第2次安倍内閣は、昨2013(平成25)年10月25日、防衛・外交など日本の安全保障に関する情報のうち「特に秘匿することが必要であるもの」を「特定秘密」に指定し、取扱者の適正評価の実施や漏洩した場合の罰則などを定めた法律「特定秘密保護法」の法案を安全保障会議で了承を経たうえで閣議決定して第185回国会に提出し、同年12月6日に成立させ、12月13日に公布した。公布から1年以内に施行されることになっている(同法附則第1条)。
これに対して、マスメディアなどが「特定秘密保護法反対」の大合唱を唱えている。
その反対理由として一番よく耳にするのが「戦前の治安維持法(法律第54号)のように言論統制を行なう法律だ」というものである。
治安維持法は、全33条より成る(うち2条削除)治安警察法(明治33年3月10日法律第36号)とともに、戦前の有名な治安立法として知られている。
先ず、最初に、予備知識として、上記2つの治安立法成立の目的を書いておこう。
日清戦争後の資本主義の発展とともに労働運動は黎明期を迎え、労働組合期成会の結成(1897)を起点に労働組合運動の発足と争議の多発化に悩まされていた。また、海外からは社会主義運動の普及が始まった。
明治政府は自由民権運動抑圧に用いた刑法270条や集会及政社法(集会条例また※1参照)、治罪法(※2も参照)などの諸法律では対応できないと考え労働運動の取締りなどを目的に新たな治安立法として制定(1900年)されたものが治安警察法(明治33年3月10日法律第36号)である。
旧憲法下で,政治集会,結社,デモなどを取り締まり、政治結社・集会の届出,女子・教員・軍人などの政治結社加入禁止を定め,集会などの解散権を警察官に与えた。
一方の治安維持法(1941年=昭和16年3月10日法律第54号)は、国体(皇室)や私有財産制を否定する運動を取り締まることを目的として制定された法律であり、当初は、1925(大正14)年4月22日に法律第46号として制定され、1941(昭和16)年に全面改正されたものである。
余談だが「治安警察法」(明治33年)の制定日と1925(大正14)年制定の「治安維持法」(昭和16年)の全面改正日が奇しくも今日と同じ3月10日である。
治安維持法は1925(大正14)年4月22日に公布され、同年5月12日に施行。普通選挙法とほぼ同時に制定されたことからよく「飴と鞭」の関係にもなぞらえられるが、なぜ両法は1925年(大正14)年3月の護憲三派による第1次加藤高明内閣による第50回帝国議会でほとんど同時に成立したのであろうか。
普通選挙法も治安法も第一次世界大戦における民衆の政治化の所産である。
普選運動は日清戦争に始まるが、全国的な要求運動は1919(大正8)年に盛り上がる。運動は1920(大正9)年春の第14回衆議院議員総選挙で普選反対を唱える党首原敬の政友会の圧勝に水を差されはしたものの、1922 (大正11)年春の第45帝国議会で、野党の憲政会と国民党(のちの革新倶楽部)との統一普選案が出来たことで復活する。
一方労働者・農民の普選運動の高揚を背景に、1920(大正9)年には、日本社会主義同盟が結成され、1921(大正10)年春には当時は非合法な秘密結社日本共産党(第一次共産党)が生まれる。
この動きを察知した司法省や内務省は原敬首相の意向のもとに「危険思想」取り締まりのための新しい治安立法に着手して、「過激社会運動取締法案」を第45回議会に提出するが野党や言論界の強い反対で審議未了となリ、普選法案と新治安立法案は相打ちする型となった。
治安立法優先の政友会・官僚勢力路線と普選優先の野党路線の結合の道は関東大震災(1923年=大正12年9月1日)の直後に成立した第2次山本権兵衛内閣によって開かれた。
普選主張の先頭に立つ逓信大臣・犬飼毅と治安立法の推進者で司法大臣の平沼騏一郎との間に、両社抱き合わせの相互承認が行われた。
山本首相は、普選実現を声明し、議会は大震災下の緊急勅令 「治安維持ノ為ニスル罰則ニ関スル件(大正12年勅令第403号)を承認した。
同年12月に起きた虎ノ門事件の政治的責任から、山本内閣が総辞職した後、総選挙施行のため中立的な内閣の出現を望む西園寺公望の推薦によって登場した清浦奎吾内閣に対して、第2次護憲運動が起こり、選挙戦となった。
衆議院の政友会、憲政会、革新倶楽部の三会派(いわゆる護憲三派)は普選を公約し、他方政府の与党・政友本党は「独立の生計」の条件付き普選を主張した。
「独立の生計を有する者」(※3:新聞記事文庫 「独立の生計」参照)とは、事実上所帯主を意味し、有権者は30%以上減る。
選挙戦に圧勝した護憲3派の連立内閣は公約通り、普選法案を代50議会に提出した。天皇の諮問機関で、重要法案の事前審査権を持つ枢密院は官僚勢力の牙城であったが、普選法を承認するに際し、「思想ノ取締」を「必要条件」(平沼)とした。
一方枢密院は、同時に進行していた日ソ基本条約の審査にあたっても「過激思想」の流入を取り締まるため「最も有効凱切(非常に大切な。ぴたりと当てはまる)なる措置ヲ実施」せよと求めた。
政府は2月20日の枢密院本会議の普選法案採決の前日に治安維持法案を衆議院に緊急上程した。
明治政府は、枢密院の強要に屈して治安維持法案を提出したのではない。普選と治安維持を抱き合わせる・・・つまり、労働者・農民にも選挙権を与えるが、その政治的進出は極力抑制する・・・という山本内閣の方針は受け継がれ、治安維持法立案の作業は清浦内閣下ですでに始まっていた。
政府原案は「国体もしくは政体ヲ変革シ、マタハ私有財産制度を否認スルコトヲ目的トスル」結社その他の行動を最高刑罰10年の重刑で取り締まるというものであったが、衆議院では「政体」の2字は専制的官僚機構への批判の自由まで束縛する恐れがあるとしたうえ、3月7日ほとんど全院一致で可決した(反対議員は18議員)。3月19日貴族院も可決した。
普選法は貴族院の抵抗でもめたが、ここで流産すれば「過激思想」が盛んになるという認識で一致した元老院西園寺公望や政府首脳の努力で、会期延長の末3月29日に成立した。普選法と治安維持法はどちらか一方が先に成立することは当時の政治力学上不可能であった。
●上掲の画像は普選法が成立してホット一息の大臣。前列右から若槻内相、幣原外相、犬飼逓信相、高橋農商務相、加藤首相、岡田文相、(3月29日)。加藤首相は「多年の懸案であった普通選挙・・・等』国民の権利に関する問題を解決し得たから此議会は永く日本の憲政史上に特筆されるべきものであろう」(3月30日付朝日新聞)と談話を発表したという(『朝日クロニクル週刊20世紀』1925年号)。
第2次世界大戦前の治安維持法も後に改悪を重ねて悪法に成長していったが、当初はおとなしいものであった。
先にも書いたように、治安維持法は同じ月に成立した普通選挙法と抱き合わせの「飴と鞭」の立法と云う説もあるが、むしろ、第1次世界大戦後のいわゆる大正テモクラシー運動が起こる中、1925(大正14)年1月のソビエト連邦との国交樹立(日ソ基本条約)を境に、共産主義・無政府主義(アナーキズム、中でも社会的無政府主義)による革命運動の激化が懸念されていた。そんな中、普通選挙法の施行により、このような考え方が日本で主流になり、国家体制に危機を及ぼさないようその対策という性格が強かったとの説もある。
成立した主な条文の内容は,国体の変革または私有財産制度の否認を目的とした結社を取り締まることを中心とするものであった。
従って、当時、法律が取り締まりの対象とした国内の第1次共産党は1924(大正13)年3月頃に解散していたのでさしあたり適用する対象もなくなっていたのだが・・・。
この条文にある「国体」という言葉は、教育勅語に出てくる道徳的用語(国民の忠孝心が「国体の精華」であり「教育の淵源」である)で、法律用語としては内容がはっきりせず使い方でどうにでも解釈できる危険な言葉でもあった。
そして、1926大正15)年1月に京都帝国大学などが主体の左翼学生運動日本学生社会科学研究会(学連)に対して日本で最初の治安維持法が適用され学生38人が検挙される事件が起こった(京都学連事件参照)。
前年12月に警察が出版法違反事件として検挙し立件出来ずに釈放したものを検事局が治安維持法違反事件に仕立て直したものだと言われる。
この事件は当時の為政者層の思想・教育への危機感の大きさを象徴しているともいえる。この事件では司法省の張り切りぶりが目に付く。この事件を期に司法省は思想問題への取り組みを本格化させる。
「学術研究の範囲を超越し苛も国体を変革し又は社会組織の根底を破壊せんとする言論をなし、若くはその実行に関する協議をなすに至りては毫も仮籍する所なく之を糾弾せざるべからず」(1926年5月警察部長会議における小山松吉検事総長の訓示『日本労働年間』1927年版)という徹底した抑圧姿勢に特徴がある。
警察の視察取締もこの京都学連事件以後、変化が見られ、警察当局が公然と学内に侵入し、学内取締も「他の一般社会運動に対すると何等異ならない状態に至った。ビラ撒布による検束(東大)、不法検束による警察の暴行事件(京大、九州歯科専門学校)などが頻繁に起こりはじめたという(※4参)。
こうした中、1926 (大正15)年には 東京の共同印刷でのストライキが60日の大争議(いわゆる「共同印刷争議」)に発展する(徳永直による小説『太陽のない街』の大争議)、新潟県の小作争議が警官隊との衝突事件に発展する事件(木崎村小作争議)が起こるなど、この年の同盟罷業(ストライキ)は469件、小作争議は2751件で、前年に比べ飛躍的に増加していたという(『朝日クロニクル週刊20世紀』1926年号)。
こうした情勢の中で秘密裏に共産党再建大会が開かれていた。そして、2年後の1928(昭和3)年2月に国政最初の普通選挙が行われ、共産党は政治的に活躍するが、学連事件の公訴審中に全国一斉の共産党員大検挙が行われる(三・一五事件)。
時の田中義一内閣は、第55回帝国議会に治安維持法改正案を上程し、治安維持法の改正を行って最高刑を死刑とし、共産党を中心する反体制勢力の壊滅を図ろうとしたが、死刑を含む刑罰の強化は、あまりにも弾圧的として野党や言論界の強い反対で改正案は審議未了となった。普通選挙法と新治安立法は相打ちする形となった。
しかし、田中は、議会の審議を経ずに、改正を強行し、緊急勅令「治安維持法中改正ノ件」(昭和3年6月29日勅令第129号)により改正法の公布をした(以下参考の※05のレファレンスコード:A03033700800に、罰則の強化の理由を「罰則が此の極悪なる犯罪に対し不適当不充分なるに由り」とする説明。この改正が、「議会の協賛を得るに至ら」ず、「緊急勅令の形式に依って実施された」ことが記されている。※5のレファレンスコード:A03021692600では、三・一五事件を契機として実施された第1次法改正の御署名原本。改正点が記載されており、主な改正点は、罰則を強化、最高刑を懲役10年から死刑もしくは無期懲役に、したこと、「結社の目的遂行の為にする行為」も処罰の対象に含めるようになったことなどが記されている。)。
同法改悪の第1点は、旧法1条の構成要件を国体変革と私有財産制度の否認とに分離し、国体変革の指導者に対しては死刑、無期、若しくは5年以上の有期懲役と刑罰を加重したことであり、その第2点は、新たに国体変革を目的とする「結社ノ目的遂行ノ為ニスル行為ヲ為シタル者」に2年以上の有期懲役を科したことである。これにより、権力が危険と判断するすべての人を合法的に逮捕、処罰することができる根拠ができたわけである。
さらに政府は、全国主要府県の警察部にも特高警察を設置すると共に、特高警察と両輪的役割りを果たす思想検事(一般検察実務から独立した思想問題専従の特別部として設けられた)を新たに設け、出版法等諸法も治安維持法と結合させて治安立法の役割を担わせ、弾圧体制を一層強化させるなどして、日本共産党を壊滅に追い込んだ。
これは、田中・鈴木・原と政党内閣でありながら大正デモクラシーに批判的な人々が治安関係を占めた(田中は元陸軍大将、鈴木は社会運動弾圧で活躍した検事総長、原は鈴木とともに国本社会員)という矛盾に由来する政策であった。
その後、治安維持法は政府批判をする者すべて弾圧の対象となっていき、国民の言論の自由を弾圧する悪法として猛威を振るい始めた。
あたかも、日本は恐慌のさなか同盟罷業(ストライキ)や、小作争議の件数がますます増加の一途をたどった。治安維持法は、こうした労働者・農民の抵抗を弾圧し、後には宗教団体や、右翼活動、自由主義等まで弾圧をおこなう法的手段として機能していったのである。
同法は、太平洋戦争を目前にした1941(昭和16)年3月10日にはこれまでの全7条のものを全65条とする全面改正(昭和16年3月10日法律第54号)が行われた。
1941(昭和16)年法は同年5月15日に施行されたが、その特徴は以下のようなものであった。
全般的な重罰化
禁錮刑はなくなり、有期懲役刑に一本化したが、刑期下限が全般的に引き上げられたこと。
取締範囲の拡大
「国体ノ変革」結社を支援する結社、「組織ヲ準備スルコトヲ目的」とする結社(準備結社)などを禁ずる規定を創設したこと。官憲により「準備行為」を行ったと判断されれば検挙されるため、事実上誰でも犯罪者にできるようになった。
また、昭和3年6月29日勅令第129号では、過激社会運動取締法案にあった「宣伝」への罰則は削除されていたがその「宣伝」への罰則が復活した。
刑事手続面
従来法においては刑事訴訟法によるとされた刑事手続について、特別な(=官憲側にすれば簡便な)手続を導入したこと、例えば、本来判事の行うべき召喚拘引等を検事の権限としたこと、二審制としたこと、弁護人は「司法大臣ノ予メ定メタル弁護士ノ中ヨリ選任スベシ」として私選弁護人を禁じたこと等。 予防拘禁制度 刑の執行を終えて釈放すべきときに「更ニ同章ニ掲グル罪ヲ犯スノ虞アルコト顕著」と判断された場合、新たに開設された予防拘禁所にその者を拘禁できる(期間2年、ただし更新可能)としたこと。
治安維持法のことなど詳しくは、以下参考の※6又※7:「治安維持法と小林多喜二虐殺」とその中にある治安維持法を参照されるとよい。
マスメディアは言論の統制を非常に恐れる。20世紀の日本における言論表現に自由とそれに対する規制は、1945(昭和45)年までの戦前・戦中時代、第2次世界大戦後の米軍占領時代、その後現在の3つの時期に分けられるであろう。その中の第2次世界大戦後米軍占領時代、やその後現在のことは省略し、その第1期、先に述べた戦前の明治憲法体制下でのことを少し書こう。
大日本帝国憲法では、「日本臣民は法律の範囲内において言論著作印行集会及結社の自由を有す」と定められたが、その自由はあくまで天皇から臣民に与えられたもので、近代民主主義社会の基本的人権としては保障されなかった。
大日本帝国憲法下では、1909(明治42)年の新聞紙法、1925(大正14)年の治安維持法、1938(昭和13)年国家総動員法を柱に、1945(昭和20)年の敗戦まで、言論表現の自由は窒息させられた。同時に富国強兵の国策に共鳴した新聞が率先して、軍国主義世論を誘導、戦争の旗振り役を果たしてきた。
しかし、そんな暗い谷間の時代でも、果敢な言論活動を繰り広げていた人たちはいたのである。
1904(明治37)年の日露戦争当時歌人与謝野晶子は雑誌『明星』に「君死に給うこと勿れ」を発表、「旅順の城はほろぶとも ほろびずとても何事か」(旅順の城が陥落するか陥落しないかなんてどうでもいいのです)「すめらみことは戦ひに おほみずからは出まさね」(天皇陛下は戦争にご自分は出撃なさらずに)と言い切っている(※8参照)。
今これだけの反戦・天皇批判をどれだけの人、メディアが発表できるだろうか。
東洋経済新報時代の石橋湛山は当時の国策の主流であった「大日本主義」を批判し小日本主義を主張、1921(大正10)年に『大日本主義の幻想』(※9参照)を書き朝鮮・台湾・南樺太の放棄を主張し植民地政策からの絶縁を求めた。
また、桐生悠々は明治末から昭和初期にかけて反権力・反軍的な言論(広い意味でのファシズム批判)をくりひろげ、特に1933(昭和8)年信濃毎日新聞時代に関東一帯で行われた防空演習を批判した社説『関東防空大演習を嗤(わら)ふ』で、敵機の空襲があったならば木造家屋の多い東京は焦土化すること、被害規模は関東大震災に及ぶであろうこと、空襲は何度も繰り返されるであろうこと・・・等12年後の日本各都市の惨状をかなり正確に予言した上で、「だから、敵機を関東の空に、帝都の空に迎へ撃つといふことは、我軍の敗北そのものである」「要するに、航空戦は...空撃したものの勝であり空撃されたものの負である」と喝破。この言説は陸軍の怒りを買い軍部に追われ、ミニコミ誌『他山の石』を出して、日米戦争の危険を警告している(※10参照)。
これらはいずれもジャーナリズム・世論の潮流に逆らう孤立した言論であった。
満州事変から日中戦争、そして太平洋戦争期、記事掲載禁止が乱発され、真珠湾攻撃の1941(昭和16)年12月8日から軍事上の秘密だとして、気象に関する情報(天気予報)は一切、 新聞やラジオから姿を消したという。そして、嘘で固めた大本営発表は典型的なディスインフォメーション(虚報による世論操作)だった。
報道管制は「示達」(当該記事が掲載された時は多くの場合禁止処分に付するもの。記事差止命令参照。)「警告」(当該記事が掲載された時の社会状勢と記事の態様如何により、禁止処分に付することがあるかも知れないもの)「懇談」(当該記事が掲載されても禁止処分に付さないが、新聞社の徳義に訴えて掲載しないように希望するもの。)の3形式で進められ、一方的な示達、警告が圧倒的に多く、懇談はわずかであった。そして、法的根拠のない「懇談」は世論誘導のための内面指導としてマスメディアの積極的協力を得た。現代の記者クラブにも「懇談」は引き継がれ日常化しているという(『クロニカル週刊20世紀』メディアの100年)。例えば現代の記者クラブの状況など※11参照。尚、戦前の言論弾圧の実態などは※12参照)
現在、われわれが住む日本の国には、戦後改正された『日本国憲法』があり、国民主権の原則に基づいて象徴天皇制のもと、個人の尊厳を基礎に基本的人権の尊重を掲げて各種の憲法上の権利を保障し、戦争の放棄と戦力の不保持という平和主義を定め、また国会・内閣・裁判所の三権分立の国家の統治機構と基本的秩序を定めている。
又、基本的人権は、単に「人権」「基本権」とも呼ばれ、特に第3章で具体的に列挙されている(人権カタログ)。かかる列挙されている権利が憲法上保障されている人権であるが、明文で規定されている権利を超えて判例上認められている人権も存在する(「表現の自由」や「知る権利」、プライバシーの権利など)。
そんな日本で、冒頭にも触れた「特定秘密保護法」が戦前の治安維持法に似ているという指摘がある。
今の日本は戦前の明治憲法制下絶対的な天皇制と軍国主義の日本とは基本的に違う。したがって、言論に関しても、露骨な言論統制はないし、公序良俗に反しないかぎり、言論の自由が許されている。ただ、逆に、先にも述べたような少々の圧力をかけられてもはっきりと真実を述べるだけの勇気あるマスメディアや人が昔のようにいるかに疑問があるくらいである。
治安維持法はすべての国民を対象にする法律だったが、特定秘密保護法は「我が国の安全保障に関する情報のうち特に秘匿することが必要であるものについて、特定秘密の指定及び取扱者の制限その他の必要な事項を定める」(第1条)ものであり、その対象は一般国民ではない。
規制対象になる「特定秘密の取扱者」は主として国家公務員だが、政治家も含まれる。ここから、万が一漏れてはいけない国家秘密が漏れる危険性があると、同盟国であるアメリカが軍事機密を教えてくれないのだという。
尖閣諸島をめぐって中国が盛んに挑発を繰り返している昨今、これではいざというとき日米共同作戦も取れないだろう。秘密保護の法律はアメリカにもあるというが、どこの国にも国外へ洩れてはいけない国家秘密はあるだろうから、その漏えいは守らざるを得ないだろう。
「報道の自由が侵害される」という誤解もある。「国民の知る権利の保障に資する報道又は取材の自由に十分に配慮しなければならない。」ことは第22条に記されており、報道機関は規制対象とはなっていない(※13、※14参照)。
特定秘密保護法は「防衛」「外交」「スパイ」「テロ」と定めれれているが、対象について「その他」という但し書きが出てくるので、政府が無限に拡大解釈できる。秘密保護法は、何を「秘密」にするのか、政府が恣意的に決められる。第三者のチェックも無い。しかも、何が秘密なのかも秘密な為、「特定秘密」に触れたという理由で逮捕された被告人も、何故自分が捕まったのか被疑事実さえ分からない。・・・等々いろいろ心配されるのだが、結局のところ、今の政府・政治家や官僚のするところが、国民やマスコミから十分に信頼されていないところに、このような疑問の声が多く出てくる原因があるのではないだろうか・・・。
東日本大震災・福島第一原発事故以降、原子力発電稼働問題等を含め政府や官僚の言ったりしたりしていることを見ていても全く信用できない状況である。
治安維持法も最初は、共産主義・無政府主義などが対象であったのだが、いつのまにか一般市民が弾圧のターゲットとなり、自由にものが言えない社会を作っていった。
現行の政府は信頼できても、いつまた前民主党政権のような訳のわからない人達が政治を動かすことになるかもしれない・・・などと考えいると…さすがの私も不安にはなる。
政府が情報を秘密にすることと、国民の知る権利とのバランスを維持することは難しい問題だ。私には、余り難しいことはわからないが、兎に角しっかりと国民が監視をしてゆかないといけないだろうね。
冒頭の画像は、警視庁検閲課による検閲の様子.
1938(昭和13)年。Wikipediaより。
参考:
※1:中野文庫 - 集会及政社法
http://www.geocities.jp/nakanolib/hou/hm23-53.htm
※2:明治十三年太政官布告第三十七号(治罪法)
http://www.geocities.jp/lucius_aquarius_magister/M13HO037.html
※3:神戸大学附属図書館 デジタルアーカイブ 【 新聞記事文庫 】
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/sinbun/
※4:Title 文部省の治安機能 : 思想統制から「教学錬成」へ
http://barrel.ih.otaru-uc.ac.jp/bitstream/10252/917/1/Ogino_300123.pdf#search='%E4%BA%AC%E9%83%BD%E5%AD%A6%E9%80%A3%E4%BA%8B%E4%BB%B6+%E7%9C%9F%E7%9B%B8+%E7%9C%9F%E5%AE%9F'
※5 :治安維持法 - アジア歴史資料センター
http://www.jacar.go.jp/topicsfromjacar/03_terms/index03_006.html
※6:治安維持法――なぜ政党政治は「悪法」を生んだか(その1)
http://d.hatena.ne.jp/kosuke64/comment?date=20131204§ion=1386151834
※7: 治安維持法と小林多喜二虐殺
http://tamutamu2011.kuronowish.com/TIANIJIHO.html
※8:小さな資料室資料62与謝野晶子「君死にたまふことなかれ」http://www.geocities.jp/sybrma/62yosanoakiko.shi.html
※9:大日本主義の幻想”. 電子文藝館. 日本日本ペンクラブ.
http://www.japanpen.or.jp/e-bungeikan/guest/publication/ishibashitanzan.html
※10:桐生悠々『他山の石』の言論抵抗 - 前坂俊之アーカイブス
http://maechan.sakura.ne.jp/war/data/hhkn/17.pdf#search='%E6%A1%90%E7%94%9F%E6%82%A0%E3%80%85+%E4%BB%96%E5%B1%B1%E3%81%AE%E7%9F%B3'
※11:【特集】記者クラブ問題
http://iwj.co.jp/wj/open/%E8%A8%98%E8%80%85%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%83%96
※12:15年戦争資料 @wiki - 明治から昭和戦前期までの言論弾圧法の実態とは
http://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/1955.html
※13:特定秘密保護法の全文:朝日新聞デジタル
http://www.asahi.com/articles/TKY201312070353.html
※14:特定秘密保護法について | 首相官邸ホームページ
http://www.kantei.go.jp/jp/pages/tokuteihimitu.html
「特定秘密保護法」の問題性 - 読売新聞
http://www.yomiuri.co.jp/adv/wol/opinion/gover-eco_131111.htm
秘密保護法は戦前の治安維持法と似ているのですか? - 弁護士ドットコム
http://www.bengo4.com/other/1146/1288/b_214313/
歴史評論「治安維持法と弾圧の実態」
http://blog.livedoor.jp/seizi10/archives/1857941.html
治安維持法(法律のみ)
http://hc6.seikyou.ne.jp/home/okisennokioku-bunkan/okinawasendetakan/tianijiho.htm
Life-歴史は繰り返す
http://life-ayu.blog.so-net.ne.jp/2013-12-05
思想と言論
http://cgi.members.interq.or.jp/kanto/just/
Wikipedia -治安維持法
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%BB%E5%AE%89%E7%B6%AD%E6%8C%81%E6%B3%95
これに対して、マスメディアなどが「特定秘密保護法反対」の大合唱を唱えている。
その反対理由として一番よく耳にするのが「戦前の治安維持法(法律第54号)のように言論統制を行なう法律だ」というものである。
治安維持法は、全33条より成る(うち2条削除)治安警察法(明治33年3月10日法律第36号)とともに、戦前の有名な治安立法として知られている。
先ず、最初に、予備知識として、上記2つの治安立法成立の目的を書いておこう。
日清戦争後の資本主義の発展とともに労働運動は黎明期を迎え、労働組合期成会の結成(1897)を起点に労働組合運動の発足と争議の多発化に悩まされていた。また、海外からは社会主義運動の普及が始まった。
明治政府は自由民権運動抑圧に用いた刑法270条や集会及政社法(集会条例また※1参照)、治罪法(※2も参照)などの諸法律では対応できないと考え労働運動の取締りなどを目的に新たな治安立法として制定(1900年)されたものが治安警察法(明治33年3月10日法律第36号)である。
旧憲法下で,政治集会,結社,デモなどを取り締まり、政治結社・集会の届出,女子・教員・軍人などの政治結社加入禁止を定め,集会などの解散権を警察官に与えた。
一方の治安維持法(1941年=昭和16年3月10日法律第54号)は、国体(皇室)や私有財産制を否定する運動を取り締まることを目的として制定された法律であり、当初は、1925(大正14)年4月22日に法律第46号として制定され、1941(昭和16)年に全面改正されたものである。
余談だが「治安警察法」(明治33年)の制定日と1925(大正14)年制定の「治安維持法」(昭和16年)の全面改正日が奇しくも今日と同じ3月10日である。
治安維持法は1925(大正14)年4月22日に公布され、同年5月12日に施行。普通選挙法とほぼ同時に制定されたことからよく「飴と鞭」の関係にもなぞらえられるが、なぜ両法は1925年(大正14)年3月の護憲三派による第1次加藤高明内閣による第50回帝国議会でほとんど同時に成立したのであろうか。
普通選挙法も治安法も第一次世界大戦における民衆の政治化の所産である。
普選運動は日清戦争に始まるが、全国的な要求運動は1919(大正8)年に盛り上がる。運動は1920(大正9)年春の第14回衆議院議員総選挙で普選反対を唱える党首原敬の政友会の圧勝に水を差されはしたものの、1922 (大正11)年春の第45帝国議会で、野党の憲政会と国民党(のちの革新倶楽部)との統一普選案が出来たことで復活する。
一方労働者・農民の普選運動の高揚を背景に、1920(大正9)年には、日本社会主義同盟が結成され、1921(大正10)年春には当時は非合法な秘密結社日本共産党(第一次共産党)が生まれる。
この動きを察知した司法省や内務省は原敬首相の意向のもとに「危険思想」取り締まりのための新しい治安立法に着手して、「過激社会運動取締法案」を第45回議会に提出するが野党や言論界の強い反対で審議未了となリ、普選法案と新治安立法案は相打ちする型となった。
治安立法優先の政友会・官僚勢力路線と普選優先の野党路線の結合の道は関東大震災(1923年=大正12年9月1日)の直後に成立した第2次山本権兵衛内閣によって開かれた。
普選主張の先頭に立つ逓信大臣・犬飼毅と治安立法の推進者で司法大臣の平沼騏一郎との間に、両社抱き合わせの相互承認が行われた。
山本首相は、普選実現を声明し、議会は大震災下の緊急勅令 「治安維持ノ為ニスル罰則ニ関スル件(大正12年勅令第403号)を承認した。
同年12月に起きた虎ノ門事件の政治的責任から、山本内閣が総辞職した後、総選挙施行のため中立的な内閣の出現を望む西園寺公望の推薦によって登場した清浦奎吾内閣に対して、第2次護憲運動が起こり、選挙戦となった。
衆議院の政友会、憲政会、革新倶楽部の三会派(いわゆる護憲三派)は普選を公約し、他方政府の与党・政友本党は「独立の生計」の条件付き普選を主張した。
「独立の生計を有する者」(※3:新聞記事文庫 「独立の生計」参照)とは、事実上所帯主を意味し、有権者は30%以上減る。
選挙戦に圧勝した護憲3派の連立内閣は公約通り、普選法案を代50議会に提出した。天皇の諮問機関で、重要法案の事前審査権を持つ枢密院は官僚勢力の牙城であったが、普選法を承認するに際し、「思想ノ取締」を「必要条件」(平沼)とした。
一方枢密院は、同時に進行していた日ソ基本条約の審査にあたっても「過激思想」の流入を取り締まるため「最も有効凱切(非常に大切な。ぴたりと当てはまる)なる措置ヲ実施」せよと求めた。
政府は2月20日の枢密院本会議の普選法案採決の前日に治安維持法案を衆議院に緊急上程した。
明治政府は、枢密院の強要に屈して治安維持法案を提出したのではない。普選と治安維持を抱き合わせる・・・つまり、労働者・農民にも選挙権を与えるが、その政治的進出は極力抑制する・・・という山本内閣の方針は受け継がれ、治安維持法立案の作業は清浦内閣下ですでに始まっていた。
政府原案は「国体もしくは政体ヲ変革シ、マタハ私有財産制度を否認スルコトヲ目的トスル」結社その他の行動を最高刑罰10年の重刑で取り締まるというものであったが、衆議院では「政体」の2字は専制的官僚機構への批判の自由まで束縛する恐れがあるとしたうえ、3月7日ほとんど全院一致で可決した(反対議員は18議員)。3月19日貴族院も可決した。
普選法は貴族院の抵抗でもめたが、ここで流産すれば「過激思想」が盛んになるという認識で一致した元老院西園寺公望や政府首脳の努力で、会期延長の末3月29日に成立した。普選法と治安維持法はどちらか一方が先に成立することは当時の政治力学上不可能であった。
●上掲の画像は普選法が成立してホット一息の大臣。前列右から若槻内相、幣原外相、犬飼逓信相、高橋農商務相、加藤首相、岡田文相、(3月29日)。加藤首相は「多年の懸案であった普通選挙・・・等』国民の権利に関する問題を解決し得たから此議会は永く日本の憲政史上に特筆されるべきものであろう」(3月30日付朝日新聞)と談話を発表したという(『朝日クロニクル週刊20世紀』1925年号)。
第2次世界大戦前の治安維持法も後に改悪を重ねて悪法に成長していったが、当初はおとなしいものであった。
先にも書いたように、治安維持法は同じ月に成立した普通選挙法と抱き合わせの「飴と鞭」の立法と云う説もあるが、むしろ、第1次世界大戦後のいわゆる大正テモクラシー運動が起こる中、1925(大正14)年1月のソビエト連邦との国交樹立(日ソ基本条約)を境に、共産主義・無政府主義(アナーキズム、中でも社会的無政府主義)による革命運動の激化が懸念されていた。そんな中、普通選挙法の施行により、このような考え方が日本で主流になり、国家体制に危機を及ぼさないようその対策という性格が強かったとの説もある。
成立した主な条文の内容は,国体の変革または私有財産制度の否認を目的とした結社を取り締まることを中心とするものであった。
従って、当時、法律が取り締まりの対象とした国内の第1次共産党は1924(大正13)年3月頃に解散していたのでさしあたり適用する対象もなくなっていたのだが・・・。
この条文にある「国体」という言葉は、教育勅語に出てくる道徳的用語(国民の忠孝心が「国体の精華」であり「教育の淵源」である)で、法律用語としては内容がはっきりせず使い方でどうにでも解釈できる危険な言葉でもあった。
そして、1926大正15)年1月に京都帝国大学などが主体の左翼学生運動日本学生社会科学研究会(学連)に対して日本で最初の治安維持法が適用され学生38人が検挙される事件が起こった(京都学連事件参照)。
前年12月に警察が出版法違反事件として検挙し立件出来ずに釈放したものを検事局が治安維持法違反事件に仕立て直したものだと言われる。
この事件は当時の為政者層の思想・教育への危機感の大きさを象徴しているともいえる。この事件では司法省の張り切りぶりが目に付く。この事件を期に司法省は思想問題への取り組みを本格化させる。
「学術研究の範囲を超越し苛も国体を変革し又は社会組織の根底を破壊せんとする言論をなし、若くはその実行に関する協議をなすに至りては毫も仮籍する所なく之を糾弾せざるべからず」(1926年5月警察部長会議における小山松吉検事総長の訓示『日本労働年間』1927年版)という徹底した抑圧姿勢に特徴がある。
警察の視察取締もこの京都学連事件以後、変化が見られ、警察当局が公然と学内に侵入し、学内取締も「他の一般社会運動に対すると何等異ならない状態に至った。ビラ撒布による検束(東大)、不法検束による警察の暴行事件(京大、九州歯科専門学校)などが頻繁に起こりはじめたという(※4参)。
こうした中、1926 (大正15)年には 東京の共同印刷でのストライキが60日の大争議(いわゆる「共同印刷争議」)に発展する(徳永直による小説『太陽のない街』の大争議)、新潟県の小作争議が警官隊との衝突事件に発展する事件(木崎村小作争議)が起こるなど、この年の同盟罷業(ストライキ)は469件、小作争議は2751件で、前年に比べ飛躍的に増加していたという(『朝日クロニクル週刊20世紀』1926年号)。
こうした情勢の中で秘密裏に共産党再建大会が開かれていた。そして、2年後の1928(昭和3)年2月に国政最初の普通選挙が行われ、共産党は政治的に活躍するが、学連事件の公訴審中に全国一斉の共産党員大検挙が行われる(三・一五事件)。
時の田中義一内閣は、第55回帝国議会に治安維持法改正案を上程し、治安維持法の改正を行って最高刑を死刑とし、共産党を中心する反体制勢力の壊滅を図ろうとしたが、死刑を含む刑罰の強化は、あまりにも弾圧的として野党や言論界の強い反対で改正案は審議未了となった。普通選挙法と新治安立法は相打ちする形となった。
しかし、田中は、議会の審議を経ずに、改正を強行し、緊急勅令「治安維持法中改正ノ件」(昭和3年6月29日勅令第129号)により改正法の公布をした(以下参考の※05のレファレンスコード:A03033700800に、罰則の強化の理由を「罰則が此の極悪なる犯罪に対し不適当不充分なるに由り」とする説明。この改正が、「議会の協賛を得るに至ら」ず、「緊急勅令の形式に依って実施された」ことが記されている。※5のレファレンスコード:A03021692600では、三・一五事件を契機として実施された第1次法改正の御署名原本。改正点が記載されており、主な改正点は、罰則を強化、最高刑を懲役10年から死刑もしくは無期懲役に、したこと、「結社の目的遂行の為にする行為」も処罰の対象に含めるようになったことなどが記されている。)。
同法改悪の第1点は、旧法1条の構成要件を国体変革と私有財産制度の否認とに分離し、国体変革の指導者に対しては死刑、無期、若しくは5年以上の有期懲役と刑罰を加重したことであり、その第2点は、新たに国体変革を目的とする「結社ノ目的遂行ノ為ニスル行為ヲ為シタル者」に2年以上の有期懲役を科したことである。これにより、権力が危険と判断するすべての人を合法的に逮捕、処罰することができる根拠ができたわけである。
さらに政府は、全国主要府県の警察部にも特高警察を設置すると共に、特高警察と両輪的役割りを果たす思想検事(一般検察実務から独立した思想問題専従の特別部として設けられた)を新たに設け、出版法等諸法も治安維持法と結合させて治安立法の役割を担わせ、弾圧体制を一層強化させるなどして、日本共産党を壊滅に追い込んだ。
これは、田中・鈴木・原と政党内閣でありながら大正デモクラシーに批判的な人々が治安関係を占めた(田中は元陸軍大将、鈴木は社会運動弾圧で活躍した検事総長、原は鈴木とともに国本社会員)という矛盾に由来する政策であった。
その後、治安維持法は政府批判をする者すべて弾圧の対象となっていき、国民の言論の自由を弾圧する悪法として猛威を振るい始めた。
あたかも、日本は恐慌のさなか同盟罷業(ストライキ)や、小作争議の件数がますます増加の一途をたどった。治安維持法は、こうした労働者・農民の抵抗を弾圧し、後には宗教団体や、右翼活動、自由主義等まで弾圧をおこなう法的手段として機能していったのである。
同法は、太平洋戦争を目前にした1941(昭和16)年3月10日にはこれまでの全7条のものを全65条とする全面改正(昭和16年3月10日法律第54号)が行われた。
1941(昭和16)年法は同年5月15日に施行されたが、その特徴は以下のようなものであった。
全般的な重罰化
禁錮刑はなくなり、有期懲役刑に一本化したが、刑期下限が全般的に引き上げられたこと。
取締範囲の拡大
「国体ノ変革」結社を支援する結社、「組織ヲ準備スルコトヲ目的」とする結社(準備結社)などを禁ずる規定を創設したこと。官憲により「準備行為」を行ったと判断されれば検挙されるため、事実上誰でも犯罪者にできるようになった。
また、昭和3年6月29日勅令第129号では、過激社会運動取締法案にあった「宣伝」への罰則は削除されていたがその「宣伝」への罰則が復活した。
刑事手続面
従来法においては刑事訴訟法によるとされた刑事手続について、特別な(=官憲側にすれば簡便な)手続を導入したこと、例えば、本来判事の行うべき召喚拘引等を検事の権限としたこと、二審制としたこと、弁護人は「司法大臣ノ予メ定メタル弁護士ノ中ヨリ選任スベシ」として私選弁護人を禁じたこと等。 予防拘禁制度 刑の執行を終えて釈放すべきときに「更ニ同章ニ掲グル罪ヲ犯スノ虞アルコト顕著」と判断された場合、新たに開設された予防拘禁所にその者を拘禁できる(期間2年、ただし更新可能)としたこと。
治安維持法のことなど詳しくは、以下参考の※6又※7:「治安維持法と小林多喜二虐殺」とその中にある治安維持法を参照されるとよい。
マスメディアは言論の統制を非常に恐れる。20世紀の日本における言論表現に自由とそれに対する規制は、1945(昭和45)年までの戦前・戦中時代、第2次世界大戦後の米軍占領時代、その後現在の3つの時期に分けられるであろう。その中の第2次世界大戦後米軍占領時代、やその後現在のことは省略し、その第1期、先に述べた戦前の明治憲法体制下でのことを少し書こう。
大日本帝国憲法では、「日本臣民は法律の範囲内において言論著作印行集会及結社の自由を有す」と定められたが、その自由はあくまで天皇から臣民に与えられたもので、近代民主主義社会の基本的人権としては保障されなかった。
大日本帝国憲法下では、1909(明治42)年の新聞紙法、1925(大正14)年の治安維持法、1938(昭和13)年国家総動員法を柱に、1945(昭和20)年の敗戦まで、言論表現の自由は窒息させられた。同時に富国強兵の国策に共鳴した新聞が率先して、軍国主義世論を誘導、戦争の旗振り役を果たしてきた。
しかし、そんな暗い谷間の時代でも、果敢な言論活動を繰り広げていた人たちはいたのである。
1904(明治37)年の日露戦争当時歌人与謝野晶子は雑誌『明星』に「君死に給うこと勿れ」を発表、「旅順の城はほろぶとも ほろびずとても何事か」(旅順の城が陥落するか陥落しないかなんてどうでもいいのです)「すめらみことは戦ひに おほみずからは出まさね」(天皇陛下は戦争にご自分は出撃なさらずに)と言い切っている(※8参照)。
今これだけの反戦・天皇批判をどれだけの人、メディアが発表できるだろうか。
東洋経済新報時代の石橋湛山は当時の国策の主流であった「大日本主義」を批判し小日本主義を主張、1921(大正10)年に『大日本主義の幻想』(※9参照)を書き朝鮮・台湾・南樺太の放棄を主張し植民地政策からの絶縁を求めた。
また、桐生悠々は明治末から昭和初期にかけて反権力・反軍的な言論(広い意味でのファシズム批判)をくりひろげ、特に1933(昭和8)年信濃毎日新聞時代に関東一帯で行われた防空演習を批判した社説『関東防空大演習を嗤(わら)ふ』で、敵機の空襲があったならば木造家屋の多い東京は焦土化すること、被害規模は関東大震災に及ぶであろうこと、空襲は何度も繰り返されるであろうこと・・・等12年後の日本各都市の惨状をかなり正確に予言した上で、「だから、敵機を関東の空に、帝都の空に迎へ撃つといふことは、我軍の敗北そのものである」「要するに、航空戦は...空撃したものの勝であり空撃されたものの負である」と喝破。この言説は陸軍の怒りを買い軍部に追われ、ミニコミ誌『他山の石』を出して、日米戦争の危険を警告している(※10参照)。
これらはいずれもジャーナリズム・世論の潮流に逆らう孤立した言論であった。
満州事変から日中戦争、そして太平洋戦争期、記事掲載禁止が乱発され、真珠湾攻撃の1941(昭和16)年12月8日から軍事上の秘密だとして、気象に関する情報(天気予報)は一切、 新聞やラジオから姿を消したという。そして、嘘で固めた大本営発表は典型的なディスインフォメーション(虚報による世論操作)だった。
報道管制は「示達」(当該記事が掲載された時は多くの場合禁止処分に付するもの。記事差止命令参照。)「警告」(当該記事が掲載された時の社会状勢と記事の態様如何により、禁止処分に付することがあるかも知れないもの)「懇談」(当該記事が掲載されても禁止処分に付さないが、新聞社の徳義に訴えて掲載しないように希望するもの。)の3形式で進められ、一方的な示達、警告が圧倒的に多く、懇談はわずかであった。そして、法的根拠のない「懇談」は世論誘導のための内面指導としてマスメディアの積極的協力を得た。現代の記者クラブにも「懇談」は引き継がれ日常化しているという(『クロニカル週刊20世紀』メディアの100年)。例えば現代の記者クラブの状況など※11参照。尚、戦前の言論弾圧の実態などは※12参照)
現在、われわれが住む日本の国には、戦後改正された『日本国憲法』があり、国民主権の原則に基づいて象徴天皇制のもと、個人の尊厳を基礎に基本的人権の尊重を掲げて各種の憲法上の権利を保障し、戦争の放棄と戦力の不保持という平和主義を定め、また国会・内閣・裁判所の三権分立の国家の統治機構と基本的秩序を定めている。
又、基本的人権は、単に「人権」「基本権」とも呼ばれ、特に第3章で具体的に列挙されている(人権カタログ)。かかる列挙されている権利が憲法上保障されている人権であるが、明文で規定されている権利を超えて判例上認められている人権も存在する(「表現の自由」や「知る権利」、プライバシーの権利など)。
そんな日本で、冒頭にも触れた「特定秘密保護法」が戦前の治安維持法に似ているという指摘がある。
今の日本は戦前の明治憲法制下絶対的な天皇制と軍国主義の日本とは基本的に違う。したがって、言論に関しても、露骨な言論統制はないし、公序良俗に反しないかぎり、言論の自由が許されている。ただ、逆に、先にも述べたような少々の圧力をかけられてもはっきりと真実を述べるだけの勇気あるマスメディアや人が昔のようにいるかに疑問があるくらいである。
治安維持法はすべての国民を対象にする法律だったが、特定秘密保護法は「我が国の安全保障に関する情報のうち特に秘匿することが必要であるものについて、特定秘密の指定及び取扱者の制限その他の必要な事項を定める」(第1条)ものであり、その対象は一般国民ではない。
規制対象になる「特定秘密の取扱者」は主として国家公務員だが、政治家も含まれる。ここから、万が一漏れてはいけない国家秘密が漏れる危険性があると、同盟国であるアメリカが軍事機密を教えてくれないのだという。
尖閣諸島をめぐって中国が盛んに挑発を繰り返している昨今、これではいざというとき日米共同作戦も取れないだろう。秘密保護の法律はアメリカにもあるというが、どこの国にも国外へ洩れてはいけない国家秘密はあるだろうから、その漏えいは守らざるを得ないだろう。
「報道の自由が侵害される」という誤解もある。「国民の知る権利の保障に資する報道又は取材の自由に十分に配慮しなければならない。」ことは第22条に記されており、報道機関は規制対象とはなっていない(※13、※14参照)。
特定秘密保護法は「防衛」「外交」「スパイ」「テロ」と定めれれているが、対象について「その他」という但し書きが出てくるので、政府が無限に拡大解釈できる。秘密保護法は、何を「秘密」にするのか、政府が恣意的に決められる。第三者のチェックも無い。しかも、何が秘密なのかも秘密な為、「特定秘密」に触れたという理由で逮捕された被告人も、何故自分が捕まったのか被疑事実さえ分からない。・・・等々いろいろ心配されるのだが、結局のところ、今の政府・政治家や官僚のするところが、国民やマスコミから十分に信頼されていないところに、このような疑問の声が多く出てくる原因があるのではないだろうか・・・。
東日本大震災・福島第一原発事故以降、原子力発電稼働問題等を含め政府や官僚の言ったりしたりしていることを見ていても全く信用できない状況である。
治安維持法も最初は、共産主義・無政府主義などが対象であったのだが、いつのまにか一般市民が弾圧のターゲットとなり、自由にものが言えない社会を作っていった。
現行の政府は信頼できても、いつまた前民主党政権のような訳のわからない人達が政治を動かすことになるかもしれない・・・などと考えいると…さすがの私も不安にはなる。
政府が情報を秘密にすることと、国民の知る権利とのバランスを維持することは難しい問題だ。私には、余り難しいことはわからないが、兎に角しっかりと国民が監視をしてゆかないといけないだろうね。
冒頭の画像は、警視庁検閲課による検閲の様子.
1938(昭和13)年。Wikipediaより。
参考:
※1:中野文庫 - 集会及政社法
http://www.geocities.jp/nakanolib/hou/hm23-53.htm
※2:明治十三年太政官布告第三十七号(治罪法)
http://www.geocities.jp/lucius_aquarius_magister/M13HO037.html
※3:神戸大学附属図書館 デジタルアーカイブ 【 新聞記事文庫 】
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/sinbun/
※4:Title 文部省の治安機能 : 思想統制から「教学錬成」へ
http://barrel.ih.otaru-uc.ac.jp/bitstream/10252/917/1/Ogino_300123.pdf#search='%E4%BA%AC%E9%83%BD%E5%AD%A6%E9%80%A3%E4%BA%8B%E4%BB%B6+%E7%9C%9F%E7%9B%B8+%E7%9C%9F%E5%AE%9F'
※5 :治安維持法 - アジア歴史資料センター
http://www.jacar.go.jp/topicsfromjacar/03_terms/index03_006.html
※6:治安維持法――なぜ政党政治は「悪法」を生んだか(その1)
http://d.hatena.ne.jp/kosuke64/comment?date=20131204§ion=1386151834
※7: 治安維持法と小林多喜二虐殺
http://tamutamu2011.kuronowish.com/TIANIJIHO.html
※8:小さな資料室資料62与謝野晶子「君死にたまふことなかれ」http://www.geocities.jp/sybrma/62yosanoakiko.shi.html
※9:大日本主義の幻想”. 電子文藝館. 日本日本ペンクラブ.
http://www.japanpen.or.jp/e-bungeikan/guest/publication/ishibashitanzan.html
※10:桐生悠々『他山の石』の言論抵抗 - 前坂俊之アーカイブス
http://maechan.sakura.ne.jp/war/data/hhkn/17.pdf#search='%E6%A1%90%E7%94%9F%E6%82%A0%E3%80%85+%E4%BB%96%E5%B1%B1%E3%81%AE%E7%9F%B3'
※11:【特集】記者クラブ問題
http://iwj.co.jp/wj/open/%E8%A8%98%E8%80%85%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%83%96
※12:15年戦争資料 @wiki - 明治から昭和戦前期までの言論弾圧法の実態とは
http://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/1955.html
※13:特定秘密保護法の全文:朝日新聞デジタル
http://www.asahi.com/articles/TKY201312070353.html
※14:特定秘密保護法について | 首相官邸ホームページ
http://www.kantei.go.jp/jp/pages/tokuteihimitu.html
「特定秘密保護法」の問題性 - 読売新聞
http://www.yomiuri.co.jp/adv/wol/opinion/gover-eco_131111.htm
秘密保護法は戦前の治安維持法と似ているのですか? - 弁護士ドットコム
http://www.bengo4.com/other/1146/1288/b_214313/
歴史評論「治安維持法と弾圧の実態」
http://blog.livedoor.jp/seizi10/archives/1857941.html
治安維持法(法律のみ)
http://hc6.seikyou.ne.jp/home/okisennokioku-bunkan/okinawasendetakan/tianijiho.htm
Life-歴史は繰り返す
http://life-ayu.blog.so-net.ne.jp/2013-12-05
思想と言論
http://cgi.members.interq.or.jp/kanto/just/
Wikipedia -治安維持法
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%BB%E5%AE%89%E7%B6%AD%E6%8C%81%E6%B3%95