた松の現状は地盤沈下により根元は塩水に侵され厳しい状況にあった。そして、葉の緑も日増しに薄くなり、赤茶けていく。保存を望む地元の人たちは、「なんとか生き抜いてもらいたい」と木の周りに防潮柵を作ったり、活性剤を与えたりと、いろいろ努力をしたようであるが、哀しいかな立ち枯れてしまったようである。
これに対し、陸前高田市は復興のシンボルにしようと長期保存を決定。昨・2012(平成24)年9月から根元と幹、枝葉に切り分けて、復元が進められていた。
作業では、高さが27メートルもある一本松を根元から切り倒し、幹を5分割にして、その芯をくり抜く。そして、防腐処理をしたうえで、金属製の心棒を幹に通してモニュメントにするといったもので、震災2周年の節目になる今年・2013(平成25)年3月11日には、元の場所でお披露目したいとの考えだったようだ。
しかし、3月6日に復元で、特殊な樹脂を使って再現した枝葉のレプリカを取り付けが行われたが、市民から「立ち姿が以前と違うのではないか」と指摘があり、取り付けミスが発覚、接続部の特殊な金具は再利用できないため、新たに作り直すことになったが、22日に現地で予定していた完成式典には間に合わず完成は6月末になるとの発表があった(3月21日、※4参照)。
この「奇跡の一本松」の保存工事には、1億5000万円もかかるらしく、このような費用をかけて保存工事をすることには、当初より地元住民の間でもいろいろと賛否が分かれ、論議されていたようである(※5参照)。

私の地元神戸兵庫県南部地震阪神淡路大震災)に見舞われ街の大半が崩壊した。そして、神戸のシンボルでもある港が破壊されたが、メリケンパークには神戸港の復旧・復興に努めた様子を後世に伝えようと、メリケンパークの岸壁の一部・約60メートルを被災当時のままの状態で保存した「神戸港震災メモリアルパーク」などが設けられている(ここ参照)。
このような災害についてのメモリアルをどのような形で後世に伝えていくかはに関しては、私達部外者(県外の者)が、とやかくと意見を挟むことではないので、その有益性などについては、地元住民の間十分に話し合って決めるべきことだろう。

岩手県陸前高田市は、今年3月27日の記者会見で、修復作業が進められている「希跡の一本松」を顕微鏡で調べた結果樹齢173年と判明したと発表している。この一本松は1896(明治29)年の明治三陸地震、1933(昭和8)年の昭和三陸地震の2度の大津波に遭いながら、生き抜いた古木。樹齢の判定は難しく、173年より数年古い可能性もあるといい、再鑑定を進めているようだ。地元の市民団体などには260年とする説もあるようだが、これは見間違いによるもののようだ(※6参照)。

いずれにしてもこの「一本松」は陸前高田の地にあって、度重なる震災と津波を経験しそれを乗り越えてきた松であることに間違いはない。
岩手県陸前高田市は、太平洋に面した三陸海岸の南寄りに位置する。旧陸前国気仙郡に属し、隣接する同県大船渡市や宮城県気仙沼市とともに陸前海岸北部の中核を成す都市である。

かつてこの地に存在していた松原(「高田松原」)が広がっていた地域は、旧高田村(高田町)と旧今泉村(現:気仙町)にまたがっており、もともとは木一本ない砂原で、潮風が巻き上げる砂塵と高潮とにさらされ、背後にある農地は収穫のない年もしばしばという有様であったようだ(※7参照)。
それを、江戸時代の寛文年間に高田の豪商・菅野杢之助が私財を投じて植林し、その後、享保年間には松坂新右衛門による私財を投じての増林が行われ、以来、クロマツアカマツからなる合計7万本もの松林は、仙台藩・岩手県を代表する防潮林となり、また、その白砂青松の景観は世に広く評価され、
「東北地方稀ニ見ル壯大優美ナル松原ニシテ前ニ廣田灣ヲ控ヘ後ニ氷上山、雷神山等ノ翠巒ヲ繞ラシ山紫水明ノ一勝區ヲ成セリ樹種ハ黒松ヲ主トシ林相整美樹下荊棘ノ繁茂スルモノナク境地清淨ニシテ林内ノ逍遙ニ適ス 」・・と、史蹟名勝天然紀念物保存法による天然記念物に指定されていた(※8参照)。

●(上掲の画象は、震災被害を受ける前の高田松原(2007年6月3日撮影。Wikipediaより)

高田松原の防潮林はたびたび津波に見舞われ、同時に津波被害を防いできた。
近代以降で代表的なものとしては、1896(明治29)年6月15日の明治三陸津波、1933(昭和8)年3月3日の昭和三陸津波、1960(昭和35)年5月24日のチリ地震津波がある。
しかし、2011(平成23)年3月11日の東日本大震災(東北地方太平洋沖地震)で、高田松原は10メートルを超える大津波に呑み込まれ、ほぼ全ての松がなぎ倒され壊滅した。
『宮城県昭和震嘯(しんしょう)誌』(※9参照)から三陸地方の津波の歴史を詳しく解析しているものがある。それが以下の論文だ。

三陸地方の津波の歴史 その1 首藤伸夫
三陸地方の津波の歴史 その2

●(上掲の画象は、昭和8(1933)年3月3日午前2時30分岩手県東方沖でマグニチュード8.1の地震が起こり、三陸海岸を中心に最高28,7mの津波を起こした「昭和三陸津波」は、1896(明治29)年の「明治三陸津波」以来の37年ぶりの大惨事となった。写真は岩手県宮古町。『朝日クロニクル週刊20世紀』1933−34年号より借用。)
『宮城県昭和震嘯誌』には、三陸地方の津波の歴史(原文)について以下のように記されているそうだ。([ ]内の数字は西暦年)
「三陸沿岸」に於て、從來、記録又は據(よ)るべき口碑(石碑のようにながく後世にのこる意。古くからの言い伝え。)により、「地震に伴ふ津浪」の起りしものを次に列擧せん。(備考)括弧内の年代は昭和八年よりの逆算數なり。
(一)貞觀十一年五月二十六日[869](一千六十四年前)三代實録陸奥國大地震家屋倒潰、壓死者多く、津浪は城下(多賀城か)に追つて溺死者千人餘資産苗稼流失す。
(二)天正十三年五月十四日[1585](三百四十八年前)(口碑)宮城縣本吉郡戸倉村の口碑に海嘯ありしを傳ふ。(参考 同年十一月二十九日、畿内・東海・東山・北陸に大震ありて死者多し。)
(三)慶長十六年十月二十八日[1611](三百二十二年前)御三代御書上陸奥國地震後大津浪あり。伊達領内にて男女一千七百八十三人、牛馬八十五頭溺死す。又現在の陸中山田町附近・鵜住居村・大槌町・津輕石村等にも被害多し。
(四)元和二年七月二十八日[1616](三百十七年前)「三陸地方」強震後大津浪あり。
(五)慶安四年[1651](二百八十二年前)宮城縣亘理郡東裏迄海嘯襲來す。(口碑)
(六)延寳四年十月[1676](二百五十七年前)常陸國水戸、陸奥國磐城の海邊に津浪ありて人畜溺死し、屋舎流失す。
(七)延寳五年三月十二日[1677](二百五十六年前)(口碑)陸中國南部領に數十回の地震あり、地震直接の被害なきも、津浪ありし宮古、鍬ケ崎、大槌浦等に家屋流失あり。
(八)貞享四年九月十七日[1687](二百四十六年前)宮城縣内、鹽釜をはじめ宮城郡沿岸に海嘯あり、その高さ地上一尺五、六寸にして、十二、三度進退す。
(九)元祿二年[1689](二百四十四年前)陸中國に津浪あり。(口碑)
(十)元祿九年十一月一日[1693](二百三十七年前)宮城縣北上川口に高浪襲來、船三百隻を流し、溺死者多し。《首藤註:高潮か?》
(十一)享保年間[1716〜1735](二百十七年、百九十八年前)海嘯あり、田畑を害せしが、民家・人畜を害ふに至らず。
(十二)寳暦元年四月二十六日[1751](百八十二年前)高田大地震の餘波として、陸中國に津浪あり。
(十三)天明年間[1781〜1788](百五十二年 - 百四十五年前)海嘯あり。
(十四)寛政年間[1793-](凡百四十年前)「三陸沿岸」に地震・津浪あり、宮城縣桃生郡十五濱村雄勝にて床上浸水二尺。
(十五)天保七年六月二十五日[1836](九十七年前)東藩史稿仙臺地方大震ありて、牙城の石垣崩れ、海水溢れ、民家數百を破りて溺死者多し。
(十六)安政三年七月二十三日[1856](七十七年前)宮城縣桃生郡十五濱村雄勝「先祖代々記」正午頃「三陸地方」に地震あり、次いで大津浪起り、現在の宮城縣桃生郡十五濱村雄勝にて床上浸水三尺、午後十時頃迄に十四、五度押寄す。人畜の死傷は凡んどなかりしが、北海道南部にては、かなりの被害ありしものの如し。
(十七)明治元年六月[1867](六十六年前)宮城縣本吉郡地方津浪あり。
(十八)明治二十七年三月二十二日[1894](三十九年前)午後八時二十分頃岩手縣沿岸に小津浪あり。
(十九)明治二十九年六月十五日[1896](三十七年前)午後七時半起れる海底地震によりて、「三陸沿岸」は、午後八時十分頃より八時三十分頃迄に於て大津浪襲來し死者二萬千九百五十三人、傷者四千三百九十八人、流矢家屋一萬三百七十棟、内、宮城縣死者三千四百五十二人、傷者千二百四十一人、流失家屋九百八十五戸
(二十)大正四年十一月一日[1915](十八年前)「三陸沖地震」によるものにして宮城縣志津川灣に小津浪あり。
(廿一)昭和八年三月三日[1933]午前二時半頃起れる外側帶性地震は、約三十分後、「三陸」及北海道日高國の沿岸に津浪を伴ひ、そのため、六十七町村は被害をうけ、死者千五百二十九人、行方不明者千四百二十一人、負傷者千二百五十八人を出し、流失・倒潰家屋七千二百六十三戸を生ぜり。・・・と。
海嘯(かいしょう)とは、河口に入る潮波が垂直壁となって河を逆流する現象であり、潮津波(しおつなみ)とも呼ばれる。昭和初期までは地震津波も海嘯と呼ばれていたようだ。
「三陸地方に於ける既往の震嘯は、前述の如くなるが、その中、代表的のものを次に掲げん。」・・・として、
(一) 貞觀十一年の震嘯陸奥國地大震動。(二) 慶長十六年の震嘯。(三) 安政三年の震嘯。それに、 (四) 明治二十九年の震嘯・・・を挙げている。この津波の内容や被害の詳細等は上記論文参照。

「三陸地方」とは、東北地方の太平洋岸の名称であり、この地域は地理学的にはその成立に複雑な歴史が絡んでいるが、通常3つの陸の付いた国陸奥陸中陸前の3国全域を指すことよりも、この3つの令制国にまたがる海岸三陸海岸地域を指すことが多い(詳しくは、Wikipediaの三陸海岸また、参考の※10を参照)

当海岸は1896(明治29)年6月15日に発生した地震に伴って、本州における当時の観測史上最高の遡上高(そじょうこう。※11参照)である海抜38.2mを記録する津波(明治三陸地震参照)が発生し、甚大な被害を与えた。
しかし、当海岸全体を指す言葉が無かったため、この地震・津波の報道では当初様々な呼称が用いられていたが、やがて「三陸」という言葉が用いられるようになり、当海岸は以降「三陸海岸」と呼ばれるようになったという(※10を参照)。
よって、一般的には、北上山地が太平洋と接する海岸線を指す。すなわち、青森県南東部の鮫角から岩手県沿岸を経て宮城県東部の万石浦まで、総延長600km余りの海岸を言うそうだ。
海岸中部の岩手県宮古市には本州最東端の魹ヶ崎があり、同市を境に北部は海岸段丘が発達し港に適した場所が少ないため、農業・牧畜などが盛んである。
一方宮古市よりも南では、隆起速度を上回る海面上昇により相対的に沈水し、リアス式海岸となっている。そのため、水深の深い入り江が多く、天然の良港となって漁業が盛んである。世界三大漁場三陸沖」には、この南部の漁港から主に出漁する。
海岸沿いには国道45号八戸線三陸鉄道北リアス線南リアス線山田線大船渡線気仙沼線が通っている。海岸沿いには多数の景勝地があり、遊覧船が就航されている所もあり、観光地としても知られている。
1933(昭和8)年の昭和三陸地震からは、78年後の2011(平成23)年3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震。それから、2年を経過した今年、NHK連続テレビ小説・第88シリーズ「あまちゃん」は、前半の「故郷編」では東北地方・三陸海岸にある架空の町・岩手県北三陸市が舞台となっている。
時代は2008年の夏休み。引きこもりがちな都内の女子高生(ヒロイン・アキ)が夏休みに母の故郷である北三陸母に連れてこらて祖母と出会う。現役の海女を続ける祖母は、人生で初めて出会った「カッコいい!」と思える女性だった。
厳しく切り立ったリアス式海岸の海に、恐れもせず潜っていく祖母の姿に衝撃を受け「私、海女になりたいかも・・・と海女にチャレンジ」。やがてアキは地元アイドルとして町おこしのシンボルになっていくらしい。
同じ東北(宮城県)出身の脚本家宮藤官九郎は、「小さな田舎の、地元アイドルによる村おこし」をテーマーに書こうと思ってい居る中で岩手県久慈市小袖海岸の「北限の海女」や、三陸鉄道北リアス線(岩手県宮古市の宮古駅と久慈市の久慈駅とを結ぶ)を使った町おこしなどの存在を知り、これらをストーリーの軸に決めたという。
最終盤では、劇中劇として2011年(平成23年)3月11日の東日本大震災(東北地方太平洋沖地震)発生の場面を盛り込むそうだが、当初より、NHKや宮藤の頭の中には、2年前の3月11日の地震と津波による災害からの復興への応援歌として作ろう・・・との考えがあったのだろうと思われる。舞台となっている小袖海岸の風景は実に美しい。以下で見れる。

あまちゃん ロケ地 小袖海岸YouTube

また、過去に津波の被害を受けた三陸沿いの津々浦々には約200基もの津波に対する備えや警告の石碑(災害記念碑)がさまざまな形で建てられ、今も多く残っている。その一部は、以下でも見ることができる。

It happened that | 大震嘯災記念A
http://happenlog.blog73.fc2.com/blog-entry-290.html
It happened that |大震嘯災記念B
http://happenlog.blog73.fc2.com/blog-entry-894.html

未曾有の大災害を引き起こした津波の恐ろしさを未来に残そうとした先人達の教訓・・・。
約3千人の犠牲者が出た1933年3月3日の昭和三陸沖地震から数えて78年後の2011年3月の東北地方太平洋沖地震ではどれだけの人たちに先人の教えが守られたのだろうか。これら先人の記念碑は、海の景色に溶け込む単なるオブジェであったのか・・・。
それから2年経った、今年3月で、昭和三陸沖地震から80年目になる。今一度、昭和三陸沖地震の結果を振り返り、何が問題であったのかを反省しなければ、また同じことを繰り返すことになるだろう。

上記論文に見られるように、昭和三陸地震は、岩手県上閉伊郡・釜石町(現・釜石市)の東方沖約 200 kmを震源として発生した地震であり、気象庁の推定による地震の規模はM8.1(※12の過去の地震・津波被害
参照)。金森博雄の推測はMw8.4で、アメリカ地質調査所 (USGS) もこれを採用しているという。
震源は日本海溝を隔てた太平洋側であり、三陸海岸まで200km以上距離があったため三陸海岸は軒並み震度5の強い揺れを記録したが、明治三陸地震の時と同じく地震規模に比べて地震による直接の被害は少なかった。その一方で、強い上下動によって発生した大津波が襲来し被害は甚大となった。
最大遡上高は、岩手県気仙郡綾里村(現・大船渡市三陸町の一部)で、海抜28.7mを記録した。 第一波は、地震から約30分で到達したと考えられる(上掲1の論文Page 5には明治と昭和の津波について、各地の遡上高比較も記載されているので参考にされるとよい)。
この地震による被害は、死者1522名、行方不明者1542名、負傷者1万2053名、家屋全壊7009戸、流出4885戸、浸水4147戸、焼失294戸に及んだ。行方不明者が多かったのは、津波の引き波により海中にさらわれた人が多かった事を意味する。
特に被害が激しかったのは、岩手県の下閉伊郡田老村(現・宮古市の一部)で、人口の42%に当たる763人が亡くなり(当時の村内の人口は1798人)、家屋も98%に当たる358戸が全壊した。津波が襲来した後の田老村は、家がほとんどない更地同然の姿となっていた。
震災から約4ヶ月後の同年6月30日、宮城県は「海嘯罹災地建築取締規則(昭和八年六月三十日宮城縣令第三十三號)を公布・施行した(※13参照)。
当条例は、津波被害の可能性がある地区内に建築物を設置することを原則禁止しており、住宅を建てる場合には知事の認可を必要とし、工場や倉庫を建てる場合には「非住家 ココニスンデハ キケンデス」の表示を義務付けた。違反者は拘留あるいは科料に処すとの罰則も規定された。
1950(昭和25)年に建築基準法が施行され、災害危険区域を指定して住宅建築を制限する主体は市町村となったため、当条例は既に存在していないとの説があるものの、廃止された記録もないため、現行法上の有効性は不明。なお、県内では現行法に基いて仙台市・南三陸町・丸森町が災害危険区域を条例で指定しており、沿岸自治体の仙台・南三陸の2市町のみが県の当条例を一部引き継いでいるとも見なせるが、現行法で認める違反者への50万円以下の罰金が3市町の条例ではいずれも規定しておらず、罰則規定については引き継がれなかったと言える。・・・と指摘している。
また、1964(昭和39)年の新潟地震を契機として、1972(昭和47)年に防災のための集団移転促進事業に係る国の財政上の特別措置等に関する法律(※14)が公布・施行され、災害危険区域からの防災集団移転促進事業(※15)の財政的な裏付けがなされた。
ただし、同事業における補助金は事業費の3/4の充当であるため、事業主体の地方公共団体が事業費の1/4を負担しなくてはならないこと、平時において移転促進区域内の住民の同意を得て全住居の移転を達成しなくてはらないことなど実施にはハードルが高く、2011年(平成23年)3月11日の東日本大震災(東北地方太平洋沖地震)以前に県内で同事業が実施されたのは、1978(昭和53)年6月12日の宮城県沖地震後に仙台市の27戸が移転した例のみに留まっている(※16)という。・・・「喉元過ぎれば熱さを忘れる」ということか。
また、津波の襲来により多くの死者を出し、家がほとんどなくなった田老村では、1982(昭和57)年までに海抜10m 、総延長2433mの巨大な防潮堤が築かれた。そして、1958(昭和33)年に完成した1期工事の防潮堤は、1960年(昭和35年)5月23日に発生・来襲したチリ地震津波の被害を最小限に食い止める事に成功した。これにより、田老の巨大防潮堤は全世界に知れ渡った。
この巨大防潮堤は田老の防災の象徴ともなっていたが、自然の及ぼす力は人智を超えている。今回の東日本大震災(東北地方太平洋沖地震)では「想定外」の大津波となってこの防潮堤を越えて町内を襲い、全域を壊滅状態にしてしまった・・・・。
このような立派な堤防で津波に抵抗しても津波は防げなかった。今後、どれだけ巨大なものを作るのだろうか。今回の津波以上のものを防止しようとするともう、箱の中に閉じこもったような生活をしなければならないだろう。まずは、高台へ移転するのが優先されるべきなのだろうが・・・。
しかも、今回の地震と津波は福島第一原発炉心溶融と建屋爆発事故も発生させ、その放射能汚染が、2重の災害(被害)をもたらすことになった(詳しくは福島第一原子力発電所事故を参照)。

「海辺に住むな」「高台に逃げろ」「此処(ここ)より下に家を建てるな」という先人たちの残した警告や教訓。中には、不便を承知で本気で高台へ移転した人たちも多くいた。また、当時は、海岸近くに住宅は建てず、高台に家を構えた人もいたが、代替わりするうちに堤防の与える安心感や、漁など海に近いところの利便性を求めて低地へ移る人も増え、前段でも挙げたようなな法律も形骸化し、結果として、東日本大震災では約1万9000人もの人たちが死亡したり行方不明になったりしてしまったが、先人の警告や守り続けた人たちは、助かり明と暗に分かれることになっている。
先人たちが残したものは石碑だけではない。以下参考に記載の「※17:記者の目:震災1年 風化繰り返した過去の悲劇」には以下のように書かれている。
1933(昭和8)年の昭和三陸津波の後、宮城県では、震災を永久に記録しようと、全国から寄せられた義援金をもとに、県内32カ所に復興記念館が建てられ、震災資料の展示や記念行事を行うほか、講演や教育の場としても地域住民が利用できた。だが老朽化による取り壊しで、2011年3月の震災前に残っていたのは5館のみであったという。
この記念館の現状を調査した気仙沼市の白幡勝美教育長は「(教訓の)風化の早さを物語っている」と残念がる。そして、震災で今は1館を残すだけであり、その最後の1館も、津波の常襲地帯、唐桑(からくわ)半島にある宿(しゅく)集会所であり、老朽化した集会所で取材をした毎日新聞の記者が驚いたのは、震災資料が一切残されていないことだという。戦後、家政学校や商工会事務所として利用され、いつまで展示されていたのかすら定かではない。取り壊されなかったのは、代わりの集会所がなかったからだからという。・・・と。これを読んで私も、地元民の、防災意識の欠如の驚かされるばかりである。
こうした事例から、失敗学を提唱する畑村洋太郎は、「失敗は人に伝わりにくい」「失敗は伝達されていく中で減衰していく」という、失敗情報の持つ性質を見出している(※18、※19参照)。

昨年の1月、このブログ辰年に思うでも書いたので、詳しくは書かないが、防災に関する文章などによく用いられる物理学者(地震研究者)にして随筆家であった寺田寅彦も、「災害は忘れた頃にやって来る」との明言を吐いたとされるが、人の記憶は時の経過とともに忘れ去られる。
四季に恵まれた日本ではあるが、日本列島の生い立ちから地核変動による、地震が多く、地震大国とも言われる。そして、ここのところ、周期的大地震が頻繁しているのであるが、10年、50年が過ぎれば、先にも書いたように、悲惨な惨事についての伝承、語り伝えも途絶え、曖昧になり、忘却の彼方に遠ざけられてゆくことになる。
いくら先人が警告のための記念碑を建てても、人は時と共に語り伝えることを止め、そのうち記憶は薄れ、かって先人が味わった苦悩や苦痛、悲しみを忘れて、同じ事を何度でも繰り返す。自分たちのご先祖達にも津波によって家屋を破壊され、生命を失った者がいたはずだろうに・・・・。
同じ過ちを繰り返す、愚かな人間のともいうべきか・・・。

1995年(平成7年)1月17日(火)に、私が経験した阪神淡路大震災のような直下型地震は、繰り返し周期が1000年から10000万年という長期に及ぶものが多く、将来の発生を予測するのはほとんど不可能だそうである。一方、東北地方太平洋沖地震のような海溝型地震は、繰り返し周期も短く、最短で10年、長い場合でも500年であるという。
また、阪神淡路大震災はキラーパルス(※20参照)が卓越していたため家屋の倒壊による甚大な被害を出した。逆に、東北地方太平洋沖地震はキラーパルスはあまり含まれていなかったため、阪神淡路大震災のような建物の倒壊による圧死は少なかったが、地震動の長さ、余震、津波により甚大な被害を出した。V字型の湾や岬の突端、リアス式海岸などの複雑な地形などでも波が高くなる。また川を遡上して内陸数kmまで到達する場合もある。2011年の東北地方太平洋沖地震が津波被害の典型的な事例であるという。(全体のことは、※21:「地震の基礎」を参照)。
三陸海岸は津波の発生し易い地形であり、それは歴史が証明していることである。津波対策こそ重要ということだろう。今度こそ、震災の悲劇と、その教訓を忘れないで、備えを十分に立てておくべきではないか。

政府の地震調査研究推進本部の予測によると、2010年1月1日からの発生確率は30年以内で 60 - 70 % 、50年以内で 90 % 程度以上とされていると発表されていた。
また、政府の地震調査委員会は今年3月11日、日本周辺で起きる地震の発生確率を、今年1月1日を基準として計算した結果を発表、東南海地震の今後30年以内の発生確率が、昨年の「70%程度」から「70〜80%」に上昇するなど、一部地域でわずかに上昇した。また南海地震(30年以内)は「60%程度」で変わらなないといわれていた(※22参照)。
しかし、南海トラフ巨大地震の対策を検討していた国の有識者会議は、今月28日、地震予知が現状では困難と認め、備えの重要性を指摘する最終報告をまとめたと、昨日・5月29日にマスコミは一斉に報じていた(※23参照)。
そして、家庭用備蓄を「一週間以上」とすることや、巨大津波への対応を求めている。古谷圭司・防災相は今年度中に国の対策大綱をまとめるとの方針も示した。
もともと地震予知の手がかりとなる前兆を確実に観測できた例が過去に一つもないところに、今回の東日本大震災が起きている。歴史的な事実からある程度の地震の周期的なことは推測できたとしても、地震が発生する数時間から数日前に起きる前触れ的なプレートの動きをとらえた確度の高い余地は「困難なこと」であった。
東海地震の予知のために24時間体制の監視などをしていたが、阪神淡路大震災、その他東日本大震災発生までに大きな地震が数多く起こっている。そんなこともあり、研究が進めば進むほど予知の難しさがわかったという。

画像クリックで拡大。
●(上掲の画像は、内閣府の有識者会議の試算結果から示された被害者数等の状況。都府県別のそれぞれの最悪のケース。全体値は合計が最悪になるケース。画像は5月29日朝日新聞朝刊より。)
たかじんのそこまで言って委員会に出演していた地震学者であり、東大教授のロバート・ゲラー氏は、「地震は、予測できるものではない」。「大地震の前には前兆現象が起きるという仮説のもとに予知の研究は行われてきた。だが、100年探しても前兆現象は見つかっていないのだから、地震学者は地震予知という幻想を捨てて、本来の基礎研究を行うべきだ。」・・・・と、前々から言っていたよ。今更政府がそんな当たり前のことを発表するなんて相当遅れているということだ。
もし。今回言っている南海トラフ巨大地震が明日にも来るなどと言われると、どう対処すればよいのだ。それこそパニックを引き起こし大騒ぎになるだけでなくいろんな問題が生じるだろう。
地震大国に居住している以上、地震との遭遇は、避けられないものと覚悟をし、インフラなどは国や地方がやるとしても、一週間ぐらい生き延びれるだけの食料や防災用品の準備、避難場所の確保等は各人がそれぞれの責任で用意しておかなければいけないだろう。
2年前の東北の地震にしても、それまでに、阪神淡路大震災や新潟県中越地震など大きな地震が発生し、大きな被害が出ているにかかわらず、数日分の飲料水の準備さえしておらず困った困ったといっている人を、テレビの報道などで見たが、まるで、よその地で起こった震災の被害等は、対岸の火事のように見ていたのだろう。
被害にあえば、困った困ったと泣き言を言いながら肝心の予防はしない。そんな人は、今度の震災でひどい目にあうだろう。肝に命じておかなければいけないと思う。
同じ1年と言っても、自然界におけえる時の間隔は我々人間の1年とは全然違う。30年以内といっても極端に言えばもう明日のことかもしれない。本当に30年後なら、おそらく私は生きてはいないので関係はない。もう、先の短い私の年代になると、30年以上も住んでいる家が倒壊しようが、倒壊した家で圧死しようがいずれ死ぬ身、どちらでもよいと思っている。
仏教では、今は末法の時代だという。世の中も荒んできたし、資本主義経済も行き着くところへ来たようで、住みにくい世の中になってしまった。私だけのことなら、なるがままに任せようと思う。
しかし、災害に遭っても不幸にして助かってしまったり、私が大けがをして、歳とった家内に世話をかけるのは心苦しい。そのために、住まいの防災対策についても最低限は講じてある。
わが身のことについては来るなら来いという感じなのであるが、息子や孫の行く末を考えると可愛そうだ。そのため毎日ご先祖様のご加護をお祈りはしているのだが・・・・。

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恐怖の日

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いつもこのブログ書くのに利用させてもらっている「今日は何の日〜毎日が記念日〜」(※1)に今日6月6日の記念日として、「恐怖の日」と言うのがあった。
由緒は、『新約聖書』の『ヨハネの黙示録』に登場する「獣の数字666に因む。
「また凡ての人をして、大小・貧富・自主・奴隷の別[わかち]なく、或はその右の手、あるいは其の額に徽章[しるし]を受けしむ。この徽章を有[も]たぬ凡ての者に賣買することを得ざらしめたり。その徽章は獸の名、もしくは其の名の數字なり。智慧は茲[ここ]にあり、心ある者は獸の數字を算へよ。獸の數字は人の數字にして、その數字は六百六十六なり。」(ヨハネの默示録第13章16ー18)
映画「オーメン」に出てくる「666」という数字の根拠は上記の一節である。…とあった。
しかし、この記念日、日本記念日協会には登録されておらず、また、一体、何時、どこのだれが記念日登録したのかなどはわからない。
1976年に公開され世界中で大ヒットをとばした米国映画「オーメン」は、正統派オカルト映画の傑作として歴史に名を刻んでいる。
物語のベースは聖書で、6月6日午前6時に誕生(人類を滅ぼすためこの世に送られてきた)し、頭に新約聖書の『ヨハネの黙示録』で獣の数字とされる「666」のアザを持つ悪魔の子ダミアンを巡る物語であり、主演には「ローマの休日」のグレゴリー・ ペックリー ・レミックといった演技達者でかためている。しかも、ジェリー・ゴールドスミスによるテーマ音楽が不気味さを掻き立てる上で絶大な効果を発揮しており、音楽を担当したジェリー・ゴールドスミスが第49回アカデミー作曲賞を受賞しているなど、B級ホラー映画とは一線を画している。
以下でそのテーマ曲が聞ける。
The Omen(1977) - Ave Satani - YouTube
映画は、当初から3部作として予定されており、第1作のヒットによって正式にシリーズ化されたが、1978年製作の続編の「オーメン2/ダミアン」(日本での公開1979年2月)で、成長したダミアンは聖書の黙示録を続み、自分の頭髪の下の666という数字の謎、自分が悪魔の子であることを知りショックを受けるが、やがて、自分の使命を受け入れ、悪の世界にのめり込んでゆくことになる。
この時に朗読されるのが、前段の記念日の由緒のところに書かれている『ヨハネの默示録』(第13章)にあたるのだろうが、この文が正式な『ヨハネの默示録』(第13章)とは同じと言うわけではない。映画では脚本としてアレンジしたものだろう。『獣の数字』の登場する『新約聖書』の『ヨハネの黙示録』(※2参照)第13章18節は以下のように書かれている。
「ここに、知恵が必要である。思慮のある者は、獣の数字を解くがよい。その数字とは、人間をさすものである。そして、その数字は六百六十六(666)である。」・・・と。
ところで、この数字の「666」は何を教えているのろう?
旧約聖書創世記』によれば、神は、7日で、世界を作ったとされ(参考※2の1章天地創造を参照)、それゆえに、7は、神の数字であり、完全であると言う意味があるのに対して、その手前の数字6は、7に一歩及ばないことかから、神と同等の力を持つとされる悪魔でも、神には及ばない。
転じて、いかに人類が強大な力を手に入れようと、自然の全てを解明しようと、所詮神には及ばないと、言う意味を表しているそうだ。つまり、完全な神の力:7に対して、それに及ばない不完全な力:6。666はその6が、三回繰り返される事により,不完全さを、より強調したかたちとなっている。
俗に「666」は悪魔や、悪魔主義的なものを指す数字とされているが、それは黙示録が象徴的に「獣」と呼ぶ反キリストのことでもあり、これは、默示録第13章の「赤い竜」に出てくる詩に由来する666恐怖症から転じて生まれたもののようだ。詳しくは、参考の※2:『ヨハネの黙示録』(第13章)を一読されるとよい。

上掲の画象は、七つの頭と十本の角を持つ竜が十本の角と七つの頭を持つ獣に権威を与えるシーン。中世期のタペストリー。Wikipediaより。
しかし、正典とはいえ、『ヨハネの黙示録』は異色の書であり、書かれている内容も、かなり抽象的・象徴的で難解な文章である。読み方によってはいかようにも解釈できるし、その内容も不吉な文であり、ホラー映画などではどうしても取り上げたくもなるだろう。尚、「666」の意味などは、以下参考の※3:「キリスト教読み物サイト」の終末の独裁者「獣」とは?など参考になるのでは・・。
オーメンの完結編「オーメン 最後の闘争」は、1981年に制作・公開された。32歳という若さで大企業の社長となり、駐英大使を猟銃自殺に追いやり、まんまと後釜となったダミアンの真の目的は、悪魔的使命として、イギリスの何処かで誕生しようとしているキリストの生まれ変わりの抹殺にあった…。それに気づき挑戦する神父たちとの闘いを描いている。
この映画の10年後米国でのテレビ用に前3作をなぞってダミアンを女の子に変えて作られたTVムービー『オーメン4』(※4)が日本では劇場公開(1991年)されたがこの後に、1000年に1度、6の3つ重なる日・06年6月6日に「第1作」のリメイク版が公開されている。
オカルト映画の公開にこれほど好都合な日はない。今日の記念日は、このリメイク版映画の宣伝用に、映画関係のところなどが話題として、取り上げたのではないかなどと思ったりしているのだが・・・・。こんな記念日が、「今日は何の日〜毎日が記念日〜」では外国の記念日ではなく日本の記念日としているところからみてもそう疑いたくなるのだが・・・。
『ヨハネの黙示録』は『新約聖書』の最後に配置された書であり、『新約聖書』の中で唯一預言書的性格を持つ書であるが、これまでの福音書とは違う恐怖に満ちた恐るべき終末世界が描かれた異端の書であるが、この著書を著したヨハネとはどんな人物か?
キリスト教で有名なヨハネは2人おり、1人は「洗礼者ヨハネ」(『新約聖書』に登場する、ヨルダン川イエスに洗礼を授けた人、預言者)であり、もう一人は使徒ヨハネ(イエス【ナザレのイエス】の12使徒の1人。4つの福音書の1つ「ヨハネの福音書」の著者とされる) 。
一応後者ではないかとされているが、はっきりしたことはわからず、真の人物は謎のようだ。また、『黙示録』(特に21章と22章)における終末理解と『ヨハネによる福音書』の著者の終末理解には大きな隔たりがあることを指摘する学者も多く、『ペトロの黙示録』と共に「真性に疑問のある書物」として聖書正典収録に関しての議論が巻き起こっていたものらしいが、最終的には中世末期、正教会でも正典に加えられはしたものの、聖書の中で唯一奉神礼で朗読されることのない書となっているそうだ(Wikipedia)。
ヨハネの黙示録が記された時代は、ローマ帝国ドミティアヌス帝末期の紀元96年頃とされているが、ネロ帝の69年頃との説もあるようだが、前者の説が有力な様である。いずれにしても、どちらの皇帝もキリスト教徒への迫害があり、当時はキリスト教徒受難の時代であったようだ。
迫害に遭った使徒たちの中で唯一殉教しなかったとされているヨハネであるが、その後、ヨハネは、エーゲ海の孤島パトモス島に幽閉され、この地で、ヨハネは或る日、神の啓示を受け、未来の出来事を目にする(ヨハネ黙1:9)。
『ヨハネの黙示録』は、それを書き留め、古代キリスト教の小アジア(現在のトルコ西部)にある7つの主要なキリスト教信者の団体(水と御霊の福音への信仰によって創立された教会【黙示録 第2章 1−1】)にあてられる書簡という形をとっている。その構成は、ここを見られると簡単にわかる。
戦乱や飢饉、大地震など、ありとあらゆる禍が、そして、天使と悪魔の戦いやの様子を記して終わっている。詳しく知りたければ、以下参考に記載の※2「聖書」のヨハネの黙示を読まれるとよい。重複するが要約すると以下のようになる。
黙示録には、人々の偶像礼拝(神への不信仰)と不品行(性の乱れも含まれる)、 それに対する神の激しい怒りが、繰り返し述べられている。
この世の終わり(世界の終末)には海から「666」で暗示される竜のような怪獣(サタン)が現れ、その偶像を崇拝しない者は処刑される時代が到来する。
それに対し天使率いる神の軍が対抗し、悪霊(=獣=終末の時代の独裁者。と、彼に同調する連合軍。反キリスト)がイスラエルハルマゲドンメギドの丘)に集結 (第16章:12-16)し、サタンと神の最終戦争が勃発する。神(キリスト)は、ハルマゲドンの戦いに勝利し、地上の悪の勢力を一掃。そののち神は、地上に降りてきて、「千年王国」を樹立する。…と、いうものである。
このヨハネの語る終末の中には、世界の終末が2度訪れることになる。最初の終末時には世界が滅び、メシアが来臨して、幸福な千年王国を樹立する。千年の後、一時的に投獄されていたサタンが復活し、最後の決戦を行うが、これによってサタンは滅び、最終的な終末が訪れる。
その後、最後の審判が行われるが、この時、数々の書物が開かれ「死んだ人々は、これらの書物に書きしるされているところに従って、自分の行いに応じて裁かれた。」が、もう一つ「命の書」(20章 12節)が開かれここに名前のない人は地獄に落とされ、名前のある人は天国に昇ることができる。そして最後に、救世主イエスの再臨はまもなくだと伝え、ヨハネの黙示録は終わる。
この「命の書」は、イエス・キリストを自分の救い主として個人的に受け入れ、信じた者たち、すなわちクリスチャンたちの名前がすべて記されてある名簿のようなものなのだろうか。裁きを受けたものは、この世の不信者であり、キリストの救いを拒んだ人々だろう。「一度死ぬことと死後にさばきを受けることとが人間には、定まっている」・・・とヘブル人への手紙第9章27節(※2参照)にも書かれている。

上掲の画像は、Maria Yakunchikova Fear. 1893-95年頃の作品。Wikipediaより。
。ところで、人が恐怖を感じるのはどのような時だろうか・・?
暗い所や一人でいる時とき、また、オーメンのようなオカルト映画を見たときなど、人それぞれ、その状況等によってもいろいろと感じ方は違うだろう。
恐怖(英::fear, horror)は現実もしくは想像上の危険、喜ばしくないリスクに対する強い生物学的な感覚であり、ジョン・ワトソンパウル・エクマンなどの心理学者は恐怖をほかの基礎的な感情である喜び、怒りとともに、これらをすべての人間に内在する感情だと主張しており、ワトソンは、生後11ヶ月の幼児アルバート坊やを対象に恐怖条件づけを行った実験(※5参照)から、おとなの抱く不安や恐怖も、多くは幼年期の経験(心的外傷=トラウマ)が由来しているものだとしている。
また実際の世界においても、第二次世界大戦や、阪神・淡路大震災東日本大震災といったような特に強いトラウマ的な事故などを経験した場合、後にその記憶がフラッシュバック)し、長期間にわたって被体験者を苦しめること(PTSD)が指摘されている。
「トラウマ(心的外傷)」というのは、過去の体験に基づき、「大脳辺縁系扁桃体)」というところに「特定の情動反応」が学習されてしまうために起こるという。この反応と同時に頭の中に過去の情景が蘇ったり、聞こえないはずの音や言葉が聞こえてしまうというのが「フラッシュバック」だそうである(※6)。だから、扁桃体を失うと「恐怖」の感情がなくなってしまうそうだ。
「恐怖」を表す英語の“fear”は「思いがけない危険」を意味する古い英語の“faer”に由来し、それは「驚き(fright)」をも意味している。つまり、恐怖の対象となる危険は具体的・現実的で、はっきり認識できるものであり、驚きの要素が含まれている。そこには、危険への防御本能が働いていると言えるかもしれない。
人間には、まず、「目に見えるものへの恐怖」と「目には見えないもの-未知-への恐怖」がある。「目で見えるものへの恐怖」は近所の猛犬といった特定の動物とか、ヒステリー症の奥さんや、意地悪な上司、また自分と比較して異常に大きな人や怖い顔をした見知らぬ人、それに高いところと言ったものの他、スプラッター映画で血を吹き出すシーンや、惨殺シーンに恐怖したり、ホラー映画における絶叫や床のきしむ音を聞いて恐怖するものもある。
これらは、見た後で、自分に多大な被害、や苦痛、ひいてはが及ぶであろうことを想像することから恐怖を感じるのであろうが、特に死を予感した時には、多くの人が相当な恐怖を感じるだろう。
哲学者の樫山欽四郎は、『哲学概説』において、人間の本質的な特性として「を自覚する存在」であることを挙げ、「死を知ることがなければ、人間はこれほど楽なことはない」という趣旨の言葉を述べているそうだ(Wikipedia)。
人間が他の生物と異なる1つの特徴は、人間は全て(そして自分自身も)やがて死ぬということを「知っている」ことだともいう。いいかえると、未来を考えることができる動物は人間だけであるともいえ(※7参照)、これが、文化的世界観(人生に意味を与え、自己評価の基準となる価値観を提供する)と、人がその価値観に合致することによって得られる自尊心によって統制できるとされているようだ(恐怖管理理論参照)。
そして、死を知ることが哲学への契機でもあり、また宗教への契機でもあると言えるのだろう。
かって人間は、周りにいる猛獣や自分たちとは違った部族や見知らぬ自然と闘い、「目に見えるものへの恐怖」を克服してきたが、その戦いは神話や昔話によく登場してくる。しかし、我々の住んでいる世界には、人間の活動能力の限界を超えた領域もある。それが目に見えない未知の海底や地底、大宇宙、そして時間と言った領域である。
これらは、人類の最大の特徴である「想像力」がマイナス方向へ働いた場合に発生する恐怖感と言えるだろう。何かが居る「かも知れない」、「出るかも知れない」と言う予想、想像が働くがゆえの恐怖感で、お化け屋敷や映画でよく使われる恐怖感である。
昔の人は、これらの原因を科学的に理解することができず、これらの「恐怖」が、神や悪魔亡霊怨霊といった存在を生み出した。
悪魔は、主にキリスト教やイスラム教といった一神教の世界に登場する存在であり、唯一神と対立する概念であり、神=善、悪魔=悪と考えられているが、キリスト教世界などでは、神と悪魔はしばしば混然としている。それは、『ヨハネの黙示録』にも見られるように、人間の態度いかんによって、神が悪(=天罰)を為すこともある。『ヨハネの黙示録』を読んでも神は神の意思に沿わない人間をすべて殺している。
参考※8:「「恐怖」の歴史」にもあるように、欧州のキリスト教会では、悪魔は人間の心の弱さに付けこんで、心を腐らせる邪悪な存在であると教えていた。
庶民は、教会に縋(すが)り、正しい信仰を守ることを怠れば、弱い心が悪魔に食われてしまい、神の御許に辿り着けなくなるという。つまり悪魔は、個人の信仰を揺るがせる「恐怖」なのであり、天災や疫病は、むしろ、人間が悪魔に負けて正しい信仰を失ったことに対する「神が下した天罰」と考えるのである。しかし、悪魔は、信仰の力で撃退はできるものの、根絶することは出来ない存在である。一神教世界の悪魔は、神と表裏一体の概念だからである(※9も参照)。
1973年製作の米国映画『エクソシスト』は,少女に取り憑いた悪魔とキリスト教の神父との壮絶な戦いを描いたオカルト映画の傑作であり、公開されると、リアルに描かれたショックシーンが話題を呼び、世界中で大ヒットし、空前のオカルト・ブームを巻き起こした。
1949年アメリカ・メリーランド州で実際に起きた男の子(ロビー・マンハイム。架空名)の悪魔憑き事件“メリーランド悪魔憑依事件”をもとにしたウィリアム・ピーター・ブラッティの同名小説『The Exorcist"(エクソシスト)』を原作とし、作者本人が脚色を行い製作したもので、ホラー作品でありながらアカデミー脚本賞をも受賞している。
1977年にエクソシスト2(Exorcist II: The Heretic )、1990年にエクソシスト3(The Exorcist III )も作られた。
エクソシストとは、英語で"悪魔払い(カトリック教会のエクソシスム)の祈祷師"という意味である。
実際に、ロビー・マンハイム少年の体から悪魔を追い払うための儀式は2ヶ月以上の期間にわたって30回行われたそうだ。そして悪魔が去ると、ロビーは普段の言葉を発した。その時の言葉は"Christus, Domini"(主キリスト)あるいは"Christ, Lord"(神さま)だった。これらの言葉を発した時、雷鳴やショットガンのような轟音が病院中に響いたとレポートに記されているそうだ。
悪魔祓いの後、マンハイム一家には平穏が戻り、一家は家へと帰った。やがてロビー・マンハイムは成功をおさめ、幸せな結婚をし、父親となった。そして50年が過ぎ、ロビー・マンハイムは悪魔憑きの記憶を忘れてしまった・・・という。
ロビー・マンハイムについて、精神医学的意見として、解離性同一性障害トゥレット症候群統合失調症、性的虐待、集団ヒステリーといった一般的精神医学上の解釈がなされてきたが、結局、この事件が一般的な精神医学では説明がつかないという結論に達したそうだ。映画ではなく、ロビー・マンハイム少年に起こったことなどは参考※10:「メリーランド悪魔憑依事件についての質問に対する回答Robbie Mannheim」を参照されるとよい。
世の中には、我々には理解できない怪奇現象が実際にあることは、私自身も経験して知っている。私が、子供の頃、父が商売に失敗し、家は破産状態、その上、父親は若くしてなくなってしまった。
精神的に参った母親は、宗教にのめり込み、お寺のお導師らと共に裏山の滝に打たれての修業などもしていたが、ある時から突然、に、家の仏壇の前でお経をあげる声が一段と大きくなったと思っていたら、正座したまま、お経をあげながらその場でポンポン相当高くまで飛び跳ねだしたのだ。
そんなこと私でもできないのによく肥えた母親がやりだすのだからびっくりした。お導師に聞くと、滝に打たれて修業している間にタヌキが憑いるという。そして本人自身はそのことを全然自覚していないのだ。
私は、そんな馬鹿な・・とはじめは疑ったが、奇異な行動が収まらないので、母親は、お導師にタヌキの霊を取り払ってもらうための業を始めた。そして、結構の日数がかかったが、とにかくその後は、奇妙な行動はしなくなった。
悪魔や怨霊のパワーは、科学技術の進歩によって弱められ、今は、昔ほどの影響力は持っていないが、いまだに根絶できない「目に見えない未知への恐怖」はなくならない。それが、今でも悪魔や怨霊の物語が作られ続け、人気を博している由縁であろう。
人類の最大の特徴は「想像力」をもっていることである。想像をするためには、知識が必要であり、なんの知識もない赤ん坊が、あらゆるものを恐れないのと同様に、知識のないものは恐れを知らない。「恐怖」はある面で人間のリスク回避に役立っているともいえるが、知識のない恐れを知らないものは、時として無謀にもなる。
人は恐怖を克服するために知識を付け、知識を付けることで、目に見えない恐怖も目に見えるものへと変化させ「恐怖」を克服してきたが、そのことがまた未知の恐怖の対象を増やしていくという、無限連鎖の中に陥っていくのである。知らないこと、理解できないこと、自分に認識できない事象があると言う恐怖。その恐怖は、ますます大きなものへと変わってゆくことになるのは、いかにも皮肉なことであると言っていいだろう。
1974(昭和49)年7月、日本で映画『エクソシスト』が公開されたが、この年は、「日本列島改造論」を唱えていた田中角栄首相の「田中金脈」(※11参照)が暴かれ、オイルショックによる「狂乱物価」と「便乗値上げ」とろくなことがなかった。何を頼りにして良いかわからないという無力感、そのくせ、深く物事を考えなくても生きてゆけるという風潮が高まっていた。
そんな時に、ノストラダムスが「1999年7の月」に「恐怖の大王」によって人類が滅亡すると予言した・・・と、信憑性を増すために創作された逸話などもまじえる形で紹介された五島勉の著書『ノストラダムスの大予言』(1973年、祥伝祉刊)は、このような社会不安を背景に大ベストセラーとなったが、当時、素朴にこんな予言を信じた若者も少なくなく、今、東京の拘置所に居る麻原彰晃本名:松本智津夫)率いるカルト・新興宗教「オウム真理教」による「地下鉄サリン事件」(1995年)もこの「ノストラダムスの大予言」が遠因となっていると指摘するものも居る。
このなんとなくフワァーとしたところをテレビを中心としたマスメディアが付け込み、みんながまんまと乗せられたということではないだろうか。
また、1974(昭和48)年小松左京のSF小説「日本沈没」のヒットを受けて、同年12月29日より正月映画として東宝で同名で映画化もされた。以下の画像は映画チラシ「日本沈没」。

小説の発行された1973(昭和48)年は関東大震災から50年という節目でもあり、本作によって大規模災害への不安が喚起されるきっかけともなった。
そして、ノストラダムスの大予言である”1999年の7月に地球が滅亡する“・・・という予言は、結局何事もなく過ぎてしまい、もう、このような予言を信じている人も少ないだろうと思うのだが、この当時、TVでは細木なんとかいう伯母さんの占いだか予言が人気を呼んでいた。
その後の社会情勢も不安定な情況が続く中、小松左京の『日本沈没』が2006(平成18)年、再映画化されたりしているが・・・、世の中が不安定になると人を不安に陥れるこの種の予言が流行るということだろう。
しかし、振り返れば、その間、1995(平成7)年1月17日には、あの忌まわしい阪神淡路大震災兵庫県南部地震)が発生しているが、地震予知連絡会は、東海地震 (後に東南海地震と呼称される)の予知ばかり研究しており、全くこの震災の余地は、出来ておらず、その後の新潟地震(1964年)また、2011(平成23)年3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震東日本大震災)など、何も余地はできなかった。
そして、東日本大震災による地震と津波は福島第一原発事故も発生させ、その放射能汚染が、2重の災害(被害)をもたらすことにもなってしまった。
四季に恵まれた日本ではあるが、日本列島の生い立ちから地核変動による、地震が多く、地震大国とも言われている。
そして、ここのところ、周期的大地震が頻繁しているが、今年1月には、東南海地震の今後30年以内の発生確率が、昨年の「70%程度」から「70〜80%」に上昇するなどと発表視されていたが、南海トラフ巨大地震の対策を検討していた国の有識者会議は、5月28日、地震予知が現状では困難と認め、備えの重要性を指摘する最終報告をまとめたと、5月29日にマスコミは一斉に報じていた(※12)。
そしてあまりにも巨大な震災なので、救助が間に合わなから各家庭で1週間分の食料等を、備蓄してほしいという。要するに政府は責任を持てないということだ。
今や、日本では、悪霊に怯えるようなことはないもののの、家族制度は崩壊し、少子高齢化の中、年金問題がどうなるかもわからず、医療や高齢者介護など問題が山積みで、高齢者の孤独死や、低所得者の餓死すら発生し、これから、どう生きるか、先の見えない不安と恐怖に怯えて生きなけれならない時代になってきた。
その上に、何時起こるかもわからない巨大地震や津波などの自然災害、それに、原子力発電所事故の不安など、生きてゆくにはあまりにも怖いことが多すぎる。
変な言い方をすると、これは、一度神に粛清された悪魔の総反撃が起きようとしているのだろうか・・・。これは、まさに恐怖以外の何物でもない・・・・。


(冒頭の画像はギリシャ数字の666。Wikipediaより)
参考:
※1:今日は何の日〜毎日が記念日〜
http://www.nnh.to/06/06.htmlhttp://www.nnh.to/06/06.html
※2:聖書INDEX聖書とは
http://web1.kcn.jp/tombo/v2/testament.html
※3:キリスト教読み物サイト
http://www2.biglobe.ne.jp/remnant/yomu.htm#shumatsu
※4:映画 オーメン4 - allcinema
http://www.allcinema.net/prog/show_c.php?num_c=3506
※5:脳と心と人工知能:情動研究における恐怖条件づけ
http://nouai.blog.fc2.com/blog-entry-102.html
※6:フラッシュバックの症状とは
http://okwave.jp/qa/q3462921.html
※7:人間だけが未来を思い描く 「スタンフォードの自分を変える教室」
http://susumu-akashi.com/2013/04/%E8%87%AA%E5%88%86%E3%82%92%E5%A4%89%E3%81%88%E3%82%8B%E6%95%99%E5%AE%A4/
※8:「恐怖」の歴史
http://www.t3.rim.or.jp/~miukun/kyoufu.htm
※9:聖書の神が悪魔を創造されたのですか - Yahoo!知恵袋
http://note.chiebukuro.yahoo.co.jp/detail/n40718
※10:メリーランド悪魔憑依事件についての質問に対する回答Robbie Mannheim
http://www.geocities.jp/occult20100508/robbie_mannheim.txt
※11:田中首相・金脈事件
http://jikenshi.web.fc2.com/newpage145.htm
※12:南海トラフ地震の予知は困難 中央防災会議最終報告 - MSN産経ニュース
http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/130528/dst13052817290019-n1.htm
今日のことあれこれと・・・「オカルト記念日」、「ノストラダムスの日」
http://blog.goo.ne.jp/yousan02/s/%A5%A8%A5%AF%A5%BD%A5%B7%A5%B9%A5%C8
聖書研究の部屋:歴史に働いた神
http://www14.ocn.ne.jp/~godswork/
ノストラダムスと聖書の予言
http://www.geocities.jp/mongoler800/nosutora-seisyo/nosutora-seisyo0.htm
獣の数字- Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8D%A3%E3%81%AE%E6%95%B0%E5%AD%97
ヨハネの黙示録 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A8%E3%83%8F%E3%83%8D%E3%81%AE%E9%BB%99%E7%A4%BA%E9%8C%B2
ヨハネの黙示録666の正体 - YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=qhQfNDJdiRE

女優・木暮実千代の忌日

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今日は何を書こうかと、何時も参考にしているフリー百科事典で今日の記念日を検索していると、女優・木暮実千代 (1918年1月31日 - 1990年6月13日)の忌日、また、江戸時代初期の剣術家・兵法家宮本武蔵(天正12年=1584年? - 正保2年5月19日=1645年6月13日)の忌日があった。
さて、今日はどちらをテーマーに書こうかと思ったのだが、宮本武蔵は余りにも歴史的に有名な人物であることから,私も、今までにこのブログで、「英治忌(宮本武蔵」の吉川英治の忌日)」、「決闘の日」、「NHKラジオで徳川夢声の『宮本武蔵』の朗読が始まった日」、「巖流・佐々木小次郎(剣術家) が 宮本武藏との巖流島での決闘で敗死」などのタイトルで、武蔵関連のことを書いてきたので、改めて宮本武蔵その人のことを書くのはまた、別の日にして、今日は、女優・木暮実千代のことについて書いてみようと思う。
宮本武蔵と木暮実千代の忌日が同じ日と言うことからある映画を思い出した。それは、吉川英治小説『宮本武蔵』を映画化したものであるが、同氏の小説を題材にした武蔵物の映画は数多く制作されている中で、木暮実千代が良い味で出演していた作品で私の記憶に強く残っているのは、内田吐夢監督が、中村錦之助萬屋錦之介)主演で映画化した東映映画の「宮本武蔵」であり、全5部作の大作であった。
1961(昭和36)年に公開された第1作では、新免武蔵(たけぞう)(俳優:中村錦之助)が沢庵宗彭の導きにより、姫路城天守で3年間の幽閉生活を送るまでを描いている。
ストーリー(詳しくは※1参照)
慶長5年9月、関ヶ原の合戦で西軍豊臣方は惨敗に終った。作州(美作の異称)宮本生れの郷士の伜、新免武蔵と本位田又八(俳優:木村功)は野望を抱いて関ヶ原の戦いで西軍に加わったが、傷ついて山中で暮らすもぐさ家のお甲(俳優:木暮実千代)とその養女朱実に救われた。この母娘は戦場荒しを稼業とする盗賊だった。ある日、お甲の家を野武士辻風典馬の一隊が襲った。武蔵は典馬を殴殺し、又八は手下を追いちらした。そんな二人にお甲の誘惑の手がのびた。又八は許嫁お通(入江若葉)を忘れ、お甲とともに姿を消した・・・。

同映画の武蔵も又八も心の弱さを持つ人間であった。この点はいみじくも沢庵和尚の言葉がずばりと言い当てている。
又八と別れ、国境の木戸を破って故郷の宮本村に逃げ込んだ武蔵だが役人に追われ次第に狂暴となり、山の中に隠れていた。そんな武蔵をとらえるために、お通一人を伴って,山中で,火を焚き鍋をかけて,武蔵を待つシーンがあった。そうして武蔵を捉えると約束した期限の3日目の夜「こうしてここに座ったままでいてよろしいのですか」と心配そうに尋ねるお通に対して,沢庵は、「人間の心は実は弱いものなのだ。孤独が決して本然なものではない」と言いながら,武蔵がこの温かい火の色を見て,必ずこの場所に姿を見せることを確信していたが、その通り、武蔵が現れ捉えられる。映画第1部のクライマックスの一つであった。
闘争心によって内面的な心の弱さを克服しながら生きている武蔵。暴れん坊だが、本当は寂しがり屋で、愛情に飢えた孤独な若者である。それを錦之助は実に魅力たっぷりに演じている。野性的で荒々しいが、その半面、優しさとナイーヴさも備えている錦之助の演じる武蔵は、人間的に成長し後年の宮本武蔵へと成長してゆく。そうした「剛と柔」の両面を錦之助が素晴らしい演技で見せてくれる。本当にいい役者だった。
一方の、又八は、心の弱さに負け、年上の女の色情に溺れながら、転落していく。又八には、故郷の村に年老いた母親(お杉ばあさん)と可憐な許婚(お通)が居る。それなのに、後家のお甲の誘惑に負け、自らの性欲を衝動的に満たしたがために、人生の道を踏み外してしまう。ウジウジしたヤサ男の又八を演じた木村功がまた何とも言えず、悲哀さえ感じさせる好演だった。
ストーリーの必然として又八をお甲の愛欲に溺れさせなければならなかったから、木暮実千代としては年増(この時木暮43歳)の色香を見せつけるように演じたのだろうが、お甲(木暮)が又八の負傷した太股に焼酎を吹きかけ、むしゃぶりつくようにして口で膿んだ血を吸うシーン。この部分は原作にはないのだが、映画独特の見事な描写である。色気たっぷりで欲求不満のお甲が、若い男の太股の血を吸っているうちに、発情して童貞の又八を犯していく様子がすさまじく、極めてエロチックであった。その後、空に浮ぶ雲のカットがあり、それにお甲の満足したような高笑いがかぶって、野原にしどけなく寝そべっているお甲の姿が映し出される。その右手には、しょんぼり立膝をついて坐っている又八の姿があった。内田吐夢の演出の冴えといったところであろうか。当時20過ぎの純情な青年だった私など熱くなったものである。

●上掲の画像は、武蔵と又八がお甲と娘の朱美の女二人の住む艾屋に匿われ、どうどうと母屋に住むようになると、それを迷惑どころか家の中が賑やかになってよいと喜んでいる風に見えるお甲。二人を相手に「又さんか、武さんか、どっちか一人、朱美の婿になっていつまでもここにいてくれたらよいが」と、いったりして、初心(うぶ)な青年をどぎまぎするのを見てはおかしがるお甲。吉川栄治小説『宮本武蔵』第一巻地の巻(15P )に出てくる挿絵。挿画者矢野橋村。(吉川栄治小説『宮本武蔵』第一巻地の巻は※2青空文庫で読める。)
その前の1954(昭和29)年公開の東宝映画(監督:稲垣浩、タイトルは同じく「「宮本武蔵 (1954年の映画)」、主役武蔵:三船敏郎)では、彼女は、吉野太夫を演じていたが、錦之介版お甲と違って、三船版の吉野太夫役は、私の記憶に余り強くは残っていない。
木暮 は、妖艶な「ヴァンプ(vamp)女優」として有名であったが、私なども、相対的には顎のホクロが何とも艶っぽい「大人のムードを漂わせた」女優としての印象を持ている。それは、私が少年時代より好んで多く見た時代劇や活劇映画などの役柄からそう思っているところが多いようだ。

プロフィールや作品歴など(参考の※3.※4、※5等)を調べてみると、木暮実千代(本名:和田 つま)は、1918(大正7)年1月31日山口県下関で生まれ、女学生時代から「令女界」に投稿していた文学少女だったそうだ。
ある機会に、映画会社に写真を送るも採用には至らなかったが3位に入ったことがあるそうで、これがきっかけで上京の意志を固め、当時文壇を賑わしていた劇作家岸田国士(明治大学文芸科創設に関わる)らに傾倒し、明治大学文学部に入ろうとしたが試験に間に合わず、残念ながら日本大学芸術学部に入学したという。
在学中、江ノ島のカーニバルの野外劇で「弁天さん」に扮した芝居に出演したのがきっかけで、1938(昭和13)年、在学中、にスカウトされ松竹に入社したのが木暮の映画人生の始まりだったそうで、このときのスカウトから「ワンカットだけ出演してみないか」といわれて, 看護婦の一人として出演したのが「愛染かつら」(川口松太郎の同名小説の映画化) の後編「続愛染かつら」(1939年)であったという。
前年公開の「愛染かつら」は、医師津村浩三(上原謙)と看護婦?石かつ枝(田中絹代)のメロドラマで、テレビのない戦前、銀幕で天下の紅涙を絞ったヒット作品であった。
このときの試写の席で松竹大船撮影所の幹部の目に留まり、「結婚天気図」(1939年)への出演とスターダムへの階段を登ってゆくことになる。
昭和初期に女性で大学まで入ったのだから、恵まれた家庭に育ったのだろう。木暮が松竹に入社した当時は映画全盛時代で、高峰三枝子桑野通水戸光子らが幹部にいたためにどうしても敵役的な役回りが多くなったようであるが、1年余りで彼女は幹部に昇進。庶民的人気というよりは、大学生などインテリ層にもてはやされていたという。妖艶、あるいはヴァンプ女優と言われた人だが、実際にはどんな役を演じても品があったのは育ちの良さがあったからかもしれない。
戦前の1938(昭和13)年から1943(昭和18)年までには多くの出演作が見られる(※6参照)のに、その後しばらく空白があるのは、マスコミの仕事に従事する夫・和田日出吉の仕事の関係で夫妻とも満州に渡っていたからのようだ。
彼女の満州映画協会(満映)での出演作に李香蘭 (山口 淑子)と共演した「迎春花」(1942年)がある。
後の夫となった和田と運命の恋に落ちたのが、この『迎春花』のロケで旧満州を訪れたときのことだという。二人は義理のいとこ同士で、木暮の従姉(じゅうし。年上の、女のいとこ)のご主人が日出吉で20歳年上だったそうで、日出吉は、木暮と満州で出会ったとき、満州新聞社の社長をしていたそうで、豪邸に住んでいたという(※7参照)。
「迎春花」ほか、満映での出演作に「間諜未だ死せず」(1942年)や「開戦の前夜」(1943年)といったタイトルのものがあり、当時の時代を感じさせる。敗戦後、満州から苦労して帰国し、1946(昭和22)年に、映画界に復帰する。

青い夜霧に 灯影が紅い
どうせおいらは ひとり者
夢の四馬路(スマロ)か 虹口(ホンキュ)の街か
ああ 波の音にも 血が騒ぐ

夜霧のブルース』 。

この曲は、島田磬也(作詞)、 大久保徳二郎(作曲)、 ディック・ミネ(唄)のトリオによる上海ものの1つであり、歌に出てくる四馬路は、現在、上海市黄浦区人民広場の東に外灘まで続く上海の福州路(地図)で当時は租界地区(上海租界)であった。また、虹口区は上海市中心城区北部に位置し、黄浦区に隣接するこの地域は、第二次世界大戦中は日本の租界で、「小東京」と呼ばれていたところだ。
この歌は1947(昭和22)年に公開された水島道太郎主演、映画「地獄の顔」(松竹)の主題歌として制作されたもので、死ぬ思いで満州から引き上げてきた木暮にとっては戦後2作目の映画である(第1作1946年作「許された一夜」で主役を演じている。)。
上海でギャングだった男が、彼を悪の道に引き戻そうとする元の仲間と戦う、といった物語。木暮は、主役である水島演じるギャングのボスの情婦役であるが、悪女ではなく、根はいい女である彼女から、駆け落ちをもちかけられた水島はボスに撃たれてしまう・・・。この映画では、「夜霧のブルース」のほかに、「長崎エレジー」「夜更けの街」「雨のオランダ坂」と計4つの挿入歌が作られたが、いずれもヒットしている。そのうち以下で「夜霧のブルース」と「夜更けの街」が聞ける。「夜更けの街」では、キャバレー・シーンで肩を顕わにしたドレスを身に着けて出ているシーンが見れるよ。この時彼女は29歳、実に美しく妖艶だ。
「夜霧のブルース」 ディック・ミネ-YouTube
夜更けの街ー伊藤久男.mpg

この映画を京都で撮影中、『醉いどれ天使』(1948年)の三船敏郎演ずるやくざの情婦にと黒澤明が木暮にしつこく出演を迫ったという。
薄情な、ヤクザの情婦・奈々江。この役をこなせるのは木暮しかいない、と踏んで世界の黒澤監督が、自宅への日参はもとより京都の撮影所までも追いかけたという。しかし、黒沢は、木暮ならヤクザの情婦役を地でこなせると思っていたことを後に「ぼくがメガネ違いをしたのは初めてですよ」と語っていたそうだが若いヤクザ三船を子供扱いにする演技などは好演だった。
ただ、木暮は、プロ意識の強い俳優と違って、「役作り、演技」などについては余り考えないタイプの女優と聞いているが、黒沢のしっこい要請を逃げ回っていたもののしぶしぶ根負けして応じたところから、本来の彼女の地のよさが出てしまったのが黒沢には気に入らなかったのだろう。
このように戦後も戦前と同じく妖艶な悪女役が多かったが、終戦後の開放された世相の中でそれは生き生きとした精彩を放ち、1949(昭和24)年の<av href=http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8A%E4%BA%95%E6%AD%A3>今井正監督映画『青い山脈』では、
知的で清楚な女教師(原節子)と対照的な役柄、芸者梅太郎(笹井とら)に扮し、中年年増役で脇役ながら、妖艶かつ軽妙な演技で観客に強い印象を与え毎日映画コンクール助演賞を受賞した。
●以下の画像は、青い山脈 (1949)ポスター。中央の芸者姿が木暮美千代である。
「青い山脈」が7月に公開されて2ヶ月後の9月、戦後、初めて名誉ある歴史的な特急列車が登場した。国鉄の特急の運転は、戦局の悪化により1944(昭和19)年以降、中断されていたが、戦後、落ち着きを取り戻し始めた、1949年9月15日改正で、特急が1往復、復活する事になり、命名されたのが「へいわ」である。
東京駅 - 大阪駅間を9時間で結ぶ特急「へいわ」が9月15日に運転を開始するのに先立ち、同月8日に試運転が行われた。最高時速95キロ、平均時速61、9キロは戦後最高記録。


●上掲のの写真は見送りの人々に挨拶をする俳優の徳川無声(右から3人目)と女優の木暮美千代(当時31歳。右端)らである。撮影は9月8日東京駅にて。(同写真は『朝日ロニクル週刊20世紀』 1949年号28pより借用。「へいわ」は復興の役に立ってはいたものの、戦前に運行されていた超特急「つばめ」の名称復活を望む声が多かった為、翌年の元日に改称された。戦後の復興を示す貴重な写真であるので掲載した。
映画では「青い山脈」のあと、1950(昭和25) 年には大仏次郎原作同名小説を大庭秀雄監督が映画化した「帰郷」が佐分利 信との名コンビで、キネマ旬報ベストテン第2位に選ばれ、記念すべき作品となった。
また、獅子文禄の新聞連載小説『自由学校』が翌・1951年に映画化された。この映画は5月5日大映と松竹の同時公開となったが、2作品ともに興行成績がよかったため、今日いわれるところの「ゴールデンウィーク」という用語が生まれた。
「自由学校」とは戦後の自由化された家庭・社会のことを指す。古いモラルや上流社会のありようを風刺したコメディーで「とんでもハップン」などの流行語を生んだ。
吉村公三郎監督の大映作品では、主人公の五百助役を一般から公募、雑誌編集者の小野文春を起用。駒子は小暮美千代が好演した。それに対して、渋谷実監督の松竹版は五百助役に佐分利信、駒子は高峰美枝子を起用している。この頃小暮実千代33歳、最も輝いていたころであり、「成熟しきった女の豊満な肉体」、「終戦後最も目立つ女優の一人」と評されていた。

●上掲の画像が映画化された自由学校のシーン。写真左が吉村公三郎監督の大映作品。主人公の五百助役の小野文春駒子役の小暮美千代、写真右は、渋谷実監督の松竹版は五百助役の佐分利信と駒子役の高峰美枝子である。
この後、小津安二郎監督・脚本による「お茶漬の味 」(1952年松竹)は、地方出身の素朴な夫(佐分利信)とそんな夫にうんざりする上流階級出身の妻妙子(木暮実千代)。
この生まれも育ちも価値観も異なる夫婦が、そのギャップに悩みつつ、夫の海外赴任を契機に互いの絆を確認しあい、和解するまでを描いたもの。最後に「夫婦とはお茶漬の味なのさ」・・・と、妙子を諭す茂吉。この気安い、体裁のない感じに、妙子は初めて夫婦というものの味をかみしめるのだった。
その翌朝妙子一人が茂吉の出発を見送った。茂吉の顔も妙子の顔も、別れの淋しさよりも何かほのぼのとした明るさに輝いているようだった。佐分利と木暮の名コンビによる味わい深い一篇。同年の毎日映画コンクールで佐分利信が男優主演賞を受賞しているが木暮の演技も素晴らしかった。でも小暮の演技なまめかしいですね〜。以下はその名場面。ちょっと何とも言えないお茶漬けの味を味わってみられるとよい。

IL SAPORE DEL RISO AL TE' VERDE regia di Yasujiro Ozu (1952)>お茶漬けの味-

他に、溝口健二監督の「雪婦人絵図」(1950年)でのヒロインの雪を演じたたほか、同監督の作品「祇園囃子」(1953年)では世代も考え方も違う若き舞妓・美代栄(若尾文子)を鍛える海千山千の芸者役を演じ、市川雷蔵が平 忠盛の嫡子・清盛役で主演した「新・平家物語」では、藤原一門と血のつながっている中御門家から、忠盛に嫁いで来た気位の高い母、泰子を好演、忠盛の葬儀で焼香する清盛に向かい「あなたは、白河院の御子に間違いない・・・」と告げる。・・難しい役所である。(1955年)「赤線地帯」(1956年)は売春防止法が成立直前の状況を背景に、特殊飲食店「夢の里」で働く、様々な境遇の女たちを描いた傑作で、タイトル通り赤線の女を演じるなど幅広い役をこなしている。
●以下の画象は映画のポスター。

そのほか、新東宝映画「離婚」(1952年)では、美貌と貞淑で名高い良家の夫人が、吹雪の山小屋で夫以外の男性と一夜を過ごしたことから、窮地に立たされる…。名匠・マキノ雅弘によるメロドラマ。木暮実千代が苦悩に悶える有閑夫人をしっとりと演じており、古典の名作「源氏物語」を文豪・谷崎潤一郎監修、新藤兼人脚本により映画化した同名映画「源氏物語」(1951年角川映画)は大映創立十周年記念の文芸大作で、吉村公三郎監督がメガホンをとり花と匂う王朝時代を背景に、主役の源氏を長谷川一夫が演ずるほか華俳優陣が絢爛と織りなす大恋愛絵巻。この中で木暮実千代は藤壺に扮し脂の乗った演技で魅せる。以下でその1シーンが見れる。

幻映画館(47)「源氏物語」

また、有吉佐和子の同名小説を映画化した「三婆」(1974年)は、戦後の混乱の中、いがみ合いながらもそれぞれに変化していく3人(三益愛子田中絹代、木暮実千代)の「婆」と周囲の人たちが巻き起こす騒動を描いた喜劇は、テレビドラマ化・舞台化も繰り返された人気作品であった。
芸者を演ずるものが多いが、そのほか母物なども演じている。しかし、男性の私の場合そのような映画はあまり見ていないので、語ることはできないが、彼女は、黒澤明、溝口健二、小津安二郎、成瀬巳喜男、今井正、木下恵介(「海の花火」「男の意気」「間諜 未だ死せず」など)、吉村公三郎、渋谷実(「4人目の淑女」「花の素顔」「消えた死体」など)、内田吐夢、田坂具隆(「五番町夕霧楼」「湖の琴」など)などの日本映画全盛期の巨匠たちに愛された女優であり、山田洋次監督の男はつらいよシリーズの23作目「男はつらいよ 翔んでる寅次郎」(1979年)にも、寅さんのマドンナ入江ひとみの母役で出演していたが、この時もう彼女は61歳にもなっていたのだ。彼女の生涯にわたっての映画への出演は350本以上というが、後年はテレビドラマや舞台でも活躍していた。
また、彼女はCMに出た女優第一号であり、ジュジュ化粧品は1950(昭和25)年9月「マダムジュジュ」を発売。商品のコンセプトは、エイジングケアという概念を先取りした、「25才からのお肌にうるおいを与える奥さまのためのクリーム」であった。ジュジュ化粧品のCMでは、木暮実千代を専属モデルに起用。「25才以下の方は、お使いになってはいけません!!」という大胆なキャッチフレーズが話題を呼んだ(※8参照)。
また、1950年代の日本は、戦後の経済復興が軌道にのり、生活を豊かにしようとする余裕が生まれつつあった。そして、テレビの本放送が始まるなど、便利さや快適さへの憧れが一気に高まり、目を向けられたのが「家事労働の軽減」であった。
一般には洗濯機の時代こんな簡便な洗濯機があった。電気洗濯機は戦前からあったが5万円〜6万円もした。
●以下の画像は、朝日クロニク週刊20世紀1852年号より借用)、

三洋電機が「家電事業」に参入したのは、1953年8月に発売した噴流式電気洗濯機「SW-53」からである。
値段は28,500円と、それまでの丸型攪拌式洗濯機の半値近くであった。しかも汚れ落ちが良くて省電力、角型でムダな設置スペースを取らないなどメリットが多く、この1号機発売と同時に誕生したのが、木暮美智子をモデルとした「サンヨー夫人」であり、新聞にサンヨー夫人が「みなさまにおすすめします」という形で登場。宣伝キャンペーンは大成功で、爆発的な売上を記録したそうだ。
三洋電機宣伝課では新製品の洗濯機でイメージ・タレントの選択会議がおこなわれたとき、洗濯機は主婦が使うものであることから、その主婦代表として3人のスター・小桜葉子(俳優上原謙夫人)、高杉早苗(歌舞伎役者市川段四郎夫人)、木暮実千代(和田日出吉夫人) の中からサンヨー夫人と命名して宣伝に使うことに決まったが、その頃すでに、木暮は「25才以下の方は、お使いになってはいけません」という斬新なキャッチコピーで知られた「マダムジュジュ」化粧品クリームのイメージが強く出来上がっていたことが、亀山太一宣伝次長にサンヨー夫人のイメージは木暮しかいないと決断させた理由だという(※9参照)。
木暮の人柄と共に当時の家電広告は機械説明中心のものがほとんどの中、三洋電機は自ら「軟派広告」と称して女性にやわらかく話しかけるような広告としたのが成功した理由のようだ。そして、発売の翌年7月には月産1万台を突破し、一躍トップシェアに躍り出、これによって「洗濯機のサンヨー」という名が全国に広まったという。以下参考の※10には、その当時のCM写真が掲載されている。
ところで、木暮が三洋電機のイメージ・タレントの洗濯会議で3名のスターのなかから選ばれたが、他の2名の夫君は有名な俳優上原謙や歌舞伎役者市川段四郎であるのに対して、木暮の夫君は和田日出吉…と言われても、どこの何をした人と思われた人が多いかもしれないが、他の2名以上にスケールの大きな人物であったあったようだ。
どんな人物かは、以下参考の※4:「黒川鍾信著「木暮実千代 知られざるその素顔」はお勧め五重丸」を詠まれるとよい。20歳も年上のこれだけスケールの大きな人物と結婚できるのだから、木暮もそれだけスケールの大きな女性だったと言えるだろう。
木暮は、ボランティア活動にも熱心な人だったとは聞いていたが、以下参考の※5:「女優ボランティアの草分け木暮実千代さん」によると、木暮のボランティアに関するエピソードを以下のように紹介いている。
“木暮さんは終戦直後、有楽町のガード下で靴磨きをしていた戦災孤児伊藤幸雄さんら二人に「寒いでしょう。さあ、これでなにか温かいものでもおたべなさい」といって当時のお金では大枚の百円札を2枚渡し「くつはみがかなくていいのよ。体に気をつけてね」といって励ましたエピソードがある。その少年は後にアメリカに留学して大学を卒業し、一人は高校の教師、一人は医師として開業している。
群馬県にあるあの菊田一夫作によるラジオドラマの舞台になった「鐘の鳴る丘少年の家」の設立にも出資するほか、保護司として戦後の窮乏生活を送る人たちにも手をさしのべていた。このほか中国留学生を自宅に寄宿させるなど人の見えないところで奉仕活動をしていた。こうした一連のボランティア活動はどこから来たものなのか。恵まれた環境に育ち、 映画界でも下積みのないのにかかわらずこのヒューマニズムは、生来の性格があいまってのことであろう。かつて高峰三枝子さんの息子が覚醒剤容疑で検挙されたときも、彼女は保護司として息子を立ち直らせている。”・・・・と。
木暮にとって、高峰三枝子は、かっての映画界における「良きライバル」でもあった。そのようなライバルにも優しく手を差し伸べられる・・て素晴らしい人だ。

●上掲の画象は、女優の木暮美千代さんが中国残留孤児たちを東京・田園調布の自宅に招き、心づくしの日本料理でもてなした時の写真である。招待されたのは、肉親との対面を果たせずにいる男性2人と女性3人。木暮さん自身旧満州で、当時生後6か月だった長男と生き別れになりかかった経験があるのだという。写真は1981年3月12日のもの。画像は『朝日クロニクル週刊20世紀』1981年10pより借用。・・・。
混乱を極めた敗戦直後の旧満州で家族と離れ離れになり中国人に育てられた日本人孤児の第1次訪日者47人が厚生省の招きで1981(昭和56)年3月2日成田着の中国民航機で36年ぶりに祖国の土を踏んだ。一行は3月16日滞在日程のすべてを終え離日した。この結果肉親や親族に再開できた人は26名、夢破れた孤児は21人だった。
上掲の写真を見ていると、木暮さん本当に品の良い優しそうな顔をしていますね。
まだボランテイアという言葉も活動も一般化していないときから、地味なヒュ−マンな活動を女優業という多忙な仕事をしながら、死去するまで続けていたことを知り、改めて感動し、是非このブログで取り上げたくなった次第である。

●冒頭の画像は、黒川鍾信著NHK出版『 木暮実千代 知られざるその素顔』
参考:
※1:すだち72号 - 「知的感動ライブラリー」(45) 徳島大学附属図書館
http://www.lib.tokushima-u.ac.jp/m-mag/mini/072/72-1.html
※2:青空文庫:作家別作品リスト:No.1562吉川 英治
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person1562.html#sakuhin_list_1
※3:木暮実千代 出演の映画を見ながらその半生を追う]
http://scn-net.easymyweb.jp/member/sundaikai/
※4:黒川鍾信著「木暮実千代 知られざるその素顔」はお勧め五重丸
http://blog.goo.ne.jp/takasin718/e/55a9b842ffe241207e589fe68d32bf93
※5:女優ボランティアの草分け 木 暮 実 千 代 さ ん
http://www.meidai-fujisawa.com/zuihitu4.html
※6:木暮実千代 (コグレミチヨ,Michiyo Kogure,木暮實千代) | Movie Walker
http://movie.walkerplus.com/person/84246/
※7:木暮実千代ブログ版 by藤沢摩彌子満映との合作映画『迎春花』(2009年08月29日)
http://blogs.dion.ne.jp/fujisawam/archives/8704958.html 
※8:マダムジュジュの歴史|企業情報|ジュジュ化粧品株式会社
http://www.juju.co.jp/catalog/juju/history/
※9 サンヨー夫人: ケペル先生のブログ
http://shisly.cocolog-nifty.com/blog/2009/04/post-47f4.html
※10:SANYO 洗濯機事業 --50年の歩み-- - Panasonic
http://panasonic.co.jp/sanyo/corporate/history/sw50th/history/index.html
木暮実千代 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%A8%E6%9A%AE%E5%AE%9F%E5%8D%83%E4%BB%A3

夏の最中日北上の極:夏至

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今日は、二十四節気の第10。夏至(げし)。芒種から数えて15日目頃、および小暑までの期間。
「夏の最中日北上の極」。『暦便覧』(※1)には「陽熱至極しまた、日の長きのいたりなるを以て也」と記されている。
五月中(旧暦5月内)二至二分(皐月:さつき。二至二分については、二十四節気を参照)。
現在広まっている定気法では太陽視黄経が90度のときで6月21日ごろ。
ではそれが起こる日だが、天文学ではその瞬間とし、2013(平成25)年 の今年の場合は、今日・6月21日14:04がそれにあたる(※2)。また、日のほうは夏至日(げしび)と呼ぶ。
北半球の日本などでは、天文学的な夏至とは別に「一年中で一番昼が長く、夜が短い日」のことを、慣習的に夏至と呼ぶが、これは、太陽が最も北に寄り、北回帰線(夏至線)の真上にまで来るために起こる現象である(南半球では夏・冬逆)。
英語などヨーロッパの言語の多くでは、北回帰線のことを「かに座の回帰線」(Tropic of Cancer)と呼ばれる。これは、現行の星座の多くが設定された古代バビロニアの時代、かに座の領域に夏至点があったためである。因みに、南回帰線(南緯23度26分)のことは「やぎ座の回帰線」[Tropic of Capricorn] と呼ぶ。)
要するに、両緯度数は地軸の傾きを意味する。ただし地軸の傾きは常に変化し続けているので時々で回帰線の位置も微妙に変わる。両回帰線より赤道側が熱帯地方となる。
1年で日の出(日出)の時刻が最も早い日および日の入り(日没)の時刻が最も遅い日それぞれと、夏至の日は一致しない。日本では、日の出が最も早い日は夏至の1週間前ごろであり、日の入りが最も遅い日は夏至の1週間後ごろである。
夏至は、期間としての意味もあり、この日から、次の節気の小暑前日までである。暑さのピーク大暑は1カ月ほど先になる。
冬至と比較すると、昼間の時間差は4時間以上もある。ただ、暦の上では夏季の真ん中にあたるが、実際には梅雨の真っ只中なので、日照時間はむしろ冬よりも短いことが多く、日の長さはあまり実感されないことが多いのだが、今年に関しては気象庁が平年より10日も早い5月28日ごろに梅雨明け宣言(近畿地方。※3参照)。
そして、「今年の梅雨は「長め」で、降雨量は多め」としていたのだが、肝心の雨は梅雨入り以降全く降らず、まるで真夏日のカンカン照り、せっかくの台風3号が前線も連れてきて本格的に梅雨になるかもと期待したのだがそれも期待はずれ。
また、6月15日やっと雨らしい雨が降ったが、その翌日には真夏日同様の天候に戻ってしまい、梅雨入り宣言は全くのはずれ。やっと6月19日には待望の雨が降ったが、地域によっては豪雨となり被害の出ているところもある。
近年の異常気象・・・人間がまいた種によるものだろうが困ったものだ。兎に角、例年とは全然違った感じの夏至となった。

「さみだれに なえひきうふる たごよりも ひとをこひぢに われぞぬれみる」( 読人不知)。
【現代語訳】五月雨に濡れて泥にまみれながら苗を植える農夫の苦労なことであるが、それよりもなお私は、泥(こひぢ)ならぬ恋路(こひぢ)にさまよって、五月雨ならぬ涙にぬれていることだ。
【語訳】五月雨:陰暦五月(新暦:5月下旬から7月上旬)ごろに降る長雨。梅雨。 なへひきふる:稲の苗を苗代から引き抜いて水田に植える。 たご:田子。農夫のこと。こひぢ:泥のこと。ここでは「恋路」を掛けてある。「こひぢ」「ぬれ」は「たご」の縁語。
【所載】『夫木抄』(『夫木和歌抄』)巻七:夏一 02579(参考の☆和歌についてを参照)

田植えの時期は各地でまちまちだろうが、少なくとも夏至の間は、今でも稲作作業の繁忙期であることには違いない(※4).。

「白衣著て禰宜(ねぎ)にもなるや夏至の杣(そま) 」( 飯田蛇笏 、いいだだこつ)

禰宜」とは、神社に奉職する神職の職階(職名・職称)の一つである。宮司・権宮司の下の位ぐらいらしい。
禰宜の語源は「和ませる」の意味の古語「ねぐ」であり、神の心を和ませてその加護を願うという意味だそうである。古代には、神に祈請(きせい)を行う者、祭祀に専従する者を指していた。
」(そま)とは、古代・中世の日本では国家・権門が所有した山林のこと。転じて杣から伐り出された杉や桧など木のこと。また、杣において働いている人のこと。杣工(そまたくみ/そまく).。俗にいえばきこり(樵、木樵)のことをいうようになった。
飯田蛇笏(本名、飯田武治、1885【明治18】年- 1962【昭和37】年10月3日)は、山梨県東八代郡五成村(のち境川村、現:笛吹市)の大地主で旧家出身の俳人であり、山梨の山間で創作した作品が大半である. 参考※5:「俳句案内」の飯田蛇笏の句を参照)。
いままで木を伐っていた木こりが、 真白な衣服をまとって神主の代役を務め、雨を願っている様子が滑稽でもあり悲壮でもある。ここへきてやっと雨が降ったとはいえ、今年は、農家の人も水不足で困っていたことだろう。
梅雨期は大雨による災害の発生しやすい時期であり。また、梅雨明け後の盛夏期に必要な農業用の水等を蓄える重要な時期でもある。一方、梅雨期は曇りや雨の日が多くなって、日々の生活等にも様々な影響を与えることから、社会的にも関心の高い事柄である」・・・として、気象庁では、毎年「梅雨入り」「梅雨明け」の発表しているのだが、今の科学技術をもってしても、梅雨入り、梅雨明けを正確に予知するのは難しいことのようだ。「後日、春から夏にかけての実際の天候経過を考慮した検討を行い、その結果、この情報で発表した期日が変更となる場合があります。(確定値は「昭和26年(1951年)以降の梅雨入りと梅雨明け(確定値)」を参照してください)と、予報発表時に正しい時期は後に修正して発表しますと、予防線を張っているのだから、・・・。
一応、暦の上では、夏至とは、この日を過ぎると本格的な夏が始まることを意味している。
冬至には、かぼちゃを食べる風習があるが、夏至は地方によって様々で、関西では夏至から半夏(半夏生の略)までにタコを食べる習慣があることは前にこのブログ「半夏生/蛸の日」でも書いたことがある。
このころは農家にとっては大事な節目の日でもあり、半夏生に入る時期は、田植えに最も適した時期だといわれ、「チュウ(夏至)ははずせ、ハンゲ(半夏生)は待つな」ということわざがある程で、田植えは夏至が済み、半夏生に入る前にやることが好ましいとされていた。
ちょうどこの時期は梅雨も終り、田植仕事も一段落、農家にとって一息いれたい時期であるが、この日雨が降ると、必ず大雨になるとも言い伝えられ、この季節に降る豪雨のことを半夏雨(はんげあめ)と呼び恐れられていた。
半夏生の前に無事田植えを終えた農家では、この日の天候で稲作の豊凶を占ったり、田の神を祭ったりする。関西地方では、田に植えた稲の苗が蛸の足のように大地にしっかりと豊作になるようにとの願いから、たこを食べる習慣があって、甘露煮、柔らか煮、酢だこ、天ぷらなどが作られる。
讃岐では饂飩(うどん)を、福井県では大野市などで焼き鯖(半夏生鯖)を食べる習慣があるようだ。また、奈良では小麦餅(半夏生餅)、 関東地方では新小麦で焼餅をつくり神に供える風習があるなど、地域によってさまざまである。
沖縄では、この頃に吹く季節風を「夏至南風」といい,梅雨明けを知らせる風として知られているが、今年、沖縄気象台は、6月14日午前11時、「沖縄地方は梅雨明けしたとみられる」と発表した。これは平年より9日、去年と比べても9日早くなっているそうだ(※6参照)。
余談だが、福島原子力発電所事故の影響もあり、今年の夏も電力不足が心配される。わが地元、兵庫県では、今年は、今日・6月21日(金曜日)[夏至]から9月30日(月曜日)の間、始業時刻を45分早め、昼休みを30分後ろにシフトするサマータイムを実施することになった。
そのほか、職員の省エネ行動をはじめとした節電対策により、兵庫県として、平成22年度比で15%以上の節電目標の達成を目指している(※7参照)。我が家も、すでに、6月に入ってからは、就寝時間並びに起床時間をそれぞれ30分繰り上げている。

記紀によれば、天照大神は、太陽を神格化した神であり皇室の祖神(皇祖神)の一柱で、日本民族の総氏神でもあるとされており、その信仰の対象、土地の祭神とされる場所としては伊勢神宮が特に有名である。
三重県伊勢市二見浦には、夏至の時期だけ夫婦岩の間から朝日が昇る。これは夏至の日の前後2ヶ月しか見られない特別な光景だそうであり、この海中には興玉神石(沖の石)があり、昔からその沖の石は、常世の国から神が寄りつく聖なるところといわれてきた。
二見町江にある二見興玉神社 は夫婦岩より720m程沖合にあって、夫婦岩は日の大神(天照大神)と興玉神石を拝むための岩門(鳥居)の役目を果たしており35mの大注連縄が張られている。
そして、二見興玉神社の夏至祭では、夏至の日の出とともに夫婦岩の前で禊が行われている。古来より二見浦一帯は禊浜と尊ばれ、伊勢参宮を間近に控えた人々がその浜辺で汐水を浴び、心身を清め、罪穢れを祓うべく、禊祓をした場所であった。
また人々は夫婦岩から差し昇る「日の大神」を拝してきた。特に夏至の日の出は夫婦岩の中央、そして富士の背より輝き昇る朝日は絶景である。夫婦岩の間から見える富士山の遠望風景は、倭姫命があまりの美しさに二度も振り返って見たと言う事で付いた地名が「二見」だと言われている。以下で、夏至際の様子、また、夫婦岩の間からの素晴らしい富士山の遠望が見られる。

二見興玉神社 夏至祭wmv-YouTube
夫婦岩と富士山(二見興玉神社).wmv-YouTube

日照時間の短い北欧などは、昼間の最も長い夏至は、とても大切な日であり、フィンランドをはじめ、さまざまな国で夏至祭が催されている。スウェーデンでは、夏至に最も近い土曜日とその前日の2日間が祝日(移動祝祭日)となり、国中で祝うそうだ(ヨーロッパの夏至祭参照)。
ヨーロッパの夏至祭は、町や村の広場に横たえられた柱に、樹木の葉や花の飾りがつけられ、若者たちが中心になって柱を立てる。この祭は、ドイツやイギリスで行われる五月祭(ヨーロッパの五月祭参照)の柱(メイポール)と類似しているが、北欧では5月初旬には花が乏しいため、夏至の時期に祭を行うようになったという。
ヨーロッパの五月祭は、古代ローマの祭に由来するものであり、5月1日に、豊穣の女神マイア(Maia)を祭り供物が捧げられた。ローマ神話では、マイア(豊穣を司る大地の女神、アトラスの娘で火の神ウルカヌス(ヴァルカン(【Vulcnus】)の妻)は若さ・生命・再生・愛・繁殖などをつかさどる女神で、元々はローマ帝国以前の古代イタリアの春の女神(植物を成長させ開花させる暖かさをもたらす)だったようで、夏の豊穣を予祝する祭りと考えられている。
5月1日には供物が捧げられ、May(5月)はマイア(Maia。古インド・ヨーロッパ語のMagya【偉大なる彼女】)に因んで名づけられたものという。
マイアと火の神ウルカヌス(Vulcan) - 画像

わが国での導入は古くから試みられたが、「夏至」という言葉が入って来たのは、中世になって中国から二十四節気が入ってきてからであり、その後、各地で太陽の生命力を得るために夏至の日を祝うお祭りが開催されるようになった。
国家の体制を整えるために、中国から暦法祭祀を入れて律令を作ったが、制度に暦法が組み入れられたのは持統天皇(645年 - 703年)の御世であり、以来宮中の正式な祭祀になっているが、そのため、わが国の節句を含む年中行事に中国の影響が強く残っているのは当然であろう。
大麻暦(神宮暦)というのは伊勢神宮が発行している暦だが、これを見ると神宮の祭祀スケジュールのほかに、農作業の時期と段取りが細かく指示されているようだ。
暦は季節の運行を告げるものだから、農耕社会にあっては必然的に農業暦の役目を果たしていたわけで、稲作の社会に、神道と中国の祭祀を携(たずさ)えて立っていた大和朝廷の性格を垣間見ることができる。
日本では現在使われているような暦がまだなかったころ、稲作の作業の進行を基準にして、一年を、田の神を迎えて種まきをする春と、米を収穫して田の神送りを行う秋との、大きく二つの期間に分けて考えていた。
そのため、六カ月を周期として、正月と七月、二月と八月、三月と九月、四月と十月、五月と十一月、六月と十二月に、同じような行事を、それぞれ年に二度繰り返して行っていた。なかでも六月は、前の半年の折り目として重視する風潮があり、持別の意味をもった月と見られていた。

この時期はハナショウブ(花菖蒲)やアジサイ(紫陽花)など雨の似合う花が咲く季節でもある。
夏至を含む旧暦5月を皐月(さつき)と呼ぶが、「さつき」は、この月が田植をする月であることから「早苗月(さなへつき)」と言っていたのが短くなったものだそうである。また、「サ」という言葉自体に田植の意味があるので、「さつき」だけで「田植の月」になるとする説もあるようだ。
「さつきは五月の和名なり日本書紀、〈神武紀〉萬葉集〈夏雜歌〉等にみえたり」と、古今要覽稿 時令(※9:「古事類苑データーベース」の歳時部一>歳時總載上>月第 1 巻 19 頁参照)にあるが、皐月と書くようになったのは後のこと。また花の名「皐月」にもなっているが、この月には「菖蒲月(あやめづき)」の別名もある。
農家にとって、昔から田植えは1年中で最も大切な仕事である。その為、田の神を迎えるに際して、女は巫女となり、軒に菖蒲を挿し、菖蒲湯を湧かして身を清め、お籠もりをしたのが5月5日だったのである。

「ほととぎす こゑきゝしより あやめぐさ かざすさ月と しりにしものを」( 作者:紀 貫之
【現代語訳】時鳥の声を聞いた時から、菖蒲草をかざす五月になったと知っていたのだが・・・。
【語釈】あやめぐさかざすさ月:五月五日の節句には菖蒲鬘を付ける風習があった。
延喜式・太政官関係の式に「是ノ日内外ノ群臣皆菖蒲ヲ著ス」とある。「ほととぎす」と「あやめ草」は「卯の花(ウツギ)」「花橘(タチバナの花)」とともに万葉集以来の常套的な取り合わせであった。
【所載】新勅撰集・夏・一五三、/貫之集一・二二八(参考:☆和歌について参照).

「あやめぐさ ねながきいのち つげばこそ けふとしなれば 人のひくらめ(詠み人不明)
【現代語訳】あやめ草は根が長く、長い命を持ち続けるからこそ、五月五日という今日になると、人が抜き取るのであろう。
『語釈】ねながきいのち:根の「長き」ことに「長き命」を懸けている。つげばこそ:引き続き保持しているからこそ。けふとしなれば:今日と言うこの日になれば。「し」は強意助詞。人のひくらめ :人があやめの根を引くのであろう。「引く」は、この場合引いて抜き取ること。【所載】あやめぐさ 貫之集一・一三一.(参考:☆和歌について参照)
ここで「あやめぐさ」と言っているものは、現在のサトイモ科のショウブ(和名:菖蒲/別名[漢名]:白菖[ハクショウ])のことで、今のアヤメ科のアヤメハナショウブとは異なる。湿地に群生し、初夏に黄色い小さな花をつける。
万葉の時代から、端午の節供には、邪気を払うためにこの草やヨモギ(蓬)の葉などを編んで、薬玉(くすだま)をこしらえ、これに5色の糸をつらぬき、またこれに、ショウブやヨモギなどの花をさしそえて飾りともした。
このことは前にこのブログ「薬の日」でも書いたが、『荊楚歳時記』に見られるように、古代中国では、五月は物忌みの月とされていたので、邪気を払ういろいろな行事が行われていた(「薬の日」を参照)。
実際に、旧暦の五月は新暦では6月から7月に当たり、蒸し暑くて虫などに刺されて病気になり易かった。そこで高い薬効と強い香りを持つヨモギが魔除けや虫除けに使われ端午行事に欠かせないものとなった。

「みな月の なごしのはらへ するひとは ちとせのいのち のぶといふなり」(詠み人不明)
【現代語訳】六月の夏越の祓をする人は、千歳までも寿命が延びるということです。
【所載】拾遺集・賀・二九二, (参考:☆和歌について参照).

特に重視された旧暦の六月であるが、古来、宮中では、年末と6月の末日に大祓(おおはらえ)が行われていた。年末は年越しの祓、6月は夏越の祓・名越の祓(なごしのはらい)、などと呼ばれ、災厄や穢(けがれ)を祓い清めた。夏越の祓では多くの神社で「の輪潜り(ちのわくぐり)」が行われる。
また、古く宮中では六月一日には「氷の朔日(こおりのついたち)」ともいって夏の始まりであるこの日に氷室に貯蔵しておいた氷を取ってきて、臣下に分け与えて、夏の疫病除けとしていた。これを「氷室の節供」「氷の節会(せちえ)」ともいわれたようだ。
民間でも、この日を〈氷の朔日〉といい、正月に家の軒先に吊るして凍らせ乾燥させて保存しておいた餅を焼いて食べる習慣が、かっては関西を中心に多くみられたようだ。
そして、これを「歯固め」と呼んで、堅い餅を食べることによって歯を丈夫にするのを願う風習もある。「歯固め」は、正月初めに堅いものを食べて歯を丈夫にし、長寿を願うことで、歯固めのは元来〈齢(よわい)〉のことで、齢を固めて新たに生まれ変わるところにこの風習の意味があったという(※10)。
伝統を大切にする京都では今でも、夏越祓に「水無月」という和菓子を食べる習慣があるが、水無月は白のういろう生地に小豆を乗せ、三角形に包丁された菓子であり、水無月の上部にある小豆は悪霊ばらいの意味があり、三角の形は暑気を払う氷を表していると云われている。
古く、中国の『荆楚歳時記』には、年頭に膠牙餳(こうがとう)という堅いあめを食べる風習が記されている(※11参照)。この風が伝わり、歯固めの具としてさまざまなものが用いられた。
その中の一つが正月の堅い餅や固いお菓子、食べる風習であるが、これは地方によって少しずつ形の異なる様々な行事へと変化し、関東地方では、収穫したての新小麦で焼き餅を作って神に供える風習があるらしいがこれも元をただせば同じことから始まったものであろう。
今日6月 21日の記念日に、「スナックの日」がある。スナック菓子のメーカーが夏至を記念して提唱したことが始まりだそうだが、かつては、夏至のお祝いに、ちまきによく似た「カクショ(角黍)」やお正月のおもちを固くして食べる「歯固」の習慣があったことに由来しているという(※12)。
ちまき」は、もち米やうるち米、米粉などで作った餅、もしくはもち米を、三角形(または円錐形)に作り、ササなどの葉で巻き、イグサなどで縛った食べ物であるが、その語源について、承平年間(931年 - 938年)に編纂された『倭名類聚鈔』には「和名知萬木(ちまき)」という名で項目があり、もち米を植物の葉で包み、これを灰汁((アク)で煮込むという製法が記載されているそうだ。
日本ではもともとササ、蘆(あし)ではなく(チガヤ)の葉で巻いて作られたため『ちまき』と呼ばれていたようだが、『伊勢物語』(五十二段)には、「人のもとより飾り粽 おこせたりける返事に、菖蒲(しょうぶ)刈り 君は沼にぞまどひける 我は野に出でてかるぞ わびしき」とあり、昔は菖蒲の葉も用いたようである(Wikipedia)。
もう1つ、この日の記念日に「冷蔵庫の日」がある。これから暑い夏がやってくる前に冷蔵庫の点検をしてもらおうという趣旨で、日本電機工業会が制定したもの(※13)だが、これも夏越の祓「氷室の節供」などを由緒とするものである。
兎に角、遅ればせながら雨が降り梅雨がやってきたようだが、この時期気を付けないと体調を崩しやすいが特に食べ物には気を付けないと(※14)。
それと、意外に思うかもしれないが、6月、7月は年間を通して紫外線の量が最も多くなる月だという。例えば6月においては、冬の12月と比較した場合、紫外線の量は6倍程だそうで、6月の雨の日であっても、12月の晴天の日と同量〜2倍弱の紫外線の量が、また6月の曇りの日では、12月の晴れの日の実に3倍〜5倍弱の紫外線が降り注いでいることになるらしいから特に女性の方などは気になるところだね(※15)。

「五月雨や大河の前に家二軒」(与謝蕪村 「蕪村句集」※16参照)
【句意】五月雨が降り続いて水かさを増した大河が濁流渦巻いて流れていく。その岸辺に小さな家がぽつりと二軒、今にも押し流されそうに建っているよ、といった意味。
夏の季語:「五月雨(さみだれ)」は、陰暦五月、梅雨期に降り続く雨のことで、梅雨は時候を表し、五月雨はこの時期の雨を表すという。「さつきあめ」または「さみだるる」とも詠まれるが、「さ」は「早苗(さなえ)、五月(さつき)を、「みだれ」は水垂(みだれ)の意という。
農作物の生育には大事な雨も、長雨が続くと交通を遮断させたり水害を起こすこともある。かっての梅雨は毎日毎日、しとしとと振り続く鬱陶しい雨であった。そんな雨でもいつまでも降り続けると大きな災害をもたらした。
しかし、近年の梅雨時の雨の傾向はこれまでとは変わったような気がする。地球温暖化などの影響もあるのだろう、余り雨の降る日は続かないが、降るるときは局地的にどっと大雨が降り、各地に大きな被害をもたらしている。
今年もそのようである。台風4号が梅雨前線を刺激して各地での豪雨被害が報じられている。今までの暦や過去データーなどに基づく気象予報も当てにならなくなった。これからの時代は今まで異常気象といっていたものが普通になるかもしれない。クワバラクワバラ(桑原桑原)。

(冒頭の画像は、浮世絵「東京名所四十八景 二十二 堀切はなしよふふ五月雨」、昇斉一景画、明治4年=1871年。参考※17 :「かつしかデジタルミュージアム」より借用。
東京都葛飾区堀切二丁目にある堀切菖蒲園は花菖蒲の名所として知られており、江戸時代の有様をしのびながら、数多くの江戸菖蒲(200種6000株もあるらしい)を鑑賞できるのが特色のひとつだという。)
参考:
☆和歌について
・和歌掲載集については→日文研データベース :和歌 作品集成立年順索引を参照。
・和歌の解説については→ここを参照。
※1:吉田光由の古暦便覧について
http://www5.ocn.ne.jp/~jyorin/kirisitankoreki.pdf#search='%E6%9A%A6%E4%BE%BF%E8%A6%A7%E3%81%A8%E3%81%AF'
※2:国立天文台 > 暦計算室 > 暦象年表 > 二十四節気・雑節
http://eco.mtk.nao.ac.jp/cgi-bin/koyomi/cande/phenom_sekki.cgi
※3:気象庁 | 平成25年の梅雨入りと梅雨明け(速報値)
http://www.data.jma.go.jp/fcd/yoho/baiu/sokuhou_baiu.html
※4:お米〜5 米のできるまで - 農林水産省
http://www.toukei.maff.go.jp/dijest/kome/kome05/kome05.html#トップ
※5:俳句案内
http://www5c.biglobe.ne.jp/~n32e131/haiku.html
※6沖縄地方が梅雨明け平年より9日早く NHKニュース - NHKオンライン
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20130614/t10015296141000.html
※7:兵庫県/兵庫県サマータイムの実施
http://web.pref.hyogo.lg.jp/kk28/summertime.html
※8:旧暦調べカレンダー
http://www5a.biglobe.ne.jp/%257eaccent/kazeno/calendar/1960s.htm
※9:古事類苑データーベース
http://base1.nijl.ac.jp/~kojiruien/index.html
※10:よもやま話 / 安楽寺だより
http://anraku-ji.jp/yomoyama/598/
※11:古事類苑>歳時部十二>年始祝四>齒固
http://base1.nijl.ac.jp/~kojiruien/saijibu/frame/f000816.html
※12e-お菓子ねっと
http://www.eokashi.net/
※13電気冷蔵庫 - 社団法人・日本電機工業会(JEMA)
http://www.jema-net.or.jp/Japanese/ha/reizouko/
※14:健康管理について
http://www.majima-clinic.jp/health/health66.html
※15:紫外線の量【雨天や曇りの日】 :紫外線の雑学
http://ray.sunsetbearch.net/cat0001/1000000004.html
※16:蕪村句集 (俳詩掲載)
http://www4.ocn.ne.jp/~sas18091/haiku4.html
※17 :かつしかデジタルミュージアム
http://www.museum.city.katsushika.lg.jp/kdm/index.php?app=shiryo&mode=list&code_a=02&code_b=01&code_c=01&p=

日本で初めて先進国首脳会議(東京サミット)が開催された日参考

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参考:
※1:外務省HPG7 / G8
http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/g7g8.html
※2:主要国首脳会議(サミット)関連文書 - 東京大学東洋文化研究所
http://www.ioc.u-tokyo.ac.jp/~worldjpn/documents/indices/summit/
※3(元※6):論説委員・石川水穂 領土保全を怠ってきた政府 (1/3ページ)”. MSN産経ニュース (産経新聞). (2012年4月28日)
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/120428/plc12042803250004-n1.htm
※4:特記すべき記者会見 | 日本記者クラブ
http://www.jnpc.or.jp/activities/interview/specialreport/
※5:為替相場はそのとき動いた|金融知識ガイド-iFinance
http://www.ifinance.ne.jp/learn/currency/crt_8.html
※6:株価下落はアベノミクスの限界を示しているのか?今度は安倍首相が「異次元の成長戦略」で汗をかく番
http://diamond.jp/articles/-/36869
※7:焦点:バーナンキショック受けた金融市場、さらなる乱気流に身構え ...
http://www.newsweekjapan.jp/headlines/business/2013/06/103645.php
※8:インフレターゲット論への疑問
http://www.hirobanet.com/washizu/shiron/infure.htm
※9:〜東京電力、不祥事と隠蔽の歴史〜 『日本初の臨界事故は、福島第一原発3号機だった!』
http://blog.goo.ne.jp/jpnx02/e/1340ec8c47237a9b6720187e95507fde
※10:「やつらが隠してきたもの」河野太郎公式サイト
http://www.taro.org/2011/09/post-1091.php
※11:福島第1原発事故=戦後最大の危機の真実。「最悪のシナリオ」から危機の全体像に迫った
http://diamond.jp/articles/-/33087
※12:1978年10月 第ニ次石油危機 : 資源ライブラリ
http://www.jogmec.go.jp/library/stockpiling_oil_023.html
※13:知らないのは日本人だけ? 世界の原発保有国の語られざる本音
http://www.asyura2.com/11/genpatu10/msg/740.html
※14:「諸外国における原子力政策の変遷」(豊田委員提出 ... - 資源エネルギー庁(Adobe PDF)
http://www.enecho.meti.go.jp/info/committee/kihonmondai/23th/23-9.pdf#search='%E8%AB%B8%E5%A4%96%E5%9B%BD%E3%81%AB%E3%81%8A%E3%81%91%E3%82%8B%E5%8E%9F%E5%AD%90%E5%8A%9B%E6%94%BF%E7%AD%96%E3%81%AE%E5%A4%89%E9%81%B7'
※15:天然ガスの時代:「次世代エネルギーは終わった」とアメリカは言う - Wired
http://wired.jp/2013/01/04/in_gas_we_will_trust/
※16:電力供給サービス:日本海でもメタンハイドレートの調査開始、海底の浅い 部分にある「表層型」
http://www.itmedia.co.jp/smartjapan/articles/1306/11/news017.html
TMI原発事故
http://www005.upp.so-net.ne.jp/yoshida_n/L5_02.htm
※17:チェルノブイリ・スリーマイル・福島の比較 - NAVER まとめ
http://matome.naver.jp/odai/2130103357558355101
※18:消防防災博物館:調べる-6. リスクの許容とコミュニケーション
http://www.bousaihaku.com/cgi-bin/hp/index2.cgi?ac1=B414&ac2=B41401&ac3=2226&Page=hpd2_view
※19:中国と日本
http://taweb.aichi-u.ac.jp/leesemi/ronsyu3/kyogaku.htm
福島第一原発事故と 4 つの事故調査委員会 - 国立国会図書館デジタル ...(Adobe PDF)
http://dl.ndl.go.jp/view/download/digidepo_3526040_po_0756.pdf?contentNo=1
海外移住の地図帳>原発の世界分布
http://emigration-atlas.net/nuclear-power-plants/nuclear-plants.html
リスク感覚論
http://www.geocities.co.jp/Technopolis-Mars/8449/risk_sense_1.htm#
http://www.ne.jp/asahi/nd4m-asi/jiwen/thoughts/2012/501.html


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