今日は俳人・日野草城(ひのそうじょう)の1956(昭和31)年の忌日である。
春の灯や女は持たぬのどぼとけ(句集『花氷』1927年)
昭和初期に、新興俳句運動の驍将(ぎょうしょう)として官能俳句・フィクション俳句・無季俳句などを率先して取り入れたモダンな作風で現代俳句への道を切り開いたとされる俳人日野草城 (ひのそうじょう)。
正直なところ、私も詳しくは知らないのだが、それまでの既成の侘び的俳句概念から脱却して、上記の句に見られるような、エロティシズムをテーマーにした官能的な俳句を連作し、昭和俳句の先駆的役割を果たした俳人だということは知っている。
以下参考のWikipedia他、ネットで検索したもの等によれば、日野草城、本名:克修(よしのぶ)は、1901(明治34)年7月18日東京生れで、幼いころは、朝鮮に移住し、京城(現在のソウル特別市)の小学校、中学校で学ぶが、その後帰国し、旧制第三高等学校(三高)第一部乙類(英文科)を経て、1921(大正12)年、京都帝国大学(京大)法学部に入学。1924(大正13)年同大学卒業後、大阪海上火災保険株式会社(現:三井住友海上火災保険前身会社のひとつ。最も歴史が古い)に入社。
入社後も俳句を続け、サラリーマン俳人として以下のような「重役会風景」(句集『昨日の花』1935年)と題する連作を作ったりもしているようだ(※1参照)。
パッカード来て日盛の玄関に
壮年の巨躯の社長の白チョッキ
扇風機厳秘の文書飛ばんとす
支配人猪首の汗を且拭う
うすものの老監査役うとうとと
夏痩の瞳の大なる女秘書
三伏や決議書に判べたべたと
最初の句に出てくるパッカードは第二次世界大戦以前、世界中に知られた米国製の高級車である。そんな高級車が夏の午後の太陽が盛んに照りつける暑い盛りに会社の玄関に来て会社の役員が乗り込んでいるのであろうか。最後の句の三伏も夏の最も暑い時期、夏の季語であり、これらの歌は、無季俳句ではなく一応有季定型俳句である。「重役会風景」をテーマーに句を作るという発想自体は当時珍しかったことたろう。
句集『昨日の花』は、草城のそれまでの俳句路線を自らが「昨日」の「花」であったとする自覚の分岐点となった句集ということのようだ。
なんといっても草城の句で有名なのは、上記で紹介したようなエロティシズムをテーマとした句であろう。
日野草城は中学時代より俳句雑誌『ホトトギス』に投句。
旧制第三高等学校(三高)中、京大三高俳句会を結成。同句会には山口誓子などが参加した。また1920 (大正9 )年、鈴鹿野風呂(すずかのぶろ。※2参照)らと『京鹿子』を創刊。
1922(大正11)年には「京大三高俳句会」を解散し「京鹿子俳句会」を創立し、学外に公開。この間『ホトトギス』で正岡子規の弟子である高濱虚子に学び、1921(大正10)年二十歳の時には『ホトトギス』の巻頭を飾り注目を集めたという。
藤の根に猫蛇(べうだ)相搏(う)つ妖々と (高濱虚子。大正9年作※3より)
上掲の句には、「五月十日、京大三高俳句会。京都円山公園、あけぼの楼」の留め書きがあり、1919(大正8)年のホトトギス「百年史」の年譜で、「草城・野風呂、京都で「神陵俳句会」発足(大正9年京大三高俳句会となる)」とあり、この日野草城・鈴鹿野風呂らの「京大三高俳句会」での作ということらしい。
春愁にたへぬ夜はする化粧かな (草城・大正9年「ホトトギス」)
上掲の句は、草城の二十歳にも満たない学生時代の作だそうで、この句が作られた大正9年について、ホトトギス「百年史」には、「新傾向俳句の理論的な支柱でもあった大須賀乙字が四十歳の若さで夭逝した。また、碧梧桐が携わっていた『海紅』(※4)も碧梧桐の手を離れ、自由律俳句の中塚一碧楼に代わる。虚子も体調を崩し、一時、ホトトギスの「雑詠」選も蛇笏に代わるが揺るぎもしない。そして、それらを背景として、日野草城らは「京鹿子」を創刊し、華々しくデビューしていくことになる。」・・・と記されている。・・という。
そして、上掲の虚子大正9年の句の「猫」・「蛇」とは、その『京鹿子』を創刊した、草城と野風呂の両者のようにも思えてくる。これらの草城や野風呂を俳壇にデビューさせた虚子の眼力は並大抵のものではない。・・・と※3のブログ作成者が補記している。
虚子の期待通り、草城は、大学卒業直前には『ホトトギス』の課題句選者も勤め、1929(昭和4)年29歳の時には同誌同人ともなっている。
また『破魔弓』(はまゆみ)が1928(昭和3)年7月号から『馬酔木』(あしび)となった際には水原秋桜子らとともに同人のひとりであった(※5)。
1933(昭和8)年には水原秋桜子、山口誓子、鈴鹿野風呂、五十嵐播水らとともに新興俳句誌「京大俳句」創刊顧問ともなっている。
この間1924(大正13)年京大法学部卒業後、1927(昭和2)年には第1句集『花氷(はなごおり)』(※6)を出版。
その句風は従来の〈わび〉的俳句概念を払拭した清新瀟洒(しょうしゃ。すっきりとあか抜けしているさま)なモダニズムで、昭和俳句の先駆的役割を果たしたといわれている。
ところが、彼に対する俳壇の評価は、秋桜子や山口誓子にくらべ格段に低く、時代が下るほど、その傾向が強くなっていたようである。
『花氷』には以下のような句がある。
春の灯や女は持たぬのどぼとけ
春暁や人こそ知らね樹々の雨
春の夜や檸檬(レモン)に触るゝ鼻の先
物種を握れば生命(いのち)ひしめける
ところてん煙の如く沈み居(を)り
最初の句の初出は大正11年7月号の『ホトトギス』雑詠で、の形で発表されたものらしい。その時には、同時に〈人妻となりて暮春の欅(けやき)かな〉があったそうだ(※7参照)。
先の句は、いまでは句集『花氷』の形で知られている。以下参考の※8:「きごさい」ネット歳時記によると、季語「春の灯(春燈)」は、春の華やかさとともに艶めいた感じがあるとされているようだ。その灯のなかにある女性の美しさ。武骨な「のどぼとけ」のない「のど」一点の滑らかさ、まろやかさをすっと言い止めて、読者に姿全身の美しさを想像させている。
草城は1931 (昭和6)年に甲川政江(後の晏子)と結婚しているが、大正10年頃には、佐藤愛子という女性と相思相愛になり婚約までしていたそうだが、翌年、愛子の病気を理由に婚約は解消されたそうだ。
上掲の句はそれより以前の作のようだが、草城と女の接触はなかったようだと言う。それは、草城が極端に潔癖症であったことから、女性の美に憧れ、女性からも好かれる性格の持ち主だが、反面異性との接触は慎重だったようで、花柳病や伝染病には異常なほどの反応を示していたという。しかし女性との関係を直接句にしないで、想像の世界を織り込込むことを得意としたようだ(※7参照)。
春暁やくもりて白き寝起肌
春の夜や足のぞかせて横坐り
しみ/″\と汗にぬれたるほくろかな
菖蒲湯や黒髪濡れて湯気の中
黒髪の蛇ともならで夜長かな
秋風や子無き乳房に緊《かた》く着る
白々と女沈める柚子湯かな
のぼせたる頬美しや置炬燵
酔へる眼も年増盛りや玉子酒
探してみると『花氷』の中には、以外にも、上記のように女が柚子湯に浸かったり、お風呂上がりに炬燵に入って玉子酒を飲んだりしているかのような臨場感あふれる光景の詠まれているものがあり、何か他所の人の家の女を覗き見しているようなエロスを感じさせる。
ただ、「これら(『花氷』)の句は、全体的にはいずれも日常、目にし得る素材、あるいは対象である。それが、草城によって限りなく美的世界へと変身を遂げているのである。繊細な感受性をも含めて、草城が、いかに詩的な資質に恵まれていたか、ということである。」・・・と、『日野草城 俳句を変えた男』(角川学芸出版 2005年)を書いている復本一郎氏は、草城の処女句集『花氷』の作品群を、晩年の草城の作品群よりも高く評価している(※3:「ブログ俳諧鑑賞」の草城 参照)。
又、これら『花氷』の句が、「どれもソツのないつくりで、つまり技術的な難は見あたらず、うまいと思う。特に比喩や取合せはさえていて、旧弊な俳句がもつ重くれがない。つまり軽いのである。この小器用さからくる軽さを山本健吉などが非難したあたりから、今日にいたる草城観がかたちづくられることになった。
草城が全俳壇的に注目される存在になったのは、1934(昭和9)年、創刊されてまだ2号目の『俳句研究』(改造社)に、「ミヤコ ホテル」と題する連作を発表。これが毀誉褒貶(きよ-ほうへん)の的になったからだったともいわれている(※9参照 )。
「ミヤコホテル」10句
けふよりの妻(め)と来て泊(は)つる宵の春
夜半の春なほ処女(おとめ)なる妻と居りぬ
枕辺の春の灯(ともし)は妻が消しぬ
をみなとはかかるものかも春の闇
薔薇(バラ)匂ふはじめての夜のしらみつつ
妻の額(ぬか)に春の曙はやかりき
うららかな朝の焼麺麭(トースト)はづかしく
湯あがりの素顔したしく春の昼
永き日や相触れし手は触れしまま
失ひしものを憶(おも)へり花ぐもり
これらの句は、吉井勇の(※10参照)などから想を得て、新婚初夜をモチーフに連作10句にまとめたもので、草城自身は新婚旅行はしておらず、京都東山に実在するミヤコホテル(現ウェスティン都ホテル京都の前身)を舞台にしているもののあくまでフィクションであり、新婚初夜を過ごす男女のフィクションが物語的な構成で作られているのであった。つまり〈うしなひしものをおもへり花ぐもり〉などドラマ仕掛けになっている。というのも草城が俳句の魅力を知り本格的に句を始める切っ掛けになったのは、与謝蕪村の〈お手討ちの夫婦なりしが更衣〉の句に接し突然眼が覚めたような驚きを持ったからだったという(※9参照)。
当時としては画期的な内容であったが、フィクションの句やエロティシズムの句への理解が乏しかった当時は俳壇の内外に騒動を起こした。
俳壇では西東三鬼などは一定の評価をしたものの中村草田男や久保田万太郎が非難、また文壇でも中野重治が批判を行っている。しかし文壇にいた室生犀星は「俳句は老人文学ではない」(『俳句研究』1935年2月号)という文章を発表し「ミヤコホテル」が俳句の新しい局面を開いたとして積極的に評価している。
この犀星の賛辞をきっかけにして中村草田男が『新潮』誌上で「ミヤコホテル」を批判する文章を発表、これに草城自身が反駁し、『新潮』『俳句研究』で「ミヤコホテル論争」と言われる論戦に発展した(※11、※12参照)。
そして、1936(昭和11)年、客観写生、花鳥諷詠を題目とする虚子の逆鱗に触れ『ホトトギス』同人を除名されるまで発展したとされている。
草城の俳句はあまりにセンセーショナルであったため、賛成も得たが、多くの反感も買った。
当時の評論などを見渡すと、草城のやることなすこと、ことごとく批判されているように見える。中にはヒステリックな、人格さえも批判するような容赦ないものまで見受けられる。
しかし、よく見ると、これらの論争は表面的にはモチーフをめぐるものであったが、根には作品自体のもつ軽さへの不満であり、いくらセンセーショナルにセックスを扱ったといっても、フィクションであり、掘り下げはきわめて浅く、内容は常識の域を出ていないではないかといったようなことである。それをなぜそんなに批判しなくてはならないのか。言い換えれば、それだけ影響力のあった人物だったからなのであろう。
したがって、草城の「ミヤコ・ホテル」の連作と『ホトトギス』同人除名とは直接的には関係ないとされているが、やはり遠因にはなっているようだ。
ここで少し、俳句の歴史を遡ってみよう。
近世に発展した文芸である俳諧連歌(俳諧)は松尾芭蕉、与謝蕪村によって、現代言われるところの近代俳句が確立された。
蕪村に影響された俳人は多いが特に明治時代に正岡子規は近世以来の月並俳諧を排して「ホトトギス」による一大変革を行った。俳諧の近代化である。
子規が俳句に持ち込んだのは写生という考え方で、要は西洋的な写実主義(リアリズム)で俳句も作ろうということであった。子規のもとに集まった人々は「日本派」と呼ばれ、俳壇の主流となった。
子規の考え方は俳句の世界に新風を吹き込み、多くの人々が俳句に親しむようになったが、その反面、その後後十数年で権威主義化形骸化陳腐化し、よみぶりも単調となり、本来俳句が持っていた遊戯性・技巧性は失われてしまっていた。その停滞しつつあった近代俳句という表現ジャンルが、突如戦国時代を迎えた。
子規の死後、日本派は高浜虚子と河東碧梧桐の二派に分かれた。虚子一派は「ホトトギス」を主宰し、ホトトギスの理念となる「客観写生」を提唱、伝統的な季題や定型を守る立場をとったが、一方の碧梧桐の門には、大須賀乙字、荻原井泉水、中塚一碧楼らがあった。
乙字は写実を象徴に深めよと説き、「新傾向俳句」の呼び名を生んだ。碧梧桐は、無中心論を唱え、主観的な心理描写を重んじた。この傾向をさらに進めた井泉水は、季語無用論を唱え、さらに非定型の自由律俳句を主張した。
放浪の俳人尾崎放哉や、種田山頭火、プロレタリア文学理論を句作に導入し、弾圧されながらプロレタリア俳句をすすめた栗林一石路は、井泉水の門下であった。彼らは新傾向派と呼ばれ、機関誌『層雲』を創刊したが(1911年)、その後あわただしく離合集散を繰り返している。
虚子の俳風は、このような碧梧桐の勢力に圧倒され気味で、虚子自身も『ホトトギス』も一時は俳句を退き、写生文や小説に力を注いだ。
1915(大正4)年には虚子は『ホトトギス』 で 俊英作家の作品をとりあげた「進むべき俳句の道」の連載を開始。後進の指導にも力を注ぎ、「ホトトギス派の4S」といわれる高野素十・水原秋桜子・山口誓子・阿波野青畝らを育てている。
しかし、ホトトギス派の保守的な作風に対して、同派の水原秋桜子は、主観的叙情を重んじる立場から、新たに「馬酔木」を創刊した(1928年)。同じく山口誓子も新時代感覚による主知的構成を唱えてこれに同調した。
こういう新興俳句運動に呼応して、吉岡禅寺洞の無季俳句や、日野草城のモダニズム俳句などの俳句革新の動きが起こったのであった。
草城は「ミヤコ・ホテル」の連作を発表(1934[昭和9]年、当時34歳)した翌1935(昭和10)年に、東京の「走馬燈」、大阪の「青嶺」、神戸の「ひよどり」の三誌を統合し主宰誌『旗艦』を創刊して、リベラリズム(自由主義)の新興俳句に取組むこととなる。これは反ホトトギスの表明であり虚子への挑戦でもあった。
その翌1936(昭和11)年、『ホトトギス』10月号の同人変更の告知が掲載された中で、草城は、吉岡禅寺洞、杉田久女とともに同誌同人を削除されたことを知る。予期していたとしてもこの記事を見たときにはやはりショックは隠せなかったことだろう。
草城の「ホトトギス」同人除名の理由は直接的には、このリベラリズムの無季俳句などを容認している「旗艦」の創刊などであり、草城の「ミヤコ・ホテル」の連作と「ホトトギス」同人除名には直接関係はないとされているものの、やはり遠因にはなっていると思われる。
保守的な虚子は、草城のエロティシズム俳句が「花鳥諷詠」俳句の概念を一変してしまう危険性を察知し、それを恐れたのであろう。
草城は「ホトトギス」除名後、無季俳句を積極的に唱導、自らもエロティシズムや無季の句をつくり新興俳句の主導的役割を担う。そこには、その後の4S(水原秋櫻子・山口誓子・阿波野青畝・高野素十)の台頭などによる「ホトトギス」内での冷遇などへの反発があったかもしれない。
草城が「ホトトギス」の同人を削除された翌1937(昭和12)年の蘆溝橋事件に端を発した日中戦争(支那事変)が勃発したころから、国家権力による言論・思想の統制が、日増しに激しくなり、リベラル(自由主義)を標榜する者への国家権力による不当な弾圧がはじまったが、俳句にたいする弾圧は、主として反伝統派の総称たる「新興俳句」派の弾圧であったが、そのトップを切ったのが「京大俳句会」事件で、西東三鬼らが逮捕されている(※13参照)。
「無季俳句も亦俳句である」として、無季、自由律を目指した多くの新興俳句系の俳誌が弾圧される中で、『旗艦』が弾圧された様子がない(新興俳句弾圧事件参照)のは、当時の国家権力にとって、それが弾圧するに値しなかったからか。言い換えれば、草城の仕事の性質は、何も合法非合法すれすれの線などといふ無理をした仕事はしていなかったということだろう。そういう点では、作品自体に軽さがあったとはいえるのだろう。それでも、草城なども新興俳句系の俳人としてマークはされ、不自由はしていただろうことは察せられる。
草城は戦後の1946(昭和21)年、45歳の時には肺結核を発症。以後の10数年は病床にあり、病と闘いながらこれまでの新興俳句とは別種の静謐(せいひつ。)な句をつくった。
草城晩年の1953(昭和28)年、青玄俳句会から出版の第七句集『人生の午後』(※14参照)の冒頭には妻への献辞が書かれている。以下がそれである。
晏子さん
もしもあなたが私を支へてゐてくれなかつたなら
私のいのちは今日まで保たれなかつたでせう
この貧しい著書をあなたに贈ります
これが今の私に出来る精一杯の御礼なのです
一九五三年七月 草 城
なんと素直な感謝の辞であろうか。40代後半にして、その句集に「人生の午後」(※15「ユング心理学の世界」参照)としている心境はいかなるものであったか。句を見ればわかる。病の身を支えてくれるのはただただ妻のみ。そんな切実な叫びがこの献辞となっているのだ。
続いて、以下のようことも書かれている。
昭和二十三年から二十七年に至る五年間の作品三一五句を収めました。
鈴鹿野風呂さんに序を、五十嵐播水さんに跋を、書いていただきました。昔の「京鹿子の三人」が二十数年ぶりに顔を合したわけです。
自分の句集を編むといふことはとても辛い仕事です。見れば見る程自分のみずぼらしさが現れてきます。この上多くの人々の厳しい眼で吟味されることを思ふと、げつそり痩るやうな気がします。
昭和二十八年初夏
これを見ると、「ミヤコ・ホテル」の連作以来、多くの人から批判されたことを、どれだけ、気に病んでいたかが分かる。そして以下のようにも書かれている。
昭和二十四年(一九四九)
二月に風邪を引き、高熱と激しい咳嗽が続いた。相当応へ、以後ずつと臥たきりとなつた。四月二五日休職期間満了、大阪住友海上火災保険株式会社を退いた。大正十三年四月二十六年入社したのであるから、きつちり二十五年在社したことになる。四分の一世紀、短い歳月とはいへない。一本に貫いた私の会社員生活も茲に終り、天下無職となつた。四月二十八日、一年間の間借生活を打切り現住所池田市中之島町十九番地の日光草舎へ移つた。一二回家の周辺を散策したことがあるのみで、爾来門外へ出たことがない。九月大阪星雲社より第六句集「旦暮」上梓。十月門田竜政、門田誠一、田中嘉秋三氏の手により「青玄」が創刊された。この年しばしば発熱し病状不安定であつた。・・・と。
「日光草舎」とは西から日光が存分に射し込むことから命名された新しい小さな家の書斎のことらしい。昭和21年から胸を病み、同24年風邪を引き、高熱を出してから臥たきりとなり、休職期間(※16参照)が満了したことから4月に大阪住友海上火災保険を退職し、池田市に居を移したころにはほとんど病床をはなれることができない位悪くなっていたようだ。
このような中、同年『青玄』が池田の地で創刊された。
句集『人生の午後』には、以下のような句が掲載されている。
冬薔薇の咲くほかはなく咲きにけり
あたりのものが次第に枯れ色を強めていく中で、凛と咲いている冬薔薇。寒さに凍えるような時でも、薔薇は薔薇として、咲かなければならない。それが与えられた生をまっとうできる、唯一のことであるかのように。冬薔薇に投影された草城の志が句に貫かれている。
生き得たる四十九年や胡瓜咲く
胡瓜(きゅうり)咲くは夏の季語。胡瓜の花は観賞するような立派な花じゃない。節ごとに雌花をつけるが黄色くて、たいていは炎天下でしおたれている。そんな地味な花に目をとめて、生きている喜びを分かち合えたのは、草城が病弱だったからだ。
ちちろ虫女体の記憶よみがへる
ちちろ虫とはこおろぎで秋の季語。 病に伏しても「女体」への 関心は衰えていなかった。妻との新婚旅行で「ミヤコ・ホテル」に泊まった時のことでも思い出したのだろうか。
切干やいのちの限り妻の恩
切干(きりぼし)が冬の季語.。草城は晩年、病床にあって、夫人の看病の中で秀句をたくさん作った。いまは全く病床仰臥の身となった草城は、何につけて妻の世話なくしてはやってゆけない。これからも命の限りその妻の恩を受けるだろうし、命の限りその妻の恩は忘れられないという。 冒頭の妻への献辞にもあるように、まさに「いのちのかぎり妻の恩」に感謝していると、妻政江が仏に見えるほどの感謝の日々であったのであろう。そんな愛妻を残して何時逝くかもわからない悲壮感がみなぎっている。
この句集を作った2年後の1955(昭和30)年、彼を破門した高浜虚子はふたたぴ草城を『ホトトギス』の同人に迎え、日光草舎に彼を見舞ったという。
虚子のその心情はわからないが、やはりこの師弟は、反発しながらも、尊敬と愛情で長年深く結ばれていたのだろう。
残念なことに彼に残された時間はすでにいくばくもなく、ホトトギスへの搭載も出来ないままに、翌1956(昭和31)年の元旦、と詠んだ草城は、1月29 日に息を引き取ったという(※17)。草城の墓は慶伝寺(大阪市天王寺区餌差町)にあるそうだ。
若き日エロスを詠った草城もこのころには、平明で深く、透明で切実な境地を切り開き、それまでの新興俳句とは別種の静謐(せいひつ。静かで落ち着いていること)な句を綴っている。一度句集(※0014)に目を通されるとよい。
(冒頭の画像は草城句集 花氷 覆刻本出版社: (株)沖積舎)
参考:
※1:パッカード|ショウちゃんのブログ 俳句のある風景
http://ameblo.jp/cornerstone1289/entry-11451257918.html
※2:鈴鹿野風呂 | 四時随順
http://minorugh.tumblr.com/post/42417527761
※3:ブログ俳諧鑑賞:虚子の実像と虚像
http://yahantei.blogspot.jp/search/label/%E8%99%9A%E5%AD%90%E3%81%AE%E5%AE%9F%E5%83%8F%E3%81%A8%E8%99%9A%E5%83%8F
※4:自由律俳句結社「海紅」
http://kaikoh-web.sakura.ne.jp/WordPress/
※5:秋尾敏「水原秋桜子と『馬酔木』」、『俳壇』平成12年11月号掲載
http://www.asahi-net.or.jp/~cf9b-ako/kindai/asibi.htm
※6:草城句集(花氷)
http://ww41.tiki.ne.jp/~haruyasumi/works/hanagoori.txt
※7:透水の俳句ワールド
http://blog.goo.ne.jp/new-haiku-jin/c/9459a2c538d4a4e0bb8a5132d95949c1
※8:「きごさい」ネット歳時記
http://kigosai.sub.jp/kigoken3.html
※9:日国.NET:モダニスト草城 - 俳人目安帖
http://www.nikkoku.net/ezine/haijn/meyasu_09/index.html
※10:Page 1 一、はじめに 吉井勇が「スバル」に「京都より」と題した短歌二十一
http://archives.bukkyo-u.ac.jp/rp-contents/SK/2008/SK20081R037.pdf#search='%E5%90%9B%E3%81%A8%E3%82%86%E3%81%8F%E6%B2%B3%E5%8E%9F%E3%81%A5%E3%81%9F%E3%81%B2%E3%81%9E%E3%81%8A%E3%82%82%E3%81%97%E3%82%8D%E3%81%8D%E9%83%BD%E3%81%BB%E3%81%A6%E3%82%8B%E3%81%AE%E7%81%AF%E3%81%A8%E3%82%82%E3%81%97%E9%A0%83%E3%82%92'
※11:俳句論争史
http://www5e.biglobe.ne.jp/~haijiten/haiku2-1.htm
※12:論争―ミヤコ・ホテル - 齋藤百鬼の俳句閑日
http://blog.goo.ne.jp/kojirou0814/e/97a6b0c8a5b6821faf66ee3a2f585c3d
※13:戦時中の俳句・短歌運動 - 法政大学大原社会問題研究所
http://oohara.mt.tama.hosei.ac.jp/rn/senji2/rnsenji2-220.html
※14:『人生の午後』日野草城
http://www.nnn.co.jp/dainichi/rensai/naniwa/naniwa070310.html
※15:ユング心理学の世界-「人生の正午」という考え方http://www.j-phyco.com/category1/entry71.html
※0016:休職期間」とは - 東京ウィング社労士事務所
http://sr-yamada.jp/column/article/8
※17:なにわ人物伝 −光彩を放つ−
http://www.nnn.co.jp/dainichi/rensai/naniwa/naniwa070310.html
お得区案内図
http://www5c.biglobe.ne.jp/~n32e131/
日野草城の俳句
http://www5c.biglobe.ne.jp/~n32e131/haiku/soujou.html
日野草城 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E9%87%8E%E8%8D%89%E5%9F%8E
春の灯や女は持たぬのどぼとけ(句集『花氷』1927年)
昭和初期に、新興俳句運動の驍将(ぎょうしょう)として官能俳句・フィクション俳句・無季俳句などを率先して取り入れたモダンな作風で現代俳句への道を切り開いたとされる俳人日野草城 (ひのそうじょう)。
正直なところ、私も詳しくは知らないのだが、それまでの既成の侘び的俳句概念から脱却して、上記の句に見られるような、エロティシズムをテーマーにした官能的な俳句を連作し、昭和俳句の先駆的役割を果たした俳人だということは知っている。
以下参考のWikipedia他、ネットで検索したもの等によれば、日野草城、本名:克修(よしのぶ)は、1901(明治34)年7月18日東京生れで、幼いころは、朝鮮に移住し、京城(現在のソウル特別市)の小学校、中学校で学ぶが、その後帰国し、旧制第三高等学校(三高)第一部乙類(英文科)を経て、1921(大正12)年、京都帝国大学(京大)法学部に入学。1924(大正13)年同大学卒業後、大阪海上火災保険株式会社(現:三井住友海上火災保険前身会社のひとつ。最も歴史が古い)に入社。
入社後も俳句を続け、サラリーマン俳人として以下のような「重役会風景」(句集『昨日の花』1935年)と題する連作を作ったりもしているようだ(※1参照)。
パッカード来て日盛の玄関に
壮年の巨躯の社長の白チョッキ
扇風機厳秘の文書飛ばんとす
支配人猪首の汗を且拭う
うすものの老監査役うとうとと
夏痩の瞳の大なる女秘書
三伏や決議書に判べたべたと
最初の句に出てくるパッカードは第二次世界大戦以前、世界中に知られた米国製の高級車である。そんな高級車が夏の午後の太陽が盛んに照りつける暑い盛りに会社の玄関に来て会社の役員が乗り込んでいるのであろうか。最後の句の三伏も夏の最も暑い時期、夏の季語であり、これらの歌は、無季俳句ではなく一応有季定型俳句である。「重役会風景」をテーマーに句を作るという発想自体は当時珍しかったことたろう。
句集『昨日の花』は、草城のそれまでの俳句路線を自らが「昨日」の「花」であったとする自覚の分岐点となった句集ということのようだ。
なんといっても草城の句で有名なのは、上記で紹介したようなエロティシズムをテーマとした句であろう。
日野草城は中学時代より俳句雑誌『ホトトギス』に投句。
旧制第三高等学校(三高)中、京大三高俳句会を結成。同句会には山口誓子などが参加した。また1920 (大正9 )年、鈴鹿野風呂(すずかのぶろ。※2参照)らと『京鹿子』を創刊。
1922(大正11)年には「京大三高俳句会」を解散し「京鹿子俳句会」を創立し、学外に公開。この間『ホトトギス』で正岡子規の弟子である高濱虚子に学び、1921(大正10)年二十歳の時には『ホトトギス』の巻頭を飾り注目を集めたという。
藤の根に猫蛇(べうだ)相搏(う)つ妖々と (高濱虚子。大正9年作※3より)
上掲の句には、「五月十日、京大三高俳句会。京都円山公園、あけぼの楼」の留め書きがあり、1919(大正8)年のホトトギス「百年史」の年譜で、「草城・野風呂、京都で「神陵俳句会」発足(大正9年京大三高俳句会となる)」とあり、この日野草城・鈴鹿野風呂らの「京大三高俳句会」での作ということらしい。
春愁にたへぬ夜はする化粧かな (草城・大正9年「ホトトギス」)
上掲の句は、草城の二十歳にも満たない学生時代の作だそうで、この句が作られた大正9年について、ホトトギス「百年史」には、「新傾向俳句の理論的な支柱でもあった大須賀乙字が四十歳の若さで夭逝した。また、碧梧桐が携わっていた『海紅』(※4)も碧梧桐の手を離れ、自由律俳句の中塚一碧楼に代わる。虚子も体調を崩し、一時、ホトトギスの「雑詠」選も蛇笏に代わるが揺るぎもしない。そして、それらを背景として、日野草城らは「京鹿子」を創刊し、華々しくデビューしていくことになる。」・・・と記されている。・・という。
そして、上掲の虚子大正9年の句の「猫」・「蛇」とは、その『京鹿子』を創刊した、草城と野風呂の両者のようにも思えてくる。これらの草城や野風呂を俳壇にデビューさせた虚子の眼力は並大抵のものではない。・・・と※3のブログ作成者が補記している。
虚子の期待通り、草城は、大学卒業直前には『ホトトギス』の課題句選者も勤め、1929(昭和4)年29歳の時には同誌同人ともなっている。
また『破魔弓』(はまゆみ)が1928(昭和3)年7月号から『馬酔木』(あしび)となった際には水原秋桜子らとともに同人のひとりであった(※5)。
1933(昭和8)年には水原秋桜子、山口誓子、鈴鹿野風呂、五十嵐播水らとともに新興俳句誌「京大俳句」創刊顧問ともなっている。
この間1924(大正13)年京大法学部卒業後、1927(昭和2)年には第1句集『花氷(はなごおり)』(※6)を出版。
その句風は従来の〈わび〉的俳句概念を払拭した清新瀟洒(しょうしゃ。すっきりとあか抜けしているさま)なモダニズムで、昭和俳句の先駆的役割を果たしたといわれている。
ところが、彼に対する俳壇の評価は、秋桜子や山口誓子にくらべ格段に低く、時代が下るほど、その傾向が強くなっていたようである。
『花氷』には以下のような句がある。
春の灯や女は持たぬのどぼとけ
春暁や人こそ知らね樹々の雨
春の夜や檸檬(レモン)に触るゝ鼻の先
物種を握れば生命(いのち)ひしめける
ところてん煙の如く沈み居(を)り
最初の句の初出は大正11年7月号の『ホトトギス』雑詠で、の形で発表されたものらしい。その時には、同時に〈人妻となりて暮春の欅(けやき)かな〉があったそうだ(※7参照)。
先の句は、いまでは句集『花氷』の形で知られている。以下参考の※8:「きごさい」ネット歳時記によると、季語「春の灯(春燈)」は、春の華やかさとともに艶めいた感じがあるとされているようだ。その灯のなかにある女性の美しさ。武骨な「のどぼとけ」のない「のど」一点の滑らかさ、まろやかさをすっと言い止めて、読者に姿全身の美しさを想像させている。
草城は1931 (昭和6)年に甲川政江(後の晏子)と結婚しているが、大正10年頃には、佐藤愛子という女性と相思相愛になり婚約までしていたそうだが、翌年、愛子の病気を理由に婚約は解消されたそうだ。
上掲の句はそれより以前の作のようだが、草城と女の接触はなかったようだと言う。それは、草城が極端に潔癖症であったことから、女性の美に憧れ、女性からも好かれる性格の持ち主だが、反面異性との接触は慎重だったようで、花柳病や伝染病には異常なほどの反応を示していたという。しかし女性との関係を直接句にしないで、想像の世界を織り込込むことを得意としたようだ(※7参照)。
春暁やくもりて白き寝起肌
春の夜や足のぞかせて横坐り
しみ/″\と汗にぬれたるほくろかな
菖蒲湯や黒髪濡れて湯気の中
黒髪の蛇ともならで夜長かな
秋風や子無き乳房に緊《かた》く着る
白々と女沈める柚子湯かな
のぼせたる頬美しや置炬燵
酔へる眼も年増盛りや玉子酒
探してみると『花氷』の中には、以外にも、上記のように女が柚子湯に浸かったり、お風呂上がりに炬燵に入って玉子酒を飲んだりしているかのような臨場感あふれる光景の詠まれているものがあり、何か他所の人の家の女を覗き見しているようなエロスを感じさせる。
ただ、「これら(『花氷』)の句は、全体的にはいずれも日常、目にし得る素材、あるいは対象である。それが、草城によって限りなく美的世界へと変身を遂げているのである。繊細な感受性をも含めて、草城が、いかに詩的な資質に恵まれていたか、ということである。」・・・と、『日野草城 俳句を変えた男』(角川学芸出版 2005年)を書いている復本一郎氏は、草城の処女句集『花氷』の作品群を、晩年の草城の作品群よりも高く評価している(※3:「ブログ俳諧鑑賞」の草城 参照)。
又、これら『花氷』の句が、「どれもソツのないつくりで、つまり技術的な難は見あたらず、うまいと思う。特に比喩や取合せはさえていて、旧弊な俳句がもつ重くれがない。つまり軽いのである。この小器用さからくる軽さを山本健吉などが非難したあたりから、今日にいたる草城観がかたちづくられることになった。
草城が全俳壇的に注目される存在になったのは、1934(昭和9)年、創刊されてまだ2号目の『俳句研究』(改造社)に、「ミヤコ ホテル」と題する連作を発表。これが毀誉褒貶(きよ-ほうへん)の的になったからだったともいわれている(※9参照 )。
「ミヤコホテル」10句
けふよりの妻(め)と来て泊(は)つる宵の春
夜半の春なほ処女(おとめ)なる妻と居りぬ
枕辺の春の灯(ともし)は妻が消しぬ
をみなとはかかるものかも春の闇
薔薇(バラ)匂ふはじめての夜のしらみつつ
妻の額(ぬか)に春の曙はやかりき
うららかな朝の焼麺麭(トースト)はづかしく
湯あがりの素顔したしく春の昼
永き日や相触れし手は触れしまま
失ひしものを憶(おも)へり花ぐもり
これらの句は、吉井勇の(※10参照)などから想を得て、新婚初夜をモチーフに連作10句にまとめたもので、草城自身は新婚旅行はしておらず、京都東山に実在するミヤコホテル(現ウェスティン都ホテル京都の前身)を舞台にしているもののあくまでフィクションであり、新婚初夜を過ごす男女のフィクションが物語的な構成で作られているのであった。つまり〈うしなひしものをおもへり花ぐもり〉などドラマ仕掛けになっている。というのも草城が俳句の魅力を知り本格的に句を始める切っ掛けになったのは、与謝蕪村の〈お手討ちの夫婦なりしが更衣〉の句に接し突然眼が覚めたような驚きを持ったからだったという(※9参照)。
当時としては画期的な内容であったが、フィクションの句やエロティシズムの句への理解が乏しかった当時は俳壇の内外に騒動を起こした。
俳壇では西東三鬼などは一定の評価をしたものの中村草田男や久保田万太郎が非難、また文壇でも中野重治が批判を行っている。しかし文壇にいた室生犀星は「俳句は老人文学ではない」(『俳句研究』1935年2月号)という文章を発表し「ミヤコホテル」が俳句の新しい局面を開いたとして積極的に評価している。
この犀星の賛辞をきっかけにして中村草田男が『新潮』誌上で「ミヤコホテル」を批判する文章を発表、これに草城自身が反駁し、『新潮』『俳句研究』で「ミヤコホテル論争」と言われる論戦に発展した(※11、※12参照)。
そして、1936(昭和11)年、客観写生、花鳥諷詠を題目とする虚子の逆鱗に触れ『ホトトギス』同人を除名されるまで発展したとされている。
草城の俳句はあまりにセンセーショナルであったため、賛成も得たが、多くの反感も買った。
当時の評論などを見渡すと、草城のやることなすこと、ことごとく批判されているように見える。中にはヒステリックな、人格さえも批判するような容赦ないものまで見受けられる。
しかし、よく見ると、これらの論争は表面的にはモチーフをめぐるものであったが、根には作品自体のもつ軽さへの不満であり、いくらセンセーショナルにセックスを扱ったといっても、フィクションであり、掘り下げはきわめて浅く、内容は常識の域を出ていないではないかといったようなことである。それをなぜそんなに批判しなくてはならないのか。言い換えれば、それだけ影響力のあった人物だったからなのであろう。
したがって、草城の「ミヤコ・ホテル」の連作と『ホトトギス』同人除名とは直接的には関係ないとされているが、やはり遠因にはなっているようだ。
ここで少し、俳句の歴史を遡ってみよう。
近世に発展した文芸である俳諧連歌(俳諧)は松尾芭蕉、与謝蕪村によって、現代言われるところの近代俳句が確立された。
蕪村に影響された俳人は多いが特に明治時代に正岡子規は近世以来の月並俳諧を排して「ホトトギス」による一大変革を行った。俳諧の近代化である。
子規が俳句に持ち込んだのは写生という考え方で、要は西洋的な写実主義(リアリズム)で俳句も作ろうということであった。子規のもとに集まった人々は「日本派」と呼ばれ、俳壇の主流となった。
子規の考え方は俳句の世界に新風を吹き込み、多くの人々が俳句に親しむようになったが、その反面、その後後十数年で権威主義化形骸化陳腐化し、よみぶりも単調となり、本来俳句が持っていた遊戯性・技巧性は失われてしまっていた。その停滞しつつあった近代俳句という表現ジャンルが、突如戦国時代を迎えた。
子規の死後、日本派は高浜虚子と河東碧梧桐の二派に分かれた。虚子一派は「ホトトギス」を主宰し、ホトトギスの理念となる「客観写生」を提唱、伝統的な季題や定型を守る立場をとったが、一方の碧梧桐の門には、大須賀乙字、荻原井泉水、中塚一碧楼らがあった。
乙字は写実を象徴に深めよと説き、「新傾向俳句」の呼び名を生んだ。碧梧桐は、無中心論を唱え、主観的な心理描写を重んじた。この傾向をさらに進めた井泉水は、季語無用論を唱え、さらに非定型の自由律俳句を主張した。
放浪の俳人尾崎放哉や、種田山頭火、プロレタリア文学理論を句作に導入し、弾圧されながらプロレタリア俳句をすすめた栗林一石路は、井泉水の門下であった。彼らは新傾向派と呼ばれ、機関誌『層雲』を創刊したが(1911年)、その後あわただしく離合集散を繰り返している。
虚子の俳風は、このような碧梧桐の勢力に圧倒され気味で、虚子自身も『ホトトギス』も一時は俳句を退き、写生文や小説に力を注いだ。
1915(大正4)年には虚子は『ホトトギス』 で 俊英作家の作品をとりあげた「進むべき俳句の道」の連載を開始。後進の指導にも力を注ぎ、「ホトトギス派の4S」といわれる高野素十・水原秋桜子・山口誓子・阿波野青畝らを育てている。
しかし、ホトトギス派の保守的な作風に対して、同派の水原秋桜子は、主観的叙情を重んじる立場から、新たに「馬酔木」を創刊した(1928年)。同じく山口誓子も新時代感覚による主知的構成を唱えてこれに同調した。
こういう新興俳句運動に呼応して、吉岡禅寺洞の無季俳句や、日野草城のモダニズム俳句などの俳句革新の動きが起こったのであった。
草城は「ミヤコ・ホテル」の連作を発表(1934[昭和9]年、当時34歳)した翌1935(昭和10)年に、東京の「走馬燈」、大阪の「青嶺」、神戸の「ひよどり」の三誌を統合し主宰誌『旗艦』を創刊して、リベラリズム(自由主義)の新興俳句に取組むこととなる。これは反ホトトギスの表明であり虚子への挑戦でもあった。
その翌1936(昭和11)年、『ホトトギス』10月号の同人変更の告知が掲載された中で、草城は、吉岡禅寺洞、杉田久女とともに同誌同人を削除されたことを知る。予期していたとしてもこの記事を見たときにはやはりショックは隠せなかったことだろう。
草城の「ホトトギス」同人除名の理由は直接的には、このリベラリズムの無季俳句などを容認している「旗艦」の創刊などであり、草城の「ミヤコ・ホテル」の連作と「ホトトギス」同人除名には直接関係はないとされているものの、やはり遠因にはなっていると思われる。
保守的な虚子は、草城のエロティシズム俳句が「花鳥諷詠」俳句の概念を一変してしまう危険性を察知し、それを恐れたのであろう。
草城は「ホトトギス」除名後、無季俳句を積極的に唱導、自らもエロティシズムや無季の句をつくり新興俳句の主導的役割を担う。そこには、その後の4S(水原秋櫻子・山口誓子・阿波野青畝・高野素十)の台頭などによる「ホトトギス」内での冷遇などへの反発があったかもしれない。
草城が「ホトトギス」の同人を削除された翌1937(昭和12)年の蘆溝橋事件に端を発した日中戦争(支那事変)が勃発したころから、国家権力による言論・思想の統制が、日増しに激しくなり、リベラル(自由主義)を標榜する者への国家権力による不当な弾圧がはじまったが、俳句にたいする弾圧は、主として反伝統派の総称たる「新興俳句」派の弾圧であったが、そのトップを切ったのが「京大俳句会」事件で、西東三鬼らが逮捕されている(※13参照)。
「無季俳句も亦俳句である」として、無季、自由律を目指した多くの新興俳句系の俳誌が弾圧される中で、『旗艦』が弾圧された様子がない(新興俳句弾圧事件参照)のは、当時の国家権力にとって、それが弾圧するに値しなかったからか。言い換えれば、草城の仕事の性質は、何も合法非合法すれすれの線などといふ無理をした仕事はしていなかったということだろう。そういう点では、作品自体に軽さがあったとはいえるのだろう。それでも、草城なども新興俳句系の俳人としてマークはされ、不自由はしていただろうことは察せられる。
草城は戦後の1946(昭和21)年、45歳の時には肺結核を発症。以後の10数年は病床にあり、病と闘いながらこれまでの新興俳句とは別種の静謐(せいひつ。)な句をつくった。
草城晩年の1953(昭和28)年、青玄俳句会から出版の第七句集『人生の午後』(※14参照)の冒頭には妻への献辞が書かれている。以下がそれである。
晏子さん
もしもあなたが私を支へてゐてくれなかつたなら
私のいのちは今日まで保たれなかつたでせう
この貧しい著書をあなたに贈ります
これが今の私に出来る精一杯の御礼なのです
一九五三年七月 草 城
なんと素直な感謝の辞であろうか。40代後半にして、その句集に「人生の午後」(※15「ユング心理学の世界」参照)としている心境はいかなるものであったか。句を見ればわかる。病の身を支えてくれるのはただただ妻のみ。そんな切実な叫びがこの献辞となっているのだ。
続いて、以下のようことも書かれている。
昭和二十三年から二十七年に至る五年間の作品三一五句を収めました。
鈴鹿野風呂さんに序を、五十嵐播水さんに跋を、書いていただきました。昔の「京鹿子の三人」が二十数年ぶりに顔を合したわけです。
自分の句集を編むといふことはとても辛い仕事です。見れば見る程自分のみずぼらしさが現れてきます。この上多くの人々の厳しい眼で吟味されることを思ふと、げつそり痩るやうな気がします。
昭和二十八年初夏
これを見ると、「ミヤコ・ホテル」の連作以来、多くの人から批判されたことを、どれだけ、気に病んでいたかが分かる。そして以下のようにも書かれている。
昭和二十四年(一九四九)
二月に風邪を引き、高熱と激しい咳嗽が続いた。相当応へ、以後ずつと臥たきりとなつた。四月二五日休職期間満了、大阪住友海上火災保険株式会社を退いた。大正十三年四月二十六年入社したのであるから、きつちり二十五年在社したことになる。四分の一世紀、短い歳月とはいへない。一本に貫いた私の会社員生活も茲に終り、天下無職となつた。四月二十八日、一年間の間借生活を打切り現住所池田市中之島町十九番地の日光草舎へ移つた。一二回家の周辺を散策したことがあるのみで、爾来門外へ出たことがない。九月大阪星雲社より第六句集「旦暮」上梓。十月門田竜政、門田誠一、田中嘉秋三氏の手により「青玄」が創刊された。この年しばしば発熱し病状不安定であつた。・・・と。
「日光草舎」とは西から日光が存分に射し込むことから命名された新しい小さな家の書斎のことらしい。昭和21年から胸を病み、同24年風邪を引き、高熱を出してから臥たきりとなり、休職期間(※16参照)が満了したことから4月に大阪住友海上火災保険を退職し、池田市に居を移したころにはほとんど病床をはなれることができない位悪くなっていたようだ。
このような中、同年『青玄』が池田の地で創刊された。
句集『人生の午後』には、以下のような句が掲載されている。
冬薔薇の咲くほかはなく咲きにけり
あたりのものが次第に枯れ色を強めていく中で、凛と咲いている冬薔薇。寒さに凍えるような時でも、薔薇は薔薇として、咲かなければならない。それが与えられた生をまっとうできる、唯一のことであるかのように。冬薔薇に投影された草城の志が句に貫かれている。
生き得たる四十九年や胡瓜咲く
胡瓜(きゅうり)咲くは夏の季語。胡瓜の花は観賞するような立派な花じゃない。節ごとに雌花をつけるが黄色くて、たいていは炎天下でしおたれている。そんな地味な花に目をとめて、生きている喜びを分かち合えたのは、草城が病弱だったからだ。
ちちろ虫女体の記憶よみがへる
ちちろ虫とはこおろぎで秋の季語。 病に伏しても「女体」への 関心は衰えていなかった。妻との新婚旅行で「ミヤコ・ホテル」に泊まった時のことでも思い出したのだろうか。
切干やいのちの限り妻の恩
切干(きりぼし)が冬の季語.。草城は晩年、病床にあって、夫人の看病の中で秀句をたくさん作った。いまは全く病床仰臥の身となった草城は、何につけて妻の世話なくしてはやってゆけない。これからも命の限りその妻の恩を受けるだろうし、命の限りその妻の恩は忘れられないという。 冒頭の妻への献辞にもあるように、まさに「いのちのかぎり妻の恩」に感謝していると、妻政江が仏に見えるほどの感謝の日々であったのであろう。そんな愛妻を残して何時逝くかもわからない悲壮感がみなぎっている。
この句集を作った2年後の1955(昭和30)年、彼を破門した高浜虚子はふたたぴ草城を『ホトトギス』の同人に迎え、日光草舎に彼を見舞ったという。
虚子のその心情はわからないが、やはりこの師弟は、反発しながらも、尊敬と愛情で長年深く結ばれていたのだろう。
残念なことに彼に残された時間はすでにいくばくもなく、ホトトギスへの搭載も出来ないままに、翌1956(昭和31)年の元旦、と詠んだ草城は、1月29 日に息を引き取ったという(※17)。草城の墓は慶伝寺(大阪市天王寺区餌差町)にあるそうだ。
若き日エロスを詠った草城もこのころには、平明で深く、透明で切実な境地を切り開き、それまでの新興俳句とは別種の静謐(せいひつ。静かで落ち着いていること)な句を綴っている。一度句集(※0014)に目を通されるとよい。
(冒頭の画像は草城句集 花氷 覆刻本出版社: (株)沖積舎)
参考:
※1:パッカード|ショウちゃんのブログ 俳句のある風景
http://ameblo.jp/cornerstone1289/entry-11451257918.html
※2:鈴鹿野風呂 | 四時随順
http://minorugh.tumblr.com/post/42417527761
※3:ブログ俳諧鑑賞:虚子の実像と虚像
http://yahantei.blogspot.jp/search/label/%E8%99%9A%E5%AD%90%E3%81%AE%E5%AE%9F%E5%83%8F%E3%81%A8%E8%99%9A%E5%83%8F
※4:自由律俳句結社「海紅」
http://kaikoh-web.sakura.ne.jp/WordPress/
※5:秋尾敏「水原秋桜子と『馬酔木』」、『俳壇』平成12年11月号掲載
http://www.asahi-net.or.jp/~cf9b-ako/kindai/asibi.htm
※6:草城句集(花氷)
http://ww41.tiki.ne.jp/~haruyasumi/works/hanagoori.txt
※7:透水の俳句ワールド
http://blog.goo.ne.jp/new-haiku-jin/c/9459a2c538d4a4e0bb8a5132d95949c1
※8:「きごさい」ネット歳時記
http://kigosai.sub.jp/kigoken3.html
※9:日国.NET:モダニスト草城 - 俳人目安帖
http://www.nikkoku.net/ezine/haijn/meyasu_09/index.html
※10:Page 1 一、はじめに 吉井勇が「スバル」に「京都より」と題した短歌二十一
http://archives.bukkyo-u.ac.jp/rp-contents/SK/2008/SK20081R037.pdf#search='%E5%90%9B%E3%81%A8%E3%82%86%E3%81%8F%E6%B2%B3%E5%8E%9F%E3%81%A5%E3%81%9F%E3%81%B2%E3%81%9E%E3%81%8A%E3%82%82%E3%81%97%E3%82%8D%E3%81%8D%E9%83%BD%E3%81%BB%E3%81%A6%E3%82%8B%E3%81%AE%E7%81%AF%E3%81%A8%E3%82%82%E3%81%97%E9%A0%83%E3%82%92'
※11:俳句論争史
http://www5e.biglobe.ne.jp/~haijiten/haiku2-1.htm
※12:論争―ミヤコ・ホテル - 齋藤百鬼の俳句閑日
http://blog.goo.ne.jp/kojirou0814/e/97a6b0c8a5b6821faf66ee3a2f585c3d
※13:戦時中の俳句・短歌運動 - 法政大学大原社会問題研究所
http://oohara.mt.tama.hosei.ac.jp/rn/senji2/rnsenji2-220.html
※14:『人生の午後』日野草城
http://www.nnn.co.jp/dainichi/rensai/naniwa/naniwa070310.html
※15:ユング心理学の世界-「人生の正午」という考え方http://www.j-phyco.com/category1/entry71.html
※0016:休職期間」とは - 東京ウィング社労士事務所
http://sr-yamada.jp/column/article/8
※17:なにわ人物伝 −光彩を放つ−
http://www.nnn.co.jp/dainichi/rensai/naniwa/naniwa070310.html
お得区案内図
http://www5c.biglobe.ne.jp/~n32e131/
日野草城の俳句
http://www5c.biglobe.ne.jp/~n32e131/haiku/soujou.html
日野草城 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E9%87%8E%E8%8D%89%E5%9F%8E